あらすじ
「門」は、東京の郊外に住む宗助と、彼の妻である御米、そして弟の小六の、穏やかで少し退屈な日常を描いた作品です。宗助は、役所勤めで毎日同じような生活を送り、休日は家でゆっくりと過ごしています。ある日、小六が佐伯という人物との交渉を頼みにやってきますが、宗助はなかなかその依頼に応えようとしません。彼の行動の背景には、過去の出来事や、現状に対する漠然とした不安が隠されているようです。果たして、宗助は小六の頼みを果たせるのか、そして彼の心の奥底に眠る葛藤とは?静かに、しかし確実に登場人物たちの心を揺さぶる、漱石の傑作です。
 宗助(そうすけ)は先刻(さつき)から縁側(えんがは)へ坐蒲團(ざぶとん)を持(も)ち出(だ)して日當(ひあた)りの好(よ)ささうな所(ところ)へ氣樂(きらく)に胡坐(あぐら)をかいて見(み)たが、やがて手(て)に持(も)つてゐる雜誌(ざつし)を放(はふ)り出(だ)すと共(とも)に、ごろりと横(よこ)になつた。秋日和(あきびより)と名(な)のつく程(ほど)の上天氣(じやうてんき)なので、徃來(わうらい)を行(ゆ)く人(ひと)の下駄(げた)の響(ひゞき)が、靜(しづ)かな町丈(まちだけ)に、朗(ほが)らかに聞(きこ)えて來(く)る。肱枕(ひぢまくら)をして軒(のき)から上(うへ)を見上(みあげ)ると、奇麗(きれい)な空(そら)が一面(いちめん)に蒼(あを)く澄(す)んでゐる。其空(そのそら)が自分(じぶん)の寐(ね)てゐる縁側(えんがは)の窮屈(きゆうくつ)な寸法(すんぱふ)に較(くら)べて見(み)ると、非常(ひじやう)に廣大(くわうだい)である。たまの日曜(にちえう)に斯(か)うして緩(ゆつ)くり空(そら)を見(み)る丈(だけ)でも大分(だいぶ)違(ちが)ふなと思(おも)ひながら、眉(まゆ)を寄(よ)せて、ぎら/\する日(ひ)を少時(しばらく)見詰(みつ)めてゐたが、眩(まぼ)しくなつたので、今度(こんど)はぐるりと寐返(ねがへ)りをして障子(しやうじ)の方(はう)を向(む)いた。障子(しやうじ)の中(なか)では細君(さいくん)が裁縫(しごと)をしてゐる。
「おい、好(い)い天氣(てんき)だな」と話(はな)し掛(か)けた。細君(さいくん)は、
「えゝ」と云(い)つたなりであつた。宗助(そうすけ)も別(べつ)に話(はなし)がしたい譯(わけ)でもなかつたと見(み)えて、夫(それ)なり默(だま)つて仕舞(しま)つた。しばらくすると今度(こんど)は細君(さいくん)の方(はう)から、
「ちつと散歩(さんぽ)でも爲(し)て入(い)らつしやい」と云(い)つた。然(しか)し其時(そのとき)は宗助(そうすけ)が唯(たゞ)うんと云(い)ふ生返事(なまへんじ)を返(かへ)した丈(だけ)であつた。
 二三分(ぷん)して、細君(さいくん)は障子(しやうじ)の硝子(がらす)の所(ところ)へ顏(かほ)を寄(よ)せて、縁側(えんがは)に寐(ね)てゐる夫(をつと)の姿(すがた)を覗(のぞ)いて見(み)た。夫(をつと)はどう云(い)ふ了見(れうけん)か兩膝(りやうひざ)を曲(ま)げて海老(えび)の樣(やう)に窮屈(きゆうくつ)になつてゐる。さうして兩手(りやうて)を組(く)み合(あ)はして、其中(そのなか)へ黒(くろ)い頭(あたま)を突(つ)つ込(こ)んでゐるから、肱(ひぢ)に挾(はさ)まれて顏(かほ)がちつとも見(み)えない。
「貴方(あなた)そんな所(ところ)へ寐(ね)ると風邪(かぜ)引(ひ)いてよ」と細君(さいくん)が注意(ちゆうい)した。細君(さいくん)の言葉(ことば)は東京(とうきやう)の樣(やう)な、東京(とうきやう)でない樣(やう)な、現代(げんだい)の女學生(ぢよがくせい)に共通(きようつう)な一種(いつしゆ)の調子(てうし)を持(も)つてゐる。
 宗助(そうすけ)は兩肱(りやうひぢ)の中(なか)で大(おほ)きな眼(め)をぱち/\させながら、
「寐(ね)やせん、大丈夫(だいぢやうぶ)だ」と小聲(こごゑ)で答(こた)へた。
 夫(それ)から又(また)靜(しづ)かになつた。外(そと)を通(とほ)る護謨車(ごむぐるま)のベルの音(おと)が二三度(ど)鳴(な)つた後(あと)から、遠(とほ)くで鷄(にはとり)の時音(とき)をつくる聲(こゑ)が聞(きこ)えた。宗助(そうすけ)は仕立卸(したておろ)しの紡績織(ばうせきおり)の脊中(せなか)へ、自然(じねん)と浸(し)み込(こ)んで來(く)る光線(くわうせん)の暖味(あたゝかみ)を、襯衣(しやつ)の下(した)で貪(むさ)ぼる程(ほど)味(あぢは)ひながら、表(おもて)の音(おと)を聽(き)くともなく聽(き)いてゐたが、急(きふ)に思(おも)ひ出(だ)した樣(やう)に、障子越(しやうじご)しの細君(さいくん)を呼(よ)んで、
「御米(およね)、近來(きんらい)の近(きん)の字(じ)はどう書(か)いたつけね」と尋(たづ)ねた。細君(さいくん)は別(べつ)に呆(あき)れた樣子(やうす)もなく、若(わか)い女(をんな)に特有(とくいう)なけたゝましい笑聲(わらひごゑ)も立(た)てず、
「近江(おほみ)のおほの字(じ)ぢやなくつて」と答(こた)へた。
「其(その)近江(おほみ)のおほの字(じ)が分(わか)らないんだ」
 細君(さいくん)は立(た)て切(き)つた障子(しやうじ)を半分(はんぶん)ばかり開(あ)けて、敷居(しきゐ)の外(そと)へ長(なが)い物指(ものさし)を出(だ)して、其先(そのさき)で近(きん)の字(じ)を縁側(えんがは)へ書(か)いて見(み)せて、
「斯(か)うでしやう」と云(い)つた限(ぎり)、物指(ものさし)の先(さき)を、字(じ)の留(とま)つた所(ところ)へ置(お)いたなり、澄(す)み渡(わた)つた空(そら)を一(ひと)しきり眺(なが)め入(い)つた。宗助(そうすけ)は細君(さいくん)の顏(かほ)も見(み)ずに、
「矢(や)つ張(ぱ)り左樣(さう)か」と云(い)つたが、冗談(じようだん)でもなかつたと見(み)えて、別(べつ)に笑(わらひ)もしなかつた。細君(さいくん)も近(きん)の字(じ)は丸(まる)で氣(き)にならない樣子(やうす)で、
「本當(ほんたう)に好(い)い御天氣(おてんき)だわね」と半(なか)ば獨(ひと)り言(ごと)の樣(やう)に云(い)ひながら、障子(しやうじ)を開(あ)けた儘(まゝ)又(また)裁縫(しごと)を始(はじ)めた。すると宗助(そうすけ)は肱(ひぢ)で挾(はさ)んだ頭(あたま)を少(すこ)し擡(もた)げて、
「何(ど)うも字(じ)と云(い)ふものは不思議(ふしぎ)だよ」と始(はじ)めて細君(さいくん)の顏(かほ)を見(み)た。
「何故(なぜ)」
「何故(なぜ)つて、幾何(いくら)容易(やさし)い字(じ)でも、こりや變(へん)だと思(おも)つて疑(うた)ぐり出(だ)すと分(わか)らなくなる。此間(このあひだ)も今日(こんにち)の今(こん)の字(じ)で大變(たいへん)迷(まよ)つた。紙(かみ)の上(うへ)へちやんと書(か)いて見(み)て、ぢつと眺(なが)めてゐると、何(なん)だか違(ちが)つた樣(やう)な氣(き)がする。仕舞(しまひ)には見(み)れば見(み)る程(ほど)今(こん)らしくなくなつて來(く)る。――御前(おまい)そんな事(こと)を經驗(けいけん)した事(こと)はないかい」
「まさか」
「己丈(おれだけ)かな」と宗助(そうすけ)は頭(あたま)へ手(て)を當(あ)てた。
「貴方(あなた)何(ど)うかして入(い)らつしやるのよ」
「矢(や)つ張(ぱ)り神經衰弱(しんけいすゐじやく)の所爲(せゐ)かも知(し)れない」
「左樣(さう)よ」と細君(さいくん)は夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)た。夫(をつと)は漸(やうや)く立(た)ち上(あが)つた。
 針箱(はりばこ)と糸屑(いとくづ)の上(うへ)を飛(と)び越(こ)す樣(やう)に跨(また)いで茶(ちや)の間(ま)の襖(ふすま)を開(あ)けると、すぐ座敷(ざしき)である。南(みなみ)が玄關(げんくわん)で塞(ふさ)がれてゐるので、突(つ)き當(あた)りの障子(しやうじ)が、日向(ひなた)から急(きふ)に這入(はい)つて來(き)た眸(ひとみ)には、うそ寒(さむ)く映(うつ)つた。其所(そこ)を開(あ)けると、廂(ひさし)に逼(せま)る樣(やう)な勾配(こうばい)の崖(がけ)が、縁鼻(えんばな)から聳(そび)えてゐるので、朝(あさ)の内(うち)は當(あた)つて然(しか)るべき筈(はず)の日(ひ)も容易(ようい)に影(かげ)を落(おと)さない。崖(がけ)には草(くさ)が生(は)えてゐる。下(した)からして一側(ひとかは)も石(いし)で疊(たゝ)んでないから、何時(いつ)壞(くづ)れるか分(わか)らない虞(おそれ)があるのだけれども、不思議(ふしぎ)にまだ壞(くづ)れた事(こと)がないさうで、その爲(ため)か家主(やぬし)も長(なが)い間(あひだ)昔(むかし)の儘(まゝ)にして放(はふ)つてある。尤(もつと)も元(もと)は一面(いちめん)の竹藪(たけやぶ)だつたとかで、それを切(き)り開(ひら)く時(とき)に根丈(ねだけ)は掘(ほ)り返(かへ)さずに土堤(どて)の中(なか)に埋(うめ)て置(お)いたから、地(ぢ)は存外(ぞんぐわい)緊(しま)つてゐますからねと、町内(ちやうない)に二十年(ねん)も住(す)んでゐる八百屋(やほや)の爺(おやぢ)が勝手口(かつてぐち)でわざ/\説明(せつめい)して呉(く)れた事(こと)がある。其時(そのとき)宗助(そうすけ)はだつて根(ね)が殘(のこ)つてゐれば、又(また)竹(たけ)が生(は)えて藪(やぶ)になりさうなものぢやないかと聞(き)き返(かへ)して見(み)た。すると爺(おやぢ)は、それがね、あゝ切(き)り開(ひら)かれて見(み)ると、さう甘(うま)く行(ゆ)くもんぢやありませんよ。然(しか)し崖丈(がけだけ)は大丈夫(だいぢやうぶ)です。どんな事(こと)があつたつて壞(く)えつこはねえんだからと、恰(あたか)も自分(じぶん)のものを辯護(べんご)でもする樣(やう)に力(りき)んで歸(かへ)つて行(い)つた。
 崖(がけ)は秋(あき)に入(い)つても別(べつ)に色(いろ)づく樣子(やうす)もない。たゞ青(あを)い草(くさ)の匂(にほひ)が褪(さ)めて、不揃(ぶそろ)にもぢや/\する許(ばかり)である。薄(すゝき)だの蔦(つた)だのと云(い)ふ洒落(しやれ)たものに至(いた)つては更(さら)に見當(みあた)らない。其代(そのかは)り昔(むかし)の名殘(なご)りの孟宗(まうそう)が中途(ちゆうと)に二本(ほん)、上(うへ)の方(はう)に三本程(ぼんほど)すつくりと立(た)つてゐる。夫(それ)が多少(たせう)黄(き)に染(そ)まつて、幹(みき)に日(ひ)の射(さ)すときなぞは、軒(みき)から首(くび)を出(だ)すと、土手(どて)の上(うへ)に秋(あき)の暖味(あたゝかみ)を眺(なが)められる樣(やう)な心持(こゝろもち)がする。宗助(そうすけ)は朝(あさ)出(で)て四時過(よじすぎ)に歸(かへ)る男(をとこ)だから、日(ひ)の詰(つま)る此頃(このごろ)は、滅多(めつた)に崖(がけ)の上(うへ)を覗(のぞ)く暇(ひま)を有(も)たなかつた。暗(くら)い便所(べんじよ)から出(で)て、手水鉢(てうづばち)の水(みづ)を手(て)に受(う)けながら、不圖(ふと)廂(ひさし)の外(そと)を見上(みあ)げた時(とき)、始(はじ)めて竹(たけ)の事(こと)を思(おも)ひ出(だ)した。幹(みき)の頂(いたゞき)に濃(こま)かな葉(は)が集(あつ)まつて、丸(まる)で坊主頭(ばうずあたま)の樣(やう)に見(み)える。それが秋(あき)の日(ひ)に醉(よ)つて重(おも)く下(した)を向(む)いて、寂(ひつ)そりと重(かさ)なつた葉(は)が一枚(まい)も動(うご)かない。
 宗助(そうすけ)は障子(しやうじ)を閉(た)てゝ座敷(ざしき)へ歸(かへ)つて、机(つくゑ)の前(まへ)へ坐(すわ)つた。座敷(ざしき)とは云(い)ひながら客(きやく)を通(とほ)すから左樣(さう)名(な)づける迄(まで)で、實(じつ)は書齋(しよさい)とか居間(ゐま)とか云(い)ふ方(はう)が穩當(をんたう)である。北側(きたがは)に床(とこ)があるので、申譯(まをしわけ)の爲(ため)に變(へん)な軸(ぢく)を掛(か)けて、其前(そのまへ)に朱泥(しゆでい)の色(いろ)をした拙(せつ)な花活(はないけ)が飾(かざ)つてある。欄間(らんま)には額(がく)も何(なに)もない。唯(たゞ)眞鍮(しんちゆう)の折釘丈(をれくぎだけ)が二本(ほん)光(ひか)つてゐる。其他(そのた)には硝子戸(がらすど)の張(は)つた書棚(しよだな)が一(ひと)つある。けれども中(なか)には別(べつ)に是(これ)と云(い)つて目立(めだ)つ程(ほど)の立派(りつぱ)なものも這入(はい)つてゐない。
 宗助(そうすけ)は銀金具(ぎんかなぐ)の付(つ)いた机(つくゑ)の抽出(ひきだし)を開(あ)けて頻(しきり)に中(なか)を檢(しら)べ出(だ)したが、別(べつ)に何(なに)も見付(みつ)け出(だ)さないうちに、はたりと締(し)めて仕舞(しま)つた。夫(それ)から硯箱(すゞりばこ)の葢(ふた)を取(と)つて、手紙(てがみ)を書(か)き始(はじ)めた。一本(ぽん)書(か)いて封(ふう)をして、一寸(ちよつと)考(かんが)へたが、
「おい、佐伯(さへき)のうちは中六番町(なかろくばんちやう)何番地(なんばんち)だつたかね」と襖越(ふすまごし)に細君(さいくん)に聞(き)いた。
「二十五番地(ばんち)ぢやなくつて」と細君(さいくん)は答(こた)へたが、宗助(そうすけ)が名宛(なあて)を書(か)き終(をは)る頃(ころ)になつて、
「手紙(てがみ)ぢや駄目(だめ)よ、行(い)つて能(よ)く話(はなし)をして來(こ)なくつちや」と付(つ)け加(くは)へた。
「まあ、駄目(だめ)迄(まで)も手紙(てがみ)を一本(ぽん)出(だ)して置(お)かう。夫(それ)で不可(いけ)なかつたら出掛(でか)けるとするさ」と云(い)ひ切(き)つたが、細君(さいくん)が返事(へんじ)をしないので、
「ねぇ、おい、夫(それ)で好(い)いだらう」と念(ねん)を押(お)した。
 細君(さいくん)は惡(わる)いとも云(い)ひ兼(かね)たと見(み)えて、其上(そのうへ)爭(あらそ)ひもしなかつた。宗助(そうすけ)は郵便(いうびん)を持(も)つた儘(まゝ)、座敷(ざしき)から直(す)ぐ玄關(げんくわん)に出(で)た。細君(さいくん)は夫(をつと)の足音(あしおと)を聞(き)いて始(はじ)めて、座(ざ)を立(た)つたが、是(これ)は茶(ちや)の間(ま)の縁傳(えんづた)ひに玄關(げんくわん)に出(で)た。
「一寸(ちよつと)散歩(さんぽ)に行(い)つて來(く)るよ」
「行(い)つて入(い)らつしやい」と細君(さいくん)は微笑(びせう)しながら答(こた)へた。
 三十分(ぷん)許(ばかり)して格子(かうし)ががらりと開(あ)いたので、御米(およね)は又(また)裁縫(しごと)の手(て)を已(や)めて、縁傳(えんづた)ひに玄關(げんくわん)へ出(で)て見(み)ると、歸(かへ)つたと思(おも)ふ宗助(そうすけ)の代(かは)りに、高等學校(かうとうがくかう)の制帽(せいばう)を被(かぶ)つた、弟(おとうと)の小六(ころく)が這入(はい)つて來(き)た。袴(はかま)の裾(すそ)が五六寸(すん)しか出(で)ない位(くらゐ)の長(なが)い黒羅紗(くろラシヤ)のマントの釦(ぼたん)を外(はづ)しながら、
「暑(あつ)い」と云(い)つてゐる。
「だつて餘(あん)まりだわ。此(この)御天氣(おてんき)にそんな厚(あつ)いものを着(き)て出(で)るなんて」
「何(なに)、日(ひ)が暮(く)れたら寒(さむ)いだらうと思(おも)つて」と小六(ころく)は云譯(いひわけ)を半分(はんぶん)しながら、嫂(あによめ)の後(あと)に跟(つ)いて、茶(ちや)の間(ま)へ通(とほ)つたが、縫(ぬ)ひ掛(か)けてある着物(きもの)へ眼(め)を着(つ)けて、
「相變(あひかは)らず精(せい)が出(で)ますね」と云(い)つたなり、長火鉢(ながひばち)の前(まへ)へ胡坐(あぐら)をかいた。嫂(あによめ)は裁縫(しごと)を隅(すみ)の方(はう)へ押(お)し遺(や)つて置(お)いて、小六(ころく)の向(むかふ)へ來(き)て、一寸(ちよつと)鐵瓶(てつびん)を卸(おろ)して炭(すみ)を繼(つ)ぎ始(はじ)めた。
「御茶(おちや)なら澤山(たくさん)です」と小六(ころく)が云(い)つた。
「厭(いや)?」と女學生流(ぢよがくせいりう)に念(ねん)を押(お)した御米(およね)は、
「ぢや御菓子(おくわし)は」と云(い)つて笑(わら)ひかけた。
「有(あ)るんですか」と小六(ころく)が聞(き)いた。
「いゝえ、無(な)いの」と正直(しやうぢき)に答(こた)へたが、思(おも)ひ出(だ)した樣(やう)に、「待(ま)つて頂戴(ちやうだい)、有(あ)るかも知(し)れないわ」と云(い)ひながら立(た)ち上(あ)がる拍子(ひやうし)に、横(よこ)にあつた炭取(すみとり)を取(と)り退(の)けて、袋戸棚(ふくろとだな)を開(あ)けた。小六(ころく)は御米(およね)の後姿(うしろすがた)の、羽織(はおり)が帶(おび)で高(たか)くなつた邊(あたり)を眺(なが)めてゐた。何(なに)を探(さが)すのだか中々(なか/\)手間(てま)が取(と)れさうなので、
「ぢや御菓子(おくわし)も廢(よ)しにしませう。それよりか、今日(けふ)は兄(にい)さんは何(ど)うしました」と聞(き)いた。
「兄(にい)さんは今(いま)一寸(ちよいと)」と後向(うしろむき)の儘(まゝ)答(こた)へて、御米(およね)は矢張(やは)り戸棚(とだな)の中(なか)を探(さが)してゐる。やがてぱたりと戸(と)を締(し)めて、
「駄目(だめ)よ。何時(いつ)の間(ま)にか兄(にい)さんがみんな食(た)べて仕舞(しま)つた」と云(い)ひながら、又(また)火鉢(ひばち)の向(むかふ)へ歸(かへ)つて來(き)た。
「ぢや晩(ばん)に何(なに)か御馳走(ごちそう)なさい」
「えゝ爲(し)てよ」と柱時計(はしらどけい)を見(み)ると、もう四時(よじ)近(ちか)くである。御米(およね)は「四時(よじ)、五時(ごじ)、六時(ろくじ)」と時間(じかん)を勘定(かんぢやう)した。小六(ころく)は默(だま)つて嫂(あによめ)の顏(かほ)を見(み)てゐた。彼(かれ)は實際(じつさい)嫂(あによめ)の御馳走(ごちそう)には餘(あま)り興味(きようみ)を持(も)ち得(え)なかつたのである。
「姉(ねえ)さん、兄(にい)さんは佐伯(さへき)へ行(い)つて呉(く)れたんですかね」と聞(き)いた。
「此間(このあひだ)から行(ゆ)く行(ゆ)くつて云(い)つてる事(こと)は云(い)つてるのよ。だけど、兄(にい)さんも朝(あさ)出(で)て夕方(ゆふがた)に歸(かへ)るんでせう。歸(かへ)ると草臥(くたび)れちまつて、御湯(おゆ)に行(ゆ)くのも大儀(たいぎ)さうなんですもの。だから、さう責(せ)めるのも實際(じつさい)御氣(おき)の毒(どく)よ」
「そりや兄(にい)さんも忙(いそ)がしいには違(ちがひ)なからうけれども、僕(ぼく)もあれが極(き)まらないと氣掛(きがゝ)りで落(お)ち付(つ)いて勉強(べんきやう)も出來(でき)ないんだから」と云(い)ひながら、小六(ころく)は眞鍮(しんちゆう)の火箸(ひばし)を取(と)つて火鉢(ひばち)の灰(はひ)の中(なか)へ何(なに)かしきりに書(か)き出(だ)した。御米(およね)は其(その)動(うご)く火箸(ひばち)の先(さき)を見(み)てゐた。
「だから先刻(さつき)手紙(てがみ)を出(だ)して置(お)いたのよ」と慰(なぐさ)める樣(やう)に云(い)つた。
「何(なん)て」
「そりや私(わたし)もつい見(み)なかつたの。けれども、屹度(きつと)あの相談(さうだん)よ。今(いま)に兄(にい)さんが歸(かへ)つて來(き)たら聞(き)いて御覽(ごらん)なさい。屹度(きつと)左樣(さう)よ」
「もし手紙(てがみ)を出(だ)したのなら、其(その)用(よう)には違(ちがひ)ないでせう」
「えゝ、本當(ほんたう)に出(だ)したのよ。今(いま)兄(にい)さんが其(その)手紙(てがみ)を持(も)つて、出(だ)しに行(い)つた所(ところ)なの」
 小六(ころく)はこれ以上(いじやう)辯解(べんかい)の樣(やう)な慰藉(ゐしや)の樣(やう)な嫂(あによめ)の言葉(ことば)に耳(みゝ)を借(か)したくなかつた。散歩(さんぽ)に出(で)る閑(ひま)があるなら、手紙(てがみ)の代(かは)りに自分(じぶん)で足(あし)を運(はこ)んで呉(く)れたらよささうなものだと思(おも)ふと餘(あま)り好(い)い心持(こゝろもち)でもなかつた。座敷(ざしき)へ來(き)て、書棚(しよだな)の中(なか)から赤(あか)い表紙(へうし)の洋書(やうしよ)を出(だ)して、方々(はう/″\)頁(ページ)を剥(はぐ)つて見(み)てゐた。

 其所(そこ)に氣(き)の付(つ)かなかつた宗助(そうすけ)は、町(まち)の角迄(かどまで)來(き)て、切手(きつて)と「敷島(しきしま)」を同(おな)じ店(みせ)で買(か)つて、郵便丈(いうびんだけ)はすぐ出(だ)したが、其(その)足(あし)で又(また)同(おな)じ道(みち)を戻(もど)るのが何(なん)だか不足(ふそく)だつたので、啣(くは)え烟草(たばこ)の烟(けむ)を秋(あき)の日(ひ)に搖(ゆら)つかせながら、ぶら/\歩(ある)いてゐるうちに、どこか遠(とほ)くへ行(い)つて、東京(とうきやう)と云(い)ふ所(ところ)はこんな所(ところ)だと云(い)ふ印象(いんしやう)をはつきり頭(あたま)の中(なか)へ刻(きざ)み付(つ)けて、さうして夫(それ)を今日(けふ)の日曜(にちえう)の土産(みやげ)に家(うち)へ歸(かへ)つて寐(ね)やうと云(い)ふ氣(き)になつた。彼(かれ)は年來(ねんらい)東京(とうきやう)の空氣(くうき)を吸(す)つて生(い)きてゐる男(をとこ)であるのみならず、毎日(まいにち)役所(やくしよ)の行通(ゆきかよひ)には電車(でんしや)を利用(りよう)して、賑(にぎ)やかな町(まち)を二度(ど)づゝは屹度(きつと)徃(い)つたり來(き)たりする習慣(しふくわん)になつてゐるのではあるが、身體(からだ)と頭(あたま)に樂(らく)がないので、何時(いつ)でも上(うは)の空(そら)で素通(すどほ)りをする事(こと)になつてゐるから、自分(じぶん)が其(その)賑(にぎ)やかな町(まち)の中(なか)に活(いき)てゐると云(い)ふ自覺(じかく)は近來(きんらい)頓(とん)と起(おこ)つた事(こと)がない。尤(もつと)も平生(へいぜい)は忙(いそ)がしさに追(お)はれて、別段(べつだん)氣(き)にも掛(か)からないが、七日(なのか)に一返(ぺん)の休日(きうじつ)が來(き)て、心(こゝろ)がゆつたりと落(お)ち付(つ)ける機會(きくわい)に出逢(であ)ふと、不斷(ふだん)の生活(せいくわつ)が急(きふ)にそわ/\した上調子(うはてうし)に見(み)えて來(く)る。必竟(ひつきやう)自分(じぶん)は東京(とうきやう)の中(なか)に住(す)みながら、ついまだ東京(とうきやう)といふものを見(み)た事(こと)がないんだといふ結論(けつろん)に到着(たうちやく)すると、彼(かれ)は其所(そこ)に何時(いつ)も妙(めう)な物淋(ものさび)しさを感(かん)ずるのである。
 さう云(い)ふ時(とき)には彼(かれ)は急(きふ)に思(おも)ひ出(だ)した樣(やう)に町(まち)へ出(で)る。其上(そのうへ)懷(ふところ)に多少(たせう)餘裕(よゆう)でもあると、是(これ)で一(ひと)つ豪遊(がういう)でもして見樣(みやう)かと考(かんが)へる事(こと)もある。けれども彼(かれ)の淋(さび)しみは、彼(かれ)を思(おも)ひ切(き)つた極端(きよくたん)に驅(か)り去(さ)る程(ほど)に、強烈(きやうれつ)の程度(ていど)なものでないから、彼(かれ)が其所(そこ)迄(まで)猛進(まうしん)する前(まへ)に、それも馬鹿々々(ばか/\)しくなつて已(や)めて仕舞(しま)ふ。のみならず、斯(こ)んな人(ひと)の常態(じやうたい)として、紙入(かみいれ)の底(そこ)が大抵(たいてい)の場合(ばあひ)には、輕擧(けいきよ)を戒(いまし)める程度内(ていどない)に膨(ふく)らんでゐるので、億劫(おくくふ)な工夫(くふう)を凝(こら)すよりも、懷手(ふところで)をして、ぶらりと家(うち)へ歸(かへ)る方(はう)が、つい樂(らく)になる。だから宗助(そうすけ)の淋(さび)しみは單(たん)なる散歩(さんぽ)か觀工場(くわんこうば)縱覽(じゆうらん)位(ぐらゐ)な所(ところ)で、次(つぎ)の日曜(にちえう)迄(まで)は何(ど)うか斯(か)うか慰藉(ゐしや)されるのである。
 此日(このひ)も宗助(そうすけ)は兎(と)も角(かく)もと思(おも)つて電車(でんしや)へ乘(の)つた。所(ところ)が日曜(にちえう)の好天氣(かうてんき)にも拘(かゝは)らず、平常(へいじやう)よりは乘客(じようきやく)が少(すく)ないので例(れい)になく乘心地(のりごゝち)が好(よ)かつた。其上(そのうへ)乘客(じようきやく)がみんな平和(へいわ)な顏(かほ)をして、どれもこれも悠(ゆつ)たりと落付(おちつ)いてゐる樣(やう)に見(み)えた。宗助(そうすけ)は腰(こし)を掛(か)けながら、毎朝(まいあさ)例刻(れいこく)に先(さき)を爭(あらそ)つて席(せき)を奪(うば)ひ合(あ)ひながら、丸(まる)の内(うち)方面(はうめん)へ向(むか)ふ自分(じぶん)の運命(うんめい)を顧(かへり)みた。出勤刻限(しゆつきんこくげん)の電車(でんしや)の道伴(みちづれ)程(ほど)殺風景(さつぷうけい)なものはない。革(かは)にぶら下(さ)がるにしても、天鵞絨(びろうど)に腰(こし)を掛(か)けるにしても、人間的(にんげんてき)な優(やさ)しい心持(こゝろもち)の起(おこ)つた試(ためし)は未(いま)だ甞(かつ)てない。自分(じぶん)も夫(それ)で澤山(たくさん)だと考(かんが)へて、器械(きかい)か何(なん)ぞと膝(ひざ)を突(つ)き合(あは)せ肩(かた)を並(なら)べたかの如(ごと)くに、行(い)きたい所(ところ)迄(まで)同席(どうせき)して不意(ふい)と下(お)りて仕舞(しま)ふ丈(だけ)であつた。前(まへ)の御婆(おばあ)さんが八(やつ)つ位(ぐらゐ)になる孫娘(まごむすめ)の耳(みゝ)の所(ところ)へ口(くち)を付(つ)けて何(なに)か云(い)つてゐるのを、傍(そば)に見(み)てゐた三十恰好(がつかう)の商家(しやうか)の御神(おかみ)さんらしいのが、可愛(かあい)らしがつて、年(とし)を聞(き)いたり名(な)を尋(たづ)ねたりする所(ところ)を眺(なが)めてゐると、今更(いまさら)ながら別(べつ)の世界(せかい)に來(き)た樣(やう)な心持(こゝろもち)がした。
 頭(あたま)の上(うへ)には廣告(くわうこく)が一面(いちめん)に枠(わく)に嵌(は)めて掛(か)けてあつた。宗助(そうすけ)は平生(へいぜい)これにさへ氣(き)が付(つ)かなかつた。何心(なにごゝろ)なしに一番目(ばんめ)のを讀(よ)んで見(み)ると、引越(ひつこし)は容易(ようい)に出來(でき)ますと云(い)ふ移轉會社(いてんぐわいしや)の引札(ひきふだ)であつた。其次(そのつぎ)には經濟(けいざい)を心得(こゝろえ)る人(ひと)は、衞生(ゑいせい)に注意(ちゆうい)する人(ひと)は、火(ひ)の用心(ようじん)を好(この)むものは、と三行(ぎやう)に並(なら)べて置(お)いて其後(そのあと)に瓦斯竈(ガスがま)を使(つか)へと書(か)いて、瓦斯竈(ガスがま)から火(ひ)の出(で)てゐる畫(ゑ)迄(まで)添(そ)へてあつた。三番目(ばんめ)には露國文豪(ろこくぶんがう)トルストイ伯(はく)傑作(けつさく)「千古(せんこ)の雪(ゆき)」と云(い)ふのと、バンカラ喜劇(きげき)小辰(こたつ)大一座(おほいちざ)と云(い)ふのが、赤地(あかぢ)に白(しろ)で染(そ)め拔(ぬ)いてあつた。
 宗助(そうすけ)は約(やく)十分(ぷん)も掛(か)かつて凡(すべ)ての廣告(くわうこく)を丁寧(ていねい)に三返程(べんほど)讀(よ)み直(なほ)した。別(べつ)に行(い)つて見(み)やうと思(おも)ふものも、買(か)つて見(み)たいと思(おも)ふものも無(な)かつたが、たゞ是等(これら)の廣告(くわうこく)が判然(はつきり)と自分(じぶん)の頭(あたま)に映(うつ)つて、さうして夫(それ)を一々(いち/\)讀(よ)み終(おほ)せた時間(じかん)のあつた事(こと)と、それを悉(こと/″\)く理解(りかい)し得(え)たと云(い)ふ心(こゝろ)の餘裕(よゆう)が、宗助(そうすけ)には少(すく)なからぬ滿足(まんぞく)を與(あた)へた。彼(かれ)の生活(せいくわつ)は是程(これほど)の餘裕(よゆう)にすら誇(ほこ)りを感(かん)ずる程(ほど)に、日曜(にちえう)以外(いぐわい)の出入(ではい)りには、落(お)ち付(つ)いてゐられないものであつた。
 宗助(そうすけ)は駿河臺下(するがだいした)で電車(でんしや)を降(お)りた。降(お)りるとすぐ右側(みぎがは)の窓硝子(まどがらす)の中(なか)に美(うつく)しく並(なら)べてある洋書(やうしよ)に眼(め)が付(つ)いた。宗助(そうすけ)はしばらく其前(そのまへ)に立(た)つて、赤(あか)や青(あを)や縞(しま)や模樣(もやう)の上(うへ)に、鮮(あざや)かに叩(たゝ)き込(こ)んである金文字(きんもじ)を眺(なが)めた。表題(へうだい)の意味(いみ)は無論(むろん)解(わか)るが、手(て)に取(と)つて、中(なか)を檢(しら)べて見(み)やうといふ好奇心(かうきしん)はちつとも起(おこ)らなかつた。本屋(ほんや)の前(まへ)を通(とほ)ると、屹度(きつと)中(なか)へ這入(はい)つて見(み)たくなつたり、中(なか)へ這入(はい)ると必(かなら)ず何(なに)か欲(ほ)しくなつたりするのは、宗助(そうすけ)から云(い)ふと、既(すで)に一昔(ひとむか)し前(まへ)の生活(せいくわつ)である。たゞ History(ヒストリ) of(オフ) Gambling(ガムブリング)(博奕史(ばくえきし))と云(い)ふのが、殊更(ことさら)に美裝(びさう)して、一番(いちばん)眞中(まんなか)に飾(かざ)られてあつたので、それが幾分(いくぶん)か彼(かれ)の頭(あたま)に突飛(とつぴ)な新(あたら)し味(み)を加(くは)へた丈(だけ)であつた。
 宗助(そうすけ)は微笑(びせう)しながら、急忙(せは)しい通(とほ)りを向側(むかふがは)へ渡(わた)つて、今度(こんど)は時計屋(とけいや)の店(みせ)を覗(のぞ)き込(こ)んだ。金時計(きんどけい)だの金鎖(きんぐさり)が幾(いく)つも並(なら)べてあるが、是(これ)もたゞ美(うつく)しい色(いろ)や恰好(かつかう)として、彼(かれ)の眸(ひとみ)に映(うつ)る丈(だけ)で、買(か)ひたい了簡(れうけん)を誘致(いうち)するには至(いた)らなかつた。其癖(そのくせ)彼(かれ)は一々(いち/\)絹糸(きぬいと)で釣(つ)るした價格札(ねだんふだ)を讀(よ)んで、品物(しなもの)と見較(みくら)べて見(み)た。さうして實際(じつさい)金時計(きんどけい)の安價(あんか)なのに驚(おど)ろいた。
 蝙蝠傘屋(かうもりがさや)の前(まへ)にも一寸(ちよつと)立(た)ち留(ど)まつた。西洋(せいやう)小間物(こまもの)を賣(う)る店先(みせさき)では、禮帽(シルクハツト)の傍(わき)に懸(か)けてあつた襟飾(えりかざ)りに眼(め)が付(つ)いた。自分(じぶん)の毎日(まいにち)掛(か)けてゐるのよりも大變(たいへん)柄(がら)が好(よ)かつたので、價(ね)を聞(き)いて見樣(みやう)かと思(おも)つて、半分(はんぶん)店(みせ)の中(なか)へ這入(はい)りかけたが、明日(あした)から襟飾(えりかざ)りなどを懸(か)け替(かへ)た所(ところ)が下(くだ)らない事(こと)だと思(おも)ひ直(なほ)すと、急(きふ)に蟇口(がまぐち)の口(くち)を開(あ)けるのが厭(いや)になつて行(ゆ)き過(す)ぎた。呉服店(ごふくみせ)でも大分(だいぶ)立見(たちみ)をした。鶉御召(うづらおめし)だの、高貴織(かうきおり)だの、清凌織(せいりようおり)だの、自分(じぶん)の今日(こんにち)迄(まで)知(し)らずに過(す)ぎた名(な)を澤山(たくさん)覺(おぼ)えた。京都(きやうと)の襟新(えりしん)と云(い)ふ家(うち)の出店(でみせ)の前(まへ)で、窓硝子(まどがらす)へ帽子(ばうし)の鍔(つば)を突(つ)き付(つ)ける樣(やう)に近(ちか)く寄(よ)せて、精巧(せいかう)に刺繍(ぬひ)をした女(をんな)の半襟(はんえり)を、いつ迄(まで)も眺(なが)めてゐた。その中(うち)に丁度(ちやうど)細君(さいくん)に似合(にあひ)さうな上品(じやうひん)なのがあつた。買(か)つて行(い)つて遣(や)らうかといふ氣(き)が一寸(ちよつと)起(おこ)るや否(いな)や、そりや五六年前(ねんぜん)の事(こと)だと云(い)ふ考(かんがへ)が後(あと)から出(で)て來(き)て、折角(せつかく)心持(こゝろもち)の好(い)い思(おも)ひ付(つき)をすぐ揉(も)み消(け)して仕舞(しま)つた。宗助(そうすけ)は苦笑(くせう)しながら窓硝子(まどがらす)を離(はな)れて又(また)歩(ある)き出(だ)したが、それから半町(はんちやう)程(ほど)の間(あいだ)は何(なん)だか詰(つま)らない樣(やう)な氣分(きぶん)がして、徃來(わうらい)にも店先(みせさき)にも格段(かくだん)の注意(ちゆうい)を拂(はら)はなかつた。
 不圖(ふと)氣(き)が付(つ)いて見(み)ると角(かど)に大(おほ)きな雜誌屋(ざつしや)があつて、其(その)軒先(のきさき)には新刊(しんかん)の書物(しよもつ)が大(おほ)きな字(じ)で廣告(くわうこく)してある。梯子(はしご)の樣(やう)な細長(ほそなが)い枠(わく)へ紙(かみ)を張(は)つたり、ペンキ塗(ぬり)の一枚板(まいいた)へ模樣畫(もやうぐわ)見(み)た樣(やう)な色彩(しきさい)を施(ほど)こしたりしてある。宗助(そうすけ)はそれを一々(いち/\)讀(よ)んだ。著者(ちよしや)の名前(なまへ)も作物(さくぶつ)の名前(なまへ)も、一度(ど)は新聞(しんぶん)の廣告(くわうこく)で見(み)た樣(やう)でもあり、又(また)全(まつた)く新奇(しんき)の樣(やう)でもあつた。
 此(この)店(みせ)の曲(まが)り角(かど)の影(かげ)になつた所(ところ)で、黒(くろ)い山高帽(やまたかばう)を被(かぶ)つた三十位(ぐらゐ)の男(をとこ)が地面(ぢめん)の上(うへ)へ氣樂(きらく)さうに胡坐(あぐら)をかいて、えゝ御子供衆(おこどもしゆう)の御慰(おなぐさ)みと云(い)ひながら、大(おほ)きな護謨風船(ごむふうせん)を膨(ふく)らましてゐる。それが膨(ふく)れると自然(しぜん)と達磨(だるま)の恰好(かつかう)になつて、好加減(いゝかげん)な所(ところ)に眼口(めくち)迄(まで)墨(すみ)で書(か)いてあるのに宗助(そうすけ)は感心(かんしん)した。其上(そのうへ)一度(いちど)息(いき)を入(い)れると、何時(いつ)迄(まで)も膨(ふく)れてゐる。且(かつ)指(ゆび)の先(さき)へでも、手(て)の平(ひら)の上(うへ)へでも自由(じいう)に尻(しり)が据(すわ)る。それが尻(しり)の穴(あな)へ楊枝(やうじ)の樣(やう)な細(ほそ)いものを突(つ)つ込(こ)むとしゆうつと一度(いちど)に收縮(しうしゆく)して仕舞(しま)ふ。
 忙(いそ)がしい徃來(わうらい)の人(ひと)は何人(なんにん)でも通(とほ)るが、誰(だれ)も立(た)ち留(どま)つて見(み)る程(ほど)のものはない。山高帽(やまたかばう)の男(をとこ)は賑(にぎ)やかな町(まち)の隅(すみ)に、冷(ひや)やかに胡坐(あぐら)をかいて、身(み)の周圍(まはり)に何事(なにごと)が起(おこ)りつゝあるかを感(かん)ぜざるものゝ如(ごと)くに、えゝ御子供衆(おこどもしゆう)の御慰(おなぐさ)みと云(い)つては、達磨(だるま)を膨(ふく)らましてゐる。宗助(そうすけ)は一錢(せん)五厘(りん)出(だ)して、其(その)風船(ふうせん)を一(ひと)つ買(か)つて、しゆつと縮(ちゞ)ましてもらつて、それを袂(たもと)へ入(い)れた。奇麗(きれい)な床屋(とこや)へ行(い)つて、髮(かみ)を刈(か)りたくなつたが、何處(どこ)にそんな奇麗(きれい)なのがあるか、一寸(ちよつと)見付(みつ)からないうちに、日(ひ)が限(かぎ)つて來(き)たので、又(また)電車(でんしや)へ乘(の)つて、宅(うち)の方(はう)へ向(むか)つた。
 宗助(そうすけ)が電車(でんしや)の終點(しゆうてん)迄(まで)來(き)て、運轉手(うんてんしゆ)に切符(きつぷ)を渡(わた)した時(とき)には、もう空(そら)の色(いろ)が光(ひかり)を失(うしな)ひかけて、濕(しめ)つた徃來(わうらい)に、暗(くら)い影(かげ)が射(さ)し募(つの)る頃(ころ)であつた。降(お)りやうとして、鐵(てつ)の柱(はしら)を握(にぎ)つたら、急(きふ)に寒(さむ)い心持(こゝろもち)がした。一所(いつしよ)に降(お)りた人(ひと)は、皆(みん)な離(はな)れ/″\になつて、事(こと)あり氣(げ)に忙(いそ)がしく歩(ある)いて行(ゆ)く。町(まち)のはづれを見(み)ると、左右(さいう)の家(いへ)の軒(のき)から家根(やね)へかけて、仄白(ほのしろ)い烟(けむ)りが大氣(たいき)の中(なか)に動(うご)いてゐる樣(やう)に見(み)える。宗助(そうすけ)も樹(き)の多(おほ)い方角(はうがく)に向(む)いて早足(はやあし)に歩(ほ)を移(うつ)した。今日(けふ)の日曜(にちえう)も、暢(のん)びりした御天氣(おてんき)も、もう既(すで)に御仕舞(おしまひ)だと思(おも)ふと、少(すこ)し果敢(はか)ない樣(やう)な又(また)淋(さみ)しい樣(やう)な一種(いつしゆ)の氣分(きぶん)が起(おこ)つて來(き)た。さうして明日(あした)から又(また)例(れい)によつて例(れい)の如(ごと)く、せつせと働(はた)らかなくてはならない身體(からだ)だと考(かんが)へると、今日(けふ)半日(はんにち)の生活(せいくわつ)が急(きふ)に惜(をし)くなつて、殘(のこ)る六日半(むいかはん)の非精神的(ひせいしんてき)な行動(かうどう)が、如何(いか)にも詰(つま)らなく感(かん)ぜられた。歩(ある)いてゐるうちにも、日當(ひあたり)の惡(わる)い、窓(まど)の乏(とぼ)しい、大(おほ)きな部屋(へや)の模樣(もやう)や、隣(とな)りに坐(すわ)つてゐる同僚(どうれう)の顏(かほ)や、野中(のなか)さん一寸(ちよつと)と云(い)ふ上官(じやうくわん)の樣子(やうす)ばかりが眼(め)に浮(う)かんだ。
 魚勝(うをかつ)と云(い)ふ肴屋(さかなや)の前(まへ)を通(とほ)り越(こ)して、其(その)五六軒先(けんさき)の露次(ろじ)とも横丁(よこちやう)とも付(つ)かない所(ところ)を曲(まが)ると、行(い)き當(あた)りが高(たか)い崖(がけ)で、其(その)左右(さいう)に四五軒(けん)同(おな)じ構(かまへ)の貸家(かしや)が並(なら)んでゐる。つい此間(このあひだ)迄(まで)は疎(まば)らな杉垣(すぎがき)の奧(おく)に、御家人(ごけにん)でも住(す)み古(ふる)したと思(おも)はれる、物寂(ものさび)た家(いへ)も一(ひと)つ地所(ぢしよ)のうちに混(まじ)つてゐたが、崖(がけ)の上(うへ)の坂井(さかゐ)といふ人(ひと)が此所(こゝ)を買(か)つてから、忽(たちま)ち萱葺(かやぶき)を壞(こは)して、杉垣(すぎがき)を引(ひ)き拔(ぬ)いて、今(いま)の樣(やう)な新(あた)らしい普請(ふしん)に建(た)て易(か)へて仕舞(しま)つた。宗助(そうすけ)の家(うち)は横丁(よこちやう)を突(つ)き當(あた)つて、一番(いちばん)奧(おく)の左側(ひだりがは)で、すぐの崖下(がけした)だから、多少(たせう)陰氣(いんき)ではあるが、其(その)代(かは)り通(とほ)りからは尤(もつと)も隔(へだゝ)つてゐる丈(だけ)に、まあ幾分(いくぶん)か閑靜(かんせい)だらうと云(い)ふので、細君(さいくん)と相談(さうだん)の上(うへ)、とくに其所(そこ)を擇(えら)んだのである。
 宗助(そうすけ)は七日(なのか)に一返(ぺん)の日曜(にちえう)ももう暮(く)れかゝつたので、早(はや)く湯(ゆ)にでも入(い)つて、暇(ひま)があつたら髮(かみ)でも刈(か)つて、さうして緩(ゆつ)くり晩食(ばんめし)を食(く)はうと思(おも)つて、急(いそ)いで格子(かうし)を開(あ)けた。臺所(だいどころ)の方(はう)で皿小鉢(さらこばち)の音(おと)がする。上(あ)がらうとする拍子(ひやうし)に、小六(ころく)の脱(ぬ)ぎ棄(す)てた下駄(げた)の上(うへ)へ、氣(き)が付(つ)かずに足(あし)を乘(の)せた。曲(こゞ)んで位置(ゐち)を調(とゝの)へてゐる所(ところ)へ小六(ころく)が出(で)て來(き)た。臺所(だいどころ)の方(はう)で、御米(およね)が、
「誰(だれ)? 兄(にい)さん?」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)は、
「やあ、來(き)てゐたのか」と云(い)ひながら座敷(ざしき)へ上(あが)つた。先刻(さつき)郵便(いうびん)を出(だ)してから、神田(かんだ)を散歩(さんぽ)して、電車(でんしや)を降(お)りて家(うち)へ歸(かへ)る迄(まで)、宗助(そうすけ)の頭(あたま)には小六(ころく)の小(こ)の字(じ)も閃(ひら)めかなかつた。宗助(そうすけ)は小六(ころく)の顏(かほ)を見(み)た時(とき)、何(なん)となく惡(わる)い事(こと)でもした樣(やう)に極(きま)りが好(よ)くなかつた。
「御米(およね)、御米(およね)」と細君(さいくん)を臺所(だいどころ)から呼(よ)んで、
「小六(ころく)が來(き)たから、何(なに)か御馳走(ごちそう)でもするが好(い)い」と云(い)ひ付(つ)けた。細君(さいくん)は、忙(いそ)がしさうに臺所(だいどころ)の障子(しやうじ)を開(あ)け放(はな)した儘(まゝ)出(で)て來(き)て、座敷(ざしき)の入口(いりぐち)に立(た)つてゐたが、此(この)分(わか)り切(き)つた注意(ちゆうい)を聞(き)くや否(いな)や、
「えゝ今(いま)直(ぢき)」と云(い)つたなり、引(ひ)き返(かへ)さうとしたが、又(また)戻(もど)つて來(き)て、
「其(その)代(かは)り小六(ころく)さん、憚(はゞか)り樣(さま)。座敷(ざしき)の戸(と)を閉(た)てて、洋燈(ランプ)を點(つ)けて頂戴(ちやうだい)。今(いま)私(わたし)も清(きよ)も手(て)が放(はな)せない所(ところ)だから」と依頼(たの)んだ。小六(ころく)は簡單(かんたん)に、
「はあ」と云(い)つて立(た)ち上(あ)がつた。
 勝手(かつて)では清(きよ)が物(もの)を刻(きざ)む音(おと)がする。湯(ゆ)か水(みづ)をざあと流(なが)しへ空(あ)ける音(おと)がする。「奧樣(おくさま)是(これ)は何方(どちら)へ移(うつ)します」と云(い)ふ聲(こゑ)がする。「姉(ねえ)さん、ランプの心(しん)を剪(き)る鋏(はさみ)はどこにあるんですか」と云(い)ふ小六(ころく)の聲(こゑ)がする。しゆうと湯(ゆ)が沸(たぎ)つて七輪(しちりん)の火(ひ)へ懸(かゝ)つた樣子(やうす)である。
 宗助(そうすけ)は暗(くら)い座敷(ざしき)の中(なか)で默然(もくねん)と手焙(てあぶり)へ手(て)を翳(かざ)してゐた。灰(はひ)の上(うへ)に出(で)た火(ひ)の塊(かた)まり丈(だけ)が色(いろ)づいて赤(あか)く見(み)えた。其(その)時(とき)裏(うら)の崖(がけ)の上(うへ)の家主(やぬし)の家(うち)の御孃(おぢやう)さんがピヤノを鳴(なら)し出(だ)した。宗助(そうすけ)は思(おも)ひ出(だ)した樣(やう)に立(た)ち上(あ)がつて、座敷(ざしき)の雨戸(あまど)を引(ひ)きに縁側(えんがは)へ出(で)た。孟宗竹(まうそうちく)が薄黒(うすぐろ)く空(そら)の色(いろ)を亂(みだ)す上(うへ)に、一(ひと)つ二(ふた)つの星(ほし)が燦(きら)めいた。ピヤノの音(ね)は孟宗竹(まうそうちく)の後(うしろ)から響(ひゞ)いた。

 宗助(そうすけ)と小六(ころく)が手拭(てぬぐひ)を下(さ)げて、風呂(ふろ)から歸(かへ)つて來(き)た時(とき)は、座敷(ざしき)の眞中(まんなか)に眞四角(まつしかく)な食卓(しよくたく)を据(す)ゑて、御米(およね)の手料理(てれうり)が手際(てぎは)よく其上(そのうへ)に並(なら)べてあつた。手焙(てあぶり)の火(ひ)も出掛(でがけ)よりは濃(こ)い色(いろ)に燃(も)えてゐた。洋燈(らんぷ)も明(あか)るかつた。
 宗助(そうすけ)が机(つくゑ)の前(まへ)の坐蒲團(ざぶとん)を引(ひ)き寄(よ)せて、其上(そのうへ)に樂々(らく/\)と胡坐(あぐら)を掻(か)いた時(とき)、手拭(てぬぐひ)と石鹸(しやぼん)を受取(うけと)つた御米(およね)は、
「好(い)い御湯(おゆ)だつた事(こと)?」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)はたゞ一言(ひとこと)、
「うん」と答(こた)へた丈(だけ)であつたが、其(その)樣子(やうす)は素氣(そつけ)ないと云(い)ふよりも、寧(むし)ろ湯上(ゆあが)りで、精神(せいしん)が弛緩(しくわん)した氣味(きみ)に見(み)えた。
「中々(なか/\)好(い)い湯(ゆ)でした」と小六(ころく)が御米(およね)の方(はう)を見(み)て調子(てうし)を合(あは)せた。
「然(しか)しあゝ込(こ)んぢや溜(たま)らないよ」と宗助(そうすけ)が机(つくゑ)の端(はじ)へ肱(ひぢ)を持(も)たせながら、倦怠(けた)るさうに云(い)つた。宗助(そうすけ)が風呂(ふろ)に行(ゆ)くのは、いつでも役所(やくしよ)が退(ひ)けて、家(うち)へ歸(かへ)つてからの事(こと)だから、丁度(ちやうど)人(ひと)の立(た)て込(こ)む夕食前(ゆふめしまへ)の黄昏(たそがれ)である。彼(かれ)は此(この)二三ヶ月間(げつかん)ついぞ、日(ひ)の光(ひかり)に透(す)かして湯(ゆ)の色(いろ)を眺(なが)めた事(こと)がない。夫(それ)ならまだしもだが、稍(やゝ)ともすると三日(みつか)も四日(よつか)も丸(まる)で錢湯(せんたう)の敷居(しきゐ)を跨(また)がずに過(すご)して仕舞(しま)ふ。日曜(にちえう)になつたら、朝(あさ)早(はや)く起(お)きて何(なに)よりも第(だい)一に奇麗(きれい)な湯(ゆ)に首丈(くびたけ)浸(つか)つて見樣(みやう)と、常(つね)は考(かんが)へてゐるが、偖(さて)其(その)日曜(にちえう)が來(き)て見(み)ると、たまに悠(ゆつ)くり寐(ね)られるのは、今日(けふ)ばかりぢやないかと云(い)ふ氣(き)になつて、つい床(とこ)のうちで愚圖々々(ぐづ/\)してゐるうちに、時間(じかん)が遠慮(ゑんりよ)なく過(す)ぎて、えゝ面倒(めんだう)だ、今日(けふ)は已(や)めにして、其(その)代(かは)り今度(こんだ)の日曜(にちえう)に行(ゆ)かうと思(おも)ひ直(なほ)すのが、殆(ほと)んど惰性(だせい)の樣(やう)になつてゐる。
「どうかして、朝湯(あさゆ)に丈(だけ)は行(ゆ)きたいね」と宗助(そうすけ)が云(い)つた。
「其(その)癖(くせ)朝湯(あさゆ)に行(ゆ)ける日(ひ)は、屹度(きつと)寐坊(ねばう)なさるのね」と細君(さいくん)は調戲(からか)ふ樣(やう)な口調(くてう)であつた。小六(ころく)は腹(はら)の中(なか)で是(これ)が兄(あに)の性來(うまれつき)の弱點(じやくてん)であると思(おも)ひ込(こ)んでゐた。彼(かれ)は自分(じぶん)で學校生活(がくかうせいくわつ)をしてゐるにも拘(かゝ)はらず、兄(あに)の日曜(にちえう)が、如何(いか)に兄(あに)にとつて貴(たつ)といかを會得(ゑとく)出來(でき)なかつた。六日間(むいかかん)の暗(くら)い精神作用(せいしんさよう)を、只(たゞ)此(この)一日(いちにち)で、暖(あたゝ)かに回復(くわいふく)すべく、兄(あに)は多(おほ)くの希望(きばう)を二十四時間(じかん)のうちに投(な)げ込(こ)んでゐる。だから遣(や)りたい事(こと)があり過(す)ぎて、十の二三も實行(じつかう)出來(でき)ない。否(いな)、其(その)二三にしろ進(すゝ)んで實行(じつかう)にかゝると、却(かへ)つてその爲(ため)に費(つひ)やす時間(じかん)の方(はう)が惜(をし)くなつて來(き)て、つい又(また)手(て)を引込(ひつこ)めて、凝(じつ)としてゐるうちに日曜(にちえう)は何時(いつ)か暮(く)れて仕舞(しま)ふのである。自分(じぶん)の氣晴(きばら)しや保養(ほやう)や、娯樂(ごらく)もしくは好尚(かうしやう)に就(つ)いてゞすら、斯樣(かやう)に節儉(せつけん)しなければならない境遇(きやうぐう)にある宗助(そうすけ)が、小六(ころく)の爲(ため)に盡(つく)さないのは、盡(つく)さないのではない、頭(あたま)に盡(つく)す餘裕(よゆう)のないのだとは、小六(ころく)から見(み)ると、何(ど)うしても受取(うけと)れなかつた。兄(あに)はたゞ手前勝手(てまへがつて)な男(をとこ)で、暇(ひま)があればぶら/\して細君(さいくん)と遊(あそ)んで許(ばかり)ゐて、一向(いつかう)頼(たよ)りにも力(ちから)にもなつて呉(く)れない、眞底(しんそこ)は情合(じやうあひ)に薄(うす)い人(ひと)だ位(ぐらゐ)に考(かんが)へてゐた。
 けれども、小六(ころく)がさう感(かん)じ出(だ)したのは、つい近頃(ちかごろ)の事(こと)で、實(じつ)を云(い)ふと、佐伯(さへき)との交渉(かうせふ)が始(はじ)まつて以來(いらい)の話(はなし)である。年(とし)の若(わか)い丈(だけ)、凡(すべ)てに性急(せいきふ)な小六(ころく)は、兄(あに)に頼(たの)めば今日明日(けふあす)にも方(かた)が付(つ)くものと、思(おも)ひ込(こ)んでゐたのに、何日迄(いつまで)も埒(らち)が明(あ)かないのみか、まだ先方(せんぱう)へ出掛(でか)けても呉(く)れないので、大分(だいぶ)不平(ふへい)になつたのである。
 所(ところ)が今日(けふ)歸(かへ)りを待(ま)ち受(う)けて逢(あ)つて見(み)ると、其所(そこ)が兄弟(きやうだい)で、別(べつ)に御世辭(おせじ)も使(つか)はないうちに、何處(どこ)か暖味(あたゝかみ)のある仕打(しうち)も見(み)えるので、つい云(い)ひたい事(こと)も後廻(あとまは)しにして、一所(いつしよ)に湯(ゆ)になんぞ這入(はい)つて、穩(おだ)やかに打(う)ち解(と)けて話(はな)せる樣(やう)になつて來(き)た。
 兄弟(きやうだい)は寛(くつ)ろいで膳(ぜん)に就(つ)いた。御米(およね)も遠慮(ゑんりよ)なく食卓(しよくたく)の一隅(ひとすみ)を領(りやう)した。宗助(そうすけ)も小六(ころく)も猪口(ちよく)を二三杯(ばい)づゝ干(ほ)した。飯(めし)に掛(か)ゝる前(まへ)に、宗助(そうすけ)は笑(わら)ひながら、
「うん、面白(おもしろ)いものが有(あ)つたつけ」と云(い)ひながら、袂(たもと)から買(か)つて來(き)た護謨風船(ゴムふうせん)の達磨(だるま)を出(だ)して、大(おほ)きく膨(ふく)らませて見(み)せた。さうして、それを椀(わん)の葢(ふた)の上(うへ)へ載(の)せて、其(その)特色(とくしよく)を説明(せつめい)して聞(き)かせた。御米(およね)も小六(ころく)も面白(おもしろ)がつて、ふわ/\した玉(たま)を見(み)てゐた。仕舞(しまひ)に小六(ころく)が、ふうつと吹(ふ)いたら達磨(だるま)は膳(ぜん)の上(うへ)から疊(たゝみ)の上(うへ)へ落(お)ちた。それでも、まだ覆(かへ)らなかつた。
「それ御覽(ごらん)」と宗助(そうすけ)が云(い)つた。
 御米(およね)は女(をんな)だけに聲(こゑ)を出(だ)して笑(わら)つたが、御櫃(おはち)の葢(ふた)を開(あ)けて、夫(をつと)の飯(めし)を盛(よそ)ひながら、
「兄(にい)さんも隨分(ずゐぶん)呑氣(のんき)ね」と小六(ころく)の方(はう)を向(む)いて、半(なか)ば夫(をつと)を辯護(べんご)する樣(やう)に云(い)つた。宗助(そうすけ)は細君(さいくん)から茶碗(ちやわん)を受取(うけと)つて、一言(ひとこと)の辯解(べんかい)もなく食事(しよくじ)を始(はじ)めた。小六(ころく)も正式(せいしき)に箸(はし)を取(と)り上(あ)げた。
 達磨(だるま)はそれぎり話題(わだい)に上(のぼ)らなかつたが、これが緒(いとくち)になつて、三人(にん)は飯(めし)の濟(す)む迄(まで)無邪氣(むじやき)に長閑(のどか)な話(はなし)をつゞけた。仕舞(しまひ)に小六(ころく)が氣(き)を換(か)へて、
「時(とき)に伊藤(いとう)さんも飛(と)んだ事(こと)になりましたね」と云(い)ひ出(だ)した。宗助(そうすけ)は五六日前(にちまへ)伊藤公(いとうこう)暗殺(あんさつ)の號外(がうぐわい)を見(み)たとき、御米(およね)の働(はたら)いてゐる臺所(だいどころ)へ出(で)て來(き)て、「おい大變(たいへん)だ、伊藤(いとう)さんが殺(ころ)された」と云(い)つて、手(て)に持(も)つた號外(がうぐわい)を御米(およね)のエプロンの上(うへ)に乘(の)せたなり書齋(しよさい)へ這入(はい)つたが、其(その)語氣(ごき)からいふと、寧(むし)ろ落(お)ち付(つ)いたものであつた。
「貴方(あなた)大變(たいへん)だつて云(い)ふ癖(くせ)に、些(ちつ)とも大變(たいへん)らしい聲(こゑ)ぢやなくつてよ」と御米(およね)が後(あと)から冗談半分(じようだんはんぶん)にわざ/\注意(ちゆうい)した位(くらゐ)である。其後(そのご)日毎(ひごと)の新聞(しんぶん)に伊藤公(いとうこう)の事(こと)が五六段(だん)づゝ出(で)ない事(こと)はないが、宗助(そうすけ)はそれに目(め)を通(とほ)してゐるんだか、ゐないんだか分(わか)らない程(ほど)、暗殺事件(あんさつじけん)に就(つい)ては平氣(へいき)に見(み)えた。夜(よる)歸(かへ)つて來(き)て、御米(およね)が飯(めし)の御給仕(おきふじ)をするとき抔(など)に、「今日(けふ)も伊藤(いとう)さんの事(こと)が何(なに)か出(で)てゐて」と聞(き)く事(こと)があるが、其時(そのとき)には「うん大分(だいぶ)出(で)てゐる」と答(こた)へる位(ぐらゐ)だから、夫(をつと)の隱袋(かくし)の中(なか)に疊(たゝ)んである今朝(けさ)の讀殼(よみがら)を、後(あと)から出(だ)して讀(よ)んで見(み)ないと、其日(そのひ)の記事(きじ)は分(わか)らなかつた。御米(およね)もつまりは夫(をつと)が歸宅後(きたくご)の會話(くわいわ)の材料(ざいれう)として、伊藤公(いとうこう)を引合(ひきあひ)に出(だ)す位(ぐらゐ)の所(ところ)だから、宗助(そうすけ)が進(すゝ)まない方向(はうかう)へは、たつて話(はなし)を引張(ひつぱり)たくはなかつた。それで此(この)二人(ふたり)の間(あひだ)には、號外(がうぐわい)發行(はつかう)の當日(たうじつ)以後(いご)、今夜(こんや)小六(ころく)がそれを云(い)ひ出(だ)した迄(まで)は、公(おほや)けには天下(てんか)を動(うご)かしつゝある問題(もんだい)も、格別(かくべつ)の興味(きようみ)を以(もつ)て迎(むか)へられてゐなかつたのである。
「どうして、まあ殺(ころ)されたんでせう」と御米(およね)は號外(がうぐわい)を見(み)たとき、宗助(そうすけ)に聞(き)いたと同(おな)じ事(こと)を又(また)小六(ころく)に向(むか)つて聞(き)いた。
「短銃(ピストル)をポン/\連發(れんぱつ)したのが命中(めいちゆう)したんです」と小六(ころく)は正直(しやうぢき)に答(こた)へた。
「だけどさ。何(ど)うして、まあ殺(ころ)されたんでせう」
 小六(ころく)は要領(えうりやう)を得(え)ない樣(やう)な顏(かほ)をしてゐる。宗助(そうすけ)は落付(おちつ)いた調子(てうし)で、
「矢(や)つ張(ぱ)り運命(うんめい)だなあ」と云(い)つて、茶碗(ちやわん)の茶(ちや)を旨(うま)さうに飮(の)んだ。御米(およね)はこれでも納得(なつとく)が出來(でき)なかつたと見(み)えて、
「どうして又(また)滿洲(まんしう)抔(など)へ行(い)つたんでせう」と聞(き)いた。
「本當(ほんたう)にな」と宗助(そうすけ)は腹(はら)が張(は)つて充分(じゆうぶん)物足(ものた)りた樣子(やうす)であつた。
「何(なん)でも露西亞(ロシア)に秘密(ひみつ)な用(よう)があつたんださうです」と小六(ころく)が眞面目(まじめ)な顏(かほ)をして云(い)つた。御米(およね)は、
「さう。でも厭(いや)ねえ。殺(ころ)されちや」と云(い)つた。
「己(おれ)見(み)た樣(やう)な腰辯(こしべん)は、殺(ころ)されちや厭(いや)だが、伊藤(いとう)さん見(み)た樣(やう)な人(ひと)は、哈爾賓(ハルピン)へ行(い)つて殺(ころ)される方(はう)が可(い)いんだよ」と宗助(そうすけ)が始(はじ)めて調子(てうし)づいた口(くち)を利(き)いた。
「あら、何故(なぜ)」
「何故(なぜ)つて伊藤(いとう)さんは殺(ころ)されたから、歴史的(れきしてき)に偉(えら)い人(ひと)になれるのさ。たゞ死(し)んで御覽(ごらん)、斯(か)うは行(ゆ)かないよ」
「成程(なるほど)そんなものかも知(し)れないな」と小六(ころく)は少(すこ)し感服(かんぷく)した樣(やう)だつたが、やがて、
「兎(と)に角(かく)滿洲(まんしう)だの、哈爾賓(ハルピン)だのつて物騷(ぶつさう)な所(ところ)ですね。僕(ぼく)は何(なん)だか危險(きけん)な樣(やう)な心持(こゝろもち)がしてならない」と云(い)つた。
「夫(それ)や、色(いろ)んな人(ひと)が落(お)ち合(あ)つてるからね」
 此時(このとき)御米(およね)は妙(めう)な顏(かほ)をして、斯(か)う答(こた)へた夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)た。宗助(そうすけ)もそれに氣(き)が付(つ)いたらしく、
「さあ、もう御膳(おぜん)を下(さ)げたら好(よ)からう」と細君(さいくん)を促(うな)がして、先刻(さつき)の達磨(だるま)を又(また)疊(たゝみ)の上(うへ)から取(と)つて、人指指(ひとさしゆび)の先(さき)へ載(の)せながら、
「どうも妙(めう)だよ。よく斯(か)う調子(てうし)好(よ)く出來(でき)るものだと思(おも)つてね」と云(い)つてゐた。
 臺所(だいどころ)から清(きよ)が出(で)て來(き)て、食(く)ひ散(ち)らした皿小鉢(さらこばち)を食卓(しよくたく)ごと引(ひ)いて行(い)つた後(あと)で、御米(およね)も茶(ちや)を入(い)れ替(か)へるために、次(つぎ)の間(ま)へ立(た)つたから、兄弟(きやうだい)は差向(さしむか)ひになつた。
「あゝ奇麗(きれい)になつた。何(ど)うも食(く)つた後(あと)は汚(きた)ないものでね」と宗助(そうすけ)は全(まつた)く食卓(しよくたく)に未練(みれん)のない顏(かほ)をした。勝手(かつて)の方(はう)で清(きよ)がしきりに笑(わら)つてゐる。
「何(なに)がそんなに可笑(をか)しいの、清(きよ)」と御米(およね)が障子越(しやうじごし)に話(はな)し掛(か)ける聲(こゑ)が聞(きこ)えた。清(きよ)はへえと云(い)つて猶(なほ)笑(わら)ひ出(だ)した。兄弟(きやうだい)は何(なん)にも云(い)はず、半(なか)ば下女(げぢよ)の笑(わら)ひ聲(ごゑ)に耳(みゝ)を傾(かたむ)けてゐた。
 しばらくして、御米(およね)が菓子皿(くわしざら)と茶盆(ちやぼん)を兩手(りやうて)に持(も)つて、又(また)出(で)て來(き)た。藤蔓(ふぢづる)の着(つ)いた大(おほ)きな急須(きふす)から、胃(ゐ)にも頭(あたま)にも應(こた)へない番茶(ばんちや)を、湯呑程(ゆのみほど)な大(おほ)きな茶碗(ちやわん)に注(つ)いで、兩人(ふたり)の前(まへ)へ置(お)いた。
「何(なん)だつて、あんなに笑(わら)ふんだい」と夫(をつと)が聞(き)いた。けれども御米(およね)の顏(かほ)は見(み)ずに却(かへ)つて菓子皿(くわしざら)の中(なか)を覗(のぞ)いてゐた。
「貴方(あなた)があんな玩具(おもちや)を買(か)つて來(き)て、面白(おもしろ)さうに指(ゆび)の先(さき)へ乘(の)せて入(い)らつしやるからよ。子供(こども)もない癖(くせ)に」
 宗助(そうすけ)は意(い)にも留(と)めない樣(やう)に、輕(かる)く「さうか」と云(い)つたが、後(あと)から緩(ゆつ)くり、
「是(これ)でも元(もと)は子供(こども)が有(あ)つたんだがね」と、さも自分(じぶん)で自分(じぶん)の言葉(ことば)を味(あぢ)はつてゐる風(ふう)に付(つ)け足(た)して、生温(なまぬる)い眼(め)を擧(あ)げて細君(さいくん)を見(み)た。御米(およね)はぴたりと默(だま)つて仕舞(しま)つた。
「あなた御菓子(おくわし)食(た)べなくつて」と、しばらくしてから小六(ころく)の方(はう)へ向(む)いて話(はなし)し掛(か)けたが、
「えゝ食(た)べます」と云(い)ふ小六(ころく)の返事(へんじ)を聞(き)き流(なが)して、ついと茶(ちや)の間(ま)へ立(た)つて行(い)つた。兄弟(きやうだい)は又(また)差向(さしむか)ひになつた。
 電車(でんしや)の終點(しゆうてん)から歩(ある)くと二十分(ぷん)近(ちか)くも掛(かゝ)る山(やま)の手(て)の奧丈(おくだけ)あつて、まだ宵(よひ)の口(くち)だけれども、四隣(あたり)は存外(ぞんぐわい)靜(しづ)かである。時々(とき/″\)表(おもて)を通(とほ)る薄齒(うすば)の下駄(げた)の響(ひゞき)が冴(さ)えて、夜寒(よさむ)が次第(しだい)に増(ま)して來(く)る。宗助(そうすけ)は懷手(ふところで)をして、
「晝間(ひるま)は暖(あつ)たかいが、夜(よる)になると急(きふ)に寒(さむ)くなるね。寄宿(きしゆく)ぢやもう蒸汽(スチーム)を通(とほ)してゐるかい」と聞(き)いた。
「いえ、未(まだ)です。學校(がくかう)ぢや餘(よ)つ程(ぽど)寒(さむ)くならなくつちや蒸汽(スチーム)なんか焚(た)きやしません」
「さうかい。夫(それ)ぢや寒(さむ)いだらう」
「えゝ。然(しか)し寒(さむ)い位(くらゐ)何(ど)うでも構(かま)はない積(つもり)ですが」と云(い)つた儘(まゝ)、小六(ころく)はすこし云(い)ひ淀(よど)んでゐたが、仕舞(しまひ)にとう/\思(おも)ひ切(き)つて、
「兄(にい)さん、佐伯(さへき)の方(はう)は一體(いつたい)どうなるんでせう。先刻(さつき)姉(ねえ)さんから聞(き)いたら、今日(けふ)手紙(てがみ)を出(だ)して下(くだ)すつたさうですが」
「あゝ出(だ)した。二三日中(にちちゆう)に何(なん)とか云(い)つて來(く)るだらう。其上(そのうへ)で又(また)己(おれ)が行(い)くとも何(ど)うとも仕樣(しやう)よ」
 小六(ころく)は兄(あに)の平氣(へいき)な態度(たいど)を心(こゝろ)の中(うち)では飽足(あきた)らず眺(なが)めた。然(しか)し宗助(そうすけ)の樣子(やうす)に何處(どこ)と云(い)つて、他(ひと)を激(げき)させる樣(やう)な鋭(する)どい所(ところ)も、自(みづか)らを庇護(かば)ふ樣(やう)な卑(いや)しい點(てん)もないので、喰(く)つて掛(かゝ)る勇氣(ゆうき)は更(さら)に出(で)なかつた。たゞ
「ぢや今日(けふ)迄(まで)あの儘(まゝ)にしてあつたんですか」と單(たん)に事實(じじつ)を確(たしか)めた。
「うん、實(じつ)は濟(す)まないがあの儘(まゝ)だ。手紙(てがみ)も今日(けふ)やつとの事(こと)で書(か)いた位(くらゐ)だ。何(ど)うも仕方(しかた)がないよ。近頃(ちかごろ)神經衰弱(しんけいすゐじやく)でね」と眞面目(まじめ)に云(い)ふ。小六(ころく)は苦笑(くせう)した。
「もし駄目(だめ)なら、僕(ぼく)は學校(がくかう)を已(や)めて、一層(いつそ)今(いま)のうち、滿洲(まんしう)か朝鮮(てうせん)へでも行(い)かうかと思(おも)つてるんです」
「滿洲(まんしう)か朝鮮(てうせん)? ひどく又(また)思(おも)ひ切(き)つたもんだね。だつて、御前(おまへ)先刻(さつき)滿洲(まんしう)は物騷(ぶつさう)で厭(いや)だつて云(い)つたぢやないか」
 用談(ようだん)はこんな所(ところ)に徃(い)つたり來(き)たりして、遂(つひ)に要領(えうりやう)を得(え)なかつた。仕舞(しまひ)に宗助(そうすけ)が
「まあ、好(い)いや、さう心配(しんぱい)しないでも、何(ど)うかなるよ。何(なに)しろ返事(へんじ)の來次第(きしだい)、己(おれ)がすぐ知(し)らせてやる。其上(そのうへ)で又(また)相談(さうだん)するとしやう」と云(い)つたので、談話(はなし)に區切(くぎり)が付(つ)いた。
 小六(ころく)が歸(かへ)りがけに茶(ちや)の間(ま)を覗(のぞ)いたら、御米(およね)は何(なん)にもしずに、長火鉢(ながひばち)に倚(よ)り掛(か)かつてゐた。
「姉(ねえ)さん、左樣(さやう)なら」と聲(こゑ)を掛(か)けたら、「おや御歸(おかへ)り」と云(い)ひながら漸(やうや)く立(た)つて來(き)た。

 小六(ころく)の苦(く)にしてゐた佐伯(さへき)からは、豫期(よき)の通(とほ)り二三日(にち)して返事(へんじ)があつたが、それは極(きは)めて簡單(かんたん)なもので、端書(はがき)でも用(よう)の足(た)りる所(ところ)を、鄭重(ていちよう)に封筒(ふうとう)へ入(い)れて三錢(せん)の切手(きつて)を貼(は)つた、叔母(をば)の自筆(じひつ)に過(す)ぎなかつた。
 役所(やくしよ)から歸(かへ)つて、筒袖(つゝそで)の仕事着(しごとぎ)を、窮屈(きゆうくつ)さうに脱(ぬ)ぎ易(か)へて、火鉢(ひばち)の前(まへ)へ坐(すわ)るや否(いな)や、抽出(ひきだし)から一寸(すん)程(ほど)わざと餘(あま)して差(さ)し込(こ)んであつた状袋(じやうぶくろ)に眼(め)が着(つ)いたので、御米(およね)の汲(く)んで出(だ)す番茶(ばんちや)を一口(ひとくち)呑(の)んだ儘(まゝ)、宗助(そうすけ)はすぐ封(ふう)を切(き)つた。
「へえ、安(やす)さんは神戸(かうべ)へ行(い)つたんだつてね」と手紙(てがみ)を讀(よ)みながら云(い)つた。
「何時(いつ)?」と御米(およね)は湯呑(ゆのみ)を夫(をつと)の前(まへ)に出(だ)した時(とき)の姿勢(しせい)の儘(まゝ)で聞(き)いた。
「何時(いつ)とも書(か)いてないがね。何(なに)しろ遠(とほ)からぬうちには歸京(ききやう)仕(つかまつ)るべく候(さふらふ)間(あひだ)と書(か)いてあるから、もうぢき歸(かへ)つて來(く)るんだらう」
「遠(とほ)からぬうちなんて、矢(や)つ張(ぱ)り叔母(をば)さんね」
 宗助(そうすけ)は御米(およね)の批評(ひひやう)に、同意(どうい)も不同意(ふどうい)も表(へう)しなかつた。讀(よ)んだ手紙(てがみ)を卷(ま)き納(をさ)めて、投(な)げる樣(やう)にそこへ放(はふ)り出(だ)して、四五日目(にちめ)になる、ざら/\した腮(あご)を、氣味(きみ)わるさうに撫(な)で廻(まは)した。
 御米(およね)はすぐ其(その)手紙(てがみ)を拾(ひろ)つたが、別(べつ)に讀(よ)まうともしなかつた。それを膝(ひざ)の上(うへ)へ乘(の)せた儘(まゝ)、夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)て、
「遠(とほ)からぬうちには歸京(ききやう)仕(つかまつ)るべく候間(さふらふあひだ)、何(ど)うだつて云(い)ふの」と聞(き)いた。
「何(いづ)れ歸(かへ)つたら、安之助(やすのすけ)と相談(さうだん)して何(なん)とか御挨拶(ごあいさつ)を致(いた)しますと云(い)ふのさ」
「遠(とほ)からぬうちぢや曖昧(あいまい)ね。何時(いつ)歸(かへ)るとも書(か)いてなくつて」
「いゝや」
 御米(およね)は念(ねん)の爲(ため)、膝(ひざ)の上(うへ)の手紙(てがみ)を始(はじ)めて開(ひら)いて見(み)た。さうして夫(それ)を元(もと)の樣(やう)に疊(たゝ)んで、
「一寸(ちよつと)其(その)状袋(じやうぶくろ)を」と手(て)を夫(をつと)の方(ほう)へ出(だ)した。宗助(そうすけ)は自分(じぶん)と火鉢(ひばち)の間(あひだ)に挾(はさ)まつてゐる青(あを)い封筒(ふうとう)を取(と)つて細君(さいくん)に渡(わた)した。御米(およね)はそれをふつと吹(ふ)いて、中(なか)を膨(ふく)らまして手紙(てがみ)を収(をさ)めた。さうして臺所(だいどころ)へ立(た)つた。
 宗助(そうすけ)は夫限(それぎり)手紙(てがみ)の事(こと)には氣(き)を留(と)めなかつた。今日(けふ)役所(やくしよ)で同僚(どうれう)が、此間(このあひだ)英吉利(イギリス)から來遊(らいいう)したキチナー元帥(げんすゐ)に、新橋(しんばし)の傍(そば)で逢(あ)つたと云(い)ふ話(はなし)を思(おも)ひ出(だ)して、あゝ云(い)ふ人間(にんげん)になると、世界中(せかいぢゆう)何處(どこ)へ行(い)つても、世間(せけん)を騷(さわ)がせる樣(やう)に出來(でき)てゐる樣(やう)だが、實際(じつさい)さういふ風(ふう)に生(うま)れ付(つ)いて來(き)たものかも知(し)れない。自分(じぶん)の過去(くわこ)から引(ひ)き摺(ず)つてきた運命(うんめい)や、又(また)其(その)續(つゞ)きとして、是(これ)から自分(じぶん)の眼前(がんぜん)に展開(てんかい)されべき將來(しやうらい)を取(と)つて、キチナーと云(い)ふ人(ひと)のそれに比(くら)べて見(み)ると、到底(たうてい)同(おな)じ人間(にんげん)とは思(おも)へない位(ぐらゐ)懸(か)け隔(へだ)たつてゐる。
 斯(か)う考(かんが)へて宗助(そうすけ)はしきりに烟草(たばこ)を吹(ふ)かした。表(おもて)は夕方(ゆふがた)から風(かぜ)が吹(ふ)き出(だ)して、わざと遠(とほ)くの方(はう)から襲(おそ)つて來(く)る樣(やう)な音(おと)がする。それが時々(とき/″\)已(や)むと、已(や)んだ間(あひだ)は寂(しん)として、吹(ふ)き荒(あ)れる時(とき)よりは猶(なほ)淋(さび)しい。宗助(そうすけ)は腕組(うでぐみ)をしながら、もうそろ/\火事(くわじ)の半鐘(はんしよう)が鳴(な)り出(だ)す時節(じせつ)だと思(おも)つた。
 臺所(だいどころ)へ出(で)て見(み)ると、細君(さいくん)は七輪(しちりん)の火(ひ)を赤(あか)くして、肴(さかな)の切身(きりみ)を燒(や)いてゐた。清(きよ)は流(なが)し元(もと)に曲(こゞ)んで漬物(つけもの)を洗(あら)つてゐた。二人(ふたり)とも口(くち)を利(き)かずにせつせと自分(じぶん)の遣(や)る事(こと)を遣(や)つてゐる。宗助(そうすけ)は障子(しやうじ)を開(あ)けたなり、少時(しばらく)肴(さかな)から垂(た)る汁(つゆ)か膏(あぶら)の音(おと)を聞(き)いてゐたが、無言(むごん)の儘(まゝ)又(また)障子(しやうじ)を閉(た)てゝ元(もと)の座(ざ)へ戻(もど)つた。細君(さいくん)は眼(め)さへ肴(さかな)から離(はな)さなかつた。
 食事(しよくじ)を濟(す)まして、夫婦(ふうふ)が火鉢(ひばち)を間(あひ)に向(むか)ひ合(あ)つた時(とき)、御米(およね)は又(また)
「佐伯(さへき)の方(はう)は困(こま)るのね」と云(い)ひ出(だ)した。
「まあ仕方(しかた)がない。安(やす)さんが神戸(かうべ)から歸(かへ)る迄(まで)待(ま)つより外(ほか)に道(みち)はあるまい」
「其前(そのまへ)に一寸(ちよつと)叔母(をば)さんに逢(あ)つて話(はなし)をして置(お)いた方(はう)が好(よ)かなくつて」
「さうさ。まあ其内(そのうち)何(なん)とか云(い)つて來(く)るだらう。夫迄(それまで)打遣(うちや)つて置(お)かうよ」
「小六(ころく)さんが怒(おこ)つてよ。可(よ)くつて」と御米(およね)はわざと念(ねん)を押(お)して置(お)いて微笑(びせう)した。宗助(そうすけ)は下眼(しため)を使(つか)つて、手(て)に持(も)つた小楊枝(こやうじ)を着物(きもの)の襟(えり)へ差(さ)した。
 中一日(なかいちんち)置(お)いて、宗助(そうすけ)は漸(やうや)く佐伯(さへき)からの返事(へんじ)を小六(ころく)に知(し)らせてやつた。其時(そのとき)も手紙(てがみ)の尻(しり)に、まあ其(その)内(うち)何(ど)うかなるだらうと云(い)ふ意味(いみ)を、例(れい)の如(ごと)く付(つ)け加(くは)へた。さうして當分(たうぶん)は此(この)事件(じけん)に就(つい)て肩(かた)が拔(ぬ)けた樣(やう)に感(かん)じた。自然(しぜん)の經過(なりゆき)が又(また)窮屈(きゆうくつ)に眼(め)の前(まへ)に押(お)し寄(よ)せて來(く)る迄(まで)は、忘(わす)れてゐる方(はう)が面倒(めんだう)がなくつて好(い)い位(くらゐ)な顏(かほ)をして、毎日(まいにち)役所(やくしよ)へ出(で)ては又(また)役所(やくしよ)から歸(かへ)つて來(き)た。歸(かへ)りも遲(おそ)いが、歸(かへ)つてから出掛(でかけ)る抔(など)といふ億劫(おくくふ)な事(こと)は滅多(めつた)になかつた。客(きやく)は殆(ほと)んど來(こ)ない。用(よう)のない時(とき)は清(きよ)を十時前(じまへ)に寐(ね)かす事(こと)さへあつた。夫婦(ふうふ)は毎夜(まいよ)同(おな)じ火鉢(ひばち)の兩側(りやうがは)に向(む)き合(あ)つて、食後(しよくご)一時間(じかん)位(ぐらゐ)話(はなし)をした。話(はなし)の題目(だいもく)は彼等(かれら)の生活(せいくわつ)状態(じやうたい)に相應(さうおう)した程度(ていど)のものであつた。けれども米屋(こめや)の拂(はらひ)を、此(この)三十日(みそか)には何(ど)うしたものだらうといふ、苦(くる)しい世帶話(しよたいばなし)は、未(いま)だ甞(かつ)て一度(いちど)も彼等(かれら)の口(くち)には上(のぼ)らなかつた。と云(い)つて、小説(せうせつ)や文學(ぶんがく)の批評(ひひやう)は勿論(もちろん)の事(こと)、男(をとこ)と女(をんな)の間(あひだ)を陽炎(かげろふ)の樣(やう)に飛(と)び廻(まは)る、花(はな)やかな言葉(ことば)の遣(や)り取(と)りは殆(ほと)んど聞(き)かれなかつた。彼等(かれら)は夫程(それほど)の年輩(ねんぱい)でもないのに、もう其所(そこ)を通(とほ)り拔(ぬ)けて、日毎(ひごと)に地味(ぢみ)になつて行(ゆ)く人(ひと)の樣(やう)にも見(み)えた。又(また)は最初(さいしよ)から、色彩(しきさい)の薄(うす)い極(きは)めて通俗(つうぞく)の人間(にんげん)が、習慣的(しふくわんてき)に夫婦(ふうふ)の關係(くわんけい)を結(むす)ぶために寄(よ)り合(あ)つた樣(やう)にも見(み)えた。
 上部(うはべ)から見(み)ると、夫婦(ふうふ)ともさう物(もの)に屈托(くつたく)する氣色(けしき)はなかつた。それは彼等(かれら)が小六(ころく)の事(こと)に關(くわん)して取(と)つた態度(たいど)に就(つい)て見(み)ても略(ほゞ)想像(さうざう)がつく。流石(さすが)女丈(をんなだけ)に御米(およね)は一二度(ど)、
「安(やす)さんは、まだ歸(かへ)らないんでせうかね。貴方(あなた)今度(こんだ)の日曜(にちえう)位(ぐらゐ)に番町(ばんちやう)迄(まで)行(い)つて御覽(ごらん)なさらなくつて」と注意(ちゆうい)した事(こと)があるが、宗助(そうすけ)は、
「うん、行(い)つても好(い)い」位(ぐらゐ)な返事(へんじ)をする丈(だけ)で、其(その)行(い)つても好(い)い日曜(にちえう)が來(く)ると、丸(まる)で忘(わす)れた樣(やう)に濟(す)ましてゐる。御米(およね)もそれを見(み)て、責(せ)める樣子(やうす)もない。天氣(てんき)が好(い)いと、
「ちと散歩(さんぽ)でもして入(い)らつしやい」と云(い)ふ。雨(あめ)が降(ふ)つたり、風(かぜ)が吹(ふ)いたりすると、
「今日(けふ)は日曜(にちえう)で仕合(しあは)せね」と云(い)ふ。
 幸(さいはひ)にして小六(ころく)は其後(そのご)一度(いちど)もやつて來(こ)ない。此(この)青年(せいねん)は、至(いた)つて凝(こ)り性(しやう)の神經質(しんけいしつ)で、斯(か)うと思(おも)ふと何所(どこ)迄(まで)も進(すゝ)んで來(く)る所(ところ)が、書生(しよせい)時代(じだい)の宗助(そうすけ)によく似(に)てゐる代(かは)りに、不圖(ふと)氣(き)が變(かは)ると、昨日(きのふ)の事(こと)は丸(まる)で忘(わす)れた樣(やう)に引(ひ)つ繰(く)り返(かへ)つて、けろりとした顏(かほ)をしてゐる。其所(そこ)も兄弟丈(きやうだいだけ)あつて、昔(むかし)の宗助(そうすけ)に其儘(そのまゝ)である。それから、頭腦(づなう)が比較的(ひかくてき)明暸(めいれう)で、理路(りろ)に感情(かんじやう)を注(つ)ぎ込(こ)むのか、又(また)は感情(かんじやう)に理窟(りくつ)の枠(わく)を張(は)るのか、何方(どつち)か分(わか)らないが、兎(と)に角(かく)物(もの)に筋道(すぢみち)を付(つ)けないと承知(しようち)しないし、また一返(いつぺん)筋道(すぢみち)が付(つ)くと、其(その)筋道(すぢみち)を生(い)かさなくつては置(お)かない樣(やう)に熱中(ねつちゆう)したがる。其上(そのうへ)體質(たいしつ)の割合(わりあひ)に精力(せいりよく)がつゞくから、若(わか)い血氣(けつき)に任(まか)せて大抵(たいてい)の事(こと)はする。
 宗助(そうすけ)は弟(おとうと)を見(み)るたびに、昔(むかし)の自分(じぶん)が再(ふたゝ)び蘇生(そせい)して、自分(じぶん)の眼(め)の前(まへ)に活動(くわつどう)してゐる樣(やう)な氣(き)がしてならなかつた。時(とき)には、はら/\する事(こと)もあつた。又(また)苦々(にが/\)しく思(おも)ふ折(をり)もあつた。さう云(い)ふ場合(ばあひ)には、心(こゝろ)のうちに、當時(たうじ)の自分(じぶん)が一圖(いちづ)に振舞(ふるま)つた苦(にが)い記憶(きおく)を、出來(でき)る丈(だけ)屡(しば/\)呼(よ)び起(おこ)させるために、とくに天(てん)が小六(ころく)を自分(じぶん)の眼(め)の前(まへ)に据(す)ゑ付(つ)けるのではなからうかと思(おも)つた。さうして非常(ひじやう)に恐(おそ)ろしくなつた。此奴(こいつ)も或(あるひ)は己(おれ)と同一(どういつ)の運命(うんめい)に陷(おちい)るために生(うま)れて來(き)たのではなからうかと考(かんが)へると、今度(こんど)は大(おほ)いに心掛(こゝろがゝ)りになつた。時(とき)によると心掛(こゝろがゝ)りよりは不愉快(ふゆくわい)であつた。
 けれども、今日(こんにち)迄(まで)宗助(そうすけ)は、小六(ころく)に對(たい)して意見(いけん)がましい事(こと)を云(い)つた事(こと)もなければ、將來(しやうらい)に就(つい)て注意(ちゆうい)を與(あた)へた事(こと)もなかつた。彼(かれ)の弟(おとうと)に對(たい)する待遇(たいぐう)方(はう)はたゞ普通(ふつう)凡庸(ぼんよう)のものであつた。彼(かれ)の今(いま)の生活(せいくわつ)が、彼(かれ)の樣(やう)な過去(くわこ)を有(も)つてゐる人(ひと)とは思(おも)へない程(ほど)に、沈(しづ)んでゐる如(ごと)く、彼(かれ)の弟(おとうと)を取(と)り扱(あつか)ふ樣子(やうす)にも、過去(くわこ)と名(な)のつく程(ほど)の經驗(けいけん)を有(も)つた年長者(ねんちやうしや)の素振(そぶり)は容易(ようい)に出(で)なかつた。
 宗助(そうすけ)と小六(ころく)の間(あひだ)には、まだ二人(ふたり)程(ほど)男(をとこ)の子(こ)が挾(はさ)まつてゐたが、何(いづ)れも早世(さうせい)して仕舞(しま)つたので、兄弟(きやうだい)とは云(い)ひながら、年(とし)は十(とを)許(ばか)り違(ちが)つてゐる。其上(そのうへ)宗助(そうすけ)はある事情(じじやう)のために、一年(ねん)の時(とき)京都(きやうと)へ轉學(てんがく)したから、朝夕(てうせき)一所(いつしよ)に生活(せいくわつ)してゐたのは、小六(ころく)の十二三の時迄(ときまで)である。宗助(そうすけ)は剛情(がうじやう)な聽(き)かぬ氣(き)の腕白小僧(わんぱくこぞう)としての小六(ころく)を未(いま)だに記憶(きおく)してゐる。其(その)時分(じぶん)は父(ちゝ)も生(い)きてゐたし、家(うち)の都合(つがふ)も惡(わる)くはなかつたので、抱車夫(かゝへしやふ)を邸内(ていない)の長屋(ながや)に住(す)まはして、樂(らく)に暮(くら)してゐた。此(この)車夫(しやふ)に小六(ころく)よりは三(みつ)つ程(ほど)年下(としした)の子供(こども)があつて、始終(しじゆう)小六(ころく)の御相手(おあひて)をして遊(あそ)んでゐた。ある夏(なつ)の日盛(ひざか)りに、二人(ふたり)して、長(なが)い竿(さを)のさきへ菓子袋(くわしぶくろ)を括(くゝ)り付(つ)けて、大(おほ)きな柿(かき)の木(き)の下(した)で蝉(せみ)の捕(と)りくらをしてゐるのを、宗助(そうすけ)が見(み)て、兼坊(けんばう)そんなに頭(あたま)を日(ひ)に照(て)らし付(つ)けると霍亂(くわくらん)になるよ、さあ是(これ)を被(かぶ)れと云(い)つて、小六(ころく)の古(ふる)い夏帽(なつばう)を出(だ)してやつた。すると、小六(ころく)は自分(じぶん)の所有物(しよいうぶつ)を兄(あに)が無斷(むだん)で他(ひと)に呉(く)れてやつたのが、癪(しやく)に障(さは)つたので、突然(いきなり)兼坊(けんばう)の受取(うけと)つた帽子(ばうし)を引(ひ)つたくつて、それを地面(ぢめん)の上(うへ)へ抛(な)げつけるや否(いな)や、馳(か)け上(あ)がる樣(やう)に其上(そのうへ)へ乘(の)つて、くしやりと麥藁帽(むぎわらばう)を踏(ふ)み潰(つぶ)して仕舞(しま)つた。宗助(そうすけ)は縁(えん)から跣足(はだし)で飛(と)んで下(お)りて、小六(ころく)の頭(あたま)を擲(なぐ)り付(つ)けた。其時(そのとき)から、宗助(そうすけ)の眼(め)には、小六(ころく)が小惡(こにく)らしい小僧(こぞう)として映(うつ)つた。
 二年(ねん)の時(とき)宗助(そうすけ)は大學(だいがく)を去(さ)らなければならない事(こと)になつた。東京(とうきやう)の家(うち)へも歸(か)へれない事(こと)になつた。京都(きやうと)からすぐ廣島(ひろしま)へ行(い)つて、其所(そこ)に半年(はんとし)ばかり暮(く)らしてゐるうちに父(ちゝ)が死(し)んだ。母(はゝ)は父(ちゝ)よりも六年(ねん)程前(ほどまへ)に死(し)んでゐた。だから後(あと)には二十五六になる妾(めかけ)と、十六になる小六(ころく)が殘(のこ)つた丈(だけ)であつた。
 佐伯(さへき)から電報(でんぱう)を受(う)け取(と)つて、久(ひさ)し振(ぶ)りに出京(しゆつきやう)した宗助(そうすけ)は、葬式(さうしき)を濟(す)ました上(うへ)、家(うち)の始末(しまつ)をつけ樣(やう)と思(おも)つて段々(だん/\)調(しら)べて見(み)ると、有(あ)ると思(おも)つた財産(ざいさん)は案外(あんぐわい)に少(すく)なくつて、却(かへ)つて無(な)い積(つもり)の借金(しやくきん)が大分(だいぶ)あつたに驚(おど)ろかされた。叔父(をぢ)の佐伯(さへき)に相談(さうだん)すると、仕方(しかた)がないから邸(やしき)を賣(う)るが好(よ)からうと云(い)ふ話(はなし)であつた。妾(めかけ)は相當(さうたう)の金(かね)を遣(や)つてすぐ暇(ひま)を出(だ)す事(こと)に極(き)めた。小六(ころく)は當分(たうぶん)叔父(をぢ)の家(うち)に引(ひ)き取(と)つて世話(せわ)をして貰(もら)ふ事(こと)にした。然(しか)し肝心(かんじん)の家屋敷(いへやしき)はすぐ右(みぎ)から左(ひだり)へと賣(う)れる譯(わけ)には行(ゆ)かなかつた。仕方(しかた)がないから、叔父(をぢ)に一時(いちじ)の工面(くめん)を頼(たの)んで、當座(たうざ)の片(かた)を付(つ)けて貰(もら)つた。叔父(をぢ)は事業家(じげふか)で色々(いろ/\)な事(こと)に手(て)を出(だ)しては失敗(しつぱい)する、云(い)はゞ山氣(やまぎ)の多(おほ)い男(をとこ)であつた。宗助(そうすけ)が東京(とうきやう)にゐる時分(じぶん)も、よく宗助(そうすけ)の父(ちゝ)を説(と)き付(つ)けては、旨(うま)い事(こと)を云(い)つて金(かね)を引(ひ)き出(だ)したものである。宗助(そうすけ)の父(ちゝ)にも慾(よく)があつたかも知(し)れないが、此(この)傳(でん)で叔父(をぢ)の事業(じげふ)に注(つ)ぎ込(こ)んだ金高(かねだか)は決(けつ)して少(すく)ないものではなかつた。
 父(ちゝ)の亡(な)くなつた此際(このさい)にも、叔父(をぢ)の都合(つがふ)は元(もと)と餘(あま)り變(かは)つてゐない樣子(やうす)であつたが、生前(せいぜん)の義理(ぎり)もあるし、又(また)斯(か)う云(い)ふ男(をとこ)の常(つね)として、いざと云(い)ふ場合(ばあひ)には比較的(ひかくてき)融通(ゆうづう)の付(つ)くものと見(み)えて、叔父(をぢ)は快(こゝろ)よく整理(せいり)を引(ひ)き受(う)けて呉(く)れた。其(その)代(かは)り宗助(そうすけ)は自分(じぶん)の家屋敷(いへやしき)の賣却方(ばいきやくかた)に就(つい)て一切(いつさい)の事(こと)を叔父(をぢ)に一任(いちにん)して仕舞(しま)つた。早(はや)く云(い)ふと、急場(きふば)の金策(きんさく)に對(たい)する報酬(はうしう)として土地(とち)家屋(かをく)を提供(ていきよう)した樣(やう)なものである。叔父(をぢ)は、
「何(なに)しろ、斯(か)う云(い)ふものは買手(かひて)を見(み)て賣(う)らないと損(そん)だからね」と云(い)つた。
 道具類(だうぐるゐ)も積(せき)ばかり取(と)つて、金目(かねめ)にならないものは、悉(こと/″\)く賣(う)り拂(はら)つたが、五六幅(ぷく)の掛物(かけもの)と十二三點(てん)の骨董品丈(こつとうひんだけ)は、矢張(やは)り氣長(きなが)に欲(ほ)しがる人(ひと)を探(さが)さないと損(そん)だと云(い)ふ叔父(をぢ)の意見(いけん)に同意(どうい)して、叔父(をぢ)に保管(ほくわん)を頼(たの)む事(こと)にした。凡(すべ)てを差(さ)し引(ひ)いて手元(てもと)に殘(のこ)つた有金(ありがね)は、約(やく)二千圓(ゑん)程(ほど)のものであつたが、宗助(そうすけ)は其内(そのうち)の幾分(いくぶん)を、小六(ころく)の學資(がくし)として、使(つか)はなければならないと氣(き)が付(つ)いた。然(しか)し月々(つき/″\)自分(じぶん)の方(はう)から送(おく)るとすると、今日(こんにち)の位置(ゐち)が堅固(けんご)でない當時(たうじ)、甚(はなは)だ實行(じつかう)しにくい結果(けつくわ)に陷(おちい)りさうなので、苦(くる)しくはあつたが、思(おも)ひ切(き)つて、半分丈(はんぶんだけ)を叔父(をぢ)に渡(わた)して、何分(なにぶん)宜(よろ)しくと頼(たの)んだ。自分(じぶん)が中(なか)途(ちゆうと)で失敗(しくじ)つたから、責(せ)めて弟丈(おとうとだけ)は物(もの)にしてやりたい氣(き)もあるので、此(この)千圓(ゑん)が盡(つ)きたあとは、又(また)何(ど)うにか心配(しんぱい)も出來(でき)やうし又(また)して呉(く)れるだらう位(ぐらゐ)の不慥(ふたしか)な希望(きばう)を殘(のこ)して、又(また)廣島(ひろしま)へ歸(かへ)つて行(い)つた。
 それから半年(はんとし)ばかりして、叔父(をぢ)の自筆(じひつ)で、家(うち)はとう/\賣(う)れたから安心(あんしん)しろと云(い)ふ手紙(てがみ)が來(き)たが、幾何(いくら)に賣(う)れたとも何(なん)とも書(か)いてないので、折(を)り返(かへ)して聞(き)き合(あは)せると、二週間(しうかん)程(ほど)經(た)つての返事(へんじ)に、優(いう)に例(れい)の立替(たてかへ)を償(つぐな)ふに足(た)る金額(きんがく)だから心配(しんぱい)しなくても好(い)いとあつた。宗助(そうすけ)は此(この)返事(へんじ)に對(たい)して少(すく)なからず不滿(ふまん)を感(かん)じたには感(かん)じたが、同(おな)じ書信(しよしん)の中(なか)に、委細(ゐさい)は何(いづ)れ御面會(ごめんくわい)の節(せつ)云々(うん/\)とあつたので、すぐにも東京(とうきやう)へ行(ゆ)きたい樣(やう)な氣(き)がして、實(じつ)は斯(か)う/\だがと、相談(さうだん)半分(はんぶん)細君(さいくん)に話(はな)して見(み)ると、御米(およね)は氣(き)の毒(どく)さうな顏(かほ)をして、「でも、行(い)けないんだから、仕方(しかた)がないわね」と云(い)つて、例(れい)の如(ごと)く微笑(びせう)した。其時(そのとき)宗助(そうすけ)は始(はじ)めて細君(さいくん)から宣告(せんこく)を受(う)けた人(ひと)の樣(やう)に、しばらく腕組(うでぐみ)をして考(かんが)へたが、何(ど)う工夫(くふう)したつて、拔(ぬ)ける事(こと)の出來(でき)ない樣(やう)な位地(ゐち)と事情(じじやう)の下(もと)に束縛(そくばく)されてゐたので、つい夫成(それなり)になつて仕舞(しま)つた。
 仕方(しかた)がないから、猶(なほ)三四回(くわい)書面(しよめん)で徃復(わうふく)を重(かさ)ねて見(み)たが、結果(けつくわ)はいつも同(おな)じ事(こと)で、版行(はんかう)で押(お)した樣(やう)に何(いづ)れ御面會(ごめんくわい)の節(せつ)を繰(く)り返(かへ)して來(く)る丈(だけ)であつた。
「是(これ)ぢや仕樣(しやう)がないよ」と宗助(そうすけ)は腹(はら)が立(た)つた樣(やう)な顏(かほ)をして御米(およね)を見(み)た。三ヶ月(げつ)ばかりして、漸(やうや)く都合(つがふ)が付(つ)いたので、久(ひさ)し振(ぶ)りに御米(およね)を連(つ)れて、出京(しゆつきやう)しやうと思(おも)ふ矢先(やさき)に、つい風邪(かぜ)を引(ひ)いて寐(ね)たのが元(もと)で、腸窒扶斯(ちやうチフス)に變化(へんくわ)したため、六十日餘(ろくじふにちあま)りを床(とこ)の上(うへ)に暮(く)らした上(うへ)に、あとの三十日程(さんじふにちほど)は充分(じゆうぶん)仕事(しごと)も出來(でき)ない位(くらゐ)衰(おとろ)へて仕舞(しま)つた。
 病氣(びやうき)が本復(ほんぷく)してから間(ま)もなく、宗助(そうすけ)は又(また)廣島(ひろしま)を去(さ)つて福岡(ふくをか)の方(かた)へ移(うつ)らなければならない身(み)となつた。移(うつ)る前(まへ)に、好(い)い機會(きくわい)だから一寸(ちよつと)東京(とうきやう)迄(まで)出(で)たいものだと考(かんが)へてゐるうちに、今度(こんど)も色々(いろ/\)の事情(じじやう)に制(せい)せられて、つい夫(それ)も遂行(すゐかう)せずに、矢張(やは)り下(くだ)り列車(れつしや)の走(はし)る方(かた)に自己(じこ)の運命(うんめい)を托(たく)した。其頃(そのころ)は東京(とうきやう)の家(いへ)を疊(たゝ)むとき、懷(ふところ)にして出(で)た金(かね)は、殆(ほと)んど使(つか)ひ果(は)たしてゐた。彼(かれ)の福岡(ふくをか)生活(せいくわつ)は前後(ぜんご)二年(ねん)を通(つう)じて、中々(なか/\)の苦鬪(くとう)であつた。彼(かれ)は書生(しよせい)として京都(きやうと)にゐる時分(じぶん)、種々(しゆ/″\)の口實(こうじつ)の下(もと)に、父(ちゝ)から臨時(りんじ)隨意(ずゐい)に多額(たがく)の學資(がくし)を請求(せいきう)して、勝手(かつて)次第(しだい)に消費(せうひ)した昔(むかし)をよく思(おも)ひ出(だ)して、今(いま)の身分(みぶん)と比較(ひかく)しつゝ、頻(しき)りに因果(いんぐわ)の束縛(そくばく)を恐(おそ)れた。ある時(とき)はひそかに過(す)ぎた春(はる)を回顧(くわいこ)して、あれが己(おれ)の榮華(えいぐわ)の頂點(ちやうてん)だつたんだと、始(はじ)めて醒(さ)めた眼(め)に遠(とほ)い霞(かすみ)を眺(なが)める事(こと)もあつた。愈(いよ/\)苦(くる)しくなつた時(とき)、
「御米(およね)、久(ひさ)しく放(はふ)つて置(お)いたが、又(また)東京(とうきやう)へ掛合(かけあ)つて見樣(みやう)かな」と云(い)ひ出(だ)した。御米(およね)は無論(むろん)逆(さから)ひはしなかつた。たゞ下(した)を向(む)いて、
「駄目(だめ)よ。だつて、叔父(をぢ)さんに全(まつた)く信用(しんよう)がないんですもの」と心細(こゝろぼそ)さうに答(こた)へた。
「向(むか)ふぢや此方(こつち)に信用(しんよう)がないかも知(し)れないが、此方(こつち)ぢや又(また)向(むか)ふに信用(しんよう)がないんだ」と宗助(そうすけ)は威張(ゐば)つて云(い)ひ出(だ)したが、御米(およね)の俯目(ふしめ)になつてゐる樣子(やうす)を見(み)ると、急(きふ)に勇氣(ゆうき)が挫(くじ)ける風(ふう)に見(み)えた。こんな問答(もんだふ)を最初(さいしよ)は月(つき)に一二返(へん)位(ぐらゐ)繰(く)り返(かへ)してゐたが、後(のち)には二月(ふたつき)に一返(ぺん)になり、三月(みつき)に一返(ぺん)になり、とう/\、
「好(い)いや、小六(ころく)さへ何(ど)うかして呉(く)れゝば。あとの事(こと)は何(いづ)れ東京(とうきやう)へ出(で)たら、逢(あ)つた上(うへ)で話(はなし)を付(つ)けらあ。ねえ御米(およね)、左(さ)うすると、爲(し)やうぢやないか」と云(い)ひ出(だ)した。
「それで、好(よ)ござんすとも」と御米(およね)は答(こた)へた。
 宗助(そうすけ)は佐伯(さへき)の事(こと)をそれなり放(はふ)つて仕舞(しま)つた。單(たん)なる無心(むしん)は、自分(じぶん)の過去(くわこ)に對(たい)しても、叔父(をぢ)に向(むか)つて云(い)ひ出(だ)せるものでないと、宗助(そうすけ)は考(かんが)へてゐた。從(したが)つて其方(そのはう)の談判(だんぱん)は、始(はじ)めから未(いま)だ嘗(かつ)て筆(ふで)にした事(こと)がなかつた。小六(ころく)からは時々(とき/″\)手紙(てがみ)が來(き)たが、極(きは)めて短(みじ)かい形式的(けいしきてき)のものが多(おほ)かつた。宗助(そうすけ)は父(ちゝ)の死(し)んだ時(とき)、東京(とうきやう)で逢(あ)つた小六(ころく)を覺(おぼ)えてゐる丈(だけ)だから、いまだに小六(ころく)を他愛(たあい)ない小供(こども)位(ぐらゐ)に想像(さうざう)するので、自分(じぶん)の代理(だいり)に叔父(をぢ)と交渉(かうせふ)させ樣抔(やうなど)と云(い)ふ氣(き)は無論(むろん)起(おこ)らなかつた。
 夫婦(ふうふ)は世(よ)の中(なか)の日(ひ)の目(め)を見(み)ないものが、寒(さむ)さに堪(た)へかねて、抱(だ)き合(あ)つて暖(だん)を取(と)る樣(やう)な具合(ぐあひ)に、御互(おたがひ)同志(どうし)を頼(たよ)りとして暮(く)らしてゐた。苦(くる)しい時(とき)には、御米(およね)が何時(いつ)でも、宗助(そうすけ)に、
「でも仕方(しかた)がないわ」と云(い)つた。宗助(そうすけ)は御米(およね)に、
「まあ我慢(がまん)するさ」と云(い)つた。
 二人(ふたり)の間(あひだ)には諦(あきら)めとか、忍耐(にんたい)とか云(い)ふものが斷(た)えず動(うご)いてゐたが、未來(みらい)とか希望(きばう)と云(い)ふものゝ影(かげ)は殆(ほと)んど射(さ)さない樣(やう)に見(み)えた。彼等(かれら)は餘(あま)り多(おほ)く過去(くわこ)を語(かた)らなかつた。時(とき)としては申(まを)し合(あ)はせた樣(やう)に、それを回避(くわいひ)する風(ふう)さへあつた。御米(およね)が時(とき)として、
「其内(そのうち)には又(また)屹度(きつと)好(い)い事(こと)があつてよ。さう/\惡(わる)い事(こと)ばかり續(つゞ)くものぢやないから」と夫(をつと)を慰(なぐ)さめる樣(やう)に云(い)ふ事(こと)があつた。すると、宗助(そうすけ)にはそれが、眞心(まごゝろ)ある妻(さい)の口(くち)を藉(か)りて、自分(じぶん)を飜弄(ほんろう)する運命(うんめい)の毒舌(どくぜつ)の如(ごと)くに感(かん)ぜられた。宗助(そうすけ)はさう云(い)ふ場合(ばあひ)には何(なん)にも答(こた)へずにたゞ苦笑(くせう)する丈(だけ)であつた。御米(およね)が夫(それ)でも氣(き)が付(つ)かずに、なにか云(い)ひ續(つゞ)けると、
「我々(われ/\)は、そんな好(い)い事(こと)を豫期(よき)する權利(けんり)のない人間(にんげん)ぢやないか」と思(おも)ひ切(き)つて投(な)げ出(だ)して仕舞(しま)ふ。細君(さいくん)は漸(やうや)く氣(き)が付(つ)いて口(くち)を噤(つぐ)んで仕舞(しま)ふ。さうして二人(ふたり)が默(だま)つて向(む)き合(あ)つてゐると、何時(いつ)の間(ま)にか、自分達(じぶんたち)は自分達(じぶんたち)の拵(こしら)えた過去(くわこ)といふ暗(くら)い大(おほ)きな窖(あな)の中(なか)に落(お)ちてゐる。
 彼等(かれら)は自業自得(じごふじとく)で、彼等(かれら)の未來(みらい)を塗抹(とまつ)した。だから歩(ある)いてゐる先(さき)の方(はう)には、花(はな)やかな色彩(しきさい)を認(みと)める事(こと)が出來(でき)ないものと諦(あき)らめて、たゞ二人(ふたり)手(て)を携(たづさ)えて行(ゆ)く氣(き)になつた。叔父(をぢ)の賣(う)り拂(はら)つたと云(い)ふ地面(ぢめん)家作(かさく)に就(つ)いても、固(もと)より多(おほ)くの期待(きたい)は持(も)つてゐなかつた。時々(とき/″\)考(かんが)へ出(だ)した樣(やう)に、
「だつて、近頃(ちかごろ)の相場(さうば)なら、捨賣(すてうり)にしたつて、あの時(とき)叔父(をぢ)の拵(こし)らへて呉(く)れた金(かね)の倍(ばい)にはなるんだもの。あんまり馬鹿々々(ばか/\)しいからね」と宗助(そうすけ)が云(い)ひ出(だ)すと、御米(およね)は淋(さみ)しさうに笑(わら)つて、
「又(また)地面(ぢめん)? 何時迄(いつまで)もあの事(こと)ばかり考(かんが)へて入(い)らつしやるのね。だつて、貴方(あなた)が萬事(ばんじ)宜(よろ)しく願(ねが)ひますと、叔父(をぢ)さんに仰(おつ)しやつたんでせう」と云(い)ふ。
「そりや仕方(しかた)がないさ。あの場合(ばあひ)あゝでも爲(し)なければ方(はう)が付(つ)かないんだもの」と宗助(そうすけ)が云(い)ふ。
「だからさ。叔父(をぢ)さんの方(はう)では、御金(おかね)の代(かは)りに家(うち)と地面(ぢめん)を貰(もら)つた積(つもり)で入(い)らつしやるかも知(し)れなくつてよ」と御米(およね)が云(い)ふ。
 さう云(い)はれると、宗助(そうすけ)も叔父(をぢ)の處置(しよち)に一理(いちり)ある樣(やう)にも思(おも)はれて、口(くち)では、
「その積(つもり)が好(よ)くないぢやないか」と答辯(たふべん)する樣(やう)なものゝ、此(この)問題(もんだい)は其都度(そのつど)次第々々(しだい/\)に背景(はいけい)の奧(おく)に遠(とほ)ざかつて行(ゆ)くのであつた。
 夫婦(ふうふ)がこんな風(ふう)に淋(さみ)しく睦(むつ)まじく暮(く)らして來(き)た二年目(ねんめ)の末(すゑ)に、宗助(そうすけ)はもとの同級生(どうきふせい)で、學生時代(がくせいじだい)には大變(たいへん)懇意(こんい)であつた杉原(すぎはら)と云(い)ふ男(をとこ)に偶然(ぐうぜん)出逢(であ)つた。杉原(すぎはら)は卒業後(そつげふご)高等文官試驗(かうとうぶんくわんしけん)に合格(がふかく)して、其時(そのとき)既(すで)に或省(あるしやう)に奉職(ほうしよく)してゐたのだが、公務上(こうむじやう)福岡(ふくをか)と佐賀(さが)へ出張(しゆつちやう)することになつて、東京(とうきやう)からわざ/\遣(や)つて來(き)たのである。宗助(そうすけ)は所(ところ)の新聞(しんぶん)で、杉原(すぎはら)の何時(いつ)着(つ)いて、何處(どこ)に泊(とま)つてゐるかを能(よ)く知(し)つてはゐたが、失敗者(しつぱいしや)としての自分(じぶん)に顧(かへり)みて、成効者(せいかうしや)の前(まへ)に頭(あたま)を下(さ)げる對照(たいせう)を耻(は)づかしく思(おも)つた上(うへ)に、自分(じぶん)は在學(ざいがく)當時(たうじ)の舊友(きういう)に逢(あ)ふのを、特(とく)に避(さ)けたい理由(りいう)を持(も)つてゐたので、彼(かれ)の旅館(りよくわん)を訪(たづ)ねる氣(き)は毛頭(まうとう)なかつた。
 所(ところ)が杉原(すぎはら)の方(はう)では、妙(めう)な引掛(ひつかゝ)りから、宗助(そうすけ)の此所(こゝ)に燻(くす)ぶつてゐる事(こと)を聞(き)き出(だ)して、強(し)いて面會(めんくわい)を希望(きばう)するので、宗助(そうすけ)も已(やむ)を得(え)ず我(が)を折(を)つた。宗助(そうすけ)が福岡(ふくをか)から東京(とうきやう)へ移(うつ)れる樣(やう)になつたのは、全(まつた)く此(この)杉原(すぎはら)の御蔭(おかげ)である。杉原(すぎはら)から手紙(てがみ)が來(き)て、愈(いよ/\)事(こと)が極(きま)つたとき、宗助(そうすけ)は箸(はし)を置(お)いて、
「御米(およね)、とう/\東京(とうきやう)へ行(い)けるよ」と云(い)つた。
「まあ結構(けつこう)ね」と御米(およね)が夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)た。
 東京(とうきやう)に着(つ)いてから二三週間(しうかん)は、眼(め)の回(まは)る樣(やう)に日(ひ)が經(た)つた。新(あた)らしく世帶(しよたい)を有(も)つて、新(あた)らしい仕事(しごと)を始(はじ)める人(ひと)に、あり勝(が)ちな急忙(せは)しなさと、自分達(じぶんたち)を包(つゝ)む大都(たいと)の空氣(くうき)の、日夜(にちや)劇(はげ)しく震盪(しんたう)する刺戟(しげき)とに驅(か)られて、何事(なにごと)をも凝(じつ)と考(かんが)へる閑(ひま)もなく、又(また)落(お)ち付(つ)いて手(て)を下(くだ)す分別(ふんべつ)も出(で)なかつた。
 夜汽車(よぎしや)で新橋(しんばし)へ着(つ)いた時(とき)は、久(ひさ)し振(ぶ)りに叔父(をぢ)夫婦(ふうふ)の顏(かほ)を見(み)たが、夫婦(ふうふ)とも灯(ひ)の所爲(せゐ)か晴(は)れやかな色(いろ)には宗助(そうすけ)の眼(め)に映(うつ)らなかつた。途中(とちゆう)に事故(じこ)があつて、着(ちやく)の時間(じかん)が珍(めづ)らしく三十分程(ぷんほど)後(おく)れたのを、宗助(そうすけ)の過失(くわしつ)でゞもあるかの樣(やう)に、待草臥(まちくたび)れた氣色(けしき)であつた。
 宗助(そうすけ)が此時(このとき)叔母(をば)から聞(き)いた言葉(ことば)は、
「おや宗(そう)さん、少時(しばらく)御目(おめ)に掛(か)ゝらないうちに、大變(たいへん)御老(おふ)けなすつた事(こと)」といふ一句(いつく)であつた。御米(およね)は其折(そのをり)始(はじ)めて叔父(をぢ)夫婦(ふうふ)に紹介(せうかい)された。
「これが彼(あの)……」と叔母(をば)は逡巡(ためら)つて宗助(そうすけ)の方(はう)を見(み)た。御米(およね)は何(なん)と挨拶(あいさつ)のしやうもないので、無言(むごん)の儘(まゝ)唯(たゞ)頭(あたま)を下(さ)げた。
 小六(ころく)も無論(むろん)叔父(をぢ)夫婦(ふうふ)と共(とも)に二人(ふたり)を迎(むか)ひに來(き)てゐた。宗助(そうすけ)は一眼(ひとめ)其姿(そのすがた)を見(み)たとき、何時(いつ)の間(ま)にか自分(じぶん)を凌(しの)ぐ樣(やう)に大(おほ)きくなつた弟(おとうと)の發育(はついく)に驚(おど)ろかされた。小六(ころく)は其時(そのとき)中學(ちゆうがく)を出(で)て、是(これ)から高等學校(かうとうがくかう)へ這入(はい)らうといふ間際(まぎは)であつた。宗助(そうすけ)を見(み)て、「兄(にい)さん」とも「御歸(おかへ)りなさい」とも云(い)はないで、たゞ不器用(ぶきよう)に挨拶(あいさつ)をした。
 宗助(そうすけ)と御米(およね)は一週(しう)ばかり宿屋(やどや)住居(ずまひ)をして、夫(それ)から今(いま)の所(ところ)に引(ひ)き移(うつ)つた。其時(そのとき)は叔父(をぢ)夫婦(ふうふ)が色々(いろ/\)世話(せわ)を燒(や)いて呉(く)れた。細々(こま/″\)しい臺所(だいどころ)道具(だうぐ)の樣(やう)なものは買(か)ふ迄(まで)もあるまい、古(ふる)いので可(よ)ければと云(い)ふので、小人數(こにんず)に必要(ひつえう)な丈(だけ)一通(ひととほ)り取(と)り揃(そろ)えて送(おく)つて來(き)た。其上(そのうへ)、
「御前(おまへ)も新世帶(しんしよたい)だから、嘸(さぞ)物要(ものいり)が多(おほ)からう」と云(い)つて金(かね)を六十圓(ゑん)呉(く)れた。
 家(うち)を持(も)つて彼是(かれこれ)取(と)り紛(まぎ)れてゐるうちに、早(はや)半月(はんつき)餘(よ)も經(た)つたが、地方(ちはう)にゐる時分(じぶん)あんなに氣(き)にしてゐた家邸(いへやしき)の事(こと)は、ついまだ叔父(をぢ)に言(い)ひ出(だ)さずにゐた。ある時(とき)御米(およね)が、
「貴方(あなた)あの事(こと)を叔父(をぢ)さんに仰(おつし)やつて」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)はそれで急(きふ)に思(おも)ひ出(だ)した樣(やう)に、
「うん、未(ま)だ云(い)はないよ」と答(こた)へた。
「妙(めう)ね、あれ程(ほど)氣(き)にして入(い)らしつたのに」と御米(およね)がうす笑(わらひ)をした。
「だつて、落(お)ち付(つ)いて、そんな事(こと)を云(い)ひ出(だ)す暇(ひま)がないんだもの」と宗助(そうすけ)が辯解(べんかい)した。
 又(また)十日(とをか)程(ほど)經(た)つた。すると今度(こんだ)は宗助(そうすけ)の方(はう)から、
「御米(およね)、あの事(こと)は未(ま)だ云(い)はないよ。どうも云(い)ふのが面倒(めんだう)で厭(いや)になつた」と云(い)ひ出《》した。
「厭(いや)なのを無理(むり)に仰(おつし)やらなくつても可(い)いわ」と御米(およね)が答(こた)へた。
「好(い)いかい」と宗助(そうすけ)が聞(き)き返(かへ)した。
「好(い)いかいつて、もと/\貴方(あなた)の事(こと)ぢやなくつて。私(わたくし)は先(せん)から何(ど)うでも好(い)いんだわ」と御米(およね)が答(こた)へた。
 其時(そのとき)宗助(そうすけ)は、
「ぢや、鹿爪(しかつめ)らしく云(い)ひ出(だ)すのも何(なん)だか妙(めう)だから、其内(そのうち)機會(をり)があつたら、聞(き)くとしやう。なに其内(そのうち)聞(き)いて見(み)る機會(をり)が屹度(きつと)出(で)て來(く)るよ」と云(い)つて延(の)ばして仕舞(しま)つた。
 小六(ころく)は何不足(なにふそく)なく叔父(をぢ)の家(いへ)に寐起(ねおき)してゐた。試驗(しけん)を受(う)けて高等學校(かうとうがくかう)へ這入(はい)れゝば、寄宿(きしゆく)へ入舍(にふしや)しなければならないと云(い)ふので、其(その)相談(さうだん)迄(まで)既(すで)に叔父(をぢ)と打合(うちあは)せがしてある樣(やう)であつた。新(あた)らしく出京(しゆつきやう)した兄(あに)からは別段(べつだん)學資(がくし)の世話(せわ)を受(う)けない所爲(せゐ)か、自分(じぶん)の身(み)の上(うへ)に就(つ)いては叔父(をぢ)程(ほど)に親(した)しい相談(さうだん)も持(も)ち込(こ)んで來(こ)なかつた。從兄弟(いとこ)の安之助(やすのすけ)とは今迄(いままで)の關係上(くわんけいじやう)大變(たいへん)仲(なか)が好(よ)かつた。却(かへ)つて此方(このはう)が兄弟(きやうだい)らしかつた。
 宗助(そうすけ)は自然(しぜん)叔父(をぢ)の家(うち)に足(あし)が遠(とほ)くなる樣(やう)になつた。たまに行(い)つても、義理(ぎり)一遍(いつぺん)の訪問(はうもん)に終(をは)る事(こと)が多(おほ)いので、歸(かへ)り路(みち)には何時(いつ)も詰(つま)らない氣(き)がしてならなかつた。仕舞(しまひ)には時候(じこう)の挨拶(あいさつ)を濟(す)ますと、すぐ歸(かへ)りたくなる事(こと)もあつた。かう云(い)ふ時(とき)には三十分(ぷん)と坐(すわ)つて世間話(せけんばなし)に時間(じかん)を繋(つな)ぐのにさへ骨(ほね)が折(を)れた。向(むか)ふでも何(なん)だか氣(き)が置(お)けて窮屈(きゆうくつ)だと云(い)ふ風(ふう)が見(み)えた。
「まあ可(い)いぢやありませんか」と叔母(をば)が留(と)めてくれるのが例(れい)であるが、さうすると、猶更(なほさら)居(ゐ)にくい心持(こゝろもち)がした。それでも、たまには行(い)かないと、心(こゝろ)のうちで氣(き)が咎(とが)める樣(やう)な不安(ふあん)を感(かん)ずるので、又(また)行(ゆ)くやうになつた。折々(をり/\)は、
「何(ど)うも小六(ころく)が御厄介(ごやくかい)になりまして」と此方(こつち)から頭(あたま)を下(さ)げて禮(れい)を云(い)ふ事(こと)もあつた。けれども、それ以上(いじやう)は、弟(おとうと)の將來(しやうらい)の學資(がくし)に就(つい)ても、又(また)自分(じぶん)が叔父(をぢ)に頼(たの)んで、留守中(るすちゆう)に賣(う)り拂(はら)つて貰(もら)つた地所(ぢしよ)家作(かさく)に就(つ)いても、口(くち)を切(き)るのがつい面倒(めんだう)になつた。然(しか)し宗助(そうすけ)が興味(きようみ)を有(も)たない叔父(をぢ)の所(ところ)へ、不精無精(ふしやうぶしやう)にせよ、時(とき)たま出掛(でか)けて行(ゆ)くのは、單(たん)に叔父(をぢ)甥(をひ)の血屬(けつぞく)關係(くわんけい)を、世間並(せけんなみ)に持(も)ち堪(こた)へるための義務心(ぎむしん)からではなくつて、いつか機會(きくわい)があつたら、片(かた)を付(つ)けたい或物(あるもの)を胸(むね)の奧(おく)に控(ひか)へてゐた結果(けつくわ)に過(す)ぎないのは明(あきら)かであつた。
「宗(そう)さんは何(ど)うも悉皆(すつかり)變(かは)つちまいましたね」と叔母(をば)が叔父(をぢ)に話(はな)す事(こと)があつた。すると叔父(をぢ)は、
「左(さ)うよなあ。矢(や)つ張(ぱ)り、あゝ云(い)ふ事(こと)があると、永(なが)く迄(まで)後(あと)へ響(ひゞ)くものだからな」と答(こた)へて、因果(いんぐわ)は恐(おそ)ろしいと云(い)ふ風(ふう)をする。叔母(をば)は重(かさ)ねて、
「本當(ほんたう)に、怖(こは)いもんですね。元(もと)はあんな寐入(ねい)つた子(こ)ぢやなかつたが――どうも燥急(はしや)ぎ過(す)ぎる位(くらゐ)活溌(くわつぱつ)でしたからね。それが二三年(ねん)見(み)ないうちに、丸(まる)で別(べつ)の人(ひと)見(み)た樣(やう)に老(ふ)けちまつて。今(いま)ぢや貴方(あなた)より御爺(おぢい)さん/\してゐますよ」と云(い)ふ。
「眞逆(まさか)」と叔父(をぢ)が又(また)答(こた)へる。
「いえ、頭(あたま)や顏(かほ)は別(べつ)として、樣子(やうす)がさ」と叔母(をば)が又(また)辯解(べんかい)する。
 こんな會話(くわいわ)が老夫婦(らうふうふ)の間(あひだ)に取(と)り換(か)はされたのは、宗助(そうすけ)が出京(しゆつきやう)して以來(いらい)一度(ど)や二度(ど)ではなかつた。實際(じつさい)彼(かれ)は叔父(をぢ)の所(ところ)へ來(く)ると、老人(らうじん)の眼(め)に映(うつ)る通(とほ)りの人間(にんげん)に見(み)えた。
 御米(およね)は何(ど)う云(い)ふものか、新橋(しんばし)へ着(つ)いた時(とき)、老人(らうじん)夫婦(ふうふ)に紹介(せうかい)されたぎり、曾(か)つて叔父(をぢ)の家(うち)の敷居(しきゐ)を跨(また)いだ事(こと)がない。向(むかふ)から見(み)えれば叔父(をぢ)さん叔母(をば)さんと丁寧(ていねい)に接待(せつたい)するが、歸(かへ)りがけに、
「何(ど)うです、些(ち)と御出掛(おでか)けなすつちや」などゝ云(い)はれると、たゞ
「難有(ありがた)う」と頭(あたま)を下(さ)げる丈(だけ)で、遂(つひ)ぞ出掛(でか)けた試(ためし)はなかつた。流石(さすが)の宗助(そうすけ)さへ一度(ど)は、
「叔父(をぢ)さんの所(ところ)へ一度(ど)行(い)つて見(み)ちや、何(ど)うだい」と勸(すゝ)めた事(こと)があるが、
「でも」と變(へん)な顏(かほ)をするので、宗助(そうすけ)は夫限(それぎり)決(けつ)して其事(そのこと)を云(い)ひ出(だ)さなかつた。
 兩家族(りやうかぞく)はこの状態(じやうたい)で約(やく)一年(ねん)ばかりを送(おく)つた。すると宗助(そうすけ)よりも氣分(きぶん)は若(わか)いと許(ゆる)された叔父(をぢ)が突然(とつぜん)死(し)んだ。病症(びやうしやう)は脊髓腦膜炎(せきずゐなうまくえん)とかいふ劇症(げきしやう)で、二三日(にち)風邪(かぜ)の氣味(きみ)で寐(ね)てゐたが、便所(べんじよ)へ行(い)つた歸(かへ)りに、手(て)を洗(あら)はうとして、柄杓(ひしやく)を持(も)つた儘(まゝ)卒倒(そつたう)したなり、一日(いちんち)經(た)つか經(た)たないうちに冷(つめ)たくなつて仕舞(しま)つたのである。
「御米(およね)、叔父(をぢ)はとう/\話(はなし)をしずに死(し)んで仕舞(しま)つたよ」と宗助(そうすけ)が云(い)つた。
「貴方(あなた)まだ、あの事(こと)を聞(き)く積(つもい)だつたの、貴方(あなた)も隨分(ずゐぶん)執念深(しふねんぶか)いのね」と御米(およね)が云(い)つた。
 夫(それ)から又(また)一年(ねん)ばかり經(た)つたら、叔父(をぢ)の子(こ)の安之助(やすのすけ)が大學(だいがく)を卒業(そつげふ)して、小六(ころく)が高等學校(かうとうがくかう)の二年生(ねんせい)になつた。叔母(をば)は安之助(やすのすけ)と一所(いつしよ)に中(なか)六番町(なかろくばんちやう)に引(ひ)き移(うつ)つた。
 三年目(ねんめ)の夏休(なつやす)みに小六(ころく)は房州(ばうしう)の海水浴(かいすゐよく)へ行(い)つた。そこに一月餘(ひとつきあま)りも滯在(たいざい)してゐるうちに九月(ぐわつ)になり掛(か)けたので、保田(ほた)から向(むか)ふへ突切(つつき)つて、上總(かづさ)の海岸(かいがん)を九十九里(くじふくり)傳(づた)ひに、銚子(てうし)迄(まで)來(き)たが、そこから思(おも)ひ出(だ)した樣(やう)に東京(とうきやう)へ歸(かへ)つた。宗助(そうすけ)の所(ところ)へ見(み)えたのは、歸(かへ)つてから、まだ二三日(にち)しか立(た)たない、殘暑(ざんしよ)の強(つよ)い午後(ごご)である。眞黒(まつくろ)に焦(こ)げた顏(かほ)の中(なか)に、眼(め)だけ光(ひか)らして、見違(みちが)へる樣(やう)に蠻色(ばんしよく)を帶(お)びた彼(かれ)は、比較的(ひかくてき)日(ひ)の遠(とほ)い座敷(ざしき)へ這入(はい)つたなり横(よこ)になつて、兄(あに)の歸(かへ)りを待(ま)ち受(う)けてゐたが、宗助(そうすけ)の顏(かほ)を見(み)るや否(いな)や、むつくり起(お)き上(あ)がつて、
「兄(にい)さん、少(すこ)し御話(おはなし)があつて來(き)たんですが」と開(ひら)き直(なほ)られたので、宗助(そうすけ)は少(すこ)し驚(おど)ろいた氣味(きみ)で、暑苦(あつくる)しい洋服(やうふく)さへ脱(ぬ)ぎ更(か)へずに、小六(ころく)の話(はなし)を聞(き)いた。
 小六(ころく)の云(い)ふ所(ところ)によると、二三日前(にちまへ)彼(かれ)が上總(かづさ)から歸(かへ)つた晩(ばん)、彼(かれ)の學資(がくし)は此暮(このくれ)限(かぎ)り氣(き)の毒(どく)ながら出(だ)して遣(や)れないと叔母(をば)から申(まを)し渡(わた)されたのださうである。小六(ころく)は父(ちゝ)が死(し)んで、すぐと叔父(をぢ)に引(ひ)き取(と)られて以來(いらい)、學校(がくかう)へも行(ゆ)けるし、着物(きもの)も自然(ひとりで)に出來(でき)るし、小遣(こづかひ)も適宜(てきぎ)に貰(もら)へるので、父(ちゝ)の存生中(ぞんしやうちゆう)と同(おな)じ樣(やう)に、何不足(なにふそく)なく暮(く)らせて來(き)た惰性(だせい)から、其日(そのひ)其晩(そのばん)迄(まで)も、ついぞ學資(がくし)と云(い)ふ問題(もんだい)を頭(あたま)に思(おも)ひ浮(うか)べた事(こと)がなかつたため、叔母(をば)の宣告(せんこく)を受(う)けた時(とき)は、茫然(ぼんやり)して兎角(とかく)の挨拶(あいさつ)さへ出來(でき)なかつたのだと云(い)ふ。
 叔母(をば)は氣(き)の毒(どく)さうに、何故(なぜ)小六(ころく)の世話(せわ)が出來(でき)なくなつたかを、女丈(をんなだけ)に、一時間(じかん)も掛(か)かつて委(くは)しく説明(せつめい)して呉(く)れたさうである。それには叔父(をぢ)の亡(な)くなつた事(こと)やら、繼(つ)いで起(おこ)る經濟上(けいざいじやう)の變化(へんくわ)やら、又(また)安之助(やすのすけ)の卒業(そつげふ)やら、卒業後(そつげふご)に控(ひか)えてゐる結婚(けつこん)問題(もんだい)やらが這入(はい)つてゐたのだと云(い)ふ。
「出來(でき)るならば、責(せ)めて高等學校(かうとうがくかう)を卒業(そつげふ)する迄(まで)と思(おも)つて、今日(けふ)迄(まで)色々(いろ/\)骨(ほね)を折(を)つたんだけれども」
 叔母(をば)は斯(か)う云(い)つたと小六(ころく)は繰(く)り返(かへ)した。小六(ころく)は其時(そのとき)不圖(ふと)兄(あに)が先年(せんねん)父(ちゝ)の葬式(さうしき)の時(とき)に出京(しゆつきやう)して、萬事(ばんじ)を片付(かたづ)けた後(あと)、廣島(ひろしま)へ歸(かへ)るとき、小六(ころく)に、御前(おまへ)の學資(がくし)は叔父(をぢ)さんに預(あづ)けてあるからと云(い)つた事(こと)があるのを思(おも)ひ出(だ)して、叔母(をば)に始(はじ)めて聞(き)いて見(み)ると、叔母(をば)は案外(あんぐわい)な顏(かほ)をして、
「そりや、あの時(とき)、宗(そう)さんが若干(いくら)か置(お)いて行(い)きなすつた事(こと)は、行(い)きなすつたが、夫(それ)はもう有(あ)りやしないよ。叔父(をぢ)さんの未(ま)だ生(い)きて御出(おいで)の時分(じぶん)から、御前(おまへ)の學資(がくし)は融通(ゆうづう)して來(き)たんだから」と答(こた)へた。
 小六(ころく)は兄(あに)から自分(じぶん)の學資(がくし)が何(ど)れ程(ほど)あつて、何年分(なんねんぶん)の勘定(かんぢやう)で、叔父(をぢ)に預(あづ)けられたかを、聞(き)いて置(お)かなかつたから、叔母(をば)から斯(か)う云(い)はれて見(み)ると、一言(ひとこと)も返(かへ)し樣(やう)がなかつた。
「御前(おまへ)も一人(ひとり)ぢやなし、兄(にい)さんもある事(こと)だから能(よ)く相談(さうだん)をして見(み)たら好(い)いだらう。其代(そのかは)り私(わたし)も宗(そう)さんに逢(あ)つて、篤(とつ)くり譯(わけ)を話(はな)しませうから。どうも、宗(そう)さんも餘(あん)まり近頃(ちかごろ)は御出(おいで)でないし、私(わたし)も御無沙汰(ごぶさた)許(ばかり)してゐるのでね、つい御前(おまへ)の事(こと)は御話(おはなし)をする譯(わけ)にも行(い)かなかつたんだよ」と叔母(をば)は最後(さいご)に附(つ)け加(くは)へたさうである。
 小六(ころく)から一部始終(いちぶしじゆう)を聞(き)いた時(とき)、宗助(そうすけ)はたゞ弟(おとうと)の顏(かほ)を眺(なが)めて、一口(ひとくち)、
「困(こま)つたな」と云(い)つた。昔(むかし)の樣(やう)に赫(くわつ)と激(げき)して、すぐ叔母(をば)の所(ところ)へ談判(だんぱん)に押(お)し掛(か)ける氣色(けしき)もなければ、今迄(いままで)自分(じぶん)に對(たい)して、世話(せわ)にならないでも濟(す)む人(ひと)の樣(やう)に、餘所(よそ)々々(/\)しく仕向(しむ)けて來(き)た弟(おとうと)の態度(たいど)が急(きふ)に方向(はうかう)を轉(てん)じたのを、惡(にく)いと思(おも)ふ樣子(やうす)も見(み)えなかつた。
 自分(じぶん)の勝手(かつて)に作(つく)り上(あ)げた美(うつ)くしい未來(みらい)が、半分(はんぶん)壞(くづ)れかゝつたのを、さも傍(はた)の人(ひと)の所爲(せゐ)ででもあるかの如(ごと)く心(こゝろ)を亂(みだ)してゐる小六(ころく)の歸(かへ)る姿(すがた)を見送(みおく)つた宗助(そうすけ)は、暗(くら)い玄關(げんくわん)の敷居(しきゐ)の上(うへ)に立(た)つて、格子(かうし)の外(そと)に射(さ)す夕日(ゆふひ)をしばらく眺(なが)めてゐた。
 其晩(そのばん)宗助(そうすけ)は裏(うら)から大(おほ)きな芭蕉(ばせう)の葉(は)を二枚(まい)剪(き)つて來(き)て、それを座敷(ざしき)の縁(えん)に敷(し)いて、其上(そのうえ)に御米(およね)と並(なら)んで涼(すゞ)みながら、小六(ころく)の事(こと)を話(はな)した。
「叔母(をば)さんは、此方(こつち)で、小六(ころく)さんの世話(せわ)をしろつて云(い)ふ氣(き)なんぢやなくつて」と御米(およね)が聞(き)いた。
「まあ、逢(あ)つて聞(き)いて見(み)ないうちは、何(ど)う云(い)ふ料簡(れうけん)か分(わか)らないがね」と宗助(そうすけ)が云(い)ふと、御米(およね)は、
「屹度(きつと)左(さ)うよ」と答(こた)へながら、暗(くら)がりで團扇(うちは)をはた/\動(うご)かした。宗助(そうすけ)は何(なに)も云(い)はずに、頸(くび)を延(の)ばして、庇(ひさし)と崖(がけ)の間(あひだ)に細(ほそ)く映(うつ)る空(そら)の色(いろ)を眺(なが)めた。二人(ふたり)は其儘(そのまゝ)しばらく默(だま)つて居(ゐ)たが、良(やゝ)あつて、
「だつて夫(それ)ぢや無理(むり)ね」と御米(およね)が又(また)云(い)つた。
「人間(にんげん)一人(ひとり)大學(だいがく)を卒業(そつげふ)させるなんて、己(おれ)の手際(てぎは)ぢや到底(とても)駄目(だめ)だ」と宗助(そうすけ)は自分(じぶん)の能力丈(のうりよくだけ)を明(あき)らかにした。
 會話(くわいわ)はそこで別(べつ)の題目(だいもく)に移(うつ)つて、再(ふたゝ)び小六(ころく)の上(うへ)にも叔母(をば)の上(うへ)にも歸(かへ)つて來(こ)なかつた。それから二三日(にち)すると丁度(ちやうど)土曜(どえう)が來(き)たので、宗助(そうすけ)は役所(やくしよ)の歸(かへ)りに、番町(ばんちやう)の叔母(をば)の所(ところ)へ寄(よ)つて見(み)た。叔母(をば)は、
「おや/\、まあ御珍(おめづ)らしい事(こと)」と云(い)つて、何時(いつ)もよりは愛想(あいそ)よく宗助(そうすけ)を款待(もてな)して呉(く)れた。其時(そのとき)宗助(そうすけ)は厭(いや)なのを我慢(がまん)して、此(この)四五年來(ねんらい)溜(た)めて置(お)いた質問(しつもん)を始(はじ)めて叔母(をば)に掛(か)けた。叔母(をば)は固(もと)より出來(でき)る丈(だけ)は辯解(べんかい)しない譯(わけ)に行(ゆ)かなかつた。
 叔母(をば)の云(い)ふ所(ところ)によると、宗助(そうすけ)の邸宅(やしき)を賣拂(うりはら)つた時(とき)、叔父(をぢ)の手(て)に這入(はい)つた金(かね)は、慥(たしか)には覺(おぼ)えてゐないが、何(なん)でも、宗助(そうすけ)のために、急場(きふば)の間(ま)に合(あは)せた借財(しやくざい)を返(かへ)した上(うへ)、猶(なほ)四千五百圓(ゑん)とか四千三百圓(ゑん)とか餘(あま)つたさうである。所(ところ)が叔父(をぢ)の意見(いけん)によると、あの屋敷(やしき)は宗助(そうすけ)が自分(じぶん)に提供(ていきよう)して行(い)つたのだから、たとひ幾何(いくら)餘(あま)らうと、餘(あま)つた分(ぶん)は自分(じぶん)の所得(しよとく)と見傚(みな)して差支(さしつかへ)ない。然(しか)し宗助(そうすけ)の邸宅(やしき)を賣(う)つて儲(まう)けたと云(い)はれては心持(こゝろもち)が惡(わる)いから、是(これ)は小六(ころく)の名義(めいぎ)で保管(ほくわん)して置(お)いて、小六(ころく)の財産(ざいさん)にして遣(や)る。宗助(そうすけ)はあんな事(こと)をして廢嫡(はいちやく)に迄(まで)されかゝつた奴(やつ)だから、一文(もん)だつて取(と)る權利(けんり)はない。
「宗(そう)さん怒(おこ)つちや不可(いけ)ませんよ。たゞ叔父(をぢ)さんの云(い)つた通(とほ)りを話(はな)すんだから」と叔母(をば)が斷(ことわ)つた。宗助(そうすけ)は默(だま)つてあとを聞(き)いてゐた。
 小六(ころく)の名義(めいぎ)で保管(ほくわん)されべき財産(ざいさん)は、不幸(ふかう)にして、叔父(をぢ)の手腕(しゆわん)で、すぐ神田(かんだ)の賑(にぎ)やかな表通(おもてどほ)りの家屋(かをく)に變形(へんけい)した。さうして、まだ保險(ほけん)を付(つ)けないうちに、火事(くわじ)で燒(や)けて仕舞(しま)つた。小六(ころく)には始(はじ)めから話(はな)してない事(こと)だから、其儘(そのまゝ)にして、わざと知(し)らせずに置(お)いた。
「さう云(い)ふ譯(わけ)でね、まことに宗(そう)さんにも、御氣(おき)の毒(どく)だけれども、何(なに)しろ取(と)つて返(かへ)しの付(つ)かない事(こと)だから仕方(しかた)がない。運(うん)だと思(おも)つて諦(あき)らめて下(くだ)さい。尤(もつと)も叔父(をぢ)さんさへ生(い)きてゐれば、又(また)何(ど)うともなるんでせうさ。小六(ころく)一人(ひとり)位(ぐらゐ)そりや譯(わけ)はありますまいよ。よしんば、叔父(をぢ)さんが居(ゐ)なさらない、今(いま)にしたつて、此方(こつち)の都合(つがふ)さへ好(よ)ければ、燒(や)けた家(うち)と同(おな)じ丈(だけ)のものを、小六(ころく)に返(かへ)すか、それでなくつても、當人(たうにん)の卒業(そつげふ)する迄(まで)位(ぐらゐ)は、何(ど)うにかして世話(せわ)も出來(でき)るんですけれども」と云(い)つて叔母(をば)は又(また)外(ほか)の内幕話(うちまくばなし)をして聞(き)かせた。それは安之助(やすのすけ)の職業(しよくげふ)に就(つい)てゞあつた。
 安之助(やすのすけ)は叔父(をぢ)の一人息子(ひとりむすこ)で、此夏(このなつ)大學(だいがく)を出(で)た許(ばかり)の青年(せいねん)である。家庭(かてい)で暖(あたゝ)かに育(そだ)つた上(うへ)に、同級(どうきふ)の學生(がくせい)位(ぐらゐ)より外(ほか)に交際(かうさい)のない男(をとこ)だから、世(よ)の中(なか)の事(こと)には寧(むし)ろ迂濶(うくわつ)と云(い)つても可(い)いが、其(その)迂濶(うくわつ)な所(ところ)に何處(どこ)か鷹揚(おうやう)な趣(おもむき)を具(そな)へて實社會(じつしやくわい)へ顏(かほ)を出(だ)したのである。專門(せんもん)は工科(こうくわ)の器械學(きかいがく)だから、企業熱(きげふねつ)の下火(したび)になつた今日(こんにち)と雖(いへども)、日本中(にほんぢゆう)に澤山(たくさん)ある會社(くわいしや)に、相應(さうおう)の口(くち)の一(ひと)つや二(ふた)つあるのは、勿論(もちろん)であるが、親讓(おやゆづ)りの山氣(やまぎ)が何處(どこ)かに潛(ひそ)んでゐるものと見(み)えて、自分(じぶん)で自分(じぶん)の仕事(しごと)をして見(み)たくてならない矢先(やさき)へ、同(おな)じ科(くわ)の出身(しゆつしん)で、小規模(せうきぼ)ながら專有(せんいう)の工場(こうば)を月島邊(つきじまへん)に建(た)てゝ、獨立(どくりつ)の經營(けいえい)をやつてゐる先輩(せんぱい)に出逢(であ)つたのが縁(えん)となつて、其(その)先輩(せんぱい)と相談(さうだん)の上(うへ)、自分(じぶん)も幾分(いくぶん)かの資本(しほん)を注(つ)ぎ込(こ)んで、一所(いつしよ)に仕事(しごと)をして見樣(みやう)といふ考(かんがへ)になつた。叔母(をば)の内幕話(うちまくばなし)と云(い)つたのは其所(そこ)である。
「でね、少(すこ)し有(あ)つた株(かぶ)をみんな其方(そのはう)へ廻(まは)す事(こと)にしたもんだから、今(いま)ぢや本當(ほんたう)に一文(もん)なし同然(どうぜん)な仕儀(しぎ)でゐるんですよ。それは世間(せけん)から見(み)ると、人數(にんず)は少(すく)なし、家邸(いへやしき)は持(も)つてゐるし、樂(らく)に見(み)えるのも無理(むり)のない所(ところ)でせうさ。此間(このあひだ)も原(はら)の御母(おつか)さんが來(き)て、まあ貴方(あなた)程(ほど)氣樂(きらく)な方(かた)はない、何時(いつ)來(き)て見(み)ても萬年青(おもと)の葉(は)ばかり丹念(たんねん)に洗(あら)つてゐるつてね。眞逆(まさか)左(さ)うでも無(な)いんですけれども」と叔母(をば)が云(い)つた。
 宗助(そうすけ)が叔母(をば)の説明(せつめい)を聞(き)いた時(とき)は、ぼんやりして兎角(とかく)の返事(へんじ)が容易(ようい)に出(で)なかつた。心(こゝろ)のなかで、是(これ)は神經衰弱(しんけいすゐじやく)の結果(けつくわ)、昔(むかし)の樣(やう)に機敏(きびん)で明快(めいくわい)な判斷(はんだん)を、すぐ作(つく)り上(あ)げる頭(あたま)が失(な)くなつた證據(しようこ)だらうと自覺(じかく)した。叔母(をば)は自分(じぶん)の云(い)ふ通(とほ)りが、宗助(そうすけ)に本當(ほんたう)と受(う)けられないのを氣(き)にする樣(やう)に、安之助(やすのすけ)から持(も)ち出(だ)した資本(しほん)の高(たか)迄(まで)話(はな)した。それは五千圓(ゑん)程(ほど)であつた。安之助(やすのすけ)は當分(たうぶん)の間(あひだ)、僅(わづ)かな月給(げつきふ)と、此(この)五千圓(ゑん)に對(たい)する利益(りえき)配當(はいたう)とで暮(く)らさなければならないのださうである。
「其(その)配當(はいたう)だつて、まだ何(ど)うなるか分(わか)りやしないんでさあね。旨(うま)く行(い)つた所(ところ)で、一割(わり)か一割(わり)五分(ぶ)位(ぐらゐ)なものでせうし、又(また)一(ひと)つ間違(まちが)へば丸(まる)で烟(けむ)にならないとも限(かぎ)らないんですから」と叔母(をば)が付(つ)け加(くは)へた。
 宗助(そうすけ)は叔母(をば)の仕打(しうち)に、是(これ)と云(い)ふ目立(めだ)つた阿漕(あこぎ)な所(ところ)も見(み)えないので、心(こゝろ)の中(うち)では少(すく)なからず困(こま)つたが、小六(ころく)の將來(しやうらい)に就(つ)いて一口(ひとくち)の掛合(かけあひ)もせずに歸(かへ)るのは如何(いか)にも馬鹿々々(ばか/\)しい氣(き)がした。そこで今迄(いままで)の問題(もんだい)は其所(そこ)に据(す)ゑつきりにして置(お)いて、自分(じぶん)が當時(たうじ)小六(ころく)の學資(がくし)として叔父(をぢ)に預(あづ)けて行(い)つた千圓(ゑん)の所置(しよち)を聞(き)き糺(たゞ)して見(み)ると、叔母(をば)は、
「宗(そう)さん、あれこそ本當(ほんたう)に小六(ころく)が使(つか)つちまつたんですよ。小六(ころく)が高等學校(かうとうがくかう)へ這入(はい)つてからでも、もう彼是(かれこれ)七百圓(ゑん)は掛(か)かつてゐるんですもの」と答(こた)へた。
 宗助(そうすけ)は序(ついで)だから、それと同時(どうじ)に、叔父(をぢ)に保管(ほくわん)を頼(たの)んだ書畫(しよぐわ)や骨董品(こつとうひん)の成行(なりゆき)を確(たし)かめて見(み)た。すると、叔母(をば)は、
「ありあ飛(と)んだ馬鹿(ばか)な目(め)に逢(あ)つて」と云(い)ひかけたが、宗助(そうすけ)の樣子(やうす)を見(み)て、
「宗(そう)さん、何(なん)ですか、彼事(あのこと)はまだ御話(おはなし)をしなかつたんでしたかね」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)がいゝえと答(こた)へると、
「おや/\、夫(それ)ぢや叔父(をぢ)さんが忘(わす)れちまつたんですよ」と云(い)ひながら、其(その)顛末(てんまつ)を語(かた)つて聞(き)かした。
 宗助(そうすけ)が廣島(ひろしま)へ歸(かへ)ると間(ま)もなく、叔父(をぢ)は其(その)賣捌方(うりさばきかた)を眞田(さなだ)とかいふ懇意(こんい)の男(をとこ)に依頼(いらい)した。此(この)男(をとこ)は書畫(しよぐわ)骨董(こつとう)の道(みち)に明(あか)るいとかいふので、平生(へいぜい)そんなものの賣買(ばいばい)の周旋(しうせん)をして諸方(しよはう)へ出入(でいり)するさうであつたが、すぐさま叔父(をぢ)の依頼(いらい)を引(ひ)き受(う)けて、誰(だれ)某(それがし)が何(なに)を欲(ほ)しいと云(い)ふから、一寸(ちよつと)拜見(はいけん)とか、何々(なに/\)氏(し)が斯(か)う云(い)ふ物(もの)を希望(きばう)だから、見(み)せませうとか號(がう)して、品物(しなもの)を持(も)つて行(い)つたぎり、返(かへ)して來(こ)ない。催促(さいそく)すると、まだ先方(せんぱう)から戻(もど)つて參(まゐ)りませんからとか何(なん)とか言譯(いひわけ)をする丈(だけ)で甞(かつ)て埒(らち)の明(あ)いた試(ためし)がなかつたが、とう/\持(も)ち切(き)れなくなつたと見(み)えて、何處(どこ)かへ姿(すがた)を隱(かく)して仕舞(しま)つた。
「でもね、未(ま)だ屏風(びやうぶ)が一(ひと)つ殘(のこ)つてゐますよ。此間(このあひだ)引越(ひつこし)の時(とき)に、氣(き)が付(つ)いて、こりや宗(そう)さんのだから、今度(こんだ)序(ついで)があつたら屆(とゞ)けて上(あ)げたら可(い)いだらうつて、安(やす)がさう云(い)つてゐましたつけ」
 叔母(をば)は宗助(そうすけ)の預(あづ)けて行(い)つた品物(しなもの)には丸(まる)で重(おも)きを置(お)いてゐない樣(やう)な、ものゝ云(い)ひ方(かた)をした。宗助(そうすけ)も今日(けふ)迄(まで)放(はふ)つて置(お)く位(くらゐ)だから、あまり其(その)方面(はうめん)には興味(きようみ)を有(も)ち得(え)なかつたので、少(すこ)しも良心(りやうしん)に惱(なや)まされてゐる氣色(けしき)のない叔母(をば)の樣子(やうす)を見(み)ても、別(べつ)に腹(はら)は立(た)たなかつた。それでも、叔母(をば)が、
「宗(そう)さん、何(ど)うせ家(うち)ぢや使(つか)つてゐないんだから、なんなら持(も)つて御出(おいで)なすつちや何(ど)うです。此頃(このごろ)は彼(あゝ)いふものが、大變(たいへん)價(ね)が出(で)たと云(い)ふ話(はなし)ぢやありませんか」と云(い)つたときは、實際(じつさい)それを持(も)つて歸(かへ)る氣(き)になつた。
 納戸(なんど)から取(と)り出(だ)して貰(もら)つて、明(あか)るい所(ところ)で眺(なが)めると、慥(たし)かに見覺(みおぼえ)のある二枚折(まいをり)であつた。下(した)に萩(はぎ)、桔梗(ききやう)、芒(すゝき)、葛(くず)、女郎花(をみなへし)を隙間(すきま)なく描(か)いた上(うへ)に、眞丸(まんまる)な月(つき)を銀(ぎん)で出(だ)して、其横(そのよこ)の空(あ)いた所(ところ)へ、野路(のぢ)や空月(そらつき)の中(なか)なる女郎花(をみなへし)、其一(きいち)と題(だい)してある。宗助(そうすけ)は膝(ひざ)を突(つ)いて銀(ぎん)の色(いろ)の黒(くろ)く焦(こ)げた邊(あたり)から、葛(くず)の葉(は)の風(かぜ)に裏(うら)を返(かへ)してゐる色(いろ)の乾(かわ)いた樣(さま)から、大福(だいふく)程(ほど)な大(おほ)きな丸(まる)い朱(しゆ)の輪廓(りんくわく)の中(なか)に、抱一(はういつ)と行書(ぎやうしよ)で書(か)いた落款(らつくわん)をつく/″\と見(み)て、父(ちゝ)の生(い)きてゐる當時(たうじ)を憶(おも)ひ起(おこ)さずにはゐられなかつた。
 父(ちゝ)は正月(しやうぐわつ)になると、屹度(きつと)此(この)屏風(びやうぶ)を薄暗(うすぐら)い藏(くら)の中(なか)から出(だ)して、玄關(げんくわん)の仕切(しき)りに立(た)てて、其前(そのまへ)へ紫檀(したん)の角(かく)な名刺入(めいしいれ)を置(お)いて、年賀(ねんが)を受(う)けたものである。其時(そのとき)は目出度(めでたい)からと云(い)ふので、客間(きやくま)の床(とこ)には必(かなら)ず虎(とら)の双幅(さうふく)を懸(か)けた。是(これ)は岸駒(がんく)ぢやない岸岱(がんたい)だと父(ちゝ)が宗助(そうすけ)に云(い)つて聞(き)かせた事(こと)があるのを、宗助(そうすけ)はいまだに記憶(きおく)してゐた。此(この)虎(とら)の畫(ゑ)には墨(すみ)が着(つ)いてゐた。虎(とら)が舌(した)を出(だ)して谷(たに)の水(みづ)を呑(の)んでゐる鼻柱(はなばしら)が少(すこ)し汚(けが)されたのを、父(ちゝ)は苛(ひど)く氣(き)にして、宗助(そうすけ)を見(み)る度(たび)に、御前(おまへ)此所(こゝ)へ墨(すみ)を塗(ぬ)つた事(こと)を覺(おぼ)えてゐるか、是(これ)は御前(おまへ)の小(ちひ)さい時分(じぶん)の惡戲(いたづら)だぞと云(い)つて、可笑(をか)しい樣(やう)な恨(うら)めしい樣(やう)な一種(いつしゆ)の表情(へうじやう)をした。
 宗助(そうすけ)は屏風(びやうぶ)の前(まへ)に畏(かしこ)まつて、自分(じぶん)が東京(とうきやう)にゐた昔(むかし)の事(こと)を考(かんが)へながら、
「叔母(をば)さん、ぢや此(この)屏風(びやうぶ)は頂戴(ちようだい)して行(ゆ)きませう」と云(い)つた。
「あゝ/\、御持(おも)ちなさいとも。何(なん)なら使(つかひ)に持(も)たせて上(あ)げませう」と叔母(をば)は好意(かうい)から申(まを)し添(そ)えた。
 宗助(そうすけ)は然(しか)るべく叔母(をば)に頼(たの)んで、其日(そのひ)は夫(それ)で切(き)り上(あ)げて歸(かへ)つた。晩食(ばんめし)の後(のち)御米(およね)と一所(いつしよ)に又(また)縁側(えんがは)へ出(で)て、暗(くら)い所(ところ)で白地(しろぢ)の浴衣(ゆかた)を並(なら)べて、涼(すゞ)みながら、畫(ひる)の話(はなし)をした。
「安(やす)さんには、御逢(おあ)ひなさらなかつたの」と御米(およね)が聞(き)いた。
「あゝ、安(やす)さんは土曜(どえう)でも何(なん)でも夕方(ゆふがた)迄(まで)、工場(こうば)にゐるんださうだ」
「隨分(ずゐぶん)骨(ほね)が折(を)れるでせうね」
 御米(およね)は左(さ)う云(い)つたなり、叔父(をぢ)や叔母(をば)の處置(しよち)に就(つ)いては、一言(ひとこと)の批評(ひひやう)も加(くは)へなかつた。
「小六(ころく)の事(こと)は何(ど)うしたものだらう」と宗助(そうすけ)が聞(き)くと、
「さうね」と云(い)ふ丈(だけ)であつた。
「理窟(りくつ)を云(い)へば、此方(こつち)にも云(い)ひ分(ぶん)はあるが、云(い)ひ出(だ)せば、とゞの詰(つま)りは裁判沙汰(さいばんざた)になる許(ばか)りだから、證據(しようこ)も何(なに)もなければ勝(か)てる譯(わけ)のものぢやなし」と宗助(そうすけ)が極端(きよくたん)を豫想(よさう)すると、
「裁判(さいばん)なんかに勝(か)たなくたつても可(い)いわ」と御米(およね)がすぐ云(い)つたので、宗助(そうすけ)は苦笑(くせう)して已(や)めた。
「つまりは己(おれ)があの時(とき)東京(とうきやう)へ出(で)られなかつたからの事(こと)さ」
「さうして東京(とうきやう)へ出(で)られた時(とき)は、もうそんな事(こと)は何(ど)うでも可(よ)かつたんですもの」
 夫婦(ふうふ)はこんな話(はなし)をしながら、又(また)細(ほそ)い空(そら)を庇(ひさし)の下(した)から覗(のぞ)いて見(み)て、明日(あした)の天氣(てんき)を語(かた)り合(あ)つて蚊帳(かや)に這入(はい)つた。
 次(つぎ)の日曜(にちえう)に宗助(そうすけ)は小六(ころく)を呼(よ)んで、叔母(をば)の云(い)つた通(とほ)りを殘(のこ)らず話(はな)して聞(き)かせて、
「叔母(をば)さんが御前(おまへ)に詳(くは)しい説明(せつめい)をしなかつたのは、短兵急(たんぺいきふ)な御前(おまへ)の性質(せいしつ)を知(し)つてる所爲(せゐ)か、夫(それ)ともまだ小供(こども)だと思(おも)つてわざと略(りやく)して仕舞(しま)つたのか、其所(そこ)は己(おれ)にも分(わか)らないが、何(なに)しろ事實(じじつ)は今(いま)云(い)つた通(とほ)りなんだよ」と教(をし)えた。
 小六(ころく)には如何(いか)に詳(くは)しい説明(せつめい)も腹(はら)の足(た)しにはならなかつた。たゞ、
「左(さ)うですか」と云(い)つて六(む)づかしい不滿(ふまん)な顏(かほ)をして宗助(そうすけ)を見(み)た。
「仕方(しかた)がないよ。叔母(をば)さんだつて、安(やす)さんだつて、さう惡(わる)い料簡(れうけん)はないんだから」
「そりや、分(わか)つてゐます」と弟(おとうと)は峻(けは)しい物(もの)の云(い)ひ方(かた)をした。
「ぢや己(おれ)が惡(わる)いつて云(い)ふんだらう。己(おれ)は無論(むろん)惡(わる)いよ。昔(むかし)から今日(こんにち)迄(まで)惡(わる)い所(ところ)だらけな男(をとこ)だもの」
 宗助(そうすけ)は横(よこ)になつて烟草(たばこ)を吹(ふ)かしながら、是(これ)より以上(いじやう)は何(なん)とも語(かた)らなかつた。小六(ころく)も默(だま)つて、座敷(ざしき)の隅(すみ)に立(た)てゝあつた二枚折(まいをり)の抱一(はういつ)の屏風(びやうぶ)を眺(なが)めてゐた。
「御前(おまへ)あの屏風(びやうぶ)を覺(おぼ)えてゐるかい」とやがて兄(あに)が聞(き)いた。
「えゝ」と小六(ころく)が答(こた)へた。
「一昨日(をとゝひ)佐伯(さへき)から屆(とゞ)けて呉(く)れた。御父(おとう)さんの持(も)つてたもので、おれの手(て)に殘(のこ)つたのは、今(いま)ぢや是(これ)だけだ。是(これ)が御前(おまへ)の學資(がくし)になるなら、今(いま)すぐにでも遣(や)るが、剥(は)げた屏風(びやうぶ)一枚(まい)で大學(だいがく)を卒業(そつげふ)する譯(わけ)にも行(ゆ)かずな」と宗助(そうすけ)が云(い)つた。さうして苦笑(くせう)しながら、
「此(この)暑(あつ)いのに、斯(こ)んなものを立(た)てゝ置(お)くのは、氣狂(きちがひ)じみてゐるが、入(い)れて置(お)く所(ところ)がないから、仕方(しかた)がない」と云(い)ふ述懷(じゆつくわい)をした。
 小六(ころく)は此(この)氣樂(きらく)な樣(やう)な、愚圖(ぐづ)の樣(やう)な、自分(じぶん)とは餘(あま)りに懸(か)け隔(へだ)つてゐる兄(あに)を、何時(いつ)も物足(ものた)りなくは思(おも)ふものゝ、いざといふ場合(ばあひ)に、決(けつ)して喧嘩(けんくわ)はし得(え)なかつた。此時(このとき)も急(きふ)に癇癪(かんしやく)の角(つの)を折(を)られた氣味(きみ)で、
「屏風(びやうぶ)は何(ど)うでも好(い)いが、是(これ)から先(さき)僕(ぼく)はどうしたもんでせう」と聞(き)き出(だ)した。
「夫(それ)は問題(もんだい)だ。何(なに)しろ此年(ことし)一杯(いつぱい)に極(き)まれば好(い)い事(こと)だから、まあよく考(かんが)へるさ。おれも考(かんが)へて置(お)かう」と宗助(そうすけ)が云(い)つた。
 弟(おとうと)は彼(かれ)の性質(せいしつ)として、そんな中(ちゆう)ぶらりんの姿(すがた)は嫌(きらひ)である、學校(がくかう)へ出(で)ても落付(おちつ)いて稽古(けいこ)も出來(でき)ず、下調(したしらべ)も手(て)に付(つ)かない樣(やう)な境遇(きやうぐう)は、到底(たうてい)自分(じぶん)には堪(た)へられないと云(い)ふ訴(うつたへ)を切(せつ)に遣(や)り出(だ)したが、宗助(そうすけ)の態度(たいど)は依然(いぜん)として變(かは)らなかつた。小六(ころく)があまり癇(かん)の高(たか)い不平(ふへい)を並(なら)べると、
「其(その)位(くらゐ)な事(こと)で夫程(それほど)不平(ふへい)が並(なら)べられゝば、何處(どこ)へ行(い)つたつて大丈夫(だいぢやうぶ)だ。學校(がくかう)を已(や)めたつて、一向(いつかう)差支(さしつかへ)ない。御前(おまへ)の方(はう)が己(おれ)より餘(よ)つ程(ぽど)えらいよ」と兄(あに)が云(い)つたので、話(はなし)は夫(それ)限(ぎり)頓挫(とんざ)して、小六(ころく)はとう/\本郷(ほんがう)へ歸(かへ)つて行(い)つた。
 宗助(そうすけ)はそれから湯(ゆ)を浴(あ)びて、晩食(ばんめし)を濟(す)まして、夜(よる)は近所(きんじよ)の縁日(えんにち)へ御米(およね)と一所(いつしよ)に出掛(でか)けた。さうして手頃(てごろ)な花物(はなもの)を二鉢(ふたはち)買(か)つて、夫婦(ふうふ)して一(ひと)つ宛(づゝ)持(も)つて歸(かへ)つて來(き)た。夜露(よつゆ)に中(あ)てた方(はう)が可(よ)からうと云(い)ふので、崖下(がけした)の雨戸(あまど)を明(あ)けて、庭先(にわさき)にそれを二(ふた)つ並(なら)べて置(お)いた。
 蚊帳(かや)の中(なか)へ這入(はい)つた時(とき)、御米(およね)は、
「小六(ころく)さんの事(こと)は何(ど)うなつて」と夫(をつと)に聞(き)くと、
「未(ま)だ何(ど)うもならないさ」と宗助(そうすけ)は答(こた)へたが、十分(ぷん)許(ばかり)の後(のち)夫婦(ふうふ)ともすや/\寐入(ねい)つた。
 翌日(よくじつ)眼(め)が覺(さ)めて役所(やくしよ)の生活(せいくわつ)が始(はじ)まると、宗助(そうすけ)はもう小六(ころく)の事(こと)を考(かんが)へる暇(ひま)を有(も)たなかつた。家(うち)へ歸(かへ)つて、のつそりしてゐる時(とき)ですら、此(この)問題(もんだい)を確的(はつきり)眼(め)の前(まへ)に描(ゑが)いて明(あき)らかにそれを眺(なが)める事(こと)を憚(はゞ)かつた。髮(かみ)の毛(け)の中(なか)に包(つゝ)んである彼(かれ)の腦(なう)は、其(その)煩(わづら)はしさに堪(た)えなかつた。昔(むかし)は數學(すうがく)が好(すき)で、隨分(ずゐぶん)込(こ)み入(い)つた幾何(きか)の問題(もんだい)を、頭(あたま)の中(なか)で明暸(めいれう)な圖(づ)にして見(み)る丈(だけ)の根氣(こんき)があつた事(こと)を憶(おも)ひ出(だ)すと、時日(じじつ)の割(わり)には非常(ひじやう)に烈(はげ)しく來(き)た此(この)變化(へんくわ)が自分(じぶん)にも恐(おそ)ろしく映(うつ)つた。
 それでも日(ひ)に一度(いちど)位(ぐらゐ)は小六(ころく)の姿(すがた)がぼんやり頭(あたま)の奧(おく)に浮(う)いて來(く)る事(こと)があつて、その時丈(ときだけ)は、彼奴(あいつ)の將來(しやうらい)も何(なん)とか考(かんが)へて置(お)かなくつちやならないと云(い)ふ氣(き)も起(おこ)つた。然(しか)しすぐあとから、まあ急(いそ)ぐにも及(およ)ぶまい位(ぐらゐ)に、自分(じぶん)と打(う)ち消(け)して仕舞(しま)ふのが常(つね)であつた。さうして、胸(むね)の筋(きん)が一本(いつぽん)鉤(かぎ)に引(ひ)つ掛(かゝ)つた樣(やう)な心(こゝろ)を抱(いだ)いて、日(ひ)を暮(く)らしてゐた。
 其(その)内(うち)九月(ぐわつ)も末(すゑ)になつて、毎晩(まいばん)天(あま)の河(がは)が濃(こ)く見(み)へるある宵(よひ)の事(こと)、空(そら)から降(ふ)つた樣(やう)に安之助(やすのすけ)が遣(や)つて來(き)た。宗助(そうすけ)にも御米(およね)にも思(おも)ひ掛(が)けない程(ほど)稀(たま)な客(きやく)なので、二人(ふたり)とも何(なに)か用(よう)があつての訪問(はうもん)だらうと推(すゐ)したが、果(はた)して小六(ころく)に關(くわん)する件(けん)であつた。
 此(この)間(あひだ)月島(つきじま)の工場(こうば)へひよつくり小六(ころく)が遣(や)つて來(き)て云(い)ふには、自分(じぶん)の學資(がくし)に就(つい)ての詳(くは)しい話(はなし)は兄(あに)から聞(き)いたが、自分(じぶん)も今迄(いままで)學問(がくもん)を遣(や)つて來(き)て、とう/\大學(だいがく)へ這入(はい)れず仕舞(じまひ)になるのは如何(いか)にも殘念(ざんねん)だから、借金(しやくきん)でも何(なん)でもして、行(ゆ)ける所(ところ)迄(まで)行(ゆ)きたいが、何(なに)か好(い)い工夫(くふう)はあるまいかと相談(さうだん)を掛(か)けるので、安之助(やすのすけ)はよく宗(そう)さんにも話(はな)して見(み)やうと答(こた)へると、小六(ころく)は忽(たちま)ちそれを遮(さへ)ぎつて、兄(あに)は到底(たうてい)相談(さうだん)になつて呉(く)れる人(ひと)ぢやない、自分(じぶん)が大學(だいがく)を卒業(そつげふ)しないから、他(ひと)も中途(ちゆうと)で已(や)めるのは當然(たうぜん)だ位(ぐらゐ)に考(かんが)へてゐる。元來(ぐわんらい)今度(こんど)の事(こと)も元(もと)を糺(たゞ)せば兄(あに)が責任者(せきにんしや)であるのに、あの通(とほ)り一向(いつかう)平氣(へいき)なもので、他(ひと)が何(なに)を云(い)つても取(と)り合(あ)つて呉(く)れない。だから、たゞ頼(たよ)りにするのは君丈(きみだけ)だ。叔母(をば)さんに正式(せいしき)に斷(こと)わられながら、又(また)君(きみ)に依頼(いらい)するのは可笑(をか)しい樣(やう)だが、君(きみ)の方(はう)が叔母(をば)さんより話(はなし)が分(わか)るだらうと思(おも)つて來(き)たと云(い)つて、中々(なか/\)動(うご)きさうもなかつたさうである。
 安之助(やすのすけ)は、そんな事(こと)はない、宗(そう)さんも君(きみ)の事(こと)では大分(だいぶ)心配(しんぱい)して、近(ちか)い中(うち)又(また)家(うち)へ相談(さうだん)に來(く)る筈(はず)になつてゐるんだからと慰(なぐさ)めて、小六(ころく)を歸(かへ)したんだと云(い)ふ。歸(かへ)るときに、小六(ころく)は袂(たもと)から半紙(はんし)を何枚(なんまい)も出(だ)して、缺席屆(けつせきとゞげ)が入用(にふよう)だから是(これ)に判(はん)を押(お)して呉(く)れと請求(せいきう)して、僕(ぼく)は退學(たいがく)か在學(ざいがく)か片(かた)が付(つ)く迄(まで)は勉強(べんきやう)が出來(でき)ないから、毎日(まいにち)學校(がくかう)へ出(で)る必要(ひつえう)はないんだと云(い)つたさうである。
 安之助(やすのすけ)は忙(いそ)がしいとかで、一時間(じかん)足(た)らず話(はな)して歸(かへ)つて行(い)つたが、小六(ころく)の所置(しよち)に就(つい)ては、兩人(りやうにん)の間(あひだ)に具體的(ぐたいてき)の案(あん)は別(べつ)に出(で)なかつた。何(いづ)れ緩(ゆつ)くりみんなで寄(よ)つて極(き)めやう、都合(つがふ)がよければ小六(ころく)も列席(れつせき)するが好(よ)からうといふのが別(わか)れる時(とき)の言葉(ことば)であつた。二人(ふたり)になつたとき、御米(およね)は宗助(そうすけ)に、
「何(なに)を考(かんが)へて入(い)らつしやるの」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)は兩手(りやうて)を兵兒帶(へこおび)の間(あひだ)に挾(はさ)んで、心持(こゝろもち)肩(かた)を高(たか)くしたなり、
「己(おれ)ももう一返(ぺん)小六(ころく)見(み)た樣(やう)になつて見(み)たい」と云(い)つた。「此方(こつち)ぢや、向(むかふ)が己(おれ)の樣(やう)な運命(うんめい)に陷(おちい)るだらうと思(おも)つて心配(しんぱい)してゐるのに、向(むかふ)ぢや兄貴(あにき)なんざあ眼中(がんちゆう)にないから偉(えら)いや」
 御米(およね)は茶器(ちやき)を引(ひ)いて臺所(だいどころ)へ出(で)た。夫婦(ふうふ)はそれぎり話(はなし)を切(き)り上(あ)げて、又(また)床(とこ)を延(の)べて寐(ね)た。夢(ゆめ)の上(うへ)に高(たか)い銀河(あまのがは)が涼(すゞ)しく懸(かゝ)つた。
 次(つぎ)の週間(しうかん)には、小六(ころく)も來(こ)ず、佐伯(さへき)からの音信(たより)もなく、宗助(そうすけ)の家庭(かてい)は又(また)平日(へいじつ)の無事(ぶじ)に歸(かへ)つた。夫婦(ふうふ)は毎朝(まいあさ)露(つゆ)の光(ひか)る頃(ころ)起(お)きて、美(うつく)しい日(ひ)を廂(ひさし)の上(うへ)に見(み)た。夜(よる)は煤竹(すゝだけ)の臺(だい)を着(つ)けた洋燈(らんぷ)の兩側(りやうがは)に、長(なが)い影(かげ)を描(ゑが)いて坐(すわ)つてゐた。話(はなし)が途切(とぎ)れた時(とき)はひそりとして、柱時計(はしらどけい)の振子(ふりこ)の音丈(おとだけ)が聞(きこ)える事(こと)も稀(まれ)ではなかつた。
 夫(それ)でも夫婦(ふうふ)は此間(このあひだ)に小六(ころく)の事(こと)を相談(さうだん)した。小六(ころく)がもし何(ど)うしても學問(がくもん)を續(つゞ)ける氣(き)なら無論(むろん)の事(こと)、さうでなくても、今(いま)の下宿(げしゆく)を一時(いちじ)引(ひ)き上(あ)げなければならなくなるのは知(し)れてゐるが、左(さ)うすれば又(また)佐伯(さへき)へ歸(かへ)るか、或(あるひ)は宗助(そうすけ)の所(ところ)へ置(お)くより外(ほか)に途(みち)はない。佐伯(さへき)では一旦(いつたん)あゝ云(い)ひ出(だ)した樣(やう)なものゝ、頼(たの)んで見(み)たら、當分(たうぶん)宅(うち)へ置(お)く位(ぐらゐ)の事(こと)は、好意上(かういじやう)爲(し)てくれまいものでもない。が、其上(そのうへ)修業(しうげふ)をさせるとなると、月謝(げつしや)小遣(こづかひ)其他(そのた)は宗助(そうすけ)の方(はう)で擔任(たんにん)しなければ義理(ぎり)が惡(わる)い。所(ところ)が夫(それ)は家計上(かけいじやう)宗助(そうすけ)の堪(た)える所(ところ)でなかつた。月々(つき/″\)の收支(しうし)を事細(ことこま)かに計算(けいさん)して見(み)た兩人(ふたり)は、
「到底(たうてい)駄目(だめ)だね」
「何(ど)うしたつて無理(むり)ですわ」と云(い)つた。
 夫婦(ふうふ)の坐(すわ)つてゐる茶(ちや)の間(ま)の次(つぎ)が臺所(だいどころ)で、臺所(だいどころ)の右(みぎ)に下女部屋(げぢよべや)、左(ひだり)に六疊(でふ)が一間(ひとま)ある。下女(げぢよ)を入(い)れて三人(にん)の小人數(こにんず)だから、此(この)六疊(でふ)には餘(あま)り必要(ひつえう)を感(かん)じない御米(およね)は、東向(ひがしむき)の窓側(まどがは)に何時(いつ)も自分(じぶん)の鏡臺(きやうだい)を置(お)いた。宗助(そうすけ)も朝(あさ)起(お)きて顏(かほ)を洗(あら)つて、飯(めし)を濟(す)ますと、此所(こゝ)へ來(き)て着物(きもの)を脱(ぬ)ぎ更(か)へた。
「夫(それ)よりか、あの六疊(でふ)を空(あ)けて、あすこへ來(き)ちや不可(いけ)なくつて」と御米(およね)が云(い)ひ出(だ)した。御米(およね)の考(かんが)へでは、斯(か)うして自分(じぶん)の方(はう)で部屋(へや)と食物丈(たべものだけ)を分擔(ぶんたん)して、あとの所(ところ)を月々(つき/″\)幾何(いくら)か佐伯(さへき)から助(すけ)て貰(もら)つたら、小六(ころく)の望(のぞ)み通(どほ)り大學(だいがく)卒業(そつげふ)迄(まで)遣(や)つて行(い)かれやうと云(い)ふのである。
「着物(きもの)は安(やす)さんの古(ふる)いのや、貴方(あなた)のを直(なほ)して上(あ)げたら、何(ど)うかなるでせう」と御米(およね)が云(い)ひ添(そ)へた。實(じつ)は宗助(そうすけ)にも斯(こ)んな考(かんがへ)が、多少(たせう)頭(あたま)に浮(う)かんで居(ゐ)た。たゞ御米(およね)に遠慮(ゑんりよ)がある上(うへ)に、夫(それ)程(ほど)氣(き)が進(すゝ)まなかつたので、つい口(くち)へ出(だ)さなかつた迄(まで)だから、細君(さいくん)から斯(か)う反對(あべこべ)に相談(さうだん)を掛(か)けられて見(み)ると、固(もと)よりそれを拒(こば)む丈(だけ)の勇氣(ゆうき)はなかつた。
 小六(ころく)に其通(そのとほ)りを通知(つうち)して、御前(おまへ)さへそれで差支(さしつかへ)なければ、己(おれ)がもう一遍(ぺん)佐伯(さへき)へ行(い)つて掛合(かけあ)つて見(み)るがと、手紙(てがみ)で問(と)ひ合(あは)せると、小六(ころく)は郵便(いうびん)の着(つ)いた晩(ばん)、すぐ雨(あめ)の降(ふ)る中(なか)を、傘(からかさ)に音(おと)を立(た)てゝ遣(や)つて來(き)て、もう學資(がくし)が出來(でき)でもした樣(やう)に嬉(うれ)しがつた。
「何(なに)、叔母(をば)さんの方(はう)ぢや、此方(こつち)で何時迄(いつまで)も貴方(あなた)の事(こと)を放(はふ)り出(だ)したまんま、構(かま)はずに置(お)くもんだから、それで彼(あゝ)仰(おつし)やるのよ。なに兄(にい)さんだつて、もう少(すこ)し都合(つがふ)が好(よ)ければ、疾(と)うにも何(ど)うにか爲(し)たんですけれども、御存(ごぞん)じの通(とほ)りだから實際(じつさい)已(や)むを得(え)なかつたんですわ。然(しか)し此方(こつち)から斯(か)う云(い)つて行(ゆ)けば、叔母(をば)さんだつて、安(やす)さんだつて、夫(それ)でも否(いや)だとは云(い)はれないわ。屹度(きつと)出來(でき)るから安心(あんしん)して居(ゐ)らつしやい。私(わたし)受合(うけあ)ふわ」
 御米(およね)にかう受合(うけあ)つて貰(もら)つた小六(ころく)は、又(また)雨(あめ)の音(おと)を頭(あたま)の上(うへ)に受(う)けて本郷(ほんがう)へ歸(かへ)つて行(い)つた。しかし中(なか)一日(にち)置(お)いて、兄(にい)さんは未(ま)だ行(い)かないんですかと聞(き)きに來(き)た。又(また)三日(みつか)許(ばかり)過(す)ぎてから、今度(こんど)は叔母(をば)さんの所(ところ)へ行(い)つて聞(き)いたら、兄(にい)さんはまだ來(こ)ないさうだから、成(な)るべく早(はや)く行(ゆ)く樣(やう)に勸(すゝ)めて呉(く)れと催促(さいそく)して行(い)つた。
 宗助(そうすけ)が行(ゆ)く行(ゆ)くと云(い)つて、日(ひ)を暮(く)らしてゐるうちに世(よ)の中(なか)は漸(やうや)く秋(あき)になつた。その朗(ほが)らかな或(ある)日曜(にちえう)の午後(ごご)に、宗助(そうすけ)はあまり佐伯(さへき)へ行(ゆ)くのが後(おく)れるので、此(この)要件(えうけん)を手紙(てがみ)に認(したゝ)めて番町(ばんちやう)へ相談(さうだん)したのである。すると、叔母(をば)から安之助(やすのすけ)は神戸(かうべ)へ行(い)つて留守(るす)だと云(い)ふ返事(へんじ)が來(き)たのである。

 佐伯(さへき)の叔母(をば)の尋(たづ)ねて來(き)たのは、土曜(どえう)の午後(ごご)の二時過(じすぎ)であつた。其日(そのひ)は例(れい)になく朝(あさ)から雲(くも)が出(で)て、突然(とつぜん)と風(かぜ)が北(きた)に變(かは)つた樣(やう)に寒(さむ)かつた。叔母(をば)は竹(たけ)で編(あ)んだ丸(まる)い火桶(ひをけ)の上(うへ)へ手(て)を翳(かざ)して、
「何(なん)ですね、御米(およね)さん、此(この)御部屋(おへや)は夏(なつ)は涼(すゞ)しさうで結構(けつこう)だが、是(これ)からはちと寒(さむ)う御座(ござ)んすね」と云(い)つた。叔母(をば)は癖(くせ)のある髮(かみ)を、奇麗(きれい)に髷(まげ)に結(い)つて、古風(こふう)な丸打(まるうち)の羽織(はおり)の紐(ひも)を、胸(むね)の所(ところ)で結(むす)んでゐた。酒(さけ)の好(す)きな質(たち)で、今(いま)でも少(すこ)しづゝは晩酌(ばんしやく)を遣(や)る所爲(せゐ)か、色澤(いろつや)もよく、でつぷり肥(ふと)つてゐるから、年(とし)よりは餘程(よほど)若(わか)く見(み)える。御米(およね)は叔母(をば)が來(く)るたんびに、叔母(をば)さんは若(わか)いのねと、後(あと)でよく宗助(そうすけ)に話(はな)した。すると宗助(そうすけ)が何時(いつ)でも、若(わか)い筈(はず)だ、あの年(とし)になる迄(まで)、子供(こども)をたつた一人(ひとり)しか生(う)まないんだからと説明(せつめい)した。御米(およね)は實際(じつさい)さうかも知(し)れないと思(おも)つた。さうして斯(か)う云(い)はれた後(あと)では、折々(をり/\)そつと六疊(でふ)へ這入(はい)つて、自分(じぶん)の顏(かほ)を鏡(かゞみ)に映(うつ)して見(み)た。其時(そのとき)は何(なん)だか自分(じぶん)の頬(ほゝ)が見(み)る度(たび)に瘠(こ)けて行(ゆ)く樣(やう)な氣(き)がした。御米(およね)には自分(じぶん)と子供(こども)とを連想(れんさう)して考(かんが)へる程(ほど)辛(つら)い事(こと)はなかつたのである。裏(うら)の家主(やぬし)の宅(うち)に、小(ちひ)さい子供(こども)が大勢(おほぜい)ゐて、夫(それ)が崖(がけ)の上(うへ)の庭(には)へ出(で)て、ブランコへ乘(の)つたり、鬼(おに)ごつこを遣(や)つたりして騷(さわ)ぐ聲(こゑ)が、能(よ)く聞(きこ)えると、御米(およね)は何時(いつ)でも、果敢(はか)ない樣(やう)な恨(うら)めしい樣(やう)な心持(こゝろもち)になつた。今(いま)自分(じぶん)の前(まへ)に坐(すわ)つてゐる叔母(をば)は、たつた一人(ひとり)の男(をとこ)の子(こ)を生(う)んで、その男(をとこ)の子(こ)が順當(じゆんたう)に育(そだ)つて、立派(りつぱ)な學士(がくし)になつたればこそ、叔父(をぢ)が死(し)んだ今日(こんにち)でも、何不足(なにふそく)のない顏(かほ)をして、腮(あご)などは二重(ふたへ)に見(み)える位(くらゐ)に豐(ゆたか)なのである。御母(おかあ)さんは肥(ふと)つてるから劍呑(けんのん)だ、氣(き)を付(つ)けないと卒中(そつちゆう)で遣(や)られるかも知(し)れないと、安之助(やすのすけ)が始終(しじゆう)心配(しんぱい)するさうだけれども、御米(およね)から云(い)はせると、心配(しんぱい)する安之助(やすのすけ)も、心配(しんぱい)される叔母(をば)も、共(とも)に幸福(かうふく)を享(う)け合(あ)つてゐるものとしか思(おも)はれなかつた。
「安(やす)さんは」と御米(およね)が聞(き)いた。
「えゝ漸(やうや)くね、あなた。一昨日(をとゝひ)の晩(ばん)歸(かへ)りましてね。夫(それ)でつい/\御返事(ごへんじ)も後(おく)れちまつて、まことに濟(す)みません樣(やう)な譯(わけ)で」と云(い)つたが、返事(へんじ)の方(はう)は夫(それ)なりにして、話(はなし)は又(また)安之助(やすのすけ)へ戻(もど)つて來(き)た。
「あれもね、御蔭(おかげ)さまで漸(やうや)く學校丈(がくかうだけ)は卒業(そつげふ)しましたが、是(これ)からが大事(だいじ)の所(ところ)で、心配(しんぱい)で御座(ござ)います。――夫(それ)でも此(この)九月(ぐわつ)から、月島(つきじま)の工場(こうば)の方(はう)へ出(で)る事(こと)になりまして、まあ幸(さいはひ)と此分(このぶん)で勉強(べんきやう)さへして行(い)つて呉(く)れゝば、此末(このすゑ)ともに、さう惡(わる)い事(こと)も無(な)からうかと思(おも)つてるんですけれども、まあ若(わか)いものゝ事(こと)ですから、是(これ)から先(さき)何(ど)う變化(へんげ)るか分(わか)りやしませんよ」
 御米(およね)はたゞ結構(けつこう)で御座(ござ)いますとか、御目出(おめで)たう御座(ござ)いますとか云(い)ふ言葉(ことば)を、間々(あひだ/\)に挾(はさ)んでゐた。
「神戸(かうべ)へ參(まゐ)つたのも、全(まつた)く其方(そのはう)の用向(ようむき)なので。石油發動機(せきゆはつどうき)とか何(なん)とか云(い)ふものを鰹船(かつをぶね)へ据(す)ゑ付(つ)けるんだとかつてね貴方(あなた)」
 御米(およね)には丸(まる)で意味(いみ)が分(わか)らなかつた。分(わか)らない乍(なが)らたゞへえゝと受(う)けてゐると、叔母(をば)はすぐ後(あと)を話(はな)した。
「私(わたくし)にも何(なん)のこつたか、些(ちつ)とも分(わか)らなかつたんですが、安之助(やすのすけ)の講釋(かうしやく)を聞(き)いて始(はじ)めて、おやさうかいと云(い)ふ樣(やう)な譯(わけ)でしてね。――尤(もつと)も石油發動機(せきゆはつどうき)は今(いま)以(もつ)て分(わか)らないんですけれども」と云(い)ひながら、大(おほ)きな聲(こゑ)を出(だ)して笑(わら)つた。「何(なん)でも石油(せきゆ)を焚(た)いて、それで船(ふね)を自由(じいう)にする器械(きかい)なんださうですが、聞(き)いて見(み)ると餘程(よつぽど)重寶(ちようはう)なものらしいんですよ。夫(それ)さへ付(つ)ければ、舟(ふね)を漕(こ)ぐ手間(てま)が丸(まる)で省(はぶ)けるとかでね。五里(り)も十里(り)も沖(おき)へ出(で)るのに、大變(たいへん)樂(らく)なんですとさ。所(ところ)が貴方(あなた)、此(この)日本全國(につぽんぜんこく)で鰹船(かつをぶね)の數(かず)つたら、夫(それ)こそ大(たい)したものでせう。その鰹船(かつをぶね)が一(ひと)つ宛(づゝ)此(この)器械(きかい)を具(そな)へ付(つ)ける樣(やう)になつたら、莫大(ばくだい)な利益(りえき)だつて云(い)ふんで、此頃(このごろ)は夢中(むちゆう)になつて其方(そのはう)ばつかりに掛(かゝ)つてゐる樣(やう)ですよ。莫大(ばくだい)な利益(りえき)は有難(ありがた)いが、さう凝(こ)つて身體(からだ)でも惡(わる)くしちや詰(つま)らないぢやないかつて、此間(このあひだ)も笑(わら)つた位(くらゐ)で」
 叔母(をば)はしきりに鰹船(かつをぶね)と安之助(やすのすけ)の話(はなし)をした。さうして大變(たいへん)得意(とくい)の樣(やう)に見(み)えたが、小六(ころく)の事(こと)は中々(なか/\)云(い)ひ出(だ)さなかつた。もう疾(とう)に歸(かへ)る筈(はず)の宗助(そうすけ)も何(ど)うしたか歸(かへ)つて來(こ)なかつた。
 彼(かれ)は其日(そのひ)役所(やくしよ)の歸(かへ)り掛(が)けに駿河臺下(するがだいした)迄(まで)來(き)て、電車(でんしや)を下(お)りて、酸(す)いものを頬張(ほゝば)つた樣(やう)な口(くち)を穿(すぼ)めて一二町(ちやう)歩(ある)いた後(のち)、ある齒醫者(はいしや)の門(かど)を潛(くゞ)つたのである。三四日前(さんよつかぜん)彼(かれ)は御米(およね)と差向(さしむか)ひで、夕飯(ゆふはん)の膳(ぜん)に着(つ)いて、話(はな)しながら箸(はし)を取(と)つてゐる際(さい)に、何(ど)うした拍子(ひやうし)か、前齒(まへば)を逆(ぎやく)にぎりゝと噛(か)んでから、それが急(きふ)に痛(いた)み出(だ)した。指(ゆび)で搖(うご)かすと、根(ね)がぐら/\する。食事(しよくじ)の時(とき)には湯茶(ゆちや)が染(し)みる。口(くち)を開(あ)けて息(いき)をすると風(かぜ)も染(し)みた。宗助(そうすけ)は此朝(このあさ)齒(は)を磨(みが)くために、わざと痛(いた)い所(ところ)を避(よ)けて楊枝(やうじ)を使(つか)ひながら、口(くち)の中(なか)を鏡(かゞみ)に照(て)らして見(み)たら、廣島(ひろしま)で銀(ぎん)を埋(う)めた二枚(まい)の奧齒(おくば)と、研(と)いだ樣(やう)に磨(す)り減(へ)らした不揃(ぶそろ)の前齒(まへば)とが、俄(には)かに寒(さむ)く光(ひか)つた。洋服(やうふく)に着換(きか)える時(とき)、
「御米(およね)、己(おれ)は齒(は)の性(しやう)が餘程(よつぽど)惡(わる)いと見(み)えるね。斯(か)うやると大抵(たいてい)動(うご)くぜ」と下齒(したば)を指(ゆび)で動(うご)かして見(み)せた。御米(およね)は笑(わら)ひながら、
「もう御年(おとし)の所爲(せゐ)よ」と云(い)つて白(しろ)い襟(えり)を後(うしろ)へ廻(まは)つて襯衣(しやつ)へ着(つ)けた。
 宗助(そうすけ)は其日(そのひ)の午後(ごご)とう/\思(おも)い切(き)つて、齒醫者(はいしや)へ寄(よ)つたのである。應接間(おうせつま)へ通(とほ)ると、大(おほ)きな洋卓(テーブル)の周圍(まはり)に天鵞絨(ビロード)で張(は)つた腰掛(こしかけ)が并(なら)んでゐて、待(ま)ち合(あは)してゐる三四人(さんよにん)が、うづくまる樣(やう)に腮(あご)を襟(えり)に埋(うづ)めてゐた。それが皆(みんな)女(をんな)であつた。奇麗(きれい)な茶色(ちやいろ)の瓦斯暖爐(ガスストーヴ)には火(ひ)がまだ焚(た)いてなかつた。宗助(そうすけ)は大(おほ)きな姿見(すがたみ)に映(うつ)る白壁(しらかべ)の色(いろ)を斜(なゝ)めに見(み)て、番(ばん)の來(く)るのを待(ま)つてゐたが、あまり退屈(たいくつ)になつたので、洋卓(テーブル)の上(うへ)に重(かさ)ねてあつた雜誌(ざつし)に眼(め)を着(つ)けた。一二册(さつ)手(て)に取(と)つて見(み)ると、いづれも婦人用(ふじんよう)のものであつた。宗助(そうすけ)は其(その)口繪(くちゑ)に出(で)てゐる女(をんな)の寫眞(しやしん)を、何枚(なんまい)も繰(く)り返(かへ)して眺(なが)めた。夫(それ)から「成効(せいかう)」と云(い)ふ雜誌(ざつし)を取(と)り上(あ)げた。其(その)初(はじ)めに、成效(せいかう)の祕訣(ひけつ)といふ樣(やう)なものが箇條書(かでうがき)にしてあつたうちに、何(なん)でも猛進(まうしん)しなくつては不可(いけ)ないと云(い)ふ一ヶ條(でう)と、たゞ猛進(まうしん)しても不可(いけ)ない、立派(りつぱ)な根底(こんてい)の上(うへ)に立(た)つて、猛進(まうしん)しなくつてはならないと云(い)ふ一ヶ條(でう)を讀(よ)んで、それなり雜誌(ざつし)を伏(ふ)せた。「成效(せいかう)」と宗助(そうすけ)は非常(ひじやう)に縁(えん)の遠(とほ)いものであつた。宗助(そうすけ)は斯(か)ういふ名(な)の雜誌(ざつし)があると云(い)ふ事(こと)さへ、今日迄(こんにちまで)知(し)らなかつた。それで又(また)珍(めづ)らしくなつて、一旦(いつたん)伏(ふ)せたのを又(また)開(あ)けて見(み)ると、不圖(ふと)假名(かな)の交(まじ)らない四角(しかく)な字(じ)が二行(ぎやう)程(ほど)並(なら)んでゐた。夫(それ)には風(かぜ)碧落(へきらく)を吹(ふ)いて浮雲(ふうん)盡(つ)き、月(つき)東山(とうざん)に上(のぼ)つて玉(ぎよく)一團(いちだん)とあつた。宗助(そうすけ)は詩(し)とか歌(うた)とかいふものには、元(もと)から餘(あま)り興味(きようみ)を持(も)たない男(をとこ)であつたが、どう云(い)ふ譯(わけ)か此(この)二句(く)を讀(よ)んだ時(とき)に大變(たいへん)感心(かんしん)した。對句(つゐく)が旨(うま)く出來(でき)たとか何(なん)とか云(い)ふ意味(いみ)ではなくつて、斯(こ)んな景色(けしき)と同(おな)じ樣(やう)な心持(こゝろもち)になれたら、人間(にんげん)も嘸(さぞ)嬉(うれ)しからうと、ひよつと心(こゝろ)が動(うご)いたのである。宗助(そうすけ)は好奇心(かうきしん)から此句(このく)の前(まへ)に付(つ)いてゐる論文(ろんぶん)を讀(よ)んで見(み)た。然(しか)し夫(それ)は丸(まる)で無關係(むくわんけい)の樣(やう)に思(おも)はれた。只(たゞ)此(この)二句(く)が雜誌(ざつし)を置(お)いた後(あと)でも、しきりに彼(かれ)の頭(あたま)の中(なか)を徘徊(はいくわい)した。彼(かれ)の生活(せいくわつ)は實際(じつさい)此(この)四五年來(ねんらい)斯(か)ういふ景色(けしき)に出逢(であ)つた事(こと)がなかつたのである。
 其時(そのとき)向(むか)ふの戸(と)が開(あ)いて、紙片(かみぎれ)を持(も)つた書生(しよせい)が野中(のなか)さんと宗助(そうすけ)を手術室(しゆじゆつしつ)へ呼(よ)び入(い)れた。
 中(なか)へ這入(はい)ると、其所(そこ)は應接間(おうせつま)よりも倍(ばい)も廣(ひろ)かつた。光線(くわうせん)が成(な)るべく餘計(よけい)取(と)れる樣(やう)に明(あか)るく拵(こし)らへた部屋(へや)の二側(ふたがは)に、手術用(しゆじゆつよう)の椅子(いす)を四臺(よだい)程(ほど)据(す)ゑて、白(しろ)い胸掛(むねかけ)をかけた受持(うけもち)の男(をとこ)が、一人(ひとり)づゝ別々(べつ/\)に療治(れうぢ)をしてゐた。宗助(そうすけ)は一番(いちばん)奧(おく)の方(はう)にある一脚(きやく)に案内(あんない)されて、是(これ)へと云(い)はれるので、踏段(ふみだん)の樣(やう)なものの上(うへ)へ乘(の)つて、椅子(いす)へ腰(こし)を卸(おろ)した。書生(しよせい)が厚(あつ)い縞入(しまいり)の前掛(まへかけ)で丁寧(ていねい)に膝(ひざ)から下(した)を包(くる)んで呉(く)れた。
 斯(か)う穩(おだ)やかに寐(ね)かされた時(とき)、宗助(そうすけ)は例(れい)の齒(は)が左程(さほど)苦(く)になる程(ほど)痛(いた)んでゐないと云(い)ふ事(こと)を發見(はつけん)した。夫(それ)ばかりか、肩(かた)も脊(せな)も、腰(こし)の周(まは)りも、心安(こゝろやす)く落(お)ち付(つ)いて、如何(いか)にも樂(らく)に調子(てうし)が取(と)れてゐる事(こと)に氣(き)が付(つ)いた。彼(かれ)はたゞ仰向(あふむ)いて天井(てんじやう)から下(さが)つてゐる瓦斯(ガス)管(くわん)を眺(なが)めた。さうして此(この)構(かまへ)と設備(せつび)では、歸(かへ)りがけに思(おも)つたより高(たか)い療治代(れうぢだい)を取(と)られるかも知(し)れないと氣遣(きづか)つた。
 所(ところ)へ顏(かほ)の割(わり)に頭(あたま)の薄(うす)くなり過(す)ぎた肥(ふと)つた男(をとこ)が出(で)て來(き)て、大變(たいへん)丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)をしたので、宗助(そうすけ)は少(すこ)し椅子(いす)の上(うへ)で狼狽(あわて)た樣(やう)に首(くび)を動(うご)かした。肥(ふと)つた男(をとこ)は一應(いちおう)容體(ようだい)を聞(き)いて、口中(こうちゆう)を檢査(けんさ)して、宗助(そうすけ)の痛(いた)いと云(い)ふ齒(は)を一寸(ちよつと)搖(ゆす)つて見(み)たが、
「何(ど)うも斯(か)う弛(ゆる)みますと、到底(とても)元(もと)の樣(やう)に緊(しま)る譯(わけ)には參(まゐ)りますまいと思(おも)ひますが。何(なに)しろ中(なか)がエソになつて居(を)りますから」と云(い)つた。
 宗助(そうすけ)は此(この)宣告(せんこく)を淋(さび)しい秋(あき)の光(ひかり)の樣(やう)に感(かん)じた。もうそんな年(とし)なんでせうかと聞(き)いて見(み)たくなつたが、少(すこ)し極(きま)りが惡(わる)いので、たゞ、
「ぢや癒(なほ)らないんですか」と念(ねん)を押(お)した。
 肥(ふと)つた男(をとこ)は笑(わら)ひながら斯(か)う云(い)つた。――
「まあ癒(なほ)らないと申(まを)し上(あ)げるより外(ほか)に仕方(しかた)が御座(ござ)んせんな。已(やむ)を得(え)なければ、思(おも)ひ切(き)つて拔(ぬ)いて仕舞(しま)ふんですが、今(いま)の所(ところ)では、まだ夫程(それほど)でも御座(ござ)いますまいから、たゞ御痛(おいた)み丈(だけ)を留(と)めて置(お)きませう。何(なに)しろエソ――エソと申(まを)しても御分(おわか)りにならないかも知(し)れませんが、中(なか)が丸(まる)で腐(くさ)つて居(を)ります」
 宗助(そうすけ)は、左(さ)うですかと云(い)つて、たゞ肥(ふと)つた男(をとこ)のなすが儘(まゝ)にして置(お)いた。すると彼(かれ)は器械(きかい)をぐる/\廻(まは)して宗助(そうすけ)の齒(は)の根(ね)へ穴(あな)を開(あ)け始(はじ)めた。さうして其中(そのなか)へ細長(ほそなが)い針(はり)の樣(やう)なものを刺(さ)し通(とほ)しては、其先(そのさき)を嗅(か)いでゐたが、仕舞(しまひ)に糸(いと)程(ほど)な筋(すぢ)を引(ひ)き出(だ)して、神經(しんけい)が是丈(これだけ)取(と)れましたと云(い)ひながら、それを宗助(そうすけ)に見(み)せて呉(く)れた。それから藥(くすり)で其(その)穴(あな)を埋(う)めて、明日(みやうにち)又(また)入(い)らつしやいと注意(ちゆうい)を與(あた)へた。
 椅子(いす)を下(お)りるとき、身體(からだ)が眞直(まつす)ぐになつたので、視線(しせん)の位置(ゐち)が天井(てんじやう)から不圖(ふと)庭先(にはさき)に移(うつ)つたら、其所(そこ)にあつた高(たか)さ五尺(しやく)もあらうと云(い)ふ大(おほ)きな鉢栽(はちうゑ)の松(まつ)が宗助(そうすけ)の眼(め)に這入(はい)つた。其(その)根方(ねがた)の所(ところ)を、草鞋(わらぢ)がけの植木屋(うゑきや)が丁寧(ていねい)に薦(こも)で包(くる)んでゐた。段々(だん/\)露(つゆ)が凝(こ)つて霜(しも)になる時節(じせつ)なので、餘裕(よゆう)のあるものは、もう今時分(いまじぶん)から手廻(てまは)しをするのだと氣(き)が付(つ)いた。
 歸(かへ)りがけに玄關(げんくわん)脇(わき)の藥局(やくきよく)で、粉藥(こぐすり)の儘(まゝ)含嗽劑(がんそうざい)を受取(うけと)つて、それを百倍(ばい)の微温湯(びをんたう)に溶解(ようかい)して、一日(にち)十數回(すうくわい)使用(しよう)すべき注意(ちゆうい)を受(う)けた時(とき)、宗助(そうすけ)は會計(くわいけい)の請求(せいきう)した治療代(ちれうだい)の案外(あんぐわい)廉(れん)なのを喜(よろこ)んだ。是(これ)ならば向(むか)ふで云(い)ふ通(とほ)り四五回(くわい)通(かよ)つた所(ところ)が、さして困難(こんなん)でもないと思(おも)つて、靴(くつ)を穿(は)かうとすると、今度(こんど)は靴(くつ)の底(そこ)が何時(いつ)の間(ま)にか破(やぶ)れてゐる事(こと)に氣(き)が付(つ)いた。
 宅(うち)へ着(つ)いた時(とき)は一足違(ひとあしちがひ)で叔母(をば)がもう歸(かへ)つたあとであつた。宗助(そうすけ)は、
「おゝ、左(さ)うだつたか」と云(い)ひながら、甚(はなは)だ面倒(めんだう)さうに洋服(やうふく)を脱(ぬ)ぎ更(か)へて、何時(いつ)もの通(とほ)り火鉢(ひばち)の前(まへ)に坐(すわ)つた。御米(およね)は襯衣(しやつ)や洋袴(ずぼん)や靴足袋(くつたび)を一抱(ひとかゝへ)にして六疊(でふ)へ這入(はい)つた。宗助(そうすけ)はぼんやりして、烟草(たばこ)を吹(ふ)かし始(はじ)めたが、向(むか)ふの部屋(へや)で、刷毛(ブラツシ)を掛(か)ける音(おと)がし出(だ)した時(とき)、
「御米(およね)、佐伯(さへき)の叔母(をば)さんは何(なん)とか云(い)つて來(き)たのかい」と聞(き)いた。
 齒痛(しつう)が自(おのづ)から治(をさ)まつたので、秋(あき)に襲(おそ)はれる樣(やう)な寒(さむ)い氣分(きぶん)は、少(すこ)し輕(かる)くなつたけれども、やがて御米(およね)が隱袋(ぽつけつと)から取(と)り出(だ)して來(き)た粉藥(こぐすり)を、温(ぬる)ま湯(ゆ)に溶(と)いて貰(もら)つて、しきりに含嗽(うがひ)を始(はじ)めた。其時(そのとき)彼(かれ)は縁側(えんがは)へ立(た)つた儘(まゝ)、
「何(ど)うも日(ひ)が短(みじ)かくなつたなあ」と云(い)つた。
 やがて日(ひ)が暮(くれ)れた。晝間(ひるま)からあまり車(くるま)の音(おと)を聞(き)かない町内(ちやうない)は、宵(よひ)の口(くち)から寂(しん)としてゐた。夫婦(ふうふ)は例(れい)の通(とほ)り洋燈(らんぷ)の下(もと)に寄(よ)つた。廣(ひろ)い世(よ)の中(なか)で、自分達(じぶんたち)の坐(すわ)つてゐる所丈(ところだけ)が明(あか)るく思(おも)はれた。さうして此(この)明(あか)るい灯影(ひかげ)に、宗助(そうすけ)は御米(およね)丈(だけ)を、御米(およね)は又(また)宗助(そうすけ)丈(だけ)を意識(いしき)して、洋燈(ランプ)の力(ちから)の屆(とゞ)かない暗(くら)い社會(しやくわい)は忘(わす)れてゐた。彼等(かれら)は毎晩(まいばん)かう暮(く)らして行(ゆ)く裡(うち)に、自分達(じぶんたち)の生命(せいめい)を見出(みいだ)してゐたのである。
 此(この)靜(しづ)かな夫婦(ふうふ)は安之助(やすのすけ)の神戸(かうべ)から土産(みやげ)に買(か)つて來(き)たと云(い)ふ養老昆布(やうらうこぶ)の罐(くわん)をがら/\振(ふ)つて、中(なか)から山椒(さんしよ)入(い)りの小(ちひ)さく結(むす)んだ奴(やつ)を撰(よ)り出(だ)しながら、緩(ゆつ)くり佐伯(さへき)からの返事(へんじ)を語(かた)り合(あ)つた。
「然(しか)し月謝(げつしや)と小遣(こづかひ)位(ぐらゐ)は都合(つがふ)して遣(や)つて呉(く)れても好(よ)ささうなもんぢやないか」
「それが出來(でき)ないんだつて。何(ど)う見積(みつも)つても兩方(りやうはう)寄(よ)せると、十圓(ゑん)にはなる。十圓(ゑん)と云(い)ふ纏(まとま)つた御金(おかね)を、今(いま)の所(ところ)月々(つき/″\)出(だ)すのは骨(ほね)が折(を)れるつて云(い)ふのよ」
「夫(それ)ぢや此年(ことし)の暮迄(くれまで)二十何圓(なんゑん)づゝか出(だ)して遣(や)るのも無理(むり)ぢやないか」
「だから、無理(むり)をしても、もう一二ヶ月(げつ)の所(ところ)丈(だけ)は間(ま)に合(あは)せるから、其内(そのうち)に何(ど)うかして下(くだ)さいと、安(やす)さんが左(さ)う云(い)ふんだつて」
「實際(じつさい)出來(でき)ないのかな」
「夫(そ)りや私(わたし)には分(わか)らないわ。何(なに)しろ叔母(をば)さんが、左(さ)う云(い)ふのよ」
「鰹舟(かつをぶね)で儲(まう)けたら、其位(そのくらゐ)譯(わけ)なささうなもんぢやないか」
「本當(ほんたう)ね」
 御米(およね)は低(ひく)い聲(こゑ)で笑(わら)つた。宗助(そうすけ)も一寸(ちよつと)口(くち)の端(はた)を動(うご)かしたが、話(はなし)はそれで途切(とぎ)れて仕舞(しま)つた。しばらくしてから、
「何(なに)しろ小六(ころく)は家(うち)へ來(く)ると極(き)めるより外(ほか)に道(みち)はあるまいよ。後(あと)は其上(そのうへ)の事(こと)だ。今(いま)ぢや學校(がくかう)へは出(で)てゐるんだね」と宗助(そうすけ)が云(い)つた。
「さうでせう」と御米(およね)が答(こた)へるのを聞(き)き流(なが)して、彼(かれ)は珍(めづ)らしく書齋(しよさい)に這入(はい)つた。一時間(じかん)程(ほど)して、御米(およね)がそつと襖(ふすま)を開(あ)けて覗(のぞ)いて見(み)ると、机(つくゑ)に向(むか)つて、何(なに)か讀(よ)んでゐた。
「勉強(べんきやう)? もう御休(おやす)みなさらなくつて」と誘(さそ)はれた時(とき)、彼(かれ)は振(ふ)り返(かへ)つて、
「うん、もう寐(ね)よう」と答(こた)へながら立(た)ち上(あが)つた。
 寐(ね)る時(とき)、着物(きもの)を脱(ぬ)いで、寐卷(ねまき)の上(うへ)に、絞(しぼ)りの兵兒帶(へこおび)をぐる/\卷(ま)きつけながら、
「今夜(こんや)は久(ひさ)し振(ぶり)に論語(ろんご)を讀(よ)んだ」と云(い)つた。
「論語(ろんご)に何(なに)かあつて」と御米(およね)が聞(き)き返(かへ)したら、宗助(そうすけ)は、
「いや何(なん)にもない」と答(こた)へた。それから、「おい、己(おれ)の齒(は)は矢(や)つ張(ぱ)り年(とし)の所爲(せゐ)だとさ。ぐら/\するのは到底(とても)癒(なほ)らないさうだ」と云(い)ひつゝ、黒(くろ)い頭(あたま)を枕(まくら)の上(うへ)に着(つ)けた。

 小六(ころく)は兎(と)も角(かく)も都合(つがふ)次第(しだい)下宿(げしゆく)を引(ひ)き拂(はら)つて兄(あに)の家(いへ)へ移(うつ)る事(こと)に相談(さうだん)が調(とゝの)つた。御米(およね)は六疊(でふ)に置(お)き付(つ)けた桑(くは)の鏡臺(きやうだい)を眺(なが)めて、一寸(ちよつと)殘(のこ)り惜(を)しい顏(かほ)をしたが、
「斯(か)うなると少(すこ)し遣場(やりば)に困(こま)るのね」と訴(うつた)へる樣(やう)に宗助(そうすけ)に告(つ)げた。實際(じつさい)此所(こゝ)を取(と)り上(あ)げられては、御米(およね)の御化粧(おつくり)をする場所(ばしよ)が無(な)くなつて仕舞(しま)ふのである。宗助(そうすけ)は何(なん)の工夫(くふう)も付(つ)かずに、立(た)ちながら、向(むか)ふの窓側(まどぎは)に据(す)ゑてある鏡(かゞみ)の裏(うら)を斜(はす)に眺(なが)めた。すると角度(かくど)の具合(ぐあひ)で、其所(そこ)に御米(およね)の襟元(えりもと)から片頬(かたほゝ)が映(うつ)つてゐた。それが如何(いか)にも血色(けつしよく)のわるい横顏(よこがほ)なのに驚(おど)ろかされて、
「御前(おまへ)、何(ど)うかしたのかい。大變(たいへん)色(いろ)が惡(ある)いよ」と云(い)ひながら、鏡(かゞみ)から眼(め)を放(はな)して、實際(じつさい)の御米(およね)の姿(すがた)を見(み)た。鬢(びん)が亂(みだ)れて、襟(えり)の後(うしろ)の邊(あたり)が垢(あか)で少(すこ)し汚(よご)れてゐた。御米(およね)はたゞ、
「寒(さむ)い所爲(せゐ)なんでせう」と答(こた)へて、すぐ西側(にしがは)に付(つ)いてゐる一間(いつけん)の戸棚(とだな)を明(あ)けた。下(した)には古(ふる)い創(きず)だらけの箪笥(たんす)があつて、上(うへ)には支那鞄(しなかばん)と柳行李(やなぎごり)が二(ふた)つ三(み)つ載(の)つてゐた。
「こんなもの、何(ど)うしたつて片付(かたづけ)樣(やう)がないわね」
「だから其儘(そのまゝ)にして置(お)くさ」
 小六(ころく)の此所(こゝ)へ引移(ひきうつ)つて來(く)るのは、斯(か)う云(い)ふ點(てん)から見(み)て、夫婦(ふうふ)の何(いづ)れにも、多少(たせう)迷惑(めいわく)であつた。だから來(く)ると云(い)つて約束(やくそく)して置(お)きながら、今(いま)だに來(こ)ない小六(ころく)に對(たい)しては、別段(べつだん)の催促(さいそく)もしなかつた。一日(いちにち)延(の)びれば延(の)びた丈(だけ)窮屈(きゆうくつ)が逃(に)げた樣(やう)な氣(き)が何所(どこ)かでした。小六(ころく)にも丁度(ちやうど)それと同(おな)じ憚(はゞかり)があつたので、居(ゐ)られる限(かぎり)は下宿(げしゆく)にゐる方(はう)が便利(べんり)だと胸(むね)を極(き)めたものか、つい一日(いちにち)/\と引越(ひつこし)を前(さき)へ送(おく)つてゐた。其癖(そのくせ)彼(かれ)の性質(せいしつ)として、兄夫婦(あにふうふ)の如(ごと)く、荏苒(じんぜん)の境(さかひ)に落付(おちつ)いてはゐられなかつたのである。
 其内(そのうち)薄(うす)い霜(しも)が降(お)りて、裏(うら)の芭蕉(ばせう)を見事(みごと)に摧(くだ)いた。朝(あさ)は崖上(がけうへ)の家主(やぬし)の庭(には)の方(はう)で、鵯(ひよどり)が鋭(する)どい聲(こゑ)を立(た)てた。夕方(ゆふがた)には表(おもて)を急(いそ)ぐ豆腐屋(とうふや)の喇叭(らつぱ)に交(まじ)つて、圓明寺(ゑんみやうじ)の木魚(もくぎよ)の音(おと)が聞(きこ)えた。日(ひ)は益(ます/\)短(みじ)かくなつた。さうして御米(およね)の顏色(かほいろ)は、宗助(そうすけ)が鏡(かゞみ)の中(なか)に認(みと)めた時(とき)よりも、爽(さや)かにはならなかつた。夫(をつと)が役所(やくしよ)から歸(かへ)つて來(き)て見(み)ると、六疊(でふ)で寐(ね)てゐる事(こと)が一二度(ど)あつた。何(ど)うかしたかと尋(たづ)ねると、たゞ少(すこ)し心持(こゝろもち)が惡(わる)いと答(こた)へる丈(だけ)であつた。醫者(いしや)に見(み)て貰(もら)へと勸(すゝ)めると、夫(それ)には及(およ)ばないと云(い)つて取(と)り合(あ)はなかつた。
 宗助(そうすけ)は心配(しんぱい)した。役所(やくしよ)へ出(で)てゐても能(よ)く御米(およね)の事(こと)が氣(き)に掛(かゝ)つて、用(よう)の邪魔(じやま)になるのを意識(いしき)する時(とき)もあつた。所(ところ)がある日(ひ)歸(かへ)りがけに突然(とつぜん)電車(でんしや)の中(なか)で膝(ひざ)を拍(う)つた。その日(ひ)は例(れい)になく元氣(げんき)よく格子(かうし)を明(あ)けて、すぐと勢(いきほひ)よく今日(けふ)は何(ど)うだいと御米(およね)に聞(き)いた。御米(およね)が何時(いつ)もの通(とほ)り服(ふく)や靴足袋(くつたび)を一纏(ひとまと)めにして、六疊(でふ)へ這入(はい)る後(あと)から追(つ)いて來(き)て、
「御米(およね)、御前(おまい)子供(こども)が出來(でき)たんぢやないか」と笑(わら)ひながら云(い)つた。御米(およね)は返事(へんじ)もせずに俯向(うつむ)いてしきりに夫(をつと)の脊廣(せびろ)の埃(ほこり)を拂(はら)つた。刷毛(ブラツシ)の音(おと)が已(や)んでも中々(なか/\)六疊(でふ)から出(で)て來(こ)ないので、又(また)行(い)つて見(み)ると、薄暗(うすぐら)い部屋(へや)の中(なか)で、御米(およね)はたつた一人(ひとり)寒(さむ)さうに、鏡臺(きやうだい)の前(まへ)に坐(すわ)つてゐた。はいと云(い)つて立(た)つたが、其聲(そのこゑ)が泣(な)いた後(あと)の聲(こゑ)の樣(やう)であつた。
 其晩(そのばん)夫婦(ふうふ)は火鉢(ひばち)に掛(か)けた鐵瓶(てつびん)を、双方(さうはう)から手(て)で掩(おほ)ふ樣(やう)にして差(さ)し向(むか)つた。
「何(ど)うですな世(よ)の中(なか)は」と宗助(そうすけ)が例(れい)にない浮(う)いた調子(てうし)を出(だ)した。御米(およね)の頭(あたま)の中(なか)には、夫婦(ふうふ)にならない前(まへ)の、宗助(そうすけ)と自分(じぶん)の姿(すがた)が奇麗(きれい)に浮(うか)んだ。
「ちつと、面白(おもしろ)くしやうぢやないか。此頃(このごろ)は如何(いか)にも不景氣(ふけいき)だよ」と宗助(そうすけ)が又(また)云(い)つた。二人(ふたり)は夫(それ)から今度(こんど)の日曜(にちえう)には一所(いつしよ)に何所(どこ)へ行(い)かうか、此所(こゝ)へ行(い)かうかと、しばらく夫(それ)許(ばかり)話(はな)し合(あ)つてゐた。夫(それ)から二人(ふたり)の春着(はるぎ)の事(こと)が題目(だいもく)になつた。宗助(そうすけ)の同僚(どうれう)の高木(たかぎ)とか云(い)ふ男(をとこ)が、細君(さいくん)に小袖(こそで)とかを強請(ねだ)られた時(とき)、おれは細君(さいくん)の虚榮心(きよえいしん)を滿足(まんぞく)させる爲(ため)に稼(かせ)いでるんぢやないと云(い)つて跳(は)ね付(つ)けたら、細君(さいくん)がそりや非道(ひど)い、實際(じつさい)寒(さむ)くなつても着(き)て出(で)るものがないんだと辯解(べんかい)するので、寒(さむ)ければ已(やむ)を得(え)ない、夜具(やぐ)を着(き)るとか、毛布(けつと)を被(かぶ)るとかして、當分(たうぶん)我慢(がまん)しろと云(い)つた話(はなし)を、宗助(そうすけ)は可笑(おか)しく繰(く)り返(かへ)して御米(およね)を笑(わら)はした。御米(およね)は夫(をつと)の此(この)樣子(やうす)を見(み)て、昔(むかし)が又(また)眼(め)の前(まへ)に戻(もど)つた樣(やう)な氣(き)がした。
「高木(たかぎ)の細君(さいくん)は夜具(やぐ)でも構(かま)はないが、おれは一(ひと)つ新(あた)らしい外套(ぐわいたう)を拵(こしら)えたいな。此間(このあひだ)齒醫者(はいしや)へ行(い)つたら、植木屋(うゑきや)が薦(こも)で盆栽(ぼんさい)の松(まつ)の根(ね)を包(つゝ)んでゐたので、つく/″\左(さ)う思(おも)つた」
「外套(ぐわいたう)が欲(ほ)しいつて」
「あゝ」
 御米(およね)は夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)て、さも氣(き)の毒(どく)だと云(い)ふ風(ふう)に、
「御拵(おこし)らえなさいな。月賦(げつぷ)で」と云(い)つた。宗助(そうすけ)は、
「まあ止(よ)さうよ」と急(きふ)に侘(わび)しく答(こた)へた。さうして「時(とき)に小六(ころく)は何時(いつ)から來(く)る氣(き)なんだらう」と聞(き)いた。
「來(く)るのは厭(いや)なんでせう」と御米(およね)が答(こた)へた。御米(およね)には、自分(じぶん)が始(はじ)めから小六(ころく)に嫌(きら)はれてゐると云(い)ふ自覺(じかく)があつた。それでも夫(をつと)の弟(おとうと)だと思(おも)ふので、成(な)るべくは反(そり)を合(あは)せて、少(すこ)しでも近(ちか)づける樣(やう)に/\と、今日迄(こんにちまで)仕向(しむ)けて來(き)た。その爲(ため)か、今(いま)では以前(いぜん)と違(ちが)つて、まあ普通(ふつう)の小舅(こじうと)位(ぐらゐ)の親(した)しみはあると信(しん)じてゐる樣(やう)なものゝ、斯(こ)んな場合(ばあひ)になると、つい實際(じつさい)以上(いじやう)にも氣(き)を回(まは)して、自分丈(じぶんだけ)が小六(ころく)の來(こ)ない唯一(ゆゐいつ)の原因(げんいん)の樣(やう)に考(かんが)へられるのであつた。
「そりや下宿(げしゆく)からこんな所(ところ)へ移(うつ)るのは好(よ)かあないだらうよ。丁度(ちやうど)此方(こつち)が迷惑(めいわく)を感(かん)ずる通(とほ)り、向(むか)ふでも窮屈(きゆうくつ)を感(かん)ずる譯(わけ)だから。おれだつて、小六(ころく)が來(こ)ないとすれば、今(いま)のうち思(おも)ひ切(き)つて外套(ぐわいたう)を作(つく)る丈(だけ)の勇氣(ゆうき)があるんだけれども」
 宗助(そうすけ)は男丈(をとこだけ)に思(おも)ひ切(き)つて斯(か)う云(い)つて仕舞(しま)つた。けれども是丈(これだけ)では御米(およね)の心(こゝろ)を盡(つく)してゐなかつた。御米(およね)は返事(へんじ)もせずに、しばらく默(だま)つてゐたが、細(ほそ)い腮(あご)を襟(えり)の中(なか)へ埋(う)めた儘(まゝ)、上眼(うはめ)を使(つか)つて、
「小六(ころく)さんは、まだ私(わたくし)の事(こと)を惡(にく)んでゐらつしやるでせうか」と聞(き)き出(だ)した。宗助(そうすけ)が東京(とうきやう)へ來(き)た當座(たうざ)は、時々(とき/″\)是(これ)に類似(るゐじ)の質問(しつもん)を御米(およね)から受(う)けて、其(その)都度(つど)慰(なぐさ)めるのに大分(だいぶ)骨(ほね)の折(を)れた事(こと)もあつたが、近來(きんらい)は全(まつた)く忘(わす)れた樣(やう)に何(なに)も云(い)はなくなつたので、宗助(そうすけ)もつい氣(き)に留(と)めなかつたのである。
「又(また)ヒステリーが始(はじ)まつたね。好(い)いぢやないか小六(ころく)なんぞが、何(ど)う思(おも)つたつて。己(おれ)さえ付(つ)いてれば」
「論語(ろんご)にさう書(か)いてあつて」
 御米(およね)は斯(こ)んな時(とき)に、斯(か)ういふ冗談(じようだん)を云(い)ふ女(をんな)であつた。宗助(そうすけ)は
「うん、書(か)いてある」と答(こた)へた。夫(それ)で二人(ふたり)の會話(くわいわ)が仕舞(しまひ)になつた。
 翌日(よくじつ)宗助(そうすけ)が眼(め)を覺(さ)ますと、亞鉛張(とたんばり)の庇(ひさし)の上(うへ)で寒(さむ)い音(おと)がした。御米(およね)が襷掛(たすきがけ)の儘(まゝ)枕元(まくらもと)へ來(き)て、
「さあ、もう時間(じかん)よ」と注意(ちゆうい)したとき、彼(かれ)は此(この)點滴(てんてき)の音(おと)を聞(き)きながら、もう少(すこ)し暖(あたゝ)かい蒲團(ふとん)の中(なか)に温(ぬく)もつてゐたかつた。けれども血色(けつしよく)の可(よ)くない御米(およね)の、甲斐々々(かひ/″\)しい姿(すがた)を見(み)るや否(いな)や、
「おい」と云(い)つて直(すぐ)起(お)き上(あが)つた。
 外(そと)は濃(こ)い雨(あめ)に鎖(とざ)されてゐた。崖(がけ)の上(うへ)の孟宗竹(まうそうちく)が時々(とき/″\)鬣(たてがみ)を振(ふる)ふ樣(やう)に、雨(あめ)を吹(ふ)いて動(うご)いた。此(この)侘(わ)びしい空(そら)の下(した)へ濡(ぬ)れに出(で)る宗助(そうすけ)に取(と)つて、力(ちから)になるものは、暖(あたゝ)かい味噌汁(みそしる)と暖(あたゝ)かい飯(めし)より外(ほか)になかつた。
「又(また)靴(くつ)の中(なか)が濡(ぬ)れる。何(ど)うしても二足(にそく)持(も)つてゐないと困(こま)る」と云(い)つて、底(そこ)に小(ちひ)さい穴(あな)のあるのを仕方(しかた)なしに穿(は)いて、洋袴(ずぼん)の裾(すそ)を一寸(いつすん)許(ばかり)まくり上(あ)げた。
 午過(ひるすぎ)に歸(かへ)つて來(き)て見(み)ると、御米(およね)は金盥(かなだらひ)の中(なか)に雜巾(ざふきん)を浸(つ)けて、六疊(でふ)の鏡臺(きやうだい)の傍(そば)に置(お)いてゐた。其上(そのうへ)の所(ところ)丈(だけ)天井(てんじやう)の色(いろ)が變(かは)つて、時々(とき/″\)雫(しづく)が落(お)ちて來(き)た。
「靴(くつ)ばかりぢやない。家(うち)の中(なか)迄(まで)濡(ぬ)れるんだね」と云(い)つて宗助(そうすけ)は苦笑(くせう)した。御米(およね)は其晩(そのばん)夫(をつと)の爲(ため)に置炬燵(おきごたつ)へ火(ひ)を入(い)れて、スコツチの靴下(くつした)と縞羅紗(しまラシヤ)の洋袴(ずぼん)を乾(かわ)かした。
 明(あく)る日(ひ)も亦(また)同(おな)じ樣(やう)に雨(あめ)が降(ふ)つた。夫婦(ふうふ)も亦(また)同(おな)じ樣(やう)に同(おな)じ事(こと)を繰(く)り返(かへ)した。その明(あく)る日(ひ)もまだ晴(は)れなかつた。三日目(みつかめ)の朝(あさ)になつて、宗助(そうすけ)は眉(まゆ)を縮(ちゞ)めて舌打(したうち)をした。
「何時(いつ)迄(まで)降(ふ)る氣(き)なんだ。靴(くつ)がじめ/\して我慢(がまん)にも穿(は)けやしない」
「六疊(でふ)だつて困(こま)るわ、あゝ漏(も)つちや」
 夫婦(ふうふ)は相談(さうだん)して、雨(あめ)が晴(は)れ次第(しだい)、家根(やね)を繕(つくろ)つて貰(もら)ふ樣(やう)に家主(やぬし)へ掛(か)け合(あ)ふ事(こと)にした。けれども靴(くつ)の方(はう)は何(なん)とも仕樣(しやう)がなかつた。宗助(そうすけ)はきしんで這入(はい)らないのを無理(むり)に穿(は)いて出(で)て行(い)つた。
 幸(さいはひ)に其(その)日(ひ)は十一時頃(じごろ)からからりと晴(は)れて、垣(かき)に雀(すゞめ)の鳴(な)く小春日和(こはるびより)になつた。宗助(そうすけ)が歸(かへ)つた時(とき)、御米(およね)は例(いつも)より冴(さ)え/″\しい顏色(かほいろ)をして、
「貴方(あなた)、あの屏風(びやうぶ)を賣(う)つちや不可(いけ)なくつて」と突然(とつぜん)聞(き)いた。抱一(はういつ)の屏風(びやうぶ)は先達(せんだつ)て佐伯(さへき)から受取(うけと)つた儘(まゝ)、元(もと)の通(とほ)り書齋(しよさい)の隅(すみ)に立(た)てゝあつたのである。二枚折(まいをり)だけれども、座敷(ざしき)の位置(ゐち)と廣(ひろ)さから云(い)つても、實(じつ)は寧(むし)ろ邪魔(じやま)な裝飾(さうしよく)であつた。南(みなみ)へ廻(まは)すと、玄關(げんくわん)からの入口(いりぐち)を半分(はんぶん)塞(ふさ)いで仕舞(しま)ふし、東(ひがし)へ出(だ)すと暗(くら)くなる、と云(い)つて、殘(のこ)る一方(いつぽう)へ立(た)てれば床(とこ)の間(ま)を隱(かく)すので、宗助(そうすけ)は、
「折角(せつかく)親爺(おやぢ)の記念(かたみ)だと思(おも)つて、取(と)つて來(き)た樣(やう)なものゝ、仕樣(しやう)がないね是(これ)ぢや、場塞(ばふさ)げで」と零(こぼ)した事(こと)も一二度(ど)あつた。其(その)都度(つど)御米(およね)は眞丸(まんまる)な縁(ふち)の燒(や)けた銀(ぎん)の月(つき)と、絹地(きぬぢ)から殆(ほと)んど區別(くべつ)出來(でき)ない樣(やう)な穗芒(ほすゝき)の色(いろ)を眺(なが)めて、斯(こ)んなものを珍重(ちんちよう)する人(ひと)の氣(き)が知(し)れないと云(い)ふ樣(やう)な見(み)えをした。けれども、夫(をつと)を憚(はゞか)つて、明白(あから)さまには何(なん)とも云(い)ひ出(だ)さなかつた。たゞ一返(ぺん)
「是(これ)でも可(い)い繪(ゑ)なんでせうかね」と聞(き)いた事(こと)があつた。其(その)時(とき)宗助(そうすけ)は始(はじ)めて抱一(はういつ)の名(な)を御米(およね)に説明(せつめい)して聞(き)かした。然(しか)しそれは自分(じぶん)が昔(むか)し父(ちゝ)から聞(き)いた覺(おぼえ)のある、朧氣(おぼろげ)な記憶(きおく)を好加減(いゝかげん)に繰(く)り返(かへ)すに過(す)ぎなかつた。實際(じつさい)の畫(ゑ)の價値(かち)や、又(また)抱一(はういつ)に就(つい)ての詳(くは)しい歴史(れきし)などに至(いた)ると宗助(そうすけ)にも其實(そのじつ)甚(はなは)だ覺束(おぼつか)なかつたのである。
 所(ところ)がそれが偶然(ぐうぜん)御米(およね)のために妙(めう)な行爲(かうゐ)の動機(どうき)を構成(かたちづく)る原因(げんいん)となつた。過去(くわこ)一週間(しうかん)夫(をつと)と自分(じぶん)の間(あひだ)に起(おこ)つた會話(くわいわ)に、不圖(ふと)此(この)知識(ちしき)を結(むす)び付(つ)けて考(かんが)へ得(え)た彼女(かのぢよ)は一寸(ちよつと)微笑(ほゝゑ)んだ。この日(ひ)雨(あめ)が上(あが)つて、日脚(ひあし)がさつと茶(ちや)の間(ま)の障子(しやうじ)に射(さ)した時(とき)、御米(およね)は不斷着(ふだんぎ)の上(うへ)へ、妙(めう)な色(いろ)の肩掛(かたかけ)とも、襟卷(えりまき)とも付(つ)かない織物(おりもの)を纏(まと)つて外(そと)へ出(で)た。通(とほ)りを二丁目(ちやうめ)程(ほど)來(き)て、それを電車(でんしや)の方角(はうがく)へ曲(まが)つて眞直(まつすぐ)に來(く)ると、乾物屋(かんぶつや)と麺麭屋(ぱんや)の間(あひだ)に、古道具(ふるだうぐ)を賣(う)つてゐる可(か)なり大(おほ)きな店(みせ)があつた。御米(およね)はかつて其所(そこ)で足(あし)の疊(たゝ)み込(こ)める食卓(しよくたく)を買(か)つた記憶(きおく)がある。今(いま)火鉢(ひばち)に掛(か)けてある鐵瓶(てつびん)も、宗助(そうすけ)が此所(こゝ)から提(さ)げて歸(かへ)つたものである。
 御米(およね)は手(て)を袖(そで)にして道具屋(だうぐや)の前(まへ)に立(た)ち留(ど)まつた。見(み)ると相變(あひかは)らず新(あた)らしい鐵瓶(てつびん)が澤山(たくさん)並(なら)べてあつた。其外(そのほか)には時節柄(じせつがら)とでも云(い)ふのか火鉢(ひばち)が一番(いちばん)多(おほ)く眼(め)に着(つ)いた。然(しか)し骨董(こつとう)と名(な)のつく程(ほど)のものは、一(ひと)つもない樣(やう)であつた。ひとり何(なん)とも知(し)れぬ大(おほ)きな龜(かめ)の甲(かふ)が、眞向(まむかふ)に釣(つ)るしてあつて、其下(そのした)から長(なが)い黄(き)ばんだ拂子(ほつす)が尻尾(しつぽ)の樣(やう)に出(で)てゐた。それから紫檀(したん)の茶棚(ちやだな)が一(ひと)つ二(ふた)つ飾(かざ)つてあつたが、何(いづ)れも狂(くるひ)の出(で)さうな生(なま)なもの許(ばかり)であつた。然(しか)し御米(およね)にはそんな區別(くべつ)は一向(いつかう)映(うつ)らなかつた。たゞ掛物(かけもの)も屏風(びやうぶ)も一(ひと)つも見當(みあた)らない事(こと)丈(だけ)確(たし)かめて、中(なか)へ這入(はい)つた。
 御米(およね)は無論(むろん)夫(をつと)が佐伯(さへき)から受取(うけと)つた屏風(びやうぶ)を、幾何(いくら)かに賣(う)り拂(はら)ふ積(つもり)でわざ/\此所(こゝ)迄(まで)足(あし)を運(はこ)んだのであるが、廣島(ひろしま)以來(いらい)かう云(い)ふ事(こと)に大分(だいぶ)經驗(けいけん)を積(つ)んだ御蔭(おかげ)で、普通(ふつう)の細君(さいくん)の樣(やう)な努力(どりよく)も苦痛(くつう)も感(かん)ぜずに、思(おも)ひ切(き)つて亭主(ていしゆ)と口(くち)を利(き)く事(こと)が出來(でき)た。亭主(ていしゆ)は五十恰好(がつかう)の色(いろ)の黒(くろ)い頬(ほゝ)の瘠(こけ)た男(をとこ)で、鼈甲(べつかふ)の縁(ふち)を取(と)つた馬鹿(ばか)に大(おほ)きな眼鏡(めがね)を掛(か)けて、新聞(しんぶん)を讀(よ)みながら、疣(いぼ)だらけの唐金(からかね)の火鉢(ひばち)に手(て)を翳(かざ)してゐた。
「さうですな、拜見(はいけん)に出(で)ても可(よ)うがす」と輕(かる)く受合(うけあ)つたが、別(べつ)に氣(き)の乘(の)つた樣子(やうす)もないので、御米(およね)は腹(はら)の中(なか)で少(すこ)し失望(しつばう)した。然(しか)し自分(じぶん)からが既(すで)に大(たい)した望(のぞみ)を抱(いだ)いて出(で)て來(き)た譯(わけ)でもないので、斯(か)う簡易(かんい)に受(う)けられると、此方(こつち)から頼(たの)む樣(やう)にしても、見(み)て貰(もら)はなければならなかつた。
「可(よ)うがす。ぢや後程(のちほど)伺(うかゞ)ひませう。今(いま)小僧(こぞう)が一寸(ちよつと)出(で)て居(を)りませんからな」
 御米(およね)は此(この)存在(ぞんざい)な言葉(ことば)を聞(き)いて其儘(そのまゝ)宅(うち)へ歸(かへ)つたが、心(こゝろ)の中(なか)では、果(はた)して道具屋(だうぐや)が來(く)るか來(こ)ないか甚(はなは)だ疑(うたが)はしく思(おも)つた。一人(ひとり)で何時(いつ)もの樣(やう)に簡單(かんたん)な食事(しよくじ)を濟(す)まして、清(きよ)に膳(ぜん)を下(さ)げさしてゐると、いきなり御免(ごめん)下(くだ)さいと云(い)つて、大(おほ)きな聲(こゑ)を出(で)して道具屋(だうぐや)が玄關(げんくわん)から遣(や)つて來(き)た。座敷(ざしき)へ上(あ)げて、例(れい)の屏風(びやうぶ)を見(み)せると、成程(なるほど)と云(い)つて裏(うら)だの縁(ふち)だのを撫(な)でてゐたが、
「御拂(おはらひ)になるなら」と少(すこ)し考(かんが)へて、「六圓(ゑん)に頂(いたゞ)いて置(お)きませう」と否々(いや/\)さうに價(ね)を付(つ)けた。御米(およね)には道具屋(だうぐや)の付(つ)けた相場(さうば)が至當(したう)の樣(やう)に思(おも)はれた。けれども一應(いちおう)宗助(そうすけ)に話(はな)してからでなくつては、餘(あま)り專斷(せんだん)過(す)ぎると心付(こゝろづ)いた上(うへ)、品物(しなもの)の歴史(れきし)が歴史(れきし)だけに、猶更(なほさら)遠慮(ゑんりよ)して、何(いづ)れ歸(かへ)つたら能(よ)く相談(さうだん)して見(み)た上(うへ)でと答(こた)へた儘(まゝ)、道具屋(だうぐや)を歸(かへ)さうとした。道具屋(だうぐや)は出掛(でがけ)に、
「ぢや、奧(おく)さん折角(せつかく)だから、もう一圓(ゑん)奮發(ふんぱつ)しませう。夫(それ)で御拂(おはら)ひ下(くだ)さい」と云(い)つた。御米(およね)は其時(そのとき)思(おも)ひ切(き)つて、
「でも、道具屋(だうぐや)さん、ありや抱一(はういつ)ですよ」と答(こた)へて、腹(はら)の中(なか)ではひやりとした。道具屋(だうぐや)は、平氣(へいき)で、
「抱一(はういつ)は近來(きんらい)流行(はやり)ませんからな」と受(う)け流(なが)したが、じろ/\御米(およね)の姿(すがた)を眺(なが)めた上(うへ)、
「ぢや猶(なほ)能(よ)く御相談(ごさうだん)なすつて」と云(い)ひ捨(す)てゝ歸(かへ)つて行(い)つた。
 御米(およね)は其時(そのとき)の模樣(もやう)を詳(くは)しく話(はな)した後(あと)で、
「賣(う)つちや不可(いけ)なくつて」と又(また)無邪氣(むじやき)に聞(き)いた。
 宗助(そうすけ)の頭(あたま)の中(なか)には、此(この)間(あひだ)から物質上(ぶつしつじやう)の欲求(よくきう)が、絶(た)えず動(うご)いてゐた。たゞ地味(ぢみ)な生活(せいくわつ)をしなれた結果(けつくわ)として、足(た)らぬ家計(くらし)を足(た)ると諦(あき)らめる癖(くせ)が付(つ)いてゐるので、毎月(まいげつ)極(きま)つて這入(はい)るものゝ外(ほか)には、臨時(りんじ)に不意(ふい)の工面(くめん)をしてまで、少(すこ)しでも常(つね)以上(いじやう)に寛(くつ)ろいで見(み)やうと云(い)ふ働(はたらき)は出(で)なかつた。話(はなし)を聞(き)いたとき彼(かれ)は寧(むし)ろ御米(およね)の機敏(きびん)な才覺(さいかく)に驚(おど)ろかされた。同時(どうじ)に果(はた)して夫丈(それだけ)の必要(ひつえう)があるかを疑(うたが)つた。御米(およね)の思(おも)はくを聞(き)いて見(み)ると、此所(こゝ)で十圓(ゑん)足(た)らずの金(かね)が入(はひ)れば、宗助(そうすけ)の穿(は)く新(あた)らしい靴(くつ)を誂(あつ)らへた上(うへ)、銘仙(めいせん)の一反(たん)位(ぐらゐ)は買(か)へると云(い)ふのである。宗助(そうすけ)は夫(それ)もさうだと思(おも)つた。けれども親(おや)から傳(つた)はつた抱一(はういつ)の屏風(びやうぶ)を一方(いつぱう)に置(お)いて、片方(かたはう)に新(あた)らしい靴(くつ)及(およ)び新(あた)らしい銘仙(めいせん)を並(なら)べて考(かんが)へて見(み)ると、此(この)二(ふた)つを交換(かうくわん)する事(こと)が如何(いか)にも突飛(とつぴ)で且(かつ)滑稽(こつけい)であつた。
「賣(う)るなら賣(う)つて可(い)いがね。どうせ家(うち)に在(あ)つたつて邪魔(じやま)になる許(ばかり)だから。けれども己(おれ)はまだ靴(くつ)は買(か)はないでも濟(す)むよ。此間中(このあひだぢゆう)見(み)た樣(やう)に、降(ふ)り續(つゞ)けに降(ふ)られると困(こま)るが、もう天氣(てんき)も好(よ)くなつたから」
「だつて又(また)降(ふ)ると困(こま)るわ」
 宗助(そうすけ)は御米(およね)に對(たい)して永久(えいきう)に天氣(てんき)を保證(ほしよう)する譯(わけ)にも行(ゆ)かなかつた。御米(およね)も降(ふ)らない前(まへ)に是非(ぜひ)屏風(びやうぶ)を賣(う)れとも云(い)ひかねた。二人(ふたり)は顏(かほ)を見合(みあは)して笑(わら)つてゐた。やがて、
「安過(やすす)ぎるでせうか」と御米(およね)が聞(き)いた。
「左(さ)うさな」と宗助(そうすけ)が答(こた)へた。
 彼(かれ)は安(やす)いと云(い)はれゝば、安(やす)い樣(やう)な氣(き)がした。もし買手(かひて)があれば、買手(かひて)の出(だ)す丈(だけ)の金(かね)は幾何(いくら)でも取(と)りたかつた。彼(かれ)は新聞(しんぶん)で、近來(きんらい)古書畫(こしよぐわ)の入札(にふさつ)が非常(ひじやう)に高價(かうか)になつた事(こと)を見(み)た樣(やう)な心持(こゝろもち)がした。責(せ)めてそんなものが一幅(ぷく)でもあつたらと思(おも)つた。けれども夫(それ)は自分(じぶん)の呼吸(こきふ)する空氣(くうき)の屆(とゞ)くうちには、落(お)ちてゐないものと諦(あきら)めてゐた。
「買手(かひて)にも因(よ)るだらうが、賣手(うりて)にも因(よ)るんだよ。いくら名畫(めいぐわ)だつて、己(おれ)が持(も)つてゐた分(ぶん)には到底(たうてい)さう高(たか)く賣(う)れつこはないさ。然(しか)し七圓(ゑん)や八圓(ゑん)てえな、餘(あんま)り安(やす)い樣(やう)だね」
 宗助(そうすけ)は抱一(はういつ)の屏風(びやうぶ)を辯護(べんご)すると共(とも)に、道具屋(だうぐや)をも辯護(べんご)する樣(やう)な語氣(き)を洩(も)らした。さうしてたゞ自分(じぶん)丈(だけ)が辯護(べんご)に價(あたひ)しないものゝ樣(やう)に感(かん)じた。御米(およね)も少(すこ)し氣(き)を腐(くさ)らした氣味(きみ)で、屏風(びやうぶ)の話(はなし)は夫(それ)なりにした。
 翌日(あくるひ)宗助(そうすけ)は役所(やくしよ)へ出(で)て、同僚(どうれう)の誰彼(だれかれ)に此(この)話(はなし)をした。すると皆(みな)申(まを)し合(あは)せた樣(やう)に、夫(それ)は價(ね)ぢやないと云(い)つた。けれども誰(だれ)も自分(じぶん)が周旋(しうせん)して、相當(さうたう)の價(ね)に賣拂(うりはら)つてやらうと云(い)ふものはなかつた。又(また)どう云(い)ふ筋(すぢ)を通(とほ)れば、馬鹿(ばか)な目(め)に逢(あ)はないで濟(す)むといふ手續(てつゞき)を教(をし)へて呉(く)れるものもなかつた。宗助(そうすけ)は矢張(やつぱり)横町(よこちやう)の道具屋(だうぐや)に屏風(びやうぶ)を賣(う)るより外(ほか)に仕方(しかた)がなかつた。それでなければ元(もと)の通(とほ)り邪魔(じやま)でも何(なん)でも座敷(ざしき)へ立(た)てゝ置(お)くより外(ほか)に仕方(しかた)がなかつた。彼(かれ)は元(もと)の通(とほ)りそれを座敷(ざしき)へ立(た)てゝ置(お)いた。すると道具屋(だうぐや)が來(き)て、あの屏風(びやうぶ)を十五圓(ゑん)に賣(う)つてくれと云(い)ひ出(で)した。夫婦(ふうふ)は顏(かほ)を見合(みあは)して微笑(ほゝゑ)んだ。もう少(すこ)し賣(う)らずに置(お)いて見樣(みやう)ぢやないかと云(い)つて、賣(う)らずに置(お)いた。すると道具屋(だうぐや)が又(また)來(き)た。又(また)賣(う)らなかつた。御米(およね)は斷(ことわ)るのが面白(おもしろ)くなつて來(き)た。四度目(よたびめ)には知(し)らない男(をとこ)を一人(ひとり)連(つ)れて來(き)たが、其(その)男(をとこ)とこそこそ相談(さうだん)して、とう/\三十五圓(ゑん)に價(ね)を付(つ)けた。其時(そのとき)夫婦(ふうふ)も立(た)ちながら相談(さうだん)した。さうして遂(つひ)に思(おも)ひ切(き)つて屏風(びやうぶ)を賣(う)り拂(はら)つた。

 圓明寺(ゑんみやうじ)の杉(すぎ)が焦(こ)げた樣(やう)に赭黒(あかぐろ)くなつた。天氣(てんき)の好(い)い日(ひ)には、風(かぜ)に洗(あら)はれた空(そら)の端(は)ずれに、白(しろ)い筋(すぢ)の嶮(けは)しく見(み)える山(やま)が出(で)た。年(とし)は宗助(そうすけ)夫婦(ふうふ)を驅(か)つて日毎(ひごと)に寒(さむ)い方(はう)へ吹(ふ)き寄(よ)せた。朝(あさ)になると缺(か)かさず通(とほ)る納豆賣(なつとううり)の聲(こゑ)が、瓦(かはら)を鎖(とざ)す霜(しも)の色(いろ)を連想(れんさう)せしめた。宗助(そうすけ)は床(とこ)の中(なか)で其(その)聲(こゑ)を聞(き)きながら、又(また)冬(ふゆ)が來(き)たと思(おも)ひ出(だ)した。御米(およね)は臺所(だいどころ)で、今年(ことし)も去年(きよねん)の樣(やう)に水道(すゐだう)の栓(せん)が氷(こほ)つて呉(く)れなければ助(たす)かるがと、暮(くれ)から春(はる)へ掛(か)けての取越苦勞(とりこしぐらう)をした。夜(よる)になると夫婦(ふうふ)とも炬燵(こたつ)にばかり親(した)しんだ。さうして廣島(ひろしま)や福岡(ふくをか)の暖(あたゝ)かい冬(ふゆ)を羨(うら)やんだ。
「丸(まる)で前(まへ)の本多(ほんだ)さん見(み)た樣(やう)ね」と御米(およね)が笑(わら)つた。前(まへ)の本多(ほんだ)さんと云(い)ふのは、矢張(やは)り同(おな)じ構内(かまへうち)に住(す)んで、同(おな)じ坂井(さかゐ)の貸家(かしや)を借(か)りてゐる隱居夫婦(いんきよふうふ)であつた。小女(こをんな)を一人(ひとり)使(つか)つて、朝(あさ)から晩迄(ばんまで)ことりと音(おと)もしない樣(やう)に靜(しづ)かな生計(くらし)を立(た)てゝゐた。御米(およね)が茶(ちや)の間(ま)で、たつた一人(ひとり)裁縫(しごと)をしてゐると、時々(とき/″\)御爺(おぢい)さんと云(い)ふ聲(こゑ)がした。それは此(この)本多(ほんだ)の御婆(おばあ)さんが夫(をつと)を呼(よ)ぶ聲(こゑ)であつた。門口(かどぐち)抔(など)で行(ゆ)き逢(あ)ふと、丁寧(ていねい)に時候(じこう)の挨拶(あいさつ)をして、ちと御話(おはなし)に入(い)らつしやいと云(い)ふが、遂(つひ)ぞ行(い)つた事(こと)もなければ、向(むか)ふからも來(き)た試(ためし)がない。從(したが)つて夫婦(ふうふ)の本多(ほんだ)さんに關(くわん)する知識(ちしき)は極(きは)めて乏(とぼ)しかつた。たゞ息子(むすこ)が一人(ひとり)あつて、それが朝鮮(てうせん)の統監府(とうかんふ)とかで、立派(りつぱ)な役人(やくにん)になつてゐるから、月々(つき/″\)其方(そのはう)の仕送(しおくり)で、氣樂(きらく)に暮(く)らして行(ゆ)かれるのだと云(い)ふ事(こと)丈(だけ)を、出入(でいり)の商人(しやうにん)のあるものから耳(みゝ)にした。
「御爺(おぢい)さんは矢(や)つ張(ぱ)り植木(うゑき)を弄(いぢ)つてゐるかい」
「段々(だん/\)寒(さむ)くなつたから、もう已(や)めたんでせう。縁(えん)の下(した)に植木鉢(うゑきばち)が澤山(たくさん)並(なら)んでるわ」
 話(はなし)は夫(それ)から前(まへ)の家(うち)を離(はな)れて、家主(やぬし)の方(はう)へ移(うつ)つた。是(これ)は、本多(ほんだ)とは丸(まる)で反對(はんたい)で、夫婦(ふうふ)から見(み)ると、此上(このうへ)もない賑(にぎ)やかさうな家庭(かてい)に思(おも)はれた。此頃(このごろ)は庭(には)が荒(あ)れてゐるので、大勢(おほぜい)の小供(こども)が崖(がけ)の上(うへ)へ出(で)て騷(さわ)ぐ事(こと)がなくなつたが、ピヤノの音(おと)は毎晩(まいばん)の樣(やう)にする。折々(をり/\)は下女(げぢよ)か何(なん)ぞの、臺所(だいどころ)の方(はう)で高笑(たかわらひ)をする聲(こゑ)さへ、宗助(そうすけ)の茶(ちや)の間(ま)迄(まで)響(ひゞ)いて來(き)た。
「ありや一體(いつたい)何(なに)をする男(をとこ)なんだい」と宗助(そうすけ)が聞(き)いた。此(この)問(とひ)は今迄(いままで)も幾度(いくたび)か御米(およね)に向(むか)つて繰(く)り返(かへ)されたものであつた。
「何(なん)にもしないで遊(あす)んでるんでせう。地面(ぢめん)や家作(かさく)を持(も)つて」と御米(およね)が答(こた)へた。此(この)答(こたへ)も今迄(いままで)にもう何遍(なんべん)か宗助(そうすけ)に向(むか)つて繰(く)り返(かへ)されたものであつた。
 宗助(そうすけ)は是(これ)より以上(いじやう)立(た)ち入(い)つて坂井(さかゐ)の事(こと)を聞(き)いた事(こと)がなかつた。學校(がくかう)を已(や)めた當座(たうざ)は、順境(じゆんきやう)にゐて得意(とくい)な振舞(ふるまひ)をするものに逢(あ)ふと、今(いま)に見(み)ろと云(い)ふ氣(き)も起(おこ)つた。それが少時(しばら)くすると、單(たん)なる憎惡(ぞうを)の念(ねん)に變化(へんくわ)した。所(ところ)が一二年(ねん)此方(このかた)は全(まつた)く自他(じた)の差違(さゐ)に無頓着(むとんぢやく)になつて、自分(じぶん)は自分(じぶん)の樣(やう)に生(うま)れ付(つ)いたもの、先(さき)は先(さき)の樣(やう)な運(うん)を持(も)つて世(よ)の中(なか)へ出(で)て來(き)たもの、兩方共(りやうはうとも)始(はじめ)から別種類(べつしゆるゐ)の人間(にんげん)だから、たゞ人間(にんげん)として生息(せいそく)する以外(いぐわい)に、何(なん)の交渉(かうせふ)も利害(りがい)もないのだと考(かんが)へる樣(やう)になつてきた。たまに世間話(せけんばなし)の序(ついで)として、ありや一體(いつたい)何(なに)をしてゐる人(ひと)だ位(ぐらゐ)は聞(き)きもするが、それより先(さき)は、教(をし)へて貰(もら)ふ努力(どりよく)さへ出(だ)すのが面倒(めんだう)だつた。御米(およね)にもこれと同(おな)じ傾(かたむ)きがあつた。けれども其夜(そのよ)は珍(めづ)らしく、坂井(さかゐ)の主人(しゆじん)は四十恰好(がつかう)の髯(ひげ)のない人(ひと)であると云(い)ふ事(こと)やら、ピヤノを彈(ひ)くのは惣領(そうりやう)の娘(むすめ)で十二三になると云(い)ふ事(こと)やら、又(また)外(ほか)の家(うち)の小供(こども)が遊(あそ)びに來(き)ても、ブランコへ乘(の)せて遣(や)らないと云(い)ふ事(こと)やらを話(はな)した。
「何故(なぜ)外(ほか)の家(うち)の子供(こども)はブランコへ乘(の)せないんだい」
「詰(つま)り吝(けち)なんでせう。早(はや)く惡(わる)くなるから」
 宗助(そうすけ)は笑(わら)ひ出(だ)した。彼(かれ)は其位(そのくらゐ)吝嗇(けち)な家主(やぬし)が、屋根(やね)が漏(も)ると云(い)へば、すぐ瓦師(かはらし)を寄(よ)こして呉(く)れる、垣(かき)が腐(くさ)つたと訴(うつた)へればすぐ植木屋(うゑきや)に手(て)を入(い)れさして呉(く)れるのは矛盾(むじゆん)だと思(おも)つたのである。
 其晩(そのばん)宗助(そうすけ)の夢(ゆめ)には本多(ほんだ)の植木鉢(うゑきばち)も坂井(さかゐ)のブランコもなかつた。彼(かれ)は十時半頃(じはんごろ)床(とこ)に入(はひ)つて、萬象(ばんしやう)に疲(つか)れた人(ひと)の樣(やう)に鼾(いびき)をかいた。此間(このあひだ)から頭(あたま)の具合(ぐあひ)がよくないため、寐付(ねつき)の惡(わる)いのを苦(く)にしてゐた御米(およね)は、時々(とき/″\)眼(め)を開(あ)けて薄暗(うすぐら)い部屋(へや)を眺(なが)めた。細(ほそ)い灯(ひ)が床(とこ)の間(ま)の上(うへ)に乘(の)せてあつた。夫婦(ふうふ)は夜中(よぢゆう)燈火(あかり)を點(つ)けて置(お)く習慣(しふくわん)が付(つ)いてゐるので、寐(ね)る時(とき)はいつでも心(しん)を細目(ほそめ)にして洋燈(らんぷ)を此所(こゝ)へ上(あ)げた。
 御米(およね)は氣(き)にする樣(やう)に枕(まくら)の位置(ゐち)を動(うご)かした。さうして其度(そのたび)に、下(した)にしてゐる方(はう)の肩(かた)の骨(ほね)を、蒲團(ふとん)の上(うへ)で滑(すべ)らした。仕舞(しまひ)には腹這(はらばひ)になつた儘(まゝ)、兩肱(りやうひぢ)を突(つ)いて、しばらく夫(をつと)の方(はう)を眺(なが)めてゐた。夫(それ)から起(お)き上(あが)つて、夜具(やぐ)の裾(すそ)に掛(か)けてあつた不斷着(ふだんぎ)を、寐卷(ねまき)の上(うへ)へ羽織(はお)つたなり、床(とこ)の間(ま)の洋燈(らんぷ)を取(と)り上(あ)げた。
「貴方々々(あなた/\)」と宗助(そうすけ)の枕元(まくらもと)へ來(き)て曲(こゞ)みながら呼(よ)んだ。其時(そのとき)夫(をつと)はもう鼾(いびき)をかいてゐなかつた。けれども、元(もと)の通(とほ)り深(ふか)い眠(ねむり)から來(く)る呼吸(いき)を續(つゞ)けてゐた。御米(およね)は又(また)立(た)ち上(あが)つて、洋燈(らんぷ)を手(て)にした儘(まゝ)、間(あひ)の襖(ふすま)を開(あ)けて茶(ちや)の間(ま)へ出(で)た。暗(くら)い部屋(へや)が茫漠(ぼんやり)手元(てもと)の灯(ひ)に照(て)らされた時(とき)、御米(およね)は鈍(にぶ)く光(ひか)る箪笥(たんす)の環(くわん)を認(みと)めた。夫(それ)を通(とほ)り過(す)ぎると黒(くろ)く燻(くす)ぶつた臺所(だいどころ)に、腰障子(こししやうじ)の紙丈(かみだけ)が白(しろ)く見(み)えた。御米(およね)は火(ひ)の氣(け)のない眞中(まんなか)に、少時(しばらく)佇(たゝ)ずんでゐたが、やがて右手(みぎて)に當(あた)る下女部屋(げぢよべや)の戸(と)を、音(おと)のしない樣(やう)にそつと引(ひ)いて、中(なか)へ洋燈(らんぷ)の灯(ひ)を翳(かざ)した。下女(げぢよ)は縞(しま)も色(いろ)も判然(はつきり)映(うつ)らない夜具(やぐ)の中(なか)に、土龍(もぐら)の如(ごと)く塊(かた)まつて寐(ね)てゐた。今度(こんど)は左側(ひだりがは)の六疊(でふ)を覗(のぞ)いた。がらんとして淋(さみ)しい中(なか)に、例(れい)の鏡臺(きやうだい)が置(お)いてあつて、鏡(かゞみ)の表(おもて)が夜中(よなか)丈(だけ)に凄(すご)く眼(め)に應(こた)へた。
 御米(およね)は家中(うちぢゆう)を一回(ひとまはり)回(まは)つた後(あと)、凡(すべ)てに異状(いじやう)のない事(こと)を確(たし)かめた上(うへ)、又(また)床(とこ)の中(なか)へ戻(もど)つた。さうして漸(やうや)く眼(め)を眠(ねむ)つた。今度(こんど)は好(い)い具合(ぐあひ)に、眼蓋(まぶた)のあたりに氣(き)を遣(つか)はないで濟(す)む樣(やう)に覺(おぼ)えて、少時(しばらく)するうちに、うと/\とした。
 すると又(また)不圖(ふと)眼(め)が開(あ)いた。何(なん)だかずしんと枕元(まくらもと)で響(ひゞ)いた樣(やう)な心持(こゝろもち)がする。耳(みゝ)を枕(まくら)から離(はな)して考(かんが)へると、それはある大(おほ)きな重(おも)いものが裏(うら)の崖(がけ)から自分達(じぶんたち)の寐(ね)てゐる座敷(ざしき)の縁(えん)の外(そと)へ轉(ころ)がり落(お)ちたとしか思(おも)はれなかつた。しかも今(いま)眼(め)が覺(さ)めるすぐ前(まへ)に起(おこ)つた出來事(できごと)で、決(けつ)して夢(ゆめ)の續(つゞき)ぢやないと考(かんが)へた時(とき)、御米(およね)は急(きふ)に氣味(きみ)を惡(わる)くした。さうして傍(そば)に寐(ね)てゐる夫(をつと)の夜具(やぐ)の袖(そで)を引(ひ)いて、今度(こんど)は眞面目(まじめ)に宗助(そうすけ)を起(おこ)し始(はじ)めた。
 宗助(そうすけ)は夫迄(それまで)全(まつた)く能(よ)く寐(ね)てゐたが、急(きふ)に眼(め)が覺(さ)めると、御米(およね)が、
「貴方(あなた)一寸(ちよつと)起(お)きて下(くだ)さい」と搖(ゆす)つてゐたので、半分(はんぶん)は夢中(むちゆう)に、
「おい、好(よ)し」とすぐ蒲團(ふとん)の上(うへ)へ起(お)き直(なほ)つた。御米(およね)は小聲(こごゑ)で先刻(さつき)からの樣子(やうす)を話(はな)した。
「音(おと)は一遍(いつぺん)した限(ぎり)なのかい」
「だつて今(いま)した許(ばかり)なのよ」
 二人(ふたり)はそれで默(だま)つた。たゞ凝(じつ)と外(そと)の樣子(やうす)を伺(うかゞ)つてゐた。けれども世間(せけん)は森(しん)と靜(しづか)であつた。いつまで耳(みゝ)を峙(そばだ)てゝゐても、再(ふたゝ)び物(もの)の落(お)ちて來(く)る氣色(けしき)はなかつた。宗助(そうすけ)は寒(さむ)いと云(い)ひ乍(なが)ら、單衣(ひとへ)の寐卷(ねまき)の上(うへ)へ羽織(はおり)を被(かぶ)つて、縁側(えんがは)へ出(で)て、雨戸(あまど)を一枚(まい)繰(く)つた。外(そと)を覗(のぞ)くと何(なん)にも見(み)えない。たゞ暗(くら)い中(なか)から寒(さむ)い空氣(くうき)が俄(には)かに肌(はだ)に逼(せま)つて來(き)た。宗助(そうすけ)はすぐ戸(と)を閉(た)てた。
 ※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)(かきがね)を卸(おろ)して座敷(ざしき)へ戻(もど)るや否(いな)や、また蒲團(ふとん)の中(なか)へ潛(もぐ)り込(こ)んだが、
「何(なん)にも變(かは)つた事(こと)はありやしない。多分(たぶん)御前(おまへ)の夢(ゆめ)だらう」と云(い)つて、宗助(そうすけ)は横(よこ)になつた。御米(およね)は決(けつ)して夢(ゆめ)でないと主張(しゆちやう)した。慥(たしか)に頭(あたま)の上(うへ)で大(おほ)きな音(おと)がしたのだと固執(こしつ)した。宗助(そうすけ)は夜具(やぐ)から半分(はんぶん)出(だ)した顏(かほ)を、御米(およね)の方(はう)へ振(ふ)り向(む)けて、
「御米(およね)、御前(おまへ)は神經(しんけい)が過敏(くわびん)になつて、近頃(ちかごろ)何(ど)うかしてゐるよ。もう少(すこ)し頭(あたま)を休(やす)めて能(よ)く寐(ね)る工夫(くふう)でもしなくつちや不可(いけ)ない」と云(い)つた。
 其時(そのとき)次(つぎ)の間(ま)の柱時計(はしらどけい)が二時(じ)を打(う)つた。其音(そのおと)で二人(ふたり)とも一寸(ちよつと)言葉(ことば)を途切(とぎ)らして、默(だま)つて見(み)ると、夜(よ)は更(さら)に靜(しづ)まり返(かへ)つた樣(やう)に思(おも)はれた。二人(ふたり)は眼(め)が冴(さ)えて、すぐ寐付(ねつ)かれさうにもなかつた。御米(およね)が、
「でも貴方(あなた)は氣樂(きらく)ね。横(よこ)になると十分(ぷん)經(た)たないうちに、もう寐(ね)て入(い)らつしやるんだから」と云(い)つた。
「寐(ね)る事(こと)は寐(ね)るが、氣(き)が樂(らく)で寐(ね)られるんぢやない。つまり疲(つか)れるからよく寐(ね)るんだらう」と宗助(そうすけ)が答(こた)へた。
 斯(こ)んな話(はなし)をしてゐるうちに宗助(そうすけ)は又(また)寐入(ねい)つて仕舞(しま)つた。御米(およね)は依然(いぜん)として、のつそつ床(とこ)の中(なか)で動(うご)いてゐた。すると表(おもて)をがら/\と烈(はげ)しい音(おと)を立(た)てゝ車(くるま)が一臺(いちだい)通(とほ)つた。近頃(ちかごろ)御米(およね)は時々(とき/″\)夜明前(よあけまへ)の車(くるま)の音(おと)を聞(き)いて驚(おど)ろかされる事(こと)があつた。さうして夫(それ)を思(おも)ひ合(あ)はせると、何時(いつ)も似寄(によ)つた刻限(こくげん)なので、必竟(ひつきやう)は毎朝(まいあさ)同(おな)じ車(くるま)が同(おな)じ所(ところ)を通(とほ)るのだらうと推測(すゐそく)した。多分(たぶん)牛乳(ぎうにゆう)を配達(はいたつ)するためか抔(など)で、あゝ急(いそ)ぐに違(ちがひ)ないと極(き)めてゐたから、此音(このおと)を聞(き)くと等(ひと)しく、もう夜(よ)が明(あ)けて、隣人(りんじん)の活動(くわつどう)が始(はじま)つた如(ごと)くに、心丈夫(こゝろぢやうぶ)になつた。さう斯(か)うしてゐると、何所(どこ)かで鷄(とり)の聲(こゑ)が聞(きこ)えた。又(また)少時(しばらく)すると、下駄(げた)の音(おと)を高(たか)く立(た)てゝ徃來(わうらい)を通(とほ)るものがあつた。そのうち清(きよ)が下女部屋(げぢよべや)の戸(と)を開(あ)けて厠(かはや)へ起(お)きた模樣(もやう)だつたが、やがて茶(ちや)の間(ま)へ來(き)て時計(とけい)を見(み)てゐるらしかつた。此時(このとき)床(とこ)の間(ま)に置(お)いた洋燈(らんぷ)の油(あぶら)が減(へ)つて、短(みじ)かい心(しん)に屆(とゞ)かなくなつたので、御米(およね)の寐(ね)てゐる所(ところ)は眞暗(まつくら)になつてゐた。其所(そこ)へ清(きよ)の手(て)にした灯火(あかり)の影(かげ)が、襖(ふすま)の間(あひだ)から射(さ)し込(こ)んだ。
「清(きよ)かい」と御米(およね)が聲(こゑ)を掛(か)けた。
 清(きよ)は夫(それ)からすぐ起(お)きた。三十分(ぷん)程(ほど)經(た)つて御米(およね)も起(お)きた。又(また)三十分(ぷん)程(ほど)經(た)つて宗助(そうすけ)も遂(つひ)に起(お)きた。平常(いつも)は好(い)い時分(じぶん)に御米(およね)が遣(や)つて來(き)て、
「もう起(お)きても可(よ)くつてよ」と云(い)ふのが例(れい)であつた。日曜(にちえう)とたまの旗日(はたび)には、それが、
「さあ最(も)う起(お)きて頂戴(ちようだい)」に變(かは)る丈(だけ)であつた。然(しか)し今日(けふ)は昨夕(ゆうべ)の事(こと)が何(なん)となく氣(き)にかゝるので、御米(およね)の迎(むかひ)に來(こ)ないうち宗助(そうすけ)は床(とこ)を離(はな)れた。さうして直(すぐ)崖下(がけした)の雨戸(あまど)を繰(く)つた。
 下(した)から覗(のぞ)くと、寒(さむ)い竹(たけ)が朝(あさ)の空氣(くうき)に鎖(とざ)されて凝(じつ)としてゐる後(うしろ)から、霜(しも)を破(やぶ)る日(ひ)の色(いろ)が射(さ)して、幾分(いくぶん)か頂(いたゞき)を染(そ)めてゐた。其(その)二尺(にしやく)程(ほど)下(した)の勾配(こうばい)の一番(いちばん)急(きふ)な所(ところ)に生(は)えてゐる枯草(かれくさ)が、妙(めう)に摺(す)り剥(む)けて、赤土(あかつち)の肌(はだ)を生々(なま/\)しく露出(ろしゆつ)した樣子(やうす)に、宗助(そうすけ)は一寸(ちよつと)驚(おど)ろかされた。それから一直線(いつちよくせん)に降(お)りて、丁度(ちやうど)自分(じぶん)の立(た)つてゐる縁鼻(えんばな)の土(つち)が、霜柱(しもばしら)を摧(くだ)いた樣(やう)に荒(あ)れてゐた。宗助(そうすけ)は大(おほ)きな犬(いぬ)でも上(うへ)から轉(ころ)がり落(お)ちたのぢやなからうかと思(おも)つた。然(しか)し犬(いぬ)にしては幾何(いくら)大(おほ)きいにしても、餘(あま)り勢(いきほひ)が烈(はげ)し過(す)ぎると思(おも)つた。
 宗助(そうすけ)は玄關(げんくわん)から下駄(げた)を提(さ)げて來(き)て、すぐ庭(には)へ下(お)りた。縁(えん)の先(さき)へ便所(べんじよ)が折(お)れ曲(まが)つて突(つ)き出(だ)してゐるので、いとゞ狹(せま)い崖下(がけした)が、裏(うら)へ拔(ぬ)ける半間(はんげん)程(ほど)の所(ところ)は猶更(なほさら)狹苦(せまくる)しくなつてゐた。御米(およね)は掃除屋(さうぢや)が來(く)るたびに、此(この)曲(まが)り角(かど)を氣(き)にしては、
「彼所(あすこ)がもう少(すこ)し廣(ひろ)いと可(い)いけれども」と危險(あぶな)がるので、よく宗助(そうすけ)から笑(わら)はれた事(こと)があつた。
 其所(そこ)を通(とほ)り拔(ぬ)けると、眞直(まつすぐ)に臺所(だいどころ)迄(まで)細(ほそ)い路(みち)が付(つ)いてゐる。元(もと)は枯枝(かれえだ)の交(まじ)つた杉垣(すぎがき)があつて、隣(となり)の庭(には)の仕切(しき)りになつてゐたが、此間(このあひだ)家主(やぬし)が手(て)を入(い)れた時(とき)、穴(あな)だらけの杉葉(すぎは)を奇麗(きれい)に取(と)り拂(はら)つて、今(いま)では節(ふし)の多(おほ)い板塀(いたべい)が片側(かたがは)を勝手口(かつてぐち)迄(まで)塞(ふさ)いで仕舞(しま)つた。日當(ひあた)りの惡(わる)い上(うへ)に、樋(とひ)から雨滴(あまだれ)ばかり落(お)ちるので、夏(なつ)になると秋海棠(しうかいだう)が一杯(いつぱい)生(は)える。其(その)盛(さか)りな頃(ころ)は青(あを)い葉(は)が重(かさ)なり合(あ)つて、殆(ほと)んど通(とほ)り路(みち)がなくなる位(くらゐ)茂(しげ)つて來(く)る。始(はじ)めて越(こ)した年(とし)は、宗助(そうすけ)も御米(およね)も此(この)景色(けしき)を見(み)て驚(おど)ろかされた位(くらゐ)である。此(この)秋海棠(しうかいだう)は杉垣(すぎがき)のまだ引(ひ)き拔(ぬ)かれない前(まへ)から、何年(なんねん)となく地下(ちか)に蔓(はびこ)つてゐたもので、古家(ふるや)の取(と)り毀(こぼ)たれた今(いま)でも、時節(じせつ)が來(く)ると昔(むかし)の通(とほ)り芽(め)を吹(ふ)くものと解(わか)つた時(とき)、御米(およね)は、
「でも可愛(かあい)いわね」と喜(よろこ)んだ。
 宗助(そうすけ)が霜(しも)を踏(ふ)んで、此(この)記念(きねん)の多(おほ)い横手(よこて)へ出(で)た時(とき)、彼(かれ)の眼(め)は細長(ほそなが)い路次(ろじ)の一點(いつてん)に落(お)ちた。さうして彼(かれ)は日(ひ)の通(かよ)はない寒(さむ)さの中(なか)にはたと留(と)まつた。
 彼(かれ)の足元(あしもと)には黒塗(くろぬり)の蒔繪(まきゑ)の手文庫(てぶんこ)が放(はふ)り出(だ)してあつた。中味(なかみ)はわざ/\其所(そこ)へ持(も)つて來(き)て置(お)いて行(い)つた樣(やう)に、霜(しも)の上(うへ)にちやんと据(すわ)つてゐるが、蓋(ふた)は二三尺(じやく)離(はな)れて、塀(へい)の根(ね)に打(う)ち付(つ)けられた如(ごと)くに引(ひ)つ繰(く)り返(かへ)つて、中(なか)を張(は)つた千代紙(ちよがみ)の模樣(もやう)が判然(はつきり)見(み)えた。文庫(ぶんこ)の中(なか)から洩(も)れた、手紙(てがみ)や書付類(かきつけるゐ)が、其所(そこ)いらに遠慮(ゑんりよ)なく散(ち)らばつてゐる中(なか)に、比較的(ひかくてき)長(なが)い一通(つう)がわざ/\二尺(しやく)許(ばかり)廣(ひろ)げられて、其先(そのさき)が紙屑(かみくづ)の如(ごと)く丸(まる)めてあつた。宗助(そうすけ)は近付(ちかづ)いて、此(この)揉苦茶(もみくちや)になつた紙(かみ)の下(した)を覗(のぞ)いて覺(おぼ)えず苦笑(くせう)した。下(した)には大便(だいべん)が垂(た)れてあつた。
 土(つち)の上(うへ)に散(ち)らばつてゐる書類(しよるゐ)を一纏(ひとまとめ)にして、文庫(ぶんこ)の中(なか)へ入(い)れて、霜(しも)と泥(どろ)に汚(よご)れた儘(まゝ)宗助(そうすけ)は勝手口(かつてぐち)迄(まで)持(も)つて來(き)た。腰障子(こししやうじ)を開(あ)けて、清(きよ)に
「おい是(これ)を一寸(ちよつと)其所(そこ)へ置(お)いて呉(く)れ」と渡(わた)すと、清(きよ)は妙(めう)な顏(かほ)をして、不思議(ふしぎ)さうにそれを受取(うけと)つた。御米(およね)は奧(おく)で座敷(ざしき)へ拂塵(はたき)を掛(か)けてゐた。宗助(そうすけ)はそれから懷手(ふところで)をして、玄關(げんくわん)だの門(もん)の邊(あたり)を能(よ)く見廻(みまは)つたが、何處(どこ)にも平常(へいじやう)と異(こと)なる點(てん)は認(みと)められなかつた。
 宗助(そうすけ)は漸(ようや)く家(うち)へ入(はひ)つた。茶(ちや)の間(ま)へ來(き)て例(れい)の通(とほ)り火鉢(ひばち)の前(まへ)へ坐(すわ)つたが、すぐ大(おほ)きな聲(こゑ)を出(だ)して御米(およね)を呼(よ)んだ。御米(およね)は、
「起(お)き拔(ぬ)けに何處(どこ)へ行(い)つて入(い)らしつたの」と云(い)ひながら奧(おく)から出(で)て來(き)た。
「おい昨夜(ゆうべ)枕元(まくらもと)で大(おほ)きな音(おと)がしたのは矢(や)つ張(ぱり)夢(ゆめ)ぢやなかつたんだ。泥棒(どろぼう)だよ。泥棒(どろぼう)が坂井(さかゐ)さんの崖(がけ)の上(うへ)から宅(うち)の庭(には)へ飛(と)び下(お)りた音(おと)だ。今(いま)裏(うら)へ回(まは)つて見(み)たら、此(この)文庫(ぶんこ)が落(お)ちてゐて、中(なか)に這入(はい)つてゐた手紙(てがみ)なんぞが、無茶苦茶(むちやくちや)に放(はふ)り出(だ)してあつた。御負(おまけ)に御馳走(ごちそう)迄(まで)置(お)いて行(い)つた」
 宗助(そうすけ)は文庫(ぶんこ)の中(なか)から、二三通(つう)の手紙(てがみ)を出(だ)して御米(およね)に見(み)せた。それには皆(みんな)坂井(さかゐ)の名宛(なあて)が書(か)いてあつた。御米(およね)は吃驚(びつくり)して立膝(たてひざ)の儘(まゝ)、
「坂井(さかゐ)さんぢや外(ほか)に何(なに)か取(と)られたでせうか」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)は腕組(うでぐみ)をして、
「ことに因(よ)ると、まだ何(なに)か遣(や)られたね」と答(こた)へた。
 夫婦(ふうふ)は兎(と)も角(かく)もと云(い)ふので、文庫(ぶんこ)を其所(そこ)へ置(お)いたなり朝飯(あさめし)の膳(ぜん)に着(つ)いた。然(しか)し箸(はし)を動(うご)かす間(ま)も泥棒(どろぼう)の話(はなし)は忘(わす)れなかつた。御米(およね)は自分(じぶん)の耳(みゝ)と頭(あたま)の慥(たしか)な事(こと)を夫(をつと)に誇(ほこ)つた。宗助(そうすけ)は耳(みゝ)と頭(あたま)の慥(たしか)でない事(こと)を幸福(かうふく)とした。
「さう仰(おつ)しやるけれど、是(これ)が坂井(さかゐ)さんでなくつて、宅(うち)で御覽(ごらん)なさい。貴方(あなた)見(み)た樣(やう)にぐう/\寐(ね)て入(い)らしつたら困(こま)るぢやないの」と御米(およね)が宗助(そうすけ)を遣(や)り込(こ)めた。
「なに宅(うち)なんぞへ這入(はい)る氣遣(きづかひ)はないから大丈夫(だいぢやうぶ)だ」と宗助(そうすけ)も口(くち)の減(へ)らない返事(へんじ)をした。
 其所(そこ)へ清(きよ)が突然(とつぜん)臺所(だいどころ)から顏(かほ)を出(だ)して、
「此間(このあひだ)拵(こしら)えた旦那樣(だんなさま)の外套(ぐわいたう)でも取(と)られ樣(やう)ものなら、夫(それ)こそ騷(さわ)ぎで御座(ござ)いましたね。御宅(おうち)でなくつて坂井(さかゐ)さんだつたから本當(ほんたう)に結構(けつこう)で御座(ござ)います」と眞面目(まじめ)に悦(よろこび)の言葉(ことば)を述(の)べたので、宗助(そうすけ)も御米(およね)も少(すこ)し挨拶(あいさつ)に窮(きゆう)した。
 食事(しよくじ)を濟(す)ましても、出勤(しゆつきん)の時刻(じこく)にはまだ大分(だいぶ)間(ま)があつた。坂井(さかゐ)では定(さだ)めて騷(さわ)いでるだらうと云(い)ふので、文庫(ぶんこ)は宗助(そうすけ)が自分(じぶん)で持(も)つて行(い)つて遣(や)る事(こと)にした。蒔繪(まきゑ)ではあるが、たゞ黒地(くろぢ)に龜甲形(きつかふがた)を金(きん)で置(お)いた丈(だけ)の事(こと)で、別(べつ)に大(たい)して金目(かねめ)の物(もの)とも思(おも)へなかつた。御米(およね)は唐棧(たうざん)の風呂敷(ふろしき)を出(だ)してそれを包(くる)んだ。風呂敷(ふろしき)が少(すこ)し小(ちひ)さいので、四隅(よすみ)を對(むか)ふ同志(どうし)繋(つな)いで、眞中(まんなか)にこま結(むす)びを二(ふた)つ拵(こしら)えた。宗助(そうすけ)がそれを提(さ)げた所(ところ)は、丸(まる)で進物(しんもつ)の菓子折(くわしをり)の樣(やう)であつた。
 座敷(ざしき)で見(み)ればすぐ崖(がけ)の上(うへ)だが、表(おもて)から廻(まは)ると、通(とほ)りを半町(はんちやう)許(ばかり)來(き)て、坂(さか)を上(のぼ)つて、又(また)半町(はんちやう)程(ほど)逆(ぎやく)に戻(もど)らなければ、坂井(さかゐ)の門前(もんぜん)へは出(で)られなかつた。宗助(そうすけ)は石(いし)の上(うへ)へ芝(しば)を盛(も)つて扇骨木(かなめ)を奇麗(きれい)に植付(うゑつ)けた垣(かき)に沿(そ)ふて門内(もんない)に入(はひ)つた。
 家(いへ)の内(うち)は寧(むし)ろ靜(しづ)か過(す)ぎる位(くらゐ)しんとしてゐた。摺硝子(すりがらす)の戸(と)が閉(た)てゝある玄關(げんくわん)へ來(き)て、ベルを二三度(ど)押(お)して見(み)たが、ベルが利(き)かないと見(み)えて誰(だれ)も出(で)て來(こ)なかつた。宗助(そうすけ)は仕方(しかた)なしに勝手口(かつてぐち)へ廻(まは)つた。其所(そこ)にも摺硝子(すりがらす)の嵌(は)まつた腰障子(こししやうじ)が二枚(まい)閉(た)ててあつた。中(なか)では器物(きぶつ)を取(と)り扱(あつか)ふ音(おと)がした。宗助(そうすけ)は戸(と)を開(あ)けて、瓦斯七輪(ガスしちりん)を置(お)いた板(いた)の間(ま)に蹲踞(しやが)んでゐる下女(げぢよ)に挨拶(あいさつ)をした。
「是(これ)は此方(こちら)のでせう。今朝(けさ)私(わたし)の家(うち)の裏(うら)に落(お)ちてゐましたから持(も)つて來(き)ました」と云(い)ひながら、文庫(ぶんこ)を出(だ)した。
 下女(げぢよ)は「左樣(さやう)で御座(ござ)いましたか、どうも」と簡單(かんたん)に禮(れい)を述(の)べて、文庫(ぶんこ)を持(も)つた儘(まゝ)、板(いた)の間(ま)の仕切(しきり)迄(まで)行(い)つて、仲働(なかばたらき)らしい女(をんな)を呼(よ)び出(だ)した。其所(そこ)で小聲(こごゑ)に説明(せつめい)をして、品物(しなもの)を渡(わた)すと、仲働(なかばたらき)はそれを受取(うけと)つたなり、一寸(ちよつと)宗助(そうすけ)の方(はう)を見(み)たがすぐ奧(おく)へ入(はひ)つた。入(い)れ違(ちがへ)に、十二三になる丸顏(まるがほ)の眼(め)の大(おほ)きな女(をんな)の子(こ)と、其(その)妹(いもうと)らしい揃(そろひ)のリボンを懸(か)けた子(こ)が一所(いつしよ)に馳(か)けて來(き)て、小(ちひ)さい首(くび)を二(ふた)つ並(なら)べて臺所(だいどころ)へ出(だ)した。さうして宗助(そうすけ)の顏(かほ)を眺(なが)めながら、泥棒(どろぼう)よと耳語(さゝやき)やつた。宗助(そうすけ)は文庫(ぶんこ)を渡(わた)して仕舞(しま)へば、もう用(よう)が濟(す)んだのだから、奧(おく)の挨拶(あいさつ)はどうでも可(い)いとして、すぐ歸(かへ)らうかと考(かんが)へた。
「文庫(ぶんこ)は御宅(おたく)のでせうね。可(い)いんでせうね」と念(ねん)を押(お)して、何(な)にも知(し)らない下女(げぢよ)を氣(き)の毒(どく)がらしてゐる所(ところ)へ、最前(さいぜん)の仲働(なかばたらき)が出(で)て來(き)て、
「何(ど)うぞ御通(おとほ)り下(くだ)さい」と丁寧(ていねい)に頭(あたま)を下(さ)げたので、今度(こんど)は宗助(そうすけ)の方(はう)が少(すこ)し痛(いた)み入(い)る樣(やう)になつた。下女(げぢよ)は愈(いよ/\)しとやかに同(おな)じ請求(せいきう)を繰(く)り返(かへ)した。宗助(そうすけ)は痛(いた)み入(い)る境(さかひ)を通(とほ)り越(こ)して、遂(つひ)に迷惑(めいわく)を感(かん)じ出(だ)した。所(ところ)へ主人(しゆじん)が自分(じぶん)で出(で)て來(き)た。
 主人(しゆじん)は予想通(よさうどほ)り血色(けつしよく)の好(い)い下膨(しもぶくれ)の福相(ふくさう)を具(そな)へてゐたが、御米(およね)の云(い)つた樣(やう)に髭(ひげ)のない男(をとこ)ではなかつた。鼻(はな)の下(した)に短(みじ)かく刈(か)り込(こ)んだのを生(は)やして、たゞ頬(ほゝ)から腮(あご)を奇麗(きれい)に蒼(あを)くしてゐた。
「いや何(ど)うも飛(と)んだ御手數(おてかず)で」と主人(しゆじん)は眼尻(めじり)に皺(しわ)を寄(よ)せながら禮(れい)を述(の)べた。米澤(よねざは)の絣(かすり)を着(き)た膝(ひざ)を板(いた)の間(ま)に突(つ)いて、宗助(そうすけ)から色々(いろ/\)樣子(やうす)を聞(き)いてゐる態度(たいど)が、如何(いか)にも緩(ゆつ)くりしてゐた。宗助(そうすけ)は昨夕(ゆうべ)から今朝(けさ)へ掛(か)けての出來事(できごと)を一通(ひととほ)り掻(か)い撮(つま)んで話(はな)した上(うへ)、文庫(ぶんこ)の外(ほか)に何(なに)か取(と)られたものがあるかないかを尋(たづ)ねて見(み)た。主人(しゆじん)は机(つくゑ)の上(うへ)に置(お)いた金時計(きんどけい)を一(ひと)つ取(と)られた由(よし)を答(こた)へた。けれども丸(まる)で他(ひと)のものでも失(な)くなした時(とき)の樣(やう)に、一向(いつかう)困(こま)つたと云(い)ふ氣色(けしき)はなかつた。時計(とけい)よりは寧(むし)ろ宗助(そうすけ)の叙述(じよじゆつ)の方(はう)に多(おほ)くの興味(きようみ)を有(も)つて、泥棒(どろぼう)が果(はた)して崖(がけ)を傳(つた)つて裏(うら)から逃(にげ)げる積(つもり)だつたらうか、又(また)は逃(に)げる拍子(ひやうし)に、崖(がけ)から落(お)ちたものだらうかと云(い)ふ樣(やう)な質問(しつもん)を掛(か)けた。宗助(そうすけ)は固(もと)より返答(へんたふ)が出來(でき)なかつた。
 其所(そこ)へ最前(さいぜん)の仲働(なかばたらき)が、奧(おく)から茶(ちや)や莨(たばこ)を運(はこ)んで來(き)たので、宗助(そうすけ)は又(また)歸(かへ)りはぐれた。主人(しゆじん)はわざ/\坐蒲團(ざぶとん)迄(まで)取(と)り寄(よ)せて、とう/\其上(そのうへ)へ宗助(そうすけ)の尻(しり)を据(す)ゑさした。さうして今朝(けさ)早(はや)く來(き)た刑事(けいじ)の話(はなし)をし始(はじ)めた。刑事(けいじ)の判定(はんてい)によると、賊(ぞく)は宵(よひ)から邸内(ていない)に忍(しの)び込(こ)んで、何(なん)でも物置(ものおき)かなぞに隱(かく)れてゐたに違(ちがひ)ない。這入口(はいりくち)は矢張(やは)り勝手(かつて)である。燐寸(まつち)を擦(す)つて蝋燭(らふそく)を點(とも)して、それを臺所(だいどころ)にあつた小桶(こをけ)の中(なか)へ立(た)てゝ、茶(ちや)の間(ま)へ出(で)たが、次(つぎ)の部屋(へや)には細君(さいくん)と子供(こども)が寐(ね)てゐるので、廊下傳(らうかづた)ひに主人(しゆじん)の書齋(しよさい)へ來(き)て、其所(そこ)で仕事(しごと)をしてゐると、此間(このあひだ)生(うま)れた末(すゑ)の男(をとこ)の子(こ)が、乳(ちゝ)を呑(の)む時刻(じこく)が來(き)たものか、眼(め)を覺(さ)まして泣(な)き出(だ)したため、賊(ぞく)は書齋(しよさい)の戸(と)を開(あ)けて庭(には)へ逃(に)げたらしい。
「平常(いつも)の樣(やう)に犬(いぬ)がゐると好(よ)かつたんですがね。生憎(あいにく)病氣(びやうき)なので、四五日前(にちまへ)病院(びやうゐん)へ入(い)れて仕舞(しま)つたもんですから」と主人(しゆじん)は殘念(ざんねん)がつた。宗助(そうすけ)も、
「夫(それ)は惜(をし)い事(こと)でした」と答(こた)へた。すると主人(しゆじん)は其(その)犬(いぬ)の種(ブリード)やら血統(けつとう)やら、時々(とき/″\)獵(かり)に連(つ)れて行(ゆ)く事(こと)や、色々(いろ/\)な事(こと)を話(はな)し始(はじ)めた。
「獵(れふ)は好(すき)ですから。尤(もつと)も近來(きんらい)は神經痛(しんけいつう)で少(すこ)し休(やす)んでゐますが。何(なに)しろ秋口(あきぐち)から冬(ふゆ)へ掛(か)けて鴫(しぎ)なぞを打(う)ちに行(ゆ)くと、どうしても腰(こし)から下(した)は田(た)の中(なか)へ浸(つか)つて、二時間(じかん)も三時間(じかん)も暮(く)らさなければならないんですから、全(まつた)く身體(からだ)には好(よ)くない樣(やう)です」
 主人(しゆじん)は時間(じかん)に制限(せいげん)のない人(ひと)と見(み)えて、宗助(そうすけ)が、成程(なるほど)とか、左(さ)うですか、とか云(い)つてゐると、何時(いつ)迄(まで)も話(はな)してゐるので、宗助(そうすけ)は已(やむ)を得(え)ず中途(ちゆうと)で立(た)ち上(あ)がつた。
「是(これ)から又(また)例(れい)の通(とほ)り出掛(でか)けなければなりませんから」と切(き)り上(あ)げると、主人(しゆじん)は始(はじ)めて氣(き)が付(つ)いた樣(やう)に、忙(いそ)がしい所(ところ)を引(ひ)き留(と)めた失禮(しつれい)を謝(しや)した。さうして何(いづ)れ又(また)刑事(けいじ)が現状(げんじやう)を見(み)に行(ゆ)くかも知(し)れないから、其時(そのとき)はよろしく願(ねが)ふと云(い)ふやうな事(こと)を述(の)べた。最後(さいご)に、
「何(ど)うかちと御話(おはなし)に。私(わたくし)も近頃(ちかごろ)は寧(むし)ろ閑(ひま)な方(はう)ですから、又(また)御邪魔(おじやま)に出(で)ますから」と丁寧(ていねい)に挨拶(あいさつ)をした。門(もん)を出(で)て急(いそ)ぎ足(あし)に宅(うち)へ歸(かへ)ると、毎朝(まいあさ)出(で)る時刻(じこく)よりも、もう三十分(ぷん)程(ほど)後(おく)れてゐた。
「貴方(あなた)何(ど)うなすつたの」と御米(およね)が氣(き)を揉(も)んで玄關(げんくわん)へ出(で)た。宗助(そうすけ)はすぐ着物(きもの)を脱(ぬ)いで洋服(やうふく)に着換(きかへ)ながら、
「あの坂井(さかゐ)と云(い)ふ人(ひと)は餘(よ)つ程(ぽど)氣樂(きらく)な人(ひと)だね。金(かね)があるとあゝ緩(ゆつ)くり出來(でき)るもんかな」と云(い)つた。

「小六(ころく)さん、茶(ちや)の間(ま)から始(はじ)めて。夫(それ)とも座敷(ざしき)の方(はう)を先(さき)にして」と御米(およね)が聞(き)いた。
 小六(ころく)は四五日前(にちまへ)とう/\兄(あに)の所(ところ)へ引(ひ)き移(うつ)つた結果(けつくわ)として、今日(けふ)の障子(しやうじ)の張替(はりかへ)を手傳(てつだ)はなければならない事(こと)となつた。彼(かれ)は昔(むか)し叔父(をぢ)の家(いへ)に居(ゐ)た時(とき)、安之助(やすのすけ)と一所(いつしよ)になつて、自分(じぶん)の部屋(へや)の唐紙(からかみ)を張(は)り替(か)へた經驗(けいけん)がある。其時(そのとき)は糊(のり)を盆(ぼん)に溶(と)いたり、篦(へら)を使(つか)つて見(み)たり、大分(だいぶ)本式(ほんしき)に遣(や)り出(だ)したが、首尾(しゆび)好(よ)く乾(かわ)かして、いざ元(もと)の所(ところ)へ建(た)てるといふ段(だん)になると、二枚(まい)とも反(そ)つ繰(く)り返(かへ)つて敷居(しきゐ)の溝(みぞ)へ嵌(は)まらなかつた。それから是(これ)も安之助(やすのすけ)と共同(きようどう)して失敗(しつぱい)した仕事(しごと)であるが、叔母(をば)の云付(いひつ)けで、障子(しやうじ)を張(は)らせられたときには、水道(すゐだう)でざぶ/\枠(わく)を洗(あら)つたため、矢張(やつぱ)り乾(かわ)いた後(あと)で、惣體(そうたい)に歪(ゆがみ)が出來(でき)て非常(ひじやう)に困難(こんなん)した。
「姉(ねえ)さん、障子(しやうじ)を張(は)るときは、餘程(よほど)愼重(しんちよう)にしないと失策(しくじ)るです。洗(あら)つちや駄目(だめ)ですぜ」と云(い)ひながら、小六(ころく)は茶(ちや)の間(ま)の縁側(えんがは)からびり/\破(やぶ)き始(はじ)めた。
 縁先(えんさき)は右(みぎ)の方(はう)に小六(ころく)のゐる六疊(でふ)が折(を)れ曲(まが)つて、左(ひだり)には玄關(げんくわん)が突(つ)き出(だ)してゐる。其(その)向(むか)ふを塀(へい)が縁(えん)と平行(へいかう)に塞(ふさ)いでゐるから、まあ四角(しかく)な圍内(かこひうち)と云(い)つて可(い)い。夏(なつ)になるとコスモスを一面(いちめん)に茂(しげ)らして、夫婦(ふうふ)とも毎朝(まいあさ)露(つゆ)の深(ふか)い景色(けしき)を喜(よろこ)んだ事(こと)もあるし、又(また)塀(へい)の下(した)へ細(ほそ)い竹(たけ)を立(た)てゝ、それへ朝顏(あさがほ)を絡(から)ませた事(こと)もある。其時(そのとき)は起(お)き拔(ぬ)けに、今朝(けさ)咲(さ)いた花(はな)の數(かず)を勘定(かんぢやう)し合(あ)つて二人(ふたり)が樂(たのしみ)にした。けれども秋(あき)から冬(ふゆ)へ掛(か)けては、花(はな)も草(くさ)も丸(まる)で枯(か)れて仕舞(しま)ふので、小(ちひ)さな砂漠(さばく)見(み)た樣(やう)に、眺(なが)めるのも氣(き)の毒(どく)な位(くらゐ)淋(さび)しくなる。小六(ころく)は此(この)霜(しも)ばかり降(お)りた四角(しかく)な地面(ぢめん)を脊(せ)にして、しきりに障子(しやうじ)の紙(かみ)を剥(は)がしてゐた。
 時々(とき/″\)寒(さむ)い風(かぜ)が來(き)て、後(うしろ)から小六(ころく)の坊主頭(ばうずあたま)と襟(えり)の邊(あたり)を襲(おそ)つた。其度(そのたび)に彼(かれ)は吹(ふ)き曝(さら)しの縁(えん)から六疊(でふ)の中(なか)へ引(ひ)つ込(こ)みたくなつた。彼(かれ)は赤(あか)い手(て)を無言(むごん)の儘(まゝ)働(はた)らかしながら、馬尻(ばけつ)の中(なか)で雜巾(ざふきん)を絞(しぼ)つて障子(しやうじ)の棧(さん)を拭(ふ)き出(だ)した。
「寒(さむ)いでせう、御氣(おき)の毒(どく)さまね。生憎(あいにく)御天氣(おてんき)が時雨(しぐ)れたもんだから」と御米(およね)が愛想(あいそ)を云(い)つて、鐵瓶(てつびん)の湯(ゆ)を注(つ)ぎ注(つ)ぎ、昨日(きのふ)※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)(に)た糊(のり)を溶(と)いた。
 小六(ころく)は實際(じつさい)こんな用(よう)をするのを、内心(ないしん)では大(おほ)いに輕蔑(けいべつ)してゐた。ことに昨今(さくこん)自分(じぶん)が已(や)むなく置(お)かれた境遇(きやうぐう)からして、此際(このさい)多少(たせう)自己(じこ)を侮辱(ぶじよく)してゐるかの觀(くわん)を抱(いだ)いて雜巾(ざふきん)を手(て)にしてゐた。昔(むか)し叔父(をぢ)の家(いへ)で、是(これ)と同(おな)じ事(こと)を遣(や)らせられた時(とき)は、暇潰(ひまつぶ)しの慰(なぐさ)みとして、不愉快(ふゆくわい)どころか却(かへ)つて面白(おもしろ)かつた記憶(きおく)さへあるのに、今(いま)ぢや此位(このくらゐ)な仕事(しごと)より外(ほか)にする能力(のうりよく)のないものと、強(し)いて周圍(しうゐ)から諦(あきら)めさせられた樣(やう)な氣(き)がして、縁側(えんがは)の寒(さむ)いのが猶(なほ)のこと癪(しやく)に觸(さは)つた。
 それで嫂(あによめ)には快(こゝろ)よい返事(へんじ)さへ碌(ろく)にしなかつた。さうして頭(あたま)の中(なか)で、自分(じぶん)の下宿(げしゆく)にゐた法科(はふくわ)大學生(だいがくせい)が、一寸(ちよつと)散歩(さんぽ)に出(で)る序(ついで)に、資生堂(しせいだう)へ寄(よ)つて、三(みつ)つ入(い)りの石鹸(しやぼん)と齒磨(はみがき)を買(か)ふのにさへ、五圓(ゑん)近(ぢか)くの金(かね)を拂(はら)ふ華奢(くわしや)を思(おも)ひ浮(うか)べた。すると何(ど)うしても自分(じぶん)一人(ひとり)がこんな窮境(きゆうきやう)に陷(おちい)るべき理由(りいう)がない樣(やう)に感(かん)ぜられた。それから、斯(こ)んな生活(せいくわつ)状態(じやうたい)に甘(あま)んじて一生(いつしやう)を送(おく)る兄夫婦(あにふうふ)が如何(いか)にも憫然(ふびん)に見(み)えた。彼等(かれら)は障子(しやうじ)を張(は)る美濃紙(みのがみ)を買(か)ふのにさへ氣兼(きがね)をしやしまいかと思(おも)はれる程(ほど)、小六(ころく)から見(み)ると、消極的(せうきよくてき)な暮(くら)し方(かた)をしてゐた。
「斯(こ)んな紙(かみ)ぢや、又(また)すぐ破(やぶ)けますね」と云(い)ひながら、小六(ころく)は卷(ま)いた小口(こぐち)を一尺(しやく)ほど日(ひ)に透(す)かして、二三度(ど)力任(ちからまか)せに鳴(な)らした。
「さう? でも宅(うち)ぢや小供(こども)がないから、夫程(それほど)でもなくつてよ」と答(こた)へた御米(およね)は糊(のり)を含(ふく)ました刷毛(はけ)を取(と)つてとん/\とんと棧(さん)の上(うへ)を渡(わた)した。
 二人(ふたり)は長(なが)く繼(つ)いだ紙(かみ)を双方(さうはう)から引(ひ)き合(あ)つて、成(な)るべく垂(た)るみの出來(でき)ない樣(やう)に力(つと)めたが、小六(ころく)が時々(とき/″\)面倒臭(めんだうくさ)さうな顏(かほ)をすると、御米(およね)はつい遠慮(ゑんりよ)が出(で)て、好加減(いゝかげん)に髮剃(かみそり)で小口(こぐち)を切(き)り落(おと)して仕舞(しま)ふ事(こと)もあつた。從(したが)つて出來上(できあが)つたものには、所々(ところ/″\)のぶく/\が大分(だいぶ)目(め)に付(つ)いた。御米(およね)は情(なさけ)なささうに、戸袋(とぶくろ)に立(た)て懸(か)けた張(は)り立(た)ての障子(しやうじ)を眺(なが)めた。さうして心(こゝろ)の中(うち)で、相手(あひて)が小六(ころく)でなくつて、夫(をつと)であつたならと思(おも)つた。
「皺(しわ)が少(すこ)し出來(でき)たのね」
「何(ど)うせ僕(ぼく)の御手際(おてぎは)ぢや旨(うま)くは行(い)かない」
「なに兄(にい)さんだつて、さう御上手(おじやうず)ぢやなくつてよ。それに兄(にい)さんは貴方(あなた)より餘(よ)つ程(ほど)無精(ぶしやう)ね」
 小六(ころく)は何(なん)にも答(こた)へなかつた。臺所(だいどころ)から清(きよ)が持(も)つて來(き)た含嗽茶碗(うがひぢやわん)を受(う)け取(と)つて、戸袋(とぶくろ)の前(まへ)へ立(た)つて、紙(かみ)が一面(いちめん)に濡(ぬ)れる程(ほど)霧(きり)を吹(ふ)いた。二枚目(まいめ)を張(は)つたときは、先(さき)に霧(きり)を吹(ふ)いた分(ぶん)が略(ほゞ)乾(かわ)いて皺(しわ)が大方(おほかた)平(たひ)らになつてゐた。三枚目(まいめ)を張(は)つたとき、小六(ころく)は腰(こし)が痛(いた)くなつたと云(い)ひ出(だ)した。實(じつ)を云(い)ふと御米(およね)の方(はう)は今朝(けさ)から頭(あたま)が痛(いた)かつたのである。
「もう一枚(まい)張(は)つて、茶(ちや)の間(ま)丈(だけ)濟(す)ましてから休(やす)みませう」と云(い)つた。
 茶(ちや)の間(ま)を濟(す)ましてゐるうちに午(ひる)になつたので、二人(ふたり)は食事(しよくじ)を始(はじ)めた。小六(ころく)が引(ひ)き移(うつ)つてから此(この)四五日(しごんち)、御米(およね)は宗助(そうすけ)のゐない午飯(ひるはん)を、何時(いつ)も小六(ころく)と差向(さしむかひ)で食(た)べる事(こと)になつた。宗助(そうすけ)と一所(いつしよ)になつて以來(いらい)、御米(およね)の毎日(まいにち)膳(ぜん)を共(とも)にしたものは、夫(をつと)より外(ほか)になかつた。夫(をつと)の留守(るす)の時(とき)は、たゞ獨(ひと)り箸(はし)を執(と)るのが多年(たねん)の習慣(ならはし)であつた。だから突然(とつぜん)この小舅(こじうと)と自分(じぶん)の間(あひだ)に御櫃(おはち)を置(お)いて、互(たがひ)に顏(かほ)を見合(みあは)せながら、口(くち)を動(うご)かすのが、御米(およね)に取(と)つては一種(いつしゆ)異(い)な經驗(けいけん)であつた。それも下女(げぢよ)が臺所(だいどころ)で働(はた)らいてゐるときは、未(ま)だしもだが、清(きよ)の影(かげ)も音(おと)もしないとなると、猶(なほ)の事(こと)變(へん)に窮屈(きゆうくつ)な感(かん)じが起(おこ)つた。無論(むろん)小六(ころく)よりも御米(およね)の方(はう)が年上(としうへ)であるし、又(また)從來(じゆうらい)の關係(くわんけい)から云(い)つても、兩性(りやうせい)を絡(から)み付(つ)ける艷(つや)つぽい空氣(くうき)は、箝束的(けんそくてき)[#ルビの「けんそくてき」はママ]な初期(しよき)に於(おい)てすら、二人(ふたり)の間(あひだ)に起(おこ)り得(う)べき筈(はず)のものではなかつた。御米(およね)は小六(ころく)と差向(さしむかひ)に膳(ぜん)に着(つ)くときの此(この)氣(き)ぶつせいな心持(こゝろもち)が、何時(いつ)になつたら消(き)えるだらうと、心(こゝろ)の中(うち)で私(ひそか)に疑(うた)ぐつた。小六(ころく)が引(ひ)き移(うつ)る迄(まで)は、こんな結果(けつくわ)が出(で)やうとは、丸(まる)で氣(き)が付(つ)かなかつたのだから猶更(なほさら)當惑(たうわく)した。仕方(しかた)がないから成(な)るべく食事中(しよくじちゆう)に話(はなし)をして、責(せ)めて手持無沙汰(てもちぶさた)な隙間(すきま)丈(だけ)でも補(おぎな)はうと力(つと)めた。不幸(ふかう)にして今(いま)の小六(ころく)は、此(この)嫂(あによめ)の態度(たいど)に對(たい)して程(ほど)の好(い)い調子(てうし)を出(だ)す丈(だけ)の餘裕(よゆう)と分別(ふんべつ)を頭(あたま)の中(うち)に發見(はつけん)し得(え)なかつたのである。
「小六(ころく)さん、下宿(げしゆく)は御馳走(ごちそう)があつて」
 こんな質問(しつもん)に逢(あ)ふと、小六(ころく)は下宿(げしゆく)から遊(あそ)びに來(き)た時分(じぶん)の樣(やう)に、淡泊(たんぱく)な遠慮(ゑんりよ)のない答(こたへ)をする譯(わけ)に行(ゆ)かなくなつた。已(やむ)を得(え)ず、
「なに左(さ)うでもありません」ぐらゐにして置(お)くと、其(その)語氣(ごき)がからりと澄(す)んでゐないので、御米(およね)の方(はう)では、自分(じぶん)の待遇(たいぐう)が惡(わる)い所爲(せゐ)かと解釋(かいしやく)する事(こと)もあつた。それが又(また)無言(むごん)の間(あひだ)に、小六(ころく)の頭(あたま)に映(うつ)る事(こと)もあつた。
 ことに今日(けふ)は頭(あたま)の具合(ぐあひ)が好(よ)くないので、膳(ぜん)に向(むか)つても、御米(およね)は何時(いつ)もの樣(やう)に力(つと)めるのが退儀(たいぎ)であつた。力(つと)めて失敗(しつぱい)するのは猶(なほ)厭(いや)であつた。それで二人(ふたり)とも障子(しやうじ)を張(は)るときよりも言葉(ことば)少(すく)なに食事(しよくじ)を濟(す)ました。
 午後(ごご)は手(て)が慣(な)れた所爲(せゐ)か、朝(あさ)に比(くら)べると仕事(しごと)が少(すこ)し果取(はかど)つた。然(しか)し二人(ふたり)の氣分(きぶん)は飯前(めしまへ)よりも却(かへ)つて縁遠(えんどほ)くなつた。ことに寒(さむ)い天氣(てんき)が二人(ふたり)の頭(あたま)に應(こた)へた。起(お)きた時(とき)は、日(ひ)を載(の)せた空(そら)が次第(しだい)に遠退(とほの)いて行(ゆ)くかと思(おもは)れる程(ほど)に、好(よ)く晴(は)れてゐたが、それが眞蒼(まつさを)に色(いろ)づく頃(ころ)から急(きふ)に雲(くも)が出(で)て、暗(くら)い中(なか)で粉雪(こゆき)でも釀(かも)してゐる樣(やう)に、日(ひ)の目(め)を密封(みつぷう)した。二人(ふたり)は交(かは)る/″\火鉢(ひばち)に手(て)を翳(かざ)した。
「兄(にい)さんは來年(らいねん)になると月給(げつきふ)が上(あ)がるんでせう」
 不圖(ふと)小六(ころく)が斯(こ)んな問(とひ)を御米(およね)に掛(か)けた。御米(およね)は其時(そのとき)疊(たゝみ)の上(うへ)の紙片(かみぎれ)を取(と)つて、糊(のり)に汚(よご)れた手(て)を拭(ふ)いてゐたが、全(まつた)く思(おもひ)も寄(よ)らないといふ顏(かほ)をした。
「何(ど)うして」
「でも新聞(しんぶん)で見(み)ると、來年(らいねん)から一般(いつぱん)に官吏(くわんり)の増俸(ぞうほう)があると云(い)ふ話(はなし)ぢやありませんか」
 御米(およね)はそんな消息(せうそく)を全(まつた)く知(し)らなかつた。小六(ころく)から詳(くは)しい説明(せつめい)を聞(き)いて、始(はじ)めて成程(なるほど)と首肯(うなづ)いた。
「全(まつた)くね。是(これ)ぢや誰(だれ)だつて、遣(や)つて行(い)けないわ。御肴(おさかな)の切身(きりみ)なんか、私(わたし)が東京(とうきやう)へ來(き)てからでも、もう倍(ばい)になつてるんですもの」と云(い)つた。肴(さかな)の切身(きりみ)の値段(ねだん)になると小六(ころく)の方(はう)が全(まつた)く無識(むしき)であつた。御米(およね)に注意(ちゆうい)されて始(はじ)めてそれ程(ほど)無暗(むやみ)に高(たか)くなるものかと思(おも)つた。
 小六(ころく)に一寸(ちよつと)した好奇心(かうきしん)の出(で)たため、二人(ふたり)の會話(くわいわ)は存外(ぞんぐわい)素直(すなほ)に流(なが)れて行(い)つた。御米(およね)は裏(うら)の家主(やぬし)の十八九時代(じだい)に物價(ぶつか)の大變(たいへん)安(やす)かつた話(はなし)を、此間(このあひだ)宗助(そうすけ)から聞(き)いた通(とほ)り繰(く)り返(かへ)した。其(その)時分(じぶん)は蕎麥(そば)を食(く)ふにしても、盛(もり)かけが八厘(りん)、種(たね)ものが二錢(せん)五厘(りん)であつた。牛肉(ぎうにく)は普通(なみ)が一人前(いちにんまへ)四錢(せん)でロースは六錢(せん)であつた。寄席(よせ)は三錢(せん)か四錢(せん)であつた。學生(がくせい)は月(つき)に七圓(ゑん)位(ぐらゐ)國(くに)から貰(もら)へば中(ちゆう)の部(ぶ)であつた。十圓(ゑん)も取(と)ると既(すで)に贅澤(ぜいたく)と思(おも)はれた。
「小六(ころく)さんも、其(その)時分(じぶん)だと譯(わけ)なく大學(だいがく)が卒業(そつげふ)出來(でき)たのにね」と御米(およね)が云(い)つた。
「兄(にい)さんも其(その)時分(じぶん)だと大變(たいへん)暮(くら)し易(やす)い譯(わけ)ですね」と小六(ころく)が答(こた)へた。
 座敷(ざしき)の張易(はりかへ)が濟(す)んだときにはもう三時過(じすぎ)になつた。さう斯(か)うしてゐるうちには、宗助(そうすけ)も歸(かへ)つて來(く)るし、晩(ばん)の支度(したく)も始(はじ)めなくつてはならないので、二人(ふたり)はこれを一段落(いちだんらく)として、糊(のり)や髮剃(かみそり)を片(かたづ)けた。小六(ころく)は大(おほ)きな伸(のび)を一(ひと)つして、握(にぎ)り拳(こぶし)で自分(じぶん)の頭(あたま)をこん/\と叩(たゝ)いた。
「何(ど)うも御苦勞(ごくらう)さま。疲(つか)れたでせう」と御米(およね)は小六(ころく)を勞(いた)はつた。小六(ころく)は夫(それ)よりも口淋(くちさむ)しい思(おもひ)がした。此間(このあひだ)文庫(ぶんこ)を屆(とゞ)けてやつた禮(れい)に、坂井(さかゐ)から呉(く)れたと云(い)ふ菓子(くわし)を、戸棚(とだな)から出(だ)して貰(もら)つて食(た)べた。御米(およね)は御茶(おちや)を入(い)れた。
「坂井(さかゐ)と云(い)ふ人(ひと)は大學(だいがく)出(で)なんですか」
「えゝ、矢張(やつぱり)左樣(さう)なんですつて」
 小六(ころく)は茶(ちや)を飮(の)んで烟草(たばこ)を吹(ふ)いた。やがて、
「兄(にい)さんは増俸(ぞうほう)の事(こと)をまだ貴方(あなた)に話(はな)さないんですか」と聞(き)いた。
「いゝえ、些(ちつ)とも」と御米(およね)が答(こた)へた。
「兄(にい)さん見(み)た樣(やう)になれたら好(い)いだらうな。不平(ふへい)も何(なに)もなくつて」
 御米(およね)は特別(とくべつ)の挨拶(あいさつ)もしなかつた。小六(ころく)は其儘(そのまゝ)起(た)つて六疊(でふ)へ這入(はい)つたが、やがて火(ひ)が消(き)えたと云(い)つて、火鉢(ひばち)を抱(かゝ)えて又(また)出(で)て來(き)た。彼(かれ)は兄(あに)の家(いへ)に厄介(やくかい)になりながら、もう少(すこ)し立(た)てば都合(つがふ)が付(つ)くだらうと慰(なぐさ)めた安之助(やすのすけ)の言葉(ことば)を信(しん)じて、學校(がくかう)は表向(おもてむき)休學(きうがく)の體(てい)にして一時(いちじ)の始末(しまつ)をつけたのである。

 裏(うら)の坂井(さかゐ)と宗助(そうすけ)とは文庫(ぶんこ)が縁(えん)になつて思(おも)はぬ關係(くわんけい)が付(つ)いた。夫迄(それまで)は月(つき)に一度(いちど)此方(こちら)から清(きよ)に家賃(やちん)を持(も)たして遣(や)ると、向(むかふ)から其(その)受取(うけとり)を寄(よ)こす丈(だけ)の交渉(かうせふ)に過(す)ぎなかつたのだから、崖(がけ)の上(うへ)に西洋人(せいやうじん)が住(す)んでゐると同樣(どうやう)で、隣人(りんじん)としての親(したし)みは、丸(まる)で存在(そんざい)してゐなかつたのである。
 宗助(そうすけ)が文庫(ぶんこ)を屆(とゞ)けた日(ひ)の午後(ごご)に、坂井(さかゐ)の云(い)つた通(とほ)り、刑事(けいじ)が宗助(そうすけ)の家(いへ)の裏手(うらて)から崖下(がけした)を檢(しら)べに來(き)たが、其時(そのとき)坂井(さかゐ)も一所(いつしよ)だつたので、御米(およね)は始(はじ)めて噂(うはさ)に聞(き)いた家主(やぬし)の顏(かほ)を見(み)た。髭(ひげ)のないと思(おも)つたのに、髭(ひげ)を生(は)やしてゐるのと、自分(じぶん)なぞに對(たい)しても、存外(ぞんぐわい)丁寧(ていねい)な言葉(ことば)を使(つか)ふのが、御米(およね)には少(すこ)し案外(あんぐわい)であつた。
「貴方(あなた)、坂井(さかゐ)さんは矢(や)つ張(ぱ)り髭(ひげ)を生(は)やしてゐてよ」と宗助(そうすけ)が歸(かへ)つたとき御米(およね)はわざ/\注意(ちゆうい)した。
 それから二日(ふつか)ばかりして、坂井(さかゐ)の名刺(めいし)を添(そ)へた立派(りつぱ)な菓子折(くわしをり)を持(も)つて、下女(げぢよ)が禮(れい)に來(き)たが、先達(せんだつ)ては色々(いろ/\)御世話(おせわ)になりまして、難有(ありがた)う存(ぞん)じます、何(いづ)れ主人(しゆじん)が自身(じしん)に伺(うかゞ)ふ筈(はず)で御座(ござ)いますがと云(い)ひ置(お)いて、歸(かへ)つて行(い)つた。
 其晩(そのばん)宗助(そうすけ)は到來(たうらい)の菓子折(くわしをり)の葢(ふた)を開(あ)けて、唐饅頭(たうまんぢゆう)を頬張(ほゝば)りながら、
「斯(こ)んなものを呉(く)れる所(ところ)をもつて見(み)ると、夫程(それほど)吝(けち)でもないやうだね。他(ひと)の家(うち)の子(こ)をブランコへ乘(の)せて遣(や)らないつて云(い)ふのは嘘(うそ)だらう」と云(い)つた。御米(およね)も、
「屹度(きつと)嘘(うそ)よ」と坂井(さかゐ)を辯護(べんご)した。
 夫婦(ふうふ)と坂井(さかゐ)とは泥棒(どろぼう)の這入(はい)らない前(まへ)より、是丈(これだけ)親(した)しみの度(ど)が増(ま)した樣(やう)なものゝ、それ以上(いじやう)に接近(せつきん)しやうと云(い)ふ念(ねん)は、宗助(そうすけ)の頭(あたま)にも御米(およね)の胸(むね)にも宿(やど)らなかつた。利害(りがい)の打算(ださん)から云(い)へば無論(むろん)の事(こと)、單(たん)に隣人(りんじん)の交際(かうさい)とか情誼(じやうぎ)とか云(い)ふ點(てん)から見(み)ても、夫婦(ふうふ)はこれよりも前進(ぜんしん)する勇氣(ゆうき)を有(も)たなかつたのである。もし自然(しぜん)が此儘(このまゝ)に無爲(むゐ)の月日(つきひ)を驅(か)つたなら、久(ひさ)しからぬうちに、坂井(さかゐ)は昔(むかし)の坂井(さかゐ)になり、宗助(そうすけ)は元(もと)の宗助(そうすけ)になつて、崖(がけ)の上(うへ)と崖(がけ)の下(した)に互(たがひ)の家(いへ)が懸(か)け隔(へだゝ)る如(ごと)く、互(たがひ)の心(こゝろ)も離(はな)れ離(ばな)れになつたに違(ちがひ)なかつた。
 所(ところ)がそれから又(また)二日(ふつか)置(お)いて、三日目(みつかめ)の暮(く)れ方(がた)に、獺(かはうそ)の襟(えり)の着(つ)いた暖(あたゝ)かさうな外套(マント)を着(き)て、突然(とつぜん)坂井(さかゐ)が宗助(そうすけ)の所(ところ)へ遣(や)つて來(き)た。夜間(やかん)客(きやく)に襲(おそ)はれ付(つ)けない夫婦(ふうふ)は、輕微(けいび)の狼狽(らうばい)を感(かん)じた位(くらゐ)驚(おど)ろかされたが、座敷(ざしき)へ上(あ)げて話(はな)して見(み)ると、坂井(さかゐ)は丁寧(ていねい)に先日(せんじつ)の禮(れい)を述(の)べた後(のち)、
「御蔭(おかげ)で取(と)られた品物(しなもの)が又(また)戻(もど)りましたよ」と云(い)ひながら、白縮緬(しろちりめん)の兵兒帶(へこおび)に卷(ま)き付(つ)けた金鎖(きんぐさり)を外(はづ)して、兩葢(りやうぶた)の金時計(きんどけい)を出(だ)して見(み)せた。
 規則(きそく)だから警察(けいさつ)へ屆(とゞ)ける事(こと)は屆(とゞ)けたが、實(じつ)は大分(だいぶ)古(ふる)い時計(とけい)なので、取(と)られても夫程(それほど)惜(をし)くもない位(ぐらゐ)に諦(あき)らめてゐたら、昨日(きのふ)になつて、突然(とつぜん)差出人(さしだしにん)の不明(ふめい)な小包(こづゝみ)が着(つ)いて、其中(そのなか)にちやんと自分(じぶん)の失(な)くしたのが包(くる)んであつたんだと云(い)ふ。
「泥棒(どろぼう)も持(も)ち扱(あつ)かつたんでせう。それとも餘(あま)り金(かね)にならないんで、已(やむ)を得(え)ず返(かへ)して呉(く)れる氣(き)になつたんですかね。何(なに)しろ珍(めづ)らしい事(こと)で」と坂井(さかゐ)は笑(わら)つてゐた。それから、
「何(なに)私(わたくし)から云(い)ふと、實(じつ)はあの文庫(ぶんこ)の方(はう)が寧(むし)ろ大切(たいせつ)な品(しな)でしてね。祖母(ばゞ)が昔(むか)し御殿(ごてん)へ勤(つと)めてゐた時分(じぶん)、戴(いたゞ)いたんだとか云(い)つて、まあ記念(かたみ)の樣(やう)なものですから」と云(い)ふ樣(やう)な事(こと)も説明(せつめい)して聞(き)かした。
 其晩(そのばん)坂井(さかゐ)はそんな話(はなし)を約(やく)二時間(じかん)もして歸(かへ)つて行(い)つたが、相手(あひて)になつた宗助(そうすけ)も、茶(ちや)の間(ま)で聞(き)いてゐた御米(およね)も、大變(たいへん)談話(だんわ)の材料(ざいれう)に富(と)んだ人(ひと)だと思(おも)はぬ譯(わけ)に行(ゆ)かなかつた。後(あと)で、
「世間(せけん)の廣(ひろ)い方(かた)ね」と御米(およね)が評(ひやう)した。
「閑(ひま)だからさ」と宗助(そうすけ)が解釋(かいしやく)した。
 次(つぎ)の日(ひ)宗助(そうすけ)が役所(やくしよ)の歸(かへ)りがけに、電車(でんしや)を降(お)りて横町(よこちやう)の道具屋(だうぐや)の前(まへ)迄(まで)來(く)ると、例(れい)の獺(かはうそ)の襟(えり)を着(つ)けた坂井(さかゐ)の外套(ぐわいたう)が一寸(ちよつと)眼(め)に着(つ)いた。横顏(よこがほ)を徃來(わうらい)の方(はう)へ向(む)けて、主人(しゆじん)を相手(あひて)に何(なに)か云(い)つてゐる。主人(しゆじん)は大(おほ)きな眼鏡(めがね)を掛(か)けた儘(まゝ)、下(した)から坂井(さかゐ)の顏(かほ)を見上(みあ)げてゐる。宗助(そうすけ)は挨拶(あいさつ)をすべき折(をり)でもないと思(おも)つたから、其儘(そのまゝ)行(ゆ)き過(す)ぎやうとして、店(みせ)の正面(しやうめん)迄(まで)來(く)ると、坂井(さかゐ)の眼(め)が徃來(わうらい)へ向(む)いた。
「やあ昨夜(さくや)は。今(いま)御歸(おかへ)りですか」と氣輕(きがる)に聲(こゑ)を掛(か)けられたので、宗助(そうすけ)も愛想(あいそ)なく通(とほ)り過(す)ぎる譯(わけ)にも行(ゆ)かなくなつて、一寸(ちよつと)歩調(ほてう)を緩(ゆる)めながら、帽子(ばうし)を取(と)つた。すると坂井(さかゐ)は、用(よう)はもう濟(す)んだと云(い)ふ風(ふう)をして、店(みせ)から出(で)て來(き)た。
「何(なに)か御求(おもと)めですか」と宗助(そうすけ)が聞(き)くと、
「いえ、何(なに)」と答(こた)へた儘(まゝ)、宗助(そうすけ)と並(なら)んで家(うち)の方(はう)へ歩(ある)き出(だ)した。六七間(けん)來(き)たとき、
「あの爺(ぢゞ)い、中々(なか/\)猾(ずる)い奴(やつ)ですよ。華山(くわざん)の[#「華山の」はママ]僞物(にせもの)を持(も)つて來(き)て押付(おつつけ)やうとしやがるから、今(いま)叱(しか)り付(つけ)て遣(や)つたんです」と云(い)い出(だ)した。宗助(そうすけ)は始(はじ)めて、此(この)坂井(さかゐ)も餘裕(よゆう)ある人(ひと)に共通(きようつう)な好事(かうず)を道樂(だうらく)にしてゐるのだと心(こゝろ)付(づ)いた。さうして此間(このあひだ)賣(う)り拂(はら)つた抱一(はういつ)の屏風(びやうぶ)も、最初(さいしよ)から斯(か)う云(い)ふ人(ひと)に見(み)せたら、好(よ)かつたらうにと、腹(はら)の中(なか)で考(かんが)へた。
「あれは書畫(しよぐわ)には明(あか)るい男(をとこ)なんですか」
「なに書畫(しよぐわ)どころか、丸(まる)で何(なに)も分(わか)らない奴(やつ)です。あの店(みせ)の樣子(やうす)を見(み)ても分(わか)るぢやありませんか。骨董(こつとう)らしいものは一(ひと)つも並(なら)んでゐやしない。もとが紙屑屋(かみくづや)から出世(しゆつせ)してあれ丈(だけ)になつたんですからね」
 坂井(さかゐ)は道具屋(だうぐや)の素性(すじやう)を能(よ)く知(し)つてゐた。出入(でいり)の八百屋(やほや)の阿爺(おやぢ)の話(はなし)によると、坂井(さかゐ)の家(いへ)は舊幕(きうばく)の頃(ころ)何(なん)とかの守(かみ)と名乘(なの)つたもので、此(この)界隈(かいわい)では一番(いちばん)古(ふる)い門閥家(もんばつか)なのださうである。瓦解(ぐわかい)の際(さい)、駿府(すんぷ)へ引(ひ)き上(あ)げなかつたんだとか、或(あるひ)は引(ひ)き上(あ)げて又(また)出(で)て來(き)たんだとか云(い)ふ事(こと)も耳(みゝ)にした樣(やう)であるが、それは判然(はつきり)宗助(そうすけ)の頭(あたま)に殘(のこ)つてゐなかつた。
「小(ちひ)さい内(うち)から惡戲(いたづら)ものでね。あいつが餓鬼大將(がきだいしやう)になつて能(よ)く喧譁(けんくわ)をしに行(い)つた事(こと)がありますよ」と坂井(さかゐ)は御互(おたがひ)の子供(こども)の時(とき)の事(こと)迄(まで)一口(ひとくち)洩(も)らした。それが又(また)何(ど)うして華山(くわざん)の[#「華山の」はママ]贋物(にせもの)を賣(う)り込(こ)まうと巧(たく)んだのかと聞(き)くと、坂井(さかゐ)は笑(わら)つて、斯(か)う説明(せつめい)した。――
「なに親父(おやぢ)の代(だい)から贔屓(ひいき)にして遣(や)つてるものですから、時々(とき/″\)何(なん)だ蚊(か)だつて持(も)つて來(く)るんです。所(ところ)が眼(め)も利(き)かない癖(くせ)に、只(たゞ)慾(よく)ばりたがつてね、まことに取扱(とりあつか)ひ惡(にく)い代物(しろもの)です。それについ此間(このあひだ)抱一(はういつ)の屏風(びやうぶ)を買(か)つて貰(もら)つて、味(あぢ)を占(し)めたんでね」
 宗助(そうすけ)は驚(おど)ろいた。けれども話(はなし)の途中(とちゆう)を遮(さへ)ぎる譯(わけ)に行(ゆ)かなかつたので、默(だま)つてゐた。坂井(さかゐ)は道具屋(だうぐや)がそれ以來(いらい)乘氣(のりき)になつて、自身(じしん)に分(わか)りもしない書畫類(しよぐわるゐ)をしきりに持(も)ち込(こ)んで來(く)る事(こと)やら、大坂(おほさか)出來(でき)の高麗燒(かうらいやき)を本物(ほんもの)だと思(おも)つて、大事(だいじ)に飾(かざ)つて置(お)いた事(こと)やら話(はな)した末(すゑ)、
「まあ臺所(だいどころ)で使(つか)ふ食卓(ちやぶだい)か、たか/″\新(あら)の鐵瓶(てつびん)位(ぐらゐ)しか、彼(あ)んな所(ところ)ぢや買(か)へたもんぢやありません」と云(い)つた。
 其内(そのうち)二人(ふたり)は坂(さか)の上(うへ)へ出(で)た。坂井(さかゐ)は其所(そこ)を右(みぎ)へ曲(まが)る、宗助(そうすけ)は其所(そこ)を下(した)へ下(お)りなければならなかつた。宗助(そうすけ)はもう少(すこ)し一所(いつしよ)に歩(ある)いて、屏風(びやうぶ)の事(こと)を聞(き)きたかつたが、わざ/\回(まは)り路(みち)をするのも變(へん)だと心付(こゝろづ)いて、夫(それ)なり分(わか)れた。分(わか)れる時(とき)、
「近(ちか)い中(うち)御邪魔(おじやま)に出(で)ても宣(よ)う御座(ござ)いますか」と聞(き)くと、坂井(さかゐ)は、
「どうぞ」と快(こゝろ)よく答(こた)へた。
 其日(そのひ)は風(かぜ)もなく一仕切(ひとしきり)日(ひ)も照(て)つたが、家(うち)にゐると底冷(そこびえ)のする寒(さむ)さに襲(おそ)はれるとか云(い)つて、御米(およね)はわざ/\置炬燵(おきごたつ)に宗助(そうすけ)の着物(きもの)を掛(か)けて、それを座敷(ざしき)の眞中(まんなか)に据(す)ゑて、夫(をつと)の歸(かへ)りを待(ま)ち受(う)けてゐた。
 此冬(このふゆ)になつて、晝(ひる)のうち炬燵(こたつ)を拵(こし)らえたのは、其日(そのひ)が始(はじ)めてゞあつた。夜(よる)は疾(と)うから用(もち)ひてゐたが、何時(いつ)も六疊(でふ)に置(お)く丈(だけ)であつた。
「座敷(ざしき)の眞中(まんなか)にそんなものを据(す)ゑて、今日(けふ)は何(ど)うしたんだい」
「でも、御客(おきやく)も何(なに)もないから可(い)いでせう。だつて六疊(でふ)の方(はう)は小六(ころく)さんが居(ゐ)て、塞(ふさ)がつてゐるんですもの」
 宗助(そうすけ)は始(はじ)めて自分(じぶん)の家(いへ)に小六(ころく)の居(ゐ)る事(こと)に氣(き)が付(つ)いた。襯衣(しやつ)の上(うへ)から暖(あたゝ)かい紡績織(ばうせきおり)を掛(か)けて貰(もら)つて、帶(おび)をぐる/\卷(ま)き付(つ)けたが、
「こゝは寒帶(かんたい)だから炬燵(こたつ)でも置(お)かなくつちや凌(しの)げない」と云(い)つた。小六(ころく)の部屋(へや)になつた六疊(でふ)は、疊(たゝみ)こそ奇麗(きれい)でないが、南(みなみ)と東(ひがし)が開(あ)いてゐて、家中(うちぢゆう)で一番(いちばん)暖(あたゝ)かい部屋(へや)なのである。
 宗助(そうすけ)は御米(およね)の汲(く)んで來(き)た熱(あつ)い茶(ちや)を湯呑(ゆのみ)から二口(ふたくち)程(ほど)飮(の)んで、
「小六(ころく)はゐるのかい」と聞(き)いた。小六(ころく)は固(もと)より居(ゐ)た筈(はず)である。けれども六疊(でふ)はひつそりして人(ひと)のゐる樣(やう)にも思(おも)はれなかつた。御米(およね)が呼(よ)びに立(た)たうとするのを、用(よう)はないから可(い)いと留(と)めた儘(まゝ)、宗助(そうすけ)は炬燵蒲團(こたつぶとん)の中(なか)へ潛(もぐ)り込(こ)んで、すぐ横(よこ)になつた。一方口(いつぱうぐち)に崖(がけ)を控(ひか)えてゐる座敷(ざしき)には、もう暮方(くれがた)の色(いろ)が萠(きざ)してゐた。宗助(そうすけ)は手枕(てまくら)をして、何(なに)を考(かんが)へるともなく、たゞ此(この)暗(くら)く狹(せま)い景色(けしき)を眺(なが)めてゐた。すると御米(およね)と清(きよ)が臺所(だいどころ)で働(はたら)く音(おと)が、自分(じぶん)に關係(くわんけい)のない隣(となり)の人(ひと)の活動(くわつどう)の如(ごと)くに聞(きこ)えた。そのうち、障子(しやうじ)丈(だけ)がたゞ薄白(うすじろ)く宗助(そうすけ)の眼(め)に映(うつ)る樣(やう)に、部屋(へや)の中(なか)が暮(く)れて來(き)た。彼(かれ)はそれでも凝(じつ)として動(うご)かずにゐた。聲(こゑ)を出(だ)して洋燈(らんぷ)の催促(さいそく)もしなかつた。
 彼(かれ)が暗(くら)い所(ところ)から出(で)て、晩食(ばんめし)の膳(ぜん)に着(つ)いた時(とき)は、小六(ころく)も六疊(でふ)から出(で)て來(き)て、兄(あに)の向(むか)ふに坐(すわ)つた。御米(およね)は忙(いそが)しいので、つい忘(わす)れたと云(い)つて、座敷(ざしき)の戸(と)を締(し)めに立(た)つた。宗助(そうすけ)は弟(おとうと)に夕方(ゆふがた)になつたら、ちと洋燈(らんぷ)を點(つ)けるとか、戸(と)を閉(た)てるとかして、忙(せは)しい姉(あね)の手傳(てつだひ)でもしたら好(よ)からうと注意(ちゆうい)したかつたが、昨今(さくこん)引(ひ)き移(うつ)つた許(ばかり)のものに、氣(き)まづい事(こと)を云(い)ふのも惡(わる)からうと思(おも)つて已(や)めた。
 御米(およね)が座敷(ざしき)から歸(かへ)つて來(く)るのを待(ま)つて、兄弟(きやうだい)は始(はじ)めて茶碗(ちやわん)に手(て)を着(つ)けた。其時(そのとき)宗助(そうすけ)は漸(やうや)く今日(けふ)役所(やくしよ)の歸(かへ)りがけに、道具屋(だうぐや)の前(まへ)で坂井(さかゐ)に逢(あ)つた事(こと)と、坂井(さかゐ)があの大(おほ)きな眼鏡(めがね)を掛(か)けてゐる道具屋(だうぐや)から、抱一(はういつ)の屏風(びやうぶ)を買(か)つたと云(い)ふ話(はなし)をした。御米(およね)は、
「まあ」と云(い)つたなり、しばらく宗助(そうすけ)の顏(かほ)を見(み)てゐた。
「ぢや屹度(きつと)あれよ。屹度(きつと)あれに違(ちがひ)ないわね」
 小六(ころく)は始(はじ)めのうち何(なん)にも口(くち)を出(だ)さなかつたが、段々(だん/\)兄夫婦(あにふうふ)の話(はなし)を聞(き)いてゐるうちに、略(ほゞ)關係(くわんけい)が明暸(めいれう)になつたので、
「全體(ぜんたい)幾何(いくら)で賣(う)つたのです」と聞(き)いた。御米(およね)は返事(へんじ)をする前(まへ)に一寸(ちよつと)夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)た。
 食事(しよくじ)が終(をは)ると、小六(ころく)はぢきに六疊(でふ)へ這入(はい)つた。宗助(そうすけ)は又(また)炬燵(こたつ)へ歸(かへ)つた。しばらくして御米(およね)も足(あし)を温(ぬく)めに來(き)た。さうして次(つぎ)の土曜(どえう)か日曜(にちえう)には坂井(さかゐ)へ行(い)つて、一(ひと)つ屏風(びやうぶ)を見(み)て來(き)たら可(い)いだらうと云(い)ふ樣(やう)な事(こと)を話(はな)し合(あ)つた。
 次(つぎ)の日曜(にちえう)になると、宗助(そうすけ)は例(れい)の通(とほ)り一週(しう)に一返(ぺん)の樂寐(らくね)を貪(むさ)ぼつたため、午前(ひるまへ)半日(はんにち)をとう/\空(くう)に潰(つぶ)して仕舞(しま)つた。御米(およね)は又(また)頭(あたま)が重(おも)いとか云(い)つて、火鉢(ひばち)の縁(ふち)に倚(よ)りかゝつて、何(なに)をするのも懶(ものう)さうに見(み)えた。斯(こ)んな時(とき)に六疊(でふ)が空(あ)いてゐれば、朝(あさ)からでも引込(ひつこ)む場所(ばしよ)があるのにと思(おも)ふと、宗助(そうすけ)は小六(ころく)に六疊(でふ)を宛(あ)てがつた事(こと)が、間接(かんせつ)に御米(およね)の避難場(ひなんば)を取(と)り上(あ)げたと同(おな)じ結果(けつくわ)に陷(おちい)るので、ことに濟(す)まない樣(やう)な氣(き)がした。
 心持(こゝろもち)が惡(わる)ければ、座敷(ざしき)へ床(とこ)を敷(し)いて寐(ね)たら好(よ)からうと注意(ちゆうい)しても、御米(およね)は遠慮(ゑんりよ)して容易(ようい)に應(おう)じなかつた。それでは又(また)炬燵(こたつ)でも拵(こしら)えたら何(ど)うだ、自分(じぶん)も當(あた)るからと云(い)つて、とう/\櫓(やぐら)と掛蒲團(かけぶとん)を清(きよ)に云(い)ひ付(つ)けて、座敷(ざしき)へ運(はこ)ばした。
 小六(ころく)は宗助(そうすけ)が起(お)きる少(すこ)し前(まへ)に、何處(どこ)かへ出(で)て行(い)つて、今朝(けさ)は顏(かほ)さへ見(み)せなかつた。宗助(そうすけ)は御米(およね)に向(むか)つて別段(べつだん)其(その)行先(ゆくさき)を聞(き)き糺(たゞ)しもしなかつた。此頃(このごろ)では小六(ころく)に關係(くわんけい)した事(こと)を云(い)ひ出(だ)して、御米(およね)に其(その)返事(へんじ)をさせるのが氣(き)の毒(どく)になつて來(き)た。御米(およね)の方(はう)から、進(すゝ)んで弟(おとうと)の讒訴(ざんそ)でもする樣(やう)だと、叱(しか)るにしろ、慰(なぐ)さめるにしろ、却(かへ)つて始末(しまつ)が好(い)いと考(かんが)へる時(とき)もあつた。
 午(ひる)になつても御米(およね)は炬燵(こたつ)から出(で)なかつた。宗助(そうすけ)は一層(いつそ)靜(しづ)かに寐(ね)かして置(お)く方(はう)が身體(からだ)のために可(よ)からうと思(おも)つたので、そつと臺所(だいどころ)へ出(で)て、清(きよ)に一寸(ちよつと)上(うへ)の坂井(さかゐ)迄(まで)行(い)つてくるからと告(つ)げて、不斷着(ふだんぎ)の上(うへ)へ、袂(たもと)の出(で)る短(みじか)いイン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ネスを纏(まと)つて表(おもて)へ出(で)た。
 今迄(いままで)陰氣(いんき)な室(へや)にゐた所爲(せゐ)か、通(とほり)へ來(く)ると急(きふ)にからりと氣(き)が晴(は)れた。肌(はだ)の筋肉(きんにく)が寒(さむ)い風(かぜ)に抵抗(ていかう)して、一時(いちじ)に緊縮(きんしゆく)する樣(やう)な冬(ふゆ)の心持(こゝろもち)の鋭(する)どく出(で)るうちに、ある快感(くわいかん)を覺(おぼ)えたので、宗助(そうすけ)は御米(およね)もあゝ家(うち)にばかり置(お)いては善(よ)くない、氣候(きこう)が好(よ)くなつたら、ちと戸外(こぐわい)の空氣(くうき)を呼吸(こきふ)させる樣(やう)にしてやらなくては毒(どく)だと思(おも)ひながら歩(ある)いた。
 坂井(さかゐ)の家(うち)の門(もん)を入(はひ)つたら、玄關(げんくわん)と勝手口(かつてぐち)の仕切(しきり)になつてゐる生垣(いけがき)の目(め)に、冬(ふゆ)に似合(にあ)はないぱつとした赤(あか)いものが見(み)えた。傍(そば)へ寄(よ)つてわざ/\檢(しら)べると、それは人形(にんぎやう)に掛(か)ける小(ちひ)さい夜具(やぐ)であつた。細(ほそ)い竹(たけ)を袖(そで)に通(とほ)して、落(お)ちない樣(やう)に、扇骨木(かなめ)の枝(えだ)に寄(よ)せ掛(か)けた手際(てぎは)が、如何(いか)にも女(をんな)の子(こ)の所作(しよさ)らしく殊勝(しゆしよう)に思(おも)はれた。かう云(い)ふ惡戯(いたづら)をする年頃(としごろ)の娘(むすめ)は固(もと)よりの事(こと)、子供(こども)と云(い)ふ子供(こども)を育(そだ)て上(あ)げた經驗(けいけん)のない宗助(そうすけ)は、此(この)小(ちひ)さい赤(あか)い夜具(やぐ)の尋常(じんじやう)に日(ひ)に干(ほ)してある有樣(ありさま)をしばらく立(た)つて眺(なが)めてゐた。さうして二十年(ねん)も昔(むかし)に父母(ふぼ)が、死(し)んだ妹(いもと)の爲(ため)に飾(かざ)つた、赤(あか)い雛段(ひなだん)と五人囃(ごにんばやし)と、模樣(もやう)の美(うつ)くしい干菓子(ひぐわし)と、それから甘(あま)い樣(やう)で辛(から)い白酒(しろざけ)を思(おも)ひ出(だ)した。
 坂井(さかゐ)の主人(しゆじん)は在宅(ざいたく)ではあつたけれども、食事中(しよくじちゆう)だと云(い)ふので、しばらく待(ま)たせられた。宗助(そうすけ)は座(ざ)に着(つ)くや否(いな)や、隣(となり)の室(へや)で小(ちひ)さい夜具(やぐ)を干(ほ)した人達(ひとたち)の騷(さわ)ぐ聲(こゑ)を耳(みゝ)にした。下女(げぢよ)が茶(ちや)を運(はこ)ぶために襖(ふすま)を開(あ)けると、襖(ふすま)の影(かげ)から大(おほ)きな眼(め)が四(よつ)つ程(ほど)既(すで)に宗助(そうすけ)を覗(のぞ)いてゐた。火鉢(ひばち)を持(も)つて出(で)ると、其後(そのあと)から又(また)違(ちが)つた顏(かほ)が見(み)えた。始(はじ)めての所爲(せゐ)か、襖(ふすま)の開閉(あけたて)の度(たび)に出(で)る顏(かほ)が悉(こと/″\)く違(ちが)つてゐて、子供(こども)の數(かず)が何人(なんにん)あるか分(わか)らない樣(やう)に思(おも)はれた。漸(やうや)く下女(げぢよ)が退(さ)がりきりに退(さ)がると、今度(こんど)は誰(だれ)だか唐紙(からかみ)を一寸(いつすん)程(ほど)細目(ほそめ)に開(あ)けて、黒(くろ)い光(ひか)る眼丈(めだけ)を其間(そのあひだ)から出(だ)した。宗助(そうすけ)も面白(おもしろ)くなつて、默(だま)つて手招(てまね)ぎをして見(み)た。すると唐紙(からかみ)をぴたりと閉(た)てゝ、向(むか)ふ側(がは)で三四人(さんよにん)が聲(こゑ)を合(あは)して笑(わら)ひ出(だ)した。
 やがて一人(ひとり)の女(をんな)の子(こ)が、
「よう、御姉樣(おねえさま)又(また)何時(いつ)もの樣(やう)に叔母(をば)さんごつこ爲(し)ませうよ」と云(い)ひ出(だ)した。すると姉(あね)らしいのが、
「えゝ、今日(けふ)は西洋(せいやう)の叔母(をば)さんごつこよ。東作(とうさく)さんは御父(おとう)さまだからパパで、雪子(ゆきこ)さんは御母(おかあ)さまだからママつて云(い)ふのよ。可(よ)くつて」と説明(せつめい)した。其時(そのとき)又(また)別(べつ)の聲(こゑ)で、
「可笑(をか)しいわね。ママだつて」と云(い)つて嬉(うれ)しさうに笑(わら)つたものがあつた。
「私(わたし)夫(それ)でも何時(いつ)も御祖母(おばゞ)さまなのよ。御祖母(おばゞ)さまの西洋(せいやう)の名(な)がなくつちや不可(いけ)ないわねえ。御祖母(おばゞ)さまは何(なん)て云(い)ふの」と聞(き)いたものもあつた。
「御祖母(おばゞ)さまは矢(や)つ張(ぱ)りバヾで可(い)いでせう」と姉(あね)が又(また)説明(せつめい)した。
 夫(それ)から當分(たうぶん)の間(あひだ)は、御免(ごめん)下(くだ)さいましだの、何方(どちら)から入(い)らつしやいましたのと盛(さかん)に挨拶(あいさつ)の言葉(ことば)が交換(かうくわん)されてゐた。其間(そのあひだ)にはちりん/\と云(い)ふ電話(でんわ)の假聲(こわいろ)も交(まじ)つた。凡(すべ)てが宗助(そうすけ)には陽氣(やうき)で珍(めづ)らしく聞(きこ)えた。
 其所(そこ)へ奧(おく)の方(はう)から足音(あしおと)がして、主人(しゆじん)が此方(こつち)へ出(で)て來(き)たらしかつたが、次(つぎ)の間(ま)へ入(はひ)るや否(いな)や、
「さあ、御前達(おまへたち)は此所(こゝ)で騷(さわ)ぐんぢやない。彼方(あつち)へ行(い)つて御出(おいで)。御客(おきやく)さまだから」と制(せい)した。其時(そのとき)、誰(だれ)だかすぐに、
「厭(いや)だよ。御父(おと)つちやんべい。大(おほ)きい御馬(おむま)買(か)つて呉(く)れなくつちや、彼方(あつち)へ行(い)かないよ」と答(こた)へた。聲(こゑ)は小(ちひ)さい男(をとこ)の子(こ)の聲(こゑ)であつた。年(とし)が行(い)かない爲(ため)か、舌(した)が能(よ)く回(まは)らないので、抗辯(かうべん)のしやうが如何(いか)にも億劫(おくくふ)で手間(てま)が掛(か)かつた。宗助(そうすけ)は其所(そこ)を特(とく)に面白(おもしろ)く思(おも)つた。
 主人(しゆじん)が席(せき)に着(つ)いて、長(なが)い間(あひだ)待(ま)たした失禮(しつれい)を詫(わ)びてゐる間(ま)に、子供(こども)は遠(とほ)くへ行(い)つて仕舞(しま)つた。
「大變(たいへん)御賑(おにぎ)やかで結構(けつこう)です」と宗助(そうすけ)が今(いま)自分(じぶん)の感(かん)じた通(とほり)を述(の)べると、主人(しゆじん)はそれを愛嬌(あいけう)と受取(うけと)つたものと見(み)えて、
「いや御覽(ごらん)の如(ごと)く亂雜(らんざつ)な有樣(ありさま)で」と言譯(いひわけ)らしい返事(へんじ)をしたが、それを緒(いとくち)に、子供(こども)の世話(せわ)の燒(や)けて、夥(おびた)だしく手(て)の掛(かゝ)る事(こと)などを色々(いろ/\)宗助(そうすけ)に話(はな)して聞(き)かした。其中(そのうち)で綺麗(きれい)な支那製(しなせい)の花籃(はなかご)のなかへ炭團(たどん)を一杯(いつぱい)盛(も)つて床(とこ)の間(ま)に飾(かざ)つたと云(い)ふ滑稽(こつけい)と、主人(しゆじん)の編上(あみあげ)の靴(くつ)のなかへ水(みづ)を汲(く)み込(こ)んで、金魚(きんぎよ)を放(はな)したと云(い)ふ惡戲(いたずら)が、宗助(そうすけ)には大變(たいへん)耳(みゝ)新(あたら)しかつた。然(しか)し、女(をんな)の子(こ)が多(おほ)いので服裝(ふくさう)に物(もの)が要(い)るとか、二週間(にしうかん)も旅行(りよかう)して歸(かへ)つてくると、急(きふ)にみんなの脊(せい)が一寸(いつすん)づゝも伸(の)びてゐるので、何(なん)だか後(うしろ)から追(お)ひ付(つ)かれる樣(やう)な心持(こゝろもち)がするとか、もう少(すこ)しすると、嫁入(よめいり)の支度(したく)で忙殺(ばうさつ)されるのみならず、屹度(きつと)貧殺(ひんさつ)されるだらうとか云(い)ふ話(はなし)になると、子供(こども)のない宗助(そうすけ)の耳(みゝ)には夫程(それほど)の同情(どうじやう)も起(おこ)し得(え)なかつた。却(かへ)つて主人(しゆじん)が口(くち)で子供(こども)を煩冗(うるさ)がる割(わり)に、少(すこ)しもそれを苦(く)にする樣子(やうす)の顏(かほ)にも態度(たいど)にも見(み)えないのを羨(うらや)ましく思(おも)つた。
 好(い)い加減(かげん)な頃(ころ)を見計(みはか)つて宗助(そうすけ)は、先達(せんだつ)て話(はなし)のあつた屏風(びやうぶ)を一寸(ちよつと)見(み)せて貰(もら)へまいかと、主人(しゆじん)に申(まを)し出(で)た。主人(しゆじん)は早速(さつそく)引(ひ)き受(う)けて、ぱち/\と手(て)を鳴(な)らして、召使(めしつかひ)を呼(よ)んだが、藏(くら)の中(なか)に仕舞(しま)つてあるのを取(と)り出(だ)して來(く)る樣(やう)に命(めい)じた。さうして宗助(そうすけ)の方(はう)を向(む)いて、
「つい二三日前(にさんちまへ)迄(まで)其所(そこ)へ立(た)てゝ置(お)いたのですが、例(れい)の子供(こども)が面白(おもしろ)半分(はんぶん)にわざと屏風(びやうぶ)の影(かげ)へ集(あつ)まつて、色々(いろ/\)な惡戲(いたづら)をするものですから、傷(きず)でも付(つ)けられちや大變(たいへん)だと思(おも)つて仕舞(しま)ひ込(こ)んでしまひました」と云(い)つた。
 宗助(そうすけ)は主人(しゆじん)の此(この)言葉(ことば)を聞(き)いた時(とき)、今更(いまさら)手數(てかず)をかけて、屏風(びやうぶ)を見(み)せて貰(もら)ふのが、氣(き)の毒(どく)にもなり、又(また)面倒(めんだう)にもなつた。實(じつ)を云(い)ふと彼(かれ)の好奇心(かうきしん)は、夫程(それほど)強(つよ)くなかつたのである。成程(なるほど)一旦(いつたん)他(ひと)の所有(しよいう)に歸(き)したものは、たとひ元(もと)が自分(じぶん)のであつたにしろ、無(な)かつたにしろ、其所(そこ)を突(つ)き留(と)めた所(ところ)で、實際上(じつさいじやう)には何(なん)の効果(かうくわ)もない話(はなし)に違(ちがひ)なかつた。
 けれども、屏風(びやうぶ)は宗助(そうすけ)の申(まを)し出(で)た通(とほ)り、間(ま)もなく奧(おく)から縁傳(えんづた)ひに運(はこ)び出(だ)されて、彼(かれ)の眼(め)の前(まへ)に現(あらは)れた。さうして夫(それ)が豫想通(よさうどほ)りつい此間(このあひだ)迄(まで)自分(じぶん)の座敷(ざしき)に立(た)てゝあつた物(もの)であつた。此(この)事實(じじつ)を發見(はつけん)した時(とき)、宗助(そうすけ)の頭(あたま)には、是(これ)と云(い)つて大(たい)した感動(かんどう)も起(おこ)らなかつた。たゞ自分(じぶん)が今(いま)坐(すわ)つてゐる疊(たゝみ)の色(いろ)や、天井(てんじやう)の柾目(まさめ)や、床(とこ)の置物(おきもの)や、襖(ふすま)の模樣(もやう)などの中(なか)に、此(この)屏風(びやうぶ)を立(た)てて見(み)て、夫(それ)に、召使(めしつかひ)が二人(ふたり)がゝりで、藏(くら)の中(なか)から大事(だいじ)さうに取(と)り出(だ)して來(き)たと云(い)ふ所作(しよさ)を付(つ)け加(くは)へて考(かんが)へると、自分(じぶん)が持(も)つてゐた時(とき)よりは慥(たしか)に十倍(ばい)以上(いじやう)貴(たつ)とい品(しな)の樣(やう)に眺(なが)められた丈(だけ)であつた。彼(かれ)は即座(そくざ)に云(い)ふ可(べ)き言葉(ことば)を見出(みいだ)し得(え)なかつたので、いたづらに、見慣(みな)れたものゝ上(うへ)に、更(さら)に新(あた)らしくもない眼(め)を据(す)ゑてゐた。
 主人(しゆじん)は宗助(そうすけ)を以(もつ)てある程度(ていど)の鑑賞家(かんしやうか)と誤解(ごかい)した。立(た)ちながら屏風(びやうぶ)の縁(ふち)へ手(て)を掛(か)けて、宗助(そうすけ)の面(おもて)と屏風(びやうぶ)の面(おもて)とを比較(ひかく)してゐたが、宗助(そうすけ)が容易(ようい)に批評(ひひやう)を下(くだ)さないので、
「是(これ)は素性(すじやう)の慥(たしか)なものです。出(で)が出(で)ですからね」と云(い)つた。宗助(そうすけ)は、たゞ
「成程(なるほど)」と云(い)つた。
 主人(しゆじん)はやがて宗助(そうすけ)の後(うしろ)へ回(まは)つて來(き)て、指(ゆび)で其所(そこ)此所(こゝ)を指(さ)しながら、品評(ひんぴやう)やら説明(せつめい)やらした。其中(そのうち)には、さすが御大名丈(おだいみやうだけ)あつて、好(い)い繪(ゑ)の具(ぐ)を惜氣(をしげ)もなく使(つか)ふのが此(この)畫家(ぐわか)の特色(とくしよく)だから、色(いろ)が如何(いか)にも美事(みごと)であると云(い)ふ樣(やう)な、宗助(そうすけ)には耳(みゝ)新(あた)らしいけれども、普通(ふつう)一般(いつぱん)に知(し)れ渡(わた)つた事(こと)も大分(だいぶ)交(まじ)つてゐた。
 宗助(そうすけ)は好(い)い加減(かげん)な頃(ころ)を見計(みはか)らつて、丁寧(ていねい)に禮(れい)を述(の)べて元(もと)の席(せき)に復(ふく)した。主人(しゆじん)も蒲團(ふとん)の上(うへ)に直(なほ)つた。さうして、今度(こんど)は野路(のぢ)や空(そら)云々(うん/\)といふ題句(だいく)やら書體(しよたい)やらに就(つ)いて語(かた)り出(だ)した。宗助(そうすけ)から見(み)ると、主人(しゆじん)は書(しよ)にも俳句(はいく)にも多(おほ)くの興味(きようみ)を有(も)つてゐた。何時(いつ)の間(ま)に是程(これほど)の知識(ちしき)を頭(あたま)の中(なか)へ貯(たくは)へ得(え)らるゝかと思(おも)ふ位(くらゐ)、凡(すべ)てに心得(こゝろえ)のある男(をとこ)らしく思(おも)はれた。宗助(そうすけ)は己(おの)れを耻(は)ぢて、成(な)るべく物數(ものかず)を云(い)はない樣(やう)にして、たゞ向(むか)ふの話(はなし)丈(だけ)に耳(みゝ)を借(か)す事(こと)を力(つと)めた。
 主人(しゆじん)は客(きやく)が此(この)方面(はうめん)の興味(きようみ)に乏(とぼ)しい樣子(やうす)を見(み)て、再(ふたゝ)び話(はなし)を畫(ゑ)の方(はう)へ戻(もど)した。碌(ろく)なものはないけれども、望(のぞみ)ならば所藏(しよざう)の畫帖(ぐわでふ)や幅物(ふくもの)を見(み)せても可(い)いと親切(しんせつ)に申(まを)し出(だ)した。宗助(そうすけ)は折角(せつかく)の好意(かうい)を辭退(じたい)しない譯(わけ)に行(い)かなかつた。其代(そのかは)りに、失禮(しつれい)ですがと前置(まへおき)をして、主人(しゆじん)が此(この)屏風(びやうぶ)を手(て)に入(い)れるに就(つい)て、何(ど)れ程(ほど)の金額(きんがく)を拂(はら)つたかを尋(たづ)ねた。
「まあ掘出(ほりだ)し物(もの)ですね。八十圓(ゑん)で買(か)ひました」と主人(しゆじん)はすぐ答(こた)へた。
 宗助(そうすけ)は主人(しゆじん)の前(まへ)に坐(すわ)つて、此(この)屏風(びやうぶ)に關(くわん)する一切(いつさい)の事(こと)を自白(じはく)しやうか、しまいかと思案(しあん)したが、ふと打(う)ち明(あ)けるのも一興(いつきよう)だらうと心付(こゝろづ)いて、とう/\實(じつ)は是々(これ/\)だと、今迄(いままで)の顛末(てんまつ)を詳(くは)しく話(はな)し出(だ)した。主人(しゆじん)は時々(とき/″\)へえ、へえと驚(おど)ろいた樣(やう)な言葉(ことば)を挾(はさ)んで聞(き)いてゐたが、仕舞(しまひ)に、
「ぢや貴方(あなた)は別(べつ)に書畫(しよぐわ)が好(す)きで、見(み)に入(い)らしつた譯(わけ)でもないんですね」と自分(じぶん)の誤解(ごかい)を、さも面白(おもしろ)い經驗(けいけん)でもした樣(やう)に笑(わら)い出(だ)した。同時(どうじ)に、さう云(い)ふ譯(わけ)なら、自分(じぶん)が直(ぢか)に宗助(そうすけ)から相當(さうたう)の値(ね)で讓(ゆづ)つて貰(もら)へば可(よ)かつたに、惜(を)しい事(こと)をしたと云(い)つた。最後(さいご)に横町(よこちやう)の道具屋(だうぐや)をひどく罵(のゝ)しつて、怪(け)しからん奴(やつ)だと云(い)つた。
 宗助(そうすけ)と坂井(さかゐ)とは是(これ)から大分(だいぶ)親(した)しくなつた。

 佐伯(さへき)の叔母(をば)も安之助(やすのすけ)も其後(そのご)頓(とん)と宗助(そうすけ)の宅(うち)へは見(み)えなかつた。宗助(そうすけ)は固(もと)より麹町(かうぢまち)へ行(ゆ)く餘暇(よか)を有(も)たなかつた。又(また)夫丈(それだけ)の興味(きようみ)もなかつた。親類(しんるゐ)とは云(い)ひながら、別々(べつ/\)の日(ひ)が二人(ふたり)の家(いへ)を照(て)らしてゐた。
 たゞ小六(ころく)丈(だけ)が時々(とき/″\)話(はな)しに出掛(でか)ける樣子(やうす)であつたが、是(これ)とても、さう繁々(しげ/\)足(あし)を運(はこ)ぶ譯(わけ)でもないらしかつた。それに彼(かれ)は歸(かへ)つて來(き)て、叔母(をば)の家(いへ)の消息(せうそく)を殆(ほと)んど御米(およね)に語(かた)らないのを常(つね)として居(を)つた。御米(およね)はこれを故意(こい)から出(で)る小六(ころく)の仕打(しうち)かとも疑(うたぐ)つた。然(しか)し自分(じぶん)が佐伯(さへき)に對(たい)して特別(とくべつ)の利害(りがい)を感(かん)じない以上(いじやう)、御米(およね)は叔母(をば)の動靜(どうせい)を耳(みゝ)にしない方(はう)を、却(かへ)つて喜(よろ)こんだ。
 それでも時々(とき/″\)は、先方(さき)の樣子(やうす)を、小六(ころく)と兄(あに)の對話(たいわ)から聞(き)き込(こ)む事(こと)もあつた。一週間(しうかん)程(ほど)前(まへ)に、小六(ころく)は兄(あに)に、安之助(やすのすけ)がまた新發明(しんはつめい)の應用(おうよう)に苦心(くしん)してゐる話(はなし)をした。それは印氣(インキ)の助(たす)けを借(か)らないで、鮮明(せんめい)な印刷物(いんさつぶつ)を拵(こし)らえるとか云(い)ふ、一寸(ちよつと)聞(き)くと頗(すこぶ)る重寶(ちようはう)な器械(きかい)に就(つい)てであつた。話題(わだい)の性質(せいしつ)から云(い)つても、自分(じぶん)とは全(まつた)く利害(りがい)の交渉(かうせふ)のない六(む)づかしい事(こと)なので、御米(およね)は例(れい)の通(とほ)り默(だま)つて口(くち)を出(だ)さずにゐたが、宗助(そうすけ)は男(をとこ)だけに幾分(いくぶん)か好奇心(かうきしん)が動(うご)いたと見(み)えて、何(ど)うして印氣(インキ)を使(つか)はずに印刷(いんさつ)が出來(でき)るか抔(など)と問(と)ひ糺(たゞ)してゐた。
 專門上(せんもんじやう)の知識(ちしき)のない小六(ころく)が、精密(せいみつ)な返答(へんたふ)をし得(う)る筈(はず)は無論(むろん)なかつた。彼(かれ)はたゞ安之助(やすのすけ)から聞(き)いた儘(まゝ)を、覺(おぼ)えてゐる限(かぎ)り念(ねん)を入(い)れて説明(せつめい)した。此(この)印刷術(いんさつじゆつ)は近來(きんらい)英國(えいこく)で發明(はつめい)になつたもので、根本的(こんぽんてき)にいふと矢張(やは)り電氣(でんき)の利用(りよう)に過(す)ぎなかつた。電氣(でんき)の一極(きよく)を活字(くわつじ)と結(むす)び付(つ)けて置(お)いて、他(た)の一極(きよく)を紙(かみ)に通(つう)じて、其紙(そのかみ)を活字(くわつじ)の上(うへ)へ壓(お)し付(つ)けさへすれば、すぐ出來(でき)るのだと小六(ころく)が云(い)つた。色(いろ)は普通(ふつう)黒(くろ)であるが、手加減(てかげん)次第(しだい)で赤(あか)にも青(あを)にもなるから色刷(いろずり)抔(など)の場合(ばあひ)には、繪(ゑ)の具(ぐ)を乾(かわ)かす時間(じかん)が省(はぶ)ける丈(だけ)でも大變(たいへん)重寶(ちようはう)で、是(これ)を新聞(しんぶん)に應用(おうよう)すれば、印氣(インキ)や印氣(インキ)ロールの費(つひえ)を節約(せつやく)する上(うへ)に、全體(ぜんたい)から云(い)つて、少(すくな)くとも從來(じゆうらい)の四分(ぶん)の一の手數(てかず)がなくなる點(てん)から見(み)ても、前途(ぜんと)は非常(ひじやう)に有望(いうばう)な事業(じげふ)であると、小六(ころく)は又(また)安之助(やすのすけ)の話(はな)した通(とほ)りを繰(く)り返(かへ)した。さうして其(その)有望(いうばう)な前途(ぜんと)を、安之助(やすのすけ)が既(すで)に手(て)の中(うち)に握(にぎ)つたかの如(ごと)き口氣(こうき)であつた。かつ其(その)多望(たばう)な安之助(やすのすけ)の未來(みらい)のなかには、同(おな)じく多望(たばう)な自分(じぶん)の影(かげ)が、含(ふく)まれてゐる樣(やう)に、眼(め)を輝(かゞ)やかした。其時(そのとき)宗助(そうすけ)は何時(いつ)もの調子(てうし)で、寧(むし)ろ穩(おだ)やかに、弟(おとうと)の云(い)ふ事(こと)を聞(き)いてゐたが、聞(き)いてしまつた後(あと)でも、別(べつ)に是(これ)といふ眼立(めだ)つた批評(ひひやう)は加(くは)へなかつた。實際(じつさい)斯(こ)んな發明(はつめい)は、宗助(そうすけ)から見(み)ると、本當(ほんたう)の樣(やう)でもあり、又(また)嘘(うそ)の樣(やう)でもあり、愈(いよ/\)それが世間(せけん)に行(おこな)はれる迄(まで)は、贊成(さんせい)も反對(はんたい)も出來(でき)かねたのである。
「ぢや鰹船(かつをぶね)の方(はう)はもう止(よ)したの」と、今迄(いままで)默(だま)つてゐた御米(およね)が、此時(このとき)始(はじ)めて口(くち)を出(だ)した。
「止(よ)したんぢやないんですが、あの方(はう)は費用(ひよう)が隨分(ずゐぶん)掛(かゝ)るので、いくら便利(べんり)でも、さう誰(だれ)も彼(かれ)も拵(こしら)える譯(わけ)に行(ゆ)かないんださうです」と小六(ころく)が答(こた)へた。小六(ころく)は幾分(いくぶん)か安之助(やすのすけ)の利害(りがい)を代表(だいへう)してゐる樣(やう)な口振(くちぶり)であつた。夫(それ)から三人(にん)の間(あひだ)に、しばらく談話(だんわ)が交換(かうくわん)されたが、仕舞(しまひ)に、
「矢張(やつぱり)何(なに)をしたつて、さう旨(うま)く行(ゆ)くもんぢやあるまいよ」と云(い)つた宗助(そうすけ)の言葉(ことば)と、
「坂井(さかゐ)さん見(み)た樣(やう)に、御金(おかね)があつて遊(あそ)んでゐるのが一番(いちばん)可(い)いわね」と云(い)つた御米(およね)の言葉(ことば)を聞(き)いて、小六(ころく)は又(また)自分(じぶん)の部屋(へや)へ歸(かへ)つて行(い)つた。
 斯(か)う云(い)ふ機會(きくわい)に、佐伯(さへき)の消息(せうそく)は折々(をり/\)夫婦(ふうふ)の耳(みゝ)へ洩(も)れる事(こと)はあるが、其外(そのほか)には、全(まつた)く何(なに)をして暮(く)らしてゐるか、互(たがひ)に知(し)らないで過(すご)す月日(つきひ)が多(おほ)かつた。
 ある時(とき)御米(およね)は宗助(そうすけ)に斯(こ)んな問(とひ)を掛(か)けた。
「小六(ころく)さんは、安(やす)さんの所(ところ)へ行(ゆ)くたんびに、小遣(こづかひ)でも貰(もら)つて來(く)るんでせうか」
 今迄(いままで)小六(ころく)に就(つい)て、夫程(それほど)の注意(ちゆうい)を拂(はら)つてゐなかつた宗助(そうすけ)は、突然(とつぜん)此(この)問(とひ)に逢(あ)つて、すぐ、「何故(なぜ)」と聞(き)き返(かへ)した。御米(およね)はしばらく逡巡(ためら)つた末(すゑ)、
「だつて、此頃(このごろ)能(よ)く御酒(おさけ)を呑(の)んで歸(かへ)つて來(く)る事(こと)があるのよ」と注意(ちゆうい)した。
「安(やす)さんが例(れい)の發明(はつめい)や、金儲(かねまう)けの話(はなし)をするとき、其(その)聞(き)き賃(ちん)に奢(おご)るのかも知(し)れない」と云(い)つて宗助(そうすけ)は笑(わら)つてゐた。會話(くわいわ)はそれなりでつい發展(はつてん)せずに仕舞(しま)つた。
 越(こ)えて三日目(みつかめ)の夕方(ゆふがた)に、小六(ころく)はまた飯時(めしどき)を外(はづ)して歸(かへ)つて來(こ)なかつた。しばらく待(ま)ち合(あは)せてゐたが、宗助(そうすけ)はついに空腹(くうふく)だとか云(い)ひ出(だ)して、一寸(ちよつと)湯(ゆ)にでも行(い)つて、時間(じかん)を延(の)ばしたらといふ御米(およね)の小六(ころく)に對(たい)する氣兼(きがね)に頓着(とんぢやく)なく、食事(しよくじ)を始(はじ)めた。其時(そのとき)御米(およね)は夫(をつと)に、
「小六(ころく)さんに御酒(おさけ)を止(や)める樣(やう)に、貴方(あなた)から云(い)つちや不可(いけ)なくつて」と切(き)り出(だ)した。
「そんなに意見(いけん)しなければならない程(ほど)飮(の)むのか」と宗助(そうすけ)は少(すこ)し案外(あんぐわい)な顏(かほ)をした。
 御米(およね)は夫程(それほど)でもないと、辯護(べんご)しなければならなかつた。けれども實際(じつさい)は誰(だれ)もゐない晝間(ひるま)のうち抔(など)に、あまり顏(かほ)を赤(あか)くして歸(かへ)つて來(こ)られるのが、不安(ふあん)だつたのである。宗助(そうすけ)は夫(それ)なり放(はふ)つて置(お)いた。然(しか)し腹(はら)の中(なか)では、果(はた)して御米(およね)の云(い)ふ如(ごと)く、何所(どこ)かで金(かね)を借(か)りるか、貰(もら)ふかして、夫程(それほど)好(す)きもしないものを、わざと飮(の)むのではなからうかと疑(うた)ぐつた。
 其(その)うち年(とし)が段々(だん/\)片寄(かたよ)つて、夜(よる)が世界(せかい)の三分(さんぶん)の二(に)を領(りやう)する樣(やう)に押(お)し詰(つま)つて來(き)た。風(かぜ)が毎日(まいにち)吹(ふ)いた。其音(そのおと)を聞(き)いてゐる丈(だけ)でも、生活(ライフ)に陰氣(いんき)な響(ひゞき)を與(あた)へた。小六(ころく)はどうしても、六疊(でふ)に籠(こも)つて、一日(いちにち)を送(おく)るに堪(た)えなかつた。落(お)ち付(つ)いて考(かんが)へれば考(かんが)へる程(ほど)、頭(あたま)が淋(さむ)しくつて、居(ゐ)たゝまれなくなる許(ばかり)であつた。茶(ちや)の間(ま)へ出(で)て嫂(あによめ)と話(はな)すのは猶(なほ)厭(いや)であつた。已(やむ)を得(え)ず外(そと)へ出(で)た。さうして友達(ともだち)の宅(うち)をぐる/\回(まは)つて歩(ある)いた。友達(ともだち)も始(はじめ)のうちは、平生(いつも)の小六(ころく)に對(たい)する樣(やう)に、若(わか)い學生(がくせい)のしたがる面白(おもしろ)い話(はなし)を幾何(いくら)でもした。けれども小六(ころく)はさう云(い)ふ話(はなし)が盡(つ)きても、まだ遣(や)つて來(き)た。それで仕舞(しまひ)には、友達(ともだち)が、小六(ころく)は、退屈(たいくつ)の餘(あま)りに訪問(はうもん)をして、談話(だんわ)の復習(ふくしふ)に耽(ふけ)るものだと評(ひやう)した。たまには學校(がくかう)の下讀(したよみ)やら研究(けんきう)やらに追(お)はれてゐる多忙(たばう)の身(み)だと云(い)ふ風(ふう)もして見(み)せた。小六(ころく)は友達(ともだち)からさう呑氣(のんき)な怠(なま)けものゝ樣(やう)に取(と)り扱(あつか)はれるのを、大變(たいへん)不愉快(ふゆくわい)に感(かん)じた。けれども宅(うち)に落(お)ち付(つ)いては、讀書(どくしよ)も思索(しさく)も、丸(まる)で出來(でき)なかつた。要(えう)するに彼(かれ)位(ぐらゐ)の年輩(ねんぱい)の青年(せいねん)が、一人前(いちにんまへ)の人間(にんげん)になる楷梯(かいてい)として、修(をさ)むべき事(こと)、力(つと)むべき事(こと)には、内部(ないぶ)の動搖(どうえう)やら、外部(ぐわいぶ)の束縛(そくばく)やらで、一切(いつさい)手(て)が着(つ)かなかつたのである。
 夫(それ)でも冷(つめ)たい雨(あめ)が横(よこ)に降(ふ)つたり、雪融(ゆきどけ)の道(みち)がはげしく泥(ぬか)つたりする時(とき)は、着物(きもの)を濡(ぬ)らさなければならず、足袋(たび)の泥(どろ)を乾(かわ)かさなければならない面倒(めんだう)があるので、如何(いか)な小六(ころく)も時(とき)によると、外出(ぐわいしゆつ)を見合(みあは)せる事(こと)があつた。さう云(い)ふ日(ひ)には、實際(じつさい)困却(こんきやく)すると見(み)えて、時々(とき/″\)六疊(でふ)から出(で)て來(き)て、のそりと火鉢(ひばち)の傍(そば)へ坐(すわ)つて、茶(ちや)などを注(つ)いで飮(の)んだ。さうして其所(そこ)に御米(およね)でもゐると、世間話(せけんばなし)の一(ひと)つや二(ふた)つはしないとも限(かぎ)らなかつた。
「小六(ころく)さん御酒(おさけ)好(す)き」と御米(およね)が聞(き)いた事(こと)があつた。
「もう直(ぢき)御正月(おしやうぐわつ)ね。貴方(あなた)御雜※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)(おざふに)いくつ上(あ)がつて」と聞(き)いた事(こと)もあつた。
 さう云(い)ふ場合(ばあひ)が度重(たびかさ)なるに連(つ)れて、二人(ふたり)の間(あひだ)は少(すこ)しづゝ近寄(ちかよ)る事(こと)が出來(でき)た。仕舞(しまひ)には、姉(ねえ)さん一寸(ちよつと)こゝを縫(ぬ)つて下(くだ)さいと、小六(ころく)の方(はう)から進(すゝ)んで、御米(およね)に物(もの)を頼(たの)む樣(やう)になつた。さうして御米(およね)が絣(かすり)の羽織(はおり)を受取(うけと)つて、袖口(そでくち)の綻(ほころび)を繕(つくろ)つてゐる間(あひだ)、小六(ころく)は何(なん)にもせずに其所(そこ)へ坐(すわ)つて、御米(およね)の手先(てさき)を見詰(みつ)めてゐた。これが夫(をつと)だと、何時迄(いつまで)も默(だま)つて針(はり)を動(うご)かすのが、御米(およね)の例(れい)であつたが、相手(あいて)が小六(ころく)の時(とき)には、さう投遣(なげやり)に出來(でき)ないのが、又(また)御米(およね)の性質(せいしつ)であつた。だからそんな時(とき)には力(つと)めても話(はなし)をした。話(はなし)の題目(だいもく)で、稍(やゝ)ともすると小六(ころく)の口(くち)に宿(やど)りたがるものは、彼(かれ)の未來(みらい)を何(ど)うしたら好(よ)からうと云(い)ふ心配(しんぱい)であつた。
「だつて小六(ころく)さんなんか、まだ若(わか)いぢやありませんか。何(なに)をしたつて是(これ)からだわ。そりや兄(にい)さんの事(こと)よ。さう悲觀(ひくわん)しても可(い)いのわ」
 御米(およね)は二度(にど)許(ばか)り斯(か)ういふ慰(なぐさ)め方(かた)をした。三度目(さんどめ)には、
「來年(らいねん)になれば、安(やす)さんの方(はう)で何(ど)うか都合(つがふ)して上(あげ)るつて受合(うけあ)つて下(くだ)すつたんぢやなくつて」と聞(き)いた。小六(ころく)は其時(そのとき)不慥(ふたしか)な表情(へうじやう)をして、
「そりや安(やす)さんの計畫(けいくわく)が、口(くち)でいふ通(とほ)り旨(うま)く行(い)けば譯(わけ)はないんでせうが、段々(だん/\)考(かんが)へると、何(なん)だか少(すこ)し當(あて)にならない樣(やう)な氣(き)がし出(だ)してね。鰹船(かつをぶね)もあんまり儲(まう)からない樣(やう)だから」と云(い)つた。御米(およね)は小六(ころく)の憮然(ぶぜん)としてゐる姿(すがた)を見(み)て、それを時々(とき/″\)酒氣(しゆき)を帶(お)びて歸(かへ)つて來(く)る、何所(どこ)かに殺氣(さつき)を含(ふく)んだ、しかも何(なに)が癪(しやく)に障(さは)るんだか譯(わけ)が分(わか)らないでゐて甚(はなは)だ不平(ふへい)らしい小六(ころく)と比較(ひかく)すると、心(こゝろ)の中(うち)で氣(き)の毒(どく)にもあり、又(また)可笑(をか)しくもあつた。其時(そのとき)は、
「本當(ほんたう)にね。兄(にい)さんにさへ御金(おかね)があると、何(ど)うでもして上(あ)げる事(こと)が出來(でき)るんだけれども」と、御世辭(おせじ)でも何(なん)でもない、同情(どうじやう)の意(い)を表(へう)した。
 其(その)夕暮(ゆふぐれ)であつたか、小六(ころく)は又(また)寒(さむ)い身體(からだ)を外套(マント)に包(くる)んで出(で)て行(い)つたが、八時過(はちじすぎ)に歸(かへ)つて來(き)て、兄夫婦(あにふうふ)の前(まへ)で、袂(たもと)から白(しろ)い細長(ほそなが)い袋(ふくろ)を出(だ)して、寒(さむ)いから蕎麥掻(そばがき)を拵(こし)らえて食(く)はうと思(おも)つて、佐伯(さへき)へ行(い)つた歸(かへ)りに買(か)つて來(き)たと云(い)つた。さうして御米(およね)が湯(ゆ)を沸(わ)かしてゐるうちに、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)出(にだ)しを拵(こしら)えるとか云(い)つて、しきりに鰹節(かつぶし)を掻(か)いた。
 其時(そのとき)宗助(そうすけ)夫婦(ふうふ)は、最近(さいきん)の消息(せうそく)として、安之助(やすのすけ)の結婚(けつこん)がとう/\春(はる)迄(まで)延(の)びた事(こと)を聞(き)いた。此(この)縁談(えんだん)は安之助(やすのすけ)が學校(がくかう)を卒業(そつげふ)すると間(ま)もなく起(おこ)つたもので、小六(ころく)が房州(ばうしう)から歸(かへ)つて、叔母(をば)に學資(がくし)の供給(きようきふ)を斷(こと)わられる時分(じぶん)には、もう大分(だいぶ)話(はなし)が進(すゝ)んでゐたのである。正式(せいしき)の通知(つうち)が來(こ)ないので、何時(いつ)纏(まとま)つたか、宗助(そうすけ)は丸(まる)で知(し)らなかつたが、たゞ折々(をり/\)佐伯(さへき)へ行(い)つては、何(なに)か聞(き)いて來(く)る小六(ころく)を通(つう)じてのみ、彼(かれ)は年内(ねんない)に式(しき)を擧(あ)げる筈(はず)の新夫婦(しんふうふ)を豫想(よさう)した。其他(そのた)には、嫁(よめ)の里(さと)がある會社員(くわいしやゐん)で、有福(いうふく)な生計(くらし)をしてゐる事(こと)と、其(その)學校(がくかう)が女學館(ぢよがくくわん)であるといふ事(こと)と、兄弟(きやうだい)が澤山(たくさん)あると云(い)ふ事丈(ことだけ)を、同(おな)じく小六(ころく)を通(つう)じて耳(みゝ)にした。寫眞(しやしん)にせよ顏(かほ)を知(し)つてるのは小六(ころく)許(ばかり)であつた。
「好(い)い器量(きりやう)?」と御米(およね)が聞(き)いた事(こと)がある。
「まあ好(い)い方(はう)でせう」と小六(ころく)が答(こた)へた事(こと)がある。
 其晩(そのばん)は何故(なぜ)暮(くれ)のうちに式(しき)を濟(す)まさないかと云(い)ふのが、蕎麥掻(そばがき)の出來上(できあが)る間(あひだ)、三人(にん)の話題(わだい)になつた。御米(およね)は方位(はうゐ)でも惡(わる)いのだらうと臆測(おくそく)した。宗助(そうすけ)は押(お)し詰(つま)つて日(ひ)がないからだらうと考(かんが)へた。獨(ひと)り小六(ころく)丈(だけ)が、
「矢張(やつぱ)り物質的(ぶつしつてき)の必要(ひつえう)かららしいです。先(さき)が何(なん)でも餘程(よほど)派出(はで)な家(うち)なんで、叔母(をば)さんの方(はう)でもさう單簡(たんかん)に濟(す)まされないんでせう」と何時(いつ)にない世帶染(しよたいじ)みた事(こと)を云(い)つた。

 御米(およね)のぶら/\し出(だ)したのは、秋(あき)も半(なか)ば過(す)ぎて、紅葉(もみぢ)の赤黒(あかぐろ)く縮(ちゞ)れる頃(ころ)であつた。京都(きやうと)に居(ゐ)た時分(じぶん)は別(べつ)として、廣島(ひろしま)でも福岡(ふくをか)でも、あまり健康(けんかう)な月日(つきひ)を送(おく)つた經驗(けいけん)のない御米(およね)は、此點(このてん)に掛(か)けると、東京(とうきやう)へ歸(かへ)つてからも、矢張(やは)り仕合(しあは)せとは云(い)へなかつた。この女(をんな)には生(うま)れ故郷(こきやう)の水(みづ)が、性(しやう)に合(あ)はないのだらうと、疑(うた)ぐれば疑(うた)ぐられる位(くらゐ)、御米(およね)は一時(いちじ)惱(なや)んだ事(こと)もあつた。
 近頃(ちかごろ)はそれが段々(だん/\)落(お)ち付(つ)いて來(き)て、宗助(そうすけ)の氣(き)を揉(も)む機會(ばあひ)も、年(ねん)に幾度(いくど)と勘定(かんぢやう)が出來(でき)る位(くらゐ)少(すく)なくなつたから、宗助(そうすけ)は役所(やくしよ)の出入(でいり)に、御米(およね)は又(また)夫(をつと)の留守(るす)の立居(たちゐ)に、等(ひと)しく安心(あんしん)して時間(じかん)を過(すご)す事(こと)が出來(でき)たのである。だから此年(ことし)の秋(あき)が暮(く)れて、薄(うす)い霜(しも)を渡(わた)る風(かぜ)が、つらく肌(はだ)を吹(ふ)く時分(じぶん)になつて、又(また)少(すこ)し心持(こゝろもち)が惡(わる)くなり出(だ)しても、御米(およね)は夫程(それほど)苦(く)にもならなかつた。始(はじめ)のうちは宗助(そうすけ)にさへ知(し)らせなかつた。宗助(そうすけ)が見付(みつ)けて、醫者(いしや)に掛(か)ゝれと勸(すゝ)めても、容易(ようい)に掛(か)からなかつた。
 其所(そこ)へ小六(ころく)が引越(ひつこ)して來(き)た。宗助(そうすけ)は其頃(そのころ)の御米(およね)を觀察(くわんさつ)して、體質(たいしつ)の状態(じやうたい)やら、精神(せいしん)の模樣(もやう)やら、夫(をつと)丈(だけ)に能(よ)く知(し)つてゐたから、成(な)るべくは、人數(ひとかず)を殖(ふ)やして宅(うち)の中(なか)を混雜(ごたつ)かせたくないとは思(おも)つたが、事情(じじやう)已(やむ)を得(え)ないので、成(な)るが儘(まゝ)にして置(お)くより外(ほか)に、手段(しゆだん)の講(かう)じやうもなかつた。たゞ口(くち)の先(さき)で、成(な)るべく安靜(あんせい)にしてゐなくては不可(いけ)ないと云(い)ふ矛盾(むじゆん)した助言(じよごん)は與(あた)へた。御米(およね)は微笑(びせう)して、
「大丈夫(だいぢやうぶ)よ」と云(い)つた。此(この)答(こたへ)を得(え)た時(とき)、宗助(そうすけ)は猶(なほ)の事(こと)安心(あんしん)が出來(でき)なくなつた。所(ところ)が不思議(ふしぎ)にも、御米(およね)の氣分(きぶん)は、小六(ころく)が引越(ひつこ)して來(き)てから、ずつと引立(ひきた)つた。自分(じぶん)に責任(せきにん)の少(すこ)しでも加(くは)はつたため、心(こゝろ)が緊張(きんちやう)したものと見(み)えて、却(かへ)つて平生(へいぜい)よりは、甲斐々々(かひ/″\)しく夫(をつと)や小六(ころく)の世話(せわ)をした。小六(ころく)には夫(それ)が丸(まる)で通(つう)じなかつたが、宗助(そうすけ)から見(み)ると、御米(およね)が在來(ざいらい)よりどれ程(ほど)力(つと)めてゐるかが能(よ)く解(わか)つた。宗助(そうすけ)は心(こゝろ)のうちで、此(この)まめやかな細君(さいくん)に新(あた)らしい感謝(かんしや)の念(ねん)を抱(いだ)くと同時(どうじ)に、かう氣(き)を張(は)り過(す)ぎる結果(けつくわ)が、一度(いちど)に身體(からだ)に障(さは)る樣(やう)な騷(さわ)ぎでも引(ひ)き起(おこ)して呉(く)れなければ可(い)いがと心配(しんぱい)した。
 不幸(ふかう)にも、此(この)心配(しんぱい)が暮(くれ)の二十日過(はつかすぎ)になつて、突然(とつぜん)事實(じじつ)になりかけたので、宗助(そうすけ)は豫期(よき)の恐怖(きようふ)に火(ひ)が點(つ)いた樣(やう)に、いたく狼狽(らうばい)した。其日(そのひ)は判然(はつきり)土(つち)に映(うつ)らない空(そら)が、朝(あさ)から重(かさ)なり合(あ)つて、重(おも)い寒(さむ)さが終日(しゆうじつ)人(ひと)の頭(あたま)を抑(おさ)え付(つ)けてゐた。御米(およね)は前(まへ)の晩(ばん)にまた寐(ね)られないで、休(やす)ませ損(そく)なつた頭(あたま)を抱(かゝ)へながら、辛抱(しんばう)して働(はた)らき出(だ)したが、起(た)つたり動(うご)いたりするたびに、多少(たせう)腦(なう)に應(こた)へる苦痛(くつう)はあつても、比較的(ひかくてき)明(あか)るい外界(ぐわいかい)の刺戟(しげき)に紛(まぎ)れた爲(ため)か、凝(じつ)と寐(ね)てゐながら、頭(あたま)丈(だけ)が冴(さ)えて痛(いた)むよりは、却(かへ)つて凌(しの)ぎ易(やす)かつた。兎角(とかく)して夫(をつと)を送(おく)り出(だ)す迄(まで)は、しばらくしたら又(また)何時(いつ)もの樣(やう)に折(を)り合(あ)つて來(く)る事(こと)と思(おも)つて我慢(がまん)してゐた。所(ところ)が宗助(そうすけ)がゐなくなつて、自分(じぶん)の義務(ぎむ)に一段落(いちだんらく)が着(つ)いたといふ氣(き)の弛(ゆる)みが出(で)ると等(ひと)しく、濁(にご)つた天氣(てんき)がそろ/\御米(およね)の頭(あたま)を攻(せ)め始(はじ)めた。空(そら)を見(み)ると凍(こほ)つてゐる樣(やう)であるし、家(うち)の中(なか)にゐると、陰氣(いんき)な障子(しやうじ)の紙(かみ)を透(とほ)して、寒(さむ)さが浸(し)み込(こ)んで來(く)るかと思(おも)はれる位(くらゐ)だのに、御米(およね)の頭(あたま)はしきりに熱(ほて)つて來(き)た。仕方(しかた)がないから、今朝(けさ)あげた蒲團(ふとん)を又(また)出(だ)して來(き)て、座敷(ざしき)へ延(の)べたまゝ横(よこ)になつた。夫(それ)でも堪(た)えられないので、清(きよ)に濡手拭(ぬれてぬぐひ)を絞(しぼ)らして頭(あたま)へ乘(の)せた。それが直(ぢき)生温(なまぬる)くなるので、枕元(まくらもと)に金盥(かなだらひ)を取(と)り寄(よ)せて時々(とき/″\)絞(しぼ)り易(か)へた。
 午迄(ひるまで)こんな姑息(こそく)手段(しゆだん)で斷(た)えず額(ひたひ)を冷(ひ)やして見(み)たが、一向(いつかう)はか/″\しい驗(げん)もないので、御米(およね)は小六(ころく)のために、わざ/\起(お)きて、一所(いつしよ)に食事(しよくじ)をする根氣(こんき)もなかつた。清(きよ)にいひ付(つ)けて膳立(ぜんだて)をさせて、それを小六(ころく)に薦(すゝ)めさした儘(まゝ)、自分(じぶん)は矢張(やは)り床(とこ)を離(はな)れずにゐた。さうして、平生(へいぜい)夫(をつと)のする柔(やはら)かい括枕(くゝりまくら)を持(も)つて來(き)て貰(もら)つて、堅(かた)いのと取(と)り替(か)へた。御米(およね)は髮(かみ)の損(こは)れるのを、女(をんな)らしく苦(く)にする勇氣(ゆうき)にさへ乏(とぼ)しかつたのである。
 小六(ころく)は六疊(でふ)から出(で)て來(き)て、一寸(ちよつと)襖(ふすま)を開(あ)けて、御米(およね)の姿(すがた)を覗(のぞ)き込(こ)んだが、御米(およね)が半(なか)ば床(とこ)の間(ま)の方(はう)を向(む)いて、眼(め)を塞(ふさ)いでゐたので、寐付(ねつ)いたとでも思(おも)つたものか、一言(ひとこと)の口(くち)も利(き)かずに、又(また)そつと襖(ふすま)を閉(し)めた。さうして、たつた一人(ひとり)大(おほ)きな食卓(しよくたく)を專領(せんりやう)して、始(はじ)めからさら/\と茶漬(ちやづけ)を掻(か)き込(こ)む音(おと)をさせた。
 二時頃(じごろ)になつて、御米(およね)は漸(や)つとの事(こと)、とろ/\と眠(ねむ)つたが、眼(め)が覺(さ)めたら額(ひたひ)を捲(ま)いた濡(ぬ)れ手拭(てぬぐひ)が殆(ほと)んど乾(かわ)く位(くらゐ)暖(あたゝ)かになつてゐた。其(その)代(かは)り頭(あたま)の方(はう)は少(すこ)し樂(らく)になつた。たゞ肩(かた)から脊筋(せすぢ)へ掛(か)けて全體(ぜんたい)に重苦(おもくる)しい樣(やう)な感(かん)じが新(あた)らしく加(くは)はつた。御米(およね)は何(なん)でも精(せい)を付(つ)けなくては毒(どく)だといふ考(かんがへ)から、一人(ひとり)で起(お)きて遲(おそ)い午飯(ひるはん)を輕(かる)く食(た)べた。
「御氣分(おきぶん)は如何(いかゞ)で御座(ござ)います」と清(きよ)が御給仕(おきふじ)をしながら、しきりに聞(き)いた。御米(およね)は大分(だいぶ)可(い)い樣(やう)だつたので、床(とこ)を上(あ)げて貰(もら)つて、火鉢(ひばち)に倚(よ)つたなり、宗助(そうすけ)の歸(かへ)りを待(ま)ち受(う)けた。
 宗助(そうすけ)は例刻(れいこく)に歸(かへ)つて來(き)た。神田(かんだ)の通(とほ)りで、門並(かどなみ)旗(はた)を立(た)てゝ、もう暮(くれ)の賣出(うりだ)しを始(はじ)めた事(こと)だの、勸工場(くわんこうば)で紅白(こうはく)の幕(まく)を張(は)つて樂隊(がくたい)に景氣(けいき)を付(つ)けさしてゐる事(こと)だのを話(はなし)した末(すゑ)、
「賑(にぎ)やかだよ。一寸(ちよつと)行(い)つて御覽(ごらん)。なに電車(でんしや)に乘(の)つて行(い)けば譯(わけ)はない」と勸(すゝ)めた。さうして自分(じぶん)は寒(さむ)さに腐蝕(ふしよく)された樣(やう)に赤(あか)い顏(かほ)をしてゐた。
 御米(およね)はかう宗助(そうすけ)から勞(いた)はられた時(とき)、何(なん)だか自分(じぶん)の身體(からだ)の惡(わる)い事(こと)を訴(うつ)たへるに忍(しの)びない心持(こゝろもち)がした。實際(じつさい)又(また)夫程(それほど)苦(くる)しくもなかつた。それで何時(いつ)もの通(とほ)り何氣(なにげ)ない顏(かほ)をして、夫(をつと)に着物(きもの)を着換(きかへ)さしたり、洋服(やうふく)を疊(たゝ)んだりして夜(よ)に入(い)つた。
 所(ところ)が九時(じ)近(ちか)くになつて、突然(とつぜん)宗助(そうすけ)に向(むか)つて、少(すこ)し加減(かげん)が惡(わる)いから先(さき)へ寐(ね)たいと云(い)ひ出(だ)した。今迄(いままで)平生(へいぜい)の通(とほ)り機嫌(きげん)よく話(はな)してゐただけに、宗助(そうすけ)は此(この)言葉(ことば)を聞(き)いて一寸(ちよつと)驚(おど)ろいたが、大(たい)した事(こと)でもないと云(い)ふ御米(およね)の保證(ほしよう)に、漸(やうや)く安心(あんしん)してすぐ休(やす)む支度(したく)をさせた。
 御米(およね)が床(とこ)へ這入(はい)つてから、約(やく)二十分(ぷん)許(ばかり)の間(あひだ)、宗助(そうすけ)は耳(みゝ)の傍(はた)に鐵瓶(てつびん)の音(おと)を聞(き)きながら、靜(しづか)な夜(よる)を丸心(まるじん)の洋燈(らんぷ)に照(て)らしてゐた。彼(かれ)は來年度(らいねんど)に一般官吏(いつぱんくわんり)に増俸(ぞうほう)の沙汰(さた)があるといふ評判(ひやうばん)を思(おも)ひ浮(うか)べた。又(また)其前(そのまへ)に改革(かいかく)か淘汰(たうた)が行(おこな)はれるに違(ちがひ)ないといふ噂(うはさ)に思(おも)ひ及(およ)んだ。さうして自分(じぶん)は何方(どつち)の方(はう)へ編入(へんにふ)されるのだらうと疑(うたが)つた。彼(かれ)は自分(じぶん)を東京(とうきやう)へ呼(よ)んで呉(く)れた杉原(すぎはら)が、今(いま)も猶(なほ)課長(くわちやう)として本省(ほんしやう)にゐないのを遺憾(ゐかん)とした。彼(かれ)は東京(とうきやう)へ移(うつ)つてから不思議(ふしぎ)とまだ病氣(びやうき)をした事(こと)がなかつた。從(したが)つてまだ缺勤屆(けつきんとゞけ)を出(だ)した事(こと)がなかつた。學校(がくかう)を中途(ちゆうと)で已(や)めたなり、本(ほん)は殆(ほと)んど讀(よ)まないのだから、學問(がくもん)は人並(ひとなみ)に出來(でき)ないが、役所(やくしよ)でやる仕事(しごと)に差支(さしつか)へる程(ほど)の頭腦(づなう)ではなかつた。
 彼(かれ)は色々(いろ/\)な事情(じじやう)を綜合(そうがふ)して考(かんが)へた上(うへ)、まあ大丈夫(だいぢやうぶ)だらうと腹(はら)の中(なか)で極(き)めた。さうして爪(つめ)の先(さき)で輕(かる)く鐵瓶(てつびん)の縁(ふち)を敲(たゝ)いた。其時(そのとき)座敷(ざしき)で、
「貴方(あなた)一寸(ちよつと)」と云(い)ふ御米(およね)の苦(くる)しさうな聲(こゑ)が聞(きこ)えたので、我(われ)知(し)らず立(た)ち上(あ)がつた。
 座敷(ざしき)へ來(き)て見(み)ると、御米(およね)は眉(まゆ)を寄(よ)せて、右(みぎ)の手(て)で自分(じぶん)の肩(かた)を抑(おさ)えながら、胸迄(むねまで)蒲團(ふとん)の外(そと)へ乘(の)り出(だ)してゐた。宗助(そうすけ)は殆(ほと)んど器械的(きかいてき)に、同(おな)じ所(ところ)へ手(て)を出(だ)した。さうして御米(およね)の抑(おさ)えてゐる上(うへ)から、固(かた)く骨(ほね)の角(かど)を攫(つか)んだ。
「もう少(すこ)し後(うしろ)の方(はう)」と御米(およね)が訴(うつた)へるやうに云(い)つた。宗助(そうすけ)の手(て)が御米(およね)の思(おも)ふ所(ところ)へ落(お)ち付(つ)く迄(まで)には、二度(ど)も三度(ど)も其所(そこ)此所(こゝ)と位置(ゐち)を易(か)えなければならなかつた。指(ゆび)で壓(お)して見(み)ると、頸(くび)と肩(かた)の繼目(つぎめ)の少(すこ)し脊中(せなか)へ寄(よ)つた局部(きよくぶ)が、石(いし)の樣(やう)に凝(こ)つてゐた。御米(およね)は男(をとこ)の力(ちから)一杯(いつぱい)にそれを抑(おさ)えて呉(く)れと頼(たの)んだ。宗助(そうすけ)の額(ひたひ)からは汗(あせ)が※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)染(にじ)み出(だ)した。それでも御米(およね)の滿足(まんぞく)する程(ほど)は力(ちから)が出(で)なかつた。
 宗助(そうすけ)は昔(むかし)の言葉(ことば)で早打肩(はやうちかた)といふのを覺(おぼ)えてゐた。小(ちひ)さい時(とき)祖父(ぢゞい)から聞(き)いた話(はなし)に、ある侍(さむらひ)が馬(うま)に乘(の)つて何處(どこ)かへ行(ゆ)く途中(とちゆう)で、急(きふ)に此(この)早打肩(はやうちかた)に冒(をか)されたので、すぐ馬(うま)から飛(と)んで下(お)りて、忽(たちま)ち小柄(こづか)を拔(ぬ)くや否(いな)や、肩先(かたさき)を切(き)つて血(ち)を出(だ)したため、危(あや)うい命(いのち)を取(と)り留(と)めたといふのがあつたが、其話(そのはなし)が今(いま)明(あき)らかに記憶(きおく)の燒點(せうてん)に浮(うか)んで出(で)た。其時(そのとき)宗助(そうすけ)は是(これ)はならんと思(おも)つた。けれども果(はた)して刄物(はもの)を用(もち)ひて、肩(かた)の肉(にく)を突(つ)いて可(い)いものやら、惡(わる)いものやら、決(けつ)しかねた。
 御米(およね)は何時(いつ)になく逆上(のぼ)せて、耳(みゝ)迄(まで)赤(あか)くしてゐた。頭(あたま)が熱(あつ)いかと聞(き)くと苦(くる)しさうに熱(あつ)いと答(こた)へた。宗助(そうすけ)は大(おほ)きな聲(こゑ)を出(だ)して清(きよ)に氷嚢(こほりぶくろ)へ冷(つめ)たい水(みづ)を入(い)れて來(こ)いと命(めい)じた。氷嚢(こほりぶくろ)が生憎(あいにく)無(な)かつたので、清(きよ)は朝(あさ)の通(とほ)り金盥(かなだらひ)に手拭(てぬぐひ)を浸(つ)けて持(も)つて來(き)た。清(きよ)が頭(あたま)を冷(ひ)やしてゐるうち、宗助(そうすけ)は矢張(やは)り精一杯(せいいつぱい)肩(かた)を抑(おさ)えてゐた。時々(とき/″\)少(すこ)しは可(い)いかと聞(き)いても、御米(およね)は微(かす)かに苦(くる)しいと答(こた)へる丈(だけ)であつた。宗助(そうすけ)は全(まつた)く心細(こゝろぼそ)くなつた。思(おも)ひ切(き)つて、自分(じぶん)で馳(か)け出(だ)して醫者(いしや)を迎(むかひ)に行(い)かうとしたが、後(あと)が心配(しんぱい)で一足(ひとあし)も表(おもて)へ出(で)る氣(き)にはなれなかつた。
「清(きよ)、御前(まへ)急(いそ)いで通(とほ)りへ行(い)つて、氷嚢(こほりぶくろ)を買(か)つて醫者(いしや)を呼(よ)んで來(こ)い。まだ早(はや)いから起(お)きてるだらう」
 清(きよ)はすぐ立(た)つて茶(ちや)の間(ま)の時計(とけい)を見(み)て、
「九時(じ)十五分(ふん)で御座(ござ)います」と云(い)ひながら、それなり勝手口(かつてぐち)へ回(まは)つて、ごそ/\下駄(げた)を探(さが)してゐる所(ところ)へ、旨(うま)い具合(ぐあひ)に外(そと)から小六(ころく)が歸(かへ)つて來(き)た。例(れい)の通(とほ)り兄(あに)には挨拶(あいさつ)もしないで、自分(じぶん)の部屋(へや)へ這入(はい)らうとするのを、宗助(そうすけ)はおい小六(ころく)と烈(はげ)しく呼(よ)び止(と)めた。小六(ころく)は茶(ちや)の間(ま)で少(すこ)し躊躇(ちうちよ)してゐたが、兄(あに)から又(また)二聲(ふたこゑ)程(ほど)續(つゞ)けざまに大(おほ)きな聲(こゑ)を掛(か)けられたので、已(やむ)を得(え)ず低(ひく)い返事(へんじ)をして、襖(ふすま)から顏(かほ)を出(だ)した。其顏(そのかほ)は酒氣(しゆき)のまだ醒(さ)めない赤(あか)い色(いろ)を眼(め)の縁(ふち)に帶(お)びてゐた。部屋(へや)の中(なか)を覗(のぞ)き込(こ)んで、始(はじ)めて吃驚(びつくり)した樣子(やうす)で、
「何(ど)うかなすつたんですか」と醉(よひ)が一時(いちじ)に去(さ)つた樣(やう)な表情(へうじやう)をした。
 宗助(そうすけ)は清(きよ)に命(めい)じた通(とほ)りを、小六(ころく)に繰(く)り返(かへ)して、早(はや)くして呉(く)れと急(せ)き立(た)てた。小六(ころく)は外套(マント)も脱(ぬ)がずに、すぐ玄關(げんくわん)へ取(と)つて返(かへ)した。
「兄(にい)さん、醫者(いしや)迄(まで)行(ゆ)くのは急(いそ)いでも時間(じかん)が掛(か)かりますから、坂井(さかゐ)さんの電話(でんわ)を借(か)りて、すぐ來(く)る樣(やう)に頼(たの)みませう」
「あゝ。左(さ)うして呉(く)れ」と宗助(そうすけ)は答(こた)へた。さうして小六(ころく)の歸(かへ)る間(あひだ)、清(きよ)に何返(なんべん)となく金盥(かなだらひ)の水(みづ)を易(か)へさしては、一生懸命(いつしやうけんめい)に御米(およね)の肩(かた)を壓(お)し付(つ)けたり、揉(も)んだりして見(み)た。御米(およね)の苦(くる)しむのを、何(なに)もせずにたゞ見(み)てゐるに堪(た)えなかつたから、斯(か)うして自分(じぶん)の氣(き)を紛(まぎ)らしてゐたのである。
 此時(このとき)の宗助(そうすけ)に取(と)つて、醫者(いしや)の來(く)るのを今(いま)か今(いま)かと待(ま)ち受(う)ける心(こゝろ)ほど苛(つら)いものはなかつた。彼(かれ)は御米(およね)の肩(かた)を揉(も)みながらも、絶(た)えず表(おもて)の物音(ものおと)に氣(き)を配(くば)つた。
 漸(やうや)く醫者(いしや)が來(き)たときは、始(はじ)めて夜(よ)が明(あ)けた樣(やう)な心持(こゝろもち)がした。醫者(いしや)は商買柄(しやうばいがら)丈(だけ)あつて、少(すこ)しも狼狽(うろた)へた樣子(やうす)を見(み)せなかつた。小(ちひ)さい折鞄(をりかばん)を脇(わき)に引(ひ)き付(つ)けて、落付(おちつ)き拂(はら)つた態度(たいど)で、慢性病(まんせいびやう)の患者(くわんじや)でも取(と)り扱(あつか)ふ樣(やう)に緩(ゆつ)くりした診察(しんさつ)をした。其(その)逼(せま)らない顏色(かほいろ)を傍(はた)で見(み)てゐた所爲(せゐ)か、わく/\した宗助(そうすけ)の胸(むね)も漸(やうや)く治(をさ)まつた。
 醫者(いしや)は芥子(からし)を局部(きよくぶ)へ貼(は)る事(こと)と、足(あし)を濕布(しつぷ)で温(あたゝ)める事(こと)と、夫(それ)から頭(あたま)を氷(こほり)で冷(ひや)す事(こと)とを、應急(おうきふ)手段(しゆだん)として宗助(そうすけ)に注意(ちゆうい)した。さうして自分(じぶん)で芥子(からし)を掻(か)いて、御米(およね)の肩(かた)から頸(くび)の根(ね)へ貼(は)り付(つ)けて呉(く)れた。濕布(しつぷ)は清(きよ)と小六(ころく)とで受持(うけも)つた。宗助(そうすけ)は手拭(てぬぐひ)の上(うへ)から氷嚢(こおりぶくろ)を額(ひたひ)の上(うへ)に當(あ)てがつた。
 兎角(とかく)するうち約(やく)一時間(じかん)も經(た)つた。醫者(いしや)はしばらく經過(けいくわ)を見(み)て行(ゆ)かうと云(い)つて、夫迄(それまで)御米(およね)の枕元(まくらもと)に坐(すわ)つてゐた。世間話(せけんばなし)も折々(をり/\)は交(まじ)へたが、大方(おほかた)は無言(むごん)の儘(まゝ)二人共(ふたりとも)に御米(およね)の容體(ようだい)を見守(みまも)る事(こと)が多(おほ)かつた。夜(よ)は例(れい)の如(ごと)く靜(しづか)に更(ふ)けた。
「大分(だいぶ)冷(ひ)えますな」と醫者(いしや)が云(い)つた。宗助(そうすけ)は氣(き)の毒(どく)になつたので、あとの注意(ちゆうい)を能(よ)く聞(き)いた上(うへ)、遠慮(ゑんりよ)なく引(ひ)き取(と)つて呉(く)れる樣(やう)にと頼(たの)んだ。其時(そのとき)御米(およね)は先刻(さつき)よりは大分(だいぶ)輕快(けいくわい)になつてゐたからである。
「もう大丈夫(だいぢやうぶ)でせう。頓服(とんぷく)を一回(くわい)上(あ)げますから今夜(こんや)飮(の)んで御覽(ごらん)なさい。多分(たぶん)寐(ね)られるだらうと思(おも)ひます」と云(い)つて醫者(いしや)は歸(かへ)つた。小六(ころく)はすぐ其後(そのあと)を追(お)つて出(で)て行(い)つた。
 小六(ころく)が藥取(くすりとり)に行(い)つた間(あひだ)に、御米(およね)は、
「もう何時(なんじ)」と云(い)ひながら、枕元(まくらもと)の宗助(そうすけ)を見上(みあ)げた。宵(よひ)とは違(ちが)つて頬(ほゝ)から血(ち)が退(ひ)いて、洋燈(らんぷ)に照(て)らされた所(ところ)が、ことに蒼白(あをじろ)く映(うつ)つた。宗助(そうすけ)は黒(くろ)い毛(け)の亂(みだ)れた所爲(せゐ)だらうと思(おも)つて、わざ/\鬢(びん)の毛(け)を掻(か)き上(あ)げて遣(や)つた。さうして、
「少(すこ)しは可(い)いだらう」と聞(き)いた。
「えゝ餘(よ)つ程(ぽど)樂(らく)になつたわ」と御米(およね)は何時(いつ)もの通(とほ)り微笑(びせう)を洩(も)らした。御米(およね)は大抵(たいてい)苦(くる)しい場合(ばあひ)でも、宗助(そうすけ)に微笑(びせう)を見(み)せる事(こと)を忘(わす)れなかつた。茶(ちや)の間(ま)では、清(きよ)が突伏(つつぷ)したまゝ鼾(いびき)をかいてゐた。
「清(きよ)を寐(ね)かして遣(や)つて下(くだ)さい」と御米(およね)が宗助(そうすけ)に頼(たの)んだ。
 小六(ころく)が藥取(くすりと)りから歸(かへ)つて來(き)て、醫者(いしや)の云(い)ひ付(つ)け通(どほ)り服藥(ふくやく)を濟(す)ましたのは、もう彼是(かれこれ)十二時(じ)近(ちか)くであつた。それから二十分(ぷん)と經(た)たないうちに、病人(びやうにん)はすや/\寐入(ねい)つた。
「好(い)い塩梅(あんばい)だ」と宗助(そうすけ)が御米(およね)の顏(かほ)を見(み)ながら云(い)つた。小六(ころく)もしばらく嫂(あによめ)の樣子(やうす)を見守(みまも)つてゐたが、
「もう大丈夫(だいぢやうぶ)でせう」と答(こた)へた。二人(ふたり)は氷嚢(こほりぶくろ)を額(ひたひ)から卸(お)ろした。
 やがて小六(ころく)は自分(じぶん)の部屋(へや)へ這入(はい)る、宗助(そうすけ)は御米(およね)の傍(そば)へ床(とこ)を延(の)べて何時(いつ)もの如(ごと)く寐(ね)た。五六時間(じかん)の後(のち)冬(ふゆ)の夜(よ)は錐(きり)の樣(やう)な霜(しも)を挾(さしは)さんで、からりと明(あ)け渡(わた)つた。それから一時間(じかん)すると、大地(だいち)を染(そ)める太陽(たいやう)が、遮(さへ)ぎるものゝない蒼空(あをぞら)に憚(はゞか)りなく上(のぼ)つた。御米(およね)はまだすや/\寐(ね)てゐた。
 そのうち朝餉(あさげ)も濟(す)んで、出勤(しゆつきん)の時刻(じこく)が漸(やうや)く近(ちか)づいた。けれども御米(およね)は眠(ねむ)りから覺(さ)める氣色(けしき)もなかつた。宗助(そうすけ)は枕邊(まくらべ)に曲(こゞ)んで、深(ふか)い寐息(ねいき)を聞(き)ゝながら、役所(やくしよ)へ行(い)かうか休(やす)まうかと考(かんが)へた。

 朝(あさ)の内(うち)は役所(やくしよ)で常(つね)の如(ごと)く事務(じむ)を執(と)つてゐたが、折々(をり/\)昨夕(ゆうべ)の光景(くわうけい)が眼(め)に浮(うか)ぶに連(つ)れて、自然(しぜん)御米(およね)の病氣(びやうき)が氣(き)に罹(かゝ)るので、仕事(しごと)は思(おも)ふ樣(やう)に運(はこ)ばなかつた。時(とき)には變(へん)な間違(まちがひ)をさへした。宗助(そうすけ)は午(ひる)になるのを待(ま)つて、思(おも)ひ切(き)つて宅(うち)へ歸(かへ)つて來(き)た。
 電車(でんしや)の中(なか)では、御米(およね)の眼(め)が何時頃(いつごろ)覺(さ)めたらう、覺(さ)めた後(あと)は心持(こゝろもち)が大分(だいぶ)好(よ)くなつたろう、發作(ほつさ)ももう起(おこ)る氣遣(きづかひ)なからうと、凡(すべ)て惡(わる)くない想像(さうざう)ばかり思(おも)ひ浮(うか)べた。何時(いつ)もと違(ちが)つて、乘客(じようきやく)の非常(ひじやう)に少(すく)ない時間(じかん)に乘(の)り合(あ)はせたので、宗助(そうすけ)は周圍(しうゐ)の刺戟(しげき)に氣(き)を使(つか)ふ必要(ひつえう)が殆(ほと)んどなかつた。それで自由(じいう)に頭(あたま)の中(なか)へ現(あら)はれる畫(ゑ)を何枚(なんまい)となく眺(なが)めた。其(その)うちに、電車(でんしや)は終點(しゆうてん)に來(き)た。
 宅(うち)の門口(かどぐち)迄(まで)來(く)ると、家(いへ)の中(なか)はひつそりして、誰(だれ)もゐない樣(やう)であつた。格子(かうし)を開(あ)けて、靴(くつ)を脱(ぬ)いで、玄關(げんくわん)に上(あ)がつても、出(で)て來(く)るものはなかつた。宗助(そうすけ)は何時(いつ)もの樣(やう)に縁側(えんがは)から茶(ちや)の間(ま)へ行(い)かずに、すぐ取付(とつつき)の襖(ふすま)を開(あ)けて、御米(およね)の寐(ね)てゐる座敷(ざしき)へ這入(はい)つた。見(み)ると、御米(およね)は依然(いぜん)として寐(ね)てゐた。枕元(まくらもと)の朱塗(しゆぬり)の盆(ぼん)に散藥(さんやく)の袋(ふくろ)と洋杯(こつぷ)が載(の)つてゐて、其(その)洋杯(こつぷ)の水(みづ)が半分(はんぶん)殘(のこ)つてゐる所(ところ)も朝(あさ)と同(おな)じであつた。頭(あたま)を床(とこ)の間(ま)の方(はう)へ向(む)けて、左(ひだり)の頬(ほゝ)と芥子(からし)を貼(は)つた襟元(えりもと)が少(すこ)し見(み)える所(ところ)も朝(あさ)と同(おな)じであつた。呼息(いき)より外(ほか)に現實(げんじつ)世界(せかい)と交通(かうつう)のない樣(やう)に思(おも)はれる深(ふか)い眠(ねむり)も朝(あさ)見(み)た通(とほ)りであつた。凡(すべ)てが今朝(けさ)出掛(でがけ)に頭(あたま)の中(なか)へ収(をさ)めて行(い)つた光景(くわうけい)と少(すこ)しも變(かは)つてゐなかつた。宗助(そうすけ)は外套(ぐわいたう)も脱(ぬ)がずに、上(うへ)から曲(こゞ)んで、すう/\いふ御米(およね)の寐息(ねいき)をしばらく聞(き)いてゐた。御米(およね)は容易(ようい)に覺(さ)めさうにも見(み)えなかつた。宗助(そうすけ)は昨夕(ゆうべ)御米(およね)が散藥(さんやく)を飮(の)んでから以後(いご)の時間(じかん)を指(ゆび)を折(を)つて勘定(かんぢやう)した。さうして漸(やうや)く不安(ふあん)の色(いろ)を面(おもて)に表(あら)はした。昨夕(ゆうべ)迄(まで)は寐(ね)られないのが心配(しんぱい)になつたが、斯(か)う前後(ぜんご)不覺(ふかく)に長(なが)く寐(ね)る所(ところ)を眼(ま)のあたりに見(み)ると、寐(ね)る方(はう)が何(なに)かの異状(いじやう)ではないかと考(かんが)へ出(だ)した。
 宗助(そうすけ)は蒲團(ふとん)へ手(て)を掛(か)けて二三度(ど)輕(かる)く御米(およね)を搖振(ゆすぶ)つた。御米(およね)の髮(かみ)が括枕(くゝりまくら)の上(うへ)で、波(なみ)を打(う)つ樣(やう)に動(うご)いたが、御米(およね)は依然(いぜん)としてすう/\寐(ね)てゐた。宗助(そうすけ)は御米(およね)を置(お)いて、茶(ちや)の間(ま)から臺所(だいどころ)へ出(で)た。流(なが)し元(もと)の小桶(こをけ)の中(なか)に茶碗(ちやわん)と塗椀(ぬりわん)が洗(あら)はない儘(まゝ)浸(つ)けてあつた。下女部屋(げぢよべや)を覗(のぞ)くと、清(きよ)が自分(じぶん)の前(まへ)に小(ちひ)さな膳(ぜん)を控(ひか)えたなり、御櫃(おはち)に倚(よ)りかゝつて突伏(つつぷ)してゐた。宗助(そうすけ)は又(また)六疊(でふ)の戸(と)を引(ひ)いて首(くび)を差(さ)し込(こ)んだ。其所(そこ)には小六(ころく)が掛蒲團(かけぶとん)を一枚(まい)頭(あたま)から引被(ひつかぶ)つて寐(ね)てゐた。
 宗助(そうすけ)は一人(ひとり)で着物(きもの)を着換(きか)えたが、脱(ぬ)ぎ捨(す)てた洋服(やうふく)も、人手(ひとで)を借(か)りずに自分(じぶん)で疊(たゝ)んで、押入(おしいれ)に仕舞(しま)つた。それから火鉢(ひばち)へ火(ひ)を繼(つ)いで、湯(ゆ)を沸(わ)かす用意(ようい)をした。二三分(ぷん)は火鉢(ひばち)に持(も)たれて考(かんが)へてゐたが、やがて立(た)ち上(あ)がつて、先(ま)づ小六(ころく)から起(おこ)しに掛(か)ゝつた。次(つぎ)に清(きよ)を起(おこ)した。二人(ふたり)とも驚(おど)ろいて飛(と)び起(お)きた。小六(ころく)に御米(およね)の今朝(けさ)から今迄(いままで)の樣子(やうす)を聞(き)くと、實(じつ)は餘(あま)り眠(ねむ)いので、十一時半頃(じはんごろ)飯(めし)を食(く)つて寐(ね)たのだが、夫迄(それまで)は御米(およね)も能(よ)く熟睡(じゆくすゐ)してゐたのだと云(い)ふ。
「醫者(いしや)へ行(い)つてね。昨夜(ゆうべ)の藥(くすり)を戴(いたゞ)いてから寐出(ねだ)して、今(いま)になつても眼(め)が覺(さ)めませんが差支(さしつかへ)ないでせうかつて聞(き)いて來(き)て呉(く)れ」
「はあ」
 小六(ころく)は簡單(かんたん)な返事(へんじ)をして出(で)て行(い)つた。宗助(そうすけ)は又(また)座敷(ざしき)へ來(き)て御米(およね)の顏(かほ)を熟視(じゆくし)した。起(おこ)して遣(や)らなくつては惡(わる)い樣(やう)な、又(また)起(おこ)しては身體(からだ)へ障(さは)る樣(やう)な、分別(ふんべつ)の付(つ)かない惑(まどひ)を抱(いだ)いて腕組(うでぐみ)をした。
 間(ま)もなく小六(ころく)が歸(かへ)つて來(き)て、醫者(いしや)は丁度(ちやうど)徃診(わうしん)に出掛(でか)ける所(ところ)であつた、譯(わけ)を話(はな)したら、では今(いま)から一二軒(けん)寄(よ)つてすぐ行(い)かうと答(こた)へた、と告(つ)げた。宗助(そうすけ)は醫者(いしや)が見(み)える迄(まで)、斯(か)うして放(はふ)つて置(お)いて構(かま)はないのかと小六(ころく)に問(と)ひ返(かへ)したが、小六(ころく)は醫者(いしや)が以上(いじやう)より外(ほか)に何(なん)にも語(かた)らなかつたと云(い)ふ丈(だけ)なので、已(やむ)を得(え)ず元(もと)の如(ごと)く枕邊(まくらべ)に凝(じつ)と坐(すわ)つてゐた。さうして心(こゝろ)の中(うち)で、醫者(いしや)も小六(ころく)も不親切(ふしんせつ)過(す)ぎる樣(やう)に感(かん)じた。彼(かれ)は其上(そのうへ)昨夕(ゆうべ)御米(およね)を介抱(かいはう)してゐる時(とき)に歸(かへ)つて來(き)た小六(ころく)の顏(かほ)を思(おも)ひ出(だ)して、猶(なほ)不愉快(ふゆくわい)になつた。小六(ころく)が酒(さけ)を呑(の)む事(こと)は、御米(およね)の注意(ちゆうい)で始(はじ)めて知(し)つたのであるが、其後(そのご)氣(き)を付(つ)けて弟(おとうと)の樣子(やうす)をよく見(み)てゐると、成程(なるほど)何(なん)だか眞面目(まじめ)でない所(ところ)もある樣(やう)なので、何時(いつ)かみつちり異見(いけん)でもしなければなるまい位(くらゐ)に考(かんが)へてはゐたが、面白(おもしろ)くもない二人(ふたり)の顏(かほ)を御米(およね)に見(み)せるのが、氣(き)の毒(どく)なので今日(けふ)迄(まで)わざと遠慮(ゑんりよ)してゐたのである。
「云(い)ひ出(だ)すなら御米(およね)の寐(ね)てゐる今(いま)である。今(いま)ならどんな氣不味(きまづ)いことを双方(さうはう)で言(い)ひ募(つの)つたつて、御米(およね)の神經(しんけい)に障(さは)る氣遣(きづかひ)はない」
 此所(こゝ)迄(まで)考(かんが)へ付(つ)いたけれども、知覺(ちかく)のない御米(およね)の顏(かほ)を見(み)ると、又(また)其方(そのはう)が氣掛(きがゝり)になつて、すぐにでも起(おこ)したい心持(こゝろもち)がするので、つい決(けつ)し兼(かね)てぐづ/\してゐた。其所(そこ)へ漸(やうや)く醫者(いしや)が來(き)て呉(く)れた。
 昨夕(ゆうべ)の折鞄(をりかばん)を又(また)丁寧(ていねい)に傍(わき)へ引(ひ)き付(つ)けて、緩(ゆつ)くり卷烟草(まきたばこ)を吹(ふ)かしながら、宗助(そうすけ)の云(い)ふことを、はあ/\と聞(き)いてゐたが、どれ拜見(はいけん)致(いた)しませうと御米(およね)の方(はう)へ向(む)き直(なほ)つた。彼(かれ)は普通(ふつう)の場合(ばあひ)の樣(やう)に病人(びやうにん)の脉(みやく)を取(と)つて、長(なが)い間(あひだ)自分(じぶん)の時計(とけい)を見詰(みつ)めてゐた。それから黒(くろ)い聽診器(ちやうしんき)を心臟(しんざう)の上(うへ)に當(あ)てた。それを丁寧(ていねい)に彼方(あちら)此方(こちら)と動(うご)かした。最後(さいご)に丸(まる)い穴(あな)の開(あ)いた反射鏡(はんしやきやう)を出(だ)して、宗助(そうすけ)に蝋燭(らふそく)を點(つ)けて呉(く)れと云(い)つた。宗助(そうすけ)は蝋燭(らふそく)を持(も)たないので、清(きよ)に洋燈(らんぷ)を點(つ)けさした。醫者(いしや)は眠(ねむ)つてゐる御米(およね)の眼(め)を押(お)し開(あ)けて、仔細(しさい)に反射鏡(はんしやきやう)の光(ひかり)を睫(まつげ)の奧(おく)に集(あつ)めた。診察(しんさつ)は夫(それ)で終(をは)つた。
「少(すこ)し藥(くすり)が利(き)き過(す)ぎましたね」と云(い)つて宗助(そうすけ)の方(はう)へ向(む)き直(なほ)つたが、宗助(そうすけ)の眼(め)の色(いろ)を見(み)るや否(いな)や、すぐ、
「然(しか)し御心配(ごしんぱい)になる事(こと)はありません。斯(か)う云(い)ふ場合(ばあひ)に、もし惡(わる)い結果(けつくわ)が起(おこ)るとすると、屹度(きつと)心臟(しんざう)か腦(なう)を冒(をか)すものですが、今(いま)拜見(はいけん)した所(ところ)では双方共(さうはうとも)異状(いじやう)は認(みと)められませんから」と説明(せつめい)して呉(く)れた。宗助(そうすけ)はそれで漸(やうや)く安心(あんしん)した。醫者(いしや)は又(また)自分(じぶん)の用(もち)ひた眠(ねむ)り藥(ぐすり)が比較的(ひかくてき)新(あた)らしいもので、學理上(がくりじやう)、他(た)の睡眠劑(すゐみんざい)の樣(やう)に有害(いうがい)でない事(こと)や、また其(その)効目(きゝめ)が患者(くわんじや)の體質(たいしつ)に因(よ)つて、程度(ていど)に大變(たいへん)な相違(さうゐ)のある事(こと)などを語(かた)つて歸(かへ)つた。歸(かへ)るとき宗助(そうすけ)は、
「では寐(ね)られる丈(だけ)寐(ね)かして置(お)いても差支(さしつかへ)ありませんか」と聞(き)いたら、醫者(いしや)は用(よう)さへなければ別(べつ)に起(おこ)す必要(ひつえう)もあるまいと答(こた)へた。
 醫者(いしや)が歸(かへ)つたあとで、宗助(そうすけ)は急(きふ)に空腹(くうふく)になつた。茶(ちや)の間(ま)へ出(で)ると、先刻(さつき)掛(か)けて置(お)いた鐵瓶(てつびん)がちん/\沸(たぎ)つてゐた。清(きよ)を呼(よ)んで、膳(ぜん)を出(だ)せと命(めい)ずると、清(きよ)は困(こま)つた顏付(かほつき)をして、まだ何(なん)の用意(ようい)も出來(でき)てゐないと答(こた)へた。成程(なるほど)晩食(ばんめし)には少(すこ)し間(ま)があつた。宗助(そうすけ)は樂々(らく/\)と火鉢(ひばち)の傍(そば)に胡坐(あぐら)を掻(か)いて、大根(だいこん)の香(こう)の物(もの)を噛(か)みながら湯漬(ゆづけ)を四杯(はい)ほどつゞけ樣(ざま)に掻(か)き込(こ)んだ。それから約(やく)三十分(ぷん)程(ほど)したら御米(およね)の眼(め)がひとりでに覺(さ)めた。

 新年(ねん)の頭(あたま)を拵(こし)らえやうといふ氣(き)になつて、宗助(そうすけ)は久(ひさ)し振(ぶり)に髮結床(かみゆひどこ)の敷居(しきゐ)を跨(また)いだ。暮(くれ)の所爲(せゐ)か客(きやく)が大分(だいぶ)立(た)て込(こ)んでゐるので、鋏(はさみ)の音(おと)が二三ヶ所(しよ)で、同時(どうじ)にちよき/\鳴(な)つた。此(この)寒(さむ)さを無理(むり)に乘(の)り越(こ)して、一日(いちにち)も早(はや)く春(はる)に入(い)らうと焦慮(あせ)るやうな表通(おもてどほり)の活動(くわつどう)を、宗助(そうすけ)は今(いま)見(み)て來(き)たばかりなので、其(その)鋏(はさみ)の音(おと)が、如何(いか)にも忙(せは)しない響(ひゞき)となつて彼(かれ)の鼓膜(こまく)を打(う)つた。
 しばらく煖爐(ストーブ)の傍(はた)で烟草(たばこ)を吹(ふ)かして待(ま)つてゐる間(あひだ)に、宗助(そうすけ)は自分(じぶん)と關係(くわんけい)のない大(おほ)きな世間(せけん)の活動(くわつどう)に否應(いやおう)なしに捲(ま)き込(こ)まれて、已(やむ)を得(え)ず年(とし)を越(こ)さなければならない人(ひと)の如(ごと)くに感(かん)じた。正月(しやうぐわつ)を眼(め)の前(まへ)へ控(ひか)えた彼(かれ)は、實際(じつさい)是(これ)といふ新(あた)らしい希望(きばう)もないのに、徒(いたづ)らに周圍(しうゐ)から誘(さそ)はれて、何(なん)だかざわ/\した心持(こゝろもち)を抱(いだ)いてゐたのである。
 御米(およね)の發作(ほつさ)は漸(やうや)く落(お)ち付(つ)いた。今(いま)では平日(いつも)の如(ごと)く外(そと)へ出(で)ても、家(うち)の事(こと)がそれ程(ほど)氣(き)に掛(か)ゝらない位(ぐらゐ)になつた。餘所(よそ)に比(くら)べると閑靜(かんせい)な春(はる)の支度(したく)も、御米(およね)から云(い)へば、年(ねん)に一度(いちど)の忙(いそ)がしさには違(ちがひ)なかつたので、或(あるひ)は何時(いつ)も通(どほり)の準備(じゆんび)さへ拔(ぬ)いて、常(つね)よりも簡單(かんたん)に年(とし)を越(こ)す覺悟(かくご)をした宗助(そうすけ)は、蘇生(よみがへ)つた樣(やう)にはつきりした妻(さい)の姿(すがた)を見(み)て、恐(おそ)ろしい悲劇(ひげき)が一歩(ぽ)遠退(とほの)いた時(とき)の如(ごと)くに、胸(むね)を撫(な)で卸(おろ)した。然(しか)し其(その)悲劇(ひげき)が又(また)何時(いつ)如何(いか)なる形(かたち)で、自分(じぶん)の家族(かぞく)を捕(とら)へに來(く)るか分(わか)らないと云(い)ふ、ぼんやりした掛念(けねん)が、折々(をり/\)彼(かれ)の頭(あたま)のなかに霧(きり)となつて懸(か)かつた。
 年(とし)の暮(くれ)に、事(こと)を好(この)むとしか思(おも)はれない世間(せけん)の人(ひと)が、故意(わざ)と短(みじか)い日(ひ)を前(まへ)へ押(お)し出(だ)したがつて齷齪(あくせく)する樣子(やうす)を見(み)ると、宗助(そうすけ)は猶(なほ)の事(こと)この茫漠(ばうばく)たる恐怖(きようふ)の念(ねん)に襲(おそ)はれた。成(な)らうことなら、自分(じぶん)丈(だけ)は陰氣(いんき)な暗(くら)い師走(しはす)の中(うち)に一人(ひとり)殘(のこ)つてゐたい思(おもひ)さへ起(おこ)つた。漸(やうや)く自分(じぶん)の番(ばん)が來(き)て、彼(かれ)は冷(つめ)たい鏡(かゞみ)のうちに、自分(じぶん)の影(かげ)を見出(みいだ)した時(とき)、不圖(ふと)此影(このかげ)は本來(ほんらい)何者(なにもの)だらうと眺(なが)めた。首(くび)から下(した)は眞白(まつしろ)な布(ぬの)に包(つゝ)まれて、自分(じぶん)の着(き)てゐる着物(きもの)の色(いろ)も縞(しま)も全(まつた)く見(み)えなかつた。其時(そのとき)彼(かれ)は又(また)床屋(とこや)の亭主(ていしゆ)が飼(か)つてゐる小鳥(ことり)の籠(かご)が、鏡(かゞみ)の奧(おく)に映(うつ)つてゐる事(こと)に氣(き)が付(つ)いた。鳥(とり)が止(とま)り木(ぎ)の上(うへ)をちらり/\と動(うご)いた。
 頭(あたま)へ香(にほひ)のする油(あぶら)を塗(ぬ)られて、景氣(けいき)のいゝ聲(こゑ)を後(うしろ)から掛(か)けられて、表(おもて)へ出(で)たときは、それでも清々(せい/\)した心持(こゝろもち)であつた。御米(およね)の勸(すゝめ)通(どほり)髮(かみ)を刈(か)つた方(はう)が、結局(つまり)氣(き)を新(あら)たにする効果(かうくわ)があつたのを、冷(つめ)たい空氣(くうき)の中(なか)で、宗助(そうすけ)は自覺(じかく)した。
 水道税(すゐだうぜい)の事(こと)で一寸(ちよつと)聞(き)き合(あは)せる必要(ひつえう)が生(しやう)じたので、宗助(そうすけ)は歸(かへ)り路(みち)に坂井(さかゐ)へ寄(よ)つた。下女(げぢよ)が出(で)て來(き)て、此方(こちら)へと云(い)ふから、何時(いつ)もの座敷(ざしき)へ案内(あんない)するかと思(おも)ふと、其所(そこ)を通(とほ)り越(こ)して、茶(ちや)の間(ま)へ導(みち)びいていつた。すると茶(ちや)の間(ま)の襖(ふすま)が二尺(しやく)ばかり開(あ)いてゐて、中(なか)から三四人(さんよにん)の笑(わら)ひ聲(こゑ)が聞(きこ)えた。坂井(さかゐ)の家庭(かてい)は相變(あひかは)らず陽氣(やうき)であつた。
 主人(しゆじん)は光澤(つや)の好(い)い長火鉢(ながひばち)の向側(むかふがは)に坐(すわ)つてゐた。細君(さいくん)は火鉢(ひばち)を離(はな)れて、少(すこ)し縁側(えんがは)の障子(しやうじ)の方(はう)へ寄(よ)つて、矢張(やはり)此方(こちら)を向(む)いてゐた。主人(しゆじん)の後(うしろ)に細長(ほそなが)い黒(くろ)い枠(わく)に嵌(は)めた柱時計(はしらどけい)が懸(かゝ)つてゐた。時計(とけい)の右(みぎ)が壁(かべ)で、左(ひだり)が袋戸棚(ふくろとだな)になつてゐた。其(その)張交(はりまぜ)に石摺(いしずり)だの、俳畫(はいぐわ)だの、扇(あふぎ)の骨(ほね)を拔(ぬ)いたものなどが見(み)えた。
 主人(しゆじん)と細君(さいくん)の外(ほか)に、筒袖(つゝそで)の揃(そろ)ひの模樣(もやう)の被布(ひふ)を着(き)た女(をんな)の子(こ)が二人(ふたり)肩(かた)を擦(す)り付(つ)け合(あ)つて坐(すわ)つてゐた。片方(かたはう)は十二三で、片方(かたはう)は十(とを)位(ぐらゐ)に見(み)えた。大(おほ)きな眼(め)を揃(そろ)へて、襖(ふすま)の陰(かげ)から入(はひ)つて來(き)た宗助(そうすけ)の方(はう)を向(む)いたが、二人(ふたり)の眼元(めもと)にも口元(くちもと)にも、今(いま)笑(わら)つた許(ばかり)の影(かげ)が、まだゆたかに殘(のこ)つてゐた。宗助(そうすけ)は一應(いちおう)室(へや)の内(うち)を見回(みまは)して、此(この)親子(おやこ)の外(ほか)に、まだ一人(ひとり)妙(めう)な男(をとこ)が、一番(いちばん)入口(いりぐち)に近(ちか)い所(ところ)に畏(かしこ)まつてゐるのを見出(みいだ)した。
 宗助(そうすけ)は坐(すわ)つて五分(ふん)と立(た)たないうちに、先刻(さつき)の笑聲(わらひごゑ)は、此(この)變(へん)な男(をとこ)と坂井(さかゐ)の家族(かぞく)との間(あひだ)に取(と)り換(か)はされた問答(もんだふ)から出(で)る事(こと)を知(し)つた。男(をとこ)は砂埃(すなほこり)でざらつきさうな赤(あか)い毛(け)と、日(ひ)に燒(や)けて生涯(しやうがい)褪(さ)めつこない強(つよ)い色(いろ)を有(も)つてゐた。瀬戸物(せともの)の釦(ぼたん)の着(つ)いた白木綿(しろもめん)の襯衣(しやつ)を着(き)て、手織(ており)の硬(こは)い布子(ぬのこ)の襟(えり)から財布(さいふ)の紐(ひも)見(み)たやうな長(なが)い丸打(まるうち)を懸(か)けた樣子(やうす)は、滅多(めつた)に東京(とうきやう)抔(など)へ出(で)る機會(きくわい)のない遠(とほ)い山(やま)の國(くに)のものとしか受(う)け取(と)れなかつた。其上(そのうへ)男(をとこ)は此(この)寒(さむ)いのに膝小僧(ひざこぞう)を少(すこ)し出(だ)して、紺(こん)の落(お)ちた小倉(こくら)の帶(おび)の尻(しり)に差(さ)した手拭(てぬぐひ)を拔(ぬ)いては鼻(はな)の下(した)を擦(こす)つた。
「是(これ)は甲斐(かひ)の國(くに)から反物(たんもの)を脊負(しよ)つてわざ/\東京(とうきやう)迄(まで)出(で)て來(く)る男(をとこ)なんです」と坂井(さかゐ)の主人(しゆじん)が紹介(せうかい)すると、男(をとこ)は宗助(そうすけ)の方(はう)を向(む)いて、
「何(ど)うか旦那(だんな)、一(ひと)つ買(か)つて御呉(おくれ)」と挨拶(あいさつ)をした。
 成程(なるほど)銘仙(めいせん)だの御召(おめし)だの、白紬(しろつむぎ)だのが其所(そこ)ら一面(いちめん)に取(と)り散(ち)らしてあつた。宗助(そうすけ)は此(この)男(をとこ)の形裝(なり)や言葉遣(ことばづかひ)の可笑(をか)しい割(わり)に、立派(りつぱ)な品物(しなもの)を脊中(せなか)へ乘(の)せて歩行(あるく)のを寧(むし)ろ不思議(ふしぎ)に思(おも)つた。主人(しゆじん)の細君(さいくん)の説明(せつめい)によると、此(この)織屋(おりや)の住(す)んでゐる村(むら)は燒石(やけいし)ばかりで、米(こめ)も粟(あは)も収(と)れないから、已(やむ)を得(え)ず桑(くは)を植(う)ゑて蠶(かひこ)を飼(か)ふんださうであるが、餘程(よほど)貧(まづ)しい所(ところ)と見(み)えて、柱時計(はしらどけい)を持(も)つてゐる家(いへ)が一軒(けん)丈(だけ)で、高等小學(かうとうせうがく)へ通(かよ)ふ小供(こども)が三人(にん)しかないという話(はなし)であつた。
「字(じ)の書(か)けるものは、此人(このひと)ぎりなんださうですよ」と云(い)つて細君(さいくん)は笑(わら)つた。すると織屋(おりや)も、
「本當(ほんたう)のこんだよ、奧(おく)さん。讀(よ)み書(か)き算筆(さんぴつ)の出來(でき)るものは、己(おれ)より外(ほか)にねえんだからね。全(まつた)く非道(ひど)い所(ところ)にや違(ちがひ)ない」と眞面目(まじめ)に細君(さいくん)の云(い)ふ事(こと)を首肯(うけが)つた。
 織屋(おりや)は色々(いろ/\)の反物(たんもの)を主人(しゆじん)や細君(さいくん)の前(まへ)へ突(つ)き付(つ)けては、「買(か)つて御呉(おく)れ」といふ言葉(ことば)をしきりに繰(く)り返(かへ)した。そりや高(たか)いよ幾何々々(いくら/\)に御負(おま)けなどゝ云(い)はれると、「値(ね)ぢやねえね」とか、「拜(をが)むからそれで買(か)つて御呉(おく)れ」とか、「まあ目方(めかた)を見(み)て御呉(おく)れ」とか凡(すべ)て異樣(いやう)な田舍(ゐなか)びた答(こたへ)をした。その度(たび)に皆(みんな)が笑(わら)つた。主人(しゆじん)夫婦(ふうふ)は又(また)閑(ひま)だと見(み)えて、面白半分(おもしろはんぶん)に何時(いつ)迄(まで)も織屋(おりや)を相手(あひて)にした。
「織屋(おりや)、御前(おまへ)さうして荷(に)を脊負(しよ)つて、外(そと)へ出(で)て、時分(じぶん)どきになつたら、矢張(やつぱ)り御膳(ごぜん)を食(た)べるんだらうね」と細君(さいくん)が聞(き)いた。
「飯(めし)を食(く)はねえでゐられるもんぢやないよ。腹(はら)の減(へ)る事(こと)ちうたら」
「何(ど)んな所(ところ)で食(た)べるの」
「何(ど)んな所(ところ)で食(た)べるちうて、矢(や)つ張(ぱ)り茶屋(ちやや)で食(く)ふだね」
 主人(しゆじん)は笑(わら)ひながら茶屋(ちやや)とは何(なん)だと聞(き)いた。織屋(おりや)は、飯(めし)を食(く)はす所(ところ)が茶屋(ちやや)だと答(こた)へた。それから東京(とうきやう)へ出立(でたて)には飯(めし)が非常(ひじやう)に旨(うま)いので、腹(はら)を据(す)ゑて食(く)ひ出(だ)すと、大抵(たいてい)の宿屋(やどや)は叶(かな)はない、三度々々(さんど/\)食(く)つちや氣(き)の毒(どく)だと云(い)ふ樣(やう)な事(こと)を話(はな)して、また皆(みんな)を笑(わら)はした。
 織屋(おりや)は仕舞(しまひ)に撚糸(よりいと)の紬(つむぎ)と、白絽(しろろ)を一匹(ぴき)細君(さいくん)に賣(う)り付(つ)けた。宗助(そうすけ)は此(この)押(お)し詰(つま)つた暮(くれ)に、夏(なつ)の絽(ろ)を買(か)ふ人(ひと)を見(み)て餘裕(よゆう)のあるものは又(また)格別(かくべつ)だと感(かん)じた。すると、主人(しゆじん)が宗助(そうすけ)に向(むか)つて、
「何(ど)うです貴方(あなた)も、序(ついで)に何(なに)か一(ひと)つ。奧(おく)さんの不斷着(ふだんぎ)でも」と勸(すゝ)めた。細君(さいくん)もかう云(い)ふ機會(きくわい)に買(か)つて置(お)くと、幾割(いくわり)か値安(ねやす)に買(か)へる便宜(べんぎ)を説(と)いた。さうして、
「なに、御拂(おはらひ)は何時(いつ)でも可(い)いんです」と受合(うけあ)つて呉(く)れた。宗助(そうすけ)はとう/\御米(およね)のために銘仙(めいせん)を一反(たん)買(か)ふ事(こと)にした。主人(しゆじん)はそれを散々(さん/″\)値切(ねぎ)つて三圓(ゑん)に負(ま)けさした。織屋(おりや)は負(ま)けた後(あと)で又(また)、
「全(まつた)く値(ね)ぢやねえね。泣(な)きたくなるね」と云(い)つたので、大勢(おほぜい)がまた一度(いちど)に笑(わら)つた。
 織屋(おりや)は何處(どこ)へ行(い)つても斯(か)ういふ鄙(ひな)びた言葉(ことば)を使(つか)つて通(とほ)してゐるらしかつた。毎日(まいにち)馴染(なじ)みの家(いへ)をぐる/\回(まは)つて歩(ある)いてゐるうちには、脊中(せなか)の荷(に)が段々(だん/\)輕(かろ)くなつて、仕舞(しまひ)に紺(こん)の風呂敷(ふろしき)と眞田紐(さなだひも)丈(だけ)が殘(のこ)る。其(その)時分(じぶん)には丁度(ちやうど)舊(きう)の正月(しやうぐわつ)が來(く)るので、一先(ひとまづ)國元(くにもと)へ歸(かへ)つて、古(ふる)い春(はる)を山(やま)の中(なか)で越(こ)して、夫(それ)から又(また)新(あた)らしい反物(たんもの)を脊負(しよ)へる丈(だけ)脊負(しよ)つて出(で)て來(く)るのだと云(い)つた。さうして養蠶(やうさん)の忙(せは)しい四月(ぐわつ)の末(すゑ)か五月(ぐわつ)の初(はじめ)迄(まで)に、それを悉皆(すつかり)金(かね)に換(か)へて、又(また)富士(ふじ)の北影(きたかげ)の燒石(やけいし)許(ばかり)ころがつてゐる小村(こむら)へ歸(かへ)つて行(ゆ)くのださうである。
「宅(うち)へ來出(きだ)してから、もう四五年(ねん)になりますが、何時(いつ)見(み)ても同(おな)じ事(こと)で、少(すこ)しも變(かは)らないんですよ」と細君(さいくん)が注意(ちゆうい)した。
「實際(じつさい)珍(めづ)らしい男(をとこ)です」と主人(しゆじん)も評語(ひやうご)を添(そ)えた。三日(みつか)も外(そと)へ出(で)ないと、町幅(まちはゞ)が何時(いつ)の間(ま)にか取(と)り廣(ひろ)げられてゐたり、一日(いちにち)新聞(しんぶん)を讀(よ)まないと、電車(でんしや)の開通(かいつう)を知(し)らずに過(すご)したりする今(いま)の世(よ)に、年(ねん)に二度(にど)も東京(とうきやう)へ出(で)ながら、斯(か)う山男(やまをとこ)の特色(とくしよく)を何處(どこ)迄(まで)も維持(ゐぢ)して行(ゆ)くのは、實際(じつさい)珍(めづ)らしいに違(ちがひ)なかつた。宗助(そうすけ)はつく/″\此(この)織屋(おりや)の容貌(ようばう)やら態度(たいど)やら服裝(ふくさう)やら言葉使(ことばづかひ)やらを觀察(くわんさつ)して、一種(いつしゆ)氣(き)の毒(どく)な思(おもひ)をなした。
 彼(かれ)は坂井(さかゐ)を辭(じ)して、家(うち)へ歸(かへ)る途中(とちゆう)にも、折々(をり/\)イン※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ネスの羽根(はね)の下(した)に抱(かゝ)へて來(き)た銘仙(めいせん)の包(つゝみ)を持(も)ち易(か)へながら、それを三圓(ゑん)といふ安(やす)い價(ね)で賣(う)つた男(をとこ)の、粗末(そまつ)な布子(ぬのこ)の縞(しま)と、赤(あか)くてばさ/\した髮(かみ)の毛(け)と、其(その)油氣(あぶらけ)のない硬(こは)い髮(かみ)の毛(け)が、何(ど)ういふ譯(わけ)か、頭(あたま)の眞中(まんなか)で立派(りつぱ)に左右(さいう)に分(わ)けられてゐる樣(さま)を、絶(た)えず眼(め)の前(まへ)に浮(うか)べた。
 宅(うち)では御米(およね)が宗助(そうすけ)に着(き)せる春(はる)の羽織(はおり)を漸(やうや)く縫(ぬ)ひ上(あ)げて、壓(おし)の代(かは)りに坐蒲團(ざぶとん)の下(した)へ入(い)れて、自分(じぶん)で其上(そのうへ)へ坐(すわ)つてゐる所(ところ)であつた。
「貴方(あなた)今夜(こんや)敷(し)いて寐(ね)て下(くだ)さい」と云(い)つて、御米(およね)は宗助(そうすけ)を顧(かへり)みた。夫(をつと)から、坂井(さかゐ)へ來(き)てゐた甲斐(かひ)の男(をとこ)の話(はなし)を聞(き)いた時(とき)は、御米(およね)も流石(さすが)に大(おほ)きな聲(こゑ)を出(だ)して笑(わら)つた。さうして宗助(そうすけ)の持(も)つて歸(かへ)つた銘仙(めいせん)の縞柄(しまがら)と地合(ぢあひ)を飽(あ)かず眺(なが)めては、安(やす)い/\と云(い)つた。銘仙(めいせん)は全(まつた)く品(しな)の良(い)いものであつた。
「何(ど)うして、さう安(やす)く賣(う)つて割(わり)に合(あ)ふんでせう」と仕舞(しまひ)に聞(き)き出(だ)した。
「なに中(なか)へ立(た)つ呉服屋(ごふくや)が儲(まう)け過(す)ぎてるのさ」と宗助(そうすけ)は其道(そのみち)に明(あか)るい樣(やう)な事(こと)を、此(この)一反(たん)の銘仙(めいせん)から推斷(すゐだん)して答(こた)へた。
 夫婦(ふうふ)の話(はなし)はそれから、坂井(さかゐ)の生活(せいくわつ)に餘裕(よゆう)のある事(こと)と、其(その)餘裕(よゆう)のために、横町(よこちやう)の道具屋(だうぐや)などに意外(いぐわい)な儲(まう)け方(かた)をされる代(かは)りに、時(とき)とすると斯(か)う云(い)ふ織屋(おりや)などから、差(さ)し向(む)き不用(ふよう)のものを廉價(れんか)に買(か)つて置(お)く便宜(べんぎ)を有(いう)してゐる事(こと)などに移(うつ)つて、仕舞(しまひ)に其(その)家庭(かてい)の如何(いか)にも陽氣(やうき)で、賑(にぎ)やかな模樣(もやう)に落(お)ちて行(い)つた。宗助(そうすけ)は其時(そのとき)突然(とつぜん)語調(ごてう)を更(か)へて、
「何(なに)金(かね)があるばかりぢやない。一(ひと)つは子供(こども)が多(おほ)いからさ。子供(こども)さへあれば、大抵(たいてい)貧乏(びんばふ)な家(うち)でも陽氣(やうき)になるものだ」と御米(およね)を覺(さと)した。
 其(その)云(い)ひ方(かた)が、自分達(じぶんたち)の淋(さみ)しい生涯(しやうがい)を、多少(たせう)自(みづか)ら窘(たしな)める樣(やう)な苦(にが)い調子(てうし)を、御米(およね)の耳(みゝ)に傳(つた)へたので、御米(およね)は覺(おぼ)えず膝(ひざ)の上(うへ)の反物(たんもの)から手(て)を放(はな)して夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)た。宗助(そうすけ)は坂井(さかゐ)から取(と)つて來(き)た品(しな)が、御米(およね)の嗜好(しかう)に合(あ)つたので、久(ひさ)し振(ぶ)りに細君(さいくん)を喜(よろこ)ばせて遣(や)つた自覺(じかく)があるばかりだつたから、別段(べつだん)そこには氣(き)が付(つ)かなかつた。御米(およね)も一寸(ちよつと)宗助(そうすけ)の顏(かほ)を見(み)たなり其時(そのとき)は何(なん)にも云(い)はなかつた。けれども夜(よ)に入(い)つて寐(ね)る時間(じかん)が來(く)る迄(まで)御米(およね)はそれをわざと延(の)ばして置(お)いたのである。
 二人(ふたり)は何時(いつ)もの通(とほ)り十時過(じすぎ)床(とこ)に入(い)つたが、夫(をつと)の眼(め)がまだ覺(さ)めてゐる頃(ころ)を見計(みはか)らつて、御米(およね)は宗助(そうすけ)の方(はう)を向(む)いて話(はな)しかけた。
「貴方(あなた)先刻(さつき)小供(こども)がないと淋(さむ)しくつて不可(いけ)ないと仰(おつ)しやつてね」
 宗助(そうすけ)は是(これ)に類似(るゐじ)の事(こと)を普般的(ふはんてき)に云(い)つた覺(おぼえ)は慥(たし)かにあつた。けれどもそれは強(あな)がちに、自分達(じぶんたち)の身(み)の上(うへ)に就(つい)て、特(とく)に御米(およね)の注意(ちゆうい)を惹(ひ)く爲(ため)に口(くち)にした、故意(こい)の觀察(くわんさつ)でないのだから、斯(か)う改(あら)たまつて聞(き)き糺(たゞ)されると、困(こま)るより外(ほか)はなかつた。
「何(なに)も宅(うち)の事(こと)を云(い)つたのぢやないよ」
 此(この)返事(へんじ)を受(う)けた御米(およね)は、しばらく默(だま)つてゐた。やがて、
「でも宅(うち)の事(こと)を始終(しじゆう)淋(さむ)しい/\と思(おも)つてゐらつしやるから、必竟(ひつきやう)あんな事(こと)を仰(おつ)しやるんでせう」と前(まへ)と略(ほゞ)似(に)た樣(やう)な問(とひ)を繰(く)り返(かへ)した。宗助(そうすけ)は固(もと)よりさうだと答(こた)へなければならない或物(あるもの)を頭(あたま)の中(なか)に有(も)つてゐた。けれども御米(およね)を憚(はゞか)つて、それ程(ほど)明白地(あからさま)な自白(じはく)を敢(あへ)てし得(え)なかつた。此(この)病氣(びやうき)上(あが)りの細君(さいくん)の心(こゝろ)を休(やす)める爲(ため)には、却(けへ)つてそれを冗談(じようだん)にして笑(わら)つて仕舞(しま)ふ方(はう)が善(よ)からうと考(かんが)へたので、
「淋(さむ)しいと云(い)へば、そりや淋(さむ)しくないでもないがね」と調子(てうし)を易(か)へて成(な)るべく陽氣(やうき)に出(で)たが、其所(そこ)で詰(つま)つたぎり、新(あた)らしい文句(もんく)も、面白(おもしろ)い言葉(ことば)も容易(ようい)に思(おも)ひ付(つ)けなかつた。已(やむ)を得(え)ず、
「まあ可(い)いや。心配(しんぱい)するな」と云(い)つた。御米(およね)はまた何(なん)とも答(こた)へなかつた。宗助(そうすけ)は話題(わだい)を變(か)へやうと思(おも)つて、
「昨夕(ゆうべ)も火事(くわじ)があつたね」と世間話(せけんばなし)をし出(だ)した。すると御米(およね)は急(きふ)に、
「私(わたくし)は實(じつ)に貴方(あなた)に御氣(おき)の毒(どく)で」と切(せつ)なさうに言譯(いひわけ)を半分(はんぶん)して、又(また)それなり默(だま)つて仕舞(しま)つた。洋燈(らんぷ)は何時(いつ)もの樣(やう)に床(とこ)の間(ま)の上(うへ)に据(す)ゑてあつた。御米(およね)は灯(ひ)に背(そむ)いてゐたから、宗助(そうすけ)には顏(かほ)の表情(へうじやう)が判然(はつきり)分(わか)らなかつたけれども、其聲(そのこゑ)は多少(たせう)涙(なみだ)でうるんでゐる樣(やう)に思(おも)はれた。今(いま)迄(まで)仰向(あふむ)いて天井(てんじやう)を見(み)てゐた彼(かれ)は、すぐ妻(さい)の方(はう)へ向(む)き直(なほ)つた。さうして薄暗(うすぐら)い影(かげ)になつた御米(およね)の顏(かほ)を凝(じつ)と眺(なが)めた。御米(およね)も暗(くら)い中(なか)から凝(じつ)と宗助(そうすけ)を見(み)てゐた。さうして、
「疾(とう)から貴方(あなた)に打(う)ち明(あ)けて謝罪(あや)まらう/\と思(おも)つてゐたんですが、つい言(い)ひ惡(にく)かつたもんだから、夫(それ)なりにして置(お)いたのです」と途切(とぎ)れ/\に云(い)つた。宗助(そうすけ)には何(なん)の意味(いみ)か丸(まる)で解(わか)らなかつた。多少(たせう)はヒステリーの所爲(せゐ)かとも思(おも)つたが、全然(ぜんぜん)さうとも決(けつ)しかねて、しばらく茫然(ぼんやり)してゐた。すると御米(およね)が思(おも)ひ詰(つ)めた調子(てうし)で、
「私(わたくし)にはとても子供(こども)の出來(でき)る見込(みこみ)はないのよ」と云(い)ひ切(き)つて泣(な)き出(だ)した。
 宗助(そうすけ)は此(この)可憐(かれん)な自白(じはく)を何(ど)う慰(なぐ)さめて可(い)いか分別(ふんべつ)に餘(あま)つて當惑(たうわく)してゐたうちにも、御米(およね)に對(たい)して甚(はなは)だ氣(き)の毒(どく)だといふ思(おもひ)が非常(ひじやう)に高(たか)まつた。
「子供(こども)なんざ、無(な)くても可(い)いぢやないか。上(うへ)の坂井(さかゐ)さん見(み)た樣(やう)に澤山(たくさん)生(うま)れて御覽(ごらん)、傍(はた)から見(み)てゐても氣(き)の毒(どく)だよ。丸(まる)で幼穉園(えうちゑん)の樣(やう)で」
「だつて一人(ひとり)も出來(でき)ないと極(きま)つちまつたら、貴方(あなた)だつて好(よ)かないでせう」
「まだ出來(でき)ないと極(きま)りやしないぢやないか。是(これ)から生(うま)れるかも知(し)れないやね」
 御米(およね)は猶(なほ)と泣(な)き出(だ)した。宗助(そうすけ)も途方(とはう)に暮(く)れて、發作(ほつさ)の治(をさ)まるのを穩(おだ)やかに待(ま)つてゐた。さうして、緩(ゆつ)くり御米(およね)の説明(せつめい)を聞(き)いた。
 夫婦(ふうふ)は和合(わがふ)同棲(どうせい)といふ點(てん)に於(おい)て、人並(ひとなみ)以上(いじやう)に成功(せいこう)したと同時(どうじ)に、子供(こども)にかけては、一般(いつぱん)の隣人(りんじん)よりも不幸(ふかう)であつた。それも始(はじめ)から宿(やど)る種(たね)がなかつたのなら、まだしもだが、育(そだ)つべきものを中途(ちゆうと)で取(と)り落(おと)したのだから、更(さら)に不幸(ふかう)の感(かん)が深(ふか)かつた。
 始(はじ)めて身重(みおも)になつたのは、二人(ふたり)が京都(きやうと)を去(さ)つて、廣島(ひろしま)に瘠世帶(やせじよたい)を張(は)つてゐる時(とき)であつた。懷姙(くわいにん)と事(こと)が極(きま)つたとき、御米(およね)は此(この)新(あた)らしい經驗(けいけん)に對(たい)して、恐(おそ)ろしい未來(みらい)と、嬉(うれ)しい未來(みらい)を一度(いちど)に夢(ゆめ)に見(み)る樣(やう)な心持(こゝろもち)を抱(いだ)いて日(ひ)を過(す)ごした。宗助(そうすけ)はそれを眼(め)に見(み)えない愛(あい)の精(せい)に、一種(いつしゆ)の確證(かくしよう)となるべき形(かたち)を與(あた)へた事實(じじつ)と、ひとり解釋(かいしやく)して少(すく)なからず喜(よろこ)んだ。さうして自分(じぶん)の命(いのち)を吹(ふ)き込(こ)んだ肉(にく)の塊(かたまり)が、目(め)の前(まへ)に踴(をど)る時節(じせつ)を指(ゆび)を折(を)つて樂(たの)しみに待(ま)つた。所(ところ)が胎兒(たいじ)は、夫婦(ふうふ)の豫期(よき)に反(はん)して、五ヶ月(げつ)迄(まで)育(そだ)つて突然(とつぜん)下(お)りて仕舞(しま)つた。其(その)時分(じぶん)の夫婦(ふうふ)の活計(くらし)は苦(くる)しい苛(つら)い月(つき)ばかり續(つゞ)いてゐた。宗助(そうすけ)は流産(りうざん)した御米(およね)の蒼(あを)い顏(かほ)を眺(なが)めて、是(これ)も必竟(つまり)は世帶(しよたい)の苦勞(くらう)から起(おこ)るんだと判(はん)じた。さうして愛情(あいじやう)の結果(けつくわ)が、貧(ひん)のために打(う)ち崩(くづ)されて、永(なが)く手(て)の裡(うち)に捕(とら)へる事(こと)の出來(でき)なくなつたのを殘念(ざんねん)がつた。御米(およね)はひたすら泣(な)いた。
 福岡(ふくをか)へ移(うつ)つてから間(ま)もなく、御米(およね)は又(また)酸(す)いものを嗜(たし)む人(ひと)となつた。一度(いちど)流産(りうざん)すると癖(くせ)になると聞(き)いたので、御米(およね)は萬(よろづ)に注意(ちゆうい)して、つゝましやかに振舞(ふるま)つてゐた。其(その)所爲(せゐ)か經過(けいくわ)は至極(しごく)順當(じゆんたう)に行(い)つたが、どうした譯(わけ)か、是(これ)といふ原因(げんいん)もないのに、月足(つきた)らずで生(うま)れて仕舞(しま)つた。産婆(さんば)は首(くび)を傾(かたむ)けて、一度(ど)醫者(いしや)に見(み)せる樣(やう)に勸(すゝ)めた。醫者(いしや)に診(み)て貰(もら)ふと、發育(はついく)が充分(じゆうぶん)でないから、室内(しつない)の温度(をんど)を一定(いつてい)の高(たか)さにして、晝夜(ちうや)とも變(かは)らない位(くらゐ)、人工的(じんこうてき)に暖(あたゝ)めなければ不可(いけ)ないと云(い)つた。宗助(そうすけ)の手際(てぎは)では、室内(しつない)に煖爐(だんろ)を据(す)ゑ付(つ)ける設備(せつび)をする丈(だけ)でも容易(ようい)ではなかつた。夫婦(ふうふ)はわが時間(じかん)と算段(さんだん)の許(ゆる)す限(かぎ)りを盡(つく)して、專念(せんねん)に赤兒(あかご)の命(いのち)を護(まも)つた。けれども凡(すべ)ては徒勞(とらう)に歸(き)した。一週間(しうかん)の後(のち)、二人(ふたり)の血(ち)を分(わ)けた情(なさけ)の塊(かたまり)は遂(つひ)に冷(つめ)たくなつた。御米(およね)は幼兒(えうじ)の亡骸(なきがら)を抱(だ)いて、
「何(ど)うしませう」と啜(すゝ)り泣(な)いた。宗助(そうすけ)は再度(さいど)の打撃(だげき)を男(をとこ)らしく受(う)けた。冷(つめ)たい肉(にく)が灰(はひ)になつて、其灰(そのはひ)が又(また)黒(くろ)い土(つち)に和(くわ)する迄(まで)、一口(ひとくち)も愚癡(ぐち)らしい言葉(ことば)は出(だ)さなかつた。其内(そのうち)何時(いつ)となく、二人(ふたり)の間(あひだ)に挾(はさ)まつてゐた影(かげ)の樣(やう)なものが、次第(しだい)に遠退(とほの)いて程(ほど)なく消(き)えて仕舞(しま)つた。
 すると三度目(どめ)の記憶(きおく)が來(き)た。宗助(そうすけ)が東京(とうきやう)に移(うつ)つて始(はじめ)ての年(とし)に、御米(およね)は又(また)懷姙(くわいにん)したのである。出京(しゆつきやう)の當座(たうざ)は、大分(だいぶん)身體(からだ)が衰(おと)ろへてゐたので、御米(およね)は勿論(もちろん)、宗助(そうすけ)もひどく其所(そこ)を氣遣(きづか)つたが、今度(こんど)こそはといふ腹(はら)は兩方(りやうはう)にあつたので、張(はり)のある月(つき)を無事(ぶじ)に段々(だん/\)と重(かさ)ねて行(い)つた。所(ところ)が丁度(ちやうど)五月目(いつつきめ)になつて、御米(およね)は又(また)意外(いぐわい)の失敗(しくじり)を遣(や)つた。其頃(そのころ)はまだ水道(すゐだう)も引(ひ)いてなかつたから、朝晩(あさばん)下女(げぢよ)が井戸端(ゐどばた)へ出(で)て水(みづ)を汲(く)んだり、洗濯(せんたく)をしなければならなかつた。御米(およね)はある日(ひ)裏(うら)にゐる下女(げぢよ)に云(い)ひ付(つ)ける用(よう)が出來(でき)たので、井戸流(ゐどながし)の傍(そば)に置(お)いた盥(たらひ)の傍迄(そばまで)行(い)つて話(はなし)をした序(ついで)に、流(ながし)を向(むかふ)へ渡(わた)らうとして、青(あを)い苔(こけ)の生(は)へてゐる濡(ぬ)れた板(いた)の上(うへ)へ尻持(しりもち)を突(つ)いた。御米(およね)はまた遣(や)り損(そく)なつたとは思(おも)つたが、自分(じぶん)の粗忽(そこつ)を面目(めんぼく)ながつて、宗助(そうすけ)にはわざと何事(なにごと)も語(かた)らずに其場(そのば)を通(とほ)した。けれども此(この)震動(しんどう)が、何時(いつ)迄(まで)經(た)つても胎兒(たいじ)の發育(はついく)に是(これ)といふ影響(えいきやう)も及(およ)ぼさず、從(したが)つて自分(じぶん)の身體(からだ)にも少(すこ)しの異状(いじやう)を引(ひ)き起(おこ)さなかつた事(こと)が慥(たしか)に分(わか)つた時(とき)、御米(およね)は漸(やうや)く安心(あんしん)して、過去(くわこ)の失(しつ)を改(あらた)めて宗助(そうすけ)の前(まへ)に告(つ)げた。宗助(そうすけ)は固(もと)より妻(つま)を咎(とが)める意(い)もなかつた。たゞ、
「能(よ)く氣(き)を付(つ)けないと危(あぶ)ないよ」と穩(おだ)やかに注意(ちゆうい)を加(くは)へて過(す)ぎた。
 兎角(とかく)するうちに月(つき)が滿(み)ちた。愈(いよ/\)生(うま)れるといふ間際(まぎは)迄(まで)日(ひ)が詰(つま)つたとき、宗助(そうすけ)は役所(やくしよ)へ出(で)ながらも、御米(およね)の事(こと)がしきりに氣(き)に掛(かゝ)つた。歸(かへ)りには何時(いつ)も、今日(けふ)はことによると留守(るす)のうちに抔(など)と案(あん)じ續(つゞ)けては、自分(じぶん)の家(いへ)の格子(かうし)の前(まへ)に立(た)つた。さうして半(なか)ば豫期(よき)してゐる赤兒(あかご)の泣聲(なきごゑ)が聞(きこ)えないと、却(かへ)つて何(なに)かの變(へん)でも起(おこ)つたらしく感(かん)じて、急(いそ)いで宅(うち)へ飛(と)び込(こ)んで、自分(じぶん)と自分(じぶん)の粗忽(そこつ)を耻(は)づる事(こと)があつた。
 幸(さいはひ)に御米(およね)の産氣(さんけ)づいたのは、宗助(そうすけ)の外(そと)に用(よう)のない夜中(よなか)だつたので、傍(そば)にゐて世話(せわ)の出來(でき)ると云(い)ふ點(てん)から見(み)れば甚(はなは)だ都合(つがふ)が好(よ)かつた。産婆(さんば)も緩(ゆつ)くり間(ま)に合(あ)ふし、脱脂綿(だつしめん)其他(そのた)の準備(じゆんび)も悉(こと/″\)く不足(ふそく)なく取(と)り揃(そろ)へてあつた。産(さん)も案外(あんぐわい)輕(かる)かつた。けれども肝心(かんじん)の小兒(こども)は、たゞ子宮(しきゆう)を逃(のが)れて廣(ひろ)い所(ところ)へ出(で)たといふ迄(まで)で、浮世(うきよ)の空氣(くうき)を一口(ひとくち)も呼吸(こきふ)しなかつた。産婆(さんば)は細(ほそ)い硝子(がらす)の管(くだ)の樣(やう)なものを取(と)つて、小(ち)さい口(くち)の内(なか)へ強(つよ)い呼息(いき)をしきりに吹(ふ)き込(こ)んだが、効目(きゝめ)は丸(まる)でなかつた。生(うま)れたものは肉丈(にくだけ)であつた。夫婦(ふうふ)は此肉(このにく)に刻(きざ)み付(つ)けられた、眼(め)と鼻(はな)と口(くち)とを髣髴(はうふつ)した。然(しか)し其(その)咽喉(のど)から出(で)る聲(こゑ)は遂(つひ)に聞(き)く事(こと)が出來(でき)なかつた。
 産婆(さんば)は出産(しゆつさん)のあつたつい一週間(しうかん)前(まへ)に來(き)て、丁寧(ていねい)に胎兒(たいじ)の心臟(しんざう)迄(まで)聽診(ちやうしん)して、至極(しごく)御健全(ごけんぜん)だと保證(ほしよう)して行(い)つたのである。よし産婆(さんば)の云(い)ふ事(こと)に間違(まちがひ)があつて、腹(はら)の兒(こ)の發育(はついく)が今迄(いままで)のうちに何處(どこ)かで止(とま)つてゐたにした所(ところ)で、それが直(すぐ)取(と)り出(だ)されない以上(いじやう)、母體(ぼたい)は今日(こんにち)迄(まで)平氣(へいき)に持(も)ち應(こた)へる譯(わけ)がなかつた。其所(そこ)を段々(だん/\)調(しら)べて見(み)て、宗助(そうすけ)は自分(じぶん)が未(いま)だ嘗(かつ)て聞(き)いた事(こと)のない事實(じじつ)を發見(はつけん)した時(とき)に、思(おも)はず恐(おそ)れ驚(おど)ろいた。胎兒(たいじ)は出(で)る間際(まぎは)迄(まで)健康(けんかう)であつたのである。けれども臍帶纏絡(さいたいてんらく)と云(い)つて、俗(ぞく)に云(い)ふ胞(えな)を頸(くび)へ捲(ま)き付(つ)けてゐた。斯(か)う云(い)ふ異常(いじやう)の場合(ばあひ)には、固(もと)より産婆(さんば)の腕(うで)で切(き)り拔(ぬ)けるより外(ほか)に仕樣(しやう)のないもので、經驗(けいけん)のある婆(ばあ)さんなら、取(と)り上(あ)げる時(とき)に、旨(うま)く頸(くび)に掛(か)ゝつた胞(えな)を外(はづ)して引(ひ)き出(だ)す筈(はず)であつた。宗助(そうすけ)の頼(たの)んだ産婆(さんば)も可成(かなり)年(とし)を取(と)つてゐる丈(だけ)に、此(この)位(くらゐ)のことは心得(こゝろえ)てゐた。然(しか)し胎兒(たいじ)の頸(くび)を絡(から)んでゐた臍帶(さいたい)は、時(とき)たまある如(ごと)く一重(ひとへ)ではなかつた。二重(ふたへ)に細(ほそ)い咽喉(のど)を卷(ま)いてゐる胞(えな)を、あの細(ほそ)い所(ところ)を通(とほ)す時(とき)に外(はづ)し損(そく)なつたので、小兒(こども)はぐつと氣管(きくわん)を絞(し)められて窒息(ちつそく)して仕舞(しま)つたのである。
 罪(つみ)は産婆(さんば)にもあつた。けれども半(なかば)以上(いじやう)は御米(およね)の落度(おちど)に違(ちがひ)なかつた。臍帶纏絡(さいたいてんらく)の變状(へんじやう)は、御米(およね)が井戸端(ゐどばた)で滑(すべ)つて痛(いた)く尻餠(しりもち)を搗(つ)いた五ヶ月(げつ)前(まへ)既(すで)に自(みづか)ら釀(かも)したものと知(し)れた。御米(およね)は産後(さんご)の蓐中(じよくちゆう)に其(その)始末(しまつ)を聞(き)いて、たゞ輕(かる)く首肯(うなづ)いたぎり何(なん)にも云(い)はなかつた。さうして、疲勞(ひらう)に少(すこ)し落(お)ち込(こ)んだ眼(め)を霑(うる)ませて、長(なが)い睫毛(まつげ)をしきりに動(うご)かした。宗助(そうすけ)は慰(なぐ)さめながら、手帛(はんけち)で頬(ほゝ)に流(なが)れる涙(なみだ)を拭(ふ)いて遣(や)つた。
 是(これ)が子供(こども)に關(くわん)する夫婦(ふうふ)の過去(くわこ)であつた。此(この)苦(にが)い經驗(けいけん)を甞(な)めた彼等(かれら)は、それ以後(いご)幼兒(えうじ)に就(つい)て餘(あま)り多(おほ)くを語(かた)るを好(この)まなかつた。けれども二人(ふたり)の生活(せいくわつ)の裏側(うらがは)は、此(この)記憶(きおく)のために淋(さむ)しく染(そ)め付(つ)けられて、容易(ようい)に剥(は)げさうには見(み)えなかつた。時(とき)としては、彼我(ひが)の笑聲(わらひごゑ)を通(とほ)してさへ、御互(おたがひ)の胸(むね)に、此(この)裏側(うらがは)が薄暗(うすぐら)く映(うつ)る事(こと)もあつた。斯(か)ういふ譯(わけ)だから、過去(くわこ)の歴史(れきし)を今(いま)夫(をつと)に向(むか)つて新(あら)たに繰(く)り返(かへ)さうとは、御米(およね)も思(おも)ひ寄(よ)らなかつたのである。宗助(そうすけ)も今更(いまさら)妻(つま)からそれを聞(き)かせられる必要(ひつえう)は少(すこ)しも認(みと)めてゐなかつたのである。
 御米(およね)の夫(をつと)に打(う)ち明(あ)けると云(い)つたのは、固(もと)より二人(ふたり)の共有(きよういう)してゐた事實(じじつ)に就(つい)てではなかつた。彼女(かのぢよ)は三度目(どめ)の胎兒(たいじ)を失(うしな)つた時(とき)、夫(をつと)から其折(そのをり)の模樣(もやう)を聞(き)いて、如何(いか)にも自分(じぶん)が殘酷(ざんこく)な母(はゝ)であるかの如(ごと)く感(かん)じた。自分(じぶん)が手(て)を下(くだ)した覺(おぼえ)がないにせよ、考(かんが)へ樣(やう)によつては、自分(じぶん)と生(せい)を與(あた)へたものの生(せい)を奪(うば)ふために、暗闇(くらやみ)と明海(あかるみ)の途中(とちゆう)に待(ま)ち受(う)けて、これを絞殺(かうさつ)したと同(おな)じ事(こと)であつたからである。斯(か)う解釋(かいしやく)した時(とき)、御米(およね)は恐(おそ)ろしい罪(つみ)を犯(をか)した惡人(あくにん)と己(おのれ)を見傚(みな)さない譯(わけ)に行(ゆ)かなかつた。さうして思(おも)はざる徳義上(とくぎじやう)の苛責(かしやく)を人知(ひとし)れず受(う)けた。しかも其(その)苛責(かしやく)を分(わか)つて、共(とも)に苦(くる)しんで呉(く)れるものは世界中(せかいぢゆう)に一人(ひとり)もなかつた。御米(およね)は夫(をつと)にさへ此(この)苦(くる)しみを語(かた)らなかつたのである。
 彼女(かのぢよ)は其時(そのとき)普通(ふつう)の産婦(さんぷ)の樣(やう)に、三週間(しうかん)を床(とこ)の中(なか)で暮(く)らした。それは身體(からだ)から云(い)ふと極(きは)めて安靜(あんせい)の三週間(しうかん)に違(ちがひ)なかつた。同時(どうじ)に心(こゝろ)から云(い)ふと、恐(おそ)るべき忍耐(にんたい)の三週間(しうかん)であつた。宗助(そうすけ)は亡兒(ばうじ)のために、小(ちひ)さい柩(ひつぎ)を拵(こし)らえて、人(ひと)の眼(め)に立(た)たない葬儀(さうぎ)を營(いと)なんだ。しかる後(のち)、又(また)死(し)んだもののために小(ちひ)さな位牌(ゐはい)を作(つく)つた。位牌(ゐはい)には黒(くろ)い漆(うるし)で戒名(かいみやう)が書(か)いてあつた。位牌(ゐはい)の主(ぬし)は戒名(かいみやう)を持(も)つてゐた。けれども俗名(ぞくみやう)は兩親(ふたおや)といへども知(し)らなかつた。宗助(そうすけ)は最初(さいしよ)それを茶(ちや)の間(ま)の箪笥(たんす)の上(うへ)へ載(の)せて、役所(やくしよ)から歸(かへ)ると絶(た)えず線香(せんかう)を焚(た)いた。其(その)香(にほひ)が六疊(でふ)に寐(ね)てゐる御米(およね)の鼻(はな)に時々(とき/″\)通(かよ)つた。彼女(かのぢよ)の官能(くわんのう)は當時(たうじ)それ程(ほど)に鋭(する)どくなつてゐたのである。しばらくしてから、宗助(そうすけ)は何(なに)を考(かんが)へたか、小(ちひ)さい位牌(ゐはい)を箪笥(たんす)の抽出(ひきだし)の底(そこ)へ仕舞(しま)つてしまつた。其所(そこ)には福岡(ふくをか)で亡(な)くなつた小供(こども)の位牌(ゐはい)と、東京(とうきやう)で死(し)んだ父(ちゝ)の位牌(ゐはい)が別々(べつ/\)に綿(わた)で包(くる)んで丁寧(ていねい)に入(い)れてあつた。東京(とうきやう)の家(いへ)を疊(たゝ)むとき宗助(そうすけ)は先祖(せんぞ)の位牌(ゐはい)を一(ひと)つ殘(のこ)らず携(たづさ)えて、諸所(しよしよ)を漂泊(へうはく)するの煩(わづら)はしさに堪(た)えなかつたので、新(あた)らしい父(ちゝ)の分丈(ぶんだけ)を鞄(かばん)の中(なか)に収(をさ)めて、其他(そのた)は悉(こと/″\)く寺(てら)へ預(あづ)けて置(お)いたのである。
 御米(およね)は宗助(そうすけ)のする凡(すべ)てを寐(ね)ながら見(み)たり聞(き)いたりしてゐた。さうして布團(ふとん)の上(うへ)に仰向(あふむけ)になつた儘(まゝ)、此(この)二(ふた)つの小(ち)さい位牌(ゐはい)を、眼(め)に見(み)えない因果(いんぐわ)の糸(いと)を長(なが)く引(ひ)いて互(たがひ)に結(むす)び付(つ)けた。それから其(その)糸(いと)を猶(なほ)遠(とほ)く延(の)ばして、是(これ)は位牌(ゐはい)にもならずに流(なが)れて仕舞(しま)つた、始(はじ)めから形(かたち)のない、ぼんやりした影(かげ)の樣(やう)な死兒(しじ)の上(うへ)に投(な)げかけた。御米(およね)は廣島(ひろしま)と福岡(ふくをか)と東京(とうきやう)に殘(のこ)る一(ひと)つ宛(づゝ)の記憶(きおく)の底(そこ)に、動(うご)かしがたい運命(うんめい)の嚴(おごそ)かな支配(しはい)を認(みと)めて、其(その)嚴(おごそ)かな支配(しはい)の下(もと)に立(た)つ、幾月日(いくつきひ)の自分(じぶん)を、不思議(ふしぎ)にも同(おな)じ不幸(ふかう)を繰(く)り返(かへ)すべく作(つく)られた母(はゝ)であると觀(くわん)じた時(とき)、時(とき)ならぬ呪咀(のろひ)の[#「呪咀の」はママ]聲(こゑ)を耳(みゝ)の傍(はた)に聞(き)いた。彼女(かのぢよ)が三週間(しうかん)の安靜(あんせい)を、蒲團(ふとん)の上(うへ)に貪(むさ)ぼらなければならないやうに、生理的(せいりてき)に強(し)ひられてゐる間(あひだ)、彼女(かのぢよ)の鼓膜(こまく)は此(この)呪咀(のろひ)の[#「呪咀の」はママ]聲(こゑ)で殆(ほと)んど絶(た)えず鳴(な)つてゐた。三週間(しうかん)の安臥(あんぐわ)は、御米(およね)に取(と)つて實(じつ)に比類(ひるゐ)のない忍耐(にんたい)の三週間(しうかん)であつた。
 御米(およね)は此(この)苦(くる)しい半月(はんつき)餘(あま)りを、枕(まくら)の上(うへ)で凝(じつ)と見詰(みつ)めながら過(す)ごした。仕舞(しまひ)には我慢(がまん)して横(よこ)になつてゐるのが、如何(いか)にも苛(つら)かつたので、看護婦(かんごふ)の歸(かへ)つた明(あく)る日(ひ)に、こつそり起(お)きてぶら/\して見(み)たが、それでも心(こゝろ)に逼(せま)る不安(ふあん)は、容易(ようい)に紛(まぎ)らせなかつた。退儀(たいぎ)な身體(からだ)を無理(むり)に動(うご)かす割(わり)に、頭(あたま)の中(なか)は少(すこ)しも動(うご)いて呉(く)れないので、又(また)落膽(がつか)りして、ついには取(と)り放(はな)しの夜具(やぐ)の下(した)へ潛(もぐ)り込(こ)んで、人(ひと)の世(よ)を遠(とほ)ざける樣(やう)に、眼(め)を堅(かた)く閉(つぶ)つて仕舞(しま)ふ事(こと)もあつた。
 其内(そのうち)定期(ていき)の三週間(しうかん)も過(す)ぎて、御米(およね)の身體(からだ)は自(おのづ)からすつきりなつた。御米(およね)は奇麗(きれい)に床(とこ)を拂(はら)つて、新(あた)らしい氣(き)のする眉(まゆ)を再(ふたゝ)び鏡(かゞみ)に照(て)らした。それは更衣(ころもがへ)の時節(じせつ)であつた。御米(およね)も久(ひさ)し振(ぶり)に綿(わた)の入(い)つた重(おも)いものを脱(ぬ)ぎ棄(す)てゝ、肌(はだ)に垢(あか)の觸(ふ)れない輕(かる)い氣持(きもち)を爽(さわ)やかに感(かん)じた。春(はる)と夏(なつ)の境(さかひ)をぱつと飾(かざ)る陽氣(やうき)な日本(にほん)の風物(ふうぶつ)は、淋(さむ)しい御米(およね)の頭(あたま)にも幾分(いくぶん)かの反響(はんきやう)を與(あた)へた。けれども、夫(それ)はたゞ沈(しづ)んだものを掻(か)き立(た)てて、賑(にぎ)やかな光(ひか)りのうちに浮(う)かした迄(まで)であつた。御米(およね)の暗(くら)い過去(くわこ)の中(なか)に其時(そのとき)一種(いつしゆ)の好奇心(かうきしん)が萠(きざ)したのである。
 天氣(てんき)の勝(すぐ)れて美(うつ)くしいある日(ひ)の午前(ごぜん)、御米(およね)は何時(いつ)もの通(とほ)り宗助(そうすけ)を送(おく)り出(だ)してから直(ぢき)に、表(おもて)へ出(で)た。もう女(をんな)は日傘(ひがさ)を差(さ)して外(そと)を行(ゆ)くべき時節(じせつ)であつた。急(いそ)いで日向(ひなた)を歩(ある)くと額(ひたひ)の邊(あたり)が少(すこ)し汗(あせ)ばんだ。御米(およね)は歩(ある)き/\、着物(きもの)を着換(きか)える時(とき)、箪笥(たんす)を開(あ)けたら、思(おも)はず一番目(ばんめ)の抽出(ひきだし)の底(そこ)に仕舞(しま)つてあつた、新(あた)らしい位牌(ゐはい)に手(て)が觸(ふ)れた事(こと)を思(おも)ひつゞけて、とう/\ある易者(えきしや)の門(もん)を潛(くゞ)つた。
 彼女(かのぢよ)は多數(たすう)の文明人(ぶんめいじん)に共通(きようつう)な迷信(めいしん)を子供(こども)の時(とき)から持(も)つてゐた。けれども平生(へいぜい)は其(その)迷信(めいしん)が又(また)多數(たすう)の文明人(ぶんめいじん)と同(おな)じ樣(やう)に、遊戲的(いうぎてき)に外(そと)に現(あら)はれる丈(だけ)で濟(す)んでゐた。それが實生活(じつせいくわつ)の嚴(おごそ)かな部分(ぶぶん)を冒(をか)す樣(やう)になつたのは、全(まつた)く珍(めづ)らしいと云(い)はなければならなかつた。御米(およね)は其時(そのとき)眞面目(まじめ)な態度(たいど)と眞面目(まじめ)な心(こゝろ)を有(も)つて、易者(えきしや)の前(まへ)に坐(すわ)つて、自分(じぶん)が將來(しやうらい)子(こ)を生(う)むべき、又(また)子(こ)を育(そだ)てるべき運命(うんめい)を天(てん)から與(あた)へられるだらうかを確(たしか)めた。易者(えきしや)は大道(だいだう)に店(みせ)を出(だ)して、徃來(わうらい)の人(ひと)の身(み)の上(うへ)を一二錢(いちにせん)で占(うら)なふ人(ひと)と、少(すこ)しも違(ちが)つた樣子(やうす)もなく、算木(さんぎ)を色々(いろ/\)に並(なら)べて見(み)たり、筮竹(ぜいちく)を揉(も)んだり數(かぞ)へたりした後(あと)で、仔細(しさい)らしく腮(あご)の下(した)の髯(ひげ)を握(にぎ)つて何(なに)か考(かんが)へたが、終(をは)りに御米(およね)の顏(かほ)をつく/″\眺(なが)めた末(すゑ)、
「貴方(あなた)には子供(こども)は出來(でき)ません」と落(お)ち付(つ)き拂(はら)つて宣告(せんこく)した。御米(およね)は無言(むごん)の儘(まゝ)、しばらく易者(えきしや)の言葉(ことば)を頭(あたま)の中(なか)で噛(か)んだり碎(くだ)いたりした。それから顏(かほ)を上(あ)げて、
「何故(なぜ)でせう」と聞(き)き返(かへ)した。其時(そのとき)御米(およね)は易者(えきしや)が返事(へんじ)をする前(まへ)に、又(また)考(かんが)へるだらうと思(おも)つた。所(ところ)が彼(かれ)はまともに御米(およね)の眼(め)の間(あひだ)を見詰(みつ)めたまゝ、すぐ
「貴方(あなた)は人(ひと)に對(たい)して濟(す)まない事(こと)をした覺(おぼえ)がある。其(その)罪(つみ)が祟(たゝ)つてゐるから、子供(こども)は決(けつ)して育(そだ)たない」と云(い)ひ切(き)つた。御米(およね)は此(この)一言(いちげん)に心臟(しんざう)を射拔(いぬ)かれる思(おもひ)があつた。くしやりと首(くび)を折(を)つたなり家(うち)へ歸(かへ)つて、其(その)夜(よる)は夫(をつと)の顏(かほ)さへ碌々(ろく/\)見上(みあ)げなかつた。
 御米(およね)の宗助(そうすけ)に打(う)ち明(あ)けないで、今迄(いままで)過(すご)したといふのは、此(この)易者(えきしや)の判斷(はんだん)であつた。宗助(そうすけ)は床(とこ)の間(ま)に乘(の)せた細(ほそ)い洋燈(らんぷ)の灯(ひ)が、夜(よる)の中(なか)に沈(しづ)んで行(ゆ)きさうな靜(しづ)かな晩(ばん)に、始(はじ)めて御米(およね)の口(くち)から其(その)話(はなし)を聞(き)いたとき、流石(さすが)に好(い)い氣味(きみ)はしなかつた。
「神經(しんけい)の起(おこ)つた時(とき)、わざ/\そんな馬鹿(ばか)な所(ところ)へ出掛(でかけ)るからさ。錢(ぜに)を出(だ)して下(くだ)らない事(こと)を云(い)はれて詰(つま)らないぢやないか。其後(そのご)もその占(うらなひ)の宅(うち)へ行(ゆ)くのかい」
「恐(おそ)ろしいから、もう決(けつ)して行(い)かないわ」
「行(い)かないが可(い)い。馬鹿氣(ばかげ)てゐる」
 宗助(そうすけ)はわざと鷹揚(おうやう)な答(こたへ)をして又(また)寐(ね)て仕舞(しま)つた。

 宗助(そうすけ)と御米(およね)とは仲(なか)の好(い)い夫婦(ふうふ)に違(ちがひ)なかつた。一所(いつしよ)になつてから今日(こんにち)迄(まで)六年(ねん)程(ほど)の長(なが)い月日(つきひ)をまだ半日(はんにち)も氣不味(きまづ)く暮(くら)した事(こと)はなかつた。言逆(いさかひ)に顏(かほ)を赤(あか)らめ合(あ)つた試(ためし)は猶(なほ)なかつた。二人(ふたり)は呉服屋(ごふくや)の反物(たんもの)を買(か)つて着(き)た。米屋(こめや)から米(こめ)を取(と)つて食(く)つた。けれども其他(そのた)には一般(いつぱん)の社會(しやくわい)に待(ま)つ所(ところ)の極(きは)めて少(すく)ない人間(にんげん)であつた。彼等(かれら)は、日常(にちじやう)の必要品(ひつえうひん)を供給(きようきふ)する以上(いじやう)の意味(いみ)に於(おい)て、社會(しやくわい)の存在(そんざい)を殆(ほと)んど認(みと)めてゐなかつた。彼等(かれら)に取(と)つて絶對(ぜつたい)に必要(ひつえう)なものは御互(おたがひ)丈(だけ)で、其(その)御互(おたがひ)丈(だけ)が、彼等(かれら)にはまた充分(じゆうぶん)であつた。彼等(かれら)は山(やま)の中(なか)にゐる心(こゝろ)を抱(いだ)いて、都會(とくわい)に住(す)んでゐた。
 自然(しぜん)の勢(いきほひ)として、彼等(かれら)の生活(せいくわつ)は單調(たんてう)に流(なが)れない譯(わけ)に行(い)かなかつた。彼等(かれら)は複雜(ふくざつ)な社會(しやくわい)の煩(わづらひ)を避(さ)け得(え)たと共(とも)に、其(その)社會(しやくわい)の活動(くわつどう)から出(で)る樣々(さま/″\)の經驗(けいけん)に直接(ちよくせつ)觸(ふ)れる機會(きくわい)を、自分(じぶん)と塞(ふさ)いで仕舞(しま)つて、都會(とくわい)に住(す)みながら、都會(とくわい)に住(す)む文明人(ぶんめいじん)の特權(とくけん)を棄(す)てた樣(やう)な結果(けつくわ)に到着(たうちやく)した。彼等(かれら)も自分達(じぶんたち)の日常(にちじやう)に變化(へんくわ)のない事(こと)は折々(をり/\)自覺(じかく)した。御互(おたがひ)が御互(おたがひ)に飽(あ)きるの、物足(ものた)りなくなるのといふ心(こゝろ)は微塵(みぢん)も起(おこ)らなかつたけれども、御互(おたがひ)の頭(あたま)に受(う)け入(い)れる生活(せいくわつ)の内容(ないよう)には、刺戟(しげき)に乏(とぼ)しい或物(あるもの)が潛(ひそ)んでゐる樣(やう)な鈍(にぶ)い訴(うつたへ)があつた。それにも拘(かゝ)はらず、彼等(かれら)が毎日(まいにち)同(おな)じ判(はん)を同(おな)じ胸(むね)に押(お)して、長(なが)の月日(つきひ)を倦(う)まず渡(わた)つて來(き)たのは、彼等(かれら)が始(はじめ)から一般(いつぱん)の社會(しやくわい)に興味(きようみ)を失(うしな)つてゐたためではなかつた。社會(しやくわい)の方(はう)で彼等(かれら)を二人(ふたり)限(ぎり)に切(き)り詰(つ)めて、其(その)二人(ふたり)に冷(ひやゝ)かな背(そびら)を向(む)けた結果(けつくわ)に外(ほか)ならなかつた。外(そと)に向(むか)つて生長(せいちやう)する餘地(よち)を見出(みいだ)し得(え)なかつた二人(ふたり)は、内(うち)に向(むか)つて深(ふか)く延(の)び始(はじ)めたのである。彼等(かれら)の生活(せいくわつ)は廣(ひろ)さを失(うし)なふと同時(どうじ)に、深(ふか)さを増(ま)して來(き)た。彼等(かれら)は六年(ねん)の間(あひだ)世間(せけん)に散漫(さんまん)な交渉(かうせふ)を求(もと)めなかつた代(かは)りに、同(おな)じ六年(ねん)の歳月(さいげつ)を擧(あ)げて、互(たがひ)の胸(むね)を堀ほ》り出(だ)した。彼等(かれら)の命(いのち)は、いつの間(ま)にか互(たがひ)の底(そこ)に迄(まで)喰(く)ひ入(い)つた。二人(ふたり)は世間(せけん)から見(み)れば依然(いぜん)として二人(ふたり)であつた。けれども互(たがひ)から云(い)へば、道義上(だうぎじやう)切(き)り離(はな)す事(こと)の出來(でき)ない一(ひと)つの有機體(いうきたい)になつた。二人(ふたり)の精神(せいしん)を組(く)み立(た)てる神經系(しんけいけい)は、最後(さいご)の纖維(せんゐ)に至(いた)る迄(まで)、互(たがひ)に抱(だ)き合(あ)つて出來(でき)上(あが)つてゐた。彼等(かれら)は大(おほ)きな水盤(すゐばん)の表(おもて)に滴(した)たつた二點(てん)の油(あぶら)の樣(やう)なものであつた。水(みづ)を彈(はじ)いて二(ふた)つが一所(いつしよ)に集(あつ)まつたと云(い)ふよりも、水(みづ)に彈(はじ)かれた勢(いきほひ)で、丸(まる)く寄(よ)り添(そ)つた結果(けつくわ)、離(はな)れる事(こと)が出來(でき)なくなつたと評(ひやう)する方(はう)が適當(てきたう)であつた。
 彼等(かれら)は此(この)抱合(はうがふ)の中(うち)に、尋常(じんじやう)の夫婦(ふうふ)に見出(みいだ)し難(がた)い親和(しんわ)と飽滿(はうまん)と、それに伴(とも)なう倦怠(けんたい)とを兼(か)ね具(そな)へてゐた。さうして其(その)倦怠(けんたい)の慵(ものう)い氣分(きぶん)に支配(しはい)されながら、自己(じこ)を幸福(かうふく)と評價(ひやうか)する事(こと)丈(だけ)は忘(わす)れなかつた。倦怠(けんたい)は彼等(かれら)の意識(いしき)に眠(ねむり)の樣(やう)な幕(まく)を掛(か)けて、二人(ふたり)の愛(あい)をうつとり霞(かす)ます事(こと)はあつた。けれども簓(さゝら)で神經(しんけい)を洗(あら)はれる不安(ふあん)は決(けつ)して起(おこ)し得(え)なかつた。要(えう)するに彼等(かれら)は世間(せけん)に疎(うと)い丈(だけ)それ丈(だけ)仲(なか)の好(い)い夫婦(ふうふ)であつたのである。
 彼等(かれら)は人並(ひとなみ)以上(いじやう)に睦(むつ)ましい月日(つきひ)を渝(かは)らずに今日(けふ)から明日(あす)へと繋(つな)いで行(い)きながら、常(つね)は其所(そこ)に氣(き)が付(つ)かずに顏(かほ)を見合(みあ)はせてゐる樣(やう)なものゝ、時々(とき/″\)自分達(じぶんたち)の睦(むつ)まじがる心(こゝろ)を、自分(じぶん)で確(しか)と認(みと)める事(こと)があつた。その場合(ばあひ)には必(かなら)ず今迄(いままで)睦(むつ)まじく過(す)ごした長(なが)の歳月(としつき)を溯(さか)のぼつて、自分達(じぶんたち)が如何(いか)な犧牲(ぎせい)を拂(はら)つて、結婚(けつこん)を敢(あへ)てしたかと云(い)ふ當時(たうじ)を憶(おも)ひ出(だ)さない譯(わけ)には行(い)かなかつた。彼等(かれら)は自然(しぜん)が彼等(かれら)の前(まへ)にもたらした恐(おそ)るべき復讐(ふくしう)の下(もと)に戰(をのゝ)きながら跪(ひざま)づいた。同時(どうじ)に此(この)復讐(ふくしう)を受(う)けるために得(え)た互(たがひ)の幸福(かうふく)に對(たい)して、愛(あい)の神(かみ)に一辯(べん)の香(かう)を焚(た)く事(こと)を忘(わす)れなかつた。彼等(かれら)は鞭(むちう)たれつゝ死(し)に赴(おもむ)くものであつた。たゞ其(その)鞭(むち)の先(さき)に、凡(すべ)てを癒(い)やす甘(あま)い蜜(みつ)の着(つ)いてゐる事(こと)を覺(さと)つたのである。
 宗助(そうすけ)は相當(さうたう)に資産(しさん)のある東京(とうきやう)ものゝ子弟(してい)として、彼等(かれら)に共通(きようつう)な派出(はで)な嗜好(しかう)を學生(がくせい)時代(じだい)には遠慮(ゑんりよ)なく充(み)たした男(をとこ)である。彼(かれ)は其時(そのとき)服裝(なり)にも、動作(どうさ)にも、思想(しさう)にも、悉(こと/″\)く當世(たうせい)らしい才人(さいじん)の面影(おもかげ)を漲(みなぎ)らして、昂(たか)い首(くび)を世間(せけん)に擡(もた)げつゝ、行(い)かうと思(おも)ふ邊(あた)りを濶歩(くわつぽ)した。彼(かれ)の襟(えり)の白(しろ)かつた如(ごと)く、彼(かれ)の洋袴(づぼん)の裾(すそ)が奇麗(きれい)に折(を)り返(かへ)されてゐた如(ごと)く、其下(そのした)から見(み)える彼(かれ)の靴足袋(くつたび)が模樣入(もやういり)のカシミヤであつた如(ごと)く、彼(かれ)の頭(あたま)は華奢(きやしや)な世間(せけん)向(む)きであつた。
 彼(かれ)は生(うま)れ付(つき)理解(りかい)の好(い)い男(をとこ)であつた。從(したが)つて大(たい)した勉強(べんきやう)をする氣(き)にはなれなかつた。學問(がくもん)は社會(しやくわい)へ出(で)るための方便(はうべん)と心得(こゝろえ)てゐたから、社會(しやくわい)を一歩(ぽ)退(しり)ぞかなくつては達(たつ)する事(こと)の出來(でき)ない、學者(がくしや)といふ地位(ちゐ)には、餘(あま)り多(おほ)くの興味(きようみ)を有(も)つてゐなかつた。彼(かれ)はたゞ教場(けうぢやう)へ出(で)て、普通(ふつう)の學生(がくせい)のする通(とほ)り、多(おほ)くのノートブツクを黒(くろ)くした。けれども宅(うち)へ歸(かへ)つて來(き)て、それを讀(よ)み直(なほ)したり、手(て)を入(い)れたりした事(こと)は滅多(めつた)になかつた。休(やす)んで拔(ぬ)けた所(ところ)さへ大抵(たいてい)は其儘(そのまゝ)にして放(はふ)つて置(お)いた。彼(かれ)は下宿(げしゆく)の机(つくゑ)の上(うへ)に、此(この)ノートブツクを奇麗(きれい)に積(つ)み上(あ)げて、何時(いつ)見(み)ても整然(せいぜん)と秩序(ちつじよ)の付(つ)いた書齋(しよさい)を空(から)にしては、外(そと)を出歩(であ)るいた。友達(ともだち)は多(おほ)く彼(かれ)の寛濶(くわんくわつ)を羨(うらや)んだ。宗助(そうすけ)も得意(とくい)であつた。彼(かれ)の未來(みらい)は虹(にじ)の樣(やう)に美(うつ)くしく彼(かれ)の眸(ひとみ)を照(て)らした。
 其頃(そのころ)の宗助(そうすけ)は今(いま)と違(ちが)つて多(おほ)くの友達(ともだち)を持(も)つてゐた。實(じつ)を云(い)ふと、輕快(けいくわい)な彼(かれ)の眼(め)に映(えい)ずる凡(すべ)ての人(ひと)は、殆(ほと)んど誰彼(だれかれ)の區別(くべつ)なく友達(ともだち)であつた。彼(かれ)は敵(てき)といふ言葉(ことば)の意味(いみ)を正當(せいたう)に解(かい)し得(え)ない樂天家(らくてんか)として、若(わか)い世(よ)をのび/\と渡(わた)つた。
「なに不景氣(ふけいき)な顏(かほ)さへしなければ、何處(どこ)へ行(い)つたつて驩迎(くわんげい)されるもんだよ」と學友(がくいう)の安井(やすゐ)によく話(はな)した事(こと)があつた。實際(じつさい)彼(かれ)の顏(かほ)は、他(ひと)を不愉快(ふゆくわい)にする程(ほど)深刻(しんこく)な表情(へうじやう)を示(しめ)し得(え)た試(ためし)がなかつた。
「君(きみ)は身體(からだ)が丈夫(ぢやうぶ)だから結構(けつこう)だ」とよく何處(どこ)かに故障(こしやう)の起(おこ)る安井(やすゐ)が羨(うらや)ましがつた。此(この)安井(やすゐ)といふのは國(くに)は越前(ゑちぜん)だが、長(なが)く横濱(よこはま)に居(ゐ)たので、言葉(ことば)や樣子(やうす)は毫(がう)も東京(とうきやう)ものと異(こと)なる點(てん)がなかつた。着物(きもの)道樂(だうらく)で、髮(かみ)の毛(け)を長(なが)くして眞中(まんなか)から分(わ)ける癖(くせ)があつた。高等學校(かうとうがくかう)は違(ちが)つてゐたけれども、講義(かうぎ)のときよく隣合(となりあは)せに並(なら)んで、時々(とき/″\)聞(き)き損(そく)なつた所(ところ)抔(など)を後(あと)から質問(しつもん)するので、口(くち)を利(き)き出(だ)したのが元(もと)になつて、つい懇意(こんい)になつた。それが學年(がくねん)の始(はじま)りだつたので、京都(きやうと)へ來(き)て日(ひ)のまだ淺(あさ)い宗助(そうすけ)には大分(だいぶん)の便宜(べんぎ)であつた。彼(かれ)は安井(やすゐ)の案内(あんない)で新(あた)らしい土地(とち)の印象(いんしやう)を酒(さけ)の如(ごと)く吸(す)ひ込(こ)んだ。二人(ふたり)は毎晩(まいばん)の樣(やう)に三條(さんでう)とか四條(しでう)とかいふ賑(にぎ)やかな町(まち)を歩(ある)いた。時(とき)によると京極(きやうごく)も通(とほ)り拔(ぬ)けた。橋(はし)の眞中(まんなか)に立(た)つて鴨川(かもがは)の水(みづ)を眺(なが)めた。東山(ひがしやま)の上(うへ)に出(で)る靜(しづ)かな月(つき)を見(み)た。さうして京都(きやうと)の月(つき)は東京(とうきやう)の月(つき)よりも丸(まる)くて大(おほ)きい樣(やう)に感(かん)じた。町(まち)や人(ひと)に厭(あ)きたときは、土曜(どえう)と日曜(にちえう)を利用(りよう)して遠(とほ)い郊外(かうぐわい)に出(で)た。宗助(そうすけ)は至(いた)る所(ところ)の大竹藪(おほたけやぶ)に緑(みどり)の籠(こも)る深(ふか)い姿(すがた)を喜(よろこ)んだ。松(まつ)の幹(みき)の染(そ)めた樣(やう)に赤(あか)いのが、日(ひ)を照(て)り返(かへ)して幾本(いくほん)となく並(なら)ぶ風情(ふぜい)を樂(たの)しんだ。ある時(とき)は大悲閣(だいひかく)へ登(のぼ)つて、即非(そくひ)の額(がく)の下(した)に仰向(あふむ)きながら、谷底(たにそこ)の流(ながれ)を下(くだ)る櫓(ろ)の音(おと)を聞(き)いた。其音(そのおと)が鴈(かり)の鳴聲(なきごゑ)によく似(に)てゐるのを二人(ふたり)とも面白(おもしろ)がつた。ある時(とき)は、平八茶屋(へいはちぢやや)迄(まで)出掛(でか)けて行(い)つて、そこに一日(いちにち)寐(ね)てゐた。さうして不味(まづ)い河魚(かはうを)の串(くし)に刺(さ)したのを、かみさんに燒(や)かして酒(さけ)を呑(の)んだ。其(その)かみさんは、手拭(てぬぐひ)を被(かぶ)つて、紺(こん)の立付(たつつけ)見(み)た樣(やう)なものを穿(は)いてゐた。
 宗助(そうすけ)は斯(こ)んな新(あた)らしい刺戟(しげき)の下(もと)に、しばらくは慾求(よくきう)の滿足(まんぞく)を得(え)た。けれども一(ひ)と通(とほ)り古(ふる)い都(みやこ)の臭(にほひ)を嗅(か)いで歩(ある)くうちに、凡(すべ)てがやがて、平板(へいばん)に見(み)えだして來(き)た。其時(そのとき)彼(かれ)は美(うつ)くしい山(やま)の色(いろ)と清(きよ)い水(みづ)の色(いろ)が、最初(さいしよ)程(ほど)鮮明(せんめい)な影(かげ)を自分(じぶん)の頭(あたま)に宿(やど)さないのを物足(ものた)らず思(おも)ひ始(はじ)めた。彼(かれ)は暖(あたゝ)かな若(わか)い血(ち)を抱(いだ)いて、其(その)熱(ほて)りを冷(さま)す深(ふか)い緑(みどり)に逢(あ)へなくなつた。さうかといつて、此(この)情熱(じやうねつ)を焚(や)き盡(つく)す程(ほど)の烈(はげ)しい活動(くわつどう)には無論(むろん)出會(であ)はなかつた。彼(かれ)の血(ち)は高(たか)い脉(みやく)を打(う)つて、徒(いたづ)らにむづ痒(がゆ)く彼(かれ)の身體(からだ)の中(なか)を流(なが)れた。彼(かれ)は腕組(うでぐみ)をして、坐(ゐ)ながら四方(しはう)の山(やま)を眺(なが)めた。さうして、
「もう斯(こ)んな古臭(ふるくさ)い所(ところ)には厭(あ)きた」と云(い)つた。
 安井(やすゐ)は笑(わら)ひながら、比較(ひかく)のため、自分(じぶん)の知(し)つてゐる或(ある)友達(ともだち)の故郷(こきやう)の物語(ものがたり)をして宗助(そうすけ)に聞(き)かした。それは淨瑠璃(じやうるり)の間(あひ)の土山(つちやま)雨(あめ)が降(ふ)るとある有名(いうめい)な宿(しゆく)の事(こと)であつた。朝(あさ)起(お)きてから夜(よる)寐(ね)る迄(まで)、眼(め)に入(い)るものは山(やま)より外(ほか)にない所(ところ)で、丸(まる)で擂鉢(すりばち)の底(そこ)に住(す)んでゐると同(おな)じ有樣(ありさま)だと告(つ)げた上(うへ)、安井(やすゐ)は其(その)友達(ともだち)の小(ちひ)さい時分(じぶん)の經驗(けいけん)として、五月雨(さみだれ)の降(ふ)りつゞく折(をり)抔(など)は、小供心(こどもごゝろ)に、今(いま)にも自分(じぶん)の住(す)んでゐる宿(しゆく)が、四方(しはう)の山(やま)から流(なが)れて來(く)る雨(あめ)の中(なか)に浸(つ)かつて仕舞(しま)ひさうで、心配(しんぱい)でならなかつたと云(い)ふ話(はなし)をした。宗助(そうすけ)はそんな擂鉢(すりばち)の底(そこ)で一生(いつしやう)を過(すご)す人(ひと)の運命(うんめい)ほど情(なさけ)ないものはあるまいと考(かんが)へた。
「さう云(い)ふ所(ところ)に、人間(にんげん)がよく生(い)きてゐられるな」と不思議(ふしぎ)さうな顏(かほ)をして安井(やすゐ)に云(い)つた。安井(やすゐ)も笑(わら)つてゐた。さうして土山(つちやま)から出(で)た人物(じんぶつ)の中(うち)では、千兩凾(せんりやうばこ)を摩(す)り替(か)へて磔(はりつけ)になつたのが一番(いちばん)大(おほ)きいのだと云(い)ふ一口話(ひとくちばなし)を矢張(やは)り友達(ともだち)から聞(き)いた通(とほ)り繰(く)り返(かへ)した。狹(せま)い京都(きやうと)に飽(あ)きた宗助(そうすけ)は、單調(たんてう)な生活(せいくわつ)を破(やぶ)る色彩(しきさい)として、さう云(い)ふ出來事(できごと)も百年(ねん)に一度(ど)位(ぐらゐ)は必要(ひつえう)だらうと迄(まで)思(おも)つた。
 其(その)時分(じぶん)の宗助(そうすけ)の眼(め)は、常(つね)に新(あた)らしい世界(せかい)にばかり注(そゝ)がれてゐた。だから自然(しぜん)が一通(ひととほり)四季(しき)の色(いろ)を見(み)せて仕舞(しま)つたあとでは、再(ふたゝ)び去年(きよねん)の記憶(きおく)を呼(よ)び戻(もど)すために、花(はな)や紅葉(もみぢ)を迎(むか)へる必要(ひつえう)がなくなつた。強(つよ)く烈(はげ)しい命(いのち)に生(い)きたと云(い)ふ證劵(しようけん)を飽迄(あくまで)握(にぎ)りたかつた彼(かれ)には、活(い)きた現在(げんざい)と、是(これ)から生(うま)れやうとする未來(みらい)が、當面(たうめん)の問題(もんだい)であつたけれども、消(き)えかゝる過去(くわこ)は、夢(ゆめ)同樣(どうやう)に價(あたひ)の乏(とぼ)しい幻影(げんえい)に過(す)ぎなかつた。彼(かれ)は多(おほ)くの剥(は)げかゝつた社(やしろ)と、寂果(さびはて)た寺(てら)を見盡(みつく)して、色(いろ)の褪(さ)めた歴史(れきし)の上(うへ)に、黒(くろ)い頭(あたま)を振(ふ)り向(む)ける勇氣(ゆうき)を失(うしな)ひかけた。寐耄(ねぼ)けた昔(むかし)に※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊(ていくわい)する程(ほど)、彼(かれ)の氣分(きぶん)は枯(か)れてゐなかつたのである。
 學年(がくねん)の終(をは)りに宗助(そうすけ)と安井(やすゐ)とは再會(さいくわい)を約(やく)して手(て)を分(わか)つた。安井(やすゐ)は一先(ひとまづ)郷里(きやうり)の福井(ふくゐ)へ歸(かへ)つて、夫(それ)から横濱(よこはま)へ行(ゆ)く積(つも)りだから、もし其時(そのとき)には手紙(てがみ)を出(だ)して通知(つうち)をしやう、さうして成(な)るべくなら一所(いつしよ)の汽車(きしや)で京都(きやうと)へ下(くだ)らう、もし時間(じかん)が許(ゆる)すなら、興津(おきつ)あたりで泊(とま)つて、清見寺(せいけんじ)や三保(みほ)の松原(まつばら)や、久能山(くのうざん)でも見(み)ながら緩(ゆつ)くり遊(あそ)んで行(い)かうと云(い)つた。宗助(そうすけ)は大(おほ)いに可(よ)からうと答(こた)へて、腹(はら)のなかでは既(すで)に安井(やすゐ)の端書(はがき)を手(て)にする時(とき)の心持(こゝろもち)さへ豫想(よさう)した。
 宗助(そうすけ)が東京(とうきやう)へ歸(かへ)つたときは、父(ちゝ)は固(もと)よりまだ丈夫(ぢやうぶ)であつた。小六(ころく)は子供(こども)であつた。彼(かれ)は一年(ねん)ぶりに殷(さか)んな都(みやこ)の炎熱(えんねつ)と煤煙(ばいえん)を呼吸(こきふ)するのを却(かへ)つて嬉(うれ)しく感(かん)じた。燬(や)く樣(やう)な日(ひ)の下(した)に、渦(うづ)を捲(ま)いて狂(くる)ひ出(だ)しさうな瓦(かはら)の色(いろ)が、幾里(いくり)となく續(つゞ)く景色(けしき)を、高(たか)い所(ところ)から眺(なが)めて、是(これ)でこそ東京(とうきやう)だと思(おも)ふ事(こと)さへあつた。今(いま)の宗助(そうすけ)なら目(め)を眩(まは)しかねない事々物々(じゞぶつ/\)が、悉(こと/″\)く壯快(さうくわい)の二字(じ)を彼(かれ)の額(ひたひ)に燒(や)き付(つ)けべく、其時(そのとき)は反射(はんしや)して來(き)たのである。
 彼(かれ)の未來(き)は封(ふう)じられた蕾(つぼみ)のやうに、開(ひら)かない先(さき)は他(ひと)に知(し)れないばかりでなく、自分(じぶん)にも確(しか)とは分(わか)らなかつた。宗助(そうすけ)はたゞ洋々(やう/\)の二字(じ)が彼(かれ)の前途(ぜんと)に棚引(たなび)いてゐる氣(き)がした丈(だけ)であつた。彼(かれ)は此(この)暑(あつ)い休暇中(きうかちゆう)にも卒業後(そつげふご)の自分(じぶん)に對(たい)する謀(はかりごと)を忽(ゆる)かせにはしなかつた。彼(かれ)は大學(だいがく)を出(で)てから、官途(くわんと)に就(つ)かうか、又(また)は實業(じつげふ)に從(したが)はうか、それすら、まだ判然(はつきり)と心(こゝろ)に極(き)めてゐなかつたに拘(かゝ)はらず、何方(どちら)の方面(はうめん)でも構(かま)はず、今(いま)のうちから、進(すゝ)める丈(だけ)進(すゝ)んで置(お)く方(はう)が利益(りえき)だと心付(こゝろづ)いた。彼(かれ)は直接(ちよくせつ)父(ちゝ)の紹介(せうかい)を得(え)た。父(ちゝ)を通(とほ)して間接(かんせつ)に其(その)知人(ちじん)の紹介(せうかい)を得(え)た。さうして自分(じぶん)の將來(しやうらい)を影響(えいきやう)し得(う)る樣(やう)な人(ひと)を物色(ぶつしよく)して、二三の訪問(はうもん)を試(こゝろ)みた。彼等(かれら)のあるものは、避暑(ひしよ)といふ名義(めいぎ)の下(もと)に、既(すで)に東京(とうきやう)を離(はな)れてゐた。あるものは不在(ふざい)であつた。又(また)あるものは多忙(たばう)のため時(とき)を期(き)して、勤務先(きんむさき)で會(あ)はうと云(い)つた。宗助(そうすけ)は日(ひ)のまだ高(たか)くならない七時頃(じごろ)に、昇降器(エレ※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ーター)で煉瓦造(れんぐわづくり)の三階(さんがい)へ案内(あんない)されて、其所(そこ)の應接間(おうせつま)に、もう七八人(にん)も自分(じぶん)と同(おな)じ樣(やう)に、同(おな)じ人(ひと)を待(ま)つてゐる光景(くわうけい)を見(み)て驚(おど)ろいた事(こと)もあつた。彼(かれ)は斯(か)うして新(あた)らしい所(ところ)へ行(い)つて、新(あた)らしい物(もの)に接(せつ)するのが、用向(ようむき)の成否(せいひ)に關(かゝ)はらず、今迄(いままで)眼(め)に付(つ)かずに過(す)ぎた活(い)きた世界(せかい)の斷片(だんぺん)を頭(あたま)へ詰(つ)め込(こ)む樣(やう)な氣(き)がして何(なん)となく愉快(ゆくわい)であつた。
 父(ちゝ)の云(い)ひ付(つけ)で、毎年(まいねん)の通(とほ)り虫干(むしぼし)の手傳(てつだひ)をさせられるのも、斯(こ)んな時(とき)には、却(かへ)つて興味(きようみ)の多(おほ)い仕事(しごと)の一部分(いちぶぶん)に數(かぞ)へられた。彼(かれ)は冷(つめ)たい風(かぜ)の吹(ふ)き通(とほ)す土藏(どざう)の戸前(とまへ)の濕(しめ)つぽい石(いし)の上(うへ)に腰(こし)を掛(か)けて、古(ふる)くから家(いへ)にあつた江戸名所圖會(えどめいしよづゑ)と江戸砂子(えどすなご)といふ本(ほん)を物珍(ものめづら)しさうに眺(なが)めた。疊(たゝみ)迄(まで)熱(あつ)くなつた座敷(ざしき)の眞中(まんなか)へ胡坐(あぐら)を掻(か)いて、下女(げぢよ)の買(か)つて來(き)た樟腦(しやうなう)を、小(ちひ)さな紙片(かみぎれ)に取(と)り分(わ)けては、醫者(いしや)で呉(く)れる散藥(さんやく)の樣(やう)な形(かたち)に疊(たゝ)んだ。宗助(そうすけ)は小供(こども)の時(とき)から、此(この)樟腦(しやうなう)の高(たか)い香(かをり)と、汗(あせ)の出(で)る土用(どよう)と、砲烙灸(はうろくぎう)と、蒼空(あをぞら)を緩(ゆる)く舞(ま)ふ鳶(とび)とを連想(れんさう)してゐた。
 兎角(とかく)するうちに節(せつ)は立秋(りつしう)に入(い)つた。二百十日(にひやくとをか)の前(まへ)には、風(かぜ)が吹(ふ)いて、雨(あめ)が降(ふ)つた。空(そら)には薄墨(うすずみ)の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)染(にじ)んだ樣(やう)な雲(くも)がしきりに動(うご)いた。寒暖計(かんだんけい)が二三日(にち)下(さ)がり切(き)りに下(さ)がつた。宗助(そうすけ)はまた行李(かうり)を麻繩(あさなは)で絡(から)げて、京都(きやうと)へ向(むか)ふ支度(したく)をしなければならなくなつた。
 彼(かれ)は此間(このあひだ)にも安井(やすゐ)と約束(やくそく)のある事(こと)は忘(わす)れなかつた。家(うち)へ歸(かへ)つた當座(たうざ)は、まだ二ヶ月(げつ)も先(さき)の事(こと)だからと緩(ゆつ)くり構(かま)へてゐたが、段々(だん/\)時日(じじつ)が逼(せま)るに從(したが)つて、安井(やすゐ)の消息(せうそく)が氣(き)になつてきた。安井(やすゐ)は其後(そのご)一枚(まい)の端書(はがき)さへ寄(よ)こさなかつたのである。宗助(そうすけ)は安井(やすゐ)の郷里(きやうり)の福井(ふくゐ)へ向(む)けて手紙(てがみ)を出(だ)して見(み)た。けれども返事(へんじ)は遂(つひ)に來(こ)なかつた。宗助(そうすけ)は横濱(よこはま)の方(はう)へ問(と)ひ合(あ)はせて見(み)やうと思(おも)つたが、つい番地(ばんち)も町名(ちやうめい)も聞(き)いて置(お)かなかつたので、何(ど)うする事(こと)も出來(でき)なかつた。
 立(た)つ前(まへ)の晩(ばん)に、父(ちゝ)は宗助(そうすけ)を呼(よ)んで、宗助(そうすけ)の請求(せいきう)通(どほ)り、普通(ふつう)の旅費(りよひ)以外(いぐわい)に、途中(とちゆう)で二三日(にち)滯在(たいざい)した上(うへ)、京都(きやうと)へ着(つ)いてからの當分(たうぶん)の小遣(こづかひ)を渡(わた)して、
「成(な)る丈(たけ)節儉(せつけん)しなくちや不可(いけ)ない」と諭(さと)した。
 宗助(そうすけ)はそれを普通(ふつう)の子(こ)が普通(ふつう)の親(おや)の訓戒(くんかい)を聞(き)く時(とき)の如(ごと)くに聞(き)いた。父(ちゝ)は又(また)、
「來年(らいねん)また歸(かへ)つて來(く)る迄(まで)は會(あ)はないから、隨分(ずゐぶん)氣(き)を付(つ)けて」と云(い)つた。其(その)歸(かへ)つて來(く)る時節(じせつ)には、宗助(そうすけ)はもう歸(かへ)れなくなつてゐたのである。さうして歸(かへ)つて來(き)た時(とき)は、父(ちゝ)の亡骸(なきがら)がもう冷(つめ)たくなつてゐたのである。宗助(そうすけ)は今(いま)に至(いた)る迄(まで)其時(そのとき)の父(ちゝ)の面影(おもかげ)を思(おも)ひ浮(うか)べては濟(す)まない樣(やう)な氣(き)がした。
 愈(いよ/\)立(た)つと云(い)ふ間際(まぎは)に、宗助(そうすけ)は安井(やすゐ)から一通(つう)の封書(ふうしよ)を受取(うけと)つた。開(ひら)いて見(み)ると、約束(やくそく)通(どほ)り一所(いつしよ)に歸(かへ)る積(つもり)でゐたが、少(すこ)し事情(じじやう)があつて先(さき)へ立(た)たなければならない事(こと)になつたからと云(い)ふ斷(ことわり)を述(の)べた末(すゑ)に、何(いづ)れ京都(きやうと)で緩(ゆつ)くり會(あ)はうと書(か)いてあつた。宗助(そうすけ)はそれを洋服(やうふく)の内懷(うちぶところ)に押(お)し込(こ)んで汽車(きしや)に乘(の)つた。約束(やくそく)の興津(おきつ)へ來(き)たとき彼(かれ)は一人(ひとり)でプラツトフオームへ降(お)りて、細長(ほそなが)い一筋町(ひとすぢまち)を清見寺(せいけんじ)の方(はう)へ歩(ある)いた。夏(なつ)も既(すで)に過(す)ぎた九月(ぐわつ)の初(はじめ)なので、大方(おほかた)の避暑客(ひしよかく)は早(はや)く引(ひ)き上(あ)げた後(あと)だから、宿屋(やどや)は比較的(ひかくてき)閑靜(かんせい)であつた。宗助(そうすけ)は海(うみ)の見(み)える一室(いつしつ)の中(なか)に腹這(はらばひ)になつて、安井(やすゐ)へ送(おく)る繪端書(ゑはがき)へ二三行(ぎやう)の文句(もんく)を書(か)いた。其内(そのなか)に、君(きみ)が來(こ)ないから僕(ぼく)一人(ひとり)で此所(こゝ)へ來(き)たといふ言葉(ことば)を入(い)れた。
 翌日(よくじつ)も約束(やくそく)通(どほ)り一人(ひとり)で三保(みほ)と龍華寺(りゆうげじ)を見物(けんぶつ)して、京都(きやうと)へ行(い)つてから安井(やすゐ)に話(はな)す材料(ざいれう)を出來(でき)る丈(だけ)拵(こしら)えた。然(しか)し天氣(てんき)の所爲(せゐ)か、當(あて)にした連(つれ)のないためか、海(うみ)を見(み)ても、山(やま)へ登(のぼ)つても夫程(それほど)面白(おもしろ)くなかつた。宿(やど)に凝(じつ)としてゐるのは、猶(なほ)退屈(たいくつ)であつた。宗助(そうすけ)は匆々(そう/\)に又(また)宿(やど)の浴衣(ゆかた)を脱(ぬ)ぎ棄(す)てゝ、絞(しぼ)りの三尺(さんじやく)と共(とも)に欄干(らんかん)に掛(か)けて、興津(おきつ)を去(さ)つた。
 京都(きやうと)へ着(つ)いた一日目(いちにちめ)は、夜汽車(よぎしや)の疲(つか)れやら、荷物(にもつ)の整理(せいり)やらで、徃來(わうらい)の日影(ひかげ)を知(し)らずに暮(く)らした。二日目(ふつかめ)になつて漸(やうや)く學校(がくかう)へ出(で)て見(み)ると、教師(けうし)はまだ出揃(でそろ)つてゐなかつた。學生(がくせい)も平日(いつも)よりは數(かず)が不足(ふそく)であつた。不審(ふしん)な事(こと)には、自分(じぶん)より三四(さんよ)つ日(か)前(まへ)に歸(かへ)つてゐるべき筈(はず)の安井(やすゐ)の顏(かほ)さへ何處(どこ)にも見(み)えなかつた。宗助(そうすけ)はそれが氣(き)にかゝるので、歸(かへ)りにわざ/\安井(やすゐ)の下宿(げしゆく)へ回(まは)つて見(み)た。安井(やすゐ)の居(ゐ)る所(ところ)は樹(き)と水(みづ)の多(おほ)い加茂(かも)の社(やしろ)の傍(そば)であつた。彼(かれ)は夏休(なつやす)み前(まへ)から、少(すこ)し閑靜(かんせい)な町外(まちはづ)れへ移(うつ)つて勉強(べんきやう)する積(つもり)だとか云(い)つて、わざ/\此(この)不便(ふべん)な村同樣(むらどうやう)な田舍(ゐなか)へ引込(ひつこ)んだのである。彼(かれ)の見付出(みつけだ)した家(いへ)からが寂(さび)た土塀(どべい)を二方(にはう)に回(めぐ)らして、既(すで)に古風(こふう)に片付(かたづ)いてゐた。宗助(そうすけ)は安井(やすゐ)から、其所(そこ)の主人(しゆじん)はもと加茂神社(かもじんじや)の神官(しんくわん)の一人(ひとり)であつたと云(い)ふ話(はなし)を聞(き)いた。非常(ひじやう)に能辯(のうべん)な京都(きやうと)言葉(ことば)を操(あやつ)る四十許(ばかり)の細君(さいくん)がゐて、安井(やすゐ)の世話(せわ)をしてゐた。
「世話(せわ)つて、たゞ不味(まづ)い菜(さい)を拵(こし)らえて、三度(ど)づゝ室(へや)へ運(はこ)んで呉(く)れる丈(だけ)だよ」と安井(やすゐ)は移(うつ)り立(た)てから此(この)細君(さいくん)の惡口(わるくち)を利(き)いてゐた。宗助(そうすけ)は安井(やすゐ)を此所(こゝ)に二三度(ど)訪(たづ)ねた縁故(えんこ)で、彼(かれ)の所謂(いはゆる)不味(まづ)い菜(さい)を拵(こし)らえる主(ぬし)を知(し)つてゐた。細君(さいくん)の方(はう)でも宗助(そうすけ)の顏(かほ)を覺(おぼ)えてゐた。細君(さいくん)は宗助(そうすけ)を見(み)るや否(いな)や、例(れい)の柔(やはら)かい舌(した)で慇懃(いんぎん)な挨拶(あいさつ)を述(の)べた後(のち)、此方(こつち)から聞(き)かうと思(おも)つて來(き)た安井(やすゐ)の消息(せうそく)を、却(かへ)つて向(むか)ふから尋(たづ)ねた。細君(さいくん)の云(い)ふ所(ところ)によると、彼(かれ)は郷里(きやうり)へ歸(かへ)つてから當日(たうじつ)に至(いた)る迄(まで)、一片(いつぺん)の音信(おんしん)さへ下宿(げしゆく)へは出(だ)さなかつたのである。宗助(そうすけ)は案外(あんぐわい)な思(おもひ)で自分(じぶん)の下宿(げしゆく)へ歸(かへ)つて來(き)た。
 夫(それ)から一週間(しうかん)程(ほど)は、學校(がくかう)へ出(で)るたんびに、今日(けふ)は安井(やすゐ)の顏(かほ)が見(み)えるか、明日(あす)は安井(やすゐ)の聲(こゑ)がするかと、毎日(まいにち)漠然(ばくぜん)とした豫期(よき)を抱(いだ)いては教室(けうしつ)の戸(と)を開(あ)けた。さうして毎日(まいにち)又(また)漠然(ばくぜん)とした不足(ふそく)を感(かん)じては歸(かへ)つて來(き)た。尤(もつと)も最後(さいご)の三四日(さんよつか)に於(おけ)る宗助(そうすけ)は早(はや)く安井(やすゐ)に會(あ)ひたいと思(おも)ふよりも、少(すこ)し事情(じじやう)があるから、失敬(しつけい)して先(さき)へ立(た)つとわざ/\通知(つうち)しながら、何時迄(いつまで)待(ま)つても影(かげ)も見(み)せない彼(かれ)の安否(あんぴ)を、關係者(くわんけいしや)として寧(むし)ろ氣(き)に掛(か)けてゐたのである。彼(かれ)は學友(がくいう)の誰彼(たれかれ)に萬遍(まんべん)なく安井(やすゐ)の動靜(どうせい)を聞(き)いて見(み)た。然(しか)し誰(だれ)も知(し)るものはなかつた。たゞ一人(ひとり)が、昨夕(ゆうべ)四條(しでう)の人込(ひとごみ)の中(なか)で、安井(やすゐ)によく似(に)た浴衣(ゆかた)がけの男(をとこ)を見(み)たと答(こた)へた事(こと)があつた。然(しか)し宗助(そうすけ)にはそれが安井(やすゐ)だらうとは信(しん)じられなかつた。所(ところ)が其(その)話(はなし)を聞(き)いた翌日(よくじつ)、即(すなは)ち宗助(そうすけ)が京都(きやうと)へ着(つ)いてから約(やく)一週間(しうかん)の後(のち)、話(はなし)の通(とほ)りの服裝(なり)をした安井(やすゐ)が、突然(とつぜん)宗助(そうすけ)の所(ところ)へ尋(たづ)ねて來(き)た。
 宗助(そうすけ)は着流(きなが)しの儘(まゝ)麥藁帽(むぎわらばう)を手(て)に持(も)つた友達(ともだち)の姿(すがた)を久(ひさ)し振(ぶり)に眺(なが)めた時(とき)、夏休(なつやす)み前(まへ)の彼(かれ)の顏(かほ)の上(うへ)に、新(あた)らしい何物(なにもの)かゞ更(さら)に付(つ)け加(くは)へられた樣(やう)な氣(き)がした。安井(やすゐ)は黒(くろ)い髮(かみ)に油(あぶら)を塗(ぬ)つて、目立(めだ)つ程(ほど)奇麗(きれい)に頭(あたま)を分(わ)けてゐた。さうして今(いま)床屋(とこや)へ行(い)つて來(き)た所(ところ)だと言譯(いひわけ)らしい事(こと)を云(い)つた。
 其晩(そのばん)彼(かれ)は宗助(そうすけ)と一時間(じかん)餘(あま)りも雜談(ざつだん)に耽(ふけ)つた。彼(かれ)の重々(おも/\)しい口(くち)の利(き)き方(かた)、自分(じぶん)を憚(はゞ)かつて、思(おも)ひ切(き)れない樣(やう)な話(はなし)の調子(てうし)、「然(しか)るに」と云(い)ふ口癖(くちくせ)、凡(すべ)て平生(へいぜい)の彼(かれ)と異(こと)なる點(てん)はなかつた。たゞ彼(かれ)は何故(なぜ)宗助(そうすけ)より先(さき)へ横濱(よこはま)を立(た)つたかを語(かた)らなかつた。又(また)途中(とちゆう)何處(どこ)で暇取(ひまど)つた爲(ため)、宗助(そうすけ)より後(おく)れて京都(きやうと)へ着(つ)いたかを判然(はつきり)告(つ)げなかつた。然(しか)し彼(かれ)は三四日前(さんよつかまへ)漸(やうや)く京都(きやうと)へ着(つ)いた事(こと)丈(だけ)を明(あきら)かにした。さうして、夏休(なつやす)み前(まへ)にゐた下宿(げしゆく)へはまだ歸(かへ)らずにゐると云(い)つた。
「夫(それ)で何處(どこ)に」と宗助(そうすけ)が聞(き)いたとき、彼(かれ)は自分(じぶん)の今(いま)泊(とま)つてゐる宿屋(やどや)の名前(なまへ)を、宗助(そうすけ)に教(をし)へた。それは三條(さんでう)邊(へん)の三流位(りうぐらゐ)の家(いへ)であつた。宗助(そうすけ)は其(その)名前(なまへ)を知(し)つてゐた。
「何(ど)うして、其樣(そん)な所(ところ)へ這入(はい)つたのだ。當分(たうぶん)其所(そこ)にゐる積(つもり)なのかい」と宗助(そうすけ)は重(かさ)ねて聞(き)いた。安井(やすゐ)はたゞ少(すこ)し都合(つがふ)があつてと許(ばかり)答(こた)へたが、
「下宿(げしゆく)生活(せいくわつ)はもう已(や)めて、小(ちひ)さい家(うち)でも借(か)りやうかと思(おも)つてゐる」と思(おも)ひがけない計畫(けいくわく)を打(う)ち明(あ)けて、宗助(そうすけ)を驚(おど)ろかした。
 それから一週間(しうかん)ばかりの中(うち)に、安井(やすゐ)はとう/\宗助(そうすけ)に話(はな)した通(とほ)り、學校(がくかう)近(ちか)くの閑靜(かんせい)な所(ところ)に一戸(いつこ)を構(かま)へた。それは京都(きやうと)に共通(きようつう)な暗(くら)い陰氣(いんき)な作(つく)りの上(うへ)に、柱(はしら)や格子(かうし)を黒赤(くろあか)く塗(ぬ)つて、わざと古臭(ふるくさ)く見(み)せた狹(せま)い貸家(かしや)であつた。門口(かどぐち)に誰(だれ)の所有(しよいう)とも付(つ)かない柳(やなぎ)が一本(ぽん)あつて、長(なが)い枝(えだ)が殆(ほとん)ど軒(のき)に觸(さは)りさうに風(かぜ)に吹(ふ)かれる樣(さま)を宗助(そうすけ)は見(み)た。庭(には)も東京(とうきやう)と違(ちが)つて、少(すこ)しは整(とゝの)つてゐた。石(いし)の自由(じいう)になる所(ところ)だけに、比較的(ひかくてき)大(おほ)きなのが座敷(ざしき)の眞正面(ましやうめん)に据(す)ゑてあつた。其下(そのした)には涼(すゞ)しさうな苔(こけ)がいくらでも生(は)えた。裏(うら)には敷居(しきゐ)の腐(くさ)つた物置(ものおき)が空(から)の儘(まゝ)がらんと立(た)つてゐる後(うしろ)に、隣(となり)の竹藪(たけやぶ)が便所(べんじよ)の出入(ではひ)りに望(のぞ)まれた。
 宗助(そうすけ)の此處(こゝ)を訪問(はうもん)したのは、十月(ぐわつ)に少(すこ)し間(ま)のある學期(がくき)の始(はじ)めであつた。殘暑(ざんしよ)がまだ強(つよ)いので宗助(そうすけ)は學校(がくかう)の徃復(わうふく)に、蝙蝠傘(かうもりがさ)を用(もち)ひてゐた事(こと)を今(いま)に記憶(きおく)してゐた。彼(かれ)は格子(かうし)の前(まへ)で傘(かさ)を疊(たゝ)んで、内(うち)を覗(のぞ)き込(こ)んだ時(とき)、粗(あら)い縞(しま)の浴衣(ゆかた)を着(き)た女(をんな)の影(かげ)をちらりと認(みと)めた。格子(かうし)の内(うち)は三和土(たゝき)で、それが眞直(まつすぐ)に裏(うら)迄(まで)突(つ)き拔(ぬ)けてゐるのだから、這入(はい)つてすぐ右手(みぎて)の玄關(げんくわん)めいた上(あが)り口(ぐち)を上(あが)らない以上(いじやう)は、暗(くら)いながら一筋(ひとすぢ)に奧(おく)の方(はう)迄(まで)見(み)える譯(わけ)であつた。宗助(そうすけ)は浴衣(ゆかた)の後影(うしろかげ)が、裏口(うらぐち)へ出(で)る所(ところ)で消(き)へてなくなる迄(まで)其處(そこ)に立(た)つてゐた。それから格子(かうし)を開(あ)けた。玄關(げんくわん)へは安井(やすゐ)自身(じしん)が現(あらは)れた。
 座敷(ざしき)へ通(とほ)つてしばらく話(はな)してゐたが、さつきの女(をんな)は全(まつた)く顏(かほ)を出(だ)さなかつた。聲(こゑ)も立(た)てず、音(おと)もさせなかつた。廣(ひろ)い家(うち)でないから、つい隣(となり)の部屋(へや)位(ぐらゐ)にゐたのだらうけれども、居(ゐ)ないのと丸(まる)で違(ちが)はなかつた。この影(かげ)の樣(やう)に靜(しづ)かな女(をんな)が御米(およね)であつた。
 安井(やすゐ)は郷里(きやうり)の事(こと)、東京(とうきやう)の事(こと)、學校(がくかう)の講義(かうぎ)の事(こと)、何(なに)くれとなく話(はな)した。けれども、御米(およね)の事(こと)に就(つい)ては一言(いちごん)も口(くち)にしなかつた。宗助(そうすけ)も聞(き)く勇氣(ゆうき)に乏(とぼ)しかつた。其日(そのひ)はそれなり別(わか)れた。
 次(つぎ)の日(ひ)二人(ふたり)が顏(かほ)を合(あは)したとき、宗助(そうすけ)は矢張(やは)り女(をんな)の事(こと)を胸(むね)の中(なか)に記憶(きおく)してゐたが、口(くち)へ出(だ)しては一言(ひとこと)も語(かた)らなかつた。安井(やすゐ)も何氣(なにげ)ない風(ふう)をしてゐた。懇意(こんい)な若(わか)い青年(せいねん)が心易立(こゝろやすだて)に話(はな)し合(あ)ふ遠慮(ゑんりよ)のない題目(だいもく)は、是迄(これまで)二人(ふたり)の間(あひだ)に何度(なんど)となく交換(かうくわん)されたにも拘(かゝ)はらず、安井(やすゐ)はこゝへ來(き)て、息詰(いきづま)つた如(ごと)くに見(み)えた。宗助(そうすけ)も其所(そこ)を無理(むり)にこぢ開(あ)ける程(ほど)の強(つよ)い好奇心(かうきしん)は有(も)たなかつた。從(したが)つて女(をんな)は二人(ふたり)の意識(いしき)の間(あひだ)に挾(はさ)まりながら、つい話頭(わとう)に上(のぼ)らないで、又(また)一週間(しうかん)ばかり過(す)ぎた。
 其(その)日曜(にちえう)に彼(かれ)は又(また)安井(やすゐ)を訪(と)ふた。それは二人(ふたり)の關係(くわんけい)してゐる或(ある)會(くわい)に就(つい)て用事(ようじ)が起(おこ)つたためで、女(をんな)とは全(まつた)く縁故(えんこ)のない動機(どうき)から出(で)た淡泊(たんぱく)な訪問(はうもん)であつた。けれども座敷(ざしき)へ上(あ)がつて、同(おな)じ所(ところ)へ坐(すわ)らせられて、垣根(かきね)に沿(そ)ふた小(ちひ)さな梅(うめ)の木(き)を見(み)ると、此前(このまへ)來(き)た時(とき)の事(こと)が明(あき)らかに思(おも)ひ出(だ)された。其日(そのひ)も座敷(ざしき)の外(ほか)は、しんとして靜(しづか)であつた。宗助(そうすけ)は其(その)靜(しづ)かなうちに忍(しの)んでゐる若(わか)い女(をんな)の影(かげ)を想像(さうざう)しない譯(わけ)に行(い)かなかつた。同時(どうじ)にその若(わか)い女(をんな)は此前(このまへ)と同(おな)じ樣(やう)に、決(けつ)して自分(じぶん)の前(まへ)に出(で)て來(く)る氣遣(きづかひ)はあるまいと信(しん)じてゐた。
 此(この)豫期(よき)の下(もと)に、宗助(そうすけ)は突然(とつぜん)御米(およね)に紹介(せうかい)されたのである。其時(そのとき)御米(およね)は此間(このあひだ)の樣(やう)に粗(あら)い浴衣(ゆかた)を着(き)てはゐなかつた。是(これ)から餘所(よそ)へ行(ゆ)くか、又(また)は今(いま)外(そと)から歸(かへ)つて來(き)たと云(い)ふ風(ふう)な粧(よそほひ)をして、次(つぎ)の間(ま)から出(で)て來(き)た。宗助(そうすけ)にはそれが意外(いぐわい)であつた。然(しか)し大(たい)した綺羅(きら)を着飾(きかざ)つた譯(わけ)でもないので、衣服(いふく)の色(いろ)も、帶(おび)の光(ひかり)も、夫程(それほど)彼(かれ)を驚(おどろ)かす迄(まで)には至(いた)らなかつた。其上(そのうへ)御米(およね)は若(わか)い女(をんな)に有勝(ありがち)の嬌羞(けうしう)といふものを、初對面(しよたいめん)の宗助(そうすけ)に向(むか)つて、あまり多(おほ)く表(あら)はさなかつた。たゞ普通(ふつう)の人間(にんげん)を靜(しづか)にして言葉(ことば)寡(すく)なに切(き)り詰(つ)めた丈(だけ)に見(み)えた。人(ひと)の前(まへ)へ出(で)ても、隣(となり)の室(へや)に忍(しの)んでゐる時(とき)と、あまり區別(くべつ)のない程(ほど)落付(おちつ)いた女(をんな)だといふ事(こと)を見出(みいだ)した宗助(そうすけ)は、それから推(お)して、御米(およね)のひつそりしていたのは、穴勝(あながち)耻(はづ)かしがつて、人(ひと)の前(まへ)へ出(で)るのを避(さ)けるため許(ばかり)でもなかつたんだと思(おも)つた。
 安井(やすゐ)は御米(およね)を紹介(せうかい)する時(とき)、
「是(これ)は僕(ぼく)の妹(いもと)だ」といふ言葉(ことば)を用(もち)ひた。宗助(そうすけ)は四五分(ふん)對坐(たいざ)して、少(すこ)し談話(だんわ)を取(と)り換(か)はしてゐるうちに、御米(およね)の口調(くてう)の何處(どこ)にも、國訛(くになまり)らしい音(おん)の交(まじ)つてゐない事(こと)に氣(き)が付(つ)いた。
「今迄(いままで)御國(おくに)の方(はう)に」と聞(き)いたら、御米(およね)が返事(へんじ)をする前(まへ)に安井(やすゐ)が、
「いや横濱(よこはま)に長(なが)く」と答(こた)へた。
 其日(そのひ)は二人(ふたり)して町(まち)へ買物(かひもの)に出(で)やうと云(い)ふので、御米(およね)は不斷着(ふだんぎ)を脱(ぬ)ぎ更(か)へて、暑(あつ)い所(ところ)をわざ/\新(あた)らしい白足袋(しろたび)迄(まで)穿(は)いたものと知(し)れた。宗助(そうすけ)は折角(せつかく)の出掛(でがけ)を喰(く)ひ留(と)めて、邪魔(じやま)でもした樣(やう)に氣(き)の毒(どく)な思(おもひ)をした。
「なに宅(うち)を持(も)ち立(た)てだものだから、毎日々々(まいにち/\)要(い)るものを新(あた)らしく發見(はつけん)するんで、一週(しう)に一二返(へん)は是非(ぜひ)都(みやこ)迄(まで)買(か)ひ出(だ)しに行(い)かなければならない」と云(い)ひながら安井(やすゐ)は笑(わら)つた。
「途(みち)迄(まで)一所(いつしよ)に出掛(でか)けやう」と宗助(そうすけ)はすぐ立(た)ち上(あ)がつた。序(ついで)に家(うち)の樣子(やうす)を見(み)てくれと安井(やすゐ)の云(い)ふに任(まか)せた。宗助(そうすけ)は次(つぎ)の間(ま)にある亞鉛(とたん)の落(おと)しの付(つ)いた四角(しかく)な火鉢(ひばち)や、黄(き)な安(やす)つぽい色(いろ)をした眞鍮(しんちゆう)の藥鑵(やくわん)や、古(ふる)びた流(なが)しの傍(そば)に置(お)かれた新(あた)らし過(す)ぎる手桶(てをけ)を眺(なが)めて、門(かど)へ出(で)た。安井(やすゐ)は門口(かどぐち)へ錠(ぢやう)を卸(おろ)して、鍵(かぎ)を裏(うら)の家(うち)へ預(あづ)けるとか云(い)つて、走(か)けて行(い)つた。宗助(そうすけ)と御米(およね)は待(ま)つてゐる間(あひだ)、二言(ふたこと)、三言(みこと)、尋常(じんじやう)な口(くち)を利(き)いた。
 宗助(そうすけ)は此(この)三四分間(ふんかん)に取(と)り換(か)はした互(たがひ)の言葉(ことば)を、いまだに覺(おぼ)えてゐた。それは只(たゞ)の男(をとこ)が只(たゞ)の女(をんな)に對(たい)して人間(にんげん)たる親(したし)みを表(あら)はすために、遣(や)り取(と)りする簡略(かんりやく)な言葉(ことば)に過(す)ぎなかつた。形容(けいよう)すれば水(みづ)の樣(やう)に淺(あさ)く淡(あは)いものであつた。彼(かれ)は今日(こんにち)迄(まで)路傍(ろばう)道上(だうじやう)に於(おい)て、何(なに)かの折(をり)に觸(ふ)れて、知(し)らない人(ひと)を相手(あひて)に、是程(これほど)の挨拶(あいさつ)をどの位(くらゐ)繰(く)り返(かへ)して來(き)たか分(わか)らなかつた。
 宗助(そうすけ)は極(きは)めて短(みじ)かい其時(そのとき)の談話(だんわ)を、一々(いち/\)思(おも)ひ浮(うか)べるたびに、其(その)一々(いち/\)が、殆(ほと)んど無着色(むちやくしよく)と云(い)つていゝ程(ほど)に、平淡(へいたん)であつた事(こと)を認(みと)めた。さうして、斯(か)く透明(とうめい)な聲(こゑ)が、二人(ふたり)の未來(みらい)を、何(ど)うしてあゝ眞赤(まつか)に、塗(ぬ)り付(つ)けたかを不思議(ふしぎ)に思(おも)つた。今(いま)では赤(あか)い色(いろ)が日(ひ)を經(へ)て昔(むかし)の鮮(あざや)かさを失(うしな)つてゐた。互(たがひ)を焚(や)き焦(こ)がした※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)(ほのほ)は、自然(しぜん)と變色(へんしよく)して黒(くろ)くなつてゐた。二人(ふたり)の生活(せいくわつ)は斯樣(かやう)にして暗(くら)い中(なか)に沈(しづ)んでゐた。宗助(そうすけ)は過去(くわこ)を振(ふ)り向(む)いて、事(こと)の成行(なりゆき)を逆(ぎやく)に眺(なが)め返(かへ)しては、此(この)淡泊(たんぱく)な挨拶(あいさつ)が、如何(いか)に自分等(じぶんら)の歴史(れきし)を濃(こ)く彩(いろど)つたかを、胸(むね)の中(なか)で飽迄(あくまで)味(あぢ)はひつゝ、平凡(へいぼん)な出來事(できごと)を重大(ぢゆうだい)に變化(へんくわ)させる運命(うんめい)の力(ちから)を恐(おそ)ろしがつた。
 宗助(そうすけ)は二人(ふたり)で門(もん)の前(まへ)に佇(たゝず)んでゐる時(とき)、彼等(かれら)の影(かげ)が折(を)れ曲(まが)つて、半分(はんぶん)許(ばかり)土塀(どべい)に映(うつ)つたのを記憶(きおく)してゐた。御米(およね)の影(かげ)が蝙蝠傘(かうもりがさ)で遮(さへ)ぎられて、頭(あたま)の代(かは)りに不規則(ふきそく)な傘(かさ)の形(かたち)が壁(かべ)に落(お)ちたのを記憶(きおく)してゐた。少(すこ)し傾(かた)むきかけた初秋(はつあき)の日(ひ)が、じり/\二人(ふたり)を照(て)り付(つ)けたのを記憶(きおく)してゐた。御米(およね)は傘(かさ)を差(さ)した儘(まゝ)、それ程(ほど)涼(すゞ)しくもない柳(やなぎ)の下(した)に寄(よ)つた。宗助(そうすけ)は白(しろ)い筋(すぢ)を縁(ふち)に取(と)つた紫(むらさき)の傘(かさ)の色(いろ)と、まだ褪(さ)め切(き)らない柳(やなぎ)の葉(は)の色(いろ)を、一歩(いつぽ)遠退(とほの)いて眺(なが)め合(あ)はした事(こと)を記憶(きおく)してゐた。
 今(いま)考(かんが)へると凡(すべ)てが明(あき)らかであつた。從(したが)つて何等(なんら)の奇(き)もなかつた。二人(ふたり)は土塀(どべい)の影(かげ)から再(ふたゝ)び現(あら)はれた安井(やすゐ)を待(ま)ち合(あ)はして、町(まち)の方(はう)へ歩(ある)いた。歩(ある)く時(とき)、男(をとこ)同志(どうし)は肩(かた)を並(なら)べた。御米(およね)は草履(ぞうり)を引(ひ)いて後(あと)に落(お)ちた。話(はなし)も多(おほ)くは男(をとこ)丈(だけ)で受持(うけも)つた。それも長(なが)くはなかつた。途中(とちゆう)迄(まで)來(き)て宗助(そうすけ)は一人(ひとり)分(わか)れて、自分(じぶん)の家(うち)へ歸(かへ)つたからである。
 けれども彼(かれ)の頭(あたま)には其日(そのひ)の印象(いんしやう)が長(なが)く殘(のこ)つてゐた。家(うち)へ歸(かへ)つて、湯(ゆ)に入(はひ)つて、燈火(ともしび)の前(まへ)に坐(すわ)つた後(のち)にも、折々(をり/\)色(いろ)の着(つ)いた平(ひら)たい畫(ゑ)として、安井(やすゐ)と御米(およね)の姿(すがた)が眼先(めさき)にちらついた。それのみか床(とこ)に入(い)つてからは、妹(いもと)だと云(い)つて紹介(せうかい)された御米(およね)が、果(はた)して本當(ほんたう)の妹(いもと)であらうかと考(かんが)へ始(はじ)めた。安井(やすゐ)に問(と)ひ詰(つ)めない限(かぎ)り、此(この)疑(うたがひ)の解決(かいけつ)は容易(ようい)でなかつたけれども、臆斷(おくだん)はすぐ付(つ)いた。宗助(そうすけ)は此(この)臆斷(おくだん)を許(ゆる)すべき餘地(よち)が、安井(やすゐ)と御米(およね)の間(あひだ)に充分(じゆうぶん)存在(そんざい)し得(う)るだらう位(ぐらゐ)に考(かんが)へて、寐(ね)ながら可笑(をか)しく思(おも)つた。しかも其(その)臆斷(おくだん)に、腹(はら)の中(なか)で※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊(ていくわい)する事(こと)の馬鹿々々(ばか/\)しいのに氣(き)が付(つ)いて、消(け)し忘(わす)れた洋燈(らんぷ)を漸(やうや)くふつと吹(ふ)き消(け)した。
 斯(か)う云(い)ふ記憶(きおく)の、次第(しだい)に沈(しづ)んで痕迹(あとかた)もなくなる迄(まで)、御互(おたがひ)の顏(かほ)を見(み)ずに過(すご)す程(ほど)、宗助(そうすけ)と安井(やすゐ)とは疎遠(そゑん)ではなかつた。二人(ふたり)は毎日(まいにち)學校(がくかう)で出合(であ)ふ許(ばかり)でなく、依然(いぜん)として夏休(なつやす)み前(まへ)の通(とほ)り徃來(わうらい)を續(つゞ)けてゐた。けれども宗助(そうすけ)が行(い)くたびに、御米(およね)は必(かなら)ず挨拶(あいさつ)に出(で)るとは限(かぎ)らなかつた。三返(べん)に一返(ぺん)位(ぐらゐ)、顏(かほ)を見(み)せないで、始(はじめ)ての時(とき)の樣(やう)に、ひつそり隣(とな)りの室(へや)に忍(しの)んでゐる事(こと)もあつた。宗助(そうすけ)は別(べつ)にそれを氣(き)にも留(と)めなかつた。夫(それ)にも拘(かゝ)はらず、二人(ふたり)は漸(やうや)く接近(せつきん)した。幾何(いくばく)ならずして冗談(じようだん)を云(い)ふ程(ほど)の親(したし)みが出來(でき)た。
 其内(そのうち)又(また)秋(あき)が來(き)た。去年(きよねん)と同(おな)じ事情(じじやう)の下(もと)に、京都(きやうと)の秋(あき)を繰(く)り返(かへ)す興味(きようみ)に乏(とぼ)しかつた宗助(そうすけ)は、安井(やすゐ)と御米(およね)に誘(さそ)はれて茸狩(たけがり)に行(い)つた時(とき)、朗(ほが)らかな空氣(くうき)のうちに又(また)新(あた)らしい香(にほひ)を見出(みいだ)した。紅葉(もみぢ)も三人(さんにん)で觀(み)た。嵯峨(さが)から山(やま)を拔(ぬ)けて高雄(たかを)へ歩(ある)く途中(とちゆう)で、御米(およね)は着物(きもの)の裾(すそ)を捲(ま)くつて、長襦袢(ながじゆばん)丈(だけ)を足袋(たび)の上(うへ)迄(まで)牽(ひ)いて、細(ほそ)い傘(かさ)を杖(つゑ)にした。山(やま)の上(うへ)から一町(ちやう)も下(した)に見(み)える流(なが)れに日(ひ)が射(さ)して、水(みづ)の底(そこ)が明(あき)らかに遠(とほ)くから透(す)かされた時(とき)、御米(およね)は
「京都(きやうと)は好(い)い所(ところ)ね」と云(い)つて二人(ふたり)を顧(かへり)みた。それを一所(いつしよ)に眺(なが)めた宗助(そうすけ)にも、京都(きやうと)は全(まつた)く好(い)い所(ところ)の樣(やう)に思(おも)はれた。
 斯(か)う揃(そろ)つて外(そと)へ出(で)た事(こと)も珍(めづ)らしくはなかつた。家(うち)の中(なか)で顏(かほ)を合(あ)はせる事(こと)は猶(なほ)屡(しば/\)あつた。或時(あるとき)宗助(そうすけ)が例(れい)の如(ごと)く安井(やすゐ)を尋(たづ)ねたら、安井(やすゐ)は留守(るす)で、御米(およね)ばかり淋(さみ)しい秋(あき)の中(なか)に取(と)り殘(のこ)された樣(やう)に一人(ひとり)坐(すわ)つてゐた。宗助(そうすけ)は淋(さむ)しいでせうと云(い)つて、つい座敷(ざしき)に上(あが)り込(こ)んで、一(ひと)つ火鉢(ひばち)の兩側(りやうがは)に手(て)を翳(かざ)しながら、思(おも)つたより長話(ながばなし)をして歸(かへ)つた。或時(あるとき)宗助(そうすけ)がぽかんとして、下宿(げしゆく)の机(つくゑ)に倚(よ)りかゝつた儘(まゝ)、珍(めづ)らしく時間(じかん)の使(つか)ひ方(かた)に困(こま)つてゐると、ふと御米(およね)が遣(や)つて來(き)た。其所(そこ)迄(まで)買物(かひもの)に出(で)たから、序(ついで)に寄(よ)つたんだとか云(い)つて、宗助(そうすけ)の薦(すゝ)める通(とほ)り、茶(ちや)を飮(の)んだり菓子(くわし)を食(た)べたり、緩(ゆつ)くり寛(くつ)ろいだ話(はなし)をして歸(かへ)つた。
 斯(こ)んな事(こと)が重(かさ)なつて行(ゆ)くうちに、木(き)の葉(は)が何時(いつ)の間(ま)にか落(お)ちて仕舞(しま)つた。さうして高(たか)い山(やま)の頂(いたゞき)が、ある朝(あさ)眞白(まつしろ)に見(み)えた。吹(ふ)き曝(さら)しの河原(かはら)が白(しろ)くなつて、橋(はし)を渡(わた)る人(ひと)の影(かげ)が細(ほそ)く動(うご)いた。其年(そのとし)の京都(きやうと)の冬(ふゆ)は、音(おと)を立(た)てずに肌(はだ)を透(とほ)す陰忍(いんにん)な質(たち)のものであつた。安井(やすゐ)は此(この)惡性(あくしやう)の寒氣(かんき)に中(あ)てられて、苛(ひど)いインフルエンザに罹(かゝ)つた。熱(ねつ)が普通(ふつう)の風邪(かぜ)よりも餘程(よほど)高(たか)かつたので、始(はじめ)は御米(およね)も驚(おど)ろいたが、それは一時(いちじ)の事(こと)で、すぐ退(ひ)いたには退(ひ)いたから、是(これ)でもう全快(ぜんくわい)と思(おも)ふと、何時迄(いつまで)立(た)つても判然(はつきり)しなかつた。安井(やすゐ)は黐(もち)の樣(やう)な熱(ねつ)に絡(から)み付(つ)かれて、毎日(まいにち)其(その)差(さ)し引(ひ)きに苦(くる)しんだ。
 醫者(いしや)は少(すこ)し呼吸器(こきふき)を冒(をか)されてゐる樣(やう)だからと云(い)つて、切(せつ)に轉地(てんち)を勸(すゝ)めた。安井(やすゐ)は心(こゝろ)ならず押入(おしいれ)の中(なか)の柳行李(やなぎがうり)に麻繩(あさなは)を掛(か)けた。御米(およね)は手提鞄(てさげかばん)に錠(ぢやう)を卸(おろ)した。宗助(そうすけ)は二人(ふたり)を七條(しちでう)迄(まで)見送(みおく)つて、汽車(きしや)が出(で)る迄(まで)室(へや)の中(なか)へ這入(はい)つて、わざと陽氣(やうき)な話(はなし)をした。プラツトフオームへ下(お)りた時(とき)、窓(まど)の内(うち)から、
「遊(あそ)びに來給(きたま)へ」と安井(やすゐ)が云(い)つた。
「何(ど)うぞ是非(ぜひ)」と御米(およね)が言(い)つた。
 汽車(きしや)は血色(けつしよく)の好(い)い宗助(そうすけ)の前(まへ)をそろ/\過(す)ぎて、忽(たちま)ち神戸(かうべ)の方(はう)に向(むか)つて烟(けむり)を吐(は)いた。
 病人(びやうにん)は轉地先(てんちさき)で年(とし)を越(こ)した。繪端書(ゑはがき)は着(つ)いた日(ひ)から毎日(まいにち)の樣(やう)に寄(よ)こした。それに何時(いつ)でも遊(あそ)びに來(こ)いと繰(く)り返(かへ)して書(か)いてない事(こと)はなかつた。御米(およね)の文字(もじ)も一二行(ぎやう)宛(づゝ)は必(かなら)ず交(まじ)つてゐた。宗助(そうすけ)は安井(やすゐ)と御米(およね)から屆(とゞ)いた繪端書(ゑはがき)を別(べつ)にして机(つくゑ)の上(うへ)に重(かさ)ねて置(お)いた。外(そと)から歸(かへ)るとそれが直(すぐ)眼(め)に着(つ)いた。時々(とき/″\)はそれを一枚(まい)宛(づゝ)順(じゆん)に讀(よ)み直(なほ)したり、見直(みなほ)したりした。仕舞(しまい)にもう悉皆(すつかり)癒(なほ)つたから歸(かへ)る。然(しか)し折角(せつかく)此所(こゝ)迄(まで)來(き)ながら、此所(こゝ)で君(きみ)の顏(かほ)を見(み)ないのは遺憾(ゐかん)だから、此(この)手紙(てがみ)が着(つ)き次第(しだい)、一寸(ちよつと)で可(い)いから來(こ)いといふ端書(はがき)が來(き)た。無事(ぶじ)と退屈(たいくつ)を忌(い)む宗助(そうすけ)を動(うご)かすには、この十數言(すうげん)で充分(じゆうぶん)であつた。宗助(そうすけ)は汽車(きしや)を利用(りよう)して其夜(そのよ)のうちに安井(やすゐ)の宿(やど)に着(つ)いた。
 明(あか)るい燈火(ともしび)の下(した)に三人(さんにん)が待設(まちまう)けた顏(かほ)を合(あ)はした時(とき)、宗助(そうすけ)は何(なに)よりも先(ま)づ病人(びやうにん)の色澤(いろつや)の回復(くわいふく)して來(き)た事(こと)に氣(き)が付(つ)いた。立(た)つ前(まへ)よりも却(かへ)つて好(い)い位(くらゐ)に見(み)えた。安井(やすゐ)自身(じしん)もそんな心持(こゝろもち)がすると云(い)つて、わざ/\襯衣(しやつ)の袖(そで)を捲(まく)り上(あ)げて、青筋(あをすぢ)の入(はひ)つた腕(うで)を獨(ひとり)で撫(な)でてゐた。御米(およね)も嬉(うれ)しさうに眼(め)を輝(かゞや)かした。宗助(そうすけ)にはその活溌(くわつぱつ)な目遣(めづかひ)が殊(こと)に珍(めづ)らしく受取(うけと)れた。今迄(いままで)宗助(そうすけ)の心(こゝろ)に映(えい)じた御米(およね)は、色(いろ)と音(おと)の撩亂(れうらん)する裏(なか)に立(た)つてさへ、極(きは)めて落(お)ち付(つ)いてゐた。さうして其(その)落(お)ち付(つ)きの大部分(だいぶぶん)は矢鱈(やたら)に動(うご)かさない眼(め)の働(はた)らきから來(き)たとしか思(おも)はれなかつた。
 次(つぎ)の日(ひ)三人(にん)は表(おもて)へ出(で)て遠(とほ)く濃(こ)い色(いろ)を流(なが)す海(うみ)を眺(なが)めた。松(まつ)の幹(みき)から脂(やに)の出(で)る空氣(くうき)を吸(す)つた。冬(ふゆ)の日(ひ)は短(みじか)い空(そら)を赤裸々(せきらゝ)に横切(よこぎ)つて大人(おとな)しく西(にし)へ落(お)ちた。落(お)ちる時(とき)、低(ひく)い雲(くも)を黄(き)に赤(あか)に竈(かまど)の火(ひ)の色(いろ)に染(そ)めて行(い)つた。風(かぜ)は夜(よる)に入(い)つても起(おこ)らなかつた。たゞ時々(とき/″\)松(まつ)を鳴(な)らして過(す)ぎた。暖(あたゝ)かい好(い)い日(ひ)が宗助(そうすけ)の泊(とま)つてゐる三日(みつか)の間(あひだ)續(つゞ)いた。
 宗助(そうすけ)はもつと遊(あそ)んで行(ゆ)きたいと云(い)つた。御米(およね)はもつと遊(あそ)んで行(ゆ)きませうと云(い)つた。安井(やすゐ)は宗助(そうすけ)が遊(あそ)びに來(き)たから好(い)い天氣(てんき)になつたんだらうと云(い)つた。三人(にん)は又(また)行李(かうり)と鞄(かばん)を携(たづさ)へて京都(きやうと)へ歸(かへ)つた。冬(ふゆ)は何事(なにごと)もなく北風(きたかぜ)を寒(さむ)い國(くに)へ吹(ふ)き遣(や)つた。山(やま)の上(うへ)を明(あき)らかにした斑(まだら)な雪(ゆき)が次第(しだい)に落(お)ちて、後(あと)から青(あを)い色(いろ)が一度(いちど)に芽(め)を吹(ふ)いた。
 宗助(そうすけ)は當時(たうじ)を憶(おも)ひ出(だ)すたびに、自然(しぜん)の進行(しんかう)が其所(そこ)ではたりと留(と)まつて、自分(じぶん)も御米(およね)も忽(たちま)ち化石(くわせき)して仕舞(しま)つたら、却(かへ)つて苦(く)はなかつたらうと思(おも)つた。事(こと)は冬(ふゆ)の下(した)から春(はる)が頭(あたま)を擡(もた)げる時分(じぶん)に始(はじ)まつて、散(ち)り盡(つく)した櫻(さくら)の花(はな)が若葉(わかば)に色(いろ)を易(か)へる頃(ころ)に終(をは)つた。凡(すべ)てが生死(しやうし)の戰(たゝかひ)であつた。青竹(あをだけ)を炙(あぶ)つて油(あぶら)を絞(しぼ)る程(ほど)の苦(くる)しみであつた。大風(おほかぜ)は突然(とつぜん)不用意(ふようい)の二人(ふたり)を吹(ふ)き倒(たふ)したのである。二人(ふたり)が起(お)き上(あ)がつた時(とき)は何處(どこ)も彼所(かしこ)も既(すで)に砂(すな)だらけであつたのである。彼等(かれら)は砂(すな)だらけになつた自分達(じぶんたち)を認(みと)めた。けれども何時(いつ)吹(ふ)き倒(たふ)されたかを知(し)らなかつた。
 世間(せけん)は容赦(ようしや)なく彼等(かれら)に徳義上(とくぎじやう)の罪(つみ)を脊負(しよは)した。然(しか)し彼等(かれら)自身(じしん)は徳義上(とくぎじやう)の良心(りやうしん)に責(せ)められる前(まへ)に、一旦(いつたん)茫然(ばうぜん)として、彼等(かれら)の頭(あたま)が確(たしか)であるかを疑(うたが)つた。彼等(かれら)は彼等(かれら)の眼(め)に、不徳義(ふとくぎ)な男女(なんによ)として耻(は)づべく映(うつ)る前(まへ)に、既(すで)に不合理(ふがふり)な男女(なんによ)として、不可思議(ふかしぎ)に映(うつ)つたのである。其所(そこ)に言譯(いひわけ)らしい言譯(いひわけ)が何(なん)にもなかつた。だから其所(そこ)に云(い)ふに忍(しの)びない苦痛(くつう)があつた。彼等(かれら)は殘酷(ざんこく)な運命(うんめい)が氣紛(きまぐれ)に罪(つみ)もない二人(ふたり)の不意(ふい)を打(う)つて、面白(おもしろ)半分(はんぶん)穽(おとしあな)の中(なか)に突(つ)き落(おと)したのを無念(むねん)に思(おも)つた。
 曝露(ばくろ)の日(ひ)がまともに彼等(かれら)の眉間(みけん)を射(い)たとき、彼等(かれら)は既(すで)に徳義的(とくぎてき)に痙攣(けいれん)の苦痛(くつう)を乘(の)り切(き)つてゐた。彼等(かれら)は蒼白(あをしろ)い額(ひたひ)を素直(すなほ)に前(まへ)に出(だ)して、其所(そこ)に※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)(ほのお)に似(に)た烙印(やきいん)を受(う)けた。さうして無形(むけい)の鎖(くさり)で繋(つな)がれた儘(まゝ)、手(て)を携(たづさ)えて何處(どこ)迄(まで)も、一所(いつしよ)に歩調(ほてう)を共(とも)にしなければならない事(こと)を見出(みいだ)した。彼等(かれら)は親(おや)を棄(す)てた。親類(しんるゐ)を棄(す)てた。友達(ともだち)を棄(す)てた。大(おほ)きく云(い)へば一般(いつぱん)の社會(しやくわい)を棄(す)てた。もしくは夫等(それら)から棄(す)てられた。學校(がくかう)からは無論(むろん)棄(す)てられた。たゞ表向(おもてむき)丈(だけ)は此方(こちら)から退學(たいがく)した事(こと)になつて、形式(けいしき)の上(うへ)に人間(にんげん)らしい迹(あと)を留(とゞ)めた。
 是(これ)が宗助(そうすけ)と御米(およね)の過去(くわこ)であつた。

 此(この)過去(くわこ)を負(お)はされた二人(ふたり)は、廣島(ひろしま)へ行(い)つても苦(くる)しんだ。福岡(ふくをか)へ行(い)つても苦(くる)しんだ。東京(とうきやう)へ出(で)て來(き)ても、依然(いぜん)として重(おも)い荷(に)に抑(おさ)えつけられてゐた。佐伯(さへき)の家(いへ)とは親(した)しい關係(くわんけい)が結(むす)べなくなつた。叔父(をぢ)は死(し)んだ。叔母(をば)と安之助(やすのすけ)はまだ生(い)きてゐるが、生(い)きてゐる間(あひだ)に打(う)ち解(と)けた交際(つきあひ)は出來(でき)ない程(ほど)、もう冷淡(れいたん)の日(ひ)を重(かさ)ねて仕舞(しま)つた。今年(ことし)はまだ歳暮(せいぼ)にも行(い)かなかつた。向(むかふ)からも來(こ)なかつた。家(いへ)に引取(ひきと)つた小六(ころく)さへ腹(はら)の底(そこ)では兄(あに)に敬意(けいい)を拂(はら)つてゐなかつた。二人(ふたり)が東京(とうきやう)へ出(で)たてには、單純(たんじゆん)な小供(こども)の頭(あたま)から、正直(しやうぢき)に御米(およね)を惡(にく)んでゐた。御米(およね)にも宗助(そうすけ)にもそれが能(よ)く分(わか)つてゐた。夫婦(ふうふ)は日(ひ)の前(まへ)に笑(ゑ)み、月(つき)の前(まへ)に考(かんが)へて、靜(しづ)かな年(とし)を送(おく)り迎(むか)へた。今年(ことし)ももう盡(つ)きる間際(まぎは)迄(まで)來(き)た。
 通町(とほりちやう)では暮(くれ)の内(うち)から門並揃(かどなみそろひ)の注連飾(しめかざり)をした。徃來(わうらい)の左右(さいう)に何(なん)十本(ぽん)となく並(なら)んだ、軒(のき)より高(たか)い笹(さゝ)が、悉(こと/″\)く寒(さむ)い風(かぜ)に吹(ふ)かれて、さら/\と鳴(な)つた。宗助(そうすけ)も二尺(しやく)餘(あま)りの細(ほそ)い松(まつ)を買(か)つて、門(もん)の柱(はしら)に釘付(くぎづけ)にした。それから大(おほ)きな赤(あか)い橙(だい/\)を御供(おそなへ)の上(うへ)に載(の)せて、床(とこ)の間(ま)に据(す)ゑた。床(とこ)には如何(いかゞ)はしい墨畫(すみゑ)の梅(うめ)が、蛤(はまぐり)の格好(かつかう)をした月(つき)を吐(は)いて懸(かゝ)つてゐた。宗助(そうすけ)には此(この)變(へん)な軸(ぢく)の前(まへ)に、橙(だい/\)と御供(おそなへ)を置(お)く意味(いみ)が解(わか)らなかつた。
「一體(いつたい)是(こり)や、何(ど)う云(い)ふ了見(れうけん)だね」と自分(じぶん)で飾(かざ)り付(つ)けた物(もの)を眺(なが)めながら、御米(およね)に聞(き)いた。御米(およね)にも毎年(まいとし)斯(か)うする意味(いみ)は頓(とん)と解(わか)らなかつた。
「知(し)らないわ。たゞ左樣(さう)して置(お)けば可(い)いのよ」と云(い)つて臺所(だいどころ)へ去(さ)つた。宗助(そうすけ)は、
「斯(か)うして置(お)いて、詰(つま)り食(く)ふためか」と首(くび)を傾(かたむ)けて御供(おそなへ)の位置(ゐち)を直(なほ)した。
 伸餠(のしもち)は夜業(よなべ)に俎(まないた)を茶(ちや)の間(ま)迄(まで)持(も)ち出(だ)して、みんなで切(き)つた。庖丁(はうちやう)が足(た)りないので、宗助(そうすけ)は始(はじめ)から仕舞(しまひ)迄(まで)手(て)を出(だ)さなかつた。力(ちから)のある丈(だけ)に小六(ころく)が一番(いちばん)多(おほ)く切(き)つた。其(その)代(かは)り不同(ふどう)も一番(いちばん)多(おほ)かつた。中(なか)には見掛(みかけ)の惡(わる)い形(かたち)のものも交(まじ)つた。變(へん)なのが出來(でき)るたびに清(きよ)が聲(こゑ)を出(だ)して笑(わら)つた。小六(ころく)は庖丁(はうちやう)の脊(せ)に濡布巾(ぬれぶきん)を宛(あて)がつて、硬(かた)い耳(みゝ)の所(ところ)を斷(た)ち切(き)りながら、
「格好(かくかう)は何(ど)うでも、食(く)ひさいすれば可(い)いんだ」と、うんと力(ちから)を入(い)れて耳(みゝ)迄(まで)赤(あか)くした。
 その外(ほか)に迎年(げいねん)の支度(したく)としては、小殿原(ごまめ)を熬(い)つて、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)染(にしめ)を重詰(ぢゆうづめ)にする位(くらゐ)なものであつた。大晦日(おほみそか)の夜(よ)に入(い)つて、宗助(そうすけ)は挨拶(あいさつ)旁(かた/″\)屋賃(やちん)を持(も)つて、坂井(さかゐ)の家(いへ)に行(い)つた。わざと遠慮(ゑんりよ)して勝手口(かつてぐち)へ回(まは)ると、摺硝子(すりがらす)へ明(あか)るい灯(ひ)が映(うつ)つて、中(なか)はざわ/\してゐた。上(あが)り框(がまち)に帳面(ちやうめん)を持(も)つて腰(こし)を掛(か)けた掛取(かけとり)らしい小僧(こぞう)が、立(た)つて宗助(そうすけ)に挨拶(あいさつ)をした。茶(ちや)の間(ま)には主人(しゆじん)も細君(さいくん)もゐた。其(その)片隅(かたすみ)に印袢天(しるしばんてん)を着(き)た出入(でいり)のものらしいのが、下(した)を向(む)いて、小(ち)さい輪飾(わかざり)をいくつも拵(こしら)へてゐた。傍(そば)に讓葉(ゆづりは)と裏白(うらじろ)と半紙(はんし)と鋏(はさみ)が置(お)いてあつた。若(わか)い下女(げぢよ)が細君(さいくん)の前(まへ)に坐(すわ)つて、釣錢(つりせん)らしい札(さつ)と銀貨(ぎんくわ)を疊(たゝみ)に並(なら)べてゐた。主人(しゆじん)は宗助(そうすけ)を見(み)て、
「いや何(ど)うも」と云(い)つた。「押(お)し詰(つま)つて嘸(さぞ)御忙(おいそが)しいでせう。此(この)通(とほ)りごた/\です。さあ何(ど)うぞ此方(こちら)へ。何(なん)ですな、御互(おたがひ)に正月(しやうぐわつ)にはもう飽(あ)きましたな。いくら面白(おもしろ)いものでも四十返(ぺん)以上(いじやう)繰(く)り返(かへ)すと厭(いや)になりますね」
 主人(しゆじん)は年(とし)の送迎(そうげい)に煩(わづ)らはしい樣(やう)な事(こと)を云(い)つたが、其(その)態度(たいど)には何處(どこ)と指(さ)してくさ/\した所(ところ)は認(みと)められなかつた。言葉遣(ことばづかひ)は活溌(くわつぱつ)であつた。顏(かほ)はつや/\してゐた。晩食(ばんしよく)に傾(かたむ)けた酒(さけ)の勢(いきほひ)が、まだ頬(ほゝ)の上(うへ)に差(さ)してゐる如(ごと)く思(おも)はれた。宗助(そうすけ)は貰(もら)ひ烟草(たばこ)をして二三十分(ぷん)ばかり話(はな)して歸(かへ)つた。
 家(うち)では御米(およね)が清(きよ)を連(つ)れて湯(ゆ)に行(ゆ)くとか云(い)つて、石鹸入(しやぼんいれ)を手拭(てぬぐひ)に包(くる)んで、留守居(るすゐ)を頼(たの)む夫(をつと)の歸(かへり)を待(ま)ち受(う)けてゐた。
「何(ど)うなすつたの、隨分(ずゐぶん)長(なが)かつたわね」と云(い)つて時計(とけい)を眺(なが)めた。時計(とけい)はもう十時(じ)近(ちか)くであつた。其上(そのうへ)清(きよ)は湯(ゆ)の戻(もど)りに髮結(かみゆひ)の所(ところ)へ回(まは)つて頭(あたま)を拵(こしら)える筈(はず)ださうであつた。閑靜(かんせい)な宗助(そうすけ)の活計(くらし)も大晦日(おほみそか)には夫(それ)相應(さうおう)の事件(じけん)が寄(よ)せて來(き)た。
「拂(はらひ)はもう皆(みんな)濟(す)んだのかい」と宗助(そうすけ)は立(た)ちながら御米(およね)に聞(き)いた。御米(およね)はまだ薪屋(まきや)が一軒(けん)殘(のこ)つてゐると答(こた)へた。
「來(き)たら拂(はら)つて頂戴(ちやうだい)」と云(い)つて懷(ふところ)の中(なか)から汚(よご)れた男持(をとこもち)の紙入(かみいれ)と、銀貨入(ぎんくわいれ)の蟇口(がまぐち)を出(だ)して、宗助(そうすけ)に渡(わた)した。
「小六(ころく)は何(ど)うした」と夫(をつと)はそれを受取(うけとり)ながら云(い)つた。
「先刻(さつき)大晦日(おほみそか)の夜(よる)の景色(けしき)を見(み)て來(く)るつて出(で)て行(い)つたのよ。隨分(ずゐぶん)御苦勞(ごくらう)さまね。此(この)寒(さむ)いのに」と云(い)ふ御米(およね)の後(あと)に追(つ)いて、清(きよ)は大(おほ)きな聲(こゑ)を出(だ)して笑(わら)つた。やがて、
「御若(おわか)いから」と評(ひやう)しながら、勝手口(かつてぐち)へ行(い)つて、御米(およね)の下駄(げた)を揃(そろ)えた。
「何處(どこ)の夜景(やけい)を見(み)る氣(き)なんだ」
「銀座(ぎんざ)から日本橋通(にほんばしどほり)のだつて」
 御米(およね)は其時(そのとき)もう框(かまち)から下(お)り掛(か)けてゐた。すぐ腰障子(こししやうじ)を開(あ)ける音(おと)がした。宗助(そうすけ)は其(その)音(おと)を聞(き)き送(おく)つて、たつた一人(ひとり)火鉢(ひばち)の前(まへ)に坐(すわ)つて、灰(はひ)になる炭(すみ)の色(いろ)を眺(なが)めてゐた。彼(かれ)の頭(あたま)には明日(あした)の日(ひ)の丸(まる)が映(うつ)つた。外(そと)を乘(の)り回(まは)す人(ひと)の絹帽子(きぬばうし)の光(ひかり)が見(み)えた。洋劍(さあべる)の音(おと)だの、馬(うま)の嘶(いなゝき)だの、遣羽子(やりはご)の聲(こゑ)が聞(きこ)えた。彼(かれ)は今(いま)から數時間(すうじかん)の後(のち)又(また)年中(ねんぢゆう)行事(ぎやうじ)のうちで、尤(もつと)も人(ひと)の心(こゝろ)を新(あらた)にすべく仕組(しく)まれた景物(けいぶつ)に出逢(であ)はなければならなかつた。
 陽氣(やうき)さうに見(み)えるもの、賑(にぎや)かさうに見(み)えるものが、幾組(いくくみ)となく彼(かれ)の心(こゝろ)の前(まへ)を通(とほ)り過(す)ぎたが、その中(なか)で彼(かれ)の臂(ひぢ)を把(と)つて、一所(いつしよ)に引張(ひつぱつ)て行(い)かうとするものは一(ひと)つもなかつた。彼(かれ)はたゞ饗宴(きやうえん)に招(まね)かれない局外者(きよくぐわいしや)として、醉(よ)ふ事(こと)を禁(きん)じられた如(ごと)くに、又(また)醉(よ)ふ事(こと)を免(まぬ)かれた人(ひと)であつた。彼(かれ)は自分(じぶん)と御米(およね)の生命(らいふ)を、毎年(まいとし)平凡(へいぼん)な波瀾(はらん)のうちに送(おく)る以上(いじやう)に、面前(まのあたり)大(たい)した希望(きばう)も持(も)つてゐなかつた。かうして忙(いそ)がしい大晦日(おほみそか)に、一人(ひとり)家(いへ)を守(まも)る靜(しづ)かさが、丁度(ちやうど)彼(かれ)の平生(へいぜい)の現實(げんじつ)を代表(だいへう)してゐた。
 御米(およね)は十時過(じすぎ)に歸(かへ)つて來(き)た。何時(いつ)もより光澤(つや)の好(い)い頬(ほゝ)を灯(ひ)に照(て)らして、湯(ゆ)の温(ぬくもり)のまだ拔(ぬ)けない襟(えり)を少(すこ)し開(あ)ける樣(やう)に襦袢(じゆばん)を重(かさ)ねてゐた。長(なが)い襟首(えりくび)が能(よ)く見(み)えた。
「何(ど)うも込(こ)んで込(こ)んで、洗(あら)ふ事(こと)も桶(をけ)を取(と)る事(こと)も出來(でき)ない位(くらゐ)なの」と始(はじ)めて緩(ゆつ)くり息(いき)を吐(つ)いた。
 清(きよ)の歸(かへ)つたのは十一時過(じすぎ)であつた。是(これ)も綺麗(きれい)な頭(あたま)を障子(しやうじ)から出(だ)して、たゞ今(いま)、どうも遲(おそ)くなりましたと挨拶(あいさつ)をした序(ついで)に、あれから二人(ふたり)とか三人(さんにん)とか待(ま)ち合(あは)したと云(い)ふ話(はなし)をした。
 たゞ小六(ころく)丈(だけ)は容易(ようい)に歸(かへ)らなかつた。十二時(じ)を打(う)つたとき、宗助(そうすけ)はもう寐(ね)やうと云(い)ひ出(だ)した。御米(およね)は今日(けふ)に限(かぎ)つて、先(さき)へ寐(ね)るのも變(へん)なものだと思(おも)つて、出來(でき)る丈(だけ)話(はなし)を繋(つな)いでゐた。小六(ころく)は幸(さいはひ)にして間(ま)もなく歸(かへ)つた。日本橋(にほんばし)から銀座(ぎんざ)へ出(で)て夫(それ)から、水天宮(すゐてんぐう)の方(はう)へ廻(まは)つた所(ところ)が、電車(でんしや)が込(こ)んで何臺(なんだい)も待(ま)ち合(あ)はしたために遲(おそ)くなつたといふ言譯(いひわけ)をした。
 白牡丹(はくぼたん)へ這入(はい)つて、景物(けいぶつ)の金時計(きんどけい)でも取(と)らうと思(おも)つたが、何(なに)も買(か)ふものがなかつたので、仕方(しかた)なしに鈴(すゞ)の着(つ)いた御手玉(おてだま)を一箱(ひとはこ)買(か)つて、さうして幾(いく)百となく器械(きかい)で吹(ふ)き上(あげ)られる風船(ふうせん)を一(ひと)つ攫(つか)んだら、金時計(きんどけい)は當(あた)らないで、こんなものが中(あた)つたと云(い)つて、袂(たもと)から倶樂部(くらぶ)洗粉(あらひこ)を一袋(ひとふくろ)出(だ)した。それを御米(およね)の前(まへ)に置(お)いて、
「姉(ねえ)さんに上(あ)げませう」と云(い)つた。それから鈴(すゞ)を着(つ)けた梅(うめ)の花(はな)の形(かたち)に縫(ぬ)つた御手玉(おてだま)を宗助(そうすけ)の前(まへ)に置(お)いて、
「坂井(さかゐ)の御孃(おぢやう)さんにでも御上(おあ)げなさい」と云(い)つた。
 事(こと)に乏(とぼ)しい一小家族(いちせうかぞく)の大晦日(おほみそか)は、それで終(をは)りを告(つ)げた。

 正月(しやうぐわつ)は二日目(ふつかめ)の雪(ゆき)を率(ひきゐ)て注連飾(しめかざり)の都(みやこ)を白(しろ)くした。降(ふ)り已(や)んだ屋根(やね)の色(いろ)が故(もと)に復(かへ)る前(まへ)、夫婦(ふうふ)は亞鉛張(とたんばり)の庇(ひさし)を滑(すべ)り落(おち)る雪(ゆき)の音(おと)に幾遍(いくへん)か驚(おど)ろかされた。夜半(よなか)にはどさと云(い)ふ響(ひゞき)が殊(こと)に甚(はなはだ)しかつた。小路(こうぢ)の泥濘(ぬかるみ)は雨上(あめあが)りと違(ちが)つて一日(いちんち)や二日(ふつか)では容易(ようい)に乾(かわ)かなかつた。外(そと)から靴(くつ)を汚(よご)して歸(かへ)つて來(く)る宗助(そうすけ)が、御米(およね)の顏(かほ)を見(み)るたびに、
「是(こり)や不可(いけ)ない」と云(い)ひながら玄關(げんくわん)へ上(あが)つた。其(その)樣子(やうす)が恰(あたか)も御米(およね)を路(みち)を惡(わる)くした責任者(せきにんしや)と見傚(みな)してゐる風(ふう)に受取(うけと)られるので、御米(およね)は仕舞(しまひ)に、
「何(ど)うも濟(す)みません。本當(ほんたう)に御氣(おき)の毒(どく)さま」と云(い)つて笑(わら)ひ出(だ)した。宗助(そうすけ)は別(べつ)に返(かへ)すべき冗談(じようだん)も有(も)たなかつた。
「御米(およね)此所(こゝ)から出掛(でか)けるには、何處(どこ)へ行(い)くにも足駄(あしだ)を穿(は)かなくつちやならない樣(やう)に見(み)えるだらう。所(ところ)が下町(したまち)へ出(で)ると大違(おほちがひ)だ。どの通(とほり)もどの通(とほり)もから/\で、却(かへ)つて埃(ほこり)が立(た)つ位(くらゐ)だから、足駄(あしだ)なんぞ穿(は)いちや極(きまり)が惡(わる)くつて歩(ある)けやしない。つまり斯(か)う云(い)ふ所(ところ)に住(す)んでゐる我々(われ/\)は一世紀(せいき)がた後(おく)れる事(こと)になるんだね」
 こんな事(こと)を口(くち)にする宗助(そうすけ)は別(べつ)に不足(ふそく)らしい顏(かほ)もしてゐなかつた。御米(およね)も夫(をつと)の鼻(はな)の穴(あな)を潛(くゞ)る烟草(たばこ)の煙(けむ)を眺(なが)める位(くらゐ)な氣(き)で、それを聞(き)いてゐた。
「坂井(さかゐ)さんへ行(い)つて、さう云(い)つて入(い)らつしやいな」と輕(かる)い返事(へんじ)をした。
「さうして屋賃(やちん)でも負(ま)けて貰(もら)ふ事(こと)にしやう」と答(こた)へた儘(まゝ)、宗助(そうすけ)はついに坂井(さかゐ)へは行(い)かなかつた。
 其(その)坂井(さかゐ)には元日(ぐわんじつ)の朝(あさ)早(はや)く名刺(めいし)を投(な)げ込(こ)んだ丈(だけ)で、わざと主人(しゆじん)の顏(かほ)を見(み)ずに門(もん)を出(で)たが、義理(ぎり)のある所(ところ)を一日(いちにち)のうちに略(ほゞ)片付(かたづけ)て夕方(ゆふがた)歸(かへ)つて見(み)ると、留守(るす)の間(あひだ)に、坂井(さかゐ)がちやんと來(き)てゐたので恐縮(きようしゆく)した。二日(ふつか)は雪(ゆき)が降(ふ)つた丈(だけ)で何事(なにごと)もなく過(す)ぎた。三日目(みつかめ)の日暮(ひくれ)に下女(げぢよ)が使(つかひ)に來(き)て、御閑(おひま)ならば、旦那樣(だんなさま)と奧(おく)さまと、夫(それ)から若旦那樣(わかだんなさま)に是非(ぜひ)今晩(こんばん)御遊(おあそ)びに入(い)らつしやる樣(やう)にと云(い)つて歸(かへ)つた。
「何(なに)をするんだらう」と宗助(そうすけ)は疑(うた)ぐつた。
「屹度(きつと)歌加留多(うたがるた)でせう。小供(こども)が多(おほ)いから」と御米(およね)が云(い)つた。「貴方(あなた)行(い)つて入(い)らつしやい」
「折角(せつかく)だから御前(おまへ)行(ゆ)くが好(い)い。己(おれ)は歌留多(かるた)は久(ひさ)しく取(と)らないから駄目(だめ)だ」
「私(わたくし)も久(ひさ)しく取(と)らないから駄目(だめ)ですわ」
 二人(ふたり)は容易(ようい)に行(い)かうとはしなかつた。仕舞(しまひ)に、では若旦那(わかだんな)がみんなを代表(だいへう)して行(い)くが宜(よ)からうといふ事(こと)になつた。
「若旦那(わかだんな)行(い)つて來(こ)い」と宗助(そうすけ)が小六(ころく)に云(い)つた。小六(ころく)は苦笑(にがわら)ひして立(た)つた。夫婦(ふうふ)は若旦那(わかだんな)と云(い)ふ名(な)を小六(ころく)に冠(かむ)らせる事(こと)を大變(たいへん)な滑稽(こつけい)のやうに感(かん)じた。若旦那(わかだんな)と呼(よ)ばれて、苦笑(にがわら)ひする小六(ころく)の顏(かほ)を見(み)ると、等(ひと)しく聲(こゑ)を出(だ)して笑(わら)ひ出(だ)した。小六(ころく)は春(はる)らしい空氣(くうき)の中(うち)から出(で)た。さうして一町(ちやう)程(ほど)の寒(さむ)さを横切(よこぎ)つて、又(また)春(はる)らしい電燈(でんとう)の下(もと)に坐(すわ)つた。
 其晩(そのばん)小六(ころく)は大晦日(おほみそか)に買(か)つた梅(うめ)の花(はな)の御手玉(おてだま)を袂(たもと)に入(い)れて、是(これ)は兄(あに)から差上(さしあ)げますとわざ/\斷(ことわ)つて、坂井(さかゐ)の御孃(おぢやう)さんに贈物(おくりもの)にした。其(その)代(かは)り歸(かへ)りには、福引(ふくびき)に當(あた)つた小(ちひ)さな裸人形(はだかにんぎやう)を同(おな)じ袂(たもと)へ入(い)れて來(き)た。其(その)人形(にんぎやう)の額(ひたひ)が少(すこ)し缺(か)けて、其所(そこ)丈(だけ)墨(すみ)で塗(ぬ)つてあつた。小六(ころく)は眞面目(まじめ)な顏(かほ)をして、是(これ)が袖萩(そではぎ)ださうですと云(い)つて、それを兄夫婦(あにふうふ)の前(まへ)に置(お)いた。何故(なぜ)袖萩(そではぎ)だか夫婦(ふうふ)には分(わか)らなかつた。小六(ころく)には無論(むろん)分(わか)らなかつたのを、坂井(さかゐ)の奧(おく)さんが叮嚀(ていねい)に説明(せつめい)して呉(く)れたさうであるが、夫(それ)でも腑(ふ)に落(お)ちなかつたので、主人(しゆじん)がわざ/\半切(はんきれ)に洒落(しやれ)と本文(ほんもん)を並(なら)べて書(か)いて、歸(かへ)つたら是(これ)を兄(にい)さんと姉(ねえ)さんに御見(おみ)せなさいと云(い)つて渡(わた)したとかいふ話(はなし)であつた。小六(ころく)は袂(たもと)を探(さぐ)つて其(その)書付(かきつけ)を取(と)り出(だ)して見(み)せた。それに「此(この)垣(かき)一重(ひとへ)が黒鐵(くろがね)の」と認(したゝ)めた後(あと)に括弧(くわつこ)をして、(此(この)餓鬼(がき)額(ひたへ)が黒缺(くろがけ)の)とつけ加(くは)へてあつたので、宗助(そうすけ)と御米(およね)は又(また)春(はる)らしい笑(わらひ)を洩(も)らした。
「隨分(ずゐぶん)念(ねん)の入(い)つた趣向(しゆかう)だね。一體(いつたい)誰(だれ)の考(かんがへ)だい」と兄(あに)が聞(き)いた。
「誰(だれ)ですかな」と小六(ころく)は矢(や)つ張(ぱ)り詰(つま)らなさうな顏(かほ)をして、人形(にんぎやう)を其所(そこ)へ放(はふ)り出(だ)した儘(まゝ)、自分(じぶん)の室(へや)に歸(かへ)つた。
 それから二三日(にち)して、たしか七日(なぬか)の夕方(ゆふがた)に、また例(れい)の坂井(さかゐ)の下女(げぢよ)が來(き)て、もし御閑(おひま)なら何(ど)うぞ御話(おはなし)にと、叮嚀(ていねい)に主人(しゆじん)の命(めい)を傳(つた)へた。宗助(そうすけ)と御米(およね)は洋燈(らんぷ)を點(つ)けて丁度(ちやうど)晩食(ばんめし)を始(はじ)めた所(ところ)であつた。宗助(そうすけ)は其時(そのとき)茶碗(ちやわん)を持(も)ちながら、
「春(はる)も漸(やう)やく一段落(いちだんらく)が着(つ)いた」と語(かた)つてゐた。そこへ清(きよ)が坂井(さかゐ)からの口上(こうじやう)を取(と)り次(つ)いだので、御米(およね)は夫(をつと)の顏(かほ)を見(み)て微笑(びせう)した。宗助(そうすけ)は茶碗(ちやわん)を置(お)いて、
「まだ何(なに)か催(もよ)ふしがあるのかい」と少(すこ)し迷惑(めいわく)さうな眉(まゆ)をした。坂井(さかゐ)の下女(げぢよ)に聞(き)いて見(み)ると、別(べつ)に來客(らいきやく)もなければ、何(なん)の支度(したく)もないといふ事(こと)であつた。其上(そのうへ)細君(さいくん)は子供(こども)を連(つ)れて親類(しんるゐ)へ呼(よ)ばれて行(い)つて留守(るす)だといふ話(はなし)迄(まで)した。
「それぢや行(い)かう」と云(い)つて宗助(そうすけ)は出掛(でか)けた。宗助(そうすけ)は一般(いつぱん)の社交(しやかう)を嫌(きら)つてゐた。已(やむ)を得(え)なければ會合(くわいがふ)の席(せき)などへ顏(かほ)を出(だ)す男(をとこ)でなかつた。個人(こじん)としての朋友(ともだち)も多(おほ)くは求(もと)めなかつた。訪問(はうもん)はする暇(ひま)を有(も)たなかつた。たゞ坂井(さかゐ)丈(だけ)は取除(とりのけ)であつた。折々(をり/\)は用(よう)もないのに此方(こつち)からわざ/\出掛(でか)けて行(い)つて、時(とき)を潰(つぶ)して來(く)る事(こと)さへあつた。其(その)癖(くせ)坂井(さかゐ)は世(よ)の中(なか)で尤(もつと)も社交的(しやかうてき)の人(ひと)であつた。此(この)社交的(しやかうてき)な坂井(さかゐ)と、孤獨(こどく)な宗助(そうすけ)が二人(ふたり)寄(よ)つて話(はなし)が出來(でき)るのは、御米(およね)にさへ妙(めう)に見(み)える現象(げんしやう)であつた。坂井(さかゐ)は、
「彼方(あつち)へ行(い)きませう」と云(い)つて、茶(ちや)の間(ま)を通(とほ)り越(こ)して、廊下(らうか)傳(づた)ひに小(ちひ)さな書齋(しよさい)へ入(はひ)つた。其所(そこ)には棕梠(しゆろ)の筆(ふで)で書(か)いた樣(やう)な、大(おほ)きな硬(こは)い字(じ)が五字(じ)ばかり床(とこ)の間(ま)に懸(かゝ)つてゐた。棚(たな)の上(うへ)に見事(みごと)な白(しろ)い牡丹(ぼたん)が活(い)けてあつた。その外(ほか)机(つくゑ)でも蒲團(ふとん)でも悉(こと/″\)く綺麗(きれい)であつた。坂井(さかゐ)は始(はじ)め暗(くら)い入口(いりくち)に立(た)つて、
「さあ何(ど)うぞ」と云(い)ひながら、何所(どこ)かぴちりと捩(ひね)つて、電氣燈(でんきとう)を點(つ)けた。それから、
「一寸(ちよつと)待(ま)ち給(たま)へ」と云(い)つて、燐寸(まつち)で瓦斯(ガス)煖爐(だんろ)を焚(た)いた。瓦斯(ガス)煖爐(だんろ)は室(へや)に比例(ひれい)した極(ごく)小(ちひ)さいものであつた。坂井(さかゐ)はしかる後(のち)蒲團(ふとん)を薦(すゝ)めた。
「是(これ)が僕(ぼく)の洞窟(どうくつ)で、面倒(めんだう)になると此所(こゝ)へ避難(ひなん)するんです」
 宗助(そうすけ)も厚(あつ)い綿(わた)の上(うへ)で、一種(いつしゆ)の靜(しづ)かさを感(かん)じた。瓦斯(ガス)の燃(も)える音(おと)が微(かす)かにして次第(しだい)に脊中(せなか)からほか/\煖(あたゝ)まつて來(き)た。
「此所(こゝ)にゐると、もう何所(どこ)とも交渉(かうせふ)はない。全(まつた)く氣樂(きらく)です。悠(ゆつ)くりして居(ゐ)らつしやい。實際(じつさい)正月(しやうぐわつ)と云(い)ふものは豫想外(よさうぐわい)に煩瑣(うるさ)いものですね。私(わたくし)も昨日(きのふ)迄(まで)で殆(ほとん)どへと/\に降參(かうさん)させられました。新年(しんねん)が停滯(もたれ)てゐるのは實(じつ)に苦(くる)しいですよ。夫(それ)で今日(けふ)の午(ひる)から、とう/\塵世(ぢんせい)を遠(とほ)ざけて、病氣(びやうき)になつてぐつと寐込(ねこ)んぢまいました。今(いま)しがた眼(め)を覺(さ)まして、湯(ゆ)に入(はひ)つて、それから飯(めし)を食(く)つて、烟草(たばこ)を呑(の)んで、氣(き)が付(つ)いて見(み)ると、家内(かない)が子供(こども)を連(つ)れて親類(しんるゐ)へ行(い)つて留守(るす)なんでせう。成程(なるほど)靜(しづ)かな筈(はず)だと思(おも)ひましてね。すると今度(こんど)は急(きふ)に退屈(たいくつ)になつたのです。人間(にんげん)も隨分(ずゐぶん)我儘(わがまゝ)なものですよ。然(しか)しいくら退屈(たいくつ)だつて、此上(このうへ)御目出(おめで)たいものを、見(み)たり聞(き)いたりしちや骨(ほね)が折(を)れますし、又(また)御正月(おしやうぐわつ)らしいものを呑(の)んだり食(く)つたりするのも恐(おそ)れますから、それで、御正月(おしやうぐわつ)らしくない、と云(い)ふと失禮(しつれい)だが、まあ世(よ)の中(なか)とあまり縁(えん)のない貴方(あなた)、と云(い)つてもまだ失敬(しつけい)かも知(し)れないが、つまり一口(ひとくち)に云(い)ふと、超然派(てうぜんは)の一人(いちにん)と話(はな)しがして見(み)たくなつたんで、それでわざ/\使(つかひ)を上(あ)げた樣(やう)な譯(わけ)なんです」と坂井(さかゐ)は例(れい)の調子(てうし)で、悉(こと/″\)くすら/\したものであつた。宗助(そうすけ)は此(この)樂天家(らくてんか)の前(まへ)では、よく自分(じぶん)の過去(くわこ)を忘(わす)れる事(こと)があつた。さうして時(とき)によると、自分(じぶん)がもし順當(じゆんたう)に發展(はつてん)して來(き)たら、斯(こ)んな人物(じんぶつ)になりはしなかつたらうかと考(かんが)へた。
 其所(そこ)へ下女(げぢよ)が三尺(じやく)の狹(せま)い入口(いりぐち)を開(あ)けて這入(はい)つて來(き)たが、改(あら)ためて宗助(そうすけ)に鄭重(ていちよう)な御辭儀(おじぎ)をした上(うへ)、木皿(きざら)の樣(やう)な菓子皿(くわしざら)の樣(やう)なものを、一(ひと)つ前(まへ)に置(お)いた。それから同(おな)じ物(もの)をもう一(ひと)つ主人(しゆじん)の前(まへ)に置(お)いて、一口(ひとくち)もものを云(い)はずに退(さ)がつた。木皿(きざら)の上(うへ)には護謨毬(ごむまり)ほどな大(おほ)きな田舍饅頭(ゐなかまんぢゆう)が一(ひと)つ載(の)せてあつた。それに普通(ふつう)の倍(ばい)以上(いじやう)もあらうと思(おも)はれる楊枝(やうじ)が添(そ)へてあつた。
「何(ど)うです暖(あつた)かい内(うち)に」と主人(しゆじん)が云(い)つたので、宗助(そうすけ)は始(はじ)めて此(この)饅頭(まんぢゆう)の蒸(む)して間(ま)もない新(あた)らしさに氣(き)が付(つ)いた。珍(めづ)らしさうに黄色(きいろ)い皮(かは)を眺(なが)めた。
「いや出來(でき)たてぢやありません」と主人(しゆじん)が又(また)云(い)つた。「實(じつ)は昨夜(さくや)ある所(ところ)へ行(い)つて、冗談(じようだん)半分(はんぶん)に賞(ほ)めたら、御土産(おみやげ)に持(も)つて入(い)らつしやいと云(い)ふから貰(もら)つて來(き)たんです。其時(そのとき)は全(まつた)く暖(あつ)たかだつたんですがね。これは今(いま)上(あ)げやうと思(おも)つて蒸(む)し返(かへ)さしたのです」
 主人(しゆじん)は箸(はし)とも楊枝(やうじ)とも片(かた)の付(つ)かないもので、無雜作(むざふさ)に饅頭(まんぢゆう)を割(わ)つて、むしや/\食(く)ひ始(はじ)めた。宗助(そうすけ)も顰(ひん)に傚(なら)つた。
 其(その)間(あひだ)に主人(しゆじん)は昨夕(ゆうべ)行(い)つた料理屋(れうりや)で逢(あ)つたとか云(い)つて妙(めう)な藝者(げいしや)の話(はなし)をした。此(この)藝者(げいしや)はポツケツト論語(ろんご)が好(す)きで、汽車(きしや)へ乘(の)つたり遊(あそ)びに行(い)つたりするときは、何時(いつ)でもそれを懷(ふところ)にして出(で)るさうであつた。
「それでね孔子(こうし)の門人(もんじん)のうちで、子路(しろ)が一番(いちばん)好(すき)だつて云(い)ふんですがね。其(その)所謂(いはれ)を聞(き)くと、子路(しろ)と云(い)ふ男(をとこ)は、一(ひと)つ何(なに)か教(をす)はつて、それをまだ行(おこな)はないうちに、又(また)新(あた)らしい事(こと)を聞(き)くと苦(く)にする程(ほど)正直(しやうぢき)だからだつて云(い)ふんです。實(じつ)の所(ところ)私(わたし)も子路(しろ)はあまりよく知(し)らないから困(こま)つたが、何(なに)しろ一人(ひとり)好(い)い人(ひと)が出來(でき)て、それと夫婦(ふうふ)にならない前(まへ)に、また新(あた)らしく好(い)い人(ひと)が出來(でき)ると苦(く)になる樣(やう)なものぢやないかつて、聞(き)いて見(み)たんです……」
 主人(しゆじん)は斯(こ)んな事(こと)を甚(はなは)だ氣樂(きらく)さうに述(の)べ立(た)てた。其(その)話(はなし)の樣子(やうす)からして考(かんが)へると、彼(かれ)はのべつに斯(か)ういふ場所(ばしよ)に出入(しつにふ)して、其(その)刺戟(しげき)にはとうに麻痺(まひ)しながら、因習(いんしふ)の結果(けつくわ)、依然(いぜん)として月(つき)に何度(なんど)となく同(おな)じ事(こと)を繰(く)り返(かへ)してゐるらしかつた。よく聞(き)き糺(たゞ)して見(み)ると、しかく平氣(へいき)な男(をとこ)も、時々(とき/″\)は歡樂(くわんらく)の飽滿(はうまん)に疲勞(ひらう)して、書齋(しよさい)のなかで精神(せいしん)を休(やす)める必要(ひつえう)が起(おこ)るのださうであつた。
 宗助(そうすけ)はさういふ方面(はうめん)に丸(まる)で經驗(けいけん)のない男(をとこ)ではなかつたので、強(し)ひて興味(きようみ)を裝(よそほ)ふ必要(ひつえう)もなく、たゞ尋常(じんじやう)な挨拶(あいさつ)をする所(ところ)が、却(かへ)つて主人(しゆじん)の氣(き)に入(い)るらしかつた。彼(かれ)は平凡(へいぼん)な宗助(そうすけ)の言葉(ことば)のなかから、一種(いつしゆ)異彩(いさい)のある過去(くわこ)を覗(のぞ)く樣(やう)な素振(そぶり)を見(み)せた。然(しか)しそちらへは宗助(そうすけ)が進(すゝ)みたがらない痕迹(こんせき)が少(すこ)しでも出(で)ると、すぐ話(はなし)を轉(てん)じた。それは政略(せいりやく)よりも寧(むし)ろ禮讓(れいじやう)からであつた。從(したが)つて宗助(そうすけ)には毫(がう)も不愉快(ふゆくわい)を與(あた)へなかつた。
 其内(そのうち)小六(ころく)の噂(うはさ)が出(で)た。主人(しゆじん)は此(この)青年(せいねん)に就(つ)いて、肉身(にくしん)の兄(あに)が見逃(みのが)す樣(やう)な新(あた)らしい觀察(くわんさつ)を、二三有(も)つてゐた。宗助(そうすけ)は主人(しゆじん)の評語(ひやうご)を、當(あた)ると當(あた)らないとに論(ろん)なく、面白(おもしろ)く聞(き)いた。そのなかに、彼(かれ)は年(とし)に合(あ)はしては複雜(ふくざつ)な實用(じつよう)に適(てき)しない頭(あたま)を有(も)つてゐながら、年(とし)よりも若(わか)い單純(たんじゆん)な性情(せいじやう)を平氣(へいき)で露(あら)はす子供(こども)ぢやないかといふ質問(しつもん)があつた。宗助(そうすけ)はすぐそれを首肯(うけが)つた。然(しか)し學校教育(がくかうけういく)丈(だけ)で社會教育(しやくわいけういく)のないものは、いくら年(とし)を取(と)つても其(その)傾(かたむき)があるだらうと答(こた)へた。
「左樣(さやう)、それと反對(はんたい)で、社會教育(しやくわいけういく)丈(だけ)あつて學校教育(がくかうけういく)のないものは、隨分(ずゐぶん)複雜(ふくざつ)な性情(せいじやう)を發揮(はつき)する代(かは)りに、頭(あたま)は何時(いつ)迄(まで)も小供(こども)ですからね。却(かへ)つて始末(しまつ)が惡(わる)いかも知(し)れない」
 主人(しゆじん)は此所(こゝ)で一寸(ちよつと)笑(わら)つたが、やがて、
「何(ど)うです、私(わたし)の所(ところ)へ書生(しよせい)に寄(よ)こしちや、少(すこ)しは社會教育(しやくわいけういく)になるかも知(し)れない」と云(い)つた。主人(しゆじん)の書生(しよせい)は彼(かれ)の犬(いぬ)が病氣(びやうき)で病院(びやうゐん)へ這入(はい)る一ヶ月(げつ)前(まへ)とかに、徴兵檢査(ちようへいけんさ)に合格(がふかく)して入營(にふえい)したぎり今(いま)では一人(ひとり)もゐないのださうであつた。
 宗助(そうすけ)は小六(ころく)の所置(しよち)を付(つ)ける好機會(かうきくわい)が、求(もと)めざるに先(さき)だつて、春(はる)と共(とも)に自(おのづ)から回(めぐ)つて來(き)たのを喜(よろ)こんだ。同時(どうじ)に、今(いま)迄(まで)世間(せけん)に向(むか)つて、積極的(せききよくてき)に好意(かうい)と親切(しんせつ)を要求(えうきう)する勇氣(ゆうき)を有(も)たなかつた彼(かれ)は、突然(とつぜん)此(この)主人(しゆじん)の申(まを)し出(いで)に逢(あ)つて少(すこ)し間誤(まご)つく位(くらゐ)驚(おど)ろいた。けれども出來(でき)るなら成丈(なりたけ)早(はや)く弟(おとうと)を坂井(さかゐ)に預(あづ)けて置(お)いて、此(この)變動(へんどう)から出(で)る自分(じぶん)の餘裕(よゆう)に、幾分(いくぶん)か安之助(やすのすけ)の補助(ほじよ)を足(た)して、さうして本人(ほんにん)の希望(きばう)通(どほ)り、高等(かうとう)の教育(けういく)を受(う)けさしてやらうといふ分別(ふんべつ)をした。そこで打(う)ち明(あ)けた話(はなし)を腹藏(ふくざう)なく主人(しゆじん)にすると、主人(しゆじん)は成程々々(なるほど/\)と聞(き)いてゐる丈(だけ)であつたが、仕舞(しまひ)に雜作(ざふさ)なく、
「そいつは好(い)いでせう」と云(い)つたので、相談(さうだん)は略(ほゞ)其(その)座(ざ)で纏(まと)まつた。
 宗助(そうすけ)は其所(そこ)で辭(じ)して歸(かへ)れば可(よ)かつたのである。又(また)辭(じ)して歸(かへ)らうとしたのである。所(ところ)が主人(しゆじん)からまあ緩(ゆつ)くりなさいと云(い)つて留(と)められた。主人(しゆじん)は夜(よ)は長(なが)い、まだ宵(よい)だと云(い)つて時計(とけい)迄(まで)出(だ)して見(み)せた。實際(じつさい)彼(かれ)は退屈(たいくつ)らしかつた。宗助(そうすけ)も歸(かへ)れば只(たゞ)寐(ね)るより外(ほか)に用(よう)のない身體(からだ)なので、つい又(また)尻(しり)を据(す)ゑて、濃(こ)い烟草(たばこ)を新(あた)らしく吹(ふ)かし始(はじ)めた。仕舞(しまひ)には主人(しゆじん)の例(れい)に傚(なら)つて、柔(やは)らかい坐蒲團(ざぶとん)の上(うへ)で膝(ひざ)さへ崩(くづ)した。
 主人(しゆじん)は小六(ころく)の事(こと)に關聯(くわんれん)して、
「いや弟(おとゝ)などを有(も)つてゐると、隨分(ずゐぶん)厄介(やくかい)なものですよ。私(わたくし)も一人(ひとり)やくざなのを世話(せわ)をした覺(おぼえ)がありますがね」と云(い)つて、自分(じぶん)の弟(おとうと)が大學(だいがく)にゐるとき金(かね)の掛(かゝ)つた事(こと)抔(など)を、自分(じぶん)が學生時代(がくせいじだい)の質朴(しつぼく)さに比(くら)べて色々(いろ/\)話(はな)した。宗助(そうすけ)は此(この)派出好(はでずき)な弟(おとうと)が、其後(そのご)何(ど)んな徑路(けいろ)を取(と)つて、何(ど)う發展(はつてん)したかを、氣味(きみ)の惡(わる)い運命(うんめい)の意思(いし)を窺(うかゞ)ふ一端(いつたん)として、主人(しゆじん)に聞(き)いて見(み)た。主人(しゆじん)は卒然(そつぜん)
「冒險者(アド※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ンチユアラー)」と、頭(あたま)も尾(しつぽ)もない一句(く)を投(な)げる樣(やう)に吐(は)いた。
 此(この)弟(おとうと)は卒業後(そつげふご)主人(しゆじん)の紹介(せうかい)で、ある銀行(ぎんかう)に這入(はい)つたが、何(なん)でも金(かね)を儲(まう)けなくつちや不可(いけ)ないと口癖(くちくせ)の樣(やう)に云(い)つてゐたさうで、日露戰爭後(にちろせんさうご)間(ま)もなく、主人(しゆじん)の留(と)めるのも聞(き)かずに、大(おほ)いに發展(はつてん)して見(み)たいとかとなへて遂(つひ)に滿洲(まんしう)へ渡(わた)つたのだと云(い)ふ。其所(そこ)で何(なに)を始(はじ)めるかと思(おも)ふと、遼河(れうが)を利用(りよう)して、豆粕大豆(まめかすだいづ)を船(ふね)で下(くだ)す、大仕掛(おほじかけ)な運送業(うんそうげふ)を經營(けいえい)して、忽(たちま)ち失敗(しつぱい)してしまつたのださうである。元(もと)より當人(たうにん)は、資本主(しほんぬし)ではなかつたのだけれども、愈(いよ/\)といふ曉(あかつき)に、勘定(かんぢやう)して見(み)ると大(おほ)きな缺損(けつそん)と事(こと)が極(きま)つたので、無論(むろん)事業(じげふ)は繼續(けいぞく)する譯(わけ)に行(ゆ)かず、當人(たうにん)は必然(ひつぜん)の結果(けつくわ)、地位(ちゐ)を失(うしな)つたぎりになつた。
「それから後(あと)私(わたし)も何(ど)うしたか能(よ)く知(し)らなかつたんですが、其後(そののち)漸(やうや)く聞(き)いて見(み)ると、驚(おど)ろきましたね。蒙古(もうこ)へ這入(はい)つて漂浪(うろつ)いてゐるんです。何處(どこ)迄(まで)山氣(やまぎ)があるんだか分(わか)らないんで、私(わたし)も少々(せう/\)劍呑(けんのん)になつてるんですよ。夫(それ)でも離(はな)れてゐるうちは、まあ何(ど)うかしてゐるだらう位(ぐらゐ)に思(おも)つて放(はふ)つて置(お)きます。時(とき)たま音便(たより)があつたつて、蒙古(もうこ)といふ所(ところ)は、水(みづ)に乏(とぼ)しい所(ところ)で、暑(あつ)い時(とき)には徃來(わうらい)へ泥溝(どぶ)の水(みづ)を撒(ま)くとかね、又(また)はその泥溝(どぶ)の水(みづ)が無(な)くなると、今度(こんど)は馬(うま)の小便(せうべん)を撒(ま)くとか、從(したが)つて甚(はなは)だ臭(くさ)いとか、まあそんな手紙(てがみ)が來(く)る丈(だけ)ですから、――そりあ金(かね)の事(こと)も云(い)つて來(き)ますが、なに東京(とうきやう)と蒙古(もうこ)だから打遣(うちや)つて置(お)けば夫迄(それまで)です。だから離(はな)れてさへゐれば、まあ可(い)いんですが、其奴(そいつ)が去年(きよねん)の暮(くれ)突然(とつぜん)出(で)て來(き)ましてね」
 主人(しゆじん)は思(おも)ひ付(つ)いた樣(やう)に、床(とこ)の柱(はしら)に掛(か)けた、綺麗(きれい)な房(ふさ)の付(つ)いた一種(いつしゆ)の裝飾物(さうしよくぶつ)を取(と)り卸(おろ)した。
 それは錦(にしき)の袋(ふくろ)に這入(はい)つた一尺(しやく)ばかりの刀(かたな)であつた。鞘(さや)は何(なに)とも知(し)れぬ緑色(みどりいろ)の雲母(きらゝ)の樣(やう)なもので出來(でき)てゐて、其(その)所々(ところ/″\)が三ヶ所(しよ)程(ほど)銀(ぎん)で卷(ま)いてあつた。中身(なかみ)は六寸(すん)位(ぐらゐ)しかなかつた。從(した)がつて刄(は)も薄(うす)かつた。けれども鞘(さや)の格好(かつかう)は恰(あたか)も六角(ろくかく)の樫(かし)の棒(ぼう)の樣(やう)に厚(あつ)かつた。よく見(み)ると、柄(つか)の後(うしろ)に細(ほそ)い棒(ぼう)が二本(ほん)並(なら)んで差(さ)さつてゐた。結果(けつくわ)は鞘(さや)を重(かさ)ねて離(はな)れない爲(ため)に銀(ぎん)の鉢卷(はちまき)をしたと同(おな)じであつた。主人(しゆじん)は
「土産(みやげ)にこんなものを持(も)つて來(き)ました。蒙古刀(もうこたう)ださうです」と云(い)ひながら、すぐ拔(ぬ)いて見(み)せた。後(うしろ)に差(さ)してあつた象牙(ざうげ)の樣(やう)な棒(ぼう)も二本(ほん)拔(ぬ)いて見(み)せた。
「是(こり)や箸(はし)ですよ。蒙古人(もうこじん)は始終(しじゆう)是(これ)を腰(こし)へぶら下(さ)げてゐて、いざ御馳走(ごちそう)といふ段(だん)になると、此(この)刀(かたな)を拔(ぬ)いて肉(にく)を切(き)つて、さうして此(この)箸(はし)で傍(そば)から食(く)うんださうです」
 主人(しゆじん)はことさらに刀(かたな)と箸(はし)を兩手(りやうて)に持(も)つて、切(き)つたり食(く)つたりする眞似(まね)をして見(み)せた。宗助(そうすけ)はひたすらに其(その)精巧(せいかう)な作(つく)りを眺(なが)めた。
「まだ蒙古人(もうこじん)の天幕(てんと)に使(つか)ふフエルトも貰(もら)ひましたが、まあ昔(むかし)の毛氈(まうせん)と變(かは)つた所(ところ)もありませんね」
 主人(しゆじん)は蒙古人(もうこじん)の上手(じやうず)に馬(うま)を扱(あつか)ふ事(こと)や、蒙古犬(もうこいぬ)の瘠(や)せて細長(ほそなが)くて、西洋(せいやう)のグレー、ハウンドに似(に)てゐる事(こと)や、彼等(かれら)が支那人(しなじん)のために段々(だん/\)押(お)し狹(せば)められて行(ゆ)く事(こと)や、――凡(すべ)て近頃(ちかごろ)彼地(あつち)から歸(かへ)つたといふ弟(おとうと)に聞(き)いた儘(まゝ)を宗助(そうすけ)に話(はな)した。宗助(そうすけ)は又(また)自分(じぶん)の未(いま)だ曾(かつ)て耳(みゝ)にした事(こと)のない話(はなし)丈(だけ)に、一々(いち/\)少(すく)なからぬ興味(きようみ)を有(も)つてそれを聞(き)いて行(い)つた。其(その)うちに、元來(ぐわんらい)此(この)弟(おとうと)は蒙古(もうこ)で何(なに)をしてゐるのだらうといふ好奇心(かうきしん)が出(で)た。そこで一寸(ちよつと)主人(しゆじん)に尋(たづ)ねて見(み)ると、主人(しゆじん)は、
「冒險者(アド※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ンチユアラー)」と再(ふたゝ)び先刻(さつき)の言葉(ことば)を力強(ちからづよ)く繰(く)り返(かへ)した。「何(なに)をしてゐるか分(わか)らない。私(わたくし)には、牧畜(ぼくちく)をやつてゐます。しかも成功(せいこう)してゐますと云(い)ふんですがね、一向(いつかう)當(あて)にはなりません。今迄(いままで)もよく法螺(ほら)を吹(ふ)いて私(わたくし)を欺(だま)したもんです。それに今度(こんど)東京(とうきやう)へ出(で)て來(き)た用事(ようじ)と云(い)ふのが餘(よ)つ程(ぽど)妙(めう)です。何(なん)とか云(い)ふ蒙古王(もうこわう)のために、金(かね)を二萬圓(まんゑん)許(ばかり)借(か)りたい。もし貸(か)してやらないと自分(じぶん)の信用(しんよう)に關(かゝ)わるつて奔走(ほんそう)してゐるんですからね。その取始(とつぱじめ)に捕(つか)まつたのは私(わたくし)だが、いくら蒙古王(もうこわう)だつて、いくら廣(ひろ)い土地(とち)を抵當(ていたう)にするつたつて、蒙古(もうこ)と東京(とうきやう)ぢや催促(さいそく)さへ出來(でき)やしませんもの。で、私(わたくし)が斷(こと)わると、蔭(かげ)へ廻(まは)つて妻(さい)に、兄(にい)さんはあれだから大(おほ)きな仕事(しごと)が出來(でき)つこないつて、威張(ゐば)つてゐるんです。仕樣(しやう)がない」
 主人(しゆじん)は此所(こゝ)で少(すこ)し笑(わら)つたが、妙(めう)に緊張(きんちやう)した宗助(そうすけ)の顏(かほ)を見(み)て、
「何(ど)うです一遍(ぺん)逢(あ)つて御覽(ごらん)になつちや、わざ/\毛皮(けがは)の着(つ)いただぶ/\したものなんか着(き)て、一寸(ちよつと)面白(おもしろ)いですよ。何(なん)なら御紹介(ごせうかい)しませう。丁度(ちやうど)明後日(あさつて)の晩(ばん)呼(よ)んで飯(めし)を食(く)はせる事(こと)になつてゐるから。――なに引(ひ)つ掛(かゝ)つちや不可(いけ)ませんがね。默(だま)つて向(むかふ)に喋舌(しやべ)らして、聞(き)いてゐる分(ぶん)には、少(すこ)しも危險(きけん)はありません。たゞ面白(おもしろ)い丈(だけ)です」としきりに勸(すゝ)め出(だ)した。宗助(そうすけ)は多少(たせう)心(こゝろ)を動(うご)かした。
「御出(おいで)になるのは御令弟(ごれいてい)丈(だけ)ですか」
「いや外(ほか)に一人(ひとり)弟(おとゝ)の友達(ともだち)で向(むかふ)から一所(いつしよ)に來(き)たものが、來(く)る筈(はず)になつてゐます。安井(やすゐ)とか云(い)つて私(わたくし)はまだ逢(あ)つた事(こと)もない男(をとこ)ですが、弟(おとゝ)が頻(しきり)に私(わたくし)に紹介(せうかい)したがるから、實(じつ)はそれで二人(ふたり)を呼(よ)ぶ事(こと)にしたんです」
 宗助(そうすけ)は其夜(そのよ)蒼(あを)い顏(かほ)をして坂井(さかゐ)の門(もん)を出(で)た。

 宗助(そうすけ)と御米(およね)の一生(いつしやう)を暗(くら)く彩(いろ)どつた關係(くわんけい)は、二人(ふたり)の影(かげ)を薄(うす)くして、幽靈(いうれい)の樣(やう)な思(おもひ)を何所(どこ)かに抱(いだ)かしめた。彼等(かれら)は自己(じこ)の心(こゝろ)のある部分(ぶぶん)に、人(ひと)に見(み)えない結核性(けつかくせい)の恐(おそ)ろしいものが潛(ひそ)んでゐるのを、仄(ほの)かに自覺(じかく)しながら、わざと知(し)らぬ顏(がほ)に互(たがひ)と向(む)き合(あ)つて年(とし)を過(すご)した。
 當初(たうしよ)彼等(かれら)の頭腦(づなう)に痛(いた)く應(こた)へたのは、彼等(かれら)の過(あやまち)が安井(やすゐ)の前途(ぜんと)に及(およ)ぼした影響(えいきやう)であつた。二人(ふたり)の頭(あたま)の中(なか)で沸(わ)き返(かへ)つた凄(すご)い泡(あわ)の樣(やう)なものが漸(やうや)く靜(しづ)まつた時(とき)、二人(ふたり)は安井(やすゐ)も亦(また)半途(はんと)で學校(がくかう)を退(しりぞ)いたといふ消息(せうそく)を耳(みゝ)にした。彼等(かれら)は固(もと)より安井(やすゐ)の前途(ぜんと)を傷(きずつ)けた原因(げんいん)をなしたに違(ちがひ)なかつた。次(つぎ)に安井(やすゐ)が郷里(きやうり)に歸(かへ)つたといふ噂(うはさ)を聞(き)いた。次(つぎ)に病氣(びやうき)に罹(かゝ)つて家(いへ)に寐(ね)てゐるといふ報知(しらせ)を得(え)た。二人(ふたり)はそれを聞(き)くたびに重(おも)い胸(むね)を痛(いた)めた。最後(さいご)に安井(やすゐ)が滿洲(まんしう)に行(い)つたと云(い)ふ音信(たより)が來(き)た。宗助(そうすけ)は腹(はら)の中(なか)で、病氣(びやうき)はもう癒(なほ)つたのだらうかと思(おも)つた。又(また)は滿洲(まんしう)行(ゆき)の方(はう)が嘘(うそ)ではなからうかと考(かんが)へた。安井(やすゐ)は身體(からだ)から云(い)つても、性質(せいしつ)から云(い)つても、滿洲(まんしう)や臺灣(たいわん)に向(む)く男(をとこ)ではなかつたからである。宗助(そうすけ)は出來(でき)る丈(だけ)手(て)を回(まは)して、事(こと)の眞疑(しんぎ)を探(さぐ)つた。さうして、或(あ)る關係(くわんけい)から、安井(やすゐ)がたしかに奉天(ほうてん)にゐる事(こと)を確(たしか)め得(え)た。同時(どうじ)に彼(かれ)の健康(けんかう)で、活溌(くわつぱつ)で、多忙(たばう)である事(こと)も確(たしか)め得(え)た。其時(そのとき)夫婦(ふうふ)は顏(かほ)を見合(みあは)せて、ほつといふ息(いき)を吐(つ)いた。
「まあ可(よ)からう」と宗助(そうすけ)が云(い)つた。
「病氣(びやうき)よりはね」と御米(およね)が云(い)つた。
 二人(ふたり)は夫(それ)から以後(いご)安井(やすゐ)の名(な)を口(くち)にするのを避(さ)けた。考(かんが)へ出(だ)す事(こと)さへも敢(あへ)てしなかつた。彼等(かれら)は安井(やすゐ)を半途(はんと)で退學(たいがく)させ、郷里(きやうり)へ歸(かへ)らせ、病氣(びやうき)に罹(かゝ)らせ、もしくは滿洲(まんしう)へ驅(か)り遣(や)つた罪(つみ)に對(たい)して、如何(いか)に悔恨(くわいこん)の苦(くる)しみを重(かさ)ねても、何(ど)うする事(こと)も出來(でき)ない地位(ちゐ)に立(た)つてゐたからである。
「御米(およね)、御前(おまへ)信仰(しんかう)の心(こゝろ)が起(おこ)つた事(こと)があるかい」と或時(あるとき)宗助(そうすけ)が御米(およね)に聞(き)いた。御米(およね)は、たゞ、
「あるわ」と答(こた)へた丈(だけ)で、すぐ「貴方(あなた)は」と聞(き)き返(かへ)した。
 宗助(そうすけ)は薄笑(うすわら)ひをしたぎり、何(なん)とも答(こた)へなかつた。其代(そのかは)り推(お)して、御米(およね)の信仰(しんかう)に就(つ)いて、詳(くは)しい質問(しつもん)も掛(か)けなかつた。御米(およね)には、それが仕合(しあは)せかも知(し)れなかつた。彼女(かのぢよ)はその方面(はうめん)に、是(これ)といふ程(ほど)判然(はつきり)した凝(こ)り整(とゝの)つた何物(なにもの)も有(も)つてゐなかつたからである。二人(ふたり)は兎角(とかく)して會堂(くわいだう)の腰掛(べんち)にも倚(よ)らず、寺院(じゐん)の門(もん)も潛(くゞ)らずに過(す)ぎた。さうして只(たゞ)自然(しぜん)の惠(めぐみ)から來(く)る月日(つきひ)と云(い)ふ緩和劑(くわんわざい)の力(ちから)丈(だけ)で、漸(やうや)く落(お)ち付(つ)いた。時々(とき/″\)遠(とほ)くから不意(ふい)に現(あらは)れる訴(うつたへ)も、苦(くる)しみとか恐(おそ)れとかいふ殘酷(ざんこく)の名(な)を付(つ)けるには、あまり微(かす)かに、あまり薄(うす)く、あまりに肉體(にくたい)と慾得(よくとく)を離(はな)れ過(す)ぎる樣(やう)になつた。必竟(ひつきやう)ずるに、彼等(かれら)の信仰(しんかう)は、神(かみ)を得(え)なかつたため、佛(ほとけ)に逢(あ)はなかつたため、互(たがひ)を目標(めじるし)として働(はた)らいた。互(たがひ)に抱(だ)き合(あ)つて、丸(まる)い圓(ゑん)を描(ゑが)き始(はじ)めた。彼等(かれら)の生活(せいくわつ)は淋(さみ)しいなりに落(お)ち付(つ)いて來(き)た。其(その)淋(さみ)しい落(お)ち付(つ)きのうちに、一種(いつしゆ)の甘(あま)い悲哀(ひあい)を味(あぢ)はつた。文藝(ぶんげい)にも哲學(てつがく)にも縁(ゑん)のない彼等(かれら)は、此(この)味(あぢ)を舐(な)め盡(つく)しながら、自分(じぶん)で自分(じぶん)の状態(じやうたい)を得意(とくい)がつて自覺(じかく)する程(ほど)の知識(ちしき)を有(も)たなかつたから、同(おな)じ境遇(きやうぐう)にある詩人(しじん)や文人(ぶんじん)などよりも、一層(いつそう)純粹(じゆんすゐ)であつた。――是(これ)が七日(なのか)の晩(ばん)に坂井(さかゐ)へ呼(よ)ばれて、安井(やすゐ)の消息(せうそく)を聞(き)く迄(まで)の夫婦(ふうふ)の有樣(ありさま)であつた。
 其夜(そのよ)宗助(そうすけ)は家(いへ)に歸(かへ)つて御米(およね)の顏(かほ)を見(み)るや否(いな)や、
「少(すこ)し具合(ぐあひ)が惡(わる)いから、すぐ寐(ね)よう」と云(い)つて、火鉢(ひばち)に倚(よ)りながら、歸(かえり)を待(ま)ち受(う)けてゐた御米(およね)を驚(おど)ろかした。
「何(ど)うなすつたの」と御米(およね)は眼(め)を上(あ)げて宗助(そうすけ)を眺(なが)めた。宗助(そうすけ)は其所(そこ)に突(つ)つ立(た)つてゐた。
 宗助(そうすけ)が外(そと)から歸(かへ)つて來(き)て、こんな風(ふう)をするのは、殆(ほと)んど御米(およね)の記憶(きおく)にない位(くらゐ)珍(めづ)らしかつた。御米(およね)は卒然(そつぜん)何(なに)とも知(し)れない恐怖(きようふ)の念(ねん)に襲(おそ)はれた如(ごと)くに立(た)ち上(あ)がつたが、殆(ほと)んど器械的(きかいてき)に、戸棚(とだな)から夜具蒲團(やぐふとん)を取(と)り出(だ)して、夫(をつと)の云(い)ひ付(つ)け通(どほ)り床(とこ)を延(の)べ始(はじ)めた。其(その)間(あひだ)宗助(そうすけ)は矢(や)つ張(ぱ)り懷手(ふところで)をして傍(そば)に立(た)つてゐた。さうして床(とこ)が敷(し)けるや否(いな)や、そこ/\に着物(きもの)を脱(ぬ)ぎ捨(す)てゝ、すぐ其中(そのなか)に潛(もぐ)り込(こ)んだ。御米(およね)は枕元(まくらもと)を離(はな)れ得(え)なかつた。
「何(ど)うなすつたの」
「何(なん)だか、少(すこ)し心持(こゝろもち)が惡(わる)い。しばらく斯(か)うして凝(じ)つとしてゐたら、能(よ)くなるだらう」
 宗助(そうすけ)の答(こたへ)は半(なか)ば夜着(よぎ)の下(した)から出(で)た。其(その)聲(こゑ)が籠(こも)つた樣(やう)に御米(およね)の耳(みゝ)に響(ひゞ)いた時(とき)、御米(およね)は濟(す)まない顏(かほ)をして、枕元(まくらもと)に坐(すわ)つたなり動(うご)かなかつた。
「彼所(あつち)へ行(い)つて居(ゐ)ても可(い)いよ。用(よう)があれば呼(よ)ぶから」
 御米(およね)は漸(やうや)く茶(ちや)の間(ま)へ歸(かへ)つた。
 宗助(そうすけ)は夜具(やぐ)を被(かぶ)つた儘(まゝ)、ひとり硬(かた)くなつて眼(め)を眠(ねむ)つてゐた。彼(かれ)は此(この)暗(くら)い中(なか)で、坂井(さかゐ)から聞(き)いた話(はなし)を何度(なんど)となく反覆(はんぷく)した。彼(かれ)は滿洲(まんしう)にゐる安井(やすゐ)の消息(せうそく)を、家主(やぬし)たる坂井(さかゐ)の口(くち)を通(とほ)して知(し)らうとは、今(いま)が今(いま)迄(まで)豫期(よき)してゐなかつた。もう少(すこ)しの事(こと)で、其(その)安井(やすゐ)と同(おな)じ家主(やぬし)の家(いへ)へ同時(どうじ)に招(まね)かれて、隣(とな)り合(あは)せか、向(むか)ひ合(あは)せに坐(すわ)る運命(うんめい)にならうとは、今夜(こんや)晩食(ばんめし)を濟(すま)す迄(まで)、夢(ゆめ)にも思(おも)ひ掛(が)けなかつた。彼(かれ)は寐(ね)ながら過去(くわこ)二三時間(じかん)の經過(けいくわ)を考(かんが)へて、其(その)クライマツクスが突如(とつじよ)として如何(いか)にも不意(ふい)に起(おこ)つたのを不思議(ふしぎ)に感(かん)じた。且(かつ)悲(かな)しく感(かん)じた。彼(かれ)は是(これ)程(ほど)偶然(ぐうぜん)な出來事(できごと)を借(か)りて、後(うしろ)から斷(ことわ)りなしに足絡(あしがら)を掛(か)けなければ、倒(たふ)す事(こと)の出來(でき)ない程(ほど)強(つよ)いものとは、自分(じぶん)ながら任(にん)じてゐなかつたのである。自分(じぶん)の樣(やう)な弱(よわ)い男(をとこ)を放(はふ)り出(だ)すには、もつと穩當(をんたう)な手段(しゆだん)で澤山(たくさん)でありさうなものだと信(しん)じてゐたのである。
 小六(ころく)から坂井(さかゐ)の弟(おとうと)、それから滿洲(まんしう)、蒙古(もうこ)、出京(しゆつきやう)、安井(やすゐ)、――斯(か)う談話(だんわ)の迹(あと)を辿(たど)れば辿(たど)る程(ほど)、偶然(ぐうぜん)の度(ど)はあまりに甚(はなは)だしかつた。過去(くわこ)の痛恨(つうこん)を新(あらた)にすべく、普通(ふつう)の人(ひと)が滅多(めつた)に出逢(であ)はない此(この)偶然(ぐうぜん)に出逢(であ)ふために、千百人(にん)のうちから撰(え)り出(だ)されなければならない程(ほど)の人物(じんぶつ)であつたかと思(おも)ふと、宗助(そうすけ)は苦(くる)しかつた。又(また)腹立(はらだゝ)しかつた。彼(かれ)は暗(くら)い夜着(よぎ)の中(なか)で熱(あつ)い息(いき)を吐(つ)いた。
 此(この)二三年(ねん)の月日(つきひ)で漸(やうや)く癒(なほ)り掛(か)けた創口(きずぐち)が、急(きふ)に疼(うづ)き始(はじ)めた。疼(うづ)くに伴(つ)れて熱(ほて)つて來(き)た。再(ふたゝ)び創口(きずぐち)が裂(さ)けて、毒(どく)のある風(かぜ)が容赦(ようしや)なく吹(ふ)き込(こ)みさうになつた。宗助(そうすけ)は一層(いつそ)のこと、萬事(ばんじ)を御米(およね)に打(う)ち明(あ)けて、共(とも)に苦(くる)しみを分(わか)つて貰(もら)はうかと思(おも)つた。
「御米(およね)、御米(およね)」と二聲(ふたこゑ)呼(よ)んだ。
 御米(およね)はすぐ枕元(まくらもと)へ來(き)て、上(うへ)から覗(のぞ)き込(こ)むやうに宗助(そうすけ)を見(み)た。宗助(そうすけ)は夜具(やぐ)の襟(えり)から顏(かほ)を全(まつた)く出(だ)した。次(つぎ)の間(ま)の灯(ひ)が御米(およね)の頬(ほゝ)を半分(はんぶん)照(て)らしてゐた。
「熱(あつ)い湯(ゆ)を一杯(ぱい)貰(もら)はう」
 宗助(そうすけ)はとう/\言(い)はうとした事(こと)を言(い)ひ切(き)る勇氣(ゆうき)を失(うしな)つて、嘘(うそ)を吐(つ)いて胡魔化(ごまか)した。
 翌日(よくじつ)宗助(そうすけ)は例(れい)の如(ごと)く起(お)きて、平日(へいじつ)と變(かは)る事(こと)なく食事(しよくじ)を濟(す)ました。さうして給仕(きふじ)をして呉(く)れる御米(およね)の顏(かほ)に、多少(たせう)安心(あんしん)の色(いろ)が見(み)えたのを、嬉(うれ)しい樣(やう)な憐(あは)れな樣(やう)な一種(いつしゆ)の情緒(じやうしよ)を以(もつ)て眺(なが)めた。
「昨夕(ゆうべ)は驚(おど)ろいたわ。何(ど)うなすつたのかと思(おも)つて」
 宗助(そうすけ)は下(した)を向(む)いて茶碗(ちやわん)に注(つ)いだ茶(ちや)を呑(の)んだ丈(だけ)であつた。何(なん)と答(こた)へていゝか、適當(てきたう)な言葉(ことば)を見出(みいだ)さなかつたからである。
 其(その)日(ひ)は朝(あさ)からから風(かぜ)が吹(ふ)き荒(すさ)んで、折々(をり/\)埃(ほこり)と共(とも)に行(ゆ)く人(ひと)の帽(ばう)を奪(うば)つた。熱(ねつ)があると惡(わる)いから、一日(にち)休(やす)んだらと云(い)ふ御米(およね)の心配(しんぱい)を聞(き)き捨(ず)てにして、例(れい)の通(とほ)り電車(でんしや)へ乘(の)つた宗助(そうすけ)は、風(かぜ)の音(おと)と車(くるま)の音(おと)の中(なか)に首(くび)を縮(ちゞ)めて、たゞ一(ひと)つ所(ところ)を見詰(みつ)めてゐた。降(お)りる時(とき)、ひゆうといふ音(おと)がして、頭(あたま)の上(うへ)の針線(はりがね)が鳴(な)つたのに氣(き)が付(つ)いて、空(そら)を見(み)たら、此(この)猛烈(まうれつ)な自然(しぜん)の力(ちから)の狂(くる)ふ間(あひだ)に、何時(いつ)もより明(あき)らかな日(ひ)がのそりと出(で)てゐた。風(かぜ)は洋袴(ずぼん)の股(また)を冷(つめ)たくして過(す)ぎた。宗助(そうすけ)には其(その)砂(すな)を捲(ま)いて向(むか)ふの堀(ほり)の方(はう)へ進(すゝ)んで行(ゆ)く影(かげ)が、斜(なゝ)めに吹(ふ)かれる雨(あめ)の脚(あし)の樣(やう)に判然(はつきり)見(み)えた。
 役所(やくしよ)では用(よう)が手(て)に着(つ)かなかつた。筆(ふで)を持(も)つて頬杖(ほゝづゑ)を突(つ)いた儘(まゝ)何(なに)か考(かんが)へた。時々(とき/″\)は不必要(ふひつえう)な墨(すみ)を妄(みだ)りに磨(す)り卸(お)ろした。烟草(たばこ)は無暗(むやみ)に呑(の)んだ。さうしては、思(おも)ひ出(だ)した樣(やう)に窓硝子(まどがらす)を通(とほ)して外(そと)を眺(なが)めた。外(そと)は見(み)るたびに風(かぜ)の世界(せかい)であつた。宗助(そうすけ)はたゞ早(はや)く歸(かへ)りたかつた。
 漸(やうや)く時間(じかん)が來(き)て家(うち)へ歸(かへ)つたとき、御米(およね)は不安(ふあん)らしく宗助(そうすけ)の顏(かほ)を見(み)て、
「何(ど)うもなくつて」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)は已(やむ)を得(え)ず、何(ど)うもないが、たゞ疲(つか)れたと答(こた)へて、すぐ炬燵(こたつ)の中(なか)へ入(はひ)つたなり、晩食(ばんめし)迄(まで)動(うご)かなかつた。其内(そのうち)風(かぜ)は日(ひ)と共(とも)に落(お)ちた。晝(ひる)の反動(はんどう)で四隣(あたり)は急(きふ)にひつそり靜(しづ)まつた。
「好(い)い案排(あんばい)ね、風(かぜ)が無(な)くなつて。晝間(ひるま)の樣(やう)に吹(ふ)かれると、家(うち)に坐(すわ)つてゐても何(なん)だか氣味(きみ)が惡(わる)くつて仕樣(しやう)がないわ」
 御米(およね)の言葉(ことば)には、魔物(まもの)でもあるかの樣(やう)に、風(かぜ)を恐(おそ)れる調子(てうし)があつた。宗助(そうすけ)は落(お)ち付(つ)いて、
「今夜(こんや)は少(すこ)し暖(あつ)たかい樣(やう)だね。穩(おだ)やかで好(い)い御正月(おしやうぐわつ)だ」と云(い)つた。飯(めし)を濟(す)まして烟草(たばこ)を一本(ぽん)吸(す)ふ段(だん)になつて、突然(とつぜん)、
「御米(およね)、寄席(よせ)へでも行(い)つて見(み)やうか」と珍(めづ)らしく細君(さいくん)を誘(さそ)つた。御米(およね)は無論(むろん)否(いな)む理由(りいう)を有(も)たなかつた。小六(ころく)は義太夫(ぎだいふ)などを聞(き)くより、宅(うち)に居(ゐ)て餠(もち)でも燒(や)いて食(く)つた方(はう)が勝手(かつて)だといふので、留守(るす)を頼(たの)んで二人(ふたり)出(で)た。
 少(すこ)し時間(じかん)が遲(おく)れたので、寄席(よせ)は一杯(いつぱい)であつた。二人(ふたり)は坐蒲團(ざぶとん)を敷(し)く餘地(よち)もない一番(いちばん)後(うしろ)の方(はう)に、立膝(たてひざ)をする樣(やう)に割(わ)り込(こ)まして貰(もら)つた。
「大變(たいへん)な人(ひと)ね」
「矢(や)つ張(ぱ)り春(はる)だから入(はひ)るんだらう」
 二人(ふたり)は小聲(こごゑ)で話(はな)しながら、大(おほ)きな部屋(へや)にぎつしり詰(つま)つた人(ひと)の頭(あたま)を見回(みまは)した。其(その)頭(あたま)のうちで、高座(かうざ)に近(ちか)い前(まへ)の方(はう)は、烟草(たばこ)の烟(けむり)で霞(かす)んでゐる樣(やう)にぼんやり見(み)えた。宗助(そうすけ)には此(この)累々(るゐ/\)たる黒(くろ)いものが、悉(こと/″\)く斯(か)う云(い)ふ娯樂(ごらく)の席(せき)へ來(き)て、面白(おもしろ)く半夜(はんや)を潰(つぶ)す事(こと)の出來(でき)る餘裕(よゆう)のある人(ひと)らしく思(おも)はれた。彼(かれ)は何(ど)の顏(かほ)を見(み)ても羨(うらや)ましかつた。
 彼(かれ)は高座(かうざ)の方(はう)を正視(せいし)して、熱心(ねつしん)に淨瑠璃(じやうるり)を聞(き)かうと力(つと)めた。けれどもいくら力(つと)めても面白(おもしろ)くならなかつた。時々(とき/″\)眼(め)を外(そ)らして、御米(およね)の顏(かほ)を偸(ぬす)み見(み)た。見(み)るたびに御米(およね)の視線(しせん)は正(たゞ)しい所(ところ)を向(む)いてゐた。傍(そば)に夫(をつと)のゐる事(こと)は殆(ほと)んど忘(わす)れて眞面目(まじめ)に聽(き)いてゐるらしかつた。宗助(そうすけ)は羨(うら)やましい人(ひと)のうちに御米(およね)迄(まで)勘定(かんぢやう)しなければならなかつた。
 中入(なかいり)の時(とき)、宗助(そうすけ)は御米(およね)に、
「何(ど)うだ、もう歸(かへ)らうか」と云(い)ひ掛(か)けた。御米(およね)は其(その)唐突(たうとつ)なのに驚(おど)ろかされた。
「厭(いや)なの」と聞(き)いた。宗助(そうすけ)は何(なん)とも答(こた)へなかつた。御米(およね)は、
「何(ど)うでも可(い)いわ」と半分(はんぶん)夫(をつと)の意(い)に忤(さか)らはない樣(やう)な挨拶(あいさつ)をした。宗助(そうすけ)は折角(せつかく)連(つ)れて來(き)た御米(およね)に對(たい)して、却(かへ)つて氣(き)の毒(どく)な心(こゝろ)が起(おこ)つた。とう/\仕舞(しまひ)迄(まで)辛抱(しんばう)して坐(すわ)つてゐた。
 家(うち)へ歸(かへ)ると、小六(ころく)は火鉢(ひばち)の前(まへ)に胡坐(あぐら)を掻(か)いて、脊表紙(せべうし)の反(そ)り返(かへ)るのも構(かま)はずに、手(て)に持(も)つた本(ほん)を上(うへ)から翳(かざ)して讀(よ)んでゐた。鐵瓶(てつびん)は傍(わき)へ卸(おろ)したなり湯(ゆ)は生温(なまぬ)るく冷(さ)めてしまつた。盆(ぼん)の上(うへ)に燒(や)き餘(あま)りの餠(もち)が三切(みきれ)か四片(よきれ)載(の)せてあつた。網(あみ)の下(した)から小皿(こざら)に殘(のこ)つた醤油(しやうゆ)の色(いろ)が見(み)えた。
 小六(ころく)は席(せき)を立(た)つて、
「面白(おもしろ)かつたですか」と聞(き)いた。夫婦(ふうふ)は十分(ぷん)程(ほど)身體(からだ)を炬燵(こたつ)で暖(あたゝ)めた上(うへ)すぐ床(とこ)へ入(はひ)つた。
 翌日(よくじつ)になつても宗助(そうすけ)の心(こゝろ)に落付(おちつき)が來(こ)なかつた事(こと)は、略(ほゞ)前(まへ)の日(ひ)と同(おな)じであつた。役所(やくしよ)が退(ひ)けて、例(れい)の通(とほ)り電車(でんしや)へ乘(の)つたが、今夜(こんや)自分(じぶん)と前後(ぜんご)して、安井(やすゐ)が坂井(さかゐ)の家(いへ)へ客(きやく)に來(く)ると云(い)ふ事(こと)を想像(さうざう)すると、何(ど)うしても、わざ/\其(その)人(ひと)と接近(せつきん)するために、こんな速力(そくりよく)で、家(うち)へ歸(かへ)つて行(い)くのが不合理(ふがふり)に思(おも)はれた。同時(どうじ)に安井(やすゐ)はその後(ご)何(ど)んなに變化(へんくわ)したらうと思(おも)ふと、餘所(よそ)から一目(ひとめ)彼(かれ)の樣子(やうす)が眺(なが)めたくもあつた。
 坂井(さかゐ)が一昨日(をとゝひ)の晩(ばん)、自分(じぶん)の弟(おとゝ)を評(ひやう)して、一口(ひとくち)に「冒險者(アド※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ンチユアラー)」と云(い)つた、その音(おん)が今(いま)宗助(そうすけ)の耳(みゝ)に高(たか)く響(ひゞ)き渡(わた)つた。宗助(そうすけ)は此(この)一語(いちご)の中(なか)に、あらゆる自暴(じばう)と自棄(じき)と、不平(ふへい)と憎惡(ぞうを)と、亂倫(らんりん)と悖徳(はいとく)と、盲斷(まうだん)と決行(けつかう)とを想像(さうざう)して、是等(これら)の一角(いつかく)に觸(ふ)れなければならない程(ほど)の坂井(さかゐ)の弟(おとうと)と、それと利害(りがい)を共(とも)にすべく滿洲(まんしう)から一所(いつしよ)に出(で)て來(き)た安井(やすゐ)が、如何(いか)なる程度(ていど)の人物(じんぶつ)になつたかを、頭(あたま)の中(なか)で描(ゑが)いて見(み)た。描(ゑが)かれた畫(ゑ)は無論(むろん)冒險者(アド※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ンチユアラー)の字面(じめん)の許(ゆる)す範圍内(はんゐない)で、尤(もつと)も強(つよ)い色彩(しきさい)を帶(お)びたものであつた。
 斯樣(かやう)に、墮落(だらく)の方面(はうめん)をとくに誇張(こちやう)した冒險者(アド※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ンチユアラー)を頭(あたま)の中(なか)で拵(こしら)え上(あげ)た宗助(そうすけ)は、其(その)責任(せきにん)を自身(じしん)一人(ひとり)で全(まつた)く負(お)はなければならない樣(やう)な氣(き)がした。彼(かれ)はたゞ坂井(さかゐ)へ客(きやく)に來(く)る安井(やすゐ)の姿(すがた)を一目(ひとめ)見(み)て、其(その)姿(すがた)から、安井(やすゐ)の今日(こんにち)の人格(じんかく)を髣髴(はうふつ)したかつた。さうして、自分(じぶん)の想像(さうざう)程(ほど)彼(かれ)は墮落(だらく)してゐないといふ慰藉(ゐしや)を得(え)たかつた。
 彼(かれ)は坂井(さかゐ)の家(いへ)の傍(そば)に立(た)つて、向(むかふ)に知(し)れずに、他(ひと)を窺(うかが)ふ樣(やう)な便利(べんり)な場所(ばしよ)はあるまいかと考(かんが)へた。不幸(ふかう)にして、身(み)を隱(かく)すべきところを思(おも)ひ付(つ)き得(え)なかつた。若(も)し日(ひ)が落(お)ちてから來(く)るとすれば、此方(こちら)が認(みと)められない便宜(べんぎ)があると同時(どうじ)に、暗(くら)い中(なか)を通(とほ)る人(ひと)の顏(かほ)の分(わか)らない不都合(ふつがふ)があつた。
 そのうち電車(でんしや)が神田(かんだ)へ來(き)た。宗助(そうすけ)は何時(いつ)もの通(とほ)り其所(そこ)で乘(の)り換(か)えて家(うち)の方(はう)へ向(む)いて行(ゆ)くのが苦痛(くつう)になつた。彼(かれ)の神經(しんけい)は一歩(ぽ)でも安井(やすゐ)の來(く)る方角(はうがく)へ近(ちか)づくに堪(た)えなかつた。安井(やすゐ)を餘所(よそ)ながら見(み)たいといふ好奇心(かうきしん)は、始(はじ)めから左程(さほど)強(つよ)くなかつた丈(だけ)に、乘換(のりかへ)の間際(まぎは)になつて、全(まつた)く抑(おさ)えつけられてしまつた。彼(かれ)は寒(さむ)い町(まち)を多(おほ)くの人(ひと)の如(ごと)く歩(ある)いた。けれども多(おほ)くの人(ひと)の如(ごと)くに判然(はつきり)した目的(もくてき)は有(も)つてゐなかつた。其内(そのうち)店(みせ)に灯(ひ)が點(つ)いた。電車(でんしや)も燈火(あかり)を照(と)もした。宗助(そうすけ)はある牛肉店(ぎうにくてん)に上(あ)がつて酒(さけ)を呑(の)み出(だ)した。一本(ぽん)は夢中(むちゆう)に呑(の)んだ。二本目(ほんめ)は無理(むり)に呑(の)んだ。三本目(ぼんめ)にも醉(よ)へなかつた。宗助(そうすけ)は脊(せ)を壁(かべ)に持(も)たして、醉(よ)つて相手(あひて)のない人(ひと)の樣(やう)な眼(め)をして、ぼんやり何處(どこ)かを見詰(みつ)めてゐた。
 時刻(じこく)が時刻(じこく)なので、夕飯(ゆふめし)を食(く)ひに來(く)る客(きやく)は入(い)れ代(かは)り立(た)ち代(かは)り來(き)た。其(その)多(おほ)くは用辯的(ようべんてき)に飮食(いんしよく)を濟(す)まして、さつさと勘定(かんぢやう)をして出(で)て行(ゆ)く丈(だけ)であつた。宗助(そうすけ)は周圍(しうゐ)のざわつく中(なか)に默然(もくねん)として、他(ひと)の倍(ばい)も三倍(ばい)も時(とき)を過(す)ごした如(ごと)くに感(かん)じた末(すゑ)、遂(つひ)に坐(すわ)り切(き)れずに席(せき)を立(た)つた。
 表(おもて)は左右(さいう)から射(さ)す店(みせ)の灯(ひ)で明(あき)らかであつた。軒先(のきさき)を通(とほ)る人(ひと)は、帽(ばう)も衣裝(いしやう)もはつきり物色(ぶつしよく)する事(こと)が出來(でき)た。けれども廣(ひろ)い寒(さむ)さを照(て)らすには餘(あま)りに弱過(よわす)ぎた。夜(よる)は戸毎(こごと)の瓦斯(がす)と電燈(でんとう)を閑却(かんきやく)して、依然(いぜん)として暗(くら)く大(おほ)きく見(み)えた。宗助(そうすけ)は此(この)世界(せかい)と調和(てうわ)する程(ほど)な黒味(くろみ)の勝(か)つた外套(ぐわいたう)に包(つゝ)まれて歩(ある)いた。其時(そのとき)彼(かれ)は自分(じぶん)の呼吸(こきふ)する空氣(くうき)さへ灰色(はひいろ)になつて、肺(はい)の中(なか)の血管(けつくわん)に觸(ふ)れる樣(やう)な氣(き)がした。
 彼(かれ)は此(この)晩(ばん)に限(かぎ)つて、ベルを鳴(な)らして忙(いそ)がしさうに眼(め)の前(まへ)を徃(い)つたり來(き)たりする電車(でんしや)を利用(りよう)する考(かんがへ)が起(おこ)らなかつた。目的(もくてき)を有(も)つて途(みち)を行(ゆ)く人(ひと)と共(とも)に、拔目(ぬけめ)なく足(あし)を運(はこ)ばす事(こと)を忘(わす)れた。しかも彼(かれ)は根(ね)の締(しま)らない人間(にんげん)として、かく漂浪(へうらう)の雛形(ひながた)を演(えん)じつゝある自分(じぶん)の心(こゝろ)を省(かへり)みて、もし此(この)状態(じやうたい)が長(なが)く續(つゞ)いたら何(ど)うしたら可(よ)からうと、ひそかに自分(じぶん)の未來(みらい)を案(あん)じ煩(わづら)つた。今日(こんにち)迄(まで)の經過(けいくわ)から推(お)して、凡(すべ)ての創口(きずぐち)を癒合(ゆがふ)するものは時日(じじつ)であるといふ格言(かくげん)を、彼(かれ)は自家(じか)の經驗(けいけん)から割(わ)り出(だ)して、深(ふか)く胸(むね)に刻(きざ)み付(つ)けてゐた。それが一昨日(をとゝひ)の晩(ばん)にすつかり崩(くづ)れたのである。
 彼(かれ)は黒(くろ)い夜(よる)の中(なか)を歩(あ)るきながら、たゞ何(ど)うかして此(この)心(こゝろ)から逃(のが)れ出(で)たいと思(おも)つた。其(その)心(こゝろ)は如何(いか)にも弱(よわ)くて落付(おちつ)かなくつて、不安(ふあん)で不定(ふてい)で、度胸(どきよう)がなさ過(す)ぎて希知(けち)に見(み)えた。彼(かれ)は胸(むね)を抑(おさ)えつける一種(いつしゆ)の壓迫(あつぱく)の下(もと)に、如何(いか)にせば、今(いま)の自分(じぶん)を救(すく)ふ事(こと)が出來(でき)るかといふ實際(じつさい)の方法(ほうはふ)のみを考(かんが)へて、其(その)壓迫(あつぱく)の原因(げんいん)になつた自分(じぶん)の罪(つみ)や過失(くわしつ)は全(まつた)く此(この)結果(けつくわ)から切(き)り放(はな)して仕舞(しま)つた。其時(そのとき)の彼(かれ)は他(ひと)の事(こと)を考(かんが)へる餘裕(よゆう)を失(うしな)つて、悉(こと/″\)く自己(じこ)本位(ほんゐ)になつてゐた。今迄(いままで)は忍耐(にんたい)で世(よ)を渡(わた)つて來(き)た。是(これ)からは積極的(せききよくてき)に人世觀(じんせいくわん)を作(つく)り易(か)へなければならなかつた。さうして其(その)人世觀(じんせいくわん)は口(くち)で述(の)べるもの、頭(あたま)で聞(き)くものでは駄目(だめ)であつた。心(こゝろ)の實質(じつしつ)が太(ふと)くなるものでなくては駄目(だめ)であつた。
 彼(かれ)は行(ゆ)く/\口(くち)の中(なか)で何遍(なんべん)も宗教(しゆうけう)の二字(じ)を繰(く)り返(かへ)した。けれども其(その)響(ひゞき)は繰(く)り返(かへ)す後(あと)からすぐ消(き)えて行(い)つた。攫(つか)んだと思(おも)ふ烟(けむり)が、手(て)を開(あ)けると何時(いつ)の間(ま)にか無(な)くなつてゐる樣(やう)に宗教(しゆうけう)とは果敢(はか)ない文字(もんじ)であつた。
 宗教(しゆうけう)と關聯(くわんれん)して宗助(そうすけ)は坐禪(ざぜん)といふ記臆(きおく)を呼(よ)び起(おこ)した。昔(むか)し京都(きやうと)にゐた時分(じぶん)彼(かれ)の級友(きふいう)に相國寺(しやうこくじ)へ行(い)つて坐禪(ざぜん)をするものがあつた。當時(たうじ)彼(かれ)は其(その)迂濶(うくわつ)を笑(わら)つてゐた。「今(いま)の世(よ)に……」と思(おも)つてゐた。其(その)級友(きふいう)の動作(どうさ)が別(べつ)に自分(じぶん)と違(ちが)つた所(ところ)もない樣(やう)なのを見(み)て、彼(かれ)は益(ます/\)馬鹿々々(ばか/\)しい氣(き)を起(おこ)した。
 彼(かれ)は今更(いまさら)ながら彼(かれ)の級友(きふいう)が、彼(かれ)の侮蔑(ぶべつ)に値(あたひ)する以上(いじやう)のある動機(どうき)から、貴重(きちよう)な時間(じかん)を惜(をし)まずに、相國寺(しやうこくじ)へ行(い)つたのではなからうかと考(かんが)へ出(だ)して、自分(じぶん)の輕薄(けいはく)を深(ふか)く耻(は)ぢた。もし昔(むかし)から世俗(せぞく)で云(い)ふ通(とほ)り安心(あんじん)とか立命(りつめい)とかいふ境地(きやうち)に、坐禪(ざぜん)の力(ちから)で達(たつ)する事(こと)が出來(でき)るならば、十日(とをか)や二十日(はつか)役所(やくしよ)を休(やす)んでも構(かま)はないから遣(や)つて見(み)たいと思(おも)つた。けれども彼(かれ)は斯道(このみち)にかけては全(まつた)くの門外漢(もんぐわいかん)であつた。從(したが)つて、此(これ)より以上(いじやう)明瞭(めいれう)な考(かんがへ)も浮(うか)ばなかつた。
 漸(やうや)く家(うち)へ辿(たど)り着(つ)いた時(とき)、彼(かれ)は例(れい)の樣(やう)な御米(およね)と、例(れい)の樣(やう)な小六(ころく)と、それから例(れい)の樣(やう)な茶(ちや)の間(ま)と座敷(ざしき)と洋燈(らんぷ)と箪笥(たんす)を見(み)て、自分(じぶん)丈(だけ)が例(れい)にない状態(じやうたい)の下(もと)に、此(この)四五時間(じかん)を暮(くら)してゐたのだといふ自覺(じかく)を深(ふか)くした。火鉢(ひばち)には小(ちひ)さな鍋(なべ)が掛(か)けてあつて、其(その)葢(ふた)の隙間(すきま)から湯氣(ゆげ)が立(た)つてゐた。火鉢(ひばち)の傍(わき)には彼(かれ)の常(つね)に坐(すわ)る所(ところ)に、何時(いつ)もの坐蒲團(ざぶとん)を敷(し)いて、其前(そのまへ)にちやんと膳立(ぜんだて)がしてあつた。
 宗助(そうすけ)は糸底(いとぞこ)を上(うへ)にしてわざと伏(ふ)せた自分(じぶん)の茶碗(ちやわん)と、此(この)二三年來(ねんらい)朝晩(あさばん)使(つか)ひ慣(な)れた木(き)の箸(はし)を眺(なが)めて、
「もう飯(めし)は食(く)はないよ」と云(い)つた。御米(およね)は多少(たせう)不本意(ふほんい)らしい風(ふう)もした。
「おや左樣(さう)。餘(あんま)り遲(おそ)いから、大方(おほかた)何處(どこ)かで召上(めしや)がつたらうとは思(おも)つたけれど、若(も)し未(ま)だゞと不可(いけ)ないから」と云(い)ひながら、布巾(ふきん)で鍋(なべ)の耳(みゝ)を撮(つま)んで、土瓶敷(どびんしき)の上(うへ)に卸(おろ)した。それから清(きよ)を呼(よ)んで膳(ぜん)を臺所(だいどころ)へ退(さ)げさした。
 宗助(そうすけ)は斯(か)ういふ風(ふう)に、何(なん)ぞ事故(じこ)が出來(でき)て、役所(やくしよ)の退出(ひけ)からすぐ外(ほか)へ回(まは)つて遲(おそ)くなる場合(ばあひ)には、何時(いつ)でも其(その)顛末(てんまつ)の大略(たいりやく)を、歸宅(きたく)早々(さう/\)御米(およね)に話(はな)すのを例(れい)にしてゐた。御米(およね)もそれを聞(き)かないうちは氣(き)が濟(す)まなかつた。けれども今夜(こんや)に限(かぎ)つて彼(かれ)は神田(かんだ)で電車(でんしや)を降(お)りた事(こと)も、牛肉屋(ぎうにくや)へ上(あが)つた事(こと)も、無理(むり)に酒(さけ)を呑(の)んだ事(こと)も、丸(まる)で話(はな)したくなかつた。何(なに)も知(し)らない御米(およね)は又(また)平常(へいじやう)の通(とほ)り無邪氣(むじやき)に夫(それ)から夫(それ)へと聞(き)きたがつた。
「何(なに)別(べつ)に是(これ)といふ理由(わけ)もなかつたのだけれども、――つい彼所(あすこ)いらで牛(ぎう)が食(く)ひたくなつた丈(だけ)の事(こと)さ」
「さうして御腹(おなか)を消化(こな)す爲(ため)に、わざ/\此所(こゝ)迄(まで)歩(あ)るいて入(い)らしつたの」
「まあ、左樣(さう)だ」
 御米(およね)は可笑(をか)しさうに笑(わら)つた。宗助(そうすけ)は寧(むし)ろ苦(くる)しかつた。しばらくして、
「留守(るす)に坂井(さかゐ)さんから迎(むか)ひに來(こ)なかつたかい」と聞(き)いた。
「いゝえ、何故(なぜ)」
「一昨日(をとゝひ)の晩(ばん)行(い)つたとき、御馳走(ごちそう)するとか云(い)つてゐたからさ」
「また?」
 御米(およね)は少(すこ)し呆(あき)れた顏(かほ)をした。宗助(そうすけ)は夫(それ)なり話(はなし)を切(き)り上(あ)げて寐(ね)た。頭(あたま)の中(なか)をざわ/\何(なに)か通(とほ)つた。時々(とき/″\)眼(め)を開(あ)けて見(み)ると、例(れい)の如(ごと)く洋燈(らんぷ)が暗(くら)くして床(とこ)の間(ま)の上(うへ)に載(の)せてあつた。御米(およね)はさも心地好(こゝちよ)ささうに眠(ねむ)つてゐた。つい此(この)間(あひだ)迄(まで)は、自分(じぶん)の方(はう)が好(よ)く寐(ね)られて、御米(およね)は幾晩(いくばん)も睡眠(すゐみん)の不足(ふそく)に惱(なや)まされたのであつた。宗助(そうすけ)は眼(め)を閉(と)ぢながら、明(あき)らかに次(つぎ)の間(ま)の時計(とけい)の音(おと)を聞(き)かなければならない今(いま)の自分(じぶん)を更(さら)に心苦(こゝろぐる)しく感(かん)じた。其(その)時計(とけい)は最初(さいしよ)は幾(いく)つも續(つゞ)けざまに打(う)つた。それが過(す)ぎると、びんと只(たゞ)一(ひと)つ鳴(な)つた。其(その)濁(にご)つた音(おと)が彗星(はうきぼし)の尾(を)の樣(やう)にぼうと宗助(そうすけ)の耳朶(みゝたぶ)にしばらく響(ひゞ)いてゐた。次(つぎ)には二(ふた)つ鳴(な)つた。甚(はなは)だ淋(さみ)しい音(おと)であつた。宗助(そうすけ)は其間(そのあひだ)に、何(なん)とかして、もつと鷹揚(おうやう)に生(い)きて行(い)く分別(ふんべつ)をしなければならないと云(い)ふ決心(けつしん)丈(だけ)をした。三時(じ)は朦朧(もうろう)として聞(きこ)えた樣(やう)な聞(きこ)えない樣(やう)なうちに過(す)ぎた。四時(よじ)、五時(じ)、六時(じ)は丸(まる)で知(し)らなかつた。たゞ世(よ)の中(なか)が膨(ふく)れた。天(てん)が波(なみ)を打(う)つて伸(の)び且(か)つ縮(ちゞ)んだ。地球(ちきう)が糸(いと)で釣(つ)るした毬(まり)の如(ごと)くに大(おほ)きな弧線(こせん)を描(ゑが)いて空間(くうかん)に搖(うご)いた。凡(すべ)てが恐(おそ)ろしい魔(ま)の支配(しはい)する夢(ゆめ)であつた。七時過(じすぎ)に彼(かれ)ははつとして、此(この)夢(ゆめ)から覺(さ)めた。御米(およね)が何時(いつ)もの通(とほ)り微笑(びせう)して枕元(まくらもと)に曲(かゞ)んでゐた。冴(さ)えた日(ひ)は黒(くろ)い世(よ)の中(なか)を疾(とく)に何處(どこ)かへ追(お)ひ遣(や)つてゐた。

 宗助(そうすけ)は一封(いつぷう)の紹介状(せうかいじやう)を懷(ふところ)にして山門(さんもん)を入(はひ)つた。彼(かれ)はこれを同僚(どうれう)の知人(ちじん)の某(なにがし)から得(え)た。其(その)同僚(どうれう)は役所(やくしよ)の徃復(わうふく)に、電車(でんしや)の中(なか)で洋服(やうふく)の隱袋(かくし)から菜根譚(さいこんたん)を出(だ)して讀(よ)む男(をとこ)であつた。かう云(い)ふ方面(はうめん)に趣味(しゆみ)のない宗助(そうすけ)は、固(もと)より菜根譚(さいこんたん)の何物(なにもの)なるかを知(し)らなかつた。ある日(ひ)一(ひと)つ車(くるま)の腰掛(こしかけ)に膝(ひざ)を並(なら)べて乘(の)つた時(とき)、それは何(なん)だと聞(き)いて見(み)た。同僚(どうれう)は小形(こがた)の黄色(きいろ)い表紙(へうし)を宗助(そうすけ)の前(まへ)に出(だ)して、こんな妙(めう)な本(ほん)だと答(こた)へた。宗助(そうすけ)は重(かさ)ねて何(ど)んな事(こと)が書(か)いてあるかと尋(たづ)ねた。其時(そのとき)同僚(どうれう)は、一口(ひとくち)に説明(せつめい)の出來(でき)る格好(かつかう)な言葉(ことば)を有(も)つてゐなかつたと見(み)えて、まあ禪學(ぜんがく)の書物(しよもつ)だらうといふ樣(やう)な妙(めう)な挨拶(あいさつ)をした。宗助(そうすけ)は同僚(どうれう)から聞(き)いた此(この)返事(へんじ)を能(よ)く覺(おぼ)えてゐた。
 紹介状(せうかいじやう)を貰(もら)ふ四五日前(しごんちまへ)、彼(かれ)は此(この)同僚(どうれう)の傍(そば)へ行(い)つて、君(きみ)は禪學(ぜんがく)を遣(や)るのかと、突然(とつぜん)質問(しつもん)を掛(か)けた。同僚(どうれう)は強(つよ)く緊張(きんちやう)した宗助(そうすけ)の顏(かほ)を見(み)て頗(すこぶ)る驚(おど)ろいた樣子(やうす)であつたが、いや遣(や)らない、たゞ慰(なぐさ)み半分(はんぶん)にあんな書物(しよもつ)を讀(よ)む丈(だけ)だと、すぐ逃(に)げて仕舞(しま)つた。宗助(そうすけ)は多少(たせう)失望(しつばう)に弛(ゆる)んだ下唇(したくちびる)を垂(た)れて自分(じぶん)の席(せき)に歸(かへ)つた。
 其日(そのひ)歸(かへ)りがけに、彼等(かれら)は又(また)同(おな)じ電車(でんしや)に乘(の)り合(あ)はした。先刻(さつき)宗助(そうすけ)の樣子(やうす)を、氣(き)の毒(どく)に觀察(くわんさつ)した同僚(どうれう)は、彼(かれ)の質問(しつもん)の奧(おく)に雜談(ざつだん)以上(いじやう)のある意味(いみ)を認(みと)めたものと見(み)えて、前(まへ)よりはもつと親切(しんせつ)に其(その)方面(はうめん)の話(はなし)をして聞(き)かした。然(しか)し自分(じぶん)は未(いま)だ嘗(かつ)て參禪(さんぜん)といふ事(こと)をした經驗(けいけん)がないと自白(じはく)した。もし詳(くは)しい話(はなし)が聞(き)きたければ、幸(さいは)ひ自分(じぶん)の知(し)り合(あひ)によく鎌倉(かまくら)へ行(ゆ)く男(をとこ)があるから紹介(せうかい)してやらうと云(い)つた。宗助(そうすけ)は車(くるま)の中(なか)で其(その)人(ひと)の名前(なまへ)と番地(ばんち)を手帳(てちやう)に書(か)き留(と)めた。さうして次(つぎ)の日(ひ)同僚(どうれう)の手紙(てがみ)を持(も)つてわざ/\回(まは)り道(みち)をして訪問(はうもん)に出掛(でか)けた。宗助(そうすけ)の懷(ふところ)にした書状(しよじやう)は其(その)折(をり)席上(せきじやう)で認(したゝ)めて貰(もら)つたものであつた。
 役所(やくしよ)は病氣(びやうき)になつて十日(とをか)許(ばかり)休(やす)む事(こと)にした。御米(およね)の手前(てまへ)も矢張(やは)り病氣(びやうき)だと取(と)り繕(つくろ)つた。
「少(すこ)し腦(なう)が惡(わる)いから、一週間(しうかん)程(ほど)役所(やくしよ)を休(やす)んで遊(あす)んで來(く)るよ」と云(い)つた。御米(およね)は此頃(このごろ)の夫(をつと)の樣子(やうす)の何處(どこ)かに異状(いじやう)があるらしく思(おも)はれるので、内心(ないしん)では始終(しじゆう)心配(しんぱい)してゐた矢先(やさき)だから、平生(へいぜい)※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)(に)え切(き)らない宗助(そうすけ)の果斷(くわだん)を喜(よろこ)んだ。けれども其(その)突然(とつぜん)なのにも全(まつた)く驚(おど)ろいた。
「遊(あそ)びに行(い)くつて、何處(どこ)へ入(い)らつしやるの」と眼(め)を丸(まる)くしない許(ばかり)に聞(き)いた。
「矢張(やつぱり)鎌倉邊(かまくらへん)が好(よ)からうと思(おも)つてる」と宗助(そうすけ)は落(お)ち付(つ)いて答(こた)へた。地味(ぢみ)な宗助(そうすけ)とハイカラな鎌倉(かまくら)とは殆(ほと)んど縁(えん)の遠(とほ)いものであつた。突然(とつぜん)二(ふた)つのものを結(むす)び付(つ)けるのは滑稽(こつけい)であつた。御米(およね)も微笑(びせう)を禁(きん)じ得(え)なかつた。
「まあ御金持(おかねもち)ね。私(わたし)も一所(いつしよ)に連(つ)れてつて頂戴(ちやうだい)」と云(い)つた。宗助(そうすけ)は愛(あい)すべき細君(さいくん)のこの冗談(じようだん)を味(あぢは)ふ餘裕(よゆう)を有(も)たなかつた。眞面目(まじめ)な顏(かほ)をして、
「そんな贅澤(ぜいたく)な所(ところ)へ行(い)くんぢやないよ。禪寺(ぜんでら)へ留(と)めて貰(もら)つて、一週間(しうかん)か十日(とをか)、たゞ靜(しづ)かに頭(あたま)を休(やす)めて見(み)る丈(だけ)の事(こと)さ。それも果(はた)して好(よ)くなるか、ならないか分(わか)らないが、空氣(くうき)の可(い)い所(ところ)へ行(い)くと、頭(あたま)には大變(たいへん)違(ちが)ふと皆(みんな)云(い)ふから」と辯解(べんかい)した。
「そりや違(ちが)ひますわ。だから行(い)つて入(い)らつしやいとも。今(いま)のは本當(ほんたう)の冗談(じようだん)よ」
 御米(およね)は善良(ぜんりやう)な夫(をつと)に調戯(からか)つたのを、多少(たせう)濟(す)まない樣(やう)に感(かん)じた。宗助(そうすけ)は其(その)翌日(あくるひ)すぐ貰(もら)つて置(お)いた紹介状(せうかいじやう)を懷(ふところ)にして、新橋(しんばし)から汽車(きしや)に乘(の)つたのである。
 其(その)紹介状(せうかいじやう)の表(おもて)には釋宜道(しやくぎだう)樣(さま)と書(か)いてあつた。
「此(この)間(あひだ)迄(まで)侍者(じしや)をしてゐましたが、此頃(このごろ)では塔頭(たつちゆう)にある古(ふる)い庵室(あんしつ)に手(て)を入(い)れて、其所(そこ)に住(す)んでゐるとか聞(き)きました。何(ど)うですか、まあ着(つ)いたら尋(たづ)ねて御覽(ごらん)なさい。庵(あん)の名(な)はたしか一窓庵(いつさうあん)でした」と書(か)いて呉(く)れる時(とき)、わざ/\注意(ちゆうい)があつたので、宗助(そうすけ)は禮(れい)を云(い)つて手紙(てがみ)を受取(うけと)りながら、侍者(じしや)だの塔頭(たつちゆう)だのといふ自分(じぶん)には全(まつた)く耳(みゝ)新(あた)らしい言葉(ことば)の説明(せつめい)を聞(き)いて歸(かへ)つたのである。
 山門(さんもん)を入(はひ)ると、左右(さいう)には大(おほ)きな杉(すぎ)があつて、高(たか)く空(そら)を遮(さへぎ)つてゐるために、路(みち)が急(きふ)に暗(くら)くなつた。其(その)陰氣(いんき)な空氣(くうき)に觸(ふ)れた時(とき)、宗助(そうすけ)は世(よ)の中(なか)と寺(てら)の中(なか)との區別(くべつ)を急(きふ)に覺(さと)つた。靜(しづ)かな境内(けいだい)の入口(いりくち)に立(た)つた彼(かれ)は、始(はじ)めて風邪(ふうじや)を意識(いしき)する場合(ばあひ)に似(に)た一種(いつしゆ)の惡寒(さむけ)を催(もよほ)した。
 彼(かれ)はまづ眞直(まつすぐ)に歩(あ)るき出(だ)した。左右(さいう)にも行手(いくて)にも、堂(だう)の樣(やう)なものや、院(ゐん)の樣(やう)なものがちよい/\見(み)えた。けれども人(ひと)の出入(でいり)は一切(いつさい)なかつた。悉(こと/″\)く寂寞(せきばく)として錆(さ)び果(は)てゝゐた。宗助(そうすけ)は何處(どこ)へ行(い)つて、宜道(ぎだう)のゐる所(ところ)を教(をし)へて貰(もら)はうかと考(かんが)へながら、誰(だれ)も通(とほ)らない路(みち)の眞中(まんなか)に立(た)つて四方(しはう)を見回(みまは)した。
 山(やま)の裾(すそ)を切(き)り開(ひら)いて、一二丁(ちやう)奧(おく)へ上(のぼ)る樣(やう)に建(た)てた寺(てら)だと見(み)えて、後(うしろ)の方(はう)は樹(き)の色(いろ)で高(たか)く塞(ふさ)がつてゐた。路(みち)の左右(さいう)も山續(やまつゞき)か丘續(をかつゞき)の地勢(ちせい)に制(せい)せられて、決(けつ)して平(たひら)ではない樣(やう)であつた。其(その)小高(こだか)い所々(ところ/″\)に、下(した)から石段(いしだん)を疊(たゝ)んで、寺(てら)らしい門(もん)を高(たか)く構(かま)へたのが二三軒目(げんめ)に着(つ)いた。平地(ひらち)に垣(かき)を繞(めぐ)らして、點在(てんざい)してゐるのは、幾多(いくら)もあつた。近寄(ちかよ)つて見(み)ると、何(いづ)れも門瓦(もんがはら)の下(した)に、院號(ゐんがう)やら庵號(あんがう)やらが額(がく)にして懸(か)けてあつた。
 宗助(そうすけ)は箔(はく)の剥(は)げた古(ふる)い額(がく)を一二枚(まい)讀(よ)んで歩(ある)いたが、不圖(ふと)一窓庵(いつさうあん)から先(さき)へ探(さが)し出(だ)して、もし其所(そこ)に手紙(てがみ)の名宛(なあて)の坊(ばう)さんがゐなかつたら、もつと奧(おく)へ行(い)つて尋(たづ)ねる方(はう)が便利(べんり)だらうと思(おも)ひ付(つ)いた。それから逆戻(ぎやくもど)りをして塔頭(たつちゆう)を一々(いち/\)調(しら)べに懸(かゝ)ると、一窓庵(いつさうあん)は山門(さんもん)を這入(はい)るや否(いな)やすぐ右手(みぎて)の方(はう)の高(たか)い石段(いしだん)の上(うへ)にあつた。丘外(をかはず)れなので、日當(ひあたり)の好(い)い、からりとした玄關(げんくわん)先(さき)を控(ひか)えて、後(うしろ)の山(やま)の懷(ふところ)に暖(あたゝ)まつてゐる樣(やう)な位置(ゐち)に冬(ふゆ)を凌(しの)ぐ氣色(けしき)に見(み)えた。宗助(そうすけ)は玄關(げんくわん)を通(とほ)り越(こ)して庫裡(くり)の方(はう)から土間(どま)に足(あし)を入(い)れた。上(あが)り口(くち)の障子(しやうじ)の立(た)てゝある所(ところ)迄(まで)來(き)て、たのむ/\と二三度(ど)呼(よ)んで見(み)た。然(しか)し誰(だれ)も出(で)て來(き)て呉(く)れるものはなかつた。宗助(そうすけ)はしばらく其所(そこ)に立(た)つた儘(まゝ)、中(なか)の樣子(やうす)を窺(うかゞ)つてゐた。何時(いつ)迄(まで)立(た)つてゐても音沙汰(おとさた)がないので、宗助(そうすけ)は不思議(ふしぎ)な思(おも)ひをして、又(また)庫裡(こり)を出(で)て門(もん)の方(はう)へ引返(ひきかへ)した。すると石段(いしだん)の下(した)から剃立(そりたて)の頭(あたま)を青(あを)く光(ひか)らした坊(ばう)さんが上(あが)つて來(き)た。年(とし)はまだ二十四五としか見(み)えない若(わか)い色白(いろじろ)の顏(かほ)であつた。宗助(そうすけ)は門(もん)の扉(とびら)の所(ところ)に待(ま)ち合(あ)はして、
「宜道(ぎだう)さんと仰(おつ)しやる方(かた)は此方(こちら)に御出(おいで)でせうか」と聞(き)いた。
「私(わたくし)が宜道(ぎだう)です」と若(わか)い僧(そう)は答(こた)へた。宗助(そうすけ)は少(すこ)し驚(おど)ろいたが、又(また)嬉(うれ)しくもあつた。すぐ懷中(くわいちゆう)から例(れい)の紹介状(せうかいじやう)を出(だ)して渡(わた)すと、宜道(ぎだう)は立(た)ちながら封(ふう)を切(き)つて、其(その)場(ば)で讀(よ)み下(くだ)した。やがて手紙(てがみ)を卷(ま)き返(かへ)して封筒(ふうとう)へ入(い)れると、
「能(よ)うこそ」と云(い)つて、叮嚀(ていねい)に會釋(ゑしやく)したなり、先(さき)に立(た)つて宗助(そうすけ)を導(みちび)いた。二人(ふたり)は庫裡(くり)に下駄(げた)を脱(ぬ)いで、障子(しやうじ)を開(あけ)て内(うち)へ這入(はい)つた。其所(そこ)には大(おほ)きな圍爐裏(ゐろり)が切(き)つてあつた。宜道(ぎだう)は鼠木綿(ねずみもめん)の上(うへ)に羽織(はお)つてゐた薄(うす)い粗末(そまつ)な法衣(ころも)を脱(ぬ)いで釘(くぎ)に懸(か)けて、
「御寒(おさむ)う御座(ござ)いませう」と云(い)つて、圍爐裏(ゐろり)の中(なか)に深(ふか)く埋(い)けてあつた炭(すみ)を灰(はひ)の下(した)から掘(ほ)り出(だ)した。
 此(この)僧(そう)は若(わか)いに似合(にあ)はず甚(はなは)だ落付(おちつ)いた話振(はなしぶり)をする男(をとこ)であつた。低(ひく)い聲(こゑ)で何(なに)か受答(うけこた)へをした後(あと)で、にやりと笑(わら)ふ具合(ぐあひ)などは、丸(まる)で女(をんな)の樣(やう)な感(かん)じを宗助(そうすけ)に與(あた)へた。宗助(そうすけ)は心(こゝろ)のうちに、この青年(せいねん)がどういふ機縁(きえん)の元(もと)に、思(おも)ひ切(き)つて頭(あたま)を剃(そ)つたものだらうかと考(かんが)へて、其(その)樣子(やうす)のしとやかな所(ところ)を、何(なん)となく憐(あは)れに思(おも)つた。
「大變(たいへん)御靜(おしづか)な樣(やう)ですが、今日(けふ)はどなたも御留守(おるす)なんですか」
「いえ、今日(けふ)に限(かぎ)らず、何時(いつ)も私(わたくし)一人(ひとり)です。だから用(よう)のあるときは構(かま)はず明(あ)け放(はな)しにして出(で)ます。今(いま)も一寸(ちよつと)下(した)迄(まで)行(い)つて用(よう)を足(た)して參(まゐ)りました。それがため折角(せつかく)御出(おいで)の所(ところ)を失禮(しつれい)致(いた)しました」
 宜道(ぎだう)は此時(このとき)改(あらた)めて遠來(ゑんらい)の人(ひと)に對(たい)して自分(じぶん)の不在(ふざい)を詫(わ)びた。此(この)大(おほ)きな庵(あん)を、たつた一人(ひとり)で預(あづ)かつてゐるさへ、相應(さうおう)に骨(ほね)が折(を)れるのに、其上(そのうへ)に厄介(やくかい)が増(ま)したら嘸(さぞ)迷惑(めいわく)だらうと、宗助(そうすけ)は少(すこ)し氣(き)の毒(どく)な色(いろ)を外(ほか)に動(うご)かした。すると宜道(ぎだう)は、
「いえ、些(ちつ)とも御遠慮(ごゑんりよ)には及(およ)びません。道(みち)の爲(ため)で御座(ござ)いますから」と床(ゆか)しい事(こと)を云(い)つた。さうして、目下(もくか)自分(じぶん)の所(ところ)に、宗助(そうすけ)の外(ほか)に、まだ一人(ひとり)世話(せわ)になつてゐる居士(こじ)のある旨(むね)を告(つ)げた。此(この)居士(こじ)は山(やま)へ來(き)てもう二年(ねん)になるとかいふ話(はなし)であつた。宗助(そうすけ)はそれから二三日(にち)して、始(はじ)めて此(この)居士(こじ)を見(み)たが、彼(かれ)は剽輕(へうきん)な羅漢(らかん)の樣(やう)な顏(かほ)をしてゐる氣樂(きらく)さうな男(をとこ)であつた。細(ほそ)い大根(だいこ)を三四本(ほん)ぶら下(さ)げて、今日(けふ)は御馳走(ごちそう)を買(か)つて來(き)たと云(い)つて、それを宜道(ぎだう)に※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)(に)てもらつて食(く)つた。宜道(ぎだう)も宗助(そうすけ)も其(その)相伴(しやうばん)をした。此(この)居士(こじ)は顏(かほ)が坊(ばう)さんらしいので、時々(とき/″\)僧堂(そうだう)の衆(しゆう)に交(まじ)つて、村(むら)の御齋(おとき)抔(など)に出掛(でか)ける事(こと)があるとか云(い)つて宜道(ぎだう)が笑(わら)つてゐた。
 其外(そのほか)俗人(ぞくじん)で山(やま)へ修業(しゆげふ)に來(き)てゐる人(ひと)の話(はなし)も色々(いろ/\)聞(き)いた。中(なか)に筆墨(ふですみ)を商(あきな)ふ男(をとこ)がゐた。脊中(せなか)へ荷(に)を一杯(いつぱい)負(しよ)つて、二十日(はつか)なり三十日(さんじふにち)なり、其所(そこ)等(ら)中(ぢゆう)回(まは)つて歩(ある)いて、略(ほゞ)賣(う)り盡(つく)してしまふと山(やま)へ歸(かへ)つて來(き)て坐禪(ざぜん)をする。それから少時(しばらく)して食(く)ふものがなくなると、又(また)筆墨(ふですみ)を脊(せ)に載(の)せて行商(ぎやうしやう)に出(で)る。彼(かれ)は此(この)兩面(りやうめん)の生活(せいくわつ)を、殆(ほと)んど循環(じゆんくわん)小數(せうすう)の如(ごと)く繰(く)り返(かへ)して、飽(あ)く事(こと)を知(し)らないのだと云(い)ふ。
 宗助(そうすけ)は一見(いつけん)こだわりの無(な)ささうな是等(これら)の人(ひと)の月日(つきひ)と、自分(じぶん)の内面(ないめん)にある今(いま)の生活(せいくわつ)とを比(くら)べて、其(その)懸隔(けんかく)の甚(はなは)だしいのに驚(おど)ろいた。そんな氣樂(きらく)な身分(みぶん)だから坐禪(ざぜん)が出來(でき)るのか、或(あるひ)は坐禪(ざぜん)をした結果(けつくわ)さういふ氣樂(きらく)な心(こゝろ)になれるのか迷(まよ)つた。
「氣樂(きらく)では不可(いけ)ません。道樂(だうらく)に出來(でき)るものなら、二十年(ねん)も三十年(ねん)も雲水(うんすゐ)をして苦(くる)しむものはありません」と宜道(ぎだう)は云(い)つた。
 彼(かれ)は坐禪(ざぜん)をするときの一般(いつぱん)の心得(こゝろえ)や、老師(らうし)から公案(こうあん)の出(で)る事(こと)や、其(その)公案(こうあん)に一生懸命(いつしやうけんめい)噛(かじ)り付(つ)いて、朝(あさ)も晩(ばん)も晝(ひる)も夜(よる)も噛(かじ)りつゞけに噛(かじ)らなくては不可(いけ)ない事(こと)やら、凡(すべ)て今(いま)の宗助(そうすけ)には心元(こゝろもと)なく見(み)える助言(じよごん)を與(あた)へた末(すゑ)、
「御室(おへや)へ御案内(ごあんない)しませう」と云(い)つて立(た)ち上(あ)がつた。
 圍爐裏(ゐろり)の切(き)つてある所(ところ)を出(で)て、本堂(ほんだう)を横(よこ)に拔(ぬ)けて、其(その)外(はづ)れにある六疊(でふ)の座敷(ざしき)の障子(しやうじ)を縁(えん)から開(あ)けて、中(なか)へ案内(あんない)された時(とき)、宗助(そうすけ)は始(はじ)めて一人(ひとり)遠(とほ)くに來(き)た心持(こゝろもち)がした。けれども頭(あたま)の中(なか)は、周圍(しうゐ)の幽靜(いうせい)な趣(おもむき)と反照(はんせう)するためか、却(かへ)つて町(まち)にゐるときよりも動搖(どうえう)した。
 約(やく)一時間(じかん)もしたと思(おも)ふ頃(ころ)宜道(ぎだう)の足音(あしおと)が又(また)本堂(ほんだう)の方(はう)から響(ひゞ)いた。
「老師(らうし)が相見(しやうけん)になるさうで御座(ござ)いますから、御都合(ごつがふ)が宜(よろ)しければ參(まゐ)りませう」と云(い)つて、丁寧(ていねい)に敷居(しきゐ)の上(うへ)に膝(ひざ)を突(つ)いた。
 二人(ふたり)は又(また)寺(てら)を空(から)にして連立(つれだ)つて出(で)た。山門(さんもん)の通(とほ)りを略(ほゞ)一丁(ちやう)程(ほど)奧(おく)へ來(く)ると、左側(ひだりがは)に蓮池(はすいけ)があつた。寒(さむ)い時分(じぶん)だから池(いけ)の中(なか)はたゞ薄濁(うすにご)りに淀(よど)んでゐる丈(だけ)で、少(すこ)しも清淨(しやうじやう)な趣(おもむき)はなかつたが、向側(むかふがは)に見(み)える高(たか)い石(いし)の崖外(がけはづ)れ迄(まで)、縁(えん)に欄干(らんかん)のある座敷(ざしき)が突(つ)き出(だ)して居(ゐ)る所(ところ)が、文人畫(ぶんじんぐわ)にでもありさうな風致(ふうち)を添(そ)へた。
「彼所(あすこ)が老師(らうし)の住(す)んでゐられる所(ところ)です」と宜道(ぎだう)は比較的(ひかくてき)新(あた)らしい其(その)建物(たてもの)を指(ゆびさ)した。
 二人(ふたり)は蓮池(はすいけ)の前(まへ)を通(とほ)り越(こ)して、五六級(きふ)の石段(いしだん)を上(のぼ)つて、其(その)正面(しやうめん)にある大(おほ)きな伽藍(がらん)の屋根(やね)を仰(あふ)いだまゝ直(すぐ)左(ひだ)りへ切(き)れた。玄關(げんくわん)へ差(さ)しかゝつた時(とき)、宜道(ぎだう)は
「一寸(ちよつと)失禮(しつれい)します」と云(い)つて、自分(じぶん)丈(だけ)裏口(うらぐち)の方(はう)へ回(まは)つたが、やがて奧(おく)から出(で)て來(き)て、
「さあ何(ど)うぞ」と案内(あんない)をして、老師(らうし)のゐる所(ところ)へ伴(つ)れて行(い)つた。
 老師(らうし)といふのは五十格好(がつかう)に見(み)えた。赭黒(あかぐろ)い光澤(つや)のある顏(かほ)をしてゐた。其(その)皮膚(ひふ)も筋肉(きんにく)も悉(ことご)とく緊(しま)つて、何所(どこ)にも怠(おこたり)のない所(ところ)が、銅像(どうざう)のもたらす印象(いんしやう)を、宗助(そうすけ)の胸(むね)に彫(ほ)り付(つ)けた。たゞ唇(くちびる)があまり厚過(あつすぎ)るので、其所(そこ)に幾分(いくぶん)の弛(ゆる)みが見(み)えた。其(その)代(かは)り彼(かれ)の眼(め)には、普通(ふつう)の人間(にんげん)に到底(たうてい)見(み)るべからざる一種(いつしゆ)の精彩(せいさい)が閃(ひら)めいた。宗助(そうすけ)が始(はじ)めて其(その)視線(しせん)に接(せつ)した時(とき)は、暗中(あんちゆう)に卒然(そつぜん)として白刄(はくじん)を見(み)る思(おもひ)があつた。
「まあ何(なに)から入(はひ)つても同(おな)じであるが」と老師(らうし)は宗助(そうすけ)に向(むか)つて云(い)つた。「父母(ふぼ)未生(みしやう)以前(いぜん)本來(ほんらい)の面目(めんもく)は何(なん)だか、それを一(ひと)つ考(かんが)へて見(み)たら善(よ)かろう」
 宗助(そうすけ)には父母(ふぼ)未生(みしやう)以前(いぜん)といふ意味(いみ)がよく分(わか)らなかつたが、何(なに)しろ自分(じぶん)と云(い)ふものは必竟(ひつきやう)何物(なにもの)だか、其(その)本體(ほんたい)を捕(つら)まへて見(み)ろと云(い)ふ意味(いみ)だらうと判斷(はんだん)した。それより以上(いじやう)口(くち)を利(き)くには、餘(あま)り禪(ぜん)といふものゝ知識(ちしき)に乏(とぼ)しかつたので、默(だま)つて又(また)宜道(ぎだう)に伴(つ)れられて一窓庵(いつさうあん)へ歸(かへ)つて來(き)た。
 晩食(ばんめし)の時(とき)宜道(ぎだう)は宗助(そうすけ)に、入室(にふしつ)の時間(じかん)の朝夕(てうせき)二回(くわい)あることゝ、提唱(ていしやう)の時間(じかん)が午前(ごぜん)である事(こと)などを話(はな)した上(うへ)、
「今夜(こんや)は未(ま)だ見解(けんげ)も出來(でき)ないかも知(し)れませんから、明朝(みやうてう)か明晩(みやうばん)御誘(おさそ)ひ申(まを)しませう」と親切(しんせつ)に云(い)つて呉(く)れた。夫(それ)から最初(さいしよ)のうちは、詰(つ)めて坐(す)はるのは難儀(なんぎ)だから線香(せんかう)を立(た)てゝ、それで時間(じかん)を計(はか)つて、少(すこ)し宛(づゝ)休(やす)んだら好(よ)からうと云(い)ふ樣(やう)な注意(ちゆうい)もして呉(く)れた。
 宗助(そうすけ)は線香(せんかう)を持(も)つて、本堂(ほんだう)の前(まへ)を通(とほ)つて自分(じぶん)の室(へや)と極(きま)つた六疊(でふ)に這入(はい)つて、ぼんやりして坐(すわ)つた。彼(かれ)から云(い)ふと所謂(いはゆる)公案(こうあん)なるものゝ性質(せいしつ)が、如何(いか)にも自分(じぶん)の現在(げんざい)と縁(えん)の遠(とほ)い樣(やう)な氣(き)がしてならなかつた。自分(じぶん)は今(いま)腹痛(ふくつう)で惱(なや)んでゐる。其(その)腹痛(ふくつう)と言(い)ふ訴(うつたへ)を抱(いだ)いて來(き)て見(み)ると、豈計(あにはか)らんや、其(その)對症(たいしやう)療法(れうはふ)として、六(む)づかしい數學(すうがく)の問題(もんだい)を出(だ)して、まあ是(これ)でも考(かんが)へたら可(よ)からうと云(い)はれたと一般(いつぱん)であつた。考(かんが)へろと云(い)はれゝば、考(かんが)へないでもないが、それは一應(いちおう)腹痛(ふくつう)が治(をさ)まつてからの事(こと)でなくては無理(むり)であつた。
 同時(どうじ)に彼(かれ)は勤(つとめ)を休(やす)んでわざ/\此所(こゝ)迄(まで)來(き)た男(をとこ)であつた。紹介状(せうかいじやう)を書(か)いて呉(く)れた人(ひと)、萬事(ばんじ)に氣(き)を付(つ)けて呉(く)れる宜道(ぎだう)に對(たい)しても、あまりに輕卒(けいそつ)な振舞(ふるまひ)は出來(でき)なかつた。彼(かれ)は先(ま)づ現在(げんざい)の自分(じぶん)が許(ゆる)す限(かぎ)りの勇氣(ゆうき)を提(ひつ)さげて、公案(こうあん)に向(むか)はうと決心(けつしん)した。それが何(いづ)れの所(ところ)に彼(かれ)を導(みち)びいて、どんな結果(けつくわ)を彼(かれ)の心(こゝろ)に持(も)ち來(きた)すかは、彼(かれ)自身(じしん)と雖(いへど)も全(まつた)く知(し)らなかつた。彼(かれ)は悟(さとり)といふ美名(びめい)に欺(あざむ)かれて、彼(かれ)の平生(へいぜい)に似合(にあ)はぬ冒險(ばうけん)を試(こゝろ)みやうと企(くはだ)てたのである。さうして、もし此(この)冒險(ばうけん)に成功(せいこう)すれば、今(いま)の不安(ふあん)な不定(ふてい)な弱々(よわ/\)しい自分(じぶん)を救(すく)ふ事(こと)が出來(でき)はしまいかと、果敢(はか)ない望(のぞみ)を抱(いだ)いたのである。
 彼(かれ)は冷(つめ)たい火鉢(ひばち)の灰(はひ)の中(なか)に細(ほそ)い線香(せんかう)を燻(くゆ)らして、教(をし)へられた通(とほ)り坐蒲團(ざぶとん)の上(うへ)に半跏(はんか)を組(く)んだ。晝(ひる)のうちは左迄(さまで)とは思(おも)はなかつた室(へや)が、日(ひ)が落(お)ちてから急(きふ)に寒(さむ)くなつた。彼(かれ)は坐(すわ)りながら、脊中(せなか)のぞく/\する程(ほど)温度(をんど)の低(ひく)い空氣(くうき)に堪(た)へなかつた。
 彼(かれ)は考(かんが)へた。けれども考(かんが)へる方向(はうかう)も、考(かんが)へる問題(もんだい)の實質(じつしつ)も、殆(ほと)んど捕(つら)まえ樣(やう)のない空漠(くうばく)なものであつた。彼(かれ)は考(かんが)へながら、自分(じぶん)は非常(ひじやう)に迂濶(うくわつ)な眞似(まね)をしてゐるのではなからうかと疑(うたが)つた。火事(くわじ)見舞(みまひ)に行(ゆ)く間際(まぎは)に、細(こま)かい地圖(ちづ)を出(だ)して、仔細(しさい)に町名(ちやうめい)や番地(ばんち)を調(しら)べてゐるよりも、ずつと飛(と)び離(はな)れた見當違(けんたうちがひ)の所作(しよさ)を演(えん)じてゐる如(ごと)く感(かん)じた。
 彼(かれ)の頭(あたま)の中(なか)を色々(いろ/\)なものが流(なが)れた。其(その)あるものは明(あき)らかに眼(め)に見(み)えた。あるものは混沌(こんとん)として雲(くも)の如(ごと)くに動(うご)いた。何所(どこ)から來(き)て何所(どこ)へ行(い)くとも分(わか)らなかつた。たゞ先(さき)のものが消(き)える、すぐ後(あと)から次(つぎ)のものが現(あら)はれた。さうして仕切(しき)りなしに夫(それ)から夫(それ)へと續(つゞ)いた。頭(あたま)の徃來(わうらい)を通(とほ)るものは、無限(むげん)で無數(むすう)で無盡藏(むじんざう)で、決(けつ)して宗助(そうすけ)の命令(めいれい)によつて、留(と)まる事(こと)も休(やす)む事(こと)もなかつた。斷(た)ち切(き)らうと思(おも)へば思(おも)ふ程(ほど)、滾々(こん/\)として湧(わ)いて出(で)た。
 宗助(そうすけ)は怖(こは)くなつて、急(きふ)に日常(にちじやう)の我(われ)を呼(よ)び起(おこ)して、室(へや)の中(なか)を眺(なが)めた。室(へや)は微(かす)かな灯(ひ)で薄暗(うすぐら)く照(て)らされてゐた。灰(はひ)の中(なか)に立(た)てた線香(せんかう)は、まだ半分(はんぶん)程(ほど)しか燃(も)えてゐなかつた。宗助(そうすけ)は恐(おそ)るべく時間(じかん)の長(なが)いのに始(はじ)めて氣(き)が付(つ)いた。
 宗助(そうすけ)はまた考(かんが)へ始(はじ)めた。すると、すぐ色(いろ)のあるもの、形(かたち)のあるものが頭(あたま)の中(なか)を通(とほ)り出(だ)した。ぞろ/\と群(むら)がる蟻(あり)の如(ごと)くに動(うご)いて行(ゆ)く、あとから又(また)ぞろ/\と群(むら)がる蟻(あり)の如(ごと)くに現(あら)はれた。凝(じつ)としてゐるのはたゞ宗助(そうすけ)の身體(からだ)丈(だけ)であつた。心(こゝろ)は切(せつ)ない程(ほど)、苦(くる)しい程(ほど)、堪(た)えがたい程(ほど)動(うご)いた。
 其内(そのうち)凝(じつ)としてゐる身體(からだ)も、膝頭(ひざがしら)から痛(いた)み始(はじ)めた。眞直(まつすぐ)に延(の)ばしてゐた脊髓(せきずゐ)が次第々々(しだい/\)に前(まへ)の方(はう)に曲(まが)つて來(き)た。宗助(そうすけ)は兩手(りやうて)で左(ひだり)の足(あし)の甲(かふ)を抱(かゝ)える樣(やう)にして下(した)へ卸(おろ)した。彼(かれ)は何(なに)をする目的(めあて)もなく室(へや)の中(なか)に立(た)ち上(あ)がつた。障子(しやうじ)を明(あ)けて表(おもて)へ出(で)て、門前(もんぜん)をぐる/\駈(か)け回(まは)つて歩(ある)きたくなつた。夜(よ)はしんとしてゐた。寐(ね)てゐる人(ひと)も起(お)きてゐる人(ひと)も何處(どこ)にも居(を)りさうには思(おも)へなかつた。宗助(そうすけ)は外(そと)へ出(で)る勇氣(ゆうき)を失(うしな)つた。凝(じつ)と生(い)きながら妄想(まうざう)に苦(くる)しめられるのは猶(なほ)恐(おそ)ろしかつた。
 彼(かれ)は思(おも)ひ切(き)つて又(また)新(あた)らしい線香(せんかう)を立(た)てた。さうして又(また)略(ほゞ)前(ぜん)と同(おな)じ過程(くわてい)を繰(く)り返(かへ)した。最後(さいご)に、もし考(かんが)へるのが目的(もくてき)だとすれば、坐(すわ)つて考(かんが)へるのも寐(ね)て考(かんが)へるのも同(おな)じだらうと分別(ふんべつ)した。彼(かれ)は室(へや)の隅(すみ)に疊(たゝ)んであつた薄汚(うすぎた)ない蒲團(ふとん)を敷(し)いて、其中(そのなか)に潛(もぐ)り込(こ)んだ。すると先刻(さつき)からの疲(つか)れで、何(なに)を考(かんが)へる暇(ひま)もないうちに、深(ふか)い眠(ねむ)りに落(お)ちて仕舞(しま)つた。
 眼(め)が覺(さ)めると枕元(まくらもと)の障子(しやうじ)が何時(いつ)の間(ま)にか明(あか)るくなつて、白(しろ)い紙(かみ)にやがて日(ひ)の逼(せま)るべき色(いろ)が動(うご)いた。晝(ひる)も留守(るす)を置(お)かずに濟(す)む山寺(やまでら)は、夜(よ)に入(い)つても戸(と)を閉(た)てる音(おと)を聞(き)かなかつたのである。宗助(そうすけ)は自分(じぶん)が坂井(さかゐ)の崖下(がけした)の暗(くら)い部屋(へや)に寐(ね)てゐたのでないと意識(いしき)するや否(いな)や、すぐ起(お)き上(あ)がつた。縁(えん)へ出(で)ると、軒端(のきば)に高(たか)く大霸王樹(おほさぼてん)の影(かげ)が眼(め)に映(うつ)つた。宗助(そうすけ)は又(また)本堂(ほんだう)の佛壇(ぶつだん)の前(まへ)を拔(ぬ)けて、圍爐裏(ゐろり)の切(き)つてある昨日(きのふ)の茶(ちや)の間(ま)へ出(で)た。其所(そこ)には昨日(きのふ)の通(とほ)り宜道(ぎだう)の法衣(ころも)が折釘(をれくぎ)に懸(か)けてあつた。さうして本人(ほんにん)は勝手(かつて)の竈(かまど)の前(まへ)に蹲踞(うづく)まつて、火(ひ)を焚(た)いてゐた。宗助(そうすけ)を見(み)て、
「御早(おはや)う」と慇懃(いんぎん)に禮(れい)をした。「先刻(さつき)御誘(おさそ)ひ申(まを)さうと思(おも)ひましたが、よく御寢(おやすみ)の樣(やう)でしたから、失禮(しつれい)して一人(ひとり)參(まゐ)りました」
 宗助(そうすけ)は此(この)若(わか)い僧(そう)が、今朝(けさ)夜明(よあけ)がたに既(すで)に參禪(さんぜん)を濟(す)まして、夫(それ)から歸(かへ)つて來(き)て、飯(めし)を炊(かし)いでゐるのだといふ事(こと)を知(し)つた。
 見(み)ると彼(かれ)は左(ひだり)の手(て)で頻(しき)りに薪(まき)を差(さ)し易(か)へながら、右(みぎ)の手(て)に黒(くろ)い表紙(へうし)の本(ほん)を持(も)つて、用(よう)の合間々々(あひま/\)に夫(それ)を讀(よ)んでゐる樣子(やうす)であつた。宗助(そうすけ)は宜道(ぎだう)に書物(しよもつ)の名(な)を尋(たづ)ねた。それは碧巖集(へきがんしふ)といふ六(む)づかしい名前(なまへ)のものであつた。宗助(そうすけ)は腹(はら)の中(なか)で、昨夕(ゆうべ)の樣(やう)に當途(あてど)もない考(かんがへ)に耽(ふけ)つて、腦(なう)を疲(つか)らすより、一層(いつそ)其(その)道(みち)の書物(しよもつ)でも借(か)りて讀(よ)む方(はう)が、要領(えうりやう)を得(え)る捷徑(ちかみち)ではなからうかと思(おも)ひ付(つ)いた。宜道(ぎだう)にさう云(い)ふと、宜道(ぎだう)は一も二もなく宗助(そうすけ)の考(かんがへ)を排斥(はいせき)した。
「書物(しよもつ)を讀(よ)むのは極(ごく)惡(わる)う御座(ござ)います。有體(ありてい)に云(い)ふと、讀書(どくしよ)程(ほど)修業(しゆげふ)の妨(さまたげ)になるものは無(な)い樣(やう)です。私共(わたくしども)でも、斯(か)うして碧巖(へきがん)抔(など)を讀(よ)みますが、自分(じぶん)の程度(ていど)以上(いじやう)の所(ところ)になると、丸(まる)で見當(けんたう)が付(つ)きません。それを好加減(いゝかげん)に揣摩(しま)する癖(くせ)がつくと、それが坐(すわ)る時(とき)の妨(さまたげ)になつて、自分(じぶん)以上(いじやう)の境界(きやうがい)を豫期(よき)して見(み)たり、悟(さとり)を待(ま)ち受(う)けて見(み)たり、充分(じゆうぶん)突込(つつこ)んで行(ゆ)くべき所(ところ)に頓挫(とんざ)が出來(でき)ます。大變(たいへん)毒(どく)になりますから、御止(およ)しになつた方(はう)が可(よ)いでせう。もし強(し)いて何(なに)か御讀(およ)みになりたければ、禪關策進(ぜんくわんさくしん)といふ樣(やう)な、人(ひと)の勇氣(ゆうき)を鼓舞(こぶ)したり激勵(げきれい)したりするものが宜(よろ)しう御座(ござ)いませう。それだつて、只(たゞ)刺戟(しげき)の方便(はうべん)として讀(よ)む丈(だけ)で、道(みち)其物(そのもの)とは無關係(むくわんけい)です」
 宗助(そうすけ)には宜道(ぎだう)の意味(いみ)がよく解(わか)らなかつた。彼(かれ)は此(この)生若(なまわか)い青(あを)い頭(あたま)をした坊(ばう)さんの前(まへ)に立(た)つて、恰(あたか)も一個(こ)の低能兒(ていのうじ)であるかの如(ごと)き心持(こゝろもち)を起(おこ)した。彼(かれ)の慢心(まんしん)は京都(きやうと)以來(いらい)既(すで)に銷磨(せうま)し盡(つく)してゐた。彼(かれ)は平凡(へいぼん)を分(ぶん)として、今日(こんにち)迄(まで)生(い)きて來(き)た。聞達(ぶんたつ)程(ほど)彼(かれ)の心(こゝろ)に遠(とほ)いものはなかつた。彼(かれ)はたゞ有(あり)の儘(まゝ)の彼(かれ)として、宜道(ぎだう)の前(まへ)に立(た)つたのである。しかも平生(へいぜい)の自分(じぶん)より遙(はる)かに無力(むりよく)無能(むのう)な赤子(あかご)であると、更(さら)に自分(じぶん)を認(みと)めざるを得(え)なくなつた。彼(かれ)に取(と)つては新(あた)らしい發見(はつけん)であつた。同時(どうじ)に自尊心(じそんしん)を根絶(こんぜつ)する程(ほど)の發見(はつけん)であつた。
 宜道(ぎだう)が竈(へつつひ)の火(ひ)を消(け)して飯(めし)をむらしてゐる間(あひだ)に、宗助(そうすけ)は臺所(だいどころ)から下(お)りて庭(には)の井戸端(ゐどばた)へ出(で)て顏(かほ)を洗(あら)つた。鼻(はな)の先(さき)にはすぐ雜木山(ざふきやま)が見(み)へた。其(その)裾(すそ)の少(すこ)し平(たひら)な所(ところ)を拓(ひら)いて、菜園(さいゑん)が拵(こしら)えてあつた。宗助(そうすけ)は濡(ぬ)れた頭(あたま)を冷(つめ)たい空氣(くうき)に曝(さら)して、わざと菜園(さいゑん)迄(まで)下(お)りて行(い)つた。さうして、其所(そこ)に崖(がけ)を横(よこ)に掘(ほ)つた大(おほ)きな穴(あな)を見出(みいだ)した。宗助(そうすけ)は少時(しばらく)其前(そのまへ)に立(た)つて、暗(くら)い奧(おく)の方(はう)を眺(なが)めてゐた。やがて、茶(ちや)の間(ま)へ歸(かへ)ると、圍爐裏(ゐろり)には暖(あたゝ)かい火(ひ)が起(おこ)つて、鐵瓶(てつびん)に湯(ゆ)の沸(たぎ)る音(おと)が聞(きこ)えた。
「手(て)がないものだから、つい遲(おそ)くなりまして御氣(おき)の毒(どく)です。すぐ御膳(ごぜん)に致(いた)しませう。然(しか)しこんな所(ところ)だから上(あ)げるものがなくつて困(こま)ります。其(その)代(かは)り明日(あした)あたりは御馳走(ごちそう)に風呂(ふろ)でも立(た)てませう」と宜道(ぎだう)が云(い)つて呉(く)れた。宗助(そうすけ)は難有(ありがた)く圍爐裏(ゐろり)の向(むかふ)に坐(すわ)つた。
 やがて食事(しよくじ)を了(を)えて、わが室(へや)へ歸(かへ)つた宗助(そうすけ)は、又(また)父母(ふぼ)未生(みしやう)以前(いぜん)と云(い)ふ稀有(けう)な問題(もんだい)を眼(め)の前(まへ)に据(す)ゑて、凝(じ)つと眺(なが)めた。けれども、もと/\筋(すぢ)の立(た)たない、從(した)がつて發展(はつてん)のしやうのない問題(もんだい)だから、いくら考(かんが)へても何處(どこ)からも手(て)を出(だ)す事(こと)は出來(でき)なかつた。さうして、すぐ考(かんが)へるのが厭(いや)になつた。宗助(そうすけ)は不圖(ふと)御米(およね)に此所(こゝ)へ着(つ)いた消息(せうそく)を書(か)かなければならない事(こと)に氣(き)が付(つ)いた。彼(かれ)は俗用(ぞくよう)の生(しやう)じたのを喜(よろ)こぶ如(ごと)くに、すぐ鞄(かばん)の中(なか)から卷紙(まきがみ)と封(ふう)じ袋(ぶくろ)を取(と)り出(だ)して、御米(およね)に遣(や)る手紙(てがみ)を書(か)き始(はじ)めた。まづ此所(こゝ)の閑靜(かんせい)な事(こと)、海(うみ)に近(ちか)い所爲(せゐ)か、東京(とうきやう)よりは餘程(よほど)暖(あたゝ)かい事(こと)、空氣(くうき)の清朗(せいらう)な事(こと)、紹介(せうかい)された坊(ばう)さんの親切(しんせつ)な事(こと)、食事(しよくじ)の不味(まづ)い事(こと)、夜具(やぐ)蒲團(ふとん)の綺麗(きれい)に行(い)かない事(こと)、などを書(か)き連(つら)ねてゐるうちに、はや三尺(じやく)餘(あま)りの長(なが)さになつたので、其所(そこ)で筆(ふで)を擱(お)いたが、公案(こうあん)に苦(くる)しめられてゐる事(こと)や、坐禪(ざぜん)をして膝(ひざ)の關節(くわんせつ)を痛(いた)くしてゐる事(こと)や、考(かんが)へるために益(ます/\)神經衰弱(しんけいすゐじやく)が劇(はげ)しくなりさうな事(こと)は、噫(おくび)にも出(だ)さなかつた。彼(かれ)は此(この)手紙(てがみ)に切手(きつて)を貼(は)つて、ポストに入(い)れなければならない口實(こうじつ)を求(もと)めて、早速(さつそく)山(やま)を下(くだ)つた。さうして父母(ふぼ)未生(みしやう)以前(いぜん)と、御米(およね)と、安井(やすゐ)に、脅(おびや)かされながら、村(むら)の中(なか)をうろついて歸(かへ)つた。
 午(ひる)には、宜道(ぎだう)から話(はなし)のあつた居士(こじ)に會(あ)つた。此(この)居士(こじ)は茶碗(ちやわん)を出(だ)して、宜道(ぎだう)に飯(めし)を盛(よそ)つて貰(もら)ふとき、憚(はゞ)かり樣(さま)とも何(なん)とも云(い)はずに、たゞ合掌(がつしやう)して禮(れい)を述(の)べたり、相圖(あひづ)をしたりした。此(この)位(くらゐ)靜(しづ)かに物事(ものごと)を爲(す)るのが法(ほふ)だとか云(い)つた。口(くち)を利(き)かず、音(おと)を立(た)てないのは、考(かんが)への邪魔(じやま)になると云(い)ふ精神(せいしん)からださうであつた。それ程(ほど)眞劍(しんけん)にやるべきものをと、宗助(そうすけ)は昨夜(さくや)からの自分(じぶん)が、何(なん)となく耻(は)づかしく思(おも)はれた。
 食後(しよくご)三人(にん)は圍爐裏(ゐろり)の傍(はた)でしばらく話(はな)した。其時(そのとき)居士(こじ)は、自分(じぶん)が坐禪(ざぜん)をしながら、何時(いつ)か氣(き)が付(つ)かずにうと/\と眠(ねむ)つて仕舞(しま)つてゐて、はつと正氣(しやうき)に歸(かへ)る間際(まぎは)に、おや悟(さと)つたなと喜(よろこ)ぶことがあるが、さて愈(いよ/\)眼(め)を開(あ)いて見(み)ると、矢(や)つ張(ぱ)り元(もと)の通(とほり)の自分(じぶん)なので失望(しつばう)する許(ばかり)だと云(い)つて、宗助(そうすけ)を笑(わら)はした。斯(か)う云(い)ふ氣樂(きらく)な考(かんがへ)で、參禪(さんぜん)してゐる人(ひと)もあると思(おも)ふと、宗助(そうすけ)も多少(たせう)は寛(くつ)ろいだ。けれども三人(にん)が分(わか)れ/\に自分(じぶん)の室(へや)に入(はひ)る時(とき)、宜道(ぎだう)が、
「今夜(こんや)は御誘(おさそ)ひ申(まを)しますから、是(これ)から夕方(ゆふがた)迄(まで)しつかり御坐(おすわ)りなさいまし」と眞面目(まじめ)に勸(すゝ)めたとき、宗助(そうすけ)は又(また)一種(いつしゆ)の責任(せきにん)を感(かん)じた。消化(こな)れない堅(かた)い團子(だんご)が胃(ゐ)に滯(とゞこ)うつてゐる樣(やう)な不安(ふあん)な胸(むね)を抱(いだ)いて、わが室(へや)へ歸(かへ)つて來(き)た。さうして又(また)線香(せんかう)を焚(た)いて坐(す)はり出(だ)した。其癖(そのくせ)夕方(ゆふがた)迄(まで)は坐(すわ)り續(つゞ)けられなかつた。どんな解答(かいたふ)にしろ一(ひと)つ拵(こし)らへて置(お)かなければならないと思(おも)ひながらも、仕舞(しまひ)には根氣(こんき)が盡(つ)きて、早(はや)く宜道(ぎだう)が夕食(ゆふめし)の報知(しらせ)に本堂(ほんだう)を通(とほ)り拔(ぬ)けて來(き)て呉(く)れゝば好(い)いと、夫(それ)ばかり氣(き)に掛(か)かつた。
 日(ひ)は懊惱(あうなう)と困憊(こんぱい)の裡(うち)に傾(かた)むいた。障子(しやうじ)に映(うつ)る時(とき)の影(かげ)が次第(しだい)に遠(とほ)くへ立(た)ち退(の)くにつれて、寺(てら)の空氣(くうき)が床(ゆか)の下(した)から冷(ひ)え出(だ)した。風(かぜ)は朝(あさ)から枝(えだ)を吹(ふ)かなかつた。縁側(えんがは)に出(で)て、高(たか)い庇(ひさし)を仰(あふ)ぐと、黒(くろ)い瓦(かはら)の小口(こぐち)丈(だけ)が揃(そろ)つて、長(なが)く一列(れつ)に見(み)える外(そと)に、穩(おだや)かな空(そら)が、蒼(あを)い光(ひかり)をわが底(そこ)の方(はう)に沈(しづ)めつゝ、自分(じぶん)と薄(うす)くなつて行(ゆ)く所(ところ)であつた。

「危險(あぶな)う御座(ござ)います」と云(い)つて宜道(ぎだう)は一足先(ひとあしさき)へ暗(くら)い石段(いしだん)を下(お)りた。宗助(そうすけ)はあとから續(つゞ)いた。町(まち)と違(ちが)つて夜(よる)になると足元(あしもと)が惡(わる)いので、宜道(ぎだう)は提灯(ちやうちん)を點(つ)けて僅(わづか)一丁(ちやう)許(ばかり)の路(みち)を照(て)らした。石段(いしだん)を下(お)り切(き)ると、大(おほ)きな樹(き)の枝(えだ)が左右(さいう)から二人(ふたり)の頭(あたま)に蔽(お)ひ被(かぶ)さる樣(やう)に空(そら)を遮(さへぎ)つた。闇(やみ)だけれども蒼(あを)い葉(は)の色(いろ)が二人(ふたり)の着物(きもの)の織目(おりめ)に染(し)み込(こ)む程(ほど)に宗助(そうすけ)を寒(さむ)がらせた。提灯(ちやうちん)の灯(ひ)にも其(その)色(いろ)が多少(たせう)映(うつ)る感(かん)じがあつた。其(その)提灯(ちやうちん)は一方(いつぱう)に大(おほ)きな樹(き)の幹(みき)を想像(さうざう)する所爲(せゐ)か、甚(はなは)だ小(ちひ)さく見(み)えた。光(ひかり)の地面(ぢめん)に屆(とゞ)く尺數(しやくすう)も僅(わづか)であつた。照(て)らされた部分(ぶぶん)は明(あか)るい灰色(はひいろ)の斷片(だんぺん)となつて暗(くら)い中(なか)にほつかり落(お)ちた。さうして二人(ふたり)の影(かげ)が動(うご)くに伴(つ)れて動(うご)いた。
 蓮池(れんち)を行(ゆ)き過(す)ぎて、左(ひだり)へ上(のぼ)る所(ところ)は、夜(よる)はじめての宗助(そうすけ)に取(と)つて、少(すこ)し足元(あしもと)が滑(なめら)かに行(い)かなかつた。土(つち)の中(なか)に根(ね)を食(く)つてゐる石(いし)に、一二度(ど)下駄(げた)の臺(だい)を引(ひ)つ掛(か)けた。蓮池(れんち)の手前(てまへ)から横(よこ)に切(き)れる裏路(うらみち)もあるが、此(この)方(はう)は凸凹(とつあふ)が多(おほ)くて、慣(な)れない宗助(そうすけ)には近(ちか)くても不便(ふべん)だらうと云(い)ふので、宜道(ぎだう)はわざ/\廣(ひろ)い方(はう)を案内(あんない)したのである。
 玄關(げんくわん)を入(はひ)ると、暗(くら)い土間(どま)に下駄(げた)が大分(だいぶ)並(なら)んでゐた。宗助(そうすけ)は曲(こゞ)んで、人(ひと)の履物(はきもの)を踏(ふ)まない樣(やう)にそつと上(うへ)へのぼつた。室(へや)は八疊(でふ)程(ほど)の廣(ひろ)さであつた。其(その)壁際(かべぎは)に列(れつ)を作(つく)つて、六七人(にん)の男(をとこ)が一側(ひとかは)に並(なら)んでゐた。中(なか)に頭(あたま)を光(ひか)らして、黒(くろ)い法衣(ころも)を着(き)た僧(そう)も交(まじ)つてゐた。他(ほか)のものは大概(たいがい)袴(はかま)を穿(は)いてゐた。此(この)六七人(にん)の男(をとこ)は上(あが)り口(ぐち)と奧(おく)へ通(つう)ずる三尺(じやく)の廊下口(らうかぐち)を殘(のこ)して、行儀(ぎやうぎ)よく鉤(かぎ)の手(て)に並(なら)んでゐた。さうして、一言(ひとこと)も口(くち)を利(き)かなかつた。宗助(そうすけ)は是等(これら)の人(ひと)の顏(かほ)を一目(ひとめ)見(み)て、まづ其(その)峻刻(しゆんこく)なのに氣(き)を奪(うば)はれた。彼等(かれら)は皆(みな)固(かた)く口(くち)を結(むす)んでゐた。事(こと)ありげな眉(まゆ)を強(つよ)く寄(よ)せてゐた。傍(そば)にどんな人(ひと)がゐるか見向(みむ)きもしなかつた。如何(いか)なるものが外(そと)から入(はひ)つて來(き)ても、全(まつた)く注意(ちゆうい)しなかつた。彼等(かれら)は活(い)きた彫刻(てうこく)の樣(やう)に己(おの)れを持(ぢ)して、火(ひ)の氣(け)のない室(へや)に肅然(しゆくぜん)と坐(すわ)つてゐた。宗助(そうすけ)の感覺(かんかく)には、山寺(やまでら)の寒(さむ)さ以上(いじやう)に、一種(いつしゆ)嚴(おごそ)かな氣(き)が加(くは)はつた。
 やがて寂寞(せきばく)の中(うち)に、人(ひと)の足音(あしおと)が聞(きこ)えた。初(はじめ)は微(かす)かに響(ひゞ)いたが、次第(しだい)に強(つよ)く床(ゆか)を踏(ふ)んで、宗助(そうすけ)の坐(すわ)つてゐる方(はう)へ近付(ちかづ)いて來(き)た。仕舞(しまひ)に一人(ひとり)の僧(そう)が廊下口(らうかぐち)からぬつと現(あらは)れた。さうして宗助(そうすけ)の傍(そば)を通(とほ)つて、默(だま)つて外(そと)の暗(くら)がりへ拔(ぬ)けて行(い)つた。すると遠(とほ)くの奧(おく)の方(はう)で鈴(れい)を振(ふ)る音(おと)がした。
 此(この)時(とき)宗助(そうすけ)と並(なら)んで嚴肅(げんしゆく)に控(ひか)えてゐた男(をとこ)のうちで、小倉(こくら)の袴(はかま)を着(つ)けた一人(いちにん)が、矢張(やはり)無言(むごん)の儘(まゝ)立(た)ち上(あ)がつて、室(へや)の隅(すみ)の廊下口(らうかぐち)の眞正面(ましやうめん)へ來(き)て着座(ちやくざ)した。其所(そこ)には高(たか)さ二尺(しやく)幅(はゞ)一尺(しやく)程(ほど)の木(き)の枠(わく)の中(なか)に、銅鑼(どら)の樣(やう)な形(かたち)をした、銅鑼(どら)よりも、ずつと重(おも)くて厚(あつ)さうなものが懸(かゝ)つてゐた。色(いろ)は蒼黒(あをぐろ)く貧(まづ)しい灯(ひ)に照(て)らされてゐた。袴(はかま)を着(つ)けた男(をとこ)は、臺(だい)の上(うへ)にある撞木(しゆもく)を取(と)り上(あ)げて、銅鑼(どら)に似(に)た鐘(かね)の眞中(まんなか)を二(ふた)つ程(ほど)打(う)ち鳴(な)らした。さうして、ついと立(た)つて、廊下口(らうかぐち)を出(で)て、奧(おく)の方(はう)へ進(すゝ)んで行(い)つた。今度(こんど)は前(まへ)と反對(はんたい)に、足音(あしおと)が段々(だん/\)遠(とほ)くの方(はう)へ去(さ)るに從(したが)つて、微(かす)かになつた。さうして一番(いちばん)仕舞(しまひ)にぴたりと何處(どこ)かで留(と)まつた。宗助(そうすけ)は坐(ゐ)ながら、はつとした。彼(かれ)は此(この)袴(はかま)を着(つ)けた男(をとこ)の身(み)の上(うへ)に、今(いま)何事(なにごと)が起(おこ)りつゝあるだらうかを想像(さうざう)したのである。けれども奧(おく)はしんとして靜(しづ)まり返(かへ)つてゐた。宗助(そうすけ)と並(なら)んでゐるものも、一人(ひとり)として顏(かほ)の筋肉(きんにく)を動(うご)かすものはなかつた。たゞ宗助(そうすけ)は心(こゝろ)の中(なか)で、奧(おく)からの何物(なにもの)かを待(ま)ち受(う)けた。すると忽然(こつぜん)として鈴(れい)を振(ふ)る響(ひゞき)が彼(かれ)の耳(みゝ)に應(こた)へた。同時(どうじ)に長(なが)い廊下(らうか)を踏(ふ)んで、此方(こちら)へ近付(ちかづ)く足音(あしおと)がした。袴(はかま)を着(つ)けた男(をとこ)は又(また)廊下口(らうかぐち)から現(あら)はれて、無言(むごん)の儘(まゝ)玄關(げんくわん)を下(お)りて、霜(しも)の裡(うち)に消(き)え去(さ)つた。入(い)れ代(かは)つて又(また)新(あた)らしい男(をとこ)が立(た)つて、最前(さいぜん)の鐘(かね)を打(う)つた。さうして、又(また)廊下(らうか)を踏(ふ)み鳴(な)らして奧(おく)の方(はう)へ行(い)つた。宗助(そうすけ)は沈默(ちんもく)の間(あひだ)に行(おこな)はれる此(この)順序(じゆんじよ)を見(み)ながら、膝(ひざ)に手(て)を載(の)せて、自分(じぶん)の番(ばん)の來(く)るのを待(ま)つてゐた。
 自分(じぶん)より一人(ひとり)置(お)いて前(まへ)の男(をとこ)が立(た)つて行(い)つた時(とき)は、良(やゝ)暫(しばら)くしてから、わつと云(い)ふ大(おほ)きな聲(こゑ)が、奧(おく)の方(はう)で聞(きこ)えた。其(その)聲(こゑ)は距離(きより)が遠(とほ)いので、劇(はげ)しく宗助(そうすけ)の鼓膜(こまく)を打(う)つ程(ほど)、強(つよ)くは響(ひゞ)かなかつたけれども、たしかに精一杯(せいいつぱい)威(ゐ)を振(ふる)つたものであつた。さうして只(たゞ)一人(いちにん)の咽喉(のど)から出(で)た個人(こじん)の特色(とくしよく)を帶(お)びてゐた。自分(じぶん)のすぐ前(まへ)の人(ひと)が立(た)つた時(とき)は、愈(いよ/\)わが番(ばん)が回(まは)つて來(き)たと云(い)ふ意識(いしき)に制(せい)せられて、一層(いつそう)落付(おちつき)を失(うしな)つた。
 宗助(そうすけ)は此間(このあひだ)の公案(こうあん)に對(たい)して、自分(じぶん)丈(だけ)の解答(かいたふ)は準備(じゆんび)してゐた。けれども、それは甚(はなは)だ覺束(おぼつか)ない薄手(うすで)のものに過(す)ぎなかつた。室中(しつちゆう)に入(い)る以上(いじやう)は、何(なに)か見解(けんげ)を呈(てい)しない譯(わけ)に行(い)かないので、已(やむ)を得(え)ず納(をさ)まらない所(ところ)を、わざと納(をさ)まつた樣(やう)に取繕(とりつくろ)つた、其場(そのば)限(かぎ)りの挨拶(あいさつ)であつた。彼(かれ)は此(この)心細(こゝろぼそ)い解答(かいたふ)で、僥倖(げうかう)にも難關(なんくわん)を通過(つうか)して見(み)たい抔(など)とは、夢(ゆめ)にも思(おも)ひ設(まう)けなかつた。老師(らうし)を胡麻化(ごまか)す氣(き)は無論(むろん)なかつた。其時(そのとき)の宗助(そうすけ)はもう少(すこ)し眞面目(まじめ)であつたのである。單(たん)に頭(あたま)から割(わ)り出(だ)した、恰(あたか)も畫(ゑ)にかいた餠(もち)の樣(やう)な代物(しろもの)を持(も)つて、義理(ぎり)にも室中(しつちゆう)に入(い)らなければならない自分(じぶん)の空虚(くうきよ)な事(こと)を耻(は)ぢたのである。
 宗助(そうすけ)は人(ひと)のする如(ごと)くに鐘(かね)を打(う)つた。しかも打(う)ちながら、自分(じぶん)は人並(ひとなみ)に此(この)鐘(かね)を撞木(しゆもく)で敲(たゝ)くべき權能(けんのう)がないのを知(し)つてゐた。それを人並(ひとなみ)に鳴(な)らして見(み)る猿(さる)の如(ごと)き己(おの)れを深(ふか)く嫌忌(けんき)した。
 彼(かれ)は弱味(よわみ)のある自分(じぶん)に恐(おそ)れを抱(いだ)きつゝ、入口(いりぐち)を出(で)て冷(つめ)たい廊下(らうか)へ足(あし)を踏(ふ)み出(だ)した。廊下(らうか)は長(なが)く續(つゞ)いた。右側(みぎがは)にある室(へや)は悉(こと/″\)く暗(くら)かつた。角(かど)を二(ふた)つ折(を)れ曲(まが)ると、向(むかふ)の外(はづ)れの障子(しやうじ)に灯影(ひかげ)が差(さ)した。宗助(そうすけ)は其(その)敷居際(しきゐぎは)へ來(き)て留(と)まつた。
 室中(しつちゆう)に入(い)るものは老師(らうし)に向(むか)つて三拜(さんぱい)するのが禮(れい)であつた。拜(はい)しかたは普通(ふつう)の挨拶(あいさつ)の樣(やう)に頭(あたま)を疊(たゝみ)に近(ちか)く下(さ)げると同時(どうじ)に、兩手(りやうて)の掌(てのひら)を上向(うへむき)に開(ひら)いて、夫(それ)を頭(あたま)の左右(さいう)に並(なら)べたまゝ、少(すこ)し物(もの)を抱(かゝ)へた心持(こゝろもち)に耳(みゝ)の邊(あたり)迄(まで)上(あ)げるのである。宗助(そうすけ)は敷居際(しきゐぎは)に跪(ひざま)づいて形(かた)の如(ごと)く拜(はい)を行(おこ)なつた。すると座敷(ざしき)の中(なか)で、
「一拜(いつぱい)で宜(よろ)しい」と云(い)ふ會釋(ゑしやく)があつた。宗助(そうすけ)はあとを略(りやく)して中(なか)へ入(はひ)つた。
 室(へや)の中(なか)はたゞ薄暗(うすぐら)い灯(ひ)に照(て)らされてゐた。其(その)弱(よわ)い光(ひかり)は、如何(いか)に大字(だいじ)な書物(しよもつ)をも披見(ひけん)せしめぬ程度(ていど)のものであつた。宗助(そうすけ)は今日(こんにち)迄(まで)の經驗(けいけん)に訴(うつた)へて、これ位(くらゐ)微(かす)かな燈火(ともしび)に、夜(よ)を營(いと)なむ人間(にんげん)を憶(おも)ひ起(おこ)す事(こと)が出來(でき)なかつた。其(その)光(ひかり)は無論(むろん)月(つき)よりも強(つよ)かつた。且(かつ)月(つき)の如(ごと)く蒼白(あをじろ)い色(いろ)ではなかつた。けれどももう少(すこ)しで朦朧(もうろう)の境(さかひ)に沈(しづ)むべき性質(たち)のものであつた。
 此(この)靜(しづ)かな判然(はつきり)しない燈火(ともしび)の力(ちから)で、宗助(そうすけ)は自分(じぶん)を去(さ)る四五尺(しやく)の正面(しやうめん)に、宜道(ぎだう)の所謂(いはゆる)老師(らうし)なるものを認(みと)めた。彼(かれ)の顏(かほ)は例(れい)によつて鑄物(いもの)の樣(やう)に動(うご)かなかつた。色(いろ)は銅(あかゞね)であつた。彼(かれ)は全身(ぜんしん)に澁(しぶ)に似(に)た柿(かき)に似(に)た茶(ちや)に似(に)た色(いろ)の法衣(ころも)を纏(まと)つてゐた。足(あし)も手(て)も見(み)えなかつた。たゞ頸(くび)から上(うへ)が見(み)えた。其(その)頸(くび)から上(うへ)が、嚴肅(げんしゆく)と緊張(きんちやう)の極度(きよくど)に安(やす)んじて、何時(いつ)迄(まで)經(た)つても變(かは)る恐(おそれ)を有(いう)せざる如(ごと)くに人(ひと)を魅(み)した。さうして頭(あたま)には一本(ぽん)の毛(け)もなかつた。
 此(この)面前(めんぜん)に氣力(きりよく)なく坐(すわ)つた宗助(そうすけ)の、口(くち)にした言葉(ことば)はたゞ一句(く)で盡(つ)きた。
「もつと、ぎろりとした所(ところ)を持(も)つて來(こ)なければ駄目(だめ)だ」と忽(たちま)ち云(い)はれた。「其(その)位(くらゐ)な事(こと)は少(すこ)し學問(がくもん)をしたものなら誰(だれ)でも云(い)へる」
 宗助(そうすけ)は喪家(さうか)の犬(いぬ)の如(ごと)く室中(しつちゆう)を退(しりぞ)いた。後(のち)に鈴(れい)を振(ふ)る音(おと)が烈(はげ)しく響(ひゞ)いた。

 障子(しやうじ)の外(そと)で野中(のなか)さん、野中(のなか)さんと呼(よ)ぶ聲(こゑ)が二度(にど)程(ほど)聞(きこ)えた。宗助(そうすけ)は半睡(はんすゐ)の裡(うち)にはいと應(こた)へた積(つもり)であつたが、返事(へんじ)を仕切(しき)らない先(さき)に、早(はや)く知覺(ちかく)を失(うしな)つて、又(また)正體(しやうたい)なく寐入(ねい)つてしまつた。
 二度目(どめ)に眼(め)が覺(さ)めた時(とき)、彼(かれ)は驚(おど)ろいて飛(と)び起(お)きた。縁側(えんがは)へ出(で)ると、宜道(ぎだう)が鼠木綿(ねずみもめん)の着物(きもの)に襷(たすき)を掛(か)けて、甲斐々々(かひ/″\)しく其所(そこ)いらを拭(ふ)いてゐた。赤(あか)く凍(かじか)んだ手(て)で、濡雜巾(ぬれざふきん)を絞(しぼ)りながら、例(れい)の如(ごと)く柔和(やさ)しいにこやかな顏(かほ)をして、
「御早(おはや)う」と挨拶(あいさつ)した。彼(かれ)は今朝(けさ)も亦(また)とくに參禪(さんぜん)を濟(す)ました後(のち)、斯(か)うして庵(あん)に歸(かへ)つて働(はたら)いてゐたのである。宗助(そうすけ)はわざ/\呼(よ)び起(おこ)されても起(お)き得(え)なかつた自分(じぶん)の怠慢(たいまん)を省(かへり)みて、全(まつた)く極(きまり)の惡(わる)い思(おもひ)をした。
「今朝(けさ)もつい寐忘(ねわす)れて失禮(しつれい)しました」
 彼(かれ)はこそ/\勝手口(かつてぐち)から井戸端(ゐどばた)の方(はう)へ出(で)た。さうして冷(つめ)たい水(みづ)を汲(く)んで出來(でき)る丈(だけ)早(はや)く顏(かほ)を洗(あら)つた。延(の)び掛(か)かつた髯(ひげ)が、頬(ほゝ)の邊(あたり)で手(て)を刺(さ)す樣(やう)にざら/\したが、今(いま)の宗助(そうすけ)にはそれを苦(く)にする程(ほど)の餘裕(よゆう)はなかつた。彼(かれ)はしきりに宜道(ぎだう)と自分(じぶん)とを對照(たいせう)して考(かんが)へた。
 紹介状(せうかいじやう)を貰(もら)ふときに東京(とうきやう)で聞(き)いた所(ところ)によると、此(この)宜道(ぎだう)といふ坊(ばう)さんは、大變(たいへん)性質(たち)の可(い)い男(をとこ)で、今(いま)では修業(しゆげふ)も大分(だいぶ)出來(でき)上(あ)がつてゐると云(い)ふ話(はなし)だつたが、會(あ)つて見(み)ると、丸(まる)で一丁字(いつていじ)もない小廝(こもの)の樣(やう)に丁寧(ていねい)であつた。かうして襷掛(たすきがけ)で働(はたら)いてゐる所(ところ)を見(み)ると、何(ど)うしても一個(こ)の獨立(どくりつ)した庵(あん)の主人(しゆじん)らしくはなかつた。納所(なつしよ)とも小坊主(こばうず)とも云(い)へた。
 此(この)矮小(わいせう)な若僧(じやくそう)は、まだ出家(しゆつけ)をしない前(まへ)、たゞの俗人(ぞくじん)として此所(こゝ)へ修業(しゆげふ)に來(き)た時(とき)、七日(なのか)の間(あひだ)結跏(けつか)したぎり少(すこ)しも動(うご)かなかつたのである。仕舞(しまひ)には足(あし)が痛(いた)んで腰(こし)が立(た)たなくなつて、厠(かはや)へ上(のぼ)る折(をり)などは、やつとの事(こと)壁傳(かべづた)ひに身體(からだ)を運(はこ)んだのである。其(その)時分(じぶん)の彼(かれ)は彫刻家(てうこくか)であつた。見性(けんしやう)した日(ひ)に、嬉(うれ)しさの餘(あま)り、裏(うら)の山(やま)へ馳(か)け上(あが)つて、草木(さうもく)國土(こくど)悉皆(しつかい)成佛(じやうぶつ)と大(おほ)きな聲(こゑ)を出(だ)して叫(さけ)んだ。さうして遂(つひ)に頭(あたま)を剃(そ)つてしまつた。
 此(この)庵(あん)を預(あづ)かる樣(やう)になつてから、もう二年(ねん)になるが、まだ本式(ほんしき)に床(とこ)を延(の)べて、樂(らく)に足(あし)を延(の)ばして寐(ね)た事(こと)はないと云(い)つた。冬(ふゆ)でも着物(きもの)の儘(まゝ)壁(かべ)に倚(もた)れて坐睡(ざすゐ)する丈(だけ)だと云(い)つた。侍者(じしや)をしてゐた頃(ころ)などは、老師(らうし)の犢鼻褌(ふんどし)迄(まで)洗(あら)はせられたと云(い)つた。其上(そのうへ)少(すこ)しの暇(ひま)を偸(ぬす)んで坐(すわ)りでもすると、後(うしろ)から來(き)て意地(いぢ)の惡(わる)い邪魔(じやま)をされる、毒吐(どくづ)かれる、頭(あたま)の剃(そ)り立(た)てには何(なん)の因果(いんぐわ)で坊主(ばうず)になつたかと悔(くや)む事(こと)が多(おほ)かつたと云(い)つた。
「漸(やうや)く此頃(このごろ)になつて少(すこ)し樂(らく)になりました。しかし未(ま)だ先(さき)が御座(ござ)います。修業(しゆげふ)は實際(じつさい)苦(くる)しいものです。さう容易(ようい)に出來(でき)るものなら、いくら私共(わたくしども)が馬鹿(ばか)だつて、斯(か)うして十年(ねん)も二十年(ねん)も苦(くる)しむ譯(わけ)が御座(ござ)いません」
 宗助(そうすけ)はたゞ惘然(ばうぜん)とした。自己(じこ)の根氣(こんき)と精力(せいりよく)の足(た)らない事(こと)を齒掻(はがゆ)く思(おも)ふ上(うへ)に、夫程(それほど)歳月(さいげつ)を掛(か)けなければ成就(じやうじゆ)出來(でき)ないものなら、自分(じぶん)は何(なに)しに此(この)山(やま)の中(なか)迄(まで)遣(や)つて來(き)たか、それからが第(だい)一の矛盾(むじゆん)であつた。
「決(けつ)して損(そん)になる氣遣(きづかひ)は御座(ござ)いません。十分(ぷん)坐(すわ)れば、十分(ぷん)の功(こう)があり、二十分(ぷん)坐(すわ)れば二十分(ぷん)の徳(とく)があるのは無論(むろん)です。其上(そのうへ)最初(さいしよ)を一(ひと)つ奇麗(きれい)に打(ぶ)ち拔(ぬ)いて置(お)けば、あとは斯(か)う云(い)ふ風(ふう)に始終(しじゆう)此所(こゝ)に御出(おいで)にならないでも濟(す)みますから」
 宗助(そうすけ)は義理(ぎり)にも亦(また)自分(じぶん)の室(へや)へ歸(かへ)つて坐(すわ)らなければならなかつた。
 斯(こ)んな時(とき)に宜道(ぎだう)が來(き)て、
「野中(のなか)さん提唱(ていしやう)です」と誘(さそ)つて呉(く)れると、宗助(そうすけ)は心(こゝろ)から嬉(うれ)しい氣(き)がした。彼(かれ)は禿頭(はげあたま)を捕(つら)まへる樣(やう)な手(て)の着(つ)け所(どころ)のない難題(なんだい)に惱(なや)まされて、坐(ゐ)ながら凝(じつ)と煩悶(はんもん)するのを、如何(いか)にも切(せつ)なく思(おも)つた。どんなに精力(せいりよく)を消耗(せうかう)する仕事(しごと)でも可(い)いから、もう少(すこ)し積極的(せききよくてき)に身體(からだ)を働(はた)らかしたく思(おも)つた。
 提唱(ていしやう)のある場所(ばしよ)は、矢張(やは)り一窓庵(いつさうあん)から一町(ちやう)も隔(へだゝ)つてゐた。蓮池(れんち)の前(まへ)を通(とほ)り越(こ)して、それを左(ひだり)へ曲(まが)らずに眞直(まつすぐ)に突(つ)き當(あた)ると、屋根瓦(やねがはら)を嚴(いか)めしく重(かさ)ねた高(たか)い軒(のき)が、松(まつ)の間(あひだ)に仰(あふ)がれた。宜道(ぎだう)は懷(ふところ)に黒(くろ)い表紙(へうし)の本(ほん)を入(い)れてゐた。宗助(そうすけ)は無論(むろん)手(て)ぶらであつた。提唱(ていしやう)と云(い)ふのが、學校(がくかう)でいふ講義(かうぎ)の意味(いみ)である事(こと)さへ、此所(こゝ)へ來(き)て始(はじ)めて知(し)つた。
 室(へや)は高(たか)い天井(てんじやう)に比例(ひれい)して廣(ひろ)く且(か)つ寒(さむ)かつた。色(いろ)の變(かは)つた疊(たゝみ)の色(いろ)が古(ふる)い柱(はしら)と映(て)り合(あ)つて、昔(むかし)を物語(ものがた)る樣(やう)に寂(さ)び果(は)てゝゐた。其所(そこ)に坐(すわ)つてゐる人々(ひと/″\)も皆(みな)地味(ぢみ)に見(み)えた。席次(せきじ)不同(ふどう)に思(おも)ひ々々(/\)の座(ざ)を占(し)めてはゐるが、高聲(かうせい)に語(かた)るもの、笑(わら)ふものは一人(ひとり)もなかつた。僧(そう)は皆(みな)紺麻(こんあさ)の法衣(ころも)を着(き)て、正面(しやうめん)の曲※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)(きよくろく)の左右(さいう)に列(れつ)を作(つく)つて向(むか)ひ合(あは)せに並(なら)んだ。其(その)曲※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)(きよくろく)は朱(しゆ)で塗(ぬ)つてあつた。
 やがて老師(らうし)が現(あら)はれた。疊(たゝみ)を見詰(みつ)めてゐた宗助(そうすけ)には、彼(かれ)が何處(どこ)を通(とほ)つて、何處(どこ)から此所(こゝ)へ出(で)たか薩張(さつぱり)分(わか)らなかつた。たゞ彼(かれ)の落(お)ち付(つ)き拂(はら)つて曲※(「碌のつくり」、第3水準1-84-27)(きよくろく)に倚(よ)る重々(おも/\)しい姿(すがた)を見(み)た。一人(ひとり)の若(わか)い僧(そう)が立(た)ちながら、紫(むらさき)の袱紗(ふくさ)を解(と)いて、中(なか)から取(と)り出(だ)した書物(しよもつ)を、恭(うや/\)しく卓上(たくじやう)に置(お)く所(ところ)を見(み)た。又(また)其(その)禮拜(らいはい)して退(しり)ぞく態(さま)を見(み)た。
 此時(このとき)堂上(だうじやう)の僧(そう)は一齊(いつせい)に合掌(がつしやう)して、夢窓國師(むさうこくし)の遺誡(ゐかい)を誦(じゆ)し始(はじ)めた。思(おも)ひ/\に席(せき)を取(と)つた宗助(そうすけ)の前後(ぜんご)にゐる居士(こじ)も皆(みな)同音(どうおん)に調子(てうし)を合(あは)せた。聞(き)いてゐると、經文(きやうもん)の樣(やう)な、普通(ふつう)の言葉(ことば)の樣(やう)な、一種(いつしゆ)の節(ふし)を帶(お)びた文字(もんじ)であつた。「我(われ)に三等(さんとう)の弟子(でし)あり。所謂(いはゆる)猛烈(まうれつ)にして諸縁(しよえん)を放下(はうげ)し、專一(せんいつ)に己事(こじ)を究明(きうめい)する之(これ)を上等(じやうとう)と名(な)づく。修業(しうげふ)純(じゆん)ならず駁雜(はくざつ)學(がく)を好(この)む、之(これ)を中等(ちゆうとう)と云(い)ふ」云々(うん/\)といふ、餘(あま)り長(なが)くはないものであつた。宗助(そうすけ)は始(はじ)め夢窓國師(むさうこくし)の何人(なんぴと)なるかを知(し)らなかつた。宜道(ぎだう)から此(この)夢窓國師(むさうこくし)と大燈國師(だいとうこくし)とは、禪門(ぜんもん)中興(ちゆうこう)の祖(そ)であると云(い)ふ事(こと)を教(をそ)はつたのである。平生(へいぜい)跛(ちんば)で充分(じゆうぶん)に足(あし)を組(く)む事(こと)が出來(でき)ないのを憤(いきどほ)つて、死(し)ぬ間際(まぎは)に、今日(けふ)こそ己(おれ)の意(い)の如(ごと)くにして見(み)せると云(い)ひながら、惡(わる)い方(はう)の足(あし)を無理(むり)に折(を)つぺしよつて、結跏(けつか)したため、血(ち)が流(なが)れて法衣(ころも)を※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)染(にじ)ましたといふ大燈國師(だいとうこくし)の話(はなし)も其折(そのをり)宜道(ぎだう)から聞(き)いた。
 やがて提唱(ていしやう)が始(はじ)まつた。宜道(ぎだう)は懷(ふところ)から例(れい)の書物(しよもつ)を出(だ)して頁(ページ)を半(なか)ば擦(ず)らして宗助(そうすけ)の前(まへ)へ置(お)いた。それは宗門(しゆうもん)無盡(むじん)燈論(とうろん)と云(い)ふ書物(しよもつ)であつた。始(はじ)めて聞(き)きに出(で)た時(とき)、宜道(ぎだう)は、
「難有(ありがた)い結構(けつこう)な本(ほん)です」と宗助(そうすけ)に教(をし)へて呉(く)れた。白隱和尚(はくいんをしやう)の弟子(でし)の東嶺和尚(とうれいをしやう)とかいふ人(ひと)の編輯(へんしふ)したもので、重(おも)に禪(ぜん)を修行(しゆぎやう)するものが、淺(あさ)い所(ところ)から深(ふか)い所(ところ)へ進(すゝ)んで行(ゆ)く徑路(けいろ)やら、それに伴(とも)なふ心境(しんきやう)の變化(へんくわ)やらを秩序立(ちつじよだ)てゝ書(か)いたものらしかつた。
 中途(ちゆうと)から顏(かほ)を出(だ)した宗助(そうすけ)には、能(よ)くも解(げ)せなかつたけれども、講者(かうじや)は能辯(のうべん)の方(はう)で、默(だま)つて聞(き)いてゐるうちに、大變(たいへん)面白(おもしろ)い所(ところ)があつた。其上(そのうへ)參禪(さんぜん)の士(し)を鼓舞(こぶ)する爲(ため)か、古來(こらい)から斯(この)道(みち)に苦(くる)しんだ人(ひと)の閲歴譚(えつれきだん)抔(など)を取(と)り交(ま)ぜて一段(いちだん)の精彩(せいさい)を着(つ)けるのが例(れい)であつた。此日(このひ)も其(その)通(とほ)りであつたが或所(あるところ)へ來(く)ると、突然(とつぜん)語調(ごてう)を改(あらた)めて、
「此頃(このごろ)室中(しつちゆう)に來(きた)つて、何(ど)うも妄想(まうざう)が起(おこ)つて不可(いけ)ない抔(など)と訴(うつた)へるものがあるが」と急(きふ)に入室者(にふしつしや)の不熱心(ふねつしん)を戒(いま)しめ出(だ)したので、宗助(そうすけ)は覺(おぼ)えずぎくりとした。室中(しつちゆう)に入(い)つて、其(その)訴(うつたへ)をなしたものは實(じつ)に彼(かれ)自身(じしん)であつた。
 一時間(じかん)の後(のち)宜道(ぎだう)と宗助(そうすけ)は袖(そで)をつらねて又(また)一窓庵(いつさうあん)に歸(かへ)つた。其(その)歸(かへ)り路(みち)に宜道(ぎだう)は、
「あゝして提唱(ていしやう)のある時(とき)に、よく參禪者(さんぜんしや)の不心得(ふこゝろえ)を諷(ふう)せられます」と云(い)つた。宗助(そうすけ)は何(なに)も答(こた)へなかつた。

 其内(そのうち)、山(やま)の中(なか)の日(ひ)は、一日々々(いちにち/\)と經(た)つた。御米(およね)からは可(か)なり長(なが)い手紙(てがみ)がもう二本(ほん)來(き)た。尤(もつと)も二本(ほん)とも新(あら)たに宗助(そうすけ)の心(こゝろ)を亂(みだ)す樣(やう)な心配事(しんぱいごと)は書(か)いてなかつた。宗助(そうすけ)は常(つね)の細君(さいくん)思(おも)ひに似(に)ず遂(つひ)に返事(へんじ)を出(だ)すのを怠(おこた)つた。彼(かれ)は山(やま)を出(で)る前(まへ)に、何(なに)とか此間(このあひだ)の問題(もんだい)に片(かた)を付(つ)けなければ、折角(せつかく)來(き)た甲斐(かひ)がない樣(やう)な、又(また)宜道(ぎだう)に對(たい)して濟(す)まない樣(やう)な氣(き)がしてゐた。眼(め)が覺(さ)めてゐる時(とき)は、之(これ)がために名状(めいじやう)し難(がた)い一種(いつしゆ)の壓迫(あつぱく)を受(う)けつゞけに受(う)けた。從(したが)つて日(ひ)が暮(く)れて夜(よ)が明(あ)けて、寺(てら)で見(み)る太陽(たいやう)の數(かず)が重(かさ)なるにつけて、恰(あたか)も後(うしろ)から追(お)ひ掛(か)けられでもする如(ごと)く氣(き)を焦(いら)つた。けれども彼(かれ)は最初(さいしよ)の解決(かいけつ)より外(ほか)に、一歩(ぽ)も此(この)問題(もんだい)にちかづく術(すべ)を知(し)らなかつた。彼(かれ)は又(また)いくら考(かんが)へても此(この)最初(さいしよ)の解決(かいけつ)は確(たしか)なものであると信(しん)じてゐた。たゞ理窟(りくつ)から割(わ)り出(だ)したのだから、腹(はら)の足(たし)には一向(いつかう)ならなかつた。彼(かれ)は此(この)確(たしか)なものを放(はふ)り出(だ)して、更(さら)に又(また)確(たしか)なものを求(もと)めやうとした。けれども左樣(そんな)ものは少(すこ)しも出(で)て來(こ)なかつた。
 彼(かれ)は自分(じぶん)の室(へや)で獨(ひと)り考(かんが)へた。疲(つか)れると、臺所(だいどころ)から下(お)りて、裏(うら)の菜園(さいゑん)へ出(で)た。さうして崖(がけ)の下(した)に掘(ほ)つた横穴(よこあな)の中(なか)へ這入(はい)つて、凝(じ)つと動(うご)かずにゐた。宜道(ぎだう)は氣(き)が散(ち)る樣(やう)では駄目(だめ)だと云(い)つた。段々(だん/\)集注(しふちゆう)して凝(こ)り固(かた)まつて、仕舞(しまひ)に鐵(てつ)の棒(ぼう)の樣(やう)にならなくては駄目(だめ)だと云(い)つた。さう云(い)ふ事(こと)を聞(き)けば聞(き)く程(ほど)、實際(じつさい)にさうなるのが、困難(こんなん)になつた。
「既(すで)に頭(あたま)の中(なか)に、さう仕樣(しやう)と云(い)ふ下心(したごゝろ)があるから不可(いけ)ないのです」と宜道(ぎだう)が又(また)云(い)つて聞(き)かした。宗助(そうすけ)は愈(いよ/\)窮(きゆう)した。忽然(こつぜん)安井(やすゐ)の事(こと)を考(かんが)へ出(だ)した。安井(やすゐ)がもし坂井(さかゐ)の家(いへ)へ頻繁(ひんぱん)に出入(でいり)でもする樣(やう)になつて、當分(たうぶん)滿洲(まんしう)へ歸(かへ)らないとすれば、今(いま)のうちあの借家(しやくや)を引(ひ)き上(あ)げて、何處(どこ)かへ轉宅(てんたく)するのが上分別(じやうふんべつ)だらう。こんな所(ところ)に愚圖々々(ぐづ/\)してゐるより、早(はや)く東京(とうきやう)へ歸(かへ)つて其方(そのはう)の所置(しよち)を付(つ)けた方(はう)がまだ實際的(じつさいてき)かも知(し)れない。緩(ゆつ)くり構(かま)へて、御米(およね)にでも知(し)れると又(また)心配(しんぱい)が殖(ふ)える丈(だけ)だと思(おも)つた。
「私(わたくし)の樣(やう)なものには到底(たうてい)悟(さとり)は開(ひら)かれさうに有(あ)りません」と思(おも)ひ詰(つ)めた樣(やう)に宜道(ぎだう)を捕(つら)まへて云(い)つた。それは歸(かへ)る二三日(にさんち)前(まへ)の事(こと)であつた。
「いえ信念(しんねん)さへあれば誰(だれ)でも悟(さと)れます」と宜道(ぎだう)は躊躇(ちうちよ)もなく答(こた)へた。「法華(ほつけ)の凝(こ)り固(かた)まりが夢中(むちゆう)に太鼓(たいこ)を叩(たゝ)く樣(やう)に遣(や)つて御覽(ごらん)なさい。頭(あたま)の巓邊(てつぺん)から足(あし)の爪先(つまさき)迄(まで)が悉(こと/″\)く公案(こうあん)で充實(じゆうじつ)したとき、俄然(がぜん)として新天地(しんてんち)が現前(げんぜん)するので御座(ござ)います」
 宗助(そうすけ)は自分(じぶん)の境遇(きやうぐう)やら性質(せいしつ)が、夫程(それほど)盲目的(まうもくてき)に猛烈(まうれつ)な働(はたらき)を敢(あへ)てするに適(てき)しない事(こと)を深(ふか)く悲(かな)しんだ。况(いは)んや自分(じぶん)の此(この)山(やま)で暮(く)らすべき日(ひ)は既(すで)に限(かぎ)られてゐた。彼(かれ)は直截(ちよくせつ)に生活(せいくわつ)の葛藤(かつとう)を切(き)り拂(はら)ふ積(つも)りで、却(かへ)つて迂濶(うくわつ)に山(やま)の中(なか)へ迷(まよ)ひ込(こ)んだ愚物(ぐぶつ)であつた。
 彼(かれ)は腹(はら)の中(なか)で斯(か)う考(かんが)へながら、宜道(ぎだう)の面前(めんぜん)で、それ丈(だけ)の事(こと)を言(い)い切(き)る力(ちから)がなかつた。彼(かれ)は心(こゝろ)から此(この)若(わか)い禪僧(ぜんそう)の勇氣(ゆうき)と熱心(ねつしん)と眞面目(まじめ)と親切(しんせつ)とに敬意(けいい)を表(へう)してゐたのである。
「道(みち)は近(ちか)きにあり、却(かへ)つて之(これ)を遠(とほ)きに求(もと)むといふ言葉(ことば)があるが實際(じつさい)です。つい鼻(はな)の先(さき)にあるのですけれども、何(ど)うしても氣(き)が付(つ)きません」と宜道(ぎだう)はさも殘念(ざんねん)さうであつた。宗助(そうすけ)は又(また)自分(じぶん)の室(へや)に退(しりぞ)いて線香(せんかう)を立(た)てた。
 斯(か)う云(い)ふ状態(じやうたい)は、不幸(ふかう)にして宗助(そうすけ)の山(やま)を去(さ)らなければならない日(ひ)迄(まで)、目(め)に立(た)つ程(ほど)の新生面(しんせいめん)を開(ひら)く機會(きくわい)なく續(つゞ)いた。愈(いよ/\)出立(しゆつたつ)の朝(あさ)になつて宗助(そうすけ)は潔(いさぎ)よく未練(みれん)を抛(な)げ棄(す)てた。
「永々(なが/\)御世話(おせわ)になりました。殘念(ざんねん)ですが、何(ど)うも仕方(しかた)がありません。もう當分(たうぶん)御眼(おめ)に掛(か)かる折(をり)も御座(ござ)いますまいから、隨分(ずゐぶん)御機嫌(ごきげん)よう」と宜道(ぎだう)に挨拶(あいさつ)をした。宜道(ぎだう)は氣(き)の毒(どく)さうであつた。
「御世話(おせわ)どころか、萬事(ばんじ)不行屆(ふゆきとゞき)で嘸(さぞ)御窮屈(ごきゆうくつ)で御座(ござ)いましたらう。然(しか)し是程(これほど)御坐(おすわ)りになつても大分(だいぶ)違(ちが)ひます。わざ/\御出(おいで)になつた丈(だけ)の事(こと)は充分(じゆうぶん)御座(ござ)います」と云(い)つた。然(しか)し宗助(そうすけ)には丸(まる)で時間(じかん)を潰(つぶ)しに來(き)た樣(やう)な自覺(じかく)が明(あき)らかにあつた。それを斯(か)う取(と)り繕(つく)ろつて云(い)つて貰(もら)ふのも、自分(じぶん)の腑甲斐(ふがひ)なさからであると、獨(ひと)り耻(は)ぢ入(い)つた。
「悟(さとり)の遲速(ちそく)は全(まつた)く人(ひと)の性質(たち)で、それ丈(だけ)では優劣(いうれつ)にはなりません。入(い)り易(やす)くても後(あと)で塞(つか)へて動(うご)かない人(ひと)もありますし、又(また)初(はじ)め長(なが)く掛(か)かつても、愈(いよ/\)と云(い)ふ場合(ばあひ)に非常(ひじやう)に痛快(つうくわい)に出來(でき)るのもあります。決(けつ)して失望(しつばう)なさる事(こと)は御座(ござ)いません。たゞ熱心(ねつしん)が大切(たいせつ)です。亡(な)くなられた洪川和尚(こうせんをしやう)などは、もと儒教(じゆけう)をやられて、中年(ちゆうねん)からの修業(しゆげふ)で御座(ござ)いましたが、僧(そう)になつてから三年(ねん)の間(あひだ)と云(い)ふもの丸(まる)で一則(いつそく)も通(とほ)らなかつたです。夫(それ)で私(わし)は業(ごふ)が深(ふか)くて悟(さと)れないのだと云(い)つて、毎朝(まいてう)厠(かはや)に向(むか)つて禮拜(らいはい)された位(くらゐ)でありましたが、後(のち)にはあのやうな知識(ちしき)になられました。これ抔(など)は尤(もつと)も好(い)い例(れい)です」
 宜道(ぎだう)は斯(こ)んな話(はなし)をして、暗(あん)に宗助(そうすけ)が東京(とうきやう)へ歸(かへ)つてからも、全(まつた)く此方(このはう)を斷念(だんねん)しない樣(やう)にあらかじめ間接(かんせつ)の注意(ちゆうい)を與(あた)へる樣(やう)に見(み)えた。宗助(そうすけ)は謹(つゝし)んで、宜道(ぎだう)のいふ事(こと)に耳(みゝ)を借(か)した。けれども腹(はら)の中(なか)では大事(だいじ)がもう既(すで)に半分(はんぶん)去(さ)つた如(ごと)くに感(かん)じた。自分(じぶん)は門(もん)を開(あ)けて貰(もら)ひに來(き)た。けれども門番(もんばん)は扉(とびら)の向側(むかふがは)にゐて、敲(たゝ)いても遂(つひ)に顏(かほ)さへ出(だ)して呉(く)れなかつた。たゞ、
「敲(たゝ)いても駄目(だめ)だ。獨(ひと)りで開(あ)けて入(はひ)れ」と云(い)ふ聲(こゑ)が聞(きこ)えた丈(だけ)であつた。彼(かれ)は何(ど)うしたら此(この)門(もん)の閂(くわんのき)を開(あ)ける事(こと)が出來(でき)るかを考(かんが)へた。さうして其(その)手段(しゆだん)と方法(はうはふ)を明(あき)らかに頭(あたま)の中(なか)で拵(こしら)えた。けれども夫(それ)を實地(じつち)に開(あ)ける力(ちから)は、少(すこ)しも養成(やうせい)する事(こと)が出來(でき)なかつた。從(したが)つて自分(じぶん)の立(た)つてゐる場所(ばしよ)は、此(この)問題(もんだい)を考(かんが)へない昔(むかし)と毫(がう)も異(こと)なる所(ところ)がなかつた。彼(かれ)は依然(いぜん)として無能(むのう)無力(むりよく)に鎖(と)ざされた扉(とびら)の前(まへ)に取(と)り殘(のこ)された。彼(かれ)は平生(へいぜい)自分(じぶん)の分別(ふんべつ)を便(たより)に生(い)きて來(き)た。其(その)分別(ふんべつ)が今(いま)は彼(かれ)に祟(たゝ)つたのを口惜(くちをし)く思(おも)つた。さうして始(はじめ)から取捨(しゆしや)も商量(しやうりやう)も容(い)れない愚(おろか)なものゝ一徹(いつてつ)一圖(いちづ)を羨(うらや)んだ。もしくは信念(しんねん)に篤(あつ)い善男善女(ぜんなんぜんによ)の、知慧(ちゑ)も忘(わす)れ思議(しぎ)も浮(うか)ばぬ精進(しやうじん)の程度(ていど)を崇高(すうかう)と仰(あふ)いだ。彼(かれ)自身(じしん)は長(なが)く門外(もんぐわい)に佇立(たゝず)むべき運命(うんめい)をもつて生(うま)れて來(き)たものらしかつた。夫(それ)は是非(ぜひ)もなかつた。けれども、何(ど)うせ通(とほ)れない門(もん)なら、わざ/\其所(そこ)迄(まで)辿(たど)り付(つ)くのが矛盾(むじゆん)であつた。彼(かれ)は後(うしろ)を顧(かへり)みた。さうして到底(たうてい)又(また)元(もと)の路(みち)へ引(ひ)き返(かへ)す勇氣(ゆうき)を有(も)たなかつた。彼(かれ)は前(まへ)を眺(なが)めた。前(まへ)には堅固(けんご)な扉(とびら)が何時(いつ)迄(まで)も展望(てんばう)を遮(さへ)ぎつてゐた。彼(かれ)は門(もん)を通(とほ)る人(ひと)ではなかつた。又(また)門(もん)を通(とほ)らないで濟(す)む人(ひと)でもなかつた。要(えう)するに、彼(かれ)は門(もん)の下(した)に立(た)ち竦(すく)んで、日(ひ)の暮(く)れるのを待(ま)つべき不幸(ふかう)な人(ひと)であつた。
 宗助(そうすけ)は立(た)つ前(まへ)に、宜道(ぎだう)と連(つ)れだつて、老師(らうし)の許(もと)へ一寸(ちよつと)暇乞(いとまごひ)に行(い)つた。老師(らうし)は二人(ふたり)を蓮池(れんち)の上(うへ)の、縁(えん)に勾欄(こうらん)の着(つ)いた座敷(ざしき)に通(とほ)した。宜道(ぎだう)は自(みづか)ら次(つぎ)の間(ま)に立(た)つて、茶(ちや)を入(い)れて出(で)た。
「東京(とうきやう)はまだ寒(さむ)いでせう」と老師(らうし)が云(い)つた。「少(すこ)しでも手掛(てがゝ)りが出來(でき)てからだと、歸(かへ)つたあとも樂(らく)だけれども。惜(をし)い事(こと)で」
 宗助(そうすけ)は老師(らうし)の此(この)挨拶(あいさつ)に對(たい)して、丁寧(ていねい)に禮(れい)を述(の)べて、又(また)十日(とをか)前(まへ)に潛(くゞ)つた山門(さんもん)を出(で)た。甍(いらか)を壓(あつ)する杉(すぎ)の色(いろ)が、冬(ふゆ)を封(ふう)じて黒(くろ)く彼(かれ)の後(うしろ)に聳(そび)えた。

 家(いへ)の敷居(しきゐ)を跨(また)いだ宗助(そうすけ)は、己(おの)れにさへ憫然(びんぜん)な姿(すがた)を描(ゑが)いた。彼(かれ)は過去(くわこ)十日間(とをかかん)毎朝(まいあさ)頭(あたま)を冷水(れいすゐ)で濡(ぬ)らしたなり、未(いま)だ曾(かつ)て櫛(くし)の齒(は)を通(とほ)した事(こと)がなかつた。髭(ひげ)は固(もと)より剃(そ)る暇(いとま)を有(も)たなかつた。三度(さんど)とも宜道(ぎだう)の好意(かうい)で白米(はくまい)の炊(かし)いだのを食(た)べたには食(た)べたが、副食物(ふくしよくぶつ)と云(い)つては、菜(な)の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)(に)たのか、大根(だいこん)の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)(に)たの位(ぐらゐ)なものであつた。彼(かれ)の顏(かほ)は自(おのづ)から蒼(あを)かつた。出(で)る前(まへ)よりも多少(たせう)面窶(おもやつ)れてゐた。其上(そのうへ)彼(かれ)は一窓庵(いつさうあん)で考(かんが)へつゞけに考(かんが)へた習慣(しふくわん)がまだ全(まつた)く拔(ぬ)け切(き)らなかつた。何所(どこ)かに卵(たまご)を抱(いだ)く牝鷄(めんどり)の樣(やう)な心持(こゝろもち)が殘(のこ)つて、頭(あたま)が平生(へいぜい)の通(とほ)り自由(じいう)に働(はた)らかなかつた。其癖(そのくせ)一方(いつぱう)では坂井(さかゐ)の事(こと)が氣(き)に掛(か)かつた。坂井(さかゐ)と云(い)ふよりも、坂井(さかゐ)の所謂(いはゆる)冒險者(アド※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ンチユアラー)として宗助(そうすけ)の耳(みゝ)に響(ひゞ)いた其(その)弟(おとゝ)と、其(その)弟(おとゝ)の友達(ともだち)として彼(かれ)の胸(むね)を騷(さわ)がした安井(やすゐ)の消息(せうそく)が氣(き)にかゝつた。けれども彼(かれ)は自身(じしん)に家主(やぬし)の宅(たく)へ出向(でむ)いてそれを聞(き)き糺(たゞ)す勇氣(ゆうき)を有(も)たなかつた。間接(かんせつ)にそれを御米(およね)に問(と)ふことは猶(なほ)出來(でき)なかつた。彼(かれ)は山(やま)にゐる間(あひだ)さへ、御米(およね)が此(この)事件(じけん)に就(つ)いて何事(なにごと)も耳(みゝ)にして呉(く)れなければ可(い)いがと氣遣(きづか)はない日(ひ)はなかつた位(くらゐ)である。宗助(そうすけ)は年來(ねんらい)住(す)み慣(な)れた家(いへ)の座敷(ざしき)に坐(すわ)つて、
「汽車(きしや)に乘(の)ると短(みじ)かい道中(だうちゆう)でも氣(き)の所爲(せゐ)か疲(つか)れるね。留守中(るすちゆう)に別段(べつだん)變(かは)つた事(こと)はなかつたかい」と聞(き)いた。實際(じつさい)彼(かれ)は短(みじ)かい汽車(きしや)旅行(りよかう)にさへ堪(た)へかねる顏付(かほつき)をしてゐた。
 御米(およね)は如何(いか)な場合(ばあひ)にも夫(をつと)の前(まへ)に忘(わす)れなかつた笑顏(ゑがほ)さへ作(つく)り得(え)なかつた。と云(い)つて、折角(せつかく)保養(ほやう)に行(い)つた轉地先(てんちさき)から今(いま)歸(かへ)つて來(き)たばかりの夫(をつと)に、行(ゆ)かない前(まへ)より却(かへ)つて健康(けんかう)が惡(わる)くなつたらしいとは、氣(き)の毒(どく)で露骨(ろこつ)に話(はな)し惡(にく)かつた。わざと活溌(くわつぱつ)に、
「いくら保養(ほやう)でも、家(うち)へ歸(かへ)ると、少(すこ)しは氣疲(きづかれ)が出(で)るものよ。けれども貴方(あなた)は餘(あん)まり爺々汚(ぢゞむさ)いわ。後生(ごしやう)だから一休(ひとやすみ)したら御湯(おゆ)に行(い)つて頭(あたま)を刈(か)つて髭(ひげ)を剃(す)つて來(き)て頂戴(ちやうだい)」と云(い)ひながら、わざ/\机(つくゑ)の引出(ひきだし)から小(ちひ)さな鏡(かゞみ)を出(だ)して見(み)せた。
 宗助(そうすけ)は御米(およね)の言葉(ことば)を聞(き)いて、始(はじ)めて一窓庵(いつさうあん)の空氣(くうき)を風(かぜ)で拂(はら)つた樣(やう)な心持(こゝろもち)がした。一(ひと)たび山(やま)を出(で)て家(うち)へ歸(かへ)れば矢張(やは)り元(もと)の宗助(そうすけ)であつた。
「坂井(さかゐ)さんからは其後(そのご)何(なん)とも云(い)つて來(こ)ないかい」
「いゝえ何(なん)とも」
「小六(ころく)の事(こと)も」
「いゝえ」
 其(その)小六(ころく)は圖書館(としよくわん)へ行(い)つて留守(るす)だつた。宗助(そうすけ)は手拭(てぬぐひ)と石鹸(せきけん)を持(も)つて外(そと)へ出(で)た。
 明(あく)る日(ひ)役所(やくしよ)へ出(で)ると、みんなから病氣(びやうき)はどうだと聞(き)かれた。中(なか)には少(すこ)し瘠(や)せた樣(やう)ですねと云(い)ふものもあつた。宗助(そうすけ)には夫(それ)が無意識(むいしき)の冷評(れいひやう)の意味(いみ)に聞(きこ)えた。菜根譚(さいこんたん)を讀(よ)む男(をとこ)はたゞ何(ど)うです旨(うま)く行(い)きましたかと尋(たづ)ねた。宗助(そうすけ)は此(この)問(とひ)にも大分(だいぶ)痛(いた)い思(おもひ)をした。
 其晩(そのばん)は又(また)御米(およね)と小六(ころく)から代(かは)る/″\鎌倉(かまくら)の事(こと)を根掘(ねほ)り葉掘(はほ)り問(と)はれた。
「氣樂(きらく)でせうね。留守居(るすゐ)も何(なに)も置(お)かないで出(で)られたら」と御米(およね)が云(い)つた。
「それで一日(いちんち)幾何(いくら)出(だ)すと置(お)いて呉(く)れるんです」と小六(ころく)が聞(き)いた。「鐵砲(てつぱう)でも擔(かつ)いで行(い)つて、獵(れふ)でもしたら面白(おもしろ)からう」とも云(い)つた。
「然(しか)し退屈(たいくつ)ね。そんなに淋(さむ)しくつちや。朝(あさ)から晩(ばん)迄(まで)寐(ね)て入(い)らつしやる譯(わけ)にも行(い)かないでせう」と御米(およね)が又(また)云(い)つた。
「もう少(すこ)し滋養物(じやうぶつ)が食(く)へる所(ところ)でなくつちあ、矢(や)つ張(ぱ)り身體(からだ)に可(よ)くないでせう」と小六(ころく)が又(また)云(い)つた。
 宗助(そうすけ)は其夜(そのよ)床(とこ)の中(なか)へ入(はひ)つて、明日(あした)こそ思(おも)ひ切(き)つて、坂井(さかゐ)へ行(い)つて安井(やすゐ)の消息(せうそく)をそれとなく聞(き)き糺(たゞ)して、もし彼(かれ)がまだ東京(とうきやう)にゐて、猶(なほ)しば/\坂井(さかゐ)と徃復(わうふく)がある樣(やう)なら、遠(とほ)くの方(はう)へ引越(ひつこ)して仕舞(しま)はうと考(かんが)へた。
 次(つぎ)の日(ひ)は平凡(へいぼん)に宗助(そうすけ)の頭(あたま)を照(て)らして、事(こと)なき光(ひかり)を西(にし)に落(おと)した。夜(よ)に入(い)つて彼(かれ)は、
「一寸(ちよつと)坂井(さかゐ)さん迄(まで)行(い)つて來(く)る」と云(い)ひ捨(す)てゝ門(もん)を出(で)た。月(つき)のない坂(さか)を上(のぼ)つて、瓦斯燈(ガスとう)に照(て)らされた砂利(じやり)を鳴(な)らしながら潛戸(くゞりど)を開(あ)けた時(とき)、彼(かれ)は今夜(こんや)此所(こゝ)で安井(やすゐ)に落(お)ち合(あ)ふ樣(やう)な萬一(まんいち)はまづ起(おこ)らないだらうと度胸(どきよう)を据(す)ゑた。それでもわざと勝手口(かつてぐち)へ回(まは)つて、御客來(おきやくらい)ですかと聞(き)くことは忘(わす)れなかつた。
「能(よ)く御出(おいで)です。何(ど)うも相變(あひかは)らず寒(さむ)いぢやありませんか」と云(い)ふ常(つね)の通(とほ)り元氣(げんき)の好(い)い主人(しゆじん)を見(み)ると、子供(こども)を大勢(おほぜい)自分(じぶん)の前(まへ)へ並(なら)べて、其中(そのうち)の一人(ひとり)と掛聲(かけごゑ)をかけながら、じやん拳(けん)を遣(や)つてゐた。相手(あひて)の女(をんな)の子(こ)の年(とし)は、六(むつ)つ許(ばかり)に見(み)えた。赤(あか)い幅(はゞ)のあるリボンを蝶々(てふ/\)の樣(やう)に頭(あたま)の上(うへ)に喰付(くつつ)けて、主人(しゆじん)に負(ま)けない程(ほど)の勢(いきほひ)で、小(ちひ)さな手(て)を握(にぎ)り固(かた)めてさつと前(まへ)へ出(だ)した。其(その)斷然(だんぜん)たる樣子(やうす)と、其(その)握(にぎ)り拳(こぶし)の小(ちひ)さゝと、之(これ)に反(はん)して主人(しゆじん)の仰山(ぎやうさん)らしく大(おほ)きな拳骨(げんこつ)が、對照(たいせう)になつて皆(みんな)の笑(わらひ)を惹(ひ)いた。火鉢(ひばち)の傍(はた)に見(み)てゐた細君(さいくん)は、
「そら今度(こんだ)こさ雪子(ゆきこ)の勝(かち)だ」と云(い)つて愉快(ゆくわい)さうに綺麗(きれい)な齒(は)を露(あら)はした。子供(こども)の膝(ひざ)の傍(そば)には白(しろ)だの赤(あか)だの藍(あゐ)だのゝ硝子玉(がらすだま)が澤山(たくさん)あつた。主人(しゆじん)は、
「とう/\雪子(ゆきこ)に負(ま)けた」と席(せき)を外(はづ)して、宗助(そうすけ)の方(はう)を向(む)いたが、「何(ど)うです又(また)洞窟(とうくつ)へでも引(ひ)き込(こ)みますかな」と云(い)つて立(た)ち上(あ)がつた。
 書齋(しよさい)の柱(はしら)には例(れい)の如(ごと)く錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れた蒙古刀(もうこたう)が振(ぶ)ら下(さ)がつてゐた。花活(はないけ)には何處(どこ)で咲(さ)いたか、もう黄色(きいろ)い菜(な)の花(はな)が插(さ)してあつた。宗助(そうすけ)は床柱(とこばしら)の中途(ちゆうと)を華(はな)やかに彩(いろ)どる袋(ふくろ)に眼(め)を着(つ)けて、
「相變(あひかは)らず掛(か)かつて居(を)りますな」と云(い)つた。さうして主人(しゆじん)の氣色(けしき)を頭(あたま)の奧(おく)から窺(うかゞ)つた。主人(しゆじん)は、
「えゝ些(ち)と物數奇(ものずき)過(す)ぎますね、蒙古刀(もうこたう)は」と答(こた)へた。「所(ところ)が弟(おとゝ)の野郎(やらう)そんな玩具(おもちや)を持(も)つて來(き)ては、兄貴(あにき)を籠絡(ろうらく)する積(つもり)だから困(こま)りものぢやありませんか」
「御舍弟(ごしやてい)は其後(そのご)何(ど)うなさいました」と宗助(そうすけ)は何氣(なにげ)ない風(ふう)を示(しめ)した。
「えゝ漸(やうや)く四五日(にち)前(まへ)歸(かへ)りました。ありや全(まつた)く蒙古向(もうこむき)ですね。御前(おまへ)の樣(やう)な夷狄(いてき)は東京(とうきやう)にや調和(てうわ)しないから早(はや)く歸(かへ)れつたら、私(わたし)もさう思(おも)ふつて歸(かへ)つて行(い)きました。何(ど)うしても、ありや萬里(ばんり)の長城(ちやうじやう)の向側(むかふがは)にゐるべき人物(じんぶつ)ですよ。さうしてゴビの沙漠(さばく)の中(なか)で金剛石(ダイヤモンド)でも搜(さが)してゐれば可(い)いんです」
「もう一人(ひとり)の御伴侶(おつれ)は」
「安井(やすゐ)ですか、あれも無論(むろん)一所(いつしよ)です。あゝなると落(お)ち付(つ)いちや居(ゐ)られないと見(み)えますね。何(なん)でも元(もと)は京都大學(きやうとだいがく)にゐたこともあるんだとか云(い)ふ話(はなし)ですが。何(ど)うして、あゝ變化(へんくわ)したものですかね」
 宗助(そうすけ)は腋(わき)の下(した)から汗(あせ)が出(で)た。安井(やすゐ)が何(ど)う變(かは)つて、どう落(お)ち付(つ)かないのか、全(まつた)く聞(き)く氣(き)にはならなかつた。たゞ自分(じぶん)が主人(しゆじん)に安井(やすゐ)と同(おな)じ大學(だいがく)にゐた事(こと)を、まだ洩(も)らさなかつたのを天祐(てんいう)の樣(やう)に有難(ありがた)く思(おも)つた。けれども主人(しゆじん)は其(その)弟(おとうと)と安井(やすゐ)とを晩餐(ばんさん)に呼(よ)ぶとき、自分(じぶん)を此(この)二人(ふたり)に紹介(せうかい)しやうと申(まを)し出(で)た男(をとこ)である。辭退(じたい)をして其(その)席(せき)へ顏(かほ)を出(だ)す不面目丈(ふめんもくだけ)は漸(やつ)と免(まぬ)かれた樣(やう)なものゝ、其(その)晩(ばん)主人(しゆじん)が何(なに)かの機會(はずみ)につい自分(じぶん)の名(な)を二人(ふたり)に洩(も)らさないとは限(かぎ)らなかつた。宗助(そうすけ)は後暗(うしろぐら)い人(ひと)の、變名(へんみやう)を用(もち)ひて世(よ)を渡(わた)る便利(べんり)を切(せつ)に感(かん)じた。彼(かれ)は主人(しゆじん)に向(むか)つて、「貴方(あなた)はもしや私(わたくし)の名(な)を安井(やすゐ)の前(まへ)で口(くち)にしやしませんか」と聞(き)いて見(み)たくて堪(たま)らなかつた。けれども、夫丈(それだけ)は何(ど)うしても聞(き)けなかつた。
 下女(げぢよ)が平(ひら)たい大(おほ)きな菓子皿(くわしざら)に妙(めう)な菓子(くわし)を盛(も)つて出(で)た。一丁(いつちやう)の豆腐(とうふ)位(ぐらゐ)な大(おほ)きさの金玉糖(きんぎよくたう)の中(なか)に、金魚(きんぎよ)が二疋(ひき)透(す)いて見(み)えるのを、其儘(そのまゝ)庖丁(はうちやう)の刄(は)を入(い)れて、元(もと)の形(かたち)を崩(くづ)さずに、皿(さら)に移(うつ)したものであつた。宗助(そうすけ)は一目(ひとめ)見(み)て、たゞ珍(めづ)らしいと感(かん)じた。けれども彼(かれ)の頭(あたま)は寧(むし)ろ他(ほか)の方面(はうめん)に氣(き)を奪(うば)はれてゐた。すると主人(しゆじん)が、
「何(ど)うです一(ひと)つ」と例(いつも)の通(とほ)り先(ま)づ自分(じぶん)から手(て)を出(だ)した。
「是(これ)はね、昨日(きのふ)ある人(ひと)の銀婚式(ぎんこんしき)に呼(よ)ばれて、貰(もら)つて來(き)たのだから、頗(すこ)ぶる御目出度(おめでたい)のです。貴方(あなた)も一切(ひときれ)位(ぐらゐ)肖(あやか)つても可(い)いでせう」
 主人(しゆじん)は肖(あやか)りたい名(な)の下(もと)に、甘垂(あまた)るい金玉糖(きんぎよくたう)を幾切(いくきれ)か頬張(ほゝば)つた。これは酒(さけ)も呑(の)み、茶(ちや)も呑(の)み、飯(めし)も菓子(くわし)も食(く)へる樣(やう)に出來(でき)た、重寶(ちようはう)で健康(けんかう)な男(をとこ)であつた。
「何(なに)實(じつ)を云(い)ふと、二十年(ねん)も三十年(ねん)も夫婦(ふうふ)が皺(しわ)だらけになつて生(い)きてゐたつて、別(べつ)に御目出度(おめでたく)もありませんが、其所(そこ)が物(もの)は比較的(ひかくてき)な所(ところ)でね。私(わたくし)は何時(いつ)か清水谷(しみづだに)の公園(こうゑん)の前(まへ)を通(とほ)つて驚(おど)ろいた事(こと)がある」と變(へん)な方面(はうめん)へ話(はなし)を持(も)つて行(い)つた。斯(か)ういふ風(ふう)に、夫(それ)から夫(それ)へと客(きやく)を飽(あ)かせない樣(やう)に引張(ひつぱ)つて行(ゆ)くのが、社交(しやかう)になれた主人(しゆじん)の平生(へいぜい)の調子(てうし)であつた。
 彼(かれ)の云(い)ふ所(ところ)によると、清水谷(しみづだに)から辨慶橋(べんけいばし)へ通(つう)じる泥溝(どぶ)の樣(やう)な細(ほそ)い流(ながれ)の中(なか)に、春先(はるさき)になると無數(むすう)の蛙(かへる)が生(うま)れるのださうである。其(その)蛙(かへる)が押(お)し合(あ)ひ鳴(な)き合(あ)つて生長(せいちやう)するうちに、幾(いく)百組(くみ)か幾(いく)千組(くみ)の戀(こひ)が泥渠(どぶ)の中(なか)で成立(せいりつ)する。さうして夫等(それら)の愛(あい)に生(い)きるものが重(かさ)ならない許(ばかり)に隙間(すきま)なく清水谷(しみづだに)から辨慶橋(べんけいばし)へ續(つゞ)いて、互(たがひ)に睦(むつ)まじく浮(うい)てゐると、通(とほ)り掛(がゝ)りの小僧(こぞう)だの閑人(ひまじん)が、石(いし)を打(う)ち付(つ)けて、無殘(むざん)にも蛙(かへる)の夫婦(ふうふ)を殺(ころ)して行(い)くものだから、其(その)數(かず)が殆(ほと)んど勘定(かんぢやう)し切(き)れない程(ほど)多(おほ)くなるのださうである。
「死屍累々(ししるゐ/\)とはあの事(こと)ですね。それが皆(みんな)夫婦(ふうふ)なんだから實際(じつさい)氣(き)の毒(どく)ですよ。詰(つま)りあすこを二三丁(ちやう)通(とほ)るうちに、我々(われ/\)は悲劇(ひげき)にいくつ出逢(であ)ふか分(わか)らないんです。夫(それ)を考(かんが)へると御互(おたがひ)は實(じつ)に幸福(かうふく)でさあ。夫婦(ふうふ)になつてるのが惡(にく)らしいつて、石(いし)で頭(あたま)を破(わ)られる恐(おそ)れは、まあ無(な)いですからね。しかも双方(さうはう)ともに二十年(ねん)も三十年(ねん)も安全(あんぜん)なら、全(まつた)く御目出(おめで)たいに違(ちがひ)ありませんよ。だから一切(ひときれ)位(ぐらゐ)肖(あやか)つて置(お)く必要(ひつえう)もあるでせう」と云(い)つて、主人(しゆじん)はわざと箸(はし)で金玉糖(きんぎよくたう)を挾(はさ)んで、宗助(そうすけ)の前(まへ)に出(だ)した。宗助(そうすけ)は苦笑(くせう)しながら、それを受(う)けた。
 こんな冗談(じようだん)交(まじ)りの話(はなし)を、主人(しゆじん)はいくらでも續(つゞ)けるので、宗助(そうすけ)は已(や)むを得(え)ず或(あ)る邊(へん)までは釣(つ)られて行(い)つた。けれども腹(はら)の中(なか)は決(けつ)して主人(しゆじん)の樣(やう)に太平樂(たいへいらく)には行(ゆ)かなかつた。辭(じ)して表(おもて)へ出(で)て、又(また)月(つき)のない空(そら)を眺(なが)めた時(とき)は、其(その)深(ふか)く黒(くろ)い色(いろ)の下(もと)に、何(なん)とも知(し)れない一種(いつしゆ)の悲哀(ひあい)と物凄(ものすご)さを感(かん)じた。
 彼(かれ)は坂井(さかゐ)の家(いへ)に、たゞ苟(いやし)くも免(まぬ)かれんとする料簡(れうけん)で行(い)つた。さうして、其(その)目的(もくてき)を達(たつ)するために、耻(はぢ)と不愉快(ふゆくわい)を忍(しの)んで、好意(かうい)と眞率(しんそつ)の氣(き)に充(み)ちた主人(しゆじん)に對(たい)して、政略的(せいりやくてき)に談話(だんわ)を驅(か)つた。しかも知(し)らうと思(おも)ふ事(こと)は悉(こと/″\)く知(し)る事(こと)が出來(でき)なかつた。己(おの)れの弱點(じやくてん)に付(つ)いては、一言(ひとこと)も彼(かれ)の前(まへ)に自白(じはく)するの勇氣(ゆうき)も必要(ひつえう)も認(みと)めなかつた。
 彼(かれ)の頭(あたま)を掠(かす)めんとした雨雲(あまぐも)は、辛(から)うじて、頭(あたま)に觸(ふ)れずに過(す)ぎたらしかつた。けれども、是(これ)に似(に)た不安(ふあん)は是(これ)から先(さき)何度(なんど)でも、色々(いろ/\)な程度(ていど)に於(おい)て、繰(く)り返(かへ)さなければ濟(す)まない樣(やう)な虫(むし)の知(し)らせが何處(どこ)かにあつた。それを繰(く)り返(かへ)させるのは天(てん)の事(こと)であつた。それを逃(に)げて回(まは)るのは宗助(そうすけ)の事(こと)であつた。

 月(つき)が變(かは)つてから寒(さむ)さが大分(だいぶ)緩(ゆる)んだ。官吏(くわんり)の増俸(ぞうほう)問題(もんだい)につれて必然(ひつぜん)起(おこ)るべく、多數(たすう)の噂(うはさ)に上(のぼ)つた局員(きよくゐん)課員(くわゐん)の淘汰(たうた)も、月末(げつまつ)迄(まで)に略(ほゞ)片付(かたづ)いた。其(その)間(あひだ)ぽつり/\と首(くび)を斬(き)られる知人(ちじん)や未知人(みちじん)の名前(なまへ)を絶(た)えず耳(みゝ)にした宗助(そうすけ)は、時々(とき/″\)家(うち)へ歸(かへ)つて御米(およね)に、
「今度(こんだ)は己(おれ)の番(ばん)かも知(し)れない」と云(い)ふ事(こと)があつた。御米(およね)はそれを冗談(じようだん)とも聞(き)き、又(また)本氣(ほんき)とも聞(き)いた。稀(まれ)には隱(かく)れた未來(みらい)を故意(こい)に呼(よ)び出(だ)す不吉(ふきつ)な言葉(ことば)とも解釋(かいしやく)した。それを口(くち)にする宗助(そうすけ)の胸(むね)の中(なか)にも、御米(およね)と同(おな)じ樣(やう)な雲(くも)が去來(きよらい)した。
 月(つき)が改(あらたま)つて、役所(やくしよ)の動搖(どうえう)も是(これ)で一段落(いちだんらく)だと沙汰(さた)せられた時(とき)、宗助(そうすけ)は生(い)き殘(のこ)つた自分(じぶん)の運命(うんめい)を顧(かへ)りみて、當然(たうぜん)の樣(やう)にも思(おも)つた。又(また)偶然(ぐうぜん)の樣(やう)にも思(おも)つた。立(た)ちながら、御米(およね)を見下(みおろ)して、
「まあ助(たす)かつた」と六(む)づかし氣(げ)に云(い)つた。其(その)嬉(うれ)しくも悲(かな)しくもない樣子(やうす)が、御米(およね)には天(てん)から落(お)ちた滑稽(こつけい)に見(み)えた。
 又(また)二三日(にち)して宗助(そうすけ)の月給(げつきふ)が五圓(ゑん)昇(のぼ)つた。
「原則通(げんそくどほ)り二割(わり)五分(ぶ)増(ま)さないでも仕方(しかた)があるまい。休(や)められた人(ひと)も、元給(げんきふ)の儘(まゝ)でゐる人(ひと)も澤山(たくさん)あるんだから」と云(い)つた宗助(そうすけ)は、此(この)五圓(ゑん)に自己(じこ)以上(いじやう)の價値(かち)をもたらし歸(かへ)つた如(ごと)く滿足(まんぞく)の色(いろ)を見(み)せた。御米(およね)は無論(むろん)の事(こと)心(こゝろ)のうちに不足(ふそく)を訴(うつた)へるべき餘地(よち)を見出(みいだ)さなかつた。
 翌日(あくるひ)の晩(ばん)宗助(そうすけ)はわが膳(ぜん)の上(うへ)に頭(かしら)つきの魚(うを)の、尾(を)を皿(さら)の外(そと)に躍(をど)らす態(さま)を眺(なが)めた。小豆(あづき)の色(いろ)に染(そ)まつた飯(めし)の香(かをり)を嗅(か)いだ。御米(およね)はわざ/\清(きよ)を遣(や)つて、坂井(さかゐ)の家(いへ)に引(ひ)き移(うつ)つた小六(ころく)を招(まね)いた。小六(ころく)は、
「やあ御馳走(ごちそう)だなあ」と云(い)つて勝手(かつて)から入(はひ)つて來(き)た。
 梅(うめ)がちらほらと眼(め)に入(い)る樣(やう)になつた。早(はや)いのは既(すで)に色(いろ)を失(うし)なつて散(ち)りかけた。雨(あめ)は烟(けむ)る樣(やう)に降(ふ)り始(はじ)めた。それが霽(は)れて、日(ひ)に蒸(む)されるとき、地面(ぢめん)からも、屋根(やね)からも、春(はる)の記憶(きおく)を新(あらた)にすべき濕氣(しつき)がむら/\と立(た)ち上(のぼ)つた。脊戸(せど)に干(ほ)した雨傘(あまがさ)に、小犬(こいぬ)がじやれ掛(か)ゝつて、蛇(じや)の目(め)の色(いろ)がきら/\する所(ところ)に陽炎(かげろふ)が燃(も)える如(ごと)く長閑(のどか)に思(おも)はれる日(ひ)もあつた。
「漸(やうや)く冬(ふゆ)が過(す)ぎた樣(やう)ね。貴方(あなた)今度(こんだ)の土曜(どえう)に佐伯(さへき)の叔母(をば)さんの處(ところ)へ回(まは)つて、小六(ころく)さんの事(こと)を極(き)めて入(い)らつしやいよ。あんまり何時(いつ)迄(まで)も放(はふ)つて置(お)くと又(また)安(やす)さんが忘(わす)れて仕舞(しま)ふから」と御米(およね)が催促(さいそく)した。宗助(そうすけ)は、
「うん、思(おも)ひ切(き)つて行(い)つて來(き)よう」と答(こた)へた。小六(ころく)は坂井(さかゐ)の好意(かうい)で、其所(そこ)の書生(しよせい)に住(す)み込(こ)んだ。其上(そのうへ)に宗助(そうすけ)と安之助(やすのすけ)が、不足(ふそく)の所(ところ)を分擔(ぶんたん)する事(こと)が出來(でき)たらと小六(ころく)に云(い)つて聞(き)かしたのは、宗助(そうすけ)自身(じしん)であつた。小六(ころく)は兄(あに)の運動(うんどう)を待(ま)たずに、すぐ安之助(やすのすけ)に直談判(ぢきだんぱん)をした。さうして、形式的(けいしきてき)に宗助(そうすけ)の方(はう)から依頼(いらい)すればすぐ安之助(やすのすけ)が引(ひ)き受(う)ける迄(まで)に自分(じぶん)で埒(らち)を明(あ)けたのである。
 小康(せうかう)は斯(か)くして事(こと)を好(この)まない夫婦(ふうふ)の上(うへ)に落(お)ちた。ある日曜(にちえう)の午(ひる)宗助(そうすけ)は久(ひさ)し振(ぶ)りに、四日目(よつかめ)の垢(あか)を流(なが)すため横町(よこちやう)の洗湯(せんたう)に行(い)つたら、五十許(ばかり)の頭(あたま)を剃(そ)つた男(をとこ)と、三十代(だい)の商人(あきんど)らしい男(をとこ)が、漸(やうや)く春(はる)らしくなつたと云(い)つて、時候(じこう)の挨拶(あいさつ)を取(と)り換(か)はしてゐた。若(わか)い方(はう)が、今朝(けさ)始(はじ)めて鶯(うぐひす)の鳴聲(なきごゑ)を聞(き)いたと話(はな)すと、坊(ばう)さんの方(はう)が、私(わたし)は二三日前(にちまへ)にも一度(ど)聞(き)いた事(こと)があると答(こた)へてゐた。
「まだ鳴(な)きはじめだから下手(へた)だね」
「えゝ、まだ充分(じゆうぶん)に舌(した)が回(まは)りません」
 宗助(そうすけ)は家(うち)へ歸(かへ)つて御米(およね)に此(この)鶯(うぐひす)の問答(もんだふ)を繰(く)り返(かへ)して聞(き)かせた。御米(およね)は障子(しやうじ)の硝子(がらす)に映(うつ)る麗(うらゝ)かな日影(ひかげ)をすかして見(み)て、
「本當(ほんたう)に有難(ありがた)いわね。漸(やうや)くの事(こと)春(はる)になつて」と云(い)つて、晴(は)れ/″\しい眉(まゆ)を張(は)つた。宗助(そうすけ)は縁(えん)に出(で)て長(なが)く延(の)びた爪(つめ)を剪(き)りながら、
「うん、然(しか)し又(また)ぢき冬(ふゆ)になるよ」と答(こた)へて、下(した)を向(む)いたまゝ鋏(はさみ)を動(うご)かしてゐた。
了

底本:「漱石全集 第四卷 三四郎 それから 門」岩波書店
   1966(昭和41)年3月25日発行
   1975(昭和50)年3月10日第2刷発行
初出:「朝日新聞」
   1910(明治43)年3月1日〜6月12日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「成効」と「成效」、「漸(やう)やく」「漸(やうや)く」、「僞物」と「贋物」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の注解は省略しました。
入力:阿部哲也
校正:染川隆俊
2018年12月24日作成
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