あらすじ
「橋」への強い思い入れを持つ女性が、幼い頃に橋の上で下駄を鳴らしながら味わった喜びと、その思い出に影を落とす出来事、そして大人になって再び橋に魅了され、海外の橋を渡るまでを描いた物語です。橋の上で下駄を鳴らす行為を通して、彼女の心の奥底にある複雑な感情が表現され、読者は彼女の心の旅路に引き込まれていくでしょう。こん からり
足を踏み違えて橋詰から橋詰までこの音のリズムを続け通させるときは、ほんとにお腹の底から橋を渡った気がして、そこでぴょんぴょん跳ねて悦んだ。母親は「この子の虫のせいだからせいぜいやらしてやりましょう。とめて虫が内に籠りでもしたら悪い」そういって新しい日和下駄をよく買い代えて呉れた。たいがい赤と黄色の絞りの鼻緒をつけて貰った。
こういう風に相当こどものこころを汲める母親だったが、私の橋のさなかで下駄踏み鳴らしながら、かならず落す涙には気がつかなかった。私は橋詰から歩いて行ってちょうど橋の真中にさしかかる。ふと両側を見る。そこには冷たい水が流れている。向うを見ると何の知合いもない対岸の町並である。うしろを観る。わが家は遠い。たった一人になった気がしてさびしいとも自由ともわけもわからぬ涙が落ちて来る。頭の上に高い太陽――こういう世界にたびたび身を染めたくて私は橋を渡るのを好んだのかも知れない。
ある早春の晴れた昼である。わたしはまた橋を渡り度くなって町に一番近いそこへ行った。その橋は短かったが修繕し立ての橋板はまだ生木の潤いを帯びていて音を含んでなつかしく響いた。橋詰に珍らしく大きな猫柳の木があって、満枝の芽はやや銀の鋒鉾を現しかけていた。それは風の吹くときだけ光った。あるとき私が橋を渡り終えて悦んでぴょんぴょん例の小躍りをしていると、突然その木の蔭から汚ない服装の男が飛び出して私を捕えた。
――このあまっちょだな。毎日下駄を鳴らして通ってうるせえのは。よし下駄を取上げてやる。
そういって彼は私の下駄を捩ぎ取った。わたしは泣いて帰った。その男は橋の傍のいかけ師の主人でもとは相当の家だったが、先代から微禄したのを私の家の勢力の為だと思い僻み、こんな悪苛めもするのである。母親はそのわけを私に話しさっそく遣いのものを下男に持たせ下駄を取戻して来て呉れた。下駄は戻った。然し私は深くこのことを恨んだ。そして橋はそれきり渡らなくなった。
橋についての執着は娘時代から結婚時代に入っていつとはなく薄れて行ったが、それが今度の洋行ときまるとなぜかふたたび濃くなって来た。外国でいくつか渡る橋を想像したとき執着の口火がふたたびつけられたのかも知れない。従ってあのときの恨みも橋の興味にくくりつけた小荷駄のようになって一しょにせり上って来た。私は恐ろしく思った。しかしそう思いながら、新らしい日和下駄を買ってそっとスーツケースの奥に入れた。鼻緒にはまさかもう赤と黄色もつけられなかった。黒に朱のあられ模様のをつけた。
×
ヴェニスの見物も済んだので汽車の都合上、朝まだ暗いうちにホテルを出発した。ホテルの水苔の生えた石段から私はゴンドラに乗った。沖のムラノ島を半面影像のように左に見て大運河へ入った。まだ夜中の水の都は蟠った一つの黒い塊に過ぎなかったが、杭の尖の水路燈だの壁に反射する鉄燈籠などで、運河の河筋を示していた。やがて頭に冠さるようにリアルト橋が来た。私は船頭にそういって船を橋岸につけて貰った。テームズのロンドン橋でもセーヌの新橋でも使わなかったあの日和下駄を手鞄から取出した。
橋は太鼓に近いほど反っていた。道から取付きの石段を上って行くと両側に商い店が並んでいる。古い戸を閉じて看板だけで靴屋だの首飾りだのを売る店であることが判る。昼に河岸からみるとこの商い店たちは十七世紀の女の輿車のような派手な外側に見えた。いま親しくこう近寄ってみると平凡な普通の商い店であることが判る。私はそれが気に入った。角から二軒目の店の二階にはぼんやり灯影が窓からさしていて、やっぱり世間の生活のとばっちりが橋の上にも沫ねついているのを感じる。うっかりそれらに眺め入っているとここはどこかの裏町で橋の上であるのを忘れさえする。
東詰から西詰へ西詰から東詰へ私は勇気を出して日和下駄を鳴らして渡った。冬の石畳は、霜の気を帯びてヴェニスの空に高く響いた。少女時代に断ち切られたあの気持ちの成就か。あの時の恨みの復讐か。私は私の期待した以外の意味で満足させられた。あーあよくまあ私は今まで生きてこのような橋さえ渡れる――。
猫の影がさむそうに来て一の家の窓の前にうずくまった。
了
底本:「岡本かの子全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「かの子抄」不二屋書房
1934(昭和9)年9月24日初刷発行
初出:「新潮」
1933(昭和8)年5月号
入力:門田裕志
校正:いとうおちゃ
2022年3月27日作成
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