あらすじ
かつて玩具雑貨輸出問屋の主人であった兼太郎は、今では電話と家屋の売買を仲介する「千三屋」の手先同然の身となっており、築地二丁目の路地裏にある出方の家の二階を借りて暮らしていました。ある日、兼太郎は吹雪が止んで雪解けが始まったことに気づき、湯屋へ行くことにします。湯屋で兼太郎は、かつて置いてきた娘のお照と再会を果たします。お照は、今ではカッフェーで働いているとのことでした。久しぶりの再会に喜ぶ兼太郎ですが、娘の成長ぶりに驚き、戸惑いを感じます。お照は、兼太郎の家を訪れ、お酒を酌み交わしながら近況を語り、別れ際に「もし、今の家にいられなくなったら、お父さんの家にかくまって下さい」と頼みます。兼太郎は、娘の言葉に複雑な心境を抱きながらも、彼女を見送るのでした。
 兼太郎(かねたろう)は点滴の音に目をさました。そして油じみた坊主枕(ぼうずまくら)から半白(はんぱく)の頭を擡(もた)げて不思議そうにちょっと耳を澄(すま)した。
 枕元に一間(いっけん)の出窓がある。その雨戸の割目(われめ)から日の光が磨硝子(すりガラス)の障子に幾筋(いくすじ)も細く糸のようにさし込んでいる。兼太郎は雨だれの響(ひびき)は雨が降っているのではない。昨日(きのう)午後(ひるすぎ)から、夜も深(ふ)けるに従ってますます烈(はげ)しくなった吹雪が夜明と共にいつかガラリと晴れたのだという事を知った。それと共にもうかれこれ午(ひる)近くだろうと思った。正月も末、大寒(だいかん)の盛(さかり)にこの貸二階の半分西を向いた窓に日がさせば、そろそろ近所の家から鮭(さけ)か干物(ひもの)を焼く匂(におい)のして来る時分(じぶん)だという事は、丁度去年の今時分初めてここの二階を借りた当時、何もせずにぼんやりと短い冬の日脚(ひあし)を見てくらしたので、時計を見るまでもなく察しる事が出来るのであった。それにつけても月日のたつのは早い。また一年過ぎたのかなと思うと、兼太郎は例の如く数えて見ればもう五年前株式の大崩落(だいぼうらく)に家倉をなくなし妻には別れ妾(めかけ)の家からは追出されて、今年丁度五十歳の暁とうとう人の家の二階を借りるまでになった失敗の歴史を回想するより外(ほか)はない。以前は浅草(あさくさ)瓦町(かわらまち)の電車通(どおり)に商店を構えた玩具(がんぐ)雑貨輸出問屋の主人であった身が、現在は事もあろうに電話と家屋の売買を周旋するいわゆる千三屋(せんみつや)の手先とまでなりさがってしまったのだ。昨日も一日吹雪の中をあっちこっちと駈(か)け廻って歩く中(うち)一足(いっそく)しかない足駄(あしだ)の歯を折ってしまった事やら、ズブ濡(ぬれ)にした足袋(たび)のまだ乾いていようはずもない事なぞを考え出して、兼太郎はエエままよ今日はいっそ寝坊ついでに寝て暮らせと自暴(やけ)な気にもなるのであった。もともと家屋電話の周旋屋というのは以前瓦町の店で使っていた男がやっているので、一日や二日怠けた処で昔の主人に対して小言のいえようはずもなく解雇される虞(おそれ)もない……。
 窓の下を豆腐屋が笛を吹いて通って行った。草鞋(わらじ)の足音がぴちゃぴちゃと聞えるので雪解(ゆきどけ)のひどい事が想像せられる。兼太郎は寝過(ねすご)してかえっていい事をしたとも思った。突然ドシーンとすさまじい響に家屋を震動させて、隣の屋根の雪が兼太郎の借りている二階の庇(ひさし)へ滑り落ちた。つづいて裏屋根の方で物干竿(ものほしざお)の落ちる音。どうやら寝てもいられないような気がして兼太郎は水洟(みずばな)を啜(すす)りながら起上った。すぐに窓の雨戸を明けかけたが、建込(たちこ)んだ路地(ろじ)の家の屋根一面降積(ふりつも)った雪の上に日影と青空とがきらきら照輝くので暫(しばら)く目をつぶって立ちすくむと、下の方から女の声で、
「田島さん。家(うち)の物干竿じゃありませんか。」
 兼太郎のあけた窓の明りで二階中は勿論(もちろん)の事、梯子段(はしごだん)の下までぱっと明(あかる)くなった処からこの家(や)の女房は兼太郎の起きた事を知ったのである。
「どうだか家じゃあるまいよ。」と兼太郎はそんな事よりもまず自分の座敷の火鉢(ひばち)に火種が残っているか否かを調べた。
「田島さんもうじきお午(ひる)ですよ。」
 襖(ふすま)の外で言いながら、おかみは梯子段を上り切って突当りに一間(いっけん)ばかり廊下のようになった板の間(ま)から、すぐと裏屋根の物干へ出る硝子戸(ガラスど)をばビリビリ音させながら無理に明けようとしている。いつも建付けの悪いのが今朝は殊更(ことさら)雪にしめって動かなくなったのであろう。
 この硝子戸から物干台へ出る間の軒下には兼太郎の使料(つかいりょう)になっている炭と炭団(たどん)を入れた箱にバケツが一個と洗面器が置いてある。
「あら、まア田島さん。炭も炭団もびしょぬれだよ。昨夜(ゆうべ)の中(うち)にどうにかしてお置きなされァいいのにさ。」
 物干竿を掛直(かけなお)したかみさんは有合(ありあ)う雑布(ぞうきん)で赤ぎれのした足の裏を拭(ふ)き拭き此度(こんど)は遠慮なくがらりと襖を明けて顔を出した。眉毛(まゆげ)の薄い目尻の下った平顔(ひらがお)の年は三十二、三。肩のいかった身体付(からだつき)のがっしりした女であるが、長年新富町(しんとみちょう)の何とやらいう待合(まちあい)の女中をしていたとかいうので襟付(えりつき)の紡績縞(ぼうせきじま)に双子(ふたこ)の鯉口半纏(こいぐちはんてん)を重ねた襟元に新しい沢瀉屋(おもだかや)の手拭(てぬぐい)を掛け、藤色の手柄(てがら)をかけた丸髷(まるまげ)も綺麗(きれい)に撫(なで)付けている様子。まんざら路地裏の嚊(かかあ)とも見えない。以前奉公先なる待合の亭主の世話で新富座の長吉(ちょうきち)と贔屓(ひいき)の客には知られている出方(でかた)の女房になって、この築地(つきじ)二丁目本願寺(ほんがんじ)横手の路地に世帯(しょたい)を持ってからもう五年ほどになるがまだ子供はない。
「おかみさん。湯に行って暖たまって来(こ)よう。今日は一日(いちんち)楽(らく)休みだ。」と兼太郎は夜具を踏んで柱の釘(くぎ)に引掛(ひっか)けた手拭を取り、「大将はもう芝居かえ。一幕(ひとまく)のぞいて来ようかな。」
「播磨屋(はりまや)さんの大蔵卿(おおくらきょう)、大変にいいんですとさ。」
「おかみさんまだ見ないのか。」
「お正月は御年始廻(おねんしまわ)りや何かで家の人がいそがしいもんだから。」と女房は襟にかけた手拭を姉(あね)さまかぶりにして兼太郎の夜具を上げ、
「ゆっくり行ってお出(いで)なさい。綺麗に掃除して置きますよ。田島さん、そうそう持って来るのを忘れてしまった。牛乳が火鉢の処に置いてありますよ。」
「今朝はもう牛乳はぬきだ。日が当っていてもやっぱり寒い。」と兼太郎は楊枝(ようじ)をくわへて[#「くわへて」はママ]寝衣(ねまき)のまま格子戸(こうしど)を明けて出た。
 路地の雪はもう大抵両側の溝板(どぶいた)の上に掻き寄せられていたが人力車(じんりきしゃ)のやっと一台通れるほどの狭さに、雪解の雫(しずく)は両側に並んだ同じような二階家(や)の軒からその下を通行する人の襟頸(えりくび)へ余沫(しぶき)を飛(とば)している。それを避けようと思って何方(どちら)かの軒下へ立寄ればいきなり屋根の上から積った雪が滑り落ちて来ないともわからぬので、兼太郎は手拭を頭の上に載せ、昨日歯を割った足駄を曳摺(ひきず)りながら表通(おもてどおり)へ出た。向側は一町ほども引続いた練塀(ねりべい)に、目かくしの椎(しい)の老木が繁茂した富豪の空(あき)屋敷。此方(こなた)はいろいろな小売店のつづいた中に兼太郎が知ってから後(のち)自動車屋が二軒も出来た。銭湯(せんとう)もこの間にある。蕎麦屋(そばや)もある。仕出屋(しだしや)もある。待合もある。ごみごみしたそれらの町家(まちや)の尽(つき)る処、備前橋(びぜんばし)の方へ出る通(とおり)との四辻(よつつじ)に遠く本願寺の高い土塀と消防の火見櫓(ひのみやぐら)が見えるが、しかし本堂の屋根は建込んだ町家の屋根に遮(さえぎ)られてかえって目に這入(はい)らない。区役所の人夫が掻き寄せた雪を川へ捨てにと車に積んでいるのを、近処の犬が見て遠くから吠(ほ)えている。太い電燈の柱の立っているあたりにはいつの間に誰がこしらえたのか大きな雪達磨(ゆきだるま)が二つも出来ていた。自動車の運転手と鍛冶屋(かじや)の職人が野球の身構(みがまえ)で雪投げをしている。
 兼太郎は狭い路地口(ろじぐち)から一足(ひとあし)外へ踏み出すと、別にこれと見処もないこの通をばいつもながらいかにも明(あかる)く広々した処のように感じるのであった。そして折々自分はどうしても路地に生れて路地に育った人間ではない、死ぬまでにいつか一度元のように表通(おもてどおり)に住んで見たいものだと思う事もあるのであった。兼太郎がこの感慨は湯屋の硝子戸を明けて番台のものに湯銭(ゆせん)を払う時殊更深くなる事がある。
 築地のこの界隈(かいわい)にはお妾新道(めかけじんみち)という処もある位で妾が大勢住んでいる。堅気(かたぎ)の女房も赤い手柄(てがら)をかける位の年頃(としごろ)のものはお妾に見まがうような身なりをしている。兼太郎は番台越しに女湯で着物をぬぎかける女の中に、小作りのぽっちゃりした年増盛(としまざかり)のお妾らしいものを見ると、以前代地河岸(だいちがし)に囲って置いた自分のお妾の事を思い出すのである。名はお沢(さわ)といった。大正三年の夏欧洲(おうしゅう)戦争が始まってから玩具(がんぐ)雑貨の輸出を業とした兼太郎の店は大打撃を受けたので、その取返しをする目算で株に手を出した。とんとん拍子に儲(もう)かったのがかえって破滅の本(もと)であった。四、五年成金熱に浮かされている中(うち)、講和条約が締結され一時下った相場はまた暫く途拍子(とっぴょうし)もなく絶頂に達したかと思うと忽(たちまち)にしてまた崩落(ぼうらく)した。兼太郎は親から譲られた不動産までも人手に渡して本妻の実家へ子供をつれて同居するという始末、代地河岸に囲ってあったお妾のお沢は元の芸者の沢次(さわじ)になった。幸い妾宅(しょうたく)の家屋はお沢の名儀にしてあったので、両人話合の末それを売って新(あらた)に芸者家(げいしゃや)沢(さわ)の家(や)の看板を買う資本にした訳(わけ)である。兼太郎は本妻との間にその時八つになる男と十三になる娘があったにもかかわらず、いつか沢の家に入りびたりとなった。本妻の実家は資産のある金物(かなもの)問屋の事とて兼太郎の身持に呆(あき)れ果て子供を引取って養育する代り本妻お静の籍を抜きやがて他へ再縁させたという話である。
 丁度そんな話のあった頃から兼太郎は沢次の家にもどうやら居辛(いづら)いようになって来た。初めの中(うち)は旦那の落目(おちめ)に寝返りをしたなどと言われては以前の朋輩(ほうばい)にも合す顔がない。今までお世話になった御恩返しをするのはこれからだと沢次は立派な口をきいていたが、一年二年とたつ中いつか公然と待合にも泊る。箱根(はこね)へ遠出にも行く。兼太郎は我慢をしていたが、遂(つい)には抱えの女供(ども)にまで厄介者扱(あつかい)にされ出したのでとうとう一昨年の秋しょんぼりと沢の家を出た。さすがに気の毒と思ったのか沢次はその時三千円という妾宅を売った折の金を兼太郎に渡した。以後兼太郎はあっちこっちと貸間を借り歩いた末、今の築地二丁目の出方(でかた)の二階へ引っ越して来た時には、女から貰(もら)った手切(てぎれ)の三千円はとうに米屋町(こめやまち)で大半(あらかた)なくしてしまい、残(のこり)の金は一年近くの居食(いぐい)にもう数えるほどしかなかった。

 雪は止(や)んだ。裸虫(はだかむし)の甲羅(こうら)を干すという日和(ひより)も日曜ではないので、男湯には唯(ただ)一人生花(いけばな)の師匠とでもいうような白髭(しらひげ)の隠居が帯を解いているばかり。番台の上にはいつも見る婆(ばばあ)も小娘もいない。流しの木札(きふだ)の積んである側(そば)に銅貨がばらばらに投出したままになっているのは大方隠居の払った湯銭(ゆせん)であろう。兼太郎も湯銭を投出して下駄をぬごうとした時、ガラガラと女湯の戸をあけて入って来た一人の女がある。
 色糸の入った荒い絣(かすり)の銘仙(めいせん)に同じような羽織を重ねた身なりといい、頤(あご)の出た中低(なかびく)な顔立といい、別に人の目を引くほどの女ではないが、十七、八と覚(おぼ)しいその年頃とこの辺(へん)では余り見かけない七三(しちさん)に割った女優髷(じょゆうまげ)とに、兼太郎は何の気もなくその顔を見た。娘の方でも番台を間に兼太郎の顔を見るといかにも不審そうに、手にした湯銭をそのまま暫(しばら)く土間の上に突立(つった)っていたが、やがて肩で呼吸(いき)をするように、
「まあお父(とっ)さんしばらくねえ。」といったなり後(あと)は言葉が出ぬらしい。
「お照(てる)。すっかり見ちがえてしまったよ。」
 兼太郎は人のいないのを幸い番台へ寄りかかって顔を差伸(さしのば)した。
「お父さんいつお引越しになったの。」
「去年の今時分(いまじぶん)だ。」
「じゃ、もう柳橋(やなぎばし)じゃないのね。」
「お照、お前は今どこにいるのだ。御徒町(おかちまち)のお爺(じい)さんの処にいるんじゃないのか。」
 お照は俄(にわか)に当惑したらしい様子で、「今日はアノ何なの――ちょっとそこのお友達の内へ遊びに来ているんですよ。」
「何しろここでお前に逢(あ)おうとは思わなかった。お照、すぐそこだから帰りにちょっと寄っておくれ。お父さんはすぐそこの炭屋と自転車屋の角を曲ると三軒目だ。木村ッていう家にいるんだよ。曲って右側の三軒目だよ。いいか。」
 その時戸を明けて貸自動車屋の運転手らしい洋服に下駄(げた)をはいた男が二人、口笛でオペラの流行唄(はやりうた)をやりながら入って来たので、兼太郎はただ「いいかねいいかね。」と念を押しながら本意(ほい)なくも下駄をぬいで上った。お照は気まりわる気(げ)に軽く首肯(うなず)いて見せるや否や男湯の方からは見えないズット奥の方へ行ってしまった。

 茶の間の長火鉢で惣菜(そうざい)を煮ていた貸間のかみさんは湯から帰って来た兼太郎の様子に襖(ふすま)の中から、
「田島さん。御飯をあがるんなら蒸して上げますよ。煮くたれててよければお汁(つけ)もあります。どうします。」
「お汁は沢山だ。」と兼太郎は境の襖を明けて立ちながら、「おかみさん、不思議な事もあるもんだ。まるで人情ばなしにでもありそうな話さ。女房の実家(さと)へ置き去りにして来た娘に逢ったんだ。女湯もたまにゃア覗(のぞ)いて見るものさ。」
「へえ。まア――。」
「その時分女房は三十越していい年をしていやがったが、よくよくおれに愛想(あいそ)をつかしゃアがったと見えて他(よそ)へ片付いてしまやアがったんで、つい娘や子供の事もそれきり放捨(うっちゃ)って置いたんだがね、数えて見るともう十八だ。」
「この辺においでなさるんですか。まアこっちへお入んなさい。」
「湯ざめがしそうだから着物を着て来よう。おかみさん娘が尋ねて来るはずなんだ。あんまりじじむさい風も見せたくないよ。」
 兼太郎は二階へ上り着物を着換えてお照の来るのを待った。午飯(ひるめし)を食べてしまったが一向(いっこう)格子戸の明く音もしない。兼太郎は窓を明けて腰をかけ口に啣(くわ)えた敷島(しきしま)に火をつける事も忘れて、路地から表通の方ばかり見つめていたが娘の姿は見えなかった。お照はやはりおれの事をよく思っていないと見える。人情のない親だと思うのも無理はない。尋ねて来ないのも尤(もっと)もだ。手の甲で水洟(みずばな)をふきながら首をすっ込めて窓をしめると、何処(どこ)かの家の時計が二時を打ち、斜(ななめ)に傾きかけた日脚(ひあし)はもう路地の中には届かず二階中は急に薄暗くなった。長い間窓に腰をかけていたので湯冷(ゆざめ)もする、火鉢の火を掻立(かきた)てて裏の物干へ炭団(たどん)を取りに行くとプンプン鳥鍋(とりなべ)の匂(におい)がしている。隣家(となり)は木挽町(こびきちょう)の花柳(かりゅう)病院の助手だとかいう事で、つい去年の暮看護婦を女房に貰(もら)ったのである。二階から此方(こなた)の家の勝手口へ遠慮なく塵(ちり)を掃き落すというので出方(でかた)のかみさんは田舎者は仕様がないとわるく言切っている。兼太郎は雪に濡(ぬ)れた炭団(たどん)をつまんで独り火を起すその身に引くらべると、貰って間(ま)もない女房と定めし休暇と覚しい今日の半日を楽しく暮す助手の身の上が訳(わけ)もなく羨(うらや)ましく思われたので、聞くともなく物干一つ隔てた隣の話声に耳をすました。すると物干の下なる内の勝手口で、
「おかみさん、留守かい。おかみさん。」と言う男の声。物干の間から覗(のぞ)いて見ると紺の股引(ももひき)に唐桟縞(とうざんじま)の双子(ふたこ)の尻を端折り、上に鉄無地(てつむじ)の半合羽(はんがっぱ)を着て帽子も冠(かぶ)らぬ四十年輩の薄い痘痕(あばた)の男である。
「伊三(いさ)どん、大変な道だろう。さアお上り。」水口(みずぐち)の障子を明けたかみさんは男の肩へ手をやって、
「今日は二階にいるんだからね。」と小声に言った。
「そうか。貸間の爺(じじい)かい。じゃまた来ようや。」
「何、いいんだよ。さア伊三どん。おお寒い。」
 男を内へ上げた後(のち)、かみさんは男の足駄を手早く隠してぴったり水口の障子をしめた。男は伊三郎という新富町(しんとみちょう)見番(けんばん)の箱屋(はこや)で、何でもここの家のおかみさんが待合の女中をしている時分(じぶん)から好い仲であったらしい。兼太郎は去年の今頃は毎日二階にごろごろしていたので様子は委(くわ)しく知っているのであった。その時分には二人は折々二階へ気を兼ねて別々に外へ出て行った事もあった。
 兼太郎は炬燵(こたつ)に火を入れて寝てしまおうかと思ったが今朝は正午(ひる)近くまで寝飽(ねあ)きた瞼(まぶた)の閉じられようはずもないので、古ぼけた二重廻(にじゅうまわし)を引掛(ひっか)けてぷいと外へ出てしまった。本(もと)より行くべき処もない。以前ぶらぶらしていた時分行き馴(な)れた八丁堀(はっちょうぼり)の講釈場(こうしゃくば)の事を思付(おもいつ)いて、其処(そこ)で時間をつぶした後(のち)地蔵橋(じぞうばし)の天麩羅屋(てんぷらや)で一杯やり、新富町の裏河岸(うらがし)づたいに帰って来ると、冬の日は全く暮果(くれは)て雪解の泥濘(ぬかるみ)は寒風に吹かれてもう凍っている。
 格子戸をあけると、わざとらしく境の襖(ふすま)が明け放しになっていて、長火鉢や箪笥(たんす)や縁起棚(えんぎだな)などのある八畳から手水場(ちょうずば)の開戸(ひらきど)まで見通される台処で、おかみさんはたった一人後向(うしろむき)になって米を磨(と)いでいた。
「おかみさん。とうとう来なかったか。」
「ええ。お出(いで)になりませんよ。」とかみさんは何故(なぜ)か見返りもしない。
 兼太郎はわけもなく再びがっかりして二階へ上るや否や二重廻を炬燵の上へぬぎすてそのままごろりと横になった。向う側の吉川(よしかわ)という待合で芸者がお客と一所に「三千歳(みちとせ)」を語っている。聞くともなしに聞いている中(うち)、兼太郎はいつかうとうととしたかと思うと、「田島さん、田島さん。」と呼ぶ声。
 階下(した)のかみさんは梯子段(はしごだん)の下の上框(あがりがまち)へ出て取次をしている様子で「お上んなさいましよ。きっと転寝(うたたね)でもしておいでなさるんだよ。まだ聞えないのか知ら。田島さん。田島さん。」
 兼太郎は刎起(はねお)きて、「お照か。まアお上り。お上り。」といいながら梯子段を駈下(かけお)りた。
 お照は毛織の襟巻(えりまき)を長々とコートの肩先から膝(ひざ)まで下げ手には買物の紙包を抱えて土間に立っていた。兼太郎は手を取らぬばかり。
「お照。よく来てくれたな。実はもう来やしまいと思っていたんだ。おれも今方(いまがた)帰って来た処だ。さア二階へお上り。」
「じゃ御免(ごめん)なさいまし。」とかみさんの方へ何とつかず挨拶(あいさつ)をしてお照は兼太郎につづいて梯子段を上った。
「お照、ここがお父(とっ)さんのいる処だ。お父さんも随分変ったろう。」と兼太郎は火鉢の火を掻き立てながら、「ぬがないでもいいよ。寒いから着ておいで。」
 けれどもお照は後向になってコートと肩掛とを取乱された六畳の間の出入口に近い襖(ふすま)の方(ほう)に片寄せながら、
「さっき昼間の中(うち)来ようと思ったんですよ。だけれどお友達と浅草(あさくさ)へ行く約束をしたもんだから。」
「そうか、活動か。」と兼太郎は小形の長火鉢をお照の方へと押出した。
「お父さん、これはつまらないものですけれど、お土産(みやげ)なの。」
「何、お土産だ。それは有難い。」と兼太郎は真実嬉(うれ)しくてならなかったので、お照が火鉢の傍(そば)へ置いた土産物をば膝(ひざ)の上に取って包紙を開きかける。土産物は何かの缶詰であった。
「お父さん、やっぱり御酒(おさけ)を上るんでしょう。浅草にゃ何もないのよ。」
「ナニこれァお父さんの大好きなものだ。」
 兼太郎は嬉涙(うれしなみだ)に目をぱちぱちさせていたがお照は始終頓着(とんちゃく)なくあたりを見廻す床(とこ)の間(ま)に二合罎(びん)が置いてあるのを見ると自分の言った事が当っているので急に笑いながら、
「お父さん、やっぱり寝る時に上るんですか。」
「何だ。はははは。とんだものを目付(めつ)かったな。何、これァ昨夜(ゆうべ)雪が降ったから途中で一杯やったら、もういいというのに間違えてまた一本持って来やがったからそのまま懐中(ふところ)へ入れて来たんだ。」
「お父さん、今夜はまだなの。お上んなさいよ。わたしがつけて上げましょう。」
 丁度手の届くところに二合罎があったのでお照はそれをば長火鉢の銅壺(どうこ)の中に入れようとして、
「この中へ入れてもいいんでしょう。」
 兼太郎は唯首肯(うなず)くばかり、いよいよ嬉しくて返事も出来ず涙ぐんだ目にじっとお照の様子を見詰(みつめ)るばかりである。お照が二合罎を銅壺の中に入れる手付きにはどうやら扱い馴(な)れた処が見えた。
 兼太郎は昼間湯屋の番台で出逢(であ)ったその時から娘の身の上が聞きたくてならなかった。しかし以前瓦町(かわらまち)に店があった時分から子供の事は一切(いっさい)母親のお静にまかしたなり、ろくろく顔を見た事もなかった位。朝起きる時分には娘はもう学校に行っている。娘が帰って来る時分には兼太郎は外へ出て晩飯は妾宅(しょうたく)で食べ十二時過ぎでなければ帰っては来なかったので、今日突然こんなに成長した娘の様子を見ると、父親としてはいかにも済まないような心持もするしまた何となく恨んでいはせまいかと恐ろしいような気もして、兼太郎はききたい事も遠慮して聞きかねるのであった。
 実際その時分には兼太郎は女房の顔を見るのがいやでいやでならなかったのだ。気がきかなくてデブデブ肥(ふと)っている位ならまだしもの事生れ付きひどい腋臭(わきが)があったので嫌い抜いたあまり自然その間に出来た子供にまでよそよそしくするようになった訳(わけ)である。兼太郎がその頃(ころ)目をつける芸者は岡目(よそめ)には貧相(ひんそう)だと言われる位な痩立(やせだち)な小作りの女ばかり。旅籠町(はたごちょう)へ遂に妾宅まで買ってやった沢次(さわじ)の外(ほか)に、日本橋(にほんばし)にも浅草にも月々きまって世話をした女があったが、いずれも着痩(きやせ)のする小作(こづくり)な女であった。大柄な女はいかほど容貌(きりょう)がよく押し出しが立派でも兼太郎はさして見返りもせず、ああいう女は昔なら大籬(おおまがき)の華魁(おいらん)にするといい、当世なら女優向きだ、大柄な女は大きなメジ鮪(まぐろ)をぶっころがしたようで大味(おおあじ)だと冗談をいっていたのもそのはず、兼太郎は骨格はしっかりしてはいたが見だてのない小男なので、自分よりも丈(せい)の高い女房のお静が大一番(おおいちばん)の丸髷(まるまげ)姿を見ると、何となく圧服(あっぷく)されるような気がしてならないのであった。
 それこれと当時の事を思い出すにつけて兼太郎は娘のお照が顔立は母に似ているが身体付(からだつき)は自分に似たものかそれほどデクデクもしていないのを見ると共に、あの母親の腋臭はどうなっただろうと妙な処へ気を廻した。しかしそれは折から階下(した)のかみさんが焼き初めた寒餅(かんもち)の匂(におい)にまぎらされて確かめる事が出来なかった。
 お照は火針へ差かざす手先に始終お燗(かん)を注意していたが寒餅の匂に気がついたものと見え、「お父さん御飯はどうしているの。下でおまかないするの。」
「家(うち)にいる時はそうするがね。毎日桶町(おけちょう)まで勤めに行くからね、昼は弁当だし帰りにゃ花村(はなむら)かどこかで一杯やらアな。」
「お父さん。それじゃ今は勤め人なの。」
「碌(ろく)なものじゃないよ。お前は子供だったから知るまいが、瓦町の店へ来た桑崎(くわざき)という色の黒い太った男だ。それが今成功して立派な店を張っているんだ。そこへ働きに行くのさ。」
「桑崎さん、覚えているわ。どこだかお国の人でしょう。この頃はどこへ行ってもお国の人ばかりねえ。お国の人が皆成功するのねえ。」
「お父さん見たようになっちゃ駄目だ。御徒町(おかちまち)のおじいさんも江戸ッ児(こ)じゃないよ。」
 兼太郎は話が自然にここへ巡(めぐ)って来たのを機会にその後の様子を聞こうと、「お照。お前母(おっか)さんがお嫁に行く時なぜ一所について行かなかったんだ。連(つ)れ児(こ)はいけないというはなしでもあったのか。」
「そうでもないけれど……。」とお照は兼太郎の見詰める視線を避(よ)けようとでもするらしく始終伏目になっていたが、「お父さん、もうお燗がよさそうよ。どうしましょう。」
 指先で二合罎を摘(つま)み出して灰の中へそっと雫(しずく)を落している。
「お照、お前どこでお燗のつけ方なんぞ覚えたんだ。」
「もう子供じゃないんですもの。誰だって知ってるわ。」と猫板(ねこいた)の上に載せながら、「お父さんお盃(さかずき)はどこにあるの。」
 兼太郎は肝腎(かんじん)な話をよそにして夜店で買った茶棚の盃を出し、
「どうだお前も一杯やるさ。お燗の具合がわかる処を見ると一杯位はいけるだろう。」
「わたしは沢山。」とお照は壜を取上げて父の盃へついだ。
「お照。お前にめぐり遇(あ)った縁起のいい日だからな。」とぐっと一杯干して、「お父さんがお酌をしよう。飲めなければ飲むまねでもいいよ。」
「そう。じゃついで頂戴(ちょうだい)。」
 お照は兼太郎が遠慮して七分目ほどついた盃をすぐに干したばかりか火鉢の縁(ふち)で盃の雫を拭(ぬぐ)って返す手つき、いよいよ馴れたものだと兼太郎は茫然(ぼうぜん)とその顔を見詰めた。
「お父さん。いやねえ。先刻(さっき)から人の顔ばかり見て。わたしだっていつまでも子供じゃないわ。」
「お照、お前、お母さんがお嫁に行ってから会ったか。」
「いいえ。東京にゃいないんですって、大阪にお店があるんですとさ。」
「角太郎(かくたろう)はどうしている。お前が十八だと角太郎は十三だな。」
「角ちゃんは今だってちゃんと御徒町にいるでしょう。男ですもの。」
「女だといられないのか。」
「いられないっていうわけもないけれど、わたしが悪かったのよ。おじいさんの言う事をきかなかったから。」
「そんなら謝罪(あやま)ればいいじゃないか。謝罪ってもいけないのか。」
「外(ほか)の事と違うから、今更帰れやしませんよ。こうしている方(ほう)が呑気(のんき)だわ。」
「外の事とちがう。どんな事なんだ。」
「どんな事ッて、その中(うち)に言わなくっても分りますよ。お父さんも道楽した人に似合わないのね。」
「わかったよ。だが、どうもまだよくわからない処があるな。お照、何も気まりをわるがる事はねえや。そんな事をいった日にゃお父さんこそ、お前に合す顔がありゃしない。お前がちゃんとおとなしく御徒町の家にいた日にゃ途中で逢(あ)ったって話も出来ない訳(わけ)なんだ。そうだろう。乃公(おいら)は女房や子供をすてた罰で芸者家からもとうとうお履物(はきもの)にされちまった。それだから、こうしてお前と話もしていられるんだ。」
「それァそうねえ。わたしが御徒町の家を出たからってお父さんが先(せん)のように柳橋(やなぎばし)にいたら、やっぱり何だか行きにくいわね。お父さん、何故(なぜ)柳橋と別れたの。」
「別れたんじゃない。追出されたんだ。もうそんな過ぎ去った話はどうでもいいや。それよりか、お照、お前の話を聞こう。表のお湯屋で逢ったんだからこの近所にゃ違いなかろうが、何処にいるんだえ。お嫁にでも行ったのか。」
「ほほほほ。お父さん。わたしまだやっと十八になったばかりよ。」
「十八なら一人前の女じゃないか。お嫁にだって何だって行けるぜ。自分でもさっきもう子供じゃないって言ってたじゃないか。」
「それァいろんな心配もしたし苦労もしたんですもの。」
「お燗はつけるしお酌はできるし、隅(すみ)にゃ置けなそうだな。お父さんに似ていろんな事を覚えたんだろう。ははははは。当(あて)て見ようか。お茶屋の姐(ねえ)さんにしちゃ髪や風俗(なり)がハイカラだ。まずカッフェーかバーという処だが、どうだ。お照、笑ってばかりいないで教えたっていいじゃないか。」
「てっきりお手の筋(すじ)ですよ。」
「やっぱりカッフェーか。どうもそうだろうと思った。この近処にゃしかし気のきいたカッフェーはねえようだが、何処だい。」
「この間まで人形町(にんぎょうちょう)の都(みやこ)バーにいたんですよ。だけれどももうよしたの。先(せん)に日比谷(ひびや)にいた時お友達になった姐さんがこの先の一丁目に世帯を持っているから二、三日泊りながら遊びに来ているのよ。もう随分遊んだからそろそろまた働かなくちゃならないわ。」
「カッフェーは随分貰(もら)いがあるという話だがほんとかい。月にいくら位になるもんだね。」
「そうねえ、一番初めまだ馴(な)れない時分でも三、四十円にはなってよ。銀座にいた時にはやッぱり場所だわね。百円はかかさなかったわ。だけれども急がしい処は着物にかかるからつまり同じなのよ。」
「ふーむ偉いもんだな。どうしても女でなくちゃ駄目だ。お父さんなんか毎日足を棒にして歩いたっていくらになると思う。やっと八十円だぜ。その中で二十円は貸間の代に、それから毎日食べて行かなくちゃならないからな。そこへ行くと三十円でもくらしが出なけれァ楽だ。」
「だから残そうと思えば随分残るわけなのよ。中には五百円も六百円も貯金している人もあるけれど、何の彼(か)のって蓄(たま)ったかと思うとやっぱり駄目になるんですとさ。だからわたしなんぞ貯金なんかした事はないわ。有る時勝負で芝居へ行ったり活動へ行ったりして使っちまうのよ。」
「お客様に連れて行ってもらうような事はないのかい。カッフェーだって同じだろう。お茶屋や待合の姐さんと同じように好いお客や旦那があるんだろう。」
「ある人はあるし無い人はないわ。お父さんもうこれでおつもりよ。」
 お照は二合壜を倒(さかさ)にして盃につぎ、「何時でしょう。わたしもうそろそろお暇(いとま)しなくちゃならないわ。二、三日中(うち)に行くところがきまったら知らせるわ。」
「まだいいやな。あの夜廻(よまわり)は九時打つと廻るんだ。」
「今夜これから襦袢(じゅばん)の襟(えり)をかけたりいろいろ仕度しなくちゃならないのよ。明日(あした)の晩にでもまた来ますよ。お酒と何かおいしそうなものを持って来ますよ。」とお照は立ちかけて、「お父さん、ここのお家、厠(はばかり)はどこなの。」

 お照は約束たがえず翌日(あくるひ)の晩、表通(おもてどおり)の酒屋の小僧に四合壜(しごうびん)の銀釜正宗(ぎんがままさむね)を持たせ、自身は銀座の甘栗(あまぐり)一包を白木屋(しろきや)の記号(しるし)のついた風呂敷(ふろしき)に包んで、再び兼太郎をたずねて来た。甘栗は下のおかみさんへの進物(しんもつ)にしたのである。この進物でかみさんはすっかり懇意になり、お照が鉄瓶(てつびん)の水を汲(く)みにと、下へ降りて行った時袖(そで)を引かぬばかりに、
「お照さん、あなた、お燗(かん)をなさるんならこの火鉢をお使なさいましよ。銅壺(どうこ)に一杯沸いていますよ。何いいんですよ。家じゃ十一時でなくっちゃ帰って来ませんからね。いっその事今夜はここでお話しなさいましよ。田島さん、ねえ、田島さん。」と後からつづいて手水場(ちょうずば)へと降りて来た兼太郎にも勤めたので、二人はそのまま長火鉢の側(そば)へ坐った。
 かみさんとお照はかき餅(もち)と甘栗をぼりぼりやりながら酌をする。兼太郎はいつになく酔払(よっぱら)って、
「お照、お前がおいらの娘でなくって、もしかこれが色女(いろおんな)だったら生命(いのち)も何もいらないな。昔だったら丹(たん)さんという役廻りだぜ。ははははは。」
「丹さんて何のこと。」
「丹さんは唐琴屋(からことや)の丹次郎(たんじろう)さ。わからねえのか。今時(いまどき)の娘はだから野暮で仕様がねえ。おかみさんに聞いて御覧(ごらん)。おかみさんは知らなくってどうするものか。」
「あら、わたしも知りませんよ。御酒の好きな人の事を丹次郎ッていうんですか。アアわかりましたよ。赤くなるからそれで丹印(たんじるし)だっていう洒落(しゃれ)なんですね。」
「こいつは恐れ入った。ははははは。恐(おそれ)入谷(いりや)の鬼子母神(きしぼじん)か、はははは。」
「のん気ねえ。ほんとにお父(とっ)さんは。」
「酒は飲んでも飲まいでもさ。いざ鎌倉という時はだろう、ははははは。しかし大分今夜は酔ったようだな。」
「お酒のむ人は徳ねえ。苦労も何も忘れてしまうんだから。」
「だから昔から酒は憂(うれい)の玉箒(たまぼうき)というじゃないか。酒なくて何のおのれが桜かなだろう。お酒さえ飲んでいれァお父さんはもう何もいらない。お金もいらない。おかみさんもいらない。」
「そんな事いったって、お父さん、一人じゃ不自由よ。いつまでこうしていられるもんじゃない事よ。」
「いてもいられなくっても最(も)う仕様がないやな。まァお照そんな話はよしにしようよ。折角(せっかく)今夜はお正月らしくなって来たところだ。お照、お父さんのお箱を聞かせてやろうか。蓄音機で稽古(けいこ)したんじゃねえよ。」
 やがて亭主が帰って来た。役者の紋をつけた双子縞(ふたこじま)の羽織は着ているが、どこか近在の者ででもあるらしい身体付から顔立まで芝居者(もの)らしい所は少しもない。どうやら植木屋か何かのようにも見れば見られる男で、年は女房とさして違ってもいないらしいが、しょぼしょぼした左の目尻に大きな黒子(ほくろ)があり、狭い額(ひたい)には二筋深い皺(しわ)が寄っている。かみさんは弟にでも物言うような調子で、
「お前さん。田島さんのお嬢さんだよ。頂戴物(ちょうだいもの)をしてさ。」
「そうかい。それァどうも。」と言ったきり亭主は隅の方へ座って耳朶(みみたぶ)へはさんだエヤシップの吸残(すいのこ)りを手にとったが、火鉢へは手がとどかないのか、そのまま指先で火を消した煙草(たばこ)の先を摘(つま)んでいる。
「どうです。芝居は毎日大入りのようですね。」と兼太郎は酔った揚句(あげく)の相手ほしさに、
「一杯献(けん)じましょう。今年の寒(さむさ)はまた別だね。」
「ありがとう御在(ござい)ます。お酒はどうも……。」と出方(でかた)は再びエヤシップを耳にはさんでもじもじしている。
「田島さん。駄目なんですよ。奈良漬もいけない位なんですよ。」
「そうかい。ちっとも知らなかった。酒なんざ呑(の)まないに越した事(こた)アないよ。呑みゃアつい間違いのもとだからね。おかみさん、いい御亭主を持ちなすってどんなに仕合せだか知れないよ。」
 かみさんは何とも言わずに台所へと立って膳拵(ぜんごしら)えをしはじめた。
 路地(ろじ)の内(うち)は寂(しん)としているので、向側(むこうがわ)の待合吉川で掛ける電話の鈴(りん)の音(ね)のみならず、仕出しを注文する声までがよく聞こえる。
「お父さん、それじゃわたし明日からまた先(せん)にいた日比谷のカッフェーへ行きますからね。通りかかったらお寄んなさいよ。御馳走(ごちそう)しますよ。」とお照は髪のピンをさし直してハンケチを袂(たもと)に入れた。
 兼太郎は酔っていながら俄(にわか)に淋(さび)しいような気がして、「寒いから気をつけて行くがいいぜ。今夜はやっぱり一丁目の友達のところか。」
「どうしようかと思っているのよ。今夜はこれからすぐ日比谷へ行こうかと思っているのよ。今日お午(ひる)過ぎちょっと行って話はして来たんだし、それに様子はもうわかっているんだから。」
「今夜はもう晩(おそ)いじゃないか。」
「まだ十二時ですもの。電車もあるし、日比谷のバーは随分おそくまでやってるわ。夏の中(うち)はどうかすると夜があけてよ。」
 お照は出方の夫婦と兼太郎に送り出されて格子戸を明けながら、
「まアいいお月夜。」
 建込(たちこ)んだ家の屋根には一昨日(おととい)の雪がそのまま残っているので路地へさし込む寒月の光は眩(まぶ)しいほどに明るく思われたのである。
「なるほどいいお月夜だ。風もないようだな。」と上(あが)り框(がまち)から外をのぞいた兼太郎は何という事もなくつづいて外へ出た。兼太郎は台処の側(そば)にある手水場(ちょうずば)へ行くよりも格子戸を明けて路地で用を足す方が便利だと思っているので寝しなにはよく外へ出る。
 お照は二、三歩先に佇(たたず)んで兼太郎を待っていたが、やがて思出したように、「お父さんあの人が芝居の出方なの。どうしてもそうは見えないわね。」
「むッつりした妙な男だ。もう一年越し同じ家にいるんだが、ろくぞっぽ話をしたこともないよ。」
「何だか御亭主さん見たようじゃないわね。わたし気の毒になっちまったわ。」
 路地を出ると支那蕎麦屋(しなそばや)が向側の塀の外に荷をおろしている。芸者の乗っているらしい車が往来(ゆきき)するばかりで人通(ひとどおり)は全く絶え、表の戸を明けているのは自動車屋に待合ぐらいのものである。銭湯(せんとう)は今方(いまがた)湯を抜いたと見えて、雨のような水音(みずおと)と共に溝(どぶ)から湧(わ)く湯気が寒月の光に真白(まっしろ)く人家の軒下まで漂っている。
「今夜は馬鹿に酔ったぜ。そこまで送って行こう。」
「お父さんソラあぶない事よ。」
「大丈夫、自分で酔ったと思ってれァ大丈夫だ。」
「ねえ、お父さん。あのおかみさんは、わたし御亭主さんに惚(ほ)れていないんだと思うのよ。」
「何だ。また家のはなしか。」
「惚れていない人と一緒になると皆ああなんでしょうか。いやなものなら思切って別れちまった方(ほう)がよさそうなものにねえ。」
「色と夫婦とは別なものだよ。惚れた同士は我儘(わがまま)になるからいけないそうだ。お前なんぞはこれからが修行だ。気をつけるがいいぜ。」
「お父さん。わたしが銀座にいた時分から今だに毎日々々きっと手紙を寄越(よこ)す人があるのよ。わたしの頼むことなら何でもしてくれるわ。随分いろんなものを買ってもらったわ。」
「そうか。若い人かね。」
「二十五よ慶応(けいおう)の方(かた)なのよ。この間一緒に占いを見てもらいに行ったのよ。そうしたらね。一度は別れるような事があるッて言うのよ。だけれど末へ行けばきっと望(のぞみ)通りになれるんですッて。」
「いい家の坊ちゃんかね。」
「ええお父さんは銀行の頭取よ。」
「それじゃ大したものだ。あんまり好(よ)すぎるから親御(おやご)さんが承知しまいぜ。」
「だから占を見てもらいに行ったのよ。だけれどね、おとうさん。もしどうしても向(むこう)のお家でいけないッて言ったら、その時は一所に逃げようッていうのよ。お父さん、もしそうなったら、お父さんどうかしてくれて。二階へかくまって下さいな。」
 兼太郎は返事に困って出もせぬ咳嗽(せき)にまぎらした。いつか酒屋の四つ角をまがって電車通(どおり)へ出ようとする真直(まっすぐ)な広い往来を歩いている。
「大丈夫よ。お父さん、わたしだって其様(そんな)向見(むこうみ)ずな事はしやしないから大丈夫よ。カッフェーに働いていさえすれば誰の世話にならなくっても、毎日会っていられるんだから。いっそ一生涯そうしている方がいいかも知れないのよ。」
「お照、お前怒ったのか。」と兼太郎は心配してお照の顔色を窺(うかが)おうとした時電車通の方から急いで来かかった洋服の男が摺(す)れちがいにお照の顔を見て、
「照ちゃんか。日比谷だっていうから行ったんだよ。」
「これから行く処なの。」とお照は男の方へ駈(かけ)寄って歩きながら此方(こなた)を見返り、「お父さんそれじゃさよなら、もういいわ。さよなら、おかみさんによろしく。」
 取残された兼太郎は呆気(あっけ)に取られて、寒月の光に若い男女が互(たがい)に手を取り肩を摺れ合(あわ)して行くその後姿(うしろすがた)と地に曳(ひ)くその影とを見送った。
 見送っている中(うち)に兼太郎はふと何の聯絡(れんらく)もなく、柳橋(やなぎばし)の沢次(さわじ)を他の男に取られた時の事を思出した。沢次と他の男とが寄添いながら柳橋を渡って行く後姿を月の夜に見送ってもういけないと諦(あきらめ)をつけた時の事を思出した。思出してから兼太郎はどうして今時分そんな事を思出したのだろうとその理由を考えようとした。
 お照と沢次とは同じものではない。同じものであるべきはずがない。お照は不届(ふとどき)至極(しごく)な親爺(おやじ)の量見違いから置去りにされて唯一人世の中へほうり出された娘である。沢次は家倉はおろか女房児(こ)までもふり捨てて打込んだ自分をば無造作に突き出してしまった女である。事情も人間も全然ちがっている。しかし夜もふけ渡った町の角(かど)に自分は唯一人取残されて月の光に二人連(づれ)を見送る淋しい心持だけはどうやら似ているといえば言われない事もない。
 お照はそれにしても不人情なこの親爺にどういうわけで酒を飲ませてくれたのであろう。不思議なこともあればあるものだ。それが不思議なら、あれほど恩になった沢次が自分を路頭に迷わすような事をしたのもやはり不思議だといわなければならない。
 帽子もかぶらずに出て来たので娘が飲ませてくれた酒も忽(たちまち)醒(さ)めかかって来た。赤電車が表通を走り過ぎた。兼太郎は路地へ戻って格子戸を明けると内ではもう亭主がいびきの声に女房が明ける箪笥(たんす)の音。表の戸をしめて兼太郎は二階へ上り冷切(ひえき)った鉄瓶(てつびん)の水を飲みながら夜具を引卸(ひきおろ)した。
 路地の外で自動車が発動機の響を立て始めたのは、大方向側(むこうがわ)の待合からお客が帰る処なのであろう。
大正十一年一月―二月稿
了

底本:「雨瀟瀟・雪解 他七篇」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年10月16日第1刷発行
   1991(平成3)年8月5日第6刷発行
底本の親本:「荷風小説 五」岩波書店
   1986(昭和61)年9月9日
初出:「明星」
   1922(大正11)年3〜4月
※表題は底本では、「雪解(ゆきどけ)」となっています。
入力:入江幹夫
校正:酒井裕二
2018年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。