あらすじ
林崎甚助は、幼い頃から母の笑顔を見るため、書を学び、長柄の刀で木を斬ることに励みました。しかし、父の死の真相を知った彼は、父の仇討ちを誓い、剣術の修行のため旅に出ます。各地を巡り、様々な剣術の達人や流派に触れながらも、真の剣の道を模索する甚助。故郷の熊野神社で百日間の厳しい参籠を行い、ついに自らの道を悟ります。その後、京都で父の仇、坂上主膳と出会い、ついに決着をつけます。父の仇を討ち、剣術の道を極めた甚助は、新たな道を歩み始めるのでした。
 母のすがたを見ると、甚助(じんすけ)の眼はひとりでに熱くなった。
 世の中でいちばん不倖(ふしあわ)せな人が、母の姿であるように見られた。
「どうしたら母は楽しむだろうか」
 物心のつき初(そ)めた頃から、甚助はそんな考えを幼心(おさなごころ)にも持った。
 ふと、何かの弾(はず)みに、その淋しい母が、笑うかのような歯を唇(くち)にこぼすと、
「母上がお笑いになった」
 と、その日は一日、彼も楽しく遊ぶことができた。
 十二、三歳になると、そんな考えがもっと深くなって、
「なぜだろ?」
 と、思うようになった。
 自分が何をした時に、母の顔が欣(うれ)しそうになるか、に気がつきだした。
「書(ほん)が好く読めた時と、長柄(ながえ)の刀で、樹がよく斬れた時だ」
 少年林崎甚助は、それからよけい声を張って良く書を読み、外へ出ては、身丈に過ぎた長巻刀(ながまき)を把(と)って、丈余の樹の梢(こずえ)を、跳び斬りに斬って落した。
 古い土塀門の外に佇(た)って、母は時折、微笑んでくれた。
 その母は、またなく美しい人だった。年もまだ若かった。名は楡葉(にれは)といった。
 楡葉は若後家であった。祖先からの土豪造(どごうづく)りの家は、羽前の大川(たいせん)最上(もがみ)の流れに沿い、甑嶽(こしきだけ)の麓(ふもと)にあった。山形から十里余、楯岡(たておか)の砦(とりで)から北へ一里、土称(どしょう)林崎という部落にあった。
 この地方一帯は、足利家の管領斯波(しば)氏のわかれ最上一族の勢力圏(けん)内であった。甚助の父も、最上家の臣だった。
 上杉謙信の越後本庄から最上川を溯(さかのぼ)れば、最上領東根(ひがしね)の砦町(とりでまち)、また、黒伏嶽(くろぶせだけ)や高倉の山道を越えれば、一路伊達家の仙台に通じる。武強の隣藩と境を接して、連年、ここにも戦乱は絶えなかった。
 甚助は信じていた。
「わしの父者人(ててじゃひと)は、戦(いくさ)で死んだのだ」
 それは、父なき少年の、せめてもの誇(ほこ)りでもあった。
 ところが或る時、楯岡(たておか)の砦(とりで)町から部落へ来た馬商人(あきんど)の曳(ひ)いて来た馬へ、甚助が他の少年たちと共に、悪戯(いたずら)すると、その中の一人の馬商人が、拳(こぶし)を振上げて、逃げおくれた甚助のうしろからこう呶鳴(どな)った。
「この童(わっぱ)めッ。そげな悪性(あくしょう)な真似(まね)しさらすと、汝(わ)れが父者(ててじゃ)のように、汝(わ)れも今に、闇討ち食ってくたばりさらすぞ」
 その声は、甚助の耳より魂をつき破った。甚助は、色あおざめて逃げて来た。それからもう他(ほか)の子と遊ばなくなった。

 長柄(ながえ)という武器は、戦時の用具である。平時の刀では短きに過ぎるので、いざという場合、常の刀へ、常用の柄(つか)より寸法の長い特殊な柄をすげ替えて、これを引っ提(さ)げ持(も)ちにして、戦場へ働きに出るのである。
 別名、長巻とも称(よ)んでいる。
 その寸法は、およそ三尺の刀身(なかみ)へ、二尺二、三寸の柄をつける。三尺以上の刀になれば、それに三尺もある長柄をすげる場合もある。
 林崎甚助は、天文十六年の生れで、その年少十四、五歳の頃は、ちょうど永禄年間に当り、戦国の英雄が諸州に覇(は)を興(おこ)した頃であったから、長柄の流行は、旺(さかん)を極めて、戦場ばかりでなく、平時でも引っ提げて歩く者があった。
 織田信長は、その頃、自己の歩兵隊に、刀の長サ三尺、柄四尺という長柄を揃えて持たせて、敵陣へ突貫(とっかん)させて、いつも敵の一陣を縦横(じゅうおう)刺撃(しげき)して駈け崩(くず)したということである。もっとも、それから間もなく鉄砲が渡来して全国に行き亙(わた)ったので、後には、第一陣鉄砲隊、第二陣長柄隊というふうに、戦術の編制は変って来たが、とにかく甚助の少年頃には、ふと物置小屋を覗(のぞ)いても、長柄の錆(さ)びたのが一本や二本は転がっている程だった。それほど普及された兵具であった。
 薪(まき)切りに、甚助が持ち馴れたのも、父の代に、戦場から束にして分捕って来た物のような中の一本であった。
 それも、何のためか知らないが、母の楡葉(にれは)から、
「枯れ木を拾うは百姓の子ぞ、そなたは、梢(こずえ)の木を、長柄で伐(お)ろして来やれ。長柄も背丈も届かぬ梢も、心して跳んで伐(き)って見やい。それしきもの斬れねば、殿様の御馬前に立って、戦(いくさ)の場(にわ)で人勝りの働きはならぬぞい」
 と、云い聞かされて、七ツ八歳(やつ)頃からし始めたことであった。雨さえ降らなければ、日課のように、
「甚助。薪(まき)を伐(お)ろして来やい」
 母は、いいつけた。
 よく斬れると、遠くで、見ている母が微笑んでくれる。それが欣(うれ)しさに、甚助は、高い樹へ、高い樹へと、次第に望みを大きく育てて、長柄を小脇に、仰いで迫った。

 大同年間からあるという部落でいちばん古い杉木立がある。そこに熊野神社が祀(まつ)ってあった。部落の名をそのまま林崎明神ともよんでいる。
 禰宜(ねぎ)の山辺守人(やまのべもりと)は、時鳥(ほととぎす)や仏法僧(ぶっぽうそう)の啼音(なきね)ばかりを友として、お宮の脇の小さい社家に住んでいたが、甚助の姿が見えると、かたこと木履(ぼくり)の足音をさせて出て来た。
 麦餅や、麹飴(こうじあめ)などつつんで、
「甚助、菓子やろう」
 と寄って来る。そして甚助の、鳥の巣のような頭を撫でて、一話しするのが、禰宜の守人にとっては、一日のうちで、人間と話をする唯一な時間のようであった。
 ところが、その日(ひ)に限って、甚助は、
「お菓子、要らない」
 と、首をふって、守人をいぶからせた。
「喰べたくない」
 と重ねて云うのである。
 長柄を横に置いて、朽(く)ちた鳥居(とりい)の下に腰をおろし、眼すら、ぽつねんと、雲へやって、菓子を見ないのであった。
「そうかい」
 守人は、強(し)いなかった。
 顔をのぞいて訊ねた。
「甚助。どうかしたのか。この頃は、樹の梢へかかって、見事に枝を伐(お)ろす姿も、ちっとも見かけないが」
「おじさん、どうしたんだろ」
「わしが訊いてるのだよ。どうかしたのかと」
「おらにも分らない。――この頃は、いくら樹へかかっても、今までは切れたぐらいな高さの梢も、急に斬れなくなってしまった」
「それはふしぎだな」
「だから、もう、樹を伐るのは、嫌(いや)になった。……だけど、伐(き)って見せないと、おっ母さんが、笑ってくれない」
「甚助、おぬしももう、十四だな。この頃は、よその子とも、遊ばぬのう」
「つまらないもの」
「考え事が胸にでき宿(やど)り始めたのじゃろ。何か、人にも云えぬ考え事が」
「ああ、無いこともない」
「そのためだ。わしに話してごらん」
「神主(かんぬし)さん」
 甚助は、ふいに立って、守人(もりと)の胸へ、抱きついた。しゅくしゅくと泣き出したのである。
「なんだ、なんだ、男のくせに」
「おらの……おらのお父さんは、戦(いくさ)で死んだのじゃないのかい。神主さんは、年老(と)っているから、おらが嬰児(あかご)の時分のことでも知っているだろ。話して、話して。よう、誰にもいわないから、俺にだけほんとのことを話してよう……」
 守人も、眼を上げていた。
 麦がよく伸びる頃の昼間の月に、禽(とり)の音が澄んでいた。

 禰宜(ねぎ)の守人(もりと)に連れられて、甚助は、家へ戻った。
 守人から何か聞くと、彼の母は、いつにない改まった眼で、わが子を見、
「口を嗽(すす)ぎなさい。手を洗っておいでなさい。そして、お仏間へ来るがよい」
 と、云った。
 甚助は、云われた通り、身躾(みだしな)みを作って、後から仏間へ行ってみると、母と守人が寂(じゃく)として坐っていた。
 御先祖の壇には、御灯(みあかし)があがっていた。
「きょう初めてはなすが、真(まこと)は、其方(そなた)の父は、人手にかかってお果てなされたのです」
 母は、水のような声で、子に告げた。泣いてもいなかった。しかし、泣いている以上なものを、甚助は、その母の眼に見た。
 それきり多くを母自身は語らなかった。
 若くて美しかったその頃の彼女自身が、良人の横死の一原因であったせいもあろう。
 が、あらましは、事情に詳(くわ)しい守人(もりと)が、噛(か)んで喞(ふく)めるように聞かせてくれた。甚助が生れたその年のことだというから、天文十六年のことにちがいない。
 坂上主膳(さかがみしゅぜん)という武士のために、楯岡(たておか)の藩祖の菩提寺(ぼだいじ)のすこし下(しも)手町の辻で斬られたのであった。原因は意趣(いしゅ)、その詳(つまび)らかな事実は、おまえがもっと大人になれば自然分ってくる。母御もまた、話す折があろうと、守人は云った。
「わかったか」
「わかりました」
 甚助は、そこでは泣かなかった。
 青白い栗の花が咲いている厩(うまや)の横に佇(たたず)んで、独り眼を横にこすっていた。父の林崎重成(しげなり)が乗用したという馬も老いて、数年前に死んでいた。

 元服したばかりの十五の甚助は、ひたむきに、何ものかを求めて、旅へ立った。
 勿論、母のゆるしを得て。
 世間も知らないそんな若冠(じゃっかん)の子を遠くへ見送るのに、当時の若い母親は健気(けなげ)であった。しかも戦乱に次ぐ戦乱の世であった。
 その年はちょうど川中島(かわなかじま)の大戦の翌年であった。
「大胡(おおご)のお城はどこですか」
 上州へ来た甚助は、そこの城主、上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)をさがした。
「お城はないよ」
 土地の者は云った。
「伊勢守様も、もう都の空だよ。大胡城は去年、上杉勢に攻め落されて、石垣と焼(や)け木杭(ぼっくい)しか残っていない。そこに今あるのは、上杉家の侍衆(さむらいしゅう)のお陣屋さ」
 こう聞いて、甚助は空(むな)しく、常陸国(ひたちのくに)へ志した。大永年間の人で、鹿島神流の中興の祖松本備前守を初めとして、天真正伝神伝流の開祖、飯篠(いいざさ)長威斎もすでに遠い古人であるが、常陸の産であると聞いている。近くは、土地の土豪、塚原土佐守卜伝(ぼくでん)が、そこに住んでいると聞いている。
 だが、訪ねて行ってみると、その卜伝も、
「御遊歴中」
 とて、留守であった。
 戦雲の世には、人も雲のように、諸国を去来していた。武芸者はわけても旅が生活だった。修行は遍歴にあった。
 伊勢守秀綱とか、土佐守卜伝とかは、たとえ野(や)に在っても、土地の豪族なので、弟子郎党など四、五十人も召連れて、小姓の拳(こぶし)に鷹をすえさせ、乗更馬(のりかえうま)など美々しく曳(ひ)かせて遊歴した。
 しかし、笠一つ、剣一腰で、時雨(しぐれ)に会っても、乾(ほ)す着更(きが)えさえも持たない武芸者もある。
 雑多な時代の流れの中に、甚助も、一つの色だった。誰も怪しみはしなかった。この若冠な小修行者が、父の復讐を念じ、将来の大志を抱いているとは誰も見なかった。
 四年経って帰って来た。
 母の顔は、同じだった。
 すぐ禰宜(ねぎ)の山辺守人(やまのべもりと)が来た。家を立つ時と同じように、仏間に坐って、母と守人の前に手をついた。
「御修行は積んだかの」
 母が訊(たず)ねた。
「四年だけのことは致して参りました」
「仇(かたき)の消息は」
「ほぼ知れました」
「どこで見届けました」
「母上が仰せられた通り、やはり京都に住んでいました。松永久秀殿の御内(みうち)に潜(ひそ)んでいるらしゅう思います」
「顕門(けんもん)に隠れていたのでは、近づく術(すべ)もないと思うて、故郷(くに)へ帰って来られたか」
「いいえ、坂上主膳(さかがみしゅぜん)へ出会うのは易(やす)いことです。けれども強豪主膳を討つことは、決してたやすくはございませぬ」
「まだ、腕に、確(しか)と自信はできぬとお云いか」
「敵に勝つにはまず、敵を知るにあると申します。坂上主膳は、その後、京都に遁(のが)れてからも、風評のよくない男ではありますが、彼の武勇は、松永久秀が珍重して召抱えたのでも分ります。先(さき)つ年、久秀が室町の御館(おやかた)を襲(おそ)うて、将軍義輝公を弑逆(しいぎゃく)し奉った折なども、坂上主膳の働きは、傍若(ぼうじゃく)無人な戦(いくさ)ぶりと云われております。いわゆる彼は悪人ながら、最上家(もがみけ)にいた頃から鳴っている通り千軍万馬の士です。なんで甚助のような小冠者の細腕にようこれを仆(たお)すことができましょうか」
 母は、子の言葉に、またたきもせぬ眼をして聞いていた。
 守人は、
「ううむ。成人したのう。やはり旅の風は人の子に世を歩む道を誡(おし)えてくれる」
 と、云って呻(うめ)いた。

 永禄十一年、彼が二十二歳の春だった。その二月中旬(なかば)頃から、五月末までの間、まる百ヵ日、彼は家に寝なかった。また、帯(おび)を解(と)かなかった。
 林崎明神の神殿の辺りは、真昼、木洩(こも)れ陽(び)がすこし映(さ)す時の他(ほか)は、昼も暗かった。守人(もりと)の住む社家の勝手元には、黄昏(たそが)れると、一椀の粥(かゆ)が出されてあった。それが甚助の食事であった。夜が明けると、また一椀、盆にのせて出されてある。
 守人は、姿を見せない。努めて見せないことにしていた。勿論、母の楡葉(にれは)も、ここへは近づかなかった。
 ここは今、熊野権現(ごんげん)の聖地であると共に、林崎甚助にとって、生死を超脱(ちょうだつ)した剣の道場だった。
 彼は、百日の参籠(さんろう)を誓願したのだった。
 朝夕一椀ずつの粥(かゆ)を守人から恵まれる他(ほか)、何も口にしなかった。七日、二十七日は、まだまだ鋭気もあったが五十日、六十日となると、肉は落ち、眼(まなこ)は澄み、皮膚は垢(あか)を持ちながら蝋(ろう)のように白くのみあった。
 ――喝(か)アっ。
 ――ええおうっ。
 異様な声が、杉木立に谺(こだま)した。
 月の晩も。風の昼も。
 ――えやーつッ。
 神殿の広前(ひろまえ)に、彼は、三尺余もある長刀を、革紐(かわひも)で帯にくくし、われとわが影を、月の白い地上に睨んでいた。
 革紐の帯をなであげて、左手(ゆんで)が、鯉口(こいぐち)にふれる。右手(めて)が、軽く柄(つか)をうつ。
 瞬間。
 上体が折れる。満身の毛穴から、喉(のど)を破って、声が発しる。
 一揮(き)、風を断(た)つ。
 その時はもう、風か影か、空を一颯(さつ)した大刀は、彼の腰間の鞘(さや)に吸われているのだった。肉眼では、その間(かん)の剣のうごきは、見て取れないくらい迅(はや)かった。
 この行(ぎょう)を、彼は、暁天(ぎょうてん)から夕べまで、また、宵(よい)から深夜まで、一日何百回、行の熟達につれて、何千回もくり返して行った。
 疲れれば、拝殿の破れ廂(ひさし)の下にある、一枚の莚(むしろ)の上に、身を横たえた。眠りから醒めると、すぐ大地に立った。
 日の出るたびに、傍(かたわ)らの大杉の幹へ、一太刀、刀痕を入れた。その刀痕の数が日の数であった。
世上良師多し。    世転(せてん)縹渺(ひょうびょう)の間(かん)
師縁求めて求め難し  如(し)かず直(ただ)ちに神(しん)に会わん
 上泉伊勢守を訪ねて伊勢守に会わず、塚原土佐守を訪ねて土佐守に師事し得ず、その他(ほか)、当代著名の人、富田勢源、戸田一刀斎などの、高名を慕い、住居を追う間に、いつか四年の歳月を空しくした甚助は、翻然(ほんぜん)、
 ――直ちに神に会わん、
 と、悟(さと)ったのであった。
 自然は皆(みな)師(し)だ。一冊の書物に師となることばがあれば、一木一草にも師となる声はあろう。そう考えて、彼は自嘲の一詩を旅の記に賦(ふ)し、故郷(ふるさと)の産土神(うぶすながみ)の前に額(ぬか)ずき、嬰児(あかご)にかえったような心で、
「我に、前人未踏(みとう)の剣の極理を授けたまえ」
 と、すがった。
 彼の誓願は、
「人の末流を汲まんより、われ自(みずか)ら一流の祖たらん」
 というにあった。
 諸国の剣人の実状を見、また、いよいよ剣磨(けんま)の時代の必然を、社会に視て来たからであった。
 勝敗は髪一すじである。
 間(ま)の遅いか迅いかで勝敗はすでに決する。
 剣のあつかい、間あい、心胆(しんたん)の工夫をした達人は尠(すくな)しとしない。
 けれど、勝負に立つ、まず間髪の勝目を電瞬にとる工夫をした者はかつてない。
 刀(とう)はすべて鞘にある。
 刀が鞘を脱する時、勝負はすでにつきかけている。いや、勝目を掴(つか)む機(おり)があるはずである。
 抜刀の法だ。練磨(れんま)だ。
 それを研究しよう。究めて神(しん)に入り、そこの極理を掴(つか)もう。
 甚助の誓願にかかった端緒(たんしょ)は、実にそこにあった。

 初め、木の皮も喰いたいような飢餓(きが)に襲われた。それがやむと、時折、胃ぶくろが暴れて苦悶した。それに馴れると、妄念(もうねん)が起った。肉体の疲労が、自分の踏む足にもわかった。そこを超えると、自己が分らなくなった。
 五、六十日頃から、ようやく、
「苦行のかいがあったか」
 と思われるように、頭脳は冴(さ)え、心は清澄に、技(わざ)もわれながら、見事になって来た。
 しかし、それは、技のみであった。
「心は?」
 と、訊ねてみると、空漠(くうばく)だった。何も得てない気がした。
「これでいいのか」
 迷い出した。一心不乱がみだれかけた。壁に突き当ったように技も進まない。われとわが身がふがいなくなって死にたくさえなった。
 そこを超えて、
「何を」
 と、魔とも人とも思われない形相(ぎょうそう)になった頃、大杉の幹の刀痕は、九十を超えていた。
「もう百日」
 とも思わなかった。甚助は発狂していたかも知れないのである。一刀、一刀、また一刀、空(くう)を斬っては鞘(さや)におさめる時の凄(すさ)まじい彼の気合は、もうしゃ嗄(が)れ果てて、何ものか世にあり得ない野獣の咳声(しわぶき)のようだった。喉(のど)はやぶれ手足は血によごれていた。百日も櫛(くし)を入れない髪には落葉の骨がたかっていた。雨露にまみれた袴(はかま)、小袖、それも傷ましく綻(ほころ)び果てている。そこからかなり距(へだ)てている甚助の家へまで、近頃は、夜になると、最上川の水音より明らかに、彼の狂わしいしゃ嗄れ声が響(ひび)いて行った。楡葉(にれは)は、共に寝なかった。
 いや遂には、
「百日の間は顔を見せぬ」
 と、子へも、守人(もりと)へも、固く約した事も制しきれなくなって、守人の家まで忍んで来ていた。しかし、守人は、
「今あなたが、甘い涙などそそいだら、あなたは何のために、甚助どのを、あそこまで、きつい心で育てて来たか、意味のないことになりましょう」
 と、窓を閉じて、固く一室に止めた。
 それでも彼女は、破れ戸の隙間(すきま)から、時折、彼方(かなた)を窺(うかが)ったり、耳をすましたり、悶(もだ)えていたが、そのうちに、何思ったか社家の裏から馳け出して、最上川の畔(ほとり)に、衣をぬぎ捨て、月よりも白い肌、烏羽玉(うばたま)より黒い黒髪を、怯(ひる)みもなく、川水に浸(ひた)し、また川水を一心に浴びて、そこから見える神居(かみい)の森へ、夜もすがら、掌(てのひら)をあわせていた。
 まだ五月の末だったので、川水は冷たかった。渓谷の奥ふかくには雪さえ残っている頃である。彼女は、凍(こご)えたまま、仆(たお)れていた。夜の白んだのも知らなかった。
 同じように。
 その夜明け頃。
 甚助も、大刀を持ったまま、熊野権現の前に、平べッたくなっていた。完全に呼吸もしていなかった。肌も、死人のような色をしていた。
 陽がさし昇った。
 巨杉(おおすぎ)の梢から金色の雫(しずく)が、甚助の背へぽとぽと落ちた。美しい毛艶の神鴉(しんあ)が、ふた声ほど、高く啼(な)いた。
「甚助どのの母御が、最上川の水に浸って、気を失うてござらっしゃる」
 河往来(かわおうらい)の船子たちが知らせて来た。それはちょうど、朝の粥(かゆ)を炊(た)いて、守人が、神殿の前に仆れている甚助の姿に気づき、驚いて、手当をしていた時だった。
 幸いに、二人とも、蘇生(そせい)した。元より母の楡葉(にれは)のほうが恢復(かいふく)は早かった。楡葉は気がつくと、寝食も忘れて、子の枕元に坐ったきりだった。
 甚助も日ならずして恢復した。
 床(とこ)を払って起きた日に、彼は、身の垢(あか)をそそぎ、衣服を更(か)えて、
「母上、一緒に行って下さい」
 と、云った。
「どこへ」
「神前へ、お礼詣(まい)りにです」
 楡葉(にれは)は頷いた。そして心密(ひそ)かに、わが子が百日の参籠とあの精進の結果、何ものか神霊の示顕(じげん)を得て、志す剣の工夫のうえに、一つの光明を掴み得たにちがいないと思った。
「守人(もりと)様、神灯(みあか)しをお願いいたします」
 社家へ声をかけると、守人も来て、神前に菅莚(すがむしろ)を展(の)べ、母子(おやこ)の坐った端へ、自分も共に坐って、拍手(かしわで)をうち鳴らした。
「…………」
 祈念をこめて、神へ心から額(ぬか)ずき終って後、楡葉は甚助へ問うた。
「何ぞ、神さまの、御霊現(みしるし)をうけたかや」
「いいえ、べつに」
「百日のあいだに、何もなかったかの」
「八、九十日から先は、一切夢中でございました。何も覚えませぬ。精も力も尽き、昏々(こんこん)と仆れて夢中の霧につつまれたように気を失ったのが、ちょうど百日目の暁方(あけがた)でございました」
「それだけか」
「それだけです」
 母はやや失望の色を泛(う)かべた。けれど甚助の胸には、口で言い現し難い何ものかが実は宿っていた。けれどそれを説明する言葉がなかった。
「行って参ります。――母上、もう一度お暇を下さい。こんどは、坂上主膳へ出会って参ります」
 数日の後、彼はふたたび、旅へ立った。腰間(ようかん)の一水は、伝家の銘刀来信国(らいのぶくに)の三尺二寸という大剣であったという。

 京都へ上るその途中だった。やがて木曾路へも近い一夜、信州岩村田の土豪北山半左衛門の家に泊った。
「お客様、逃げて下さい。はやく、はやくたいへんです」
 真夜半(まよなか)のことなのだ。
 主(あるじ)の子息北山半三郎が寝室へ来て、甚助をゆり起し、顫(おのの)きながら云うのだった。
「――茨組(いばらぐみ)がやって来ました。木曾の宿々から善光寺いったいを荒して廻る茨組です。家財や金さえ攫(さら)ってゆけば立去るでしょうが、お怪我があるといけませんから」
 茨組という名は、街道いたる所で甚助も聞いていた。応仁の乱以後、室町幕府の紊乱(ぶんらん)につけこんで、京都に簇出(そうしゅつ)した浪人くずれの無頼者(ならずもの)の一団である。
 しかし、その京都や浪華(なにわ)でも、近頃は取締りが厳しくなった。近畿や地方の都会でも、信長とか、朝倉家とか、徳川家などの武将が、自己の領政に厳密な改正を加えている折なので、浮浪人や暴徒の横行する世間はだんだん狭められていた。
 で、自然、武将の勢力や統治の行き届かない片田舎へと、茨(いばら)組なども流れて来た。同時に彼等の持前とする殺戮(さつりく)と兇暴な質(たち)も、野に返った野獣と同じで、とても人間の仕業(しわざ)とは解し得ないことを平然とやって歩いた。
「お静かになさい。騒ぐことはありません」
 甚助は、信国(のぶくに)の一腰を横たえて、裏戸を開け、墻(かき)を躍(おど)って、表の土塀門のほうへ迫って行った。
 信濃の名物という月がその晩も煌(こう)として中天にあった。外から窺っていると、大槌(おおづち)や棍棒(こんぼう)で打ち壊したらしい門内へ、およそ三十人ばかりの賊がなだれ込んで、土蔵を破壊し、全家族を縛(くく)し上げ、手燭を持ち廻って、大がかりな掠奪(りゃくだつ)にかかっている様子であった。
 どんな人間どもかというと、その頃の世相を見て書いた「室町殿(むろまちどの)物語」に依ると、茨(いばら)組の風俗をこんなふうに写してある。
ソノ装束ハト見レバ、茜染(アカネゾメ)ノ下帯、小玉打(コダマウチ)ノ上(ウハ)帯ナド、幾重ニモマハシ、三尺八寸ノ朱鞘(シユザヤ)ノ刀、柄ハ一尺八寸ニ巻カセ、ベツニ二尺一寸ノ打刀モ同ジ拵ヘニテ仕立テ、ソギタテ鑓(ヤリ)、掻(カイ)持(モ)テルモアリ、髪ハ掴ミ乱シテ、荒繩ノ鉢巻ナドムズト締メ、熊手、鉞(マサカリ)ナド前後ヲカタメ、常ニ同行二十人バカリニテ押通ルヲ、「アレコソ、当時世ニ聞ユル茨組ゾ。辺リヘ寄ルナ、物言フナ」トテ人々怯(ヲ)ヂ怖レテ道ヲヒラキケル。
 悪党でも派手を誇る時代だったから、それは洛内の見聞であったろうが、いずれはそんな部類の雑多な扮装(ふんそう)をしていたにちがいない。それと武器は流行(はやり)の長柄が最も多く、槍、山刀、鉞(まさかり)、槌(つち)なども持ち歩いていたらしく思える。
 やがて屋内の悲鳴や物音が少しやむと、その寂寞(せきばく)の中から、三人、四人と外へ出て来た。目ぼしい家財を担いで来るものもあり、金や女を盗んで戯(たわむ)れながら、出て来る男もあった。
 甚助は、ふいに、前へ立って、
「待てっ」
 と、云った。
 待て――と聞えた時はもう、彼の大剣の左右に、二つの死骸が一度に薙(な)ぎ仆(たお)されていた。仰天して逃げ込もうとした男も一名は後ろ袈裟(けさ)に、一名は腰ぐるまを払われて、醜い胴を地へ転がした。
 刀を拭(ぬぐ)って、また待った。
 次の三人も、一颯(さつ)に斬った。
 甚助は、心で、
(母上。これです)
 と、叫びたかった。
 林崎明神の神前に額(ぬかず)いて、母から、百日の参籠と精進のうちに、何か、神の御霊現(みさとし)はなかったかと問われた時、云い現わすべき言葉がないので、
(べつに、何も覚えませぬ)
 と答えたが、その云い現わせないものを、彼は今、紛(まぎ)れない事実の上に、また、無意識な行動の上に、間違いなく自己の相(すがた)として、現わしていることを思ったのであった。
「何だ?」
「どうしたと?」
 門外の異変に気がついて、茨(いばら)組の総勢一かたまりとなって、やがて甚助の前後へ、真っ黒に躍りかかって来た。
 信国(のぶくに)の刀は、月下に十数箇の死骸を積み、大地を碧(あお)い血に光らせた。
 かなわじと余の者は怖れて逃げたが、その騒動も片づいて、翌日、北山家を辞し去った彼を、道に待っていたらしいその夜の茨組の男三名が、
「しばらく」
 と、並木の蔭から呼びとめた。

 呼び止めた男は、茨(いばら)組の沼沢甚右衛門、葦沢(あしざわ)弥兵衛、桜場隼人(さくらばはやと)などだった。見れば大地へ姿を揃えて平伏している。そして誠意を示して云うのだった。
「御門下の端(はし)に加えていただきたい。――とお縋(すが)り申すからには、今日以後、悪行を止(や)めて完(まった)き武士となるよう志すことを、三名、神に誓い申しての上でござる」
 甚助は、乞(こい)を許した。しかし、誓約に止(とど)めて後日の再会を約し、なお行くと、また彼を追って来た者がある。岩村田の近郷に住む田宮平兵衛という郷士だった。
「願わくば拙者をお弟子として伴(つ)れ給え」
 切実な願いなので、田宮だけは供にした。やがて京都へ着いた。そしてあらゆる苦心と手引を経て、松永久秀の幕下(ばっか)にいる父の讐敵(しゅうてき)坂上主膳と出会うことができた。
 主膳を斬った際も、信国の鍔(つば)が、彼の手に鳴ったせつな、実にただ一刀しか費(つい)やされなかったということである。唯、遺憾ながらその場所や、当時の実状など、史録には明確を欠いている。
 居合(いあい)という言葉は、後世にできた称(よ)び方であろう。彼の創始した抜刀法――後に称(とな)えたところの林崎夢想流(むそうりゅう)とは、純正剣道の一流であって、本流の剣に、剣とは不可分な抜刀の神息をふきこんだものに他(ほか)ならないのである。
 彼に随身した田宮平兵衛は、後に、
 ――柄(つか)に八寸の徳、みこしに三重(じゅう)の利。
 という有名な居合の名標語を吐いた人で、抜刀田宮一流の別派を興し、当時の達人ともいわれて、林崎夢想流麾下(きか)の第一人者と目されるに至った。
 また、茨(いばら)組から脱した沼沢甚右衛門は、常陸(ひたち)の真壁(まかべ)に、葦沢(あしざわ)弥兵衛は武州牛久在(うしくざい)に、桜場隼人(さくらばはやと)は三州挙母(ころも)村に、それぞれ一道場を持って大いに道風を興したとある。
 なお、林崎甚助自身は、各地を遊歴して、自然、門流のひろまる一方、後年またさらに、鹿島神宮の武林(ぶりん)に入って、天真神道流の研鑽(けんさん)に身をゆだね、元亀何年かには、越後の上杉謙信の幕将、松田尾張守に随身して、戦場をも馳駆したらしいが、謙信の歿後(ぼつご)は、杳(よう)として、その足蹟も定かでない。
 晩年は奈良に住んでいたという説もあるし、鹿島で終ったという説もある。五十何歳かで郷里林崎で病歿したともいわれている。いずれにしろ半生は確説もない。しかし、彼の林崎夢想流は、不滅の光茫(こうぼう)を遺(のこ)して行ったし、その誕生の森、林崎明神は今もそのまま現存している。
 夢想と流名に称(とな)えても、彼の百日参籠(さんろう)には、何らの奇蹟的なはなしも伝えられなかった。けれど奇蹟のないところに、彼の真実な魂の神化があった。肉体を百日の精進に燃えきらして仆れるまでに至れば、ひとり林崎甚助重信(しげのぶ)のたましいばかりか、誰の精神でも、どんな道に於ても、神の夢想をつかむことができよう。
「甚助。ようしやった」
 彼の母は、京都から一先ず帰郷した甚助を迎えて、初めて、心から綻(ほころ)んだ笑(え)顔を子へも見せたろうと思われる。
「生涯の満足は今だ」
 母の一笑に、甚助もまた、そう思ったにちがいない。だが、若くして美しかった楡葉(にれは)は、亡夫の讐怨(しゅうえん)を子の討ちはらしてくれた報告を聞いてから幾年(いくとせ)もなく、病の床について世を去った。
 甚助重信が、孤剣、白雲の人となって、郷土を離れたのは、そのためであると云われている。
了

底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社
   1977(昭和52)年4月1日第1刷発行
初出:「講談倶楽部 一月号」大日本雄弁会講談社
   1940(昭和15)年1月
※初出時の表題は「日本剣人伝(一)林崎甚助」です。
入力:川山隆
校正:岡村和彦
2014年9月11日作成
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