人を殺すような細菌も生きていればこそ有害なのだ。彼らでも死んでしまえば、醤蝦や白子と変りあるまい。ぼくらが旨いと思って食べるうにの卵巣や鱈の精虫、つまりしらこと同じことである。死んで無害になった結核菌を何千億とあつめてそれに味付けして食べたら、一生結核にかからない抵抗をつくるとともに、案外世界で一番ぜいたくな料理の一つになるかもしれない。というのは後からつけた理窟で、真相は昼間の研究室における仕事と夜中の空腹とが協力してつくりあげる悪戯らしい。
ところでぼくの教室の塵芥箱をみたら、ここは大学の医学部ではなくて料理学校に来たのではないかと錯覚する人もあろう。それほどぼくの教室では大量の卵が消費されるのだ。といっても人間の胃袋に「消費」されるのではない。オムレツやスクランブルド・エッグなどを作るために卵が割られるのではない。むつかしい言葉でいえば卵殻外発生の実験のために卵が必要なのである。ひらたく言えば、卵を殻の中でなく、素焼の壺の中でにわとりにする実験である。といっても実験のほんとうの目的は壺の中でにわとりを作るという手品を行うためにあるのではなく、ただ卵殻の外で卵を発生させると生物学的観察および種々の実験にいろいろ都合がいいからである。
デリケートな卵は気体が汚れていると細菌にすぐ感染してしまう。だから完全に滅菌された容器の中でさらに殺菌灯で無菌状態にした空気の中で育てられなければならない。孵卵器の中で少しずつ発生してゆく雛をみて、旨そうだなと思うときがある。生物学の実験者が観察の対象に対してこんな食いしん坊心をおこすのは、久米の仙人の迷いと同じ大罪である。色欲のほうはとうに駄目になってしまったが、映画『七つの大罪』で女の寝床を抜け出してうまそうなキャマンベール式のやわらかいチーズに誘惑されるあの尊敬すべきグルマン、田舎ドクター氏に大いに同情の念を禁じえないのだ。しかも素焼の中の卵は各発生段階によってその旨みがちがうようだ。なかには気味が悪いという人もあろうが完全滅菌ずみであるのでその点は保証ずみである。また現に南方では発生中途の卵を食べるそうだ。
助手君はときどきぼくに見てくれと言いにくる。そこでぼくはしかつめらしい顔をして孵卵器の前に立つのだが、腹の空いているときなぞはもうぼくは食いしん坊の大罪を犯しはじめているのだ。これはフライドエッグにしたら旨かろうな、あれは質のいいバタをのせ、コニャックをふりかけ、ブケをそえ、香料をうんときかせて、最後にエダムチーズをうんと振りかけて、オーブンで焼いてみたらどうだろうな、などと考えている。そのうちにぼくの眼前には顔中を皺だらけにして笑みを浮かべている、あの料理のオバサン、江上トミさんの顔が浮かんでくる。「未熟のお雛もこうして召し上がりますとおいしーくお召し上がれになれます。パセリなどをお添えしてどうかお熱いうちに召し上がって下さいませ。今日のお料理、いかがでしょうか。ぜひ一度おためしになって下さいませ」。
あやうく涎が垂れそうになりはじめた頃、助手君は「先生」という。ぼくは、江上さんにつられて眼じりを下げていた顔を権威ある教授の顔になおしてふりかえる。そして学問に関しなかばモーロクしかけた師よりもはるかに熱心な弟子にむかって質問の内容をききなおすのである。
卵の殻のほうにも空想がある。いや空想というよりも意地きたないぼくは、きわめて現実的な提案のつもりだ。時間がないので実験はしてみないから、可能か不可能かはわからないが、どうもできそうな気がする。ぼくが考えているのは色変りの半熟卵だ。
ぼくは半熟卵が好物だ。毎朝古女房に半熟卵をこしらえてもらって、白い瀬戸のふちで生あたたかい白い楕円形をコチンとたたくときの気持はなんともいえない。それを二本の指でカッと開くとどろりとした白身が湯気をたてて黄身といっしょに落ちてくる。スプーンで殻の内壁についた白身を削りとり、それに塩か醤油をかけ、あるいは女房の眼を盗んで化学調味料をちょっぴりかけ、それをスプーンでしゃくって食べる。貧乏なぼくにはそれが涙がポロポロでてくるほど旨いのだ。下手な宴会料理なぞよりはるかに旨い。
ところでぼくはこうして毎朝卵を一つずつ充分満足して食べているのだが、自分の幸福に満足しながらもときどき思うことがある。「もう少し複雑な味をした半熟卵があったら旨かろうな。中に蟹や蝦や蝦蛄なんかが入っていたらさぞ旨かろうな」。そこでぼくが眼に浮かべるのは教室で大量に割られる卵の殻だ。教室で卵が割られる場合、特殊技能をもった技師君がいて、彼が鑢を用いて実に正確に卵を割る。ぼくがコチンと茶碗のふちで割るように、破片を飛び散らせたり、割れ目にギザギザをつけたりしない。つまりぼくが半熟卵に舌鼓をうちながらも、眼前にちらつくのは彼が割った卵の正確な割れ目である。そして、ぼくは彼の技術を採用すればもう少し複雑な味をした半熟卵が食べられそうな気がするのである。
ぼくが考えている料理法はこうだ。まず彼に卵の端に近い部分をきれいに割ってもらう。そして帽子をとるようにその部分をとり除いて、次にそこから卵の内容物を外に出す。容器にあけた卵にあらかじめ茹でてある蝦を入れたり、マシュルームを入れたり、バタを入れたり、香料やストックを入れたりいろいろ工夫をこらすのだ。銀杏を入れてもよい。卵をかき混ぜるか、そのままにするかは専門の料理師に研究してもらう。ともかくもいろいろ味つけがすんだ卵を、もちろん量を少し減らさねばならぬが、もう一度殻の中に戻す。この入れなおすのには、これもぼくの研究室でつかっているにわとりよりも大形のあひるの卵の殻を利用するのも一案だろう。実際、神業に近い技術をもつ技師君は鶏卵をあひるの卵の中に移しかえ、それを孵す実験をやっている。さて卵の帽子をキチンとかぶせ、熱に強い特殊セロテープでふさぐ。途中で爆発しないように注射器かなにかで空気を除く工夫も必要だろう。あとは半熟卵を作る時と同じ要領だ。もちろんカラザなどが破壊されているので茹卵にした場合には黄身が中心にこないが、ぼくのねらいは半熟にあるのだから問題はない。黄身を崩した場合はさらに問題はない。
これがぼくが毎朝古女房に茹でてもらった半熟卵を充分満足しきって食べながらも時々思うことである。いろいろな複雑な味をもった半熟卵ができたらどんなに素晴らしいことか。こんな料理、ぼくの知らぬ間にすでに存在しているかもしれない。けれど、いまだ誰も試みたことがないとするなら、料理専門家の方々よ、毎朝半熟卵で涙を流す余命いくばくもない食いしん坊の老人のためにぜひ作って下さるまいか。そして、その新料理がぼくの名にちなんで命名されれば、ぼくの感激これにしくものはない。というのは、才能とぼしきゆえ、一生を捧げた科学の世界ではぼくの名はどうやら後世に残りそうもない。せめて半熟卵にでもぼくの名が残されるならば、遠い子孫のうちに新案半熟卵を毎朝食べながら、こんな先祖もあったのかと思ってくれるものもあるかもしれないから。
(もり おと、医博・東邦医大医学部長、三五・六)