あらすじ
「観想の時」は、北原白秋が晩年の風景を、静かで鋭い感性で描写した長歌作品です。冬の厳しい寒さの中、雪深い山々や荒波、そして静寂に包まれた自然の中で、作者は様々な情景を目に焼き付け、その美しさ、厳しさ、そして儚さを深く感じ取っていきます。雄大な自然の中に生きる小さな生命の姿、そして移りゆく季節の移ろい、それら全てに作者は深い愛情と共感を抱き、時に喜び、時に哀しみ、時に静かに見守る姿を、繊細な言葉で表現しています。
 天地(あめつち)の闢(ひら)けしはじめ、成り成れる不尽の高嶺(たかね)は白妙の奇しき高嶺、駿河甲斐二国(ふたくに)かけて八面(やおもて)に裾張りひろげ、裾広に根ざし固めて、常久に雪かつぐ峰、かくそそり聳やきぬれば、厳(いか)しくも正(たゞ)しき容(かたち)、譬ふるに物なき姿、いにしへもかくや神さび神ながら今に古りけむ。たまたまに我や旅行き、行きなづみ振さけ見れば、妻と来てつつしみ仰げば、あなかしこ照る日もわかず、暮れゆけば雲巻き蔽ひ、霹靂(はたゝがみ)はためくさへに、稲光青(さを)の火柱、火ばしらの飛ぶ火のただち、また、とどろ雹ぞ飛びたる。御殿場のここの駅路(うまやじ)、一夜寝て午夜(ごや)ふけぬれば、まだ深き戸外(とのも)の闇に、早や目ざめ猟犬(かりいぬ)が群、勢(きほ)ひ起き鎖曳きわき、跳(おど)り立ち啼き立ち急(せ)くに、朝猟の公達か、あな、ひとしきり飛び連れ下りる騒(さう)ぞきの、さて出立(でた)つらむ。けたたましく自動車の鳴り爆(は)ぜる音、咽喉太(のどぶと)の唸り笛さへ凝(こ)り霜の夜凝(よご)りに冴えて、はた、ましぐらに何処(いづく)へか駈け去りぬ。底冷(そこび)えの戸の隙間風、さるにても明け近からし。目のさめて明告鳥(あけつげどり)の息長に啼き呼ばふ声、そことなく応(こた)ふる声の裾野原揺りどよもすに、おのづ覚め我は在りけり、目はさめて我もありけり。つくづくと首延(の)し見れば、こちごちの濃霧(こぎり)のなびき、渓の森、端山の小襞(こひだ)黒ぐろとまだ気(け)ぶかきに、びようびようと猛ける遠吠、をりからの暁闇(あかつきやみ)を続け射つ速弾(はやだま)の音。たださへも益良夫ごころ溢れ揺り抑へもあへぬを、見透かせば渦巻く霧の瑠璃雲の漂ひが上、数かぎりなき糠星の瓔珞の中(うち)、あなあはれ不尽の高嶺ぞ、白妙の不尽の高嶺ぞ、今し今、一きは清き紫の朝よそほひに出で立ち立てり。夢か、こは、まことなりけり。夢ならず、現(うつつ)なりけり。起きよ起きよ。まことこれ日の本の不尽、木花咲耶姫の神、神しづまりに鎮まらす不尽の御嶽(みたけ)ぞ、見よ目に見えて近ぢかと明け初むるなれ。起きよとて妻揺りたたき、目ざめよとまた呼び覚まし、口漱ぎ、さて、身をきよめ、さむざむと袂合はし、しみじみと二人い寄り、ひたすらにかくて見恍(ほ)れぬ。時ありぬ。やや時経れば、ほのぼのとして薄明る山際(やまぎは)の色、黎明(しののめ)の薄樺いろに焼け明るその静けさに、日出づる前か、明鴉かをかをと二羽連れだちて羽風切る、その羽裏いよよ染みたり。はたはたと山鳩もまた二羽競ひ行く。観る人も妻とし見れば飛ぶ鳥も連るるものかも、うれしやと妻は見て云ふ、我もまた微笑みて見つ。さるからに、薄紅き蓮華の不尽の隈ぐまの澄み明りゆく立姿、頂(いたゞき)の辺(べ)は更にも紅(あか)く、つや紅く光り出でたれ。よく見ればその空高く、かすかにも靡くものあり。高うして吹雪すらしか、かすかにも雪煙立ち、その煙絶えずなびけり。いよいよに紅く紅く、ひようひようと立ちのぼる雪の焔の天路(あまぢ)さしいよよ尽きせね、消えてつづき、消えてつづけり。あなあはれ、かのいつくしさ、このかうかうしさ。眺むれば見れども飽かず、言(こと)にさへ筆にさへ出ね。あなかしこ、不尽の高嶺は日の本の鎮めの高嶺、神ながら奇(くす)しき高嶺、この高嶺まれに仰ぎてこの朝新(あしたあらた)にぞ見て、この我や、ただこの妻と、ただ得も云へず涙しながる。


 上つ毛の加牟良(かむら)の北に天(あま)そそる妙義荒船、遥(はろ)ばろと眺めに出(づ)れば、この日暮ふりさけ見れば、いや遠し、遠き山脈(やまなみ)、いや高し高き山脈(やまなみ)、いやが上(へ)に空に続きて、いや寒く襞(ひだ)を重ねて、幾重ね、幾畳(たたなは)り、末(すゑ)遂に雲居にぞ入る。かりそめの旅にはあれど、夕されば内にも堪へず、外(と)に出でてひとりありけり。向ひ吹く川の瀬の風、川風の吹きの凍(こご)えに我が向ひ辿る高崖、遥か見る北の山脈。冬も早や絹のつや雲、巻雲の巻きのなびきに、氷凝(ひこ)り雲層雲(かさぐも)の群、重ね雲、寂び金の雲、下明(あか)り雲ともわかず、薄ぎらひ山ともわかず、たださへも現(うつつ)ならぬを、たださへも果てしわかぬを、日の射すか末広の虹幾すぢか透きて落せり。かうがうしその薄光、寂び寂びしプラチナのすぢ、濃き淡き峰の畳みに、引きちがふ山の小襞に、また雨と和(なご)み注げり、柔かき金色の霧。あな遠し遠き山脈、あな高し高き山脈、立ちとまり見れども消えず、目ふたぎて傷めど尽きず、目翳(まか)げして遥けみ見れば、いや寂し薄き陽(ひ)の虹、また見ればさらに彼方に、いや高き連山(つらやま)の雪、いや遠き連山(つらやま)の雪、ひえびえと、つぎつぎと、続きつづきて耀(かゞや)きいでぬ。


 わが門(かど)の竹の林に、曼珠沙華赤く咲きたり。竹の根の一つ一つに、この華(はな)や六つ七つづつ、日に増しに数かさみゆく。怪しくも赤き巻髭、髭細の蓮華なす華(はな)、咲き盛るその華見れば、おのづから秋も澄みけり、いよいよに風も寂(さ)びけり。隣り寺、寺の古墓、日あたりは未(ま)だも暑けど、墓掃くとかがむ影すら、阿閼汲むと寄るすらも無し。あなあはれ、摩訶曼珠沙華、出で入るとひとり眺めて、時をりは妻と眺めて、昨日(きのふ)ゆかいよよ殖(ふ)えしと、まだ今日も赤しとぞ見る。孟宗のしだれ笹ゆゑ、陽(ひ)は射(さ)せどいぶせき籔を常くぐり我は在りけり。わびしけど遊び馴れけり。山住の心安さは籔越しに浪の音聴き、里囃子うれしとも聴け、施餓鬼過ぎ流石さびしく、人訪はぬ今は堪へえね、また出でて竹の根見れば曼珠沙華赤く赤きに、ちらと向き、釣眼(つりめ)野狐、うしろ向き尖り口して、小籔吹き、吹き吹く風に、日の暮に、あな、飛び飛びて消えつつ失せぬ。


 雨あとの竹の林に、夕あかりかがよふ見れば、その竹の湿(しめ)る根ごとに、何か散り、深く光れり。その節のひとつひとつに、何かまた溜り光れり。其笹のさみどりの葉に、何かまた揺れて光れり。金色(こんじき)のその光るもの、こまごまと目に染(し)みるもの、雨ふりてあかれるのちは、とりわけて揺れてうつくし、寂しくて見てゐるきははいよいよに消えてうつくし。揺るるともただ見て居(を)らむ、消ゆるともまた見て居らむ、堪へ堪へて日の暮るるまで、なほなほに寂しがりつつ。わが宿の竹の林の夕あかり、裏山松の松風も聴けば親しさ。


 蜩(かなかな)の啼き連るるなり。二つなり。啼き連るるなり。その二つ啼きやめばまた、こなたより啼きしきるなり。ただ一つ啼きしきるなり。孟宗の片日射なり。山松の遠日射なり。かなたには輝りきらふ海、こなたにはわたる山霧、山ぎりに山の施餓鬼のほとほとに果つる頃なり。金色(こんじき)に秋の日射の斜なし澄みとほる中、蜩(かなかな)は啼きしきるなり。急(せ)き急(せ)きて啼き刻むなり。二つ啼き、一つ啼き、また、こもごもに啼き速(はや)むなり。

蜩が二つ啼きまた一つがこもごもに
 ねもごろの日のあたりかも。そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅の傍に斑牛(まだらうし)ひとり居りけり。安らかに繋がれてけり。山峡の湯どころの秋。出(で)て見れば、下の小橋を杖つきて渡る子もあり。垂稲の黄ばむ田づらはをりふしに雀むれ立ち、道ぞひの茅屋の庭に白菊の盛り見せたる、胡麻と栗並べ干したる暇(いとま)ある心に見ればなかなかに今日は安けし。向つべに日のかげる山、なほ明(あか)く温かき山、その空の白き綿雲、ちろちろと渡る禽(とり)さへなかなかにあはれとも見れ。妻と来て、二人来て、七日まり住み馴れてのち、やうやうに紅葉(もみぢ)色づく遠近(をちこち)のこの眺めなる。あなあはれ、ねもごろの日のあたりかも。そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅のかげに斑牛ひとり居りけり。繋がれてただねんねんと草食(は)みにけり。


 秋山のなぞへの薄(すすき)ひとつらね揺りかがやけり。秋山の名も無き山の草山の山の端薄(はすすき)、その穂の薄揺りかがやけり。この夕、出(い)でて見て、岨(そば)ゆ見て、丸木橋妻と渡りて、また見ればまだかがやけり。その薄刈る人もあり。また負ひて下り来るもあり。下りて来て、行きすぎざまにさわさわと背(そびら)見せゆく、さわさわの背(そびら)の薄またかがやけり。雲白くうかべる峡の日屯(ひだむろ)の空間(そらあひ)の中、こまごまと飛べる羽虫も、よく見れば一つ一つに命あり、舞ひ立ち光る。閑(しづ)かなり、ただ安らなり。まだ深き日のあたりなる。暑からず、寒くしもなく、まだ温(ぬく)き日のかげりなる。湯どころのうしろの山の秋山のその柔かき草山のこのもかのもにさわさわと音する薄、穂薄の、今日来て見れば、揺りかがやけり。あなあはれ、我も見て、妻も出て、二人ながむるさわさわ薄、そのさわさわ薄。


 わが宿の岡のなぞへに杉いくつ屯(たむろ)せりけり、せうせうと屯(たむろ)せりけり。鉾杉のひとむら木立鉾杉の鉾を並べて、この朝明(あさけ)しぐるる見れば、霧ふかく時雨るる見れば、うち霧らひ、霧立つ空にいや黒くその秀(ほ)うかび、いや重く下べ鎮(しづ)もり、いや古く並び鎮もる、凡(なべ)てこれ墨の絵の杉、見るからに寒し厳(いつ)かし、かうがうし、寂(さび)し崇高(けだか)し。あなあはれ、岡の鉾杉、をちこちの小竹(ささ)のむら笹、柿もみぢ、梅が枝(え)の蔦、とりどりに色に出づれど、神無月すゑの時雨に濡れ濡れてその葉枯れず、落葉せず、透かず、薄れず、ただ上(うは)べわづか赭(あか)みて天鵞絨(びろうど)の焦茶いろすれ、深(ふか)ぶかと黒くか青く、常久に古び鎮(しづ)もる。寂しくも寂しき姿、堪へ堪へて常立つ心。あなあはれ冬の鉾杉、海ちかき岡の鉾杉、鉾杉の渦(うづ)成(な)す霧に、涯(はて)知れぬ海も見わかず、ひさかたの空もえわかね、時をりは渡りの鳥のはぐれ鳥(どり)ちりぢりと落ち、羽重(はねおも)の一羽鴉も飛びなづみややに来て揺る。あなあはれ、雨の鉾杉、見てあれば幽(かす)かに揺れて、ふる雨に幽かに揺れて、ただせうせうと音たてにけり。


 伝肇寺(でんでうじ)、小(ち)さき古寺、此寺の山の墓場に、榧(かや)と栗並び立ちたり。並び立ちともに老いたり。榧の木は栗の木のそば、栗の木は榧のかたへにさびさびて、すでに老いたり。その榧よいつよりか老い、この栗よいつよりか立つ。榧と栗さびにさびつれ、なほし未(ま)だ花は咲きけり。年ごとに花はつけけり。榧の木はかすかなる花、栗の木は露(あら)はなる花、その榧に小(ち)さき榧の実、この栗に栗の青毬、風吹けば実さへ毬さへまたいつかこぼれこぼれぬ。枯れ枯れて土にかへりぬ。見る人も知る人もなし。寺まうで墓まうでびと、たまさかに蹲(かが)み通れど、誰ひとり振りは仰がず、誰ひとり眼にもとめねば、ただ二木(ふたき)立てるのみなる、榧と栗さびるのみなる。あなあはれ、榧と栗の木、落葉する栗も寒けど、常青く立てる榧の木、冬の日はことに高しよ。栗の木はいよよ透けれど、榧の木はいよよか黒く、薄日射函根の入陽(いりひ)秀(ほ)に受(う)けてひとり尖(とが)れり。いや黒くひとり堪へたり。雨まじり霙ふる日も風まじり雪の飛ぶ夜も、こごしくも凍(こご)え立ちたり。親しくも立ちて堪へたり。あなあはれ、老木の二木(ふたき)、親しくも並ぶ姿の、寂しくも隣り合ふ木の頼り無き二木を見れば涙しながる。


 さわさわと揺るるものあり。午夜(ごや)ふけて揺るるものあり。わが窓の硝子戸の外(そと)、真透(ますか)せば月に影して凍(こご)え雲絶えず走れり。円かなる望月ながら、生蒼(なまあを)く隈(くま)する月の、傾けばいよよ薄きを、あな寒(さむ)や揺るる竹あり。孟宗の重きしだれの重(かさ)なりのその上(へ)に抜けて、ただひとり揺るる秀(ほ)のあり。目か醒めし、夜風か出でし、さわさわと揺れて遊べり。しだれつつ前にうしろに、照りかげり揺れて遊べり。円(まど)かなる望月ながら生蒼(なまあを)く隈(くま)する月の飛び雲の叢雲(むらくも)が間(あひ)、ふと洩れて時をり急に明るかと思ふ時なり。目に見えてさわさわさわと、照り浮ぶ孟宗の、あな、一きは強き、狐光(きつねびかり)のその月に、さながら生きて踊るかに、近明(ちかあか)りして勢(きほ)ひ舞ふ、かと見れば、また、何か暗く薄かげりして、揺(ゆ)らぎ止み、揺(ゆ)らぎ騒立(さやだ)つ。此夜(よ)さや、夜鳥も啼かず、藪かげの隣(となり)の寺もしんしんと雨戸鎖(さ)したれ。時として川瀬の音(おと)の浪の音(ね)と響き添ふのみ。それもただ遠し、気疎(けうと)し。あなあはれ、この夜の山に、何しらず目のさめしもの、我のみか、揺れそよぐあり。揺れそよぎ、独り遊ぶと、揺れそよぎ、この目の外(そと)に、また、さわさわと音立ててゐる。


 玉くしげ函根の山は短か日のことに短かく、み冬さり霜下(お)り来れば、午(ひる)過ぎて日の目も知らず。向つべの山は明れど、こなたなる高山の岨(そば)、風寒く木の葉ちるのみ。早や早やも土は凝(こご)りて、岩角の犬羊歯が下、枯れ枯れの雑木の根ごと、そくそくと氷柱(つらら)さがれり。ほきほきと、氷柱掻き折り、かりかりと噛みもて行けば、あな冷(つめ)た、つめたかりけり。妻もまた冷(つめ)たよと云ふ。二人ゆく高崖の上、何の枝(え)ぞ透きてこまかにつや黒の果(み)をちらつかす。ふり仰ぎ透かし見すれば、高く澄む空の青きにひえびえといそぐ雲あり、また薄く消ゆるものあり。長尾鳥飛びて叫ぶに行きなづみ、蹲(こご)みてあれば、あなさむや、渓裾紅葉(たにすそもみぢ)鉾杉の暗きを出でて、ひと明(あか)り紅(あか)く燃えたり。その紅葉淵に映れり。人知らぬ寂びと静けさ。その下(しも)に飛び飛びの岩、岩もまた幽(かす)けかりけり。冬はなほ幽けかりけり。あなあはれ、欅の枯木、行き行けば見る眼に聳え、滝落ちてかげり陽(び)迅(はや)し。あなあはれ、山の端薄陽(うすび)。下(しも)見れば早や塔の沢、こちごちに湯の香(か)煙(けぶ)りて、ちらちらと揺るる燈(ひ)の見ゆ。海見えて漁火(いざり)つく見ゆ。この岨や馴れし山岨、遠く来し旅にもあらね、さは急ぐ道にもあらず。我がどちや言(こと)にこそ出(で)ね、今さらの連れにもあらねば、ただ二人ほつりほつりと、日の暮はほつりほつりと、また家路さし下(くだ)るのみなり。下るのみなり。


 丘窪の冬の棚田(たなだ)はねもごろにうれしき棚田。寂び寂びて明るき棚田。たまさかに鶸茶の刈田、小豆いろ、温かきいろ、うち湿(しめ)る珈琲の土(つち)。下田(しもだ)にはいくつ稲村白金(プラチナ)の笠めき和(なご)め、上畑(かみばた)は緑の縞目、わづかにも麦ぞ萠えたる。その畑に動く群禽(むらどり)、つくづくと尾羽根振りては、また空へ飛び立ち翔(かけ)る。あな冷(つめ)た群(むれ)の鶺鴒(せきれい)群れ飛べど目にもとまらず。いづこにか鵯(ひよ)は叫べど、風騒ぐけはひも聴かず。ただ低き日あたりの中、茅屋根の物静かなる、紫に寂び沈みたる、人気なき庭にはあれど、背戸ごとに柿の実も見ゆ。裏丘へのぼる小径(こみち)は孟宗の林に見えて、その籔の上の日向に蜜柑もぐ人もよく見ゆ。声高にさては語りて燧石(ひうち)切る莨火(たばこび)も見ゆ。珍らかにいとど澄めばか、遠近の枯葉のくぬぎ、草もみぢ、耀く薄、おしなべてかくて安(やす)けし。あなあはれ、ここの丘窪、明るけど古さび棚田、うれしけど冬の日棚田、その空に翔(かけ)る群禽(むらどり)、鶺鴒の薄黄の尾羽のただ波うちて影もとまらず、影もとまらず。


 磯長(しなが)の小(こ)ゆるぎの浜、この浜や荒浪高し。この夜ごろいよいよ高し。時化(しけ)つづき西風強く、夜は絶えて漁火(いざり)すら見ね、をりをりに雨さへ走り、稲妻の青(さを)の映(うつ)りに、鍵形(かぎがた)の火の枝の棘(はり)ひりひりと鋭(と)き光なす。其ただちとどろく巻波(まきなみ)。時として雹さへ飛ぶに、なにぞ何(な)ぞ乱るる鳥は。なにぞ何(な)ぞ散り散る鳥は。目に見れば数かぎりなく、声きけば消(け)なば消(け)ぬかに、へうへうと連れ啼く鳥の、百千鳥、荒浪千鳥。荒浪の穂立(ほだち)の空を、とまるすべ、寝(ぬ)るすべ知らに、ただ飛びて散り散る千鳥。此海や涯(はて)し知られね、この荒れや測り知られね、初夜(しよや)過ぎて、また後夜(ごや)かけて、闇ふかく翼(はね)ふる千鳥、この雨を、また稲妻を、ひた濡れて乱るる千鳥。ある声は遠くはぐれて、ある群は千鳥型(がた)して、また或(あ)るは陸(くが)の方向き、また或(あ)るはちりちりと散り、すれすれに或(あ)るは落ちつつ、波の上驚きて飛び、時に消え、時に明り、いよいよに暗く恐れて、いよいよに青(さを)に染(そ)まりて、時わかず連れ啼く千鳥、へうへうと凍(こご)ゆる千鳥。いつまでか全(また)く迷ふぞ、いつまでか飛びてやまぬぞ。
 磯長(しなが)の小ゆるぎの荒浪千鳥。荒浪の天(そら)うつ波の逆まきのとどろきが上、あああはれ、また向き向きに、稲妻の青(さを)の脅(おび)えに連れ連れ乱る。啼き連れ乱る。


 ひとりゆくこの山岨(やまそば)は落葉のみ溜り湿(しめ)れり。落葉踏みつつ行けば、いづく飛び鵯高音うつ。かさこそり、櫟(くぬぎ)の枯葉わがかたへまた声立てぬ。日おもての草崖薄(くさがけすゝき)、その穂にも落葉かかれり。草紅葉まだ温(ぬ)くけれど、その上(へ)にも落葉うごけり。向ひ山、こなたの小丘、見るものはみな枯木のみ。空ぐるま軋るを見れば、上岨(うはそば)を尻毛振る赤馬(あか)、ひようひようと吹かれゆく馬子、みな寒き冬のものなり。渓の上(へ)の小茶屋の椅子も紅葉積み、その渓かけて、はらはらと落葉ちりゆく。山窪の幾むら藁屋、水ぐるま廻(まは)れる見れば、ほとほとに水も痩せたり。欅原(ばら)ただ目に寒く、入りゆけば陽(ひ)の目薄きに、雨のごとちる落葉あり。よく見ればいよいよ繁し。声立てていよいよ寂(さび)し。ほうほうと立てる雑木の岨路(そばぢ)ゆき、別れ径(みち)ゆき、当処(あてど)さへ果てはわかねど、風のまま歩みのままに、行き行けばただ落葉なり。前うしろただ落葉なり、かさこそと、また、はらはらと、空にも地にも声ばかりして。


 かうかうと照る月ながら、雨のごと飛ぶ落葉かな。ああ落葉、その影見れば、秋も早や老いにたるらし。ああ落葉、その声きけば、おのづから冬か待たるる。身の老(おい)といふにはあらね、おのれまた若しともなし。さやけさはかかる夜ながら、見の恍(ほ)れむ光にあらず。杉木立青きはあれど、隣山(となりやま)早やも痩せたり。枯れ枯れの木の枝(え)を透きて、月はただ遠くあらはに、落葉また風に吹かれて、へうへうとかぎりも知らず。いつの日かまたと還らむ、いつの世か久しかりちふ。これやこの常なかる世に年月の移らふまにま、我はあり、我はあれども、いつ知らず後(あと)べのみ見る。なほなほも先きぞ気遠き。而かもなほ過ちにけり。つくづくと耻ぢ泣きにけり。さりとては諦(あきら)めも得ず、また和(のど)の悟りをも見ね、ただすこしおのれ知るからただ堪へて遜(へりくだ)るのみ。ややややにかくてあるまで。寂しがり寂しがるなる。ほとほとに堪へは得ぬとも、この寂びや、身もて得し寂び、せめて者まだ頼りなる、ただたのみただ守るべき。ただひとり物も思はむ。さてひとり歩み歩まむ。あはれなる末の末かも、飛びちらふ落葉なるべき。落葉なら風のまかせよ。照る月に、北山風に、夜あらしに、影は影とし、はらはらと、ただ、はらはらと声ばかりせよ。

おらもまたあなたまかせぞ一茶坊
 ※(「窗/心」、第3水準1-89-54)掛の絹寒冷紗(きぬかんれいしや)、硝子扉(ど)の外(そと)の短か日、短か日の斜の陽ざし。※(「窗/心」、第3水準1-89-54)掛の絹寒冷紗、其蔭の水仙と菊、鉢台の薄玻璃の壺。今朝咲きし一重水仙、いつの日か挿しし寒菊。冷たくて白き水仙、やや温(ぬく)く黄なる寒菊。水仙の青(さを)の葉は張り、寒菊の葉は半ば枯る。水仙は水仙の影、寒菊は寒菊の影、その壺も玻璃の影して、栗色の砂壁に在り。硝子透き、※(「窗/心」、第3水準1-89-54)掛を透き、斜め陽(び)の明(あか)るみぎりは冬もなほいつくしく見ゆ、頼(たより)無き影としもなし、柔かく親しかりけり。薄玻璃の影もゆらげり。妻とゐる二階の書斎、午(ひる)過ぎはただ閑(しづ)かなり。湯沸のふき立つる湯気、わがふかす煙草のけむり、また揺れてその壁にあり。妻の影、わが影もあり。水仙と寒菊の花、現身に正眼(まさめ)に見れば、まこと今あはれなりけり。水仙と寒菊の影、現なく映(うつ)らふ観れば現なし、寂(さび)しかりけり。近々と啼き翔る鵯、遠々とひびく浪の音(と)。誰か世を常なしと云ふ、久しとも愛(かな)しとも思(も)へ。山に住み世に離(さか)るとも、全(また)く世を厭ふにあらず、五月蠅(うるさ)やと切(せち)に思へど、人来ねばたづきも知らず、妻と我、二人居れども、かくてあれども、時をりはただ寂しくて眼を見合せぬ。


 わが庵の竹の林にこぬか雨今朝も湿(しめ)れり。春さきのこぬか雨なり。ふるとしも見えぬ雨なり。こぬか雨笹にこもりて、香(かう)焼(た)けば香(かう)もしめりて、事もなし、ただ明るけし。こまごまと濡れかかるのみ、漂渺と煙曳くのみ。しづかなり、唯安らなり。顔出してつくづく居(ゐ)れば、笹子啼き、目白寄り来る、笹葉揺り揺りて又去る。散りたる去年(こぞ)の枯葉も寂しけど寒しとも無み、何かしら萠ゆる緑の春は早や竹の根にあり。よき湿(しめ)りかくて湿らば、竹煮草、葛、蕗の薹ややややにすずろき出でむ。髭長の籔の菎蒻、菫など、やがて咲くべし。松風の声は沈めど、常ならぬわびしさならず。裏岨(うらそば)ののぼりくだりに、ほつほつと通る馬さへ時をりは青きつけつつ、声高(こはだか)の人の話も濡れながら行けば親しき。静こころ香(かう)をつぎつつ、さて、今日もうら安くこそ。こぬか雨ふるがごとくに、こまごまといつくしみてむ、春さきの我の思を。


 あな踈忽(そこつ)、吐息(といき)いでたり。気にかけそ、何といふ事もあらぬを。また妻よ、焙(ほう)じてむ玄米の茶を。来む春の話、水仙の話、やがて生れむ子のことなども話してむ。元旦のこの夜の深さ。山住の我らなるゆゑ、いついつとかはりは無けど、今日はまたとりわけて、とりわけてよろしかりけり。全く今しづかなりけり。今さらに何をかや云ふ。この夜さのこの安けさは神ぞただ守りますべき。心ゆくうれしさの中、我は唯詩を思ふなる、汝(みまし)また差しのぞくなる。しづかなり、ただあはれなり。筆動く音のみぞする。身じろきの、息のみぞする。さてあらば夜も明けぬべし。あれ聴けよ、鶏(とり)啼くらしき。また聴けよ浪の音なる。二人ただかくて起きゐて、まこと今ただ二人なる。二人なるいのちの息のおのづから触れかよふかな。親しくもゆき通ふかな。蜜柑なと一つむきてむ。近々と火にむかひゐむ。またすこし炭つぎ足して、さて待たむ。二日の朝の海原の紅き日の出を。


 新らしき蕗の薹かな。珍らしき苦(にが)き香(か)ぞする。その蕗の薹一つ刺し、二つ刺し、竹の小串に三つ刺して、さて味噌つけて、火に焼きて、あな苦さよと一つ食べ、あなうまさよと二つ食べ、あないつくしと三つ食べて、さてさびしやと我ゐたり。春さきの夜のあは雪の消(け)なば消(け)ぬかの声聴きてけり。そのしばらくは。


 聴けよ、妻、ふるもののあり。かすかにもふるもののあり。初夜過ぎて夜の幽(かす)けさとやなりけらし、ふりいでにけり。何かしらふりいでにけり。声のして、ふりまさるなり。雨ならし。いな、雪ならし。雪なりし。雪ならば初(はつ)の雪なる。よくふりぬ。さてもめづらにふる雪のよくこそはふれ、ふりいでにけれ。さらさらとまた音たてて、しづかなり。ただ深むなり。聴けよ、妻、そのふる雪の満ち満ちて、ただこの闇に舞ひ深むなり、ふりつもるなり。

たまさかに浪の音する夜の雪なり
 春さきのころころ蛙、一つ鳴き二つ鳴き、ころころと後(あと)続け鳴き、ふと鳴き止み、くぐみ鳴き、また急に湧(わ)きかへり鳴く。いよいよに声合(あは)せ鳴く。近き田のころころ蛙、よく聴けば声変り鳴く。声変り一つ一つに、あなをかし、鳴けるさま見ゆ。あちら向きこちら向き、飛び飛びて、また水くぐり、うちひそみ、頬をふくらかし、鳴き鳴ける咽喉のさま見ゆ。あなをかし近田の蛙。さみどりの根芹が湿(しめ)る、塗畔(ぬりあぜ)かまだ新らしき。雨もよい雨よぶ声の寒けども寒しともなし、寂しけどなにか笑へり。友よびてまた鳴く蛙遠田にも遥かどよもす。あなあはれ遠田の蛙、また聴けば遠く隔てて、夜の闇の瀬の音(と)隔てて、いや離(さか)りうち霞み鳴く。また寄せて近まさり鳴く。遠つ浪辺(へ)に寄するごと、遠つ風吹き寄するごと、その声は夜空つたひて、いよいよ近く響きて、さて絶えて、また続け鳴く。近き田もまた競ひ湧く。初夜過ぎてまた後夜ふけて、なほなほにどよもす声の、おそらくは夜の明くるまで。萠黄月、月の円暈(まろがさ)、遠近の薄き飛び雲、濡れ濡れてちらめく星の糠星のかげ白むまで。ころころとまたころころと、夜もすがら、夜をただ一夜、春さきのをさな蛙が、声かぎり、また声かぎりここだく鳴くも。
了

底本:「白秋全集 8」岩波書店
   1985(昭和60)年7月5日発行
底本の親本:「大觀 二月號 大隈侯哀悼號 第五卷第貳號」實業之日本社
   1922(大正11)年2月1日発行
初出:「大觀 二月號 大隈侯哀悼號 第五卷第貳號」實業之日本社
   1922(大正11)年2月1日発行
入力:フクポー
校正:岡村和彦
2016年9月9日作成
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