あらすじ
「続銀鼎」は、亡き愛人・衣絵さんを深く愛し、その死を悲しむ詩人・園の物語です。衣絵さんを忘れられず、その面影を追い求める園は、不思議な体験をします。夜汽車の中で銀の鍋で何かを煮ている場面から物語は始まり、そこには衣絵さんの幻影が浮かび上がります。園は、その幻影を必死に抱きしめようとするのですが、それはつかみどころのない夢のように消えてしまうのです。やがて、現実の世界に戻った園は、衣絵さんの墓参りに向かいます。そこでも、園は衣絵さんの幻影を見るのですが、それはもはや悲しいものではなく、新たな愛と希望を感じさせるものへと変わっていくのです。
 不思議(ふしぎ)なる光景(くわうけい)である。
 白河(しらかは)はやがて、鳴(な)きしきる蛙(かはづ)の声(こゑ)、――其(そ)の蛙(かはづ)の声(こゑ)もさあと響(ひゞ)く――とゝもに、さあと鳴(な)る、流(ながれ)の音(おと)に分(わか)るゝ如(ごと)く、汽車(きしや)は恰(あだか)も雨(あめ)の大川(おほかは)をあとにして、又(また)一息(ひといき)、暗(くら)い陸奥(みちのく)へ沈(しづ)む。……真夜中(まよなか)に、色沢(いろつや)のわるい、頬(ほゝ)の痩(や)せた詩人(しじん)が一人(ひとり)、目(め)ばかり輝(かゞや)かして熟(じつ)と視(み)る。
 燈(ひ)も夢(ゆめ)を照(て)らすやうな、朦朧(まうろう)とした、車室(しやしつ)の床(ゆか)に、其(そ)の赤(あか)く立(た)ち、颯(さつ)と青(あを)く伏(ふさ)つて、湯気(ゆげ)をふいて、ひら/\と燃(も)えるのを凝然(じつ)と視(み)て居(ゐ)ると、何(ど)うも、停車場(ステーシヨン)で銭(ぜに)で買(か)つた饂飩(うどん)を温(あたゝ)め抱(いだ)くのだとは思(おも)はれない。
 どう/\と降(ふ)る中(なか)を、がうと山(やま)に谺(こだま)して行(ゆ)く。がらんとした、古(ふる)びた萠黄(もえぎ)の車室(しやしつ)である。護摩壇(ごまだん)に向(むか)つて、髯(ひげ)髪(かみ)も蓬(おどろ)に、針(はり)の如(ごと)く逆立(さかだ)ち、あばら骨(ぼね)白(しろ)く、吐(つ)く息(いき)も黒煙(くろけむり)の中(なか)に、夜叉(やしや)羅刹(らせつ)を呼(よ)んで、逆法(ぎやくはふ)を修(しゆ)する呪詛(のろひ)の僧(そう)の挙動(ふるまい)には似(に)べくもない、が、我(われ)ながら銀(ぎん)の鍋(なべ)で、ものを煮(に)る、仙人(せんにん)の徒弟(とてい)ぐらゐには感(かん)ずる。詩人(しじん)も此(これ)では、鍛冶屋(かじや)の職人(しよくにん)に宛如(さながら)だ。が、其(そに)の煮(に)る、鋳(い)る、錬(ね)りつゝあるは何(なん)であらう。没薬(もつやく)、丹(たん)、朱(しゆ)、香(かう)、玉(ぎよく)、砂金(さきん)の類(るゐ)ではない。蝦蟇(がま)の膏(あぶら)でもない。
 と思(おも)ひつゝ、視(み)つゝ、惑(まど)ひつゝ、恁(か)くして錬(ね)るのは美人(びじん)である。
 衣絵(きぬゑ)さんだ!
 と思(おも)ふと、立(た)つ泡(あは)が、雪(ゆき)を震(ふる)はす白(しろ)い膚(はだ)の爛(たゞ)れるやうで。……園(その)は、ぎよつとして、突伏(つきふ)すばかりに火尖(ひさき)を嘗(な)めるが如(ごと)く吹消(ふきけ)した。
 疲(つか)れたやうに、吻(ほつ)と呼吸(こきふ)して、
「あゝ、飛(と)んでもない、……譬(たとへ)にも虚事(そらごと)にも、衣絵(きぬゑ)さんを地獄(ぢごく)へ落(おと)さうとした。」
 仮(かり)に、もし、此(これ)を煮(に)る事(こと)、鋳(い)る事(こと)、錬(ね)る事(こと)が、其(そ)の極度(きよくど)に到着(たうちやく)した時(とき)の結晶体(けつしやうたい)が、衣絵(きぬゑ)さんの姿(すがた)に成(な)るべき魔術(まじゆつ)であつても、火(ひ)に掛(か)けて煮爛(にたゞ)らかして何(なん)とする! ……
 鋳像家(ちうざうか)の技(わざ)に、仏(ほとけ)は銅(あかゞね)を煮(に)るであらう。彫刻師(てうこくし)の鑿(のみ)に、神(かみ)は木(き)を刻(きざ)むであらう。が、人(ひと)、女(をんな)、あの華繊(きやしや)な、衣絵(きぬゑ)さんを、詩人(しじん)の煩悩(ぼんなう)が煮(に)るのである。
「大変(たいへん)な事(こと)をしたぞ。」
 園(その)は、今更(いまさら)ながら、瞬時(しゆんじ)と雖(いへど)も、心(こゝろ)の影(かげ)が、其(そ)の熱(ねつ)に堪(た)へないものゝ如(ごと)く、不意(ふい)のあやまちで、怪我(けが)をさした人(ひと)に吃驚(びつくり)するやうに、銀(ぎん)の蓋(ふた)を、ぱつと取(と)つた。
 取(と)ると、……むら/\と一巻(ひとまき)、渦(うづ)を巻(ま)くやうに成(な)つて、湯気(ゆげ)が、鍋(なべ)の中(なか)から、朦(もう)と立(た)つ。立(た)ちながら、すつと白(しろ)い裳(もすそ)が真直(まつすぐ)に立靡(たちなび)いて、中(なか)ばでふくらみを持(も)つて、筋(すぢ)が凹(くぼ)むやうに、二条(ふたすぢ)に分(わか)れようとして、軟(やはらか)にまた合(あ)つて、颯(さつ)と濃(こ)く成(な)るのが、肩(かた)に見(み)え、頸脚(えりあし)に見(み)えた。背筋(せすぢ)、腰(こし)、ふくら脛(はぎ)。……
 卯(う)の花(はな)の色(いろ)うつくしく、中肉(ちうにく)で、中脊(ちうぜい)で、なよ/\として、ふつと浮(う)くと、黒髪(くろかみ)の音(おと)がさつと鳴(な)つた。
「やあ、あの、もの恥(はぢ)をする人(ひと)が、裸身(はだかみ)なんぞ、こんな姿(すがた)を、人(ひと)に見(み)せるわけはない。」
 園(その)は目(め)を瞑(ねぶ)つた。
 矢張(やつぱ)り見(み)える。
「これは、不可(いか)ん。」
 園(その)は一人(ひとり)で頭(かしら)を掉(ふ)つた。
 まだ消(き)えない。
「第(だい)一、病中(びやうちう)は、其(そ)の取乱(とりみだ)した姿(すがた)を見(み)せるのを可厭(いや)がつて、見舞(みまひ)に行(ゆ)くのを断(ことは)られた自分(じぶん)ではないか。――此(これ)は悪(わる)い。こんな処(ところ)を。あゝ、済(す)まない。」
 園(その)はもの狂(ぐる)はしいまで、慌(あはたゞ)しく外套(ぐわいたう)を脱(ぬ)いだ。トタンに、其(そ)の衣絵(きぬゑ)さんの白(しろ)い幻影(げんえい)を包(つゝ)むで隠(かく)さうとしたのである。が、疼々(いた/\)しい此(こ)の硬(こは)ばつた、雨(あめ)と埃(ほこり)と日光(につくわう)をしたゝかに吸(す)つた、功羅(こうら)生(は)へた鼠色(ねづみいろ)の大(おほき)な蝙蝠(こうもり)。
 一寸(ちよつと)でも触(さわ)ると、其(そ)のまゝ、いきなり、白(しろ)い肩(かた)を包(つゝ)むで、頬(ほゝ)から衣絵(きぬゑ)さんの血(ち)を吸(す)ひさうである、と思(おも)つたばかりでも、あゝ、滴々(たら/\)血(ち)が垂(た)れる。……結綿(ゆひわた)の鹿(か)の子(こ)のやうに、喀血(かくけつ)する咽喉(のんど)のやうに。

 で、園(その)は引掴(ひつつか)んで、席(シイト)をやゝ遠(とほ)くまで、其(そ)の外套(ぐわいたう)を彼方(むかう)へ投(な)げた。
 投(な)げた時(とき)、偶(ふ)と渠(かれ)は、鼓打(つゞみうち)である其(そ)の従弟(いとこ)が、業体(げふたい)と言(い)ひ、温雅(をんが)で上品(じやうひん)な優(やさ)しい男(をとこ)の、酒(さけ)に酔払(ゑひはら)ふと、場所(ばしよ)を選(えら)ばず、着(き)て居(ゐ)る外套(ぐわいたう)を脱(ぬ)いで、威勢(ゐせい)よくぱつと投出(なげだ)す、帳場(ちやうば)の車夫(しやふ)などは、おいでなすつた、と丁(ちやん)と心得(こゝろえ)て居(ゐ)るくらゐで……電車(でんしや)の中(なか)でも此(これ)を遣(や)る。……下(した)が黒羽二重(くろはぶたへ)の紋着(もんつき)と云(い)ふ勤柄(つとめがら)であるから、余計(よけい)人目(ひとめ)について、乗合(のりあひ)は一時(じ)に哄(どつ)と囃(はや)す。
「何(なん)でえ、持(も)つてけ。」と、舞袴(まひばかま)にぴたりと肱(ひぢ)を張(は)つて、とろりと一睨(にら)み睨(にら)むのがお定(さだま)り……
 と其(それ)を思出(おもひだ)して、……独(ひと)りで笑(わら)つた。
 そんな、妙(めう)な間(ま)があつた。それだのに、媚(なま)めかしい湯気(ゆげ)の形(かたち)は、卯(う)の花(はな)のやうに、微(かすか)に揺(ゆす)れつゝ其(そ)のまゝであつた。
 銀(ぎん)の鍋(なべ)一つ包(つゝ)む、大(おほき)くはないが、衣絵(きぬゑ)さんの手縫(てぬひ)である、其(そ)の友染(いうぜん)を、密(そつ)と掛(か)けた。頸(うなじ)から肩(かた)と思(おも)ふあたり、ビクツと手応(てごたへ)がある、ふつと、柔(やはらか)く軽(かる)く、つゝんで抱込(かゝへこ)む胸(むね)へ、嫋(たをやか)さと気(き)の重量(おもみ)が掛(かゝ)るのに、アツと思(おも)つて、腰(こし)をつく。席(せき)へ、薄(うす)い真綿(まわた)が羽二重(はぶたへ)へ辷(すべ)つたやうに、さゝ……と唯(たゞ)衣(きぬ)の音(おと)がして、膝(ひざ)を組(く)むだ足(あし)のやうに、友染(いうぜん)の端(はし)が、席(せき)をなぞへに、たらりと片褄(かたづま)に成(な)つて落(お)ちた。――気(き)を失(うしな)つた女(をんな)が、我(われ)とゝもに倒(たふ)れかゝつたやうである。
 吃驚(びつくり)して、取(と)つて、すつと上(うへ)へ引(ひ)くと、引(ひ)かれた友染(いうぜん)は、其(そ)のまゝ、仰向(あふむ)けに、襟(えり)の白(しろ)さを蔽(おほ)ひ余(あま)るやうに、がつくりと席(せき)に寝(ね)た。
 ふわ/\と其処(そこ)へ靡(なび)く、湯気(ゆげ)の細(ほそ)い角(かど)の、横(よこ)に漾(たゞよ)ふ消際(きえぎは)が、こんもりと優(やさし)い鼻(はな)を残(のこ)して、ぽつと浮(う)いて、衣絵(きぬゑ)さんの眉(まゆ)、口(くち)、唇(くちびる)、白歯(しらは)。……あゝあの時(とき)の、死顔(しにがほ)が、まざ/\と、いま我(わ)が膝(ひざ)へ……
 白衣(びやくえ)幽(かすか)に、撫子(とこなつ)と小菊(こぎく)の、藤紫地(ふじむらさきぢ)の裾模様(すそもやう)の小袖(こそで)を、亡体(ばうたい)に掛(か)けた、其(そ)のまゝの、……此(こ)の友染(いうぜん)よ。唯(と)其(そ)の時(とき)は、爪(つめ)一(ひと)つ指(ゆび)の尖(さき)も、人目(ひとめ)には漏(も)れないで、水底(すゐてい)に眠(ねむ)つたやうに、面影(おもかげ)ばかり澄切(すみき)つて居(ゐ)たのに、――こゝでは、散乱(ちりみだ)れた、三ひら、五ひらの卯(う)の花(はな)が、凄(すご)く動(うご)く汽車(きしや)の底(そこ)に、ちら/\ちらと揺(ゆ)れて、指(ゆび)の、震(ふる)へるやうにさへ見(み)らるゝ。世(よ)には、清(きよ)らかな白歯(しらは)を玉(たま)と云(い)ふ、真珠(しんじゆ)と云(い)ふ、貝(かひ)と言(い)ふ。……いま、ちらりと微笑(ほゝえ)むやうな、口元(くちもと)を漏(も)るゝ歯(は)は、白(しろ)き卯(う)の花(はな)の花片(はなびら)であつた。
「――膝枕(ひざまくら)をなさい。――衣絵(きぬゑ)さん。」
 園(その)は居坐(ゐずまひ)を直(なほ)した。が、沈(しづ)んだ顔(かほ)に、涙(なみだ)を流(なが)した。
 あゝ、思出(おもひだ)す。……

「いくら私(わたし)、堪(こら)へましてもね、冷(つめた)い汗(あせ)が流(なが)れるやうに、ひとりでに涙(なみだ)が出(で)るんですもの。御病人(ごびやうにん)の前(まへ)で、此(これ)ぢやあ悪(わる)いと思(おも)ひますとね、尚(な)ほ堪(たま)らなくなるんですよ。それだもんですからね。枕許(まくらもと)の小(ちひ)さな黒棚(くろだな)に、一輪挿(りんざし)があつて、撫子(なでしこ)が活(い)かつて居(ゐ)ました。その花(はな)へ、顔(かほ)を押(おし)つけるやうにして、ほろ/\溢(あふ)れる目(め)をごまかしましてね、「西洋(せいやう)のでございますか、いゝ匂(にほい)ですこと。」なんのつて、然(さ)う言(い)つて――あの、優(やさし)い花(はな)ですから、葉(は)にも、枝(えだ)にも、此方(こつち)の顔(かほ)が隠(かく)れないで弱(よわ)りましたよ――義兄(にい)さん。」
と衣絵(きぬゑ)さんのもう亡(な)くなる前(まへ)だつた――たしか、三度(ど)めであつたと思(おも)ふ……従弟(いとこ)の細君(さいくん)が見舞(みまひ)に行(い)つた時(とき)の音信(たより)であつた。
 予(かね)て、病気(びやうき)とは聴(き)いて居(ゐ)た。――其(そ)の病気(びやうき)のために、衣絵(きぬゑ)さんが、若手(わかて)、売出(うりだ)しの洋画家(やうぐわか)であつた、婿君(むこぎみ)と一所(しよ)に、鎌倉(かまくら)へ出養生(でやうじゆう)[#ルビの「でやうじゆう」はママ]をして居(ゐ)たのは……あとで思(おも)へば、それも寂(さび)しい……行(ゆ)く春(はる)の頃(ころ)から知(し)つて居(ゐ)た。が、紫(むらさき)の藤(ふじ)より、菖蒲(あやめ)杜若(かきつばた)より、鎌倉(かまくら)の町(まち)は、水(みづ)は、其(そ)の人(ひと)の出入(ではいり)、起居(たちゐ)にも、ゆかりの色(いろ)が添(そ)ふであらう、と床(ゆか)しがるのみで、まるで以(もつ)て、然(さ)したる容体(ようだい)とは思(おも)ひもつかないで居(ゐ)たのに。秋(あき)の野分(のわけ)しば/\して、睡(ねむ)られぬ長(なが)き夜(よ)の、且(か)つ朝(あさ)寒(さむ)く――インキの香(かほり)の、じつと身(み)に沁(し)む新聞(しんぶん)に――名門(めいもん)のお嬢(ぢやう)さん、洋画家(やうぐわか)の夫人(ふじん)なれば――衣絵(きぬゑ)さんの(もう其(そ)の時(とき)は帰京(ききやう)して居(ゐ)た)重態(ぢうたい)が、玉(たま)の簾(すだれ)を吹(ふき)ちぎり、金屏風(きんべうぶ)を倒(たふ)すばかり、嵐(あらし)の如(ごと)く世(よ)に響(ひゞ)いた。
 同(おな)じ日(ひ)の夜(よ)に入(い)つて、婿君(むこぎみ)から、先(さき)むじて親書(しんしよ)が来(き)て、――病床(びやうしやう)に臥(ふ)してより、衣絵(きぬゑ)はどなたにもお目(め)に掛(かゝ)る事(こと)を恥(はづ)かしがり申候(まをしさふらふ)、女気(をんなぎ)を、あはれ、御諒察(ごりやうさつ)あつて、お見舞(みまひ)の儀(ぎ)はお見合(みあ)はせ下(くだ)されたく、差繰(さしく)つて申(まを)すやうながら、唯今(たゞいま)にもお出(い)で下(くだ)さる事(こと)を当人(たうにん)よく存(ぞん)じ、特(とく)に貴兄(きけい)に対(たい)しては……と此(こ)の趣(おもむき)であつた。
 髪(かみ)一条(すぢ)、身躾(みだしなみ)を忘(わす)れない人(ひと)の、此(これ)は至極(しごく)した事(こと)である。
 婿君(むこぎみ)のふみながら、衣絵(きぬゑ)さんの心(こゝろ)を伝(つた)へた巻紙(まきがみ)を、繰戻(くりもど)すさへ、さら/\と、緑(みどり)なす黒髪(くろかみ)の枕(まくら)に乱(みだ)るゝ音(おと)を感(かん)じて、取(と)る手(て)の冷(つめた)いまで血(ち)を寒(さむ)くしながらも、園(その)は、謹(つゝしん)で其(そ)の意(い)を体(たい)したのである。
 折(をり)から、従弟(いとこ)は当流(たうりう)の一派(ぱ)とゝもに、九州地(しうぢ)を巡業中(じゆんげふちう)で留守(るす)だつた。細君(さいくん)が、園(その)と双方(さうはう)を兼(か)ねて見舞(みま)つた。其(そ)の三度(ど)めの時(とき)の事(こと)なので。――勿論(もちろん)、田端(たばた)から帰(かへ)りがけに、直(す)ぐに園(その)の家(いへ)に立寄(たちよ)つたのであるが。
「ね――義兄(にい)さん、……お可哀相(かあいさう)は、最(も)う疾(とつ)くのむかし通越(とほりこ)して、あんな綺麗(きれい)な方(かた)が最(も)うおなくなんなさるかと思(おも)ふと、真個(ほんとう)に可惜(あつたら)ものでならないんですもの。――日当(ひあたり)は好(いゝ)んですけれど、六畳(でふ)のね、水晶(すゐしやう)のやうなお部屋(へや)に、羽二重(はぶたへ)の小掻巻(こかいまき)を掛(か)けて、消(き)えさうにお寝(よ)つてゝ、お色(いろ)なんぞ、雪(ゆき)とも、玉(たま)とも、そりや透通(すきとほ)るやうですよ。東枕(ひがしまくら)の白(しろ)い切(きれ)に、ほぐしたお髪(ぐし)の真黒(まつくろ)なのが濡(ぬ)れたやうにこぼれて居(ゐ)て、向(むか)ふの西向(にしむき)の壁(かべ)に、衣桁(いかう)が立(た)てゝあります。それに、目(め)の覚(さ)めるやうな友染(いうぜん)縮緬(ちりめん)が、端(たん)ものを解(ほど)いたなりで、一種(ひといろ)掛(かゝ)つて居(ゐ)たんです。――義兄(にい)さんの歌(うた)の本(ほん)をお読(よ)みなさるのと、うつくしい友染(いうぜん)を掛物(かけもの)のやうに取換(とりか)へて、衣桁(いかう)に掛(か)けて、寝(ね)ながら御覧(ごらん)なさるのが何(なに)より楽(たのしみ)なんですつて。――あの方(かた)の魂(たましひ)の行(い)らつしやる処(ところ)も、それで知(し)れます。……紫(むらさき)の雲(くも)の靉靆(たなび)く空(そら)ぢやあなくつて、友染(いうぜん)の霞(かすみ)が来(き)て、白(しろ)いお身体(からだ)を包(つゝ)むのでせうね――あゝ、それにね。……義兄(にい)さんがお心(こゝろ)づくしの丸薬(おくすり)ですわね。……私(わたし)が最初(さいしよ)お見舞(みまひ)に行(い)つた時(とき)、ことづかつて参(まゐ)りました……あの薬(くすり)を、お婿(むこ)さんの手(て)から、葡萄酒(ぶだうしゆ)の小(ちひ)さな硝子盃(コツプ)で飲(あが)るんだつて、――えゝ、先刻(さつき)……
 枕許(まくらもと)の、矢張(やは)り其(そ)の棚(たな)にのつた、六角形(かくがた)の、蒔絵(まきゑ)の手筐(てばこ)をお開(あ)けなすつたんですよ。然(さ)うすると、……あのお薬包(くすりつゝみ)と、かあいらしい爪取剪(つめとりはさみ)が一具(ひとつ)と、……」
 従弟(いとこ)の妻(つま)は、話(はな)しながら、こみあげ/\我慢(がまん)したのを、此(こ)の時(とき)ないじやくりして言(い)つた。
「……他(ほか)に何(なん)にもなしに、撫子(なでしこ)と小菊(こぎく)の模様(もやう)の友染(いうぜん)の袋(ふくろ)に入(はい)つた、小(ちひ)さい円(まる)い姿見(かゞみ)と、其(それ)だけ入(はひ)つて居(ゐ)たんです。……お心(こゝろ)が思(おも)ひ遣(や)られますこと。
 お婿(むこ)さんが、硝子盃(コツプ)に、葡萄酒(ぶだうしゆ)をお計(はか)んなさる間(あひだ)――えゝ然(さ)うよ。……お寝室(ねま)には私(わたし)と三人(にん)きり。……誰(だれ)も可厭(いや)だつて、看護婦(かんごふ)さんさへお頼(たの)みなさらないんだそうです。第(だい)一、お医師様(いしやさま)も、七ツ八ツのお小(ちひ)さい時(とき)からおかゝりつけの方(かた)をお一人(ひとり)だけ……尤(もつと)も有名(いうめい)な博士(はかせ)の方(かた)ださうですけれど――
 それでね、義兄(にい)さん。お婿(むこ)さんが葡萄酒(ぶだうしゆ)をお計(はか)んなさる間(あひだ)に、細(ほつそ)りした手(て)を、恁(か)うね、頬(ほゝ)へつけて、うつくしい目(め)で撓(た)めて爪(つめ)を見(み)なすつたんでせう、のびてるか何(ど)うだかつて――凝(じつ)と御覧(ごらん)なすつたんですがね、白(しろ)い指(ゆび)さきへ瞳(ひとみ)が映(うつ)るやうで、そして、指(ゆび)のさきから、すつとお月様(つきさま)の影(かげ)がさすやうに見(み)えました。それが、恁(か)う、お招(まね)きなさるやうに見(み)えるんですもの。私(わたし)、ぶる/\としたんです……」
 聞(き)いて居(ゐ)る園(その)が震(ふる)へた。
「ですけれど、あの、お手(て)で招(まね)かれたら、懐中(ふところ)へなら尚(なほ)の事(こと)だし、冥土(めいど)へでも、何処(どこ)へでも行(ゆ)きかねやしますまい……と真個(ほんとう)に思(おも)ひました。
 其(そ)の手(て)を、密(そつ)と伸(の)ばして、お薬(くすり)の包(つゝみ)を持(も)つて、片手(かたて)で円(まる)い姿見(すがたみ)を半分(はんぶん)、凝(じつ)と視(み)て、お色(いろ)が颯(さつ)と蒼(あを)ざめた時(とき)は、私(わたし)はまた泣(な)かされました。……私(わたし)は自分(じぶん)ながら頓狂(とんきやう)な声(こゑ)で言(い)つたんですよ……
 ――「まあ、御覧(ごらん)なさいまし、撫子(なでしこ)が、こんなに露(つゆ)をあげて居(を)りますよ」――」

「私(わたし)としては、出来(でき)るだけの事(こと)はしました。――申(まを)してはお恥(はづ)かしいやうですが、実際(じつさい)、此(こ)の一月(ひとつき)ばかりは、押通(おつとほ)し夜(よ)も寝(ね)ませんくらゐ看病(かんびやう)はしましたが。」
 一室(しつ)の、其処(そこ)に五人(にん)居(ゐ)た。著名(ちよめい)なる新聞記者(しんぶんきしや)、審査員(しんさゐん)――画家(ぐわか)、文学者(ぶんがくしや)、某子爵(ぼうししやく)の令夫人(れいふじん)が一人(ひとり)。――園(その)が居(ゐ)た。弔礼(てうれい)のために、香川家(かがはけ)を訪(おとづ)れたものが、うけつけの机(つくゑ)も、四(よ)つばかり、応接(おうせつ)に山(やま)をなす中(なか)から、其処(そこ)へ通(とほ)された親類縁者(しんるゐえんじや)、それ/″\、又(また)他方面(たはうめん)の客(きやく)は、大方(おほかた)別室(べつしつ)であらう。
 園(その)が、人(ひと)を分(わ)けて廊下(らうか)を茶室(ちやしつ)らしい其処(そこ)へ通(とほ)された時(とき)、すぐ其(そ)の子爵夫人(ししやくふじん)の、束髪(そくはつ)に輝(かゞや)く金剛石(ダイヤモンド)とゝもに、白(しろ)き牡丹(ぼたん)の如(ごと)き半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)(はんけち)の、目(め)を蔽(おほ)ふて俯向(うつむ)いて居(ゐ)るのを視(み)た。
 皆(みな)、暗然(あんぜん)として、半(なか)ば瞳(ひとみ)を閉(と)ぢて居(ゐ)たのである。
「御当家(ごたうけ)でも――実(じつ)に……」
「全(まつた)くでございます。」
 唯(たゞ)、いひかはされるのは、其(そ)のくらゐな事(こと)を繰返(くりかへ)す。時(とき)に、鶺鴒(せきれい)の声(こゑ)がして、火桶(ひをけ)の炭(すみ)は赤(あか)けれど、山茶花(さざんくわ)の影(かげ)が寂(さび)しかつた。
 其処(そこ)へ婿君(むこぎみ)が、紋着(もんつき)、袴(はかま)ながら、憔悴(せうすゐ)した其(そ)の寝不足(ねぶそく)の目(め)が血走(ちばし)り、ばう/\髪(がみ)で窶(やつ)れたのが、弔扎(てうれい)をうけに見(み)えたのである。
「やあ……何(ど)うも。」
と、がつくり俯向(うつむ)いた顔(かほ)を上(あ)げたのを、園(その)に向(む)けると、
「お礼(れい)を申上(まをしあ)げます、――あのお薬(くすり)のためだらうと思(おも)ひます。五日(か)以上(いじやう)……滋養(じやう)灌腸(くわんちやう)なぞは、絶対(ぜつたい)に嫌(きら)ひますから、湯水(ゆみづ)も通(とほ)らないくらゐですのに、意識(いしき)は明瞭(めいれう)で、今朝(こんてう)午前(ごぜん)三時(じ)に息(いき)を引取(ひきと)りました一寸前(ちよつとぜん)にも、種々(しゆ/″\)、細々(こま/″\)と、私(わたし)の膝(ひざ)に顔(かほ)をのせて話(はなし)をしまして。……園(その)さんに、おなごりのおことづけまで申(まを)しました。判然(はつきり)して、元気(げんき)です。医師(いし)も驚(おどろ)いて居(ゐ)ました。まるで絶食(ぜつしよく)で居(ゐ)て、よく、こんなにと、両(りやう)三日前(にちぜん)から、然(さ)う言(い)はれましてな。……しかし、気(き)の毒(どく)でした。
 江戸児(えどつこ)は……食(くひ)ものには乱暴(らんばう)です。九死(し)一生(しやう)の時(とき)でも、鮨(すし)だ、天麩羅(てんぷら)だつて言(い)ふんですから。蝦(えび)が欲(ほし)い……しんじよとでも言(い)ふかと思(おも)ふと、飛(とん)でもない。……鬼殻焼(おにがらやき)が可(い)いと言(い)ふんです。――痛快(つうくわい)だ! ……宜(よろ)しい、鬼(おに)を食(く)つ了(ちま)ひなさい、と景気(けいひ)をつけて、肥(ふと)つた奴(やつ)を、こんがりと南京(なんきん)の中皿(ちうざら)へ装込(もりこ)むだのを、私(わたし)が気(き)をつけて、大事(だいじ)に※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)(むし)つて、箸(はし)で哺(ふく)めたんですが、みでは豈夫(まさか)と思(おも)ふんです。馴(な)れない料理人(れうりにん)が、むしるのに、幾(い)くらか鎧皮(よろひがは)が附着(くつゝ)いて居(ゐ)たでせうか。一口(ひとくち)触(さは)つたと思(おも)ふと、舌(した)が切(き)れたんです。鬼殻焼(おにがらやき)を退治(たいぢ)ようと言(い)ふ、意気(いき)が壮(さかん)なだけ実(じつ)に悲惨(ひさん)です。すぐに唇(くちびる)から口紅(くちべに)が溶(と)けたやうに、真赤(まつか)な血(ち)が溢(こぼ)れるんですものね。」
 爾時(そのとき)は、瞼(まぶた)を離(はな)して、はらりと口元(くちもと)を半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)(はんけち)で蔽(おほ)うて居(ゐ)た、某子爵夫人(ぼうしゝやくふじん)が頷(うなづ)くやうに聞(き)き/\、清(きよ)らかな半※(「巾+白」、第4水準2-8-83)(はんけち)を扱(しご)くにつれて、真白(まつしろ)な絹(きぬ)の、それにも血(ち)の影(かげ)が映(さ)すやうに見(み)えた。
 夫人(ふじん)は堪(た)へやらぬ状(さま)して、衝(つ)と肩(かた)を反(そ)らして、横(よこ)を向(む)いて又(また)目(め)を圧(おさ)へたのである。
「……えゝ、尤(もつと)も、結核(けつかく)は、喉頭(かうとう)から、もう其(そ)の時(とき)には舌(した)までも侵(をか)して居(ゐ)たんださうですが。鬼殻焼(おにがらやき)……意気(いき)が壮(さかん)なだけ何(ど)うも悲惨(ひさん)です。は、はア。」
と、力(ちから)のない、笑(わらひ)の影(かげ)を浮(う)かべて、言(い)つて、悵然(ちやうぜん)として仰(あふ)いで、額(ひたい)に逆立(さかだ)つ頭髪(とうはつ)を払(はら)つた。
「あちらの御都合(ごつがふ)で、お線香(せんかう)を。」
「一寸(ちよつと)、御挨拶(ごあいさつ)を。」
 園(その)と審査員(しんさゐん)が殆(ほとん)ど同時(どうじ)に言(い)つた。
「それでは、何(ど)うぞ……」
 廊下(らうか)を二曲(ふたまが)り、又(また)半(なか)ばにして、椽続(えんつゞ)きの広間(ひろま)に、線香(せんかう)の煙(けむり)の中(なか)に、白(しろ)い壇(だん)が高(たか)く築(きづ)かれて居(ゐ)た。袖(そで)と袖(そで)と重(かさ)ねたのは、二側(ふたかは)に居余(ゐあま)る、いづれも声(こゑ)なき紳士(しんし)淑女(しゆくぢよ)であつた。
 順(じゆん)を譲(ゆづ)つて、子爵夫人(ししやくふじん)をさきに、次々(つき/″\)に、――園(その)は其(そ)の中(なか)でいつちあとに線香(せんかう)を手向(たむ)けたが、手向(たむ)けながら殆(ほとん)ど雪(ゆき)の室(むろ)かと思(おも)ふ、然(しか)も香(かをり)の高(たか)き、花輪(はなわ)の、白薔薇(しろばら)、白百合(しろゆり)の大輪(おほりん)の花弁(はなびら)の透間(すきま)に、薄紅(ときいろ)の撫子(なでしこ)と、藤紫(ふじむらさき)の小菊(こぎく)が微(かすか)に彩(いろ)めく、其(そ)の友染(いうぜん)を密(そつ)と辿(たど)ると、掻上(かきあ)げた黒髪(くろかみ)の毛筋(けすぢ)を透(す)いて、ちらりと耳朶(みゝたぼ)と、而(さう)して白々(しろ/″\)とある頸脚(えりあし)が、すつと寝(ね)て、其(そ)の薄化粧(うすげしやう)した、きめの細(こま)かなのさへ、ほんのりと目(め)に映(うつ)つた。
 まだ納棺(なふくわん)の前(まへ)である。
「香川(かがは)さん。」
 袴(はかま)で坐(ざ)を開(ひら)きながら、園(その)は、堅(かた)く障子(しやうじ)を背(せ)にした婿君(むこぎみ)を呼(よ)んで言(い)つた。
「……一寸(ちよつと)お顔(かほ)を見(み)たいんです。」
 声(こゑ)の調子(てうし)の掠(かす)れるまで、園(その)は胸(むね)が轟(とゞろ)いたのである。が、婿君(むこぎみ)は潔(いさぎよ)く、
「えゝ、何(ど)うぞ――此方(こちら)へ。」
とづいと立(た)つと、逆屏風(さかさびやうぶ)――たしか葛(くづ)の葉(は)の風(かぜ)に乱(みだ)れた絵(ゑ)の、――端(はし)を引(ひ)いて、壇(だん)の位牌(ゐはい)の背後(うしろ)を、次(つぎ)の室(ま)の襖(ふすま)との狭(せま)い間(あひだ)を、枕(まくら)の方(はう)へ導(みちび)きながら、
「困(こま)りました。」
「…………」
「なくなられては困(こま)りましたなあ。」
と振向(ふりむ)き状(ざま)に、ぶつきら棒(ぼう)に立(た)つて、握拳(にぎりこぶし)で、額(ひたい)を擦(こす)つたのが、悩乱(なうらん)した頭(かしら)の髪(かみ)を、掻※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)(かきむし)りでもしたさうに見(み)えて、煙(けむり)の靡(なび)く天井(てんじやう)を仰(あふ)いだ。
「唯々(たゞ/\)、お察(さつ)し申上(まをしあ)げます。」
「は。」
と云(い)つて、膝(ひざ)をついて、
「衣絵(きぬ)ちやん、――園(その)さんです。」
と、白(しろ)いものを衝(つゝ)と取(と)つた。
 眉毛(まゆげ)を長(なが)く、睫毛(まつげ)を濃(こ)く、彼方(むかふ)を頸(うなじ)に、満坐(まんざ)の客(きやく)を背(せ)にして、其(そ)の背(せな)の方(はう)は、花輪(はなわ)が隔(へだ)てゝ、誰(だれ)にも見(み)えない。――此方(こなた)に斜(なゝめ)くらゐな横顔(よこがほ)で、鼻筋(はなすぢ)がスツとして、微笑(ほゝゑ)むだやうな白歯(しらは)が見(み)えた。――妹(いもと)が二人(ふたり)ある。其(そ)の人(ひと)たちの優(やさ)しさに、髪(かみ)を櫛巻(くしまき)のやうにして、薄化粧(うすげしやう)に紅(べに)をさした。
「衣絵(きぬゑ)さん。」
と心(こゝろ)で言(い)つて、思(おも)はず、直(ひた)と寄(よ)つた膝(ひざ)が、うつかり、袖(そで)と思(おも)ふ掻巻(かいまき)の友染(いうぜん)に触(ふ)れると、白羽二重(しろはぶたへ)の小浪(さゞなみ)が、青(あを)く水(みづ)のやうに其(そ)の襟(えり)にかゝつた。
 屈(かゞ)みかゝつて、上(うへ)から差覗(さしのぞ)く、目(め)に涙(なみだ)の婿君(むこぎみ)と、微(かすか)に仰(あふ)いだ衣絵(きぬゑ)さんの顔(かほ)と、世(よ)に唯(たゞ)、此(こ)の時(とき)三人(にん)であつた。
「……お静(しづ)かに、お静(しづ)かに、然(さ)やうなら……」
 ハツと息(いき)して、立(た)つて、引返(ひきかへ)す時(とき)、……今度(こんど)は園(その)が云(い)つた。
「私(わたし)も困(こま)ります。」
「…………」
「寂(さびし)くつて、世間(せけん)が暗(くら)いやうです。――衣絵(きぬゑ)さんはおなくなりなさいました。」
「…………」
「香川(かがは)さん。――しかし、今(いま)では、衣絵(きぬゑ)さんを、衣絵(きぬゑ)さんを、」
「…………」
「私(わたし)が、思(お)、思(おも)つても! ……」
 愛(あい)も、恋(こひ)も、憧憬(あこがれ)も、ふつゝかに、唯(たゞ)、思(おもふ)とのみ、血(ち)を絞(しぼ)つて言(い)つた。
「……思(おも)つても、――貴方(あなた)は許(ゆる)して下(くだ)さいますか。」
 仰(あふ)いで言(い)ふのを、香川(かがは)は、しばらく熟(じつ)と視(み)たが、膝(ひざ)をついて、ひたと居寄(ゐよ)つて、
「衣絵(きぬ)ちやんが喜(よろこ)びませう……私(わたし)も、……嬉(うれ)しい。」
 恋(こひ)の仇(あだ)は、双方(さうはう)で手(て)を取(と)つた。
「あ、お顔(かほ)を。」
 振向(ふりむ)いて、も一度(ど)視(み)た。

 其(そ)の、面影(おもかげ)を、――夜汽車(よぎしや)の席(シイト)の、いまこゝに――
「さ、膝(ひざ)を、膝枕(ひざまくら)をなさい、誰(だれ)も居(ゐ)ません。」
 園(その)は、もの狂(ぐる)はしく、面影(おもかげ)の白(しろ)い、髪(かみ)の黒(くろ)い、裳(もすそ)の、胸(むね)の、乳(ちゝ)のふくらみのある友染(いうぜん)を、端坐(たんざ)した膝(ひざ)に寝(ね)かして、うちつけに、明白(めいはく)に、且(か)つ夢(ゆめ)に遠慮(ゑんりよ)のないやうに恋(こひ)を語(かた)つた。

「岩沼(いはぬま)――岩沼(いはぬま)――」
 弁当(べんたう)、もの売(うり)の声(こゑ)が響(ひゞ)くと、人音(ひとおと)近(ちか)く、夜(よ)が明(あ)けたと思(おも)ふのに、目(め)には、何(なに)も、ものが見(み)えない。
 吃驚(びつくり)した。
 園(その)は掻※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)(かきむし)るやうに窓(まど)を開(あ)けた、が、真暗(まつくら)である。
「もし、もし、もし……駅員(えきゐん)の方(かた)、駅(えき)の方(かた)――駅夫(えきふ)さん……」
とけたゝましく呼(よ)んだ。
「何(なん)ですか。」
「失礼(しつれい)ですが、私(わたし)の目(め)は何(ど)うかなつては居(ゐ)ないでせうか。」
「貴方(あなた)――何(ど)うかして居(ゐ)ますね。……確乎(しつかり)なさらなくつちやあ不可(いけな)いぢやあゝりませんか。」
 独言(ひとりごと)して、
「何(なに)を言(い)つてるんだ。」
 はつとすると、構内(こうない)を、東雲(しのゝめ)の一天(てん)に、雪(ゆき)の――あとで知(し)つた――苅田嶽(かつただけ)の聳(そび)えたのが見(み)えて、目(め)は明(あきらか)に成(な)つた。
 はじめて一人(ひとり)乗込(のりこ)んだ客(きやく)がある。
 袖(そで)でかくすやうにした時(とき)、鍋(なべ)の饂飩(うどん)は、しかし、線香(せんかう)の落(お)ちてたまつた、灰(はひ)のやうであつた。

 水源(みなもと)を、岩井(いはゐ)の大沼(おほぬま)に発(おこ)すと言(い)ふ、浦川(うらかは)に架(か)けた橋(はし)を渡(わた)つた頃(ころ)である。
 松島(まつしま)から帰途(かへり)に、停車場(ステーシヨン)までの間(あひだ)を、旅館(りよくわん)から雇(やと)つた車夫(しやふ)は、昨日(きのふ)、日暮方(ひぐれがた)に其(そ)の旅館(りよくわん)まで、同(おな)じ停車場(ていしやば)から送(おく)つた男(をとこ)と知(し)れて、園(その)は心易(こゝろやす)く車上(しやじやう)で話(はな)した。
「さあ、何(なん)と言(い)はうかな。……景色(けしき)は何(ど)うだ、と聞(き)かれて悪(わる)いと言(い)ふものもなからうし……唯(たゞ)よかつたよ、とだけぢや、君(きみ)たちの方(はう)も納(をさま)るまいけれども、何(なに)しろ、私(わたし)には、松島(まつしま)は見(み)ても松島(まつしま)を論(ろん)ずる資格(しかく)はないのだよ。昨日(きのふ)も君(きみ)に世話(せわ)に成(な)つたと言(い)ふから、知(し)つてるだらうが、薄暮合(うすくれあひ)、あの時間(じかん)に旅館(りよくわん)へ着(つ)いたのだから、あとは最(も)う湯(ゆ)に入(はひ)つて寝(ね)るばかりさ。」
 園(その)は昨日(きのふ)の其(それ)までは、聊(いさゝ)か達(た)す用(よう)があつて仙台(せんだい)に居(ゐ)たのであつた。
「夜(よ)があけたわ、顔(かほ)を洗(あら)つたわ、旅館(りよくわん)の縁側(えんがは)から、築山(つきやま)に松(まつ)の生(は)へたのが幾(いく)つも霞(かすみ)の中(なか)に浮(う)いて居(ゐ)る、大(おほき)な池(いけ)を視(なが)めて、いゝなあと言(い)つたつて、それまでだ。――海岸(かいがん)へ出(で)たからつて、波(なみ)が一(ひと)つ寄(よ)るぢやなし、桜貝(さくらがひ)一(ひと)つあるんぢやあない。
 しかし、無理(むり)だよ。……予(かね)て聞(き)いても居(ゐ)るし、むかしの書物(しよもつ)にも書(か)いてある。――松島(まつしま)を観(み)るのは船(ふね)に限(かぎ)る。八百八島(しま)と言(い)ふ島(しま)の間(あひだ)を、自由(じいう)に青畳(あをだゝみ)の上(うへ)のやうに漕(こ)ぐんだと言(い)ふから、島(しま)一つ一つ趣(おもむき)のかはるのも、どんなにいゝか知(し)れやしない。魚(うを)もすら/\泳(およ)ぐだらうし、松(まつ)には藤(ふぢ)も咲(さ)いてるさうだし、つゝじ、山吹(やまぶき)、とり/″\だと言(い)ふ、其(そ)の間(あひだ)を、船(ふね)の影(かげ)に驚(おどろ)いて、パツと群(む)れて水鳥(みづとり)が立(た)つたり、鴎(かもめ)が泳(およ)いで居(ゐ)たり……」
「然(そ)うで、然(そ)うで、其(そ)の通(とほ)りで……旦那(だんな)。」
と、車夫(しやふ)は楫棒(かじぼう)に張(は)つた肩(かた)を聳(そび)やかした。
「船(ふね)でなけりや、富山(とみやま)と言(い)ふのへ上(のぼ)るだね。はい、其処(そこ)だと、松島(まつしま)が残(のこ)らず一目(ひとめ)に見(み)えますだ。」
「ださうだね。何(なに)しろ、船(ふね)で巡(まは)るか、富山(とみやま)へ上(のぼ)らないぢやあ、松島(まつしま)の景色(けしき)は論(ろん)ずべからずと、ちやんと戒(いまし)められて居(ゐ)るんだよ。」
「何(ど)うでがすね、此(これ)から、富山(とみやま)へおのぼりに成(な)つては、はい、一里(り)たらずだ、一息(ひといき)だで。」
「いや、それよりも、早(はや)く帰(かへ)つて、墓参(はかまゐり)がしたくなつた。」
「へい。」
と言(い)つたが、乗(の)つた客(きやく)も、挽(ひ)く男(をとこ)も、妙(めう)に黙(だま)つた。
 園(その)は我(われ)ながら、余(あま)りつきもない言(こと)をうつかり言(い)つたのに、はつと気(き)が着(つ)いたほどである。
 車夫(しやふ)は唐突(だしぬけ)に、目(め)かくしでもされたやうに思(おも)つたらう。
 陽(ひ)が白(しろ)く、雲(くも)が白(しろ)く、空(そら)も白(しろ)い。のんどりとして静寂(せいじやく)な田畠(たはた)には、土(つち)の湧出(わきで)て、装上(もりあが)るやうな蛙(かはづ)の声(こゑ)。かた/\かた/\ころツ、ころツ、くわら/\くわら、くつ/\くつ。中(なか)でも大(おほ)きさうなのが、土(つち)の気(き)の蒸(む)れる処(ところ)に、高(たか)く構(かま)へた腹(はら)を、恁(か)う人(ひと)の目(め)に浮(う)かせて、があ/\があ/\と太(ふと)く鳴(な)く。……
 俥(くるま)は踏切(ふみきり)を、其(そ)の蛙(かはづ)の声(こゑ)の上(うへ)を越(こ)した。一昨日(おととひ)の夜(よ)を通(とほ)した雨(あめ)のなごりも、薄(うす)い皮(かは)一枚(まい)張(は)つたやうに道(みち)が乾(かは)いた。
 一方(ぱう)が小高(こだか)い土手(どて)に成(な)ると、いまゝで吹(ふ)いて居(ゐ)た風(かぜ)が留(や)むだ。靄(もや)も霞(かすみ)もないのに、田畑(たはた)は一面(めん)にぼうとして、日中(ひなか)も春(はる)の夜(よ)の朧(おぼろ)である。薄日(うすび)は弱(よわ)く雲(くも)を越(こ)さず、畔(くろ)に咲(さ)いた黄蒲公英(きたんぽゝ)、咲交(さきまじ)る豆(まめ)の花(はな)の、緋(ひ)、紫(むらさき)にも、ぽつりとも黒(くろ)い影(かげ)が見(み)えぬ。朱(しゆ)の木瓜(ぼけ)はちら/\と灯(ひ)をともし、樹(き)の根(ね)を包(つゝ)むだ石楠花(しやくなげ)は、入日(いりひ)の淡(あは)い色(いろ)を染(そ)めつゝ、然(しか)も日(ひ)は正(まさ)に午(ご)なのである。道(みち)にさし出(で)た、松(まつ)の梢(こずゑ)には、紫(むさらき)の藤(ふじ)かゝつて、どんよりした遠山(とほやま)のみどりを分(わ)けた遅桜(おそざくら)は、薄墨色(うすずみいろ)に濃(こ)く咲(さ)いて、然(しか)も散敷(ちりし)いた花弁(はなびら)は、散(ちり)かさなつて根(ね)をこんもりと包(つゝ)むで、薄紅(うすあか)い。
 其(そ)の傍(そば)に、二ツ三ツ境(さかひ)のない墓(はか)が見(み)える。
 見(み)つゝ、俥(くるま)は、段々(だん/\)の田(た)を隔(へだ)てゝ、土手添(どてぞ)ひの径(こみち)を遥(はるか)に行(ゆ)くのである。
 雲(くも)も、空(そら)も、皆(みな)白(しろ)い。
 其処(そこ)へ、影(かげ)のさすやうなのは、一つ一つ、百千と数(かぞ)へ切(き)れない蛙(かはづ)の声(こゑ)である。
 鳴(な)く、鳴(な)く。……
 松(まつ)杉(すぎ)、田芹(たぜり)、すつと伸(の)びた酸模草(すかんぽ)の穂(ほ)の、そよとも動(うご)かないのに、溝川(みぞがは)を蔽(おほ)ふ、たんぽゝの花(はな)、豆(まめ)のつるの、忽(たちま)ち一所(しよ)に、さら/\と動(うご)くのは、鮒(ふな)、鰌(どぜう)には揺過(ゆれす)ぎる、――昼(ひる)の水鶏(くひな)が通(とほ)るのであらう。
 夢(ゆめ)を見(み)て居(ゐ)るやうである。
 趣(おもむき)は違(ちが)ふけれども、園(その)は、名所(めいしよ)にも、古跡(こせき)にも、あんな景色(けしき)はまたあるまいと思(おも)ふ処(ところ)を、前刻(さつき)も一度(ど)通(とほ)つて来(き)た。
 ――水源(みなもと)を岩井沼(いはゐぬま)に発(おこ)すと言(い)ふ、浦川(うらかは)の流(ながれ)の末(すゑ)が、広(ひろ)く成(な)つて海(うみ)へ灌(そゝ)ぐ処(ところ)に近(ちか)かつた。旅館(りよくわん)を出(で)てまだいく程(ほど)もない処(ところ)に――路(みち)の傍(そば)に、切立(きつた)てた、削(けづ)つた、大(おほき)な巌(いはほ)の、矗々(すく)と立(た)つのを視(み)た。或(あるひ)は、仏(ほとけ)の御龕(みづし)の如(ごと)く、或(あるひ)は人(ひと)の髑髏(どくろ)に似(に)て、或(あるひ)は禅定(ぜんぢやう)の穴(あな)にも似(に)つゝ、或(あるひ)は山寨(さんさい)の石門(せきもん)に似(に)た、其(そ)の岩(いは)の根(ね)には、一(ひと)ツづゝ皆(みな)水(みづ)を湛(たゝ)へて、中(なか)には蒼(あを)く凝(こ)つて淵(ふち)かと思(おも)はるゝのもあつた。岩角(いはかど)、松(まつ)、松(まつ)には藤(ふぢ)が咲(さ)き、巌膚(いははだ)には、つゝじ、山吹(やまぶき)を鏤(ちりば)めて、御仏(みほとけ)の紫摩黄金(しまわうごん)、鬼(おに)の舌(した)、また僧(そう)の袈裟(けさ)、また将軍(しやうぐん)の緋縅(ひおどし)の如(ごと)く、ちら/\と水(みづ)に映(うつ)つた。
「此処(こゝ)も海(うみ)ではなかつたか――いまの松島(まつしま)の。……此(こ)の巌(いは)は、一つ一つ、あの島(しま)のやうに――」
 一方(ぱう)は、ひしや/\とした、何処(どこ)までも蘆原(あしはら)で、きよつ/\、きよつ/\、と蘆(あし)一むらづゝ、順(じゆん)に、ばら/\と、又(また)飛々(とび/\)に、行々子(ぎやう/\し)が鳴(な)きしきつた。
 それから、しばらくは、まばらにも蘆(あし)のある処(ところ)には、皆(みな)行々子(ぎやう/\し)が鳴(な)いて居(ゐ)た――
 こゝに、蛙(かはづ)の鳴(な)くやうに……
 まだ、其(そ)の頃(ころ)は、海(うみ)ある方(はう)に雲(くも)の切(き)れた、薄青(うすあを)い空(そら)があつた。それさへいまは夢(ゆめ)のやうである。
 園(その)は、行々子(ぎやう/\し)の鳴(な)く音(ね)におくられつゝ、蛙(かはづ)の声(こゑ)に迎(むか)へられたやうな気(き)がした。
 ……水鶏(くひな)が走(はし)るか、さら/\と、ソレまた小溝(こみぞ)が動(うご)く。……動(うご)きながら其(そ)の静寂(しづか)さ。
 唯(と)、遠(とほ)くに、行々子(ぎやう/\し)が鳴(な)きしきつて、こゝに蛙(かはづ)がすだく――其(そ)の間(あひだ)を、わあーとつないで、屋根(やね)も門(もん)も見(み)えないで、あの、遅桜(おそざくら)の山(やま)のうらあたり、学校(がくかう)の生徒(せいと)の、一斉(いちどき)に読本(とくほん)の音読(おんどく)を合(あ)はす声(こゑ)。
 園(その)は心(こゝろ)も気(き)も※(「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2-12-81)(ぼう)と成(な)つた。
 ピイ、キリ/\と雲雀(ひばり)が鳴(な)くと、ぐらりと激(はげ)しく俥(くるま)が揺(ゆ)れた。
「あゝ、車夫(わかいしゆ)。」
 酷(ひど)い道(みち)だ。
「降(お)りやう、――降(お)りやう。」
「何(なに)、旦那(だんな)、大丈夫(だいぢやうぶ)で、昨日(きのふ)も此処(こゝ)を通(とほ)つたゞね、馴(な)れてるだよ。」
「いや、昨日(きのふ)も、はら/\したつけが、まだ濡(ぬ)れて居(ゐ)たから、輪(わ)をくつて、お前(まへ)さんが挽(ひ)きにくいまでも、まだ可(よ)かつた。泥濘(ぬかるみ)が薬研(やげん)のやうに乾(かは)いたんぢやあ、大変(たいへん)だ。転(ころ)んだ処(ところ)で怪我(けが)もしまいが、……此(こ)の咲(さ)いてる花(はな)に極(きまり)が悪(わる)い。」
 道(みち)のゆく手(て)には、藁屋(わらや)が小(ちひ)さく、ゆる/\畝(うね)る路(みち)に顕(あら)はれた背戸(せど)に、牡丹(ぼたん)を植(う)ゑたのが、あの時(とき)の、子爵夫人(ししやくふじん)のやうに遥(はるか)に覗(のぞ)いて見(み)えた。
「はゝゝ、旦那(だんな)、御風流(ごふうりう)だ。」
 それから、歩行(ある)きながら、
「東京(とうきやう)から来(い)らつしやる方(かた)は、誰方(どなた)も花(はな)がお好(す)きだアなあ。」
「いろんな可愛(かあい)いのが、路傍(みちばた)に咲(さ)いて居(ゐ)るんだ。誰(だれ)だつて悪(わる)くはあるまい。」
「此人方等(こちとら)は、実(み)の成(な)る奴(やつ)か、食(く)へるんでなくつては、黄色(きいろ)いのも、青(あを)いのも、小(ちつ)こいものを、何(なん)にすべいよ。」
と笑(わら)つた。が、ふと、汗(あせ)ばんだ赤(あか)ら顔(がほ)の、元気(げんき)らしい、若(わか)いのが、唇(くちびる)をしめて……真顔(まがほ)に成(な)つて、
「然(さ)うだ、然(さ)うだ、思(おも)ひつけた。旦那(だんな)、あなた様(さま)、とこなつと言(い)ふ草(くさ)は知(し)つてるだかね。」
「常夏(とこなつ)。」
「それよ。」
「撫子(なでしこ)の事(こと)ぢやあないか。」
「それよ――矢張(やつぱ)り……然(さ)うだ――忘(わす)れもしねえ。……矢張(やつぱ)り同(おな)じやうな事(こと)を言(い)はしつけが、私等(わしら)にや其(そ)の撫子(なでしこ)が早(は)や分(わか)んねえだ。――何(なに)ね、今(いま)から、二三年(ねん)、然(さ)うだねえ、彼(か)れこれ四年(ねん)には成(な)るづらか。東京(とうきやう)から来(き)なさつたな、そりや、何(ど)うも容子(やうす)たら、容色(きりやう)たら、そりや何(ど)うも美(うつくし)い若(わか)い奥様(おくさま)がな。」
「一人(ひとり)かい。」
「へゝい、お二人(ふたり)づれで。――旦那様(だんなさま)は、洋服(やうふく)で、それ、絵(ゑ)を描(か)く方(かた)が、こゝへぶら下(さ)げておいでなさる、あの器械(きかい)を持(も)つて居(ゐ)らしつけえ。――忘(わす)れもしねえだ、若奥様(わかおくさま)は、綺麗(きれい)な縫(ぬひ)の肩掛(かたかけ)を手(て)に持(も)つてよ。紫(むらさき)がゝつた黒(くろ)い処(ところ)へ、一面(めん)に、はい、桜(さくら)の花(はな)びらのちら/\かゝつた、コートをめしてな。」
 園(その)はゾツとした。
「丁(ちやう)ど今頃(いまごろ)だで――それ/\、それよ矢張(やつぱ)り此(こ)の道(みち)だ。……私(わし)と忠蔵(ちうざう)がお供(とも)でやしたが、若奥様(わかおくさま)がね、瑞巌寺(ずゐがんじ)の欄間(らんま)に舞(ま)つてる、迦陵頻伽(かりようびんが)と云(い)ふ声(こゑ)でや、
 ――あの夏(なつ)になると、此(こ)の辺(へん)に常夏(とこなつ)が沢山(たくさん)咲(さ)きませうね――
 へい、其(そ)の常夏(とこなつ)を知(し)らねえだ。
 ――まあ、撫子(なでしこ)の事(こと)なんだよ――
 其(そ)のさ、撫子(なでしこ)を知(し)らねえだ。私(わし)は汗(あせ)を流(なが)したでなあ。……
 折(をり)があつたら、誰方(どなた)ぞ、聞(き)かう聞(き)かう思(おも)つて、因果(いんぐわ)と因縁(いんねん)で三年(ねん)経(た)つたゞ。旦那(だんな)、花(はな)がお好(す)きだで、な、どんな草葉(くさつぱ)だかこゝ等(ら)にあつたら、一寸(ちよつと)つまんで教(をし)へてくらせえ。」
「淡紅色(ときいろ)の、優(やさし)い花(はな)だが、此(こ)の辺(へん)には屹(きつ)とあるね。あるに違(ちが)ひない。葉(は)だけでも私(わたし)にも分(わか)るだらう。」
と、のつかゝつた勢(いきほひ)で、溝(みぞ)を越(こ)さうとして、
「お待(ま)ち。」
 園(その)は、つと俥(くるま)に寄(よ)つた。
 バスケツトを開(あ)けて、其(そ)の花(はな)が、色(いろ)のまゝ染(そ)まつた、衣絵(きぬゑ)さんの友染(いうぜん)を、と思(おも)つた……其時(そのとき)である。車夫(くるまや)が、
「あつ。」
と口(くち)を開(あ)けて、にやりとして、
「へ、へ、転(ころ)ぶと、そこらの花(はな)に恥(はづ)かしい。……うつ、へ、へ。御尢(ごもつと)もだで。旦那(だんな)は目(め)が早(はや)いだやあ。」
「何(なん)だ。」
「へ、へ、私(わし)あまた。真個(ほんとう)の草葉(くさつぱ)の花(はな)かと思(おも)つたゞ、」
「何(なん)だよ……」
「なんだよつて、へ、へ、へ。そこな、酸模(すかんぽ)、蚊帳釣草(かやつりさう)の彼方(むかう)に、きれいな花(はな)が、へ、へ、花(はな)が、うつむいて、草(くさ)を摘(つま)んで居(ゐ)なさるだ。」
「え。」
「や――旦那(だんな)、――旦那(だんな)でがせう。其方(むかふ)を見(み)ながら。招(まね)かつしやるは。」
「これ。」
「や、私(わし)で、――へい、私(わし)で。」
と、きよろりとしながら、
「へい、へい。」
 俥(くるま)を横(よこ)に、つか/\と、田(た)の畔(くろ)へ、挽(ひ)いて乗掛(のつか)けると、白(しろ)い陽(ひ)に、影(かげ)もなく、ぽんと立(た)つて、ぺこ/\と叩頭(おじぎ)をした。
「へい、其(それ)が、へい、成程(なるほど)、其(それ)が、常夏(とこなつ)で、へい。」
とまた叩頭(おじぎ)をした。が、ゑみわれるやうに、得(え)もいはれぬ、成仏(じやうぶつ)しさうな笑顔(ゑがほ)を向(む)けて、
「旦那(だんな)、旦那(だんな)、旦那(だんな)……」
「何(なに)。」
「あなた様(さま)にも、御覧(ごらん)なせえと……若奥様(わかおくさま)が。」
 園(その)は、魂(たましひ)も心(こゝろ)も宙(ちう)を踏(ふ)んで衝(つ)と寄(よ)つた。
 空(そら)に一輪(りん)、蕾(つぼみ)を添(そ)へて、咲(さ)いたやうに、其(そ)の常夏(とこなつ)の花(はな)を手(て)にした、細(ほつそ)りと白(しろ)い手(て)と、桜(さくら)ぢらしの紫紺(しこん)のコート。
「衣絵(きぬゑ)さん……」
 品(ひん)のいゝ、藤紫(ふぢむらさき)の鹿子切(かのこぎれ)の、円髷(まげ)つやゝかな顔(かほ)を見(み)た時(とき)。
「ぎやツ。」
と喚(わめ)くと、楫棒(かぢぼう)をたゝき投(な)げて、車夫(しやふ)は雲雀(ひばり)と十文字(もんじ)に飛(と)んで遁(に)げた。
 寂寞(ひつそ)と成(な)る。蛙(かはづ)の声(こゑ)の小(を)やむだ間(ま)を、何(なん)と、園(その)は、はづみでころがり出(だ)した服紗(ふくさ)の銀(ぎん)の鍋(なべ)に、霊(れい)と知(し)りつゝ、其(そ)の霊(れい)の常夏(とこなつ)の花(はな)をうけようとした。
 然(しか)り、銀(ぎん)の鼎(かなへ)を捧(さゝ)げた時(とき)、園(その)は聖僧(せいそう)の如(ごと)く、身(み)も心(こゝろ)も清(すゞ)しかつた。
 襟(えり)をあとへ、常夏(とこなつ)を指(ゆび)で少(すこ)し引(ひ)いて、きやしやな撫肩(なでがた)をやゝ斜(なゝめ)に成(な)つたと思(おも)ふと、衣絵(きぬゑ)さんの顔(かほ)は、睫(まつげ)を濃(こ)く、凝然(じつ)と視(み)ながら片手(かたて)を頬(ほゝ)に打招(うちまね)く。……撓(しな)ふ、白(しろ)き指先(ゆびさき)から、月(つき)のやうな影(かげ)が流(なが)れた。
 寄(よ)らうとすると、其(そ)の手(て)も映(うつ)る、褄(つま)も映(うつ)る、裳(もすそ)に真蒼(まつさを)な水(みづ)がある。
 また招(まね)くのを、ためらうと、薄雲(うすぐも)のさすやうに、面(おもて)に颯(さつ)と気色(けしき)ばんで、常夏(とこなつ)をハツと銀(ぎん)の鍋(なべ)に投(な)げて寄越(よこ)した。
 其(そ)の花(はな)の影(かげ)も映(うつ)つた。が、いまは、水(みづ)も火(ひ)もと思(おも)つた。
「御免(ごめん)なされや。」
 背中(せなか)に、むつとして、いきれたやうな可厭(いや)な声(こゑ)。此(これ)は、と視(み)ると、すれ違(ちが)つて、通(とほ)り状(ざま)に振向(ふりむ)いたのは、真夜中(まよなか)の雨(あめ)に饂飩(うどん)を食(く)つた、髪(かみ)の毛(け)の一筋(すぢ)ならびの、唇(くちびる)の爛(たゞ)れたあの順礼(じゆんれい)である。
 見(み)る端(はし)に、前歯(まへば)の抜(ぬ)けた、汚(きたな)い口(くち)でニヤリとした。
 車夫(くるまや)が、其(そ)の道(みち)を、小(ちひ)さく成(な)つて、遁(に)げる、遁(に)げる。
 はや、幻影(まぼろし)は消(き)えつゝ、園(その)は目(め)の前(まへ)に、一坐(ざ)、藤(ふじ)つゝじを鏤(ちりば)めた、大巌(おほいは)の根(ね)に、藍(あい)の如(ごと)き水(みづ)に臨(のぞ)むで、足(あし)は、めぐらした柵(さく)を越(こ)えたのを見出(みいだ)した。
 杵(きね)(キネ。)が池(いけ)と言(い)ふ、人(ひと)を取(と)る水(みづ)よ、と後(のち)に聞(き)く。
 衣絵(きぬゑ)さんに、其(そ)の称(となへ)の似通(にかよ)ふそれより、尚(な)ほ、なつかしく、涙(なみだ)ぐまるゝは、銀(ぎん)の鍋(なべ)を見(み)れば、いつも、常夏(とこなつ)の影(かげ)がさながら植(う)ゑたやうに咲(さ)くのである。
了

底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
   2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「新柳集」春陽堂
   1922(大正11)年1月1日
初出:「国本 第一巻第八号」国本社
   1921(大正10)年8月1日
※表題は底本では、「続銀鼎(ぞくぎんかなえ)」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
※「灯(ひ)」と「燈(ひ)」の混在は、底本通りです。
※「触」に対するルビの「さわ」と「さは」の混在は、底本通りです。
※「藤」に対するルビの「ふじ」と「ふぢ」の混在は、底本通りです。
※「藤紫」に対するルビの「ふじむらさき」と「ふぢむらさき」の混在は、底本通りです。
※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。
※「香」に対するルビの「かほり」と「かをり」の混在は、底本通りです。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年9月2日作成
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