あらすじ
浪人生活を送る平田賛五郎は、かつての武家の誇りを捨てきれず、妻の墨江と共に、再起を夢見ていた。そんな中、賛五郎は、かつての仲間と共に、天下の弓士が集う三十三間堂の通し矢に参加する機会を得る。しかし、参加には多額の費用が必要で、貧しい夫婦には到底捻出できない。賛五郎は、志半ばで夢を諦めようとするが、妻の墨江は、様々な方法で資金を工面しようと奔走する。果たして、二人は三十三間堂の通し矢に臨むことができるのか。そして、墨江の懸命な努力の結末は?
 裏藪(うらやぶ)の中に分け入って佇(たたず)むと、まだ、チチッとしか啼けない鶯(うぐいす)の子が、自分の袂(たもと)の中からでも飛んだように、すぐ側から逃げて行く。
(おや、白い小猫?)
 と、見れば、それは七日(なのか)も前に降った春の雪が、思いがけなく、双(ふた)つの掌(てのひら)に乗るほど、日蔭に残っているのだった。
『――町にも、町の人達にも、春が来ているのであろうに』
 家の中に閉じ籠(こも)ったきりの良人(おっと)の姿は、ちょうどそこの一塊(かたま)りの雪その儘(まま)な――と彼女は思った。
 墨江(すみえ)の耳には、世間の物音が、羨ましく聞えてくる。藪向うの屋敷でする朝からの稽古鼓(けいこつづみ)や、歌舞伎町(かぶきまち)の遠い太鼓の音や――。江戸の屋根は、女のつつましさへ何か唆(そそ)るように、ほの紅い昼霞(ひるがすみ)にぼかされていて、空は飽くまで碧(あお)かった。
『御新造様(ごしんぞさま)、そこにおいでで御座いましたか。――表の京染屋(きょうぞめや)でございますが』
 後(うしろ)の声に、墨江はふり顧(かえ)って、
『ア、菱田屋(ひしだや)さんかえ、ちょっと待っておくれ』
 蕗(ふき)の薹(とう)を摘(つ)んだ小笊(こざる)の中へ、藪椿(やぶつばき)を一枝折って、それを袂に抱(かか)えながら、彼女はわが家の台所口へ戻って来た。
 京染屋の手代(てだい)は、墨江に尾(つ)いて、板の間へ腰かけるとすぐ包みを解いて、
『まあ御覧くださいまし。あの無地のお召(めし)が、とてもよい小紋に染上がりましてな。お仕立も、吟味いたしたつもりでございますが』
『ほんに新し物になりましたね。頭巾(ずきん)のほうは』
『お頭巾も持って伺いましたが、ただ、お色がちと、派手(はで)気味に揚(あが)りましたので』
『まあ、よい色ですこと』
『御新造様のお好みは、お渋(しぶ)いうちにも、やはりちと派手気味が御意(ぎょい)に召すようでございますな。いや、何(ど)ういたしまして、まだまだ、御新造様などはお地味なほうで、世間は派手になるばかりでございます。路考茶(ろこうちゃ)だとか、吉弥臙脂(きちやえんじ)とか、それがあなた様、若いお娘だけの流行(はやり)ではございませんので』
『これ、ちと声を静かにしやい。旦那様のお耳にふれると、又御機嫌を損じますから』
『あ、御在宅で。……これは何(ど)うも』
 あわてて腰を上げながら、勘定書(かきつけ)を出すと、墨江は、
『……一緒に』
 と、低声(こごえ)で断って、そこの水屋障子(みずやしょうじ)をすぐ閉め切った。


 浪人してからは、米一粒の稼ぎもしていない。無為(むい)、坐食、そんな日がもう五年目になる――
『よく過ごして来られたもの』
 と、平田賛五郎(ひらたさんごろう)も、われながら不思議に思う。
 しかも、夫婦共にまだ、どこか以前の気位を持(じ)していて、そう垢(あか)じみた生活に疲れてもいない。
『……だが、ここらがもう、底の底だろう』
 この間から賛五郎は考え初めていた。沈湎(ちんめん)と腕拱(ぐ)みした儘(まま)、いつぞやの雪の日からまだ下駄(げた)を穿(は)いて一歩も外へ出ていなかった。
 ――その雪の日であった。
 この江戸へ来てから知己(しりあい)になった浪人仲間の友達が三、四人打ち連れて来て、
(どうだ、貴公も行かないか。ぜひ一口入れ。吾々が世に浮かび出る千載(ざい)の一遇(ぐう)が来たのに、その機会を逃(の)がすなどという法があるものか。――なあ御新造、そうじゃないか)
 と、いう熱心な勧め方。
 良人の友人達から、そう云われると、墨江は、良人以上、乗り気になって、
(そういう事なら、ぜひ共、主人もお加えくださいませ。とかく良人(たく)は引っ込み思案(じあん)で、今日迄にも何遍(なんべん)、仕官の口を外(はず)して居りますことやら――)
 などと口を極めて云った。
 それ程迄に、妻も云うので、
(行こう、今度は)
 と賛五郎も遂に、同行を約した。
 出発は二月初旬。もう日は迫っている。
 江戸表から立つ仲間は、ざっと十名ぐらいになるだろうとの見込だった。そして、約二ヵ月程、京都の竹林院の道場で稽古(けいこ)を励(はげ)み、そして悠々、静養の上で、四月下旬の三十三間堂の競(きそ)い矢(や)に立つという予定なのである。
 浪人仲間の一部で、
(世に浮かび出る時が来た)
 と云っているのは、寛永(かんえい)、正徳(しょうとく)以来、ここ五、六十年間の通し矢は、御三家や各藩士の間でばかり競技が行われて来ていたが、今度は、遍(あまね)く天下の隠れたる弓仕(ゆみし)に、あの曠(は)れの場所が与えられ、藩士以外の上手が見出される事になったのを歓んでいるのだった。
(――時節が来た)
 平田賛五郎も、はっきりとそれを感じている。彼とても、妻の云うように、決して、引っ込み思案が天性ではない。
 いや、男の沈湎(ちんめん)には、妻以上の欝勃(うつぼつ)がつつまれている。
 ――だが、さし当って、その仲間へ加入して京都へ上洛(のぼ)るには、どうしても、四、五十両の金は入用だった。三十三間堂の堂衆や帳前(ちょうまえ)という役目の者に、心付けも要るそうであるし、加入金は二十両はどうしても調(ととの)えて行かねばならない。その他、路銀、身支度、逗留費なども、今の手許(もと)では、一両すら出来る的(あて)はない。
(そんな事仰っしゃっていては、生涯、仕官する途(みち)はつきませぬ)
 墨江はそういうが、それでは、金をどうするかといえば、それは勿論、彼女にも何の成算はないのである。
 彼女はただ――女ごころに――殊にそういう曠(は)れがましい事は好きだし、又性来(せいらい)が勝気だし――一面には又、浪人して出て来た故郷元(くにもと)に対しても、ここで良人が、名誉を世に揚(あ)げてくれればという射倖心(しゃこうしん)も手伝って、
(お金などは、ほん気になって、工面しようと思えば、どうにでもなるではございませんか)
 と、良人の沈むほど、彼女はそれを励ます気になって、何でもない事のように云い断(き)った。
 ――然し、雪の日からもう七日経ったが、坐食の浪宅には、経済的には何の変化も起らない。
 四、五十両の金はおろか、一日一日の糧さえ今では窮迫(きゅうはく)していた。有る物はみんな売り尽していた。品物を金に代えては喰べて来たのである。裏藪に生える蕗の薹(とう)の菜にも、この冬は喰べ飽きた。


『――藪椿ですけれど、こうして挿(さ)すと見られましょう。お机の上にでも置きましょうか』
 有合(ありあわ)せの小さな瓶(かめ)に、一輪投げて、墨江がそこへ持って来ると、
『何だ……花か』
 と、良人の賛五郎は、興(きょう)も湧かない顔つきで、ただ腕拱(ぐ)みの手を解いて、火鉢のふちへ置き代えただけだった。
 花では、今の彼の心は、慰められなかった。
『あなた、ちと戸外(おもて)でも歩いて来てはいかがですか。雪も解け、道も乾いておりましょう。それに、今日あたりはもう、ほんに春が来たという気持――少し歩いておいでなされませ』
『――何しに』
『お気持が晴れましょう』
『おれは、そんな暗い顔つきか』
『でも……毎日こうして居らっしっては』
『もう、諦(あきら)めている! 何も欝々(くよくよ)していないつもりだが』
『諦めるには早うござります。あなたもまだ三十台、わたくしもやっと二十六。お互いに、これからではございませぬか』
『年の事じゃない。今度の通し矢の話だわ』
『それも、お金さえ工面がつけば、いつでも上洛(のぼ)れる事ではございませぬか』
『いつでも? 馬鹿な。御一同の出立はもう明後日(あさって)。それまでに支度が調わねば、面目ないが、落伍(らくご)するほかはない』
『ですから、その明後日までに』
『たわ言も、よい程にせいっ。その明後日までに金が調う位なら、こうして、髀肉の嘆を洩(も)らしながら、閉(と)じ籠って居りはしない』
『坐っていて、お金のできる気遣(きづか)いはございませぬ』
『まだ云うかっ。では、外を歩いていたら金ができるか』
『一心になって、何ぞ、無い考えでも出そうと思えば』
『世間はそんな物じゃない。――墨江』
 賛五郎は膝(ひざ)を向き代えて、
『そういうお前は、言葉の裡(うら)[#ルビの「うら」はママ]で、良人のおれが、こうして無策(むさく)な顔しているのを冷笑(わら)っているのであろうが』
『ま、そんな皮肉にお取りあそばして』
『いいや、おれの身になれば、おまえの言葉も、耳に痛い木枯(こが)らしのように辛く聞える。おれだとて、何日(いつ)まで朽ちて居ようか。しかも、今度のような絶好な機会を逃すのは、涙の出るほど残念だが……金となっては、どうしようもない浪人生活(ろうにんぐらし)だ。もう、その事に就(つい)ては、云うな、云ってくれるな』
『けれど、今度お上洛(のぼ)りになる沖田(おきた)様も伏原(ふせはら)様も山口様も、皆、御浪人のうえに、日頃のお暮しとて、私たちよりもっと貧しいお方さえあるのに』
『伏原も小網町の魚問屋に身寄(みより)があり、山口も妻の里方がどうかなる家柄だからだ。おれ達夫婦には、この江戸表に一軒の縁者もありはしない。有るのは、旧藩の江戸詰(づめ)の知辺(しるべ)だが、故郷元(くにもと)を追われたおれ達夫婦の事情を知っている奴等が、一両の合力(ごうりき)もしてくれる筈はなし――又そんな所へ恥曝(はじさら)しをして迄、出世に※(「にんべん+屋」、第4水準2-1-66)促(あくせく)したくもない。――ええもう、云うなというのに、諄(くど)い奴だ』
 賛五郎はごろりと横になって、世に入れない欝々(うつうつ)とした顔を、手枕(てまくら)にのせて眼を閉じた。
『平田殿。――居らっしゃるか』
 門口の声に、
『お、伏原様に庄司(しょうじ)様、お揃いで――』
 と、墨江はすぐ、出迎えて、
『あなた、いつぞや雪の日においで遊ばしたお仲間のお二方が』
 良人にも告げて、敷物をそこへ並べると、賛五郎は懶(ものう)げに起き直って、
『先日、仲間一同の前では、ついどうかなる気で、ああ約束してしまったが、弱ったなあ、何と違約の詫びをしようぞ。……』
 呟(つぶや)いている間に、浪人仲間の客の二人は、浪人交際(づきあ)いらしい打解けた挨拶のうちに坐り込んだ。
 そしてすぐ、勝手元の墨江の方へ、
『御内方(おうちかた)。鴨(かも)を一羽提(さ)げて参ったのだが、何と、酒と鍋の物の支度をしてくださらぬか。明日(あす)となっては気忙(きぜわ)しないから、明後日(あさって)の門祝いをやってしまうのじゃ。……どうだ平田殿、いい鴨だろうが、飲めるぞこいつは』
 と、伏原半蔵という四十がらみの浪人は、縄(なわ)で提げて来た鴨の首を高くさし挙げて笑った。


 青物屋とか酒屋とか、ちょっと其処(そこ)らへ小買物に出るのでも、彼女は身綺麗な躾(たしな)みを怠らなかった。いや、貧しくなればなる程、墨江は細心に、薄化粧(うすげしょう)や襟元に気をつけた。
 若いし――縹緻(きりょう)は優れているし――それに世間摺(ず)れていないので、零落(おちぶ)れてもまだ多分に、五百石取の若奥様だった香いが仄(ほの)かである。
『じゃあ、すぐ届けておくれ』
 酒屋でも青物屋でも、彼女が鷹揚(おうよう)にそういえば、何処でも、
『へい、すぐお後からお届けいたします』
 嫌な顔をする店はなかった。
 その癖、去年の年暮(くれ)の払いも、まだ滞(とどこお)っている程だったが。
 墨江は、そういう世間が世間だと思っていた。そのうちには良人が仕官する。支度金が下がる。――だから例え質屋の門を潜(くぐ)っても、元の品位と権式だけは捨ててはならない。そう信じていた。
 それにつけても今度の機会は惜しい。
 良人の平田賛五郎は、元々、弓仕の家筋の人なのである。賛五郎の実兄の平田文吾(ぶんご)は、現在でも熊本の国許(もと)で細川家の弓道師範をしており、禄高(ろくだか)四百石、日置流(へきりゅう)の弓では九州でも並(なら)ぶ者のない人だが、賛五郎はその兄をも凌(しの)ぐ上手だといわれていた程だった。
(口惜(くや)しい。――何としても)
 彼女は、良人贔屓(びいき)な気持ばかりでなく、そういう良人を持ちながら、今度の三十三間堂の通し矢に出せないかと思うと、自分のせいのように、瞼(まぶた)が熱いものに霞んでくる。
 国表の実兄(あに)や親戚へ云ってやれば――とも考えるが、日数の程が間にあうまいし、又、日数があっても、金子(きんす)の頼みなど、受け付けてくれる身寄はないかも知れぬ。
(不義者の果てが、よい態(ざま)な!)
(御勘気(ごかんき)の者に、一切関(かま)うな。関うては、藩の御法を犯すことになろうぞ)
 遠い国許にいる知辺(しるべ)の顔が、みな嘲笑(ちょうしょう)の歯を向けているように僻(ひが)まれる。いや僻みではない、当然そう思われているに違いない。
(わけても彼(あ)の――大牟田公平(おおむだきんぺい)が)
 大牟田公平の事を考え出すと、彼女は昼間の町中でも、思わず背を振向いて、何かに狙(つ)けられているような眸(まなざし)をした。
 賛五郎がなければ、当然自分は、公平の妻となっていた体である。
 大牟田家では、自分と公平との結婚を、藩庁まで届け出してあって、折を待っていたのであったが、その間に、恋はあらぬ人と結ばれてしまった。
 こういう場合――藩の法規は、当然、自由な恋愛から生れる結婚などは認めない。風評が立つと共に、
(御勘気。――放逐(ほうちく))
 の厳命が、恋の凱歌(がいか)と取り代えに、賛五郎の身に降(くだ)った。
(彼(あ)の公平が、あの儘黙って、国許で他の妻を持っているかしら? ……)
 裏切った男の恐い顔つきが、絶えず後(うしろ)から来る気がして、墨江は髪の根が寒くなる。
 ――今も。
 酒屋や青物屋へ届け物を吩咐(いいつ)けておいて、家の方へ戻って来ると、露地の曲がり角に、一人の武士が佇(たたず)んでいる。
 遠くから姿を待って居たように、その男の編笠(あみがさ)は、墨江の方を正視していた。
『……あっ?』
 気のせいか、墨江には、その編笠の背恰好(せかっこう)が、今もふと、胸の中で嫌な気持に思い出されていた大牟田公平そっくりに見えた。
 あわてて、彼女はべつな横丁へ曲がった。足のくろぶしがわくわくして、振向いて見る勇気もなかった。道を廻って、藪(やぶ)づたいに、わが家の台所へ戻って来てから、初めて、
『……あんなよく似た人があるかしら?』
 と、呟(つぶや)いて、もいちど藪の中を見廻した。


 鴨の肉がわずかに皿に残っている。
 もう酒とも呼ばない。
 主客三人とも、充分(じゅうぶん)、酔いがまわっている様子で、
『まだ二日あるのだ、何とか工面がつかぬか。ええ、おい平田氏(うじ)』
 伏原半蔵が云うと、連れの庄司隼太(しょうじはやと)という男も、
『高利貸に知辺(しるべ)はないのか。抵当(ていとう)と云うたら、この首で貸せというのだ。その位、押し強く出なければ、金策などは出来るものか。大体、ここの夫婦は、ちとおとなし過ぎる』
 と、楊枝(ようじ)で歯をせせりながら云う。
 賛五郎は、酔わない振りを努めていたが、笑い声の底に、悪酔(わるよい)している淋しい響(ひび)きがあった。
『あはははは。まさか、首を抵当(かた)に金も貸すまい。――他(ほか)の御一統には、面目次第もないが、貴公たちから、違約の罪、よろしく詫びておいてくれ』
『残念だなあ』
 と、伏原半蔵は長嘆して、
『通し矢の射手(いて)に立って、名乗りをあげるからには、各※(二の字点、1-2-22)自信たっぷりだが、おれ達の仲間では、まず今度の名誉は、平田賛五郎に取られるだろうと定評しているのに、その貴公が、金の為に、断念するなどとは、返す返す惜しい事だ。――御内方(おうちかた)、御内方』
『はい……』
 墨江は行燈(あんどん)をそこへ持って来て、客の間(ま)に坐った。
『もう少々、お燗(つ)けいたしましょうか』
『いやもう酒は充分。……酒どころじゃないその……金子の方さ。五十両ぐらい、何とか調(ととの)わんものかなあ』
『私も、心を砕(くだ)いておりますが』
『心を砕くとは……それは家の中にいて思案している事じゃござらぬか。あははは、あんた方御夫婦は、まるで内裏雛(だいりびな)みたいに、貧乏しながら超然(ちょうぜん)と澄まし込んでいるからいけない。――金を作るには、もっと、面(つら)の皮を厚うして、世間へ実際にぶつかって、嫌な思いも、気位も、捨ててかからにゃあ出来はせん』
『そう私も、良人へ申しているのでございますが』
『平田氏の性格では出来まいなあ。こういう際には、やはり女の内助(ないじょ)の力に待つほかないて』
『……そのわたくしが、意気地がないので、お恥しゅうございます』
『儘(まま)になるなら、自分は退(ひ)いてもよいから、平田氏を三十三間堂へ立たせてみたいが、実は手前も、明日(あした)の晩、頼母子講(たのもしこう)の金を競(せ)り落して、それを懐中(ふところ)にして立とうというあぶない算段(さんだん)……うまく落ちてくれればよいが、さもないと』
 半分独り言のように云いながら伏原半蔵は、眼の隅から墨江を見て、
『御内方には、頼母子講のようなものに入っておいでないのか。月々、懸金(かけきん)をして、何ぞの場合に纒(まと)めて取る無尽(むじん)と申すあれなどには』
『ええ、つい、そのような平常(ふだん)の心懸(こころが)けも……』
『いや、お二人共、お若いのだから無理はない。――だが、その若い者こそ、世の中へ出してやりたいものだな。三十三間堂の通し矢で、名誉の額でも揚(あ)げれば、あわよくば御帰参がかなうかもしれぬし、又御帰参がかなわぬ迄も、諸侯から仕官の口は屹度(きっと)かかって来るが……』
『止してくれ。……もう止してくれ。おれは大小をすてて、算盤(そろばん)が持ちたくなった。……金の工面のつかぬ身で、わずかな額に、金々と云っている程、自分の浅ましくなるものはない』
 賛五郎は、そう云い放つと、酔(よ)いに耐えないように、御免(ごめん)といいながら横になってしまった。
『どれ、吾々もお暇(いとま)としようか。……いやもう関(かま)わずに。……それより御内方、風邪(かぜ)をひかさぬように、平田殿へ何ぞ掛けてあげてくれ』
 伏原半蔵は、土間の履物(はきもの)を足の先で探りながら、手をつかえている墨江の顔を、無遠慮な眼でながめて帰った。


 ――お見送りの出来ないのがただ名残(なご)り惜(お)しゅうぞんじます。けれど金子は、明朝御出立のまぎわ迄に、必ずお手許まで届けさせます故、家事など此儘(このまま)、後顧(こうこ)なく御上洛(ごじょうらく)くださいまし。
 五月、御吉報の矢文を、東の空でひたすらお待ち申してのみ暮しております。委細(いさい)はやがて分る日が参りましょう。
すみえ
旦那さま
 ゆうべ客の帰らぬ間に、転寝(うたたね)した儘だったので、賛五郎は夜明け方に、もう眼をさました。
 ――ふと、枕元の水差(みずさし)へ手をのばしかけると、盆の端に、この置手紙があったのである。
『あっ、では一途(ず)に。……ば、ばかな、何の的(あて)があって!』
 刎(は)ね起て、彼は何という事もなく、家の中を歩き廻った。
 新しく染めた小紋の着物がない。頭巾もない。――やはり外へ出て行ったに違いない。
『世間見ずが、世間へ出て、しかも、大枚の金策をして来ようなどとは、愚(おろか)も甚(はなはだ)しい。金というものが、そんな単純な物なら、何も苦労をする人間はない。――墨江にはまだ、ほんとの貧乏も金の恐(こわ)さも分っていないのだ。――馬鹿、馬鹿め』
 壁(かべ)へ向って、賛五郎は罵(ののし)った。
 磯辺(いそべ)の貝や小魚に戯(たわむ)れていた子が、興にうかれて沖へ遠く歩み出して行ったような――愛するが故の怒りが――堪らない不安になって賛五郎の胸を躁(さわ)がせた。
『無智にも程がある。生き馬の眼を抜くという言葉のある都会を何と思っているのだ。……ああ、はやく空しく帰ってくれればよいが』
 朝飯も食べずに、彼は、戸外(おもて)の跫音(あしおと)ばかり気にしていた。
 午(ひる)を過ぎても、墨江は帰らなかった。これは放(ほ)っておけないと賛五郎は考え出し、大小を落すと着流しのまま、家の露地(ろじ)から出て行った。
 角の煙草屋(たばこや)の老婆が、姿を見て、薬研(やげん)の側からあいさつした。賛五郎は水府(すいふ)のたまを一つ求めながら、軽い言葉で訊(き)いてみた。
『ゆうべ酔いつぶれて、寝坊していたので女房の出て行くのも知らなかったが、今朝方、家内の姿を見かけなかったであろうか』
『御新造様でございますか。……さあ? 御新造様はお見かけいたしませんでしたが、ゆうべから、お宅様の露地口に、どうも気になるお人が立っておりましたので、よほど、そっとお知らせしようかと思っていたのでございますよ』
『何? 露地の角に。――してそれは女か、男か』
『編笠を被(かぶ)ったお武家様で、わたくし共へも立寄り、煙草をお求めなされて、いろいろと、お宅様の様子など訊きますので、不気味(ぶきみ)に思うて居りましたところ、一度何処へか立ち去ったと思うと、又ゆうべも来て立っているではございませぬか』
『はての? ……。年齢は』
『ちょうど、旦那様ぐらいなお年頃で、背は、もちっと高く、薄(うす)あばたが顔にあって、ずんと、田舎くさいお武家でござりましたが』
『えっ、薄あばたのあるわし位な年頃の侍だと。して、袖の紋は』
『御紋は気がつきませんでしたが、言葉の訛(なま)りが、何処やら旦那様のお話し振とよう似ておりましたが』
『あっ……』愕然(がくぜん)としたように――然しさりげなく、
『そうか、いや有難う』
 賛五郎は半町ほど夢中で歩いていた。
(大牟田公平だ。――薄あばたがあって熊本訛(なま)りのある同じ年頃の侍といえば、あの公平に相違ない!)
 暴風(あらし)のように、種々(さまざま)な想像がわき上ってくる。
 機(おり)も機でもある。
『……さては、いつの間にか、彼奴(きゃつ)と文通を交(かわ)して、再び元の男の手へ逃げ帰ったのではあるまいか』
 そう邪推(じゃすい)もできるし、
『いやいや、彼女(あれ)に限って』
 と、今朝の置手紙の真心らしい文言(もんごん)を思い出したり、日頃の墨江を考えて打ち消してもみる。
 然し、どっちにしても、かねがね彼(あ)のまま指を咥(くわ)えて黙視(もくし)しては居まいと考えていた大牟田公平が、出府して、自分たち夫婦の居所を突きとめているからには、これはもう、無言の果し状をつけられているのも同様である。
(女讐(めがたき)!)
 と、彼は自分達をさして呼ぶだろう。あの凄(すご)い相貌(そうぼう)をもって、妻ばかりでなく、自分をも、併(あわ)せて尾け狙(ねら)っている事は相像に[#「相像に」はママ]難くない。
『……もしや? そうだ! もしや出先で妻の身に』
 不安は彼の足を自(ひとり)でに迅(はや)めさせた。物に追われるような眼いろを持って、その眼は又、妻の姿を探し歩いた。


『……さあ、ちとお話が御無理でございますな。ただの屋敷奉公では、前借(ぜんしゃく)などという事は計ってくれませんし、前借のできる勤め奉公では――お茶屋、湯女(ゆな)、船宿(ふなやど)、その他、水商売など種々(いろいろ)ございますが、それもせいぜい年三両か四両くらいしか貸してはくれませんので、あなた様の仰っしゃる五十両などというお金は、どうしても、遊廓(くるわ)より他には貸してくれる所はございますまい』
 槌屋(つちや)という周旋屋の手代はそう云って、じろじろと、墨江の横顔や身装(みなり)を眺めながら、又云った。
『そうそう、番町の或る御大身の御隠居でございますが、そこならば、都合に依っては、二十両や三十両のお支度金は出して下さるかも知れませんな。如何でございますか、そんな傭口(くち)へ、ひとつ、お見得(めみえ)なすって御覧なすっては』
『そこは、お屋敷ですか』
『左様でございます。お名前は、御相談の成る迄申しあげられませんが、さる御旗本の御隠居様でございましてな』
『御用向は、どんな事をいたすのですか』
『へへへへ。それはもう、二十両とか、三十金とかいう、大枚(たいまい)のお支度金を出そうというのですから、云わずもがなで、お分りでございましょうが。――つまりその、お大名でいえば、お部屋様という格で』
『ええ、お妾(めかけ)ですか』
 墨江が、顔色を変えたのを、周旋屋の方では、却(かえ)って、呆(あき)れたような顔つきだった。
 逃げるように、彼女はそこの暖簾(のれん)から往来へ出て来た。
 何処の周旋屋へ行っても、同じような笑いを浴(あ)びるだけだった。彼女は、自分の持っているものが、貞操(ていそう)以外は、誰も相手にしてくれない事を知った。
 同時に、貞操の市価を墨江は知った。世間というものが急に暗黒の表にしか見えなかった。市価づけられた一日の経験に、浅ましくて泣きたくなった。
『……だが、良人の為なら』
 ふと、そんな魔がさして、身ぶるいの出るような想像もしてみたが、さすがに、そこ迄は、自分を――いや良人の面目を――捨てきれない気持もする。
『そうだ。……伏原さんに手をついて』
 墨江は、ゆうべ鴨(かも)を提げて訪ねてくれた、良人の友達の一人を思い出した。沢山な浪人仲間のうちでも、あの人はわけても誠実で親切らしい。ゆうべ、帰り際(ぎわ)に、暗示のような言葉も洩(も)らした。
(今夜の頼母子講の金が取れれば――)と。
 もう町には灯が燈(とも)っていた。伏原半蔵の間借りしている紺屋(こんや)の二階を訪ねてみると、
『今し方、伏原さんは、永代河岸(えいたいがし)の更科(さらしな)へ行きましたよ。へい、毎月の頼母子講で、いつも蕎麦屋(そばや)の更科と場所はきまって居りますから、多分そちらでございましょう』
 と、紺屋の職人と女房が云う。
 墨江は一心だった。見得(みえ)も外聞もなかった。すぐ教えられた更科蕎麦へ行ってみると、成程(なるほど)、沢山な下駄や草履(ぞうり)が土間に脱いであって、医者、浪人ていの男が二人、彼女の姿をじろじろ見ながら二階へ上って行った。
 小女に呼び出してもらうと、伏原半蔵は、そこの梯子段(はしごだん)から降りて来て、
『やあ、誰かと思ったら』
 と、意外そうに云いながら、汚ない草履を突ッかけて、河岸へ出て来た。
 少し酔っているらしい、伏原は赤ら顔をしていた。大川の縁(ふち)にしゃがみ込んで、何の用事で来たかというように、墨江が口を切る迄、黙って小石を弄(もてあ)そんでいる。
『……伏原様っ、わたくし、今夜は思い余って、一生のお願いに参ったのでございますが』
 墨江は、突然、嗚咽(おえつ)するように訴えて、白い指先を地へつかえた。
『何ですか一体……。この半蔵にそんな願いがあるというのは』
『厚顔(あつか)ましい女と、きっと、御立腹になるかも知れませぬが……もしっ、生涯、夫婦が御恩に着ますから……』
『ははあ、分りました。頼母子講の金を、その儘、貸してくれという事ですな』
『虫のいい奴と、さだめし、お蔑(さげす)みでございましょうが、良人を世に出したいのでございます。良人も、あなたのお気持を知れば、死を賭(と)しても、きっと京都の通し矢で、一の額を上げずにはおきませぬ。彼(あ)の人は、元々、弓の家に生れているのです。お兄上は、細川家で四百石の御師範、もし、京都の通し矢の事が聞えれば、御勘気(おかんき)も免(ゆ)れ、五十両や百両のお金は、その上ならばどうにでもなるお家がらでもございます。決して、あなた様に、御損失はおかけ致しませぬ程に……』
『まあ、待って下さい。成程、昨夜お邪魔に伺った時、それとなく、御融通(ごゆうずう)してもよいような事は云ったが、何しろその金はまだ握っていない話の事だ。――これからちょうど、その無尽(むじん)の競(せ)り札が始まろうというところ、身共の手に、首尾(しゅび)よく札が落ちたら、その上で御相談しようではないか』
『どうぞ、お願いいたしまする』
『じゃあ、どこかその辺で、待っておいでなさい。もう、顔も揃(そろ)ったし、入札(いれふだ)はすぐ済むから』
 平常(ひごろ)、彼女が思っていた通り、やはり伏原半蔵は優し気のある人だった。年は四十を越え、無頼(ぶらい)な浪人仲間に身過(みす)ぎはしているが、今の言葉でも、友誼(ゆうぎ)に厚い事はわかる……。
 そんな事を考えながら、彼女は、いくらかほっとして、暗い河岸ぶちに佇んでいた。袂から頭巾をだして顔をつつみ、川波の音に耳を澄ましていると、春の闇を、千鳥の声が寒々と空を横切ってゆく。
『まだかしら? ……』
 何度も、何度も、墨江は更科の二階の燈(ひ)を振り仰(あお)いだ。そこの障子には、大勢の影法師(かげぼうし)が映(さ)していて、時々、笑いくずれる声が往来まで流れてくる。
『……どうぞ、伏原様に、今夜の競(せ)り札が落ちますように』
 彼女は、心のうちで、凝(じっ)と祈った。


 ――やがて、四、五人ずつ、ぞろぞろと更科の軒(のき)から人影が散って行った。散会らしい。札の結果はどうなったろう。墨江は動悸(どうき)を抱(いだ)きながら、人目にかからぬように、わざと川下流(かわしも)の方へ、ぶらぶら歩き出していた。
『――平田殿の御内方。――墨江どの』
 迅(はや)い跫音が、迫って来た。
 伏原だった。その顔つきを見ると、墨江は何か直感した。
『欣(よろこ)んで下され。――札が落ちた。金もこの通り』
 封金を幾つか入れた重そうな財布を出して、墨江に見せた。そして歩き続けながら、
『とにかく、先程(さきほど)のお話の件だが……路傍(みちばた)では人に怪しまれようし。……そうそう、蒟蒻島(こんにゃくじま)で知人(しりびと)が、出合茶屋(であいぢゃや)をかねた船宿をしておるから、そこ迄、お越し下さらぬか』
 河岸ばかり多い暗い道は、墨江にとっても却って気易(きやす)い心地がした。
 伏原の案内した家も、船宿構えの静かな家で、店には小女と眼の疾(わる)そうな老婆しか居なかった。
『ここならば、何をお話しなされても、決して心配はない。聞えるのは、裏川の櫓(ろ)の音ばかりで……』
 四畳半の片隅に、朱骨(しゅぼね)の行燈(あんどん)が夢のように燈っていた。酒、肴(さかな)をとって、伏原は飲み初めた。そして、墨江にも杯をすすめたが、墨江は、下に置いただけで、身をかたくして坐っていた。
『じゃ、茶漬でも』
 伏原は、あっさりと、食事にして、小女に膳を片づけさせた。それからやっと、伏原は、話を切り出して、財布のうちから、黙って、五十両出して、彼女の手へ渡した。
『……えっ、じゃあこのお金を』
 墨江は、咽(むせ)び泣いてしまった。どうあろうかと案じていた胸の凝(こ)りが、いちどに解けて、見得(みえ)もなく、両手をついて欣(うれ)し泣きに云った。
『伏原様、この御恩は死んでも忘れませぬ。きっと、この恩は……』
 ぽんと、煙管(きせる)を下へ捨てて、伏原はその襟あしを見ながら笑った。
『あははは、何も、そうお礼にゃあ及ばない。身共(みども)とても、あなたに掌(て)をあわせて拝まれる程な神や仏じゃないのだから』
『でも……折角(せっかく)、あなた様にも、京都へ上洛(のぼ)るおつもりで落札(おと)したお金でございましょうに』
『そこの意気は、お分りでござろうな』
『はい……お察しいたして居りまする』
『金はわずか五十両だが、その金は、身共に取っても、平田殿の望みと同様に、出世の足懸(あしがか)りにしようと思っていた金だ。……それをお譲りするからには、いわば男が、生涯の立身を犠牲(いけにえ)にして、おん身に未来の華(はな)を譲ったも同じわけだ』
『……すみませぬ。……そう仰っしゃられては、何やらこのお金も』
『いやいや、もう、武士が一旦(たん)、貸したと云って手から放した金。戻されても受取れはせぬ。遠慮なく役立ててもらいたい』
『わが身ながら、余りといえば、厚顔(あつかま)しいお願い事をして、この御恩義をどうしてよいか分りませぬ』
『墨江殿……』と、伏原はずっと寄って、いきなり彼女の手くびを握った。
『――未来の出世をお身に譲った男の願いを、お身も、かなえて下さるだろうな』
『えっ……』
 さっと、色を失って、墨江が後退(あとず)さると、
『卑怯な!』
 と、伏原は男の力で息づまる程、その顔を抱きすくめた。
『男の未来を犠牲(にえ)にさせて、この儘、戻ろうなどと考えておいでたのか。さりとは、浅慮(あさはか)な。……実を云えば、恥しいが、人妻のあなたに、この半蔵は日頃からやる瀬ない思いを焦(こが)していたのでござる。身共も、未来を捨てて、あなたに上げる物を上げた。――当然な事だ! 拙者(せっしゃ)もあなたから求めるものを求めるのだ!』
『……もしっ! ……もしっ! ……伏原様。……伏原様。いけません! ……待って、待って。良人のあるわたくしの身、良人に、良人に……』
      ×         ×
          ×         ×
 薄暗い出合茶屋の店先では、奥の客を忘れたように、老婆(としより)の仲居(なかい)と小女が、帳場箪笥(ちょうばだんす)によりかかって居眠りしていた。
『…………』
 川風が、門暖簾(かどのれん)を揺りうごかす。――その暖簾のすそに、そっと佇(たたず)んだ草履が見える。
 侍とみえ、革足袋(かわたび)を穿(は)いて。
『……御免』
 低い声で、暖簾の間から、侍はそう云ってみたが、小女も老婆も、うとうとと、快げに居眠っているので、黙って、傍らの木戸を自分で開けて、中庭へ忍(しの)び足に這入(はい)って行った。
      ×         ×
          ×         ×
『……墨江、行燈(あかり)が消えている。……行燈を灯(つ)けたらいいだろう』
 伏原半蔵の声である。
 四畳半の闇の裡(うち)に、ほんの一瞬の時が経つと、伏原の態度は、言葉つきまで、その前とは、まるで打って変っていた。
『…………』
『何をしているのだ、畳を撫(な)でて。……櫛(くし)か、櫛ならここに落ちている』
 伏原が、投げたのであろう、真っ暗な畳の上に、櫛の音が躍(おど)った。
 病人のように疲れた白い手が――その櫛を探って、自分のみだれた髪を撫でていた。墨江の息づかいも、黒髪のように乱れていた。ひそやかに身づくろいを直している衣(きぬ)ずれの音が、かなり長い間だった。そして程なく、闇の中に、二人はしいんと黙り合ってしまった。
『……行燈(あかり)をつけぬか、行燈を。――何ももう、済んでしまった事だ、恥かしがるにも及ぶまいが』
『…………』
『え、墨江』
『……わたくし……わたくしはもう、帰らせていただきます』
 まだ戦慄(せんりつ)のやまないような声で、墨江が云うと、伏原半蔵は、冷淡な投げ調子で、
『帰る? ……そうか、帰るなら帰れ。……だが、今渡した五十両は、こっちへ戻して貰うかな』
『げッ……あ、あのお金は』
『あの金は、僅(わずか)の物に相違あるめえが、僅の物を返せというのに、何を恟(ぎょ)ッとしているのだ。よこせ、此っ方(ち)へ!』
『……では! ……では伏原様、あなたはわたしを、騙したのですか』
『知れたこった。不服なら、何処へでも訴えろ』
『まあ! ……あ、あんまりですっ。く、くやしい! ……』
『この辺は、小千鳥の名物だ、まだ出合茶屋も宵のうちだし、たくさん泣いているがいい。……どれ俺は一足お先に』
 泣き伏している彼女の胸の下から、先に渡した金を捲(ま)き取って自分の懐中(ふところ)に入れ直すと、せせら笑いしながら、伏原はすっと其の室を出て行った。
 ――今し方、入口の暖簾(のれん)先に佇んでいた侍が、中庭へ這入(はい)って行ったのと、伏原がその家の裏口からそわそわ立ち去って行ったのと、ちょうど入れ交(ちが)いぐらいな時間の差であった。
『……ア! しまった』
 中庭の闇へ、編笠をかなぐり捨てた侍は、そこの四畳半を撫(な)でまわす途端(とたん)にそう叫んだ。
 もう、彼女の啜(すす)り泣きは、永劫(とこしえ)にやんでいた。――俯(う)っ伏した黒髪は、血しおの中へ、べっとりと乱れ、手はかたく懐剣(かいけん)の柄を握っていたのである。


 平田賛五郎は、茫然(ぼうぜん)と、家に帰って来た。(ひょっとしたら?)
 と、空想して帰って来たが、やはり妻はあの儘、家に戻っていない。
 彼が一日歩いた先では、殆ど何の手懸りもなかった。
『……アア』
 疲れた体を投げて、賛五郎は、空虚(うつろ)の中に寝ころんだ。――そしてふと、意外な物を机の上にふと見出した。おととい――彼女が裏藪から一輪(りん)切って活(い)けた藪椿の壺(つぼ)のそばに――
『やっ、金だ』
 封金で五つ。
 紛(まぎ)れもない正金(しょうきん)である。五十両の金は、妻の血の結晶のように彼には見えた。熱いものがとめ途(ど)なくその眼からあふれた。
『どうして?』
 と、彼は妻の苦衷(くちゅう)をさまざまに考えてみた。――然し、そう思い惑うよりも、妻の希望(のぞみ)に向って、驀(まっ)しぐらに進むべき自分の重荷をすぐ感じた。
 夜が明けると、平田賛五郎はもうかいがいしい旅仕度を身に着けていた。他の仲間もきょう品川の八(や)ツ山下に落ち合って、そこから打連(うちつ)れて京都へ立つ約束になっている。
 少し、時刻に遅(おく)れたので、賛五郎が八ツ山下へ来てみた時は、もう一同の姿はなかった。然し、足を迅めて行くうちに、品川宿と大井の間で、一行十名ほどの仲間のすがたを、並木の彼方(かなた)に見出した。
『おうーいっ』
 賛五郎が手をあげて、追いついて行くと、立ち止まった仲間の者は、皆、
『おや、来られないと云った平田殿が来たわ』
 と、意外な眼をして、彼を迎えた。
 その中には、伏原半蔵もいた。
 半蔵の顔は、ちょっと、青ざめて、眼の底にも狼狽(うろた)えの光が走ったが、他の仲間と、磊落(らいらく)に笑い合っている賛五郎の様子をながめて、次第に安心して来たらしく、
『よう来られたなあ、平田氏(うじ)。――貴公が加わらない事は、実に遺憾(いかん)だと、今も道々、話していた所だった』
 などと云ったり、
『急に御金策ができたとは、何としてもめでたい。さだめしあの御内方の優しい御内助であろうなあ。……いや、平田殿は果報者(かほうもの)じゃよ、この中では、いちばんよい女房を持っておる』
 などと、要らざる事を、頻(しき)りに喋舌(しゃべ)りかけながら歩いた。
 大井の茶店でいっぷくして、浜並木へ一同がかかった時である。――後から頻りと平田賛五郎の名を呼ぶ者がある。誰か? ――と振向いてみると、それも浪人仲間らしいが、編笠を被(かぶ)っていて、眼の前に来るまで、誰とも判断がつかなかった。
『……や?』
 然し、賛五郎には、何か心当りがあったものとみえる。異様な顔いろの裡に彼の体は硬(こわ)ばっていた。編笠の男は、じっと、その前へ来て突っ立っていた。
『おめずらしのう』
 笠の紐(ひも)を脱(と)った。
 色の浅黒い、薄(うす)あばたの男だった。――然し、恰幅(かっぷく)は[#「恰幅は」は底本では「恰服は」]賛五郎よりもずっと逞(たくま)しくて、堂々として見えた。
 賛五郎は唸(うめ)くように……笠を脱ぐ相手の顔を凝視(ぎょうし)していたが、
『おう、大牟田公平か』
 わざと、冷ややかに云ったが、声までが、硬ばった舌に掠(かす)れて、重く聞えた。
『賛五郎殿、其許(そこもと)に、渡して上げたいものがあって、急にここ迄追って来た。――受け取ってくれるか』
『うむ。……渡す物とは、五年前の怨みか、刃(やいば)か』
『これだ』
 公平が取出したのは、一握りの黒髪と懐剣(かいけん)だった。巻いてある白紙には、生々しい血しおが滲み出していた。
『……あっ? これは』
『墨江殿のものだ』
『うぬっ、さては』
 賛五郎の手が刀の柄(つか)に鳴った。公平は、その肱(ひじ)を力まかせに横へ突き放して、
『世間知らずめ。相手違いをいたすな。下手人はこの男だっ』
 云いざま、公平はびゅっと身を横に躍(おど)らせて、人垣を作りながら傍観(ぼうかん)していた仲間の一人を、不意討ちに、頭から斬(き)り下げた。
 ――わっと、血しおを浴びて打(ぶ)っ仆(たお)れたのは、伏原半蔵だった。唐突(だしぬけ)に、仲間の者を討たれたので他の人々も、
『何をするかっ、うぬっ』
 柄先(つかさき)を揃(そろ)えて、大牟田公平の前後をどっと囲んだ。


『――待てっ、待たれい。委細(いさい)は後で話す。逃げ隠れする程なら、大牟田公平は、遙々(はるばる)、国表(くにおもて)から出て来て、しかもここまで参りはいたさん。深い心底は、旧怨(きゅうえん)を捨て、以来不遇にあると聞いた旧友平田賛五郎に、今度の通し矢の機会に、ぜひ共汚名を雪(そそ)いでもらいたい――そして以前の藩地へ戻ってもらいたい――と、そう願いにかけて出府して来たのである』
 彼のことばは、今人間を斬ったとも思えないほど物静かだった。喰い付くように、浪人仲間の眼は彼をにらみつめていた。まだ充分に、その人物なり云う意味が頷(うなず)けないのであった。
『――然し、そう拙者のみ思っても、賛五郎の方では何と思うているやらと、その気持も察しかねて、二、三日程、うろついている間に、取返しのつかぬ魔が入ってしまった。そこへ斬り捨てた伏原半蔵という魔ものでござる。魔ものの所為(しょい)を、ここで、詳(くわ)しくお話しする事は、自分として忍びない。……旧友の賛五郎と二人で話したい。後の始末もありますから、どうぞ各※(二の字点、1-2-22)は平田一名を残して、一足お先にお出立くだされたい。……必ず必ず、誓って、平田賛五郎は後より各※(二の字点、1-2-22)に追いつかせます』
 ――云うに忍びない事情だというので、一同は得心して、賛五郎を残して先に歩き出した。
 春風の果――並木の果へ――その一行の人影はもう小さくなった。黙然と、棒のように立っていた平田賛五郎は、突然、旧友の胸へ胸を打(ぶ)つけて行って、
『公平、わかった。……今わかった、ゆるしてくれ。……墨江はやはり、おぬしの胸に抱かれていれば倖せだったのだ。おれと墨江とは、恋に遊ぶ事だけ知って、世間に生きてゆく道は何も知らなかった。今更(いまさら)、どう詫びても追いつかないが、腹の癒(い)える迄、存分に、俺を打つとも斬るともしてゆるしてくれ』
 男泣きに、男の胸へ、賛五郎は泣いていた。
 その首を、ぎゅっと、強い力の中に抱きしめて、大牟田公平は、弟を叱るように云った。
『馬鹿、馬鹿、いい事をして、泣くやつがあるか。御成敗は、俺はしないが、世間から受けたじゃないか。――この上は、ひとつ、三十三間堂から、いい弦鳴(つるな)りを聞かせてくれ。そしてやはり帰る所へ帰ってくれ。――貴公の兄上、貴公の妹、それからあの老先(おいさき)のみじかい御老母。みんな待っているじゃないか。慥乎(しっかり)しろ、なんだ三十男が、少しばかり世間の浅瀬(あさせ)で溺(おぼ)れたからと云って――』
 笑い交りに、公平は、まだ泣いている彼の背中を幾(いく)つも叩(たた)いた。
(昭和十二年三月)
了

底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「婦人倶楽部 臨時増刊」大日本雄弁会講談社
   1937(昭和12)年3月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年2月14日作成
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