あらすじ
ある日のこと、主人公は、妻が実家に帰っている間に、妻の箪笥から、友禅縮緬の背負揚の端を見つけてしまいます。その背負揚の中に、以前友人から聞いた、ある女学生の恋愛話と似たような、男性からの手紙が入っていることに気づき、胸騒ぎが止まらなくなります。手紙の内容は、学生時代の恋人との甘い関係を描いており、主人公は妻の過去に隠された真実を知り、激しい嫉妬と不安にさいなまれるのでした。
鐘(かね)の音(ね)さへ霞(かす)むと云(い)ふ、四月(ぐわつ)初旬(はじめ)の或(ある)長閑(のどか)な日(ひ)であつた。
私(わたし)は此春先(このはるさき)――殊(こと)に花見頃(はなみごろ)の時候(じこう)になると、左右(とかく)脳(のう)を悪(わる)くするのが毎年(まいねん)のお定例(きまり)だ。梅(うめ)が咲(さ)いて、紫色(むらさきいろ)の雑木林(ざふきばやし)の梢(こずゑ)が、湿味(うるみ)を持(も)つた蒼(あを)い空(そら)にスク/\透(す)けて見(み)え、柳(やなぎ)がまだ荒(あら)い初東風(はつこち)に悩(なや)まされて居(ゐ)る時分(じぶん)は、濫(むやみ)と三脚(きやく)を持出(もちだ)して、郊外(かうぐわい)の景色(けしき)を猟(あさ)つて歩(ある)くのであるが、其(それ)が少(すこ)し過(す)ぎて、ポカ/\する風(かぜ)が、髯面(ひげつら)を吹(ふ)く頃(ころ)となると、もう気(き)が重(おも)く、頭(あたま)がボーツとして、直(ひた)と気焔(きえん)が挙(あが)らなくなつて了(しま)ふ。
今日(けふ)のやうな天候(てんこう)は、別(べつ)しても頭(あたま)に差響(さしひゞ)く。私(わたし)は画(ゑ)を描(か)くのも可厭(いや)、人(ひと)に来(こ)られるのも、人(ひと)を訪問(はうもん)するのも臆劫(おつくう)と云(い)つた形(かたち)で――其(それ)なら寝(ね)てゞもゐるかと思(おも)ふと、矢張(やつぱり)起(お)きて、机(つくゑ)に坐(すわ)つてゐる。而(さう)して何(なに)か知(し)ら無駄(むだ)に考(かんが)へてゐる。
私(わたし)は去年(きよねん)の冬(ふゆ)妻(つま)を迎(むか)へたばかりで、一体(たい)双方(さうはう)とも内気(うちき)な方(はう)だから、未(ま)だ心(こゝろ)の底(そこ)から打釈(うちと)けると云(い)ふ程(ほど)狎(な)れてはゐない。此(この)四五月(ぐわつ)と云(い)ふものは、私(わたし)に取(と)つては唯(たゞ)夢(ゆめ)のやうで、楽(たの)しいと云(い)へば楽(たの)しいが、然(さり)とて、私(わたし)が想像(さうざう)してゐた程(ほど)、又(また)人(ひと)が言(い)ふほど、此(これ)が私(わたし)の一生(しやう)の最(もつと)も幸福(かうふく)な時期(じき)だとも思(おも)はぬ。或(あるひ)はラブがなかつた故(せい)かも知(し)れぬ。妻(つま)が未(ま)だ心(しん)から私(わたし)に触(ふ)れて来(く)るほど、夫婦(ふうふ)の愛情(あいじやう)に[#「愛情に」は底本では「愛情は」]脂(あぶら)が乗(の)つて居(ゐ)ない故(せい)かも知(し)れぬ。其(それ)とも此様(こん)なのが実際(じつさい)に幸福(かうふく)なので、私(わたし)の考(かんが)へてゐた事(こと)が、分(ぶん)に過(す)ぎたのかも知(し)れぬ。が、これで一生(しやう)続(つゞ)けば先(まづ)無事(ぶじ)だ。熱(あつ)くもなく冷(つめた)くもなし、此処(こゝ)らが所謂(いはゆる)平温(へいおん)なのであらう。
妻(つま)はお光(みつ)と云(い)つて、今歳(ことし)二十になる。何(なに)かと云(い)ふものゝ、綺緻(きりやう)は先(まづ)不足(ふそく)のない方(はう)で、体(からだ)の発育(はついく)も申分(まをしぶん)なく、胴(どう)や四肢(し)の釣合(つりあひ)も幾(ほとん)ど理想(りさう)に近(ちか)い。唯(たゞ)少(すこ)し遠慮勝(えんりよがち)なのと、余(あま)り多(おほ)く口数(くちかず)を利(き)かぬのが、何(なん)となく私(わたし)には物足(ものた)りないので、私(わたし)が其(それ)であるから尚更(なほさら)始末(しまつ)が悪(わる)い。が、孰(どつち)かと云(い)へば、愛嬌(あいけう)もある、気(き)も利(き)く、画(ゑ)の趣味(しゆみ)も私(わたし)が莫迦(ばか)にする程(ほど)でもない。此(これ)と云(い)ふ長所(とりゑ)も面白味(おもしろみ)もないが、気質(きしつ)は如何(いか)にも丸(まる)く出来(でき)てゐる。其体(そのからだ)と同(おな)じく、人品(じんぴん)も何(なん)となく触(さは)りがフツクリしてゐる。其(それ)も其筈(そのはづ)、実家(さと)は生計向(くらしむき)も豊(ゆた)かに、家柄(いへがら)も相当(さうたう)に高(たか)く、今年(ことし)五十幾許(いくつ)かの父(ちゝ)は去年(きよねん)まで農商務省(のうしやうむしやう)の官吏(くわんり)を勤(つと)め、嫡子(ちやくし)は海軍(かいぐん)の大尉(たいゐ)で、今(いま)朝日艦(あさひかん)に乗組(のりく)んで居(を)り、光子(みつこ)は唯(たつ)た一人(ひとり)の其妹(そのいまうと)として、荒(あら)い風(かぜ)を厭(いと)うて育(そだ)てられた極(きは)めて多幸(たかう)な愛娘(まなむすめ)である。
今日(けふ)は実家(さと)へ行(い)つた其留守(そのるす)なのである。
時計(とけい)は今(いま)二時(じ)を打(う)つたばかり。千駄木(せんだぎ)の奥(おく)の此(こ)の私(わたし)の家(いへ)から番町(ばんちやう)までゞは、可也(かなり)遠(とほ)いのであるが、出(で)てからもう彼此(かれこれ)一時間(じかん)も経(た)つから、今頃(いまごろ)は父(ちゝ)と母(はゝ)とに右(みぎ)と左(ひだり)から笑顔(ゑがほ)を見(み)せられて、私(わたし)が此頃(このごろ)計画(けいくわく)しつゝある画室(ぐわしつ)の事(こと)など話(はな)して居(ゐ)るであらう。と思(おも)ふと、其事(そのこと)に頭脳(あたま)が惹入(ひきい)れられて、様々(さま/″\)な空想(くうさう)も湧(わ)いて来(く)る。昼過(ひるすぎ)から少(すこ)し出(で)て来(き)た生温(なまあたゝか)い風(かぜ)が稍(やゝ)騒(さわ)いで、横(よこ)になつて見(み)てゐると、何処(どこ)かの庭(には)の桜(さくら)が、早(は)や霏々(ひら/\)と散(ち)つて、手洗鉢(てあらひばち)の周(まはり)の、つは蕗(ぶき)の葉(は)の上(うへ)まで舞(ま)つて来(く)る。先刻(さつき)まで蒼(あを)[#ルビの「あを」は底本では「あお」]かつた空(そら)も、何時(いつ)とはなし一面(めん)に薄曇(うすぐも)つて、其処(そこ)らが急(きふ)に息苦(いきぐる)しく、頭脳(あたま)は一層(さう)圧(おし)つけられるやうになる。
私(わたし)は寝転(ねころ)んだまゝ、彼方此方(あちこち)目(め)を動(うご)かしてゐるうち、ふと妙(めう)な物(もの)が目(め)に着(つ)いた。
襖(ふすま)を開放(あけはな)した茶(ちや)の間(ま)から、其先(そのさき)の四畳半(でうはん)の壁際(かべぎは)に真新(まあたら)しい総桐(さうぎり)の箪笥(たんす)が一棹(さを)見(み)える。其箪笥(そのたんす)の二番目(ばんめ)の抽斗(ひきだし)から喰出(はみだ)してゐるのは、小豆色(あづきいろ)の友染縮緬(いうぜんちりめん)の背負揚(しよいあげ)の端(はし)で、其(そ)の見(み)える部分(ぶぶん)に、鉄扇花(てつせんくわ)でゞもあらうか、キザ/″\の花(はな)の図案化(づあんくわ)された模様(もやう)が見(み)えて、其(それ)が目(め)につくと、私(わたし)はふと妙(めう)なことを想出(おもひだ)した。
其(それ)は外日(いつぞや)友人(いうじん)の処(ところ)で、或冬(あるふゆ)の夜(よ)、酒(さけ)を飲(の)みながら遅(おそ)くまで話込(はなしこ)んでゐた時(とき)の事(こと)、恋愛談(れんあいだん)から女学生(ぢよがくせい)[#ルビの「ぢよがくせい」は底本では「じよがくせい」]の風評(うはさ)が始(はじ)まつて、其時(そのとき)細君(さいくん)が一人(ひとり)の同窓の友(クラスメート)に、散々(さん/″\)或学生(あるがくせい)に苦労(くらう)をした揚句(あげく)、熱湯(にえゆ)を呑(のま)されて、全校(ぜんかう)の評判(ひやうばん)になつた美人(びじん)があつた事(こと)を話(はな)した。其女(そのをんな)は才(さい)も働(はたら)き、勉強(べんきやう)も出来(でき)、優(すぐ)れて悧巧(りこう)な質(たち)であつたが、或時(あるとき)脊負揚(しよいあげ)のなかゝら脱落(ぬけお)ちた男(をとこ)の文(ふみ)で、其保護者(そのほごしや)の親類(しんるゐ)の細君(さいくん)に感(かん)づかれ、一時(じ)学校(がくかう)[#ルビの「がくかう」は底本では「がつかう」]も停(と)められて、家(うち)に禁足(きんそく)されてゐたが、矢張(やはり)男(をとこ)が恋(こひ)しく、其学生(そのがくせい)が田舎(ゐなか)[#ルビの「ゐなか」は底本では「いなか」]から細君(さいくん)を連(つ)れて来(く)るまで附纏(つきまと)つたと云(い)ふだけの、事実談(じじつだん)に過(す)ぎぬのであるが、文(ふみ)を脊負揚(しよいあげ)に仕舞(しま)つて置(お)いた一事(じ)が、何(なん)となく私(わたし)の記憶(きおく)に遺(のこ)つてゐる。
其(それ)を憶浮(おもひうか)べると同時(どうじ)に、私(わたし)の胸(むね)には妙(めう)な一種(しゆ)の好奇心(かうきしん)が起(お)きて来(き)た。若(も)し、私(わたし)が妻(つま)に対(たい)して不満足(ふまんぞく)を抱(いだ)いてゐたとすれば、其不満足(そのふまんぞく)は、今(いま)一種(しゆ)の猜疑心(さいぎしん)となつたのであらう。私(わたし)は無論(むろん)妻(つま)を信(しん)じてゐた。背負揚(しよいあげ)のうちに、何等(なんら)の秘密(ひみつ)があらうとは思(おも)はぬ。が、もし[#「が、もし」は底本では「もし」]有(あ)つたら如何(どう)する?と叫(さけ)んだのも、恐(おそら)く此(こ)の猜疑心(さいぎしん)であらう。私(わたし)はそれを感(かん)ずると同時(どうじ)に、妙(めう)に可厭(いや)な気(き)が差(さ)した。而(さう)して可成(なるべく)そんな秘密(ひみつ)に触(さは)りたくないやうな心持(こゝろもち)もした。
が、想像(さうざう)は矢張(やはり)悪(わる)い方(はう)へばかり走(はし)らうとする。如何(どう)かすると、恋人(こひゞと)の有(あ)つたことを、既(すで)に動(うごか)すべからざる事実(じゞつ)[#ルビの「じゞつ」は底本では「じじつ」]と決(き)めて了(しま)つてゐる。而(さう)して、其事実(そのじゞつ)のうへに、色々(いろ/\)の不幸(ふかう)な事実(じゞつ)をさへ築(きづき)あげてゐる。
「無論(むろん)離縁(りえん)さ。子(こ)でも出来(でき)たら、其(それ)こそ挽回(とりかへし)がつかぬ。」と私(わたし)は独(ひとり)で心(こゝろ)に叫(さけ)んだ。
不安(ふあん)の火(ひ)の手(て)は段々(だん/\)揚(あが)つて来(き)た。其(それ)を打消(うちけ)さうとする傍(そば)から、「あの始終(しゞう)人(ひと)の顔色(かほいろ)を読(よ)んでゐるやうな目(め)の底(そこ)には、何等(なんら)かの秘密(ひみつ)が潜(ひそ)んでゐるに違(ちがひ)ない。」と私語(さゝや)くものがある。恁(か)う[#「恁う」は底本では「恁ふ」]言(い)ふと、或(あるひ)は嗤(わら)ふ人(ひと)があるかも知(し)れぬ。が、其(それ)は秘密(ひみつ)がなかつた折(をり)のことで、若(も)し有(あ)つたら、其(それ)こそ大事(だいじ)だ。私(わたし)は寧(むし)ろ此不安(このふあん)を消(け)すために、私(そつ)と四畳半(でふはん)へ忍込(しのびこ)んだ。何(なん)だか罪悪(ざいあく)でも犯(おか)すやうな気(き)がしたので。
部屋(へや)には箪笥(たんす)の外(ほか)に、鏡台(きやうだい)もある。針函(はりばこ)もある。手文庫(てぶんこ)もある。若(も)し秘密(ひみつ)があるとすれば、其等(それら)の中(なか)にも無(な)いとは保(ほ)しがたい。けれど私(わたし)は如何(どう)いふものか、其(それ)に触(さは)つて見(み)る気(き)は少(すこ)しもなく、唯(たゞ)端(はじ)の喰出(はみだ)した、一筋(すぢ)の背負揚(しよいあげ)、それが私(わたし)の不安(ふあん)の中心点(ちうしんてん)であつた。
抽斗(ひきだし)を透(すか)して、私(そつ)と背負揚(しよいあげ)を引張出(ひつぱりだ)して見(み)ると、白粉(おしろい)やら香水(かうすゐ)やら、女(をんな)の移香(うつりが)が鼻(はな)に通(かよ)つて、私(わたし)の胸(むね)は妙(めう)にワク/\して来(き)た。心(しん)のある部分(ぶゞん)を触(さは)つて見(み)ると、心(しん)は堅(かた)く、何物(なにもの)も入(はい)つてゐさうにも思(おも)へぬ。が、捻(ひね)つてみると、カサヽヽと音(おと)がして、何(なに)やら西洋紙(せいやうし)のやうな感(かん)じもする。私(わたし)は急(いそ)いで、端(はじ)から振(ふ)つて見(み)た。而(さう)して好(い)い加減(かげん)のところで、手(て)を突込(つゝこ)んで撈(さぐ)つて見(み)ると、確(たしか)に手(て)に触(さは)るものがある。
私(わたし)は畢生(ひつせい)の幸福(かうふく)の影(かげ)が消(き)えて了(しま)つたかのやうに心(むね)を騒(さは)がせ、急(いそ)いで引出(ひきだ)して見(み)た。
紙片(かみきれ)は果(はた)して横罫(よこけい)の西洋紙(せいやうし)で、其(それ)が拡(ひろ)げて見(み)ると、四五通(つう)もある。孰(いづれ)もインキでノート筆記(ひつき)やうの無造作(むざうさ)な字体(じたい)で、最初(さいしよ)の一通(つう)が一番(ばん)長(なが)く、細字(さいじ)で三頁半(ページはん)にも亘(わた)つてゐる。其他(そのほか)は何(いづ)れも断片(だんぺん)で、文句(もんく)は素(もと)より拙劣(せつれつ)、唯(たゞ)血(ち)の躍(おど)るまゝにペンを走(はし)らせたものとしか見(み)えぬ。飛(と)び/\に読(よ)んでゐるうち、一度(ど)何(なに)かで読(よ)んだ覚(おぼえ)のある恋愛論(れんあいろん)に出会(でつくは)しなどするのであつたが、ハイカラな其青年(そのせいねん)の面目(めんもく)が、目(め)の先(さき)に見(み)えるやうである。然(さう)かと思(おも)ふと、其青年(そのせいねん)は高等商業(かうとうしやうげふ)の生徒(せいと)らしく、実業界(じつげふかい)に羽(はね)を伸(のば)さうと云(い)ふ前途(ぜんと)の抱負(はうふ)なども微見(ほのめ)かしてある。で全体(ぜんたい)を綜合(そうがふ)した処(ところ)で、私(わたし)の頭(あたま)に残(のこ)つた印象(いんしやう)と云(い)ふのは――初(はじ)めての出会(であひ)は小川町(をがはちやう)あたりの人込(ひとごみ)のなかであつたらしく、女(をんな)の袖(そで)へ名刺(めいし)でも投込(なげこ)んだのが抑(そもそ)もの発端(はじまり)で、二度目(どめ)に同(おな)じ通(とほり)で会(あ)つたとき、南明館(なんめいくわん)あたりの暗(くら)い横町(よこちやう)で初(はじ)めて口(くち)を利合(きゝあ)ひ、其(それ)からちよく/\男(をとこ)の下宿(げしゆく)へも出入(しゆつにふ)した事情(じゞやう)が大体(だいたい)判(わか)る。それは、
……彼(か)の幽暗(ほのくら)き路次(ろじ)の黄昏(たそがれ)の色(いろ)は、今(いま)も其処(そこ)を通(とほ)る毎(ごと)に、我等(われら)が最初(さいしよ)の握手(あくしゆ)の、如何(いか)に幸福(かうふく)なりしかを語(かた)り申候(まをしそろ)。貴女(きぢよ)は忘(わす)れ給(たま)はざるべし、其時(そのとき)の我等(われら)の秘密(ひみつ)を照(てら)せる唯(たゞ)一つの軒燈(けんとう)の光(ひかり)を……
後(あと)は何(なん)のことか解(わか)らぬ。が事実(じゞつ)は事実(じゞつ)である。
今(いま)一つ招魂社(せうこんしや)の後(うしろ)の木立(こだち)のなかにも、媚(なまめ)かしい此物語(このものがたり)は迹(あと)つけられてあるが、其後(そのゝち)の関係(くわんけい)は一切(さい)解(わか)らぬ。今(いま)も此(こ)の恋(こひ)なかは続(つゞ)いてゐるか否(いな)か、其(それ)も判然(はんぜん)せぬ。が、此(こ)の手紙(てがみ)を後生大事(ごしやうだいじ)と収(しま)つておく処(ところ)から見(み)ると、其後(そのご)何(なに)かの事情(じゞやう)で、互(たがひ)に隔(へだ)たつてはゐても、心(こゝろ)は今(いま)に隔(へだ)てぬ中(なか)だと云(い)ふことは明(あきら)かである。斯(こ)のくらゐ苟且(かりそめ)ならぬ恋(こひ)の紀念(きねん)が、其後(そのゝち)唯(たゞ)忘(わす)られて此背負揚(このしよいあげ)の中(なか)に遺(のこ)つてゐるものとは。如何(どう)しても受取(うけと)れぬ。
私(わたし)は咽(むせ)ばされるやうな、二人(ふたり)の甘(あま)い恋(こひ)を目(め)に浮(うか)べぬ訳(わけ)には行(い)かなかつた。あの手(て)に握(にぎ)つた他(ほか)の手(て)、あの胸(むね)に擁(いだ)いた他(ほか)の胸(むね)のあつたことを想像(さうぞう)して、心臓(しんざう)の鼓動(こどう)も一時(じ)に停(とま)り、呼吸(いき)も窒(ふさ)がつたやうに覚(おぼ)えた。同時(どうじ)に色々(いろ/\)の疑問(ぎもん)が胸(むね)に起(おこ)つた。女(をんな)の節操(せつそう)と云(い)ふ事(こと)、肉(にく)と霊(れい)と云(い)ふ事(こと)、恋(こひ)と愛(あい)と云(い)ふ事(こと)、女(をんな)は二度目(どめ)の恋(こひ)を持得(もちう)るかと云(い)ふ事(こと)、女(をんな)は最初(さいしよ)の恋(こひ)を忘(わす)れ得(う)るかと云(い)ふ事(こと)など、其(そ)れから其(そ)れへと力(ちから)にも及(およ)ばぬ問題(もんだい)が垠(はてし)なく私(わたし)を苦(くる)しめる。
「詰問(きつもん)してやらう。」と私(わたし)は敦囲(いきま)いても見(み)た。
「どの位(くらゐ)の程度(ていど)であつたか、それを懺悔(ざんげ)さしてやらう。」と効(かひ)ない手段(しゆだん)も運(めぐ)らして見(み)た。
で、其手紙(そのてがみ)は一時(じ)私(わたし)の手(て)に押収(おうしう)することにして、一旦(たん)机(つくゑ)の抽斗(ひきだし)の底(そこ)へ入(い)れて見(み)たが、こんな反故屑(ほごくづ)を差押(さしおさ)へて其(それ)が何(なん)になるか。此手紙以外(このてがみいぐわい)に、女(をんな)の肉(にく)には、如何(どん)な秘密(ひみつ)が痕(あと)つけられてあるか、其(それ)は一切(さい)解(わか)らぬ。心(こゝろ)の奥(おく)に、如何(どん)な恋(こひ)が封(ふう)じ込(こ)めてあるか、其(それ)も固(もと)より解(わか)らぬ。私(わたし)の想像(さうぞう)は可恐(おそろ)しく鋭(するど)くなつて来(き)た。同時(どうじ)に不安(ふあん)の雲(くも)は益(ますま)す暗(くら)くなつて来(き)た。
あゝ、何(なん)と云(い)ふ厭(いや)な日(ひ)であらう。

    *    *    *    *

二三日(にち)は何(なん)の事(こと)もなかつた。唯(たゞ)私(わたし)の頭(あたま)が重苦(おもくる)しいばかりであつた。
が、女(をんな)は男(をとこ)の秘密(ひみつ)を読(よ)むのが巧(うま)い。加之(それに)用心深(ようじんぶか)い其神経(そのしんけい)は、何時(いつ)彼(か)の背負揚(しよいあげ)を見(み)て、手紙(てがみ)に触(さは)つた私(わたし)の手(て)の匂(にほひ)を嚊(か)ぎつけ、或晩(あるばん)妻(つま)が湯(ゆ)に入(い)つた留守(るす)に、私(そつ)と背負揚(しよいあげ)を出(だ)して見(み)ると、手紙(てがみ)はもう中(なか)には無(なか)つた。文庫(ぶんこ)のなかを捜(さが)しても無(なか)つた。鏡台(きやうだい)にも針箱(はりばこ)にも箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)にも無(なか)つた。大方(おほかた)焼棄(やきす)てるか如何(どう)かしたのであらう。綺麗(きれい)に作(つく)つて湯(ゆ)から帰(かへ)ると、妻(つま)は不図(ふと)茶道具(ちやだうぐ)ともなかとを私(わたし)の傍(そば)へ運(はこ)んで、例(れい)の嫻(しとや)かに、落着(おちつ)いた風(ふう)で、茶(ちや)など淹(い)れて、四方八方(よもやま)の話(はなし)を始(はじ)める。何(なん)だか、隔(へだて)の或物(あるもの)を撤(てつ)して、直接(ぢか)に私(わたし)に接(せつ)して見(み)やうとする様子(やうす)が、歴々(あり/\)と素振(そぶり)に見(み)える。
私(わたし)の胸(むね)は始終(しゞう)煮(に)えてゐた。唯(たゞ)抑(おさ)へてゐるばかりなのである。
其晩(そのばん)は湿(しめ)やかな春雨(はるさめ)が降(ふ)つてゐた。近所隣(きんじよとなり)は闃(ひつそ)として、樋(ひ)を洩(も)れる細(ほそ)い雨滴(あまだれ)の音(おと)ばかりがメロヂカルに聞(きこ)える。が、部屋(へや)には可恐(おそろ)しい影(かげ)が潜(ひそ)んでゐた。
火影(ほかげ)を片頬(かたほゝ)に受(う)けた妻(つま)の顔(かほ)は、見恍(みと)れるばかりに綺麗(きれい)である。頬(ほゝ)もポーツと桜色(さくらいろ)にぼかされて、髪(かみ)も至(いた)つて艶(つやゝ)かである。殊(こと)に其目(そのめ)は星(ほし)のやうで、絶(た)えず私(わたし)の顔(かほ)を見(み)ては、心(こゝろ)を熔(とろか)さうとしてゐるやうな媚(こび)を作(つく)る。
此(こ)の目(め)、此(こ)の頬(ほゝ)、此(こ)の髪(かみ)、其処(そこ)には未(ま)だ昔(むかし)の恋(こひ)の夢(ゆめ)が残(のこ)つてゐるやうである。私(わたし)は一種(しゆ)の美感(びかん)に酔(ゑは)されると同時(どうじ)に、激(はげ)しい妬(ねたま)しさに胸(むね)を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)(むし)られてゐる。可愛(かあ)ゆくもあるが憎(にく)くも思(おも)つた。其(そ)の目(め)が、あの恋(こひ)の秘密(ひみつ)を私語(さゝや)いてゐるかと思(おも)ふと、腹立(はらだゝ)しくもあつたが、哀(あはれ)にも思(おも)つた。此(こ)の哀(あは)れは崇高(すうかう)の感(かん)じを意味(いみ)するので、妻(つま)の昔(むかし)を客観(かくゝわん)に見(み)た時(とき)であるのは、言(い)ふまでもない。私(わたし)は悲(かな)しくなつて、多時(しばらく)深(ふか)い沈黙(ちんもく)に沈(しづ)んだ。
何(なに)かの拍子(ひやうし)に、妻(つま)は其(そ)の無邪気(むじやき)な顔(かほ)を、少(すこ)し曇(くも)らして、
「貴方(あなた)何(なに)か見(み)たでせう。」
「…………。」
「きつと古(ふる)い手紙(てがみ)を御覧(ごらん)なすつたでせう。」
私(わたし)は力(つと)めて平気(へいき)らしく、「ウム見(み)た。あんな事(こと)があつたのか。」と声(こゑ)は嗄(かす)れて、顫(ふる)へてゐた。
話(はなし)は段々(だん/\)進(すゝ)んだ。私(わたし)の詰問(きつもん)に対(たい)して、妻(つま)は一と通(とほり)の弁解(べんかい)をしてから、其(それ)は恋(こひ)と云(い)ふほどでは無(なか)つたと説明(せつめい)する。而(さう)して会(あ)つた処(ところ)は始終(しゞふ)外(そと)で、偶(たま)に其下宿(そのげしゆく)へ行(い)つたこともあつたけれど、自分(じぶん)は其様(そん)な初々(うひ/\)しい恋(こひ)に、肌(はだ)を汚(けが)すほど、其時分(そのじぶん)は大胆(だいたん)でなかつたと云(い)ふことを確(たしか)めた。
其以上(それいじやう)、私(わたし)の詰問(きつもん)の矢(や)の根(ね)は通(とほ)らぬ。通(とほ)らぬ処(ところ)に暗(くら)い不安(ふあん)の影(かげ)が漂(たゞよ)うてゐるのであるが、影(かげ)は影(かげ)で、一歩(ぽ)も私(わたし)の足迹(そくせき)を容(い)るゝを許(ゆる)さぬのである。
私(わたし)は以前(いぜん)よりも一層(そう)の不安(ふあん)を感(かん)じた。
「それで、貴方(あなた)は如何(どう)か為(な)さらうと云(い)ふお心持(こゝろもち)なのです。」
私(わたし)は自分(じぶん)の不安(ふあん)と苦痛(くつう)を訴(うつた)へたが、其(それ)も効(かひ)はなく、此(この)まゝ秘密(ひみつ)にしてくれと云(い)ふ妻(つま)の哀願(あいぐわん)を容(い)れて、此事(このこと)は一時(じ)其(その)まゝに葬(はふむ)ることにした。
私(わたし)は此後(このゝち)或(あるひ)は光子(みつこ)を離縁(りえん)するかも測(はか)られぬ。次第(しだい)に因(よ)つては、光子(みつこ)の父母(ちゝはゝ)に、此事(このこと)を告白(こくはく)せぬとも限(かぎ)らぬ。が、告白(こくはく)したところで、離縁(りえん)をした処(ところ)で、光子(みつこ)に対(たい)する嫉妬(しつと)の焔(ほのほ)は、遂(つひ)に消(け)すことが出来(でき)ぬ。
(明治41年1月「趣味」)
了

底本:「徳田秋聲全集 第7巻」八木書店
   1998(平成10)年7月18日初版発行
底本の親本:「趣味 第三巻第一号」趣味社
   1908(明治41)年1月1日発行
初出:「趣味 第三巻第一号」趣味社
   1908(明治41)年1月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※「背負揚」と「脊負揚」、「針函」と「針箱」の混在は、底本通りです。
※「畳半」に対するルビの「でうはん」と「でふはん」、「想像」に対するルビの「さうざう」と「さうぞう」、「部分」に対するルビの「ぶぶん」と「ぶゞん」、「事実」に対するルビの「じゞつ」と「事実談」に対するルビの「じじつだん」、「始終」に対するルビの「しゞう」と「しゞふ」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「背負揚(しよいあげ)」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年10月26日作成
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