しばらくすると、下の方では、また賑[#ルビの「にぎ」は底本では「にぎや」]やかに、羽子つきの響がきこえてきました。別の新しい羽子が高く舞い上っているのです。
「モシ モシ」と、樋にひっかかっている羽子は、眼の前に別の羽子が見えてくるたびに呼びかけてみました。しかし、それはすぐ見えなくなって、下の方におりてゆきます。
「モシ モシ」「モシ モシ」何度よびかけてみても、相手にはきこえません。そのうちに下の方では羽子つきの音もやんでいました。
「もう、おうちへ帰ろうッと」という声がして、玄関の戸がガラッとあく音がしました。あたりは薄暗くなり家の方では灯がつきました。樋にひっかかっている羽子はだんだん心細くなりました。屋根の上の空には三月が見え、星がかがやいてきました。とうとう夜になったのです。ああどうしよう、どうしよう、どうしたらいいのかしら、と、羽子は小さなためいきをつきました。
星の光はだんだん、はっきり見えて来ます。空がこんなに深いのを羽子は今はじめて知りました。一つ一つの星はみんな、それぞれ空の深いことを考えつづけているのでしょう。一つ二つ三つ四つ五つ……と、羽子は数を数えてゆきました。百、二千、三千、いくつ数えて行っても、まだ夜は明けませんでした。夜がこんなに長いということを羽子は今しみじみと知りました。
今あの羽子板の少女はどうしているかしら、と羽子は考へました。眼のくりくりっとした、羽子板の少女の顔がはっきりと思い出せるのでした。羽子板は今、家のなかに静かに置かれていることでしょう。羽子は、あの羽子板の少女がとても好きなのでした。もう一度あの少女のところへ帰って行きたい。あの少女も多分、僕のことを心配しているだろう、と羽子は思いました。
一つ二つ三つ四つ五つ……羽子は何度もくりかえして数を数えてゆきました。
東の方の空が少しずつ明るんできました。やがて、雲の間から太陽が現れました。薔薇色の雲の間から洩れて来る光は、樋のところの羽子を照らしました。すると、羽子はまた急に元気が出てくるのでした。
了
底本:「原民喜童話集」イニュニック
2017(平成29)年11月15日第1刷発行
底本の親本:「定本原民喜全集」青土社
1978(昭和53)年9月20日発行
「新装版原民喜全集第三巻」芳賀書店
1969(昭和44)年10月5日発行
※底本では「羽子は小さなためいきをつきました。」の後に空行が一行はいりますが、誤植を疑い、いれておりません。
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。
入力:竹井真
校正:砂場清隆
2023年10月9日作成
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