あらすじ
「花の咲く前」は、都会で暮らす少年、幸吉の心温まる物語です。幸吉は、街で出会う人々や動物と触れ合い、様々な出来事を通して成長していきます。特に、不幸な野犬のジャックとの出会いは、幸吉の心の奥底に深く刻まれます。都会の喧騒の中で、幸吉は自分の居場所を探し、そして大切なものを知っていくのです。優しい小川未明の筆致で描かれた、どこか哀愁漂う少年の心の機微が光る作品です。
 赤(あか)い牛乳屋(ぎゅうにゅうや)の車(くるま)が、ガラ、ガラと家(いえ)の前(まえ)を走(はし)っていきました。幸吉(こうきち)は、春(はる)の日(ひ)の光(ひかり)を浴(あ)びた、その鮮(あざ)やかな赤(あか)い色(いろ)が、いま塗(ぬ)りたてたばかりのような気(き)がしました。それから、もう一つ気(き)のついたことは、この車(くるま)がいってしまってからまもなく、カチ、カチという拍子木(ひょうしぎ)の音(おと)がきこえたことです。昨日(きのう)もそうであったし、一昨日(おととい)もそうであったような気(き)がするのです。
「不思議(ふしぎ)だなあ、牛乳屋(ぎゅうにゅうや)の車(くるま)と、紙芝居(かみしばい)のおじさんと、どうして、いつもいっしょにくるのだろうな。」と、ブリキ屋(や)の店(みせ)から、外(そと)を見(み)ていた幸吉(こうきち)は、思(おも)ったのでした。
 紙芝居(かみしばい)は、今日(きょう)も、赤(あか)トラのつづきをやるにきまっています。赤(あか)トラの話(はなし)は、なかなか長編(ちょうへん)なんでした。おじさんはじめ、子供(こども)たちは、みんな赤(あか)トラを悪(わる)いねこだといっていましたけれど、幸吉(こうきち)は、心(こころ)の中(なか)で赤(あか)トラに同情(どうじょう)していました。なぜなら、もとをいえば人間(にんげん)が悪(わる)いからです。三びきの子(こ)を産(う)むと、一ぴきは、近所(きんじょ)の子供(こども)が追(お)いかけて、どぶの中(なか)へ落(お)としたし、一ぴきは、だれかが連(つ)れていってしまったし、もう一ぴきは、車(くるま)に足(あし)をひかれたので、母(はは)ねこは、そのたびに悲(かな)しんで気(き)が狂(くる)いそうになり、ついに仕返(しかえ)しをしようと決心(けっしん)するようになりました。赤(あか)トラは人(ひと)の家(うち)へ入(はい)り込(こ)んで、はじめのうちは、金魚(きんぎょ)をとったり、カナリヤを食(た)べたり、お膳(ぜん)についているお魚(さかな)をさらったりしたくらいのものですが、だんだんいたずらが募(つの)って、赤(あか)ん坊(ぼう)をひっかいたり、お嬢(じょう)さんの手提(てさげ)を失(な)くしたり、取(と)り返(かえ)しのつかないことをするようになりました。しまいには、「赤(あか)トラ」と、きくと、みんなが震(ふる)えあがるようになりました。
 中(なか)には、槍(やり)や、鉄砲(てっぽう)を用意(ようい)しておいて、きたら退治(たいじ)してやろうと待(ま)ちかまえているものもありましたが、神通力(じんずうりき)を得(え)ました赤(あか)トラは、なかなか人間(にんげん)の目(め)には入(はい)りませんでした。
 いつ忍(しの)び込(こ)んできて、いつそんないたずらをするかわからないので、まったく悪魔(あくま)のしわざとしか思(おも)われなくなりました。町(まち)の人(ひと)たちは、夜(よる)になると心配(しんぱい)でろくろく安眠(あんみん)はできなかったのです。
 ここにK技師(ケーぎし)という、若(わか)い発明家(はつめいか)があって、赤(あか)トラの話(はなし)をきくと、たいそう腹(はら)を立(た)てました。
「世間(せけん)を騒(さわ)がせる悪(わる)いねこだ。いかほどの神通力(じんずうりき)があるにせよ、科学(かがく)の力(ちから)にはかなうまい。私(わたし)が退治(たいじ)してやろう。」と、電気(でんき)を応用(おうよう)して、いよいよ、赤(あか)トラと勝負(しょうぶ)を決(けっ)することになったのです。
 ここまでは、幸吉(こうきち)が見(み)た、話(はなし)のあらましでありました。
「きょうは、どうなるだろうか?」
 彼(かれ)は家(うち)にじっとしていられませんでした。ちょうど叔父(おじ)さんが、店(みせ)にいなかったので、幸吉(こうきち)は、酒屋(さかや)の前(まえ)の空(あ)き地(ち)の方(ほう)へ走(はし)っていきました。

 子供(こども)たちは、空(あ)き地(ち)に積(つ)んである砂利(じゃり)の上(うえ)へ登(のぼ)ったり、空(あ)き箱(ばこ)の上(うえ)にすわったりして、紙芝居(かみしばい)のおじさんを取(と)り巻(ま)いていました。自転車(じてんしゃ)の上(うえ)の小(ちい)さな箱(はこ)の舞台(ぶたい)の中(なか)には、見覚(みおぼ)えのある赤(あか)トラの絵(え)が出(で)ていました。七、八人(にん)も子供(こども)があめを買(か)わなければ、おじさんは、説明(せつめい)をはじめないのが常(つね)でありました。
「まだはじめないかなあ。」と、待(ま)ちくたびれて、いっている子供(こども)もありました。
 自転車(じてんしゃ)に乗(の)って、そばを通(とお)りかけた小僧(こぞう)が、わざわざ自転車(じてんしゃ)を止(と)めて、子供(こども)たちの中(なか)にまじって、おじさんの説明(せつめい)をきこうとしているのも見受(みう)けられます。
 茶色(ちゃいろ)の古(ふる)びた帽子(ぼうし)を斜(なな)めにかぶった、口(くち)ひげのあるおじさんは、なんとなくずるそうな目(め)つきをして、自分(じぶん)のまわりに立(た)っている子供(こども)たちの顔(かお)を見(み)まわしました。そして、心(こころ)の中(なか)で、いつもくる子供(こども)たちがみんな集(あつ)まったかと、一人一人(ひとりひとり)の顔(かお)をしらべているようにも見(み)られました。おじさんは、いつも買(か)ってくれる子供(こども)の顔(かお)は、よく覚(おぼ)えているのでしょう。そして、その中(なか)に幸吉(こうきち)が立(た)っていると、おじさんの、そのずるそうな目(め)つきは幸吉(こうきち)の顔(かお)の上(うえ)に止(と)まりました。おじさんは、幸吉(こうきち)にさも皮肉(ひにく)そうに、
「おまえ、このごろ買(か)わないな。」といいました。幸吉(こうきち)が、いつも汚(きたな)らしいふうをしていたからでもありましょう。また、めったにあめを買(か)わないので、紙芝居(かみしばい)のおじさんにとって、けっしていい得意(とくい)でなかったのも事実(じじつ)です。
 しかし、幸吉(こうきち)は、みんなの前(まえ)で、こんなことをいわれていい気持(きも)ちはしませんでした。彼(かれ)は、だまって、ただ顔(かお)を真(ま)っ赤(か)にしているには、もっと勇気(ゆうき)がありました。また、そんなことをいわれる理由(りゆう)もないように感(かん)じました。彼(かれ)は、おじさんに向(む)かって、
「買(か)いたくないから、買(か)わないのだよ。」と、きっぱりといいました。彼(かれ)は、すくなくも侮辱(ぶじょく)に対(たい)する仕返(しかえ)しをしたように、小(ちい)さな肩(かた)をぐっと上(あ)げたのです。
「ふん。」と、おじさんは、いったきりで、あっちを向(む)いてしまいました。
「そんなこと、どうでもいいから、早(はや)くおはじめよ。」と、一人(ひとり)の子供(こども)が叫(さけ)びました。
「もうすこし待(ま)ちな、いまはじめるから。」と、おじさんは、お客(きゃく)の気(き)を損(そん)じまいとしました。
 幸吉(こうきち)は、いつまでも立(た)っていてお話(はなし)をきこうとはしませんでした。独(ひと)り、みんなからはなれて、あちらへ歩(ある)いていきました。彼(かれ)の心(こころ)の中(なか)は、なんとなくさびしかったのです。
 黒(くろ)い常磐木(とわぎ)の林(はやし)があった、その下(した)へきました。じきに花(はな)の咲(さ)く季節(きせつ)だったけれど、ここだけは、まだ冬(ふゆ)が残(のこ)っているように風(かぜ)が冷(つめ)たかったのです。彼(かれ)は、この冷(つめ)たい風(かぜ)が、かえって、哀(かな)しい自分(じぶん)の胸(むね)にしみるように、いつまでもここにいて、風(かぜ)に吹(ふ)かれていたい気持(きも)ちがしました。足音(あしおと)がしたので振(ふ)り向(む)くと、こちらへ駆(か)けてくる女(おんな)の子(こ)の赤(あか)いたもとが見(み)えました。
「幸吉(こうきち)さん、早(はや)くいらっしゃいよ。私(わたし)お金(かね)を持(も)っているわ。」と、日(ひ)ごろから親(した)しいみつ子(こ)さんが、いいました。みつ子(こ)のお父(とう)さんは、大(おお)きな会社(かいしゃ)に勤(つと)めているとかで、みつ子(こ)は、いつも幸福(こうふく)そうでした。けれど、幸吉(こうきち)には、そのことが、なんの関係(かんけい)もなかったのです。
「みつ子(こ)さんが、きけばいいじゃないか。」と、幸吉(こうきち)は、白(しろ)い目(め)で、みつ子(こ)の顔(かお)を見(み)ました。
「あんたもいらっしゃいよ。」
 みつ子(こ)は、独(ひと)りはなれていった幸吉(こうきち)を心(こころ)の中(なか)で気(き)の毒(どく)に思(おも)ったので、追(お)いかけてきたのです。
 あちらでは、おじさんのおもしろそうに声色(こわいろ)を使(つか)っているのが、きかれました。
「僕(ぼく)、きかなくていいんだよ。」
 幸吉(こうきち)は、このうえ、自分(じぶん)を連(つ)れていこうとするのは、自分(じぶん)を降伏(こうふく)させるものだと思(おも)ったので、つい怒(おこ)り声(ごえ)を出(だ)したが、しまいにそこにいたたまらなくなって、またあてもなく駆(か)け出(だ)していきました。

 幸吉(こうきち)が店(みせ)へ帰(かえ)ると、仕事場(しごとば)に立(た)っていた叔父(おじ)さんは、さも手柄顔(てがらがお)をして、
「ジャックの奴(やつ)、うまく物置(ものおき)へ入(い)れて閉(し)めてしまった。いまに犬殺(いぬころ)しがきたら引(ひ)き渡(わた)してくれるのだ。」といいました。幸吉(こうきち)は、これをきくと、どきっとしました。なにか真(ま)っ黒(くろ)な手(て)で胸(むね)を押(お)さえつけられたような気味悪(きみわる)さを感(かん)じました。「赤(あか)トラ」の話(はなし)に強(つよ)く心(こころ)を惹(ひ)かれたのも、このジャックという年老(としお)いた不幸(ふこう)の野犬(やけん)のことが、たえず頭(あたま)の中(なか)にあったからでした。叔父(おじ)は、どういうものかジャックを心(こころ)から憎(にく)んでいるのでした。それにはたいした理由(わけ)があるのでなく、ただこの哀(あわ)れな黒(くろ)い毛(け)の汚(よご)れた老犬(ろうけん)を見(み)ると、むらむらと憎(にく)くなるというふうでした。幸吉(こうきち)は、それを怖(おそ)ろしいことのように思(おも)いました。幸吉(こうきち)は、あるときには、たまりかねて、叔父(おじ)さんの顔(かお)を見上(みあ)げながら、
「叔父(おじ)さん、ジャックをかわいがっておやりよ。かわいそうじゃないか。」といいました。
「どういうものか、あいつはきらいでな。ひどいめにあわせてくれなけりゃ。」と、叔父(おじ)は、金(かな)づちを手(て)に握(にぎ)って、きたら投(な)げつける身構(みがま)えをしていました。
「なにも悪(わる)いことをしないじゃないか。」と、幸吉(こうきち)は、つくづく叔父(おじ)さんの顔(かお)を見(み)て、どうしてこの哀(あわ)れな犬(いぬ)だけに無情(むじょう)なことをするのだろう、ほかの犬(いぬ)には、やさしくしてやるのにと思(おも)ったのでした。
「あいつが、植木鉢(うえきばち)に小便(しょうべん)をかけたし、いつかくつが片方(かたほう)失(な)くなったのも、きっとあいつがどこかへくわえていったのだ。」と、叔父(おじ)は、答(こた)えたが、なんの理由(りゆう)もつけずにいじめるのは、自分(じぶん)でも気(き)がとがめるからだと、幸吉(こうきち)には、思(おも)われました。
 しかし、いまはそんなときでない。ジャックが物置(ものおき)の中(なか)に入(い)れられて、戸(と)を閉(し)められたときいては、じっとしてはいられなかったのです。
「なんで物置(ものおき)の中(なか)へ入(はい)ったのだろうな。」と、幸吉(こうきち)は、あの年(とし)を取(と)っていてもりこうで、敏捷(びんしょう)な犬(いぬ)がと不思議(ふしぎ)に思(おも)いました。
「犬殺(いぬころ)しに追(お)われてきたんだ。逃(に)げ場(ば)がないので、物置(ものおき)の中(なか)へ隠(かく)れたのだよ。」と、叔父(おじ)は、ところもあろうに、おれの家(いえ)の物置(ものおき)の中(なか)へ隠(かく)れたのが、あいつの運(うん)の尽(つ)きだったと、せせら笑(わら)いをしていました。幸吉(こうきち)は、またかわいそうに、自分(じぶん)が平常(いつも)ジャックをかわいがってやるものだから、助(たす)けてくれると思(おも)って、家(うち)の物置(ものおき)にきて隠(かく)れたのだ。もし、このまま犬殺(いぬころ)しに引(ひ)き渡(わた)してしまったら、ジャックはどんなに自分(じぶん)をうらむかしれない。よし、助(たす)けてやろうと、決心(けっしん)しました。
 あちらで、しきりに犬(いぬ)の遠(とお)ぼえをする声(こえ)がしていました。犬殺(いぬころ)しが近(ちか)づいてきたのを警戒(けいかい)して、仲間(なかま)に知(し)らせているのです。幸吉(こうきち)は、すぐに裏手(うらて)へまわりました。彼(かれ)の足音(あしおと)をききつけると、暗(くら)い物置(ものおき)の中(なか)から、訴(うった)えるように、すすりなく犬(いぬ)の悲鳴(ひめい)がしました。
「ジャック! 早(はや)く遠(とお)くへ逃(に)げろ。」
 幸吉(こうきち)が、戸(と)を開(あ)けると、黒犬(くろいぬ)は、弾丸(だんがん)のように飛(と)び出(だ)して、叔父(おじ)さんが、仕事(しごと)をしている店先(みせさき)のブリキ板(いた)を蹴散(けち)らして、路次(ろじ)を抜(ぬ)けて原(はら)っぱの方(ほう)へ逃(に)げていったのです。
「ばかやろう、なんで犬(いぬ)を出(だ)したのだ!」と、叔父(おじ)さんは、幸吉(こうきち)の頭(あたま)をなぐろうとしました。幸吉(こうきち)は、手(て)の下(した)をくぐって、自分(じぶん)も犬(いぬ)の後(あと)を追(お)って逃(に)げたのであります。
 しかし、ジャックの姿(すがた)は、どこにも見(み)えませんでした。彼(かれ)は、町(まち)を離(はな)れたさびしい原(はら)っぱの中(なか)に立(た)って、口笛(くちぶえ)を鳴(な)らしました。どこへいってしまったか、ジャックはやってきませんでした。
 いつも、こうして口笛(くちぶえ)を吹(ふ)けば、遠(とお)くからききつけて、駆(か)けてきたものです。彼(かれ)は、家無(いえな)しのジャックを思(おも)うと、心(こころ)の中(なか)が悲(かな)しかったのでした。
 幸吉(こうきち)は、しばらく茫然(ぼうぜん)として、考(かんが)えながら立(た)っていました。あちらに見(み)える高(たか)い煙突(えんとつ)は、町(まち)のお湯屋(ゆや)か、それとも工場(こうじょう)の煙突(えんとつ)らしく、黒(くろ)い煙(けむり)が早春(そうしゅん)の乳色(ちちいろ)の空(そら)へ、へびのようにうねりながら上(あ)がっていました。
「あ、田舎(いなか)の家(うち)へ帰(かえ)りたいな。」
 幸吉(こうきち)は、自分(じぶん)には、帰(かえ)る家(うち)があるのだと思(おも)いました。そう思(おも)うと、しみじみと故郷(こきょう)の村(むら)が恋(こい)しくなりました。

 ジャックは、森(もり)の中(なか)へ深(ふか)く入(はい)ってゆきました。彼(かれ)の後(あと)からは、びっこの白犬(しろいぬ)と、耳(みみ)の垂(た)れた斑犬(まだらいぬ)がついていきました。そして、たがいにジャックの右(みぎ)になり、左(ひだり)になりして、ジャックの身(み)を護衛(ごえい)するように注意深(ちゅういぶか)く先方(せんぽう)を見(み)つめていました。すぎや、松(まつ)の木(き)のしげった森(もり)の中(なか)にはところどころ日(ひ)の光(ひかり)が、にじのごとく洩(も)れて下(した)のささの葉(は)を明(あか)るく照(て)らしています。ここまでは彼(かれ)を追(お)ってくるものがありません。野犬(やけん)の一群(ぐん)は、ジャックを中心(ちゅうしん)にして、自分(じぶん)たちの生活(せいかつ)を営(いとな)むことにしました。彼(かれ)らは、どこへいくにも一塊(ひとかたまり)となって、いつでも敵(てき)に当(あ)たる用意(ようい)をしていました。犬(いぬ)たちの間(あいだ)にも、戦(たたか)って弱(よわ)いものは、強(つよ)いものに絶対(ぜったい)に服従(ふくじゅう)するというおきてがあって、夜(よる)になると、どこかの飼(か)い犬(いぬ)が、畜犬票(ちくけんひょう)をチャラチャラと鳴(な)らしながら、牛(うし)の骨(ほね)や、パンくずなどをくわえて、彼(かれ)らの機嫌(きげん)を取(と)るべく森(もり)の中(なか)へ持(も)ち運(はこ)ぶのもありました。
 ある日(ひ)、幸吉(こうきち)は、ジャックのことを思(おも)い出(だ)しました。
「ジャックは、どうしたろうか。」
 往来(おうらい)へ出(で)ると、紫色(むらさきいろ)の美(うつく)しい着物(きもの)をきたみつ子(こ)が遊(あそ)んでいました。日(ひ)の光(ひかり)の中(なか)に、ぱっと花(はな)が咲(さ)いたように、道(みち)の上(うえ)までがまぶしかったのです。
「みつ子(こ)さん、赤(あか)トラはどうなった?」
 幸吉(こうきち)は、このごろ、カチカチという拍子木(ひょうしぎ)の音(おと)をきいても、いくことがなかったのです。
「とうとうK技師(ケーぎし)に、電気(でんき)で殺(ころ)されちゃったのよ。」
「かわいそうだね。」
「だって、赤(あか)ん坊(ぼう)をひっかいたり、人間(にんげん)にかみついたりするんですもの、しかたがないわ。」
「どこかへゆくの?」
 幸吉(こうきち)は、みつ子(こ)にたずねました。
「叔母(おば)さんがいらして、お母(かあ)さんと三人(にん)でお買(か)い物(もの)にいくの。幸吉(こうきち)さんにお土産(みやげ)を買(か)ってきてあげるわね。」と、みつ子(こ)は、ぱっちりとした黒(くろ)い目(め)で幸吉(こうきち)を見(み)ました。
「みつ子(こ)さん、もう僕(ぼく)、晩(ばん)にいないかもしれない。」と、幸吉(こうきち)は、じっとみつ子(こ)の顔(かお)を見返(みかえ)すと、みつ子(こ)も、ちょっと驚(おどろ)いた顔(かお)つきをしたが、すぐにいきいきと笑(わら)って、
「そんなことうそよ、だましたって知(し)っているわ。」と、くるりと彼方(むこう)を向(む)いて、駆(か)け出(だ)していきました。げたについている鈴(すず)の音(おと)が、リンリンと幸吉(こうきち)の耳(みみ)にきこえました。
 軽気球(けいききゅう)の上(あ)がっているであろう、遠(とお)い町(まち)の空(そら)はかすんでいました。こうして耳(みみ)をすますと、大海原(おおうなばら)の波音(なみおと)のように、あるいは、かすかな子守唄(こもりうた)のように、都会(とかい)のうめきが、穏(おだ)やかな真昼(まひる)の空気(くうき)を伝(つた)ってくるのです。幸吉(こうきち)は、原(はら)っぱへいったが、原(はら)っぱには、だれも遊(あそ)んでいませんでした。丘(おか)の木立(こだち)は、みんなうす紅(あか)く色(いろ)づいていました。あちらの高(たか)い煙突(えんとつ)からは、今日(きょう)も黒(くろ)い煙(けむり)が上(のぼ)っていました。幸吉(こうきち)は、その煙(けむり)を見(み)て、明日(あす)も、明後日(あさって)もまたこのように立(た)ち上(のぼ)ることであろうと思(おも)ったのです。
 まだ霜(しも)で枯(か)れたままになっている、草株(くさかぶ)の上(うえ)へ腰(こし)を下(お)ろすと、黄色(きいろ)な小(ちい)さいちょうが、風(かぜ)に吹(ふ)かれて目(め)の前(まえ)を飛(と)んでいきました。幸吉(こうきち)は、年(とし)ちゃんや、正(しょう)ちゃんたちと、ボールを投(な)げて遊(あそ)んだ去年(きょねん)の秋(あき)の日(ひ)のことを思(おも)い出(だ)していました。
 このとき、突然(とつぜん)後方(うしろ)から、飛(と)びついて幸吉(こうきち)の頭(あたま)を抱(かか)えたものがあります。
「あっ、ジャックだ!」
 彼(かれ)は、びっくりしたよりは、踊(おど)り上(あ)がったほど喜(よろこ)びました。そして、ジャックと原(はら)っぱで相撲(すもう)を取(と)りました。
「ジャック、どこにいたんだい。僕(ぼく)、晩(ばん)に田舎(いなか)へ帰(かえ)るんだ、もうあえないのだぜ。」
 知(し)らずに熱(あつ)い涙(なみだ)が、目(め)の中(なか)からわいて出(で)ました。ジャックは、いったことがわかるのか、幸吉(こうきち)の涙(なみだ)にぬれた顔(かお)を舌(した)でぺろぺろとなめています。
 遠(とお)くで、ほかの犬(いぬ)のなき声(ごえ)がしました。すると、ジャックは、急(きゅう)に幸吉(こうきち)を振(ふ)り捨(す)て、あちらへ走(はし)っていってしまいました。

 がんこの叔父(おじ)さんが、たいそう機嫌(きげん)がよくジャックの頭(あたま)をなでています。そのそばに紫色(むらさきいろ)の長(なが)いたもとの着物(きもの)をきたみつ子(こ)さんが立(た)って、見(み)て笑(わら)っていました。あちらで、拍子木(ひょうしぎ)の音(おと)がすると、年(とし)ちゃんや、正(しょう)ちゃんが、
「紙芝居(かみしばい)のおじさんがきたよ。」と、駆(か)け出(だ)していきました。
 幸吉(こうきち)は、自分(じぶん)もいこうかと思(おも)ったとき、ふいにガタンと体(からだ)が揺(ゆ)れたので、眠(ねむ)りから覚(さ)めたのです。彼(かれ)は、田舎(いなか)行(ゆ)きの汽車(きしゃ)に乗(の)って、夢(ゆめ)を見(み)ていたのでした。
 昨夜(さくや)、叔父(おじ)さんが、荷物(にもつ)を持(も)って、停車場(ていしゃじょう)まで送(おく)ってくれました。夜(よ)が明(あ)けると、汽車(きしゃ)は、広々(ひろびろ)とした平野(へいや)の中(なか)を走(はし)っていました。車中(しゃちゅう)には、眠(ねむ)そうな顔(かお)をした男(おとこ)や女(おんな)が乗(の)っていました。窓(まど)から外(そと)を見(み)ると、あたりの田圃(たんぼ)や、雑木林(ぞうきばやし)は、まだ冬枯(ふゆが)れのしたままであって、すこしも春(はる)の気分(きぶん)が漂(ただよ)っていなかったのです。山々(やまやま)には、雪(ゆき)が真(ま)っ白(しろ)に光(ひか)っていました。汽車(きしゃ)は、だんだんその山(やま)の方(ほう)に近(ちか)づいていきました。そして、ある駅(えき)へ着(つ)いたときに、幸吉(こうきち)は、いままで乗(の)ってきた汽車(きしゃ)と別(わか)れて、ほかの客車(きゃくしゃ)へ乗(の)り換(か)えなければならなかったのです。これから自分(じぶん)を乗(の)せてゆく汽車(きしゃ)は、もうちゃんとあちらで待(ま)っていました。形(かたち)が旧式(きゅうしき)で色(いろ)も古(ふる)びていました。幸吉(こうきち)は、自分(じぶん)がだんだん都(みやこ)から離(はな)れてゆくという、さびしい気(き)がしました。
 その日(ひ)の晩方(ばんがた)、彼(かれ)は、故郷(こきょう)の生(う)まれた家(うち)へ帰(かえ)ったのです。そして、幾年(いくねん)ぶりかで、お母(かあ)さんのそばに床(とこ)を敷(し)いてもらって寝(ね)ることができました。夜中(よなか)に目(め)をさまして、小便(しょうべん)に起(お)きました。
 彼(かれ)は、戸(と)を開(あ)けて戸口(とぐち)に出(で)ると、青(あお)ざめた星晴(ほしば)れのした空(そら)は、忘(わす)れていた、なつかしい幼(おさな)い日(ひ)の物語(ものがたり)をしてくれますので、しばらくその昔語(むかしがた)りにききとれて、じっと目(め)をみはっていると、遠(とお)くで、
「ウオー、ワン、ワン。」という犬(いぬ)のほえ声(ごえ)がしました。
「ジャックだ!」
 幸吉(こうきち)は、こう叫(さけ)んだものの、ジャックの声(こえ)が、こんなところまできこえるはずのないことを悟(さと)りました。彼(かれ)は、泣(な)きたいような気持(きも)ちがしました。ただ、あのとき、ジャックを助(たす)けてやってよかったと独(ひと)り心(こころ)の中(なか)で満足(まんぞく)して、また床(とこ)へ入(はい)って眠(ねむ)りました。
了

底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社
   1977(昭和52)年9月10日
   1983(昭和58)年1月19日第5刷
底本の親本:「未明童話 お話の木」竹村書房
   1938(昭和13)年4月
初出:「お話の木」
   1937(昭和12)年5月
※表題は底本では、「花(はな)の咲(さ)く前(まえ)」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2016年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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