あらすじ
源義経の妻、静御前は、夫の身を案じて日々を過ごしていました。義経は鎌倉の兄頼朝との確執から、命を狙われていたのです。静御前は、夫の無実を訴えようとしますが、頼朝は耳を貸そうとしません。やがて鎌倉の兵が京都に攻め寄せ、義経は都落ちを余儀なくされます。静御前は義経と共に逃亡しますが、激しい追跡に遭い、夫と離れ離れになってしまいます。その後、静御前は鎌倉に捕らえられ、義経の行方を追及されます。彼女は、義経の無事を願い、頼朝の前で舞を披露しますが、頼朝は静御前の舞を、義経への愛情と捉え、激怒します。静御前は、さらに厳しい運命に翻弄されることになるのです。
 義経(よしつね)はもろ肌を脱いで、小冠者(こかんじゃ)に、背なかの灸(きゅう)をすえさせていた。
 やや離れて、広縁をうしろにし、じっと、先刻(さっき)から手をつかえているのは、夫人(おくがた)の静(しずか)の前(まえ)であった。
 八月の真昼である。
 六条室町(むろまち)の町中とは思えぬほど、館(やかた)は木々に囲まれている。照り映える青葉の色と匂いに室内も染りそうだった。
 ――が、静(しずか)にとって、気になるのは、二十九という良人の若い肉体まで、そのせいか翡翠(ひすい)を削(けず)ったように蒼(あお)く見えることだった。
「…………」
 蝉(せみ)の声ばかりであった。小冠者は細心に、主君の肌へ火を点じていた。
 義経は、熱いともいわず、身もだえ一つしなかった。けれど、見ている静のほうが、その一火(ひとひ)一火(ひとひ)に、骨のしんまで灸(や)かれるような怺(こら)えに締めつけられていた。
(――お熱くはないのかしら)
 と疑うように、小冠者はそっと、主君の肩ごしにその顔をのぞいてみた。
 やはり彼とて熱いには違いない。義経は、眼をふさぎ、奥歯をかんで、鼻腔(びこう)でつよい息をしていた。
 ――と。ふいに、義経は、
「静(しずか)」
 と振向いて、さっきから返辞を待っている妻へ、こう云った。
「通せ、景季(かげすえ)を。――会ってやろう」
「えっ……。では、お心を取直して」
「そなたにも、また家臣たちにも、そう心配かけてはすむまい。……今は何事も忍(にん)の一字が護符(ごふ)よ。この九郎さえ忍びきればお許(こと)らの心も休まろう。――通せ、ここでよい。義経が仮病(けびょう)でないことも、景季の眼に見せてくりょう」

 宇治川の合戦に、名馬摺墨(するすみ)に乗って聞えを取り、その後、頼朝(よりとも)にもお覚(おぼ)えのよい梶原景季(かじわらかげすえ)であった。
 その頃は、義経の幕下であったが、今日は、鎌倉殿の権力を、背に負っている使者で来たのである。
「異(い)な臭い……。これはまた、何のけむりか」
 景季は、そこへ坐るなり、天井を見まわして、訊ねた。義経は、脇息(きょうそく)に倚って、苦笑しながら、灸(きゅう)をやいていたところ故と答えると、
「そうそう、先頃から、何度訪ね申しても、御病中とのみで、追い返されたが――時に、御容態はいかがでござりますな」
「景季。おん身は、義経が会わぬのは、仮病ならんと、家人(けにん)へ云われたそうなが、篤(とく)と、この灸の痕(あと)を見られよ」
 と、襟(えり)をはだけて示し、
「兄頼朝へ、其方どものそうした邪推や偏見を、そのまま伝えてくるるなよ、先にも義経は、兄上のおひがみや誤解を解こうものと、病躯(びょうく)を押して下ったが、腰越(こしごえ)にて阻(はば)められ、遂に、鎌倉へ入るも許させ給わず、空しく京へ立ち戻って来たが……骨肉の兄と弟とが、かく心にもなく隔(へだ)てられ、浅ましい相剋(そうこく)の火を散らすことよと、世間の眼にも見らるる辛(つら)さ。……景季(かげすえ)、おぬしら、臣下の者にも分ろうが」
 義経は、彼の姿を見ると、云わずにいられなかった。情熱に生き情熱に戦って来た彼は今――平家の旧勢力を一掃して、源氏という、また、鎌倉幕府という新しい組織の段階に入ってくると、もうその役割のすんだ無用の破壊者の如く扱われて、ことごとに、兄頼朝からは疎(うと)んぜられ、幕府の一部からは曲解をうけた。
 ――心外な!
 彼はまたそれを、情熱の焔につつんで深刻に悩むのだった。武人の働きや武略を必要とした世情は一転して――新しい段階では、政略家が舞台にのぼり、政治的な整理や工作が、何もかも無視して働いているのだ――というふうに冷然と見ていることができなかった。
 また、幕府を繞(めぐ)る北条閥(ばつ)や大江広元などの、いわゆる政治家肌な人たちの中では、義経が、戦時同様な威力をもって、京都守護の任にあることは、何かにつけ都合が悪かった。殊に、後白河法皇の御信任は日に厚く、九条兼実(かねざね)なども、義経を無二の者としている傾きがある。――頼朝の心もまた、それには穏やかであり得なかった。
「いや、お暑い折を、押してお目通りを願い、恐縮でした。幕府の使いとしてなれば、御ゆるしにあずかりたい」
 景季は、わざと、義経のことばをそらして、威儀(いぎ)作った。
「早速ですが、かねて頼朝(よりとも)公から、貴方へ御内命のあった一儀、何故の御延引かと、お怒りでござる。一体、いつお討果しになるお心か、確(しか)と、その儀を伺いに参った。御返答を賜りたい」
「新宮(しんぐうの)十郎(ろう)行家(ゆきいえ)どのを、討てとの、仰せつけのことであるか」
「そうです」
「行家どのは、兄頼朝にとっても、この義経にも、叔父御(おじご)にあたるお人であろうが」
「おことばまでもありません」
「しかも、平家追討の折には、河内より兵を引っ提(さ)げられ、摂津(せっつ)では、軍船や粮米(ろうまい)を奉行せられ、勲功もあるお人」
「しかし、鎌倉殿には、忠誠でありません。頼朝公を甥(おい)と侮(あなど)られ、根が、木曾殿の幕下にあったお方だけに」
「理窟は待て。兄上には、すでに、佐々木定綱に命じて、行家どのを討てとおいいつけなされたそうだが、義経は、情において、叔父御を討つに忍びない。――そういう兵馬は義経の旗下(きか)にはない」
「噂には、あなたが、行家殿を匿(かくま)っておられるとも聞きますが」
「知らぬ。あのお方とて、犬死はしとうあるまい。隠れるのは当り前じゃ」
「では、鎌倉殿の仇を庇(かくま)われて、御命に叛(そむ)かるるお考えか」
「たれが」
「あなた様が」
「ばかっ。――疾(と)く、帰れっ」

 物蔭に聞いていた家臣は胆(きも)を冷やした。簾の蔭に案じていた静(しずか)もハッとした。情熱の病人は、遂に、烈火のかたまりを、景季(かげすえ)へ吐きつけてしまった。
 こんな結果になるなら、むしろ仮病と取られても、使者の景季にお会いさせなかったほうがましであったものをと、家臣たちは悔いたが、及ばなかった。憤然と立帰った景季は、即日、六条油小路の旅舎を引払って、鎌倉へ急ぎ帰って行ったという。
「さばさばした。これで、一夕立そそいで来れば、なお、清々(すがすが)しかろう。――静、雑色(ぞうしき)に命じて、庭木へ水を打たせい。灯ともしたらまた、そなたの鼓(つづみ)など聞こうほどに」
 義経は、夕迫る縁に立って、崩れる雲の峰を見ていた。
「はい」
 彼の妻は、まだ十九だった。
 十五、神泉殿の舞楽の日に、初めて義経に想(おも)われた。恋を知った十六の春と共に、眉を改めて、白拍子(しらびょうし)の群れから去り、その細い腕(かいな)で養って来た母の磯(いそ)の禅師(ぜんじ)と一緒に、この館(やかた)へ移った静であった。
 晴れがましく輿入れした妻ではない。それだけに、妻たる女の真実を、彼女は、良人へも召使にも、無言の真心で示して来た。よしや鎌倉にある良人の兄君からは、まだ一片の便(たよ)りにも「弟の妻」とゆるされた例(ためし)はなくても、彼女の心には、何の不足でもなかった。

 鎌倉に帰った梶原景季(かじわらかげすえ)は、頼朝(よりとも)へ、こう復命した。
「判官(ほうがん)殿には、病中と仰せあって、なかなかお会い下さいません。遂に、強(た)って御威光を以て、お目通りしましたところ、灸(きゅう)などすえておられ、御顔色も憔忰(しょうすい)の態に見うけられましたが、一日食わず、一夜眠らず、灸などすえれば、病態は作られまする。――行家(ゆきいえ)追討の御諚(ごじょう)については、耳もかされず、疾(と)く帰れとの御一言あったのみ、取りつく島もなく立戻りました」
 それからまた、都での風聞(ふうぶん)として、義経の行装の豪奢、禁中の羽振り、日常の花奢(かしゃ)など、問われないことまで告げた。
「そんな態か」
 頼朝の顔いろは動いた。
「仙洞(せんとう)の御気色(みけしき)に諂(へつら)い、武功に誇り、頼朝にも計らわず、五位の尉(じょう)に昇るなど、身のほどを忘れた振舞、肉親とて、捨ておいては、覇業の障(さわ)りになる。今のうちに、九郎冠者めを討って取れ」
 下知(げち)は、武府に伝えられた。
 和田、三浦、千葉、佐々木など、誰もその討手は辞退した。土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)に命が下った。昌俊は、部下の藍沢次郎(あいざわじろう)、真門(まかど)太郎など八十余騎をひいて、京都へ馳せ上った。
(――鎌倉殿の討手が京へ急がれた)
 街道のうわさは、軍馬よりも先に、都へ聞えてきた。洛内の庶民は、もう家財を片づけ出した。義経はそれを、仙洞(せんとう)御所へ参院した戻り道に見て覚った。
「あわれ、彼等もみな、この義経が、兄に弓引く者と思うているのか。天下、誰あって、この義経の心を知ってくれる者もない」
 彼は、牛車(くるま)の中で嘆じた。――そう淋しく思う時、ただひとり彼の胸には静(しずか)のすがたがあった。

「京都守護の任にある義経を討たんとすれば、京都は当然兵火につつまれ、ひいては天下の大乱となろう。よろしく彼に先んじて、頼朝追討の院旨(いんじ)を、義経へ下し給うべきである」
 大蔵卿泰経(おおくらきょうやすつね)は、九条兼実(かねざね)や左大臣経宗(つねむね)や、内大臣実定(さねさだ)などを説きまわった。後白河法皇のお心もそこに決しられてあるという。
 誰も、誰も、義経の心を知らないのだ。
「京へ、鎌倉の兵を入れるな。尾張美濃の境、墨股河(すのまたがわ)へ馳(は)せ下って、義経に、鎌倉討伐の第一箭(せん)を放たすがよい」
 同意は、多かった。
 法皇を繞(めぐ)って、活溌な策動が初まっていた。――が、何たることか、その頃もう土佐房昌俊らの手勢は、変装して洛内に入りこんでいたのである。
 十月十七日の夜だった。
 堀川べりの六条室町(むろまち)の館(やかた)へ、どっと襲(よ)せて、いきなり火を放(か)けた軍勢がある。義経は、元より何の備えもしていなかったし、その夜、郎党たちは、他の所用に出払って、あらかた留守だった。
「殿っ。夜討ですっ」
 佐藤忠信と、四、五の家臣が、大声で広縁から呶鳴った。ばりばりと火のはぜる音がする。庭木へ螢のような火の粉が散っている。
「今参る」
 義経はもう身を鎧(よろ)っていた。静が、側にあって、太刀の革(かわ)、鎧(よろい)の緒(お)など、結んでいた。
「忠信っ、忠信っ」
 呼び返して、義経は、早口に命じた。
「そちは、築土(ついじ)を躍りこえて、御所へ急ぎ、火の手に、お案じあらぬよう、義経あらんかぎり、都は焦土とさせませぬと、お取次を以て、聞え上げて参れ。――その足で、出先の郎党どもを集合し、御所を守れ、また市中を警備せよ。義経は、京都守護の任にある者、私邸の火や、土佐房(とさのぼう)ごとき小勢の襲撃は、何ものでもない。よいか、急げっ」
 云い終ると、静(しずか)の手から長巻(ながまき)を受け取って、義経は、わずかの家臣と共に、表門へ斬って出た。静は、良人を送ると、母の磯の禅師の部屋へ、
「母様(かあさま)っ――あっ母様、外へ出てはいけません」
 叫びながら馳けて行った。
 矢も、火の粉も、家のなかまで飛んで来た。凄まじい表の武者声に、彼女の母は、耳をふさいだまま、室の外に俯(う)っ伏していた。

 外出していた郎党や、新宮十郎行家の兵などが、火の手を見て、馳けつけて来たため、土佐房昌俊(しょうしゅん)たちの襲撃隊は、かえって挾(はさ)み討ちとなってしまった。
 昌俊は、追われて、鞍馬(くらま)へ逃げこんだが、鞍馬の山僧に捕えられて、二十六日、都へ曳かれた。すぐ首斬られて、その首は、六条河原の秋風に黒ずむまで曝(さら)されていた。
 十一月、洛内の動揺は、もう制しきれないものになっていた。鎌倉の大軍が上ると聞えて来たのである。義経も必ず反撃するものと見てか、頼朝自身、黄瀬川のあたりまで、兵馬を進ませて来たともいう。
「……浅ましや」
 義経は、心で泣いた。
 夜も寝られない容子(ようす)であった。その良人へ、静は、どんなに心をこめて侍(かしず)いても、慰めきれない思いだった。――果(は)ては、共に手を取り合って、
「天下の兵を敵とするも、怖ろしくはないが、肉親の兄へ引く弓はない。およそこの身ほど、骨肉に薄命(はくめい)な者があろうか。襁褓(むつき)の中より父(ちち)兄弟(はらから)にわかれ、七ツの頃、母の手からもぎ去られ、ようやく、兄君とも会って、平家を討ったと思うも束(つか)の間、兄たる御方から兵をさし向けらるるとは」
「そのお心が、どうして、鎌倉へは通じないものでしょうか。わたくしが兄君様から、弟の妻と、許されているものならば、身を捨てても、鎌倉へ下って、あなた様のお胸のほどを、お訴えいたしましょうものを……」
 ふたりは身も心も一つに悶(もだ)え合って、もう大廂(おおびさし)に木の葉の雨も落ち尽した初冬の夜を泣き明かした。

 風評が風評を生み、今にも大乱と化すように、洛中の貴賤上下の騒ぎが濃(こ)くなれば濃くなるほど、義経の心は、誰にも分らなくなっていた。
 頼朝追討(よりともついとう)の宣旨(せんじ)は、もう朝議で決定していた。義経の手に下るばかりになっている。ここでも、彼の心を少しでも知ってくれる者は一人もなかった。
 叔父の行家さえ、その策動に、夢中になっていた。義経を押立てて、一合戦のもくろみである。堂上(どうじょう)、世上の人々が、まったく義経の本心を見失(みうしな)って、ただ血眼(ちまなこ)に騒いでいるのもむりなかった。
「最期(さいご)の日が近づいた。――静、そなただけは、確(しか)と、わしの心を見ておろうな」
「仰せまでもございません」
 ふたりは、密(ひそ)かに誓っていた。犬死する気はないが、そうかと云って、戦う気も飽(あ)くまでなかった。その間に処す身支度だった。
 幸いにも、義経の望みは、法皇の御聴許となった。一先ず九州の地頭(じとう)として、都を去ることになったのである。
 ――が、人々はなお、彼のそんな柔順を信じなかった。彼をよく知る九条兼実(かねざね)さえ、その日の日記に、
(如何ナル騒乱ニ立チ至ルラン。春日明神(カスガミョウジン)ニ祈念シテ、何処(イズコ)ヘモ逃ゲズ、タダ運命ヲマカスノミ)
 と誌(しる)しているほどであるから、京都の市民が、かつての平家が都落ちの時のように、また、木曾義仲(きそよしなか)が乱暴を働いたように、義経の兵も、存分な狼藉(ろうぜき)を働いて行くであろうと、怖れ顫(おのの)いていた。
 ところが、十一月の霜(しも)の朝、義経は、赤地錦(あかじにしき)の直垂(ひたたれ)に、萠黄縅(もえぎおどし)の鎧(よろい)をつけ、きょう西国へ下るとその邸を出て、妻の静、その老母、その他、足弱(あしよわ)な者たちを、先へ立たせ、わずかの精兵を従えて、御所の門前に、粛(しゅく)として整列した。
 御墻(みかき)ごしに、院の御所を遙拝して、彼は大地へ両手をつかえた。
「義経、不徳のため、鎌倉どのの譴責(けんせき)をこうむり、今日、鎮西(ちんぜい)に落ちて参りまする。思えば、きょうまでの御鴻恩(ごこうおん)は海のごとく、微臣の奉公は一つぶの粟だにも足りません。今一度、龍顔を拝したくは存じますが、武装の甲胄(かっちゅう)、畏れ多く存じますれば、これにてお暇乞(いとまご)いをいたして立去りまする」
 従う人々には、佐藤忠信(ただのぶ)、堀弥太郎(やたろう)、伊勢(いせ)三郎など二百余騎の家人(けにん)、みな義経にならって拝をした。そして、粛然(しゅくぜん)と、塵(ちり)も散らさず、都を後に去った。
 ――が、摂津(せっつ)、兵庫あたりには、早くも頼朝の軍令がまわっていた。諸国の地頭は、義経を討って、鎌倉殿の感賞にあずかろうものと争った。
 行路(こうろ)の難は、そればかりでなかった。大物(だいもつ)の浦から船に乗りこんだ夜、暴風(あらし)に襲われて、船は難破してしまった。郎党の多くは溺死し、義経は、壊(こわ)れた船を引っ返したが、陸にはまた、執(しつ)こい敵が猛襲してきた。かくて味方とも散々(ちりぢり)にわかれて後、義経の足跡(そくせき)は、四天王寺までは見た者もあるが、そこを立退(たちの)いた先は、まったく踪跡(そうせき)を晦(くら)ましてしまった。
 伊豆左衛門有綱(ありつな)と、堀弥太郎景光(かげみつ)という武士二人。
 それと、妻の静に、妻の母の磯(いそ)の禅師(ぜんじ)と、わずか四人を連れたきりであったと、四天王寺の僧は、後で、取調べをうけた鎌倉の武士へ語った。

 彼は奈良(なら)に潜(ひそ)んでいる――という噂(うわさ)があるかと思うと、
(いや、多武(とう)の峰(みね)で、それらしい落人(おちゅうど)を見た)
 とも聞え、
(十津川の筋へ逃げた)
 とか、その他、紀州だ、いや、京都の中に潜伏しているのと、彼の足跡を繞(めぐ)って、神出鬼没なうわさばかり乱れ飛んだ。
 鎌倉勢は、その詮議(せんぎ)に、手をやいた。翻弄(ほんろう)されているようだった。躍起(やっき)になって、探しぬいたが、手懸(てがか)りもない。
 その前後。北条時政の手勢は、何事か、確証をつかんだものらしく、雪ふる中を、吉野の峰へ馳(か)け上って、何の前触れもせず、南院藤室(なんいんふじむろ)の僧房を襲った。
「九郎(ろう)判官(ほうがん)が、これに潜んでおろう」
「存ぜぬ」
 白眉(はくび)の僧が、応答している間に、彼方の蔵王堂(ざおうどう)の方で、
「いたっ」
 という兵の声がした。
 僧の中で、密告した者がいたとみえる。どやどやとそこへ押入った武者輩(むしゃばら)の中に、その僧も立ち交じっていた。
「やっ……。女と老母のみではないか」
「これは、判官どのの愛妾(あいしょう)静(しずか)どのと、その母御の禅師(ぜんじ)です」
 兵を導(みちび)き入れた僧は云った。
「あ。……静(しずか)か」
 白拍子(しらびょうし)の頃から麗名は高い。舞の上手、またなき容色の持主と、誰も聞いている。わけて、九郎判官が、天下(てんか)に身を容(い)れる尺地(せきち)もなくなった後も、労苦を共にして、連れ歩いている麗人とは、いったいどんな女性かと、武者輩(むしゃばら)は、眼を研(と)ぎたてて、まわりに立った。
 母子(おやこ)、ひしと抱き合っているので、一つの大きな繭(まゆ)のように見えた。静(しずか)のふところに顫(わなな)いているのは老母だった。静は、まわりの刀や槍を、黒い瞳(ひとみ)で、まろまろと見つめながら、母の体のうえに蔽(おお)いかぶさっていた。
「静っ。――こらっ静っ。……義経はどこへ落ちた。申さぬと、先ず見せしめに、その老(お)いぼれの首から斬り離すぞ」
「知りません。……良人の行先は、何も聞いておりません」
「うぬっ」
 雪まみれの土足を上げて、一人が蹴とばそうとすると、
「まあ待て、そう怯(おび)えさせては、口もきけまい」
 と、他の武者が押し止めて、宥(なだ)め賺(すか)しながら訊問した。
「これまでは、良人と共に、辛くも辿(たど)って参りましたが、深山(みやま)の雪、母の持病、足手まといと思し召してか、この蔵王堂に四、五日いよ、やがて馬を送りて、迎えをよこすまで――と申されまして、良人とここで別れたまま、先のお行方は存じませぬ」
 静のことばは明晰(めいせき)であった。その落着(おちつ)いた様を見すえて、
「嘘(うそ)でもないらしい」
 と、武者たちは、麓(ふもと)の北条時政へ、使いを馳(は)せて、処置の命を待った。
 馬の鞍(くら)に縛りつけて、すぐ鎌倉へ追い下せとあった。静は、武者の手に引っ立てられる母へ、自分の上着(うわぎ)を脱いで老いの肩をつつみ、その耳もとへ、熱い息して囁(ささや)いた。
「ゆるして下さい。不孝をおゆるし下さいませ。わたくしが、世の常の白拍子(しらびょうし)のように、判官様へ無情(つれな)くあれば、年老いたあなたに、こんな艱苦(かんく)はおかけしないでもよいのに……私の婦道(みさお)のために……お母様までを、憂目(うきめ)に追いやって」

 明けて文治(ぶんじ)二年の一月末には、静も母も、鎌倉幕府の罪人として、安達(あだち)新(しん)三郎(ろう)清経(きよつね)の邸(やしき)に預けられていた。
 氷のような吟味(ぎんみ)の床に、静は、幾たびも、坐らせられた。
「義経の行方を云え」
 との厳問である。
 清経(きよつね)は、こう責めた。
「そちのように、情(じょう)の細(こま)やかな者が、途中で義経と別れ去ったとは腑(ふ)に落ちぬ。どこか、再会の場所を約しているのであろう」
 静は、余りに責められるので、幾分、しどろになって、
「いえいえ、一度は私も、お別れするに耐(た)えかねて、峰(みね)の一の鳥居あたりまで、お後を慕(した)って行きましたが、女人(にょにん)の入峰(にゅうぶ)は禁制とのことに、泣く泣く戻って参りました」
 吟味(ぎんみ)の筆記が、やがて頼朝(よりとも)の手もとへ上げられて来た。頼朝は、それを見て、
「先に、吉野の蔵王堂(ざおうどう)で、時政が調べ取ったことばと相違がある。いよいよ、厳(きび)しく折檻(せっかん)して、実を吐(は)かせい」
 と、清経(きよつね)に対して、不機嫌を示した。
 清経は、恐懼(きょうく)して、さらに、静を辛辣(しんらつ)に責めた。余りに長い時間を冷たい板床にひき据(す)えられていたせいか、静は、急に眉をひそめ、蒼白(あおじろ)くなって苦しげに俯(う)っ伏した。
 驚いて、医師を呼び、薬を求めると、医師は云った。
「病気ではない。この容体は陣痛(じんつう)じゃ」
「えっ。陣痛?」
「ひどく冷(ひ)えこんだため、早めた容子(ようす)はあるが、はや八月(やつき)は越えている」
「さては、妊娠していたのか」
 清経は、息を嚥(の)んで、先頃から自分のした折檻(せっかん)が、ひそかに今は自分を責めた。
 何しても、騒ぎとなった。しかし、案外に産室へ入ってからは軽くすんだ。産れた子は、男であった。初産(ういざん)だし早目でもあったせいか、ふつうの嬰児(あかご)より小さかった。
「お母様、見てください。似ておいで遊ばすことを……。このお眼、このお唇(くち)」
 彼女はこの邸が、獄舎(ごくしゃ)であるのも忘れて、掻抱(かきいだ)いては、欣(よろこ)んだ。――お見せしたい、一目でも、かの君にと。
 木々の芽(め)もふく春に向いて、嬰児(あかご)の手足は、日ごとにまろくなって行った。父の血をうけて、この子も意志強い容貌(かおだち)していた。
「ああ、お目にかけたい。それにしても、わが夫(つま)は何処の野路を……?」
 思うにつけ、胸が傷む。すると怖ろしいほどすぐ乳(ちち)が止るのである。嬰児(あかご)は泣く。――せめてこの啼(な)き声なと、良人の耳に届(とど)くすべもないかと、また、涙に溺(おぼ)れてしまう。
「ちッ……。うるさい餓鬼(がき)だ」
 昼夜、室の外に、番をしている詰侍(つめざむらい)が、時々、聞えよがしに、舌打ち鳴らした。
 築地(ついじ)の外の桜並木が、枝もたわむばかり咲き誇ってきた。夜も昼も、そこからチラチラ白いものが母子(おやこ)の室へ散り迷って来た。
 嬰児(あかご)は、眸(ひとみ)をうごかしぬく。もうお目が見えるそうなと、老母は、その生命(いのち)の育ちをむしろ儚(はかな)げに呟(つぶや)いた。静は、花の散るのを見ると、吉野の雪の日が思い出されてならなかった。――別れた人のうしろ姿に、霏々(ひひ)と雪ふぶきの吹いていたその日の別離を。――幾たびも振向(ふりむ)いては去った彼の君の眸(ひとみ)を。遂には、雪の中へ泣き倒れて、雪に埋もれていた自分の姿を。

 四月の一日であった。
 もう桜も若葉だった。散り消えた花の影が、何か遠い過去であったような心地のする朝。
「折入って、静どのに」
 と、いつになく丁寧(ていねい)に、安達清経(あだちきよつね)がはなしに来た。
「ほかでもないが、この四日、頼朝公には夫人(おくがた)の政子(まさこ)の方と御一緒に、鶴ヶ岡に御参詣がある――」
 そう前提(まえお)きして、清経は、頼朝の命(めい)として、次のような事を伝えた。かねて頼朝にも、弟の内縁の静が、神泉殿の雨乞(あまご)いの舞楽に、九十九人の舞姫のうちでも優れた白拍子(しらびょうし)であったということは聞き及んでいるところから、
(四日はちょうど参詣のついで、ぜひ社殿の廊(ろう)においてなと、隠れなき上手の舞をよそながら見たい)
 という熱望だというのである。
 捕(とら)われて、鎌倉へ送られて来たその当座にも、早速のように、舞を見せろという頼朝の下命はあったのである。――が、静(しずか)は、どうしても、かぶりを振って肯(き)かなかった。
 手を焼いた前例があるし、こんどは、頼朝のいいつけも、厳重であったから、清経は、この下話(したばなし)には、充分周到(しゅうとう)な要意を胸に持って、彼女を説いた。
「いちどお目にかかっておけば、お怒(いか)りの度もよほど和(なご)もう。舞だに終ったなれば、老母をつれて、京へ帰るもさしつかえないとまで仰せられてある。御老母のためにも……ここ忍(しの)ぶべきところではないかな」
 母のために。
 そう云われると、否(いな)む言葉もなかった。また、良人の義経に対する鎌倉殿の感情が、すこしでも解けてくれたらと、静(しずか)は、そうした恃(たの)みも抱いて、
「まだ、良人の生死も聞えず、別離の涙もかわかぬ今、恥かしい身を、鎌倉殿のおん前に曝(さら)すのは耐えられぬここちがしますが、あわれわが夫(つま)への、故なきお怒りが少しでも解(と)かれたなら、どんなに欣(うれ)しゅうございましょう。恥を忍んで舞に上がりましょう」
 恥、怨(うらみ)、無念――あらゆる胸揺(むなゆ)らを嚥(の)んで、きっと、決意をした唇から、静は、遂にそう答えた。

 その日、清経(きよつね)に伴(ともな)われて、静は、頼朝(よりとも)夫妻の前に出た。――初めて、実にきょう初めて、わが良人と血をわけている兄なる人と、嫂(あによめ)の君とを見たのであった。
 舞殿(ぶでん)の東側(ひがしわき)の一段高い席に、頼朝と政子(まさこ)は居並(いなら)んで彼女を見た。夫妻は、物珍しいものでも見るように、静のしとやかな礼儀を見まもっていた。
「思ったよりは、※(やつ)[#「宀/婁」、U+5BE0、342-4]れてもいない。なかなか気丈(きじょう)そうな女子ですこと。――何か、お言葉をかけておやりなさい」
 政子に囁(ささや)かれて頼朝は初めて云った。
「静(しずか)というか」
「……はい」
「幾歳になった」
「二十歳(はたち)になりました」
「二十歳……ほう」
 夫妻は、顔を見あわせた。何の品評(しなさだめ)をしているのか、静には、その心が酌(く)めなかった。
「愚(おろ)かよのう。まだ年ばえも二十歳を越えず、世に隠れない舞の手も持ちながら、何で、九郎(ろう)冠者(かじゃ)のような、埒(らち)もない男を恋い慕うぞ。……はははは、酔狂(すいきょう)な女子よ」
 静は、水のように、冷やかな感情になった。この良人の肉親は、またその妻である人も、自分を、弟の妻とはまったく視(み)ていないことがよく分った。飽くまで白拍子あがりの遊び女(め)と遇(ぐう)しているのである。
(なんで、こんな人に憐(あわ)れをすがろうぞ)
 彼女は、唇(くち)をかんだ。愍(あわ)れを乞う者と誤られるのも無念である。涙もこぼすまい。頭も下げまい。
 屹(きっ)と、彼女は、胸を上げた。――そしてむしろ愍(あわ)れむべき二個の人形よ! と頼朝夫妻を、その情熱の沸(たぎ)りを持つ黒い瞳(ひとみ)で、じいっと、眼も外らさず見つめていた。
「舞え。――起て」
 頼朝は、急(せ)いた。
「はい」
 静は、きりっと答えた。水色の水干(すいかん)、真紅(しんく)の袴。――起って、頼朝の夫妻を、高くから見て微笑んだ。
「わたくしの、好きな歌舞でよろしゅうございますか」
「何なりと」
 夫妻は共に頷(うなず)いた。
 鼓(つづみ)の上手、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、はや一拍子(ひとびょうし)入れて、此方(こなた)へ眼を向けた。銅拍子(どびょうし)は、畠山庄司重忠(はたけやましょうじしげただ)。――静のすがたを、祐経と挾(はさ)み合って、床(ゆか)を取った。
 遠く――遠く――静は眸(ひとみ)をやって、なお、舞い出さなかった。恍惚(うっとり)と、鶴ヶ岡のここの高さから空を見ていた。行く雲を見ていた。
「さっ!」
 鼓、銅拍子、気を合せて、舞のきッかけを促(うなが)した。――と、空ゆく雲のそれのように、静の水干(すいかん)の袖が瑤々(ゆらゆら)とうごいた。美しい線を描いて舞い初めたのである。
よしの山 峰のしらゆき
ふみわけて
入りにし人の
あとぞ恋しき あとぞ恋しき
 眼にはいっぱいな紅涙があった。けれどまた、その眼には頼朝もない鎌倉幕府の権力(けんりょく)もない。
 元より上手に舞おうなどとは、みじん思ってもみなかった。ただ祈るのは、この舞が、良人の恥辱にならないことであった。義経の妻として世の物嗤(ものわら)いとなるまいとする懸命だけであった。
しずやしず
賤(しず)のおだまき くり返し
むかしを今に
なすよしもがな
――なすよしもがな
 歌い終るのと一緒(しょ)であった。彼方(かなた)の頼朝夫妻の席で、断(き)って落したように、ばらりッと、簾(れん)が落ちた。――その簾中(れんちゅう)から洩れる怒りの声だった。
「八幡の御宝前(ごほうぜん)、しかも頼朝が前なるも憚(はばか)らず、叛逆人(はんぎゃくにん)の義経を、明らさまに、恋い慕って舞い歌うとは。――ゆるせぬ女、余(よ)を、余を、小馬鹿にした舞ではある!」
「あなたの御不興(ごふきょう)は、お身勝手というものです」
 そうたしなめているのは夫人であった。
「何が身勝手か」
「流人(るにん)として、伊豆の配所においで遊ばした頃のことを考えてごらんなされませ。私は、静の歌を聞いて、女子(おなご)はやはり女子よと、思わず眼がうるんで来ました。……私が、配所にあるあなた様をお慕(した)いして、闇の夜、雨風の夜も、通(かよ)うた頃の心を思い較(くら)べると、かの女子(おなご)の今はさこそと察しやられます。このようなことに、席を蹴って、御不興のままお帰りなどなされたら、坂東(ばんどう)武者に、あなたの鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問われましょうが」
 政子は、かえって、機嫌(きげん)よかった。静をさしまねいて、卯(う)の花重(がさ)ねの御衣(おんぞ)を、きょうの纒頭(はなむけ)ぞと云って与えた。
 静は、舞が終るとすぐ、わき見もせず、清経(きょつね)の邸へ帰った。――そして馳(か)けこむように、乳(ち)を待つわが子の部屋へ這入ったが、わが子は見えなかった。
「……和子(わこ)よ。和子よ」
 老母の答えもない。いや、灯火(ともしび)もない一室の隅に、磯(いそ)の禅師は、喪心したようにすすり泣いていた。
「和子は、どうなさいましたか。――お母様、わたしの和子は」
「…………」
 老母は、ただ泣いて、遠い海鳴(うみな)りのする夜空を指さすばかりだった。
「――げっ。では……では和子さまを」
「武者たちが、海のほうへ、引っ攫(さろ)うて行った。――鎌倉殿のおいいつけじゃと」

 水と空の界(さかい)だけが、ぼっと夜明けのように明るいだけだった。夜の海は、真っ暗に吠(ほ)えすさんでいる。常でも浪の激しい由比(ゆい)ヶ浜に、こよいは風がある。
「和子ようっ。――和子ようっ」
 痛む乳を抱きしめた水干(すいかん)の舞姫は、沖へ向って声をからしていた。浪に漂(ただよ)う木片や芥(あくた)を見ては馳けて行った。しぶきを浴びて、走り狂った。
 松明(たいまつ)を振って追って来た人々の中に、安達清経(あだちきよつね)もいた。わが子の後を追って死のうとする静(しずか)を抑えて、遮(しゃ)二無(む)二連れ帰った。一夜に、痩(や)せ衰えた舞姫は、その夜から囈言(うわごと)に、子と良人のことばかり云いつづけて、夏の中も病の床(とこ)から起てなかった。
 静が、気がついてみると、初秋(はつあき)八月の風が萩叢(はぎむら)にふいていた。笠(かさ)と杖とが手にあった。老母と共に鎌倉を立つ日であった。
「良人は何処に?」
 生きるかぎり、彼女は思いつづけたであろう。また、果(は)てなき道を歩いたことでもあろう。――私たちが旅にふと見る、名知らぬ路傍の草の花叢(はなむら)は、そこが彼女の足が止った最期(さいご)の地であった墓標(しるし)かも知れない。
 彼女の咲かせた情操の姿は、野の花に見るあんなふうに、またなく純(じゅん)で飾り気もない愛だったから――。
了

底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社
   1977(昭和52)年4月1日第1刷発行
初出:「主婦之友」
   1940(昭和15)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:雪森
2014年8月7日作成
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