それは四月なかばの、とある朝のことでありました。涼やかな軟風にさざなみを立てている不忍池畔の池添い道を、鉄色無地の羽二重の着流し姿に、橘の加賀紋をつけた黒い短か羽織茶色の帯に、蝋塗細身の大小の落し差し、編笠にかくれた面立は解りませぬが、年のころは三十あまりと思われるのが、只一人、供もつれず、物思いがちにブラリブラリと逍遙っておりました。
つい先達まで、寛永寺畔一帯に擾れ咲いていた桜は、もはや名残もなく散り果てて、岡のべの新緑は斜めに差すあざやかな光に、物なやましく映え渡り、木の間がくれに輝やいている大僧坊の金碧が、蓮の浮葉のいまだしげに浮んだ池の汀に映っているありさまは、ほんに江戸名所、東錦絵のはじめを飾るにふさわしい風情と見えるのです。
けれども件の侍は、あたりの眺めに心をひかれるさまもなく、思いありげなふところ手で、肩を落して、なぎさを北へと辿ってゆきます。
此の侍、いかなる身元かと言うと、当時時めく名医、典薬左井黙庵の次子、不二之進、代々の医業を嫌って、菱川派の流れを汲んだ浮世絵ぶりに大名を馳せ、雅号を露月と名乗って、程近い徒士町辺に閑居を構え、数寄風流の道に遊んでいるものでありました。
この露月の、萎れ屈している逍遙に、満更理由のないわけでもありませぬ。遅れ咲きの八重ざくらが、爛漫として匂う弥生のおわり頃、最愛の弟子君川文吾という美少人を失って、悲歎やるせなく、この頃は丹青の能をすら忘れたように、香を拈じて物を思い、物を思うに疲れては、あてもない散策に、惜しむも甲斐のない死別の哀愁を、振り捨てようとするのでありました。
うなだれ屈んだ露月のすがたが、恰度池の西北の、榊原屋敷に沿うた曲浦のあたりにさしかかった頃でした。折しも湯島台から、近道を、上野山内へと急ぐ人と見えて、大なし絆纒、奴姿の僕を供につれた若衆ひとりと、袖擦り合わんばかりに行き違ったのであります。
哀愁にとざされた露月は、行き違うまで、その人の姿にも気がつかなかったのでしたが、ふと、鼻を撲つ好もしい香りに、編笠をかかげて見返えりますと、僕の肩にかたげられたは、今剪り前ての園咲の白つつじが、白く涼しく匂っているのです。
――床しい荷をになった下郎じゃ。そもどのような風雅の主じを持っているのか? と、何ごころなく眺めやった露月の瞳に、はじめて例の若衆ぶりが、突如として花のように映じたのであります。
嫋々として女の如く、少し抜いた雪のえり足、濡羽いろの黒髪つやつやしく、物ごし柔しくしずしずと練ってゆく蓮歩!
かのすがたを一瞥した時、露月はまるで物に打たれたもののように、ハッとして歩みを止めてしまいました。
――なぜと言えば、この人の後すがたなら、肩つきなら、歩みぶりなら、あの亡き文吾に、そっくりそのままのすがたではありませんか!
――心の迷いか?
露月は編笠に手をかけたまま、我れを忘れてうっとりしておりました。
が、よく見ればよく見るほど、わが亡き人と瓜二つのすがたなのに、露月は今は我れにもあらず、只ひと目、あでなる君のかんばせを見まほしいものよと、思い切ってあとをつけはじめたのであります。
池北のなざさを東へと、何も知らずに、気も軽く、歩みも軽く急ぐ若衆は、やがて山内へはいって行こうとします。
後を慕って此処まで来た露月、一度はまともに逢って言葉がかわしたさに、もう世の常の作法も忘れ、思わず声をかけてしまいました。
「あいや、それなる御少人、無礼ではござれど、ちと御意を得申したい」
若衆は不意に呼び止められて、いくらかびッくりしたようでありました。が、取り乱しもせず、しずかに振り向いて立ち止まります。
――袴下から袖へかけて石持模様を白く置いて黒羽二重に、朱色の下着、茶宇の袴に黄金づくりの大小を華美やかに帯び、小桜を抜いた淡緑の革足袋に、草履の爪先もつつましく小腰をかがめました。
「これは、何ぞ御用でございますか?」
露月は相手の顔を、半ば揚げた編笠の間から眺めて、我れにもなくゾッとしたのであります!
紫元結で結い上げた、艶々しい若衆髷の、たわわな鬢の黒髪は、こころもち風で乱れて、夢見るような瞳は夜の華か! 丹花の唇はほのかに綻び、ふっくら丸い顎の下に、小娘のように咽喉元が、襟と浅黄と美くしくなずんで、柔しく前にかさねた手の、その爪はずれのものなつかしさ!
年の頃は、まだ咲きも盛らぬ十六七!
それは、亡き文吾が持っていた、あの美しさ、あのあでやかさ、あの物やさしさの比ではありませんでした。
――オオ、此の世には、こんな美くしい青年もいるものか!
露月はいまはあんなに恋いこがれていた亡き文吾のことさえ忘れて、ただもうこの初めて相見た少人の美にひきつけられ、不思議な感動に酔い溺れるのでした。
が、いぶかしそうな相手のまなざしに、編笠をぬいで腰をかがめ、
「ぶしつけの段はお許しが願い度う厶る。拙者は間近かなあたりに住居いたし、いささか丹青の通にあそぶ、露月と申すものでござるが、お供の衆にお持たせなされた、白つつじの美くしさに、もしや一枝お恵みがうけられる事もやと、ついわれ知らずお呼び止め申した次第で御座る」
「それはそれは」
と、少人も露月をつくづく眺めて、
「不思議の折を得て、はじめて御意を得まする。御高名はとうに承っておりました。私ことは湯島の台にいささか学者の名のありました鳥谷正一が一子呉羽之介、只今父を失いまして、師とたのむ等覚院の老師にまで、御機嫌伺いの途中でございます。家を出がけに、眺めた庭のつつじ、一人ながめにはいとおしく、一枝切らせて師の君にお目にかけようと存じます折柄、はからず先生の御所望をうけ、いかばかりか嬉しゅうございます。之れ、次平、枝ぶりよきをえらんで差し上げなさい」
若衆鳥谷呉羽之介は、わるびれもせず名乗りをすまして、さて、若党にかつがせた枝どもの中から、雪白に咲きみだれた一枝をえらみ出し、みずから露月に薦めるのでありました。
露月はうれしくそれを受けて、
「さてはお手前は鳥谷先生のおわすれがたみでござったか。老先生とは御存生の折、そこここの雅会でお目にかかったこともござったが――」
と、ひとしお思い出深かげに、
「拙者の住居は徒士町一丁目、あのあたりにて露月庵とおたずねになれば解るでござろう。これを御縁に、ちと御来歩下されば、有難いことでござるが――」
「辱けのう存じます。いずれ近日暇を得まして、御高教を煩わしたく、かたがた御機嫌伺いに上るでございましょう」
「此の方よりも今日の、此の御無礼をば詑びがてら、大先生の御遺筆なぞ拝見いたしに、参邸のお許しを得とう厶る」
「よろこんでお待ちいたしまする。何卒この後はお心置きなく――では、師の坊までまいる途中、今日はこれで失礼いたしまする」
「はなはだ御無礼仕ッた。御機嫌よう行かせられい」
――二人は別れました。
しかし露月はその場にたたずんで、世にも美くしい呉羽之介の若衆姿に、いつまでもながめ入っているのでありました。
やがて、相手の後すがたが見えなくなると、はじめてホッと吐息をして、元来た方へ帰るのでした。
緑蔭にほの白く匂う空木の花もすでに朽ち、さすや軒端のあやめぐさ、男節句の祝い日がすぎて、まだ幾日も経たぬある日のことであります。
下谷徒士町、露月庵を訪れた、一人の客がありました。
折しも庵主の露月は、茶室がかった画室に閑座して、枠張の絖に向い一心に仕上げの筆を運んでいるところだったのです。
「申し上げます、根岸の大戸さまがお見えになりましたが――」
との、取次の言葉には見向きもせず、
「片里どのなら心置きない――客間にお通し申すまでもなく、失礼ながらこれへお連れ申すがよい」
と、気安く言って、自分は尚も絵絹に向っているのでした。
やがて、案内されて廻縁からはいって来た客人――年頃は主じとあまり違わぬ三十何歳、細い髷をすずしく結って、伊達好みの茶壁の着付、袴はわざと穿かずに、無紋紺地の短か羽織を軽く羽織って、もとより親しい仲と見え、閾ぎわに立ったまま、絵筆にいそしむ主じに話しかけるのでした。
「ホ、ホ、これはお仕事の邪魔をしはせなんだかの? あまり日和のよいままに、ついお訪ねをいたしたが、お忙しくば又の日を楽しみに、このままおいとま致そうかな」
恰度その時、画室の主じは仕事のキリが来て、絵ふでを無雑作に放下しながら振り向きました。
「これはこれは片里どの、折よいお訪をうけて、わしも大変うれしいのじゃ。この程久しく打たえておったので、こなたからお訪ねしようとしていた折柄――まず、それへ」
「それならお邪魔いたすとしよう」
片里と呼ばれた客人は、召使のすすめる蒲団に座をしめながら、開けひらいた障子から、しんみりとして、その癖緑が大そうあざやかな庭の面に目をあそばせるのでした。
「いつもながら静かでゆかしいのは、この庵のながめじゃよ。泉水の汀の花あやめもあでやかだが、向うの築山の隈にたった一輪火のように燃えているのは、あまりの好晴に気の狂った早咲きの柘榴と見える――江碧島逾白、山青花欲燃――杜甫の絶句そのままの眺めではないか――風雅の極じゃの」
「兎角近頃の人間は、お抱儒者の邪説に迷い、風雅と言えば淡きをよしとし、気持を酔わせるほど色合の強いものを、俗だなぞとくさすがならいだ。が、唐人ながらさすがに千古の詩人、杜甫などは違ったものじゃ。絵の方とてもその通り、雲谷、狩野の寂びもよかろう、時にはわれわれの筆のあとの、絢爛華美の画風の中にも、気品も雅致もあるのを知ってもよいと思うがな。は、は、は、またしても我田引水じゃ」
露月は延銀のきせるを取りあげて、一服しながら楽しそうに笑いました。
それを片里はつくづくながめて、
「お身の議論も久しぶりじゃ――いつぞや逢うたころには、文吾どのを亡くされた当座で、見る目もいたましく窶れていなされたが――あの時にはこの分では、いつまた絵筆をとられるやらと、実は案じていた位。それだのに、今日の元気は大したものだ――そう言えば、それなる絖は、何ぞ新らしい仕事かナ」
と、首を伸しのべるようにします。
露月は立ち上って、光線の工合のいいように、枠張の絖を置きなおしながら、
「新しいも新しい――まだたった今、あらましこれでよいというところまで画き上げたばかりだ。まだどこやらに足らぬ筆があるようだが、まず、一見してくれられい」
「あ、これは見事な出来栄じゃ」
片里は画面をじッとみつめて、讃歎するように呟きつつ、なおも注視の目を止めないのでした。
――その絵柄は一たいどんなものでしたろう!
いつぞや露月とふとゆきずりに知り合った、あの鳥谷呉羽之介の、艶花にして嫋々とした立ちすがたであったのです。
あの初夏の緑蔭に、浮き出したように見えた。匂やかな若衆すがたは、今、まるで生きているその人のように、生彩奕々として素絹の上にほほえみつつ、その日の思い出を永劫に生かそうとてか、片手にかざした白つつじの花ひと枝――
片里はながめ入りながら、酔ったような目つきをしました。
「お身の画いたものを、これまで随分見て来たが、わしは今日のように心をとろかされたことはない。これは生きているわ。生きて、笑って、招いているようじゃ」
「生きているかな」
と、露月は半ば苦しげな瞳で、自分の作品を研べるように見やりつつ、呟くように低く言うのでした。
「真実生きているはずの絵なのだが――」
「ほんに、すっかり生きている――絵空ごとと世に言って、不可能ものを、作り出すことにたとえるが、若しこのように美くしい、真ものの人間が、たった一人でも此の世にいたなら――」
と、言う片里の言葉を、引取るように露月が言いました。
「ところが、それがいるのだ。天地の生み出すすぐれたものには、矢張り絵描き風情の筆先で、生み出したものなどは、及び難い――片里どの、それなる画面は、決してわしの創り出したものではない。それはこの世に生きているのだ――しかもその若衆に、わしはこのごろ近づきになったばかり――」
「ほほう」
と、片里は驚いて、
「お身の知り人に、こんな美くしい若衆がいるのか、一体それは、どこの何と申すものじゃ?」
「されば、そのものと近づきになったのは――」
露月は親しい片里の前で、先ず卯月の央ばごろ、池水碧くして緑あざやかなる不忍池畔でのめぐり合いを語り、それがえにしとなって、お互に訪問かわすようになり、どうにもしてこの絶世の美の化身を、未来永劫此の世に遺したさに、肖すがたを描こうと思いつき、到頭この一面の肖像をかいたことを話してきかせました。
そして言葉をついで言うには――
「そういう中にも呉羽之介が、おッつけ庵に見えるであろう、今日はこの絵すがたの仕上がる日なれば、あそびがてら出来ばえを見に来ると約束しているのじゃ」
「これはこの上ない歓びだ」
と、片里はほほえましく、
「わしにはどうも此の世の中に、こんなにあでやかな美少年が、生きていようとは思われぬ。若しこの者が、お身の言うように稀代の美男子なら、ぜひどうにもして、わしも近づきになりたいものだ」
と、言う折しも、中庭の、柴折戸があいて、だれかが飛び石づたいにはいって来ました。
その気配に、露月はそちらをながめやって――
「おお、呉羽之介どの――噂をすれば影とやら、只今もそなたの話をしていたところだ」
呉羽之介は縁端にて、しとやかに会釈しました。
「御来客の御容子にゆえ、御遠慮いたしておりましたが、お庭をさまよっておる中にも、お約束のものが、早く見せていただき度く、つい失礼をいたしました」
にこやかに微笑む呉羽之介を、露月はいそいそと招じ上げ、
「来客とは言え、親しい友がき、決して遠慮には及ばねば、まずこれへ上るがよろしい」
そして、生面の二人をひき合せました。
優しい色代をした呉羽之介が、名乗ろうとするのを片里はおさえて、
「御姓名、お身の上、先程露月よりうけたまわりました。是非一度はお目にかかり度いと存じたところ。わしは根岸に住居いたして当時浪々の大戸主水、片里と号する菲才でござる。この後とても露月同様、御懇意にお願いいたす」
「数ならねどもこれを御縁に――」
そして、座が定まると、呉羽之介は露月に向い、
「今日すっかり仕上がるはずの、あのものいかがいたしましたか」
「御覧なされ」
と、露月は床近く立てかけられた絵絹を指し示して、
「今、そなたを前に置き、にすがたに比べながら、ほんの一筆入れればよいのじゃ」
呉羽之介はあどけなく、
「それならすぐにお仕事に、おかかりなされまし、当時名高いあなたのお筆に、私の絵すがたが描かれると聴き、宿の母もしきりに楽しんで待っております。出来上ったら一刻も早く、見せてやりとう存じますれば――」
「さればそのまま片里どのと、何ぞ物語をしていやれ、わしは仕上げの筆を終ろう。片里どの暫時のあいだ御無礼いたすぞ」
露月はそう言って、絵枠に向い、ふたたび絵ふでを動かしはじめました。
「やはり立っておりましょうか?」
と、呉羽之介は画すがたの出来上るのを楽しみに、いそいそと露月にたずねた。
「いいや、顔だけでよいのじゃ、坐ったままでいなさるがよい」
露月はすでに絵絹の上にチョイチョイ筆を加えはじめます。
――明るく皓い初夏の日ざしが、茂り合ったみどり草の網を透して、淡く美しく、庭のもに照り渡り、和らかな光線は浅い檐から部屋の中へも送って来ます。端近く坐った呉羽之介の玉の顔は斜めに光りをうけて、柔しい陰影になやましさを添い、ふっくり取り上げられた若衆まげの鬢のほつれは、粉を吹いたように淡紅としている頬に僅かに乱れ、耳朶の小さく可愛らしいのが、日に透いて、うすら紅い何とも言われぬ美くしさを見せているのでした。
片里は煙草盆を引き寄せて、紫煙をゆるくくゆらせつつ、惚々と呉羽之介を眺めていましたが、やがて感に堪えぬげに言い出すのでした。
「ああ、何という仕合者がこの世にいることか――のう、呉羽之介どの――」
呉羽之介はいぶかしげに、
「仕合者と申しますると――」
「そなたのことじゃ」
と、片里は煙管を叩きながら、
「わしはこれまであらゆる世の中を見て来たつもりだが、まずそなた程の仕合者を、二人と見たことはござらぬ」
「何で私が仕合者でございましょう」
と、呉羽之介は合点せずに、
「父親には夭く死に別れ、頼りの兄弟姉妹もなく、ただ母親ひとりの袂にすがって日を送るものでございます」
「いやさ、そなたはまだ此の世の中を、少しも知らぬ身じゃ程に、自分に天から恵まれた、こよない宝も宝と知らぬ――もしそなたが世界万人、誰れもさずかり得なかった大きな宝を授かっているたった一人の人間だと悟る時には、今に時めく大名より、はばかり多いが将軍家より、百倍すぐれた仕合せ持つ自分だと思いつくであろうが――それを若し今日にも気づかれたら、今迄とは生れ変ったような生々した気持で、明日からの日を送ることが出来るに相違ない」
呉羽之介はなおも不審が晴れないのでした。
「よその誰れもが授からぬとはどういう宝なのでございます」
片里は静かに若衆をながめて、
「その宝はそなたの容貌じゃ、世の万人に立ち越えたその美くしさじゃ、かてて加えてそなたはそのように若いのだからの」
呉羽之介はつまらぬ事をと言ったように、いくらか恥かしげにほほえんで言うのでした。
「私は美くしくもありませぬし――若いと申したところで、だれにも一度はある若かさ――そのようなことが、仕合せとは思われませぬ」
「それゆえそなたは世の中を少しも知らぬと申すのだ」
と、片里はじッと呉羽之介を見て、
「しかし呉羽之介どの、まず考えてごらんなされ。その美くしさとその若さとを大事になされ。そしてその美くしさも、やがて日ごとに衰えて、果敢ないものとなってしまい、遂には通りすがった人々からさえ、哀れな年寄じゃとあわれまれるようになるのを思い合せて、ても美くしい若衆だと、世間渇仰の的となっている、現今の若かさを移ろわぬ間に惜しみなされ、唐人も歌っているとおり――高歌一曲蔽明鏡、昨日少年今白頭――だ。わしなんぞも今はまだ、腰に梓も張らぬものの、やがてはあの庭先で、箒木を取っている下僕のように、ヨボヨボしてしまわねばならぬのじゃ」
呉羽之介は片里が指すままに庭をながめました。青々たる梧桐の下に箒木を手にしている老人は、老い屈んだ腰も重げにうめきながら、みにくい皺で一ぱいになった顔を、日のまぶしさにしかめつつやせ衰えた脛をふんばり、僅かな仕事に汗水を流して、一生懸命にはたらいているのです。
片里はうまず言葉をつぐのでした。
「ほんに羨やましいのはそなたの身じゃ、その美くしさとその若かさとを持っていたら、あらゆる此の世の楽しみ、何ひとつ叶わぬことはない筈だ」
「なにをおなぶりなされます、私なぞは、せめて父親の遺業をつぎ、一かどの儒者として世に立てたらということばかりが望み、しかし、いかに努めても生得の愚根、とんと自分で呆れておりまする」
「ハ、ハ、ハ、呉羽之介どの、学問と言われるか――」
と、片里は辛っぽい笑いを笑いました。
「そのようなものは、額、小鬢の抜け上った、田舎者におまかせなされ、学問武芸――すべてああした粗硬の業は、そなたなぞの行るものではない。孔子は恐らく貧相な不男であったろうし、孫子は薩摩の芋侍のような骨太な強情ものであったであろう――子のたまわくや、矢声掛声は、そなたのかわいい唇から決して洩れてはならぬものじゃ」
「学問武芸を望まぬとしたら、此の世の望みは何でござろう」
と、呉羽之介は、いくらか反抗するように、しかし好奇心に充たされた目つきになってたずねました。
片里はあくまで相手に自説を承認させようとして、
「美くしく、若いそなたの望みとすべき、楽しみ、よろこびのたぐいは、数うるにいとまのないほどじゃ。そなたはまだ気がつかぬかも知れないのう。されど、そなたと袖振り合う女子という女子は、たとえば町家の小娘も、そぞろ歩きの遊びめも、大名高家の姫ぎみも、心からウットリとせずにはいられぬのだ――」
と、言いかけた時、今まで熱心に絵筆をふるっていた露月は急にあとをふり向きました。
「呉羽之介どの、片里どのの言葉ご用心なされ――学は古今に渡り、識百世を貫ぬく底の丈夫なれど何を拗ねてか兎角行も乱れ勝ちな人ゆえ、この人の言うことなぞ信用はなりませぬぞ」
「これはまた聖人どののお叱りか――」
片里は親しい友人の罵倒をかるく笑い消して、
「呉羽之介どの、わしの言葉がいやしいとて、一がいにおさげすみになられぬがよい。とかく世の中では真実のことは蔽いかくされ、虚偽がもてはやされる――しかしながらくれぐれも、わしがそなたに申して置きたいのは、そなたのその美くしさ、その若かさをば大切にして、決して無駄のないようにいたされたがよいと申すことじゃ。世のたとえにも言う通り、三日見ぬ間の桜かな――散ればまだしも、朽ちた花びらが梢に萎れて、浅間しく風雨に打たれて腐ッてゆくさまは、世にも気の毒なものでござる。春夏の壮んな園のながめにも、落葉、凩の秋冬が来る。――花のいろはうつりにけりないたづらに、わが身世にふる眺めせしまに――千古の美人にも、この歎きがあるのじゃ、呉羽之介どの、そなたのその美くしさも、神ならぬ身のとこしなえではない。瞬間に尽きて行く美くしさゆえ大事になされと申すのだ」
呉羽之介は片里の言葉に聴き入りながらに机辺の花瓶の、緋いろに燃える芍薬の強い香りに酔ったような目付になりました。
この時露月は漸やく最後の一刷毛を入れてわれながら、満足したように画面を眺めましたが、やがて疲れ切ったように絵筆をぽんとほうり出して、うめくように呟やきました。
「わしには一生に又と、これよりすぐれたものが描けようとは思われぬ」
「オオ、出来上ったか!」
と、片里は、呉羽之介をみつめていた目を画面へと移し、限りない讃美の声をあげるのでした。
「なるほど、先程にくらべると、ほんの少し筆を入れただけで、また一しお見ちがえるまでになったなんという美くしさ、若々しさあでやかさ――まるでほんものの呉羽之介どのそっくりじゃ」
「わしには一生に又と、これよりすぐれたものが描けようとは思われぬ」
露月はふたたびうめくように呟やきました。
そして、はじめて呉羽之介も、恍惚の夢から醒めたように、自分の絵すがたへじっと見入るのでありました。
露月の霊腕になった美麗華奢をきわめた画面に驚嘆した片里は、席をはなれて一そう絵枠に近づきまるで酔ったような目でいつまでも眺め入りました。そしてその後ろには、呉羽之介、その人が、茫然として自分の絵すがたに魂を奪られたかのように見入っております。
――実は呉羽之介は、世にもまれなるおのが容の美くしさを、これまでハッキリと自覚したことはなかったのでした。物堅い儒家に生れた彼は、容儀は堂々たるべく正々たるべしとの家訓は受けておりましても、容貌が美しいとかあでやかであるとか、すべてそうしたことは人の口からも聴かなければ、我が身で悟ったこともなかったのであります。第一、士たるものにとって容貌の美醜なぞが何であろう――それは女々しい婦女子にのみ関することだという考えが、いつとはなしに心の底に根を張ってしまっていたのです。ところが先程から片里の言葉を聴いているうちに、ふと、今迄に覚えなんだ怪しい思いが胸に燃えはじめて、さてはこの自分のからだには、そうした万人にすぐれた美が宿っているのかと、われながら驚かれると同時に、しかし又あまり大仰な片里の讃詞が、半信半疑にも聴きなされもしたのでした。
けれどもいま、呉羽之介はまざまざと、自分のすがたを目の前に見たのです!
――オオ、これがほんとうの自分であろうか!
呉羽之介は絖の上に生々と描かれた、いつぞや等覚院へ詣る途中、池の端ではじめて露月に逢った時そのままの自分の若衆すがたをみつめつつ、まるで喪心したようになってしまいました。かたわらの片里も、今も今とて、これが自分にそっくりそのままだと証言した――露月もそもそもこの絵にかかる当初、どうにかして現在のすがたを寸分たがわず絹にうつして、いつまでも残したいと言いもした――して見れば、ほんとうにこれが自分の正直な絵すがたなのであろう!
――何といううるわしさだろう!
呉羽之介は今更ながら、自分の美貌に気がついて、吐息と一緒に心の奥で呟やいたのであります。
ほんに呉羽之介自身にしても、これまでにこの絵姿のように美くしい男を見たこともなければ、これよりあでやかな婦女を巷に見たこともないのでした。女にしても見まほしい――此の形容の詞はもはやこのような若衆すがたに対しては、役に立つはずがありませぬ。
重たげに艶々しい若衆まげ、黒く大きく切れ長な目、通った鼻梁、綻びる紅花にも似てえましげな唇、そして白つつじをかざした手のあのしなやかさ!
呉羽之介は、まっ白な、細い手を膝の上にのせて私かに検べるようにみつめました。爪紅をさしたようなうるわしい爪はずれ、品よく揃ったやさしい指――彼は自分のからだに、指先にさえもあの絵すがたにも見られない、より以上の美くしさ、しとやかさ、優美さが宿っているのをハッキリ知って思わずふたたび心に叫ぶのでした。
――何といううるわしさだろう!
激しい感動にわれを忘れてぼんやりとしている呉羽之介を、心配そうにさしのぞきつつ露月は言うのでした。
「どうじゃ、呉羽之介どの、どこぞそなたの気に入らぬところでもあるかな?」
呉羽之介は不意を打たれて思わずポーッと頬を染めました。
「あまり美くしくお描きなされたように存じまして――」
正直な絵師は頭を振った。
「いやいや、そなたの美くしさの、万分の一も写し難い――だが、そなたの美くしさは天のたまもの――人間の絵描きの腕ではこれ以上写しがたいのも道理だ」
「呉羽之介どの、御覧なされたか」
と、片里はじっと顔を見て申しました。
「そなたはこの絵すがたより美しい男と、どこぞでお逢いなされたか? 決してお逢いになったことはあるまい。絵すがたに写してさえ、命のない絹の上に画がかれてさえ、これ程の美くしさだ。そなたの美くしさにはいのちが宿り光りが輝やいている。な、先程わしが、そなたほどの仕合者はこの世にないと言うたのが、嘘いつわりではないことが御合点出来たであろうと思うが――」
呉羽之介はうっとりと、何やら考え込んだまま返事をしようともしませんでした。
その有様を眺めて、片里はさも満足げに、
「それに気がつかれたら、そなたのその美くしさと若さとが、どのように大事にされねばならぬかということもおわかりになる道理――そしてまた、どのような歓びも楽しみも、そなたの思いのままだということも、自然おわかりになったであろう」
「又してもそのようなことを――」
と、露月はかたわらから遮切って、
「何も知らぬ子供の耳に、たわけたことを聴かせずとものことじゃ」
「わしは何もたわけたことは言わぬぞ。わしが思うには、世の中で、およそ一ばん美くしいものは恋じゃ。その世の中で一ばん美くしいものを、世の中で一ばん美くしい呉羽之介どのに教えるのが、何で悪い! お身は絵かきにも似合わぬ木強漢だの」
と、言う折から、先程から庭掃除をしていたかの老人が、軒下に来てうずくまり、露月に向って言いました。
「あそこに茂った矢筈ぐさが、兎角そこらにはびこりますが、聊かのこしてその外を刈りとりましてよろしゅうござりますか?」
「庭の苔をいためぬよう、善いようにのぞいてくれ」
主人の命をかしこんでふたたびかなたに帰ってゆく老いた下郎を眺めた時、呉羽之介のあでやかな面上に、颯と悲哀のいろがうかびました。
――そうだ、此の美くしさも永劫ではない――
呉羽之介は先程の片里の言葉を思い出した。
げに、一刻千金春宵のながめよりも儚なき青春よ!
このあでやかな自分のすがたも、若かければこそ美麗なれ、瞬間にしてあの醜い老の波は全身を押しひさし、やがてこの身もあの下郎とあまり変らぬむさいものとなるにきまっている――
と、考えて、呉羽之介は、たった今われとわが身の比類ない美くしさとその値打とに気がついた身であるだけ、一そう激しい失望に襲われるのでした。
「――何という情けないことだろう――すべての人が老いるということは!」
呉羽之介は、思わず口に出して、こう言って吐息をつきました。
「それゆえ若かさを惜しめと申すのじゃ」
と、片里は少人の心持が、自分の思う方へと傾いてゆくのに益々よろこばされて、煽り立てるように言うのでした。
「如何にそなたが美くしいとて、その黒髪に霜が置き、玉の額に傷があらわれ、眼落ち凹み、歯がまばらになるならば、あの庭掃きとあまり変らずなるであろう――それまでがそなたのいのちじゃ」
呉羽之介は、熱い息を、炎を吐くように苦しげについて、じッと自分の絵すがたをみつめながら、わななくこえで申しました。
「羨しいはこの絵すがたじゃ。たとえ此の身が老いさらばう時が来ても描かれたすがたに、変りはないのだ――」
「変りはないのは死物ゆえじゃ」
と、片里はかたわらから訓しえるように、
「そなたは推移の悲哀があろうと、生々と暫しの間の若さと美くしさとを十分にたのしむことが出来るのじゃもの、何で死物が羨ましかろう。そなたの美くしさと若さとで、出来るかぎり此の世のよろこびを吸い貪ぼるなら、短かいいのちも歎かでよい。世の常の人々は、みにくい姿に生れたために若さが却って悩みとなり、生の歓びを知らぬ間に、年を重ね、灰いろの憂いに生きて憂いに死ぬのだ。それに比べてそなたこそ、どんなに幸福かわかりはせぬ」
けれども、呉羽之介の耳には、そうした言葉ははいらぬように見えました。
「ああ、私はこの絵すがたが羨やましい、此れはいつまでも美くしいのじゃ。もう何年かかった後、老に萎れた私のすがたを、この絵すがたが眺めたなら、どんなに嘲けり嗤うことだろう。おお、どうぞしてこの絵すがたと此の身とが、所を換えて年を取り、此の身がとわに常若に、此の絵すがたがこの身のかわりに、老いさらぼうて呉れたなら――おお、そうだ、若しこの事が出来るなら、此の身のかわりに此の絵すがたが老いてゆき、此の身がとわに若々しく、世に美くしくながらえることが出来るなら、未来は地獄の血の池に逆しまに落ちようとまま! あわれ日本、天竺、唐、あらゆる神仏――たとえ邪教の神にまれ、または悪魔悪鬼にまれ、若しこの事を叶えてくれたら、永劫未来後の世はお主の僕となって暮そう、火の山、針の林へもよろこんではいるであろう――」
「これこれ、呉羽之介どの、そなたは何を申すのじゃ」
と、露月はかたわらからあわただしく押しとどめて、
「そのようなことを口にして、もし神仏のいかりにふれたら何といたすぞ?」
「いやいや、露月、お止めなさるな」
と、片里は自分の言った言葉が、案外な力で少年を動かしたのにいよいよ激しい興味を覚えたようでした。
「呉羽之介どのは、世の中の誰れもが心でひそかに願うことを口に出したまでじゃ」
呉羽之介はもはや我れを忘れて、絵すがたの面を刺すように鋭どい瞳でみつめつつ、狂うがごとく、憑かれたごとく、何やら口の中で口走しっていましたが、やがてその場にうつぶして、低くはげしく咽び泣きをしはじめるのでした。
露月は恨みをふくんだこえで片里に申しました。
「そなたの下らぬ言葉が、此の少年を堕落させたわ――この哀れな有様を見ても気が尤めはせなんだか――」
片里は黙って微笑をもらしながら、先程とはまるで違った心の持主となりおわった呉羽之介の、悩ましげなすすり泣きのすがたをば、いと興深かげにながめるのでありました。
呉たけの根岸の里の秋闌けて、片里が宿の中庭の、花とりどりなる七草に、櫨の紅葉も色添えて、吹く風冷やけき頃とはなりました。
秋の入のしずやかな紅が、ほのかに空明をひたして、眺めかたけきとあるくれのこと、庭にのぞんだ奥座敷に、片里は一人の客を相手に、小さな盃をふくんでいました。
床の香炉から煙の糸が崩れながら立ちのぼり、秋蘭の鉢ものが床しく匂っておりました。
此の夏の了から二月あまり旅に出ていた絵師の露月が、つい二三日前江戸へ帰ったので、今日しも久々の友垣を招き、旅日記を聴こうためのあるじもうけをしたのでした。
旅の話もほぼつきると、片里は露月に盃をさして、
「そう言えばそこ許も、久々であろうと思い、呉羽之介を相客に招いて置いたが、もうおッつけ見えそうなものじゃ」
露月は受けた盃に、少人に酌をさせながら、ふと、眉をしかめるようにして、
「ナニ、あの呉羽之介がまいると申すか、――彼にも、今日はあまり逢いとうはない」
「どうしてかな――そこ許の気性ではなるほどだんだん変ってゆく彼が嫌になるかも知れぬ――しかし、わしは相変らず彼が好もしいよ」
と、片里はほほえましく申しました。
「わしがはじめて見た時の――いやいやそこ許にはじめて逢うまでの呉羽之介は珠玉じゃった」
と、露月は呪わしく言うのでした。
「わしはあの頃の少年の、毛程もまじり気のないあどけなさを思い出すと、その真珠を泥で汚し、清水に濁りを注ぎ込んだそこ許のことを憎まずにはいられないのだ」
と、片里をジロリと嫉視しました。
片里は笑って、
「ハ、ハ、ハ、兎に角わしと出逢うた後の、彼の変化はめざましい。此の頃はもうスッカリ自分の値打が会得が行き、浮世のつまらぬ約束などには、すこしも縛られぬ奔放自由の男一匹となってしもうた」
「純い心の少年の無垢な胸を、けがらわしい毒で汚して、何でそのようにうれしいのじゃ!」
「どうも絵かきにも似合わぬ堅苦しいのが、そこ許の疵じゃよ。そこ許のいわゆる毒たるものこそ、此の世の歓びの別名なのじゃ。毒の味は甘い歓びの毒に溺れて溺れ死ぬのが、一ばん生き甲斐のある生き方と申してよろしい――」
と、言う折しも、取次が呉羽之介の到着を知らせました。
「すぐにこれへお通し申せ」
片里は露月に向って、
「まァ、見るがよい、前にはなかった異様な美くしさ、生々しさ、媚び、悩み――さまざまな新らしい色どりで飾られた呉羽之介を眺めたら、そこ許も必らず感歎して、わしをそのように責めはすまい――いっそお礼を申してよいのだ」
やがて、衣ずれのひびきもしとやかに、縁側づたいに呉羽之介ははいって来ました。
「この程四五日おとずれも絶えていたが、どこぞ病気にもなりはせぬかと、ひそかに案じていたわけじゃ」
と、片里は客を招じ入れました。
呉羽之介は秋ぐさ模様の黒の大振袖の袖から、紅を存分こぼれさせて、あだめかしく会釈しながら
「御無沙汰申しましたゆえ、今日にも伺おうと考えておりましたところ、わざわざのお使、恐れ入りましてございます――露月先生にも、お久しいお目もじでございます。お旅立と承りながら、何かととりまぎれお留守お見舞もいたしませず、しかしお恙なくお戻りなされて、喜ばしゅう存じます」
露月は冷たい、しかし悩ましい眼で呉羽之介をながめて言うのでした。
「わしには何のかわりもないが、そなたはますます変ってゆくそうな――まずまずそれも結構じゃろうよ」
「露月はそなたが先ごろより、遊芸唱歌に身をやつし、煙花の巷に出入して、若い歓びをむさぼるようになったのが、何よりも不明でならぬのじゃ」
と、片里はえましげに美少年をながめて言うのでした。
「今も今とて、そなたの身持が変ったのも、わしという悪友がいるからだと、大分こき下されていたところじゃ」
呉羽之介は、そうした言葉には耳もかたむけず、露月に向って、
「お目にかかるたびにお礼を申さずにはおられませぬ。お描き下された絵すがたを、私は毎日床にかけて眺めておりますが、何日ながめても何とも言わず美くしく、どんな気持のあしい時とても、あの絵すがたを見さえすれば、かくも美くしく生れついたわが身の仕合せを思い出し、ついに物事に屈託もなくなってまいりまする」
「わしはまたあの絵を描いたということが一期の不覚と思われてならぬ」
と、露月はじッと相手をみつめて、
「もしあの絵さえ描かなんだら、そなたが自分の美に慢じて、放埒無頼の浅間しい身とはなりもせずに済んだであろうに――」
片里はかたわらから話を転じようとしました。
「そのようなことはさて置き、呉羽之介どの、この四五日相見ぬ間を、そなたはどうして過ごされたぞ。見ればどうやら嬉しそうな、しかしながら何となく、疲れたような影も見える――何やらわけがあるのであろう――包まず語って聴かせられえ」
呉羽之介は俄かにほんのりと頬を染めて、稍々はずかしげに媚びて笑ったのです。
「ほんに訳があると言えばあるような事があるのでございます――そんなに私は疲れたように、嬉しそうに見えまするか?」
「さては何かわけありじゃな」
と、片里は北叟笑みながら、
「定めしあでやかな色模様の出来ごとであろうな?」
「御かくししても何時までもかくしおおせられるやら――いっそすっかりお打明けして、お二方にもよろこんで頂きましょう」
と、呉羽之介は小娘のように、振の袂を膝に重ね、身をくねらせて話し出すのでした。
「あの、まあ、何と申し上げたらよろしいか、つい四日程以前から、私はほんとうの仕合せものになったような気がいたしますのでございます――」
と、口籠るのを、片里は追いかけて、
「さあ、さっぱりと打ちあけて、われわれをもよろこばせてはくれまいか」
「それならばお話しいたしまする」
と、呉羽之介はシナをしながら、
「私ははじめてある女子と恋をしたのでございます……」
「ほほう、そなた程の美しい少人から恋われた女子は其方に劣らぬ仕合者じゃ。引手あまたであり乍ら、いままで大凡の女子には振向もせなんだそなたが、我から恋をしていると言うからには、定めし相手は稀物じゃろう……何処ぞの姫か、廓の大夫か。江戸市中の女子どもから嫉まれる、そのあやかりものは何処の誰れじゃ」
と片里が言うのに呉羽之介は答えて、
「何処の姫でも廓の大夫でもございませぬ。その女は名も知れぬ、つまらぬ歌舞伎役者でございます……」
「なになに、女歌舞伎……」
と片里は稍々興ざめ顔に、
「したが女役者にしても当時知られた女もある……そなたの恋人は何という名じゃ」
「私より外世の人が、その名を知っていようとは思われませぬ。ほんに哀れなしがない手業にあの盛場から此の盛場あの宴席からこの宴席をめぐり歩く、貧しい淋しい歌舞伎一座の、名ばかりの女役者、哀れなものにござります」
「それは又驚き入った――したが一体いかなる訳から其方は彼女と馴れ染んだぞ」
「丁度今から四五日前の晴れた夕べでございました。日頃仲よくいたしまする松枝町の友達を、訪ねて帰る途すがら、爽やかな秋の眺めに心をひかれ、ふらりふらりと我家に近き、神田明神にさしかかりますると、折しも社前の大燈籠の奉納会とやら申しまして、境内は大した人出、寄進の興行にも軒をならべ、余りのにぎにぎしさにさそわれまして、ふと、とある舞台を覗きますと、見すぼらしい衣裳道具の女歌舞伎があの小野の通が作とかいう源氏十二段、外の管絃の一場を、懸命につとめて居りますところ。もとよりしがない一座とて、牛若丸はつい何処やらの下僕の如く、吹き鳴らす笛の音さえも心もとなく聴いておられぬ有様でございましたが、ふと皆鶴姫に扮たちました乙女の姿をながめたとき、私の心はまるで夢現になって了ったのでございます。まあ、何と讃えてよろしいか、その顔なら、姿なら、歌いつ、弾きつ、舞うさまなら、春の華に光を添え、秋の露に色を添えたような美しさと申しましょうか、なつかしさと申しましょうか――只一目見ましたこの時から私の心はすっかり彼女に囚われて、まるで疫病に罹ったようにただわなわなと慄えるのでございました。それでただもう一しんに姫の姿を眺めていますと、さきでも多くの見物の中に、私が目につきましたものか、時々何やら忍びやかに愛らしい眼でこちらを眺めあるかなきかの微笑をさえ洩らして見せるようにさえ思われました。私はもう堪え兼ねまして、せめて名なりと聴いて置こうと、つい傍に見ておりました町人に向って訊ねますと、あれは宇喜川お春という、娘役者じゃと教えてくれます。私の心の中では、そうしていつまでもあでなる姿を眺めていとうぞんじましたが、四辺の見物の中では目立つ自分が身なりに名さえ知ったからには又の日を期すもよかろうとそのまま其処を立去りました。したが、その同じ日の夜半でございます。ひる間眺めた乙女の姿が眼にちらつき、思い乱れて寝られぬままただひとり家を出で、思わず知らずぼんやりと最前詣でた明神の境内の方へとまいりますと、坂の半ばでふと行きずりに出逢いました女があります。一人の小者に提灯持たせ、小走りに走ってくる姿が、どうやら誰れかに似たようなとよく見ますれば、あのお春――思わず私は「ああ、お春どの」と口走りますると、娘も私をふり仰いで「あなた様は暮れぬ前、明神の舞台を御見物の若衆さまではござりませぬか」と顔をあかめて申します。私は思いもかけず覚えていてくれたのが嬉しいやら、恥しいやら……到頭その夜かりそめの夢の契を結びました……」
と長物語を途切らせた呉羽之介が恥しげにうつむくのを、片里はにこやかに打眺めて、
「それはそれはお浦山吹――そなた程のよい若衆が貧しい歌舞伎女を恋の相手とは、なにやら物足らぬ心地もするが、またそなた程のよい若衆が、そう恋い焦れる位なら、定めて此上ない美女であろう」
「ただ美しいばかりではございませぬ。私は此れまでに、あのようによく歌い、よく弾きよく舞う唄女を、まだ目にしたことがございませぬ。おお、もし一度彼女をごろうじ遊ばしましたらお二方とて此の私が、こうまで慕うのが無理はないと、屹度御解り下さいます」
「ほんにそなたをそれ程に迷わせた、乙女を拙者達も見たいもの、のう、露月どの」
「わしも絵かきのはしくれじゃ。そう美しい女子なら、是非一度は見て置きたい」
「さようなればお二方に、失礼乍らお願い申し上げまする。今宵も今宵、湯島なる、人目に疎き茶屋の奥にて、お春と会う手筈ゆえ、御都合よくばお邸より、かの家までお伴をいたしとう存じまする」
「それは何より良い都合」
片里は呉羽之介に盃を献じました。
秋の夕べの黄昏の色が、いつの間にか深くなって、座敷にも灯が照り、庭の秋草の花かげなる小燈籠にも火がはいり、淋しい音して松虫が、そこらの藪で鳴きはじめました。
世を佗びて、風雅でもなく洒落でもなく、詮方なしの裏長屋、世も宇喜川のお春が住むは音羽の里の片ほとり。色廓はつい程近く絃歌は夜々に浮き立ちて其処此処の茶屋小屋よりお春招べとの客も降るほどなれど、芸道専一と身を占めて、ついぞ浮名も流さぬ彼女も、ふと呉羽之介を見初めてより、初の逢瀬の歓びを、また繰返すことのためには、いまは命も、たましいもと打込んで、はたで眺める母の眼にさえあまる程の、うつけごころとなりおわるのでした。
今宵も廓の小春屋より是非一くさり舞うてよとの使をうけながら、かぶりを振って答えもないので使はむくれて帰ってゆきました。
母のおたきは見兼ねるように、いま肌抜いて鏡台に向い、化粧を凝しているお春に言いました。
「これお春このごろ其方にも困ったもの。あの若殿様とやらが、御贔屓下さるようになってからというもの、其方はまるで腑が抜けてでもしもうたように、唄鳴物のお浚えも怠りながら、毎夜々々の逢引ばかりが楽しみそうに、このわしとさえろくに口も利かぬのはどうしたものじゃ。さきさまはそりゃ我々風情には勿体ない御身分らしゅうもあれば、たいそう美しい殿御ぶりでもあるそうな。したが、のう、お春、さきさまが優れた方であればあるだけ、わしゃそなたが心配でならぬ。女子を漁る殿御の心は大てい一つ。みんな一時のなぐさみにして、あとは野となれ山となれ――芸人芸者の我々が、もし、此方だけを打込んで、あとで知らぬと捨てられたら、そりゃ眼も当てられぬ浅間しさじゃ。命と頼む人があると知れば、もとより色香で立つ渡世、忽ち外の世の中からは、あれももう虫がついたと忘れられる。それもよい。がその上命と頼む人に、秋の扇と捨てられたその時にはもう全くの癈人じゃ。のう。お春。ここをよくきき分けて、若い身そらで無理ないものの、あまりあの殿御の事ばかり思わずに、少しは外の殿方の機嫌も取ってくだされや。わしゃこの頃そなたを、見るともうもうただ心配で……」
「何をそのように仰言ってじゃ」
お春は微笑みの眼で鏡に流眄をくれながら、ふっくりと愛らしい顎のあたりに眉刷毛をつかいつつ
「わしはまた此のごろほど、世の中がうれしゅうて面白うてならぬ事はないのじゃに……母さん、若殿様をついひょんな浮気心でわしを手折った浮れ男のようにひどくお言やるが、あの殿御はそのような悪いお方じゃないわいなあ」
「それそれ。その通りまるで赤坊のようなそなたじゃから、腑がぬけていると申すのじゃ……」
「何とでもお言やれ。わしゃどう言われてもあの殿御を、一刻でも忘れはせまいもの……」
化粧を終ったお春は肩を入れて、さて鏡面のわが姿に見とれながら
「のう、母さん。もう今宵も迎える駕籠が見えそうなもの……おお、あの跫音は、ありゃお使かもしれませぬ。早く着更えておきましょう」
と衣桁の方へ立ってゆくのでした。
その時入口の戸を外からがらりと引あけてはいって来たのは呉羽之介からの使ではありませんでした。結城縞の着付に八反の三尺帯を鉄火に締めた、二十歳程のいなせな男――それはお春に三つましの兄人で、十七の時から鳶人足の仲間にいたが此の頃船乗りの知辺を頼って、千石船の舟子となり、明日にも江戸から遠州灘を乗り切って大阪港へ下る事となり、暫しの別れを告げるために家へ帰ったものでありました。
「やれ妹もいてくれたか。いよいよ船出も迫ったゆえ、今宵は鳥渡暇を貰って、母さんに別れに来た」
「兄さん折よくあったぞえ。もう少しでわしは留守になるところ……もしそのあとへお前が来て、このまま当分逢われないことになったなら、屹度兄さんを恨んだわいなあ」
お春は着更の手を止めてなつかしげに兄人を眺めるのです。
「ほんに其方も初めての遠い船出じゃ程に、よう気をつけてたもれのう。わしゃこうして此頃は金刀比羅さまを神棚へかざり毎日信心しています」
母は老の眼をしばたたいて、
「たよりになる男の子は其方一人、随分堅固で帰ってたもれ」
「あはは、生死は畳の上でも解らぬこと、灘を乗切る船が沈むとは限りませぬ。わしの身は案じてたもるな、大丈夫。じゃがな、母さん」
とお春の兄は、何か急に真顔になって眉をひそめ、
「つい今しがた町内の若い衆達に出逢うたら何やらお春の身の上に、変った事でもあるようなひょんな噂をききましたが、堅いお春じゃゆえ真にせずに、そのまま笑って別れたものの、どうやら少し気にかかる。わしが事より妹の上を、どうぞ気をつけてやって下され」
母のおたきはそれを聞いて息子と同じく眉を寄せたが、然しそこは女親、娘をかばう情けの口振で
「なんの、なんの、気もないこと、もっとも此頃贔屓にして、始終招んで下さる方があれど、それもただのお客さま、わしがこうしてついてる程に、決して案じてたもるな」
「その贔屓な客というのは、一体どんな方なのじゃ」
「それはそれは美しい、年はわしと同い年、さるところの若殿様じゃ」
お春は帯をひきしめ乍ら、
「あのような方に御贔屓うけるわしのうれしさを兄さんにも、どうぞ分けてあげたいようじゃ」
「これこれ何をそのように邪気ないことばかり言っているのじゃ」
母も傍からたしなめます。
兄人は思い深く、
「ほんに此れは人の口端ばかりではなさそうな……したがわしの思うには、いまの其方に何を言うても解るまいが、身分違いの色恋は、大てい幸福に終らぬものじゃ」
「何を兄さん縁起のわるい」
「幸福なればそれでよし」
兄人は急に鋭い眼付をして、物凄い調子で呟きました。
「わしが此れ程愛しがっているお春めを、もし不幸者にする奴があったら、その時は承知が出来ぬわ。こりゃ、お春、万一その若殿とやらが、其方に邪慳な目を見せたら、屹度、わしが敵をとる」
丁度着更えをすましたお春は、吃驚したように兄人に擦り寄って、
「なぜ兄さんそのように恐しい事を仰言います。あの方は決して其麼お方じゃない……」
「まあまあそのうちに解るわい」
其時誰やら訪れて来ました。
「申し、お春どの、湯島からお迎えにまいりました」
「おや。駕籠屋さんかえ」
とお春はいそいそ立上り、
「今すぐ行くぞえなあ」
「今宵は若殿にお連衆があるそうで、一人舞の御用意をなされて来てとのことですからそのお積りに願います」
と潜戸を開けて使が言い添えるのです。
「そんなら母さん其所にある、衣裳筐をとっておくれ」
お春はそれを駕籠屋に渡し、
「それでは兄さん、行ってくるぞえ」
「わしはすぐ船へ帰るゆえ、それでは、これがしばしの別れじゃ」
「どうぞ身体を大事にして、あまり大酒などしやんな。な、兄さん」
「よいよい、案じないがよい。それでは其方も気をつけて……」
「母さん。今夜もあまり帰りが遅いようなら先にやすんで下さりませ」
お春は何処か歓楽の栄の巷へでもゆくように、よろこびいさんで外へ出ます。
「駕籠屋さん、途のりが遠いほどに急いでやって下さんせ」
お春は老いた母人をも、遠く船出をする兄人をも、すっかり忘れて了ったように、はしゃいだ声でこう言い乍ら、やさしく駕籠に身をのせました。
戸口に立った母兄の、どこやら心配そうな顔を、駕籠提灯がぼんやり照すのでした。
根岸の里を物さびしい夜闇が侵しはじめたころ、片里が住居を打立った三挺の駕籠があって、上野山下を飛ぶがごとく、切通しから湯島台へと上ってゆき、天神の辺り、見はらしの良い茶亭にはいりましたが、これが即ち片里をはじめ、露月、呉羽之介の連中でした。
家のものに迎えられて、広やかに物数寄な一間に通り座が定まった時、呉羽之介は仲居に向い、
「此れよ。先程使を遣わし置きしが、音羽へ迎えを出してくれたか」
「はいはい早速仰のままに、迎えの駕籠を差出しました。もう押付けお春どのもお見えになるところでございます」
「しからば此れなるお二方に、それまで酒肴のおもてなしを仕れ」
軈て盃盤が運ばれて三人は杯を挙げます。
片里はあたりを見廻して、
「吉原の豪奢の春の驕りもうれしいが、この物寂びた社の辺りの静かな茶屋も面白い。秋の遊蕩はとかくあまりケバケバしゅうないのがよい。のう、露月どの」
「そうじゃ。拙者などは陰気なせいか、賑わしい座の酒はうもうない。先日旅の路すがら、箱根を越して三島の近辺、とある山寺に一宿なし主僧と汲んだ般若湯などが、まず拙者が飲んだ酒の中での第一じゃ」
ところへ、仲居の案内につれてお春が現れ閾際でしとやかに平伏します。
紅燈の下にきらびやかなお春の姿を眺めるや片里は思わず感嘆しました。
「おお、あでやかあでやか。成程これでは呉羽之介どのが、心ぞ迷われたも無理はない。のう、露月どのそうは思われぬか」
「されば世にも美しい君じゃ」
呉羽之介は両人の口を揃えた讃詞に、我が身を讃えられたよりもよろこばしく、いそいそとしてお春に云うのでした。
「此れなるは我が兄とも頼みまいらす方々、さ、酌などいたしてまいらせえ」
「おそなわって相すみませぬ。いずれも様の御見に入り忝のう存じまする」
お春は三人の側に侍して、零れる愛嬌を見せ乍ら、華奢な手に瓶子を秉るのでした。
軈て片里はうっとりとお春の姿を眺め入り、
「のう、お春どのとやら、其方は大そう舞の上手でおいでじゃそうな。御苦労ながら、何ぞ一つ見せてたも」
「お恥しい鄙びし手振――なれど御所望賜いますれば、一さしお目を汚しましょう」
お春は静かに次の室へと退ったが暫しして、秋の空を思えとや、紫紺に金糸銀糸もて七艸を縫った舞衣を投げかけ金扇を翳して現われました。
下手に座して一礼し、さて立上って舞おうとするお春の姿を呉羽之介は夢見るように瞻め乍ら、とは言え二人の前もあれば、今夜は殊に美しく、巧みに舞うてくれればよいと口には出さねどひたすらに、心の中に念じています。
お春は楚々として艶然たる立姿を紅燈に照させながら、静かに唄い且つ舞うのでした。
賤の身なればいろには出さぬ、ただこころのうちにこがるる
立よりむすぶ山の井のあかれずあかぬ中はな、松の二葉よ千年経るまで
筆でかくとも絵にうつすとも更らにつきせじ松しまの波はうつらふ月の影しまの数シン知れぬ……。実にこの唄はまるで未熟なお稽古娘が口ずさんでいるようで、その舞は何の味いもなく、ただ覚えたままを辿って手足を動かしているにすぎぬように見えるのでした。呉羽之介には何が何やら訳が解らなかった――曩日、それもたった四日前あの明神の境内で、浄瑠璃姫に扮したときの、あの巧みさ神々しさ、見る人をして酔わせずには置かぬような芸の力は、今どこへ行ってしまったであろう……
たんだ人には馴れないものよ馴れての後はるるんるる身がだいじなるものはなるるが憂いほどにかついだ水がゆらゆらたぶつきこぼるるけなものを
うつつな殿は都に……。「あでやかあでやか」と片里は言いました。
「見ごとな姿じゃ」と露月も言います。
けれどもその詞は唄を賞めたのでも舞を讃えたのでもない。ただ人形の美しさのお春の姿を讃賞したのである――呉羽之介にはそれがよく解かるのでした。そして二人の手前穴へもはいり度いのでした。自分の恋人が、こんな無芸な下流の女役者だということを、此の二人の師友はどんなに心の中で嘲り笑っているだろう――彼れはあの永劫を誓った恋が今一時に冷めてしまったのを感じました。
艶然として微笑みながら、舞衣姿のまま酌をしようとするお春を後目にかけて、呉羽之介は不機嫌に、震える声で言うのでした。
「さあ、そなたは次の室へ退って暫し休むがよかろうぞ」
不興気な呉羽之介の声音をきいて、お春は訝しそうに恋人の顔を眺めたが、然し何の疑いも抱かぬように大人しく座を立ちます。
「さようなれば皆々様、しばらく御免下さりませ」
後見送りもせず呉羽之介は、恥辱と怒りを包んだ声で、詑びるように二人に言いました。
「まことに申訳ありませぬ。あんな拙い芸とは気が付きませずわざわざ見に来ていただいて何とお詑してよろしいやら」
「いやいや舞は拙うても、あのような美しい女子なら、たとえ唖でも千里も通おう……」
片里は戯れ言にまぎらして、呉羽之介を慰めます。
呉羽之介は不愉快を、どうにかして振払おうとするように、
「ほんに拙い手振を見て、私も胸もちが悪うなりました。なんとぞして色直しの酒事でも……」
と考えて思い付いたように、傍の仲居を顧み、
「おう、そうそう。幸い隣の藤茶屋に名代の子供が出たとかいう。これからお二方を彼方へお連れ申し上げて下され……お二方さま、何やら私はこの席が急に厭わしゅうなりました。我ままついでに此の席を、直ぐに移して下さりませ」
「まあそのように不機嫌な顔せずとお春どのをま一度眺めて、此席で酒宴をつづけよう」
片里はなおも慰めて見ました。
けれども若気の一徹に呉羽之介は聴き入れません。
仕方がないので片里露月の両人は仲居に導かれて裏門通いに隣り茶屋へと出て行くことになりました。
「私はちと用事を落してまいりませば、一足お先にお出で下され」
呉羽之介は両人にそう断って、自分は一人後に残り、隣座敷に入って行きます。
どうやら首尾が悪いのに気がついて、しょんぼり一間に頭垂れていたお春は、はいって来た恋人を眺めつつ、はかなくにっこり微笑むのでした。
呉羽之介はにこりともせず、傍に突立ったままジロリながめて、
「お春どの。そなたは今宵はどうした訳じゃ――何という拙ない手振を見せたのじゃ」
と、お春はにわかに元気付いて却って自慢そうに邪気なく、
「私の舞や唄が拙なくなったのは当然でございます」
「なんということを言うぞ」
呉羽之介は睨め下して、
「私はもうそなたのような、拙ない業しか身に持たぬ、浅間しい娘は厭わしゅうなったじゃ。お春どのどうぞこれまでの縁をば此れきり諦めてしまって下され」
「あれ、何という人悪な」
お春は真に受けぬように、
「私の手振が拙なくなったのをば、若殿様あなたは賞めて下さるのが、順当なのでございまする」
呉羽之介は黙ったまま冷たくお春を眺めています。
「まあまあそんな恐ろしいお眼をしてお睨め遊ばさじと、お聴きなされて下さりませ」
お春は呉羽之介に擦り寄って、
「此れまで私の舞や唄に、美しさの巧みさとでも申すものがあったのは、私の心に恋がなかったゆえでござります。私だとてうら若い娘ごころの悩しさに、折ふし人恋しさに燃えながら、心に叶う男もないまま、ただひたすらに芸道にのみ想を浸し、語りものの中の男女の情けの戯れは、おのが想いをのみ込ませて、舞台の恋を真の恋と思い倣して居りましたゆえ、此れ迄の私の舞や唄には恋の歓び、恋の哀しみ、とりどりな真心が流れておりましたろう。それがひと度、その愛らしくお美しいあなたのお姿を見ましてからは、いままで男の代りに恋した、芸道舞曲の百年の恋も冷め果てて、人から言われれば言われるままに、唄うものの舞うものの、私の心はもう何の望みにも燃えもせず、胸の底には片時はなれず、あなたのお姿、お笑顔がちらついておるのでございます……若殿様、此のような心になりました私の、舞の乱れも唄の拙なさも、当然の事ではござりませぬか……」
「言わせて置けば理非もない……兎に角其方の美しさも、其方の芸が巧みであったればこそ、私の心を引いたのじゃ。辻に唄う盲女にも劣る芸しか持たぬ、其方には早要はない。それではこれでおさらばじゃ」
呉羽之介の真面目な怒にお春はようやく気がついて、気も狂わしく取縋り、
「若殿様、なぜに其麼情ないことを……」
「ええ、もう、其処放しゃれ! お蔭で兄とも師とも頼むお方の前で恥をかいたわ!」
と呉羽之介は荒々しくお春の手を振払って、既に部屋を出ようとします。
お春は今は蒼醒めて、
「すりゃ真当に私を、お捨てなさるのでござりまするか……」
「諄いわ!」
呉羽之介は未練気もなくこう言って、急いで部屋を立去りました。あとにお春はしばしが程は、悪夢を見ている人のようにただ茫乎としたまま坐っていたが、やがて前へと身を投げて、よよと哀しく哭き崩れました。
それから半時程経った後であった。お春は我家に近いあたりを送りの駕籠でゆられていたが、ふと泣き湿れた顔を拭いて、垂師をはねて駕籠かきに言いました。
「たしか此処は南海寺、わしは寺内に棲んで居る知人をたずねてゆきたい故、鳥渡下して下さんせ」
「じゃと申してもう夜も大ぶん更けました。明日のことになされては……」
「いやいや急ぎの用事故、わしはついちゃっと用をたしてゆく程に、其方達は此処から戻るがよい」
お春は駕籠を下り立って、いくらかの酒代を二人に遣わし、礼の言葉を後に聴いて、小走りに急ぎ乍ら、物寂しい夜半の寺内へはいってしまうのでした。
やがてお春が辿って来たのは、南海寺の裏地に続いた、凄まじい墓地の辺りでした。秋の夜空は黒く澄んで、月の光は蒼く輝き、苔のひまからこおろぎの哀しい声がきこえていた。
お春は小さな石塔の前に坐って手を合せながら言うのでありました。
「父さん。わしゃ殿御に捨てられて、母さんにも兄さんにも、どうこの顔が向けられよう。こんな悲しい、味気ない浮世にはわしゃもう飽きた……じゃ、すぐお側へゆくぞえ……」
お春は紅のしごきを解いて、堅く膝をくくり合せ、襟を開けて真珠の胸を露わしたが、やがて金簪を乳房の下に突き込んで、そのまま前に倒れ伏しました。一声鋭どい苦悶の声が、噛みしめた歯の間を洩れたが、その声が微に消えると、その後へ限りない静けさが来ました。
呉羽之介曩日の祈誓納受されしを知りて
愈堕落の淵に沈む事
愈堕落の淵に沈む事
その翌日の朝です。呉羽之介は我家なる書斎に坐って、朝茶を飲み乍ら昨夜の恋の紛紜を考え出し熱く邪気ない恋をしてくれた小娘をああした邪慳な捨て方で捨ててしまったのがどうやら残り惜しくも思われれば、またあのような下流な女に関係って、もすこしで大事の青春を縛られてしまうところを、よくもまア我乍ら思い切ったものだなどと考えもしながら、半ばは気が尤めるような、半ばは重荷を下したような気持で四辺を眺めていると、ふと彼の眼に床に掛けたかの露月が筆になったおのが絵姿に注がれたのであるが、その瞬間、呉羽之介は思わずアッと驚きの声を揚げて、席を立って床の前に走り寄りました。
呉羽之介は毎日見馴れたおのが絵姿を眺めつつ、一体何を驚いたのでしょう! これが驚かずにいられようか――今朝見るあの絵姿の面影は、きのうのそれとは確かに変った表情をしているのです。
成程ひと目見流しただけでは、どんな変化があるか解らないまでに、絵姿の面貌は相変らず美しく姿は相変らず清楚としています。然しその眼元はあの無垢な光を失って一種鋭どい酷薄な光りを帯び柔しく綻びかかった花の莟のようであった唇の辺りには、妙に残忍な邪慳な調子が表われているのです。
「おお、一体こりゃどうしたものじゃ」
呉羽之介は戦慄しながら、なおもその絵姿に吸いつけられたように眺め入っていたが、やがて何やら思い付いたらしく、
「ああ、何という恐ろしい事だろう」
と呟きつつヘタヘタと其処に坐って頭を抱えてしまいました。
呉羽之介は此の絵姿が仕上げられた時、あの露月の庵で我を忘れて無宙に祈誓をしたことを想い出しました。おのが姿の世に優れて美しいのに気が付いた驚きと同時に、此の姿も年経るに従って老い衰えてしまう事のあまり口惜しさに、あの時悪魔魔神に祈って、どうぞこの絵姿をおのが身の代りに老い萎たれさせ、変化させ、そしてこの身を常若でいさせてくれたならば、未来は地獄にも落されようと誓ったのであった――それを呉羽之介は思い出しました。そして今更言い表わし難い恐怖の感じに身を震わしているのでした。
悪魔は実にあの時呉羽之介の怪しい祈りを納受したのです。そして何時の間にか魂が腐ってしまい、昨夜お春に対して挙動ったような邪悪無情な事をするようになった呉羽之介に相当する獰悪な表情を絵姿の上に加えたのであります。
呉羽之介は今更ながら、自分の魂の醜くさをまざまざと眼の前の絵姿の上に見せつけられて後悔慚愧に身の置き処もなく、まるで死んだもののように俯伏しているのであったが、ふと誰やらが近付いてくる跫音に、我れに返って起き直り、何気ない容子を装いました。
召使は一封の書面を齎したのです。受取って見ると、封書の裏に、「根岸の里にて、大戸片里」とかいてあります。
封押切って読んで見ます。
急々一書を裁し候昨夜は数々の御厚遇大謝大謝然るに今朝承及候えばかの舞妓春どの夜前小石川南海寺にて変死を遂げ候趣き驚き入り候右御伝聞未だしきやと存じ候えばお知らせ申候……。
此処まで読んで呉羽之介は色を失いました……さては自分の無情を怨んで、彼女は自害を企てたか……。呉羽之介は一たんは非常な驚きと悲みとに打たれたものの、暫しの後はいつもの心に返っていました。
そして魔の憑いた絵姿を見上げ、よしんばこれから七十年の月日が経っても、此の身は常に若々しく美しく、その代りにこの絵姿だけが年寄り老いるという不思議な事を、今は物恐ろしくは思わずに、却って嬉しく、よろこばしく感じ乍ら、会心の微笑を洩すのでした。
然し此の不思議な絵姿を、もし他人に見られたなら、世間に妙な評判が立って、自分を相手にする者もなくなろう――呉羽之介はやがて其処に気が注きました。そこで急に絵姿を床から外して、錦の袱紗で幾重にも包み、箱に納めて厳重に錠を下してしまったのであります。
おのが美容が不思議な魔神に護られていると悟ってからの呉羽之介は、ますます放埒無慚に陥って、もう静かに学問を楽しむことなどは忘れて了い、今日も明日もと花柳烟花の巷に日夜を送る、眼ぼしい美女と見れば秋波を寄せ、倦きて直ちにふり捨てて次の女を我が物とし、もう全くの遊蕩児となり終ったので、母人も悴の身の上を苦にして歿去したのであるが、呉羽之介の方ではそれを良いことにいよいよ魔道の歓びに、われを忘れて溺れ入るのでした。
そうして幾年か経るうちに、何時まで経っても変らぬ若さを怪しんで、幾らか妙な噂が立ち、不身持の評判も聞えはするが、どんな人でもただ一目、呉羽之介の無邪気そうな、艶やかな、なよなよした、罪も汚れもなさそうな姿を見ると、いままで抱いていた疑念もひとりでに晴れてしまった。ただ惚りとしてしまうのです。
それを知っているから悪賢い呉羽之介は、一つ処に長くは住まず、広い江戸の中をかしこ此処と移り住んで、身をくらまし乍ら益々悪事を重ねるのであります。
ある春の宵でした。今宵も呉羽之介は、此頃馴染んだ奥女中が丁度宿帰りの日に当るのを幸い、諜し合せた茶屋へ行こうと、小梅の隠れ家を出で立って、春夜の微風に頬快く吹かせ乍ら、吾妻橋へと差蒐かります。小唄口ずさみつつ橋の丁度半ばまで来たとき、通りすがった一人の武家が、薄闇に顔を透し見つつ声をかけました。
「呉羽之介どのではござらぬか?」
呉羽之介はその声音を聞いて渋い顔をした。もう小一年あまり出逢うたこともない、あの堅人の露月の声でありました。然しいともなつかしげに、
「これはこれは露月先生、ついお見それいたしました。その後存じながら御無沙汰」
「それはお互のこと――然し乍ら今此処で出逢うたは幸福。実は是非其方に逢わねばならぬ訳あって此頃御住居を片里に訊ね、小梅にまでお訪ねいたそうとしたところ……」
「それはそれは恐れ入りました。御用もあらば此方より、早速推参仕りましょうに」
呉羽之介はこの男と話すのが鬱陶しいのと、殊に今夜は女との出会の約束があるのとで、一刻も早く別れてしまおうとしました。
「今宵は折あしく、のっぴきならぬ所用があって、鳥渡其処まで行きます途中、何れ明日にも参上いたし、御用の趣きも承り、且つは久々にての御物語もお聴致し度う存じまする……」
「今宵は何ぞ用があると仰せらるるか」
露月は失望したように、
「なれどもそれは今夜に限った用でもあるまい。わしの用事は今夜に限るのじゃ――呉羽之介どの。拙者は此度九国への遍歴を思い立ち、素より絵かきの気楽な境涯も早親兄への暇乞も済まし、其方と今宵語り明して、明朝直ちに発足なそうと、御覧ぜられえ、此の通り旅の姿をいたして居る。遠い九国への旅立なれば、帰るのが何年になるやら、……まずまず今宵は拙者のために、貴用をのばしてくられよ」
見れば成程割羽織に草鞋はばき、両刀に鞘袋をかけた旅装でした。呉羽之介は振放しかねて、
「それはそれは。九国とはまた遠国へ……イヤナニ此方の用事は使で断わりましてもよろしいこと。それではこれより手前の住居へ、直ちにお伴いたしましょう」
やがて両人は小梅の隠家へ着いて、呉羽之介は客人をおのが居間へと招じ上げ、それから茶が出る酒肴が出ます。
暫しすると、かの露月は、何やら事ありげに呉羽之介を眺めつつ
「呉羽之介どの、実は密々にて少しく申上げたい儀がござる。暫時これなる酌人を遠ざけ願われますまいか」
呉羽之介はまた例時の諫言立てと思ったが、兎に角、左右の酌人を遠ざけて、
「御用と仰せらるるは、一体何事でござりまするか」
露月は凝乎と相手を眺めて、
「拙者が殊更其方に向って話し度いと言うのは外でもない。久方ぶりの其方に拙者とて素より気まずいことは言い度くないが、ま、少しは聴きづらいことなりとも、どうぞ忍んで聴いて貰おう……」
露月は扇を膝について容を正し、
「実は昨日さる処で、不思議なことをきいたのじゃ。絵かき仲間の四五人が拙者の旅出の祖道の宴を開いてくれたと思わっしゃれ、その席上での四方山語りに、さる仁が申すには、久しき前より花柳の巷を、色香床しき若衆が一人徘徊いたし、ひと度この者に出逢うが最後、如何なる心しまった女子なりとも、性根まで溶らかされ魔に魅入られたが如く心乱れ、遂には何れも命まで失う有様、然もこの若衆というは色里にさ迷うこと既に数年に及べども、何時眺めても年の此頃十七八にしか見えぬとか――彼奴は大方禁制の切支丹伴天連の秘法により、不老の魔術を行って、此の世を騒がす邪宗と見える。只今ではこの事漸く公けに聞え、上ではよりより詮議の最中――此の事を聞いた時拙者は其方を思い出した。ま、怒らずとお聴きゃれ、思い出ずれば八年前、其方に不忍池畔に出逢い、友の契を結んでより、拙者の情誼はいつも変らぬ。拙者は絶えずそなたの身状を案じておるのじゃ。しかるに其方は頑固すぎる拙者よりも、かの放蕩の片里を好み、だんだん拙者には疎くなったに依り、此頃では打絶えて訪れも交さねど、それは其方の求めた事で、決して拙者の本意ではない。その間かけ離れて三月に一度、年に一度思わぬ邂逅なすたびに、いつも拙者が怪しむのは、何時まで経っても其方の姿が、あの上野山下の奇遇の節と、寸分変らぬ美しさ、若々しさを保っているという事じゃ。な、呉羽之介どの人というものは、総てひと日ひと日年をとる。生れたての赤児より、八十の老人に至るまでいつもだんだん変ってゆくのが天の道理じゃ。しかるを其方がこのように、世にも不思議な何時までも、そのうら若さを保っているのは、迚も理窟で考えられぬ。其処でつい拙者も疑うのじゃ――呉羽之介どの。真逆に其方は世評の如く切支丹の邪宗を信奉なし、魔術を行うものではあるまい……しからば一体どうした訳で、かくも常若でおわすのじゃ。此の返答が承り度い」
呉羽之介は蒼ざめて聞いていたが、微かに笑ってまぎらすように、
「気もない事……若々しく見ゆると申せ、それは普通、私はまだ二十五にしかなりませねば、今から老けては溜りませぬ」
「仰言る勿。そのずれなこと、二十五になれば立派な侍、そのように女子に似た声とは声からして違うわ! 拙者は世評があまり高いに気にかかり、旅出の前の忙しさを擲ってわざわざ此事を訊ねに来たのじゃ。さ、ハッキリと返辞をなされ」
詰寄る露月を呉羽之介ははじめて冷やかに嘲笑うのでした。
「ははは、しからば露月先生。若し此の私が、伴天連の秘法を学ぶ者なれば、どうなさる御所存でござりまする」
露月は呉羽之介を睨めつけて、
「さる時には容赦は致さぬ。お上の縄にかけられて竹槍に肋を縫わるる前、せめては朋友の情に依り、此の拙者がこの場で命を貰うばかり――世評が真と解りなば、呉羽之介どのその場を立たせは申さぬぞ」
呉羽之介は、思い入ったような露月の面持を眺めて、もはやまぎらかすことも出来なくなり、今は自棄になって震える唇で言い放ったのでした。
「ま、措きめされ。露月どの」
言葉付きさえ暴々しく、「其方は私の身の上を、何やかやと悪く言うが、その悪口に相当した、卑しい私と成ったのも、もとはと言えば其方のせいじゃ」
「な、なんと言う――」
「そのずれな恐ろしい顔をせずと、今其方に見せてやるものがある程に、私についてこうおじゃれ」
呉羽之介は席をはなれ、露縁の下に置石の揃えてあった庭下駄をはき、庭に下り立ちて露月を招きます。露月は半ば疑い半ば怪しみつつも、招くがままに同じく庭下駄を突かけた。そして相手の導くままに、荒れるに委せた広い庭を奥へ奥へとたどってゆくのです。
やがて植込の一ばん奥の、こんもり茂った丘の上なる小さな堂の前まで来ると、呉羽之介は立止り、懐中から鍵を出して遣戸を開き先に立って堂内にはいりました。そして入口の棚にのっていた燧石をカチカチやって傍の雪洞に火を移し、戸口に立った露月を顧み、嘲るごとく言うのでした。
「さ、露月どの、わしの信仰する神様のあらたかな御影を拝まして進ぜるわ」
露月は刀を引付けて、油断なく屋内に入り、訝しの眼を
るのでした。やがて呉羽之介は堂内正面に安置された仏壇に似た龕に近づき、その扉をば又も鍵で押明けさてこの内に雪洞を差しつけ、
「これがわしの護神じゃ。善う見なされ!」
露月は眺めて、思わずアッと声を立てた、其処には一幅の絵姿が掛けてあります。若衆ぶりの立姿を描いたものだが、おお其の若衆の顔の恐ろしさ。眼は邪慾の光に物凄く輝き、額には疲れと恐怖の皺がたたみ、口元は色情の罪の歪みに引歪められて、毒々しい真紅な唇が妖怪らしく蒼ざめた顔色と物恐ろしい対照を作り、迚も人の姿とは思われぬ、まるで悪魔の姿でした。
「此れは何じゃ……テモ恐しい」
露月の詞を呉羽之介は嘲笑って、
「其方は覚えていやらぬか――今より八年前、其方が描いた私の姿じゃ」
露月は云われて初めて気が付いた。成程この絵姿の気付なら手にした白つつじなら、あの時自分で描いた呉羽之介の絵姿に相違ない。しかしこの顔はどうした訳……。
「其方があの時私の絵姿を描かなんだら、私も何も悪魔と親類にならずともよかったのじゃ。こう言ったら思い出さりょう」
呉羽之介は意地悪い声音で、
「あの時其方があのように私の姿を美しく描いて見せ、片里どのがさまざまと私の心を煽ったゆえ、私ははじめて自分の姿が世の万人にすぐれているのに気がついて、その折角の美しさが、年と共に衰えゆくのを口惜しく思い、哭き乍ら悪魔を呼んで、どうぞこの絵姿をわが身の代りに年寄らせ、わが身を常若であらせてくれえと祈ったのを、其方は忘れて了われたか。私も真逆にあの念願が届こうとは思わなんだが、どうした訳か受納されて、今では却ってわれとわが身がおとましいわ、あの時、其方が此の絵姿をさえ描かなんだら、すべて自然に此の私も、此の世を素直にすごせたのじゃ――なら、露月どの、私が卑しくなったのも、其方のせいじゃという訳が、今はよくよく解ったじゃろう……人というものが年寄ると醜くなるのは、身に行った罪尤が顔に写って表れるのじゃ。それゆえわしの真の面影にあるように醜く汚いものなのだが、悪魔の力でともかくも、かく常若でいられる訳……」
露月はまるで気を失って了ったように、茫乎として何時までも絵姿の面に見入っています――此の後姿を眺めていた呉羽之介は、露月に対する憤りが納まってくるに従って、ふと一種別な恐怖にとらわれはじめた。先程は露月のあまり手きびしい罵倒に我を忘れて、此の何も知らない絵かきの吐胆を抜いてやりたさに、自棄になって此の場へ導いて来たものの、考えて見れば此の男に、自分の大切な秘密を打明けてしまった訳だ――一体秘密というものは、誰れにか一人に知られれば、軈て天下周知の事となります。秘密すべき事ほど話したいが人情、此の露月がこの事を言い触して歩いた時には、もはや世の中が怪しい評判を立てていると言う処へ、一層の不思議な世評を捲き起してしまうだろう。しかも評判だけならよいが此の男の証言はあらゆる世評にちゃんとした証拠を与える――そうなればこの自分は、すでにもう天下に身をかくすところもありませぬ。
呉羽之介は決心して、物凄い眼をギラリと光らせ、気抜けのしたような露月の油断を見すまして、腰の小刀をソッと抜き、後ろから脊筋の脇を切先深くズバと突きました。露月はアッと叫びざま、虚空をつかんで呻いたが、呉羽之介は猿臂を伸して藻掻く相手を組伏せたまま、小刀逆手にズバズバと細首を掻き切って了いました。
しばし後呉羽之介は、我家の庭を盗人の如く足音忍んで、玄関の方へ廻って見ましたが、幸い召使もいない様子なので、脱いであった草鞋ばきや両掛の小さな荷物を取集め、堂門の死体の側へ運んで来て、畳をはがして縁の下の土を大刀で深く掘り、死体は勿論証拠となるべき一切を埋めて了い、ひきちぎった襦袢の袖に泉水の水を浸して畳の血汐を洗い去り、入口の錠を厳重に下して、何気ない顔で家に帰れば、召使達は勝手元に待くたびれて居汚く居睡っています。
「これよ」
と呉羽之介は態と高く呼びました。
召使どもは驚いて眼を醒ました。
「客人は只今裏門よりお帰りなされたゆえ、もはや其方達も休むがよい。大分更けた」
丁度遠路へ旅立つ折であった故、露月の姿が江戸から急に消え去っても、誰れも怪しむ者はありませんでした。
呉羽之介、お春の兄に劫かされ、
のち怪死を遂ぐる事
のち怪死を遂ぐる事
ちぬのうら波うらうらと、眠るは春の凪日和、沖の凩吹っ立って、
鞳の浪凄まじき此処は堺の港まち、荒けの空とぶ綿雲の切間を、覗く冬月の、影物凄き真夜中ごろ、廓に近き裏町を黒羽二重に朱色の下着、若衆髷を少し乱れて、飄零として歩いてゆく、世に美しい青年がありました。それはかの呉羽之介で、露月を殺してのち幾年か江戸に棲んでいたが、やがて広い江戸さえ狭くなり、今は片里にすら別れの詞を交さずに、忍んで西へ下ったのです。京、大阪も一通り、流れて遂にこの港へと迷い込み、今宵も宿より、廓へと美女を漁りに行く途中。もとより長き放埒に、貧しく乏しくなりはしても、玉より輝く美容のために身を粉にしても、入揚ぐる娼婦の数も稀くないのでした。とある汚い酒店で流れの女を相手にして飲み酔っている一人の荒くれ男がいたが、丁度その時その店先を通りかかった呉羽之介を指して傍の女が何やら囁くやいなや、矢庭に血相変えて、店を飛出し、呉羽之介の行手に突立ち、懐から取出した種ヶ島を突きつけながら怒れる声に叫ぶのでした。
「やおれ、妹の敵――逃がすものか!」
呉羽之介は飛び退って刀へ手を掛け乍ら、
「妹の敵? 私は敵呼わりされる覚えはない」
「言って聴せる。よく聞けよ。今から十年余り前お主に捨てられて自害した、お春が兄の久次は俺だ。常々妹に言ってきかせた通り、あれを邪慳にした奴をば、俺は皆敵を取る、ぐずぐず言わずに往生しろ」
呉羽之介は、ギックリしました。が、やがてカラカラと嘲笑って、
「十年余り前私が女を捨てたとナ――つまらぬ事を言わぬがよい。さア、私の顔を見よ」
男は不審な顔付になって、月の光に相手の面輪を透し見ました。そして呆気にとられて手の種ヶ島を取落しました。
「成程これは無調法……十年前なら其方はまだ子供でござったろう――やあ、思わぬ罪を作るところ何卒平にゆるして下され人違いじゃ」
「ははは。気をつけたがよい」
船乗らしい件の男は、取落した種ヶ島を力なく拾って、トボトボと前の酒店へ帰ってゆきます。
「どうして生かして助けたぞえ」
以前に呉羽之介を指して囁いた流れの女が男に言いました。
「どうしても、こうしても……お主のお蔭で罪もない若衆を殺すところ、妹が死んだ頃あの仁はまだ子供じゃったぞ」
「そんならお前は知らぬのかえ、あの男は万年若衆と江戸で名高い、いつまで経っても若衆でいる妖怪なのじゃ。わしが吉原にいた頃からあの男はいつもあの年頃……」
「そりゃ真個か!」
「真個も嘘も――名高い事じゃ」
と聴いた男は狂気の如く、再び呉羽之介の行方を追いかけました。
けれども、もう、呉羽之介の姿はどこにも見えません。
一方、呉羽之介は、男の手から逃れるや否や細い横丁へと駈け込んで、人無き方へと逃げのびました。
到頭呉羽之介がさ迷いついたのは、屋根も朽ち壁も落ちた破れ寺の境内でした。胸の動悸を静めるために、こおるが如きかけひの水を一掬して、冷たい石段に腰を下しました。
と、折しも本堂では、老僧の声で物も哀れに普門品を読誦しつつ、勤行の鉦の音が寂しくきこえて来ます。
呉羽之介は耳を傾けるともなく、心耳を清くして聴き入りました。
その純い読経の声が、汚れた彼れの胸に呼び起したのは何でありましたろう。その後一度も思い出しもせなんだ、あの初めの女のお春の面影でした……まことに、あの兄なる者の言う通り彼女を殺したのは手を下さずとも此の自分でなくて何人か?
呉羽之介は不思議にも、先程の恐ろしい出来事と今聴く淋しき看経の声とに頭が擾され、今迄の来し方を思い出しました。
総て、総て、罪でした――罪のつらなりでした。
何人の女が、自分に迷って死んだであろう……あまつさえ、旧い朋友を、刃にかけた事さえあるのです。
呉羽之介は我にも非ず戦慄しました。そして今迄の自分の罪悪が呪わしく、その呪わしい罪の源となった、かの絵姿が堪えがたく呪わしく成るのでした。
「よいよい。私も此処等が悟りを開く時じゃ。今迄随分限りなく愛されもし、酔い溺れもした。肉の歓びは、じゃが、どこまで繰り返しても同じこと……私は退屈した。此れからはあの御坊の弟子にもなって、有縁の人々の後世専一と祈ろうよ……」
呉羽之介は発心して、淋しく微かに笑を浮べました。そして虚無僧の尺八の如く背負った、背なる錦の袋を取って開けひらき、中からかの絵姿を取り出して、月の光に翳して見るのでした。
何という恐ろしい面影――。
「此れが私の罪の塊じゃ。まずこれを裂き捨てよう……」
呉羽之介は小刀を抜き放って、絵姿の若衆の胸板眼がけて突刺しました。と、その途端、彼れはキャッと悲鳴を発して前へと打倒れました。
其の悲鳴をききつけて、寺僧は本堂から下りて来ました。そして誰やら旅人が、おのが胸板を突き刺して、只一突で死んでいるのを見出しました。その旅人の顔は、一眼見ただけでも前世の罪業の思い遣られるほど、物凄い醜さでした。口は色情に歪み、眼は邪慳に光り、額に罪の皺が寄り、何とも言えぬ顔です。
そしてその枕上に、一枚の美しい若衆の絵姿が落ちていました。この絵姿の若衆の顔はやさしく晴々しく邪気なく、この若衆が手にした白躑躅のそれよりも浄い浄い姿でした。
悪魔の手で取り変えられていた魂は今再び元の胸へ帰りました。呉羽之介の体は罪の魂と一緒に醜く死にました。そして絵姿は昔の美しさを永劫に蘇らせて生き残こりました。
此は元禄の、世にも不思議な怪異談であるのです。