あらすじ
招待されたパーティーで、さまざまな国籍の人々との交流に戸惑う主人公。言葉を介さずとも、彼らの個性や魅力を感じ取ろうとします。しかし、その場には、主人公の心を惹きつけるある女性の姿も。次第に、その女性への想いは募り、複雑な感情が渦巻いていきます。
 K氏(し)を介(かい)しての、R大使館(たいしかん)からの招待日(せうたいび)だつたので、その日(ひ)彼(かれ)は袴(はかま)などつけて、時刻(じこく)がまだ早(はや)かつたところから、I子(こ)の下宿(げしゆく)へ寄(よ)つて一と話(はなし)してから出(で)かけた。
 R大使館(たいしかん)の所在(しよざい)を、彼(かれ)は明白(めいはく)には知(し)らなかつた。勿論(もちろん)招待(せうたい)の意味(いみ)についても、明確(めいかく)なことはわからなかつた。しかし大凡(おゝよ)その見当(けんたう)はわかつてゐた。気(き)のきいた運転士(うんてんし)が車(くるま)をつけたところが、果(はた)してそれであつた、彼(かれ)は門前(もんぜん)で車(くるま)をおりて、右側(みぎがわ)の坂道(さかみち)を爪先上(つまさきあが)りに登(のぼ)つて行(い)つた。左(ひだり)へ折(お)れたところに応接室(おうせつしつ)か喫煙室(きつえんしつ)かといふやうな部屋(へや)の窓(まど)の戸(と)が少(すこ)しあいてゐて人影(ひとかげ)が差(さ)してゐたが、そこを過(す)ぎると玄関(げんかん)があつた。
 名刺(めいし)を通(つう)じてゐるところへ、大入道(おうにうどう)のA氏(し)が奥(おく)から出(で)て来(き)て、彼(かれ)を迎(むか)へてくれた。A氏(し)は一度(ど)R国(こく)へ行(ゆ)く友人(ゆうじん)の送別会席上(そうべつかいせきぜう)で見知(みし)りになつたR国人(こくじん)であつたので、私(わたし)はいさゝか心強(こゝろつよ)く感(かん)じて、導(みちび)かるゝまゝに奥(おく)へ通(とほ)つた。卓子掛(てーぶるかけ)や椅子(いす)の緋色(ひいろ)づくめな部屋(へや)には数人(すうにん)のR国(こく)の男女(だんじよ)がゐて、私(わたし)の仲間(なかま)は案外(あんがい)にも極(きわ)めて小数(せうすう)であつた。その多(おう)くは夫人帯同(ふじんたいどう)であつたことも、私(わたし)には意外(いがい)であつた。
 私(わたし)は数人(すうにん)の男女(だんじよ)のR国人(こくじん)に紹介(せうかい)されて、それらの人達(ひとたち)の力強(ちからつよ)い手(て)と一々(/\)握手(あくしゆ)をした。しかし誰(たれ)が誰(たれ)だか覚(おぼ)えてもゐられなかつた。
「キヤンニユスピイキイングリシユ?」
「アイ、キヤントスピイク。」
「キヤンユゲルマン。」
「ノー。」
 こんなやうな簡短(かんたん)な応答(おうとう)が、私(わたし)と彼等(かれら)のあいだに失望的(しつぼうてき)な笑(わら)ひと共(とも)に取(と)り交(かわ)された。しかし話(はな)せないのは私(わたし)ばかりではなかつた。大抵(たいてい)は話(はな)せないのであつた。
 私(わたし)は当代(とうだい)の花形作家(はなかたさくか)で且(かつ)詩人(しじん)であるところのS氏(し)の側(そば)へ寄(よ)つて行(い)つた。
「今夜(こんや)はどんな人(ひと)が来(く)るんですか。」
「あとMさんが来(く)るだけでせう」
「さう!」
 すると又(また)そこへ質素(しつそ)な黒(くろ)い服装(ふくそう)をつけた、断髪(だんはつ)のぎよろりとした目(め)をした若(わか)いR国(こく)婦人(ふじん)がやつて来(き)て、やゝ熟達(じゆくたつ)した日本語(にほんご)で話(はな)しかけた。最(もつと)も大抵(たいてい)の婦人(ふじん)は黒(くろ)い服装(ふくそう)した断髪(だんはつ)であつた。
 M氏(し)夫婦(ふうふ)がやつて来(き)て、型(かた)どほり各人(かくじん)に紹介(せうかい)されたが彼(かれ)も御多分(ごたぶん)に洩(も)れず唖(おし)であつた。しかし中(なか)には一度(ど)や二度(ど)は洋行(ようこう)したことのあるN氏(し)やM、S氏(し)のやうな劇団(げきだん)の人々(ひと/″\)もあつたし、アメリカに長(なが)くゐたM、K氏(し)などもゐた。その上(うえ)紹介者(せうかいしや)のK氏(し)は巧(たくみ)にR国語(こくご)を操(あやつ)るのであつた。殊(こと)に書(か)いたものに敬服(けいふく)してゐたM、K氏(し)は名前(なまえ)を知(し)つてゐるだけで、私(わたし)には、初対面(しよたいめん)であつたが、少(すこ)しも気取(きど)らない、ヒユモリストであるので、席(せき)が白(しら)けるなぞといふやうなことは先(ま)づなかつたと言(い)つてもよかつた。勿論(もちろん)私(わたし)などはどこへ行(い)つても唖(おし)の方(ほう)であつた。日本人(にほんじん)の会合(かいごう)でも話題(わだい)の極(きわ)めて貧弱(ひんじやく)な方(ほう)といはなければならなかつた。しかし照(て)れるやうなこともなかつた。
「洋行(ようこう)しても我々(われ/\)は駄目(だめ)だね。」

 やがて食堂(しよくどう)へ入(はい)つて行(い)つた。目(め)のぱつちりした美(うつく)しい一人(り)の女(おんな)が私(わたし)を食卓(しよくたく)の向側(むこうかわ)へ「どうぞ」と言(い)つて案内(あんない)してくれたが、誰(たれ)もまだ入(はい)つてこないので躊躇(ちうちよ)してゐるうちに、此方側(こつちかわ)の左手(ひだりて)の椅子(いす)を取(と)ることになつて、先刻(さつき)美(うつく)しい人(ひと)が脇(わき)へ来(き)て席(せき)を取(と)つたが、言葉(ことば)が通(つう)じないことがわかつたところで、今(いま)一人(り)の日本語(にほんご)のよく話(はな)せるお転婆(てんば)さんらしい女(おんな)と入替(いれかわ)つた。
 彼女(かのじよ)は比較的(ひかくてき)自由(じゆう)な日本語(にほんご)で色々(いろ/\)の[#「色々(いろ/\)の」は底本では「色色(いろいろ)の」]ことを話(はな)しかけた。
「私(わたし)今(いま)ゐるところ日本(にほん)の家(いえ)でございます。私(わたし)日本(にほん)の家(うち)が好(す)きでございます。日本(にほん)の西洋家屋(せいようかおく)はお粗末(そまつ)で却(かへつ)て感(かん)じが悪(わる)うございます。」
 そんな風(ふう)の話(はなし)を、どうかするとたどたどしい舌(した)で弁(しや)べつた。
 私(わたし)には別(べつ)に話題(わだい)がなかつたけれど、何(なに)か彼(か)にか罰(ばつ)を合(あわ)せることが出来(でき)た。
「MHさんは何(ど)の方(かた)でございますか。」彼女(かのじよ)はきいた。
 MH氏(し)は反対(はんたい)の側(かわ)の右(みぎ)の端(はし)にゐたので、私(わたし)はその方(ほう)を指(ゆび)さし示(しめ)した。
「私(わたし)あの方(かた)のもの読(よ)みました。」
「面白(おもしろ)いですか。」
「面白(おもしろ)いのもございました。」
 しかし別(べつ)にそれ以上(いぜう)の文学談(ぶんがくだん)も出(で)なかつた。
「私(わたし)お正月(せうがつ)部屋(へや)へかけておきたいですが、何(なに)か書(か)いて下(くだ)さい。」
「何(なに)をです。」
「何(なん)でもよろしうございます。書(か)いて送(おく)つて下(くだ)さい。きつとですよ。ようございますか。」
「書(か)きませう。」
 MK氏(し)が私達(わたしたち)の前(まえ)に、先(さき)の美(うつく)しい人(ひと)と並(なら)んでゐて、元気(げんき)よく連(しきり)に茶目振(ちやめふり)を発揮(はつき)してゐた。私(わたし)は彼(かれ)の書(か)くものに敬意(けいい)をもつてゐたが逢(あ)つてみると又(また)書(か)くものとは違(ちが)つた、別(べつ)の意味(いみ)の親(した)しさが感(かん)じられた。
 向(むか)ふ側(かわ)ではSH氏(し)の夫人(ふじん)らしい、ちら/\動(うご)く星(ほし)のやうな目(め)の極(きわ)めて凉(すゞ)しい人(ひと)が、無邪気(むじやき)な表情(へうぜう)をしてゐるのが目(め)についた。私(わたくし)の脇(わき)にゐるお転婆(てんば)さんが彼女(かのじよ)を讃(ほ)めてゐた。この夫人(ふじん)も美(うつく)しいが、LI子(こ)がゐたら、これも一際(きわ)目(め)に立(た)つであらうことを想像(そうぞう)したりしたが、しかし今夜(こんや)LI子(こ)のゐないことは反(かへ)つて自由(じゆう)であつた。
 私(わたくし)は話(はなし)に気(き)を取(と)られてゐたので、お料理(れうり)を大抵(たいてい)食(た)べはぐしてしまつた。おいしさうなスープも、香(か)んばしい饅頭風(まんじうふう)のお菓子(かし)も、それに時々(とき/″\)機械的(きかいてき)に口(くち)にするウオツカの酔(よい)も出(で)て来(き)た。
 これといふ事(こと)もなかつた。みんなはやがて椅子(いす)を離(はな)れた。そして以前(いぜん)の部屋(へや)へ帰(かえ)つて来(き)た。

 食事後(しよくじご)の気分(きぶん)は前(まえ)よりも一層(そう)打寛(うちくつろ)いだものであつたが、彼等(かれら)の或者(あるもの)は尚(なお)も未練(みれん)がましく私達(わたしたち)の傍(そば)へ寄(よ)つて来(き)て、揉手(もみて)をしながら「キヤンニユスピイク、イングリシユ?」を繰返(くりかえ)した。水菓子(みずかし)が婦人達(ふじんたち)によつて持(も)ちまはられたり、飲料(のみもの)が注(つ)がれたりした。話(はな)せると思(おも)つたSH氏(し)なども、ちようど私(わたし)の傍(そば)にいて「読(よ)むには読(よ)むが話(はなし)はできない」と断(ことわ)りを言(い)つていた。
 そのSH氏(し)がしばらくすると、立(た)つて彼方(あなた)の卓(たく)の前(まえ)に立(た)つて、和服姿(わふくすがた)の東洋人(とうようじん)らしい憂鬱(ゆううつ)な恥(はじ)らひの表情(へうぜう)で、自作(じさく)の詩(し)を謳(うた)ひだした。皆(みな)が之(こ)れに耳(みゝ)傾(かたむ)けた。そして謳(うた)ひをはつて席(せき)についたときに、拍手(はくしゆ)とゝもに「モア、モア!」と云(い)ふ声(こえ)が若(わか)いR国(こく)の紳士(しんし)によつてかけられた。
 SH氏(し)はこのアンコールに応(おう)じて、再(ふたゝ)び立(た)つて行(い)つた。そして前(まえ)よりも安易(あんい)な調子(てうし)で謳(うた)つた。
 拍手(はくしゆ)が四方(ほう)から起(おこ)つた。
 少(すこ)し間(ま)をおいてから、R国(こく)婦人(ふじん)が一人(り)起(た)つて、やゝ長(なが)い叙事的歌詞(じよじてきかし)のやうなものを、多少(たせう)の科(しぐさ)を交(まじ)へて演(えん)じ出(だ)した。それが了(おわ)ると、例(れい)の大入道(おうにうどう)の紳士(しんし)が、吃(ども)りのやうな覚束(おぼつか)ない日本語(にほんご)で翻訳(ほんやく)してくれた。
 座興(ざきよう)が加(くわ)はつて来(き)た。
「MMさんに仮声(こわいろ)を願(ねが)はうぢやないか。」誰(たれ)かゞ劇界(げきかい)の長老(てうろう)たるMM氏(し)を目(め)ざして促(うなが)した。
「さうだ。何(なに)か一つ何(ど)うです。我々(われ/\)は[#「我々(われ/\)は」は底本では「我我(われわれ)は」]皆な芸(げい)なしだからな。」
 肥(ふと)つたMM氏(し)は容易(ようい)に起(た)たなかつたが、勿論(もちろん)彼(かれ)にも若々(わか/\)しい愛嬌(あいけう)と洒落気(しやれけ)は失(う)せてゐなかつた。
 彼(かれ)は椅子(いす)を離(はな)れた。
「ハムレツトをやりませう。白(せりふ)なしのハムレツトを。」彼(かれ)はさう言(い)つて真中(まんなか)に立(た)ちながら、
「服装(ふくそう)はモダーンでいきませう。」
 巧妙(こうめう)なハムレツトの一節(ふし)の黙劇(もくげき)がはじまつた。それは素人(しろうと)とはおもはれないしつかりした型(かた)にはまつたものらしかつた。多分(たぶん)英国(えいこく)あたりのハムレツト役者(やくしや)のそれを取(と)つたものだらうと私(わたし)は想像(そうぞう)した。
「あゝ、腹(はら)がへつた!」MM氏(し)は演(えん)じをはると傍(かた)への卓子(たくし)の上(うえ)から、ビスケツトか何(なに)かをつまんで口(くち)へ投(ほう)りこんだ。
 拍手(はくしゆ)がおこつた。

 私(わたし)は再(ふたゝ)びS、H氏(し)と肩(かた)を並(なら)べてゐた時(とき)、これといふ話題(わだい)もなかつたので、ふとI子(こ)のことを話(はな)した。それは最近(さいきん)S、H氏(し)の詩(し)や小説(せうせつ)の好(す)きなI子(こ)が、一度(ど)遊(あそ)びにつれて行(い)つてくれと言(い)つてゐたので、私(わたし)もこの機会(きかい)にS、H氏(し)を訪問(ほうもん)して敬意(けいい)を表(へう)しておくのも無意義(むいぎ)ではなからうと思(おも)つてゐたのであつた。
 S、H氏(し)だけは「彼是(かれこれ)言(い)ふべきものぢやない。羨望(せんぼう)すべきものぢやないか」と言(い)つたといふことを、二三度(ど)或青年(あるせいねん)から、私(わたし)は聞(き)かされてゐた。それは事実(じじつ)か否(いな)かは知(し)らなかつたが、誰(たれ)からも好感(こうかん)をもたれない私(わたし)とI子(こ)との事(こと)に関(かん)して、さう言(い)つたとすれば、それはS、H氏(し)の言(い)ひさうなことだとは思(おも)はれた。勿論(もちろん)I子(こ)の意味(いみ)は文芸上(ぶんげいぜう)のことであつた。S、H氏(し)が女性(じよせい)に対(たい)して、I子(こ)のやうな婦人(ふじん)が望(のぞ)んでゐるやうに優(やさ)しい親切(しんせつ)な異性(いせい)でないことはI子(こ)も知(し)つてゐた。そしてそれを口(くち)にしてゐた。
「それは普通(ふつう)無智(むち)な女(おんな)に対(たい)してのことさ。I子(こ)ならS、H君(くん)でもきつとおとなしくするよ。」私(わたし)は自家(じか)謙(けん)遜の意味(いみ)で言(い)つたが、いくらかの皮肉(ひにく)もないとは言(い)へなかつた。それは無邪気(むじやき)なI子(こ)が、殊(こと)にもさう云(い)ふことを嬉(うれ)しがる人(ひと)の好(よ)さをもつてゐるからであつた。私(わたし)は危険区域(きけんくいき)の線(せん)をこえない範囲(はんい)でよくさう云(い)ふ風(ふう)な悪戯(あくぎ)な試(ため)しをするのであつたが、しかし又(また)事実(じじつ)さうかも知(し)れないと思(おも)はれないこともなかつた。
 I子(こ)もそれには答(こた)へなかつた。
 或(ある)ときも無聊(ぶれう)に苦(くる)しんでゐた折(おり)、誰(たれ)かを訪問(ほうもん)しようかと言(い)ひ合(あ)つてゐるときS、H氏(し)の名(な)が出(で)た。
「さうね、行(い)つてもいゝね。」
「行(い)きませう。」
 しかし私(わたし)は決定的(けつていてき)でなかつた。行(い)くなら一人(り)やつた方(ほう)がいゝと私(わたし)は密(ひそ)かに思(おも)つてゐた。I子(こ)を番(ばん)してついて行(い)くやうなことは私(わたし)には出来(でき)なかつた。何(なに)かおこつたら起(おこ)つたときのことだし、S、H氏(し)がまたそんな隙(すき)をもつてゐるとも思(おも)へなかつた。I子(こ)にしたところで、この際(さい)新(あたら)しい事件(じけん)を持(も)ちあげることは、慵いことだと思(おも)はれた。
 私(わたし)は一度(ど)は新築(しんちく)のS、H氏(し)の家(うち)を見(み)たい旁(かた/″\)、いつかは行(い)つてもいゝと思(おも)つたが、忙(せわ)しいときだし少(すこ)し心(こゝろ)の準備(じゆんび)をとゝのへたをりのことにしようと思(おも)つた。
「一人(り)でおいで。その方(ほう)が話(はなし)も自由(じゆう)でいゝよ。」
「一人(り)なら行(い)きたくないのよ。先生(せんせい)のものとして、連(つ)れてつてほしいのよ。」I子(こ)は答(こた)へた。

 それでS、H氏(し)とこゝで逢(あ)つたのを幸(さいわ)ひに私(わたし)は手軽(てがる)にその事(こと)を話(はな)したのであつた。するとS、H氏(し)は「危険(きけん)だな――」といふやうな口吻(こうふん)を卒然(そつぜん)洩(も)らしたものであつた。
「そんな事(こと)はない。」私(わたし)は笑(わら)ひながら否定(ひてい)した。すると又(また)S、H氏(し)が訂正(ていせい)でもするやうに、「いや、私(わたし)の方(ほう)が……。」と答(こた)へた。
 私(わたし)は勿論(もちろん)どつちが危険(きけん)だかといふ明白(めいはく)な意識(いしき)なくして、たゞ漠然(ばくぜん)と半(なかば)謙遜(けんそん)の気持(きもち)で言(い)つたのであつたが、S、H氏(し)がまたさう云(い)ふ風(ふう)の謙遜(けんそん)な意味(いみ)で答(こた)へたのに出会(であ)つて、それを又(また)押返(おしかへ)して何(なに)か附加(つけくわ)へるのも変(へん)だつたので其(そ)れには黙(だま)つてゐたが、
「若(わか)い人(ひと)がづいぶん行(い)くでせう」ときいた。
「しかしさう云(い)ふ人(ひと)はさう云(い)ふ人(ひと)だちで話(はな)してゐますから。」
 それからS、H氏(し)は家(うち)の所在(しよざい)などを教(おし)へて、
「どうぞ入(い)らして下(くだ)さい」と言(い)つたが、それは私(わたし)に対(たい)する言葉(ことば)だと見(み)てよかつた。
 やがて奥(おく)のダンスホールへ人々(ひと/″\)は流(なが)れこんで行(い)つた頃(ころ)にはMR氏(し)の[#「MR氏の」はママ]姿(すがた)がどこへ行(い)つたか見(み)えなかつた。S、H氏(し)も京都(けうと)から来(き)たT氏(し)の連中(れんちう)が、どこかで待(ま)つてゐるといふので、夫人(ふじん)と何(なに)か打合(うちあわ)せをして、少(すこ)し前(まえ)に帰(かえ)つて行(い)つた。そこには未(ま)だ懸(か)けない大(おう)きな油絵(あぶらえ)などが、窓(まど)ぎわに立(た)てかけてあつたりして、大入道(おうにうどう)のR国人(こくじん)が、この作者(さくしや)について、絵(え)の意味(いみ)について説明(せつめい)してくれたりしたが、間(ま)もなくピアノの伴奏(ばんそう)でマンドリン演奏(えんそう)がはじまつた。そして其(そ)れがすむと間(ま)もなく一人(り)の婦人(ふじん)が、R氏(し)と打合(うちあわ)せをしたあとでR氏(し)の通訳(つうやく)説明(せつめい)につれて舞台(ぶたい)に上(のぼ)つた。そしてピアノの伴奏(ばんそう)で独唱(どくせう)をはじめた。代理大使(だいりたいし)がつい私(わたし)の横(よこ)の方(ほう)にゐたが、彼(かれ)はまだ残(のこ)りをしさうに「キヤニユスピークイングリシユ?」を繰返(くりかえ)してゐた。私(わたし)はまた笑(わら)ひながら、前(まえ)と同(おな)じことを繰返(くりかへ)すより外(ほか)なかつた。若(もし)も「エヽリツトル」とでも言(い)はうものなら何(ど)んなむづかしい質問(しつもん)が始(はじ)まらないとも限(かぎ)らないからであつた。
 調子(てうし)づいた独唱(どくせう)が二つばかりつづいた。そして前(まえ)に叙事詩(じよじし)のやうなものを朗読(らうどく)した多分(たぶん)代理大使(だいりたいし)の夫人(ふじん)だとおもはるゝ婦人(ふじん)が其後(そのあと)で又舞台(ぶたい)のうへで朗読(らうどく)をはじめた。
 多分(たぶん)彼等(かれら)に取(と)つては楽(たの)しい一夜(や)であるべき筈(はず)だつたのであらうが唖(おし)のやうに黙(だま)りこくつた我々(われ/\)の苦(にが)い表情(へうぜう)と無愛相(ぶあいそう)な態度(たいど)とが、如何(いか)に彼等(かれら)を失望(しつぼう)させたかは、想像(そうぞう)に余(あま)りあるものであつた。
 私(わたし)たちは帰(かえ)りがけに画帖(がてふ)を書(か)かせられた。

 乗物(のりもの)の支度(したく)もなかつたので、私達(わたくしたち)はぞろ/\打揃(うちそろ)うて外(そと)へ出(で)た。そして円(えん)タクでも通(とお)りかゝつたらばと思(おも)つて、寂(さび)しいN町(まち)の通(とお)りを、Tホテルの方(ほう)へと歩(ある)いた。
「あれは皆(みん)な立派(りつぱ)な紳士(しんし)なんだらうが、何(なん)だか安(やす)つぽいね。」M、H氏(し)が言(い)つた。
 この疑問(ぎもん)は私(わたし)などにも兎角(とかく)起(おこ)りやすい疑問(ぎもん)である。歌舞伎俳優(かぶきはいゆう)が近代的(きんだいてき)になるに従(したが)つて、以前(いぜん)のやうな荘重典雅(そうてうてんが)の風貌(ふうぼう)がなくなつて、そこいらの若(わか)い衆(しう)と大(たい)した違(ちが)ひがなくなると同(おな)じことである。議場(ぎぜう)へ出(で)る政治家(せいちか)でも、両国(れうこく)の土俵(とへう)で見(み)る力士(りきし)でも、伝統的(でんとうてき)なものが亡(ほろ)びて、段々(だん/\)小粒(こつぶ)になつて来(く)るのにも不思議(ふしぎ)はない。
「今度(こんど)はもつとしんみり話(はなし)のできるやうにしたいと言(い)つてゐました。」K氏(し)が言(い)つた。
 多分(たぶん)S、H氏(し)の夫人(ふじん)が、ホテルでS、H氏(し)とT氏(し)の連中(れんちう)を待合(まちあわ)せることになつてゐたのでもあらうがM、H氏(し)夫妻(ふさい)が其処(そこ)に宿泊(しゆくはく)してゐたために、一同(どう)は知(し)らず識(し)らずホテルへ寄(よ)ることになつた。ホテル前(まえ)の電車(でんしや)を突切(つき)る頃(ころ)、私(わたし)はM、H夫人(ふじん)と話(はな)しながら歩(ある)いてゐたが、彼女(かのじよ)は私(わたし)が自動車(じどうしや)にでも轢(ひ)かれはしないかと気遣(きつか)つて、どうかすると袖(そで)を引(ひ)つ張(ぱ)つたりして、手(て)を取(と)らないばかりに劬(いた)はつてくれるのであつた。私(わたし)がI子(こ)との事件(じけん)でM、H氏(し)に攻撃(こうげき)されたことを、私(わたし)が悲観(ひかん)してゐるやうなことを、私(わたし)は私(わたし)の最近(さいきん)の作品(さくひん)で書(か)いたりしたので、一層(そう)彼女(かのじよ)は私(わたし)の心(こゝろ)の痛(いた)みをさすつてくれようとしてゐるらしいのであつた。
「お危(あぶな)うございますわ。お大事(だいじ)のお体(からだ)ですからね。」
「大丈夫(だいぜうぶ)ですよ。」
「段々(だん/″\)お友達(ともたち)が亡(な)くなつて、ほんとに寂(さび)しいんですものね。お体(からだ)を大事(だいじ)にして下(くだ)さいね。」
「大丈夫(だいぜうぶ)です。私(わたし)はそんなに……。」
「どうかして、思(おも)ひ切(き)つてお別(わか)れになれないものですかね。」
 ホテル前(まえ)へ差(さ)しかゝつたとき、夫人(ふじん)は衷心(ちうしん)からそれを切望(せつぼう)するやうに言(い)つた。
「どうもね、ちよつとさうも行(い)かないんですよ。」
「いけないんですの。」夫人(ふじん)は絶望的(ぜつぼうてき)に呟(つぶや)いた。
 ぞろ/\とホテルへ入(はい)つて行(い)つた。ちやうどクリスマスの翌夜(よくや)でパイントリイが物々(もの/\)しく飾(かざ)られ、食堂(しよくどう)に舞踊(ぶよう)があつたりして、まるでお祭(まつり)のやうな騒(さわ)ぎであつた。私(わたし)たちはサロンルームの片隅(かたすみ)に、辛(から)うじて座席(ざせき)を占(し)めることが出来(でき)た。

 社交家(しやこうか)のM、H氏(し)夫人(ふじん)が、私達(わたしたち)のために何(なに)か飲料(のみもの)でも斡旋(あつせん)しやうとして、ボオイに謀(はか)つてみたけれど、今夜(こんや)の騒(さわ)ぎなので、これといふものもなかつた。たゞ曹達水(そうだすい)があるばかりであつた。私達(わたしたち)は卓子(てーぶる)を囲(かこ)んで、莨(たばこ)をふかしながら漫談(まんだん)に時(とき)を移(うつ)した。軽(かる)い瀟洒(せうしや)な夜会服(やかいふく)を着(き)たのや、裾模様(すそもよう)の盛装(せいそう)をしたのや、その中(なか)にはまたタキシイドの若(わか)い紳士(しんし)に、制服(せいふく)をつけた学生(がくせい)、それに子供(ことも)たちも少(すくな)くなかつた。軍服姿(ぐんぷくすがた)もちらほら見(み)えた。それらの人達(ひとたち)が目間苦(めまくる)しく往(い)つたり来(き)たりしてゐたが、ダンス場(ば)は人(ひと)がぎつちり鮨詰(すしつめ)になつてゐた。音楽(おんがく)につれて、浮(う)いたり沈(しず)んだりする男女(だんじよ)の顔(かお)が、私達(わたしたち)の目(め)にも見(み)えるのであつた。
「どう云(い)ふ連中(れんちう)だらう。」R国(こく)に長(なが)くゐたK氏(し)がきいた。
「色々(いろん)な人間(にんげん)がゐるのさ。」M、H氏(し)が微笑(びせう)してゐた。
「我々(われ/\)の仲間(なかま)でも、かう云(い)ふところへ来(く)る人(ひと)もあるのさ。KだのTだの。」私(わたし)も附加(つけくわ)へた。
「まるで船着場(ふなつきば)のホテルのやうだね。いつでも恁(か)うかしら。」
「いや、いつもは至(いた)つて寂(さび)しい」東京(とうけう)へくればいつでも此処(ここ)へ宿泊(しゆくはく)することにしてゐるM、H氏(し)が答(こた)へた。
 星(ほし)のやうな目(め)をうろ/\させてS、H氏(し)の夫人(ふじん)が、頼(たよ)りなさゝうにしてゐるので、M、H氏(し)夫人(ふじん)と、N氏(し)夫人(ふじん)が気(き)をもんで電話(でんわ)でもかゝつて来(こ)ないか否(いな)かをボオイに訊(き)いたりしたが、何(なん)の消息(せうそく)もないらしかつた。勿論(もちろん)S、H氏(し)夫人(ふじん)はS、H氏(し)と其(そ)の友人(ゆうじん)を此処(ここ)で待合(まちあわ)せることになつてゐた。
「さあ、僕(ぼく)は失敬(しつけい)しよう!」私(わたし)は興(けう)がなさゝうに椅子(いす)を離(はな)れた。
「まあ、お宜(よろ)しい[#「お宜しい」は底本では「お宣しい」]ぢやございませんか。」
「いや、もう遅(おそ)いですから。」
「I子(こ)さんがお待(ま)ちになつていらつしやいますの。お呼(よ)びになつたら可(い)いぢやございませんか。」
「そんな訳(わけ)でもないんです。では失礼(しつれい)――。」
 M、H氏(し)夫人(ふじん)が出口(でくち)まで送(おく)つてくれて、自動車(じどうしや)に載(の)せてくれたりした。
 私(わたし)は途中(とちう)I子(こ)の宿(やど)の近(ちか)くで自動車(じどうしや)を乗棄(のりす)てた。そしてI子(こ)の宿(やど)へ寄(よ)つた。I子(こ)は洋服姿(ようふくすがた)で独(ひと)りでゐた。
「お帰(かえ)んなさい。づいぶん遅(おそ)かつたぢやありませんか。」
「ちよつとホテルへ寄(よ)つたものだから。ホテルは今夜(こんや)も大変(たいへん)な騒(さわ)ぎさ。」
「さう。今夜(こんや)の会合(かいごう)は何(ど)んな人達(ひとたち)でしたの。」
 私(わたし)はその事(こと)について、少(すこ)し話(はな)した。そして其(そ)のついでにS、H氏(し)の言(い)つたことをも話(はな)した。
「あゝ言(い)つておいたから、一人(り)で行(ゆ)くといゝ。何(なん)ならS青年(せいねん)でもつれてね、S、H氏(し)は君(きみ)に興味(けうみ)をもつてゐるかも知(し)れないから、話(はな)してくれるだらう。」私(わたし)は少(すこ)し誇張(こてう)して言(い)つた。
「そんなことないわ。貴方(あなた)の言(い)ひ方(かた)がいけないのよ。どう言(い)つたのよ?」
「どうつて、行(い)きたがつてゐると……」
「それだから可(い)けないのさ。」
 寝床(ねとこ)についてからも、また其(そ)の話(はなし)が出(で)た。
「君(きみ)ならきつと、興味(けうみ)をもたれると思(おも)ふね。」
「そんな事(こと)ないわ。私(わたし)は奥(おく)さんと話(はな)してこようとおもふ。」I子(こ)は言(い)つてたが、私(わたし)の胸(むね)にうづまつた彼女(かのじよ)の顔(かお)には、自然(ひとりで)に善良(ぜんれう)な微笑(びせう)が浮(う)かんでゐるのを、私(わたし)は感(かん)じない訳(わけ)に行(い)かなかつた。
(昭和3年1月19日〜25日「時事新報」)
了

底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
   1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「時事新報」
   1928(昭和3)年1月19日〜25日
初出:「時事新報」
   1928(昭和3)年1月19日〜25日
※「SH氏」と「S、H氏」、「MH氏」と「M、H氏」、「MK氏」と「M、K氏」、「I子」と「LI子」の混在は、底本通りです。
※「私」に対するルビの「わたし」と「わたくし」、「卓子」に対するルビの「てーぶる」と「たくし」、「繰返」に対するルビの「くりかへ」と「くりかえ」、「段々」に対するルビの「だん/\」と「だん/″\」の混在は、底本通りです。
※主人公の「彼」と「私」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※「皆な」、「謙(けん)遜の」、「慵い」にルビがないのは、底本通りです。
※作中を通して一度しか出てこない人名「MR氏」は「MH氏」の誤植が疑われるためママ注記しました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年1月27日作成
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