あらすじ
足利尊氏は、武将としての才能に恵まれず、常に苦戦を強いられる運命に翻弄されます。彼は禅を学び、人生の苦しみを深く理解していました。しかし、武家の棟梁として戦場を生き抜く彼は、自身の境遇と哲学の間で葛藤し、深い悲しみを抱えていました。英雄としての成功とは無縁に、宿命の悲劇に抗いながら、彼は生きたのです。尊氏に對する僕の興味は、主としてその人物の哲學的雄大さと、性格の深刻性とに存するのである。尊氏は夢窓國師に就いて禪を學び、その深奧を究めて居たが、この無抵抗主義の佛教哲學が、彼の場合に於ては、その武人としての境遇と一致せず絶えず深刻な矛盾に苦しんで居た。彼の痛ましい悲壯な生涯は丁度ローマの哲學皇帝、背教者ジユリアンの悲劇を聯想させる。ジユリアンの場合は、詩人が皇帝の家系に生れ、瞑想家であるべき人が、境遇のために武人となり、誤つて戰場に出たことに悲劇をもつてる。足利尊氏の場合も同樣であり、本來哲學者であるべきが、武將の名門に生れた爲に、周圍から無理に押されて擔ぎあげられ、生涯を戰場にすごさねばならなかつた。ジユリアンの場合と同じく、これは宿命の最も大きな悲劇である。
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足利尊氏は、決して如何なる敵をも憎まなかつた。のみならず彼は、自分の正面の敵を愛し且つ常に尊敬した。彼は特にその最も仇敵である楠正成を愛敬し、常に左右に語つて「正成こそは我を知る唯一の知己」と話して居た。おそらくこの感想は尊氏にとつての實感であり、他人に理解されない深刻な意味を持つものだらう。それ故正成の戰死した時、彼は天を仰いで長嘆し、「爾後また誰れと共に語らん!」と言つたさうである。その正成の首を鄭重に禮葬して、河内の遺族に送り屆けたるは、小學校の讀本にも書いてある通りである。その結果は却つて遺族の敵愾心を挑發し、子の正行をして「七度生れて尊氏の首を斬らん」と叫ばせたが、尊氏がもしそれを聞いたら、人生孤獨の感を深くし、一層寂しく暗然としたことだらう。
正成ばかりでなく、新田一族に對しても、決して仇敵としての憎しみを持たなかつた。況んや他の一般の敵に對しては、すべて皆心から抱擁し、最も憎むべき忘恩者や裏切者でさへも、降參する以上はすべてを許して優遇した。「汝の敵を愛せよ」といふキリストの言葉が、尊氏の戰爭哲學に於けるモツトオだつた。しかし尊氏の哲學は、キリスト教の博愛主義ではなく、もつと深刻な厭世觀を根據とする東洋の宿命哲學、即ち佛教にもとづいて居る。彼は人生の存在を、根柢的に悲劇と見、避けがたい惡の宿命として觀念しながら大乘的の止揚によつて、また一切の存在を必然として肯定した。それ故に彼の場合は、敵も味方も悲劇であり、戰爭そのものが痛ましい宿命だつた。世に憎むべき人間は一人もなく、「敵」といふ言葉すらが、尊氏にとつては不可解だつた。
さうした尊氏の外貌は、彼を理解しない武人等の眼に、おそらく馬鹿な「好人物」として見えたであらう。そして人々は彼を利用し、自己の野心の傀儡にした。既にして利用を終れば、忽ちまたこれを棄て、今日の味方は明日の敵となつて叛逆した。實に尊氏の一生は、忘恩者と裏切者との不斷の接戰に一貫して居る。
彼はその最後まで、自己の欲しない戰を戰ひながら、宿命の悲劇を嘆き續けて生きたのである。
了
底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房
1976(昭和51)年5月25日初版発行
底本の親本:「政界往來」
1934(昭和9)年3月号
初出:「政界往來」
1934(昭和9)年3月号
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2021年5月27日作成
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