あらすじ
北原白秋は、幼い息子・隆太郎を連れて木曾川を旅します。雄大な木曾川の流れ、白帝城の美しさ、そして蘇川峡の険しい景色など、様々な風景を目にし、心に残る体験をします。息子との初めての旅は、白秋にとってかけがえのない思い出となるでしょう。
「ほら、あれがお城だよ」
 私は振り返った。私の背後からは円(まる)い麦稈帽(むぎわらぼう)に金と黒とのリボンをひらひらさして、白茶(しろちゃ)の背広に濃い花色のネクタイを結んだ、やっと五歳と四ヶ月の幼年紳士がとても潔(いさぎ)よく口をへの字に引き緊(し)めて、しかもゆたりゆたりと歩いていた。地蔵眉(じぞうまゆ)の、眼が大きく、汗がじりじりとその両の頬に輝いている。
 名鉄(めいてつ)の電車を乗り捨てて、差しかかった白い白い大鉄橋――犬山(いぬやま)橋――の鮮(あざや)かな近代風景の裏のことである。
 暑い、暑い。パナマ帽に黒の上衣(うわぎ)は脱いで、抱えて、ワイシャツの片手には鶏(にわとり)の首のついたマホガニーの農民美術のステッキをついてゆく、その子の父の私であった。
「うん、そうか」
 父と子とはその鉄橋の中ほどで立ちどまると、下手(しもて)向きの白い欄干(らんかん)に寄り添って行った。隆太郎(りゅうたろう)は一所懸命に爪立ち爪立ちした。頤(あご)が欄干の上に届かないのだ。
 ちょうど八月四日の正午、しんしんと降る両岸の蝉時雨(せみしぐれ)であった。
 汪洋(おうよう)たる木曾川の水、雨後の、濁って凄まじく増水した日本ライン、噴き騰(あが)る乱雲の層は南から西へ、重畳(ちょうじょう)して、何か底光(そこひかり)のする、むしむしと紫に曇った奇怪な一脈の連峰をさえ現出している、その白金(はっきん)の覆輪(ふくりん)がまた何よりも強く眼を射(う)ったのである。その下流の右岸には秀麗な角錘形(かくすいけい)の山(それは夕暮(ゆうぐれ)富士だと後(あと)で聞いたが)山の頂辺(てっぺん)に細い縦(たて)の裂目のある小松色の山が、白い河洲(かわす)の緩(ゆる)い彎曲線(わんきょくせん)と程(ほど)よい近景を成(な)して、遥(はるか)には暗雲の低迷したそれは恐らく驟雨(しゅうう)の最中であるであろうところの伊吹山のあたりまでをバックに、ひろびろと霞(かす)んだうち展(ひら)けた平野の青田(あおだ)も眺められた。
 その左岸の犬山の城である。
 まことに白帝城(はくていじょう)は老樹蓊鬱(おううつ)たる丘陵の上に現れて粉壁(ふんへき)鮮明である。
 小さな白い三層楼(さんそうろう)、何と典麗(てんれい)なしかもまた均斉した、美しい天守閣であろう。この城あって初めてこの景勝の大観は生きる。生きた脳髄であり、レンズの焦点である。まったくかの城こそは日本ラインの白い兜(かぶと)である。
「お城には誰(たれ)がいるの」
「今は誰(たれ)もいないんだ。むかしね兵隊がいたんだよ」
 私はその子の麦稈帽(むぎわらぼう)を軽くたたいた。かの小さな美しい城の白光(はっこう)が果(はた)していつまでこのおさない童子(どうし)の記憶に明(あか)り得(う)るであろうか。そしてあの蒼空が、雲の輝きが。
 父はまたその子の麦稈帽を二つたたいた。私は心ひそかに微笑した。「すこし強くたたいて置け」。
 私の長男である彼(かれ)隆太郎は、神経質だが、意思は強そうである。一緒に行く、機関車に取りついてでもついて行くといってきかないので、やむなく小さなリュックサックを背負わして連れて出たものだが、下(くだ)りの特急の展望車で、大きな廻転椅子に絵本をひろげていた時にもこの子は一個の独自の存在であった。食堂のテーブルに向(むか)い合った僅(わずか)な時間のひまにも、この子はおぼつかないながら、ナイフとフオクとは確(たしか)に自分の物として、焼きたてのパンや黄色いバタや塩っぱいオムレツの上にのぞんで、決して自分を取り乱さなかった。箱根の嶮路(けんろ)にかかって、後部の大きな硝子戸(がらすど)に、機関車がぴったりとくっつき、そのまま轟々(ごうごう)と真っ黒い正面をとどろかして押し昇った時にもそれを見たこの子は、それこそひとりで大喜びであった。その夕方、名古屋の親戚の家の玄関に立った時にも、別に鼻白みもしなかった。彼が生れた日だけしか彼を見なかったその伯母(おば)さんが「ほう、おまえが隆坊。まあ大きくなりましたね、おお。よく似ているわね、うちの子に。ほほほ」。
 よくまあお父さんについて来られましたね、と驚いて、その式台(しきだい)で微笑された時にも、この子はうんとだけいって笑った。そうして自分で靴をぬぐとすぐに飛び込んで行った。生みの母に初めて離れて遠い旅に出るこの子に、この子の母はよくいってきかした。「ね、坊や。自分のことはみんな自分でするのですよ」。
 だから、その晩にも、かれはひとりで必死になって上衣を脱いだり、パンツや、シャツの釦(ぼたん)をはずしたり、寝衣(ねまき)に着更(きか)えたり、帯を結んだり、寝床にころがったり、眠ったりした。
 その翌朝の今日のことである。柳橋(やなぎばし)駅から犬山橋までの電車の沿線には桑(くわ)が肥え、梨が実り、青い水田のところどころには、ほのかな紅(あか)い蓮(はす)の花が、「朝」の「八月」の香(にお)いを爽(さわや)かな空気と日光との中に漂わしていた。そうしたすがすがしい眺めと薫(かお)りとをこの子はどんなに貪(むさぼ)り吸ったことか。父とまた初めて旅するこの子の瞳はどんなに黒く生々(いきいき)と燃えていたことか。そうして酒徒(しゅと)としての私にはやや差し障りそうな道連(みちづれ)ではあったが時とすると侮(あなど)り難い小さな監督者であろうも知れぬが、だが、私自身にも寧(むし)ろ或(あるい)はそれを望んだ心もちもあった。
 私はわが子の両手を強く握った――よく一緒に遣(や)って来た。来てほんとによかったのだ。
 まことに白帝城(はくていじょう)は日本ラインの白い兜(かぶと)である。
 おお、そうして、白い臈(ろう)たけた昼のかたわれ月が、おお、ちょうどその白い兜の八幡座(はちまんざ)にある。
 白帝城に登ったのは、その上の麓の彩雲閣(さいうんかく)(名鉄経営)の楼上(ろうじょう)で、隆太郎のいわゆる「香(にお)いのする魚(うお)」を冷たいビールの乾杯で、初めて爽快(そうかい)に風味して、ややしばらく飽満(ほうまん)した、その後(ご)のことであった。
 その白帝園の裏手から葉桜の土手を歩いて右へ、緩(ゆ)るいだらだら阪(さか)を少しのぼると、犬山焼(いぬやまやき)の同じ構えの店が並んでいる。それから廻ると、公園の広場になる。ところで、極彩色の孔雀(くじゃく)がきらきらと尾羽(おば)を円(まる)くひろげた夏の暑熱(しょねつ)と光線とは、この旅にある父と子とを少(すくな)からず喜ばせた。その隣の檻(おり)の金網の中には嬉戯(きぎ)する小猿が幾匹となく、頓狂(とんきょう)に、その桃色の眼のまわりを動かすのである。
 そうだ、ここだったなと私は思った。金(きん)と黝朱(うるみ)の羽根の色をした鳶(とび)の子が、ちょうどこの対(むか)いの角(かど)の棒杭(ぼうぐい)に止(とま)っていたのを観(み)た七、八年前のことを憶(おも)い出したのである。私はあの時木兎(みみずく)かと思った、ちかぢかと寄って見る鳶は頭のまるい、ほんとに罪のない童顔(どうがん)の持主であった。
 そうだった、これが針綱(はりつな)神社だったと私はまた微笑した。
 あの冬の名古屋市はまったく恐怖と寒気とで、その繁華な、心臓の鼓動もとまりそうであった。悪性の流行感冒(かんぼう)は日に幾十となくその善良な市民を火葬場に送った。私もまた同じ戦慄(せんりつ)のうちに病臥(びょうが)して、きびしい霜(しも)と、小さい太陽と、凍った月の光ばかりとを眺むるより外(ほか)なかった。旅で病むのは何と心細かったことだろう。それに私は貧しいかぎりであった。島村抱月先生の傷(いた)ましい訃報(ふほう)を新聞で知ったのもその時であった。
 今、私の愛児は、幼年紳士は、急斜面の弧状の、白い石の太鼓橋を欄干(らんかん)につかまり遮二無二(しゃにむに)はい登ろうとしている。一行の誰彼(たれかれ)が哄笑(こうしょう)して、やんややんやと背後(うしろ)から押しあげている。隆太郎は嬉々(きき)として声を立てる。やっと上(のぼ)ったところで、半ズボンの両脚を前へつるつるつるである。父の私も前廻りして手をうって囃(はや)し立てる。
 昔と今と、変れば変るものだと、私は思う。そうだ、あの頃はまだ日本ラインという名すらさして知られてなかったのだ。
「日本ラインという名称は感心しないね、卑下と追従(ついしょう)と生ハイカラは止(よ)してもらいたいな。毛唐(けとう)がライン川をドイツの木曾川とも蘇川(そせん)峡とも呼ばないかぎりはね。お恥(はず)かしいじゃないか」
「そうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいいはずなんで」
 木曾川橋畔(きょうはん)の雀のお宿の主人野田素峰子(そほうし)が直(すぐ)と私に和した。
「みんながよくそういいますで」
 私たちはいつのまにか、城の正面の柵内にはいりつつあった、軽い足どりで。
 浴衣(ゆかた)に袴(はかま)の、白扇(はくせん)を持った痩せ形の老人が謹厳(きんげん)に私達を迎えた。役場から見えていたのである。
 旧記に観ると、この犬山の城は、永享(えいきょう)の末に斯波(しば)氏の家臣織田(おだ)氏がこの地を領し、斯波満桓(みつたけ)が初めて築いたとある。斯波氏が滅びてから織田、徳川の一族が拠(よ)って武威(ぶい)を張った。小牧山(こまきやま)合戦の際には秀吉も入城したことがあったというのだが、天下が家康に帰してからは、尾州(びしゅう)侯の家老成瀬隼人(なるせはやと)が封(ほう)ぜられ、以来明治維新まで連綿として同家九代の居城として光った。
 現存の天守閣は慶長四年の秋に、家康が濃州(のうしゅう)金山(かなやま)の城主森忠政(もりただまさ)を信州川中島に転封(てんぽう)したおり、その天守閣と楼櫓(やぐら)とを時の犬山城主石川光吉に与えた、それを明(あく)る年の五月に木曾川を下(くだ)してこの犬山に運び、これを築きあげたものである。斎藤大納言正成(だいなごんまさしげ)の建築だそうである。
 この白帝城は美しい。その綜合的美観はその位置と丘陵の高さとが、明らかにして洋々(ようよう)たる河川の大景(たいけい)と相俟(あいま)って、よく調和して映照(えいしょう)しているにある。加えて、蒼古(そうこ)な森林相がその麓からうちのぼっている。展望するに、はてしない平野の銀と緑と紫の煙霞(えんか)がある。山城(さんじょう)としてのこのプランは桃山時代の粋(すい)を尽くした城堡(じょうほう)建築の好模型だというが、そういえばよく肯(うなず)かれる。
 ただ僅(わずか)に残って、今にそびえる天守閣の正しい均斉、その高欄(こうらん)をめぐらし、各層に屋根をつけた入母屋(いりもや)作りのいらか、その白堊(はくあ)の城。
 外観こそは三層であるが、内部に入れば、それは五層に高まってゆく。
 その五層の、昔ながらの木の階段を昇る時、隆太郎は危くころびかけた。そうしてその従兄(いとこ)の三高生から引っ抱えてもらった。
「何でこんなに暗いの、何でこんなに暗いの」
 といいいいして上(のぼ)って来た。
「あ、名古屋城が見える」と、誰(たれ)かが叫んだ。
 天守閣の最上層の勾欄(こうらん)へ出たところで、私たちはまず両方の大平野を瞰望(かんぼう)した。きのう電車で駛(はし)って来た沿線の曠田(こうでん)の緑と蓮池(はすいけ)の薄紅(うすべに)とが遥(はるか)に模糊(もこ)とした曇天光(どんてんこう)まで続いて、ただ一つの巒色(らんしょく)の濃い、低い小牧山が小さく鬱屈(うっくつ)している。その左にほうふつとして立つ紫の幻塔が見える、それが金の鱗(うろこ)のお城だというのである。そう聞けば何か閃々(せんせん)たる気魄(きはく)が光っているようでもある。
 その地平線は白の地に、黄と少量の朱と、藍(あい)と黒とを交ぜた雲と霞(かすみ)とであった。その雲と霞は数条の太い煤煙(ばいえん)で掻き乱されている。鮮麗(せんれい)な電光飾の輝く二時間前(ぜん)の名古屋市である。
 東から北へと勾欄(こうらん)へついて眼を移すと、柔かな物悲しい赤と乾酪(チーズ)色の丘陵のうねりが閑(のど)かな日光の反射にうき出している隣に、二つの円(まる)い緑の丘陵が大和絵さながらの色調で並んで、その一つの小高みに閑雅(かんが)な古典的の堂宇(どうう)が隠見(いんけん)する。瑞泉寺(ずいせんじ)山だと人がいった。
 瑞泉寺山から継鹿尾(つがのお)、鴉(からす)ヶ峰(みね)と重畳(ちょうじょう)して、その背後から白い巨大な積雲の層がむくりむくりと噴き出ていた。そのすばらしい白と金との向(むこ)うに恵那(えな)、駒ヶ岳、御岳(おんたけ)の諸峰が競って天を摩(ま)しているというのだ。見えざる山岳の気韻(きいん)は彼方(かなた)にある。何と籠(こ)もったぶどう鼠(ねずみ)の曇り。
 と、蕭々(しょうしょう)として、白い鉄橋の方へ時雨(しぐ)るる蝉(せみ)のコーラスである。
 爆音がする。左岸の城山(しろやま)に洞門を穿(うが)つのである。奇岩突兀(とっこつ)として聳(そび)え立つその頂上に近代のホテルを建て更に岩石層の縦(たて)の隧道(トンネル)をくりぬき、しんしんとエレヴェーターで旅客を迎える計画だそうである。遊覧船は屋形(やかた)、或(あるい)は白のテントを張って、日本ラインの上流より矢のように走って来る。その光、光、光。恰(あたか)も中古伝説(レジェント)の中の王子の小船のようにちかりちかりとその光は笑って来る。
「おうい」と呼びたくなる。
 中仙道は鵜沼(うぬま)駅を麓とした翠巒(すいらん)の層に続いて西へと連(つらな)るのは多度(たど)の山脈である。鈴鹿(すずか)は幽(かす)かに、伊吹(いぶき)は未だに吹きあげる風雲の猪(いのしし)色にその嶺(いただき)を吹き乱されている。
 眼の下の大河を隔てた夕暮富士を越えて、鮮(あざや)かな平蕪(へいぶ)の中に点々と格納庫の輝くのは各務(かがみ)ヶ原の飛行場である。
 西は渺々(びょうびょう)たる伊勢の海を眼界の外に霞(かす)ませて桑名(くわな)へ至る石船の白帆は風を孕(はら)んで、壮大な三角洲の白砂(はくしゃ)と水とに照り明(あか)って、かげって、通り過ぎる、低く、また、ひろびろと相隔(あいへだ)たった両岸の松と楊(やなぎ)と竹藪(たけやぶ)と、そうして走る自転車の輪の光。
 白帝城は絶勝の位置にある。
 私は更に俯瞰(ふかん)して、二層目の入母屋(いりもや)の甍(いらか)にほのかに、それは奥ゆかしく、薄くれないの線状の合歓(ねむ)の花の咲いているのを見た。樹木の花を上からこれほど近く親(したし)く観ることは初めてである。いかにも季節は夏だと感じられる。
 絶壁の上の楓(かえで)の老樹も手に届くばかりに参差(しんし)と枝を分ち、葉を交えて、鮮明に澄んで閑(のど)かな、ちらちらとした光線である。
 幾百年と経った大木の樟(くすのき)は樹皮は禿(は)げ、枝は裂けていい寂色(さびいろ)に古びている。その梢(こずえ)の群青(ぐんじょう)を鴉(からす)がはたはたと動かしてとまる。かおォかおォである。古風な白帝城。
 水道の取入口は河に臨んで、その城の絶壁の下にあった。
 私たちは城を降りると、再び暑熱(しょねつ)と外光の中の点景人物となった。ひらひらと、しきりに白い扇が羽ばたき出した。
 公園からだらだらの阪(さか)を西谷(にしたに)の方へ、日かげを選(えら)み選み小急ぎになると、桑畑の中へ折れたところで、しおらしい赤い鳳仙花(ほうせんか)が目についた。もう秋だなと思う。
 簡素な洋風の家がある。入口は開けっぱなしで、粗末な卓に何か仕事しているワイシャツの人がある。役場の老人が寄って行って挨拶(あいさつ)する。幽(かす)かに私の名をいっている。
 私たちは洞門に入る。外へ出ると豁然(かつぜん)とひらけて、前は木曾の大河である。
 この大河の水は岩礁を割(さ)いた水道のコンクリートの堰(せき)と赤さびた鉄の扉の上を僅(わずか)に越えて、流れ注いで、外には濁った白い水沫(すいまつ)と塵埃(じんあい)とを平らかに溜めているばかりだ。何の奇(き)もなく閑(のど)けさである。
「この水が名古屋全市民の生命をつないでいるのです」と詰襟(つめえり)をはだけた制帽の若者が説明する。
 私たちは引返して、洞門をくぐると、二台の計量機の前に出た。幽(かす)かに廻っている円筒の方眼紙の上に青いインキが針から滲(にじ)んで殆(ほとん)ど動くか動かぬかに水量と速度とをじりじりと鋸(のこぎり)形に印(しる)して進む。そこで若者は三和土(たたき)の間の方五、六尺の鉄板の蓋(ふた)を持ちあげる。暗々たる穴の底から冷気が吹きあげる。水は音なく流れて、地下十八尺の深さを、遥(はるか)の大都会へ休むなく奔(はし)りつつ圧(お)しつつある。しんしんとしたその奔入(ほんにゅう)。
 詩歌の本流というものもちょうどこうした深処(しんしょ)にあって幽(かすか)に、力強く流るるものだ。この本流のまことの生命力を思わねばならない。
 私は隆太郎の手をしっかと握った。
 彩雲閣へ戻ると、小坊主は直(すぐ)と名古屋へ帰るといい出した。名古屋の伯母さんは昨夜、この子の母に長距離の電話をかけていた。
「病気でもされると申し訳がありませんしね。それにお菊さんもまだ一度も里帰りしないのですから丁度いい折ですし、呼びましょうか」ということであった。それに従兄弟(いとこ)たちは大勢だし、汽車や電車のおもちゃはあるし、都会は壮麗だし、何か早く帰りたいらしかった。
「じゃあ、そうするか、たのむよ」と私は甥(おい)の三高生にその子を託した。
 空は薄明(はくめい)となる、パッと園内のカンツリー・ホテルに電灯がつく。白、白、白、給仕とテーブル。
 かえろかえろと、どこまでかえる。
 赤い灯(ひ)のつく三丁さきまでかえる。
 かえろが啼(な)くからかァえろ。
 並木の鈴懸(すずかけ)の間を夏の遊蝶花(ゆうちょうげ)の咲き盛(さか)った円形花壇と緑の芝生に添って、たどたどと帰ってゆく幼年紳士の歌声がきこえる。
「おうい」
 私は二階の欄干(てすり)へ出て両手をあげる。
「ほうい」
 向(むこ)うでもこちらを見て両手をあげる。
 白いかたわれ月は臈(ろう)たけて黄に明(あか)って来る。ほのかに白い白帝城を、私の小さい分身の子供が、立って停(とま)って仰いでいる。

 舟は遡(さかのぼ)る。この高瀬舟の船尾には赤の枠(わく)に黒で彩雲閣(さいうんかく)と奔放(ほんぽう)に染め出したフラフが翻(ひるがえ)っている。前に棹(さお)さすのが一人、後(うしろ)に櫓(ろ)をこぐのが一人、客は私と案内役の名鉄(めいてつ)のM君である。私は今日初めて明るい紫紺(しこん)に金釦(きんぼたん)の上衣(うわぎ)を引っかけて見た。藍鼠(あいねずみ)の大柄のズボンの、このゴルフの服は些(いささ)かはで過ぎて市中(しちゅう)は歩かれなかった。だが、この鮮麗な大河の風色(ふうしょく)と熾烈(しれつ)な日光の中では決して不調和ではない。私は南国の大きい水禽(みずどり)のように碧流(へきりゅう)を遡るのだ。
 爽快である。それに泡だったコップのビール、枝豆の緑、はためく白いテントの反射光だ。
 五日の午後一時、昨日のすさまじい濁流はいくらか青みを冴(さ)え立たして来たが、一旦(いったん)激増した水量はなかなかひきそうに見えない。だが、裸の子供が飛び込む、飛び込む。燦々(さんさん)たる岩の群(むれ)と、ごろた石の河原と両岸のいきるる雑草の花とだ。
 泳げよ泳げ。
 左は楊(やなぎ)と稚松(わかまつ)と雑木の緑と鬱(うつ)した青とで野趣(やしゅ)そのままであるが、遊園地側の白い道路は直立した細い赤松の並木が続いて、一、二の氷店(こおりみせ)や西洋料理亭の煩雑(はんざつ)な色彩が畸形(きけい)な三角の旅館と白い大鉄橋風景の右袂(たもと)に仕切られる。鉄橋を潜ると、左が石頭(せきとう)山、俗に城山である。その洞門のうがたれつつある巌壁(がんぺき)の前には黄の菰莚(むしろ)、バラック、鶴(つる)はし、印半纒(しるしばんてん)、小舟が一、二艘(そう)、爆音、爆音、爆音である。
 と、それから、人造石の樺(かば)と白との迫持(せりもち)や角柱(かくばしら)ばかし目だった、俗悪な無用の贅(ぜい)を凝(こ)らした大洋館があたりの均斉を突如と破って見えて来る。「や、あれはなんです」。
「京都のモスリン会社の別荘で」とM君が枝豆をつまむ。
「悪趣味だ」
 だが、ここまでである。それより上は全くの神斧鬼鑿(しんぷきさく)の蘇川(そせん)峡となるのだ。彩雲閣から僅(わずか)に五、六丁足らずで、早くも人寰(じんかん)を離れ、俗塵(ぞくじん)の濁りを留めないところ、峻峭(しゅんしょう)相連(あいつら)なって少(すくな)からず目をそばだたしめる。いわゆる日本ラインの特色はここにある。
 日は光り、屋形の、三角帆の、赤の、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
 遡航(そこう)は氷室(ひむろ)山の麓は赤松の林と断崖のほそぼそとした嶮道(けんどう)に沿って右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰(いぬがえり)でなも」と後(うしろ)から赤銅(しゃくどう)の声がする。
 烏帽子(えぼうし)岩、風戻(かざもどし)、大梯子(おおはしご)、そこでこの犬帰の石門(せきもん)、遮陽石(しゃようせき)というのだそうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図(ちょうかんず)を描くYさんのお宅ですよ」
 幽邃(ゆうすい)な繁りである。蝉(せみ)、蝉、蝉。つくつくほうし。
「この高い山は」
「継鹿尾(つがのお)山、叡光院(えいこういん)という寺があります。不老の滝というのもありますが上(あが)って御覧になりますか」
「いや、ぐんぐん遡(のぼ)ろう」
 風が涼しい、潭(たん)は澄み、碧流(へきりゅう)は渦巻く。紫紺(しこん)の水禽(みずどり)は、遡(さかのぼ)る。遡る。
「あれが不老閣」
「閑静だなも」
 と、これより先(さ)き、中流に中岩というのがあった。振り返ると、いつになく左後ろ斜(ななめ)に岩は岩と白い飛沫(しぶき)をあげている。
 それから、千尺の翠巒(すいらん)と断崖は浣華渓(かんかけい)となるのである。
波、波、波、波、波、
 波、波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
 波、波、波、波、
波、波、波、波、波、波、
「爽快(そうかい)爽快」
「富士ヶ瀬です」
 すばらしい飛沫(しぶき)、飛沫、飛沫、奔流しつつ、飛躍しつつ、擾乱(じょうらん)しつつだ。
 一面淙々(そうそう)たり。
「や」
「赤岩です」とM君。
 まさしく瑠璃(るり)の、群青(ぐんじょう)の深潭(しんたん)を擁(よう)して、赤褐色の奇巌(きがん)の群々(むれむれ)がかっと反射したところで、しんしんと沁(し)み入る蝉(せみ)の声がする。
 稚(わか)い雌松(めまつ)の林があり、こんもりとした孟宗藪(もうそうやぶ)がある。藪の外にはほのぼのとした薄くれないの木の花も咲いている。
「あれは何の木の花だね」
「漆(うるし)の花だなも」で、巧(たくみ)に棹(さお)を操る舳(とも)の船頭である。白のまんじゅう笠に黒色鮮(あざや)かに秀山霊水と書いてある。
 そのあたりが栗栖(くりす)の里。
 と、書き落(おと)したが、その漆の花が目に入(い)るまでに、石床(いしどこ)の大きなでこでこの岩、お富(とみ)与曾松(よそまつ)の岩というのがあった。恋は悲しい、遂(つい)に添われぬ身の果(はて)を嘆いて、お富もまた離ればなれに上(かみ)の手の岩から身を躍らしたと俚俗(りぞく)にいう。
「これがローレライで」
 ローレライはちと苦笑される。
 新赤壁(しんせきへき)は左にあった。その前を昔の中仙道が通って、ひとつうねると岩屋観音がある。白い汚れた幟(のぼり)が見える。
 ここで再び蕭々(しょうしょう)たる急湍(きゅうたん)にかかる。観音の瀬である。
「まだひどい水で」と前のがのめる。
 やっとのことで、その瀬をのぼり切ると、いよいよ河幅は狭くなる。いよいよ差迫(さしせま)った奇岩怪石の層層層、荒削りの絶壁がまたこれらに脈々と連なりそびえて、見る目も凄い急流となる。惜しいことには水がたかく、岩は半没して、その神工(しんこう)の斧鉞(ふえつ)の跡も十分には見るを得ないが、まさに蘇川(そせん)峡の最勝であろう。
 斎藤拙堂(せつどう)の「木蘇(きそ)川を下るの記」に曰(いわ)く、

 石(いし)皆(みな)奇状両岸に羅列す、或(あるい)は峙立(じりつ)して柱の若(ごと)く、或は折裂(せつれつ)して門の如(ごと)く、或は渇驥(かっき)の間に飲むが如く、或は臥牛(がぎゅう)の道に横たわる如く、五色(ごしき)陸離(りくり)として相間(あいまじ)わり、皴(しゅん)率(おおむ)ね大小の斧劈(ふへき)を作(な)す、間(たまた)ま荷葉(かよう)披麻(ひま)を作(な)すものあり、波浪を濯(あろ)うて以(もっ)て出(い)ず、交替去来、応接に暇(いとま)あらず、けだし譎詭(けっき)変幻中(へんげんちゅう)清秀(せいしゅう)深穏(しんおん)の態(たい)を帯(お)ぶ。

 兜(かぶと)岩、駱駝(らくだ)岩、眼鏡岩、ライオン岩、亀岩などの名はあらずもがなである。色を観、形を観、しかして奇に驚き、神悸(しんおのの)き、気眩(きげん)すべきである。
 拙堂も観た五色岩こそまた光彩陸離として衆人の目を奪うものであろうか。
 ただ私の見たところでは、この蘇川峡のみを以(もっ)てすれば、その岩相(がんそう)の奇峭(きしょう)は豊(ほう)の耶馬渓(やばけい)、紀(き)の瀞八丁(どろはっちょう)、信(しん)の天竜峡におよばず、その水流の急なること肥(ひ)の球磨(くま)川にしかず、激湍(げきたん)はまた筑後川の或個処(あるかしょ)にも劣るものがある。これ以上の大江(たいこう)としてまた利根川がある。ただこの川のかれらに遥(はるか)に超えたゆえんは変幻極まりなき河川としての綜合美と、白帝城の風致と、交通に利便であって近代の文化的施設余裕多き事であろう。原始的にしてまた未来の風景がこの水にある。船は翠嶂(すいしょう)山の下、深沈(しんちん)とした碧潭(へきたん)に来て、その棹(さお)をとめた。清閑(せいかん)にしてまた飄々(ひょうひょう)としている。巉峭(ざんしょう)の樹林には野猿(やえん)が啼(な)き、時には出(い)でて現れて遊ぶそうである。
 私は舟より上(あが)って、とある巌頭(がんとう)に攀(よ)じのぼった。
 蓋(けだ)し天女ここに嘆き、清躯(せいく)鶴のごとき黄巾(こうきん)の道士が来(きた)って、ひそかに丹(たん)を練り金を練る、その深妙境(しんみょうきょう)をしてここに夢み、或(あるい)は遊仙(ゆうせん)ヶ岡(おか)と名づけられたものであろう。
 遺憾なは「これより上へはどうしても今日はのぼれませんで」と舟人(かこ)はまた棹をいっぱいに岩に当てて張り切ったことである。
 たちまち舟は矢のように下る。
 千里の江陵(こうりょう)一日にかえる。
 おお、隆坊はどうしている。
 自動車は駛(はし)る。
 犬山の町長さんは若い白面(はくめん)の瀟洒(しょうしゃ)な背広服の紳士であった。白帝園はカンツリー・クラブの大食堂で私たち三人――私と素峰子(そほうし)と運転手と――が、この八月六日の極めて簡素な午餐(ごさん)を認(したた)めていた時に、たまたま給仕を通じて私に挨拶(あいさつ)に見えた。はいって来ると、名刺を一々運転手君にまでうやうやしく手交(しゅこう)した。若(も)しそうと知ってしたのならば美しいことだと微笑された。またそれほど黒背広の運転手君もひとかどの紳士らしく見えた。すなわち近代の日本ラインである。
 カンツリー・クラブは緩(ゆる)い勾配の屋根の、錆(さび)色の羽目(はめ)の中二階で、簡素ないい趣味の建築である。バンガロー風で、正面と横とに広い階段がついている。その正面の階段の下の、明るい色彩の花壇の前で、私は改めて一礼すると、車上の人となった。雀のお宿の素峰子(そほうし)はきのうの朝から激しい胃痙攣(いけいれん)で顔色がなかった。今日も案内がおぼつかないので、犬山橋駅に廻って、赤い腕章の旅客課の制帽君の同乗をたのむことにした。
 自動車は駛(はし)る。鉄橋を北へ、まっしぐらに駛って行く。と、ちらっと、白帝城と夕暮富士とが目を掠(かす)める。
 きのうの夕焼は実によかったと思う。その返照(へんしょう)はいつまでも透明な黄の霞(かす)んだ青磁や水浅葱(みずあさぎ)の西の空に、紅(あか)く紅く地平の積巻雲(せきけんうん)を燃え立たせた。そうして紫ばんで来た秀麗な夕暮富士の上に引きはえた吹き流し形の、天蓋(てんがい)の、華鬘(けまん)の、金襴(きんらん)の帯の、雲の幾流は、緋(ひ)になびき、なびきて朱となり、褪紅(たいこう)となり、灰銀(かいぎん)をさえ交(まじ)えたやわらかな毛ばだちの樺(かば)となり、また葡萄紫となった。天守閣のかすかに黄に輝き残る白堊(はくあ)。そうして大江の匂(におい)深い色の推移、それが同じく緋となり、褪紅となり、やわらかな乳酪(にゅうらく)色となり、藤紫となり、瑠璃紺(るりこん)の上(うわ)びかりとなった。そうして東の瑞泉寺(ずいせんじ)山に涌出(ゆうしゅつ)した脳漿形(のうしょうがた)の積雲と、雷鳴をこめた積乱雲との層が見る見る黄金色の光度を強めて今にも爆裂しそうに蒸し返すと、また南の葉桜の土手の空にもむくりむくりと同じ色と形の入道雲が噴きあがっていた。この夕焼けもラインとよく似た美しい一つの天象だという。伊吹山の気流の関係で、この日本ラインにのみ恵まれた雲と夕日の季節の祭りである。
 私たちの軽舟(けいしゅう)は急流に乗って、まだ大円日(だいえんじつ)の金の光輝が十方に放射する、その夕焼けの真近をまたたく間に走り下(くだ)って来た。そうして白帝城下の名も彩雲閣の河原に錨(いかり)を下ろし纜(ともづな)をもやったのであった。と、名古屋から電話がかかっていて隆太郎の母は直(すぐ)にも見えるはずだということであった。
 それが今日は生憎(あいにく)早暁(そうぎょう)からの曇りとなった。四方(よも)の雨と霧と微々たる雫(しずく)とはしきりに私の旅情をそそった。宿酔(しゅくすい)の疲れも湿って来た。
 この六日は下(しも)の河原で年に一度の花火の大会がある筈(はず)であった。名古屋の甥(おい)たちや隆太郎にも見に来るように通知はしたが、それもどうやら怪しくなって来る。果然(かぜん)雨天順延となって、私の旅行日程にもまた一日の狂いが生じて来たので、無聊(ぶりょう)に苦しむよりは雨の日本ラインの情趣でも探勝しようかとなった訳である。
 自動車は駛(はし)る。
 と、気がつくといつのまにか北へ向かったので南へ駛りつつあった。や、例の樺(かば)と白との別荘だなと思うと、中仙道は川添いの松原と桃林との間を東へ東へと驀進(ばくしん)しつつある。
 新赤壁(しんせきへき)の裾を幾折れして、岩屋観音にかかる。漢画風の山水である。トンネルがあり、橋がある。路(みち)はやや沿岸を離れて桑(くわ)畑と雌松(めまつ)の林間に入(い)る。農家がある。鳳仙花(ほうせんか)や百日草が咲き、村の子が遊び、鶏(にわとり)がけけっこっこっこっである。高原の感じである。
 秋、秋、秋、秋。
 太田の宿(しゅく)にはいる。右へ折れて鉄橋を渡れば、対岸の今渡(いまわたり)から土田(どた)へ行けるのだが、それがライン遊園地への最も近い順路であるのだが、私は真直(まっすぐ)にぐんぐん駛(はし)らせる。なるべく上流へ出て迂回しようと思ったのである。
 ストップ! 古井(こい)の白い鉄橋の上で、私は驚いて自動車を飛び降りた。その相迫った峡谷の翠(みどり)の深さ、水の碧(あお)くて豊かさ。何とまた鬱蒼(うっそう)として幽邃(ゆうすい)な下手(しもて)の一つ小島の風致であろう。煙霧は模糊(もこ)として、島の向(むこ)うの合流点の明るく広い水面を去来し、濡れに濡れた高瀬舟は墨絵の中の蓑(みの)と笠との舟人(かこ)に操られてすべって行く。
 私たちがその青柳橋の上に立っていると、何が珍しいのかぞろぞろと年寄や子供たちが周囲にたかって来た。この川はと聞くと飛騨川と誰(たれ)か答えた。高山(たかやま)の上の水源地から流れて来てこの古井(こい)で初めて木曾川に入(い)るのだとまた一人が傍(かたわら)から教えてくれた。じゃあ、あの広いのが木曾川だなと思えて来た。
「あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね」
「小山(こやま)観音」
「縁日(えんにち)でもありますか」
「ちょうど七月の九日が御開帳(おかいちょう)でして、へえ、毎年です」
「店も出ましょうね」
「ええ、河原は見世屋(みせや)でそれはもういっぱいになりますで」
 水に映って、それは閑雅(かんが)な灯(ひ)のちらちらであろうと思えた、この支流である飛騨川の峡谷はまた本流の蘇川峡とは別趣の気韻(きいん)をもって私に迫った。上手(かみて)の眺めにもうち禿(はげ)た岩石層は少(すくな)く、すべてが微光をひそめた巒色(らんしょく)の丘陵であった。深沈(しんちん)としたその碧潭(へきたん)。
 私たちはまた車上の人となる。藍鼠(あいねずみ)と燻銀(いぶしぎん)との曇天、丘と桑畑、台が高いので、川の所在は右手にそれぞと思うばかりで、対岸の峰々や、北国風(ほっこくふう)の人家を透かし透かし、どこまでもと自動車は躍ってゆく。土の香(か)がする。草のかおりがする。雨と空気と新鮮な嵐と、山蔭(やまかげ)は咽(むせ)ぶばかりの松脂(まつやに)のにおいである。駛(はし)る、駛る、新世界の大きな昆虫。
「見えた。あの鉄橋からまわりますか」
「よし」
 そこでハンドルを右へきゅっと廻す。囂囂囂(ごうごうごう)とそのつり橋を渡ってまた右折する。兼山(かねやま)の宿(しゅく)である。と風光はすばらしく一変する。爽快爽快、今来た峡谷の上の高台が向(むこ)うになる。薄黄の傾斜面と緑の平面、平面、平面、鉾杉(ほこすぎ)の層、竹藪、人家思いきり濃く、また淡く霞(かす)む畳峰(じょうほう)連山、雨の木曾川はその此方(こなた)の田や畑や樹林や板屋根の間から、突(とつ)として開けたり離れたりする。岩礁が見える。船が見える。あ、檜(ひのき)だ、瓦(かわら)だ、絵看板だ。
 遥(はるか)にまた煙突、煙突、煙突である。あの黒い煙はと聞くと、あれは太田だという。よくも上まで来たものだと思う。いや、かれこれ二時間は走っていますと運転手が笑う。こうして兼山から伏見(ふしみ)、伏見から広見(ひろみ)、今渡(いまわたり)とかっ飛ばすのである。
 土田(どた)は名鉄(めいてつ)の犬山口から分岐する今渡線の終点に近い。ちらとその駅をのぞいて、また右へ、ライン遊園地へ向けて、またまた驀進(ばくしん)驀進驀進である。行けるところまで行って、危く何かにぶつかりそうにしてとまると、奇橋がある。「土田の刎橋(はねばし)」である。この小峡谷は常に霧が湧き易(やす)くて、こめると上(うえ)も下(した)も深く姿を隠すという。重畳(ちょうじょう)した岩のぬめりを水は湍(たぎ)ち、碧(あお)く澄んで流れて、いうところの鷺(さぎ)の瀬となる。
 橋の袂(たもと)で敷島(しきしま)を買って、遊園地の方へほつりほつりと私たちは歩いてゆく。雨はあがりかけて日の光は微かに道端の早稲(わせ)の穂にさしかけて来る。七夕(たなばた)の紅(あか)や黄や紫の色紙がしっとりとぬれにじんでその穂や桑(くわ)の葉にこびりついている。死んだ蛍(ほたる)のにおいか何かが咽(むせ)んで来る。あけっぱなしの小舎(こや)がある。蚕糞(こくそ)や繭(まゆ)のにおいがする。莚(むしろ)が雑然と積んである。表に「自転車無料であずかります」と貼札(はりふだ)してある。この道七、八丁。
 宏壮(こうそう)な北陽館の前に出る。二階の渡り廊下の下の道路を裏へ抜けると、ここに驚くべき大洞可児合(だいどうかにごう)の壮観が眼下に大渦巻をまきあげる。断崖百尺の上の、何と小さな人間、白の黒の紫紺(しこん)のぽつり、ぽつり、ぽつりだ。
 大洞可児合は蘇川(そせん)中の一大難所である。その本流と可児(かに)川の合(がっ)するところ、急奔(きゅうほん)し衝突し、抱合し、反撥する余勢は、一旦(いったん)、一大鉄城(てつじょう)のごとく峭立(しょうりつ)し突出する黒褐(こっかつ)の岩石層の絶壁に殺到し、遮断されて水は水と撃(う)ち、力は力と抗(さから)い、波は岩を、岩は波を噛んで、ここに囂々(ごうごう)、淙々(そうそう)の音を成(な)しつつ、再び変圧し、転廻し、捲騰(けんとう)し、擾乱(じょうらん)する豪快無比の壮観を現出する。藍(あい)と碧(あお)と群青(ぐんじょう)と、また水浅葱(みずあさぎ)と白と銀と緑と、渦(うず)と飛沫(ひまつ)と水※(「さんずい+區」、第3水準1-87-4)(すいおう)と、泡と、泡と、泡と。
 膚粟(はだえあわ)を生ずとはこのことだろう。私は驚いて数歩下(くだ)った。
 そこで、また踵(くびす)をめぐらして岩角(がんかく)と雑草の間の小径(こみち)を香木(こうぼく)峡の乗船地へと向(むか)っておりた。
 しかも明るくひろくうち開けた上流の空の、連峰と翠巒(すいらん)、濛々(もうもう)たる田園の黄緑(こうりょく)、人家、煙。霧、霧、霧。
 どこかで茶でも飲もうではないか、茶見世(ちゃみせ)ぐらいはあるだろうといえば、ありますありますと答えながら、赤い腕章の制帽はそれでも一軒の葭簀(よしず)の茶亭は通り越してしまう。途中に白いペンキ塗の洋館の天狗何々(なになに)と赤い看板を出したそのドアの前にかかったが、窓のガラスもことごとくしめきって「当分休業中」であった。夏でもここまでの遊覧客はさして見えないらしい。ライン遊園地もまだ完成しないで、自然の雑木原(ぞうきはら)に近い。窪地にスケート・リンクなどがあるくらいだから沍寒(ごかん)はきびしいのであろう。崖の縁(ふち)へ出ると漸(ようや)く休憩所の一つを見出した。人の気配もせぬので、のぞいて見ると隅(すみ)っこの青く透(す)いたサイダー瓶の棚の前に、鱗光(りんこう)の河魚(かわうお)の精のような爺(おやじ)が一人、しょぼんと坐っていた。ぼうと立つのは水気(すいき)である。
 翠嶂(すいしょう)山と呼ぶこのあたり、何かわびしい岩礁と白砂(はくさ)との間に高瀬舟の幾つかが水にゆれ、波に漂って、舷々(げんげん)相摩(あいま)するところ、誰(たれ)がつけたかその名も香木峡という。左に碧(あお)くそそり立つのが碧巌峰(へきがんほう)である。
 そこで屋形の船のひとつを私は小手招(こてまね)く、そこここの薄墨(うすずみ)の、また朱のこもった上の空の、霧はいよいよ薄れて、この時、雲のきれ間から、怪しい黄色(おうじき)の光線が放射し出した。これからまたひとしきりなぎになって蒸し暑く蒸し暑くなるのである。
「じゃあ、ここでお別れします。私は土田(どた)へ出てこの山の裏手を廻って帰りますが、どちらが早いかひとつ競争して見ますかな」
 自動車の運転手が笑った。
「よかろう」と私たちは舟に乗り込む。船頭はやはり二人で、棹(さお)をつつッと突張(つっぱ)るや否や、後(あと)のが櫓(ろ)べそを調べると、櫓をからからとやって、「そおれ出るぞぉ」である。
 白帝城下まで二里半だということである。
 舟は走る、五色(ごしき)の日本ライン鳥瞰図(ちょうかんず)が私の手にある。
「ほう、あれが少女の滝かね」その滝は左の緑蔭(りょくいん)から懸(かか)ってあまりに幽(かす)かな水の線、線、線であった。
 右にうずくまるのがライオン岩、深厳(しんげん)として赭黒(しゃこく)である。と、舟は直(ただち)に遊仙ヶ岡の碧潭(へきたん)にさしかかる。
 その仙境を離れると、流れはいよいよ急である。昨日に比して少(すくな)からず減じた水量のために河中(かちゅう)の巌石(がんせき)という巌石は、ことごとく高く高くせり上(あが)って、重積した横の、斜(ななめ)の斧劈(ふへき)も露わに千状万態(ばんたい)の奇景を眼前に聳立(しょうりつ)せしめて、しかも雨後の雫(しずく)は燦々(さんさん)と所在の岩角(がんかく)、洞門にうち響きうち響き、降るかとばかりに滾(こぼ)れしきる。
 河峡はいよいよ狭く、流れはいよいよ急に、舟は危うく触れんとして畳岩(じょうがん)絶壁のすれすれを走り下(くだ)る。
「や、あれは」
 と、目をみはった。
 一羽、ふり仰ぐ一大岩壁の上に黄褐(こうかつ)の猛鳥、英気颯爽(さっそう)としてとまって、天の北方を睨(にら)んでいる。鉤形(かぎがた)の硬嘴(こうし)、爛々(らんらん)たるその両眼、微塵(みじん)ゆるがぬ脚爪(あしつめ)の、しっかと岩角(がんかく)にめりこませて、そしてまた、かいつくろわぬ尾の羽根のかすかな伸び毛のそよぎである。
「鷹(たか)だね」
「え、」と驚いて旅客課「そうです。鷹です」
 冷気一道に襲って、さすがに蘇川(そせん)は深山幽谷の面影が立った。
「身動きもしないんだね、船が下を通っても」
 私は驚いたのである。
 心音の動悸(どうき)が止(や)まぬのに、またしても一羽、右手の駱駝(らくだ)岩の第一の起隆の上に、厳然(げんぜん)としてとまっている。相対した上の鷹、おそらくはつがいであろう。
 いいものを見たと私は思った。野猿(やえん)の声こそは聞けなかったが、それにも増して私は偶然の、時の恩寵(おんちょう)を感じずにはいられなかった。
 私は幾度も幾度も振返(ふりかえ)った。
 激湍(げきたん)、白い飛沫(ひまつ)の奔騰(ほんとう)する観音の瀬にかかって、舟はゆれにゆれて傾く。
 鷹は絶壁の遥(はるか)に黒く、しかも確実に二個の点として厳(げん)としている。小さく小さくなる。一個は消えても、一羽の英姿はいつまでもいつまでも残ってみえる。その向(むこ)うの空のぬれた黝朱(うるみ)の乱雲、それがやがては褐(かつ)となり、黄となり、朱に丹(あか)に染まるであろう。日本ラインの夕焼けにだ。
 あ、白帝城が見え出した。
 香木峡から四十分、彩雲閣の河原に着いて、上(あが)ると、その白帝園のカンツリー・クラブの前へ、無料休憩所の方から、驚いたスピードで大型の昆虫の黒に藍(あい)の自動車がはしって来た。ハンドルを両手に、パナマを阿弥陀(あみだ)に頭の毛を振り振り、例の快活な笑いの持ち主だ。
「や、万歳(ばんざい)、勝負なし」

「ほら、坊や、さよならだ、帽子をお振り」
「さようならァ――」
「もひとつ」
「さようならァ――」
 下りの高瀬舟に坐っているのは私たち親子と雀のお宿の主人との三人である。
 彩雲閣の二階からは盛んに白いハンカチーフがゆれて光る。女中たちである。
 私たちも一寸(ちょっと)芝居気(しばいぎ)を出して、パナマや雀頭巾(すずめずきん)を振る。童話の中の小さな王子のお蔭で、朗(ほが)らかに朗らかに私たちも帽子が振れるというものだ。
 私たちは下(くだ)る。赤い雌松(めまつ)の五、六本をあしらった二重舞台の楼閣(ろうかく)が次第次第に白帝城の翠巒(すいらん)に隠れてゆく。ちらとまたその隙間から白いひらひらが見えたかと思うと、また老樹の樫(かし)や楓(かえで)の鬱蒼(うっそう)たる枝の繁みに遮られてしまう。と、それっきりで、八月八日は午前十一時の閑寂(かんじゃく)なせみ時雨(しぐれ)になる。日本ラインとのお別れである。
 水道の取入口も過ぎ、西谷(にしたに)は迎帆楼(げいはんろう)の前も過ぎた。あの前での昨日の人だかりというものは昼の花火の黄煙菊(おうえんきく)よりも埃(ほこり)をあげた。丁髷鬘(ちょんまげかずら)の赤陣羽織(あかじんばおり)に裁付袴(たっつけばかま)の爺(おやじ)どもが拍子木に鉦(かね)や太鼓でライン酒(しゅ)とかの広告(ひろめ)の口上(こうじょう)をまくし立てる。その幟(のぼり)の蔭から、盆の上のリキュウグラスに手を出して無料じゃ無料じゃという赤いのを一杯試し飲みして見たところで、「これは焼酎(しょうちゅう)かね」と聞けば「いや別製でなも、原料水は、へへん、ラインの水で」と扇を叩いた。「赤いのは」と聞けば「色で染(そめ)やしたで」とまた扇を叩いた。色は樺太(かばふと)[#ルビの「かばふと」はママ]のフレップ酒に似て、地の味はやはり焼酎の刺激がある。土地の名産忍苳酒(にんとうしゅ)は味淋(みりん)に強い特殊の香気を持たしたものらしい。
 それは兎(と)に角(かく)、舟は今、三光(さんこう)稲荷の下にかかって来る。三光稲荷の夏祭は津島祭の逆鉾(さかほこ)舟――一年十二ヶ月は三百六十五の提灯(ちょうちん)を山と飾った華麗と涼味とを極めた囃子(はやし)舟である――にならって、これもおなじく水の祭が極彩色(ごくさいしき)でと町長の話であった。今後はいよいよ盛んに奨励する意向にも聞いた。民衆の祭は盛んであるほど郷土の意気が勇む。水を祭るは水郷(すいきょう)のほこりである。精華である。私の郷国(きょうこく)筑後の柳河(やなかわ)は沖の端の水天宮の水祭(みずまつり)には、杉の葉と桜の造花で装飾され、簾(すだれ)を巻き蓆張(むしろば)りの化粧部屋を取りつけた大きな舟舞台が、幕あいには笛や太鼓や三味線の囃子(はやし)もおもしろく町の水路を三日三夜(よ)さも上下する。そうして町のかわるたびに幕をかえ、日をかうるたびに歌舞伎の芸題(げだい)も取りかえる。そうした小運河はまた近在の小舟でうずまってしまう。その五月の喜ばしさというものはなかった。まことに水は祭られてよい。夏は、風は、魚(うお)は、岩は、砂は、この日本ラインにしていよいよ煌々(こうこう)と祭らるべきである。その三光(さんこう)稲荷の水の祭もほんのすこし前に過ぎたばかりだということであった。
「坊や、昨夜(ゆうべ)の花火は奇麗だったね」
「うん、奇麗だったね」
 ちょうど河の中の白い三角洲の横を舟はまた走りつつあった。その洲(す)には赤い旗がひるがえり、数百の花火筒が林立した前の日であった。
 隆太郎はその朝、従兄弟(いとこ)たちと名古屋から来た。彼の母はとうとう見えないことになった。すっかり期待を裏切られた幼童の失望はどれほど大きかったか。それでも彼は堪(た)えに堪えていた。一生懸命に口を結んで泣くまいとしていた痛々しさが父の胸にはひたひたと響き返した。この暑さにこの幼い子を十余日の旅に連れあるくことは危険でもあり、少々果断(かだん)にも過ぎた。それで来られるものならその母に預けて、私は単独に気軽にあるき廻ろうかと思っても見た。何でも余りに便通がないので、名古屋では挙(こぞ)って心痛したということであった。「そりゃあね、庭の鳳仙花(ほうせんか)の中か、裏の玉蜀黍畠(とうもろこしばたけ)にでも連れてきゃよかったんだよ」と私は三高生に笑って見せたが、「それでも下剤薬を飲ましたので通じましたよ」とその甥(おい)がまた笑い出した。そうして、「ちょっと泣きましたよ」と顔を赤くした。病気にでもなられては困るが、兎(と)も角(かく)、それでは一緒に連(つれ)て行こうとなった。よしスパルタ教育だ。この旅行は隆太郎にとっては生れて初めての意義ある見学であるのだ。幼児の叡智(えいち)と感情と感覚と意志との上に増大し生長し洗練さるる何物かは寧(むし)ろ危険以上のものであるに違いない。で、私も決行したのであった。
「や、花火の椀殻(わんがら)だな」
 炸裂(さくれつ)した後(のち)の黒い半分ずつの椀殻が水にぽかりぽかりと漂っている。おしどりのようだ。
 まったく、長い、薄明(はくめい)がいよいよ暮つくして短い夏の夜(よ)に入(い)ってからの花火の壮観はすばらしかった。菊花壇(きくかだん)、菊先乱発(きくさきらんぱつ)、二尺玉、三尺玉、大菊花壇、二百発三百発の早打(はやうち)、電光万雷、銀錦変花(ぎんにしきへんか)、菊先錦群蝶(きくさきにしきぐんちょう)、青光残月、等等等。燦爛(さんらん)たる孔雀玉の紫と瑠璃(るり)と、翡翠(ひすい)と、青緑(せいりょく)。紅(べに)と緑の光弾、円蓋(えんがい)、火箭(ひや)、ああ、その銀光の投網(とあみ)、傘下(からかさおろ)し、爆裂し、奔流(ほんりゅう)し、分枝(ぶんし)し、交錯し、粉乱(ふんらん)し、重畳(ちょうじょう)し、傘下(からかさおろ)し、傘下し、傘下し、八方に爛々(らんらん)として一瞬にしてまた闇々(あんあん)たる、清秀とも、鮮麗とも、絢爛(けんらん)とも、崇美(すうび)とも、驕奢(きょうしゃ)とも、譬(たと)うるに言葉も絶えた。加えて波上(はじょう)の炎々たる水雷火(すいらいか)、その魚鱗火(ぎょりんか)、連弾光、鵜舟(うぶね)の篝(かがり)、遊覧船の万灯(まんとう)、提灯(ちょうちん)、手投げの白金光、五彩の変々たる点々光、流出柳箭(りゅうしゅつりゅうせん)、けだし参(さん)と信(しん)との花火芸術の最高を極め精を尽くし神(しん)を凝(こ)らしたものであった。
 空には月明らかに雲薄く、あまつさえ白帝城の甍(いらか)と白堊(はくあ)とを耿々(こうこう)と照らし出したのである。
 然(しか)しまた、そうした一夜の歓楽も過ぎた。祭りの後の果敢(はか)なさ、そのあわれさは、この水にしてひとしおである。
 舟はいま夕暮富士を右手に、その三角洲の緩(ゆる)い彎曲線に沿うて左寄りの分流を走りつつすべりつつある。
 阪下(さかした)という、ごろた石の土手の斜面に舟夫(かこ)はちょいと舟をとめる。十二、三ばかりの、女の子が前かがみに何か線の細かな菜(な)の葉(は)をすすいでいる、芹(せり)かときいてみるとかすかに顔を赤らめながら、人参(にんじん)の葉だという。その傍(そば)で半襦袢(はんじゅばん)の毛脛(けずね)の男たちが、養蚕(ようさん)用の円座(えんざ)をさっさっと水に浸して勢いよく洗い立てる。空(から)の高瀬舟が二、三艘(ぞう)。
 船はまた岸を離れる。振り返ると、おお何と典麗(てんれい)な白帝城であろう。蓊鬱(おううつ)たる、いつも目に親しんで来たあの例の丘陵の上の、何と閑雅(かんが)な甍(いらか)、白い楼閣(ろうかく)、この下手(しもて)から観るこの眺めこそは絶勝であろう。私はつくづく下って来てよかったと思った。
「坊や、ほら、お城が見えるよ」
「ほんとだ、お城だ」
 だが、その白帝城とも、じきにお別れである。
 分流は時に細い早瀬となり、蘆荻(ろてき)に添い、また長い長い木津(きづ)の堤(つつみ)の並木について走る。堤には風になびく枝垂柳(しだれやなぎ)も見える。純朴な古風の純日本の駅亭もある。そうして昔作(むかしづくり)の農家。
 私たちはまた振り返る。「さようならお城」はるかのはるかの白帝城。
 船はまた大江(たいこう)の河心(かしん)に出る。石船の帆が白く、時に薄い、紫の影の層をはらんで、光りつつ輝きつつ下をまた真近を、群れつつ、離れつつ去来する。
 それよりも、実に驚いたのは、宏大な三角洲の白砂(はくさ)のかがやきであった。実に白い、雪以上の、白以上の強い、輝く白、その「白」がその全面をもって、直射する、また氾濫(はんらん)する日光を照りかえす、その「白」の美感は崇高そのもの、神采(しんさい)そのものでなくて何であろう。常に「白」の気韻(きいん)を香気を幻惑を愛する私にとって、これほどのこうごうしい魅惑はむしろ私を円寂境(えんじゃくきょう)の思慕にまで誘う。私はこれほどまでの石や砂の白い実相をかつて見たことがない。
 そうして汪洋(おうよう)たる本流、輝く白のあなたの分流、対岸の、また下流の煙霞(えんか)、
「海、海」と隆太郎は叫ぶ。
 ところで、その子はビールの空瓶(あきびん)を舷(ふなべり)から、ぽんと水に投げる。瓶は初め茶褐(ちゃかつ)に、後(のち)は黒く、首だけもたげもたげして流(ながれ)に浮く。青の紫の鴨(かも)の首、うしろにうしろに遠くなる。それほど舟が早いのだ。
「まだあかないの、まだあかないの」
「坊や、そんなに飲めるかい、待ってくれ」
 それでも空(から)のビール瓶がほしさの、立ち上(あが)っては両手に、しゅうっとコップにむりやりである。
「困るよ、困るよ、ほら飛行場が見える」
 と、岸には黒人種風景の、裸の童子と童女がいる。松と草藪(くさやぶ)と水辺(すいへん)の地面と外光と、筵目(むしろめ)も光っている。そうして薄あかい合歓(ねむ)の木の花、花、花、そこが北島、向(むこ)う遥(はる)かが草井の渡し。
 前波(まえなみ)不動の幽雅な小丘(しょうきゅう)を右に見て、また耳に聞く左は梭(おさ)の音のしずかな絵絹(えきぬ)織る松倉の里である。
 と、本流の水はまた一つの三角洲を今度は左に押しつめて、広く広く斜(ななめ)に、河幅を右へ右へと開いてゆく。おお、また渺々(びょうびょう)として模糊(もこ)たる下流。
 笠島の渡しというところを過ぎる。右の斜面の鼠色じみた帆の幌の小舎(こや)の内では、褌(ふんどし)ひとつの船大工が船の内側を河心(かしん)へ向けて、ととんとん、ととんとんとんと釘を打ち打ちしている。ほれぼれとしたものだ。遊ぶようなその鉄槌(かなづち)の手。
 私たちの舟はまた櫓(ろ)の音も緩(ゆる)く緩く波上に遊んでゆく、流れはもはや急ではない、大江(たいこう)の浩蕩(こうとう)とした漣(さざなみ)である。
 北方(きたかた)村本郷(ほんごう)というところで、私たちは三艘(ぞう)の水車船を見た。また下流で二艘の同じような船を見た。船には家があり横の両側には二台ずつの軽い小板(こいた)の水車が廻っていた。内部には杵(きね)の音がし、小糠(こぬか)のにおいがこめ、男女の声がしていた。支那の戦車のような形の船であった。これらは流れの瀬の替わるにつれて、昨日は下(しも)、明日は上(かみ)へとのぼるのである。簡素ないい情趣である。
「これは、童謡になるな」と、私は眺め眺めすれちがってゆく。
 東海道線は長い長い木曾川の鉄橋が近づいて来た。
「あ、あの右袂(たもと)が笠松の四季の里です、向(むこ)うが雀のお宿」
 素峰子(そほうし)は舳(へさき)に立って、白に赤の黒の彩雲閣のフラフを高く高く振(ふり)なびかす。ちょうど鉄橋をくぐって出たところである。見ると、やや下手(しもて)の左岸の松林の外では何かしきりに叫んで騒いでいる群(むれ)があった。裸の童(わらべ)たちである。童(わらべ)ヶ丘(おか)とはそのお宿の砂丘にかつてたのまれて私が名付けたものであったが、こうしてちかぢかと来て眺めるのは今が初めてである。
「呼んでますわァ」
「君のとこの林間学校の子供たちだね。幾人ぐらい来る」
「昨年は百六十名ほど来ましたが、この夏は六十名くらいでしょうか、それに岐阜加納(かのう)竹ヶ鼻笠松の子供が一週に四、五回は先生に連(つれ)られて参りました。そうです。五、七十名ずつ一ノ宮、奥町の子供も遊びに来ますで」
「それは盛んだな」と私はまた、一人が飛び、翻(ひるがえ)った向(むこ)うの投水台(とうすいだい)の強いかがやきをうち見やった。警戒標の旗の先だけが、その下の河心(かしん)に赤い点をうっている。雨後の増水に流されて位置を変えたのであろう。
「起(おこし)の水泳場というのはどこだね」
「ずっと下(しも)でなも」と蹲(うずくま)っていたのが、また立ちかける、先棹(さきさお)である。
「起(おこし)はどうもあかんで」と後(あと)の櫓(ろ)の手が右斜へいささか引き気味に、ここで刻みかけると、何鳥か白く光って空をば過ぎた。
 と、私たちの小舟は小豆(あずき)色のひろびろとした洲(す)の浅みに沿って、いきれたつ蘆(あし)や薄(すすき)のあいだにすれすれと横になってとまった。四季の里である。
 と、その時、その裏の岸辺に早くも出迎えていたその里の老主人と笠松の町長さんとであった。
 そこで「とうとうお連(つ)れ申したで」と雀頭巾(すずめずきん)は素峰子の眼鏡が光った。
「美濃側の笠松へ第一に舟は着けてお貰いしないと承知せぬで。尾張側の雀のお宿は後(あと)まわし後まわし」で笑って、「木曾川下りといえば昔はこの笠松までときまっていたものだ。日本ラインばかりで独占するとは怪(け)しからん」とその家の主人がいきまいたと、それは昨日聞いた話であった。そう聞いて、今日の眺めに接すると、全くそうに違いないと思えた。河口はとにかく、犬山からこの笠松までの悠容(ゆうよう)たる大景を下流にして、初めて中流の日本ライン、上流の寝覚(ねざめ)、恵那(えな)の諸峡が生きるのである。河川として他に比類のない多種多様の変化が、そうしてそれらの綜合美が。
 水に臨んだ広い楼上(ろうじょう)に登って、私は下りに下って来た鉄橋の遥(はるか)を顧(かえり)みた。蘇川峡の奇勝、岩壁の鷹(たか)、白帝城、雨と朱の夕焼けと花火と、今はただ眼に入(い)るものは雲である、江陵である。つい一、二時間前に見た白く輝く三角洲、分流の早瀬、船大工のとんとん、水車船の野趣、何だか遠い日の向(むこ)うの煙霞(えんか)と隔たってしまったような気がする。
 私はまたこの晴れた日の大江(たいこう)の下(しも)のあなたを展望した。長堤は走り、両岸の模糊(もこ)たる彎曲線の末(すえ)は空よりやや濃く黒(くろ)んで、さて、花は盛りの紅(べに)と白とのこの庭の百日紅(さるすべり)の近景である。幽雅な繁みと茶亭と、晩夏の日射と蝉(せみ)の声と。
 籐(とう)の卓と籠(かご)の椅子と、冷(ひや)した麦茶のコップと鉢の緑の羊羹(ようかん)と鮎(あゆ)の餅菓子。
 東と南とに欄干(てすり)は繞(めぐ)り、廂(ひさし)にはまた藤(ふじ)の棚がその葉の青い光線から、おなじくまだ青い実の莢(さや)を幾条(すじ)も幾条(すじ)も垂らしてはいるが、そうして昼間の岐阜提灯(ちょうちん)にもが、風はそよともしないのである。
 暑い、なかなか激しい。蝋塗(ろうぬ)りの白い団扇(うちわ)が乱れ出した。
 午後一時。見おろす一面の河幅(かふく)は光り、光の中に更に燦々(さんさん)たるものが光って、その点々を舷側(げんそく)に、声なく浮ぶ小舟がある。小舟には一、二の人かげの水にうつって、何やらしきりに棹(さお)で河心(かしん)を探っている。それは明るいしずかな画趣である。河底(かてい)の砂にうもれた「木(こ)はし」をあさるのだそうな。「木はし」は流木の髄(ずい)であると聞いた。洪水に押流(おしなが)されてきた樹木の磨き尽くし洗い尽くされた末(すえ)の髄である。焚木(たきぎ)としてこれほどのものはなかろう。烈々(れつれつ)として燃え滓(かす)ひとつ残らないという。河畔(かはん)の貧しい生活者にもこうした天与の恩恵はある。
 うち興(きょう)じていると、「しこらん」という土地の名菓が出る。豊太閤が賞美してこの名を与えたそうである。形は兜(かぶと)の錣(しころ)のごとく、かおりは蘭(らん)のごとしというのだそうな。略して「しこらん」。私は和蘭陀(オランダ)語かと思った。おこしの類(るい)で、細く小切(こぎり)にした、かりかりと歯にあたって、気品のある杏仁水(きょうにんすい)の風味がある。
 この笠松はその昔「葦(あし)の洲(す)」と称(とな)えた蘆荻(ろてき)の三角洲で、氾濫する大洪水の度(たび)ごとにひたった。この狐狸(こり)の巣窟(そうくつ)を発(あば)いて初めて拓(ひら)いたのが三(み)ツ家(や)の漂流民だと伝えている。その後秀吉が築堤してから、元は尾張に属していたのを何か心あって美濃の所領に移したものだと、「旧幕の頃には天領として郡代(ぐんだい)が置かれたものでして、ついこの下(しも)の土手に梟首場(さらしくびば)の跡がございますが」と町長、椅子から伸び上(あが)った。
 鉄道開通以来、土地の人が頑固で、折角(せっかく)の停車場の設置を肯(がえん)ぜなかったばかりに、木曾下流の渡船場として殷賑(いんしん)であったこの笠松街道もさっぱり寂れてしまったということであった。
 この四季の里は俳名馬好(ばこう)と号した常に馬を楽(たのし)んだ風狂の伯楽(ばくろ)が初めて営んだものだそうであった。その馬好ももう五十年前(ぜん)とかに亡くなり、今は県会議員である当主が老後の楽みに買取って、おなじく幽雅な料亭としてその跡を承(う)け継(つ)いでいる。
 じいじい蝉(せみ)がまたそこらの木立(こだち)に熬(い)りつき出した。じいじい蝉の声も時には雲と梢(こずえ)を閑(しず)かにする。
 進められるままに私は隆太郎と階下(した)の白い浴室にはいる。何かの蔓(つる)が葡(は)った窓から、覗くと蘆荻(ろてき)が見え、河面(かめん)が見える。白い浴槽の内では、そこで私が河童(かっぱ)の真似をする。隆坊はきゃっきゃっと逃げあがる。
「昨日はおもしろかったかい。岩がたくさんあったろう」
「うむ」
「お猿がいなかった」
「いなかった。僕、奇麗な銀のおしっこをしたよ」
「ふうん」とその父は乱れた髪の毛を石鹸(シャボン)で洗いかける。
 実は宵(よい)の花火までの間を是非(ぜひ)その子にも見学させて置きたいと思って、甥(おい)たちに連(つ)れて出てもらった。そこで土田(どた)まで電車で、香木(こうぼく)峡から舟でこの父とおなじに、日本ラインを下って来たのであった。
「何でもよく見ておくんだ。今度来てよかったね」
「よかったね」
 上(あが)ろうとすると、きさくな女中が大きな桃色のタオルを両手にふうわりとふくらまして来た。
「さあ、かわいいお坊っちゃん、お拭きしましょかなも」
「いやだ」という裸のを、きゅっとかき抱くようにする。逃げかかる。そうなると、いよいよ女中もかまって来る。「ね、いい子だなも、いい子」さあ小坊主怒るまいか「馬鹿野郎、こん畜生」爪で引ッ掻く打(ぶ)ってかかる、彼は彼で一個の独自の存在であり、個の人格として取扱(とりあつか)われないかぎり、少(すくな)くとも自尊心を傷つけられたと感じたろう。狂人が狂人としての待遇を受くればきっと怒る。おなじ心理で、幼児もあまりに幼くちやほやされると憤(いきどお)る。童謡の創作にもここはよほど注意すべきところだ。「うっちゃって置いてくれたまえ、自分で拭くから」と私は声をかけた「そうかなも、気の強いお子はんやなも」
 二階には上(あが)ったが、隆太郎余憤(よふん)が晴れないと見えて、窓の障子紙をぴりぴりぴりと裂き初める。だが、こちらは堆(うずたか)く持って出された画帖や色紙や短冊をそうはばりばりとやる訳にはゆかない。
 少憩の後(のち)、私たちは立ち上(あが)った。対岸の雀のお宿を訪ねようというのである。
「お坊っちゃん、早くお帰り、今夜はわたしがだいてあげるぞなも」
「いやだ、僕、北原白秋と寝るんだ」
「へへえ、この子はん、変ってやはりますなあ」
 自動車が走り出した。
 雀のお宿の素峰子(そほうし)は、自ら行乞子(こうきつし)と称している。かつては書店の主人であったが、愛妻の病没により、哀傷(あいしょう)の極は発願(ほつがん)して、奮(ふる)って無一物の真の清貧に富もうと努めた。一灯園(いっとうえん)にもはいった、その木曾川橋畔に現在の学園を創立するまでの辛苦は並々でなかったらしい。ただこうした事業は気を負いやすいものである。過ぎれば俗情の禍(わざわい)が来る。童(わらべ)ヶ丘(おか)がどれほどの童ヶ丘になりきたったか。この機会に親(したし)く観て置きたいと私は思ったのである。
 雀のお宿の位置は笠松の対岸になる。低い砂丘のその松原は予想外に閑寂(かんじゃく)であった。松ヶ根の萩(はぎ)むら、孟宗(もうそう)の影の映った萱家(かやや)の黄いろい荒壁、機(はた)の音、いかにも昔噺(むかしばなし)の中の鄙(ひな)びた村の日ざかりであった。莚(むしろ)などしきちらして、郵便配達夫までが仰向けに昼寝している。その傍(そば)に杉の皮で葺(ふ)いた風流な門があった。額には青い字で掬水園(きくすいえん)と題してあった。縁側(えんがわ)や見透(みとお)しの狭い庭には男女の村童が群(たか)って遊んでいる。玄関の左には人間愛道場掬水園の板がかかり、ふり仰ぐと雀のお宿の大字(だいじ)の額に延命十句観音経まで散らして彫り、右には所用看鐘(かんしょう)として竹に鐘がつるしてあり、下には照顧脚下(しょうこきゃっか)と書(しょ)してある。けだし寺であり、学園であり、在家であるというのだろう。ただ趣味としての風雅が形式として勝ち過ぎる。寧(むし)ろ飾らぬがよくはないかと私はいった。仏間が教室で良寛和尚を斎(いつ)ぎ、小さな図書室が表に、裏には琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)荘(ろうかんそう)の別棟がある。琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)荘では男女の小学教師たちが二、三十人ほど集まって私を待っていた。私は民謡や童謡の話などをして、すぐとまた席を立った。
 松林にも腕白(わんぱく)らが騒いでいた。良寛堂の敷地には亭々(ていてい)たる赤松の五、六がちょうどその前廂(まえひさし)の斜(ななめ)に位置して、そのあたりと、日光と影と、白砂(はくさ)と落松葉(おちまつば)と、幽寂(ゆうじゃく)ないい風致を保っていた。
「こんないいところが、対岸にあろうとは思わなかった」と四季の里の主人も感嘆した。「とにかく、よくこれまでにやりとおして来た、見あげた」と私も微笑した。然(しか)し、これからが大事である。形式が精神を超えると名利(めいり)の家となる。「素峰(そほう)、これからやかましくいうぞ」と私は笑った。
 私たちは桑(くわ)畑と松林の間を木曾川の左岸に出た。また松林があった。テントと投水台と。
 西には養老の山脈、遥(はるか)には伊吹山、北には鉄橋を越えて、岐阜の金華山、幽(かす)かに御岳。つい水の向(むこ)うが四季の里の百日紅(さるすべり)。
「さあ、これから帰って一杯差上(さしあ)げますで」とその老主人公がさっさと踵(くびす)をめぐらした。
 藤棚の多い四季の里の一夜の饗宴には土地の警察署長や農会長、旧知の歌人の黙々子(もくもくし)などが加わった。私たちは幾度か庭の茶亭から茶亭へ席を代え代えした。夜がふけて私はたったひとりで仰向きに胸や腹をつん出して眠りころげている隆太郎の蚊帳(かや)にもぐりこんだ。そうして、そのでっかちな毬(いが)くり頭をはずれた枕へ持ちあげ、借着(かりぎ)の寝衣(ねまき)の前を深く深く合せてやると、そのままぐっすりと眠ってしまって、すぐと河霧(かわぎり)の白い白い夜あけが来た。
 私たちはその翌日、養老へ立った。そこで二泊、名古屋に引き返して一泊、それから恵那(えな)へ行った。

 八月十二日、午後五時。
 恵那峡口は遊船会社附近の鉄橋風景である。対岸に簡素な二階建ちの洋館が一つ、清流を隔てたこちらの土手の雑木、草藪、岸には空色に白のモーター・ボート、赤い線のエのフラフをひるがえした屋形船。それに乗り込んだ私たち一行――私と隆太郎と同伴の素峰子(そほうし)、その義弟のT少年、それにその地の「山峡」の歌人たち七、八子(し)――である。肉いろの、緑の、桃いろの、パラソルを畳んで、水際に蹲(うずくま)った浴衣(ゆかた)の女学生らしいのが二、三人、これらは私たちの連(つれ)ではない。たまたま雲のごとく水鳥のごとくに現れて、この風景を明るく可憐に点彩したまでのことである。
 旧暦は盂蘭盆(うらぼん)の十五日、ちょうど今夜は満月である。空ははれ、風は爽(さわや)かに、日の光は未だ強い。その良夜(りょうや)の前の二、三時間を慌ただしい旅の心が騒(さわ)めきやまぬ。駅から駅への電話が、この中津川で行先不明の私たちをやっと捉えると、直(すぐ)にも引き返さねばならぬ重大用件を取りついだのである。で、上流の福島や寝覚(ねざめ)の床(とこ)探勝の予定も中止すると、どうでも明(みょう)十三日の朝には此処(ここ)を立たねばならなくなった。で、日の暮までの僅(わずか)な時間を屋形船はモーター・ボートのぼッぼッぼッぼッに曳(ひ)かせて、大急ぎで恵那峡一帯を乗り廻ろうというのである。
 席が定まってから、「おや、あの印刷屋さんはどうしたね」と、私は驚いて笑った。多治見(たじみ)にいち早く私たちを出迎えてくれて、それから中津川に着くまでの汽車中を分時(ふんじ)も宣伝の饒舌(じょうぜつ)を絶たなかった、いささか豸(けもの)へんの恵那峡人Yという、鼻の白くて高い痩せ形の熱狂者が、いつのまにか掻き消すようにいなくなったものである。
「あはは、またお出迎いでさあ、何でも活動の撮影団が来るとかいってましたから。とても夢中で」
 とその従兄(いとこ)の民謡詩人がツルリと禿上(はげあが)ったその前額(ぜんがく)を指で弾く。
「ほう、いそがしいね、愛郷心もあそこまで行けば命懸けだ」
 何でも八景投票の恵那峡の騒ぎというものは凄(すさま)じかったらしい。うっかり悪口でもいおうものなら殺される。
 と、雲と山と水との四囲の風景が走り出した。
「やれ飛べ観音というのは」
「もっと上(かみ)です。惜(おし)いことしました、ゆっくり御案内できないで」
 光る、光る、光る、光る。銀、銀、銀、銀の水面(すいめん)、水面――水面。
「あれが御番所(ごばんしょ)の森です」
 幽邃(ゆうすい)な左岸の林に釣人がいる。一人、二人、三人、四人。麦稈帽(むぎわらぼう)で半シャツ、かがんで、細い棹(さお)の糸をおなじくしんかんと水に垂らしている。木の影が老緑(おいみどり)色に澄んで、ぴちりぴちりと何か光るけはいがある。鯉(こい)や鮠(はえ)を釣るのだという。あの森にはまた鶴が棲んでいたこともあったと誰(たれ)かがいった。木曾谷の下(くだ)る筏(いかだ)を見張った御番所の跡であるらしい。
 苗木の城址(じょうし)はこれに対して高く頂上の岩層にうら寂(さ)びた疎林がある。日本唯一の赤壁(せきへき)の城の趾(あと)があれだという。この淵の主(ぬし)である蟠竜(ばんりゅう)が白堊(はくあ)を嫌ったという伝説がある。
 私は「恵那峡舟遊(しゅうゆう)案内」と見較(みくら)べ見較べ、いそがしい、いそがしい。
 風、風、風、風。
 光る、光る、すばらしく光る朴(ほう)の葉裏である。
 翠巒(すいらん)、翠巒。
 下手(しもて)の空際(そらぎわ)には高圧線の鉄塔が見える。大同電力のダムで堰(せ)かれた河流は百八十尺の高さにその水深を増したというのだ。
 風、風、風、風。
 水は波は、ともすると逆流する。河というよりたんたんと湛(たた)えた湖水の面(めん)である。両岸には、木の梢(こずえ)や、思いもかけぬ枝の半上(なかばうえ)などが水に露われて、さながら洪水にひたされた林相である。こうして急流は変じて深潭(しんたん)となり、山峡の湖水となり、岩はその根を没して重畳(ちょうじょう)奇峭(きしょう)の趣(おもむき)を少(すくな)からず減じてしまったと聞いた。然(しか)しながらその為(ため)にまた水は紺碧(こんぺき)を加え、容量は豊富に深沈(しんちん)たる山中の幽寂境を現出した。
 この恵那峡は木曾川の中流である中津川駅の傍(そば)から大井町に至る水程三里の間にあって、岐蘇(きそ)渓谷中の最勝の奇景であるといわれている。日本ラインの奇岩怪石は多く相迫って河中聳立(しょうりつ)するが恵那峡の岩石美は寧(むし)ろ山上にあり千仞(せんじん)の懸崖(けんがい)にある。
「あれが青崖(あおがけ)」
 眼を遮るは濃青(のうせい)の脈々たる岩壁である。その下の鞍掛(くらかけ)岩。その左は展(ひら)けた下流の空の笠置(かさぎ)山。雲だ、雲だ、雲だ。
 右には武光(むこう)岩、鬼岩、蟇(がま)岩、帽子岩、ただ見あぐる岩石の突屹相(とっきつそう)、乱錯相(らんさくそう)、飛躍相、蟠居相(ばんきょそう)、怪異相、趺坐相(ふざそう)相相である。点綴(てんてつ)するには赤松がある、黒松がある、矮樹(わいじゅ)がある、疎林がある。
 光る、光る、光る、光る朴(ほう)の葉裏である。
 ぼッぼッぼッぼッ、煙、煙、煙。
「や、あれが月待(つきまち)ヶ丘(おか)です」
「今夜の満月はさぞいいだろうな」と私はその丘の空際(そらぎわ)をふり仰いだ。それにしてもあまりに慌ただしい舟の速力である。
「誰(たれ)か踊らないか」と一人がビールをあおった。
「あ、あれが村雨(むらさめ)の滝です」
 峡中の美橋、美恵(みえ)橋が現れて来た。一名褌(ふんどし)橋というのがそれだ。褌の節約と馬糞(ばふん)の拾集(しゅうしゅう)とから得た利益を積み立てて架橋したのが大正三年の洪水で流出した。
「褌橋が落ちた。と歌(うつ)[#ルビの「うつ」はママ]ったものです」で、みんなが笑い出した。今のは鉄橋。
「山峡」同人の指呼(しこ)はいよいよ急がしくなる。天狗岩です。ほら、枕石だ、後阿弥陀(うしろあみだ)岩だ、砲台岩岩岩岩。
 そこで品(しな)の字(じ)岩というのが眼界に聳(そび)えて来る。文字どおりの角(かく)の巨岩が相対し重積(じゅうせき)して、懸崖(けんがい)の頂きにあるのだ。ただ私にはそうした奇趣に興味を持たぬ。画(が)とし詩とするには索然(さくぜん)たるものがあるからである。
 その本流と付知(つけち)川との合流点を右折して、その支流一名緑(みどり)川を遡航(そこう)する舷(ふなべり)に、早くも照り映ったのは実(じつ)にその深潭(しんたん)の藍碧(らんぺき)であった。日本ラインにもかつて見なかったその水色(すいしょく)のすさまじさは、まことに深沈(しんちん)たる冷徹そのものであった。山中において恐らくいかなる湖面といえどもこれほどの水深を蔵(ぞう)する凄みは少(すくな)いであろう。大同ダムで堰(せ)き止められて、本来の懸崖の三分の一以上、二百仞(じん)も高く盛り上(あが)ったその水際(みずぎわ)には、すなわち現実における魚(うお)は緑樹の梢(こずえ)にのぼり巉岩(ざんがん)は河底(かてい)の暗処に没して幽明(ゆうめい)さらに分ちがたい。しかもまた峭々(しょうしょう)として相迫った岩壁の間に翼を休めた蒼(あお)い蒼い真上の空の一角である。雲は白く綿々(めんめん)として去来し、巒気(らんき)はふりしきる蝉(せみ)の声々にひとしおに澄みわたる、その峡中に白いボートを漕ぐ白シャツの三、五子(し)がいる。この奇異な対照こそ寧(むし)ろ観るべからざるを観る一種の戦慄(せんりつ)をさえ感ぜしめる。
 朝鮮金剛の勝(しょう)に私たちは当面したのである。この渓谷のいさぎよくして閑(のど)かな、またこの重畳(ちょうじょう)たる岩峭(がんしょう)の不壊力と重圧とは極めて蒼古(そうこ)な墨画(すみえ)風の景情である。夫婦(めおと)岩、蓬莱(ほうらい)岩、岩戸不動滝、垂釣潭(すいちょうたん)、宝船、重ね岩、宝塔等(とう)等等の名はまたあらずもがな、真の気魄(きはく)はただに天崖より必逼(ひつひつ)する。
 安子穴(やすこあな)というのがあった。白狗(はくぐ)と白馬(はくば)との天正時代の伝説がある。後(のち)、お安(やす)という女人が零落(れいらく)してここに玉のような童子を育てた。以前は岸辺伝いからどうにか上(のぼ)れたであろうところも今は変じて湖上の絶壁となった。
 船止めの葦毛潭(いもうたん)から引かえして本流に出る。
 源斎巌(げんさいがん)が左に、対(むか)って高く聳(そばだ)つ天柱岩がある。このあたりから丘陵の間はやや斜面に展(ひら)けて赤松の細い幹が縁辺(えんぺん)に林立し、怪奇な岩層の風致に一種の繊細味を交(まじ)えてゆく。対松崖(たいしょうがい)はこれと映照(えいしょう)する。
 続いて、私たちの屋形船は屏風岩の岩壁にひたひたと舷(ふなべり)を寄せた。朝鮮金剛の勝(しょう)以上の大観である。参差(しんし)たる松(まつ)ヶ枝(え)、根に上(あが)り、横に葡(は)い、空にうねって、いうところの松籟般若(しょうらいはんにゃ)を弾ずるの神境(しんきょう)である。
 巒気(らんき)と水光(すいこう)と変幻する雲、雲、雲。
 右には蕭々(しょうしょう)たる滝がある。あ、水車がある。釣人は幽(かす)かに棹(さお)をかついで細い径(こみち)をのぼってゆく。
 簡素な別荘がある。近代の料亭もある。
 鉦鼓淵(しょうこえん)、盗人(ぬすと)谷、その天上の風格は亭々(ていてい)と聳立(しょうりつ)する将軍台、また厳(げん)として平(たいら)なる金床台(きんしょうだい)。
 金色(こんじき)の日光。
 と、展望がここで明るくなって左に船着場があった。エの朱線のフラフ、屋形、モーター・ボート、輝く波々、桟橋の童(わらべ)、風、風、風。
 木(こ)の間(ま)がくれの茶亭の下へ、さて上(あが)って、ズボンの釦(ぼたん)をはずす男もいる。
 その正面こそ大同電力の白い白いダム堰堤(えんてい)である。古典的の幽邃(ゆうすい)と奇峭(きしょう)とはここに変転して、近代の白と灰銀(かいぎん)との一大コンクリート風景を顕現(けんげん)する。水はまんまんとして、そのダムに堰(せ)かれて湛(たた)え、橋梁の連灯(れんとう)はまだ白く玻璃球(はりきゅう)のみ光って、丘陵の上、また水辺(みなべ)に反照する鮮明なる洋風建築、このダムこそ東洋一の壮観だとせられる。その堰堤の高さ百八十尺、長さ一千尺コンクリート、貯水量十億立方尺、堰堤上流三里十二町、面積百七十一町、水量流域百二十三方里、発電機四台、励磁機(れいじき)二台、電力四万二千九百キロワット。惜しむらくは下流に立ってこれを仰視し得(う)る機会を得なかったことである。
 私たちはその壮麗なるダムの前の広々とした湖面を一周して、さて、いよいよ帰路についた。急速力でである。
 遊船会社の前の峡口(きょうこう)は高い高い白い石の橋台に立って、驚くべき長い釣棹(つりさお)を垂れている人影も見えた。橋の下にも幾群(いくむれ)か糸を投げて魚(うお)を待つ影も見えた。
 夕焼けが来た。さわりさわりとその肩の長い棹を弧(ゆみ)に、その先(さ)きを線路につけて、その鉄橋の枕木の上を拾い拾い渡る男も見えた。
 私たちは上(あが)って、撮影をすると、すでに灯(ひ)のともった臨時電車にぞろぞろと乗り込む、走る、走る、走る。
 私は思った。恵那峡の幽邃(ゆうすい)はともすると日本ラインの豪宕(ごうとう)を凌(しの)ぐ。ここまで上(のぼ)って来なければ木曾川の綜合美は解せられない。すばらしい、すばらしい。
 さて散策して見た中津の町は電飾が鮮(あざや)かではあったが、いかにも北国(ほっこく)の小都市らしく、簡素で、また陰暗たるところがあった。
 その晩、梅信亭(ばいしんてい)で饗宴が催(もよお)された。この町の若い美技(びぎ)が輪になって、そこで、紅(あか)い頭巾に花笠、裁付袴(たっつけばかま)のそろいで、本場の木曾踊りを踊った。だがあまりに巧緻(こうち)に過ぎ、柔軟に過ぎた。「民謡とはそんなもんじゃない、おうい、俺が御手本(おてほん)を示してやる」私も酔っていた。隣室に飛び込むと、それ何、それ何、それ何という騒ぎになった。
 紅い頭巾で、背中に花笠で、裁付袴(たっつけばかま)で、やあよいかとゆらりと出て行くと、若い町長初め、一同がやんやと拍手した。
 そこで、ちょっと紅い頭巾の頭を掻いて、私も笑い出した。大胆というより無鉄砲なのだ。
「おうい、坊や、いっしょに踊ろう。ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイだ」
 この夜こそ旧暦の盂蘭盆(うらぼん)であった。明るい明るい満月である。
了

底本:「日本八景 八大家執筆」平凡社ライブラリー、平凡社
   2005(平成17)年3月10日初版第1刷
底本の親本:「日本八景―十六大家執筆」大阪毎日新聞社、東京日日新聞社
   1928(昭和3)年8月15日再版
※「船」と「舟」の混用は、底本通りです。
入力:sogo
校正:岡村和彦
2015年5月24日作成
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