あらすじ
とあるカフェの主人は、震災で焼け落ちた街の復興局の人々との奇妙な出来事を語る。区画整理のため、店の前に赤い杭が打たれたが、不思議なことに、その杭が抜き取られた夜、近隣の店が火事になり、カフェだけが奇跡的に焼け残ったのだ。それからというもの、その夜に店を訪れた復興局の人々は姿を消し、その後の行方は分からなくなってしまった。一体誰が、なぜ赤い杭を抜いたのか? カフェの主人は、その謎と、火事から逃れた奇跡に翻弄され続けている。
 場所の名は今あらはに云ひにくいが、これは某(ある)カフヱーの主人の話である。但(ただ)しその主人とは前からの馴染(なじみ)でも何でもない。去年の一月末の陰(くも)つた夜(よ)に、わたしは拠(よんどこ)ろない義理で下町のある貸席へ顔を出すことになつた。そこに某(ある)社中の俳句会が開かれたのである。
 わたしは俳人でもなく、俳句の選をするといふ柄(がら)でもないのであるが、どういふ廻(まは)り合せか時々に引つ張り出されて、迷惑ながら一廉(ひとかど)の選者顔をして、机の前に坐らなければならないやうな破目(はめ)に陥ることがある。今夜もやはりそれで、無理に狩り出されて山の手から下町まで出かけて来たのであるが、あひにくに今日(きょう)は昼間から陰つて底冷えがする。自分も二三日前から少しく風邪を引いたやうな心持がする。おまけに午後八時頃からいよ/\雨になつたので、わたしは諸君よりも一足先へ御免(ごめん)を蒙(こうむ)ることにして、十時近い頃にそこを出た。それから小半町(こはんちょう)もあるいて、電車の停留所にたどり着いたが、どうしたものか電車が一向(いっこう)に来ない。下町とはいひながら、雨のふり頻(しき)る寒い夜(よ)に、電車を待つ人の傘の影が路(みち)一ぱいに重なり合つてゐるのを見ると、よほど前から電車は来ないらしい。
 困つたものだと思ひながら、わたしも寒い雨のなかに突(つ)つ立つてゐると、電車はいつまでも来ない。電車ばかりか、意地悪く乗合自動車も来ない、円タクも来ない。夜(よ)はだん/\に更(ふ)けて来る。雨は小歇(おや)みなく降つてゐる。洋傘(こうもり)を持つてゐる手先は痛いやうに冷(つめた)くなつて来る。からだも何だか悪寒(さむけ)がして来た。
『とても遣切(やりき)れない。茶でも喫(の)まう。』
 かう思つて、わたしはすぐ傍(そば)にある小さい珈琲店(カフェー)の硝子戸(がらすど)をあけて這入(はい)つた。場合が場合であるから、どんな家(うち)でもかまはない。兎(と)もかくも家のなかへ這入つて、熱い紅茶の一杯も啜(すす)つて、当坐の寒さを凌(しの)がうと思つたのである。店は間口(まぐち)二間(けん)ぐらゐのバラツク建(だて)で、表(おもて)の見つきは宜(よろ)しくなかつたが、内は案外に整頓してゐた。隅の方の椅子に腰をおろして、紅茶と菓子を註文すると、十六七の可愛(かわい)らしい娘が註文の品々を運んで来た。
 ほかには客も無い。わたしは黙つて茶をのみながら其処(そこ)らを見まはすと、菓子や果物のほかに軽い食事も出来るらしいが、家内は夫婦と娘の三人きりで、主人が料理を一手に引受け、女房が勘定をあづかり、娘が給仕をするといふ役割で、他人まぜずに商売をしてゐるらしい。今夜のやうな晩は閑(ひま)であるとみえて、主人はやがてコツク場から店の方へ出て来た。年はもう四十を五つ六つも越えてゐるであらう、背は高くないが肥(ふと)つた男で、布袋(ほてい)のやうな大きい腹を突き出して、無邪気さうににや/\笑ひながら挨拶した。
『お寒うございます。あひにくに又降り出しました。』
『困りますね。』と、わたしは表の雨の音に耳をかたむけながら云つた。
『まつたく困ります。旦那(だんな)は御近所でございますか。』
『いや、山の手で……。』
『そりや御遠方(ごえんぽう)で……。あひにく電車が些(ち)つとも来ないやうですね。』
『それでいよ/\困つてゐるんですよ。』
『どうして来ないのかな。又どこかで人でも轢(ひ)いたかな。』と、主人はすこし顔をしかめた。
 娘は気を利(き)かして表を覗(のぞ)いてくれたが、電車はまだ来さうもないのであつた。
『まあ、御(ご)ゆつくりなさいまし。表はお寒うございますから。』と、女房は愛想(あいそう)よく云つて、わたしの火鉢に炭を継いでくれたりした。
 主人もわたしに近い椅子に腰をおろして、打解(うちと)けたやうに話し出した。
『旦那は山の手ぢやあ、区画(くかく)整理にはお係(かか)り合ひ無しですね。』
『いや、やつぱり震災に遣(や)られたんですよ。』
『やあ、それはどうも……。まつたく御同様にひどい目に逢ひましたね。わたくし共なんぞもこの始末です。』と、かれは笑ひながら家中(うちじゅう)をみまはした。
『併(しか)しなか/\綺麗ぢやありませんか。』
『ご冗談を……。この通りの大(おお)バラツクで、まるで見る影はありませんや。これでも震災前までは四間半(しけんはん)の間口(まぐち)を張つて、少しは気の利いた西洋料理屋を遣(や)つてゐたんですが、震災で何も彼(か)も型無(かたな)しになつて仕舞つたので、半分を隣のパン屋に貸して……。なに、前から知合ひの仲ですから、高い権利金なんぞ取りやあしません。そこで、奉公人は一切置かないことにして、内儀(かみ)さんと娘と三人ぎりで、このごろ流行のカフヱーの真似事みたやうなことを始めて……。なにしろ店が小さいから碌(ろく)な商売もありませんが、その代りには又気楽ですよ。それにしても、これぢやああんまり体裁(ていさい)が悪いから、もう少し何とか店附(みせつき)を好(よ)くしようと云つてゐるんですが、例の区画整理がまだ本当に決(き)まらないんでね。いや、一旦(いったん)はもう杭(くい)を打つたんですが、近所が去年焼けたもんですから、又なんだかごた付(つ)いて……。一体どうなるんでせうかねえ。』
『この近所は焼けたんですか。』
 わたしも少しく顔を陰(くも)らせた。震災に焼かれてバラツクを建てゝ、それを又焼かれては堪(たま)らない。まつたく踏んだり蹴(けっ)たりの災難であると、わたしは我身にひきくらべて、心から気の毒に思つた。それを察したやうに、主人は首肯(うなず)いた。
『気の毒ですよ。いくらバラツクで碌(ろく)な物はないと云つたつて、又焼かれちやあ助かりません。近所でもみんな泣いてゐましたよ。』
『よつぽど焼けたんですか。』と、わたしは又訊(き)いた。
『えゝ、小一町(こいっちょう)ばかり真四角に焼けてしまひました。』
『ぢやあ、この家(うち)も……。』
『ところが、焼けない。どうも不思議で……。こゝの家(うち)だけが唯(た)つた一軒助かつたんです。』
『運が好かつたんですね。』
『運が好かつたんですよ。』と鸚鵡(おうむ)がへしに答へながら、主人はすこし真面目になつた。『それがねえ、旦那。なんだか妙(みょう)なんですよ。まあ、お聴きください。御承知の通り、区画整理はどこでも大(おお)ごた付きで、なか/\容易に決着しません。こゝらも大揉(おおも)めに揉めたんですが、それでもまあ何(ど)うにか斯(こ)うにか折合が附いて……。なに、本当に附いたわけぢやあないが、まあ半分は泣寝入りの形で、みんなも虫を殺して往生することになつて、去年の九月に復興局の人たちが来て、竿(さお)を入れたり何かした揚句(あげく)に、どこでもするやうに赤い杭を打ち込んで行きました。こゝの家(うち)も店さきを一間二尺ほど切り下げられるんださうで、両隣との庇間(ひあわい)へ杭を打たれたんです。唯(ただ)さへ狭くなつたところへ、こゝで又、奥行を一間二尺も切り縮(ちぢ)められちやあ仕様(しよう)がないが、それもまあ世間一統(いっとう)のことですから、わたしの家(うち)ばかりが苦情を云つても始まらないと、まあ諦(あきら)めてゐたんです。そこで、この一町内も門並(かどなみ)に杭を打たれてしまふと、その月のお彼岸(ひがん)過(す)ぎ――廿八(にじゅうはち)日の晩でした。
 その日は朝から急に涼風(すずかぜ)が立つて、日が暮れるともう単衣(ひとへもの)[#ルビの「ひとへもの」はママ]では冷々(ひやひや)するくらゐでしたが、不思議なことにはその晩些(ち)つともお客が無いんです。昼間はいつもの通りでしたが、燈火(あかり)がついてからは一人も来ないんです。こんなことも珍しい、陽気が急に涼しくなつたせゐかしらなぞと云つてゐました。その癖(くせ)、表の往来はふだんの通りに賑(にぎや)かいんですが、誰もこゝの店へ這入つて来るものが無い、みんな素通りです。定連(じょうれん)のやうに毎晩寄つてくれる近所の若い人たちも、今夜は湯帰りの湿(ぬ)れ手拭(てぬぐい)をぶら下げながら黙つて店の前を通り過ぎてしまふんです。わたしばかりぢやあない、内(うち)のかみさんや娘たちも何だか寂しいやうな気がしたさうです。それでも商売ですから、宵から戸を閉めるわけにも行かないので、夜の更けるまで欠(あく)びをしながら、唯(ただ)ぼんやりと店の番をしてゐると、もう十一時半頃でしたらうか、いつもは十二時まで店をあけて置くんですが、今夜は右の一件ですから、もうそろ/\閉めようかと思ひながら、わたしが表へ出てみると、こゝらの家ももう大抵は寝てしまつて、世間は森(しん)としてゐます。電車の往来も少(すくな)くなつて、人通りは勿論少い。たゞ大空には皎々(こうこう)とした月が冴(さ)え渡つて、もう夜霧が降りたのでせう、近所のトタン屋根(やね)も往来の地面も湿(ぬ)れたやうに白く光つてゐました。
 涼しいのを通り越して、なんだか薄(うす)ら寒くなつて来たので、わたしは浴衣(ゆかた)の襟(えり)をかき合はせながら内へ引込まうとする時、どつちの方から来たのか知りませんが、三人づれの男の客が繋(つな)がつて這入つて来ました。みんな洋服を着た若い人ばかりで、二人は詰襟(つめえり)、ひとりは折襟……。帽子もみんな覚えてゐます、一人は麦藁(むぎわら)、ひとりは鳥打(とりうち)、ひとりは古ぼけた中折(なかお)れをかぶつてゐました。入(い)らつしやいと云ひながら好く視(み)ると、どの人も覚えのある顔で、半月ほど前にこゝらへ来て、測量をしたり杭を打ち込んだりして行つた復興局の人達でしたから、わたしも商売柄、先日はご苦労様でしたとか何とか挨拶をして、さてお誂(あつら)へを訊(き)くと、サラダか何かのあつさりしたもので、ビールを飲ませろと云ふんです。宵から一人もお客が無かつたところへ、三人連れで来てくれたんですから、こつちも有難い。殊(こと)にこのあひだ中は随分世話を焼かせた復興局の人たちですから、かみさんや娘たちも精々お世辞をならべて、お誂へを運び出すと、三人ともに黙つて飲んでゐるばかりで、わたしの方から何か話しかけても、碌(ろく)に返事もしないんです。大分御ゆつくりでございますねと云つても、唯(ただ)むゝと云ふばかり。これからどちらへかお出かけですかと冗談半分に訊いてみても、唯むゝと云ふばかり。このあひだは三人ながら皆(み)んな威勢の好い人達ばかりだつたのに、今夜は揃ひも揃つて何だかむづかしい顔をして黙つてゐるのは、どういふわけかと思ひながら、わたし達も黙つて見てゐると、三人はビールを三杯づつ飲んで、亦(また)まだ飲ませろと云ふんです。
 こんな夜ふけに、復興局の人たちが三人揃つて何処(どこ)をうろ付いてゐるのか。いや、若い人達ですから、うろ付いてゐるのに不思議は無いとしても、どの人も忌(いや)にむづかしい顔をして、たゞ黙つて飲んでばかりゐるのが少し気になりました。復興局をクビにでもなつて、自棄(やけ)になつてそこらを飲みあるいてゐるんぢや無いかなどとも考へると、この人達にむやみに飲ませるのも何だか不安心なやうにも思はれましたが、まさかに註文を断るわけにも行かないので、その云ふ通りに飲ませると、大きいコツプでたうとう五杯づつ飲みました。それで別に酔つたらしい様子もみえないんです。そのうちに店の時計が十二時を打ちましたから、それを機(しお)にそこらをそろ/\片附けはじめると、三人は気の毒だがもう少し飲ませてくれと云つて、それからそれへと又二杯、都合(つごう)七杯づつ飲みました。
 夜は更(ふ)けて来る、変なお客が黙つていつまでも飲んでゐる。勿論、こんなお客にもたび/\出逢つてゐますから、さのみ驚きもしませんが、今夜の三人は何だか薄気味が悪いやうに思はれて来たんです。かみさんや娘もやつぱり怖(こわ)いやうな気がしたと云つてゐました。かうなると、お客もお荷物で、早く帰つてくれゝば好いと思つてゐると、表から又ひとりの客が這入つて来ました。痩せて背の高い男で、鼠色の立派な洋服を着て、やはり鼠色のヘルメツトのやうな帽子をかぶつてゐましたが、帽子を取ると髪の毛が銀のやうに白く光つてゐるのが眼につきました。前の三人はこの男をみると、一度に起ちあがつて叮嚀(ていねい)に挨拶する。その様子から考へると、この男は三人の上役らしいんです。お誂へを聞くと、なんにも要(い)らない、水を一杯くれろと云ふだけでした。
 男は水を飲んでしまつて、三人に眼で知らせると、三人はすぐに帰り仕度(じたく)をはじめました。さあ、これからがお話です。三人はわたしに向つて、実は持合はせがないから、今夜の勘定は明後日(あさって)の晦日(みそか)まで貸してくれと云ふんです。大方そんなことぢやあないかと内々(ないない)あやぶんでゐたんですが、今更どうにも仕様がありません。無いといふものを無理に出せとも云はれず、ましてまんざら識(し)らない顔でもないんですから、わたしも素直に承知して、ビール廿一杯(にじゅういっぱい)とハムサラダ三枚の勘定を貸して遣(や)ることにすると、みんなも喜んで出て行きました。さあお仕舞だと総がかりで店を片附けはじめると、娘が表をのぞいて又引返して来て、あの四人連れはまだ外に立つてゐると云ふんです。なにをしてゐるのかと、わたしも窃(そっ)と覗いてみると、四人は明るい月の下に突つ立つて、なにか相談でもしてゐるらしいんです。そのうちに髪の白い男が真先(まっさき)に立つて、ほかの三人がそのあとに附いて、この町内の角を曲つて行きましたが、やがて鶏(にわとり)が鳴き始めました。それも時を作るのぢやあない、物に驚いたやうに鳴いて騒ぎ出したんです。この町内には鶏を飼つてゐる家が三軒ばかりありますが、その鶏がみんな一度に騒ぎ出したので、わたしも少し変だと思つてゐると、そこらの犬もむやみに吠え出しました。
 よその家(うち)はもう寝静(ねしず)まつてゐるので、なんにも気(き)が注(つ)かないかも知れませんが、わたし達はどうも不安心でなりません。鶏(とり)が騒ぐ、犬が吠える、もしや又大地震でも始まる前兆ぢやあないかなどと云つて、かみさんや娘は怖がります。わたしはもう一度、表へ出てみると、往来には一人も通らず、夜の更けるに連れて月がます/\冴えてゐるばかりです。鶏(にわとり)や犬はまだ鳴いてゐる。その時、横町の薬屋の角から出て来た人の影があるので、よく見るとそれは今の四人連れで、この町内を四角に一廻(ひとまわ)りして来たらしいんです。昼のうちに見廻ると、方々の店から出て来て色々の苦情をならべ立てるので、夜が更(ふ)けてから窃(そっ)と見まはるのかも知れないと思つて、内へ這入つてその話をすると、かみさんも成程(なるほど)さうかも知れないと云つてゐました。まつたくこゝらでは、復興局の人をみると喧嘩腰(けんかごし)で喰(く)つてかゝるのが随分ありますから、一々相手になつてゐるのも面倒だと思つて、わざと夜ふけに見廻つてあるくと云ふことも無いとは云へません。質(たち)の悪いのは、悪戯(いたずら)半分に一旦打ち込んだ杭を引つこ抜いて仕舞ふのも無いとは限りませんから、それで見廻つてゐるのかも知れないなぞとも思ひました。
 それで、表の戸をしめて内へ這入ると、犬や鶏はまだ鳴いてゐるんです。なんだか気になるが、どうにも仕様がない。大抵の地震が来たところで、このバラツクならば大して驚くこともないと多寡(たか)をくゝつて、わたしが真先に寝床へ転げ込むと、かみさんや娘も気味を悪がりながら寝てしまひました。そのうちに犬も鶏もぱつたり鳴き止んで、外はひつそりと鎮(しず)まつたやうでした。わたしは後生楽(ごしょうらく)の人間ですから、床(とこ)へ這入つたが最後、夜のあけるまで一息にぐつすり寝込んで、夜なかに何があつても知らない方ですから、その晩も好(いい)心持(こころもち)に寝てしまつたんですが、あくる朝起きてみると、かみさんや娘が頻(しき)りに不思議がつてゐるんです。
 なにが不思議だと訊いてみると、店の横手の右と左とに打ち込んであつた区画整理の赤い杭を、誰かが引つこ抜いてしまつたと云ふんです。なるほど変だと段々しらべると、家のうしろに打ち込んだ杭も見えなくなつてゐる。近所はどうしたかと見てあるくと、ほかの家の杭はみんな元の通りになつてゐて、わたしの家のまはりの杭だけがなくなつて仕舞つたもんですから、こゝだけが赤い杭の外へこぼれ出して、朱引(しゅび)き外と云つたやうな形になつてゐるんです。ゆうべの人がしたんぢやないかと娘達は云ふんですが、なぜそんな事をしたのか判りません。なにしろ明日(あした)の晦日(みそか)にはあの人達が勘定を払ひに来てくれるだらうから、そのときに訊いてみようと云ふことにして、先づそのまゝに打つちやつて置くと、あくる日の晦日になつても三人は姿を見せないんです。夜になつたら来るだらうと云つてゐたんですが、その夜が十時になり、十一時になり、十二時になつても、たうとう誰も来ない。おまけに寒い風が吹き出したので、思ひ切つて店を閉めて仕舞ひました。
 いつもの通りに店を片附けて、さあ寝ようかといふ時に、町内の犬や鶏が又むやみに鳴いて騒ぎ出しました。つゞいて火事だ火事だと怒鳴(どな)る声がきこえる。おどろいて表へ飛び出すと、町内の家具屋が燃えてゐるんです。あひにくに風があるので、火の手は瞬(またた)くひまに拡がつて、もう何(ど)うすることも出来ない。こゝの家へも火の粉(こ)が一面にかぶつて来るので、碌々(ろくろく)に荷物なぞを持ち出すひまも無しに、寝巻一枚で逃げ出すといふ始末。やれ、やれ、震災を又喰つたのかと、さすがのわたしもぼんやりして眺めてゐると、そのうちに消防の自動車もかけ付けて来ましたが、なにしろバラツクですから堪りません、それからそれへとぺら/\焼けて行つて、たうとうこの一町内を灰にして仕舞ひました。そこで不思議なことは、ねえ、旦那。そのなかで、この家だけは無事でした。門並(かどな)み焼け落ちたなかで、この家だけはちやんと残つてゐたんです。どう考へても不思議ぢやありませんか。
 今もいふ通り、誰がしたのか知れませんが、家(うち)のまはりの赤い杭を抜いてしまつて、こゝだけを朱引き外にして置くと、不思議に火の手が廻つて来なかつたんです。どうしてこゝだけが残つたのかと、誰でも不思議がらない者はありません。旦那はどうお思ひです。』
 この長い話を聞き終つて、わたしも思はず溜息(ためいき)をついた。
『それで、その復興局の人達といふのは其後に姿を見せないんですか。』
『それぎり一度も見えません。』と、主人は答へた。『勿論その晩の勘定はふいになつて仕舞つたんですが、晦日(みそか)の晩に払ひに来ると云つて、その晩が火事なんですからね。つまり私の方ぢやあビール廿一杯とハムサラダ三枚の勘定の代りに、家の焼けるのを助かつたと思やあ好いんですから、差引きをすりやあ有難いわけだと云つてゐるんですよ。ねえ、さうでせう。』
『そりやあ確(たしか)にさうだが……。』と、わたしは冷(ひ)えかゝつた紅茶を一口飲んだ。
『旦那、お止しなさい。冷くなつてゐるでせう。』
 主人は娘に云ひつけて、熱い茶に換へさせた。
『その杭を抜いたと云ふのは、まつたく復興局の人達だらうか。』と、わたしは考へながら云つた。
『だつて、今もお話をするやうな訳ですからね。その人達がした事に相違あるまいと思はれるぢやありませんか。』と、主人は堅くそれを信じてゐるらしかつた。
『それにしても不思議だな。』
『だから、不思議だと云ふんですよ。このあひだも復興局の人が杭を打ち直しに来ましたが、みんな識(し)らない顔ばかりなんです。いつか来た人たちは何(ど)うしましたと訊いてみたんですが、今度の人は去年の暮頃から新しく這入つた人達ばかりで、前の人のことは何にも知らないと云ふんです。と云つて、復興局までわざ/\訊きに行くのも変ですから、まあそれぎりになつてゐるんですがね。まあ、そのうちには自然に判ることもありませう。』
 この時、電車が来ましたと娘が教へてくれたので、わたしは早々に勘定を払つて出た。振返つてみると、なるほど左右のバラツクはみな新しいなかに、この店だけはもう相当に古びてゐるのが、暗い雨のうちにも明(あきら)かに認められた。
了

底本:「近代異妖篇 ――岡本綺堂読物集三」中公文庫、中央公論新社
   2013(平成25)年4月25日初版発行
底本の親本:「物語の法則 岡本綺堂と谷崎潤一郎」青蛙房
   2012(平成24)年6月
初出:「夕刊大阪新聞」
   1929(昭和4)年9月1日(推定)
※「鶏」に対するルビの「にわとり」と「とり」の混在は、底本通りです。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※表題は底本では、「赤い杭(くい)」となっています。
入力:江村秀之
校正:noriko saito
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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