あらすじ
三十歳を超えた男が、北国で長い年月を過ごした経験から、鱒の卵を生むための命がけの旅について語ります。雄と雌の鱒は、川下から遠い上流を目指し、命をかけて卵を産み、その役目を終えた雌は流れに身を任せ、静かに息を引き取ります。その姿に、語り手は深い感動と哀しみを感じ、鱒たちの愛と生命への執念を、美しい愛の発露として称えます。
濃緑のあかだもの木の下にて
三十を越えた
四十あまりの人の話をきく
二十余年北国の地に流浪して
絶えず山水に親しみながら
生活を続けて来た人の話である
面は陽に赫(や)けている
ひげはおとなしくあご一面に
ぼうぼうと生えている
アイヌとも妥協して
或は独木(まるき)舟に乗り激流をさか上(のぼ)った
事もあると言う
熊狩りに魚捕りに
野に山に宿した事もあると言う
長い半生にありし物語の
さも面白そうな話ぶり

ちょうど今頃である
雌と雄の二疋の鱒が
だんだんと小川をさか上って来る
彼らは卵を生む為めに
遠い川下から来て
日当りのいい浅瀬に
雄が尻尾をもて砂を掘り
雌に卵を生ませ
自分の白子をふきかけて
砂と共によくからみ
そして元の如くに装いて
雄は再び川下へ帰ってゆくけれども
雌はそれを最後に
最早すべてを失って
死につつ浪のまにまに
流れてゆくと
そうして二疋の鱒は
卵を生む為めに命を懸けて
清い流れを求めつつ
上下している
自分らは親しくそれを見て
再び彼らを捕る事が出来なかったと

やさしいあたたかい内地人の性格で
その人は語った
ああ涙ぐましい話ではないか
愛のために生命のために
殉ずる彼の魚達の行いを
人の心として見るとき
そはまことに美しい愛の発露である

一九二三・六
了

底本:「今野大力作品集」新日本出版社
   1995(平成7)年6月30日初版
初出:「詩と人生」
   1923(大正12)年8月
入力:坂本真一
校正:雪森
2015年9月1日作成
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