あらすじ
晩年の孤独と病にさいなまれる語り手は、かつての華やかな生活を懐かしみつつ、自身の境遇を詩に託します。変わりゆく時代の中で、過去の思い出と現在の侘びしい現実が交錯し、複雑な感情が渦巻く、静かで切ない物語です。
 その年の二百十日はたしか涼しい月夜であった。つづいて二百二十日の厄日(やくび)もまたそれとは殆(ほとん)ど気もつかぬばかり、いつに変らぬ残暑の西日に蜩(ひぐらし)の声のみあわただしく夜になった。夜になってからはさすが厄日の申訳(もうしわけ)らしく降り出す雨の音を聞きつけたもののしかし風は芭蕉(ばしょう)も破らず紫苑(しおん)をも鶏頭(けいとう)をも倒しはしなかった――わたしはその年の日記を繰り開いて見るまでもなく斯(か)く明(あきらか)に記憶しているのは、その夜の雨から時候が打って変ってとても浴衣(ゆかた)一枚ではいられぬ肌寒さにわたしはうろたえて襦袢(じゅばん)を重ねたのみか、すこし夜も深(ふ)けかけた頃(ころ)には袷羽織(あわせばおり)まで引掛(ひっか)けた事があるからである。彼岸(ひがん)前に羽織を着るなぞとはいかに多病な身にもついぞ覚えたことがないので、立つ秋の俄(にわか)に肌寒く覚える夕(ゆうべ)といえば何ともつかずその頃のことを思出すのである。
 その頃のことといったとて、いつも単調なわが身の上、別に変った話のあるわけではない。唯(ただ)その頃までわたしは数年の間さしては心にも留めず成りゆきのまま送って来た孤独の境涯が、つまる処わたしの一生の結末であろう。これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代りまたさして悲しい事も起るまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終って行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。わたしはもうこの先二度と妻を持ち妾(しょう)を蓄え奴婢(ぬひ)を使い家畜を飼い庭には花窓には小鳥縁先(えんさき)には金魚を飼いなぞした装飾に富んだ生活を繰返(くりかえ)す事は出来ないであろう。時代は変った。禁酒禁煙の運動に良家の児女までが狂奔するような時代にあって毎朝煙草盆(たばこぼん)の灰吹(はいふき)の清きを欲し煎茶(せんちゃ)の渋味と酒の燗(かん)の程(ほど)よきを思うが如きは愚(ぐ)の至りであろう。衣(ころも)は禅僧の如く自(みずか)ら縫い酒は隠士(いんし)を学んで自ら落葉を焚(た)いて暖むるには如(し)かじというような事を、ふとある事件から感じたまでの事である。
 十年前新妻の愚鈍に呆(あき)れてこれを去り七年前には妾の悋気(りんき)深きに辟易(へきえき)して手を切ってからこの方(かた)わたしは今に独(ひとり)で暮している。興動けば直(ただち)に車を狭斜(きょうしゃ)の地に駆(か)るけれど家には唯蘭(らん)と鶯(うぐいす)と書巻とを置くばかり。いつか身は不治の病(やまい)に腸と胃とを冒さるるや寒夜(かんや)に独り火を吹起(ふきおこ)して薬飲む湯をわかす時なぞ親切に世話してくれる女もあらばと思う事もあったが、しかしまだまだその頃にはわたしは孤独の佗(わび)しさをば今日の如くいかにするとも忍び難(がた)いものとはしていなかった。孤独を嘆ずる寂寥(せきりょう)悲哀の思(おもい)はかえって尽きせぬ詩興の泉となっていたからである。わたしは好んで寂寥を追い悲愁を求めんとする傾(かたむき)さえあった。忘れもせぬ或(ある)年……やはり二百二十日の頃であった。夜半滝のような大雨の屋根を打つ音にふと目を覚(さま)すとどこやら家の内に雨漏(あまもり)の滴(したた)り落るような響(ひびき)を聞き寝就かれぬまま起きて手燭(てしょく)に火を点じた。家には老婢(ろうひ)が一人遠く離れた勝手に寝ているばかりなので人気(ひとけ)のない家の内は古寺の如く障子襖(ふすま)や壁畳から湧(わ)く湿気が一際(ひときわ)鋭く鼻を撲(う)つ。隙(ひま)漏る風に手燭の火の揺れる時怪物のようなわが影は蚰蜒(げじげじ)の匐(は)う畳の上から壁虎(やもり)のへばり付いた壁の上に蠢(うごめ)いている。わたしは寝衣(ねまき)の袖(そで)に手燭の火をかばいながら廊下のすみずみ座敷々々の押入まで残る隈(くま)なく見廻ったが雨の漏る様子はなかった。枕(まくら)に聞いたそれらしい響は雨だれの樋(とい)から溢(あふ)れ落ちるのであったのかも知れぬ。わたしは最後に先考(せんこう)の書斎になっていた離れの一間(ひとま)の杉戸を開けて見た。紫檀(したん)の唐机(とうづくえ)水晶の文鎮(ぶんちん)青銅の花瓶黒檀の書架。十五畳あまりの一室は父が生前詩書に親しまれた当時のままになっている。机の上にひろげられた詩箋(しせん)の上には鼈甲(べっこう)の眼鏡が亡き人の来るを待つが如く太い片方の蔓(つる)を立てていた。本棚の蠧(しみ)を防ぐ樟脳(しょうのう)の目にしむ如き匂(にお)いは久しくこの座敷に来なかったわたしの怠慢を詰責(きっせき)するもののように思われた。わたしは斑竹(はんちく)の榻(とう)に腰をおろし燭をかざして四方の壁に掛けてある聯(れん)や書幅(しょふく)の詩を眺めた。
碧樹如クレ煙ノ覆フ二晩波ヲ一。清秋無クレ尽ル客重テ過グ。
故園今即如シ二煙樹ノ一。鴻雁不レ来ラ風雨多シ。
 これは今なお記憶を去らぬ書幅の中の一首を記(しる)したに過ぎない。わたしはいつか燭もつき風雨も夜明けと共に鎮(しず)まる頃まで独り黙想の快夢に耽(ふけ)っていた。
 正月二日は父の忌辰(きしん)である。或年の除夜翌朝父の墓前に捧ぐべき蝋梅(ろうばい)の枝を伐(き)ろうとわたしは寒月皎々(こうこう)たる深夜の庭に立った。その時もわたしは直(ただち)にこの事を筆にする気力があった。
 長年使い馴(な)れた老婢がその頃西班牙風邪(スペインかぜ)とやら称(とな)えた感冒に罹(かか)って死んだ。それ以来これに代わるべき実直な奉公人が見付からぬ処からわたしは折々手ずからパンを切り珈琲(コーヒー)を沸(わか)しまた葡萄酒(ぶどうしゅ)の栓をも抜くようになった。自炊に似た不便な生活も胸に詩興の湧(わ)く時はさして辛(つら)くはなかった。わたしは銀座の近辺まで出掛けた時には大抵精養軒(せいようけん)へ立寄ってパンと缶詰類を買って帰る。底冷(そこびえ)のする雪もよいの夜であった。二斤(きん)ほど買ったパンは焼いたばかりのものと見えて家へ帰るまで抱えた脇の下から手の先までをほかほかと好い工合に暖めてくれた。精養軒の近処は夜となれば芸者の往来がはげしい。わたしはかつて愛誦(あいしょう)した『春濤詩鈔(しゅんとうししょう)』中の六扇紅窓掩不レ開――妙妓懐中取レ煖来という絶句を憶(おも)い起すと共に妓(ぎ)を擁(よう)せざるもパンを抱いて歩めばまた寒からずと覚えず笑を漏らした事もあったほどである。
 詩興湧(わ)き起れば孤独の生涯も更に寂寥ではない。貧苦病患も例えばかの郎士元(ろうしげん)が車馬雖レ嫌レ僻。鶯花不レ棄レ貧といい、白居易(はくきょい)が貧堅志士節。病長高人情というが如き句あるを思い得ばまた聊(いささ)か慰めらるる処があろう。しかし詩興はもとより神秘不可思議のもの。招いて来らず叫んで応(こた)えるものでもない。されば孤独のわびしさを忘れようとしてひたすら詩興の救(すくい)を求めても詩興更に湧き来らぬ時憂傷の情ここに始めて惨憺(さんたん)の極(きょく)に到(いた)るのである。詩人平素独り味(あじわ)い誇る処のかの追憶夢想の情とても詩興なければ徒(いたずら)に女々(めめ)しき愚痴(ぐち)となり悔恨の種となるに過ぎまい。
 わたしは街を歩む中(うち)呉服屋(ごふくや)の店先に閃(ひらめ)く友禅(ゆうぜん)の染色に愕然(がくぜん)目をそむけて去った事もあった。若き日の返らぬ歓(よろこ)びを思い出すまいと欲したがためである。隣の家から惣菜(そうざい)の豆煮る匂(にお)いの漂い来(きた)るにわたしは腹立たしく窓の障子をしめた事もあった。かつてはわれも知った団欒(だんらん)の楽しみを思い返すに忍びなかったからである。庭に下りて花を植(うえ)る時、街の角に立って車を待つ時、さては唯窓の簾(すだれ)を捲(ま)かんとする時吹く風に軽く袂(たもと)を払われても忽(たちまち)征人(せいじん)郷(きょう)を望むが如き感慨を催す事があった。かくては風よりも月よりも虫の声よりも独居の身に取って雨ほど辛(つら)いものはあるまい。わたしは或日の日記に、
久雨(きゅうう)尚(なお)歇(や)まず軽寒腹痛を催す。夜に入つて風あり燈を吹くも夢成らず。そゞろに憶(おも)ふ。雨のふる夜はたゞしん/\と心さびしき寝屋(ねや)の内、これ江戸の俗謡なり。一夜不レ眠孤客耳。主人窓外有二芭蕉一。これ人口に膾炙(かいしゃ)する少杜(しょうと)の詩なり。また憶(おも)ふ杜荀鶴(とじゅんかく)が、半夜燈前十年事。一時和レ雨到二心頭一。然(しか)り雨の窓を打ち軒に流れ樹(き)に滴(したた)り竹に濺(そそ)ぐやその響(ひびき)人の心を動かす事風の喬木(きょうぼく)に叫び水の渓谷に咽(むせ)ぶものに優る。風声は憤激の声なり水声は慟哭(どうこく)なり。雨声に至りては怒るに非(あら)ず嘆くに非ず唯語るのみ訴ふるのみ。人情千古易(かわ)らず独夜枕上(ちんじょう)これを聴けば何人(なんびと)か愁(うれい)を催さゞらんや。いはんやわれ病(やまい)あり。雨三日に及べば必ず腹痛を催す。真に断腸の思(おもい)といふべきなり。王次回(おうじかい)が『疑雨集(ぎうしゅう)』の律詩(りっし)にいへるあり。
病骨真成二験雨ノ方ト一。呻吟燈背和ス二啼※[#「將/虫」、U+87BF、112-13]ニ一。
凝塵落葉無妻ノ院。乱帙残香独客ノ牀。
附贅不レ嫌如キヲ二巨瓠ノ一。徒※[#「やまいだれ/邑」、U+24D9B、112-15]安ゾ忍ンヤ累スニ二枯腸ヲ一。
唯応シ二三復ス一南華ノ語。鑑レ井※[#「虫+餠のつくり」、U+86E2、113-1]※[#「虫+鮮」、U+27547、113-1]是薬王。
この詩正(まさ)しくわれに代って病中独居の生涯を述ぶるもの。故に復(また)これを録す。

 その年二百二十日の夕から降出した雨は残りなく萩(はぎ)の花を洗流(あらいなが)しその枝を地に伏せたが高く延びた紫苑(しおん)をも頭の重い鶏頭(けいとう)をも倒しはしなかった。その代り二日二晩しとしとと降りつづけた揚句(あげく)三日目になってもなお晴れやらぬ空の暗さは夕顔と月見草の花のおずおず昼の中(うち)から咲きかけたほどであった。物の湿ることは雨の降る最中(さいちゅう)よりもかえって甚しく机の上はいつも物書く時手をつくあたりのとりわけ湿って露を吹き筆の軸も煙管(きせる)の羅宇(らお)もべたべた粘(ねば)り障子の紙はたるんで隙漏(ひまも)る風に剥(はが)れはせぬかと思われた。彼岸(ひがん)前に袷羽織(あわせばおり)を取出すほどの身は明日も明後日ももしこのような湿っぽい日がつづいたならきっと医者を呼ばなければなるまい。病骨は真に雨を験するの方(ほう)となる。しかしわたしは床(とこ)の間(ま)に置き捨てた三味線(さみせん)のふと心付けば不思議にもその皮の裂けずにいたのを見ると共に、わが病躯(びょうく)もその時はまた幸(さいわい)例の腹痛を催さぬ嬉(うれ)しさ。三日ほど雨に閉籠(とじこ)められた気晴しの散歩かたがたわたしは物買いにと銀座へ出掛けた。
 わたしはその雅号を彩牋堂(さいせんどう)主人と称(とな)えている知人の愛妾(あいしょう)お半(はん)という女がまた本(もと)の芸者(げいしゃ)になるという事を知ったのは、鳩居堂(きゅうきょどう)で方寸千言(ほうすんせんげん)という常用の筆五十本線香二束(にそく)を買い亀屋(かめや)の舗(みせ)から白葡萄酒(しろぶどうしゅ)二本ぶらさげて外濠線(そとぼりせん)の方へ行きかけた折であった。
 曇った秋の日は暮れるに早い。家の門を明けると軒にはもう灯がついていた。わたしは抱えて戻った葡萄酒の栓を抜いて直様(すぐさま)夕飯をすますと煙草(たばこ)ものまずに巻紙を取り上げた。
拝呈その後は御無音(ごぶいん)に打過ぎ申訳(もうしわけ)も無之候(これなくそうろう)。諸処方々無沙汰(ぶさた)の不義理重なり中には二度と顔向けさへならぬ処も有之(これあり)候ほどなれば何とぞ礼節をわきまへぬは文人無頼(ぶらい)の常と御寛容のほど幾重(いくえ)にも奉願上(ねがいあげたてまつり)候。実は小生去冬(きょとう)風労(ふうろう)に悩みそれより滅切(めっき)り年を取り万事甚(はなはだ)懶(ものう)く去年彩牋堂竣成(しゅんせい)祝宴の折御話有之候薗八節(そのはちぶし)新曲の文章も今以てそのまゝ筆つくること能(あた)はず折角の御厚意無に致(いたし)候不才の罪御詫(おわび)の致方(いたしかた)も無御座(ござなく)候。されば本業の小説も近頃は廃絶の形にて本屋よりの催促断りやうも無之(これなき)まま一字金一円と大きく吹掛(ふっか)けをり候ものゝ実は少々老先(おいさき)心細くこれではならぬと時には額(ひたい)に八の字よせながら机に向つて見る事も有之候へども一、二枚書けば忽(たちまち)筆渋りて癇癪(かんしゃく)ばかり起り申候間まづ/\当分は養痾(ようあ)に事寄せ何も書かぬ覚悟にて唯折節(おりふし)若き頃読耽(よみふけ)りたる書冊(しょさつ)埒(らち)もなく読返して僅(わずか)に無聊(ぶりょう)を慰めをり候次第に御座候。寝ては起き起きては物食ひその日その日を送行(おくりゆ)く事さへ実は辛(つら)くてならぬ心地致され候。それ故三味線も切れたる糸掛換(かけか)へるが面倒にてそのまゝ打捨て鶯(うぐいす)も先日鳥屋へ戻し遣(やり)申候。有楽座(ゆうらくざ)始め諸処の演奏会は無論芝居へも意気な場所へも近頃はとんと顔出し致さず従(したがっ)て貴兄の御近況も承る機会なくこの事のみ遺憾に堪(たえ)申さず候。しかしその後は薗八節再興の御手筈(おてはず)だん/\と御運びの事と推察仕(つかまつり)をり候処実は今夕偶然銀座通にてお半様に出遇(であ)ひ彩牋堂より御暇(おいとま)になり候由承り、あまりといへば事の意外なるに驚愕仕(きょうがくつかまつり)候次第。もとより往来繁(しげ)き表通(おもてどおり)の事わけても雨もよひの折からとて唯両三日中には鑑札が下(さが)りませうからとのみ如何(いか)なる訳合(わけあい)にや一向(いっこう)合点(がてん)が行き申さず。余りに不思議に候まゝ御無沙汰の御詫(おわび)に事寄せくだ/\しくお尋(たずね)申上候もとかく人の噂(うわさ)聞きたがるは小説家の癖と御許被下(おゆるしくだされ)たくいづれ近々参堂御機嫌伺上(うかがいあげ)たく先(まず)は御無沙汰の御詫(おわび)まで※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々不一(そうそうふいつ)
九月 日
金阜散人(きんぷさんじん)拝
彩牋堂雅契(さいせんどうがけい)

 封筒に切手を張っている時折好(おりよ)く女中が膳(ぜん)を取片づけに襖(ふすま)を開けた。食事をしたせいか燈火(とうか)のついたせいかあるいは雨戸を閉めたせいでもあるか書斎の薄寒さはかえって昼間よりも凌(しの)ぎやすくなったような気がした。しかし雨はまたしても降出(ふりだ)したらしい。点滴の音は聞えぬが足駄(あしだ)をはいて女中が郵便を出しにと耳門(くぐり)の戸をあける音と共に重そうな番傘(ばんがさ)をひらく音が鳴きしきる虫の声の中に物淋(ものさび)しく耳についた。点滴の音もせぬ雨といえば霧のような糠雨(ぬかあめ)である。秋の夜の糠雨といえば物の湿(し)ける事入梅にもまさるが常とてわたしは画帖や書物の虫を防ぐため煙草盆(たばこぼん)の火を掻(か)き立てて蒼朮(そうじゅつ)を焚(た)き押入から桐(きり)の長箱を取出して三味線をしまった。そのついでに友人の来書一切(いっさい)を蔵(おさ)めた柳行李(やなぎごおり)を取出しその中から彩牋堂主人の書柬(しょかん)を択(えら)み分けて見た。雨の夜のひとり棲(ず)みこんな事でもするより外(ほか)に用はない。
 彩牋堂主人とは有名な何某(なにがし)株式会社取締役の一人何某君の戯号(ぎごう)である。本名はいささか憚(はばかり)あればここには妓輩(ぎはい)の口吻(こうふん)に擬(ぎ)してヨウさんといって置こう。わたしとは二十年ほど前米国の或(ある)大学で始めて知合になった。ヨウさんは日本の大学に在(あ)った頃俳人としてその道の人には知られていた。今でも折々名句を吐くのでもしヨウさんの俳号をいえばこの方(ほう)でも知る人は必ず知っているに違いない。しかし彩牋堂なる別号は恐らく私の外(ほか)には誰も知らないであろう。いわんや今では彩牋堂なるその家は在(あ)っても住むものなくヨウさんは再びその名を用ゆる折がなくなってしまったのである。彩牋堂の由来は左の書簡中に自(おのずか)ら説明せられてある。
拝啓御新作出勤の途次(とじ)車上にて拝読致候(いたしそうろう)。倉皇(そうこう)の際僅(わずか)に前半の一端を窺(うかが)ひたるのみに御座候得(そうらえ)ども錦繍(きんしゅう)の文章直(ただち)に感嘆の声を禁じ得ず身しばしば自動車の客たる事を忘れ候次第忙中かへつてよく詩文の徳に感じ申候。目下新緑晩鶯(ばんおう)の候(こう)明窓浄几(めいそうじょうき)の御境涯羨望(せんぼう)の至(いたり)に有之(これあり)候。さて旧臘(きゅうろう)以来種々御意匠を煩(わずら)はし候赤坂豊狐祠畔(あかさかほうこしはん)の草庵やつと壁の上塗(うわぬり)も乾き昨日小半(こはん)新橋(しんばし)を引払ひ候間(あいだ)明後日夕景よりいつもの連中ばかりにて聊(いささ)か新屋(しんおく)落成のしるしまで一酌(いっしゃく)致(いたし)たく存(ぞんじ)候間御迷惑(ごめいわく)ながら何とぞ御枉駕(ごおうが)の栄を得たく懇請奉(たてまつり)候。当夜は宮薗千斎(みやぞのせんさい)は無論の事宇治紫仙都吾中(うじしせんみやこごちゅう)らも招飲致候間お互(たがい)に親類のおつきあひその御覚悟十分しかるべく候。電話も今明日中には通ずべきはづ芝○○番に御座候由御面倒(ごめんどう)ながら貴答に接するを得ば幸甚(こうじん)々々
彩牋堂主人
金阜先生碩北(けんぽく)
二伸  かの六畳土庇(どびさし)のざしき太鼓張襖紙(たいこばりふすまがみ)思案につき候まゝ先年さる江戸座の宗匠(そうしょう)より売付(うりつ)けられ候文化時代吉原(よしわら)遊女の文殻反古張(ふみがらほごばり)に致候処妾宅(しょうたく)には案外の思付に見え申候。依(よっ)てかの家を彩牋堂とこじつけ候へども元より文藻(ぶんそう)に乏しき拙者(せっしゃ)の出鱈目(でたらめ)何か好(よ)き名も御座候はゞ御示教願はしく万々(ばんばん)面叙(めんじょ)を期し申候
 ヨウさんは金持であるが成金ではない。品格もあり学問もあり趣味には殊に富んでいる。わたしの処へ寄越(よこ)す手紙にはその用件の次第によって時々異った雅号が書かれてあるがそれを見てもヨウさんの趣味と学識の博い事が分る。いつぞやわたしが天明(てんめい)時代の江戸の書家東江源鱗(とうこうげんりん)の書帖(しょじょう)の事について問合した事があった時ヨウさんはその返事に林檎庵頓首(りんごあんとんしゅ)と書いて来た。沢田東江(さわだとうこう)の別号来禽堂(らいきんどう)から思いついた戯れであろう。自動車が衝突した時見舞の返書に富田塞南(とんださいなん)と書いて来た事もあった。次に録する手紙に半兵衛(はんべえ)とあるのは「口舌八景(くぜつはっけい)」を稽古(けいこ)していたためとまた芸者小半の事にかかわっているからであろう。
昨夜はまた/\無理に御引留(おひきとめ)致しさぞかし御迷惑の段御容赦被下(ごようしゃくだされ)たく候。人生五十の坂も早や間近の身を以て娘同様のものいつも側に引付けしだらもなき体(てい)たらく耻(はずか)し気(げ)もなく御目にかけ候傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の振舞(ふるまい)いかに場所がらとは申(もうし)ながら酒醒(さ)めては甚(はなはだ)赤面の至(いたり)に御座候。しかし放蕩紳士(ほうとうしんし)が胸中を披瀝(ひれき)致候も他日雅兄(がけい)小説御執筆の節何かの材料にもなるべきかと昨夜は下らぬ事包まずお尋(たずね)のまゝ懺悔(ざんげ)致候次第に御座候。明後日は会社の臨時総会にて残念ながら半輪亭(はんりんてい)のけいこ休みと致候。但(ただし)当月中には是非とも「口舌八景」上げたきつもり貴処もせいぜい御勉強のほど願はしくお花半七掛合(かけあい)今より楽しみに致をり候
半兵衛※(より、1-2-25)(はんべえより)
金阜(きんぷ)先生さま

 その頃までは何(なん)の彼(か)のといっても私にはまだ若い気が残っていた。四十の声を聞いて日記雑録など筆を執るごとに頻(しきり)に老来の嘆(たん)をなしたのも、思えばなお全く老いるには到(いた)らなかった証拠であろう。愚痴(ぐち)不平をいう元気のある中(うち)はまだ真に絶望したとはいわれない。今の芸者の三味線などは聞かれたものでないなぞと人前で耻し気もなくそんな事が言われたのはまだ色気(いろけ)もあり遊びたい気も失(う)せなかった証拠である。遊びたい気があれば勉学の心も失せない訳(わけ)である。述作の興味も湧(わ)くわけである。一夜或(ある)人の薗八節(そのはちぶし)を語るを聞きわたしもその古調を味(あじわ)い学びたいと思立(おもいた)って薬研堀(やげんぼり)の師匠の家に通(かよ)っていた事がある。その時分ふとした話から旧友のヨウさんも長唄(ながうた)哥沢(うたざわ)清元(きよもと)といろいろ道楽の揚句(あげく)が薗八となり既に二、三年も前から同じ師匠を木挽町(こびきちょう)の待合半輪(まちあいはんりん)というへ招き会社の帰掛(かえりが)け稽古(けいこ)に熱心している由を知って互(たがい)にこれは奇妙と手を拍(う)って笑った。それからわたしはヨウさんに勧められるまま朝の稽古通いを止(や)めて夕刻木挽町の半輪へ出向く事にしたのであった。
 ヨウさんは稽古の日といえば欠さず四時半頃(ごろ)に会社からお抱(かかえ)の自動車で馳(か)けつけ稽古をすますとそのままわたしを引留め贔屓(ひいき)の芸者を呼んで晩餐(ばんさん)を馳走(ちそう)した。そして十時半というと規則正しく帰り支度をする。雨の降る晩なぞわざわざわたしの家の門前まで自動車で送って来てくれる事もあった。ヨウさんの座敷に呼ばれる芸者は以前は長唄清元なぞの名取連(なとりれん)も交(まじ)えられていたそうであるがその頃は自然河東一中(かとういっちゅう)薗八という組のものばかりに限られていたので若いといっても二十五、六より下はない。既に芸者とよりは師匠らしく見える老妓(ろうぎ)もあった。さればその頃初めて十九になったとやらいう小半の姿は正(まさ)に万緑叢中(ばんりょくそうちゅう)の紅(こう)一点あまり引立ち過ぎて何となく気の毒にも見えまた問わずしてこの女がヨウさんの御世話になっているものと推量されるのであった。
 小半はいかにも血色のよい大柄ながっしりした身体付(からだつき)。眼はぱっちりして眉(まゆ)も濃く生際(はえぎわ)もよいので顔立は浮彫(うきぼり)したようにはっきりしている代り口のやや大きく下※(「月+咢」、第3水準1-90-51)(したあご)の少し張出している欠点も共に著しく目に立って愛嬌(あいきょう)には至って乏しく愁(うれい)もまずきかぬ顔立であった。豊艶(ほうえん)な女をばいつの時代にも当世風とするならば小半も勿論(もちろん)その型の中に入れべきものである。当世風の小半がヨウさんの持物である事を知った瞬間にはわたしは実をいえば意外な気がしないでもなかった。しかしその心持は小半が年に似ず当世風に似ず薗八の三味線も大分その流儀になっている事を知るに及んで直(ただち)に取消されてしまった。
 或晩いつもの如く稽古をすましてから勧められるまま座敷をかえてヨウさんと盃(さかずき)を交(かわ)した。小半を始めいつも来るべきはずの芸者はいずれも歌舞伎座(かぶきざ)に土地の芸者のさらいがあるとやらで九時近くまで一人も姿を見せず、その晩はまた師匠までが少し風邪(かぜ)の気味だからと稽古をすますと直様(すぐさま)車を頂戴(ちょうだい)して帰ってしまった。ヨウさんとわたしは女中に酌をさせながらかえって話に遠慮のいらぬのを幸(さいわい)江戸俗曲の音楽としての価値及びその現代社会に対する関係から将来の盛衰についてまで、互に思う処を論じ合った。三味線は言うまでもなく二世紀以前売色(ばいしょく)の巷(ちまた)に発生し既に完成し尽(つく)した繊弱悲哀なる芸術である。現代の社会に花柳界(かりゅうかい)と称する前代売色の遺風がそのまま存在している間は三味線もまた永続すべき力があろう。三味線は浮世絵歌舞伎劇などと同じく現代一般の社会観道徳観を以て見るべき芸術ではない。生きた現代の声ではない。過去の呟(つぶや)きであるが故に愁(うれい)あるものこれを聞けばかえって無限の興趣と感慨とを催す事あたかも商女不レ知亡国恨。隔レ江猶唱後庭花の趣がある。これまさに江戸俗曲の現代における価値であろう。これは以前からわたしの持論である。ヨウさんは日々職務の労苦を慰める娯楽としては眼に看(み)る書画の鑑賞よりも耳に聞く音楽が遥(はるか)に簡易である。豊太閤(ほうたいこう)は茶を立てたが茶よりも浄瑠璃(じょうるり)がよい。浄瑠璃も諸流の中で最もしめやかな薗八に越すものはない。薗八節の凄艶(せいえん)にして古雅な曲調には夢の中に浮世絵美女の私語を聞くような趣(おもむき)があると述べた。二人の言う処はいずれにしても江戸の声曲を骨董的(こっとうてき)に愛玩(あいがん)するという事に帰着するのである。
 女中が欠伸(あくび)をそっと噛(か)みしめながら銚子(ちょうし)を取替えにと座を立った時ヨウさんは何か仔細(しさい)らしくわたしの名を呼んだ。そして、「実はこの間からおはなししたいと思っていたのです。あの、小半のことです。小半はどうでしょう。うまくなるでしょうか。みっしり薗八を稽古(けいこ)させて行々(ゆくゆく)は家元の名前でも継がせて見たいと思っているのですが、どんなものでしょう。」
 薗八節は他派の浄瑠璃とは異り稽古するものの少いため今の中(うち)どうにかして置かなければ早晩断滅しはせぬかと危ぶまれているものである。ヨウさんがその趣味とその富とによって衰滅せんとする江戸の古曲を保護しようという計画には異議のあろうはずがない。また小半の腕前もその年齢に似ず望(のぞみ)を嘱するに足るべき事はわたしもとくに認めていたので、その通り思う処を述べるとヨウさんは徐(おもむろ)に一盞(いっさん)を傾けつつ事の次第を話した。
「何ぼ何でもこの年になって色気(いろけ)で芸者は買えません。芸でも仕込んで楽しむより仕様がない。あなたの前だから遠慮なく気※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)(きえん)を吐きますが僕はこう見えてもこれでなかなか道徳家のつもりです。今の世の中の紳士(しんし)や富豪は大嫌(だいきらい)です。富豪も嫌いなら社会主義者も感心しません。真面目(まじめ)な事を言ったって用いらるべき世の中じゃありませんから、わたしはむしろそれをいい事にして毎晩こうして遊んでいるんですが……まアそんな事はどうでもいいとして……わたしが芸者に芸を仕込んで見ようなぞと柄にもない事を思い付いたのはいささか訳(わけ)があります。茶碗(ちゃわん)や色紙(しきし)に万金を擲(なげう)つのも道楽だ。芸者に芸を仕込むのも道楽にかわりはありますまい。
 わたしはこれまで随分大勢の人を世話しました。真面目に世話をしましたがその結果は要するに時勢の非なるを悟るに過ぎません。現に家には書生が三人います。惣領(そうりょう)の忰(せがれ)も来年は大学にはいるはずです。わたしは人の世話をしたからとてその人から礼を言われたいなぞとそんな卑劣な考えは微塵(みじん)も持ってはいません。失敗成功そんな事はわたしの深く問う処でない。唯いつまでも心持よく話の出来るような人物になってもらいたい。わたしの世話をしたものは皆成功しています。しかしわたしにはその成功ぶりが甚だ気に入らんのです。
 名前は言いませんがもう七、八年前の事です。人から頼まれまたわたし自身も将来有望と思って或青年の画家に経済的援助を与えた事がありました。蕪村(ぶそん)とか崋山(かざん)とかいうような清廉(せいれん)な画家になるだろうと思ったら大ちがいでした。展覧会で一、二度褒美(ほうび)を貰(もら)い少し名前が売れ出したと思うともう一廉(ひとかど)の大家(たいか)になりすました気で大(おおい)に門生を養い党派を結び新聞雑誌を利用して盛んに自家吹聴(ふいちょう)をやらかす。まるで政治運動です。しかしその効能はおそろしいもので、素寒貧(すかんぴん)の書生は十年ならずして谷文晁(たにぶんちょう)が写山楼(しゃざんろう)もよろしくという邸宅の主人になりました。
 もう一人成功した家の書生でわたしの閉口しているものがあります。これは教育家です。大学に通っている時分(じぶん)或日わたしに俳句を教えてくれというからわたしももともと嫌いな道ではないので蔵書も貸してやる。また時にはこっちからどうだ句はまだ出来ないかと催促して直してやった事もありました。しかし後になって考えて見るとその男は別に俳句が好きというのではない、わたしが時々句をよむから御気に入ろうと思ってそんな事をきいたのでしょう。とにかくそういう抜目(ぬけめ)のない男の事ですから学士になって或地方の女学校の教師になると間もなくその土地の素封家(そほうか)の壻養子(むこようし)になって今日では私立の幼稚園と小学校を経営して大分評判がよい。それだけの話なら何も悪くいう処はない。わたしも大(おおい)に感心しなければならんのですがどうも気に入らないのはその男のやり方です。教育の事業をまるで商店か会社の経営と心得ているらしい。毎年東京へ来て朝野(ちょうや)の有力者を訪問する。三年目には視察と称して米国へ出掛け半年位たって帰って来ると盛んに演説をして廻る。まアそれも結構です。わたしの甚だ気に入らないのは去年の事だ。やっと四十になったかならずの年輩でありながら自分の銅像をその地方の公園に建て己(おの)れの功績を誇ろうとした事です。天下の糸平(いとへい)の石碑がいかに大きかろうがそれは子孫のやった事だから致し方がない。自分の道楽からわが銅像をわが家の庭に立てる位の事なら差支えないがその男の遣方(やりかた)はそれとなく生徒の父兄を説いて金を出させ地方の新聞記者を籠絡(ろうらく)して輿論(よろん)を作り自分は泰然としているように見せ掛けるのだから困ります。
 わたしは一体に今の人たちの立身出世の仕方が気に入りません。失敗して金を借りに来ても心持さえさっぱりしていれば、わたしは喜びます。いくら成功しても正義堂々としていないものはいやです。わたしはそれらの事から真面目に人の世話をするのがいやになり馬鹿々々しくなりました。それらの事が直接の原因という訳ではありませんが小半に薗八の稽古をさせている中(うち)わたしはいつかこの女を自分の思うような芸人に仕立てて見たらばと柄にもない気を起すようになったのです。世の中を相手にする真面目な事は皆駄目でしたから今度は芸人を養成しようかというのです。今の芸人は男も女も御存じの通りで皆仕様がありません。この先(さき)名人上手の出ようはずもない。それに薗八なぞは長唄(ながうた)や清元(きよもと)とはちがって今の師匠がなくなればちょっとその後をつぐべきものもないような始末ですから、もし小半がわたしの思うようにみっしり修業を積んでくれればわたしの道楽も真面目くさっていえば俗曲保存の一事業にもなろうというわけです。」
 ヨウさんが小半をひかせる事に話をきめ妾宅(しょうたく)の普請(ふしん)に取かかったのはそれから三月(みつき)ほど後のことである。その折の手紙を見ると、
御風邪(ごふうじゃ)の由心配致しをり候(そうろう)。蒲柳(ほりゅう)の御身体(おからだ)時節がら殊(こと)に御摂生(ごせっせい)第一に希望致し候。実は少々御示教に与(あずか)りたき儀有之(これあり)昨夜はいつもの処にて御目(おめ)に掛れる事と存じをり候処御病臥(びょうが)の由面叙(めんじょ)の便を失し遺憾に存じ候まゝ酒間乱筆を顧みずこの手紙差上申(さしあげもうし)候。御相談と申すはかの妾宅の一件御存じの如く兼々(かねがね)諸処心当りへ依頼致置(いたしおき)候処昨日手頃(てごろ)の売家二軒有之候由周旋屋の手より通知に接し会社の帰途一応見歩き申候。一軒は代地河岸(だいちかし)一軒は赤坂豊川稲荷(あかさかとよかわいなり)横手裏に御座候。本来は築地(つきじ)辺一番便利と存じ最初より註文(ちゅうもん)致置候処いまだに頃合(ころあい)の家見当り申さぬ由あまり長延(ながびき)候ては折角の興も覚めがちになる恐(おそれ)も有之候間(あいだ)御意見拝聴の上右浅草(あさくさ)か赤坂かの中(うち)いづれにか取極(とりき)めたき考へに御座候。当人の小半は代地は場所がらとて便利なだけ定めし近隣の噂(うわさ)もうるさかるべく少し場所はわるけれど赤坂の方(ほう)望ましきやう申(もうし)をり候。赤坂の売家は庭古びて樹木もあれど家屋はまづツブシと存ぜられ候。代地の方は建具造作(ぞうさく)の入替(いれかえ)位にてどうにか住まへるかと存じ候へども場所がらだけあまり建込(たてこ)み日当(ひあたり)あしく二階からも一向に川の景色見え申さず値段も借地にて家屋だけ建坪三十坪ほどにて先方手取一万円引ナシとは大層な吹掛(ふっかけ)やうと存じ候。江戸向(むき)は庭はなくとも我慢は出来申候へども川添ならでは奇妙ならず。
さて赤坂の方はこの辺もと/\成金紳士の妾宅(しょうたく)には持つてこいといふ場所なれば買つた上でいやになればかへつて値売(ねうり)の望(のぞみ)も有之候由(よし)周旋屋の申条(もうしじょう)に御座候。地所七十坪ほど家屋付(つき)壱万五千円の由坂地なれば庭平(たいら)ならぬ処自然の趣(おもむき)面白く垣の外すぐに豊川稲荷の森に御座候間隠居所妾宅にはまづ適当と存ぜられ候。昨日見に参(まいり)候折参詣人(さんけいにん)の柏手(かしわで)拍(う)つ音小鳥の声木立(こだち)を隔てゝかすかに聞え候趣大(おおい)に気に入り申候。地勢東北は神社の森かげとなりまづ西南向に相(あい)見え候間古家建直しの折西日さへよけるようにすれば風通しも宜(よ)かるべくまさか田福(でんぷく)が「わが宿は下手(へた)のたてたる暑(あつさ)かな」の苦しみもなかるべくと存じ候。とにかく山の手は御存じの如く都の中にても桃隣(とうりん)が「市中(いちなか)や木の葉も落す富士颪(おろし)」の一句あり冬の西風と秋の西日禁物(きんもつ)に有之候。方角は磁石失念のためしかとわからず今一応検分のつもり何とぞ貴下御全快を待ち御散歩かたがた御鑑定希望の至(いたり)に御座候。とんだ御迷惑甚(はなはだ)恐縮しかし昔より道楽は若い時に女。中年に芸事。老いては普請庭つくり。これさへ慎めば金が出来るとやら申す由なれど小生道楽の階程(かいてい)も古人の戒(いましめ)に適合致候は誠に笑止(しょうし)に御座候。とてもの事に道楽の仕納(しおさ)めには思ふさま凝(こ)つた妾宅建てたきもの何とぞ御暇(おひま)の節御意匠被下(くだされ)まじくや。同じ江戸風と申しても薗八一中節(そのはちいっちゅうぶし)なぞやるには『梅暦(うめごよみ)』の挿絵に見るものよりは少し古風に行きたく春信(はるのぶ)の絵本にあるやうな趣ふさはしきやに存ぜられ候。江戸趣味は万事天明(てんめい)ぶりありがたし/\
冬来るや気儘頭巾(きままずきん)もある世なら
御病気御全癒のほどこの際一日千秋の思(おもい)に御座候。
十一月  日
半兵衛※(より、1-2-25)(より)
金阜(きんぷ)先生

 その頃(ころ)世の中は欧洲(おうしゅう)戦争のおかげで素破(すば)らしい景気であった。株式会社が日に三ツも四ツも出来た位なので以前から資本のしっかりしているヨウさんの会社なぞは利益も定めし莫大(ばくだい)であったに相違ない。贅沢品(ぜいたくひん)は高ければ高いほど能(よ)く売れる。米が高いので百姓も相場をやるという景気。妾宅の新築には最も適当した時勢であった。その頃旧華族が頻(しきり)に家宝の入札売立(にゅうさつうりたて)を行ったのもヨウさんの妾宅新築には甚(はなはだ)好都合であった。ヨウさんは地形(じぎょう)もまだ出来ぬ中(うち)から売立のあるごとにわたしを誘って入札の下見に出掛けた。勿論(もちろん)俳味を専(もっぱら)とする処から大きな屏風(びょうぶ)や大名道具には札(ふだ)を入れなかったが金燈籠(きんどうろう)、膳椀(ぜんわん)、火桶(ひおけ)、手洗鉢(ちょうずばち)、敷瓦(しきがわら)、更紗(さらさ)、広東縞(かんとんじま)の古片(こぎれ)なぞ凡(すべ)て妾宅の器具装飾になりそうなものは価を問わずどしどし引取った。やがて普請が出来上ると祝宴の席でわたしは主人を始め招かれた芸人たちにも勧められ辞退しかねて「彩牋堂の記」なるものを起草した。それのみならず薗八節新曲の起稿をも依頼される事になった。
 その翌日からわたしは早速新曲の資材となるべき事蹟(じせき)を求めたいと例の『燕石十種(えんせきじっしゅ)』を始めとして国書刊行会飜刻本(ほんこくぼん)の中に蒐集(しゅうしゅう)された旧記随筆をあさり初めた。そしてこれはと思う事蹟伝説が見当ったならすぐにも筆を執る事ができるように毎夜枕元(まくらもと)に燈火を引寄せ「松の葉」を始め「色竹蘭曲集(いろたけらんきょくしゅう)」「都羽二重(みやこはぶたえ)」「十寸見要集(ますみようしゅう)」のたぐいを読み返した。その頃わたしには江戸戯作者(げさくしゃ)のするようなこうした事が興味あるのみならずまた甚(はなはだ)意義ある事に思われていたので既に書かけていた長篇小説の稿をも惜まず中途にしてよしてしまった。二葉亭四迷(ふたばていしめい)出(い)でて以来殆(ほとん)ど現代小説の定形の如くなった言文一致体(げんぶんいっちたい)の修辞法は七五調をなした江戸風詞曲の述作には害をなすものと思ったからである。このであるという文体についてはわたしは今日なお古人の文を読み返した後など殊に不快の感を禁じ得ないノデアル。わたしはどうかしてこの野卑蕪雑(ぶざつ)なデアルの文体を排棄(はいき)しようと思いながら多年の陋習(ろうしゅう)遂に改むるによしなく空しく紅葉(こうよう)一葉(いちよう)の如き文才なきを歎(たん)じている次第であるノデアル。わたしはその時新曲の執筆に際して竹婦人(ちくふじん)が玉菊(たまぎく)追善(ついぜん)水調子(みずぢょうし)「ちぎれちぎれの雲見れば」あるいはまた蘭洲(らんしゅう)追善浮瀬(うかぶせ)の「傘持つほどはなけれども三ツ四ツ濡(ぬ)るる」というような凄艶(せいえん)なる章句に富んだものを書きたいと冀(こいねが)った。既にその前年一度医者より病の不治なる事を告げられてからわたしは唯自分だけの心やりとして死ぬまでにどうかして小説は西鶴(さいかく)美文は也有(やゆう)に似たものを一、二篇なりと書いて見たいと思っていたのである。『鶉衣(うずらごろも)』に収拾せられた也有の文は既に蜀山人(しょくさんじん)の嘆賞措(お)かざりし処今更後人(こうじん)の推賞を俟(ま)つに及ばぬものであるが、わたしは反復朗読するごとに案(あん)を拍(う)ってこの文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後といえども必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。その故は何かというに『鶉衣』の思想文章ほど複雑にして蘊蓄(うんちく)深く典故(てんこ)によるもの多きはない。それにもかかわらず読過其調の清明流暢(りゅうちょう)なる実にわが古今の文学中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辞は『鶉衣』を織成(おりな)す緯(い)となり元禄(げんろく)以後の俗体はその経(けい)をなしこれを彩(いろど)るに也有一家の文藻(ぶんそう)と独自の奇才とを以てす。渾成(こんせい)完璧(かんぺき)の語ここに至るを得て始(はじめ)て許さるべきものであろう。わたしがヨウさんに勧められ「彩牋堂の記」を草する心になったのも平素『鶉衣』の名文を慕うのあまりに出(い)でたものである。彩牋堂記の拙文は書終ると直様(すぐさま)立派な額にされたが新曲は遂に稿を脱するに至らずその断片は今でも机の抽斗(ひきだし)に蔵(しま)われてある。
 わたしが新曲に取用いようと思い定めた題材は『江戸名所図会(ずえ)』に記載せられた浅草橋場采女塚(あさくさはしばうねめづか)の故事遊女采女が自害の事であった。ヨウさんの賛成を待って筆をつけようと思った時は丁度七月の盆(ぼん)に近く稽古(けいこ)は例年の通り九月半(なかば)まで休みになる。ヨウさんは家族をつれて大磯(おおいそ)の別荘に行く。わたしは暑気にあてられて十日ほど寝る。秋涼を待ち彩牋堂の稽古が始まる頃にもなったら机に向おうと思っていると、今度は師匠が病気になった。十月に入って師匠が稽古に出られる頃にはその年は折悪(おりあ)しく主人のヨウさんが会社の用で満韓(まんかん)へ出張という次第。帰京すれば間もなく歳暮に近くそれから正月一ぱいこれはまた芸人の習慣で稽古は休みである。
 心中(しんじゅう)采女塚はそんな事ですっかり執筆の興が失(う)せてしまった。二月に至って彩牋堂から稽古始めの勧誘状が来たが毎年わたしは余寒のきびしい一月から三月も春分の頃までは風のない暖かな午後の散歩を除いてはなるべく家を出ぬことにしているので筆硯(ひっけん)多忙と称して小袖(こそで)の一枚になる時節を待った。独居の生涯は日頃(ひごろ)人一倍気楽なかわり病(やまい)に臥(ふ)した折の不自由もまた人一倍である。それもいっそぐっと寝就いてしまうほどの重患なればとやかくいう暇もないが看護婦雇うほどでもない微恙(びよう)の折は医者の来診を乞う折にもその車屋にやるべき祝儀(しゅうぎ)も自身に包んで置かねばならず医者の手を洗うべき金盥(かなだらい)や手拭(てぬぐい)の用意もあらかじめ女中に命じて置かねばならぬ。養痾(ようあ)のためにかえって用事が多くなるわけなので風邪(かぜ)引かぬ用心に寒気を恐るる事は宛(さなが)ら温室の植物同然の始末である。
 その年はやはり凶年であった。日頃の用心もそのかいなく鳥啼(な)き花落ちる頃に及んでかえって流行感冒にかかりつづいて雨の多かったためか新竹伸びて枇杷(びわ)熟する頃まで湯たんぽに腹あたためぬ日とてはなく食事の前後数うれば日に都合六回水薬粉薬取交(とりま)ぜて服用する煩(わずら)わしさ。臥(ふ)して書を読もうにも繙(ひもと)く手先早くつかれ坐して筆を把(と)ろうにも興を催すによしなく、わずかに書肆(しょし)の来(きた)って旧著の改版を請うがまま反古(ほご)にもすべき旧稿の整理と添刪(てんさん)とに日を送ればかえって過(すぎ)し日の楽しみのみ絶え間もなく思い返されるばかり。しばしば朱筆を抛(なげう)って、
収二拾シテ残書一剰ス二幾篇ヲ一。
軽狂ノ蹤跡廿年前。
笑テ傾ク二犀首ニ一花間ノ盞。
酔テ扶ク二蛾眉ヲ一月下ノ船。
黄祖怒ル時偏自喜シ。
紅児癡処絶テ堪タリレ憐ムニ。
如今興味銷磨シ尽ス。
剰愛ス銅鑪一※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)ノ烟。
と『疑雨集』中の律詩(りっし)なぞを思い出して、僅(わずか)に愁(うれい)を遣(や)る事もあった。かくては手ずから三味線(さみせん)とって、浄瑠璃(じょうるり)かたる興も起ろうはずはない。彩牋堂へはそのまま忘れたように手紙の返事さえも出さず一夏を過して、秋もまた忽(たちま)ち半(なかば)に及んだその日の夕。わたしは突然銀座通りで小半の彩牋堂を去った由を知るやおのれが無沙汰(ぶさた)は打忘れただ事の次第を訝(いぶか)ったのであった。

 点滴の樋(とい)をつたわって濡縁(ぬれえん)の外の水瓶(みずがめ)に流れ落る音が聞え出した。もう糠雨(ぬかあめ)ではない。風と共に木の葉の雫(しずく)のはらはらと軒先に払い落される響(ひびき)も聞えた。先ほどから焚(た)きつづけた蒼朮(そうじゅつ)と、煙草(たばこ)の煙の籠(こも)り過ぎたのに心づいてわたしは手を伸ばして瓦塔口(かとうぐち)の襖(ふすま)を明けかけた時彩牋堂へ宛(あ)てた手紙を出しに行った女中がその帰りがけ耳門(くぐり)の箱にはいっている郵便物を一掴(ひとつか)みにして持って来た。郵便物は皆しっとり濡(ぬ)れていた。葉書が三枚その中の二枚は株屋の広告一枚は往復葉書で貴下のすきな芸者と料理屋締切(しめきり)までに御返事下さいなどと例の無礼千万な雑誌編輯者(へんしゅうしゃ)の文言。その外(ほか)に書状が二通あった中の一通は書体で直様(すぐさま)彩牋堂主人と知られた。わたしはこの際必ずお半の一条が書いてあるに相違ないと濡れたままの封筒を干す間もなく開いて見た。
久しく御消息に接せず御近況如何(いかが)に候哉(や)。本年は残暑の後意外の冷気に加へて昨今の秋霖(しゅうりん)御健康如何やと懸念(けねん)に堪へず候。この分にてもう二、三日晴れやらずば諸河(しょか)汎濫(はんらん)鉄道不通米価いよいよ騰貴(とうき)致(いたす)べしと存候。さて突然ながらかのお半事このほどいささか気に入らぬ仕儀有之(これあり)彩牋堂より元の古巣へ引取らせ申候。古人既に閑花只合閑中看。一折帰来便不鮮。とか申候間とやかく評議致すはかへつて野暮の骨頂なるべくまた人に聞かれては当方の耻(はじ)にも相なり申(もうす)べき次第。と申せば大通(だいつう)の貴兄大抵は早や御推察の事かと存じ候。拙者とて芸者に役者はつきものなり大概の事なれば見て見ぬ度量は十分有之候。いはんや外(ほか)の芸事とはちがひ心中物(しんじゅうもの)ばかりの薗八節(そのはちぶし)けいこ致させ惚(ほれ)ねばならぬ殿ぶりに宵の口説(くぜつ)をあしたまで持越し髪のつやぬけてなど申すところはとりわけ情(じょう)をもたせて語るやう日頃註文(ちゅうもん)致をり候事とて「口舌八景(くぜつはっけい)」の口舌ならねど色里(いろざと)の諸わけ知らぬ無粋(ぶすい)なこなさんとは言はれぬつもりに候へども相手が誰あろう活動の弁士と知れ候ては我慢なりがたく御払箱(おはらいばこ)に致申(いたしもうし)候。同じいやなものにても壮士(そうし)役者か曾我(そが)の家(や)位ならまだ/\どうにか我慢も出来申(もうす)べく候へども自動車の運転手や活動弁士にてはいかに色事を浄瑠璃(じょうるり)模様に見立てたき心はありても到底色と意気とを立てぬいて八丈縞(はちじょうじま)のかくし裏なぞといふやうな心持にはなり兼(かね)申候。この辺の心事は貴下平素の審美論にも一致致すべき次第一層御同情に値する事かと愚考罷在(まかりあり)候。
お半二度左褄(ひだりづま)取る気やらまた晴れて活弁(かつべん)と世帯でも持つかその後(ご)の事はさっぱり承知致さず。折角の彩牋堂今は主なく去年尊邸より頂戴(ちょうだい)致候秋海棠(しゅうかいどう)坂地にて水はけよきため本年は威勢よく西瓜(すいか)の色に咲乱れをり候折から実の処銭(ぜに)三百落したよりは今少し惜しいやうな心持一貫三百位と思召被下(おぼしめしくださる)べく候。まづは御笑草(おわらいぐさ)まで委細如レ件(くだんのごとし)
  月  日
彩牋堂(さいせんどう)旧主
金阜(きんぷ)先生

 雨はやっと霽(は)れた。霽れさえすれば年の中(うち)で最も忘れがたい秋分の時節である。残暑は全く去って単衣(ひとえ)の裾(すそ)はさわやかに重ねる絽(ろ)の羽織の袂(たもと)もうるさからず。簾(すだれ)打つ風には悲壮の気満ち空の色怪しきまでに青く澄み渡るがまま隠君子(いんくんし)ならぬ身もおのずから行雲(こううん)の影を眺めて無限の興を催すもこの時節である。曇って風静まれば草の花蝶(ちょう)の翅(はね)のかえって色あざやかに浮立ち濠(ほり)の水には城市の影沈んで動かず池の水溝(みぞ)の水雨水の溜(たま)りさえ悉(ことごと)く鏡となって物の影を映すもこの時節である。
昨来ノ風雨鎖ス二書楼ヲ一。
得テ二此ノ新晴ヲ一簾可シレ鉤。
籬菊未レ開山桂落ツ。
雁来紅ハ占ム一園ノ秋。
 思出すまま先人の絶句を口ずさみながら外へ出た。足の向くまま彩牋堂の門前に来て見ると檜(ひのき)の自然木を打込んだ門の柱には□□寓(ぐう)とした表札まだそのままに新しく節板(ふしいた)の合せ目に胡麻竹(ごまだけ)打ち並べた潜門(くぐりもん)の戸は妾宅(しょうたく)の常とていつものように外から内の見えぬようにぴったり閉められてあった。久しく訪わなかったのでいわれなく入って見たいような気がした。普請の好きなわたしは廊下や縁側の木地(きじ)にも幾分かさびが出来たであろう。庭の土も落ちつき石にも今年は雨が多かったので苔(こけ)がついたであろう。わたしの家から移植(うつしう)えた秋海棠の花西瓜の色に咲きたる由書越(かきこ)された手紙の文言を思出してはなお更我慢がならず耳門(くぐり)の戸に手をかけるとすらすらと明いたのみならず、内にはいればこれはいかに、萩垣(はぎがき)の彼方(かなた)から聞える台広(だいびろ)の三味線。丁度二を上げて一撥(ひとばち)二撥当てた音締(ねじめ)。但し女にあらず。女にあらずとすれば正(まさ)しく師匠の千斎(せんさい)である。わたしは二の糸の上った様子から語っているのは何かと耳を傾けるとも知らず内ではおもむろに
おもひきらしやれもう泣かしやんな――――――
と主人が中音。さては浮橋縫之助(うきはしぬいのすけ)互(たがい)に「顔と顔とを見合せて一度にわつと」嘆きさえすれば後は早間(はやま)に追込んで「鳥辺山(とりべやま)」の一段はすぐさま語り終られると知るものから、わたしは無遠慮に格子戸(こうしど)明けて中座させるも心なき業(わざ)と丁度目についた玄関の庇(ひさし)に秋の蜘蛛(くも)一匹頻(しきり)に網をかけているさまを眺めながら佇立(たたず)んでいた。

「いや君実に馬鹿々々しい話さ。活弁(かつべん)に血道を上げるとは実にお話にならない。あれは全く僕の眼鏡ちがいだった。活弁の一件がないにしてもあの女は行末望みがないようだ。芸者をしている時分芸事には見込があるように思われたのはつまり非常に勝気な女で何事によらず人にまける事が嫌いだからそれで自然稽古(けいこ)にも精を出したものらしい。だから商売をやめたとなると競争する張合(はりあい)がない。一月(ひとつき)二月とたつ中(うち)三味線の稽古はわたしへの義理一方という事になった。初めはわたしもいろいろ小言をいった。生れつき質(たち)のわるい方(ほう)ではないのだから今の中(うち)みっしりやって置けといい聞かしても当人には自分の天分もわからず従って芸事の面白味も一向に感じないらしい。たとえば用がなくて退屈だという時何という気もなく手近の三味線を取上げて忘れた手でも思出して見ようという気にはならないらしい。それなら何が好きなのかというと別にこれといって好きなものもないらしい。針仕事は勿論(もちろん)読み書きも好きではない。唯(ただ)芝居へ行って友達と運動場をぶらぶらするとか三越(みつこし)や白木(しろき)へ出掛けて食堂で物を食い浅草(あさくさ)の活動写真を見廻るといったような事がまず楽しみらしい。小言をいうと遂には反抗する。面倒な思(おもい)をして三味線の師匠なぞになった処で何が面白いといわぬばかりの様子を見せるようになった。これでは到底望(のぞみ)がないと思って暇(ひま)をやった訳(わけ)だがしかしこれはあの女ばかりに限った話ではない。今の若い女は良家の女も芸者も皆同じ気風だ。会社で使っている女事務員なぞを見ても口先では色々生意気な事をいうが辛(つら)い処を辛抱して勉強しようという気は更にない。今の若い芸者に薗八なんぞ修業させようとしたのは僕の方が考えれば間違っていたともいえる。家の娘は今高等女学校に通わしてあるがそれを見ても分る話で今日の若い女には活字の外(ほか)は何も読めない。草書も変体仮名も読めない。新聞の小説はよめるが仮名の草双紙(くさぞうし)は読めない。薗八節稽古本の板木(はんぎ)は文久(ぶんきゅう)年間に彫ったものだ。お半は明治も三十年になってから後に生れた女だ。稽古本の書体がわからないのはその人の罪ではない。町に育った今の女は井戸を知らない。刎釣瓶(はねつるべ)の竿(さお)に残月のかかった趣なぞは知ろうはずもない。そういう女が口先で「重井筒(かさねいづつ)の上越した粋(すい)な意見」と唄(うた)った処で何の面白味もない訳(わけ)だ。「盛りがにくい迎駕籠(むかえかご)」といったところで何の事だかわかりはしない。分らない事に興味の起ろうはずはない。『五元集(ごげんしゅう)』の古板(こはん)は其角(きかく)自身の板下(はんした)だからいくら高くてもかまわない買いたいと思うのはわれわれの如き旧派の俳人の古い証拠で、新傾向の俳人には六号活字しか読めないのだから木板(もくはん)の本はいらない訳だ。今の芸者が三味線をひくのは唯昔からの習慣と見ればよい。丁度新傾向の俳人がその吟咏(ぎんえい)にまだ俳句という名称を棄(す)てずにいるのと同じようなものだ。僕はもう事の是非を論じている時ではない。それよりかわれわれは果していつまでわれわれ時代の古雅の趣味を持続して行く事ができるか、そんな事でも考えたがよい。僕の会社でもいよいよ昨夜から同盟罷工(ひこう)が始った。もう夕刊に出る時分だが今日はそんな騒(さわぎ)で会社は休みも同然になったのでもっけの幸(さいわい)と師匠を呼んで二、三段さらったわけさ。」
 ヨウさんは溜池(ためいけ)の三河屋(みかわや)へ電話をかけわたしに晩餐(ばんさん)を馳走(ちそう)してくれた。わたしは家へと帰る電車の道すがら丁度二、三日前から読みかけていたアンリイ・ド・レニエーが短篇小説。
MARCELINE OU LA PUNITION FANTASTIQUE
の作意とヨウさんの話とを何がなしに結びつけて思い返したのであった。レニエーの小説というのは新妻の趣味を解せざる事を悲しみ憤(いきどお)る男の述懐である。男は日頃伊太利亜(イタリア)もヴニズの古都を愛していたので新婚旅行をこの都に試みたが新妻は何の趣味をも感じない。男は或(ある)骨董店(こっとうてん)で昔ヴニズの影絵芝居で使った精巧な切子(きりこ)人形を見付け大金を惜まず買取ってやがて仏蘭西(ふらんす)の旧邸へ帰る。夫婦の仲はだんだん離れて来る。新妻の友達に下卑(げび)ていながら妙に女の気に入る医者があって主人をば精神病の患者と診断し新妻は以後主人を狂人扱いにする。或日主人は外から帰って見ると先祖代々住古(すみふる)した邸宅は一見新(あらた)に建直(たてなお)されたのかと思うばかりその古びた外観を改めまた昔の懐しい家具は椅子(いす)卓子(テーブル)に至るまで悉(ことごと)く巴里(パリー)街頭の家具店に見られるような現代式のけばけばしい製造品に取替えられている有様、男は憤怒のあまり周囲のものを打壊して卒倒してしまう…………わたしはヨウさんに別れて家に帰ると直様(すぐさま)読掛けたこの小説の後半をば蚊帳(かや)の中で読んだ。……篇中の主人公がヴニズの骨董店で買取った秘蔵の人形は留守中物置の中に投込まれていたが折から照り渡る月の光に動き出して話をしだす。感情の興奮している主人公は夢とも現(うつつ)ともわけが分らなくなって遂にはどうやら自分ながらも日頃周囲のもののいっていたように真の狂人であるが如き心持になってしまう――というのがこの小説の結末であった。
 蚊帳の外に手を延ばして燈火を消した時遠く鐘の音が聞えた。数えると二時らしかった。秋の夜ごとにふけ行く夜半過(やはんすぎ)わけて雨のやんだ後とて庭一面※(「虫+車」、第3水準1-91-55)(こおろぎ)の声をかぎりと鳴きしきるのにわたしは眠(ね)つかれぬままそれからそれといろいろの事を考えた。一刻も早く眠りたいと思いながらわけもなく思いに耽(ふけ)る思いである。あくる日起きてしまえば何を考えたのやら一向に思い出す事の出来ない取留(とりと)めのない思いである。

 その後わたしは年々暑さ寒さにつけて病をいたわる事のみにいそがしく再び三味線のけいこをするような気にもならずまた強(しい)て著作の興を呼ぶ気にもならなくなった。生きがいもなき身と折々は憂傷悲憤に堪えなかったその思いさえも年と共に次第に失せ行くようである。たまたま思当るのはフェルナン・グレイが詩に、

J'ai trop pleur※(アキュートアクセント付きE小文字) jadis pour des l※(アキュートアクセント付きE小文字)g※(グレーブアクセント付きE小文字)res!
Mes Douleurs aujourd'hui me sont ※(アキュートアクセント付きE小文字)trang※(グレーブアクセント付きE小文字)res ……
Elles ont beau parler ※(グレーブアクセント付きA小文字) mots mysteri※(アキュートアクセント付きE小文字)ux ……
Et m'appeler dans l'ombre leurs voix l※(アキュートアクセント付きE小文字)g※(グレーブアクセント付きE小文字)res;
Pour elles je n'ai plus de larmes dans les yeux.

Mes Douleurs aujourd'hui me sont des inconnues;
Passantes du chemin q※(アキュートアクセント付きU小文字)on eut peut-※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tre aim※(アキュートアクセント付きE小文字)es,
Mais qu'on n'attendait plus quand elles sont venues,
Et qui s'en va l※(グレーブアクセント付きA小文字)-bas comme des inconnues,
Parce q※(アキュートアクセント付きU小文字)il est trop tard, les ※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)mes sont ferm※(アキュートアクセント付きE小文字)es.

わけなき事にも若き日は唯ひた泣きに泣きしかど。
その「哀傷」何事ぞ今はよそ/\しくぞなりにける。
哀傷の姫は妙(たえ)なる言葉にわれをよび、
小(お)ぐらきかげにわれを招ぐもあだなれや。
わがまなこ涙は枯れて乾きたり。

なつかしの「哀傷」いまはあだし人となりにけり。
折もしありなば語らひやしけん辻君(つじぎみ)の、
寄りそひ来ても迎へねば、
わかれし後(のち)は見も知らず。
何事もわかき日ぞかし心と心今は通はず。

 なるほど情は消え心は枯れたにちがいない。欧洲(おうしゅう)乱後の世を警(いまし)むる思想界の警鐘もわが耳にはどうやら街上飴(あめ)を売る翁(おきな)の簫(ふえ)に同じく食うては寝てのみ暮らすこの二、三年冬の寒からず夏の暑からぬ日が何よりも嬉しい。胃の消化よく夢も見ず快眠を貪(むさぼ)り得た夜の幸福はおそらく美人の膝(ひざ)を枕(まくら)にしたにも優っているであろう。しかしふと思立ってわたしは生前一身の始末だけはして置こうものとまず家と蔵書とを売払って死後の煩(わずら)いを除いた。閑中いささか多事の思(おもい)をなしたのは唯この時ばかりであった。
 住み馴(な)れた家を去る時はさすがに悲哀であった。『明詩綜(みんしそう)』載(の)する処の茅氏(ぼうし)の絶句にいう。
壁二有リ二蒼苔一甑ニ有リレ塵。
家園一旦属ス二西鄰ニ一。
傷心畏ルレ見ルヲ門前柳。
明日相看レバ是レ路人。
 その中売宅記(ばいたくき)とでも題してまた書こう。
大正十年正月脱稿
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 拙作『雨瀟瀟』はかつて余が編輯(へんしゅう)せし雑誌『花月』に掲載せむがため大正七年の秋稿を起せしもの。初め「彩箋堂佳話(さいせんどうかわ)」と題せしがその冬雑誌の廃刊と共に転居の事などありて、そのまゝ久しく筆を断ちたり。大正九年の夏築地(つきじ)より現在の家に移るに及び再び執筆の興を催し同年十二月の末に至りて稿を脱し得たり。あたかも雑誌『新小説』記者の草稿を求むるに会い浄写の時改めて『雨瀟瀟』となしぬ。大正十一年九月当時執筆の短篇小説数篇及雑録の類と併(あわ)せてこれを一巻となし春陽堂(しゅんようどう)より刊行したり。大正十三年九月『麻布襍記(あざぶざっき)』の一書を梓(し)するに当り、再びこの小篇『雨瀟瀟』を取りてその巻初に掲げぬ。昭和二年九月書肆(しょし)改造社(かいぞうしゃ)の『現代日本文学全集』第廿二篇を編輯するや『雨瀟瀟』の一篇またその巻首に採録せられぬ。この度(たび)書估(しょこ)野田氏(のだし)またこの一小篇を取りて刊行せむとす。依(よ)って印行の次第を記し以て序に代ふ。昭和十年乙亥(きのとい)秋八月於偏奇館、荷風散人識(しるす)
了

底本:「雨瀟瀟・雪解 他七篇」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年10月16日第1刷発行
   1991(平成3)年8月5日第6刷発行
底本の親本:「荷風小説 五」岩波書店
   1986(昭和61)年9月9日
初出:雨瀟瀟「新小説」
   1921(大正10)年3月
   雨瀟瀟序「雨瀟瀟」野田書房
   1935(昭和10)年9月刊行
※表題は底本では、「雨(あめ)瀟瀟(しょうしょう)」となっています。
※引用文の旧仮名は、底本通りです。
※底本巻末の蜂屋邦夫による訓読注記は省略しました。
入力:入江幹夫
校正:酒井裕二
2017年11月24日作成
2017年12月5日修正
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