あらすじ
「散柳窓夕栄」は、人気作家・柳亭種彦が、自身の作品「偐紫田舎源氏」が世間に大きな話題となり、その内容が将軍家にも届いたのではないかと恐れ、真相を確かめるため、かつて懇意にしていた遠山左衛門尉を訪ねる物語です。種彦は、遠山との再会を通して、かつての放蕩な日々や、今の世の中に対する不安、そして老いゆく自分自身について深く考えさせられます。
 天保(てんぽう)十三壬寅(みずのえとら)の年の六月も半(なかば)を過ぎた。いつもならば江戸御府内(ごふない)を湧立(わきた)ち返らせる山王大権現(さんのうだいごんげん)の御祭礼さえ今年は諸事御倹約の御触(おふれ)によってまるで火の消えたように淋(さび)しく済んでしまうと、それなり世間は一入(ひとしお)ひっそり盛夏の炎暑に静まり返った或(ある)日の暮近くである。『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』の版元(はんもと)通油町(とおりあぶらちょう)の地本問屋(じほんどんや)鶴屋(つるや)の主人(あるじ)喜右衛門(きうえもん)は先ほどから汐留(しおどめ)の河岸通(かしどおり)に行燈(あんどう)を掛(かけ)ならべた唯(と)ある船宿(ふなやど)の二階に柳下亭種員(りゅうかていたねかず)と名乗った種彦(たねひこ)門下の若い戯作者(げさくしゃ)と二人ぎり、互(たがい)に顔を見合わせたまま団扇(うちわ)も使わず幾度(いくたび)となく同じような事のみ繰返(くりかえ)していた。
「種員さん、もうやがて六(む)ツだろうが先生はどうなされた事だろうの。」
「別に仔細(しさい)はなかろうとは思いますがそう申せば大分お帰りがお遅いようだ。事によったらお屋敷で御酒(ごしゅ)でも召上ってるのでは御(ご)ざいますまいか。」
「何さまこれァ大きにそうかも知れぬ。先生と遠山様(とおやまさま)とは堺町(さかいちょう)あたりではその昔随分御昵懇(ごじっこん)であったとかいう事だから、その時分(じぶん)のお話にいろいろ花が咲いているのかも知れませぬ。」
「遠山様という方(かた)は思えば不思議な御出世をなすったものさね。ついこの間までは人のいやがる遊人(あそびにん)とまで身を持崩(もちくず)していなすったのが暫(しばら)くの中(うち)に御本丸(ごほんまる)の御勘定方(ごかんじょうがた)におなりなさるなんて、これまで御番衆(ごばんしゅう)の方々(かたがた)からいくらも出世をなすった方はあろうけれど遠山様のような話はありますまい。」
「どうかまア遠山さまの御威光で先生の御身の上に別条のないようにしたいもんさ。万一の事でもあろうものなら、手前なんぞは先生とはちがって虫けら同然の素町人(すちょうにん)故(ゆえ)、事によったら遠島(えんとう)かまず軽いところで欠所(けっしょ)は免(まぬか)れまい。」
「もし鶴屋さん、縁起(えんぎ)でもねえ。そんな薄気味の悪い話はきつい禁句だ。そんな事をいいなさると何だかいても立ってもいられないような気がします。ぼんやりここで気ばかり揉(も)んでいても始まらぬから私はその辺(へん)までちょっと一(ひと)ッ走(ぱし)り御様子を見て参(まい)りましょう。」
 種員は桟留(さんとめ)の一(ひと)つ提(さげ)を腰に下げて席を立ちかけたが、その時女中に案内されて梯子段(はしごだん)を上(あが)って来たのは、何処(どこ)ぞ問屋の旦那衆かとも思われるような品の好い四十あまりの男であった。越後上布(えちごじょうふ)の帷子(かたびら)の上に重ねた紗(しゃ)の羽織にまで草書(そうしょ)に崩した年の字をば丸く宝珠(ほうじゅ)の玉のようにした紋をつけているので言わずと歌川派(うたがわは)の浮世絵師五渡亭国貞(ごとていくにさだ)とは知られた。鶴屋はびっくりして、
「これはこれは亀井戸(かめいど)の師匠。どうして手前共がここにいるのを御存じで御ざりました。」
「実は今日さる処まで暑中見舞に出掛けたところ途中でお店の若衆(わかいしゅう)に行き逢(あ)い堀田原(ほったわら)の先生が日蔭町(ひかげちょう)のお屋敷へしかじかとのお話を聞き、私(わし)も早速先生の御返事が聞きたさに急いでやって来ましたのさ。時に先生はまだ遠山様のお屋敷からはお帰りがないと見えますな。」
 国貞は歩いて来た暑さに頻(しきり)と団扇(うちわ)を使い初める。立ちかけた種員は再び腰なる煙草入(たばこいれ)を取出しながら、「五渡亭先生も御存じで御座いましょう。手前と相弟子(あいでし)の彼(あ)の笠亭仙果(りゅうていせんか)がお供を致しまして御屋敷へ上っておりますから、私は今の中(うち)一走(ひとはし)り御様子を見て参ろうかと思っていた処で御座ります。もう追付(おっつけ)お帰りとは存じますが何となく気がかりでなりませぬ。」
「いかにも不断(ふだん)から師匠思いのお前さん故さぞ御心配の事だろうと重々(じゅうじゅう)お察し申します。私(わし)なぞは申さば柳亭翁とは一身同体。今日此頃(このごろ)では五渡亭国貞といえば世間へも少しは顔の売れた浮世絵師。それというも実を申せば『田舎源氏』の絵をかき出してからの事ゆえ、万が一お咎(とが)めの筋でもあるようなら私(わし)は所詮(しょせん)逃れぬ処だと、とうから覚悟はきめていますが、お互(たがい)にどうかまアそんな事にはなりたくないもの。」と国貞は声を沈まして、忘れもせぬ文化三年の春の頃(ころ)、その師歌川豊国(うたがわとよくに)が『絵本太閤記(えほんたいこうき)』の挿絵の事よりして喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と同じく入牢(じゅろう)に及ぼうとした当時の恐しいはなしをし出した。すると鶴屋の主人(あるじ)もついついその話につり込まれて六、七年前に大酒(たいしゅ)で身を損(そこ)ねた先代の親爺(おやじ)から度々聞かされた話だといって、これは寛政(かんせい)御改革のみぎり山東庵京伝(さんとうあんきょうでん)が黄表紙御法度(きびょうしごはっと)の御触(おふれ)を破ったため五十日の手鎖(てぐさり)、版元蔦屋(つたや)は身代半減(しんだいはんげん)という憂目(うきめ)を見た事なぞ、やがて談話(はなし)はそれからそれへと移って遂には英一蝶(はなぶさいっちょう)が八丈島(はちじょうじま)へ流された元禄の昔にまで溯(さかのぼ)ってしまったが、これは五渡亭国貞が先頃(さきごろ)から英一蝶に私淑してその号まで香蝶楼(こうちょうろう)と呼んでいたがためであった。折から耳元近く轟々(ごうごう)と響きだす増上寺(ぞうじょうじ)の鐘の声。門人種員はいよいよ種彦の様子を見に行こうと立上り大分山の痛んでいるらしい帯の結目(むすびめ)を後手(うしろで)に引締めながら簾(すだれ)を下(おろ)した二階の欄干(らんかん)から先ず外を眺めた。日の長い盛りの六月の事とて空はまだ昼間のままに明るく青々と晴渡っていた。いつもならば向河岸(むこうがし)の屋根を越して森田座(もりたざ)の幟(のぼり)が見えるのであるが、時節がらとて船宿の桟橋(さんばし)には屋根船空しく繋(つな)がれ芝居茶屋の二階には三味線(さみせん)の音(ね)も絶えて彼方(かなた)なる御浜御殿(おはまごてん)の森に群れ騒ぐ烏(からす)の声が耳立つばかりである。夕日は丁度汐留橋(しおどめばし)の半(なかば)ほどから堀割を越して中津侯(なかつこう)のお長屋の壁一面に烈(はげ)しく照り渡っていたが、しかし夕方の涼風は見えざる海の方から、狭い堀割へと渦巻くように差込んで来る上汐(あげしお)の流れに乗じて、或時は道の砂をも吹上げはせぬかと思うほどつよく欄干の簾を動(うごか)し始める。
 国貞と鶴屋の主人(あるじ)は共々に風通しのいいこの欄干の方へとその席を移しかけた時、外を見ていた種員が突然飛上(とびあが)って、「皆さん、先生がお帰りで御座ります。」
「なに先生がお帰り。」
 いう間(ま)もおそし、一同はわれ遅れじと梯子段を駈(か)け下りて店先まで走り出ると、差翳(さしかざ)す半開(はんびら)きの扇子(せんす)に夕日をよけつつ静(しずか)に船宿の店障子へと歩み寄る一人の侍(さむらい)。これぞ当時流行の草双紙(くさぞうし)『田舎源氏』の作者として誰知らぬものなき柳亭種彦翁(りゅうていたねひこおう)であった。細身(ほそみ)造りの大小、羽織袴(はかま)の盛装に、意気な何時(いつ)もの着流しよりもぐっと丈(せい)の高く見える痩立(やせだち)の身体(からだ)は危(あやう)いまでに前の方に屈(かが)まっていた。早や真白(まっしろ)になった鬢(びん)の毛と共に細面(ほそおもて)の長い顔には傷(いたま)しいまで深い皺(しわ)がきざまれていたけれど、しかし日頃の綺麗好(きれいずき)に身じまいを怠らぬ皮膚の色はいかにも滑(なめら)かにつやつやして、生来(うまれつき)の美しい目鼻立の何処(どこ)やらにはさすがに若い頃の美貌(びぼう)のほども窺(うかが)い知られるのであった。
 種彦は今日(きょう)しも老体の身に六月大暑(だいしょ)の日中をもいとわず、予(かね)てより御目通(おめどお)りを願って置いた芝(しば)日蔭町(ひかげちょう)なる遠山左衛門尉様(とおやまさえもんのじょうさま)の御屋敷へと人知れず罷(まか)り越したのである。仔細(しさい)というは外(ほか)でもない。去頃(さるころ)より御老中(ごろうじゅう)水野越前守様(みずのえちぜんのかみさま)寛政(かんせい)御改革の御趣意をそのままに天下奢侈(しゃし)の悪弊を矯正(きょうせい)すべき有難き思召(おぼしめし)により遍(あまね)く江戸町々へ御触(おふれ)があってから、已(すで)に葺屋町(ふきやちょう)堺町(さかいちょう)の両芝居は浅草山(あさくさやま)の宿(しゅく)の辺鄙(へんぴ)へとお取払いになり、また役者市川海老蔵(いちかわえびぞう)は身分不相応の贅沢(ぜいたく)を極(きわ)めたる廉(かど)によってこの春より御吟味になった。それやこれやの事から世間では誰いうともなく好色本(こうしょくぼん)草双紙類の作者の中でもとりわけ『偐紫田舎源氏』の作者柳亭種彦は光源氏(ひかるげんじ)の昔に譬(たと)えて畏多(おそれおお)くも大御所様大奥の秘事を漏(もら)したにより必ず厳しい御咎(おとがめ)になるであろうとの噂(うわさ)が頗(すこぶ)る喧(かしま)しいのであった。種彦はわが身の上は勿論(もちろん)もしやそのために罪もない絵師や版元にまで禍(わざわい)を及ぼしてはと一方(ひとかた)ならず心配して、こうなるからは誰ぞ公辺(こうへん)の知人(しりびと)を頼り内々(ないない)事情を聞くに如(し)くはないと兼(かね)て芝居町(しばいまち)なぞでは殊(こと)の外(ほか)懇意にした遠山金四郎(とおやまきんしろう)という旗本の放蕩児(ほうとうじ)が、いつか家督をついで左衛門尉景元(さえもんのじょうかげもと)と名乗り、今では御本丸へ出仕するような身分になっているのを幸い、是非にもと縋付(すがりつ)いて極(ごく)内々(ないない)に面会を請うた次第であった。
「先生、早速で御座いますが御屋敷の御首尾はいかがで御座りました。」
 一同は一先(ひとまず)種彦を二階へ案内するや否や、茶を持運ぶ女中の立去るをおそしと、左右から不安な顔を差伸(さしの)ばすのであった。種彦は脇差を傍に扇を使いながら少し身をくつろがせ、
「いや、もうさして御心配なさるにも及ぶまい。遠山殿の仰せには町方(まちかた)の事とは少々御役向(おやくむき)が違う故(ゆえ)、あの方(かた)の御一存(ごいちぞん)では慥(しか)とした事は申されぬが、何につけお上(かみ)においては御仁恵(ごじんけい)が第一。それにとりわけこの度(たび)の御趣意と申すは上下挙(こぞ)って諸事御倹約を心掛けいという思召(おぼしめし)故、それぞれ家業に精を出し贅沢(ぜいたく)なことさえ致さずば、さして厳しい御詮議(ごせんぎ)にも及ぶまいとの仰(おお)せ。それだによってこの際はお互によく気をつけ精々間違のないように慎んでおるがよかろう……。」
「さようで御ざりましたか。それでは別に差当って御叱(おしかり)を蒙(こうむ)るような事はなかろうと仰有(おっしゃ)るんで御座いますな。いや、先生、その御言葉を聞きまして手前はもう生き返ったような心持になりました。」
 版元鶴屋は襟元(えりもと)の汗をばそっと手拭(てぬぐい)で押拭うと、国貞も覚えずほっと大きな吐息(といき)を漏して、
「手前も御同様、やっとこれで安堵(あんど)致しました。何事によらず根もない世上の噂というやつほどいまいましいものは御座りません。初手(しょて)からこうと知っていればこんなに痩(や)せるほど心配は致しません。」
「全く亀井戸の師匠の仰有る通りさ。手前なんざアそれがためあれからというものは夜もおちおち睡眠(ふせ)りません。」と鶴屋の主人(あるじ)は全く生返ったように元気づき、「先生、それではもうそろそろお船の方へお移りを願いましょうか。お帰りは丁度夕涼(ゆうすずみ)の刻限かと存じまして先ほど木挽町(こびきちょう)の酔月(すいげつ)へつまらぬものを命じて置きました。」
「それはそれは。いつもながら鶴屋さんの御心遣(おこころづかい)には恐縮千万。」
「お言葉ではかえって痛み入ります。実はまだいろいろと御話を承りたいことが御座ります。丁度今日は亀井戸の師匠もおいでで御座りますし、さしずめ唯今板木(はんぎ)に取りかかっております『田舎源氏』の三十九篇、あれはいかが致したもので御座りましょうか、いずれ船中で御ゆるり御相談致したいと存じております。」
 一同は種彦を先に桟橋(さんばし)につないだ屋根船に乗込んだ。

 背中一面に一人は菊慈童(きくじどう)、一人は般若(はんにゃ)の面の刺青(ほりもの)をした船頭が纜(もやい)を解くと共にとんと一突(ひとつき)桟橋(さんばし)から舳(へさき)を突放すと、一同を乗せた屋根船は丁度今が盛(さかり)の上汐(あげしお)に送られ、滑るがように心持よく三十間堀(さんじっけんぼり)の堀割をつたわって、夕風の空高く竹問屋の青竹の聳立(そばだ)っている竹河岸(たけがし)を左手に眺め真直(まっすぐ)な八丁堀(はっちょうぼり)の川筋(かわすじ)をば永代(えいたい)さして進んで行った。
 夏の日は已(すで)に沈んで、空一面の夕焼は堀割の両岸(りょうがん)に立並んだ土蔵の白壁をも一様に薄赤く染めなしていると、その倒(さかさま)なる家の影は更に美しく満潮の澄渡(すみわた)った川水の中に漂い動いている。幾個(いくつ)と知れぬ町中(まちなか)の橋々には夕涼(ゆうすずみ)の人の団扇(うちわ)と共に浴衣(ゆかた)一枚の軽い女の裾(すそ)が、上汐のために殊更(ことさら)水面の高くなった橋の下を潜行(くぐりゆ)く舟の中から見上る時、一入(ひとしお)心憎く川風に飜(ひるがえ)っているのである。
 一同は種彦(たねひこ)の語った最前の話に百年の憂苦を一朝(いっちょう)にして忘れ得た思い。酔月(すいげつ)から取寄せた料理の重詰(じゅうづめ)を開き川水に杯(さかずき)を洗いながら、頻(しきり)に絶景々々と叫んでいたが、肝腎(かんじん)な種彦一人は大暑(だいしょ)の日中を歩みつづけた老体につかれを覚えた故(ゆえ)か、何となく言葉少く、片肱(かたひじ)を舷(ふなべり)に背を胴(どう)の間(ま)の横木に寄せかけたまま、簾越(すだれご)しに唯(ただ)ぼんやり遠い川筋の景色にのみ目を移していた。
 しかし船中の一人がふと種彦の様子を怪しんで、何処(どこ)ぞ御気分でもと気を揉(も)むものがあれば、種彦は忽(たちま)ちわざとらしいまでに元気よく、杯を見事に呑干(のみほ)して、「いや、どうも年ばかりは取りたくないものさ。少し遠路(とおみち)でもいたすと直(す)ぐにこの通りの始末で御座る。」といつもに変らぬ軽い調子で、「しかしまアわれらお互(たがい)の身に取って今日ほど目出たい日はあるまいて。鶴屋さんが折角のお饗応(もてなし)だ。種員(たねかず)も仙果(せんか)も遠慮なく頂戴(ちょうだい)致すがよいぞ。」といいながら、しかしどういう訳(わけ)か一同の如く心の底から陶然と酔(えい)を催す様子は更に見えなかった。
 種彦は先刻から遠山左衛門尉(とおやまさえもんのじょう)が事をばいかほど思うまいと力(つと)めて見てもどうしても思返さずにはいられなかったのである。顧れば十幾年前(まえ)芝居町(しばいまち)なぞで能(よ)く見た折の金四郎と今日(こんにち)の左衛門尉とを思い比べると実に不思議な心持になる。遠山は辞を低うしてその邸(やしき)に伺候(しこう)した種彦をば喜び迎え、昔に変らぬ剰談(じょうだん)ばなしの中にそれとつかず泰平の世は既に過ぎ恐しい黒船は蝦夷(えぞ)松前(まつまえ)あたりを騒がしている折から、世は上下とも積年の余弊に苦しみつかれている様を見ては、われ人(ひと)共に公禄(こうろく)を食(は)むもの及ばずながらそれぞれ一廉(ひとかど)の忠義を尽(つく)さねばなるまいと、衷心(ちゅうしん)から湧起(わきおこ)る武士(さむらい)の赤誠を仄見(ほのみ)せて語ったその態度その風采(ふうさい)。種彦はどういう機会(はずみ)かわが身の今日(こんにち)と彼れ遠山の今日とを思比べて、当世の旗本風情(ふぜい)にもまだまだあんな立派な考えを持っているものがあるのか知らと思うと、そもそも我から意識して戯作者(げさくしゃ)となりすました現在の身の上がいかにも不安にまた何とも知れず気恥しいような気がしてならなくなった。しかしいかほど深い感慨に沈められても種彦は今更それをば船中(せんちゅう)のものに向って語り聞かせる訳(わけ)には行かぬ。よし話すにしてもこの場合思うように打明けて語り得られるものではない。さされた酒杯(さかずき)をばさされるままに呑み干しては返し、話掛けられる話を、心もよそに唯(ただ)受答えをするばかり。船はいつしか狭い堀割の間から御船手屋敷(おふなでやしき)の石垣下を廻(めぐ)ってひろびろとした佃(つくだ)の河口(かわぐち)へ出た。
 一同は既に十分の酔心地(えいごこち)。覚えず声を揃(そろ)えてまたもや絶景々々と叫ぶ。夕焼の空は次第に薄らぎ鉄砲洲(てっぽうず)の岸辺(きしべ)に碇(いかり)を下した親船の林なす帆柱の上にはちらちらと星が泛(うか)び出した。佃島(つくだじま)では例年の通り狼烟(のろし)の稽古(けいこ)の始まる頃とて、夕涼かたがたそれをば見物に出掛ける屋根船猪牙舟(ちょきぶね)は秋の木葉(このは)の散る如く河面(かわもせ)に漂っていると、夕風と夕汐のこの刻限を計って千石積(せんごくづみ)の大船はまた幾艘(いくそう)となく沖の方から波を蹴(け)ってこの港口へと進んで来る。その大きな高い白帆のかげに折々眺望を遮(さえぎ)られる深川(ふかがわ)の岸辺には、思切って海の方へ突出(つきだ)して建てた大新地(おおしんち)小新地(こしんち)の楼閣に早くも燦(きらめ)き初(そ)める燈火(ともしび)の光と湧起る絃歌(げんか)の声。すると櫛(くし)の歯のように並連(ならびつらな)ったそれらの桟橋(さんばし)へと二梃艪(にちょうろ)いそがしく輻湊(ふくそう)する屋根船猪牙舟からは風の工合で、どうかすると手に取るように藤八拳(とうはちけん)を打つ声が聞えて来る。
 国貞は近頃一枚絵にと描いてやった深川の美女が噂(うわさ)をしはじめると鶴屋の主人(あるじ)はまた彼(か)の地を材料にした為永春水(ためながしゅんすい)が近作の売行(うれゆき)を評判する。その間(ま)もあらず一同を載せた屋根船は殊更に流れの強い河口の潮(うしお)に送られて、夕靄(ゆうもや)の中(うち)に横(よこたわ)る永代橋(えいたいばし)を潜(くぐ)るが早いか、三股(みつまた)は高尾稲荷(たかおいなり)の鳥居を彼方(かなた)に見捨て、暁方(あかつきがた)の雲の帯なくかなかずの時鳥(ほととぎす)と、蜀山人(しょくさんじん)が吟咏(ぎんえい)のめりやすにそぞろ天明(てんめい)の昔をしのばせる仮宅(かりたく)の繁昌(はんじょう)も、今は唯(た)だ蘆(あし)のみ茂る中洲(なかす)を過ぎ、気味悪く人を呼ぶ船饅頭(ふなまんじゅう)の声を塒(ねぐら)定めぬ水禽(みずとり)の鳴音(なくね)かと怪しみつつ新大橋(しんおおはし)をも後(あと)にすると、さて一同の目の前には天下の浮世絵師が幾人よって幾度(いくたび)丹青(たんせい)を凝(こら)しても到底描き尽(つく)されぬ両国橋(りょうごくばし)の夜の景色が現われ出(いづ)るのであった。
 去年に比べると今年は御倹約の御触(おふれ)が出てから間もないためか、川一丸(かわいちまる)とか吉野丸(よしのまる)とかいう提灯(ちょうちん)を下げ連(つら)ねた大きな大きな屋形船に美女と美酒とを満載して、吹けよ河風上れよ簾(すだれ)の三下(さんさが)りに呑(の)めや唄(うた)えの豪遊を競うものは稀(まれ)であったが、その代り小舷(こべり)に繻子(しゅす)の空解(そらどけ)も締めぬが無理かと簾下(おろ)した低唱浅酌(ていしょうせんしゃく)の小舟(こぶね)はかえっていつにも増して多いように思われた。両国橋の橋間は勿論(もちろん)料理屋の立並ぶあたり一帯の河面(かわもせ)はさすがの大河(だいが)も込合(こみあ)う舟に蔽尽(おおいつく)され、流るる水は舷(ふなばた)から玉臂(ぎょくひ)を伸べて杯を洗う美人の酒に湧(わ)いて同じく酒となるかと疑われる。
 鶴屋の主人(あるじ)は「先生。」とよびかけて、「いつ見ましても御府内(ごふない)の御繁昌は豪勢なもので御座いますな。いかがで御座いましょう。どこぞその辺の桟橋へ着けまして二、三人綺麗(きれい)なところを呼寄せ久ぶりで先生の美音を拝聴いたしたいもので御座ります。」
「これはとんでもない。こう年を取っては色気(いろけ)よりも喰気(くいけ)と申したいが、この頃ではその喰気さえとんと衰え、いやはや、もうお話にはなりませぬ。折角の御酒(ごしゅ)も御覧の通り二、三杯いただくと唯うとうとと眠気を催すばかりさ。さすが蜀山先生(しょくさんせんせい)はうまい事を書いていますよ。先達(せんだって)さる人から『奴師労之(やっこだこ)』と申す随筆を借りて見ましたがな……。」と種彦は先ほどから舷(ふなばた)に肱(ひじ)をつき船のゆれるがままに全く居眠りでもしていたらしく、やや坐住居(いずまい)を直して、今更のように四辺(あたり)の賑(にぎわ)いを打見遣(うちみや)りながら、どうかすると、摺交(すれちが)う舟の唄または岸の上なる見世物小屋の騒ぎにも打消されるほどな静(しずか)な声で、蜀山人が随筆『奴師労之』の終りに、老病ほど見たくでもなくいまいましきものはなし……酒のみても腹ふくるるのみにて微醺(びくん)に至らず物事にうみ退屈し面白からず。声色(せいしょく)の楽みもなくただ寝るをもて楽みとす。奇書も見るにたらず珍事もきくにあきぬ。若き時酒のみてとろとろ眠りし心地と狎(な)れたる妓(おんな)のもとに通いし楽(たのしみ)は世をへだてたるごとくなりきと書いた文章の事をしみじみと語り出して、その終に添えた狂歌一首、「ながらへば寅(とら)卯(う)辰(たつ)巳(み)やしのばれん、うしとみし年今はこひしき。」それをばあたかも我が身の上を咏(えい)じたもののように幾度(いくたび)か繰返(くりかえ)して聞かせるのであった。屋根船はその間にいつか両国の賑(にぎわい)を漕(こ)ぎ過ぎて川面(かわもせ)のやや薄暗い御蔵(おくら)の水門(すいもん)外(そと)に差掛(さしかか)っていたのである。燈火の光に代って蒼々(あおあお)とした夏の夜の空には半輪(はんりん)の月。行手(ゆくて)の岸には墨絵の如くにじんだ首尾(しゅび)の松。国貞は猪口(ちょく)を手にしたまま、
「唐崎(からさき)の松は花よりおぼろにて。」と感に堪えたる如く呟(つぶや)いた。
「御府内(ごふない)には随分名高い松の木があるようで御座いますがやはりあの首尾の松に留(とど)めを刺しますかな。」と答えたのは鶴屋喜右衛門(つるやきうえもん)である。
「さよう、小名木川(おなぎがわ)の五本松は芭蕉翁(ばしょうおう)が川上とこの川しもや月の友、と吟じられたほどの絶景ゆえ先(ま)ず兄(けい)たりがたく弟(てい)たりがたき名木(めいぼく)でしょう。それから根岸(ねぎし)の御行(おぎょう)の松、亀井戸(かめいど)の御腰掛(おこしかけ)の松、麻布(あざぶ)には一本松、八景坂(はっけいざか)にも鎧掛(よろいかけ)の松とか申すのがありました。」と国貞は鶴屋の主人(あるじ)と差向(さしむか)って頻(しきり)に杯を取交(とりかわ)していた時、行き交(ちが)う一艘(いっそう)の屋根船の中から、
「月あかり見ればおぼろの舟の内(うち)、あだな二上(にあが)り爪弾(つまび)きに忍び逢(お)うたる首尾の松。」と心悪(こころにく)いばかり、目前の実景をそのまま中音の美声に謡い過ぎるものがあった。
 先ほどから舳(へさき)へ出て、やや呑み過ごした酔心地(えいごこち)を得(え)もいわれぬ川風に吹払わせていた二人の門人種員(たねかず)と仙果(せんか)は覚えず羨望(せんぼう)の眼(まなこ)を見張って、過ぎ行く舟の奥床(おくゆか)しくも垂込(たれこ)めた簾の内をば窺見(うかがいみ)ようと首を伸(のば)したが、かの屋根船は早くも遠く川下の方へと流れて行ってしまった。しかしいよいよ首尾の松が水の上にと長くその枝を伸(のば)しているあたりまで来ると、川面(かわづら)の薄暗さを幸(さいわい)に彼方(かなた)にも此方(こなた)にも流れのままに漂(ただよわ)してある屋根船の数々、その間をば一同を載せた舟が小舷(こべり)に漣(さざなみ)を立てつつ通抜(とおりぬ)けて行く時、中にはあわてふためいて障子の隙間(すきま)をば閉切(しめき)るものさえあった。どの船からという事もなく幽暗なる半月(はんげつ)の光に漂い聞ゆる男女が私語(ささやき)の声は、折々向河岸(むこうがし)なる椎(しい)の木屋敷の塀外(へいそと)から幽(かす)かに夜駕籠(よかご)の掛声を吹送って来る川風に得もいわれぬ匂袋(においぶくろ)の香(か)を伴わせ、また途切(とぎれ)がちな爪弾(つまびき)の小唄(こうた)は見えざる河心(かわなか)の水底(みなそこ)深くざぶりと打込む夜網の音に遮(さえぎ)られると、厳重な御蔵(おくら)の構内に響き渡る夜廻りの拍子木が夏とはいいながら夜(よ)も早や初更(しょこう)に近い露の冷さに、何とも知れず人肌恋しき秋の夜の風情を覚えさせるのであった。
 余りに艶(なまめか)しい辺りの情景に、若い門人たちは自(おのずか)ら誘い出される淫蕩(いんとう)な空想にもつかれ果てたのか、今は唯遣瀬(やるせ)なげに腕を組んで首(こうべ)を垂れてしまった。国貞が鶴屋の主人(あるじ)を相手に傾ける酒も早や尽きたらしい。御厩河岸(おうまやがし)の渡(わたし)を越して彼方(かなた)に横(よこた)わる大川橋(おおかわばし)の橋間からは、遠い水上(みなかみ)に散乱する夜釣(よづり)の船の篝火(かがりび)さえ数えられるほどになると、並木の茶屋の賑(にぎわい)と町を歩く新内(しんない)の流しが聞えて駒形堂(こまかたどう)の白い壁が月の光に蒼(あお)く見え出した。

 一同は禁殺碑(きんさつひ)の立っている御堂(おどう)の裏手から岸に上(のぼ)った。
 国貞は爰(ここ)から大川橋へ廻って亀井戸(かめいど)の住居(すまい)まで駕籠(かご)を雇い、また鶴屋は両国橋(りょうごくばし)まで船を漕(こ)ぎ戻して通油町(とおりあぶらちょう)の店へ帰る事にした。種彦は遠くもあらぬ堀田原(ほったわら)の住居まで、是非にもお供せねばという門人たちの深切(しんせつ)をも無理に断り、夜涼(やりょう)の茶屋々々賑(にぎわ)う並木の大通(おおどおり)を横断(よこぎ)って、唯一人薄暗い町家(まちや)つづきの小道をば三島門前(みしまもんぜん)の方(ほう)へとぼとぼ老体の歩(あゆみ)を運ばせたのである。
 種彦は先ほどから是非にも人を遠ざけ唯一人になって深く己(おの)が身の上を考えて見ねばならぬ。この年までいわば何の気もなく暮して来たその長い生涯を回顧して見べき必要に迫(せ)められていたのであった。昔は自分なぞよりはもう一層性(たち)の悪い無頼漢(ならずもの)のようにも思っていた遠山金四郎(とおやまきんしろう)が今は公儀の重い御役(おやく)を勤め真実世の有様を嘆き憂いているかと思えば、種彦は床(とこ)の間(ま)に先祖の鎧(よろい)を飾った遠山が書院に対座して話をしている間(うち)から何時(いつ)となく苦しいような切ないような気恥しいような何ともいえない心持になったのである。一体どうしてそういう妙な心持になったのであろう。まずその原因(おこり)から考えて見なければならない。武士の家に生れたその身は子供の時から耳に胼胝(たこ)のできるほどいい聞かされた武士の心得武士の道。しかしそんなものはこの歳月(としつき)唯「お軽(かる)勘平(かんぺい)」のような狂言戯作(げさく)の筋立(すじだて)にのみ必要なものとしていたのではないか。それが今どうして突然意外にも不思議にも心を騒がし始めたのであろう。思返えせば二十歳(はたち)の頃ふと芝居帰(がえり)の或夜(あるよ)野暮な屋敷の大小の重きを覚え、御奉公の束縛なき下民(げみん)の気楽を羨(うらや)みいつとしもなく身をその群(むれ)に投じてここに早くも幾十年。今日しも遠山の屋敷の玄関に音ずれるその日までは夢にさえ見ることを忘れていた武家の住居(すまい)――寒気なほどにも質素に悲しきまでも淋(さび)しい中(なか)にいうにいわれぬ森厳(しんげん)な気を漲(みなぎ)らした玄関先から座敷の有様。またその道すがら横手遥(はるか)に幸橋(さいわいばし)の見附(みつけ)を眺めやった御郭(おくるわ)外(そと)の偉大なる夕暮の光景が、突然の珍らしさにふと少年時代の良心の残骸(ざんがい)を呼覚(よびさま)したというより外(ほか)はあるまい。
 しかし種彦は今更(いまさら)にどうとも仕様のないこの煩悶(はんもん)をば強(し)いても狂歌や川柳(せんりゅう)のように茶化してしまおうと思いながら、歩いて行く町のところどころに床几(しょうぎ)を出した麦湯(むぎゆ)の姐(ねえ)さんたちの厭(いや)らしい風俗。それに戯れる若者の様子を目撃しては、以前のようにこれも彼(か)の式亭三馬(しきていさんば)が筆のすさみのそのままだと笑ってばかりはいられないような気になるのであった。我が家に近い桃林寺(とうりんじ)の裏手では酒買いに行く小坊主の大胆に驚き、大岡殿(おおおかどの)の塀外の暗さには夜鷹(よたか)に挑(いど)む仲間(ちゅうげん)の群(むれ)に思わずも眼を外向(そむ)けつつ、種彦は漸(ようや)くその家(いえ)の門(かど)にたどりついた。
 直様(すぐさま)家内のものをも遠ざけ、書(かき)ものをするからとて、二階の一間(ひとま)に閉じ籠(こも)ったが、見廻せば八畳の座敷狭しと置並べた本箱の中の書籍(しょじゃく)は勿論(もちろん)、床(とこ)の飾物から屏風(びょうぶ)の絵に至るまで、凡(すべ)て偐紫楼(にせむらさきろう)と自ら題したこの住居(すまい)のありさまは、自分が生れた質素な下谷(したや)御徒町(おかちまち)の組屋敷(くみやしき)に比べてそも何といおうか。身に帯びるそれも極(ご)く軽い細身(ほそみ)の大小より外(ほか)には物の役に立つべき武器とては一ツもなく、日頃身に代えてもと秘蔵するのは古今の淫書(いんしょ)、稗史(はいし)、小説、過ぎし世の婦女子の玩具(がんぐ)にあらずんば傾城遊女(けいせいゆうじょ)が手道具の類(たぐい)ばかり。ああ思えば唯うらうらと晴渡る春の日のような文化文政の泰平に沈湎(ちんめん)して天下の事は更なり、わが髪の白くなるのも打忘れ世にいう悪所場(あくしょば)をわが家(や)の如く今日は吉原(よしわら)明日は芝居と身の上知らず遊び歩いていたその頃には、どういう訳(わけ)か人の道を忘れた放蕩惰弱(ほうとうだじゃく)なものの厭(いとわ)しい身の末が入相(いりあい)の鐘に散る花かとばかり美しく思われて、われとても何時(いつ)か一度は無常の風にさそわれるものならば、今もなお箕輪心中(みのわしんじゅう)と世に歌われる藤枝外記(ふじえだげき)、また歌比丘尼(うたびくに)と相対死(あいたいじに)の浮名を流した某家の侍(さむらい)のように、せめて刹那(せつな)の麗(うるわ)しい夢に身を果(はた)してしまった方がと、折節(おりふし)に聞く浄瑠璃(じょうるり)の一節(ひとふし)にも人事(ひとごと)ならぬ暗涙を催す事が度々であった。日ごとに剃(そ)る月代(さかゆき)もまだその頃には青々として美しく、すらりとして丈(せい)高く、長い頤(おとがい)に癖のある細面(ほそおもて)の優しさは、時の名優坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)を生写(いきうつ)しと到(いた)る処の茶屋々々にいい囃(はや)されるが何よりも嬉しく、わが名をさえも三彦(みつひこ)と書き、いつかは老(おい)の寝覚(ねざめ)にも忘れがたない思出の夢を辿(たど)って年ごとに書綴りては出す戯作(げさく)のかずかず。心なき世上の若者淫奔(いたずら)なる娘の心を誘(いざな)い、なおそれにても飽き足らず、是非にも弟子にと頼まれる勘当の息子たちからは師匠と仰がれ世を毒する艶(なまめか)しい文章の講釈。遊里戯場の益もない故実(こじつ)の詮議(せんぎ)。今更にそれを悔(くや)んだとて何としよう。自分を育てた時代の空気は余りに軟(やわらか)く余りに他愛がなさ過ぎたのだ。近頃日光の御山(おやま)が頻(しきり)に荒出して、何処(どこ)やらの天領では蛍(ほたる)や蛙(かわず)の合戦(かっせん)に不吉(ふきつ)の兆(しるし)が見えたとやら。果せるかな恐ろしい異人の黒船は津々浦々を脅(おびや)かすと聞くけれど、ああこの身は今更に何としようもないではないか……。
 種彦は書きかけた『田舎源氏』続篇の草稿の上に片肱(かたひじ)をついたまま唯茫然(ぼうぜん)として天井を仰ぐばかりである。物優しい跫音(あしおと)が梯子段(はしごだん)に聞えた。そして葭簀越(よしずご)しにも軽く匂(にお)わせる仙女香(せんじょこう)の薫(かおり)と共に、髪は下(さが)り髱(づと)の糸巻(いとまき)くずし、銀胸(ぎんむね)の黄楊(つげ)の櫛(くし)をさし、団十郎縞(だんじゅうろうじま)の中に丁子車(ちょうじぐるま)を入れた中形(ちゅうがた)の浴衣(ゆかた)も涼しげに、小柳(こやなぎ)の縞(しま)の帯しどけなく引掛(ひっかけ)にしめた女の姿、年の頃はまだ二十(はたち)ばかりと思われた。
「お園(その)か。」とやさしく種彦は机の上に肱をついたまま此方(こなた)を顧み、「おッつけもう子刻(ここのつ)だろうに階下(した)ではまだ寝ぬのかえ。」
「はい。ただ今御新造様(ごしんぞさま)ももうお休みになるからと表の戸閉りをなすっていらっしゃいます。」と女は漆塗(うるしぬり)の蓋(ふた)をした大きな湯呑(ゆのみ)と象牙(ぞうげ)の箸(はし)を添えた菓子皿とを種彦の身近に薦(すす)めて、前挿(まえざし)の簪(かんざし)の落掛(おちかか)るのをさし直しながら、「お煙草盆(たばこぼん)のお火はよろしゅう御ざりますか。」
「いや結構だ。何や彼(か)やとよく気をつけてくれるから家(うち)のものも大助りだ。お園やお前さんも一ツ摘(つま)みなさい。廓(ちょう)にいて贅沢(ぜいたく)をした御前方(おまえがた)には珍しくもあるまいが、この頃は諸事御倹約の世の中、衣類から食物(たべもの)まで無益な手数をかけたものは一切(いっさい)御禁止というきびしいお触(ふれ)だから、この都鳥(みやこどり)の落雁(らくがん)も当分は食納(たべおさめ)になるかも知れぬ。今の中(うち)遠慮なく食べて置くがよいぞ。」
「はい。ありがとう御座ります。先ほど階下(した)で御新造様から沢山頂戴(ちょうだい)いたしました。時に旦那さま、そう申せばこの頃は何とやら大層世間が騒々しいそうで御座りますが、此方様(こちらさま)に私見たようなものがおりまして万一(もしも)の事でもありましたらと、それがもう心配でなりません。」
「何さ、その事ならちっとも気を揉むには当らぬ。お前の事は初手(しょて)からいわば私が酔興(すいきょう)でこうして隠(かくま)って上げているの故、余計な気兼(きがね)をせずと安心していなさるがいい。」と種彦は取上げる銀のべの長煙管(ながぎせる)に烟(けむり)を吹きつつしみじみとお園の様子を打眺め、「それにもうその風俗(なりふり)なら誰が見ようと大丈夫だわ。中形の浴衣に糸巻崩(いとまきくず)し昼夜帯(ちゅうやおび)の引掛(ひっかけ)という様子なり物言いなり仲町(なかちょう)の妓(はおり)と思う人はあるかも知れぬが、ついぞこの間まで廓(ちょう)にいなすった華魁衆(おいらんしゅう)とはどうしてどうして気がつくものか。」
「ほんにそうだと、どんなに嬉しいか知れません。どうか一日も早く堅気(かたぎ)になりたいものと一生懸命に気をつけているのでありますが、どうかいたすとつい口の先へそうざますのありんすのと、思わず里の訛(なまり)が出そうになりまして、御新造様とお話をしていましてもそれはそれはもう心配でなりません。」
「大きにそうであろう。まア何にしても当分は世を忍ぶ身体(からだ)。すっかり先方の話がまとまるまでは大事の上にも大事を取るに越した事はない。もう暫(しばら)くの辛抱(しんぼう)だによって滅多(めった)に外なぞへは出なさらぬがいいぜ。」
「はい。それはもう能(よ)くわかっております。」と辞儀をしながらお園はなお何やら傍(そば)にいて尽きせぬ身の上の話でもしたいような様子であったが、言葉を絶やすと共にそのまま腕を組む種彦の様子に、女は所在なげにその後姿(うしろすがた)もしょんぼりと再び静かな跫音(あしおと)を梯子段(はしごだん)の下に消してしまった。

 家中(うちじゅう)はそれなり寂(しん)として物音を絶やした。今までは折々門外の小路(こうじ)に聞えた夜遊(よあそび)の人の鼻唄(はなうた)、遠くの町を流して行く新内(しんない)の連弾(つれびき)、枝豆白玉(えだまめしらたま)の呼声なぞ、いつ深(ふ)けるとも知らぬ町の夜の物音は忽(たちま)ち彼方此方(かなたこなた)に鳴り出す夜廻りの拍子木に打消される折から、浅草寺(あさくさでら)の巨鐘(きょしょう)の声はいかにも厳(おごそ)かにまたいかにも穏(おだやか)に寝静まる大江戸の夜の空から空へと響き渡るのであった。すると毎夜種油(たねあぶら)の費(ついえ)を惜しまず、三筋(みすじ)も四筋も燈心(とうしん)を投入れた偐紫楼(にせむらさきろう)の円行燈(まるあんどう)は、今こそといわぬばかり独りこの戯作者(げさくしゃ)の庵(いおり)をわが物顔に、その光はいよいよ鮮かにその影はいよいよ涼しく、唐机(とうづくえ)の上なる書掛(かきかけ)の草稿と多年主人(あるじ)が愛翫(あいがん)の文房具とを照し出す。
 孟宗(もうそう)の根竹に梅花を彫った筆筒(ふでづつ)の中に乱れさす長い孔雀(くじゃく)の尾は行燈(あんどう)の火影(ほかげ)に金光(きんこう)燦爛(さんらん)として眼を射るばかり。長崎渡りの七宝焼(しっぽうやき)の水入(みずいれ)は焼付(やきつけ)の絵模様に遠洋未知の国の不思議を思わせ、赤銅色絵(しゃくどういろえ)の文鎮(ぶんちん)は象嵌細工(ぞうがんざいく)の繊巧(せんこう)を誇れば、傍(かたわら)なる茄子形(なすびがた)の硯石(すずりいし)は紫檀(したん)の蓋(ふた)の面(おもて)に刻んだ主人が自作の狂歌、
名人になれ/\茄子(なす)と思へども
     とにかく下手(へた)は放れざりけり
という走書(はしりがき)の文字までをありありと読ませるのであった。
 種彦は忽(たちま)ち今までの恐怖と煩悶(はんもん)に引替えていかなる危険を冒(おか)しても、この年月(としつき)精魂を籠(こ)めて書きつづけて来た長い長い物語を、今夜の中(うち)にも一気に完成させてしまわなければならぬような心持になるのであった。思返すまでもなく、それは実に寛政(かんせい)の末つ頃(ころ)、ふと己(おの)れがまだ西丸(にしのまる)の御小姓(おこしょう)を勤めていた頃の若い美しい世界の思出されるまま、その華やかな記憶の夢を物語に作りなして以来(このかた)、年ごとに売出す合巻(ごうかん)の絵草紙の数も重(かさな)って天保(てんぽう)の今日に至るまで早くも十幾年という月日を閲(けみ)した。その間(あいだ)というものは年ごとに咲く花は年ごとに散って行っても、また年ごとに鬢(びん)の毛の白さは年ごとに刻まれる額(ひたい)の皺(しわ)と共に増(まさ)って行っても、この偐紫楼の深更(よふけ)を照す円行燈のみは十年一日の如くに夜としいえば、必ず今見る通りの優しい艶(なまめか)しい光をわが机の上に投掛けてくれたのである。種彦は半ば呑掛(のみか)けた湯呑(ゆのみ)を下に置くと共に墨摺(すみす)る暇ももどかし気(げ)に筆を把(と)ったがやがて小半時(こはんとき)もたたぬ中(うち)に忽ち長大息(ちょうたいそく)を漏(もら)してそのまま筆を投捨ててしまった。そして恐るる如くに机から身を遠ざけ、どっさりと床(とこ)の柱に背を投掛け眼をつぶり手を拱(こまね)いたかと思うと、またもや未練らしく首を延(のば)して、此方(こなた)からしげしげと机の上なる草稿を眺めやるのであった。
 突然庭の彼方(かなた)に当って風の音とも思われぬ怪しい物音がした。種彦は慄然(りつぜん)としてわが影にさえ恐れを抱く野犬(のいぬ)のように耳を聳(そばだ)てたが、すると物音はそれなり聞えず二階の夜は以前の通り柔かな円行燈の光ばかり。けれども種彦が再び草稿の上に眼を注ごうとした時今度は何者か窃(ひそか)に忍寄(しのびよ)るような跫音(あしおと)が聞えたので、いよいよ顔の色を失うと共に行燈の火を吹消すが早いか、種彦は一刀を手にして二階の丸窓をば音せぬように押開き庭の方(かた)を見下した。半月が斜めに悲し気(げ)に丁度隣家(となり)の屋根の上に懸(かか)っている。晴れた空には早や秋の気が十分に満渡(みちわた)っているせいか銀河を始め諸有(あらゆ)る星の光は落ちかかる半輪(はんりん)の月よりもかえって明(あかる)く、石燈籠(いしどうろう)の火の消残る小庭(こにわ)のすみずみまで隈(くま)なく照しているように思われた。犬の吠(ほ)える声もない。怪し気な人影なぞは更に見当ろうはずもない。手入を怠らぬ庭の樹木と共に飛石(とびいし)の上に置いた盆栽の植木は涼しい夏の夜の露をばいかにも心地よげに吸っているらしく穏(おだや)かなその影をば滑らかな苔(こけ)と土の上に横(よこた)えていた。軒の風鈴(ふうりん)をさえ定かには鳴らし得ぬ微風(そよかぜ)――河に近い下町の人家の屋根を越して唯緩(ゆる)く大きく流動している夜気のそよぎは、窓から首を差延(さしのば)す種彦が鬢(びん)の毛を何ともいえぬほど爽(さわや)かに軽く吹きなびかせる。種彦はわが身の安危をも一時に忘れ果てたように、暫(しばし)は唯茫然(ぼうぜん)とこの得(え)もいわれぬ夜の気に打たれていたが、する中(うち)、忽然(こつぜん)わが家の縁先から、こは如何(いか)に、そっと庭の方へと降立(おりた)つ幽霊のような白い物の影。
 再び刀を杖(つえ)に半身(はんしん)を屋根の方へ突出してよくよく見れば、消えようとして更に明(あか)く頻(しきり)と瞬(またた)きする石燈籠の火影(ほかげ)にそれは誰あろう、先ほど湯呑に都鳥の菓子を持添えて来たかのお園ではないか。仔細(しさい)あって我家にかくまうそれまでは新吉原(しんよしわら)佐野(さの)槌屋(つちや)の抱え喜蝶(きちょう)と名乗ったその女である。おろおろしつつも庭の柴折戸(しおりど)に進寄(すすみよ)り音せぬように掻金(かきがね)をはずすと、自(おのずか)ら開く扉の間から物腰のやさし気な男が一人手拭(てぬぐい)に顔をかくし這(は)わぬばかりに身をかがめて忍び入った。二人は少時(しばし)立ちすくんだまま互(たがい)に姿さえ恐るる如く息を凝(こら)して見合っていたが、やにわに双方から倒れかかるように寄添(よりそ)いざま、ひしと抱合(いだきあ)って、そのまま女は男の胸に、男は女の肩の上に顔を押当て唯(ただ)ただ声を呑(の)んで泣沈んだらしい様子である。
 種彦は最初一目見るが早いか、忍(しのび)入った彼(か)の男というはほど遠からぬ鳥越(とりごえ)に立派な店を構えた紙問屋の若旦那で、一時己(おの)れの弟子となった処から柳絮(りゅうじょ)という俳号をも与えたものである事を知っていた。若旦那柳絮はいつぞや仲(なか)の町(ちょう)の茶屋に開かれた河東節(かとうぶし)のお浚(さら)いから病付(やみつ)きとなって、三日に上げぬ廓通(くるわがよ)いの末はお極(きま)りの勘当(かんどう)となり、女の仕送りを受けて、小梅(こうめ)の里の知人(しりびと)の家にその日を送っている始末。もしやこのまま打捨てて置いたなら心中もしかねまいと、種彦は知己(ちかづき)の多い廓の事とて適当の人を頼んで身請(みうけ)や何かの事は追(おっ)ての相談に、一先(ひとま)ず女をわが家(や)に引取り男の方へは親許の勘当ゆりるまで少しの間辛抱して身をつつしむようにといい含めて置いたのである。然(しか)るをやっと半月たつかたたぬに若い二人はもう辛抱がしきれずに、いつ諜(しめ)し合したものか互(たがい)に時刻を計って忍逢(しのびあ)おうという。誠に怪(け)しからぬ事だと種彦は心の中(うち)に憤ろうと思いながら、自分にも幾度(いくたび)か覚えのある若い昔を思い返せば、何も彼(か)も無理はない事と訳もなく同情してしまわなければならぬ。それと共にいかに恋ゆえとはいいながらかほどまで義理も身も打捨てて構わぬ若い盛りの無分別ほど羨(うらや)ましいものはないと思うのであった。ああ、あの無分別の半分ほどもあるならば自分は徳川の世の末がいかになり行こうと、あるいは自分の身がいかに処罰されようと、そんな事には頓着(とんちゃく)せず、自分の書きたいと思うところをどしどし心の行くままに書く事ができたであろう。悲しむべきは何につけても勇気の失(う)せ行く老境である。
 通り過ぎる村雲がいつの間にか月を隠してしまった。すると最前から瞬(まばた)きしていた石燈籠(いしどうろう)の火も心あり気(げ)にはたと消えるを幸い、二人の男女は庭の垣根に身を摺寄(すりよ)せて互の顔さえ見分けぬほどな闇(やみ)の夜をかえって心安しと、積(つも)る思いのありたけを語り尽(つく)そうと急(あせ)れば、一時(ひとしきり)鳴く音(ね)を止(とど)めた虫さえも今は二人が睦言(むつごと)を外へは漏(もら)さじと庇(かば)うがように庭一面に鳴きしきる。やがて男は名残惜し気に幾度(いくたび)か躊躇(ためら)いつつも漸くに気を取直し地に落ちた手拭に再び顔をかくして立上ると、女も同じく落ちたる櫛(くし)に心付(こころづき)ながら乱れた姿を恥らう色もなく少時(しばし)寄添い、やがて男が出て行く庭木戸を閉めた後(あと)までもなかなかその場を立ち去りかねた様子であった。

 翌日(あくるひ)の朝種彦は独り下座敷(したざしき)なる竹の濡縁(ぬれえん)に出て顔を洗い食事を済ました後(のち)さえ何を考えるともなく折々毛抜(けぬき)で頤鬚(あごひげ)を抜きながら、昨夜(ゆうべ)若い男女の忍び逢(あ)ったあたりの庭面(にわもせ)に茫然(ぼんやり)眼を移していた。折から、「おや先生もうお目覚(めざめ)でいらッしゃいますか。」
「大層お早いじゃ御座いませんか。」といいながら愛雀軒(あいじゃくけん)という扁額(へんがく)を掛けた庭の柴折戸(しおりど)を遠慮なく明けて入って来たのは柳下亭種員(りゅうかていたねかず)に笠亭仙果(りゅうていせんか)と呼ぶ両人(ふたり)の門弟である。全くいつもより朝はまだよほど早かったらしい。二人が押開く柴折戸の裾(すそ)に触れて垣際(かきぎわ)に茂った小笹(おざさ)の葉末から昨夜(ゆうべ)のままなる露の玉が、斜(ななめ)にさし込む朝日の光にきらきらと輝きながら苔(こけ)の上にこぼれ落ちた。種彦は機嫌よく、
「朝起(あさおき)は老人(としより)のくせさ。お前たちこそ今日は珍らしく早起をしたもんだな。それとも昨夜(ゆうべ)の幕の引っ返しという図かね。」
「てっきり恐縮と申上げたい処ですが近頃はどう致しまして。どこもかしこも火の消えたようでいや早や情ない位で御座います。」
「いずこも同じ秋の夕暮かナ。」と種彦は戯れながらふと植込(うえこみ)に吹入る朝風の響(ひびき)に、「いや暑い暑いといっている中(うち)もう秋風が吹くと見える。」
「眼にはさやかに見えねどもと古歌にも申す通り、風の音にぞ驚かれぬるで御座います。」といいながら種員は懐中(ふところ)の手拭(てぬぐい)を出して雪駄(せった)ばきの裾(すそ)を払い濡縁の上に腰を下(おろ)したが、仙果は丁度己(おのれ)が佇(たたず)んだ飛石(とびいし)の傍(そば)に置いてある松の鉢物に目をつけ、女の髪にでも触るような手付で、盆栽の葉を撫(な)でながら、
「先生これァいつお求めになりました。木(ぼく)の太さといい枝ぶりといい実に見事な盆栽で御座いますな。」
「それはこの中請地村(じゅううけじむら)の長兵衛(ちょうべえ)という松師(まつし)に頼まれて、庭木戸の額を書いてやった返礼に貰(もら)ったのだが、売買いにしたらなかなか吾輩(こちとら)の手に這入(はい)る品ではあるまい。」
「お屋敷方でも滅多(めった)にこんな名木(めいぼく)は見られますまい。」と種員も今は銜煙管(くわえぎせる)のまま庭の方へ眼を移したが突然思い出したように、「先生。こういう盆栽なんぞはいかがなものでしょう。当節じゃやはり雛(ひな)人形や錦絵(にしきえ)なんぞと同じように表向(おもてむき)には出せない品なんで御座いましょうか。」
「勿論(もちろん)そのはずだろうさ。」と種彦は無造作にいい捨てて銀の長煙管(ながぎせる)で軽く灰吹(はいふき)を叩(たた)いた。
「へーえ。やっぱり不可(いけ)ないんで御座いますかね。こうなると手前共にゃどうもお上(かみ)の御趣意が分りかねます。」
「なぜさ、無益なものに贅(ぜい)を尽(つく)すなと申すのではないか。」
「それがで御座りますよ。大きな声では申されませぬが私共(わたくしども)の考えますには無益なものに手数(てすう)をかけて楽しんでいられるようなら此様(こんな)結構な事はないじゃ御座いませんか。天下太平国土安穏なりゃアこそ楽しんでおられるんで御座います。もしこれが明暦(めいれき)の大火事や天明(てんめい)の飢饉(ききん)のような凶年ばっかり続いた日にゃ、いくら贅沢(ぜいたく)がいたしたくてもまさかに盆栽や歌俳諧(はいかい)で日を送るわけにも行きますまい。ところが当節の御時勢は下々(しもじも)の町人風情(ふぜい)でさえちょいと雪でも降って御覧(ごろう)じろ、すぐに初雪や犬の足跡梅の花位の事は吟咏(くちずさ)みます。それと申すも全く以て治まる御世(みよ)のおかげ、このような目出たい事は御座いますまい。」
「なるほどこれァ種員さんのいいなさる通り。恐れながら手前なぞも今度の御趣意についちゃ随分と腑(ふ)に落ちない事が御座います。」
 盆栽に気を取られていた仙果もいつか縁側に腰をかけ、あたりに聞く人もないと思う安心から種員と一緒になって遠慮なくその思う処を述べようとする。
「下々の手前たちがとやかくと御政事向(むき)の事を取沙汰(とりざた)致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土(もろこし)の世には天下太平の兆(しるし)には綺麗(きれい)な鳳凰(ほうおう)とかいう鳥が舞下(まいさが)ると申します。しかし当節のようにこう何も彼(か)も一概に綺麗なもの手数のかかったもの無益なものは相(あい)ならぬと申してしまった日には、鳳凰なんぞは卵を生む鶏じゃ御座いませんから、いくら出て来たくも出られなかろうじゃ御座いませんか。外(ほか)のものはとにかくと致して日本一お江戸の名物と唐天竺(からてんじく)まで名の響いた錦絵まで御差止めになるなぞは、折角天下太平のお祝いを申しに出て来た鳳凰の頸(くび)をしめて毛をむしり取るようなものじゃ御座いますまいか。」
「はははは。幾(いか)ほどお前たちが口惜(くちお)しく存じても詮(せん)ない事さ。とかく人の目を引くような綺麗なものは何の彼(か)のと妬(ねた)まれ難癖を付けられるものさ。下々の人情も天下の御政事も早い話が皆同じ訳合(わけあい)と諦(あきら)めてしまえばそれで済むこと。あんまり大きな声で滅多(めった)な事をいいなさるな。口舌(こうぜつ)元来(がんらい)禍之基(わざわいのもとい)。壁にも耳のある世の中だ。まアまア長いものには巻かれているが一番だよ。」
「それァもう仰有(おっしゃ)るまでもなく承知いたしております。つまらない饒舌(おしゃべり)をして掛替(かけがえ)のない首でも取られた日にゃ御溜小法師(おたまりこぼし)が御座いませんや。こういう時には何か一首巧(うま)い落首(らくしゅ)でもやって内所(ないしょ)でそっと笑っているが関の山で御座います。」
「落首といえばそうそう、昨夜(ゆうべ)先生がお帰りになってから鶴屋の旦那に聞いた話で御座りますが、あの和泉町(いずみちょう)の一勇斎国芳(いちゆうさいくによし)さんが今度の御政事向の事をばそれとなく「源(みなもと)の頼光(らいこう)御寝所(ごしんじょ)の場」に譬(たと)えて百鬼夜行(ひゃっきやこう)の図を描き三枚続きにして出したとかいう事で御座ります。」
「いや早や、あの男も持って生れた悪い病がまだ直らぬと見える。国芳も国貞も倶(とも)に故人豊国翁の高弟だが、二人はまるで気性がちがい国芳は喧嘩(けんか)の好きな勇みな男いかさまその位の事はしかねまいて。一寸(いっすん)の虫にも五分(ごぶ)の魂というが当節はその虫をばじっと殺していねばならぬ世の中。ならぬ堪忍するが堪忍とはまず此処(ここ)らの事だわ。」
「何に致せいやな恐ろしい世の中になったもので御座います。この分では先生。とても『田舎源氏』の後篇もいつ拝見致される事やら、情ない事で御座いますなア。」
「私(わたし)も最(も)う追々(おいおい)に取る年だ。世間の取沙汰の静(しずか)になるのを待っている中(うち)には大方眼も見えず筆を持つ手も利かなくなろう……。」
 淋(さび)しい微笑と共に種彦は言葉を絶やした。二人の門弟も今は言出すべき言葉なく、遣場(やりば)のない視線をば追々に夏の日のさし込んで来る庭の方へ移したが、すると偶然垣根の外には大方一月寺(いちげつじ)あたりから来る虚無僧(こむそう)であろう、連管(れんかん)に吹き調べる「虚空鈴慕(こくうれいぼ)」の一曲が一座の憂愁をば一層深くさせるようにいとど物淋しく聞え出すのであった。

 夏の盛(さかり)の六月もいつか晦日(みそか)近くなった。お江戸の町々を呼歩く蚊帳売(かやうり)の声と定斎売(じょうさいうり)の環(かん)の音(ね)に、日盛(ひざかり)の暑さは依然として何の変りもなかったが、とにかく暦の表だけではいよいよ秋という時節が来ると、道行く若いものの口々には早くも吉原(よしわら)の燈籠(とうろう)の噂(うわさ)が伝えられ、町中(まちなか)の家々にも彼方此方(かなたこなた)と軒端(のきば)の燈籠が目につき出した。
 土用の明けるその日を期して、池上(いけがみ)の本門寺(ほんもんじ)を始め諸処の古寺では宝物の虫干かたがた諸人の拝観を許す処が多い。種彦の家でも同じくその頃に毎年蔵書什器(じゅうき)の虫払(むしばらい)をする。そしてその日の夕刻からは極(ご)く親しい友人や門弟が寄集って主人(あるじ)柳亭翁が自慢の古書珍本の間に酒を酌(く)み妓(ぎ)を聘(へい)して俳諧(はいかい)または柳風(りゅうふう)の運座を催すのが例であった。けれども今年ばかりはわざわざそれらの蔵書什器を取り出して厳しい禁令の世の風に曝(さら)すという事がいかにも空恐ろしく思われた処から、種彦はわが秘蔵の宝をもよし蠹(むし)が喰うならば喰うがままにと打捨てて置く事にした。
 実際種彦はもう何をする元気もなくなってしまったのである。老朽(おいく)ちて行くその身とは反対に、年と共にかえって若く華やかになり行くその名声をば、さしもに広い大江戸は愚か三ヶ(さんが)の津(つ)の隅々にまで喧伝(けんでん)せしめた一代の名著も、あたらこのまま完成の期なく打捨ててしまわなければならぬのかと思うと、如何(いか)にしても癒(いや)しがたい憂憤の情は多年一夜の休みもなく筆を執って来た精魂の疲労を一時に呼起し、あるかぎりの身内の力を根こそぎ奪い去ってしまったような心持をさせるのである。禁令の打撃に長閑(のどか)な美しい戯作(げさく)の夢を破られなかった昨日(きのう)の日と、禁令の打撃に身も心も恐れちぢんだ今日(きょう)の日との間には、劃然(かくぜん)として消す事のできない境界(さかい)ができた。そして今日という暗澹(あんたん)たる此方(こなた)の境から花やかな昨日という彼方(かなた)の境を打眺めて見ると、わが生涯というものは今や全く過去に属して已(すで)に業(すで)にその終局を告げてしまったものとしか思われない。何一ツ将来に対して予期する力のなくなった心のほどのいたましさは己(おの)が書斎の書棚一ぱいに飾ってある幾多の著作さえ、それらは早何となく自分の著作というよりはむしろ既に死んでしまった或(ある)親しい友人――その生涯の出来事を自分は尽(ことごと)く知り抜いている或親しい友人の遺書であるような心持がする。
 種彦は日ごと教(おしえ)を乞いにと尋ねて来る門弟たちをも次第々々に遠ざけて、唯一人二階の一間(ひとま)に閉籠(とじこも)ったまま、昼となく夜となく、老眼鏡の力をたよりにそもそも自分がまだ柳(やなぎ)の風成(かぜなり)なぞと名乗って狂歌川柳(せんりゅう)を口咏(くちずさ)んでいた頃の草双紙(くさぞうし)から最近の随筆『用捨箱(ようしゃばこ)』なぞに至るまで、凡(すべ)て立派な套入(ちついれ)にしてある著作の全部をば一冊々々取出して読み返しつつ、あああの双紙を書いた時分(じぶん)には何をしていた。ああこの物語を書いた頃には自分はまだ何歳であったかと徒(いたずら)に耽(ふけ)る追憶の夢の中に、唯うつらうつらとのみその日その夜を送り過した。宛(さなが)ら山吹の花の実もなき色香を誇るに等しい放蕩(ほうとう)の生涯からは空しい痴情(ちじょう)の夢の名残はあっても、今にして初めて知る、老年の慰藉(なぐさみ)となるべき子孫のない身一ツの淋(さび)しさ果敢(はかな)さ。それを堪え忍ぼうとするには全く益もない過去の追憶に万事を忘却する外(ほか)はない……。
 七夕(たなばた)の祭はいつか昨日(きのう)と過ぎた。小夜(さよ)更(ふ)けてから降り出した小雨(こさめ)のまた何時(いつ)か知ら止(や)んでしまった翌朝(あくるあさ)、空は初めていかにも秋らしくどんよりと掻曇(かきくも)り、濡(ぬ)れた小庭の植込からは爽(さわやか)な涼風が動いて来るのに、種彦は何という訳もなく瓦(かわら)焼く烟(けむり)も哀れに橋場今戸(はしばいまど)の河岸に立初(たちそ)める秋の風情の尋ねて見たく、臥床(ふしど)を出るや否やいそいで朝飯(あさはん)を準(ととの)えようと下座敷(したざしき)へ降りかけた時出合頭(であいがしら)にあわただしく梯子段(はしごだん)を上って来たのは年寄った宿の妻であった。しかも容易ならぬ事件を種彦に伝えたのである。
 小雨そぼ降る七夕の昨夜(ゆうべ)久しく隠まって置いたかのお園は何処(いずこ)へか出奔(しゅっぽん)してしまったものと見え今朝方(けさがた)寝床は藻抜(もぬけ)の殻となり、残るは唯男女が二通の手紙ばかりという事である。種彦は机の上の眼鏡取るより早く男女の手紙を読み下した。海山にもかへがたき御恩を仇(あだ)にいたし候(そうろう)罪科(つみとが)、来世のほどもおそろしく存じまゐらせ候……とあってお園の方の手紙にはただ二世(にせ)も三世(さんぜ)までも契りし御方(おかた)のお身上(みのうえ)に思いがけない不幸の起りしため、とてもこの世では添われぬ縁故(ゆえ)、一先(ひとま)ずわが親里の知人(しりびと)をたより其処(そこ)まで落延びてから心安く未来の冥加(みょうが)を祈り、共々にあの世へ旅立つという事の次第がこまごまと物哀れに書いてあった。覚えず涙に曇る眼(まなこ)を拭(ぬぐ)い種彦はやがて男の手紙を開くに及んで初めて深い事情を知り得た。先頃から、これも要するにこの度(たび)の御政事向(ごせいじむき)御改革の影響といわねばならぬ。若旦那の親元なる紙問屋は江戸中問屋十組(えどじゅうとんやじっくみ)の株が突然御廃止になったため、それやこれやの手違いより俄(にわか)に莫大(ばくだい)の損失を引起し家倉を人手に渡すも今日(きょう)か明日(あす)かという悲運に立至った。親の家(うち)が潰(つぶ)れてしまえば頼みに思う番頭から詫(わ)びを入れて身受(みうけ)の金を才覚してもらおうという望(のぞみ)も今は絶えた訳(わけ)。さらばといってどうして今更お園をば二度と憂き川竹(かわたけ)の苦界(くがい)へ沈(しずめ)られよう。身受する力も望みもなくなって唯いつまでも大金のかかった女を人の家に隠匿(かくま)って置いたなら、わが身のみかは恩義ある師匠にまでいかなる難儀を掛けるも測(はか)られぬ。それ故(ゆえ)事の面倒にならぬ中(うち)わが身一つに罪を背負って死出の旅路を志(こころざ)し申候(もうしそうろう)。何とぞ後(のち)の回向(えこう)をたのむとあった。
 種彦は菱垣船(ひしがきぶね)や十組問屋仲間の御停止(ごちょうじ)よりさしもに手堅い江戸中の豪家にして一朝(いっちょう)に破産するものの尠(すくな)くない事を聞知っていた処から、今更ながら目(ま)の当りこの度(たび)の法令の恐しい上にも恐しい事を思知るばかり。死にに行くという若いもの供(ども)の身の上についてはさしずめ如何(いか)なる処置を取ってよいのやら全く途方に暮れてしまった。

 全くどうにも仕様のないこの場合に立至っては今更のめのめと柳絮(りゅうじょ)が親元の紙問屋へ相談にも行かれず、同時に廓(くるわ)の方面にもいわばそれとなく自分が身受(みうけ)の証人にもなったような関係がらうっかりと顔出しも出来ぬ。といってこのまま知らぬ顔に打捨てても置かれまいと種彦は思案に暮れたあまり、ふらりと家を出(い)で足の向く方へと歩いて行った。歩いて行く中(うち)には何とかよい考えが出るかも知れぬとたよりにならぬ事をたよりにするより仕様がなかった。
 さまざまな物売の声と共にその辺(へん)の※(「木+靈」、第3水準1-86-29)子窓(れんじまど)からは早や稽古(けいこ)の唄三味線(うたしゃみせん)が聞え、新道(しんみち)の路地口(ろじぐち)からは艶(なまめ)かしい女の朝湯に出て行く町家(まちや)つづきの横町(よこちょう)は、物案顔(ものあんじがお)に俯向(うつむ)いて行く種彦をば直様(すぐさま)広い並木の大通(おおどおり)へと導いた。すると忽(たちま)ち河岸(かし)の方から颯(さっ)とばかり真正面(まとも)に吹きつけて来る川風の涼しさ。種彦はさすがに心の憂苦を忘れ果てるというではないが、思えばこの半月あまりは一歩(ひとあし)も戸外(そと)へ出ず引籠(ひきこも)ってのみいた時に比べると、おのずと胸も開くような心持になり、少時(しばし)は何の気苦労もない人のように目に見える空と町との有様をば訳もなく物珍し気に眺めやるのであった。
 両側とも菜飯田楽(なめしでんがく)の行燈(あんどう)を出した二階立(だて)の料理屋と、往来(おうらい)を狭(せば)むるほどに立連(たちつらな)った葭簀張(よしずばり)の掛茶屋(かけぢゃや)、またはさまざまなる大道店(だいどうみせ)の日傘(ひがさ)の間をば士農工商思い思いの扮装形容(みなりかたち)をした人々が後(あと)から後からと引きも切らずに歩いて行く。それはこの年月幾度(いくたび)と知れず見馴(みな)れた上にも見馴れた街の有様ながら、しかしここに住馴れた江戸ッ児の馬鹿々々しいほど物好(ものずき)な心には、一日半日の間も置きさえすれば忽(たちまち)にして十年も見なかった故郷(ふるさと)のように訳もなく無限の興味を感じさせるのである。
 早や虫売の荷が見える。花売の籠(かご)の中にはもう秋の七草が咲き乱れている。しかし其様(そんな)事には目もくれずお蔵(くら)の役人衆らしいお侍(さむらい)は仔細(しさい)らしい顔付(かおつき)に若党を供につれ道の真中(まんなか)を威張って通ると、摺違(すれちが)いざまに腰を曲(かが)めて急(いそ)がし気に行過ぎるのは札差(ふださし)の店に働く手代(てだい)にちがいない。頭巾(ずきん)を冠(かむ)り手に数珠(じゅず)を持ち杖(つえ)つきながら行く老人(としより)は門跡様(もんぜきさま)へでもお参(まい)りする有徳(うとく)な隠居であろう。小猿を背負った猿廻しの後(あと)からは包(つつみ)を背負った丁稚(でっち)小僧が続く。きいた風な若旦那は俳諧師(はいかいし)らしい十徳(じっとく)姿の老人と連れ立ち、角隠(つのかく)しに日傘を翳(かざ)した上(うわ)つ方(かた)の御女中はちょこちょこ走りの虚無僧下駄(こむそうげた)に小褄(こづま)を取った芸者と行交(ゆきちが)えば、三尺帯(さんじゃくおび)に手拭(てぬぐい)を肩にした近所の若衆(わかいしゅ)は稽古本(けいこぼん)抱えた娘の姿に振向き、菅笠(すげがさ)に脚絆掛(きゃはんがけ)の田舎者は見返る商家の金(きん)看板に驚嘆の眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)って行くと、その建続(たちつづ)く屋根の海を越えては二、三羽の鳶(とんび)が頻(しきり)と環(わ)を描(か)いて舞っている空高く、何処(どこ)からともなく勇ましい棟上(むねあ)げの木遣(きやり)の声が聞えて来るのであった。やや太く低いけれども極めて力のある音頭取(おんどとり)の声と、それにつづいて大勢の中にもとりわけ一人二人思うさま甲高(かんだか)な若い美しい声の打交(うちまじ)った木遣の唄(うた)は、折からの穏(おだやか)な秋の日に対して、これぞ正(まさ)しく大江戸の動かぬ富を作り上げた町人の豪奢(ごうしゃ)と弓矢はもう用をなさぬ太平の世の喜びとを、江戸中の町々へ歌い聞かせるような心持がするのである。
 種彦は唯(ただ)どんよりした初秋の薄曇り、この勇(いさま)しい木遣の声に心を取られながらぞろぞろと歩いている町の人々と相(あい)前後して、駒形(こまかた)から並木(なみき)の通りを雷門(かみなりもん)の方へと歩いて行く中(うち)、何時(いつ)ともなしに我もまた路行く人と同じように、二百余年の泰平に撫育(はぐく)まれた安楽な逸民であるといわぬばかり、知らず知らずいかにも長閑(のどやか)な心になってしまうのであった。今更ことごとしく時勢の非なるを憂いたとて何になろう。天下の事は微禄(びろく)な我々風情がとやかく思ったとて何の足(たし)にもなろうはずはない。お上(かみ)にはそれぞれお歴々の方々がおられるではないか。われわれは唯その御支配の下(もと)に治(おさま)る御世(みよ)の楽しさを歌にも唄い絵にも写していつ暮れるとも知れぬ長き日を、われ人共に夢の如く送り過すのがせめてもの御奉公ではあるまいか。種彦は丁度豊後節(ぶんごぶし)全盛の昔に流行した文金風(ぶんきんふう)の遊冶郎(ゆうやろう)を見るように両手を懐中(ふところ)に肩を落し何処(どこ)を風がという見得(みえ)で、いつのほどにか名高い隅田川(すみだがわ)という酒問屋(さかどんや)の前辺(あた)りまで来たが、すると、忽(たちま)ち向うに見える雷門の新橋(しんばし)と書いた大提灯(おおぢょうちん)の下から、大勢の人がわいわいいって駈出(かけだ)して来るのみか女の泣声までを聞付けた。ソラ喧嘩(けんか)だ人殺(ひとごろし)だというが早いか路行く人々は右方左方(うほうさほう)へ逃惑(にげまど)うものもあれば、我遅れじと駈けつけるものもある。その後につづいて町の犬が幾匹ともなく吠(ほ)えながら走る。
 種彦は依然として両手を懐中(ふところ)にこの騒ぎも繁華なお江戸ならでは見られぬものといわぬばかり街の角(かど)に立止って眺めていたが、しかし走交(はせちが)う群集に遮(さえぎ)られて実は何の事件(こと)やら一向に見定める事が出来なかったのである。
「先生。」と突然横合から声をかけたものがある。
「いや。仙果(せんか)に種員(たねかず)か。あの騒ぎは一体どうしたものだ。」
「先生。大変な騒ぎで御座ります。奥山(おくやま)の姐(ねえ)さんが朝腹(あさっぱら)お客を引込もうとした処を隠密(おんみつ)に見付(みつか)りお縄を頂戴(ちょうだい)いたしたので御座ります。」
「ふうむさようか。」と種彦もさすが事件の意外なるに驚いた様子。「奥山の茶見世(ちゃみせ)なぞは昔から好(よ)からぬ処ときまったものではないか。今更隠売女(かくしばいじょ)の一人や二人召捕えた処で仕様もあるまい。」
「先生それではまだ昨夜(ゆうべ)からの騒ぎを御存じがないと見えますな。」
「はて、昨夜からの騒ぎというのはそれァ何事だ。お前たちも知っての通り私(わし)は先月以来(このかた)外へ出るのは今日が初めて……。」
「実はこれから二人して御機嫌伺いに上ろうと思っていた処で御座ります。今日はもうどこへ参りましてもその話ばかりで持切っております。昨日の晩花川戸(はなかわど)の寄席(よせ)で娘浄瑠璃(むすめじょうるり)が縛(あげ)られる。それから今朝になって広小路(ひろこうじ)の芸者屋(げいしゃや)で女髪結(かみゆい)が三人まで御用になりました。何でもつい二、三日前御本丸で御役替(おやくがえ)がありまして、大目付(おおめつけ)の鳥居様(とりいさま)が町奉行におなり遊ばしてから俄(にわか)に手厳しい御詮議(ごせんぎ)が始まったとやら。手前供(ども)の町内などでも名主(なぬし)や家主(いえぬし)が今朝はもう五ツ頃から御奉行所へお伺いに出るような始末で御座います。」
「なるほど、それは全く容易ならぬ次第だな。」
「先生、まだそればかりでは御座りません。昨夜(ゆうべ)ちょっと櫓下(やぐらした)の方へ参りましたら、何でも近い中に御府内(ごふない)の岡場所は一ツ残らずお取払いになるとかいう騒ぎで、さすがの辰巳(たつみ)も霜枯れ同様寂れきっておりやした。」
「そうか。世の中は三日見ぬ間(ま)の桜ではない。桜を散らすとんだ夜嵐(よあらし)……。」
「先生、とにかく境内を一まわり奥山辺(おくやまへん)までお供を致そうじゃ御在(ござい)ませんか。」
「そうさな。人の難儀を見て置くも気の毒ながらまた何ぞ後の世の語草(かたりぐさ)になろうも知れぬ。どれぶらぶら参ろうか。」
 三人は歩き出した。雷門前の雑沓(ざっとう)はどうやら静まった様子であるが、まだこの辺(へん)をばあちこちと不安な顔付して行交う人たちの口々に、町木戸(まちきど)の大番屋(おおばんや)で召捕(めしとら)れた売女の窮命されている有様が尾に鰭(ひれ)添えていかにも酷(むご)たらしく言伝えられている最中(さいちゅう)である。種彦を先に種員と仙果は雷門を這入(はい)って足早に立並ぶ数珠屋(じゅずや)の店先を通過(とおりす)ぎ二十軒茶屋(にじっけんぢゃや)の前を歩いて行ったが、いつも五月蠅(うるさい)ほどに客を呼ぶ女供(ども)はやがて仁王門を這入った楊子店(ようじみせ)も同じ事で、いずれも真蒼(まっさお)な顔をして三人四人と寄合いながら何やらひそひそ話合っていると、土地の顔役らしい男がいかにも事あり気に彼方此方(かなたこなた)と歩き廻っていた。しかし何と言ってもさすがは広い観音の境内、今方(いまがた)そんな騒ぎのあったとも心附かぬ参詣(さんけい)の群集(ぐんじゅ)は相も変らず本堂の階段を上(あが)り下(お)りしていると、いつものように、これも念仏堂の横手に陣取った松井源水(まついげんすい)、またはかの風流志道軒(ふうりゅうしどうけん)の昔より境内の名物となった辻講釈を始めとして、その辺(へん)に同じように葭簀張(よしずばり)の小屋を仕つらえた乞食芝居(こじきしばい)や桶抜(おけぬ)け籠抜(かごぬけ)などの軽業師(かるわざし)も追々に見物を呼び集めている処であった。
 一同はそれらの小屋をも後にして俗に千本桜といわれた桜の立木の間をくぐり抜け、金竜山(きんりゅうざん)境内の裏手へ出るとそぞろ本山開基の昔を思わせるほどの大木が鬱々(うつうつ)として生(おい)茂っている。その木陰(こかげ)に土弓場(どきゅうば)と水茶屋(みずぢゃや)の小家(こいえ)は幾軒となく低い鱗葺(こけらぶき)の屋根を並べているのである。毎夜頬冠(ほおかむり)して吉原(よしわら)の河岸通(かしどおり)をぞめいて歩くその連中と同じような身なりの男が相(あい)も変らずその辺をぶらりぶらり歩いていたが、さすがに唯(たった)今方(いまがた)世にも恐ろしい騒動のあった後(あと)とて女供は一斉に声を潜(ひそ)め姿を隠してしまったので、いつもはそれほどに耳立たない裏田圃(たんぼ)の蛙(かわず)の啼(な)く音(ね)と梢(こずえ)に騒ぐ蝉(せみ)の声とが今日に限って全くこの境内をば寺院らしく幽邃閑雅(ゆうすいかんが)にさせてしまったように思われた。さながら人なき家の如く堅くも表口の障子を閉めてしまった土弓場の軒端(のきば)には折々時ならぬ病葉(わくらば)の一片(ひとひら)二片(ふたひら)と閃(ひらめ)き落ちるのが殊更に哀(あわれ)深く、葭簀(よしず)を立掛けた水茶屋の床几(しょうぎ)には徒(いたずら)に磨込(すりこ)んだ真鍮(しんちゅう)の茶釜(ちゃがま)にばかり梢を漏(もれ)る初秋の薄日のきらきらと反射するのがいい知れず物淋(ものさび)しく見えた。何処か見えない木立の間から頻(しきり)と笑うが如き烏(からす)の声が聞える。
 種彦は何という訳(わけ)もなく立止って梢を振仰(ふりあお)いだ。枯枝の折れたのが乾いた木の皮と共に木葉(このは)の間を滑って軽く地上に落ちて来る。大方蝉を啄(ついば)もうとして烏(からす)はその餌(えば)を追うて梢から梢にと飛移ったに違いない。仙果は人気(ひとけ)のない水茶屋の床几(しょうぎ)に置き捨ててある煙草盆(たばこぼん)から勝手に煙草の火をつけようとして、灰ばかりなのにちょッと舌鼓を打ったが、そのまま腰を下(おろ)し懐中(ふところ)から火打石(ひうちいし)を捜出(さがしだ)しながら、
「先生一服いかがで御座います。いつもなら、のう種員さん、この辺は河岸縁(かしっぶち)の三日月長屋(みかづきながや)も同然滅多(めった)に素通(すどおり)の出来る処じゃないんだが、今日はこうして安閑と煙草が呑(の)んでいられるたア何だか拍子抜(ぬけ)がして狐(きつね)にでもつままれたようだ。」
「真白(まっしろ)なこんこん様は何処の御穴(おあな)へもぐり込んだのか不思議に姿をくらましたもんさな。何しろ涼しくって閑静でいい。それにいくら涼んでもお茶代いらずというのだからこれがほんに有難山(ありがたやま)の時鳥(ほととぎす)さ。」と腰なる一提(ひとつさげ)を取出して種員は仙果の煙管(きせる)から火をかりて一服した。
 なるほど涼しい風は絶えず梢の間から湧(わ)き起って軽く人の袂(たもと)を動かすのに種彦もいつか門人らと並んで、思掛けない水茶屋(みずぢゃや)の床几(しょうぎ)に腰を下し草臥(くたぶれ)た歩(あゆみ)を休ませた。折から梢の蝉の鳴音(なくね)をも一時(いちじ)に止(とど)めるばかり耳許(みみもと)近く響き出す弁天山(べんてんやま)の時の鐘。数うれば早や正午(ひる)の九つを告げている。種彦はどこかこの近辺に閑静で手軽な料理茶屋でもあらば久ぶり門人らと共に中食(ちゅうじき)を準(ととの)えたいと言出すと、毎日のぞめき歩(あるき)に至極案内知ったる柳下亭種員(たねかず)心得たりという見得(みえ)で、雪駄(せった)の爪先(つまさき)に煙管をぽんとはたき、
「では先生、早速あの突当りの菜飯茶屋(なめしぢゃや)なぞはいかがで御座いましょう。山東翁(さんとうおう)が『近世奇跡考(きんせいきせきこう)』に書きました金竜山(きんりゅうざん)奈良茶(ならちゃ)の昔はいかがか存じませんが、近頃は奥山の奈良茶もなかなかこったものを食わせやす。それに先生御案内でも御座いましょうが、お座敷から向う一面に裏田圃(うらたんぼ)を見晴す景色はまた格別で御座いますよ。丁度今頃は田圃に蓮(はす)の花が咲いておりましょう。」

 一同は早速水茶屋の床几をはなれ、ここにも生(おい)茂る老樹のかげに風流な柴垣を結廻(ゆいめぐ)らした菜飯茶屋の柴折門(しおりもん)をくぐった。なるほど門人種員の話した通り打水(うちみず)清き飛石(とびいし)づたい、日を避(よ)ける夕顔棚からは大きな糸瓜(へちま)の三つ四つもぶら下っている中庭を隔てて、茶がかった離れの小座敷へと通るや否や明放した濡縁(ぬれえん)の障子から一目に見渡した裏田圃の景色。これは全く格別の趣きである。これは即ち南宗(なんしゅう)北宗(ほくしゅう)より土佐(とさ)住吉(すみよし)四条(しじょう)円山(まるやま)の諸派にも顧みられず僅(わずか)に下品極まる町絵師が版下絵(はんしたえ)の材料にしかなり得なかった特種(とくしゅ)の景色である。狂歌川柳(せんりゅう)の俗気を愛する放蕩(ほうとう)背倫の遊民にのみいうべからざる興趣を催させる特種の景色である。即ち左手には田町(たまち)あたりに立続く編笠茶屋(あみがさぢゃや)と覚(おぼ)しい低い人家の屋根を限りとし、右手は遥(はるか)に金杉(かなすぎ)から谷中(やなか)飛鳥山(あすかやま)の方へとつづく深い木立を境にして、目の届くかぎり浅草の裏田圃は一面に稲葉の海を漲(みなぎ)らしている。その正面に当ってあたかも大きな船の浮ぶがように吉原(よしわら)の廓(くるわ)はいずれも用水桶を載せ頂いた鱗葺(こけらぶき)の屋根を聳(そびやか)しているのであった。
 薄く曇った初秋の空から落る柔かな光線(ひかげ)は快く延切(のびき)った稲の葉の青さをば照輝く夏の日よりもかえって一段濃くさせたように思われた。彼方此方(かなたこなた)に浮んだ蓮田(はすだ)の蓮の花は青田の天鵞絨(ビロウド)に紅白の刺繍(ぬいとり)をなし打戦(うちそよ)ぐ稲葉の風につれて得(え)もいわれぬ香気を送って来る。鳴子(なるこ)や案山子(かかし)の立っている辺(あたり)から折々ぱっと小鳥の飛立つごとに、稲葉に埋(うずも)れた畦道(あぜみち)から駕籠(かご)を急がす往来(ゆきき)の人の姿が現れて来る。それは田圃の近道をば田面(たのも)の風と蓮の花の薫りとに見残した昨夜(ゆうべ)の夢を託(たく)しつつ曲輪(くるわ)からの帰途(かえり)を急ぐ人たちであろう。
 種彦は眺めあかすこの景色と、久ぶりに取上げる杯(さかずき)の味(あじわい)と、埒(らち)もない門弟たちの雑談とに、そぞろ今日の外出(そとで)の無益でなかった事を喜んだ。全く気に入った景色、気に入った酒、気に入った雑談。この三拍子が遺憾なく打揃(うちそろ)うという事は人生容易に遇(あ)いがたい偶然の機を俟(ま)たねばならぬ。偶然の好機は紀文奈良茂(きぶんならも)の富を以てしてもあながちに買い得るものとは限られぬ。女中が持運ぶ蜆汁(しじみじる)と夜蒔(よまき)の胡瓜(きゅうり)の酸(す)の物秋茄子(あきなす)のしぎ焼などを肴(さかな)にして、種彦はこの年月(としつき)東都一流の戯作者(げさくしゃ)として凡(およ)そ人の羨(うらや)む場所には飽果(あきは)てるほど出入(でいり)した身でありながら、考えて見れば雨や風のさわりなく主客共に能(よ)く一日半夜の歓会(かんかい)に逢(あ)い得たる事いくばくぞと、さまざまなる物見遊山(ゆさん)の懐旧談に時の移るのをも忘れていたが、折から一同は中庭を隔てた向うの小座敷に先ほどから頻(しきり)と手を鳴らしていたお客が遂に亭主らしい男を呼付けて物荒くいい罵(ののし)り初めた声を聞付けた。客は誂(あつら)えた酒肴(さけさかな)のあまりに遅い事を憤り、亭主はそれをばひたあやまりに謝罪(あやま)っていると覚しい。そう心付いて見れば一同の座敷も同じ事、先ほど誂えた初茸(はつたけ)の吸物もまたは銚子(ちょうし)の代りさえ更に持って来ない始末である。別に大勢の客が一度に立込(たてこ)んで手が足りぬというのでもないらしい。どうした事かと仙果は二、三度続けざまに烈(はげ)しく手を鳴らしたが、すると、以前の女中が銚子だけを持って来ながら息使いも急(せわ)しく甚(いた)くも狼狽(うろた)えた様子で、
「どうも申訳が御在(ござい)ません。どうぞ御勘弁を……。」とばかり前髪から滑り落ちる簪(かんざし)もそのままにひたすら額(ひたい)を畳へ摺付(すりつ)けていた。
「こう、姐(ねえ)さん。どうしたもんだな。そうむやみやたらに謝罪(あやま)られても始まらねえ。お燗(かん)はつけずお肴(さかな)はなしというのじゃ、どうもこれァお話にならないじゃねえか。」
「唯今帳場からお詫(わび)に出ると申しております。どうぞ御勘弁をなすって下さりませ。」
「それじゃ姐さん、酒も肴も出来ねえといいなさるんだね。」
「出来ない何のと申す訳(わけ)では御座いませんが、旦那。実は大変な事になりましたので御座います。今が今とて、定巡(じょうまわり)の旦那衆がお出でになりまして、その方(ほう)どもでは時節ちがいの走物(はしりもの)を料理に使ってはいないかと仰有(おっしゃ)りまして、洗場(あらいば)から帳場の隅々までお改めになってお帰りになるかと思えば、今度は入違(いれちがい)に伝法院(でんぽういん)の御役僧(おやくそう)と町方(まちかた)の御役人衆とがお出(いで)になり、お茶屋へ奉公する女中たちはこれから三月中(みつきうち)に奉公をやめて親元へ戻らなければ隠売女(かくしばいじょ)とかいう事にいたして、吉原(よしわら)へ追遣(おいや)ってお女郎(じょろう)にしてしまうからと、それはそれは厳しいお触(ふれ)で御座います。」
 種彦初め一同は一時に酒の酔を醒(さ)ましてしまった。女中はもう涙をほろほろ滾(こぼ)しながら相手選ばず事情を訴えようとする。
「お上(かみ)の旦那衆もあんまりお慈悲がなさすぎるでは御座いませんか。こうして手前供(ども)がお茶屋へ奉公いたしておりますのをどうやら好きこのんで猥(みだ)らな事でもいたすように仰有いますが、まアお聞きなすって下さいまし。こうして私がお茶屋奉公でもいたさなければ、母親(ははおや)や亭主が日干しになってしまうので御座います。亭主は足腰が立ちませんし母親は眼が不自由な因果な身の上で御座ります……。」
 先ほど手を鳴らし立てた元気は何処へやら、一同は左右から女中をいい慰め一刻も早くこの場を立去るより仕様がない。わずかにその場の空腹をいやすためもう誂えべき料理とてもない処から一同は香物(こうのもの)に茶漬をかき込み、過分の祝儀(しゅうぎ)を置いてほうほうの体(てい)で菜飯茶屋(なめしぢゃや)の門(かど)を出たのである。
「種員さん、いよいよ薄気味の好(よ)くねえ世の中になって来たぜ。岡場所は残らずお取払い、お茶屋の姐さんは吉原へ追放、女髪結(かみゆい)に女芸人はお召捕り……こうなって来ちゃどうしてもこの次は役者に戯作者(げさくしゃ)という順取(じゅんどり)だ。」
「こうこう仙果さん。大きな声をしなさんな。その辺に八丁堀(はっちょうぼり)の手先が徘徊(うろつ)いていねえとも限らねえ……。」
「鶴亀々々(つるかめつるかめ)。しかし二本差した先生のお供をしていりゃア与力(よりき)でも同心(どうしん)でも滅多(めった)な事はできやしめえ。」と口にはいったけれど仙果は全く気味悪そうに四辺(あたり)を見廻さずにはいられなかった。
 それなり種彦を初め一同は黙然(もくねん)として一語をも発せず、訳もなく物に追わるるように雷門の方へ急いで歩いた。

 久しぶりの散歩に思の外(ほか)の疲労(つかれ)をおぼえ、種彦はわが家に帰るが否や風通しのいい二階の窓際に肱枕(ひじまくら)してなおさまざまに今日の騒ぎを噂(うわさ)する門人たちの話を聞いていたが、する中(うち)にいつか知らうとうとと坐睡(まどろ)んでしまった。
 疲れ果てた戯作者(げさくしゃ)の魂は怪し気なる夢の世界へとさまよい出したのである。
 最初に門人らの話声が近くなり遠くなりして、いかにも懶(ものう)くまた心地よく耳許に残っていたが、いつか知ら風の消ゆるが如く潮(うしお)の退(ひ)く如くに聞えなくなってしまうと、戯作者の魂は忽(たちま)ちいずこからとも知れず響いて来る幽(かすか)な金棒(かなぼう)の音を聞付けた。今時分(いまじぶん)不思議な事と怪しむ間もなく、かの金棒の響は正(まさ)しく江戸町々の名主(なぬし)が町奉行所からの御達(おたっし)を家ごとに触れ歩くものと覚しく、彼方(かなた)からも此方(こなた)からも互(たがい)に相(あい)呼応しつつさながら嵐(あらし)の如くに湧起(わきおこ)って来るのである。それと共に突然川水の流るる音が訳(わけ)もなく高まり出した。種彦は屋根船の中に揺られながら眠っているような心持もすれば、また高い青楼(せいろう)の二階の深い積夜具(つみやぐ)の中にふうわりと埋(うず)まっているような心地もする。とにかく驚いて顔を上げると、自分の身体(からだ)のある処よりも遥(はるか)に低く、雨気(あまけ)を帯びた雲の間をば一輪の朧月(おぼろづき)が矢の如くに走っているのを見た。町の木戸が厳重に閉されていて番太郎(ばんたろう)の半鐘(はんしょう)が叩(たた)く人もいないのに独(ひとり)で勝手に鳴響いている。種彦は唯ただ不審の思(おもい)をなすばかり。通過ぎる人でもあらば聞質(ききただ)したいと消えかかる辻番所(つじばんしょ)の燈火(あかり)をたよりに、頻(しきり)と四辺(あたり)を見廻すけれど、犬の声ばかりして人影とては更にない。何となく胸騒ぎがして何処へという当もなく一生懸命に駈出(かけだ)し初めると、忽ち目の前に大きな橋が現われた。種彦は足にまかせて瞬時も早く橋を渡り過ぎようとすると、突然後(うしろ)から両方の袂(たもと)をしっかりと押えて引止めるものがある。何者かと思って振返ると、心中でも仕損じた駈落者(かけおちもの)とおぼしく、橋際(はしぎわ)へ晒者(さらしもの)になっている二人の男女があって、その両手は堅く縛(いまし)められている処から一心に種彦の袂をば歯で啣(くわ)えていたのであった。あまりの気味悪さに覚えず腰なる一刀を抜手(ぬくて)も見せずに切放すと二つの首は脆(もろ)くも空中に舞飛んで鞠(まり)の如くにころころと種彦の足許に転落(ころげお)ちる。その拍子にふと見れば、こはそも如何(いか)に男は間違(まが)う方(かた)なく若旦那柳絮(りゅうじょ)、女はわが家に隠匿(かくま)ったお園(その)ではないか。しまった事をした。情ない事をした。許してくれと、種彦は地に跪(ひざま)ずいて落ちたる二つの首級を交々(かわるがわる)に抱上げ活(い)ける人に物いう如く詫(わ)びていると、何時(いつ)の間にやら、お園と思ったその首は幾年か昔己(おの)れが西丸(にしのまる)のお小姓を勤めていた時、不義の密通をした奥女中なにがしの顔となり、また柳絮と思ったその首は幾年の昔堺町(さかいちょう)の楽屋(がくや)新道辺(じんみちあたり)で買馴染(かいなじ)んだ男娼(かげま)となっていた。再び恟(びっく)りして二つの首級をハタと投出し唯茫然(ぼうぜん)としてその場に佇立(たたず)んでしまうと、いつの間(ま)に寄集って来たものか、菰(こも)を抱えた夜鷹(よたか)の群(むれ)が雲霞(うんか)の如くに身のまわりを取巻いていて一斉に手を拍(う)って大声に笑い罵(ののし)るのである。しかも種彦の眼には数知れぬ夜鷹の顔がどうやら皆一度はどこかで見覚えのある女のように思われた。恐ろしいやら気味悪いやら、種彦は狂気の如く前後左右に切退(きりの)け切払い、やっとの事で橋の向うへと逃げのびたが、もう呼吸(いき)も絶え絶えになるばかり疲れ果て有合う捨石(すていし)の上に倒るるように腰を落した。
 幸い四辺(あたり)は静で、もう此処(ここ)までは追掛けて来るものもないらしい。朧月の光が軟(やわらか)に夜の流(ながれ)を照している。種彦は初めてほっと吐息を漏(もら)し、息切れのする苦しさに石垣の下なる杭(くい)につかまり身を這(は)わせるようにして掌(てのひら)に夜の流を掬上(くみあ)げようとすると、偶然にも木(こ)の葉(は)のように漂って来る一箇(ひとつ)の杯(さかずき)。今の世に何人(なんびと)の戯れぞ。紀文(きぶん)が杯流(さかずきなが)しの昔も忍ばるる床(ゆか)しさと思う間(ま)もなく、早や二、三艘(そう)の屋根船が音もなく流れて来て石垣の下なる乱杭(らんぐい)に繋(つな)がれているではないか。閉切った障子の中には更に人の気勢(けはい)もないらしいのに唯だ朗かに河東節(かとうぶし)「水調子(みずちょうし)」の一曲が奏(かなで)られている。種彦は先ほどの恐ろしい光景をも全く忘れてしまい今は何という訳(わけ)もなく二十歳(はたち)の若い姿を朧夜(おぼろよ)の河岸(かわぎし)に忍ばせて、ここに尋ね寄る恋人を待構えるような心持になっていた。
 果せるかな。忽然(こつぜん)川岸づたいに駈(か)け来る一人の女がハタとわが足許に躓(つまず)いて倒れる。抱(いだ)き起しながら見遣(みや)れば金銀の繍取(ぬいとり)ある裲襠(うちかけ)を着横兵庫(よこひょうご)に結った黒髪をば鼈甲(べっこう)の櫛笄(くしこうがい)に飾尽(かざりつく)した傾城(けいせい)である。いかなる訳あって夜道を一人何処(いずこ)へといたわりながら聞く間(ま)もおそし、後(うしろ)から飛んで来る追手(おって)の二、三人、物をもいわず裲襠を剥取(はぎと)ってずたずたに引裂き鼈甲の櫛笄や珊瑚(さんご)の簪(かんざし)をば惜気(おしげ)もなく粉微塵(こなみじん)に踏砕(ふみくだ)いた後(のち)、女を川の中へ投込んだなり、いかにも忙(せわ)しそうに川岸をどんどん駈けて行く。種彦はあまりの事に少時(しばし)はその方を見送ったなり呆然(ぼうぜん)として佇立(たたず)んでいたが、すると今までは人のいる気勢(けはい)もなかった屋根船の障子が音もなく開(あ)いて、
「先生。柳亭先生。お久ぶりで御座ります。」と親し気に呼びかける男の声。見れば濃い眉(まゆ)を青々と剃(そ)り眼の大きい口尻の凛々(りり)しい面長(おもなが)の美男子が、片手には大きな螺旋(ねじねじ)の煙管(きせる)を持ち荒い三升格子(みますごうし)の褞袍(どてら)を着て屋根船の中に胡坐(あぐら)をかいていると、その周囲(まわり)には御殿女中と町娘と芸者らしい姿した女がいずれ劣らずこの男に魂までも打込んでいるという風にしなだれ掛っていた。種彦驚き、
「これはお珍しい。貴公は木場(きば)の白猿子(はくえんし)では御座らぬか。」
「いかにも七代目海老蔵(しちだいめえびぞう)に御座います。久しくお目にかかりませぬが先生には相変らず御壮健恐悦(きょうえつ)至極(しごく)に存じます。」
「いや、拙者なぞもこの時節がらいつどのような御咎(おとがめ)を蒙(こうむ)る事やら落人(おちうど)同様風の音にも耳を欹(そばだ)てています。それやこれやでその後はついぞお尋ねもせなんだがこの間はまたとんだ御災難。とうとうお江戸構いとやら聞きましたが思掛けない今時分どうして此処(ここ)へはお出でなすった。」
「その不審は御尤(ごもっと)も。実は今日(こんにち)まで先祖の菩提所(ぼだいしょ)なる下総(しもうさ)の在所(ざいしょ)に隠れておりましたが是非にも先生にお目にかかり、折入ってお願い致したい事が御座りまして、夜中(やちゅう)そっと中川(なかがわ)の御番所(ごばんしょ)をくぐり抜けわざわざ爰(ここ)までやって参りました。」
「はて拙者のようなものに折入ってお頼みとは。」
「外(ほか)の事でも御座りませぬ。あれなる二艘(そう)の屋根船に積載(つみの)せました金銀珠玉の事で御座ります。実は当年四月木挽町(こびきちょう)の舞台にて家の狂言「景清(かげきよ)」牢破(ろうやぶ)りの場を相勤めおりまする節突然御用の身と相(あい)なり、遂に六月二十二日北御番所のお白洲(しらす)にて役者海老蔵事(こと)身分を弁(わきま)えず奢侈僣上(しゃしせんじょう)の趣(おもむき)不届至極(ふとどきしごく)とあって、家財家宝お取壊(とりこわし)の上江戸十里四方御追放仰付(おおせつけ)られましたが、いずれはかようの御咎(おとがめ)もあろうかと木場(きば)の住居(すまい)お取壊に相ならぬ中(うち)、弟子どもが皆それぞれに押隠しました家の宝、それをば取集め、あれなる船に積載せて参った次第で御座ります。先生へ折入ってお願と申(もうし)まするは何(なに)とぞあれなる宝をばいかようにも致し、後の世まで残しお伝え下さるよう御計らいなされては下さるまいか。諸行(しょぎょう)無常は浮世のならい某(それがし)の身の老朽(おいく)ち行くは、さらさら口惜(くちお)しいとも存じませぬが、わが国は勿論(もちろん)唐天竺(からてんじく)和蘭陀(オランダ)におきましても、滅多(めった)に二つとは見られぬ珊瑚玳瑁(たいまい)ぎやまんの類(たぐい)、または古人が一世一代(いっせいちだい)の名作といわれた細工物はいかにお上の御趣意とは申ながらむざむざと取壊されるがいかにも無念で相なりませぬ。人の生命(いのち)にはまた生れ替る来世とやらも御座いましょうが、金銀珠玉の細工物は一度壊されては再(ふたたび)この世には出て参りませぬ。先生。海老蔵が折入って御願いと申まするは斯様(かよう)の次第で御座ります。」
 言う言葉と共に海老蔵を載せた屋根船はおのずと岸を離れ、見る見る狭霧(さぎり)の中に隠れて行く。種彦はまア暫(しばら)く暫くと声を上げ、岸の上をば行きつ戻りつ、消え行く舟を呼び戻そうとしていると、忽(たちま)ち生暖(なまあたた)かい風がさっと吹き下りて、振乱す幽霊の毛のように打なびく柳の蔭(かげ)からまたしても怪し気なる女の姿が幾人(いくたり)と知れず彷徨(さまよ)い出(い)で、何ともいえぬ物哀(ものあわれ)な泣声を立て、糸のように痩(や)せた裸足(はだし)のまま頻(しきり)と地上に落ちた何物かを拾い上げては限りもなくさめざめと泣き沈むありさま、何事の起ったのかと種彦はふと心付けばわが佇(たたず)む地の上は一面に踏砕(ふみくだ)かれた水晶瑪瑙(めのう)琥珀(こはく)鶏血(けいけつ)孔雀石(くじゃくせき)珊瑚(さんご)鼈甲(べっこう)ぎやまんびいどろなぞの破片(かけら)で埋(うず)め尽(つく)されている。そして一足でも歩もうとすればこれらの打壊された宝玉の破片は身も戦慄(おのの)かるるばかり悲惨な響(ひびき)を発し更に無数の破片となって飛散る。その度(たび)ごとに女の群(むれ)はさもさも恨めし気に此方(こなた)を眺めては、身も世もあられぬように声を立てて泣くのである。種彦も今は覚えず目がくらんでそのまま水中に転(まろ)び落ちてしまった。彼方(かなた)に流され此方(こなた)へ漂いする中(うち)に、いつか気も心もつかれ果て、遂に脆(もろ)くも瞼(まぶた)を閉じ水底(みずそこ)深く沈んで行った。かと思うとやがて耳許(みみもと)に聞馴(ききな)れた声がして、頻(しきり)と自分を呼びながら身体(からだ)を揺動(ゆりうご)かすものがある。ふッと眼を開けば何事ぞ、埒(らち)もない一場の夢はここに尽きて老いたる妻がおのれを呼覚(よびさま)しているのであった。
 なるほど水の中に沈んだと思ったのも無理はない。秋の夕陽(ゆうひ)は欄干(てすり)の上にさし込んでいて、吹き通う風の冷さに蔽(おお)うものもなく転寐(うたたね)した身体中は気味悪いほど冷切(ひえき)っているのである。種彦は二度も三度もつづけざまにする嚔(くさめ)と共にどうやら風邪(かぜ)を引込んだような心持になった。

 家ごとに焚(た)く盂蘭盆(うらぼん)の送火(おくりび)に物淋(ものさび)しい風の立初(たちそ)めてより、道行く人の下駄(げた)の音夜廻りの拍子木犬の遠吠(とおぼえ)また夜蕎麦売(よそばうり)の呼声にも俄(にわか)に物の哀れの誘われる折から、わけても今年は御法度(ごはっと)厳しき浮世の秋、朝な夕なの肌寒さも一入(ひとしお)深く身に浸(し)む七月の半(なかば)過ぎ。偐紫楼(にせむらさきろう)の燈火(ともしび)は春よりも夏よりも徒(いらずら)にその光の澄み渡る夜(よ)もやや深(ふ)け初(そ)めて来た頃であった。主人(あるじ)はいつぞや怪しき昼寐(ひるね)の夢から引込んだ風邪の床(とこ)に今宵(こよい)もまだ枕(まくら)についたまま、相(あい)も変らずおのが戯作(げさく)のあれこれをば彼方(かなた)を一、二枚此方(こなた)を二、三枚と読返していた折から、突然愛雀軒(あいじゃくけん)と題した彼(か)の風雅な庭木戸を叩(たた)いたものがある。茶の間(ま)の長火鉢(ながひばち)に妙振出(みょうふりだ)しを煎(せん)じていた妻何心もなく取次に出て見ると、堀田原(ほったわら)の町名主(まちなぬし)を案内にして仲間(ちゅうげん)に提灯(ちょうちん)持たせた中年の侍(さむらい)、小普請組(こぶしんぐみ)組頭(くみがしら)よりの使者と名乗って一封の書状を渡して立去る。と間(ま)もなく横山町辺(よこやまちょうへん)の提灯をつけた辻駕籠(つじかご)一梃(いっちょう)、飛ぶがように駈来(かけきた)って門口(かどぐち)に止(とどま)るや否や、中から転出(まろびいづ)る商人風(あきうどふう)の男、「先生は御在宅でいらっしゃいますか。鶴屋喜右衛門(つるやきうえもん)の手代(てだい)で御座います。」と声もきれぎれに言うのであった。手代は主人(あるじ)の寝所に通って何やら密談に耽(ふけ)った後(のち)門外に待たせた辻駕籠に乗って再び何処(いずこ)へか飛び去ってしまったが、それからというもの偐紫楼の家の内は俄(にわか)に物気立(ものけだ)って、咳嗽(せき)を交(まじ)うる主人(あるじ)の声と共にその妻の彼方此方(かなたこなた)と立働くらしい物音が夜の深(ふ)け渡るまでも止(や)まなかった。
 丁度その刻限、そんな騒ぎのあろうとは露知らぬが仏、門人の柳下亭種員(りゅうかていたねかず)は新吉原(しんよしわら)の馴染(なじみ)の許(もと)に泊っていたのである。竹格子(たけごうし)の裏窓を明けると箕輪田圃(みのわたんぼ)から続いて小塚原(こずかっぱら)の灯(あかり)が見える河岸店(かしみせ)の二階に、種員は昨日(きのう)の午過(ひるすぎ)から長き日を短く暮す床(とこ)の内、引廻した屏風(びょうぶ)のかげに明六(あけむ)ツならぬ暮の鐘。敵娼(あいかた)の女が店を張りにと下りて行った隙(すき)を窺(うかが)い薄暗い行燈(あんどう)の火影(ほかげ)に頻(しきり)と矢立(やたて)の筆を噛(か)みながら、折々は気味の悪い思出し笑いを漏(もら)しつつ一生懸命に何やら妙な文章を書きつづっていた。種員は草双紙(くさぞうし)類御法度(ごはっと)のこの頃いよいよ小遣銭にも窮してしまったため国貞門下の或(ある)絵師と相談して、専ら御殿奉公の御女中衆(おじょちゅうしゅう)が貸本屋の手によってのみ窃(ひそか)に購(あがな)い求めるという秘密の文学の創作を思い立ったのであった。
 早や大引(おおびけ)とおぼしく、夜廻(よまわり)の金棒(かなぼう)の音、降来る夕立のように五丁町(ごちょうまち)を通過ぎる頃、屏風の端(はし)をそっと片寄せた敵娼(あいかた)の華魁(おいらん)、
「主(ぬし)ァ、まだ起きていなんしたのかい。おや何を書いていなます。何処(どこ)ぞのお馴染へ上げる文(ふみ)でありんしょう。見せておくんなんし。」と立膝(たてひざ)の長煙管(ながぎせる)に種員が大事の創作をば無造作に引寄せようとする。種員驚き、
「華魁、文じゃねぇ、悪く気を廻しなさんな。疑るなら今読んで聞かせやしょう。だがの、華魁。あんまり身を入れて聞きなさると、とんだ勤めの邪魔になりやす。」
 こんな口説(くぜつ)よろしくあって、種員は思いも掛けぬ馬鹿に幸福(しあわせ)な一夜を過し翌朝(あくるあさ)ぼんやり大門(おおもん)を出たのであった。
 土手八丁(どてはっちょう)をぶらりぶらりと行尽(ゆきつく)して、山谷堀(さんやぼり)の彼方(かなた)から吹いて来る朝寒(あさざむ)の川風に懐手(ふところで)したわが肌の移香(うつりが)に酔(え)いながら山(やま)の宿(しゅく)の方へと曲ったが、すると丁度その辺は去年の十月火災に罹(かか)った堺町(さかいちょう)葺屋町(ふきやちょう)の替地(かえち)になった処とて、ここに新しい芝居町(しばいまち)は早くも七分通(しちぶどおり)普請を終えた有様である。中村座(なかむらざ)と市村座(いちむらざ)の櫓(やぐら)にはまだ足場がかかっていたけれど、その向側の操人形座(あやつりにんぎょうざ)は結城座(ゆうきざ)薩摩座(さつまざ)の二軒ともに早やその木戸口に彩色の絵具さえ生々しい看板と当(あたる)八月(はちがつ)より興業する旨の口上(こうじょう)を掲げていた。されば表通り軒並の茶屋はいずれも普請を終って今が丁度移転(ひっこし)の最中(さいちゅう)と見える家(うち)もあった。彼方此方(かなたこなた)に響く鑿金槌(のみかなづち)の音につれて新しい材木の脂(やに)の匂(におい)が鋭く人の鼻をつく中をば、引越の荷車は幾輛(いくりょう)となく三升(みます)や橘(たちばな)や銀杏(いちょう)の葉などの紋所(もんどころ)をつけた葛籠(つづら)を運んで来る。あちこちと往来(ゆきき)する下廻(したまわり)らしい役者の中にはまだ新しい御触(おふれ)が出てから間(ま)もない事とて、市中と芝居町との区別を忘れて、後生大事に冠(かむ)ったままの編笠(あみがさ)を取らずに歩いているものもあった。それが見馴(みな)れぬ目にはいかにも不思議に思われるのであった。
 種員はつい去年の今頃までは待乳山(まつちやま)の樹(き)の茂りを向うに見て、崩れかかった土塀の中には昼間でも狐(きつね)が鳴いているといわれた小出伊勢守様(こいでいせのかみさま)の御下屋敷(おしもやしき)が、瞬(またた)く中(うち)に女形(おやま)の振袖(ふりそで)なびく綺羅(きら)音楽の巷(ちまた)になったのかと思うと、この辺の土地をばよく知っている身には全く狐につままれたよりもなお更不思議な思(おもい)がして、用もないのに小路(こうじ)々々の果までを飽きずに見歩いた後、やがて浅草(あさくさ)随身門(ずいじんもん)外(そと)の裏長屋に呑気(のんき)な独世帯(ひとりじょたい)を張っている笠亭仙果(りゅうていせんか)の家(うち)へとやって来た。仙果は何処へか慌忙(あわ)てて出て行こうとする出合頭(であいがしら)朝帰りの種員を見るや否や、いきなりその胸倉を取って、「乃公(おら)ア今お前(めえ)を捜(さが)しに行こうと思っていた処だ。気をたしかにしな。気をたしかにしな。」
「こう仙果さん。どうしたもんだな。お前(めえ)こそ気でもちがったんじゃねえか。痛(いて)え痛え。まア放してくんな。懐中(ふところ)から大事な書きものがおっこちるぜ。」
「気をたしかにしなせえ。腰でも抜かさぬように用心したがいいぞ。堀田原(ほったわら)の師匠がの、今朝おなくなりになったのだ。」
 唖然(あぜん)としていう処を知らぬ種員に向って仙果は泣く泣く一伍一什(いちぶしじゅう)を語り聞かせた。
 柳亭種彦先生は昨夜の晩おそく突然北御町奉行所よりお調(しらべ)の筋があるにより今朝五ツ時(どき)までに通油町(とおりあぶらちょう)地本問屋(じほんどんや)鶴屋喜右衛門(つるやきうえもん)同道にて常磐橋(ときわばし)の御白洲(おしらす)へ罷出(まかりで)よとの御達(おったし)を受けた。それがためか、あらぬか、先生は今朝方(けさがた)御病中の髪を結直(ゆいなお)しておられる時突然卒中症(はやうちかた)に襲われ、
散るものに極(きわま)る秋の柳かな
という辞世の一句も哀れや六十一歳を一期(いちご)として溘然(こうぜん)この世を去られた。
 種員は頬冠(ほおかむ)りにした手拭(てぬぐい)のある事さえ打忘れ今は惜気(おしげ)もなく大事な秘密出版の草稿に流るる涙を押拭った。そして仙果諸共(もろとも)堀田原をさして金竜山(きんりゅうざん)の境内を飛ぶがごとくに走り行く。
大正元年初冬稿
了

底本:「雨瀟瀟・雪解 他七篇」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年10月16日第1刷発行
   1991(平成3)年8月5日第6刷発行
底本の親本:「荷風小説 四」岩波書店
   1986(昭和61)年8月8日
初出:「三田文学」
   1913(大正2)年1月、3月、4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)」となっています。
※初出時の表題は「戯作者の死」です。
入力:入江幹夫
校正:酒井裕二
2018年5月27日作成
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