あらすじ
若き作家・大久保とその内縁の妻・奈美子の周囲には、奇妙な出来事が次々と起こります。奈美子の姉が突如現れ、大久保の異常な行動を訴え、竹村は二人の関係に違和感を抱きます。大久保は海外留学を装い、奈美子を連れて上京しますが、その行動はますます奇妙さを増し、竹村は二人の運命を案じます。やがて大久保は奈美子を置き去りに海外へと旅立ちますが、竹村はその後も二人の関係に心を痛めることになります。
 彼女(かのぢよ)の姉(あね)だといふ人(ひと)が、或(あ)る日(ひ)突然(とつぜん)竹村(たけむら)を訪(たづ)ねて来(き)た。
 竹村(たけむら)には思(おも)ひがけない事(こと)であつたが、しかし彼女(かのぢよ)に若(も)し姉(あね)とか兄(あに)とかいふ近親(きんしん)の人(ひと)があるなら、その誰(たれ)かゞ彼(かれ)を訪(たづ)ねてくるのに不思議(ふしぎ)はない筈(はず)であつた。それほど「彼女(かのぢよ)」は不幸(ふかう)な位置(ゐち)に立(た)たせられてゐた。
 彼女(かのぢよ)といふのは、竹村(たけむら)の若(わか)い友人(いうじん)大久保(おほくぼ)の細君(さいくん)奈美子(なみこ)のことであつた。或(ある)ひは世間(せけん)で言(い)ふ内縁(ないえん)の妻(つま)と言(い)つた方(はう)[#ルビの「はう」は底本では「ほう」]が適当(てきたう)かも知(し)れなかつたが、大久保(おほくぼ)の話(はな)すところによると、奈美子(なみこ)は彼(かれ)の作品(さくひん)の愛読者(あいどくしや)の一人(ひとり)で、また彼(かれ)の憧憬(どうけい)する若(わか)い女性(ぢよせい)の一人(ひとり)であつたところから、手紙(てがみ)の往復(わうふく)によつて、さうした恋愛(れんあい)が成立(せいりつ)したらしいのであつた。竹村(たけむら)はその事(こと)について、その当時(たうじ)別(べつ)に批評(ひひやう)がましい意見(いけん)をもたうとは思(おも)はなかつたけれど、ずつと後(のち)になつて振返(ふりかへ)つてみると、彼女(かのぢよ)は彼(かれ)の作品(さくひん)と実際(じつさい)の手紙(てがみ)によつて、不運(ふうん)にも彼(かれ)に誘惑(いうわく)された気(き)の毒(どく)な女(をんな)だとも思(おも)へるのであつたが、しかし恋愛(れんあい)の成立(せいりつ)については、彼(かれ)も詳(くは)しい事(こと)は知(し)らなかつた。
 但(たゞ)し同棲後(どうせいご)の彼女(かのぢよ)は、決(けつ)して幸福(かうふく)ではなかつた。恐(おそ)らく彼女(かのぢよ)もさう云(い)ふ運命(うんめい)を掴(つか)まうと思(おも)つて、彼(かれ)のところへ来(き)たのではなかつたであらう。彼(かれ)の作品(さくひん)と彼(かれ)の盛名(せいめい)と彼(かれ)の手紙(てがみ)、乃至(ないし)は写真(しやしん)のやうなものから想像(さうざう)された年少作家(ねんせうさくか)大久保(おほくぼ)が、何(ど)んなに美(うつく)しい幻影(げんえい)と憧憬心(あこがれごころ)の多(おほ)い彼女(かのぢよ)の情熱(じやうねつ)を唆(そゝ)つたかは、竹村(たけむら)にも大凡(おほよ)そ想像(さうざう)ができるのであつた。勿論(もちろん)大久保(おほくぼ)にも詩人(しじん)らしい空想(くうさう)があつた。若(わか)い女性(ぢよせい)に対(たい)して、純(じゆん)な感情(かんじやう)ももつてゐたから、誘惑(いうわく)と言(い)ふのは当(あた)らないかも知(し)れなかつたけれど、色々(いろ/\)の条件(でうけん)と、同棲生活(どうせいせいくわつ)の結果(けつくわ)から見(み)ると、彼(かれ)の本能(ほんのう)が、一人(ひとり)のその若(わか)い女性(ぢよせい)にさういふ風(ふう)に働(はた)らきかけて行(い)つたのは事実(じじつ)であつた。
 一番(ばん)「彼女(かのぢよ)」を不幸(ふかう)[#ルビの「ふかう」は底本では「ふこう」]にしたことは、彼(かれ)の性格(せいかく)が普通社会人(ふつうしやくわいじん)として適当(てきたう)[#ルビの「てきたう」は底本では「てきとう」]な平衡(へいかう)を保(たも)つてゐないことであつた。無論(むろん)こんな仕事(しごと)へ入(はい)つてくる人(ひと)のなかには、性格(せいかく)の平衡(へいかう)と調和(てうわ)の取(と)れない人(ひと)も偶(たま)にはあつた。世間(せけん)から見(み)ては、病的(びやうてき)な頭脳(づのう)や狂人(きちがひ)じみた気質(きしつ)の人(ひと)もないことはなかつた。竹村自身(たけむらじしん)にしたところで、この点(てん)では、余(あま)り自信(じしん)のもてる方(はう)ではなかつた。勿論(もちろん)彼(かれ)の仲間(なかま)だけが特(こと)にさうだとは言(い)へなかつた。見渡(みわた)したところ、人間(にんげん)は皆(みん)な一(ひと)つ/\の不完全(ふくわんぜん)な砕片(かけら)であるのに、不思議(ふしぎ)はない筈(はず)であつた。
 しかし大久保(おほくぼ)の場合(ばあひ)は、その欠陥(けつかん)が少(すこ)し目(め)に立(た)ちすぎた。彼(かれ)は或(あ)る意味(いみ)では誇大妄想狂(こだいまうさうきやう)であつたが、或(あ)る意味(いみ)ではまた病的天才(びやうてきてんさい)とでも言(い)ふべき種類(しゆるゐ)のものであつた。病理学者(びやうりがくしや)や心理学者(しんりがくしや)でない竹村(たけむら)には、組織立(そしきだ)つてそれを説明(せつめい)することは困難(こんなん)であつたが、とにかく奈美子(なみこ)に対(たい)してふるまうた彼(かれ)の色々(いろ/\)の行為(かうゐ)だけでは、彼(かれ)もまた一種(しゆ)の変態性慾者(へんたいせいよくしや)だと思(おも)はれた。
 竹村(たけむら)が初(はじ)めて奈美子(なみこ)を見(み)たのは、ちやうど三月(みつき)ほど前(まへ)の秋(あき)の頃(ころ)であつた。彼(かれ)はしばらく奈美子(なみこ)と同棲(どうせい)してゐた郷里(きやうり)の世帯(しよたい)をたゝんで、外国(ぐわいこく)へわたる準備(じゆんび)を整(とゝの)へるために、その時(とき)二人(ふたり)で上京(じやうきやう)して、竹村(たけむら)の近(ちか)くに宿(やど)を取(と)つてゐた。彼(かれ)は何(なん)となくいら/\してゐた。彼(かれ)は最初(さいしよ)に博(はく)し得(え)た人気(にんき)が、その頃(ころ)やゝ下火(したび)になりかけてゐるのに気(き)がついてゐた。彼(かれ)の処女作(しよぢよさく)が市場(しぢやう)に出(で)たとき、まだ年(とし)の少(すくな)いこの天才(てんさい)の出現(しゆつげん)に驚(おどろ)かされて、集(あつ)まつて来(き)た多(おほ)くの青年(せいねん)も、そろ/\彼(かれ)の実質(じつしつ)が疑(うたが)はれて来(き)たやうに、二人(ふたり)去(さ)り三人(にん)離(はな)れして、輝(かゞや)かしかつた彼(かれ)の文壇的運命(ぶんだんてきうんめい)が、漸(やうや)くかげりかけようとしてゐたところで、彼(かれ)もちよつと行(ゆ)きづまつた形(かたち)であつた。彼(かれ)はじつとしてゐられなかつた。失(うしな)はれようとする人気(にんき)を取返(とりか)へさうとして、彼(かれ)は更(さ)らに世界的(せかいてき)に自己(じこ)を宣伝(せんでん)して、圧倒的(あつたうてき)に名声(めいせい)を盛返(もりか)へさうと考(かんが)へた。
「三年(ね)ばかりあちらで学校(がくかう)へ入(はい)りたまへ。そしてみつちり勉強(べんきやう)して来(き)た方(はう)がいゝね。」竹村(たけむら)はさう言(い)つて、作家(さくか)としてよりも、寧(むし)ろもつと広(ひろ)い意味(いみ)の修業(しゆげふ)を彼(かれ)に要望(えうばう)した。政治学(せいぢがく)とか社会学(しやくわいがく)とか、さう言(い)つた意味(いみ)での修養(しうやう)が、むしろ彼(かれ)に新(あたら)しい広(ひろ)い道(みち)を開(ひら)いてくれるだらうと思(おも)つた。彼(かれ)の特異(とくい)な恋愛病(れんあいびやう)が、作品(さくひん)の重(おも)なる要素(えうそ)であることが、後(のち)になつて竹村(たけむら)にもわかつた。余(あま)り大(おほ)きかつた文壇的名声(ぶんだんてきめいせい)に囚(とら)はれてゐたことも分明(はつきり)して来(き)た。勿論(もちろん)学窓(がくそう)などに落着(おちつ)いてはゐられなかつた。事(こと)によると、彼(かれ)は世間(せけん)が思(おも)つてゐるほど、経済的(けいざいてき)に恵(めぐ)まれてゐなかつたのかも知(し)れなかつた。そしてその方(はう)が寧(むし)ろより多(おほ)く、彼(かれ)をあせらせてゐたかも知(し)れなかつた。
「僕(ぼく)はね竹村氏(たけむらし)、決(けつ)して悲観(ひくわん)して洋行(やうかう)するんぢやないんですよ。」彼(かれ)は弁護(べんご)した。
「誰某(たれそれ)の輩(はい)が、行詰(ゆきづま)つた果(は)てに、箔(はく)をつけに行(ゆ)くのと、同(おな)じだと思(おも)はれると、大変(たいへん)な間違(まちが)ひなんだ。」
 一緒(しよ)に飯(めし)なぞ食(た)べると、彼(かれ)はいつでも心(こゝろ)の空虚(くうきよ)を訴(うつた)へるやうな調子(てうし)でありながら、さう言(い)つて寂(さび)しい顔(かほ)に興奮(こうふん)の色(いろ)を浮(うか)べてゐた。
 奈美子(なみこ)は普通(ふつう)の学校出(がくかうで)の文学好(ぶんがくず)きな女(をんな)であつた。大久保(おほくぼ)から見(み)せられた彼女(かのぢよ)の手紙(てがみ)によると、彼女(かのぢよ)がしをらしくも彼(かれ)の愛(あい)に縋(すが)らうとしてゐる気持(きもち)が、偽(いつは)りなく露出(ろしゆつ)してゐたが、今(いま)彼(かれ)につれられて目(め)の前(まへ)に現(あら)はれた彼女(かのぢよ)を見(み)ると、まるで狂暴(きやうばう)な鷲(わし)の前(まへ)にすゑられた小鳥(ことり)のやうに、おとなしく小(ちひ)さくなつてゐた。ふとした拍子(ひやうし)に、縁側(ゑんがは)の障子(しやうじ)の硝子戸(ガラスど)ごしに見(み)えた竹村(たけむら)の幼児(えうじ)に、奈美子(なみこ)はふと微笑(ほゝゑ)みかけた。
 大久保(おほくぼ)はちらとそれを見(み)ると、いきなり険悪(けんあく)な目(め)をして、「ちよツ」と苛々(いら/\)しげに舌(した)うちしながら、拳(こぶし)をかためて、彼女(かのぢよ)の鼻梁(はなばしら)を火(ひ)が出(で)たかと思(おも)ふほど撲(なぐ)りつけた。奈美子(なみこ)は目(め)を潤(うる)ませて、悲(かな)しげにうつむいた。
「何(なん)だつてそんな真似(まね)をするんだ。」竹村(たけむら)はたしなめた。
 大久保(おほくぼ)は冷笑(あざわら)つた。
「こいつがいけないんだ。こんなものは是(これ)で沢山(たくさん)だ。」
 竹村(たけむら)は呆(あき)れてしまつた。彼(かれ)は郷里(きやうり)の新聞(しんぶん)で、大久保(おほくぼ)が奈美子(なみこ)を虐待(ぎやくたい)して、警察(けいさつ)を煩(わづら)はしたなぞの噂(うはさ)を耳(みゝ)にしてゐたが、それも強(あなが)ち新聞記者(しんぶんきしや)の誇張(こちやう)でもなかつたやうに思(おも)へた。
 その後(ご)大久保(おほくぼ)の言(い)ふところによると、彼女(かのぢよ)はその兄(あに)と肉的関係(にくてきくわんけい)があるといふのであつた。そしてその因果(いんぐわ)な報(むく)いを彼(かれ)のところへ持込(もちこ)んで来(き)たといふのであつたが、竹村(たけむら)には信(しん)じられなかつた。彼(かれ)はその姉(あね)の訪問(はうもん)によつて、その身柄(みがら)や教養(けうやう)の程度(ていど)を、ほゞ推察(すゐさつ)することが出来(でき)た。
 今(いま)竹村(たけむら)はその姉(あね)に初(はじ)めて逢(あ)つたのであつた。
 姉(あね)は小柄(こがら)の、美(うつく)しい愛(あい)らしい体(からだ)と顔(かほ)の持主(もちぬし)であつた。嫻(みやび)やかな落着(おちつ)いた態度(たいど)や言語(げんご)が、地方(ちはう)の物持(ものもち)の深窓(しんそう)に人(ひと)となつた処女(しよぢよ)らしい感(かん)じを、竹村(たけむら)に与(あた)へた。趣味(しゆみ)の高雅(かうが)な、服装(ふくさう)だけでも、十分(ぶん)それが証明(しようめい)された。その妹(いもうと)の奈美子(なみこ)が、何(ど)うして大久保(おほくぼ)のところへ身(み)を寄(よ)せるやうになつたかは、何(ど)う考(かんが)へてみても、竹村(たけむら)にはわからなかつた。奈美子(なみこ)にいくらか暗(くら)い影(かげ)があるやうにも思(おも)へたが、また全(まつた)く純真(じゆんしん)であるやうにも思(おも)へた。
「あいつは己(おれ)の財産(ざいさん)に惹着(ひきつ)けられてゐるんだ。」大久保(おほくぼ)はいつかさう言(い)つてゐたけれど、竹村(たけむら)には其意味(そのいみ)が全然(ぜんぜん)不可解(ふかかい)であつた。
「大久保(おほくぼ)のことを、少(すこ)し先生(せんせい)にお伺(うかが)ひしたいと存(ぞん)じまして、お邪魔(じやま)に出(で)ましてございますが、先生(せんせい)には何(なに)もかもお解(わか)りでせうと思(おも)ひますけれど。」姉(あね)はさう云(い)ふ風(ふう)に言(い)ふのであつた。
「まあ、大概(たいがい)のことは判(わか)つてゐるつもりですが、貴女(あなた)の側(がは)からなら、大久保(おほくぼ)の生活(せいくわつ)がいつそ詳(くは)しく判(わか)つてゐる筈(はず)ぢやないですか。」
 彼女(かのぢよ)の口(くち)の利(き)き方(かた)は、少(すこ)し内気(うちき)すぎるほど弱々(よわ/\)しかつた。そしてそれについて、別(べつ)にはつきりした返事(へんじ)を与(あた)へなかつたが、わざと遠慮(ゑんりよ)してゐるやうにも見(み)えた。
「私(わたくし)にも説明(せつめい)のしやうがないんです。聞(き)くところでは、宿(やど)でも問題(もんだい)になつてゐるらしいんです。この頃(ころ)外(そと)へ出(で)れば、きつと連(つ)れてあるいてゐますが、宿(やど)でも少(すこ)しも目(め)を放(はな)さないやうです。虐待(ぎやくたい)はずゐぶん酷(ひど)いやうです。或晩(あるばん)なぞ、鉄瓶(てつびん)の煮湯(にえゆ)をぶつかけて、首(くび)のあたりへ火焦(やけど)をさしたんでせう。さすがに驚(おどろ)いて、私(わたし)のところへやつて来(き)たんです。打(ぶ)つたり蹴(け)つたりするのは、始終(しじう)のことでせう。私(わたし)も言(い)つても見(み)ましたけれど、頭脳(あたま)が普通(ふつう)ぢやないやうです。お兄(あに)さんもお有(あ)りのやうですが、何(ど)うしてあれを傍観(ばうくわん)してゐらつしやるのかと、寧(むし)ろ不思議(ふしぎ)に思(おも)つてゐるくらゐです。」
「それも考(かんが)へてをりますけれど、あんな方(かた)ですから、問題(もんだい)にするには、表沙汰(おもてざた)にするより外(ほか)ございません。さうすれば自然(しぜん)あの方(かた)のお名前(なまへ)にも傷(きず)のつくことでございますから、船(ふね)にお乗(の)りになるまで、我慢(がまん)してゐた方(はう)が、双方(さうはう)の利益(りえき)だらうと、兄(あに)もさう申(まう)しますものですから。」
 竹村(たけむら)はその温順(おとな)しさと寛容(くわんよう)なのに面喰(めんくら)はされてしまつた。彼女(かのぢよ)の軟(やはら)かで洗煉(せんれん)された調子(てうし)から受取(うけと)られる感情(かんじやう)で見(み)ると、しかし其(そ)の考(かんが)へ方(かた)が、極(きは)めて自然(しぜん)に見(み)えるのであつた。
「まさかあれ以上(いじやう)兇暴(きようばう)な真似(まね)もできないでせうと思(おも)ひますが……。」
「さうですか。貴方(あなた)がたがさう云(い)ふ目(め)で見(み)てゐられるとすれば、大久保(おほくぼ)に取(と)つても幸福(かうふく)です。お妹(いもうと)さんがじつと我慢(がまん)してゐられるのも、なか/\だと思(おも)ひますね。」
「妹(いもうと)も一度(ど)逃(に)げだしたんですけれど、やつぱり掴(つか)まつてしまひました。ちやうど大森(おほもり)の鉱泉宿(くわうせんやど)へつれられて行(い)つたときのことでした。あの人(ひと)が一(ひ)と足先(あしさ)きへお風呂(ふろ)に行(い)つた隙(すき)を見(み)て、足袋跣足(たびはだし)で飛出(とびだ)したんださうでございますの。それで駈出(かけだ)して、車(くるま)でステーションまで来(き)て、私(わたくし)のところへ逃(に)げこんでまゐりました。その時(とき)もずゐぶん酷(ひど)い目(め)にあはされたらしうございます。妹(いもうと)も自分(じぶん)のした事(こと)でございますから、余(あま)り露骨(ろこつ)には申(まう)しませんですけれど、駈(か)けこんでまゐりました時(とき)の、顔(かほ)の色(いろ)といふのはございませんでした。息(いき)も切(き)れさうに弱(よわ)つてをりました。お話(はなし)は後(あと)でするから、少(すこ)し寝(ね)かしてくれと申(まう)しますので、そつとしておきました。
 すると間(ま)もなく大久保(おほくぼ)が自動車(じどうしや)で乗(の)りつけてまゐつたんでございますの。いきなりづか/\と上(あが)り込(こ)みまして、妹(いもうと)も引起(ひきおこ)して、まあ何(なん)とか彼(か)とか言(い)つて、また連(つ)れ出(だ)してしまひまして……。何(なに)しろちよつとの隙(すき)も与(あた)へませんものですから。或(あ)る時(とき)は、警察(けいさつ)へ飛込(とびこ)んでもみたさうですけれど、大久保(おほくぼ)さんの仰(おつし)やることが、やはり真実(しんじつ)らしく聞(きこ)えたものでせうか、その時(とき)も連(つ)れ戻(もど)されてしまひました。」
「何(なに)しろ腕力(わんりよく)があるから敵(かな)ひませんね。それに兇器(きようき)ももつてゐるやうです。洋行(やうかう)するときの護身用(ごしんよう)にと買(か)つたものです。一緒(しよ)にあるいてゐると、途中(とちう)時々(とき/″\)ぬかれるんでね。あの目(め)も無気味(ぶきみ)です。宅(たく)へくれば、お妹(いもうと)さんは大抵(たいてい)の場合(ばあひ)、玄関外(げんくわんそと)に立(た)たしておくやうです。家内(かない)もいくらかお話(はなし)を伺(うかゞ)つてるさうですが、うつかりした事(こと)を言(い)へば、祟(たゝ)りがおそろしいんでせう、余(あま)り口(くち)は利(き)かれないさうで。」
 竹村(たけむら)もそれ以上(いじやう)聞(き)きも詰(なじ)りもしたくなかつた。彼女(かのぢよ)も大抵(たいてい)様子(やうす)がわかつたらしかつた。

 大久保(おほくぼ)が出発(しゆつぱつ)してから間(ま)もなく、彼女(かのぢよ)がまたやつて来(き)た。その顔(かほ)は目(め)に立(た)つて明(あか)るくなつてゐた。話(はなし)も前(まへ)よりははき/\してゐた。
 竹村(たけむら)は大久保(おほくぼ)が出発前(しゆつぱつぜん)に奈美子(なみこ)をつれこんでゐた下町(したまち)の旅館(りよくわん)で――それにも多少(たせう)の宣伝的意味(せんでんてきいみ)があつたが、そこで或(あ)る夜(よ)なかに、鞘(さや)ごと短刀(たんたう)で奈美子(なみこ)の脊中(せなか)を打(う)つたなぞの話(はなし)を、その時(とき)彼女(かのぢよ)から聞(き)いた。鞘(さや)が割(わ)れて、刃(は)が肉(にく)を切(き)つたといふのであつた。
「幸(さいは)ひに大(たい)したことはございませんでしたけれど。」彼女(かのぢよ)は内輪(うちわ)に話(はな)すのであつた。
 大久保(おほくぼ)が、奈美子(なみこ)の美(うつく)しい髪(かみ)を、剃刀(かみそり)や鋏(はさみ)でぢよき/\根元(ねもと)から全(まつた)く切(き)り取(と)つてしまつたことは、大分(だいぶ)たつてから知(し)つた。奈美子(なみこ)は白(しろ)い布(きれ)で頭(あたま)をくる/\捲(ま)いて、寂(さび)しい彼(かれ)の送別(そうべつ)の席(せき)につれ出(だ)されて、別室(べつしつ)に待(ま)たされてゐたことなぞも、仲間(なかま)の話柄(わへい)に残(のこ)された。
 竹村(たけむら)はその時(とき)姉(あね)なる彼女(かのぢよ)の身(み)のうへを、少(すこ)しきいてみた。彼女(かのぢよ)は東京(とうきやう)の親類(しんるゐ)に身(み)を寄(よ)せて、女学校(ぢよがくかう)を出(で)てから、語学(ごがく)か音楽(おんがく)かを研究(けんきう)してゐるらしかつた。大久保(おほくぼ)がベヱトベンのシムホニーなぞのレコードを買(か)つたのも、奈美子(なみこ)が音楽好(おんがくず)きだからであつた。
 竹村(たけむら)は一年(ねん)たつかたゝないうちに、大久保(おほくぼ)の帰(かへ)つて来(き)たのに失望(しつばう)したが、大久保(おほくぼ)の帰朝(きてう)の寂(さび)しかつたことも、少(すく)なからず彼(かれ)を傷(いた)ましめた。大久保(おほくぼ)は出発前(しゆつぱつぜん)よりも一層(そう)あせつてゐたが、先(ま)づ訪(おとづ)れたのは、やはり竹村(たけむら)であつた。彼(かれ)はロンドン仕立(じたて)の脊広(せびろ)を着(き)こんでゐただけで、一年(ねん)前(まへ)の彼(かれ)と少(すこ)しも変(かは)つたところはなかつた。しかし彼(かれ)の言葉(ことば)には傾聴(けいちやう)すべき事(こと)も少(すくな)くはなかつた。
 驚(おどろ)いたことには、虎(とら)の子(こ)のやうに大切(たいせつ)にしてゐるウェルスの手紙(てがみ)など入(い)れた折鞄(をりかばん)のなかから、黒髪(くろかみ)の一(ひ)と束(たば)と短刀(たんたう)とが、紙(かみ)にくるんで、紐(ひも)で結(いは)へられたまゝ、竹村(たけむら)の前(まへ)に引出(ひきだ)されたことであつた。
「何(なん)だい、そんな物(もの)まで持(も)ちあるいてゐたのか。」
「これも今(いま)となつてみれば、何(な)んでもない。船(ふね)から海(うみ)へ棄(す)てようかと思(おも)つたけれど、到頭(たうとう)また日本(にほん)へ持(も)つて帰(かへ)つた。」
 大久保(おほくぼ)はさう言(い)つて、笑(わら)つてゐた。
 竹村(たけむら)と奈美子(なみこ)との交渉(かうせふ)もそれきりであつた。一度(ど)遊(あそ)びに来(く)るやうにと、竹村(たけむら)はくれ/″\も勧(すゝ)められた。そして田舎(ゐなか)へ帰(かへ)つてから、慇懃(いんぎん)な礼状(れいじやう)も受取(うけと)つたのであつたが、無精(ぶしやう)な竹村(たけむら)は返事(へんじ)を出(だ)しそびれて、それ限(き)りになつてしまつた。
「とにかくあの人達(ひとたち)の仕方(しかた)は賢(かしこ)かつた。」彼(かれ)は時々(とき/″\)思(おも)つた。大久保(おほくぼ)のやうな稚気(ちき)の多(おほ)い狂人(きちがひ)を相手取(あいてど)ることに、何(なん)の意味(いみ)のあらう筈(はず)もなかつた。
(大正14年7月「婦人の国」)
了

底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
   1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「婦人の國 第一卷第三號」新潮社
   1925(大正14)年7月1日発行
初出:「婦人の國 第一卷第三號」新潮社
   1925(大正14)年7月1日発行
※表題は底本では、「彼女(かのぢよ)の周囲(しうゐ)」となっています。
※「狂暴(きやうばう)」と「兇暴(きようばう)」、「其(その)」と「其(そ)の」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年1月28日作成
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