あらすじ
「遺産分配書」は、富永太郎の遺言という形で書かれた、奇妙で官能的な詩作品です。作者は、自身の身体の一部や感情、記憶などを様々な人物やものに分配していきます。その内容は、一見、残酷で猟奇的にも思えますが、そこには、人生や死、愛や憎しみといった人間の根源的なテーマが、独特のユーモアと悲哀を込めて表現されています。読者自身の内面を揺さぶる、強烈な詩の世界に、あなたはきっと引き込まれるでしょう。善意ある港の朝の微風へ。昨夜の酒に濡れた柔かい私の髪を。――蝋燭を消せば、海の旗、陸の旗。人間は悩まないやうに造られてある。
わが友M***へ。君がしばしば快く客となつてくれた私の Sabbat の洞穴の記念に、一本の蜥蜴の脚を、すなはち蠢めく私の小指を。――君の安らかならんことを。
今日もまた、陽は倦怠の頂点を燃やす。
シエヘラザードへ。鳥肌よりもみじめな一夜分の私の歴史を。
S港の足蹇へ。私の両脚を。君の両腕を断つて、肩からこれを生やしたまへ。私の血は想像し得られる限り不純だから、もしそれが新月の夜ならば、君は壁を攀ぢて天に昇ることが出来る。
***嬢へ。私の悲しみを。
売笑婦T***へ。おまへがどれほど笑ひを愛する被造物であるかを確かめるために、両乳房の間に蠍のやうな接吻を。
巌頭に立つて黄銅のホルンを吹く者へ。私の夢を。――紫の雨、螢光する泥の大陸。――ギオロンは夜鳥の夢に花を咲かす。
母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ返す。幼年時を被ふかずかずの抱擁の、沁み入るやうな記憶と共に。
泡立つ春へ。pang ! pang !
了
底本:「富永太郎詩集」現代詩文庫、思潮社
1975(昭和50)年7月10日初版第1刷
1984(昭和59)年10月1日第6刷
底本の親本:「定本富永太郎詩集」中央公論社
1971(昭和46)年1月
入力:村松洋一
校正:川山隆
2014年3月7日作成
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