あらすじ
豊臣秀吉の正室、北政所(きたのまさどころ)こと寧子(ねいこ)は、浅野家の養女として育ちました。十六歳で、家臣のひとり、木下藤吉郎(きのもとのとうきちろう)と結婚します。周囲からは「猿」とあだ名され、蔑まれた藤吉郎でしたが、寧子は彼の内面を見抜き、結婚を決意しました。藤吉郎はその後、秀吉と名乗り、天下統一を果たすまで、寧子は彼の支えとなり、共に数々の苦難を乗り越えていきます。秀吉が築き上げた栄華の影で、寧子は静かに、そして力強く、良き妻であり、良き母親として生きていきました。
 寧子(ねね)は十六になった。
 妹の於(お)ややと二人して、伯父伯母にあたる浅野家に養われて来た。ふたり共、養女なのである。
 世間は知らなかった。それほど、浅野又右衛門夫婦の愛は、世の親たちと変りなかった。
 十六というと、寧子(ねね)も人知れず、「女の先」を考え始めた。時代は早婚の風である。もう他から結婚のはなしがいろいろ持込まれるのであった。
 その数々の縁談(はなし)のくちで、親たちの眼に選(え)り残されているのは、もちろん皆、尾張清洲(きよす)の織田(おだ)家中ではあるが、とりわけ、
藩の侍頭大学信盛(さむらいがしらだいがくのぶもり)の舎弟、佐久間左京(さくまさきょう)
信長の小姓組(こしょうぐみ)、前田犬千代(いぬちよ)
槍組衆の河尻与兵衛(かわじりよへい)
足軽三十人持、御小人組小頭(おこびとぐみこがしら)木下藤吉郎(とうきちろう)
 ――などの四名が候補になっていた。各※(二の字点、1-2-22)に特長もあり理由もあって、
「急ぐこともないから、よう生涯を考えて――」と、寧子(ねね)にも告げて、宿題の予日をのこし、親たちも先方へ、まだはっきり返辞をしない程度になっていた。

 四人の候補のうちで、最も身分の高いのは、佐久間左京であった。兄大学信盛(のぶもり)は、愛知郡(あいちごおり)山崎で、出城(でじろ)とはいえ、一ヵ城の城持ちであり、左京も織田家では、重要な地位を占め、主君のおおぼえもよかった。年齢は二十三歳とかいう。
「申し分はないが、何せい、こちらは弓之衆(ゆみのしゅう)の長屋住い、身分がちがいすぎる」
 と、又右衛門夫婦は、その点で迷っていた。
 総じて、尾張半国の小藩にすぎない織田家は、君臣ともに、質素で財力も乏(とぼ)しかったが、わけて浅野又右衛門は、小禄(しょうろく)な弓組の一家士でしかなかった。
 年ごろの娘ふたりに、人なみの教養もさせ、人知れぬ「聟(むこ)とり」の支度をしておくだに、なかなか容易ではない家計だった。
 その点では、
 家庭へもよく遊びに来て、気心もおけないし、先の人がらも素姓(すじょう)も知れている前田犬千代は、
「寧子(ねね)も、嫌ではないらしい」
 と考えられて、親たち自身の心もだいぶ傾(かたむ)いていた。
 難をいえば、犬千代は感情につよく、同僚などとも刃傷沙汰(にんじょうざた)を起して、殿の勘気をうけたりしたこともあった。素行(そこう)も放縦(ほうじゅう)のように思われる。また、美丈夫なので、寧子とのあいだに、恋愛でもあるかのようなうわさも撒(ま)かれた。年は二十四歳、寧子も望んでいるらしいし、ふさわしい聟(むこ)とは思われるものの、まだ又右衛門夫婦の決心は、はっきりせずに在る。
 では、河尻与兵衛(かわじりよへえ)はというに。
 これなら剛健で、武勇は槍組の随一と聞えているし、戦国の士として、負(ひ)け目(め)は取らないが、ただ寧子とはあまり年がちがう。それに一度妻をもった人でもあるし、
「かわいそうではありませんか」
 と、又右衛門よりは、妻のほうが、気のすすまない顔いろだった。
 殆ど、問題にしていないのは、つい近頃、小者からやっと士分になったばかりの男で、まめに足を運んで来る木下藤吉郎という男だった。
「かなわぬよ、あの男につかまると」
 又右衛門も、閉口(へいこう)している。こちらでは問題としなくても、先は熱心を冷(さ)まさないのである。物を届けて来る。些細(ささい)な用でもすぐ来る。無くてもやって来る。来れば話しこむ。――その末には、
「どうでしょう。決して、寧子どのを、不幸にはいたしませんが。――それだけは誓えます」
 などと縁談(はなし)は、聟どの直接なのである。
 その懸命さに、つい膠(にべ)のないこともいえず、
「まあ、考えて」――とか。
「寧子の胸もきいた上で――」
 とか、云って来たのが悪くもあった。近頃では、又右衛門も持て余していた。といって、応じる気には毛頭なれないのだ。どうながめても、
「この男の将来では、まあ百貫の禄(ろく)でも取られたら関のやま。生涯、妻に不幸な目は見せぬ、などと云いおるが疑わしい」
 と、考えられるからだった。
 又右衛門の評価は、まだまだよいほうなのである。世間では、彼が低い小者勤めをしていた頃の呼び慣(なら)わしのまま、いまだに、
 ――猿。猿。
 と呼んで、藤吉郎とは云わぬ者のほうが多い。
 家すじも、中村の百姓だとしか聞かないし、現在も、士分のうちでは一番下の軽輩だし、顔は、猿に似ているし、風采といったら寔(まこと)にあがらない小柄なほうだ。取柄(とりえ)といったらただ、
「おもしろいお人や」
 と、台所の下婢(かひ)どもや、下僕(しもべ)などから、自分たちの仲間のように思われて、人気のあることだけだった。
 だから、寧子(ねね)や、妹の於(お)ややまでが、彼の姿を門に見れば、
「――お父さま、また木下様が、お越しですよ」
 と、理(わけ)もなく、おかしがるのが先で、眼のうちにも入れていなかった。

 永禄(えいろく)四年の六月、桶狭間(おけはざま)の合戦の翌る年。
 津島(つしま)祭りのある頃だった。
 やぶ蚊の多い弓之衆(ゆみのしゅう)の組長屋で、一組の聟とり祝言(しゅうげん)があった。
 聟どのは、当年二十六歳の木下藤吉郎で、むしろ寧子(ねね)のほうから望んで遽(にわか)に挙げられた婚儀と聞いて、
「へええ? 猿が、あの寧子どのと?」
 と、世間には、幾つも呆(あき)れ顔が出来た。
 世間の驚いたのも無理もない。親の又右衛門夫婦ですら、その晩、婚儀の席に並んだ者のはなしを聞けば、
「何やら、力落しの態で、浮きもせず、世間に肩身のせまいような顔してござった」という。
 なお。――当夜の模様はと、問いただせば、
「板屋びさしの弓長屋に、ひっそり縁者どもが寄り、簀掻藁(すがきわら)を床(とこ)にしいて、うす暗い短檠(たんけい)の明りが三ツ四ツ、聟どのと花嫁が中ほどに坐って、形ばかりの杯事(さかずきごと)をしたまでのこと――」
 と、如実に語って、
「――花嫁の気は知れぬが、たださしうつ向き、聟の猿どのは、けろりとしたものよ」
 ということだった。
 聞く者は、もう一度、唖然とした。

 足軽三十人持の小頭(こがしら)といっては、まだその足軽よりすこし足(た)しなくらいの生活でしかない。清洲(きよす)の侍小路(さむらいこうじ)の裏に、若い夫婦は、初めて小(ささ)やかな家と鍋釜を持った。
 織田家はその頃、隣国の美濃(みの)の斎藤方へ、しきりと攻略を計っていた。良人はたえず家にいなかった。時には、木曾川の国境へ遠征し、稀※(二の字点、1-2-22)(たまたま)、帰って来ても城内の寝泊りが多いし、まだ二十歳にもならない新妻は、常に、陰膳(かげぜん)ばかり供えて、独りで喰べ、独りで縫い、独りで家事を見ていた。
 けれど、その良人が、稀に家にあって、
「寧子(ねね)。寧子」
 と、朝から晩まで、快活な声で、寛(くつろ)いでいると、彼女は、百日の苦も、一年の留守も、物のかずではない。しんから今の生活が楽しまれた。
「侍(さむらい)の妻とは、不びんなものだ。――だが、こうして殿(との)からお暇をゆるされて、家にある一日だけは、気儘もいうがよい。おれの体(からだ)は、そなたのものだ。そなたの体はまた、おれのものだし……。はははは」
 どこまで、明るい人である。寧子は、持った良人を、いつも改めてそう見直した。そして、自分の求めた結婚に、悔いるような気持は一瞬でも起らなかった。
 ある時、ふと、
「寧子。そなたは、わしを知った最初は、わしが嫌いだったろう」
 そんなことを、良人は訊(たず)ね出した。
 正直に、寧子は、ほほ笑んで頷(うなず)いた。
「ええ」
「それが、どうして遽(にわか)に、わしと生涯を暮す気になったのか」
「それはこうです。いつかあなた様が、中村のお母様のところへ上げるお手紙を、何かの品と一緒に、お忘れになって行ったでしょう。実は、妹がわたくしにそれを見せたので、あの中の御孝心なお文(ふみ)に心をうごかされたのです。……そればかりではありませんが、それから他(よそ)ながら、あなたのお勤めぶりや、おはなしの端々(はしばし)にも、心をひかれるようになったのでございました」
 云い終って、寧子は、顔を紅くした。
 すると、良人は、
「そうか。やはりそうか。実申せば、あの文(ふみ)は、そなたの心をうごかすため、わざと置き忘れて行ったのだ。はははは、そなたはわしの兵法で、まんまと擒人(とりこ)になったんだよ」
 手を打たないばかり、欣(うれ)しがって笑うのだった。
 けれど寧子は、すこしも興ざめな心地はしなかった。なぜなら良人の孝心は、決して嘘でないからである。中村の田舎にいる母親に対する藤吉郎の孝心は、離れてこそいるが、恋妻の自分にしてくれる以上であった。戦場からよこす便りにも、母の事を書いてないことはないほどだし、家に戻っても、ここにはいない母親のうわさをしない日はなかった。
「神(かみ)信心(しんじん)、仏(ほとけ)信心もだが、わしの胸には、どこにいても、母がいるからな。母を思い出すと、悪い事はすまいと思う。善い事はしようと思う。そして良い子をもって倖(しあわ)せだと、母に欣んでもらいたいと思う」
 常々、藤吉郎は、そう云った。
 また――
「わしの願いは、中村じゅうで一番の不倖(ふしあわ)せ者じゃった母を、日本一の幸福者にさせてお上げ申したいことだ……」
 と、云いかけて、後は、寧子の顔を見て笑った。そして、何を云うかと思えば、
「そして共々、この女房をもな――」
 と、彼女の美しい鼻を、指でついた。

 猿。猿。――猿の妻。
 添うてからも、幾年かは、辛(つら)い声を、時折聞いた。世間の軽蔑(けいべつ)は去らなかった。
 自分が云われるよりも、良人の云われた場合に、寧子(ねね)は腹が立った。けれど良人は意にかけるふうもない。笑うのみである。
 いつか彼女も、良人に訓練されて、笑っていられるようになった。
 がしかし、それも、良人が洲股(すのまた)の築城をなし遂げて、一躍、五百貫の恩地と、一城の守将という地位とを克(か)ち獲(と)ると、世間は今さらのように、
「怖(おそ)るべき男」
 と、藤吉郎を見直して来た。
 寧子はひそかに、自分に誇った。よくぞ生涯の人を選んで過(あやま)らなかったと、未婚の頃の岐路を顧みて思うことが多かった。
 ただ。
 良人の立身と共に、彼女にはべつな困難が加わって来た。それは、良人の累進(るいしん)に、自分の教養が――劣らない妻としてゆくことが、ともすれば、追いつけなくなりそうな点であった。
 家臣は多くなる。一族はまわりに持つ。経済は膨大(ぼうだい)になってゆく。君侯への心くばりから、使者の往来といったような社交。良人の身まわりもまるで違ってきた。
 その繁忙の間にでも、夜々の暇をぬすんでは、修養を加えてゆかなければ、以前の一藤吉郎ではない――羽柴筑前守秀吉の妻として、いやでも取残されてしまいそうだった。良人の事業と栄進とは、そのために、どんなに愛している妻でも、妻のために、待っている理(わけ)はないからである。
 結婚してから、いつか、十一年は経っていた。
 主君の信長が、尾張半国から興って、今川を討ち、美濃(みの)を経略し、居城も清洲(きよす)から小牧山(こまきやま)へ、それからまた岐阜城(ぎふじょう)へと移って、尾濃(びのう)百二十万石を治めるようになると、秀吉もそれまでの功によって、近江長浜(おうみながはま)の城主二十万石という大身になっていた。
「寧子(ねね)、そなたは、女子にめずらしい者じゃ、偉いものと、秀吉も今にして思う」
「お戯(たわむ)れ遊ばしませ」
「いや、真(まこと)だ。足軽に毛のはえたくらいな身分であったあの頃のわしを――良人に選んだ眼は、処女(おとめ)頃の女子として、偉いといわねばなるまいな。――そのむかし、わしがまだ十八歳の頃、針売りなどして諸国をさまよい歩いていた艱苦の頃だ。庄内川の河原で、信長公の御馬前へ駈け伏したところ、そのまま召しつれて、草履(ぞうり)取りにお使いくだされた御主君のお眼もだが――そなたは、御主君に次いで、この秀吉の人間を、見とおした偉い女子じゃ、賞(ほ)めてつかわす」
「そうお賞めいただくと、寧子は汗がながれます」
「なぜか」
「こんなにまで、あなたが御立身なさろうとは、寧子も思っておりませんでしたから」
「あははは、それはそうかも知れぬ。この秀吉も、思っておらなかったからな」
「では、あなたは、御自身どれくらいまで、御出世遊ばそうと、考えておいでになりましたか」
「いや、わしはな、そう上を望んだことはない。草履取(ぞうりと)りをしておる時には、御主君のお草履をつかむ仕事を精いっぱいに勤め、士分になれば士分の仕事を精いっぱいに、一城の主(あるじ)となれば、一城の主を精いっぱいやりおるだけじゃ。――だから今も今を精いっぱいにやっておるに止る」
 秀吉夫婦のこういったふうな話は、侍臣の前でも、奥女中たちの居並んでいる所でも、声を密(ひそ)めるなどということはなく、至極、明けっ放しに交わされるのであった。
 以前の貧乏ばなしなど、わけて少しも、隠して衒(てら)うふうはなかった。
 秀吉が宿望であった、故郷の母も、長浜の城に迎えた。
 姉も弟たちも、寧子の一族たちも、皆、彼を繞(めぐ)って、門戸の栄えに恵まれた。
「わしに仕える心を、母につくしてくれ。母が歓べば、わしは自分につくされたより欣しい。ありがたい」
 秀吉が、寧子へいう、口癖であった。
 母はもう五十であった。まったく田舎の一老媼(おうな)である。果報にすぎると、常に勿体ながるばかりであった。その母は、誰よりも、寧子が気に入っていた。
 夜の伽(とぎ)に、母を中心に取巻いて、
「お母様、お聞きください。わが良人(つま)が、わたくしを娶(めと)る時には、お母様へのお手紙を、わざと忘れ落したふりして、わたくしの心をうごかしたのでございますよ。いわば親孝行を囮(おとり)に遊ばして、処女心(おとめごころ)をだましたのでございます」
 などと思い出ばなしを、戯れに告げると、
「まあ、悪い子じゃなあ」
 と、母はおかしがって、また、中村時代の手に負えなかった秀吉の――日吉(ひよし)といった時分の悪戯(いたずら)ぶりだの、奉公先からおしりばかり持込まれたことだの、喰べるに物もなかった貧苦の中に泣かされたことだの、寧子にはなして聞かせるのだった。
「どうして、まだまだこの子には、小さい折の面影がたんとある。そなたも、上手に騙(たぶらか)されぬがよい」
 母が、寧子に味方して云うと、秀吉は大いに懼(おそ)れをなして、
「いけませんなあ。折角、秀吉がよい女房に仕立てておるのに、母上がそうお壊(こわ)しなされては」
 と、慌(あわ)てて、次のことばを、抑えるまねした。
 近習(きんじゅう)たちも笑えば、侍女(こしもと)たちも、笑いこけるほどであった。そして周囲は、主人の物質的な栄華よりも、その睦(むつ)まじさに、心から羨(うらや)ましさを覚えるのだった。

 誰へも、洩らしたことはない。どんなことでも隠さない母へも――である。寧子(ねね)は、ひとりで、悩むことがあった。
 それは秀吉の浮気であった。自分のほかに、愛する女性のできたことである。
「貧しい細長屋で暮していた時のほうが……」
 と、今の栄位を、むしろ厭(いと)う気さえこの頃は起った。徒(いたずら)に、清洲(きよす)時代の小(ささ)やかな二人暮しの時ばかり振返られて、良人の内助に、ふと、心のゆるむ日もあった。
 その良人に代って、岐阜城の主君の許へ、使いを命じられた。長浜の絹、琵琶湖(びわこ)の鮮魚など、心をこめた土産の数々を、荷駄組(にだぐみ)の武士に運ばせ、彼女は、華麗な奥方用の塗駕籠(ぬりかご)に、多くの侍女や侍を従えて岐阜に赴いた。主君に会って、使いを果してからである。信長はくだけて、
「どうだな秀吉は、相かわらず元気に、毎日をおもしろく暮しているだろうな」
 などと、いろいろ家庭の内事まで訊かれたので、寧子(ねね)も女ごころについ、
「何事も良人のなさることには、不服を申しませぬが、どうか余り夜の局(つぼね)へしげしげお通(かよ)い遊ばすことはないように、どうぞお上から仰っしゃって戴きとう存じまする」
 と、面(おもて)には笑って頼んだ。
 信長も、苦笑しながら、
「よしよし。わしからもよく云ってやる。そのほうにかけては、くせの良くない男だからの」
 と、慰め返した。
 すると、日を措いてから、主君の信長から、寧子へあてて書面がとどいた。いつぞやの土産物の数々の、実に見事であったことなど、欣びを認(したた)めた後で、
 ――仰(おお)せのごとく、こんど、この地へ、はじめて越し、けんざんに入、祝着に候……其許(そこもと)の眉目(みめ)ぶり容(かたち)まで、いつぞや見まいらせ候折ふしよりは、十のもの二十ほども見上げもうし候
 藤吉郎、れんれんと、ふそくの旨(むね)、申すの由(よし)、言語(ごんご)どうだん、曲事(くせごと)に候が、何方(いずれ)を相たずね候とも、また二たびは、求めがたき夫(つま)にもあれば、其許(そこもと)にも、おもおもしく、りん気などに立ち入りては然るべからず、ただし、おんなの役に候あいだ、ふんべつにて、程ようあるは、あしかるまじ……
 などと婉曲(えんきょく)にではあるが、寧子(ねね)の悩みに、誡(いまし)めを与えていた。寧子(ねね)は、それを見て、後では、
「なぜ、御主君などへ」
 と、深く悔いた。
 そして今さらのように、女ごころの不覚を知った。意志のつよいつもりでいる自分にも、脆(もろ)い一面を気づいて、自分を恐ろしいと思った。
 その心をもってその日から、彼女は改めて、良人に侍(かしず)いた。良人の愛は、以前より勝っても、変ってはいなかった。愛を疑う時、愛はすぐ黒い雲に変るもの――と、寧子はひそかに良人に詑びた。
 それから間もなく。
 秀吉は軍をひいて、中国へ出征した。
 長い留守がつづいた。何年も、何年も。
 そのうちに――天正十年五月、上洛中の主君信長が、叛臣(はんしん)光秀(みつひで)のために、本能寺(ほんのうじ)で討たれた。
 変が伝わると共に、秀吉の留守城長浜は、明智光秀に加担の阿部淡路守(あべあわじのかみ)の軍勢に攻め襲(よ)せられた。
 寧子は静かに、留守の一族や侍たちへ殿軍(しんがり)のさしずをした上、侍女たちの手もかりず、自分の背に母を負って、慥乎(しっか)と結(ゆ)いつけ、片手に薙刀(なぎなた)を携えて、東浅井郡(ひがしあさいごおり)の山奥、大吉寺(だいきちじ)へのぼった。
 母を、寺内にかくして、夜も昼も、彼女は門前に立って固めた。侍女たちを入れても、五十人に足らない手勢であったから、もし敵がこれへ来たら、斬死(きりじに)の覚悟であった。――だがそうしてもなお、留守の良人に詫びきれない心地のものは、母の身に万一のことでもあったらということであった。良人の孝心を思うと、逃げきれるだけ逃げのびたいし、武門の妻であることを思うと、
「秀吉の妻として、笑われぬよう」
 と、悲壮な斬死へ、気は逸(はや)った。

 わずか十日余りだった。
 秀吉は、変を知ると、中国高松城の水攻めを、毛利家との和睦(わぼく)に中止して、疾風のごとく陣を返し、山崎の一戦に、光秀を葬(ほうむ)り去った。
 長浜城は、奪回した。
 秀吉は、大吉寺の山へ上って来た。
 真っ先に、母のすがたを求めて、オオと呼ぶ母を見ると、
「おっ母さん!」
 子どもみたいに縋った。
 それから、
「寧子(ねね)。寧子っ」
 と、呼び立て、
「よくいたした。よくいたした。それでこそ秀吉の……」
 妻と手を取り合って、泣いているのである。
 寧子(ねね)は、ものも云い得ない。ただ体(からだ)じゅうの顫(ふる)えるような歓びにつつまれていた。人間と生れなければ――人妻となってみなければ――また、こういう難儀をも突きぬけてみなければ――この歓びを生命に味うことは出来なかったろう。そう落着いた後では思ったことであった。
 ふたりの間の愛も。
 二十歳だいの頃、
 三十の頃、
 また、四十をも越えた今。
 ――と顧(かえり)みてくると、愛そのものの動かぬ相にも、自然その深度と意義には、年と共に変化があった。お互いに培(つちか)って来た努力がようやく、ほんとの夫婦愛の実となって、今、結ばれているのが分った。
 何かしら、その頃から後の彼女の胸には悠(ゆ)ったりと、大きな安心がすわっていた。
 春の海のようにそれは寛(ひろ)い。
 秀吉の側室(そくしつ)に、うら若い淀君(よどぎみ)とかいう美女が侍(かしず)くようになって、閨門(けいもん)を繞(めぐ)る奥仕えの者たちから、いろいろな曲事(ひがごと)が聞えて来ても、その寛やかな彼女の胸に、小波(さざなみ)も立てることはできなかった。
 時に、怒濤(どとう)は立つかもしれない。幾歳になっても、女性の血は女性の血であるから。――けれど、彼女のそばに常にいる召使も、時折に伺候する家臣も諸侯も、彼女に会えばいつも花の木陰(こかげ)に憩(いこ)うような平和をおぼえた。春の海に向うような寛さを覚えた。塵(ちり)ほどな気色でも、淀君に対してうごく色を見たためしはなかった。
 すでに、秀吉は、太閤といわれ、その母は、大政所(おおまんどころ)と敬(うやま)われ、そして寧子(ねね)は、北(きた)の政所(まんどころ)と称されていた。
 いうまでもなく、大坂城にあって、天下を統(す)べている秀吉であった。
 その秀吉の不足と、彼女のたった一つのさびしさは、遂にまだ、二人の仲に子のなかったことである。

 淀君には、子が生れた。
 鶴松君(つるまつぎみ)といったが、嬰児(あかご)のうちに早世した。
 次に、拾君(ひろいぎみ)を生んだ。後の秀頼(ひでより)である。
 北の政所(まんどころ)もあるかなしかのように、淀君の勢力は、自然大坂城に偉(おお)きなものとなった。
 こんな事もあった。
 佐々成政(さっさなりまさ)が、北国すじの地侍(じざむらい)へたのんで、白山(はくさん)の黒百合を取りよせて、北の政所へ献上した。
 めずらしい高山植物の花だった。黒いばかり濃紫(こむらさき)の百合である。北の政所は、
「ひとりで慰むのも、花に勿体ない心地がする」
 と、茶会を思い立って、利休(りきゅう)の娘で、鵙屋(もずや)の妻となっていたお吟(ぎん)を召しよせて、趣好を相談した。
 何かの打合せをすまして、お吟(ぎん)が西の丸から退がって来ると、淀君付の局(つぼね)が待っていて、
「そっと、淀君さまからのお訊(たず)ねじゃが、そなた、何の御用で、西の丸へは伺ったか」
 と、廊下の端(はし)で訊かれた。
 お吟は、ありのままに、
「めずらしい黒百合がお手に入りましたので――」
 と、茶会の趣好をはなした。
 茶の日には、淀君もよばれていた。人々はみな、珍しがったが、淀君は、黒百合のことを、よく弁(わきま)えていたので、
「お智識でいらっしゃいますこと」
 と、人々は感心して聞き入った。
 それから数日たつと、こんどは淀君のほうの催しで、「花摘(はなつ)みの会」の招きがあった。殿中の廊下には、たくさんの花桶(はなおけ)が並べてあって、各※(二の字点、1-2-22)が心まかせに、好みの花を摘んで、挿(い)けたり、家土産(づと)に戴いて帰った。
 ところが、いつぞやの黒百合と同じ花が、他の雑な花と一緒に、一つの花桶に突っこんであったので、人々は、
「まあ何として? ……」
 と、眼をみはった。
 その皆の眼は折ふし来合せた北(きた)の政所(まんどころ)の面(おもて)をお気の毒で見るにたえないというように外(そ)らしあっていたが、北の政所は、花桶に眼をとめると、
「おお、たくさんにある……」
 と、微笑んだだけだったので、その和(なご)やかな面(おもて)をながめた人々は、
「今日の花の、どの花よりもお美しい」
 と、ひそかに思った。

 太閤の母、大政所は、八十歳を一期(ご)として、聚楽(じゅらく)で亡くなった。
 薨去(こうきょ)の報(し)らせを、太閤は、名護屋(なごや)の陣で知ったのである。彼は生涯の大事業としている朝鮮役の出征にかかっていた。
 軍事を措いて大坂へ帰った。
 ――が、臨終には間にあわなかったのである。もう老齢な子は、母に取りすがって、人前もなく歎いた。
 日本を統一し、海外にまで余力を展(の)ばして、大陸経営まで抱負している大気宇(だいきう)な太閤が、
「寧子(ねね)寧子。もう何を張合いに」
 と、泣いたということである。
 寧子は、大政所の病中、帯も解(と)かないほどだった。彼女も急に老いていた。
「お察しいたしまする。けれどあなた様にはまだ、大きな御使命がございましょう。……寧子は、何をあてに、この先の日を」
 高野山に青巌寺(せいがんじ)を建て、諸国に供養所を興して、亡母の冥福(めいふく)を祷(いの)っても、秀吉の心は、なお癒(い)えなかった。
 朝鮮陣の半(なか)ば、太閤もまた、六十三を一期(ご)に、薨去した。
「……寧子」
 わかれには、たった一言、そう云ってにこと、顔を見あわせたのみであった。
 北の政所は、大坂城を退いて、京都の高台寺の峰に、一寺を建てて、ひとり清らかに住んでいた。――いやほど近い阿弥陀(あみだ)ヶ峰(みね)の土に眠る太閤を、朝夕に訪れるのを楽しみとして。
 淀君の生活は、彼女とは反対に、それから遽(にわか)な爛熟(らんじゅく)を迎えた花のように咲けるだけ狂い咲きに咲いて、そして、元和(げんな)元年の夏の陣に、大坂落城の炎(ほのお)に散った。
 子の秀頼も。一族も。
 彼女を繞(めぐ)る無数の男女の召使までも、また、太閤の遺(のこ)したあらゆる物も――愛情までも、その焦土(しょうど)へ投げこんでしまった。
 真っ赤な天は、ふた晩も三晩も、京の高台寺の峰からもよく見えたほどだった。
 そこも阿弥陀(あみだ)ヶ峰(みね)も、颯々(さっさつ)と、冷たい松風のみであった。
 家康も、そこへは兵を上げなかった。
 むしろ敵の家康まで、彼女の才徳と貞操を感じて、寺領を寄進したり、何かと生涯の面倒を見るように、所司代の板倉勝重(かつしげ)へいいつけたほどであった。
 寛永元年の九月、彼女は安らかに世を終った。
 六十七歳まで[#「六十七歳まで」はママ]――死ぬるまで、彼女は太閤の愛に抱かれていた。
了

底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社
   1977(昭和52)年4月1日第1刷発行
初出:「主婦之友」
   1940(昭和15)年3月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:雪森
2014年8月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。