あらすじ
街中の桜並木を歩いていると、灯ともし頃。妙な侘しさを感じ、足早に歩いていました。道の左手に明るいカフェを見つけ、覗くと、酒を飲んでいる人々のなかに、懐かしい顔がありました。しかし、あまり会いたくない人たちだったため、そのまま立ち止まっていると、壁に寄りかかっているNの姿が目に入りました。中学の同級生で、海軍兵学校に入学したものの、肺炎で亡くなったはずの男です。彼は僕に気づき、いつものように、頑丈な体で近づいてきました。道の左手に明るいカフエが口を開いてゐた。入口に立つて覗くと、酒を飲んでしやべつてゐる群の中に知つた顔が二三人見えた。あまり会ひたくもない人たちだつたので、僕はしばらくそこに立つたまゝでゐた。
そのとき奥の勘定台のわきの壁に倚りかゝつてゐるNが眼に入つた。中学のとき同級で、海軍兵学校に入つてゐるうちに肺炎か何かで死んだ男だ。むかふでも僕をみつけたものと見えて、むかしした通りに、頑丈なからだを少し前のめりにし、新兵のやうに二の腕をぶらぶら振りながら、うれしさうにこつちへやつて来た。僕もへんにうきうきした気持になつて、いきなりその胸の厚いからだを抱きしめて額に接吻した……
突然、予期しない不快な感覚を顔面に覚えて手を放してみると、Nの半面は、髪の毛から眼の下へかけて一面に褐色のどろどろした液体で被はれてゐる。しかしその液体の不快な触感を顔に感じてゐるものはたしかに僕である。夢の中ではこのことが少しも不自然ではなかつた。Nは僕の顔にその液体を吐きかけたのでもなければ、僕の口から出たその液体を吐きかけられたのでもないやうに、平静な顔に、うれしさうなうす笑ひを浮べてやつぱり僕をみつめてゐる。しかし僕はもう一度彼を抱きしめる気になれずに、ぼんやりそこに立つたまゝ、よごれた彼の顔を眺めてゐた。
了
底本:「富永太郎詩集」現代詩文庫、思潮社
1975(昭和50)年7月10日初版第1刷
1984(昭和59)年10月1日第6刷
底本の親本:「定本富永太郎詩集」中央公論社
1971(昭和46)年1月
※表題は底本では、「ゆふべみた夢(Etude)」となっています。
入力:村松洋一
校正:川山隆
2014年3月20日作成
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