あらすじ
卒業後、研究に疲れ果てた「私」は、九州の伯父の住む由布院へと旅に出ます。伯父は、別府の豪商の別荘地を任され、金鱗湖のほとりに茅葺の家を建て、悠々自適の生活を送っていました。伯父と過ごす日々は、東京での慌ただしい日々とは全く異なり、自然に囲まれた穏やかな時間の中で、心身ともにリフレッシュされていきます。都会での生活に疲れていた「私」は、伯父の生き方に触れ、改めて人生の価値観を見直す機会を得ます。
 去年の夏のことである。漸(ようや)く学校は卒業したが、理研(りけん)の方の建物が出来上っていなかったので、暫(しばら)く物理教室の狭い実験室の一隅(いちぐう)を借りて、仕事を続けていた時のことである。Y君やM君と一緒に、一室で三組も実験をしていて、窮屈な思いをしていたところへ、夏が来た。
 夏休みで学生がいなくなると実験の方はだれて来る。誰か一番先に来た男が、紅茶をわかしてビーカーに入れて、手製の硝子(ガラス)細工の管に水道の水を通して冷(ひや)して置く。そして顔が揃(そろ)うと、それを飲みながらとりとめもない話をする。まるで一日何もしないような日もある。毎日能率のあがらないのを知りながら、家にいたって仕様がないので出て来る。

 何だか頭が疲れて来たので、思い切って遠くへ出たいような気がして来て、それに前から卒業したら一度顔を見せて来なければならないと思っていた矢先だったもので、九州の伯父(おじ)のところへ行くことにした。伯父といっても、故郷にいた時には同じ家にいたり、それに父が早く亡くなったので、自分の子供のように可愛がってくれていた伯父なので、思い出したら一日も早く会いたくなってしまった。
 伯父のいるのは由布院(ゆふいん)という所で、九州の別府(べっぷ)温泉と同じ系統に属する辺鄙(へんぴ)の温泉地である。温泉地といっても、別府から六里(り)の峠を越した盆地の中で、九州でも「五箇荘(ごかのしょう)か、由布院か」といってからかわれる位の山の中なのである。
 比較的空(す)いた下(しも)ノ関(せき)行(ゆき)の急行の窓によりかかって、独り旅の気軽さを楽(たのし)みながら、今頃は伯父が手紙を見てどんなに喜んでいるかなどと、ぼんやり考えて見た。高等学校の頃行った時には汽車の中の気づまりさに耐えかねて、瀬戸内海は汽船にしてしまったのであったが、今度はどうしたことか、大変伸び伸びした気持になって、誰とも口もきかず、眠ったような覚めたような気持でいたので、ちっとも疲れなかった。
 窓を明(あけ)っ放(ぱな)して涼しい風を納(い)れながら、先生から戴(いただ)いて来た漱石(そうせき)研究を膝(ひざ)の上にひろげて、読むでもなく読まぬでもない気持で、時々眼をあげると、瀬戸内海だったりしたこともあった。
 夜遅く下関へ着いて、駅前の名もない宿へ泊(とま)る。すぐ前は、何とかホテルという大きい洋館だった。暗い電燈(でんとう)の下で、教室の連中へ葉書を書く。
……汽車の中はすいていてよかった。二十四時間仮眠(かみん)して来たので、ちっとも草臥(くたび)れなかった。東京からずっと一緒に来た新婚の夫婦らしいのが、初めは大分行儀がよかったが、だんだん草臥れて来て、口をあけて居眠りを始めたのが印象に残る位で、別に変ったこともなかった。今夜の宿は路(みち)に向って古い手すりのある旅籠(はたご)だ。御茶菓子(おちゃがし)に EISEIGIYO という判を押した最中(もなか)が出た。明日は朝早く海峡を渡る……
 帰って見たら、実験室の黒板にこの葉書が貼りつけてあった。そして所々赤インキで○がつけてあった。
 由布院へは中学の時に一度行ったことがある。その頃は伯父も別府にいて、夏休みに弟と一緒に遊びに行った時、由布山へ登るというので、伯父が二人をつれて行ったのである。その時は六里の峠に馬の通る道があっただけで、折角のいい温泉がありながら、宿屋などといっても、極めてお粗末なのが二軒ばかりあっただけだった。勿論(もちろん)この附近は、五里四方位どこを掘っても温泉が出るのだから、別に大したことではないのであろう。それが、今度は大分沢山宿屋も出来て、別府から食料品を運ぶ都合で乗合(のりあい)自動車が通うようになっていた。
 この道位、自動車で馳(はし)って気持のよい所は少いだろう。何しろ三千尺(じゃく)の峠を越して、由布院の盆地が二千二百尺の高さなのである。六里の高原を、一時間半自動車が走りつづける。山が急なために、道は色々に折れて、渓(たに)に沿いながら登って行く。アメリカの活動によく、広々した高原を見渡しながら、自動車が山腹を縫って走るところがあるが、丁度あのような所なのである。大きい岩の蔭(かげ)で急に道が折れる時など、自動車が丁度天へ馳(か)け昇るような気がする。岩を越して、その裏に脈々として続く道を見るまでは、随分冷や冷やすることもある。時々ふり返ると、別府湾がだんだん低く小さくなって行く。登りつめた頃から、周囲は茅(かや)の草原になる。鶴見山(つるみさん)、由布山のなだらかな麓(ふもと)に、針葉樹の黒い密林が望まれる。そして緑の高原が遠く続いて、ゆるやかな起伏に沿って、所々に黒土の道があらわれている。自動車は安心したように全速力を出す。ここまで来ると、急に空気の冷(ひや)やかさに気が付く。
 こんな景色が一時間近く続く。赤倉(あかくら)の野は三里というが、草原を走る自動車の道は一里に足らない。由布院の盆地の斜面にかかると、自動車はエンジンを止めて、緩(ゆる)やかに降り始める。由布院が見える頃になると、この斜面一帯に牛が放牧されている。自動車の行手(ゆくて)にも平然としていて、怪訝(けげん)そうにこちらを見ていることもある。そしてずっと近くになってやっと愕(おどろ)いて逃げ出す。時には、道の反対側で草を喰(く)っていた仔牛(こうし)まで、親の逃げる方へ飛び出して轢(ひ)かれそうになる。運転手は慌(あわ)ててブレーキをかけながら、「馬鹿!」と大声でどなりつける。その仔牛の周章(あわ)て方には思わず吹き出させられる。
「こんなところにいる牛は随分仕合せですね」というと、相乗(あいのり)の爺(じい)さんが、「いいや、そうでもごわんせん。彼奴(あいつ)らもやっぱり淋(さび)しくなると見えまして、時々家へ戻って行きますが、叱(しか)りつけられてまた山へ行きますわい」という。何でも、農繁期の時だけ連れ帰って仕事をさせて、後は邪魔になるのでまた山へやって置くのだそうである。牛共も毎日一回運転手に叱られて、時々はおかみさんにも叱られて、やはりあのようにきょとんとした顔をしているのだろうと思うと、ちょっと可笑(おか)しくなる。
 伯父の家は、金鱗湖(きんりんこ)という小池のふちの茅葺(かやぶき)の家である。別府で一流のKというホテルの主人の別荘地を拓(ひら)いているのである。伯父も変り者であるが、Kの主人はまた一層変っている。こんな山の中に六千坪の地面を買いこんで、金鱗湖などという池まで取り入れて、それを全部伯父に預けて、その趣味のままの庭園を拓かせようというのであるから、その計企(けいき)からして世離れがしている。伯父が遠い国からやって来て、別府に移り住んで間(ま)もない頃、雑草のようなものを鉢に植え込んで軒先に出して置いたのを、Kの主人が通りがかりに見て、感心してはいり込んで来たので知り合いになったのだそうである。
 六千坪の草原は半ば以上拓かれて、趣(おもむき)のある日本式の庭園になっていた。そしてその中に小さく建っている茅葺の家まで、庭園の一つの景物(けいぶつ)となっているのにも、伯父らしい用意が偲(しの)ばれた。
 自動車の音を聞いて、伯父は素肌(すはだ)に帷子(かたびら)の袖無(そでな)しを一枚着たままでとび出して来た。三年ぶりなので、さすが白髪は目立っていたが、思ったよりも元気であった。

 一(ひと)わたり東京の話をきいて、伯父は如何(いか)にも満足らしく喜んでくれた。実は卒業した年の四月ちょっと忙しかったもので、暫(しばら)く手紙を出さなかったところが、落第したために通知が出来なかったものと合点(がてん)して、「誰でも間違いはあるものだから、もし落第なんかしたのでも気を落さないで」などと、慰めの手紙を寄(よこ)してくれたことがあったのであるが、こんな所で、山と雲だけを眺めている伯父の身にとっては、もっともな心づかいであったのである。
 東京の忙しい生活に追われていた自分は、久しぶりで昔の生活に返ったような気がした。小川をとり入れた小さい池も、伯父が自分で彫(ほ)ったらしい梅里庵(ばいりあん)という篆字(てんじ)の額も、すべての風物が珍しかった。帆足万里(ほあしばんり)の軸(じく)の前に坐(すわ)って、伯父は今の生活の心安さを色々と話してくれた。茄子(なす)を作ったり、野菊やトマトを植えたり、鯉(こい)を飼ったり、鶏(とり)を養ったりして、まるで自給自足の生活であるが、別に不自由は感じないから安心してくれといった。「人はみんな、わしのことを由布守(ゆふのかみ)といってくれるでの、もう人間はどうして暮すのも一生だからのう」と伯父は全く上機嫌であった。色々の事業をやって、何時(いつ)でもその隠棲的(いんせいてき)な趣味のために結局は失敗して来た伯父は、六十になって漸(ようや)く満足の出来る境界(きょうがい)を得たようであった。それにこの高原の空気と自給自足の労働とが、よほど健康にも好(よ)かったらしく、たださえ頑丈な身体が益々(ますます)丈夫そうになっていた。これから発達しようという由布院の温泉地の一廓(いっかく)からは全くかけ離れているので、少しも気づまりな点がなかった。伯父は夏になると、どんな客が来ても、この浅黄(あさぎ)の帷子の袖無しを一枚素肌にひっかけたままで応対するのであった。その袖無しには、ちゃんと背に一つ大きい家の紋がついていた。「T侯爵(こうしゃく)が来られた時でも、わしはこれ一枚で御免(ごめん)を蒙(こうむ)るんで」といって、伯父は由布守をもって自ら任じていた。しかし八月でも、自分のような余り強くないものには、肌脱ぎなど出来そうもない涼しさであった。

 趣味の方では、伯父は一廉(ひとかど)の見識をもっていた。それで庭などを造るにも、金鱗湖とか、その向うの由布山の密林とか、裏の田とかいうものが注意して背景としてとり入れてあった。家の後(うしろ)には流れの速い川があって、日常の生活はこれで足りていた。飲用にもなった。従弟(いとこ)は自分のために、この川へ硝子罎(ガラスびん)を沈めて鮠(はや)を取ったり、笊(ざる)を持ち出して蜆(しじみ)を拾ったりしてくれた。そして秋だったら、由布山の麓(ふもと)を一周(ひとまわ)りして来れば、初茸(はつたけ)が籠(かご)一杯とれるのにと残念がってくれた。
 永く隔絶されていた土地だけに、天産物は豊かだった。六年前に来た時、例の汚い宿で、金鱗湖の鯉(こい)は名物であるから見て来いと勧められて、夜更(おそ)くなって見に行ったことがあった。その時には、その池に一杯になる位沢山大きい鯉がいて、月明りの下で盛(さかん)に跳(おど)っていた。勿論養魚場だろうと思っていたのに、今度来て見ると一匹もいない。聞けば、主(ぬし)のない池だったので、鯉は自然に繁殖していたのだそうで、この頃になって乗合自動車が通うようになったら、みんな捕られてしまったのだそうである。余り暢気(のんき)な話なので可笑(おか)しくなってしまった。

 伯父は丹精して作った野菜やら、鯉やら、鶏やらを沢山御馳走(ごちそう)してくれた。川端で鯉を料理して、その腸(はらわた)を雛子(ひよこ)にやると、大騒ぎをして喰(た)べた。鱗(うろこ)まで呑(の)み込んでしまった。鶏が動物質のものをあんなに喜んで喰べるのは初めて見たので、ちょっと意外な気がした。それよりも驚いたのは鯉である。伯父が、スープにした鶏の骨に庖丁(ほうちょう)を二、三度入れて、それを池へもって行くと、鯉がみんな浮いて来る。そしてその骨を喰(く)うのである。二寸(すん)近くもある鶏の脚の骨を、二、三度不器用に大きい口で啣(くわ)えたり吐き出したりしている中(うち)に、すっぽりと呑み込んでしまうのである。信州で蛹(さなぎ)を喰う鯉を見た時には、何だか厭(いや)な気がしたのであるが、今度は余り意外なので全く驚いてしまった。ちっとも厭な感じが起らずに、かえってその太い骨を呑み込んで、悠々としている顔が滑稽(こっけい)にすら見えた。
 深山にはいった気持は、雨の降る日が一番強く感ぜられる。由布山の頂(いただき)は、大抵の日は雲がかかっているのであるが、それが段々降りて来ると、薄墨色(うすずみいろ)の雲がこの盆地一杯に垂れこめて来る。すぐ前の林も隠されてしまう。時には窓から部屋の中へはいって来るのが、よく眼に見えることもある。気象学上の定義からいえば雨と称すべきものかも知れないが、その大粒の雲粒は、殆(ほと)んど水平に近い線をなしてかなりの速力で飛んで行くのがよく見える。
 こんな日に限って、夕方になるとよく霽(は)れて来る。山の頂がくっきりと浮き出して来て、雲は細長い帯のようになってその麓に静かに横(よこた)わっている。
 雨上りの夕方、伯父は跣足(はだし)で庭に降りて、トマトの蔓(つる)をしばってやっていた。野菜でも盆栽でも、伯父の作るものは皆よく育つ。浴衣一重(ゆかたひとえ)で肌寒い思いをしながら、私は傍(そば)に立っている。伯父は手を動かしながら、こんな話をする。昔、盆栽の一番の薬は何かと聴いたら、主人の鼻息(はないき)だと教えた人があったそうだ。盆栽でも、こんなものでも、他人(ひと)に任せて置くようでは碌(ろく)なものは出来ないのだ。私は昔、蘭(らん)の鉢を沢山並べて、その葉を一枚一枚撫(な)でて、埃(ほこり)をおとしていた伯父の姿をふと思い出した。

 Kの主人は、時々珍しい客があると、連れてやって来る。あるいは客の方は口実で、本当は自分が来たいのかも知れない。つるりと禿(は)げ上った大きい額と、鼻の先にのせた金縁(きんぶち)の眼鏡とが、三年前に見た時とちっとも変っていない。
 この主人は、掌(て)の大きいのが一番の自慢なのだそうである。何か書いてくれといわれると、その掌に一杯墨を塗ってべったりと押して、その横に日下開山(ひのしたかいさん)二十山を凌(しの)ぐこと五分と書くのが得意である。伯父の家の画帳も勿論その厄(やく)を蒙(こうむ)っていた。
 この前も、九州大学の先生を連れて来たことがあったそうである。大学の先生ときくと、いつでも伯父は、「忰(せがれ)が――私のことを忰というのである――東京で、T博士の助手をして研究をしておりますわい」と自慢をするのだそうである。後(あと)で先生の所へ来た葉書で、九大のK博士ということが知れたのであるが、随分びっくりされたことだろうと思ってちょっと可笑(おか)しかった。
 私が行っている間にも、KKさんが来た。雨上りの田の畔(あぜ)をいい気持になって散歩をして帰って来たら、「今帰らっしたところじゃがKKという人が来たが、東京の人だそうだがお前知ってるか」という。「それは大分有名な小説家ですよ。会ったことはないが、名前はよく聞いています」というと、伯父は道理で大分物の分った人だと思ったと褒めながら、画帳を開いて見ている。見ると、何やら歌が書いてある。
 何でも、伯父の作った胡瓜(きゅうり)の漬けたのを、美味(うま)い美味いといって随分沢山食って行ったことと、それからこれも伯父の趣味であろうが、ここの浴室は、全然離れた庭の端の金鱗湖のすぐ畔(ほとり)の所に、亭(ちん)のように一棟立っているのであるが、その浴室のことを大変簡素でいいと褒めて行ったのだそうである。それで伯父が大分物の分った人だと感心した次第なのである。実際のところ、この浴室は仲々いい。屋根は茅葺で天井も張ってないものであるし、浴槽というのはただの木張りに過ぎないのであるが、温泉に浸りながら山を見るように注意してあったり、浴槽の底に細(こまか)い砂利を敷いてそれを度々よく洗って、いつでもフレッシュな砂利の感じを足裏に与えるように気を配ったりしてあるところが、如何(いか)にも伯父らしい。それに温泉が非常に透明で、また豊富なために始終出流しになっているので、いつ行って見ても、底の細い黒い砂利がゆらいで見えているのである。
 ただ一人でこの温泉に浸りながら、伯父が昔、座敷の床(とこ)の天井の見えない所に上等の板を使って得意になっていたのを思い出した。伯父の趣味も、あの頃から見ると随分進んでいると思って見ることも愉快であった。

 高い所なので、冬は殆(ほとん)ど雪に埋れて暮すのだそうである。冬の仕事に沢山白檀(びゃくだん)の木を買ってあった。この附近に、平家(へいけ)の落武者(おちむしゃ)の墓があったといわれている一叢(ひとむら)の林があったので、伯父が見に行って見たら、それが全部白檀の林だったのだそうである。今ではこのような九州の山奥でも、白檀のそのような大きい樹(き)は殆んどなくなっているので、伯父は大変喜んで、それをみんな買ったのだそうである。
 移せるような木はここの庭へもって来たが、大きいのは仕方がないので伐(き)ってしまって、それで冬の日は殆んど毎日、盆だの像だのを刻んでいるのであった。初めはほんの手弄(てなぐさ)みだったのが、だんだん色々のものを彫(ほ)っている中(うち)に巧(うま)くなって来て、自分でも面白味が出て来て、しまいには仏像なんかまで試(こころみ)るようになったのだそうである。道具といっても極めて粗末なもので、切出(きりだ)しの小刀とか、鋼(はがね)の帯金(おびがね)を研(と)いで作った鑿(のみ)位のものであるが、生れ付(つき)凝(こ)り性の上に、半年の間退屈まぎれに毎日朝から晩までこつこつ刻んでいたので、一廉(ひとかど)の彫刻家になってしまったのである。昨年祖母が亡くなって、その供養のためといって作った観音像などは一尺(しゃく)八寸(すん)ばかりもあって、余り面白い出来なのでちょっと驚いた位である。
 盆なども色々の大きさのものが沢山作ってあった。白檀の太い幹のところは木目が入り組んでいるために、鑿の方向を始終変えねばならぬのだそうで、そのためにかえって、交錯した鑿の痕(あと)が自然で面白く出ていた。白檀の木というものが、大変いい香のするものであることも初めて知った。帰る時には、一番上出来の茶盆を一枚くれた。

 一週間ばかりいる中(うち)にすっかり気持が変って来て、大変伸び伸びした。研究なんかどうでもいいと思うほどにはならなかったが、余り忙しく働くのも考え物だと思う位にはなった。
 いよいよ帰るという日になって、伯母(おば)は大変名残りを惜(おし)んだが、伯父の方は案外平気だった。「何処(どこ)にいるのも同じこった。来年の休みにはまた来い」と、伯父は極めて淡白であった。
(大正十五年五月二十日)
了

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
   2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1949(昭和24)年
初出:「社会及国家」
   1926(大正15)年5月20日
※表題は底本では、「由布院行(ゆふいんこう)」となっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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