あらすじ
ある日、おじいさんは、楽しく過ごす方法をあれこれと考え、町へ出かけることにしました。寒い日でしたが、町はいつも通りの賑わいを見せていました。おじいさんは道行く人々を眺めながら歩いていると、四つ辻の角で福寿草を見つけ、一鉢買って家に帰りました。おじいさんは大切に育て、花が咲くのを楽しみに待ちます。
「なにか、楽(たの)しいことがないものかなあ。」と、おじいさんは、つくねんとすわって、考(かんが)え込(こ)んでいました。
 こう思(おも)っているのは、ひとり、おじいさんばかりでなかった。町(まち)の人々(ひとびと)は思(おも)い思(おも)いにそんなことを考(かんが)えていたのです。しかし、しあわせというものは、不幸(ふこう)と同(おな)じように、いつだれの身(み)の上(うえ)へやってくるかわからない。ちょうど、それは風(かぜ)のように、足音(あしおと)もたてずに近(ちか)づくものでした。また、だれもかつて、しあわせの姿(すがた)というものを見(み)たものはなかったでしょう。
 こうして、たくさんの人(ひと)たちが、てんでに自分(じぶん)の身(み)の上(うえ)にしあわせのくるのを待(ま)っていました。
「しあわせは、いま、どこを歩(ある)いているかしらん……。そしてだれのところへ、やってくるかしらん……。」
 こう考(かんが)えると、まったく、不思議(ふしぎ)なものでした。そして、このしあわせにも、大(おお)きなしあわせと小(ちい)さなしあわせとあったことは、むろんです。けれど、ダイヤモンドは、いくら小(ちい)さくても美(うつく)しく、光(ひか)るように、それが、たとえ、小(ちい)さなしあわせであっても、その人(ひと)の一日(にち)の生活(せいかつ)を、どんなにいきいきとさせたかしれません。
 おじいさんは、なにか楽(たの)しいことがあるのを待(ま)っていました。いつものごとく火(ひ)ばちにあたって考(かんが)え込(こ)んでいました。すると、毎日(まいにち)のように、あちらの町(まち)の方(ほう)から起(お)こってくるいろいろな音色(ねいろ)が、ちょうど、なつかしい、遠(とお)くの音楽(おんがく)を聞(き)くように、おじいさんの耳(みみ)に達(たっ)してきたのでした。
 おじいさんは、だまって、じっとして、その音(ね)に耳(みみ)を傾(かたむ)けていました。すると、このいろいろの音色(ねいろ)の中(なか)から、ひとつ離(はな)れて、細(ほそ)く澄(す)んだ音(ね)が、おじいさんの魂(たましい)を引(ひ)きつけるように、呼(よ)びかけているのが聞(き)こえたのです。それは、笛(ふえ)の音(ね)に似(に)ていました。
「あれは、なんの音(おと)だろう?」と、おじいさんは、思(おも)いました。
 おじいさんは、その音(おと)を聞(き)いているうちに、だんだん、気持(きも)ちがさわやかになってきました。そして、家(いえ)にばかりいたのでは、気(き)がふさいでしかたがない、町(まち)へ出(で)て、歩(ある)いてみようという考(かんが)えが起(お)こったのです。
「寒(さむ)いけれど、降(ふ)りもしまいな。」といって、おじいさんは、つえをついて、とぼとぼと外(そと)へ出(で)かけました。
 いつ歩(ある)いてみても、町(まち)はにぎやかです。しかし、風(かぜ)が寒(さむ)いので、通(とお)る人々(ひとびと)は、道(みち)を急(いそ)いでいました。
 おじいさんは、右(みぎ)を見(み)たり、左(ひだり)を見(み)たりしてきますと、四(よ)つ辻(つじ)の角(かど)のところで、福寿草(ふくじゅそう)を道(みち)に並(なら)べて売(う)っていました。
「ああ、これは、いいものが目(め)にはいった。」といって、おじいさんは立(た)ち止(ど)まり一鉢(ひとはち)買(か)って、喜(よろこ)んで家(いえ)へ帰(かえ)りました。おじいさんは、それに水(みず)をやり、日当(ひあ)たりのいいところへ出(だ)してやりました。つぼみは日(ひ)にまし大(おお)きくなった。おじいさんは、花(はな)の咲(さ)くのを楽(たの)しんだのであります。
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 また、同(おな)じ町(まち)に住(す)んで、このようにじっとすわって、しあわせを願(ねが)ったものは、おじいさんばかりでありません。
 哀(あわ)れな母親(ははおや)がありました。その日(ひ)の昼前(ひるまえ)のこと、子供(こども)が見(み)えなくなったのです。八方(ぽう)探(さが)したけれどわからなかった。子供(こども)は、まだ、幼(おさな)かったので、道(みち)を迷(まよ)って、知(し)らぬ間(ま)に、どこか遠方(えんぽう)の方(ほう)へいってしまったとみえます。
「お母(かあ)さん、お母(かあ)さん……。」と叫(さけ)んで、どんなに悲(かな)しがっているであろうと思(おも)うと、母親(ははおや)は、子供(こども)がいなくなってから、夜(よる)も、昼(ひる)も案(あん)じ暮(く)らしていたのでした。
「どうかして、帰(かえ)ってきてくれないものか。」と、ひたすらに祈(いの)っていました。
 その日(ひ)も、彼女(かのじょ)は、ぼんやりと家(いえ)の中(なか)で、子供(こども)のことを思(おも)いながらすわっていました。すると遠(とお)くの遠(とお)くから、町(まち)の物音(ものおと)が聞(き)こえてきました。彼女(かのじょ)は、聞(き)くともなく、その音(おと)に耳(みみ)を澄(す)まして聞(き)いていると、たくさんの人(ひと)たちが、うず巻(ま)いている光景(こうけい)が目(め)に映(うつ)ったのでした。すると、たちまち、ひとつ小(ちい)さな、細(ほそ)い、さびしい音(おと)が別(べつ)に耳(みみ)に聞(き)かれたのでした。それは、ちょうど、道(みち)に迷(まよ)った、自分(じぶん)の子供(こども)を思(おも)わせたのであります。
「ほんとうに、あんなように、私(わたし)の子供(こども)は、みんなから離(はな)れて、道(みち)に迷(まよ)っているのだ……。」と、母親(ははおや)は、目(め)にいっぱい涙(なみだ)をためて、熱心(ねっしん)に、この小(ちい)さな、ひとり離(はな)れて聞(き)こえる音(おと)に、耳(みみ)を傾(かたむ)けていました。
 その小(ちい)さな音(おと)は、あてもなく、広(ひろ)い道(みち)の上(うえ)を漂(ただよ)っているのでした。しかし、思(おも)いなしか、だんだん、その小(ちい)さな音(おと)は、こちらへ近(ちか)づいてくるような気(き)がされたのです。
「ああ、あの音(おと)が、私(わたし)のかわいい子供(こども)であってくれればいい。」と、哀(あわ)れな母親(ははおや)は思(おも)いました。
 彼女(かのじょ)は、もはや、こうして、じっとして、家(いえ)の中(なか)にすわっていることができなかった。それで、戸口(とぐち)から外(そと)へ出(で)ました。
 もう、日(ひ)は暮(く)れかかって、町(まち)には、燈火(ともしび)がついていました。
 彼女(かのじょ)は、あてもなく、にぎやかな通(とお)りの方(ほう)へ歩(ある)いていった。このとき、淡(あわ)いもやのかかっているうちから、小(ちい)さな黒(くろ)い影(かげ)が現(あらわ)れて、こちらへ近(ちか)づいてきました。それはまちがいもなく、いままで、死(し)にもの狂(ぐる)いになって探(さが)していた、かわいい子供(こども)でありました。
 母親(ははおや)は、駆(か)け寄(よ)って、子供(こども)を抱(だ)き上(あ)げると、うれしさのあまり、ものをいうこともできなく、二人(ふたり)は抱(だ)き合(あ)って、しばらく泣(な)いたのであります。
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 この不思議(ふしぎ)な、小(ちい)さな音(おと)は、いったいなんでありましょうか? いつしか、この小(ちい)さな音(おと)は、町(まち)の人(ひと)たちにだんだんと気(き)づかれるようになりました。
「このごろは、毎日(まいにち)、晩方(ばんがた)になると、遠(とお)くで、いい音(おと)がきこえますね。あれはなんの音(おと)でしょうか?」
「それは、どちらの方(ほう)からですか。」
「町(まち)の南(みなみ)の方(ほう)からするときもあれば、また、夕焼(ゆうや)けのした西(にし)の海(うみ)の方(ほう)からすることもあります。」
「こんど、私(わたし)も聞(き)いてみましょう……。」
 ある日(ひ)のこと、一人(ひとり)の町人(まちびと)は、その笛(ふえ)の音(ね)を頼(たよ)りに歩(ある)いてゆきました。町(まち)を離(はな)れ、野(の)を越(こ)えて、その音(おと)は、あちらから聞(き)こえてきたのでした。
「まあ、なんというたいへんに遠(とお)いところから聞(き)こえてくる音(おと)だろう……。」
 ついに海(うみ)のほとりへ出(で)ました。すると、あちらのがけの上(うえ)で、少年(しょうねん)が、海(うみ)を見渡(みわた)しながら笛(ふえ)を吹(ふ)いているのでした。
「まあ、なんという危(あぶ)なかしいところへ、あの少年(しょうねん)は乗(の)って、笛(ふえ)を吹(ふ)いているのだろう。そして、また、なんという、澄(す)んで、遠(とお)くにまで響(ひび)く笛(ふえ)の音(おと)だろう。」
 町(まち)の人(ひと)は、驚(おどろ)いて、帰(かえ)って、そのことを近所(きんじょ)の人(ひと)たちに話(はな)しました。みんなは、こんどいっしょにいって、その少年(しょうねん)を見(み)とどけようといいました。そして、ふたたび笛(ふえ)の音(ね)が聞(き)こえたときに、町(まち)の人々(ひとびと)は、いってみると、少年(しょうねん)の姿(すがた)はそこになかったが、そのがけには、美(うつく)しい緑色(みどりいろ)の草(くさ)が一面(めん)に芽(め)を出(だ)して、あたたかな風(かぜ)が海(うみ)を渡(わた)って吹(ふ)いてきました。みんなは、はじめて、あの笛(ふえ)は、春(はる)の使(つか)いが吹(ふ)いたことを知(し)ったのです。
了

底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
   1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集4」丸善
   1930(昭和5)年7月
※表題は底本では、「春(はる)」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2018年3月26日作成
2020年11月1日修正
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