あらすじ
後醍醐天皇が吉野に落ち延び、南朝が誕生した。一方、足利尊氏は京都で北朝を開き、勢力を拡大していく。北畠顕家は、みちのくから一万騎を率いて南下し、鎌倉を制圧、ついに奈良にまで迫るが、惜しくも戦死してしまう。その後、尊氏は直義や高師直らと共に、顕家の残党を討伐し、南朝を追い詰めていく。そんな中、後醍醐天皇は崩御。南朝は、後村上天皇を立てて、吉野で抵抗を続ける。しかし、新田義貞も戦死し、南朝の窮地は深まるばかりである。
 直義(ただよし)は残って、なお重臣たちと、今後の方針をかためあった。
 御逃亡の君については、詮議(せんぎ)はもちろん、尊氏の意を服膺(ふくよう)して、むしろ予想しうる二次、三次のそなえに心をくばるべきであるとし、ほどなくみな、退出した。
 そのあと。
 直義は、広間から兄のいる一殿(でん)へ渡って行った。――なにかよい話があるといわれたが、どんな話が自分を待つのか。――彼もいまは、いつものおちつきにもどっていた。
 彼を見ると、尊氏は、
「すぐ、正月だなあ」
 と、言った。
 話は、そんなことばからほぐれてゆき、――全然、時局のことではなかったのである。
「ほかでもないが弟。近々に、上杉重能(しげよし)がお供して、母者をこれへおつれして来るぞ。……どうだ、うれしかろうが」
「えっ、母上を」
「元弘(げんこう)いらい、ほとんど、別れ別れ、親と子、ひとつにいたこともないわしたちだった。父貞氏(さだうじ)どのの御逝去のころを境に、世は大乱にむかい、われらは戦陣また戦陣――。母者もまた、あの鎌倉から三河、伊吹、さらには丹波の山奥と、流転に流転をかさねられた……。おもえば御不幸なお方ではある」
「上杉伊豆(重能)の領地、丹波の梅迫(うめさこ)へと、夏ごろ、ひそかにお移りとは、かねて伺っておりましたが」
「む、一ト頃は、伊吹もあやうく、そのため、道誉の手で、梅迫の光福寺(現・安国寺)へ御避難をおすすめ申しおいたもの。……じつは、尊氏自身で、丹波へお迎えにとも考えたが、都の留守も案じられ、佐々木道誉を、数日前に、わしの代りにつかわしておいたのだ。……思えば、これは虫の知らせであったらしい」
「ははあ。それは僥倖(ぎょうこう)でしたな。もし後醍醐の件が、御不在中のことでもあったら、どんな大混乱となっていたかわかりません。それにつけ、都もまだこんなありさまでは、せっかく母上をお迎えしても、いつまた、いかなる変(へん)を見まいものではなく、それがまた、兄者の御負担になりはいたしませぬか」
「いや。わしとおまえとの、兄弟(ふたり)の心次第だろう。そとの敵は、あらまし、恐れるにはたらん。……かつはまた」
 と、尊氏は、あらたまって、こう言った。
「上に、新しい朝廷を仰ぎ、そして、室町幕府の第一歩をそのお膝もとに開く日にあたりながら、なお尊氏が、自分の母や妻子らを、遠くにおいているとあっては、諸民の思わくがどうであろうか。人心の鎮(しず)めにも、よいかたちではない」
「いかにも、それはその通りですが」
「かたがた、久しぶりで戦のない正月だ。こんな年は、夢の世のつかのまみたいに珍しい。母上にも、こうなりましたという所をば、お目にかけようではないか。それを見れば、朝(ちょう)の廷臣方も安堵(あんど)しようし、また自然、洛内の市民にも、正月気分が興ろうと申すもの」
 いまから尊氏は、その日を、楽しんでいるふうだった。そうまでには、心からよろこべない直義(ただよし)ではあるにしろ、彼にも決して悪い気はしなかった。
 さきに。
 尊氏は、権大納言にのぼり、直義は、参議となった。しかし世人は、直義のありかたと、幕府のたてまえから推(お)して、彼を現下の、
 副将軍
 と、観ていた。
 事実、直義自身も、それくらいな気位(きぐらい)だった。このさいの難関は、たんに、兄の代行者ぐらいなことでは切り抜けえないとしていたのである。
「兄は兄、おれはおれ、所信はどしどしやってゆかねば、将来、大きな悔(く)いをみよう」
 かつては、その所信から、大塔ノ宮を鎌倉の牢で刺し殺させもした、あの強い自信である。
 年暮(くれ)のわずかな日も、彼はむだには過ごしていない。幕府の名で、奏請(そうせい)を仰ぎ、堀川ノ光継(みつつぐ)、洞院ノ実世(さねよ)、そのほか、後醍醐について行ったとみられる十数家の公卿の官爵(かんしゃく)をけずり、また、
「近衛経忠も、どうやら臭い」
 という密告から、関白家の附近にも、番所をもうけて、その出入りを見張らせるなど、粛正の風は、仮借(かしゃく)をしなかった。
 つづいては、二十六日、侍所(さむらいどころ)の高(こう)ノ師泰(もろやす)に兵一万余をさずけ、
「義貞征伐に手間(てま)どらすな」
 と、これを越前金ヶ崎攻めの加勢に、発足させた。
 こういうあいだにも、後醍醐の落ちのび先を、鋭意、求めていたのはいうまでもない。
 その結果。――暮も押しつまってから、脱出後の足どりが、おぼろながら、つかめてきた。
 やはり河内から大和へ潜幸(せんこう)されていたものらしい。しかし、この方面は、相当、往来が多く、また追捕(ついぶ)の兵も、第一に手を廻したはずのところである。
 どんな偽装をもって、どうして逃げおおせられたものか。尋常一様なる御手段であったとは思われない。
「天野金剛寺古記」によると。
二十三日
帝王、賀名生(あなふ)に御着(ごちやく)
二十八日
吉野金峰山(きんぷせん)に入御(にふぎよ)
 と、見える。雪やあられの、厳寒の道を落ちて行ったものにしては、おそろしく日かずも早い。おそらく馬で飛ばした所も再々であったのだろう。
 そして、経路から考えるに、途中では、和田、楠木などの残党がお迎えして、葛城(かつらぎ)山脈を南へ越えてゆかれたものと想像され、紀州へ入ってからは、土地(ところ)の宮方、三輪(みわ)の西阿(せいあ)、真木定観(じょうかん)、貴志、湯浅党などが、前後を厚くおかこみして、山上の蔵王堂(ざおうどう)へと、一時、ご案内申しあげたのではなかろうか。
 いずれにせよ、これらの手順だの吉野大衆との交渉は、あらかじめ、北畠親房や四条隆資(たかすけ)らが、運びをつけていたもので、さらにここから、高野(こうや)へお遷(うつ)りの議もあったが、その議は止み、ここ吉野の山上を、以後、
 吉野朝廷
 の地と、さだめられることとはなった。――いわゆるこれが、南朝(なんちょう)である。――それにたいして、京都の朝廷を、北朝(ほくちょう)と、世人はいった。
 京都では、暮の二十九日、なんとなく殺伐(さつばつ)な気の失(う)せない中にも、一道(どう)の平和らしさが流れていた。尊氏の母堂やら妻子眷属(けんぞく)が、丹波から迎えとられて、都入りしていたのであった。

 年は明けた。
 北朝の、建武四年
 南朝では、延元(えんげん)二年
 おかしなことだが、こう真二つに、ひとつ国土が割れ、二つの年号を称(とな)え、それぞれ異(こと)なる正月を迎えたのだった。
 日本の分裂症時代、“南北朝”とよばれる畸形(きけい)な国家へ突入して行った年を、この春とすれば、以後、その大患はじつに、五十七年間もつづいたのである。
 これまでで、もうたくさんであったろうに、まだこの先、いぜんたる血みどろやら謀略の抗争を半世紀もやりつづけなければならないとは……。
 たれが予想したろうか。
 たれもそんな予想はしなかった。願ってもいなかった。
 だから生きてもいられたし、各※(二の字点、1-2-22)が我意、主張を固執(こしつ)してもいられたのだろう。もし、そんな未来とわかっていたなら、たれにせよ、虚無か、出家か、でなくとも、生きのほこりなどは持てなかったにちがいない。
 後醍醐にしても。尊氏にしてもである。
 わけて尊氏などは、自分の画策と、事の結果とが、
「こうも、思いのほかに、変ってくるものか」
 と、その年の初めに、その一年の未来さえ、分らない気がしたであろう。
 後の史家には、後醍醐と尊氏との講和を、どちらも、謀略と謀略との、だまし合いであったと説く者もあるが、後醍醐とて、初めから、好んであんな冒険的な脱走をもくろんでおられたものでは決してあるまい。
 もし、吉野落ちが、初めからの計画であるならば、わざわざ、その御一身を敵の足利軍にゆだねて、都へ還る必要などがどこにあろう。
 あれほどなお覚悟を以てするならば、叡山の行宮(あんぐう)から、直接、吉野へ入ることは易々(いい)たるものであったはずだ。やはり尊氏との政治的交渉に、大きな御期待を寄せていたからにほかならない。
 それがである。ついに、龍は雲を呼び、雲は龍を乗せて、政治圏外の、絶対地へ去ってしまった。
 尊氏にとっては、大きな痛打であったし残念でもあったろう。彼はもう血みどろにあきあきしていた。血が万事を解決しないことも知っていた。
 もっと彼の心に重量をしめていたのは、いまの優位のままあとは政治的な進展に乗せて行こうとしていたことだった。――それが破られたのである。――直義以下の大勢を前にして、彼はあのような度量のひろさをみせてはいたが、じつのところ、落胆は深かったろう。そして、ことしも来年も、また来々年も、なおまだ、不安定な幕府の発足と、戦いの連続をも、胸におかないではいられなかった。
「……自分の意志ではなく、しかも、自分の意志かのように、周囲はあらぬ方へ動いてゆく……?」
 彼はふと懐疑(かいぎ)する。大いに悩む日もあった。しかし彼にはこの頃、ひとつの慰安の場がなくもなかった。家庭が甦(よみがえ)っていたからである。
 丹波の梅迫(うめさこ)から迎えられて、以後、都に定住となった尊氏の家族は、家来や侍女たちもいるし、なかなかそれは大人数だった。
 母堂の、清子
 みだい所登子(とうこ)
 嫡男(ちゃくなん)の千寿王、九歳
 そして、腹ちがいの一子、
 不知哉丸(いさやまる)
 は、ことし十五となっており、その生母の藤夜叉も、はや三十路(みそじ)をすこし出て、いまでは“越前(えちぜん)ノ前(まえ)”とよばれ、まったく、武家家庭の型に拘束された一女性になりきっていた。
 かえりみると。
 これらの女性が世路(せいろ)に耐えてきたたたかいも、戦野(せんや)の男どもに劣るものでなく、しかもこんな弱い群れは、武門という武門や公卿の深窓からもみな“時の波”に漂(ただよ)い出されて、およそ余されてはいなかった。――むしろ、尊氏の家族のごときは、幸運も幸運、最上な方だったのだ。
 が、越前ノ前(まえ)には、それですら、いのちの縮むほど、或る期間が、つらかった。もっとも、彼女のつらさは、漂泊の危険や生活のみじめさではなく、
 母堂
 みだい所
 嫡男の若ぎみ
 などのなかで、武家家族として共々にその家憲(かけん)や作法(さほう)の規矩(のり)にしばられていなければならなかったこの長い月日が、口にもいえぬ気苦労であったり、情けなさであったらしい。おなじ尊氏の子でありながら、しかも不知哉丸は長子であるのに、事々に、周囲の老臣や侍女(かしずき)は、
「千寿王さま。若君さま」
 と、これを立てて、不知哉丸には意識的に差別をする。
 でも、彼女は、
「ひがむまい」
 と、自分の卑下で自分を抑(おさ)えころしてきた。しかし、いつまでたっても、彼女には、武家生活に溶(と)け込(こ)めず、そして目下の男女を目下と頤使(いし)するような思い上がりにもなれないのだった。そして、いつも心のすみのどこかには、前身のひけめが住み、田楽女(でんがくひめ)の藤夜叉(ふじやしゃ)がまだ息づいていたのである。
 ここもむずかしい。
 一国の和が困難なように、小さい“家”にすら、人間の集合するところ複雑な何かをみな心の襞(ひだ)にもっていた。けれど尊氏は、しごく大ざッぱに、これらの家族を見、ひとまず烏丸(からすま)のさる女院のお住居のあとへ入れて、時折には通っていた。そして直義なども来合せると、母や登子を笑わせて、団欒(まどい)に飽かない晩もあった。
 しかし、そんなときも、ふと気づくと、越前ノ前と不知哉は、いつかみなのうちから消えていた。直義は敏感なので、あるとき、尊氏へ注意した。
「不知哉(いさや)丸も十五です。いかに何でも、この春はもう、元服(げんぷく)させねばなりますまい」
 まもなく、その元服は実現された。しかし身柄(みがら)は、錦小路殿へひきとられ、直義の養子となって、なのりも、
 直冬(ただふゆ)
 と、名づけられた。
 彼の生母の越前ノ前が、都から姿を消したのは、それからまもない後だった。
 多少の騒ぎはみえたが、家庭の秘事として、表立った捜査もおこなわれず、深いわけを知っている二、三の家臣の間で「おそらく、元の田楽(でんがく)村へ帰ったものであろうよ」などとささやかれたのみだった。
 越前ノ前
 と、よぶよりは、尊氏にはやはり、藤夜叉とした方が、胸にせまるし、生きてもいる。
「なに、いなくなった?」
 彼女の失踪(しっそう)と聞いたときの彼の驚きは、国家的な大変と、一家族との違いこそあるが、後醍醐のきみを掌(て)から逃がした折よりも、もっと、あらわな苦痛を、おもてへにじみ出していた。
「ふらちな女だ」
 と、言ってから、また次に。
「せっかく、不知哉丸を元服させて、直冬(ただふゆ)と名のらせ、錦小路殿(直義)の養子として据えたものを、なにが不足ぞ。すてておけ。行方などはさがすにおよばん」
 事を、政治として扱うときの彼と、全然、私情でしかない場合の彼とは、まるで別人の観(かん)がある。だらしのないほど、一面はもろい。
 しかし、このことに限っては、それきり藤夜叉の名も口にしなかった。――もっとも、時はすでに二月下旬で、越前の戦況が、朝に夕に、ひんぴんと聞え、それの早馬が入るたび、幕府の室町界隈(むろまちかいわい)は、わきかえっていたときでもある。
 そして、三月に入ると、まもなく、
 金ヶ崎落城
 の報が、斯波(しば)高経と高(こう)ノ師泰(もろやす)との連名で、早打ちされてくるし、ひきつづいて、落城のさい、足利勢に捕われた後醍醐の皇太子恒良(つねなが)が、現地から都へ、押送(おうそう)されて来た。
 押送の将が、幕府へ出て、直義へ告げた日の報告によると。
 新田義貞は、さすが北国では、自分に悔いなき戦いをして、金ヶ崎、杣山(そまやま)の二城を根拠に、めざましい経略、また奮戦をみせたという。
 けれど、高ノ師泰の加勢が寄手に着いてからは、さしも破綻(はたん)をあらわして、ついに敗れたものだとある。
 この戦いで、新田党の雄、瓜生保(うりゅうたもつ)は戦死し、義貞の子義顕(よしあき)も、尊良(たかなが)親王も、大勢の味方と共に自刃するなど、いかに苛烈な抗戦であったかは、あとになって、城砦(じょうさい)に入ってみると、死馬の骨が山とつんであったのでも分った。籠城の将兵はみな、馬を食っていたのである。
「して、義貞は?」
「まだよくわかりません」
「討ち洩らしたか」
「さあ、そこは?」
 直義は、次の報を、待ちかねた。するとまもなく、尾張守高経が、新田党の首級二百余コをたずさえて、帰洛した。しかしそのたくさんな首を実検して行っても、義貞の首はなかった。脇屋義助の首も、洞院ノ実世(さねよ)の首も、なかった。
 直義はいまいましげに、実検を終ると言った。
「すべて二日の間、三条河原へ梟(か)けならべろ」
 町の者は、もう見あきている。驚くべきことにも驚けなくなった非情な唇をそらし合って、つぶやいた。
「首が咲いたね、土筆(つくし)みたいに」
「今年は花見と思ったが」
「また、首の春だよ」
 人は、このような物を見ても、そこの前を笑って通るほどな群れになっていた。無常を感じるほどな血の濃(こ)さもなくなっていたのである。――そしてここは北朝の都だが、南朝の吉野の山は、どんな春を粧い出していたことか。

 吉野に開かれた南朝の政府は、さしあたって、後醍醐のおはいりになった山上の吉水院(きっすいいん)をあてて、そのまま、
 吉野朝廷
 としていた。
 そこは、蔵王堂の供僧坊(ぐそうぼう)とよぶ小院で、やや下がりかけた崖(がけ)に倚(よ)って、一面は谷に臨(のぞ)み、いつも下へ落ちてゆく水音が寒かった。
花に寝て
よしや よし野の
よし水の
枕の下を
石(いは)走る音
 ここへおちつかれてからの後醍醐は、しきりと歌を詠(よ)まれていた。それも秀歌(しゅうか)が多かった。自然、運命の極限が、人の悲腸(ひちょう)に詩魂(しこん)を叫ばすのであろうか。
ここにても
雲井の桜咲きにけり
ただ かりそめの
宿と思ふに
 これらの御製(ぎょせい)にみても、吉野はもう花の雲だったにちがいない。そして一月いらい、足利方の目をくらましては、都を出奔して、これへ集まってくる公卿たちも多く、御座(ぎょざ)のあたりもいつとなく賑わっていた。
 そのなかには、前(さき)ノ内大臣定房や参議(さんぎ)ノ経季(つねすえ)や、また近衛経忠といったような、関白家もあったので、朝廷の儀容(ぎよう)もととのい、人材にかけては、決して、北朝の廷臣に劣るものではなかった。
 そこで、まもなく、
「ここも、手ぜま」
 とする声が高く、行宮(あんぐう)は、蔵王堂にも遠くない所の、実城院へ移された。
 で、おそらくは、ようやく、ここに皇居の粧いやら朝儀のかたちなどもととのいかけていた頃であったろう。
 金ヶ崎落城の悲報が入った。――その詳報の聞えるたびに、夜の花は、声なき御廂(みひさし)を、雨と打った。
 けれど、やがて。
 新田義貞や、脇屋義助らは、なお越前の杣山(そまやま)城に拠って、健在とわかって来たのみでなく、洞院(とういん)ノ実世(さねよ)も力をあわせて、再起の兵を、全北陸にわたって呼びかけているとの報をえたので、みかどは、
「末(すえ)こそ待て。一勝一敗のたびに、一喜一憂するはおろか」
 と、この折にも、一首を詠(えい)じて、左右の人々にしめされた。
都だに
さびしかりしを
雲晴れぬ
吉野のおくの
さみだれの空
「……それにせよ」
 と、後醍醐もなにかにつけてよく仰っしゃるのは、奥州方面の消息だった。――みちのくの鎮守府将軍――あの北畠顕家(あきいえ)は、なぜまだこれへ見えぬか――というお心待ちな焦躁であった。
 北国に、義貞。
 東国には、宗良(むねなが)親王。
 また、九州には菊池の党。
 そして伊勢に、北畠親房、河内和泉には、四条隆資(たかすけ)と、それぞれの地に、それぞれな宮方の驍将(ぎょうしょう)がたたかっている。あるいは、四隣(しりん)の兵を糾合(きゅうごう)して、次の地盤をつくりつつある。――だのに、なぜあの純情無垢(むく)な若き将軍顕家のみが駈けつけて来ないのか。
 さきにも、江戸忠重(ただしげ)を密使として派せられていたが、さらに命(めい)をおびた吉野勅使は、この月、みちのくへ急いで行った。
 北畠顕家は、この一月ごろ、多賀(たが)ノ鎮守府から伊達郡(だてぐん)の霊山(りょうぜん)へ移っていた。国府も守りきれなくなったのだ。
 みちのくの天地も、中央の余波から兵革(へいかく)のやむときはなかった。四方に蜂起(ほうき)する兇徒のなかにあって、顕家は、
「ああ都へ。君と父とのいる都の危急へ。何とかして」
 と、心はあせっていたが、いかにせん、ここを立つことができない周囲の実状だった。
 さきに、吉野朝廷からの、ご催促(さいそく)に接したとき、彼は密使の江戸忠重(ただしげ)に託して、大意、こういう御返書をさしあげてある――
 勅書、ならびに貴札(きさつ)、謹んで拝見いたしました。吉野へ臨幸のよし、社稷(しゃしょく)の大慶(たいけい)、顕家もほっといたしたことでございます。
 つきましては、即刻の上洛を思うこと、心も矢竹にございますが、奥羽一たい、乱麻(らんま)の状にて、余賊(よぞく)、容易に平定せず、さきに新田義貞からも、しきりな急使を受けておりますものの、いかにせん賊徒平定の謀(はかり)に、日夜、心をくだくのみで、遅々(ちち)と、延引(えんいん)いたしおりますこと、真に、われながら鬱々(うつうつ)の感にたえません。
 しかしながら、綸旨(りんじ)を拝して、将卒共に、勇気百倍いたしました。きっと一日も早く馳(は)せ上りまする。そして天下の逆賊を掃(はら)い、君辺(くんぺん)の害を清めて、昭々(しょうしょう)の御代(みよ)を恢復せずにはおきません。八幡(まん)、燃ゆる心でおります。委細は上洛のときとし、まずは君前よろしく御披露(ごひろう)のほどを。
顕家(あきいえ)(花押(かきはん))
 人々御中(おんちゅう)
 今は、その時からもう八ヵ月も経過していた。東北にはすでに早い秋が訪(おとず)れている。
「行こう! 万難を排(はい)して」
 顕家は決意した。――断ジテ行クトコロ鬼神(キジン)モ避ク――とは、おそらく、そのときの彼の胸中であったろう。
 その顕家は、奥羽(おうう)の鎮守府大将軍という肩書こそかがやかしいが、年は、ことしちょうど二十歳(はたち)にすぎない。
 そして、上にいただく義良親王は、十一だった。
 十一歳の皇子を擁(よう)するまだ二十歳の若き将軍は、ここに、
「日夜、中央の危急を案じながら、むなしく、四囲の草賊にさまたげられて、ことしもまた、雪にとじこめられなどしたらなんとしよう。国の大事、吉野のご浮沈。もはや猶予(ゆうよ)のときでない。途中で倒れるまでも行こう! 八月十一日、ここ霊山(りょうぜん)を発足するぞ」
 と、ついに令を出した。
 これをたすける人々には、結城(ゆうき)宗広、伊達行朝(だてゆきとも)、そのほか、奥州五十四郡の心ある武士どもがあった。――それに国司勢(こくしぜい)をあわせるとほぼ一万騎にのぼる勢いをなした。――青襟(せいきん)の将軍顕家のけなげな意気に打たれて奮い立ったものか。それもあろうが、皇室を大事に思うことでは、むしろ僻地の武族や若者の方が純であったかもわからない。
 八月十八、十九の両日には、はやこの二度目の上洛軍は、白河ノ関を突破していた。勢いは風より疾(と)く、秋の千種(ちぐさ)に見送られて、兵の眉も爽(さわ)やかだった。
 やがて宇都宮についた顕家は、そこから一使を、吉野朝廷へ飛ばしていた。
「みちのくの精鋭一万、霊山(りょうぜん)を立って、白河ノ関を越え、ここまで来ました。前途幾山河(いくさんが)、なお途々の敵の邪(さまた)げは想像を絶(ぜっ)しましょうが、一念、くじけることはありません。――咫尺(しせき)に罷(まか)り出ずる日は、今年中か。あるいは年を越えるかもわかりませぬが、まずは第一報までを、この地から」と。
 顕家の若い眉と共に全軍は“士気(シキ)天(テン)ニ冲(チユウ)ス”の概(がい)だった。ゆらい、中央の官軍はいたずらに官爵(かんしゃく)を誇って老いやすかったが、みちのくの官軍は若かった。純で情熱的で、ただ国の難(なん)に征(ゆ)くとしている、いわゆる山沢(さんたく)の健児の風がまだあった。
 宇都宮は、結城(ゆうき)宗広の領で、いわば官軍の一拠点である。七日ほどの休養と装備をととのえ、また参陣の新手も加えて、
「一気に小山を抜け」
 と、次の小山城へと、おめきかかった。
 今春、足利方の桃井貞直とたたかって、何度戦ッても、勝てずに退いたところである。
 そうした強固なる壁なのだ。
「退けぬぞ! このたびは」
 じつに、ここを降(くだ)すには、十三昼夜の猛攻また猛攻を要した。しかし、ついに破って城将の小山朝郷(ともさと)をとりこにした。そのかわりまた、みちのく軍の犠牲の大(だい)もいうまではない。
 しかも、いたる所には、まだ小塁(しょうるい)に拠(よ)る敵や残軍の反撃が途に待っていた。打ちはらい、打ち払い、すでに、秋は深み、十月もすぎかけている。――
「……利根川(とねがわ)だ」
 まんまんたる大河に面(おもて)を吹かれたとき、人も馬もそそけだッた。みちのくの脅威にたいする鎌倉方の防禦線は、つねにここを「――越えられるものなら越えてみろ!」と、一大自然の利を持つ備えとして恃(たの)んでいる。
 そのうえに足利方では、顕家の西上にたいして、すでに抜かりのない防備の陣を対岸にしいていた。
 つたえられるところによると、鎌倉にはいま、尊氏の子の千寿王が、足利義詮(よしあきら)となって、京都から降(くだ)って来ているという。――そしてまわりには、上杉憲顕(のりあき)や細川和氏(かずうじ)やまた高(こう)ノ重茂(しげもち)らがつき添って、関東地方をかため、とくに斯波(しば)家長は、東国における実戦では経験第一の者なので、利根川へも彼が大将としてのぞんでいるとのことだった。
 さすが、顕家の麾下(きか)も、ここでは苦戦の足ぶみを余儀なくされた。――いつか冬にも入り、坂東(ばんどう)平野の氷雪(ひょうせつ)になやまされることも、たびたびだった。
 が、十二月十三日の決死の渡河(とか)は成功して、ついに、敵の堅陣をけちらし、十六日には、長駆(ちょうく)、もう武蔵野の西を駈けつつ、
「はや、鎌倉はそこ」
 と、先を争っていた。
 府内における、小壺、前浜、腰越の合戦などは、二十三、四日頃のことである。――敵の斯波家長は、杉本城で自刃(じじん)し、足利義詮(よしあきら)以下は、三浦方面へ、敗走した。
「年内には、吉野までも」
 と、急いできた顕家も、ついにここ鎌倉で越年となった。霊山出発いらい、四月目(よつきめ)だった。
 けれど、これでも迅(はや)い方であり「よくぞ!」と踏破(とうは)の後(あと)を振返ったことであろう。同時に「ここまで来れば!」の感もあった。
 ここで、つけ加えておかねばならないことがある。
 北畠顕家(あきいえ)軍の鎌倉突破は、いかにも、一瀉(しゃ)千里に行ったようだが、これには、ほかの助勢(じょせい)もあったのだ。
 一つは、北条時行の助けであり、もひとつは、新田義興(よしおき)の応援である。
 北条時行(亡き高時の遺子(わすれがたみ))は、そのご、勅免となって、伊豆にいたので、顕家の南下に呼応(こおう)して、箱根に旗を上げ、また、新田義興(当年、まだ二歳の徳寿丸)は、新田党の郷土、上野(こうずけ)を出て、これも側面から顕家を助けていたのである。
 ――わずか五年前をかえりみれば、執権(しっけん)高時は、後醍醐の怨敵(おんてき)だった。また義貞は、その北条九代の府を、一朝(ちょう)のまに、瓦礫(がれき)となさしめた人だった。
 それが、いまでは“反(はん)尊氏”のもとに、勅免を蒙(こうむ)って、高時の子も、新田の党も同陣になっていた。じつに予測もできない時の変りようである。
 そして、これらはみな、時をひとつに、全国へむかって発せられていた吉野朝廷の大号令によるもので、その目標は、
 京都を奪回せよ!
 であった。
 檄(げき)は、東北四国九州へも告げていう。
 京都の北朝(ほくちょう)は偶像(ぐうぞう)である。傀儡師(かいらいし)の尊氏にはさしたる戦意もない。直義(ただよし)は一驕者(きょうしゃ)にすぎず、次第に武家からも見離されよう。兆(きざ)しはもうみえている。
 反対に、吉野遷幸(せんこう)このかた、諸州にひそむ忠誠の士は、みな悲憤して起(た)ちあがった。一個の浮沈にとどまらず、この国そのものが保(たも)てるか、救いなき荒廃へ落ちて行くかの、真の国家の危機を、人は初めてほんとに気づいたようだ。見ずや、諸国のあいだには、これまでにない正統な朝廷支持の声がぼつ然と高まっていることを。
 時は、まさに今である。
 京都を奪回せよ
 東西南北から、京都へ迫れ。
 こう激越な檄(げき)は、東海道をはせのぼるみちのくの健児らへも、軍楽(ぐんがく)のような鼓舞(こぶ)を盛り上がらせていたのだ。さらに途中では、宗良(むねなが)親王の参陣を見、その兵力も二万余の大軍に増強されていたのである。
 しかし、明けて延元三年のこの一月は、彼らにとって、苛烈であった。
 行くての美濃路は――不破(ふわ)、関ヶ原、垂井、青野原――すべて敵勢で充満していた。はやくも京都から直義の指揮下に、高(こう)ノ師冬(もろふゆ)、吉川(きっかわ)経久、佐々木道誉、おなじく秀綱、土岐頼遠(よりとお)、細川頼春などが、数万の兵力を幾手にもわけて、待っていたのだ。
 いかにその旗かずや軍色が多かったかは、先(せん)ノ陣と後(あと)ノ陣との、割りあてをきめるにさいし、諸将の間で、クジ引きがおこなわれたというのでもわかる。まだ二十一と聞く花の如きみちのくの鎮守府将軍顕家の首、それを、われこそ挙げんと、みな競(きそ)い合ったものだったろう。
 しかし、顕家の首は、そうたやすくは取れなかった。
 かえって、数日にわたる激戦の結果では、その逆が出た。一陣と一陣との駈け合せでも、一騎と一騎とのたたかいでも、断じて、みちのく勢が強い。
 京都では、この敗報に、大動揺をおこして、一時は、西国落ちの評議まであったというが、これはうそである。――高(こう)ノ師泰(もろやす)が、急遽、加勢に向ったのはほんとだが、まだ、美濃平野の対峙だった、そこまでの狼狽などするはずがない。
 むしろ、やがて、
「すわ、あぶない!」
 と、自軍の立脚点に、恐怖したのは、顕家の方だった。
 なぜなら、ただただ敵中を突破しつつ、長駆(ちょうく)、これまで来たことなので、一時、敗散した東国の足利勢は、そのあとで勢いをもち返し、東海道を追跡して、いまやすぐうしろに迫っていたからである。
 しかも、その追撃軍は、少数ではない。上杉憲顕(のりあき)をはじめ、江戸氏、葛西(かさい)党、三浦一族、坂東(ばんどう)八平氏、武蔵七党などの混成旅団で、あなどりがたい兵質と数であった。
 顕家は、このとき、
「越前の新田義貞は、われらが、はや、ここまで来たことは、夙(つと)に聞いているはずだ。義貞は、どう動いているか。義貞のうごきこそ、知りたいもの」
 と、しきりにあせった。
 けれど、忍びの連絡はなし、何ら、その消息を知りようもない。もし、義貞も京都へと、歩調を共に進んでいるなら、自分はここを一歩でも退くべきでなく、どんな犠牲を払ッてでも、一路京都へ行くべきであると、顕家は考える――。
「おそらくは」
 と、結城(ゆうき)ノ入道宗広が、彼の長い経験から見て言った。
「新田殿としては、うごきたいにも、うごかれぬ状態なのでございましょう。もし、それができるくらいなら、東国へ迂回して、すでにわが軍と合流もしていたはずです」
「では、ぜひもない。道をかえて、伊勢路から奈良へ入ろう」
「が、それにしても」
「うしろの敵か」
「さればで」
「なんの一ト反撃くれて、敵の潰(つい)えるそのひまに、順次、南へ下がって行け」
 反(かえ)り合戦というものは、非常な迅速と、敵の油断を突くのでなければ成功しない。――機をつかんで、みちのくの兵二万は、一せいに後を向いた。
 この戦いで、敵の土岐頼遠は負傷し、桃井直常は、さんざんになって、洲俣川(すのまたがわ)を逃げ渡った。奏功は、充分だったのである。――よしっ! と見るや顕家たちは、方向を南へ変えて、一気に、北伊勢へ、転進をつづけた。――そして伊勢や伊賀の山中でも、行く先々では、足利方のさまたげに出会ったが、行くところ、それに剋(か)った。
 こうして、やっと、
「オオ、奈良が見える」
 と、全軍の士は、伊賀路を南下がりに来つつ、諸声(もろごえ)あげて、よろこびに踊りあった。
 この日、辰市(たつのいち)の辺で、足利勢との小ゼリ合いがあっただけで、顕家(あきいえ)以下の長途の兵は、ここに奈良を占拠した。
 当然、吉野朝廷のよろこびは大きく、顕家の不撓(とう)不屈(くつ)な来援は、
「よくぞ、よくぞ」
 と、高く歓呼されていた。
 奈良とは目と鼻のさきの吉野である。けれど顕家は、ついに、吉野へは参内せず、みかどへお目にかかろうともしなかった。また、つい伊勢に居ると聞いている、父の北畠親房とも、もちろん、会ってはいなかった。
「ここで息は抜けぬ」
 と、彼はすぐ次にそなえて、
「京都回復の大命を成しとげ、そして真の勝利をみるまでは」
 と、かたく誓っていたものであったろう。
 その京都にあっては。――尊氏もこのところ、従来の“直義(ただよし)まかせ”を放擲(ほうてき)したかのようなおもむきがある。
 直義は、じっとしていられる質(たち)でない。
 みずから美濃へ出馬し、帰っては北国の手当を督(とく)し、また、奈良方面の作戦に当るなど、向うところの局面へ没している。
 いきおい、尊氏はまたも、好まざる表面に立たなければならなかった。
 昨今、京都の上下は恟々(きょうきょう)と万一の憂いにおびえ出しており、それに第一、執事の高ノ師直(もろなお)などが、決して、尊氏を安閑(あんかん)とはさせておかなかった。――かねてから師直は、尊氏の“直義まかせ”な態度には、多大な危惧と、不満とをもっている者だった。
「おそれながら」
 と、師直は、たびたび、尊氏にいさめていう。
「錦小路(にしきこうじ)さま(直義)へ、一切の権をおゆだねあるなどは、ちと早計ではござりますまいか。天下の耕地は、刈入(かりい)れどころか、まだまだ、青田にもなっておりません。しかのみならず、五風(ふう)十雨(う)、まま洪水(でみず)が襲って、せっかくこれまでにきた御経営も、一夜に泥の海と化(か)すごとき惧(おそ)れすら、なきにしもあらずです」
「わかっている」
 尊氏には、たいがい、わかっているには違いなかった。――師直も決してこのひとを、暗君とは思っていない。否、大いにおそれてさえいるのだが、それにせよ直義がこのひとを超えてあまりな権(けん)を持つのは好ましいことでなかった。しぜん自分の将来も共にうだつの上がらない予想がされてくるからだった。
 しかし、尊氏の心境も、もう前のようではない。顕家の奈良占領の事実は、彼を大きく反省させた。
 いまさらのように、吉野戦略の全国的な構想の大を知り、また、南朝方にはその持つ伝統と、後醍醐という不世出なきみの精神力とをめぐッて、顕家のごとき純で強烈な臣子が、なおまだ、少なくないなども、大いに覚(さと)ったようであった。
 それにもよるか。
 二月二十八日以降の、足利勢の奈良攻めには、たしかに、その指令は、尊氏から出たかとみられるふしがある。高ノ師直の軍旗が、この戦場にあらわれたなども、その一証といっていい。
 奈良は、猛攻撃をうけた。
 奈良坂、東大寺附近、法華寺界隈(かいわい)、手掻(てがい)小路と、合戦は連日、熾烈(しれつ)をきわめた。――が、一方の顕家の麾下(きか)は、いかんせん、いわゆる“疲れ武者”で疲れぬいていた。
「無念だが」
 と、顕家は四囲の情勢から今は奈良を放擲するしかないときめて。
「河内へ退(ひ)こう。河内、和泉、摂津の兵を糾合(きゅうごう)し、敵の天王寺へ突いて出よう。かしこに拠(よ)れば、海の口を扼(やく)し、かたがた、淀をさかのぼって、京都回復の作戦に出ることもできる」
 こう決意すると、彼は、義良親王の前に伏した。親王はやっと十二になったばかりの童形(どうぎょう)である。顕家は、兄のように諭(さと)して言った。
「宮様とは、数年の間、みちのくの艱苦を共にしてまいりましたが、ここにてお別れ申さねばなりません。供人(ともびと)を添えてお送りいたしますゆえ、吉野へおわたり下さいまし。吉野には御父のみかど、御母の君(准后ノ廉子)、みなおいで遊ばします。わけて御母の君にはどんなにお顔を見たがっていらっしゃることでしょう。……この顕家も、やがて都を取り返したあかつきには、さっそく吉野へ罷(まか)りいでますれば……」
「…………」
 親王はただうなずいていらっしゃる。
 親王は七ツ、顕家もまだ十六のときから、この幼い君臣は、朝廷を代表して、陸奥(みちのく)の遠くへ赴任し、多年風雪の苦を共にしてきたのである。親王にすれば父母以上にも慕われていた顕家であったろう。こらえ泣きのせきをやぶって泣かれたが、やがて、なだめすかしてようやく吉野へお送りしたのであった。
 つづいては、東国で参陣された宗良(むねなが)親王へもすすめて、この君とも、強(た)ってここで別れた。そして吉野へ送らせた。――彼には胸に期(き)する何かがすでにあったとみえる。
 京都は目前だが、同時に足利軍の配備は、これまでに踏破(とうは)して来た海道戦の比でない。そして、すべて新手の敵だ。その重厚な兵力はまた、いくらでも後備を繰り出すこともしよう。
「これからは」
 と、顕家はいよいよ惨烈な苦戦を思う。
 なにしろ頼む味方の中堅は、長途の疲労からまだ充分に脱けきれていず、それにこの奈良へ着いてからは、士気のゆるみも生じていた。
 純なるみちのくの健児たちも、そのすべてが顕家のようであったわけではない。顕家のごとき教養のうえに持たれた情熱でも信念でもなかったから、ひとたび弛(ゆる)むと、ただの野性の若さだけになり、それが物珍しい奈良界隈(かいわい)の都会的な物への物欲に移行していって、燃え狂ったのは、自然といえば自然と言いうる現象であったろう。
 ほかの書にはないが「興福寺略年代(りゃくねんだい)」には、このときの奥州兵(みちのくへい)は、奈良ではじつに手当り次第な掠奪をおこなって、まるで野の子供みたいな野蛮性を発揮したと書いている。――その暴状ぶりは当時戦乱に馴れた時人(じじん)をしてさえ「前代未聞(ぜんだいみもん)……」と、眉をひそめさせた程とあるから、よほどひどかったものらしい。
 これを見た顕家(あきいえ)の傷心はいうまでもなかった。彼が、宗良(むねなが)と義良の両宮にお別れしたのもそのためではなかったか。また前途に、新たな困難や苦戦が予想され出していたのも、ひとつには、この救い難い現象にもあったろうか。
 しかし、暴兵化した暴兵にもまた一種の強さはある。
 顕家はよくその豼貅(ひきゅう)(中国で昔、飼い馴らして戦陣に使ったという猛獣)を上手に用いたらしい。和泉、河内の野に転戦してからも、彼の軍は、行く所で勝った。
 そして、天王寺の敵、細川顕氏(あきうじ)を破って、そこを占領したのは三月八日で、その八日九日は、ひどい雨だった。
 雨の京都は、この報で、
 ――京中、動乱シテ、恐怖、流言、極(キハ)マリナシ。〔官務記〕
 の状だったという。
 けだし、天王寺の陥落(かんらく)は、淀川の線に沿(そ)って、すぐ京都をおびやかしうる体勢を敵が持ったことを意味するからだ。
 しかも、この優勢に加えて、顕家の弟、北畠顕信(あきのぶ)もまた、男山(おとこやま)に進出していた。その男山八幡の上からは洛内の屋根も見える。「官務記」が記(しる)したことも、あながち誇張ではなかったろう。
「すわ、抜かったり」
 と、足利方では、兵馬の大移動に追われていた。
 これほどとは、尊氏も予想せず、直義も思っていなかったものとみえ、直義(ただよし)は急遽、東寺まで出陣し、師直(もろなお)の手勢は、ただちに洞(ほら)ヶ峠(とうげ)から八幡(やわた)にわたって、男山攻撃を開始した。
 だが男山は、頑(がん)として陥ちない。しかも、ここに手まどっていれば、いよいよ天王寺方面の顕家を強大にする。
 尊氏は、洛中から指令を送って、師直に告げた。
「さきに天王寺を攻めろ。天王寺が陥ちれば、男山も自然陥ちる」と。
 で、師直は、一部の兵力を八幡にとどめて、一子師冬(もろふゆ)、武田、島津、吉川(きっかわ)、田口、岡本などの諸部隊をひきい、自身、天王寺へ駈け向った。
 いまや様相は、南朝と北朝と、また南党の士と北党の士とが、あしたの運を、ここにかけたかたちであった。
 このときにあたって。
 吉野朝廷では、はるか越前の新田義貞へむかって、
“――天下ノ安危ハ只コノ一挙ニ有ル。一刻モ早ク、辺境(ヘンキヤウ)ノ合戦ハサシ措(オ)キ、京都回復ノ征戦ニ急ギ上レ”
 と再三、勅の密使を、北へ飛ばしていた。
 おなじような檄(げき)は、九州へも、ひんぴんと送られたが、菊池党や阿蘇(あそ)一族は九州内部のたたかいでうごけず、義貞もまた、越前から足の抜けない事情にあるのか、とうとう、このかんじんな時機に、北方から京都を突いて、尊氏の胆(きも)を寒からしめることもなく、ついに四月は過ぎてしまった。
 顕家のたてこもった天王寺の附近を中心とする堺ノ合戦、渡辺橋ノ合戦などは、このあいだに一勝一敗をくり返しつつ激烈をきわめ、戦場もここのみでなく、摂津、河内、和泉の野にわたる一円の火となっていた。
「よく戦った」
 ……思えば、と顕家もかえりみて悔いはなかった。
 みちのく以来の、純で野性な若人たちも、あらましは戦場の野晒(のざらし)と化し去って、残るは少なく、多くは、以後の部下だった。
 顕家は、その夜、感慨の中にいた。陣中用の小硯(こすずり)と小さい燭(あかり)を机におき、深更まで何か筆をとっていたのである。外は暗い霧で、この夜も敵味方の声が海鳴りのように遠くでしていた。
 顕家が夜をあかして書いた杉原紙(すぎはらがみ)十数枚にものぼる文章は、吉野朝廷へたてまつる彼の政治意見書であった。
 上奏文の内容は。
 兵革に苦しんでいる民の租税(そぜい)をかろくすること。
 わけて地方政治に徳を布(し)いて撫民(ぶみん)の実を示さねば、国の乱は絶えないであろうということ。
 それらの持論を前提に。
 まず朝廷みずから「遊幸宴飲(ゆうこうえんいん)」の風習を廃(や)め、一切の奢侈(しゃし)を禁じ、とくに公卿、官女、僧侶らの、
「機務(キム)ヲ蠧害(トガイ)シテ、朝廷ノ政事ヲ黷(ケガ)ス」
 などの輩(はい)は、いわゆる朝恩に狎(な)れて、みだりに、官職の栄を争う醜悪な輩と共に、すべて一掃(そう)しなければならないと断じ、時代の悪を、痛嘆しているものだった。
 全文は七箇条、このほかにも、朝令暮改(ちょうれいぼかい)の弊(へい)やら、賞罰の不明朗やら、吉野朝廷の君臣には、とにかく痛いところをついている。
 もちろん、どことなく文意は若い。政治的達見というほどなものでもない。
 けれど顕家が精いッぱいな憂心の吐露(とろ)ではあった。――久しく奥州の任地にいて、中央の政府の状をながめ「これでいいのか?」と疑い、「これでは世の紊(みだ)れも中央悪のせいではないか」と憤ってさえいたものを、今、吉野朝廷へ上表していたものであろう。
 そして、この夜からわずか七日の後、五月二十二日。
 顕家は、戦死した。
 ところは和泉ざかいの安倍野とばかりで、明確にはわかっていない。
 天王寺や堺ヶ浦では、一時、足利もさんざんな敗相(はいそう)だったが、高(こう)ノ師直(もろなお)の迂回作戦と、細川顕氏(あきうじ)の突撃が功を奏(そう)してから、顕家の麾下(きか)は分断され、みちのく以来の家士百八人も個々討死してしまい、顕家もまた乱軍のなかに力も尽きて、斃(たお)れたのだった。
 紅顔、まだ二十一。
 北畠顕家の生涯は終ったのである。犠牲を犠牲の意義に生かしきッて散った花のいのちは、いかにもきれいで、あとかたもない野の露は、ひとしお、あわれというほかない。しかし吉野のうけた衝撃は小さくなかった。朝廷では、彼の上奏文を読んだ直後にこの悲報をうけたのである。一字一句にこめられた顕家の祈りの文字は、いちばいひしと、朝臣たちの骨身に沁(し)みたにちがいない。
 また、これを境に、時局は重大な転機を来(きた)して、北畠顕信(あきのぶ)の拠(よ)っていた男山も七月に入って陥落し、摂津河内の拠点は、あらまし、足利方の占(し)める所となってしまった。
 そのうえにも、さらに吉野朝廷をおどろかせたのは、北方からの一報だった。――それは越前にある新田軍の破滅を意味するものですらあった。
 そのごの新田党は、四面の地方土軍や足利勢との駈引に忙殺されて、なすところもない態(てい)だったが、吉野の召命(しょうめい)の頻りなのに焦心(あせ)りをおぼえた結果だろうか。ここへ来ての義貞の戦いは、焦心(あせ)ればあせるほど頽勢(たいせい)に傾いていたところ、七月二日、藤島の燈明寺畷(とうみょうじなわて)とよぶところの泥田の道で、義貞は流れ矢にあたり、年三十八で、あえなくもついに戦死したとの情報なのであった。

 吉野の群臣は、絶望にうちひしがれた。それもこんどは、決定的な絶望というしかない。
 期待していた北畠顕家は亡く、いままた北の空で、新田義貞もついに戦死したという。
 京都回復
 の望みなどはもう思いもよらなかった。なんといっても、宮方軍の総司令義貞が戦死と聞えては、全国的に波及するところも決して少なくないだろう。それを思い、これを思う人々は、
「どうなるのか」
「この果ては?」
 と、ただ自失の色めきを、実城院の御座(ぎょざ)に詰めあっているだけだった。
 何しろ、すべてはここに一頓挫のほかはなかった。――けれど奥まった行宮(あんぐう)の深くでは、かえって何かふしぎな活力のような精気が、そこの昼もうすぐらい御簾(ぎょれん)の御灯(みあかし)にあかあかとかがやいていた。そしてたえず、准后の廉子がまめやかな奉侍をしたり、時刻時刻には、かならず煎薬(せんやく)をさしあげたりなどしている御起居のさまなどもよくうかがわれる。
 後醍醐は、廉子がさしあげるその薬湯の※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)(わん)をお手にしながらも、
「定房をもいちど呼べ」
 と、前(さき)ノ内大臣定房をしばしば召されたり、またすぐ、
「親房を」
 と、北畠親房を交じえて、長時間にわたるおはなしがあるなど、およそ、表の衆臣のあいだにあるような絶望感に負けたような御容子は全くなかった。むしろ――義貞死ス――との悲報が入ってからの後醍醐は、つねにも勝(まさ)るような御音吐(ごおんと)で、夜もおそくまで、終日(ひねもす)、人々の意見を徴(ちょう)しては、次の挽回策に、心身のお疲れも忘れているかのようだった。
 そして、それから十日ほど後には、
「ぜひもない。京都回復の企図(きと)はしばらく措(お)こう。要はまず、東国奥州(みちのく)の固めに主力をそそぐことだ。しかる後に、尊氏の根拠をその足もとから覆(くつがえ)そう」
 と、さいごの叡慮(えいりょ)も決まったようであった。
 さきに、顕家と別れて、この吉野へ来ておられた義良(よしなが)親王は、そのため三たび、陸奥(みちのく)の任へ就いて赴(ゆ)くことになった。
 輔佐(ほさ)には、顕家の弟、顕信(あきのぶ)を陸奥(むつ)の鎮守府将軍にのぼせ、また、結城(ゆうき)宗広をも付き添わせて、ここに、東下の軍勢が、再編成されたのだった。
 いや以上のほかに、宗良(むねなが)親王も加わり、北畠親房も行(こう)に加わった。吉野にはなくてはならない重臣の親房である。その親房までが行(こう)を共にしたのをみても、いかにこんどの挽回策に、後醍醐が、積極的であったかがわかる。――ゆらい、難(なん)に当れば当るほど、かえって、難に強くなる御気性の底が、ここにもあらわれたものだった。
 しかし、豪邁(ごうまい)なる天皇をお父ぎみに持った御不幸といってもよかろう。いじらしいお別れにみえたのは義良親王であった。凡下(ぼんげ)の子なら遊びざかりの十二でしかない。――せっかく、顕家と別れてこの吉野に来ておられたものを、またまた、元のみちのくへ下(くだ)ることになったのである。御父のみかどはともかく、母情として、廉子の胸などはどんなものであったろう。凡下の親には想像もなし能(あた)わないことだった。
 義良親王と一行の随員たちは、やがて伊勢ノ大湊に集まり、用意されていた大船五十二そうの上に乗り別れた。
 吉野山から伊勢の港へ出るには、山間二十八里、急いでも三日がかりの難路でその困難はたいへんだった。しかし全国との脈絡(みゃくらく)を取る海路として、西の泉州堺は、足利方におさえられていたので、吉野経営には、この伊勢ノ大湊ただ一つが、無二の生命線だった。
 さきに北畠親房が、はやくから伊勢地方の確保に努めていたのはそんな理由からでもあった。そして、ここには大きな造船能力まで持って、吉野と鎮西諸国、また奥州や東国との中継所の形をなしていたのである。
 ところが。
 この一行(こう)五十二艘の大船は、はじめはつつがない海路にみえたが、やがて遠州灘(えんしゅうなだ)にさしかかったとき、大きな暴風(しけ)に出会ってしまった。「正統記」に九月十日頃とあるから、いまでいう颱風(たいふう)であったのだろう。
 一瞬のまに覆没(ふくぼつ)してしまったのやら、また助かった船にしても、みな大破してちりぢりにどこかへ吹き流されていた。
 もちろん、それぞれの消息が分ったのは、よほどあとになってからだが、北畠顕信と結城宗広が陪乗(ばいじょう)していた義良親王のお船は、あくる日、知多半島沖の篠島(しのじま)にただよい着いた。
 またべつの船にいた北畠親房は、遠く、東国の常陸ノ浦まで流されてゆき、さらに宗良親王の一船は、駿河湾のほとりに着き、まもなく、宗良の御子(みこ)は、遠州の井伊城へ入ったことが、後日に知れた。
「なにごとも天意でしょう。こんどの御災難で一行は四散してしまいましたが、思うにこれも神のおはからい以外なものではございますまい」
 十二歳の義良親王には、恐ろしい御経験であったろう。その茫然なお顔へ、白髪の老将は、こうおなぐさめしぬいていた。結城宗広なのである。
 宗広は、親王を奉じて、篠島から一たん伊勢へひっ返した。自然、颱風に吹き返されたような形だった。ところが、その十一月、この老将は伊勢で病んで、ついに帰らぬ人になってしまった。――かの亡き将軍顕家(あきいえ)とともに、みちのくの長い年月から征途の艱苦も、ひとつにして来た宗広なので、親王は、
「じいよ。じいよ」
 と、そのなきがらに取りすがって、親に別れるように泣いた。童心まだ十二の御分別には、どうしてこのじいは、こんなくるしい道ばかりあるいてついに死んでしまったのか、自分もそうしなければならないのか、おわかりになれなかったに違いない。
 宗広も征途の途中でついに亡くなってしまったので、親王はあくる年の三月、ともかくと、ふたたび吉野へ帰られた。そしてその年の秋八月には、おもいがけない父のきみ後醍醐の崩御(ほうぎょ)に付き添われたのであった。
 それより前に、義良(よしなが)には立坊(りつぼう)(立太子(りったいし))の議がきまっていたので、崩御の前日、譲位(じょうい)がおこなわれ、即位は、後日に約された。
 すなわち南朝の、
 後村上天皇
 とは、このきみだった。じいのことばのように、すべては天意であったものかもしれない。
 天皇のみまかられた喪(も)の行宮(あんぐう)は、ただの悲嘆などというものではなかった。――秋風落莫(しゅうふうらくばく)――とでもいうほかは、南朝衆臣の悲腸をあらわすことばもない。
 天下、万事ハ休(キウ)ス
 とまで、ここではみな思わざるをえなかったろう。
 さなきだに、吉野朝廷には悲運また悲運ばかりが、たびかさなっていた折である。すでに、みまかられる数日前にも、
こと問はん
人さへ稀(まれ)になりにけり
わが世の末の
ほどぞ知らるる
 と、詠み出られた一首を、看護(みとり)の新待賢門院廉子(しんたいけんもんいんやすこ)へお示しになっていたという。
 そのお歌にもはや、これまでの後醍醐にはないお心弱い語韻(ごいん)がどこやらにながれてはいなかったか。
 おん年は、この秋で、五十二。まだまだ老衰のお年ではなかった。「正統記」によると、
月の初めより
秋霧(あきぎり)に冒(をか)され給うて――
 とあれば、おそらくは、お風邪(かぜ)が昂(こう)じられた程度ではなかったろうか。
 しかし、それが命とりの御終焉(ごしゅうえん)となったのは、ひとえにこれまでの心身のおつかれによるといってもよいであろう。即位いらい二十一年、およそこれほどみずからのおからだをみずからの理想の贄(にえ)として酷使なされた天皇はほかにない。ためにお心を労(つか)ったことも、はなはだしい。
 不遇で長かった皇太子時代には、青年らしい奔放な恋もし、また鬱(うつ)を放(はな)つためには、後宮の女色漁りも人いちばいな方であった。しかし学問は終始怠らず、仏法の研鑽(けんさん)には、わけてなみならぬものがあった。すべてにむかって、その御精力は、精力の底までを、かたむけ尽さねば気がすまぬご気性だった。
 が、その本質にかなっていたのは、なんといっても、政治であった。人間一代の仕事として何が最も崇高(すうこう)か。それは政治だという信念にもとづいておられたらしい。いいかえれば政治好きであったのだ。――もちろん、みずから全土の朝廷軍を御簾(ぎょれん)の内からうごかすの御意志は元々なかったが、しかし諸将を用いること棋盤(きばん)の駒のごとく、機略縦横な謀略の才なども、ついには御自身を兵火のうちに投じ、またしばしば、獄窓(ごくそう)につながれるなどの、帝王としては、余りにも数奇(さっき)に過ぎる生涯を必然にしてしまわれたものであった。
 しかも、夢はやぶれて、業は半ばというよりは、時も暗澹(あんたん)なうちに、世を終わられたことである。御無念はいうまでもなかったろう。
 崩御(ほうぎょ)の、つい前日にさえ。
 西国にある皇子(みこ)のおひとり懐良(かねなが)親王に、遺勅を送って――
「わがなきのちも、朝敵掃滅(そうめつ)のはかりをおこたるな」
 と、激励しておられたほどであった。
 かえりみれば、たくさんな皇子(みこ)たちも、戦陣に亡(うしな)わせ、残る幾人(いくたり)かの皇子すら、北や東や西と、ちりぢりに所をへだてて、八月十六日の深夜丑(うし)ノ刻(こく)、おん息をひきとるときの御枕べにいたのは、悲哭(ひこく)する廷臣をべつとすれば、わずかに、御生涯の艱苦(かんく)をともにして来た准后(じゅんごう)阿野廉子(あのやすこ)と、第七皇子の義良(よしなが)十三歳のおふたりだけであったのだ。
 その御臨終のさまを。
主上 苦しげなる御息を
吐かせ給ひて――
 と「太平記」は、こう御記(ぎょき)しているのである。
「異国の帝王には、この世の宝玉や愛妃(あいひ)への執念(しゅうねん)を墳墓(ふんぼ)にまで随(したが)えていったような人もあるが、じぶんは今、臨命にさいして、妻子への未練も、王位や珍宝にたいする妄念も、何ら持ってはいない。……ただ生々世々(しょうじょうよよ)、心のこりなのは、ついに朝敵を亡ぼし終らず、四海の泰平を、この目で見なかったことである」
 とし、その下に「これを思ふ故に」と、つづけて。
魂魄(こんぱく)はつねに
北闕(ほくけつ)の天を望まん
もし命に背(そむ)き
義を軽くせば
君も継体(けいたい)の君に非(あら)ず
臣も忠烈の臣に非ず
 と、さいごの綸言(りんげん)を残され、そして左の御手に、法華経ノ第五巻を持ち、右の御手には御剣(ぎょけん)を抱いて、おかくれになったとしている。
 これは、すさまじい御遺言の形相(ぎょうそう)で、いかにも、さもあったらしく思われぬではないが、後醍醐は、古代東洋の学問に深く、宗教の面でも、なまはんかな仏家(ぶっけ)よりは、はるかな諦観(ていかん)を積んでおられたはずである。なんで死にのぞんで、世まい言(ごと)にひとしい妄念を――苦しい御息の下から吐き給う――などのはずはない。「太平記」の舞文(ぶぶん)に過ぎない。
 おそらくは、その寛達(かんたつ)で豪毅(ごうき)な平常と教養からおしても、
 これまでか
 と、大死一番の死を観ておられたことと思う。
 たとえ、大業ツイニ成ラズ――の御無念はあったにしろ、死んでも魂魄(こんぱく)はつねに京都回復を望んでいるとか、自分の命にそむく天子は、天子も天子でないの、臣も忠義の臣ではないなどという、そんな妄想じみた御遺言をなさるはずはない。
 さいごの、おん瞼(まぶた)に、あらゆる人々との別れを、しずかに、ただよわせたときには、後醍醐もただの一個の生命として……
 すまなかった
 と、身に併(あわ)せて、生きとし生ける者への御誦念(ごずねん)をお唇にもったのであるまいか。
 わけても、乱世下においた、無数の民にたいしてである。
身にかへて
思ふとだにも
知らせばや
民の心の
治めがたきを
 かつての御製(ぎょせい)には、そうした歌もみえている。王政一新の理想にしても、民を基盤としてのみあることだ。かならずや死に臨んではお胸にわびておられたにちがいない。
 ともあれ、帝王として、また父として良人として、その死は、おおかたの人間とも、さして変ることはなかったであろう。ただ天皇のばあいは、その意志による御生涯の波及するところが、余りにも大きかったのはぜひもない。
吉野山
蔵王堂の艮(うしとら)なる
林の奥に
円丘(まろをか)を高く築いて
北向きに葬(はうむ)りたてまつる
 ――かくて、御一代の業(ごう)は終った。そしてその土墳(どふん)は、あとに残った旧臣后妃(こうひ)の涙に濡れた。
 十月、大葬の営(いとな)みがすむと、後村上の即位も、かたちばかり執りおこなわれた。
 もしこういう時でなかったら、群臣、万歳の声にわいたであろうが、この祝典の日さえ、吉野の上は、うそ寒い秋の風だけだった。
 なんといっても、枢軸(すうじく)の後醍醐をうしなった南朝の朝廷は、空閣の虚(むな)しさをどうしようもなく、前途を悲観する人々のあいだでは、はやくも、
「瓦解(がかい)はのがれえまい。いまのうちに」
 と、身の処置を案じたり、余命を山林に隠そうとするうごきなども見えだしていた。
 こういうなかに在って、たれよりも平静でいたのは准后(じゅんごう)の廉子(やすこ)であった。
 もちろん、幾夜も悲しみの底に泣いて、先帝とのお別れに、女の尽きない涙を涸(か)らしたであろう容子は、その豊麗にも、げっそりと、窶(やつ)れのきわだッてきたことでもわかる。が、日もたつにしたがって、彼女は、童形(どうぎょう)十三歳の新帝後村上を擁(よう)して、
 国母
 そのものになりきっていた。後醍醐のなきのちも、後醍醐のいますが如く、わが子を立てて、いやこの幼帝に仕えて、先帝の遺誡(いかい)にそむくまいと、自己を神格的なものに持ちささえている寡婦(かふ)のつよい一心が、その姿までを、氷の中の花みたいに、きびしいものに作っていた。
 けれど、衆臣の動揺は、この一寡婦(かふ)と年少の天子に、しょせん、大きな頼みはかけられなかった。時に、それを励ましたのは、公卿でなく、吉野ノ執行(しぎょう)、吉水院(きっすいいん)ノ法印宗信(そうしん)で、
「まだ先帝の七々ノ御忌(ぎょき)もすまぬのに、もう南山の解体を議せられるなどは、余りにもふがいないではありませんか。諸州の義士は、かえって、この悲報と遺詔(いしょう)によって、いちばい奮い立ッてくるかもしれず――尊氏が思うつぼにはまってはなりますまい。――とまれ吉野大衆は不変のおたすけをいたさんと衆議一定(いちじょう)いたしました。歴代、朝廷あっての公卿廷臣が、この期(ご)に、朝(ちょう)の存亡を疑い、身ひとつの去就に迷うなどとは、何としたことでしょうか」
 と、人々の滅失を、大いに醒(さ)ました。
 そのうえ、ここにまた、悲腸の廷臣たちを力づけたものがある。それは、亡き楠木河内守正成の嫡男(ちゃくなん)正行(まさつら)だった。先帝の喪(も)と洩れ聞いて、正行は一族の和田和泉守らとほか数百騎をひきつれて馳(は)せ参じ、
「まずは御陵(ごりょう)のおん前に」
 と、そこへ来てぬかずいたのち、初めて、新帝の行宮(あんぐう)に参内をとげたのだった。
 その正行は、当年十八。その若武者振りは衆目をひいたが、やがて年の暮頃、河内へ帰って行った。
 かくて公卿たちの腹もさだまり、喪(も)は遺詔(いしょう)の檄(げき)と共に、全国の宮方へ通達され、あくまで吉野死守の結束を新たにしていた。するうちに、美濃で敗れた脇屋義助も、ここの吉野へ落ちて来るやら、諸国の武士の南朝支持もまだつよく、俄に吉野朝廷が衰えたとも見えなかった。

 尊氏が、後醍醐の死を知ったのは、八月十八日の明けがただった。
 これはおそろしく早かったといってよい。
 吉野の喪(も)は秘されていたろうに、二日後にはもう三条坊門の門へその飛報が入っていた。
「はアて?」
 尊氏は、俄にほんとにもしなかった。公的な通告でなく、早馬できた諜者の諜報に過ぎない聞えであったからだ。
「たしかな沙汰か?」
 もいちど、つぶやいた彼の体のうちを何か波のようにうねり抜けたものがある。目のまえにあった泰山(たいざん)のような邪魔ものが崩れて一ときにべつな視野を見たような感でもあったが、すぐあとには、われにもあらぬふるえがどうにもとまらなかった。日ごろにあった彼の罪悪意識と突然な虚(むな)しさとが、波の通ったあとの砂地みたいにべったり心の底に定着していた。
 まだ暗いうちだったが、
「錦小路殿にすぐ来いと申せ」
 と、使いを走らせ、また一条今出川の高(こう)ノ師直(もろなお)の家へも、
「即刻、出仕(しゅっし)せよ」
 と、家臣をやった。
 ふたりが御池殿(おいけどの)の一ト間に顔をそろえたとき、尊氏はまだ仏間(ぶつま)から出ていなかった。しかし、三名の密談となってからは、さして時をおかず、直義(ただよし)と師直とは、すぐ政所(まんどころ)のほうへ出て行った。
 そのあと、尊氏はいちど奥へ入って、鶴姫を見ていた。
 登子(とうこ)は、先年、男子の基氏(もとうじ)を生み、この春には女子の鶴姫を生んでいた。初めての女の子である。尊氏はこの鶴姫が可愛くてならず、朝のいちどは、かならず乳の香のするここを覗く。
 だが、この日の朝は、抱きもせずに、すぐ去った。その良人の翳(かげ)に登子も気づくものはあったが、だまっていた。訊かないのが、むしろ、武家家庭では慣(なら)いであった。
 鶴姫のあどけない顔までが、今朝の尊氏には、なにか哀(かな)しいものに見えたのだった。それと後醍醐の死とはなんのかかわりもないはずなのに、尊氏には不気味な同じ生きものの呼吸に見えた。そして朝食もとらずにすぐ政所(まんどころ)へ出てゆくと、そこには細川顕氏(あきうじ)らも出仕していて、直義を中心に、異様なまでの緊張と、かくしきれない僥倖感とを、ひそひそ、ささやきあっていた。
「大御所さま。つづいての早打ちがいま入りました」
 その声の弾(はず)みでも、師直がいおうとする所は、すぐ分った。
「やはり虚報でないのか」
「されば崩御(ほうぎょ)は過ぐる十六日の夜と、ただいま、確(かく)たる報なので」
「そうか」
 と、深くうめいたままの尊氏へ、直義もまた言った。
「もう疑う余地はございません。吉野の行宮(あんぐう)は暗夜にともし灯を失った思いでございましょう。これにて諸国の南党も枢軸(すうじく)を失い、まずは天下の事も定まったといえましょうか」
 尊氏は、それに返辞をしなかった。そして、まったくべつなことを、三名に言い渡した。
「今日から七日の間、幕府の雑訴(ざっそ)(政務)を停止(ちょうじ)しよう。すべて、つつしんで喪(も)に服し、深く哀悼(あいとう)の意を表せ」
 幕府は、その日のうちに、喪を布告した。
先帝 吉野ニ於(オイ)テ
崩御ノオ聞エアルニ依(ヨツ)テ
 と、七日間の政務の停止を告げ、宴遊鳴物(なりもの)は申すにおよばず、公私とも、一切を謹んで哀悼(あいとう)すべし、ともつけ加えた。
 すると、これに大いな狼狽をしたのは、光明天皇の北朝の朝廷だった。
 幕府へ気がねしていたのであろうか。――後醍醐の死にたいしては何ら哀悼の表示を考えていなかった。で、大いにあわてたらしく、幕府に倣(なら)って、朝廷もあとから急に、
 廃朝(ハイテウ)ノ令
 を出した。
 まことに醜態だった、と「中院記」や「玉英記抄(しょう)」も書いている。北朝の廷臣に人材のなかったことが、この一例でもおおいようなく世間に見すかされたことだったろう。
 これに反して、尊氏の哀傷はむしろ、ちと度が過ぎているほどだった。
 彼は、後醍醐のために、七々(四十九日)の忌(も)に服し、さらにその百ヵ日には、等持院へのぞんで、盛大な仏事をいとなんだ。そして、満堂の参列者のなかで「――先帝を想う」の追悼文をみずから読んだ。
 文は漢文で、それも自身で書いたものである。謹厳な辞句だし、かなり長いものであるが、要は自分の心情を、こう吐露しているものであった。

 尊氏の今日(こんにち)あるのは、一に先帝のおかげでした。まことに、鴻恩(こうおん)のほかのものではありません。
 その温柔なお姿、ありがたい叡慮のお声など、なお耳の底にある想いです。攀慕(はんぼ)の愁腸(しゅうちょう)、尽し難しとは、このことでしょうか。慚愧(ざんき)の念(ねん)、哀傷の感、どういってみても、いまの私の思いはこれを筆舌(ひつぜつ)にすることもできませぬ……。

 北朝の公卿、武臣、参列の大衆は、時々、彼の声を疑うように眼をうごかした。
 追悼の願文は、おおむね、その故人にたいして、美辞麗句の頌(たたえ)を贈るのが世間の慣いではあるにしても、尊氏が、後醍醐の霊へむかって、こうまでいってしまうのは、敵の徳を賞揚するのあまり、自己の悪と背徳を告白しているようなものではないか。
 直義の眉には、あきらかに、ちらと、気に食わぬらしい色が見えた。彼にいわせれば、おそらくこうであったろう。
「いらざることを仰せあるものだ。しかも綿々(めんめん)と、衆人の中において……。兄者の持ち前だが、弱気といおうか、矛盾といおうか。正直にもほどがある」
 しかし、尊氏を見れば、尊氏は自分で書いた弔文(ちょうぶん)にひきずりこまれているような忘我の境に立ってそれを真剣に読みつづけていた。そして読みおわると、ほっと、凄愴(せいそう)な面色を醒まして、先帝の霊壇に、また長いこと黙拝してしずかに退がった。
 後世の水戸学者は、これを評して「彼の狡奸(こうかん)だ」といった。また「耳を掩(おお)って鈴(すず)を盗む類(たぐい)の芝居だ」と酷評した。しかり、どんな人間も、純一無垢(じゅんいつむく)な涙にはなりきれない。だがまた、どんな人物にしろ、一片の真情もないものとはなお言いきれまい。

 こんな時、巷(ちまた)ではきまって、物の怨霊(おんりょう)をいいはやした。
 とつぜん、雷が鳴ッたといっては、冬なのに、ただごとでないと言い、夜は夜で、
「ごらん、南の方に不気味な星が見えるよ」
 と、人群れが辻に絶えない。
 みな吉野の先帝の怨霊に違いないと恐れおののいているのである。一般の怨霊思想は、まだ根ぶかく、大塔ノ宮のときにも、怨霊怨霊と、言い騒がれたが、こんどもまた、公卿たちの間にさえ、保元の乱に讃岐(さぬき)の配所で憤死された崇徳(すとく)上皇の怨念や因果などが、何かにつけ想起されていたものらしく、
 諸事、崇徳(すとく)の例に倣(なら)う
 として、北朝の君臣までひどく気に病んでいるふうだった。そしてそれが、都の昨今を、なんともつかぬ、おもくるしい空気にしていた。
 そうした或る朝のことだ。
 尊氏は、臨川寺(りんせんじ)の三会院に、夢窓国師を訪ねていた。
 むかし、鎌倉にいた頃から深く帰依(きえ)していたあの禅師(当時、疎石(そせき))で、建武元年、尊氏のあつかいで朝廷にまねかれ、後醍醐もまた弟子の礼をとっていた。つまり後醍醐にとっても尊氏にも共に、師たる夢窓国師なのだった。
「さあのう。御発願の心は分らぬでもないが」
 この朝、尊氏が折入っての申し入れに、夢窓はあまり気のりでなかった。――征夷大将軍大納言尊氏――というゆゆしい客も、この室では、ただの一法弟にすぎなかった。
「いかがでしょう」
 尊氏はかさねて懇願した。
「ぜひに、ご承諾を得たくぞんじまする。再三の使者を以ていたしましたが、おきき入れなく、為に今日は自身伺ったことなので……」
 亡き後醍醐の霊をなぐさめるために、このさい、一大寺を建立(こんりゅう)したい。
 それには嵐山を望む大堰川(おおいがわ)から太秦(うずまさ)のあたりまでをふくむ亀山上皇の離宮のあとがある。その地域をあてて、寺名も北朝年号をそのまま「暦応(りゃくおう)禅寺」となし、国師に、その開基(かいき)となってもらいたいというのが、尊氏の希望であった。
 が、夢窓は、
「寺をつくるなら、なにもわしでなくともよかろう。天台や真言(しんごん)の律宗(りっしゅう)がよい。……いずれ、そこもとの発願も、後醍醐の怨霊(おんりょう)しずめがその目的であろうでな」
 と、尊氏の腹を見すかしているように笑って。
「じたい、禅家では、怨霊などというものは、嬰児(あかご)の熱病ほどにも見ておらん。愚昧(ぐまい)迷妄な沙汰とわらっておる。ゆえに怨霊鎮(しず)めの寺院の建立(こんりゅう)なら、怨霊信仰を大事にしおる天台や真言の祈祷宗教家のもとへ行っておたのみあるがよろしい」
 と、今朝もひどくニベのない国師なのだった。
 尊氏はこれにむっとした。しかし、世上にはその風潮がある折なので、自分の行為もそれに類するものと思惟(しい)されてもぜひはない。ただ夢窓には分ってもらえるかと思っていたのだ。
 自分は、後醍醐を敵としてきた覚えはない。敵としたのは、その人でなく、何としても両立しえない、その人の中のものだ。思想だった。何で、怨霊などを恐れようか。
 尊氏は言った。
「自分の一大寺建立(こんりゅう)の願いは、決して、怨霊恐怖などから出たものではない。国師の仰せは、ちと心外にぞんぜられる」
「しからば何で、一般の暮しさえまだなかなか苦しい今日、俄にそんな願望を抱かれたのか」
「一に、先帝の高徳を偲(しの)び、それの報恩のためと、またみずからの悔悟(かいご)をなぐさめんとする念も、正直、ないではありません」
「それだけかの」
 と、夢窓はややものたらない顔をして。
「まこと、怨霊鎮(しず)めなどが目的でなく、正しい仏法の光揚なら、この夢窓も其許(そこ)の建立(こんりゅう)を手伝わぬわけにはゆかんが」
「では、ご承諾給わるか」
「しかしわしが開基となれば、自然、その発願の趣旨もちと違ってくるがの」
 と、夢窓はまず断わって。
「法(のり)の道場に呉越(ごえつ)はない。一視(いっし)みな御仏(みほとけ)の子じゃ。しかるに、そこもとたちがひきおこした戦争のために、殺された者はそのかずも知れん。死者につながる遺族らまでをあわせれば、今日に哭(な)く者は幾十万か。これは一人の天子の死といえど物の数ではなく、一人の将軍の追善などでも埋まらんものじゃ。……もしそこもとの発願が、一帝の慰霊や、自己の申しわけのような小乗心(しょうじょうしん)にとどまらず、心から民に詫びて、尽未来(じんみらい)、世をよくおさめんと懺悔(ざんげ)しての誓願(せいがん)であるならば、なんぼうわしもよろこんで、片棒をかつぐ気になるかもしれんが」
「おことば、身にこたえまする。もとより尊氏の心もそこにないのではございません」
 尊氏は帰るとさっそく朝廷に奏請して、亀山殿のあとを一大寺とする手つづきをすませ、高(こう)ノ師直(もろなお)と細川和氏(かずうじ)のふたりを、
 暦応禅寺(りゃくおうぜんじ)造営奉行
 に、任命した。
 そしてまた、中原親秀や左衛門ノ尉(じょう)資直らが技師となって、その広大な地域さだめの縄取りとなった当日には、尊氏は、みずから臨んで、設計に立ち会い、夢窓国師の原案を練った。
 しかし、こうして発足はしたが、それはたちまち、天台の本山、叡山の大反対をよびおこした。
「時もあろうに」
 と、叡山側でも、民の塗炭(とたん)のくるしみを、反対の理由にとった。
「疫病(えきびょう)、飢饉(ききん)、盗賊の横行、民は飢えつかれている。みなこれ戦乱のせいだ。しかるに、そのうえにも、戦乱の張本人足利殿へ媚(こ)びて、味噌すり坊主の夢窓が、禅家の権力をひろげんとし、かつは自己宣伝のため、一大寺を造営せんなどとは、言語道断だ」
 ごうごうと、こう誹(そし)る声もあり、また、
「一禅寺(ぜんでら)に、暦応の年号を謳(うた)うなども、以てのほかな僭上だ。ゆらい年号を寺名に冠(かん)する寺は、国家第一の比叡山延暦寺(えんりゃくじ)のごとき勅願寺のほかは、ゆるさるべきものではない」
 と、大岳(たいがく)の鐘を鳴らして、嗷訴(ごうそ)の気勢をあげるやら、造営奉行の高ノ師直の屋敷へ押しかけて、石を投じたり、落書するなど、物情騒然のうちに年も暮れた。
 で、ついに朝廷と幕府でも折れて、寺名を変更し、あらためて天龍寺とよぶことに修正して、彼らをなだめた。
 やっと、寺号はここに「天龍寺」ときまって、叡山のやっかみもどうにかなだめられたので、始めてその地曳式(じびきしき)(地鎮祭)が、広大な亀山離宮跡の敷地でおこなわれた。それは、
 暦応四年の七月十三日
 で、このあいだ、一年半もたっていた。が、地曳式当日には、勅使ものぞみ、また、
 開山の夢窓国師
 尊氏、直義(ただよし)、高ノ師直、細川和氏らの造営奉行
 臨川寺の無極禅師、等持院の古先(こせん)禅師
 そのほか檀越(だんおち)の公卿、武家、数千人が列し、式は盛大をきわめた。
 式は、夢窓が“開山ニ就(ツ)クノ弁”に始まって、
「ここに尊氏、直義の発願(ほつがん)によって、天龍寺を創(た)つ――」
 の一文を読んだ。
 それの文意の中で、夢窓は、後醍醐の生涯を
 ――戦争の罪悪と不幸とを担(にな)う苦悩の象徴
 と見なし、また尊氏兄弟は、それへの悔悟(かいご)と罪ほろぼしのために、ここに、恒久の平和を祈って、人類の苦悩迷妄を救うべき一大寺の建立(こんりゅう)を思い立ったものであると、宣誓していた。
 終ると。
 開山の国師は、沓(くつ)を脱(ぬ)いではだしとなった。そして法衣の袖をうしろにたくし巻いて、みずから鍬(くわ)を把(と)り、竹の平籠(ひらかご)に二杯(はい)の土を盛る。これにならって、尊氏直義の兄弟も、はだしになってその竹籠の土をかつぐ。――こうする事三たび、地曳式と、師檀の誓いとが、すんだのだった。
 けれど、ほんとの起工はこれからである。
 ばくだいな人力と資財と金が要(い)る。
「兵乱はまだやまず、人民は困窮のどん底にあるものを」
 とは、叡山が攻撃理由としている第一の声だ。夢窓は、これにも一案を打ち出した。
「むかし、北条氏が建長寺の造営費をつくるために貿易船を出した例があり、かつては、後醍醐のきみも、住吉神社の造営費をまかなうため、住吉船を勅許されたことがある」
 この先例をとって、尊氏へ、天龍寺船の計画をすすめた。――つまり元(げん)との交易を官営して、その利益で、一切の工事をまかなうというものだった。
 翌年、初めて、第一回の天龍寺船が二艘(そう)海外へ出た。
 ついで、翌々年も、数回にわたる交易がおこなわれ、海の彼方の文物が、俄に、都下をいろどりだした。
 当然、海外との交易は、民間の市場にも活況を与え、官に入る利益も大きかったので、さしもの大工事も、いらい難なく進んで行った。それのみか、連年、戦争と破壊の中にあった一般のあいだには、かえって、諸職とも稼ぎがふえ、庶民はこれを、
 天龍寺景気
 と、よんだりした。
 事実、規模(きぼ)の雄大なことは想像を絶していた。――亀山、嵐山、大堰川(おおいがわ)をとりいれて、――その中心に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にならった毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の本堂をすえ、塔、楼閣、講堂、山門、七十七の寮舎、八十四間(けん)の外廊(がいろう)、鐘楼、輪蔵(りんぞう)、池泉(ちせん)、橋、そのほか、景勝の所には亭や書院を配するなど、これの竣工には、じつに六年の月日がかかった。
 しかしついにそれは落成をみた。
 さっそく、木の香も新しい天龍寺の大本堂で、仏事始めが、とりおこなわれた。
 八月十六日。つまり後醍醐の命日だった。七回忌(き)であったのである。
 つづいて、くわしくいえば南朝の興国六年、北朝の貞和元年の、同月二十九日には、いよいよ待望の落慶(らっけい)(竣工)式が予定され、それの前景気はたいへんだった。
 光厳上皇の御幸、諸国の大名衆の上洛、またこの平和的盛事を見ようと、近郷近国から集まる男女など。すくなくも当日は何十万人が洛中洛外にあふれることだろうといわれて、町々には桟敷(さじき)が出来、野には物売り市(いち)が立つなど、宿も寝る場所もないだろうという評判だった。
 しかし、ここにまたぞろ穏やかでなかったのは比叡山で、南都の大衆にもよびかけ、連日の三塔会議でさけんでいた。
「仏法の紊(みだ)れは、国法の紊れ。一禅室の売仏者(ばいぶつしゃ)、夢窓ごとき者に、古来からの王法仏法を、思うままにさせてなろうか」
「夢窓を追放し、天龍寺を破却せよ」
「しからずんば、嗷訴(ごうそ)(大衆の示威運動)あるのみだ。日吉(ひえ)山王の神輿(みこし)を挙(あ)げて、朝廷へ迫ろう。奈良の興福寺大衆も、春日神木(かすがしんぼく)をかついで、われらと同時に、洛内へくり出せ」
 こんなさい、或る夜、天龍寺に放火しかけた一法師が捕まったなどの事件もあり、造営奉行の高(こう)ノ師直(もろなお)のやしきへ、いやがらせの押しかけ面談や石の雨が降ることも毎日だった。――が、尊氏の意をたいしている師直は強硬にそれを突ッぱねつづけて来た。
「天龍寺の落慶式はあくまで予定どおりに挙行する。――王法仏法とはひとり天台だけを護ることではない。――しかもこのたびの建立(こんりゅう)の趣旨は、先帝の御遺徳をたたえ、億衆の民生福祉(ふくし)を祈念するにある。――民衆が叡山大衆の示威運動をこのむか、平和の誓願(せいがん)をよろこぶか、去って、庶民の声に聞くがよい」
 幕府には政策もある。
 こんどのことを機会に、五山の禅宗にもいちばいの権威をもたせ、従来の叡山勢力や南都の横暴を抑えようとする一石二鳥(いっせきにちょう)の狙いがそこにはないでもない。だから、彼らがいきりたったのも、当然といえば当然だった。
 しかし朝廷では、幕府のように強くはなれず、天龍寺御幸は、落慶の翌日とし、また決して、勅願とか勅会(ちょくえ)の御幸ではないという証言をあたえて、やっと彼らの怒りをなだめた。
 さてこうして、いよいよ当日になってみると、その盛儀は、要するに、天龍寺落成記念の日をかりて、じつは足利将軍幕府の創始と威望とを、あらためて天下に宣伝する一大儀式となっていたといってもよい。
 尊氏、直義の行列は、すべて、建久元年に行われた源頼朝の大仏供養を模(も)している。
 先駆の一番には、山名時氏がはなやかに鎧(よろ)った五百余騎で行き、尊氏は、八葉(よう)の車のすだれを高くかかげて、大納言の衣冠で坐し、車副(くるまぞい)の勇士十六人にかこまれ、以下、二番、三番、七番と二列縦隊でつづき、直義もまた、蒔絵(まきえ)の細太刀、衣冠すがたで、中頃の美々しい牛車に乗って、随兵十二番までの将兵を従えていた。
 晴れの盛儀になるとたれの顔もみなよそゆきになって、衆目の環視(かんし)がその自意識を過剰にさせる。自己の粧い、自己の存在、他人との序列にせよ、少しでも不当な下風(かふう)におかれるのは、ゆるせない心理になる。
 人間の心にひそむ権力の魔魅(まみ)のあやしい作用が、こんなところにも複雑な仮面のもとにうごくのだった。
 かつての、頼朝の東大寺大仏供養のばあいでも、
 ――天下の大名武臣の功ある者を選集して、順序、その行装の随兵となす
 と称揚され、随行の一番から十二番までの諸将は、家々の面目として序列を誇り“尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)系図”にさえそれが注記されたほどだったから、この日、天龍寺落慶式(らっけいしき)に、尊氏と直義の車に附随して行った諸大名も、みな列をかざり身を粧い、今日の参加を、一代のほまれかのように気負っていた。
 だから、列の順序が、ひとつ間違っても、すぐ喧嘩となりかねない緊張ぶりと、また混雑で、時刻はおくれ、しかも道筋では、見物の桟敷(さじき)やら人波でしばしば停頓を見、ために、尊氏直義の車が天龍寺についたのは夕がたになってしまい、全山の僧侶は、八十四間(けん)の山門廊から、これを松明(たいまつ)で迎えたような有様だった。
 剣持(けんもち)役の南遠江守をうしろに、八葉(よう)の車から降りて入場する大納言尊氏、また、副将軍直義のすがたに、人々は一せいに乱声(らんじょう)(ときの声に合せて急テンポに楽(がく)を奏(そう)す)を発した。
 式は夜になって、終りの舞楽(ぶがく)がすんだのは、子(ね)ノ刻(こく)(深夜十二時)だった。
 あくる日はまた、上皇の御幸(みゆき)で、式事すべて、前日のごとく、便殿(べんでん)で上皇から尊氏兄弟へ、親しく賜酒(ししゅ)のことがあり、夜に入って、還御(かんぎょ)になった。
 それからも毎日一般の参詣人で織るが如き人出である。さらには、御池殿(おいけどの)の御所や錦小路殿(どの)の内でも、奉行人たちへの慰労だの諸大名の招待が連夜のように催され、洛内の灯は、建武以来初めて、昔の都にもまさる夜景をちりばめだした。
 世はまさに、天龍寺の建立(こんりゅう)にかけた祈願(きがん)にこたえて、久遠(くおん)の華厳法相(けごんほっそう)四海平和が地に降りてきたかのような観がある。――
 けれど、眸を転じて。
 都のそとをみればここ六年のあいだも、地方では、ほとんど一日とて、小さい合戦は熄(や)むまもなかった。
 さきに遠州灘の遭難から常陸(ひたち)へただよいついた北畠親房は、そのご筑波の小田城や関城に拠って、大いに東国を攪乱(かくらん)していたが、ことしついに関城も破られたため、またひそかに吉野へ帰って来て、ちかごろでは、南朝朝廷の帷幕(いばく)にあり、少年天皇の後村上(ごむらかみ)をたすけて、全国的な戦略戦争の再構想に、着々、手を打っているという聞えがある。
 いわば京都の平和は、京都の中だけの小康(しょうこう)だった。――それもしいて天龍寺造営の名で醸(かも)されていた表面的な景気にすぎない――。むしろ累卵(るいらん)の危うさに似るものだったともいえる。
 それにこの年の暮には、妙な咳(せき)の病(やまい)が大流行して、死ぬ者が多かった。そしてこの奇病は「遣唐船(けんとうせん)が海の外から持って帰った“天龍寺風邪(かぜ)”だ」と世間はいった。これなどもまたいい兆候とはみられない世態であった。

 一条今出川の高(こう)ノ師直の家は、いつのまにか、尊氏の高倉邸や、直義(ただよし)の三条邸に次いでの、大第館(だいていかん)となっていた。
 附近には一族家臣らのやしきも衛星のごとく、自然、新しい一ト町さえできてきたので、
「えらい開けかたよ。やがてここもむかしの西八条(平家時代清盛のいた所)のような繁華になろうか」
 と、いわれるほどで、およそ師直の門に、客の車や輿(こし)が絶えたことはない。それもひところは、
「ご政道はみな、錦小路殿(直義)の御可否(ごかひ)にある」
 と人も知っていたので、彼の門もさびれていたが、ここ数年前からは、やはり将軍家執事の高家(こうけ)によらねば、公辺のらちはあかぬとあって、政務、雑訴、幕府の内許事(ないきょごと)など、さまざまな訴願はみなここへもちこまれていた。そして、あらそって、彼の鼻息(びそく)に媚(こ)び、賄賂(わいろ)をはこぶなど、浅ましいばかりな繁栄なのだった。
 なにしろ、朝廷はあっても、北朝には、人がない。すこし気概のある公卿は、みな
「武家の傀儡(かいらい)となり、武家の頤使(いし)に従っているには忍びぬ」
 として、吉野の南朝方へ奔(はし)ってしまい、あとにのこっていた公卿といえば、無能か、でなければ、底冷(そこさ)めた忍従だけの者だった。
 それに、北朝の光明天皇は、まだ二十歳をやや出たばかり。兄ぎみの光厳上皇とて、これまた、ふかく尊氏直義をおそれて、
「何ごとも、ただ無事なるように」
 と、その日その日を、はらはら祈っておられるようなお方としかみられなかった。
 もっとも、時人(じじん)の言葉には、こんな※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)きまであった。
「およそ、光明天皇ほど、お倖せなきみはあるまい。いちどの戦争も経験せずに、将軍家から天皇の位を受けたのだから――」と。
 北朝の権威を、人がどの程度に見ていたかは、この一事でもおよそ分かる。
 虚位(きょい)は、どうしても、虚位でしかない。
 尊氏もこれまでは、“朝敵”の名をはばかって、本心、皇室には大事をとり、また形式的にも、自分のたてた天皇をうやまってはいたが、しだいに、その形式すらも公卿の無能と共に、持てあましていた。そして今では、無精卵を抱いて雛(ひな)を待つの愚をすてて、はっきりと、前幕府の北条氏以上な武断政体へと、かたむきだしていたのだった。
 しかも、その北条氏はなお、公卿に公卿威張りの虚栄と虚位官職をあたえていた。しかし尊氏は、それもほとんど武家の手にとってしまった。
 ――すなわち自身は、三位ノ大納言征夷大将軍となり、直義を副将軍従四位となし、一族四十三人それぞれに官位をさずけ、一切の政治的中心力を、新幕府のうちにおいた。
 が、尊氏はまだどこか、生来の大ざっぱなふうでそれをやっている。――しかるに、この人の腹中にまで入って万端をきりまわしていた将軍家執事の師直だった。がぜん彼の門に、媚態(びたい)の客や贈賄(ぞうわい)の使いが群れをなしたのは、奇異な現象でも何でもない。
 贈賄の寄る門には、その贈品に主人の好癖があらわれる。先の好まぬ物は運んでも意味がない。贈賄者はみな腐心(ふしん)する。
 なによりも正味の金がおすきらしいと分れば、金を。
 書画骨董がすきと知ればあらそって宋(そう)元(げん)の名品だの、雨過天晴(うかてんせい)の佳品やらを。
 また、或る時代に時めいた一宰相は、
「鶉(うずら)がおすき」
 という評判を得、邸内はまたたくうちに、天下の稀種(きしゅ)を入れた鶉籠(うずらかご)やら黄金や銀(しろがね)の鳥籠で足のふみばもなくなったなどという話もある。
 だが、師直はやや違う。すくなくも尊氏から、
「この男」
 と、信じられているほどなものはあった。何を持って行っても、あらましはそれをしりぞけて受けつけなかった。しいて押しつけてみたところで彼には“置いて行き損”でしかないと分って、その点、
「高(こう)の殿(との)は、きつい御潔癖(ごけっぺき)だの。ニガ手な殿よ」
 という定評が、定評となっていた。尊氏もこれは知っている。家宰(かさい)としての師直の縦横な才腕をのぞいても、そこだけは高く彼を買っている所以(ゆえん)だった。
 けれどこの師直にも“好き”はあった。女色である。「われにはゆるせ――」で、彼はこれを隠そうとしていない。
 ゆらい彼は醜男(ぶおとこ)だった。木像蟹の名さえあったほどである。女にもてたことのない醜男の胸中には、若年から人知れぬ鬱積(うっせき)があるらしく、師直の胸中にも多年「……時をえたら」とする念がひそんでいた。時をえたら俺でも女にもててみせるぞ、という女への復讐にも似た悲壮なる欲念だった。そして今日(こんにち)の彼は、その時に会し、その権勢をもち、また多少の閑(かん)をえていた。
 そこでこの小康(しょうこう)時代に、彼は露骨にあたりの女界を観て、思うさまな女色をなめずり出した。それも下婬(げいん)は問題でない。彼が渇(かわ)いていたのは、いわゆる上婬の女性で、貴種でなければならなかった。
 時しも、といってよい。
 どんな深窓の女性も、彼の目からみればみな手のとどく所にあった。ちまたには、名ある亡家の息女や後家がたつきにこまってただよいあふれている状だったし、以前は、やんごとなき宮すじの姫が六条の妓家(ぎか)に養われていたり、また、元は院ノ少将なにがしの想(おも)い妾(もの)が、今は夜ごと武者の酌(しゃく)に出て、無残に掻(か)き※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)(むし)られているなどの例も、世間ばなしにはもう珍しくもない近頃のことでもあった。
「……ときに、御執事(ごしつじ)」
 と、もう抜け目のない今出川通いの客は、彼の“好き”はそこと見つけて、
「世にもあわれな身の上の女性(にょしょう)がここにおりますがなあ。しかも容色は絶世の美、高貴の出で、気品はあり、申し分はございません。ひとつ、助けてやるおつもりでお世話なされてみるお心はございませぬか」
 などといろいろもちかけてくる。
 が、師直は、これも贈賄の代物だな、と知るとなかなかその手にも乗らなかった。すでに彼は彼の実力で、思うさま幾人でも、欲しい女は手に入れており、近来はやや飽満気味なところでもあった。
 なぜか師直といえば、古来、好色漢の代名詞みたいに、すぐ連想されがちである。
 われにはゆるせ――
 とその好色を隠そうともしなかったらしいこと、またもっぱら、その野性で醜男(ぶおとこ)な身をもって、高貴の女性を選(よ)り漁(あさ)ったこと、さらには、尊氏に代って、軍政の両方面にわたり、憎まれがちな敵役(かたきやく)はみなひきうけていたなどに起因するのではあるまいか。
 近ごろ、彼が手にいれて、昼夜、愛寵愛撫(あいちょうあいぶ)、措(お)くところを知らない二条家の姫ぎみなどにも、彼のやりくちはよく出ている。
 その佳人は、二条前(さき)ノ関白の妹だった。
 どこで見たのか、師直は恋をした。いや恋とはいえない。猛獣の食欲ともさして違うものではなかった。
「ぜひほしい。正妻はある身だが、すでに老妻。正室の待遇をあたえて大事にしよう」
 率直に、申し入れた。
 が、二条家では当然、婉曲(えんきょく)にことわった。
 いわゆる摂関家(せっかんけ)につらなる名門だ。そこの深窓の姫はいつの世でも女御入内(にょごじゅだい)の候補者であり、時をえれば中宮(ちゅうぐう)の位に即(つ)く。……いかに世とはいえ、東国のあらえびす、尊氏の家宰(かさい)、いわば陪臣ではないか。
 世間ていからも、二条家では、あやまるしかなかったろう。よろしい、と師直はそれに怒るふりでもなかった。
「そうか、なるほど公卿は見得坊なものだったな。二条家の体面を損(そこ)ねぬようにすればよいのであろう」
 独り合点(がてん)にうなずいた。――前年、甥(おい)の師秋(もろあき)がやってのけた或る前例が、彼には思い出されていたのである。
 その師秋は、菊亭殿の息女に目をつけて、言いよっていたが、備前佐々木党の信胤(のぶたね)もまた、同じ美果を狙っていた。で、菊亭殿ではそれを理由にうまく断わった。――すると師秋は一夜、菊亭家へ忍び入り、うむをいわせず、女を攫(さら)って来てしまった。――師直は、これを聞いている。甥のやったその手に限ると、兵をやって、姫を奪い、さる女院の古館(ふるやかた)へ匿(かくま)って、夜ごと夜ごと、通い初めていたのだった。
 ところが、この女性には、前々からの愛人があった。
 師直は感づいて、大いに嫉妬し、女を責めただしてみたところ、相手は大炊(おおい)ノ大納言冬信とわかった。
 ここに醜男(ぶおとこ)の彼の面目がある。
「大炊の家を焼き払え!」
 師直のいいつけで、若党ばら一群の者が、一夜、大炊の邸に火をつけて焼き払ってしまった。そのさい、冬信の七歳の娘が焼け死んだ。それらもまた、話題にからんで、
「いやもう、女のこととなるとおそろしい御執事殿だ」
 と、京中の評判になった。
 が、師直は、評判など気にもしない。そのご女は今出川の館に入れて、側室のひとりにおさめてしまった。二条家でも泣き寝入りのほかはない。
 彼のこんな行状はすぐ尊氏にも聞えていたろう。しかし師直は、自己の実務的才腕と誠意にかけて、主君の信頼には、ぜったい自信をもっていた。だから彼の好色行状もすこぶる派手で、それがその道だけの達人みたいに喧伝された理由であろう。
 彼と、塩冶(えんや)判官高貞の妻との艶話なども、ひどく市井(しせい)に喧伝されたものである。
 高貞の妻室が、当時、著名な美人であったことが、師直の好色癖にむすびつけられ、好箇な好色談となっていったものらしい。
 早田(わさた)ノ宮の妹で、弘徽殿(こきでん)の西台(にしのだい)といわれた佳人(かじん)がある。
 後醍醐天皇が、隠岐から凱旋(がいせん)されたさいは、名和長年をはじめ、勲功の臣には、かつてそれぞれ恩賞が下されたが、出雲の守護、塩冶(えんや)高貞へは、宮中のその一美人を賜わった。
 これが高貞の妻である。
 いつ見たのか。師直はこの人妻に懸想(けそう)して、さまざま言い寄ってみたが、いつも柳に風とうけ流され、煩悩悶々(ぼんのうもんもん)と、やるかたもない想いでいた。或る折などは、塩冶の館(やかた)の客となって、西台(にしのだい)が湯殿にあるのを知り、覗き見までやったという。
 また、彼女の歓心をえんためには、兼好法師に恋文の代筆をさせて、彼女の袂へ忍ばすなどの腐心(ふしん)までこころみたが、ついには彼女の良人高貞を亡き者とするに如(し)かずと考え、将軍家に讒(ざん)して、討手を向け、
「西台(にしのだい)をとらえて来い」
 と、命じたとある。
 しかし高貞は、寸前に、一族郎党をひきつれて、自領の出雲へ落ちのびた。
 ところが途中、幕府の討手に追いつかれて、西台は、播磨のほとりで自害し、また高貞も、失望の極、自刃してしまったというのである。
 これは「太平記」だけにみえる師直誹謗(ひぼう)の一話で他書にはない。どうも罪な作為(さくい)をしたもので、つまりこれが後世の「忠臣蔵」の中に戯作化され、いよいよ好色漢師直の名を、百代に高からしめる所以(ゆえん)となったものである。
 すべて、師直にとって濡れ衣(ぎぬ)であることは、どこからでも指摘できる。
 けれど半分は事実でもあろう。――塩冶(えんや)高貞は、一たん後醍醐に忠仕し、後に武家方へ降参していた大名なので、そのごも、ひそかには吉野朝廷の方へ心を通わせていたあとがある。
 真相は、それが露見したので、俄に、出雲へ帰国したのだった。その証拠には、彼の出奔を幕府へ密告した者は、彼の弟の塩冶四郎左衛門だった。また討手も、幕将の山名時氏と、桃井直常とが追撃して行ったのだ。ほとんど色事には関係がない。
 ただ、ここでも考えさせられることは、新田義貞における勾当(こうとう)ノ内侍(ないし)のように、高貞も宮中の女子を恩賞にもらっていたことである。女性を一種の物品や動産のように見なしている風習が、宮廷だけでなく一般にもあったことがいなまれぬ。
 とすれば、女性自体も、自体の貞操を、どんなに観ていたか。――元来、女に飢(う)えていた奔放(ほんぽう)な野獣武士の本能と相俟(あいま)って、そこには想像外な性社会の醗酵(はっこう)が都の夜の底をびらんさせていたのではあるまいか。
 わけて、好色者(すきしゃ)の師直であってみれば、いや師直ならずともである。おそらくここ小康(しょうこう)時代の平和をむさぼり偸(ぬす)んでいた武家権門の輩(はい)は、勝者の誇りを駆(か)って、恣(ほしいまま)に、京女の撫で切りをやっていたかとも思われる。
 その罪と、岡やき的な羨望(せんぼう)とは、みな師直がかぶってしまった形であり、師直にはまだまだいろんな濡れ衣や艶話も多い。
 中でもひどいのは「塵塚(ちりづか)物語」という本である。
 それによると。――近ごろ或る武士が秘蔵しているおかしき草子を見せてくれたが、それはみな師直が一生に犯した女人との秘戯を書いたものであった。いちいち名まで記してあるが、さすが品は言いがたく著(あらわ)し難しとのみしてある。しかし、これらは師直一代の淫事としては十のものなら二、三に過ぎまい。師直の破倫(はりん)、淫欲ときては、なかなかこんな程度のものではなかった。彼がいかに乱淫無頼(ぶらい)な男であるかは、次の一例でも分ろうと、書いているのだ。
 高家(こうけ)には、特命をもっている老女がいる。
 老女は師直の命で、ひまあるごとに、家臣のやしきを訪れ、眉目(みめ)よい女房があると、ひそかにこれを師直へ耳打ちしておく。
 事を設けて、師直はそれらの妻女をひとまとめに今出川の邸に呼ぶ。――主命、何事ならんかと、彼女らの良人は化粧も念入りに着飾らせて出してやる。
 しかるところ、それらの女房は、家に帰ってきても、口をつぐんで、なんらその日のお招きのもようについては、語るところがほとんど少ない。
 事、再々に及ぶので、亭主どもがへんに思って、だんだんと探ってみるに、当日、主君の師直は、女房連があゆむ細殿の簾(れん)の蔭にいて、つぶさに彼女らの品(しな)さだめを味わい、やがて遊宴のあいだには、お名ざしで、別殿の奥へ引き抜いてゆく。はなはだしいときは、それが三名にもおよぶことすらある、というてんまつがやっとのことで判明した。
 やれ、こいつめが。
 なんで今日まで黙りおった。
 いかに、ご主君たりといえ。
 さても怪(け)しからぬ沙汰かな。さて、どうする。女房めを追い出すか。俺どもの方から主家を追ン出るか。
 亭主どもは、いきまいて、寄り寄り、亭主会議をひらいたが、扶持(ふち)取りのかなしさ、女房未練(みれん)、かつは時めく高家(こうけ)の門を、われから追ン出る勇気もなく、ついつい泣き寝入りに終ったというのである。
「塵塚(ちりづか)物語」は、史書でもなければ風俗書でもない。もちろん嘘談は知れきっているが、しかしこのうちにも、いかに当時の女子が物品視されているかがうかがわれる。さらには、師直の婦女掠奪にむすびつけて、楠木正行との情話に仕立てあげてある「弁(べん)ノ内侍(ないし)」のことなどもまた、話は優雅にできているが、それも女子を一個の品とみている時代の女性観を知る以外には、さしての価値もないものといっていい。
 なにしろ師直の不人望たるや、かくの如しであった。けれど彼も時代の一人物だったにはちがいない。なぜならば、とかくの不評判もあり、巷(ちまた)では、
夜ごと夜ごとの忍び輿(ごし)
執事(しつじ)の殿の宮めぐり
畏(かしこ)む御幣(ごへい)ふとやかに
手向けを受けぬ神もなし
 と、彼の女通(おんながよ)いが、童謡にまで歌われているのを知っても、いぜん尊氏が、将軍家執事の権を、彼にまかせていたのでもそれは知れる。彼にかわるほどな才幹(さいかん)は、他になかったものであろう。
 むしろ、尊氏から見て、警戒されていたのは、勝者の立場に驕(おご)り、旧文化や貴族を侮辱することに惨酷なよろこびすら持っているほかの婆娑羅(ばさら)大名や武士どもではなかったろうか。師直の肉親、師泰(もろやす)などというのもいる。

 強いか強くないかだけが長いこと人間を評価してきた。乱世の出世番付はそれを今日に結果して来ている。だから新幕府下の権勢家でも、かいもく無学なのが少なくなかった。山名時氏などは目に一丁字もなかったという。そうした中では、師直は、何しろ群を抜いていた。
 彼は、将軍家執事職として恥かしくないほどな学識をもっている。公卿との交渉にもひけめはとらない。その風貌にも似ず筆蹟(ひっせき)は美しい。歌もよく詠(よ)む。彼の作歌は「風雅和歌集」にまで選ばれている。
 だが、弟の高(こう)ノ師泰(もろやす)となると、だいぶ品がちがう。
 これも当世流行の婆娑羅型(ばさらがた)の人物のひとりではあるが、師直の婆娑羅、道誉の婆娑羅、個性さまざまな婆娑羅ぶりの中で、師泰ときては、ひどく単純な――いわば伝統無視の露骨な快楽主義者といったような男だった。
 一、二の例でいえば。
 前(さき)ノ宰相菅原在登(すがわらざいとう)の山荘が東山の好位置にあった。
「下屋敷にいい。あの家を接収しろ」
 まもなく、一片の通達が菅原家へとどいたのみで、はや土木(どぼく)の工が始められていた。
 在登は大いに怨んだ。園内には道真(みちざね)いらいの菅原家代々の墓所がある。五輪、白骨まで掘りちらされ、惨状、目もあてられぬ暴状と聞いたからである。
「なに、おれを恨んでいるというのか」
 師泰はかえって怒った。「しょッ曳いて来い」と郎党をやったのである。すると郎党どもは、在登が命に応じなかったといって、在登を首にして帰って来た。
 また、同じ工事場でのこと。
 真夏のさかり、四条大納言隆蔭(たかかげ)の青侍が二人、近くを通りかけて、木蔭から炎天下の土木の工を見ていたが、つい実感に余ってか、しゃべりしゃべり立ち去りかけた。
「やれやれ、下人(げにん)どももかわいそうに。ああ無慈悲なムチに追い使われてはたまるまい」
「思いやりのカケラも武士にはないのだ。公卿の世なら何ぼなんでも、あんな苦役はさせておくまいて」
 すると、これを小耳にした工事奉行が大いに立腹して、その青侍二人を部下につかまえさせて衣服をぬがせ、代りに人夫の仕事着物をムリにきせて、
「さあ、働け。きさまらに思いやりがあるなら、人夫に手伝って、思いやりを見せてやれ」
 と、終日、土かつぎや石運びにこき使って、たそがれ、追ッ放して帰したという。
 さらにこんなこともある。
 天王寺の常明燈御料の田を、師泰は自己の領に加えてしまった。ために油の料にも事を欠いて天王寺は貧窮をきわめた。――のみならず師泰は、天王寺塔の九輪の宝鈴(ほうれい)を一つ鋳(い)つぶして、こころみに酒の鑵子(かんす)(ちろり)に造らせてみるに、玲々(れいれい)たる金味(かなあじ)があり、これで燗(かん)をすると何ともいえぬ芳味があった。
 上を倣(なら)う下で、われもわれもと、ほかの武士どもがまたこれを真似、またたくうちに、河内和泉の古寺の塔は、塔の簪花(さんか)たる飾りを失い、宝鈴(ほうれい)はみんな武士の酒瓶(ちろり)に化けてしまったという。
 かつてのもの。
 文化、風習、宗教、公家貴族のもっていたすべてのもの。
 武士たちはそれへの侮辱と蹂躪(じゅうりん)を一種の快とし、随所でほしいままを振舞った。ひとり前述の高ノ師泰だけにかぎっていたわけではない。
 近来、ひんぴんと、宮中に盗難があった。朝、皇居の深殿に土足のあとが残っていたり、内侍(ないし)ノ局(つぼね)の衣裳がごっそり失(な)くなっていたりする。
 そこで幕府が探訪のすえ、ひとりの下手人を召捕えた。
 ところが、これが歴乎(れっき)たる武家の子飼いだった。小俣右衛門ノ尉(じょう)の家来で、御所の門衛と狎(な)れ合いでの仕業(しわざ)とわかり、即日、首をはねられた。
 大学頭(だいがくのかみ)紀ノ行親の家にも、近ごろ覆面の武士三名が押入った。妻女を暴行しようとしたのに行親は手むかッて、斬り殺された。――儒家(じゅか)の良師範といわれていた行親だけにその死はいたく惜しまれた。
 同様な目にあった公卿の家は枚挙(まいきょ)にいとまがない。これらの下手人はもちろん武士でも下級武士の輩だった。主人がやっていることを見て、自分らもやってみたくなるのであろう。だが、主人はみな勝者の府の実力者だ。何を公々然とやってもつかまらない。だが彼らはまま打首になった。
 公卿侮辱に出るだけでなく、武士たちはしばしば宗教へも揶揄(やゆ)と驕慢(きょうまん)を故意にした。栂尾(とがのお)の僧坊へ放火した乱暴者があったのも最近のことで、貴人の車を見ても、礼をしないなどは、もう通り相場になっている。
 そのうちに、はしなく、ここに一椿事(ちんじ)がおこった。
 九月六日のことである。
 光厳上皇はその日、持明院の八講会からのお還りの途中で、五条樋口の東ノ洞院(とういん)にさしかかられた頃は、はや日も暮れて、道は暗かった。
 すると、一団十数騎の武士が先の方から駈けて来た。どこかの馬場で笠懸(かさがけ)の競技のすえ、芝居酒に時をうつし、洛内の灯を目あてに急ぎ帰って来たものらしく、上皇の御車と知っても、駒を止めそうにもしない。
 そこで、先駆の随身たちが、
「下馬せよ!」
「無礼すな」
 と、大声で叱ッた。
 一団の影は立ちよどんだ。そのうちには、土岐(とき)ノ弾正少弼(だんじょうしょうひつ)頼遠(よりとお)、二階堂下野(しもつけ)ノ判官行春などという者がいた。どっちも歴々な武家だった。
「あっ」
 行春は、反射的に馬を下りてひざまずいたが、頼遠のほうは大いに酔っていた。のみならず、師直や道誉とならんで、洛中の三婆娑羅(ばさら)といわれていた男だけに、かえって、車副(くるまぞい)の人々へ、こう威たけ高に呶喝(どかつ)した。
「道は暗いが目はあるだろう。おれは土岐ノ頼遠だ。この頼遠に下馬せよとは、何奴がいうのか」
「やあ、推参(すいさん)な。これは院の御車(みくるま)、院の御幸(ごこう)なるぞ」
「なに、院だと。院か犬か。犬ならば追物射(おいものい)の的(まと)でしかない。一つ射てくれようか」
 とたんに、頼遠のたずさえていた笠懸射(かさがけい)の弓が、発矢(はっし)と唸(うな)るものを放った。矢は御車の廂(ひさし)に立った。――ひやと随身たちが道をよけたすきに、「わははは」「あははは」と一団は風のごとく駈け去ってしまっていた。
 武士の乱暴沙汰も極(きわ)まれりというものである。こんなふうでは、上皇の御外出もめったにできぬと、院の西園寺大納言公重(きんしげ)は、そのご幕府へきびしく注意を求めていた。
 すでに事件は、直義(ただよし)の耳にも入っていた。捨ておかれぬことと、内々、処置を考えていたところだったので、
「すぐ兵をやって、土岐、二階堂の両名を彼らの家から搦(から)め捕(と)って来い」
 となった。
 ところが、二階堂行春はやしきにいたが、土岐の弾正(だんじょう)頼遠(よりとお)のほうは、はや居ない。危険を感じて、自国の美濃へ逃げ帰ってしまったのである。のみならず国元では兵を挙げんとする風聞さえあったので、直義は、頼遠の兄頼清へ御教書(みぎょうしょ)を送って「一族の運命を過るな」と、それに達し、
「頼遠を出せ。頼遠一人だに出京して来れば相すむものを」
 と、諭告(ゆこく)した。
 おそらく一族兄弟に諭されたあげくであろう。十一月の末、頼遠は軍兵をつれて堂々と上京してきた。名だたる三婆娑羅の一人といわれるだけあってさすが太々(ふてぶて)しく、一戦も辞せずのつらがまえであり、幕府も大事をとってか、この日には何らの沙汰もしていない。しかし充分不気味な空気は頼遠に感知される。そこで、頼遠ものがれ難きを知ったか。あくる朝、とつぜん、嵯峨の夢窓国師のもとへ出かけて行った。詫びのあつかいを頼みに行ったものである。
 と、まもなく。
 幕兵千余騎が殺到して寺坊をとりかこんだ。――鼓噪(コサウ)、終日ニ及ブ(中院記)――とあるから頼遠はなかなか出て来なかったものだろう。しかし夢窓が彼を庇(かば)うはずもない。やがてのこと、内から出て来たところを搦(から)め捕(と)られた。そして十二月二日、壬生(みぶ)の六角で、斬罪に処せられた。
 それいぜんに、共犯の二階堂行春のほうは、讃岐(さぬき)へ流されてい、これで院(上皇)を犬と呼んだり矢を射るなどの大不敬を酔興(すいきょう)の余(よ)にやった武士どもの御車(みくるま)暴行事件はひとまずかたがついたようなものだった。
 だが、これらの下剋上(げこくじょう)を急にし出した原因の一つには、北朝に仕えていた公卿の卑屈ということもある。
 伝来の荘園(そうえん)(領地)は細り、宮廷はさびれ、かねもなければ実力も欠いてきたそれいぜんに、自分たちの心からしておちぶれていた。武士におもねる余りにである。――彼らは本来の優雅(みやび)を捨て、立ち歩きから烏帽子(えぼし)の振りまで武家風をまね、しいて馴れぬ坂東(ばんどう)言葉をつかい、いわば「公卿ニモ非(アラ)ズ、武家ニモ似ヌ」妙なものになってしまった。
 そんな時世粧(じせいそう)である。庶民の皮肉には、時に秀逸なものがあった。
「オヤ、向うからやって来るのは、蛙(かえる)かね? 河鹿(かじか)かね?」
 自体、こうまでの風潮とすれば、武士の驕慢は、公卿にも一半の罪があったといえよう。だから権勢第一の師直(もろなお)が病むとでも聞えると、今出川界隈(かいわい)は見舞いの公卿輿(くげごし)や牛車で埋まったという。
 事実、師直は、天龍寺落慶(らっけい)の翌年の夏、二ヵ月ほど寝こんで出仕(しゅっし)も欠いた。病名は“蚊触(かぶれ)”だとある。蚊触とはつまり発疹(はっしん)のことらしい。「園太暦(えんたいりゃく)」では瘡疾(そうしつ)に罹(かか)ったのだと書いている。
 病後の秋であった。師直は一夕(いっせき)、佐女牛(さめうし)の佐々木道誉の招きでその邸へおもむいた。
 ――何の用意もないが、ご病後の鬱散(うつさん)じに、という軽い意味で、誘いには、御舎弟も共にとあったが、その師泰(もろやす)は、
「いや道誉の客となるのは苦手(にがて)だ。闘茶(とうちゃ)か、立花(りっか)(生け花)か。やれ香道(こうどう)の、連歌(れんが)のとくる。まずは兄上おひとりで」
 と、逃げてしまった。
 師直も夜は例の女の許への“宮廻(みやめぐ)り”がいそがしい。だからたいして気もむいていないが、道誉には妙な魅力にひかれていた。彼ほど諸家の裏面に通じている男はない。執事の自分ですら知ってないような機密まで彼の口からはまま聞かされる。かたがた、何かのばあいのためにも自家薬籠中(じかやくろうちゅう)の物にしておかねばならぬ人間と、思うのだった。
「ひとくちに、婆娑羅(ばさら)婆娑羅とよくいうが、這奴(しゃつ)はそれだけのものではない」
 今も夕風の巷(ちまた)を行く輿(こし)のうちで、師直は、道誉のつらだましいにつれて、かつての一事件などを思い出していた。
 それはもうだいぶ前。――天龍寺造営が着手される前年のことだったが。
 秋は十月の頃で紅葉のさかりだった。例の、人目を驚かすばかりな風流行装(いでたち)で、小鷹狩(こたかが)りの帰りを、佐々木道誉、秀綱の父子が、従者大勢と共に東山の妙法院のそとを通りかけた。
 みな酔っていたにちがいあるまい。でなければ酔狂すぎる。供の若党輩(わかとうばら)の数名が、そこの築土(ついじ)にのぼって南庭のみごとな紅葉を折りちらした。
 当然、坊官はだまっていない。列を追ッかけて来て「――狼藉者(ろうぜきもの)を渡せ」と罵り「ここをどこと思う。もったいなくも御連枝(ごれんし)の宮、すなわち天台座主(ざす)の亮性(りょうしょう)法親王のお住居なるを」と、その乱暴をたしなめた。
 こう聞くと、道誉以下、武士どもはかえってよけい揶揄(からか)ってみたくなるらしい。坊官たちを撲(なぐ)りつけてさかんに嘲弄(ちょうろう)した。すると寺門の侍や法師らはさらにその数を挙げて加勢に出て来た。ために大乱闘となり、はては妙法院御所へ無謀な焼討ちを仕かけてしまった。
 ――累代門跡(ルヰダイモンゼキ)ノ重宝モ、コノ夜、一灰燼(クワイジン)ニ帰(キ)シタリ、と公卿日記はみな痛記している。
 翌年四月。
 道誉と秀綱は、このことで流罪(るざい)になった。
 処罰は叡山と幕府のあいだで長い紛糾(ふんきゅう)を見、尊氏としては、道誉をかばい抜いたのだが、山門大衆の嗷訴(ごうそ)に押されて、ついに流罪のほかなくなったものだった。
 ところが。
 いよいよ道誉が配流(はいる)されて行く日を見れば、その行装など、日ごろの物見遊山とも変るところはなく、従者三百騎は、例の伊達(だて)すがたに猿皮の靫(うつぼ)をかけたり、鶯籠(うぐいすかご)やら酒肴(しゅこう)の重箱(じゅうばこ)をたずさえたりして、宿々(しゅくしゅく)のやどに着けば、ところの傾城(けいせい)を総揚げにして騒ぐなど、人もなげな大行楽で立って行った。
 こうして、ほんとの配流地、出羽へは行かずじまいで、しばらくは上総に遊んでいたらしい。そして一両年のうちにまた、いつのまにか都へ帰って居、依然、足利将軍の下に重きをなしていた道誉であった。――このような魔術的手腕のみは、ほとほと自分にも真似ができぬものと、師直も彼には一目(いちもく)おいていた。
 それのみでない。師直は自分の不人望を知っている。
 だが一般に、道誉は自分ほどには不評でない。むしろ一部には好感さえもたれている。配流(はいる)から帰った後も、以前にまさる華奢(かしゃ)風流を振舞っているが、
「底知れぬ悪党よ」
 とは、誰もいわないのだ。また、彼の豪勢な生活の財源がどこから出てくるのかなども怪しんでみる者はない。
 師直は、ひそかに思う。
「――天龍寺船の交易物(こうえきもつ)のさばきは彼の手にまかされている。これは大きい。そのほかの収入(みいり)は博奕(ばくち)のハネだろう。近ごろ大流行の茶寄合(ちゃよりあい)、つまり闘茶(とうちゃ)、あれは茶の銘(めい)を飲みわけて、中(あた)った外(はず)れたと、一夜に数千貫のかねやら賭物(かけもの)をうごかす博奕だ。――そんな寄合やら、立花(りっか)、聞香(ぶんこう)、田楽(でんがく)の会などが、彼の邸では月々何回も開かれているという。……遊び仲間はおなじ放埒(ほうらつ)仲間を決して悪くはいわぬものだ」
 いつか道は六条らしい。
 彼の輿(こし)は、ほどなく佐女牛(さめうし)の宏壮な邸内へ入っていた。師直は、みずみずと打水された前栽(せんざい)を見、家臣一同の色代(しきたい)(出迎え)をうけ、のっしのっしと、奥殿へ通って行った。
 意外だった。
 通されたのは一亭の釣殿(つりどの)で、かたのごとく酒肴(しゅこう)は出たが、道誉好みの茶を強(し)いるでもなく立花(りっか)自慢や田楽舞(でんがくまい)の馳走でもないらしい。いつまでもそこはあるじの道誉とただ二人だけの秋の静夜だった。
「たまには、こんな夜もおよろしかろうと存じましてな」
 道誉は言った。
 あいかわらずこの若入道は艶(なまめ)かしい。あまり女色(にょしょく)の外聞は聞かぬが、さぞ女にもてることであろうと、師直は身にひきくらべて羨望(せんぼう)を禁じえない。いずれ唐物(からもの)であろうが、師直すら知らないような綺麗(きら)な織物の袖なし羽織を、桔梗(ききょう)ぼかしの白綾の上へ、すずやかに羽織っていた。
「いや、まことに」
 師直も苦笑した。
「こよい初めて、沁々(しみじみ)と、虫の音(ね)の秋を、耳の底に覚えたわえ。何せい、昼は、やれ朝廷の、やれ政所(まんどころ)の、また将軍家直々のお召のと、いやどうも執事職とは忙しいものでの」
「それに、夜は夜ごとの宮廻りでしょう。よくお体がおつづきになる」
「わはははは」と、師直はてれかくしな豪笑を発して、大きな蜘蛛(くも)が糸からすべり落ちたようにその手を振った。「痛いことは仰せられな。おたがいさまだ。それ、人には七癖(ななくせ)とか。ひと癖は執事にもゆるされい」
「ちと冗談がすぎましたかな。御執事は正直でいらせられる」
「そうだ。御辺はずるい」
「これはさっそくな御返報。いかにも道誉にはそういわれても仕方がないところがある。しかし御執事、それがしは陽性のつもりでいます。ご存知の一穴(いっけつ)の貉(むじな)のごとき陰性な者とは御同視なきように」
「貉(むじな)?」
「さればあれは仲のよい貉のような者たちでしょうが」
「とは、誰をいうのか」
「なんの御執事にはとうにおわかりになっているはずだ」
「いや、存ぜぬ。一穴の貉とは誰をさして?」
「では、まったく御存知ないのですか」
 そこで道誉は半身をのり出して肩をおとした。誠意の見せかたもこの男がすると妙に相手の心をぬんめりと捉(とら)えて離さない。
 はてさて。
 と、まず彼はいう。
 ――御執事ほどな方でも、ご自身の周囲にはかえってお晦(くら)いものとみえる。すでに“打倒師直”をもくろむ一派がみすみす画策の秘をえがいているのに、御本人が何も知っていないとは、どうも意外というしかない。
 このさいなれば、あえて歯(は)に衣着(きぬき)せず、実(じつ)を申しあげてしまうならば。
 師直横暴、師直驕慢、すべてそれらの悪声は、御権勢をおそれるあまり、あなたの失脚を図(はか)る者が為にしている誹謗(ひぼう)で、一部の反感にすぎぬなどと、なかなか見くびッてよいものではありますまい。
 じたい御政令はいま、将軍家(尊氏)と錦小路殿(直義)との二途(にと)から出て、いわゆる二頭政治の恰好(かっこう)です。
 そこで御執事には、ぜひなく、それを一本に締めくくる。が、結果では御教書(みぎょうしょ)も下文(くだしぶみ)も恩賞から雑訴までも、みな御一手で可否を決しているようなかたちになる。そして勢い御門へのみ、公卿武士のごきげんとりが集まってゆく。自然、これを他家からみれば、白眼視ともなりましょう。
 為にいよいよ、師直讒謗(ざんぼう)が、ささやかれ出す。
 じたい、関白家の妹君(いもとぎみ)を、室に入れるなども、師直に大野心があるからだ。おそらく彼は他日、その勢威を駆(か)ッて、錦小路殿をも蹴おとし、副将軍の座をうかがっているのではないか。
 いやいや、もっと大それた腹だろう。高家(こうけ)の或る縁辺が、知行を失って、頼み込みにいったところ、師直はその者へ、こう語ったという噂もある。
「――知行はいくらでも困る者には分けてやりたいが、都には朝廷があって、諸国の領地も数多(あまた)それの御料に塞(ふさ)がれている。われらにしても、内裏の院のというものがあるため、道で会ってもいちいち馬から降りねばならぬ。まことにやっかい極まるものだ。どうしても国に王というものがなくてならないなら、木か金で造って、生きている上皇や天皇などはどこかへ流し捨ててしまったらよいのだが」と。
 よもや、こんな暴言を、御執事が放談なされるはずはない。為にする者の悪質な捏造談(ねつぞうだん)ではありましょう。けれど師直がそう言ったと、まことしやかに伝えられ、師直の暴慢不遜、すえも思いやられると、その蔭口には、聞くにたえぬものがある。
 いまにして、御執事の方こそ、御警戒に心せねば、後に、臍(ほぞ)を噛んでもおよばぬのではあるまいか。ひとごとながら――と、道誉はここで急にふっと口をつぐんだ。語尾は、嘆声を曳いていた。
「…………」
 師直の眼はそういう道誉の面をらんと見すえたまま一語も聞きのがしていなかった。どす赭(あか)い滲(にじ)みを巨大な鼻の辺に吹き出して、しかもなおいつまでも黙っていた。ぶすっと、言い出したのは間をおいてからだった。
「むむ、およその見当はついたが。……しかし道誉どの。そこまで申しながらなぜいわんのだ。相手の名を。相手をよ」
「その主謀は」
 と、口をにごしながら道誉は言った。
「僧の妙吉(みょうきつ)、あれにご油断なされますな」
「妙吉?」
 師直は、笑いかけた。
「ちかごろ錦小路殿の御帰依(ごきえ)で、一条戻り橋に新寺を建立(こんりゅう)したあの一僧か。あんな禅坊主ならとるにもたらん」
「が、副将軍に深くとりいっているなかなかな奴。そのうえ、その妙吉に箔をつけて、持仏(じぶつ)のごとく高家讒訴(こうけざんそ)の脇役をつとめている御一族が二家もある。あなどれません」
 二家とは、ほかならぬ上杉伊豆守重能(しげよし)、畠山大蔵少輔(おおくらしょうゆう)直宗。
 それと僧妙吉とが結託して、打倒高家(こうけ)の要を、事あるごとに直義へ使嗾(しそう)し、直義もまた、それに傾いていると、道誉はすべてを吐いたように話した。
 この晩――
 師直が佐女牛を辞したのは深更だった。それからも道誉とのはなしはいろいろあったとみえる。とまれ彼の病後をなぐさめる一夕の招きとはこれが主眼であったらしい。
 いらい師直の夜の“宮廻り”はだいぶ減った。
 木像蟹(がに)の本来の眼(まなこ)は、暗黙のうちに、自己警戒を油断なくしだしていた。政務、厳令、いよいよ執事の職柄(しょくへい)を把ってうごかぬものがみえる。
 直義が自分にこころよくないことは前々から察知されていたことだ。しかし直義に気がねしていたら、尊氏の意志や命はおこなわれない。
 また上杉や畠山が、直義へおもねって、自分を図ろうとするのも、その気もちは分らぬでもない。対等者の門の繁栄ぶりを見て、おだやかでいられないあの人間心理なのだ。とはいえ衆望とか権力とかいうものは、たれへもそう平等に満足を配分しない。寄るところへ片寄って来る。
「人間の相違、力の相違。また衆が見る魅力のちがいというものだ。それをやっかむなどは身のほどを知らず、何も、俺の知ったことではない」
 師直は、嘯(うそぶ)いた。
 けれど内心は強固な警戒に鎧(よろい)はぬぐわけにゆかなかった。――どれも将軍家一族のゆゆしい者が相手だし、僧の妙吉にしても、そのごの調べだと、軽くは見ていられなかった。直義を深く心服させているだけでなく、宮中にまで隠然たる勢力をもち、夢窓を追って、やがては天龍寺の主座(すざ)に坐ろうとしている野望の怪僧かとも考えられた。
 が、この危険な関係は、師直の胸にたたまれていただけで、秋、また翌年の正月までは、すくなくも表面には、何らかたちには現れなかった。
 というよりも、都は、外に忙しくなり出していたのである。
 八月、細川顕氏(あきうじ)は、河内の池尻へ出陣し、九月、藤井寺で戦い、十月には、山名時氏もまた発向した。
 すべて故正成の遺子(わすれがたみ)、楠木正行(くすのきまさつら)の行動にあたるためだった。しかも山名、細川の大軍も、天王寺附近で大敗北を喫し、都の年暮(くれ)は騒然たるものに変っていた。で、高ノ師直もまた自身、諸大名の軍勢をひきいて、時も正月というのに、河内の戦野に立つ身となってしまっていた。

 そのごの吉野御所は、いいようもない淋しさだった。
 後村上も二十一の帝(みかど)らしい帝にはなっていたが、それでも廉子は、ただの母性愛と重たい国母の保育とを身一つにしていた。そして塔ノ尾(後醍醐の御陵)へもよく詣(まい)って――
みよし野は
見しにもあらず
荒れにけり
あだなる花は
なほ残れども
 と、そんな気の弱い歌も時には詠(よ)まれるほど、何もかもがあじけない儚(はかな)さに映るひとみにもなる彼女だったが、しかし東から北畠の亜相(あしょう)がこれへ帰ってからは、廷臣たちの意気もとみに揚がり、廉子も今なお少しのおとろえもみせぬその人に、
「まだ、親房がいたものを」
 と、希望をあらたにさせられていた。
 親房に接しると、彼女は、先帝の大どかさやよけいな肉をすべて削(そ)ぎ去った知性と信念の凝(こ)りかたまりを見るようで、いつも一種のきびしさに打たれる。
 後醍醐にたいしてはずいぶん俗にいう“姉さん女房”であった廉子も、親房へは、かりそめにも異議はおろか戯(たわむ)れ一ついえなかった。そして往々に「先帝の御遺志は不肖わたくしのうちに在る」と言い、「わたくしを通して先帝の御遺志はそのままみかど(後村上)へおつたえ申し奉るつもりでおります」とも言っている親房だった。
 従一位准三后(じゅさんごう)という身分も廷臣最高だし、先帝の信任もたれより厚かったひとである。廉子でさえ、こわいのである。
 自分が養父となってお預りしていた皇子が病死したときに、頭をまるめて、はやくに政治のおもてからは退いていたが、しかし、後醍醐生前のおもなる画策はみなこの亜相の禅門から出ていたといわれ、その眼界のひろさや智謀神算の尽きないことでは南朝朝廷のうちこのひとの右に出る者はない。
 いや北畠親房の真骨頂(しんこっちょう)は、もっとべつな面だといえよう。
 学識だった。
 彼は同時代の武士や権門のほとんどが欲望のために戦うだけで、無理論、無反省であったのとちがって、この乱世にむかっても自己の処し方とつよい理念をもっていた。
 肇国論(ちょうこくろん)
 皇室論
 万民論
 にわたって、その思想を系譜的に著述(ちょじゅつ)した彼の「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」は彼の精神の結晶といってよい。
 しかもそれは、遠州灘の難破後、常陸にただよいついて、筑波の小田城にたてこもり、四面敵中という境界で書いた陣中の著述である。
 剣を筆に代えるでなく、親房は剣と筆を双手にした。
 それほどな彼なので、吉野でも、親房はその「正統記」を教科書として少年の天皇に時折の進講を申しあげ、廉子や廷臣たちもまま側で聴講していたことであろう。
 それはまた複写もされ、その複本は、九州から奥州の宮方へまでわたっていたろうとも考えられる。しげしげ御所に見える河内の正行(まさつら)なども、親房からじかにその熱烈な思想、哲学、歴史観、戦略、経世などを聞かされては、武家のまわりには知らないこの一偉人につよい景仰(けいこう)を禁じえなかったにちがいない。
 彼の「正統記」は、国粋主義の一原典といわれている。日本は神国であるから日嗣(ひつぎ)の御子は易(かわ)ることがない、変るべからず、というのが論の骨子だが、
“――神は人をやすくすることを本誓(ちかひ)とす。天下の万民はみな神の物なり。君は尊くましませど、一人を楽しませ、万民を苦しむことは天もゆるさず”
 と、農本の倫理をのべ、労働の尊重も説いている。
 また。
“代(だい)、下(さが)れりとて、みづからを賤しむべからず。天地の始めは、今日を始めとする理あり”
 ともいって、人間は創造者だ、いつも現実の非に屈(くっ)せず、今日を以て始めとするほどな情熱がなければ、新しい歴史は生まれない、と力説する。
 すべて、大義を一義におく。
 国のためには一切を捨てよという。それは虚無でない。犠牲と愛情に生きることだ。滅私奉公(めっしほうこう)だ。と親房はそこをわけて強調する。――それはあたかも革命をこころざす今日の行動主義者の口吻(こうふん)ともどこか似かようところがあった。右から出ても左から発足しても、まろい環(わ)の或る接合点では、究極、ひとつに合致してしまう。人の理論や歩みとは関係なく、なにかどうにもならない人類社会の原則の環みたいな道理がほかにあるのかもしれない。
 とにかくそんな北畠親房であったから、吉野にいても全国に目をくばって、とくに京都奪回には、一念をそそいでいた。
「やれうれし、都のさまは案(あん)の定(じょう)、だんだんと我が思うつぼにはまってくる」
 新幕府下の武士のおごり、奢侈淫楽(しゃしいんらく)の風(ふう)、また勝者同士の軋轢(あつれき)など、どれ一つといえ、彼の眼からはほくそ笑まれるものでしかない。
 それに彼が吉野へ来てから着々とすすめていた南党再起の布石(ふせき)もととのい、熊野海賊の洋上勢力も傘下(さんか)に加え、また近くには、河内の東条に前衛本陣をきずいて、そこには、正成のわすれがたみ楠木正行を、検非違使(けびいし)ノ尉(じょう)帯刀(たてわき)に任官させて、
「父にもおとらぬよう一ばい忠誠に励まれよ」
 と、近畿(きんき)の一大将に配すなど手順も万端できていた。
 かつ、親房は得意の第五列を都へたくさんに忍びこませた。――この秋から冬じゅう、洛中諸所に、えたいの知れぬ火災がひんぴんと起っていたのは、あらましそれによる乱波(らっぱ)の仕事だったのだ。
「機は熟す」
 と、そこで彼は積極戦略へと移行しだした。――まず正行を激励して紀州の隅田城(すだじょう)を打たせ、その余勢で、細川顕氏(あきうじ)を堺ノ浦に撃破させた。――正行の純で少壮気鋭なこと、北畠顕家(あきいえ)の再来(さいらい)を偲(しの)ばせるものがあった。
 やがて、山名時氏は天王寺から逃げしりぞき、藤井寺の戦いも幕軍の破れに帰し、ようやく足利がたの驚愕は、師直、師泰までが陣頭に出てきたことにもうかがわれる。
 そして十二月二十七日のことだった。
 正行は、とつぜん、吉野の御所にあらわれた。
「正成の一子、河内の帯刀正行(たてわきまさつら)事、ちかく敵の大軍にまみえる覚悟のほどをほの見せて、ただいま行宮(あんぐう)の坪(つぼ)ノ屋(や)へ来てひかえております。おそらくは、それとなくお別れにまいったものでございましょうか」
 伝奏(てんそう)の公卿が、奏した。
 侍側の親房はこの日、おもなる公卿と共に別院にはいったきりで見えなかったが、廉子(やすこ)にはその協議のなみならぬこともわかっていたので、
「亜相(あしょう)はいまおいででないが苦しゅうあるまい。謁(えつ)をとらせてやりましょう。階(きざはし)の下に待たせておおきなさい」
 と、伝奏へ言った。
 そして、四、五の近臣と共に、後村上をうながして、出座した。
 正行(まさつら)はぬかずいていた。
「簾(れん)を上げたがいい」
 と、後村上はとくに簾を捲かせて正行を見た。
 正行のはたらきはたびたび上聞に入っている。後村上は、いつも北畠顕家(あきいえ)をおもい出され、さぞ顕家にもまさるたくましい若武者かと想像されていたが、いまみると公卿の顕家よりはずっと小柄で痩せてもいた。
 そして年もご自分とあまりちがわぬようなと眺めながら、こんな弱小な身で、どうしてしばしば足利勢のきもを寒からしめるような戦功を剋(か)ちとるのであろうかと不審のようなお顔であった。
「正行とは其許(そこ)か」
「はい」
「いつも聞いておる」
「かたじけのう存じまする」
「父の正成もえらかったのだな。まろは顕家とみちのくに長くいて正成とは会うていぬが、いまでも、ここの旧臣たちは、寄(よ)り寄(よ)り、正成の死を悼(いた)んでやまぬようだ」
「泉下の父も、さぞ冥加(みょうが)に思うておりましょう」
「さあ、どうかな?」と、後村上は青年らしく率直だった。
「――ひとつも正成の心のようにはなっていない。おなくなりになった先帝も地下の正成にはわびておられるかもしれん」
 と、なかば母の新待賢門院を見て仰っしゃった。
 廉子も、それをしおに、
「帯刀(たてわき)(正行)どの」
 と、ことばをかけて。
「そなたもまた、親まさりのものと、みかどをはじめ、北畠の亜相もみな頼もしゅう望みをかけているのです。どうぞ命をいとしんで給もい。はやり気を出して可惜(あたら)な討死などいそがぬように」
「ありがとうございまする。仰せまでもなく滅多にあだな死はとげませぬ。しかしやがてまみゆるこのたびの正面の敵は、かつてない大軍のよし。またたたかいの慣(なら)い、露の命はいつともはかり知れません。……折ふし年のさかい、東条の本営まで所用あって帰りましたので、ほど近い在所にある母とも一夜会ってまいりました。かたがたと申しては畏(おそ)れあれど、またいつという時もあるやなしやわかりませぬので、かくはよそながらごきげんを拝しに参内いたした次第にございます。しかるに、はからずも親しくおことばをいただき、いちばい、心をふるって戦陣へのぞまれます」
「…………」
 みかどは、またしても忘れがたい顕家と、正行とがお胸に見くらべられていた。やがて賜酒(ししゅ)が終ると、正行はすぐ退がった。しかしその後ろ姿もどこか弱々と見えて、みかどは密(ひそ)かに、顕家(あきいえ)には似ぬ者と、傷々(いたいた)しく思われた。
 御所を出た正行は、すぐ先帝の御陵へ向い、やがて吉野を去りかけていた。
 すると、一名の青侍が来て告げた。
「おそれいるが、帯刀(たてわき)殿御一名だけ、もいちど御所の別院までお立返りくだされまいか」
 たったいま、からだがあいたから会おうという北畠親房の旨(むね)だとある。
 ここにはいても全国南朝方への令はみなその人から出ている総帥の禅門だ。正行は供の同勢をそとにおいて、実城院の一門を入った。
 方丈の庭であろう。縁の低い草堂風な一房に親房は坐っていた。朽葉色(くちばいろ)の法衣の上にもし腹巻をあてていなかったらそのまま庵主として見てもふさわしい人だった。当年五十五、六か。痩身(そうしん)の優しい目つきともとれるのに、正行はいつもこのひとに会うとかたくなった。亡き父にはまだどこかあまえられるところもあったが、親房にはみじんもそんなゆとりは持てなかった。
「帯刀」
「はっ」
「このところ転戦また転戦、物具(もののぐ)を解くひまもなかろう。したがよく諸方で軍功をあげた。さすが父の名を恥かしめぬ者。お上(かみ)の御嘉賞もひとかたでないぞ」
「先刻も親しくおことばまで賜わり、身にあまる冥加(みょうが)です」
「よかった。親房もあとで聞いてうれしく思った。泉下(せんか)の正成の心も思いやられてな。いや正成もだが、そちの母も、優(すぐ)れた女性(にょしょう)とみえるな」
「…………」
「そちの父が湊川で逝(ゆ)いてからちょうど今年は十年になる。その間には内々、足利方からもずいぶん誘惑もあったろうに、幾人もの遺子(わすれがたみ)を守り育てて、今日(こんにち)、吉野のみかどへ、それらのわが子をささげてまいるなどは、よほどな女性でなければできぬことだ。そのような母、あのような父、正行が群(ぐん)を抜いた戦陣ぶりも理由なきことではなかった。だがの、正行」
「はっ」
「なぜ、このたびのような大事なたたかいを前にして、大将たる身が、かりそめにも数日陣地をむなしくあけて、たとえ一夜にせよ、母の許へ帰ったのか。また、これへも参ったのじゃ。親房にはそこのところが、どうも心に染まんのだが」
「はい……」と、正行は神妙にわびて。「この冬は、とかく体のすぐれぬ母と聞いており、また、次こそは、ゆゆしい大決戦になろうと、ひそかな覚悟も持ちましたので、よそながら吉野の御所へも」
「それがいかん。武者の心がけでない!」
 と、親房の霜のような声は、ふいに正行の全身を打った。
「そちも聞いてはいよう。いまもよく人々が語り草にいう北畠顕家をちと鑑(かがみ)ともしたがいい。わが子のことゆえ、この口からはほめ難いが、かつて顕家は、千里の遠くからこれへ駈けつけ、大和、河内の賊軍を追いしりぞけ、よく先帝のみ心を安めたが、ついぞ伊勢にありしこの父へも、会いには来ず、吉野の御所へも、京都奪回を見る日まではと、いちどの伺候もしていなかった。そしてついに安倍野であのような忠烈な戦死をとげたのだ。……それとくらべて、楠木帯刀(たてわき)正行はどうかの?」
 親房の心にはいつも子の顕家の死があった。親心の痛惜と、親ながらその子を鑑ともつねに言っているほどな子自慢のほこりがあった。
 はしなくも、その気持ちが正行と自分の子との比較になって出たのだろうか、――比較された正行はつらかった。辱(は)じないではいられない。どう考えても自分はおとる。
「悪うございました」
 素直に彼はそれをみとめて言った。どういってみても、このひとに釈明する余地はないように思われているのである。正行はその弱小な体をいよいよ地へ小さくして。
「身に大任を蒙(こうむ)りながら、たとえ幾日にせよ、前線を空(あ)けて来たなどは、まったく、正行の不覚でした。さっそく駈けもどりまする。面目しだいもございません」
「いや、わかったらそれでいい。せっかく武勲かんばしい楠木廷尉の子なればこそ、その子の名をも惜しむのだ。わしの言は、父正成がいうものとして聞くがよい。……な。親房のこの姿も目に入るであろうが」
 と、法衣のうえの黒革の腹巻を、たたくように示して。
「わが身すら、きょうの軍議の決で、すぐ武装いたしたのだ。親房が身を鎧(よろ)うなどはめッたにはないことぞ。――したが聞えによれば、尊氏はこんどの出兵をもって、南朝絶滅の総ざらいのいくさと称(とな)え、高(こう)ノ師直(もろなお)、師泰(もろやす)を二大将とする軍のほか、さらに仁木、今川、細川、県(あがた)、宇都宮、武田、佐々木(道誉)などの諸将をも、なおぞくぞく戦場へそそぎこんでいるという。――そして直義(ただよし)は男山(おとこやま)に陣し、師直は河内へ入って東条を突き、また師泰は和泉へ攻め入る戦法とか。――これはゆゆしい。和泉のお味方はほとんど手薄だ。それゆえ親房自身、明日はここを立って、和泉へ向うつもりでおる」
「…………」
「さような時も時なる折に、敵の真正面にあたるべき帯刀(たてわき)正行が、一夜を母のふところへ帰って寝、また一日を悠々と、ここの行宮(あんぐう)になど罷(まか)り出て来てよいものか。あまりと申せば敵を知らなすぎる。また君命のおもさをかろんじ過ぎようがの。――父の正成が湊川へ行くにあたって、先帝に御諫言をして行ったのとはわけがちがう。――いまにして思えば正成には大処から全局を観る大きな眼があったのだ。しかも君命なればとそれも抛(なげう)ち、あのいさぎよい一期(いちご)を完全に戦い終った」
「…………」
「その正成の子ではないか、どうしたものだ、正行は」
「…………」
 正行は、しきりに肱(ひじ)を顔にあてていた。いつかふるえ泣いていたのである。親房の峻烈(しゅんれつ)なことばの鞭(むち)もそれに気づくと一たんは口をつぐんでしまった。が、なおまだ足らぬようにさいごの激励を彼の唇がふくみかけたときである。地に伏していた正行は、すっくと体をのばして立ち上がっていた。
「早々(そうそう)に駈けもどって軍(いくさ)の手当てをいそぎまする。いちいちのおことばは肺腑(はいふ)を刺し、これ以上の辱には座にも耐えられません。これにて、おいとまを」
 わざとおちついて、親房への一礼はていねいにしたつもりであった。が、正行の姿は一転、駈けるような速さで門のそとへ出て行った。親房はまたそれを、自分の言が充分な功を奏したものとして見送っていた。
 門のそとには百四、五十人。――正行の弟の正時(まさとき)、和田新発意(しんぼち)、同新兵衛、紀ノ六左衛門、楠木将監らのほか、正成の代からの旧臣、八木ノ入道法達だの、安間了現なども、
「はて、遅い御退出、どうなされたのか」
 と、みな待ちびさしげに地にすわりこんで、待っていた。
 そこへ、
「やあ、すぐ行こう」
 と、正行の姿だった。
 声の調子には変りもなかったが、泣いたあとのような正行の瞼がたれにも気にかかった。しかしたれも訊かない。そうでなくても正行をよく知る彼らにはその人の馬上の薄い背を見るだけでも傷々しかった。
 正行の小柄なのは、幼少からだが、とかくいつ頃からか薬餌(くすり)になじみがちだった。病名といっては彼らも的確に知っていないが、きわだって痩せの見えてきたのを家臣たちが気にし出したのは、正行が二十歳の頃をさかいに一族や四隣から、その族長的な在り方を注目されだした時にあったといってよい。
 その青春もさかりにかかって、薄い痩身(そうしん)を揉(も)んでくるしそうに咳(せき)を喘(せ)いている姿などを見かけると、家臣は胸を傷めただけでなく暗然ともしたものだった。やっと咳を懐紙(かいし)につつんで鎮(しず)まったあとの正行のおもては、その懐紙よりも白く、見るにしのびないものがあった。
 家臣の彼らの思いにしてすらそうだった。正行の母、今では御後室と一族からよばれている久子の長年にわたるものは世間なみの後家の苦労といったようなものではなかった。
 外にはたえず時乱の圧迫が良人の死後も依然この家をかこんでいたのである。それも足利方に降れば或る平安は保証されたかもしれなかった。だが久子の心操はそれをゆるさなかったし、さらに朝廷が吉野へ移って来てからは、附近の東条は、吉野の前衛地となって、楠木家の好位置はしぜん常駐の守備をいなみなく任じられてもいた。
「これでこそ、菊水旗の御遺志は、いよいよ御後室と御遺子にかけてまで燿(かがや)かしい」
 と、いちばい奮う一族もあったが、また中には、
「いや湊川の御遺志とは、本来、こうなることではない。一日もはやく戦をやめ、ふたたび相剋(そうこく)の白骨を野にさらすなどなきようにと、天地の神明と朝廷に祈ってあのごさいごをとげられたものだ……。それが、あのときよりもさらに烈しい南北両朝の分裂を見るとはまたどうしたことか。もし正成さまをもいちど今にあらしめば、どんなことをしても、両朝の和解をとげることに一身をささげられたにちがいない」
 と、これが表面の意見にも出て、内輪の議論となったことも一再でない。しかし嘆く者は去るしかなかった。そして南河内の一角は、いやおうなく吉野の重臣、四条中納言隆資(たかすけ)の指揮下にかため直され、久子はそのいきぐるしい中にあった。彼女の思いは、ともかく病弱な正行を静かな病養か出家の身にさせ、そしておもむろに両朝の和睦をはかるようなことに献身させたいと願うのであったが、一後家の意志などは、しょせん、おこなわれもせず、ついに今日にいたったのであった。
 同勢のうちの安間了現や八木法達らは、かつての湊川の生き残りである。正成のさいごの真意がわかっていない者ではない。
 だが、以後の郷土事情や大勢は彼らの力ではどうにもならないものだった。彼ら湊川の生き残りとして故殿(ことの)への申しわけになしうることは、正行(まさつら)を奉じて行くところまで行く、それ一つしか残されていなかった。
 列はいま、蔵王堂の北をだらだら下がりに降りて行く。みな、かぶとの眉廂(まびさし)をうつむけ、そして正行の冬日にかすむ姿を時々には先頭の遠くに見ていた。
「おい、八木ノ入道」
 了現は、駒横にならんでいる法達を見て小声をかけた。
「正行さまの瞼をみたか」
「む、最前だろう」
「おれは思うのだが、あれはきっとお叱りをうけたのだ。それもかなり厳しいお叱りをな」
「たれから?」
「もとより北畠親房卿のほかではない。わざわざ呼び返してのお招き入れ。正行さまの御退出もおそかった。どうも前後をおもいあわせてみると……」
「なるほど、正行さまが、次の大決戦をひかえて、母ぎみを他所(よそ)へ移す御処置のために、水分(みくまり)へ一夜お帰りあったなどのことが、もし親房卿のお耳に入っていたとすれば、あの亜相のことだ、どんな苦(にが)い御叱咤(ごしった)をもって、若年の大将を励まそうとしたかそこはわからぬ」
「いずれにいたせ、よい御首尾ではなかったとみえる。あのときのお顔いろでは」
「や。……呼んでいらっしゃる。道をかえてどこへお立寄りになるつもりか?」
 騎馬の者はみな小キザミに駒を駈けさせて、正行のまわりに黒いかたまりを見せ出していた。法達と了現とは、そこへだけでなく、なおそれから先も駈けとおした。正行の姿はもう下山の道とは逆な吉水院(きっすいいん)の谷を東へ下がって、彼方の如意輪堂(にょいりんどう)の方へいそいでいるのだった。
 みなあとから追っかけた。しかしそこへ急ぐ正行の何か一途(いちず)な姿がなにを思っているのかはわからなかった。なぜならばさっき親房の使いに呼び返されたとき、すでにそこの御陵には詣(もう)で、かたわらの如意輪堂にも詣(まい)って、備え付けの堂の記帳に名までしるしていたのである。なんでまたそこへ返って行くのか。
 しかし、まもなく人々は、如意輪堂の内へ入った正行が、筆をとってそこの壁になにか書いたのを息をつめて見まもりあった。そして筆を僧へ返すと、正行はすぐ出て来て、もう馬上にもどっていた。
「なにをお書きか?」
 と、諸将は入れ代りに堂の内へこみ入って壁をにらむように幾たびも一首の歌をくちずさんだ。――かへらじとかねておもへばあづさ弓、亡きかずに入る名をぞとどむる――、あきらかに辞世だった。
 からだの弱かったせいか、今に残っている正行のわずかな書状の筆蹟でも、文字にはどこか弱い病影があり墨色もおおかた淡(うす)いといわれている。
 しかし如意輪堂の壁へ残して去った和歌の文字には、優しかるべきはずの仮名(かな)なのに、何か、やるかたない思いをそこへぶつけたような筆勢と墨の気があった。いちばんあとから入ってその前に立った了現と八木ノ入道とは、顔見合せて、思わず目に熱いものを沸(たぎ)らせずにいられなかった。
 正行が戦死したのは、それからわずか八日後の、明けて正平三年正月の五日だった。
 四条畷(しじょうなわて)、終日のたたかいは、壮烈をきわめ、彼の死も花々しいものではあったが、それはたれの目からも「――みずから死を求めて突っ込んで行ったような無謀な戦」と、評され、その気短な死に方は、
「なぜか?」
 と、彼を惜しむ余りに人はいぶかった。
 なにしろ、不可解なる“死に急ぎ”よと衆目は見たのだった。
 これを戦略上からいっても、敵将の高ノ師直は、正月三日から四条畷をまえに重厚な陣をしき、武田伊豆守の先鋒はすすんで田(た)の畔(くろ)から平野の湿地帯にまですきまもない兵を充(あ)て、県下野守(あがたしもつけのかみ)の一陣は飯盛山に、また佐々木入道道誉は生駒山の南に――といったふうに、無慮(むりょ)三、四万の大軍を霞(かす)むばかりにしていたのである。
 そのほかにも。
 遠い林間、はるかな丘の起伏にも、仁木、今川、宇都宮、山名、細川などの旗が、変通自由な遊軍として伏せていたのは、正行の眼にもしかと映(うつ)っていたはずだった。
 だのに、なぜか。その日の正行は、深重(しんちょう)な策をめぐらすでもなく、全軍数千にもたりない小勢で、それも一角へ当たるというようなこころみでなく、まっ向(こう)、敵の師直のふところ深い本陣へむかって猛然斬り込んで行ったのだった。
 つまり初手(しょて)から玉砕(ぎょくさい)を期していたものとしか見えず、正行の大童(おおわらわ)なすがたを中心に、一とき、わあッと、どよみを揚げた武者どもの叫びは、喊声(かんせい)というよりも、一種凄愴(せいそう)な気をおびた哭(な)き声(ごえ)のようにさえ聞えたと、あとで言った者があったほど、とにかくそれは異常としかいいようのない猛突入をあえておこなったものらしい。
 もちろん、南朝方には、正行の楠木勢以外にも、四条隆資(たかすけ)を大将とする「――和泉、紀伊などの野伏(のぶせり)ども二万余人」と、太平記もいう後ろ備えはあったのである。けれどこれ以外には、南朝方の布陣や、また名ある武将の在(あ)り方などもあきらかでない。要するに、まったく正行一個の双肩にかかっていた戦といえよう。それがすべて玉砕してしまい、正行、正時、和田新発意(しんぼち)、そのほか附き従う一族旗本、正成いらいの旧臣たちも、すべて雲霞(うんか)のごとき敵中に没し去ッたきりふたたび帰って来なかったのだ。
 正行、死す
 の報に、その夜、京都は万歳の声にわいたという。
 それほど彼の存在は短くはあったが足利方には大きな脅威(きょうい)であったのだろう。
 まして南朝方のうけた落胆と衝撃は決して小さなものではなかった。わけて北畠親房が、正行(まさつら)の死と聞いたときの胸はどうだったろうか。
 彼のことだ。おそらく何の感情もおもてには出していまい。その親房は和泉にいたのである。そして正行が亡いあとは、正行の弟正儀(まさのり)を起用し、さらに次の楠木家を負って起(た)たせた。しかし正儀は以来もう親房のいうことには従わなくなっていた。
 正行の弟、その正儀は、長いこと、史上疑問の人物といわれている。
 正行が亡きあともすすんで南朝に仕え、南軍の一将として吉野朝廷の回復につくしながら、ときには北朝方へ款(かん)を通(つう)じたり、ときにはあいまいな中立的偽態にかくれて、生涯、自分の信ずる歩みをつらぬき通したからだった。
 酷評する者は、正儀をさして、その政略的な才はみとめるが、彼だけが楠木家には異端な子だった、父正成の誠忠、兄正行の純忠をけがした不肖な者である、とまで蔑(さげす)んで言った。でなければ、謎の人物と疑ってきた。
 しかし、正成が湊川にこめた最期の祈りは、やっと正儀のすがたにそれを見ることができる。正儀は兄の正行が、何であのような“死に急ぎ”をしたか、たれよりもその心情を知ってもいる。――兄が生来の病身から常に花々しい死所を求めていたことはたしかだが、しかし親房の非情な言が兄の感傷に拍車をかけて四条畷(なわて)へ行かせたのも疑いないこととしていたのである。で、それからは親房のいうことも余りきかなくなった正儀であったようだ。
 また、正成の妻の久子も、正行の死には、世もまっ暗な思いになり共に血を吐くほどな悲しみに打たれたろうが、正儀の代にいたって、ようやく、良人の願いも自分の悲心も、その子に託しえたかとして、髪をおろした一尼の余生を、水分(みくまり)の奥なる山中の一庵において静かに朝夕することができていたのではあるまいか。
 ……、ちと前後した。
 それらは、今の急ではない。四条畷の直後にうつろう。
 師泰(もろやす)の軍は、堺から石川河原へすすみ、正月の十四日には、もう東条へせまって、楠木氏の根拠地をついていた。
 一方、師直は。
 大和国平田ノ庄へ攻め入り、橘寺(たちばなでら)に陣して、西大寺の長老を招き、吉野へ和談の交渉をさせようとしたが、時すでに、南朝の天皇は、はやそこにはお在(わ)さぬとの聞えだった。
「どこへとて、奥は知れている。落ち行かれた先の先まで、追いまいらせろ」
 二十四日、師直(もろなお)指揮下の暴豹(ぼうひょう)のような軍兵は、われがちに吉野の山上へ込(こ)み入った。
 行宮(あんぐう)はすぐ火を放たれ、蔵王堂以下の坊舎から山門すべても炎となった。それは何の抵抗もなく燃えるがままに燃える不気味な寂土(じゃくど)の狂炎だった。
 すでに吉野大衆の影さえなく、後村上天皇もまた、紀州天の川の奥地、賀名生(あのう)へ逃げ落ちられたあとなのだ。
 賀名生(あのう)は古くは穴生(あのう)ともいい、十津川、天河の郷民はなお純朴そのものだった。かねてから南朝に心をよせていたそれらの山党は、天皇の捜査に深く分け入った師直勢をいたる所に奇襲してなやませた。佐々木道誉の子秀宗が討たれるなどのみじめを見たのもこのさいである。――まるで猿(ましら)と人間のたたかいだった。――そこで師直もついにあぐねてしまい、あと一歩の肉薄をのこして、急に、京都へひきあげた。
 ひとつには、京都の留守が気がかりだったものである。直義(ただよし)、上杉、畠山などの、いわゆる道誉のいう一穴(いっけつ)の者のうごきが、彼には以後、忘れえぬ警戒心となっていた。

 師直の凱旋軍は、誇りを歩武(ほぶ)に鳴らして入洛した。
 私邸に入らず、師直はすぐその身なりのままで、御池殿(おいけどの)の門に馬をつなぎ、尊氏に会って、以来の報告を先にしていた。
「えらかったろう」
 尊氏は、彼の越年の労と戦功を大いにたたえた。しかし四条畷(しじょうなわて)から吉野焼打ちまでの経過は、あらまし先に帰っていた直義からきいていたらしく、
「惜しむらく、一つ残念なことをしたな。吉野の奥はまだ雪とやら、ぜひもないが、追捕(ついぶ)のもう一歩では、南朝がたの君臣を、このさい一挙に捕えることもできたろうに」
 と、それだけは画龍(がりょう)に点睛(てんせい)を欠いたものと嘆じるのだった。
「……いや何とも」
 と、師直は、あたまをたたいて、あやまった。
 不案内な山地の苦戦とか、兵糧の欠乏とか、そんな平凡ないいわけに、努めたあとで「しかし――」と、彼はまた、彼らしく陳弁(ちんべん)した。
「その賀名生(あのう)と申す地は、まったく猿しか住まぬような山奥の極(きわ)みでおざる。さような人外境より、俄に再起をはかるなどは、もはや思いもよらぬこと。されば吉野朝廷の名も実も、はやなきにひとしいものと見てよろしいかと存じまする」
「む、む」
 そうには違いないと尊氏も思った。師直はいうまでもなく、もっとそれを確信した。
 しかし、これははなはだしい誤算だった。
 そのご、賀名生の南朝方は、意外にはやく瀕死(ひんし)の頽勢(たいせい)をもりかえしてきたのである。
 しかもなお皮肉なのは、その原因が、勝者の側(がわ)から瀕死の敵へ、起死回生のよろこびと絶好なすきとを与えていたことにある。――すなわち、足利方の内訌(ないこう)がそれで、直義と師直との軋轢(あつれき)は、両者の凱旋を機としていよいよ激化し出して来たかの様相がこの春は一ばい濃(こ)かった。
 かねて、直義の手にひきとられていた養子の左兵衛佐直冬(さひょうえのすけただふゆ)(幼名、不知哉(いさや)丸)は、この一月ごろ、西国探題の名目をうけて、こつねんと都を去り、備後の鞆(とも)ノ津(つ)辺(へん)にとどまって、しきりに、従前からの師直がしていた下知状やら曲事(くせごと)を洗いだてて、これを直義へ報告していた。
「怪(け)しからぬお手廻しよ」
 師直(もろなお)がこれに憤慨したことはひと通りでない。
「たたけば、ほこりは、どこにも出よう。師直の沙汰とは申せ、すべては将軍家の御意志によるもの。これを師直の曲事となすは心得がたい。――察するに、錦小路どの(直義)こそ、直冬を西国へやって、自己の外援勢力を西にかためておく用心であろう。よろしい、そう正面切って、師直に挑(いど)んで来るなら、師直にも覚悟はある」
 彼は、生来の闘志を大きな唇にむすんで、いらい寸分の油断はないつもりでいた。
 ところが、ほどなく、師直は突如、罷免(ひめん)されて、屏居(へいきょ)謹慎を仰せつかってしまった。
 ――直義(ただよし)から内々つよく密奏(みっそう)するところがあり、尊氏の意も度外視されて、ついにこの上命をみたものらしいがと、諸人はどうなることかと、この噂で一時もちきりだった。
 事の断行をとる前に、直義は、一般の師直にたいする不人気という点を、かなり計算ずくめに考慮していたには違いない。
 ところが、いざ、
 師直の罷免(ひめん)、屏居(へいきょ)
 という思いきった人事改革の断をみると、一般の表情は予期に反して、師直の失脚を小気味よしとするよりも、
「あの、木像蟹(もくぞうがに)どのが、このままだまっているだろうか」
 とする、恐れの方が、衆を大きく支配しだしていた。そして、
「何か始まる」
「なくてはすむまい」
 と、危惧に揺れた人心は、たちまち、不気味な流言や浮説を作って、直義の当初の考えとはまったく逆な現象をよびおこしていたのだった。
 しかし、一方の――
 一条今出川の師直の邸宅といえば、その日いらい、静かに門を閉じたままでしかない。人出入りもまったく絶え、いかにも閉門謹慎のていである。
 だがその物音もない奥まった所では、あの木像蟹殿が、どんな屈託顔(くったくがお)に頬杖をついていることか。またはこんなときこそ心ゆくまで閑(かん)を愉(たの)しむべきだとして、側室の二条関白家の妹君でも昼夜なく愛撫していることでもあるか。そのへんはたれにも想像がつかなかった。
 けれど彼が悪足掻(わるあが)きな妄動をしていないことだけはたしかであり、夜ともなれば、墨を流したような今出川一帯の大屋根が、それだけになお気味わるい夜気を都の隅(すみ)に濃くしてはいた。
 この無抵抗ぶりもまた、直義には意外だった。
 こう、おとなしく命に服したものを、性急に武力的な拘束を加えることも出来ないし、それはまたかえって危険を呼ぶものとも考えられる。――徐々には、兄の尊氏にせまって、これまでの師直の罪科をかぞえ上げ、将来のためをも説いて、このさい彼を流罪に処すか、いっそのこと、死を賜うとして、切腹を命じるかの、いずれかの決断をせまるのを目的としてその方にもっぱら力をそそいでいたのである。
 しかし、これがまた容易にらちはあかなかった。
 尊氏がそれに「うん」という気色はどうも見取れない。そこで兄弟の複雑なもつれは、或る限界をおいて口に出さないまま、冷却の日をおくことを余儀なくしていた。――もし師直の罷免理由を、短気に兄へつきすすめてゆけば、勢い、それは直義対師直でなく、直義対尊氏の兄弟喧嘩とならないわけにゆかないのである。
 そもそもは、尊氏が「諸政、何事も、弟のおまえに委せる」として来たものを、一面では自分の意志を師直に代行させて、二頭政治の弊(へい)をあえて深めてきたことが、およそこんどの重大原因であるからなのだ。「――兄の狡(ずる)さよ」と、これまでにも直義は、たびたび腹にすえかねていたものの、兄との衝突は、極力これを避けずにはいられない。
 しかし、その是正(ぜせい)と鬱憤(うっぷん)とを師直に向け、あわせて、一気に高家(こうけ)一族の勢力を根こそぎ排除しようと計ったのは、どうしても直義の誤算であった。またその時期も過っていた。
 いつのばあいでも、内訌(ないこう)は敵をよろこばすだけのものだが、直義対師直の軋轢(あつれき)ほど、「待っていたもの」と、南朝方を勇気づけたものはあるまい。そのごも謀将北畠親房が、さかんに第五列を都へ送って、後方攪乱(かくらん)の実(じつ)を上げていた折でもあった。
 もっとも、乱波(らっぱ)(便衣隊)の暗躍は、こんどに限ったわけではない。足利家が幕府を都にすえてからは、のべつそれらの形なきものの口から巷(ちまた)に怪異(かいい)が撒(ま)かれていた。
 たとえば。
 直義の妻(渋川貞頼の女)は、四十一歳で初めて男の子を産んだが、するとすぐ、
「これは稀れなお産(さん)だ。大塔ノ宮の怨霊(おんりょう)が憑(つ)いて、直義夫妻の仲に出たものに相違ない」
 と、いう者が多かった。
 また、あるときは、
「たそがれ、緋(ひ)の袴(はかま)をはいた女官が、院の檜皮(ひわだ)屋根の上に見えたが、そのうちに御池殿(おいけどの)(尊氏の住居)のうちへ消えた」
 などという流言も立ち、無知な民心は、そんなことにもすぐ暗い不安にゆすぶられた。
 しかし、ことしに入ってからの変異は、ただの怪奇な流言だけでなく、目にもわかるような乱波活動が頻々(ひんぴん)だった。その多くは放火であり、なかでも顕著(けんちょ)なのは、三月十四日の夜半、尊氏の御池殿の全館が、焼亡したことである。まったくの怪(あや)し火(び)で、出火の原因も不明だった。
 それいぜんには、清水寺の焼失があり、持明院の一角からも火が出、そのほかの小火災と来ては、毎晩のようだった。
 けれど、それらの変異に馴れッ子になっていた人心も、六月十一日の四条河原の勧進田楽(かんじんでんがく)の大椿事(だいちんじ)にはきもをつぶして、これはただ事ではないぞとみなおぞけをふるッた。
 この勧進田楽には、将軍家の尊氏夫妻をはじめ、北朝の歴々、女院、宮、いわゆる月卿雲客(げっけいうんかく)から市中の男女数万という見物が群れ集まっていたのである。――勧進元は、祇園(ぎおん)の僧行恵(ぎょうえ)という者で、四条大橋を架すための浄財をあつめるのが主目的であり、役者も新座本座の一流をよりすぐった大興行であったのだ。
 そして、八人法師の拍子打(ひょうしう)ちに始まって、簓踊(ささらおど)りは本座の阿古(あこ)、乱(らん)どり舞は新座の彦夜叉、刀(かたな)玉取りは道(どう)一と、おのおの妙技をつくして、猿楽(さるがく)の一と幕も佳境に入り、やがて将軍家の桟敷(さじき)わきの橋がかりから、練貫(ねりぬき)の褄(つま)を高くとった美貌な女役者が、半開きの扇を眉にかざして出(で)にかかったとたんに、どうしたのか、上下、二百四十九軒(けん)(組)の桟敷(さじき)が、ごうぜんと凄い物音をたてて、諸仆(もろだお)れに、河原へ崩れ落ちたのだった。
桟敷(さじき)、六十余間(けん)
俄に潰(つひ)えて落ち重なり
死者百余人
傷者は数も知れず
 とは諸書の実録だが、この事件なども、原因は分らず仕舞いで終り、おまけに当夜は風雨、翌日は洪水になったりしたので、またも「天狗の仕業(しわざ)か」ということになってしまった。
 ところで、師直(もろなお)の処罰は、こんな大事件後のわずか二十日ほどのちに断行されていたのである。それやこれやで、一ばい人心が騒いだのもむりではなかった。

 乾ききった残暑照りの日中だった。一ト筋の旗も持たず、黙々と気むずかしい顔をした騎馬の一群が、南の方から洛中へはいって来た。
 一度、それは跡絶(とだ)えた。
 が、次には、足なみを早めた騎歩兵五、六千にものぼる汗の顔が、一隊また一隊とつづき、みるみる法成寺址(あと)の森へかくれた。
「おや?」
 あとの白い埃(ほこり)のうちに立ち迷いながら市民たちはその六感で怪しみあった。
「越後守(高ノ師泰(もろやす))どのに相違ない大将が中に見えたが」
「では今のは、越後どのの軍兵か?」
「としたら、旗も見せずに、法成寺の森へ入ったなど、ただ事ではあるまいぞ」
 彼らの予感はあたっていた。一ときのまに異常な恐慌状態が洛内中に地鳴りをおこしていたのである。その震源地とみなされたのは、当然、高ノ師直のやかたがある一条今出川の一郭(いっかく)であり、衆目がそれと、そこへ寄ったときには、すでに驚くべき変貌が今出川には起っていた。
 つい午前中までは、おとなしく閉門謹慎のままかに見えた師直の邸を中心に、附近の武者屋敷はみな、ものものしい戦時態勢にかためられ、辻々には兵が立って往来もまったく遮断されていた。そして忙しげに行く騎馬の影があれば、それはここと法成寺との間を連絡か何かに駈ける相互の早馬だけだった。
 思うに、師直と師泰とのあいだには、とうからもう今日のための打合せが交わされていたにちがいあるまい。
 師泰は、吉野攻めの後も、和泉の北畠親房や河内の南軍にそなえて、戦場にとどまり、春いらい一度も都に帰還していず、兄師直の失脚は、つまり自分の留守中でのことだったのだ。
 おそらく彼は、この変を知ると同時に「――高家(こうけ)一族の浮沈」と赫怒(かくど)して、すぐにも戦場を去ってここへ駈けつけようとしたのではなかったか。
 けれど、それをとどめて、きょうまで、鳴りをひそめさせていたのは、師直がほかに期するところがあったからにほかならない。――師直はその閉門中もただ安閑(あんかん)としていたわけではなかったのだ。師泰との打合せだけでなく、在京在国の武家仲間へも極秘に款(かん)を通(つう)じて、きょうという日を、充分な用意のもとに待機させていたのである。
 それの証明は、やがて、夜に入るや、ぞくぞくと、諸方から駈け集まって来たおびただしい諸家の兵馬に見ることができ、法成寺の兵をあわせれば、それは一万五、六千の一陣営をなしていた。
 もっとも、この半日半夜、洛内の路上にあふれた兵馬が、みな師直がたへばかり殺到していたわけではない。中には「――すわ」とばかり迷いもなく、錦小路殿(直義(ただよし)の邸)の方へ駈けつけてゆくのもあり、そこにはすでに、上杉重能、畠山直宗、その他、日ごろ称して、副将軍直参(じきさん)の宗徒(むねと)といっている面々がひしひし、附近をかためていた。
 とはいえ、直義の許に駈けつけた者と、師直方に応じた武士とをくらべれば、直義方は、はるかに少なく、一方の半分以下にもたりなかった。日ごろの人気とはあてにならないものである。決票の数は逆な現れを見せたのだった。
「後手(ごて)を食った。飼犬に手を咬(か)まれた!」
 直義は地だんだをふんだ。準備、兵力、すべてに抗しえぬことも明白でありすぎる。
 刻々、険悪の度(ど)は濃い。敵の師泰は、法成寺址(あと)を。師直の軍勢も一条今出川を離れて――
「両勢一万五、六千人。鉦(かね)も打たず旗も振らず、音なき波の歩みのように粛々(しゅくしゅく)とこれへ向ってまいります」
 との、声々だった。
「木像蟹めが」
 どうしても、家来筋の師直となす思惟(しい)が直義には抜けきれない。そんな男がしかも堂々とこのような反噬(はんぜい)に出て来たことが、何とも心外だし堪忍ならぬものに憤られる。
 だがこの非常事態がそんな感情でいささかも形を変えるものではない。事は急であった。直義は急遽、土御門(つちみかど)高倉の兄尊氏の新邸へ逃げこんだ。よもやそこへはと、一時の難を避けるつもりであったのだろう。
 ところが、それを偵知した師直、師泰の軍は、進路をかえて、やがてひたひたと土御門高倉のまわりを厚くとりかこみはじめたのだった。そしてそれまでの声なき波濤は、ここで初めてわああッと物凄い咆哮(ほうこう)を揚げ出した。――もしそれに釣られて、内へはいった直義方の将士が武者声に応じたら即座に合戦の火ぶたは切られていただろう。が、諸門をかたくしたまま、邸内の兵はまったく口を緘(かん)していた。おそらく尊氏の厳命だったに違いあるまい。
 するうちに、師直方から一使者が邸内へ入り、まもなくまた、邸内からも、尊氏の使者が来て、師直に告げるところがあった。
「――いかなる憤激にせよ、主人の家をとりかこむ法やある。所存(しょぞん)あらば退(しりぞ)いて申し出ろ。それとも目的は他にあって、事を幸いに天下を奪わんとでもするのなら問答は一切無用だ。しかと腹を割って申せ」と。
 それに答えて、師直(もろなお)は再度の使者を出し、「師直が本心は、君の御存知でないはずはない。讒者(ざんしゃ)の張本ども一類を悉(ことごと)く縄してお下げ渡しねがいたい」と、今は尊氏へ対してさえ傲岸(ごうがん)、引く色もない。尊氏も、かさねての使者を以て「家僕の恫喝(どうかつ)に会って下手人を出したとあっては天下の嘲(あざけ)り、そのような前例をひらくことは罷(まか)りならん。さらば待て。畜生を相手とするのは哀(かな)しいが一戦もぜひあるまい。尊氏も鎧(よろ)って起(た)とう。なんじ師直、よく我に一矢(いっし)を放ッてみせ得るか」と、きつく叱(しか)る。――ここで一時、交渉は絶え、両軍ともに寂(せき)と、不気味な真夜半を睨(ね)めあっていた。
 が、まもないうちである。師直方から三度目の使者が邸内へ入った。そしてこんどは書面とした物を差出し「これが最後の一札(いっさつ)でござる」と捨て言葉をおいて引きさがった。
 師直の一札は、執拗に、自分を陥れた一類五人の引渡しをかさねて求めたものだった。もし、おきき入れなくば、ぜひもない儀と、暗に実力に出る旨もほのめかしている。
 すなわち、その五人とは。
 上杉伊豆守重能、畠山直宗、大休寺の僧妙吉(みょうきつ)。それに直義の奉行人斎藤利康(としやす)、同修理之進(しゅりのしん)のふたりの名をも加えていた。
 塀を境とした君臣両勢の対峙のあらしは、遠い所のもののようでしかない。そこは真空のような一殿(いちでん)の室だった。
 一通の奉書の状が、あらしの眼みたいにおいてある。
「…………」
 決裂か、要求をいれるか、交渉再三のあげくに、たったいま師直方から最後のものと提示してきた切札のごとき要求だった。――それを中においての、尊氏と直義とは、はてしない、無言の膝をじっと硬めあっていた。野中の二箇の石かのように冷たいのである。どんな他人といってもこんな隔絶感は持てまいほどな深い割れ目がふたりのあいだに穴をあけていた。しかも哀しい骨肉の本能はかえって沸(たぎ)りに沸って体を離れた見えぬ虚空(こくう)で兄と弟のつかみあいをどうしようもなくしている長い沈黙なのだった。
 が、その沈黙にも疲れてきたに違いない。やがて、静かに、
「どうする?」
 尊氏のほうから言った。
 この「どうする?」は二度目なのである。こんども直義はすぐ口を開かなかった。こっちから訊きたいのだ。こんなせっぱつまった心外な決定を弟にいわせようとするのは兄の卑怯ではないか。
「御意にまかせます。直義としてはそれしかお答えのしようはない」
「ちがう!」尊氏は逃すまいとするものを抑えるように。「――師直がつきつけてきたこの最後の箇条に、何と最後の一言をくれてやるか、そこの返辞をそちらの胸に叩くのだ。わしの答えでは意味をなさん」
「心外でたまりません。かりにも主人が家来にこんな箇条をつきつけられ、しかも這奴(しゃつ)の武力にここで屈するなどは」
「無念は無念だが、ひとつ悔やみを、わしとそちとで、何度いってみても始まらぬ。すでにここを囲んだからには、師直も腹をすえてのことだろう。その求めを蹴れば、四門を破って、討ち入って来るにきまっている。さもあらば、主人として、それに応戦せざるを得ぬ。そちとわしとが家来をあいてに斬り死にすることが、さあ、どうかな? ……征夷大将軍尊氏と、副将軍直義とが、焼けあとに枕をならべて死んだとなった明日(あした)を考えてみるがいい。分(ぶ)に合わん。また世の笑いぐさだ。かつは野州(やしゅう)足利ノ庄から志を立ててここまで来ながら、きょうまでの苦心功業もすべて水の泡(あわ)でしかあるまいが」
「ですから、ぜひもありません。直義に腹を切れとなら、腹を切るまでのことです」
「ばかな。たれがそちに腹を切れと仕向けたか。師直も、そちを渡せとは言っていない」
「が、腑(ふ)におちぬのは、兄者の御態度だ」
「どこが、どう?」
「かくまでの師直の暴悪を、兄者は真底(しんそこ)では憎んではおられぬように見える。お口では強い返事を使者にいわせておられるが」
「それよ、師直は尊氏の家僕(かぼく)だ。家僕の悪業は主人の落度。たれを恨もう」
「では、家来のこのような暴挙も、お心ではゆるしておいでなのですか」
「ゆるされぬ無道と怒(いか)ればこそ、万一の一戦も覚悟はしておる。それが尊氏の立場なのだ。自嘲するしかないわしなのだ」
 灯は細まっているのに、たたみの上の奉書は、紙の白さをなお白く見せていた。いつか夜明けていたのである。遠い塀のそとからは師直の軍勢が波騒(なみさい)の中に似るここへ、最後の返答をうながすようなどよめきを朝と共に性急にしていた。
 最少な犠牲の下に最良な切抜け策をと尊氏は考えている――。それには師直の要求の一部を容れ彼をなだめることでしかないが、直義はいぜん岩みたいな姿にみえるだけである。自分からそうしようといって妥協に出るふうはない。それが哀(かな)しい性(さが)を形に見せつけられているようで尊氏にはつらかった。
「……直義。観念のしどころだ。そちも師直を憎むのはよせ。憎悪は何の解決にもならん。それよりは、ちと反省してみないか」
「これは」
 逆に、直義は色をなした。
「私への、御批判ですか」
「そちにも、行き過ぎがなかったとは申せまい」
「条々、実例をあげて、仰っしゃって下さい。足利家のために悪しかれと思ってしたことは一度たりともないつもりだ」
「そこが過信だ。悪意でない害も往々(おうおう)にある」
「わかりました」――直義は冷ややかになりきって。「そこまで御大切な師直とあるなら、もはや何をか申しましょう。ですがこの春、養子直冬(ただふゆ)が中国へ赴任して、自然、調べ上げた機密によれば、師直が地方武士のあいだに自己勢力を扶植しようと計っている諸沙汰(しょざた)には将来恐るべき下心がはっきり見える。いまに臍(ほぞ)をお噛みなさらねばよいが」
「ふむ、直冬がの」
 まったくこの場には無関係な感傷が尊氏の胸をふと墨(すみ)のようにした。――藤夜叉が生んだ不知哉(いさや)丸である。いちども膝に抱いたこともない子だった。不愍(ふびん)な生れ性ではあった。けれど直義(ただよし)の養子となり一方の若大将となってからの直冬(ただふゆ)の眼はつねに尊氏を冷たく刺した。非情な実父と恨んでいるのか、何か責めてやまない白眼にみえる。それが尊氏にはたまらなかった。棘(とげ)のつらさの余り嫌厭(けんえん)になった。
 その直冬の西国下向こそ、直義の異心の準備だと、師直は進言している。また直冬自身が、やがては養父の直義が天下に君臨することを望んでいるとも、他から尊氏の耳には入っている。
 もちろん尊氏は信じない。けれど直冬のひがみといい、母の藤夜叉へ自分が過去にしたことといい、充分、彼には罪の意識があった。拭いがたい呵責(かしゃく)をわれとわが身にしているのである。そのうえについ先頃は、身の毛をよだてるような一事もあった。
 なにかといえば。
 それは二十日ほど前に遭遇(そうぐう)した四条勧進田楽(かんじんでんがく)の大椿事(だいちんじ)のときである。――幸いに、尊氏夫妻のいた桟敷(さじき)はすこし傾いたのみで難もなかったのだが、あの折、舞台がかりの出(で)から半開きの扇を眉に見得(みえ)を見せた女役者のおもざしが「あっ、藤夜叉か?」と尊氏の眸をはっと怪しませ、ときも同時に、ごうぜんと、あたりの桟敷百十間(けん)がくずれ落ちて、死傷数百人という阿鼻叫喚(あびきょうかん)が、刹那(せつな)におこっていたのであった。
「…………」
 尊氏は妄想を追うように、意識をかえた。今はそんなことを思ってみる時ではない。また、ここの場所でもなかった。
 ついにさいごまで、直義は尊氏がいうところの反省もせず、師直との妥協にも、自分からは口をあかずにしまった。だが尊氏がやがて彼に諮(はか)った最終案には、
「こうなっては、いたし方もございますまい」
 と、冷静に澄みきって、それに逆らいもしなかった。
 そこで、師直との交渉が次の提示のもとにはこばれ出した。
 ――上杉重能、畠山直宗の二名は、流罪に処する。また直義の奉行人斎藤利康(としやす)、修理之進、僧妙吉(みょうきつ)の三名は、すぐ邸内から師直方へ引きわたす。
 さらに当(とう)の直義は、今後、政治の面からは一切身を退く。そして鎌倉から尊氏の嫡男義詮(よしあきら)(幼名、千寿王)を呼んで直義の後任にすえる、という条項(じょうこう)だった。
「ふ、ふ」
 と、直義はこの交渉を、兄と師直との芝居であったもののように心中では冷笑していた。
「やはり兄の本心は義詮(よしあきら)を自分のあとめに正しく据(す)えねば安心できなくなって来たのだろう。……この直義にも一子如意丸があり、直冬という養子もいる。また一族や武士の腹を疑えばみな一つでない。そこで将来をおそれ、次代の将軍家の座をいまのうちに固めておこうとして打った手ではないのか。いや、義詮の一条項を、これへ持ち出したのでもそれは読めるというものだ」
 兄のそんな偏愛と師直の奸策とが結ばれて、自分のこれまでに尽してきた半生の功も、副将軍の地位も、一朝(いっちょう)にいま、剥(は)ぎ取られたのかと思うと、直義は煮えるような怒気(どき)と淋しさとにくるまれた。蒼白な自分の顔が自分でわかるほどだった。
 やがて邸外には万雷のような歓声(かんせい)がわいていた。それも直義を口惜しさに歯がみさせた。目的を達した師直方は、ほこらしげなどよめきをくり返しつつ引揚げて行ったのだった。合戦にはならずにすんだが、不吉な朝の太陽に思われた。そのうえ、このさい嫌なことがまた一つあった。
 僧の妙吉(みょうきつ)がいつのまにか逐電(ちくてん)していたのである。ために妙吉だけは、この朝、師直方へ引渡されずに終っていた。のみならず以後も長くこの怪僧はついに姿を現すことがなかった。本来は、直義に深くとり入って、こんどの事件を醸(かも)し出した元兇であったはずの者だった。奇怪というほかはない。後に説をなす者は、彼も北畠親房のあやつる五列の一人ではなかったかとも言ったりしたが、しかし後の南朝方にも、ついぞこの怪僧らしい人物は見えてない。
 いずれにせよ、南朝方のよろこぶ足利家の内訌(ないこう)は、これによって大きな肉の裂け目を、白日(はくじつ)にさらしてしまった。すでに曝(さら)された以上はなお果断に果断をとってその根絶を計ろうとするのが当事者の常道である。師直はそれへつきすすんだ。
 越後へ流された上杉重能と畠山直宗は、そのご流刑地で暗殺されてしまった。もちろん師直のさしずである。
 噂は噂を生じ、直義の身近にも暗い翳(かげ)がさしてきた。いつとも知れぬ危険を直義自身も感じずにいられない。で彼は、一切の権力から身を引いたのみでなく、頭をまろめて、名も恵源(えげん)とあらためた。そして錦小路の門に蟄居(ちっきょ)していたが、もちろんこの謹慎は心からなものではなかった。

 あくる年の四月ごろ。
「あの、おかしげな法師も、とうとう亡くなったそうだよ」
 と、町で噂する者があった。
 おかしげな法師とは、吉田兼好(けんこう)のことであった。当年六十八であったという。
 双(ならび)ヶ岡(おか)の草庵で長く病んででもいたのか、旅先で果てたのか、よくもわからず、またその死を悼(いた)む者もない。
 ただひとつ想像できるのは、きっとあの幼少からの一弟子が、もう雀をふところに飼う寝小便小僧ではなく、りっぱに成人して、師の枕元に死ぬまで侍(かしず)いていたであろうことである。そしてその命松丸(めいしょうまる)は、
「なむあみだぶつ……。ああ、お師匠さんはえらかったな。一代、こんな世の中だったが人も害(あや)めず自分も殺さず、けっこう毎日を楽しんで暮しなすった。修羅六道(しゅらろくどう)の地獄の世を、あの深い目で見物しに生れてきたようなお人だったが。……もうあの意地のわるげな笑い顔、慈悲と憐れみを交(ま)ぜた皮肉なおことば、そしていつも権力気狂いの人間たちを哀(かな)しんでいるようなおすがたも、ふっと、どこにも見えなくなったのだ。ああ、淋しい」
 と、また元の孤児に返って、師のあとを、飄(ひょう)とうらぶれ歩いているにはちがいなかろう。
 ずっと後のことになるが。
 この命松丸に行き会った今川了俊(りょうしゅん)が、
「なにか兼好のかたみでも残っていないか。あの法師のことだ。書き残した物でもあれば、それはさぞ面白かろうに」
 と、訊ねたところ、命松丸はそれに答えて。
「はい、お師匠さまは、筆まめではいらっしゃいましたが、一つも世に残そうなんていうおつもりはなかったようで、反古(ほご)はそばから紙衣(かみこ)や何かに使ってしまい、残っている物といえば、旧(もと)の草庵の壁やら襖紙(ふすま)に貼(は)った古反古(ふるほご)があるぐらいでしかございませぬ」
「ほうそれだけでもそれは見つけものだ。費用は出すから、ひとつその壁や襖(ふすま)に貼(は)られた反古(ほご)を剥(は)がして来て、わしに見せてくれんかの」
 命松丸もそれはよい偲(しの)び草(ぐさ)ともなり、またあれほどなお人の文字をもったいないことだとも考えて、双(ならび)ヶ岡(おか)や吉田山の旧草庵の物をていねいに剥がして、やがて今川了俊の手もとへとどけた。それは分厚い一ト束(たば)にもなる反古の量(かさ)だったので、ふたりしてこれを整理翻読(ほんどく)したすえ、帖に編集したものが、すなわち後世に長く読みつたえられてきた古典「徒然草(つれづれぐさ)」になったのだった。
 ふしぎな宇宙の識別というしかない。不壊(ふえ)の権力とみえる物も、時の怒濤の一波のあとには、あとかたもなくなり、反古に貼られた一法師の徒然(つれづれ)な筆でも、残るいのちのある物は、いつの世までも持ちささえてゆく。
 だが、兼好の逝った正平五年(南朝)はまだまだ足利家の内争が真二つにわれた直後で、彼の死などは、一片の枯葉(こよう)とも見る者はない。
 同年の十月。
 蟄居(ちっきょ)中の足利直義(ただよし)――頭を剃って恵源(えげん)といっていた直義は――とつぜん京都から姿を消した。
 石堂頼房をつれて河内へ奔(はし)り、河内の石川城にいる同族の畠山国清の許にかくれ、南朝の朝廷へ、帰降(きこう)(降伏)を申し出たのであった。
 直義のとった行動はじつに思いきっている。
 いうならば足利系総氏族の大分裂を自身からしたものにほかならない。しかし彼によるこの大爆発の降灰(こうかい)を浴びても、その外輪や裾野をなしている一族諸武士は、
「やったか、ついに!」
 と、さまで震駭(しんがい)の色でもなく、後の南朝への投降も、半ば必然に来た休火山の噴煙みたいに見ていたのはふしぎといってよい現象だった。
 それに反して、さっそく、活気のある朝議となっていたのは賀名生(あのう)の山村の朝廷である。暗澹(あんたん)たる前途に一道(いちどう)の光明をここに見たのだ。
 しかし、飢えの手が物にとびつくようではない。北畠親房は充分こんどのことには疑いをもっている。――彼は疑惑と利用の両面を胸に用意して、ひそかに某所で直義と会った。その結果、直義の降(こう)は容(い)れられた。
 直義は、帰降の誓文(せいもん)をさしだした。それには北朝の年号を用いず、南朝年号の「正平五年十二月」と書いた。そしてただちに挙兵にかかった。いまは師直のみが相手ではない。兄と戦うのだ。兄と戦うには名分がなくてはならない。「――南北両朝の対立を解消して、正しい一つの朝廷に帰一する」。それを名分にとったのである。
 ときに、尊氏はといえば。
 彼が弟の豹変(ひょうへん)を知ったのは、備前福岡城にいたときだった。
 つまり京都をあけていた留守中の出来事だったのだ。
 それ以前に。
 高(こう)ノ師泰(もろやす)は石見(いわみ)へ出陣していた。つづいて尊氏も師直と共に自身中国へ下向(げこう)していたのである。――直義の失権に憤慨した養子直冬(ただふゆ)が、西国の叛意をかきあつめて、すてておけば大挙、京都へ攻めのぼって来そうな気勢に見えたからだった。
 ここでも尊氏は、実の親を怨む子を戦野(せんや)に捕えねばならない破目になっていた。尊氏は、直冬をとらえて、出家を命じようぐらいな考えでいたのだが、叛逆の子は猛って親の軍へさんざんに抗(あらが)ッた。――そして戦いに破れると九州へ逃げ落ちてゆき、直義と仲のよい少弐頼尚(しょうによりひさ)のふところへ拠(よ)ってしまった。のみならず、西海の反師直がたも、みなその一幕下に凝集(ぎょうしゅう)され、尊氏の意図は、かえって思いもしなかった自分からの離反者を漠々(ばくばく)たる彼方に見出だす結果となっていた。
 そんな軍旅の出先で、
「なに、直義が?」
 と、彼は留守中の変に耳を打たれたのだった。「どんな事に会っても物に動(どう)じたことのない人」と夢窓国師も言った尊氏だが、はたしてこのさいどうだったか。子は親の敵をあつめて西に大敵国をつくり、弟は奔(はし)って南朝に降(くだ)り、南朝の旗をかりて兄へ弓を引いて来たのだ。しかもいまや彼は出先の孤軍でしかない。
「義詮(よしあきら)は都にいる」
 残してきた最愛の嫡男(ちゃくなん)だけがひたすら彼の心配であった。――年を越えつつ尊氏は備前から京都へ急いで引っ返した。――だが途中で、もうその義詮は父に出会った。直義方の桃井直常に追われて京都を逃げ出して来たのである。
 ある大事なものが、人間社会からいつか失くなっていた。それは曲りなりにもまだ護持しあっていた道徳というものだが、一(いっ)たんこれを無視し出して、無視する方が、世の勝利者だとなって来れば、いたるところでこの約束の破棄(はき)は始まッてくる。悪が悪でなくなり勝利者だけがいくらでもあとから自己を正当づけ得る。
 こんなでたらめな状態が自分の理想した幕府の劈頭(へきとう)にやって来たかとおもうと、尊氏は慚愧(ざんき)と怒りに燃やされた。わけて京都を追われて逃げ出して来た義詮のみじめな姿は、我慢がならないものだった。
「懲(こ)らさねばならん。懲らしに懲らす、それだけが、秩序を回(かえ)す道でしかない」
 彼はただちに義詮をつれ、師直を先鋒(せんぽう)に、京都へ入った。
 直義に応じて、北国から洛中へ攻めこんだ桃井直常の七千人は、もう師直一族の第館(ていかん)なども焼き払い、北朝の御所をさえおびやかしていた。
 尊氏はさしずめ洛内の留守においた佐々木道誉らの兵が、それに応じて苦戦中かと察していたが、その道誉の軍はどこにも見えない。
「すでに近江へ帰ってしまったらしい」との沙汰がある。
 ぜひなく、急使をやって、叡山へよびかけた。
 近江三箇荘を与えようという好餌(こうじ)のもとに、協力を求めたのである。だが叡山はその前日、直義(ただよし)の墨付(すみつき)で、すでに近江三箇荘をもらっていた。当然、あいまいな態度でしかない。
 しかし、尊氏の手兵は、二条三条の辺で、揚言どおり桃井勢を二日にわたって打ち懲らした。桃井勢は破れて、法勝寺から白河のおくへ逃げ退いた。――尊氏はその夜、ひとまず二条千手堂の吉良邸を陣営とし、そして、諸所の山野に分散して旗色を見ているらしい一族家臣の徒(と)へ教書(きょうしょ)を触(ふ)れまわした。
「このさい去就(きょしゅう)を過るな。おれはここに帰っているぞ。一たんはぜひなく直義についた者といえ、前非を知って戻って来るなら、おれはその非を追求しない。幕府は成りその功業を約して緒(しょ)についたばかりではないか。みんな帰って来い! 尊氏を信じて元の列へ戻って来い!」
 しかし、教書の反応はほとんどなかった。この論告はかえって尊氏の窮地をまざと響かせたものとみえ、逆に、直義の方へ奔(はし)る者が多かった。斯波(しば)高経、今川範国(のりくに)、二階堂時綱、小笠原政長、上杉朝定(ともさだ)、同朝房。
 そのほか、南流して去る兵旗ばかりである。
 山名時氏のごときは、きのうまで尊氏の下にいたのに、この趨勢(すうせい)を見ると、尊氏を離れ、一夜、とつぜん直義方の八幡(やわた)の陣へ投じてしまった。
「こんなものか?」
 泡のような呟きが尊氏の胸に消えた。これまでにしてきたこと、見つけていた人間の顔、すべてが信じられなくなった。いや洛中にいることすらがすでに危険になっていた。
「ぜひもない」
 一時、都を退いて、陣容をたて直すときめ、義詮(よしあきら)や師直と共に、尊氏は丹波へ走った。そしてまた播磨の書写山(しょしゃざん)へ移り、そこで石見(いわみ)から馳せつけて来た高(こう)ノ師泰(もろやす)の一軍とひとつになった。
 細川顕氏(あきうじ)が反(そむ)いて窮地の尊氏をさらに窮地におとし入れたのは二月十四日だった。四国もついに彼から離れたのである。
「顕氏までがか?」
 尊氏は耳を疑った。師直、師泰にたいする反感が、顕氏までを敵側に走らせたものであると分っていたが、それにせよ今はどこも四面楚歌(しめんそか)である。腹をすえる時だと思った。
「道は一途(いっと)。このうえは直義と話がつくか、さなくば、一戦もぜひあるまい」
 書写山のかこみを破って、十七日、師直、師泰の兵を先手(せんて)に、兵庫へ出、さらに御影(みかげ)街道へと、怒(いか)りの奔流を見せていた。
 が、それあるを予期していた畠山国清、石堂頼房、小笠原政長らの軍に待たれて、尊氏以下は、打出ヶ浜でさんざんな苦戦にまみれた。――師直、師泰もこの日に負傷し、疲労困憊(ひろうこんぱい)のかたまりのような残軍を湊川まで引いて、残る将士をかぞえてみると、寥寥(りょうりょう)、一千にも足りなかった。
 尊氏が、自決をかくごしたといわれたのは、このときではなかったか。
 彼はいくども死地に陥った経験をもち、同様な噂を何度もこれまでの経歴には持って来ている。だが彼は本心から自刃を考えたことは一度もない。彼は物の終りという考えを知らないのだ。追いつめられた運命のどたん場にはなおその活機が働くのである。禅がものをいうのかもしれなかった。自意識でなく現実の自己は突っ放している。そしてほかに何か寸秒の転機でも待つかのような無表情をただその顔に持つだけだった。
 すでにどこかで、この晩あたりは、夢窓国師の和解の斡旋(あっせん)が、おこなわれていたのである。が、尊氏は知っていない。しかし彼の考えついたことも、直義との和睦であった。――夜半、旗本の饗庭(あえば)氏直は、彼のむねをおびて、直義のいる八幡(やわた)へ馬をとばして行った。あとの尊氏は、魚見堂で眠りについた。
 なぜか、この魚見堂で眠るときは、いつも彼の運命は巌頭にあった。筑紫(つくし)落ちの前夜、また九州から再東上の日、そして今夜――
「真光寺の墓は、どうしたろうな?」
 自分の手で弔(とむら)ってやった正成の首が彼の瞼をたゆたわせていた。すがすがしい一個の生命は眠りの中で思ってみても寂(しず)かな池の花でも見ているようで気もちがいい。いまだに地獄の火坑から脱け出られない自分にかえりみて羨ましかった。
「おう、そういえば、右馬介もあれきりわしの許へ戻って来ぬ」
 むしろ彼のためには、それがよかった気さえして来る。幼少から自分の傅人役(もりやく)として仕えてくれた右馬介がもしここにいて、この君臣相剋(そうこく)の乱脈やら父子兄弟の戦いなどを見ていたら、彼は身をおくに所もなく、発狂していたかもしれぬ。
 ――饗庭(あえば)は一日おいて帰って来た。講和はいれましょうと直義は言っているという。
 当然、条件が提示されて来た。師直、師泰の引渡しだった。それが主である。だが、尊氏にはこれが呑めない。そのため、相互の使者の往返(おうへん)が三、四度にもおよんだ。結局、師直、師泰は高野山へのぼらせて生涯を出家遁世(しゅっけとんせい)に終らせる。これなら尊氏は二人へ告げて観念させることができるとしたのである。
 直義は容(い)れた。
「さっそく、御自身、両名を伴(ともな)って、連れ上っていただきたい」と。
 直義との再三な交渉のすえに見た和解の条件を、親しく尊氏から聞かされると、師直は、不敵な日ごろの顔も失くして、その温情に泣いた。
「それがわが君にとって残されたただ一つの活路とあるなれば、何で私に異存ございましょう。よろこんで頭をまろめ、いつの日か、ふたたび出て来いとお召がかかるまでは、きっと遁世(とんせい)をよそおってよき日をお待ち申しておりまする」
 そして彼は彼で、弟の師泰を切になだめた。ここは辱も我慢も忍ばねばなるまい、死一等を減じられただけでも僥倖(ぎょうこう)とせねばならぬ、と。
 師泰もまたいまはあきらめきッたふうである。すぐ連れだって近くの真光寺へ入り、髪をおろし、法衣に着がえ、笠、脚絆(きゃはん)などまで請(こ)いうけて、
「さても、有為転変(ういてんぺん)。おかしな姿をお互いに見たものですな」
 と、相見て笑った。
 すると一族の薬師寺公義(きんよし)がそれへ来てしきりに諫(いさ)めた。
「約束はどうでも、先へ行けば結局、敵手にお身をまかせるしかない。はたして直義の禅門が心から憎しみを解いているかどうか。さらには越後の流刑先で横死(おうし)した畠山直宗や上杉重能の家来どももいることです。彼らが怨みをすてるとは思われません。……むしろここには、まだ千余のお味方は残っていること。花々しく一戦をとげ、武士は武士らしく、御運命を決すべきではないでしょうか。そして大御所は、そのあいだにお姿を変えて、中国の赤松をたよってお落ちになるがよいかと存じまする」
 だが、師直は容れず、師泰もまた、一笑に附して言った。
「公義(きんよし)、名よりは実だよ、当世ではな。向うに二重の腹があるなら、こっちも三重(じゅう)腹(ばら)になって、幾変化でもして見せるわさ。生き抜いた方がさいごの勝ちというものだ」
「…………」
 公義は、何もいわず、悄然と退がって行った。晩になると、こまかい雨になり、明朝はここを立つのかと思うと、師直師泰も、さすが心はおだやかでなく、剃りこぼった頭を寒げに、一穂(いっすい)の灯を無口に見合っていた。
 そこへ寺僧が来て、ただいま、昼見えたお武家が、この一通を殿へとばかり言いおいて、暗い雨の中を、どこへともなく駈け去ッて行かれましたとのことに、開いてみると、それは薬師寺公義の筆で、ぶつりと切った髻(もとどり)と共に、文言はなく、一首の歌だけが収めてあった。
とれば憂(う)し
取らねば
人の数(かず)ならぬ
捨つべきものは
弓矢なりけり
 後に、この公義は、高野(こうや)へ入って、僧になっていたことが世にわかった。けれど師直師泰のふたりにはもうこの歌が誘う真実なさけびもまにあわなかった。……まもなく、二月二十六日の春寒い小糠雨(こぬかあめ)の朝は明けていた。
 尊氏は魚見堂を出、敗残の兵千ばかりが、その前後にしたがった。――師直師泰も馬には乗ったが、いわば敵人へささげられる体であった。沿道の人目を恥じてか、蓮(はす)の葉(は)笠(がさ)を眉深(まぶか)にふせて、悄々(しおしお)と列の中に交じった。
 蓮の葉笠とはどんな笠か。網代(あじろ)より深い椀形(わんなり)の紙の塗笠(ぬりがさ)かもしれない。ともかく、師直も師泰もよほど人目をきらったとみえる。意識的に馬混みの間を行き、いつも尊氏の背が見えるぐらいな所にいた。
 兵庫を出はなれると、はたして道の両側には敵兵の顔がたくさん並んでいる。「あれが執事だ」「あれが越後よ」という※(「口+耳」、第3水準1-14-94)きが耳を刺す。尊氏の姿をさえ笑って見物している雑兵らなのだ。このみじめな敗北感は馬も知るのか、ぬかるみを行く無数の長い脛(すね)にも力がなかった。
 武庫川(むこがわ)の辺まで来ると、春の小糠雨(こぬかあめ)は急に山からと海からとの風に掻きまわされて、痛いような水粒(すいりゅう)が笠の下へも吹きつけてくる。――師直の馬はしばしば物驚きをしてあと退去(ずさ)った。――「途中、お迎えの者どもでござる」「お送りに加わり申す!」などと口々に列の横から割り込んで来た鳶色(とびいろ)一揆(き)の騎馬隊があり、それらの者が立ちふさがって、尊氏と師直とのあいだをいつか十数町も隔(へだ)ててしまった。
 すると土手の片側から、徒士(かち)の中間者(ちゅうげんもの)がふたり這い上って来て、やにわに槍をつきつけ、
「顔を隠してゆく奴は誰だ」
 と、言った。いや、すぐもう一人の方は、
「笠をとれ。とらんか」
 と、槍の石突きを逆に上げてぱっと蓮の葉笠を下から払った。笠は飛んで、頭巾だけのまるい頭がのけ反(ぞ)った。
「執事だ」
 二人がともに叫ぶと、師直のうしろへ馬を寄せていた彼らの主人三浦左衛門が、
「やはり執事か」
 と、長刀(なぎなた)の振幅いッぱい師直を斜(はす)に薙(な)ぎ上げた。が、それは顎(あご)をかすめ、師直は馬と共に刎ね躍ッて次の刹那(せつな)に肩から胸へ長刀の光を咥(くわ)え込むやいな絶叫を吐いて落馬していた。
「あら、うれし」
 三浦は首を掻ッ切って、長刀のさきにつき刺し、大声で後ろの仲間へ触れ廻って行った。仲間はほかにも多かったのである。さきに越後で殺された上杉重能の子、上杉能憲(よしのり)の部下と、畠山直宗の遺臣たちであったのだ。
「や、や?」
 師泰は、半町ほどおくれていたが、白い糠雨(ぬかあめ)の異様などよめき立ちに、あわてて馬を返しかけた。そこを、吉江小四郎の槍のために、
「思い知れ、越後」
 とばかり背から乳下まで突き抜かれていた。この首もすぐ中間(ちゅうげん)どもの手で寄ってたかって掻ッ切られる。さらに、ずっと後方の鷲林寺(しゅうりんじ)門前では、高(こう)ノ一族の師兼、師世、師夏、師幸(もろゆき)、師景など、みな武装は解かれていた身なので、ほとんど抵抗らしい抵抗もなしえず、すべて、みなごろしにされてしまった。
 中でもあわれだったのは、師直すらがあの目を細めて可愛がっていた師夏である。母は二条前関白の妹君(いもとぎみ)だった。十三歳であったという。
 復讐の血に酔った上杉、畠山の両党は、凱歌のような雑言を揚げて、はるか後方から尊氏の列をさらに追い立てていた。尊氏の官能はほぼ後ろの変を知っていたろう。もちろん彼らの暴挙は、それの計画的であった点からみても、直義が黙許の下に行われたことだったにちがいない。

「今が満開だな」
 と、尊氏がつぶやく。
 答えるでもなく、直義(ただよし)は、ぽつんと言った。
「嵐山もむかしはただの山だった。こんな見事な花の山でなかった。昔といっても、人の半生にも足らないほどな歳月のうちだが」
 義詮(よしあきら)もそばにいた。
 だが義詮はだまって酒杯(さかずき)をふくんでいた。二十二歳である。自身、自分を花と誇っている年頃である。
 花見にしてはしめやかな宴であった。どちら側(がわ)の臣もこの席には一人もいない。所は洛外の西方寺で花の廂(ひさし)から花の山が望まれる。――世良親王の河端(かわばた)ノ宮の遺跡(いせき)に植え出したさくらがいつか花時には大堰川(おおいがわ)の水も小紋にして見せるほどな名所となって来た始まりであるという。
 三月二十一日で、この前日には、三条河原で武家一般の犬追物(いぬおうもの)が賑やかに興行され、二日つづきの盛事であった。
 尊氏と直義との和解を、ひろく世間に知らせる意味と、大きな亀裂(きれつ)を表面化した武士どもの心を溶(と)け合せようという目的もこれにはあった。
 順序としていえば、前月の二月二十六日、尊氏は降人(こうじん)として、終日のぬかるみと小糠雨(こぬかあめ)にまみれた姿で京都につき、夜、上杉朝定(ともさだ)のやしきに入った。「――あたかも流人(るにん)のようであった」とは、当時の状を目撃した路傍の人の声だった。
 直義はそうでない。
 彼はいまや兄の上にいる。執事の師直以下、高家(こうけ)一族を葬(ほうむ)り去った快を満喫している勝者だった。彼は、尊氏より一日おそく八幡(やわた)から入洛して、錦小路の自邸に入り、斯波(しば)、石堂、山名、桃井の諸将に囲繞(いにょう)され、なんとしても、威風りんりんたるものがある。
 すぐ時局収拾の相談もすすめられた。しかしいまは直義が主体で、尊氏は従(じゅう)でしかない。
 尊氏は、希望した。
「政務の主権は義詮(よしあきら)におき、直義はそれを扶(たす)ける地位にあって欲しい」と。
 直義は承認した。
 尊氏は、もひとつ求めた。
「自分に附随(ふずい)して今日までひとつに来た将士へも、直義へ附いた将士と同様、すべてに平等な恩賞を授与(じゅよ)してやりたい」
 それも、直義は受けいれた。その代りに直義もまた一条件を尊氏に呑ませた。このさい正式に、直冬(ただふゆ)を九州探題にするということだった。
 これで一おう和解は円満にまとまったといえる。内訌(ないこう)は一時的な紛糾(ふんきゅう)にすぎない。幕府は微動もしない。今日の西方寺の花見の宴はよく世上にそれを映す意味においても心からな人と花との融和(ゆうわ)でなければならなかった。だが、尊氏の見る花、直義の見る花、義詮が見る花、みな違う。三者三様だった。杯も冷えがちに、ともすれば、どうしようもない白々しさが寒々とそこらに漂(ただよ)う。
「こんな日には」
 尊氏は直義の横顔を見た。
「やはりあいつがいないのは淋しいな。そうは思わぬか」
「あいつとは」
「道誉だ」
「道誉。なるほど」
「それに師直(もろなお)なども、無事でいれば、今日など賑やかに振舞うやつだ。思えば武庫川の日から今日はちょうど二十五日目だな」
 挑(いど)むものへ挑みを以て返すように、直義の眸は光った。
 ふれたくない。思い出したくもない。尊氏にはよく分っているはずだ。それを何でこんな席で言いだしたのか。
「ご催促とみえますな」
 直義は、兄の底意に腹が立って、わざと自分から話を露骨にした。
「師直、師泰の死から早や二十日の余もたっている。だのになぜ、下手人の上杉能憲(よしのり)を依然そのままにしておくか。それがお気に食わんのでしょう」
「いや、そんなつもりでもないが、しかし処置は早いに越したことはなかろう。和解の実を衆に納得(なっとく)させる上にも」
「ですが、あの日、武庫川に待って、師直以下の眷属(けんぞく)を襲殺したのは、能憲(よしのり)の下知(げち)ではなく、さきに師直のために越後で殺された上杉、畠山の遺臣どもが、主の恨みをふくんで勝手にやったことだとか。事実、能憲はなにも知っていないのだ。罰しようはありますまい」
「なくはない」
 尊氏の眸は、そう言う直義の卑劣さをあきらかに突き刺していた。
「師直師泰の一命は保障する。出家遁世(とんせい)の条件のもとに――と。それがこの尊氏と直義との間に結ばれた協定の一つではなかったか。――しかるに、能憲はわしとそちとの和睦(わぼく)に先だつ約束をまず第一に破ッた。そちがこれを不問にしておくのさえ心得がたい。あらぬ取沙汰がいつまで根を絶たぬのも道理。ここは賢明にその処理をとらぬと、すべてが嘘の始まりになる」
「よく考えておきましょう」
「む、考えてくれい」
 西方寺の花見は味気ない散会をつげて昏(く)れた。もちろん扈従(こじゅう)の臣や公卿などはけっこうはしゃいでひきあげたが、なんといっても尊氏、直義、義詮(よしあきら)の心から溶けきれない容子(ようす)は、衆目にも映って、その一抹(まつ)な危惧は、夕霞(ゆうがすみ)と共に都の内まで尾を曳いて行った。
 まもなく。
 上杉能憲(よしのり)は流刑になった。同時に、直義の厳命で、師直師泰の余党検挙が、各地の国元や洛内でその日から開始された。
 すると、そのまた反動だろうか。
 覆面の刺客(しかく)なる者がやたらに跳梁(ちょうりょう)し出してきた。一、二をいえば、直義が院参の帰り道を襲撃され、直義は難もなかったが、随身のひとりが斬られた。
 桃井直常も同様な目にあった。彼は直義の邸を訪問して深夜を帰る途中だった。すべて何者のしわざとも知れないのである。
 こういうふうで、直義と義詮との一体政治も、空念仏に過ぎず、むしろ両者は疎隔するばかりであった。六月の或る夕、直義が義詮を訪ねたが、なぜか時も措(お)かず、すぐ門を辞し去ったことなどもあり、その不和はもう公々然な悪気流を呈していた。
 都もこうだし、九州では、新探題の直冬(ただふゆ)と、旧探題の一色範氏(のりうじ)とが、以後、九州を二分して、大合戦に入っている。
 また信濃では、尊氏の党と称する小笠原と、直義方の諏訪(すわ)とが、勝手な戦争をはじめてしまった。すべてたれの意志でもなく宇宙の雲間で振る魔のムチにうごかされてでもいるような憑(つ)かれた人々の妄動と不安にみえる。
 その疑心暗鬼を、日がたつほど、いよいよ深めていたのは、尊氏でなく、なぜか直義(ただよし)と、その周囲の者たちだった。
 それには、こういう例などもあったのである。
 細川顕氏(あきうじ)は、さきに尊氏を去って、直義方へ付いた一将だが、嫌いな執事の師直ものぞかれたので、尊氏の許へ、お詫びにと、会いに行った。
 すると、尊氏は、
「降参人が旧臣の伺候を受けるのは畏(おそ)れがある」
 と言って、会わなかった。
 顕氏は、ふるえあがって退きさがったということが、洞院公賢(とういんきんかた)の日記にみえる。公卿にさえ聞えたことなので、一般の武士間にもひろまった話なのであろう。いかに彼らが心底ではなお尊氏を恐れ、そして直義との実力差を、暗に見くらべていたかがわかる。
 直義は焦躁し出した。自分の位置の不安定感が日と共に事実化されてくるのが分り出してきたのである。
 重荷もあった。
 南朝方への帰順と降伏条件の交渉だった。それの懸案も苦しかった。
 だが直義は主張をかえない。
「両朝合体のうえは、どんなお望みも容(い)れましょうが、ただ政権だけは従来どおり、武家へお委せねがいたい」と。
 もしこの一箇条をくずしたら全武士の支持は幕府から去るだろう。直義個人の存立もおぼつかない。
 もとより南朝側の欲するところも、後醍醐いらい変らないそれにあった。もつれるだけで成立のはずはなかった。
 尊氏は、この交渉を、黙って見ていた――。
 北朝の朝廷でも、内々この合体はよろこんでいない。武士に不人気なのはいうまでもなく、直義の姿にはようやく孤立の翳(かげ)がさしかけていた。
 そんな時も時だったのである。尊氏は俄に、
「あれいらい、佐々木道誉は、近江にこもって、義詮(よしあきら)の召(めし)にも応ぜず、ひそかに款(かん)を南朝に通(つう)じて、事をたくらむとの噂もある。奇ッ怪な二た股者」
 と、呼号して、とつぜん、近江へ向って出陣した。兵はそう多くもなかった。しかし、兵を石山寺にとどめて、伊吹の道誉と、即日、何やらしきりと使者を交わしており、どうも事態はただの譴責(けんせき)や合戦に入るもようではないとある。
 それいぜんに、また。
 義詮のそばにいた土岐頼康、細川頼春、仁木義長、義氏、赤松貞範(さだのり)なども、帰国ととなえて、次々と都のそとへ去っていた。――つづいて当(とう)の足利義詮も、陣装して、何の故か、
「播磨へ行く」
 と号し、播磨へは行かず、洛外の東寺に陣取った。
 いってみれば、尊氏義詮(よしあきら)の父子が東西にわかれて、都の出口をふさいだ形でないこともない。――七月二十七日から三十日朝までの急変だった。――直義にぞくする諸将の党が、俄然、大動揺をみせたのはむりもない。
 彼らはぞくぞく錦小路殿へ駈け集まった。斯波(しば)、桃井、上杉、山名、畠山、諏訪、宇都宮など名だたる武将どもである。度(ど)を失ッてはいなかった。むしろ望むところと今日の驚愕を受けとった風でもある。そして即刻にと、直義へ北国落ちの勇をすすめた。深夜の丑満(うしみつ)(午前二時)、直義はついに大原路から京都の外へ落ちて行った。――いや、それらの叛骨と野望しかない武将どもに、拉致(らち)されて行ったとも見える急だった。
 直義の脱走を、尊氏は石山寺の出先で聞いた。そのとき彼は多少の閑(かん)でも心にあったのか。短冊(たんざく)を手に何か書きかけていたが、立騒ぐ周囲を見て「すべては運命というもの。俄に何の用心やある」と、慌てた風もなかったという。すでに予期していたのかもしれなかった。
 それで麾下(きか)の将士はおちついたが、ただ佐々木道誉と尊氏とがこの数日交わしていた懸合い事は何だったのか。むずかしいわだかまりにもみえ、なんの苦もなく解決されたことにも思われ、たれにもそれのみは分らなかった。だが元々、鵺(ぬえ)の道誉の本性は尊氏がよく見抜いてい、尊氏の矛盾だらけな気の弱さや大ざっぱな特質も道誉にすればむかしからつきあい好い男として来たものである。あるいは両者の八百長かと、この交渉を感じとっていた者もないではない。
 疑えばそうとも取れよう。尊氏は報を知ると、
「都はガラ空きか」
 と、苦笑して、
「すぐ引き揚げずばなるまい。直義をかつぐ大名どもにも困ったものだ」
 と、すぐ洛中へ帰ったのだった。直義がとはいわず、直義をかつぐ大名ども――と彼はいう。弟を敵とみるのが嫌なのだ。
「おそらく直義の本心ではあるまい。直義に会ってよく話せ。何が不平か、何が不安か」
 帰京第一に彼が打った手は、細川顕氏を直義のところへ使いにやったことだった。
 が、これはもう遅すぎた。
 覆水(フクスヰ)盆(ボン)ニ返ラズ、というものである。
 どう憎んでも別れても骨肉同士はなお絆(きずな)と本能の苦悶を持つが、周囲には生木(なまき)の裂けた苦痛はなかった。与党の大名らにすればこんどは自分らの一生も賭けた決裂なのである。いちど割れたものが寄って、しいて和解してみても、一たん敵味方と睨(ね)めあった人間の心に入ったヒビは、しょせん、そう一朝(いっちょう)には元のひとつになれないものだという経験もしてきたあげくの再分裂であったのだ。
「おくちに乗ってはなりますまい。諸政はまかせると仰せられながら、執事師直をあのように利用されたことでもわかる。まして今は、義詮殿がいます。何で最愛なものをさしおいて、弟のあなたに、政務や後事(こうじ)を以後お託しになりましょうか」
 桃井直常をはじめ、斯波(しば)高経も上杉定朝も、口をきわめて、直義(ただよし)を諫止(かんし)した。――直義も帰る気はない。すでに越前の金ヶ崎城に入って、自分の行動は遠近にひびいている。また、響きに応じて、加賀の富樫(とがし)、能登(のと)の吉見、信濃の諏訪(すわ)、そのほか、事を好む豪族は、みな彼が尊氏から離れたことを惜しむよりは歓迎していた。
 車軸はもう廻り出している。直義にも制御(せいぎょ)のつかない勢いだった。気勢は正面を切って、尊氏を敵とし、あらゆる布陣と手を打ちはじめた。
 朝廷をそそのかして叡山へ動座をうながし、北朝のみかどを越前へ迎え取ってしまおうなどの策もすすめられたが、しかしこれは尊氏の阻止(そし)で失敗に終った。――尊氏もまたもう状勢を坐視してはいられない。彼は彼のうごきに出ていた。
 八月七日。
 尊氏は、法勝寺の恵鎮(えちん)を賀名生(あのう)へやった。南朝へ降を申し入れた重大な使いであった。
「こは?」
 と、南朝方でも一驚を喫した。尊氏は困っている。内も破れ外も乱脈だ。弟にさえそむかれて絶体絶命な窮地にあると、ここでも観ていたところだが、
「それにせよ、尊氏が?」
 と、この申し出でには、賀名生の朝議も、慎重をきわめた。そして朝議はこれを「拒絶」と決めた。もちろん北畠親房が主唱である。ここにはまだ統率の制が厳として生きていた。親房の手のうちもまた細かい。親房は言ったのである。
「先には直義が兄へ弓を引く名分上、偽って南朝へ降(くだ)った。そのまずさを見ながら尊氏までがまた帰順を申し出てくるとは、よくよくか。または、さしも彼ほどな男だが、そろそろやきが廻って来たか。……いずれにせよ、突っ返してもまた、再三申し入れしてくるだろう。断(だん)は、そのときにしても遅くない」
 使いの恵鎮(えちん)は、事成らず、都へ帰ったが、もうそのとき、尊氏は京都にいなかった。
 地方は地方で、中央の分裂にこたえる谺(こだま)のように、諸所で小合戦を起している。丹波、但馬(たじま)、伊勢ざかい。――その伊勢から甲賀へ打って出た石堂、仁木の党は、直義の党と合(がっ)して、佐々木一族の六角信詮(のぶあきら)を観音寺城に攻めて殺した。――この狂瀾(きょうらん)に尊氏もじっとしていられず、自身、近江へ駈け向っていたものだった。
 八相山(浅井郡)の二日間は、尊氏対直義の骨肉戦が、その皮を切り血を見せだした序戦の衝突として最も凄惨ないくさであり、両軍ともに大きく傷(きず)ついたが、結局、直義の党はやぶれて北へ逃げ退いた。
 この機(しお)に、また和議の声が、いずれからともなく呼びかけられた。
 その声の出どころは、たとえば細川伊予守元氏のごとき侍の声だったろう。伊予守は、
「ばかな血みどろだ。戦場に出てくる顔は、みんな多年の友人ではないか。親しいほどでなくても足利家という大きな屋根の下で一つ釜の飯を食ってきた奴らばかりだ。どうしてそいつらと戦わねばならぬのか。意味はない。畜生の喧嘩だ。おれにはそんな弓は持てぬ」
 と、単独で西へ帰ってしまったのである。そんな武士も居たには居たのであり、しぜん講和の兆(きざし)もあったのだった。
 しかし、概(がい)しては両軍共に「諸将、コレヲ欲(ホツ)セズ」だった。で、細川顕氏(あきうじ)や畠山国清らの奔走で、せっかく直義が敦賀(つるが)から近江の新照寺大御堂まで出て来て、親しく尊氏と和談をとげるまでの運びになっても、それはまた冷たい物別れを見てしまった。――直義のそばに付いて離れぬ桃井直常や強硬なるほかの猛者(もさ)どもが、和議をよろこばず、事ごとに話をくつがえしてしまったものである。
 顕氏と国清とは、それに怒ッて、以後は尊氏方へ、はっきり寝返ってしまった。元々、同身の分裂である、つねに離合(りごう)の定まりもない。
 ことし七十七の夢窓国師が、この九月三十日入寂(にゅうじゃく)した。
 尊氏はそれも近江の陣で知った。半生の導師、直義にとっても貴重な師。
 ひとつの緩衝地帯であった師直が亡くなってからの尊氏と直義の間は、何事もすぐ直接な火花や事の激突となりやすかった。ただ毎々、夢窓国師の斡旋(あっせん)が兄弟(ふたり)のあらそいを解いてくれた。が、そのひとも今はいない。
「…………」
 尊氏は救われざる愚昧(ぐまい)な弟子の身を、陣中で、師の訃(ふ)に詫びたことであろう。あんなにも師の鉗鎚(けんつい)にたたかれてきた禅。毛穴の一つにもそれが体悟(たいご)されていただろうか。恥かしい。
 もう何もかも捨てよう。何もいらない。そう思う。
 業の深いこの一個の凡身などは山林に余生をかくして末は鴉(からす)に食わせてしまうがいい。
 深夜、尊氏はうなされるほどそう思う。だが、昼の陣座は彼をまったくべつな人間にした。むしろ時々彼の胸に忍び入る彼の真実(ほんと)のたましいを、その人間の両脚は摩利支天(まりしてん)みたいに踏ンまえている姿だった。それが征夷大将軍大納言尊氏であり、それに付きしたがっている眷属(けんぞく)たちはまた決して彼の独自な生きようはゆるさない。彼によって死に彼によって生きていた。さらにはまた、世の中をこんなかたちにまで荒した張本人は尊氏ではないかと、彼の虫のいい隠棲(いんせい)のねがいなどは、山林の松柏(しょうはく)もゆるさじと吠え拒(こば)むもののように見えた。そしていつも尊氏の官能にはその怒(いか)れる山林の声が蕭々(しょうしょう)と背に聞えているのであった。
 十月の末である。
 尊氏の願い出た降伏は、吉野朝廷に容(い)れられた。
 三度目の請(こ)いだった。彼は直義のように武家政権を固執せず、天皇親政に服すべしと申し出ている。けだしそれが尊氏の本心とは、南朝方でも信じなかった。尊氏もまたこれは窮極の窮策にほかならなかった。こうした無恥な仮面でも仮面を持つほか今はあがきのつかない破目に彼はあったのだ。
 一方。
 そのごも直義との和談には、つねに心の揺れうごいていた尊氏でもある。
 だが直義は、いよいよ、尊氏の足もとを見くびった。いかにとはいえ、いまさら親政を仰いで南朝の天子に降(くだ)るなどは、頭がどうかしたものである。自分の立てた北朝の天子はどうするのか。第一当初から謳(うた)って来た武家統治の自己の理想は一体どこへしまい込むのか。
「血迷われたか。はや大御所も昔日(せきじつ)の大御所ではない」
 こう観る直義方(ただよしがた)の驕慢は日につのッて、仲に立って、なお和睦(わぼく)に望みをかけて奔命していた細川顕氏(あきうじ)や畠山国清のはからいなども冷視しながら、徐々に、北陸の大軍を、何の目的か、東国方面へ移動させ始めていた。そして直義もまた敦賀(つるが)を発して、信濃に入り、ひがしへ向ったとの風説が高い。
「ああ、もうだめだ。百事これで終った」
 顕氏と国清のふたりは、和睦の不成功に辱(は)じて、尊氏に暇(いとま)を願った。国元へ引っ込んで、剃髪したいというのである。
 尊氏は、二人へ言った、
「羨ましいなあ。そちたちにはそれも出来るか。だが尊氏には、口に出すこともできぬ」と。
 尊氏は一たん京都へ戻った。
 東国への発向を急がねばならない。直義が北陸からひがしへ移動した目的は明白である。鎌倉に恒久(こうきゅう)的な地盤を固めようとするにあろう。もし関東一円が直義方となったら尊氏の中央の位置は浮いてしまう。一大事である。尊氏はめずらしく慌てたのだった。
 いちどは暇(いとま)を願っていた細川顕氏も畠山国清も、このさいの窮状を見てはつい去りも得ず、尊氏と共にその日から難局の打開にあたり出した。
 時に、吉野からは南朝の勅使も入京している。
 勅には。「一切を聖断に仰ぎ、親政に服すとの申し出で、神妙である。一日もはやく時局の騒乱を治めて、忠節の実を挙げよ」と、ある。
 なおまた、直義討伐(とうばつ)の綸旨(りんじ)もあわせて降下された。後村上のおん名である。
 しかし勅の裏には、北畠親房の智謀の匂いがこもっている。尊氏はつつしんで請文(うけぶみ)をたてまつった。親房は尊氏を読み、尊氏は親房を読んでいた。
「義詮(よしあきら)は都の留守せよ」
 十一月十四日、尊氏は、ひがしへ立った。
 細川顕氏と仁木頼章(よりあき)を義詮のため都に残し、あとにも兵をおいたので、その軍勢は多くなかった。今川の入道心省、畠山阿波守兄弟、武田陸奥守、二階堂山城ノ判官、千葉ノ介など七、八千をこえていず、とうてい、勝算があるものとは見えなかった。
 しかし伊吹では、佐々木道誉が兵五千を擁(よう)して加わった。がぜん、万を超えたのである。尊氏に次いで道誉の姿は精彩を放った。海道の日和見武士のうちには、道誉の参陣を見てから寄って来たものもある。彼の向背(こうはい)にさえ注意していればおのずから勝目の孰(いず)れかが分ると自己の去就の卜(うらない)としている武族も近ごろは多かったのだ。
 一面、信濃方面では。
 信濃の小笠原政長が、直義の鎌倉入りを途上に妨(さまた)げ、もう合戦に入っていた。
 その政長の軍は、吉良満貞を討って海道へ伸び、佐夜(さよ)の中山(なかやま)でもまた、直義の先手(せんて)上杉憲顕(のりあき)を打ち破った。
「よしっ、幸先(さいさき)は上々!」
 尊氏は言った。敵は弟である。どうして昂然(こうぜん)とよろこべるのか。しかしもう自己を疑うゆとりはない。勝つことだけがすべてであった。陣は駿河の手越(てごし)に入った。すると駅路(うまやじ)での噂だった。――直義はまだ越前にいて動いていない。京都が危ないという風説なのである。
「嘘だ。流言(るげん)にすぎぬ」
 尊氏は後ろ向きをしなかった。それがほんとなら引っ返しても間に合わぬ。彼は、敵の術策を裏返しに、岡本坊の良円を、はるか東北へ密使に放った。
 常陸の佐竹、野州の小山、白河の結城(ゆうき)、宇都宮などへ、出兵をうながし、北方からの攻囲を命じたものである。
 事実、直義はもう鎌倉に入っていた。そして管領(かんりょう)の基氏(尊氏の次子、十歳)を追い出してそのあとに拠(よ)っていたのである。
 しかし彼の軍は、由比(ゆい)、蒲原(かんばら)で破れ、富士川でも全敗した。直義はついに鎌倉を出、足柄山の険に立った。彼の形相(ぎょうそう)ももう以前の直義ではまったくない。
 直義の敗因は、東国の情勢を中央とおなじように自己の意志で動くものとみていた誤算にある。
 だが、関東諸豪の間では、まだ何といっても、大御所尊氏の声望はそう失墜していない。
 それにひきかえ錦小路殿といっても、恵源(えげん)禅門とか前(さき)ノ副将軍といってみても、直義の名はとうてい尊氏を凌(しの)ぐほどな声威にはなりえなかった。
 これを彼がさとった時は、宇都宮、小山、高麗(こま)などの思わぬ敵襲をうしろに聞き、また甲斐方面や海道筋には、富士川からこっち支離滅裂となった味方のなだれと、それを押して来る尊氏の本軍を見るなど、三方敵の重囲にあったのだった。
 それに、いちど鎌倉を追われた管領勢(かんりょうぜい)も盛りかえして来たし、直義方がいたる所でやぶれたのは当然といってよい。――直義は足柄(あしがら)を駈けくだって海道の救援に向ったが、しょせん、味方の収拾はつかなかった。
「このうえは箱根に拠(よ)って」
 いまはみじめな敗走をつづけ、さいごの拠点(きょてん)を必死にさがし廻る一法師武者直義だった。しかし桃井直常、石堂頼房、上杉憲顕(のりあき)、そのほか、味方は四散したままで、すでに箱根は敵にふさがれていた。
 ぜひなく、直義はわずかな残軍にかこまれて、伊豆へ逃げた。伊豆口の三島(みしま)には尊氏方の仁木義長の軍勢が混(こ)み入っていたので、箱根の西裾(にしすそ)をたどって北条の里(さと)へ落ちのび、小寺や民家にわかれて匿(かく)れ込んだのである。しかしすぐこれが尊氏方へ知らされたことはいうまでもない。
 自刃か。斬り死か。
 観念のほかはない。直義は妄動の愚を知った。
 だが、ここの遠くをとりかこんだ大軍の気配は充分しているのに、急にこれへ襲って来るふうでもなかった。――年暮(くれ)の十二月二十九日からのことですぐ正月をまたいでいたのである。――生殺しの三ガ日だった。仁木義長が尊氏に処置を仰いでいるものだろうとの想像はつく。
 はたして、正月の四日。
 畠山国清が尊氏の使いとしてみえた。尊氏の親書を持っていた。和談の名目で来たのである。
「何はあれ、連れて来いと、先に鎌倉へ入って、お待ちなされておられます」
 と、彼は尊氏に代ってその口吻のままをつたえ、
「これが根からのあだがたきとでもいうなれば知らず、御兄弟ではありませぬか。お話し合いのつかぬことはありますまい。国清がお供いたしましょう」
 と、切になだめた。
 兄弟とは何だったのか。直義はふとその常識的な意味のあり方に引きもどされた自分を強(し)いてまた硬ばったものにしていた。自分から両手を後ろに廻して嘯(うそぶ)くように言ったのである。
「連れて行け。国清」
「いやお縄などは打てません。またそんな御意ではない」
「わしは負けたのだ。だが断わっておく、降人として行くのではないぞ」
「わかっておりまする」
 直義が鎌倉に着いたのは六日である。身柄はすぐ鎌倉の延福寺へ入れられた。

 ただ事の京都ではない。この年暮(くれ)から正月――。
 両朝合一で賀名生(あのう)の後村上天皇が還幸(かんこう)となれば、さしずめ、北朝は解消のほかはあるまい。
 それの前触れのように、南朝方の全権をになって乗り込んできた中院具忠(ちゅういんのともただ)は、
「三種の神器、壺切(つぼきり)の御剣(みつるぎ)、代々の文書(もんじょ)、すべてを差出されよ」
 と、北朝の洞院公賢(とういんきんかた)へ要請して、ことごとく、それらを取上げてしまった。
 元々、ここにあった三種の神器は偽物と知れているので、扱いもぞんざいをきわめ、駕輿丁(かよちょう)の小者や武士らが鳳輦(ほうれん)で無造作にかついで行った――と公賢自身の日記にも書かれている。
 しかし、北朝祗候(しこう)の公卿たちの狼狽は目もあてられない。かれらは同時代の武士のように、変節や裏切りを朝(あした)に夕べにするほどな胆太(きもふと)い厚顔無恥ではなかったが、事、こうなるとじっとしてはいられず。
「いまは」
 と保身にあわてて、年暮(くれ)から初春(はる)の極寒を、賀名生(あのう)の奥へ、そして、みかどの御母新待賢門院(しんたいけんもんいん)へ、とくにまた、北畠親房などへ、ごきげんをとり結ぶべく、われがちに上って行った。
 ために、賀名生の山中は、にわかに聚落(じゅらく)をなして、そこらの辻堂や賤(しず)の小屋まで幔幕(まんまく)を引き、はや一統の朝廷と群臣の綺羅星(きらぼし)はここに在りとばかりな盛観であったという。
 自然、親房の声望は一ばい高く、彼みずからは法衣の宰相で剣も帯(たい)していないが、つねに鬢頬(びんづら)に花を簪(かざ)した大童子を左右にめしつれ、宮中の出入には輦(てぐるま)を用い、日夜、軍議のていにみえる。
 もとより彼は尊氏の恭順(きょうじゅん)などにすこしでも本来の戦意を鈍(にぶ)らせているものではない。相手の偽装降伏は百も知ってのうえの戦略だった。つまり尊氏を東国に、義詮(よしあきら)を京都に、それぞれ分断して同時に誅伐(ちゅうばつ)する両刃(りょうば)のはかりごとを考えていたのであった。
 いわば尊氏と親房とは、どっちも腹を読み合って嘘と嘘との駈引を天下の機動に託しあっていたものであろう。品はちがうが、それは情痴の世界の男女が、女は男を、男は女を、あやに取って、しかも知りつつその間(かん)の嘘も小唄の絃(いと)にのせて、秘術と手くだの粋を極めている境地とも似るといえばいえもしようか。
だまされて
ゐるのが遊び
なかなかに
だますおまへの
手の巧さ
水鶏啼(くひなな)く夜の
酒の味
 けだしそれは人生の夕明りみたいな近世花街の小戯。もちろん親房のは、もっと大時代な兵法の手くだである。虚空(こくう)の軍鼓(ぐんこ)と地の波濤を、坐(い)ながら呼ぶような彼の作戦構想は、例によってすこぶる大きい。
 宗良(むねなが)親王はいま信濃にあり、新田義貞の遺子や脇屋義助の遺臣も、坂東(ばんどう)の野に伏して、時節を待つこと、すでに久しいものがある。
 一令、みちのくの兵も起(た)ち、南下して、尊氏を関東の野につつむ。
 留守の義詮は、畿内(きない)の兵で充分討てる。それに先だって、後村上天皇は賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)を立たれ、都へ還幸の鳳輦(ほうれん)をすすめる。等々、親房の指令は、九州にまでおよんでいた。
 二月に入ると。南朝方の畿内の兵馬が急にそよめき出していた。
 伊勢の北畠顕能(あきよし)の軍は大和の五条に着き、楠木正儀(まさのり)は東条に拠って、八幡(やわた)、天王寺あたりの動きもただではない。
 後村上天皇は、賀名生(あのう)を発輦(はつれん)されたとも、まだともいわれ、いずれにせよその親衛軍を前駆に、近く都門へ還幸あるにはちがいない――
 当然、足利義詮は、尊氏の心をうけて、都の留守にあたっているが、降参恭順の臣である。つつしんでそれをお迎えせねばなるまい。だが南朝の軍勢が、とくに親房が、はたして、それをそっとしておくかどうか。
 義詮は不安だった。
 いざとなってからではまにあうことではないのである。――どうしたものか? を彼は父尊氏の許へ、頻々(ひんぴん)と、早馬していた。
 しかし、その鎌倉がまた混沌で、京都をかえりみている余裕はなかった。尊氏は管領(かんりょう)の邸に入ってもう五十日ほどは経過していたが、一月いらい、心の安らいだ寸刻もない。
 直義方の桃井直常や斯波(しば)、石堂、上杉らの党は、そのご残兵を集めて、延福寺に幽閉(ゆうへい)中の直義の身を奪回しようと計っているし、宮方の新田義宗、義興(よしおき)、脇屋(わきや)義治などの軍は、打倒尊氏の大旆(たいはい)をひるがえして、その郷土郷土からふるい立ち、信濃の宗良(むねなが)親王軍も、ぞくぞく碓氷(うすい)峠を南へくだっているという。
 鎌倉にこそ入ったが、そして直義をも捉(とら)えはしたが、尊氏自身もまた、みずから掘った坑(あな)にひとしい重囲に墜ちていたのだった。
「義詮(よしあきら)が危ぶまれる」
 尊氏は、たまらない親心を、道誉に洩らした。
 一面には直義との相剋(そうこく)を抱え、それみずからの凡情にみずからをズタズタに切りさいなまれている彼の容子が、道誉にもこの数日はあわれに見られていたほどだった。
「即刻、道誉が都へ駈け戻りましょう。すてておけば北畠親房の思うつぼにはまるだけのもの。猶予はなりますまい」
「それよ、そこを頼みたかったのだ。誰をやるよりそちならば心丈夫と」
「しかし、ここのお立場も容易ではないが」
「いや、ゆうべ一夜じゅう考えぬいて、思案はついた」
 自信をしめすように尊氏は語尾をつよめた。伴(ともな)っていた微笑は微笑にならない顔に歪みを作っただけだった。いつも気にならない尊氏のうすいあばたが、一ト粒一ト粒、こんなにも道誉の眼に哀(かな)しく見えたことはなかった。
「打開の御工夫がつきましたとな。いや、それ伺えば」
 と、彼の一軍はその日にもう西へ立って行った。彼には、そのあとに起るであろうことが、どんなことか、ほぼわかっていた。
 そう道誉にも看破(みやぶ)られていた尊氏の気の弱い顔の暗さは翌日までもつづいていた。どこか体の病症でも感じているのか、物に憑(つ)かれた人のようでもあった。そしてこの日も、戦局の危急を告げてくる声はしきりだったが、何か落着きを欠き、それの指令すら忘れているような尊氏だった。
 いつか午後となっている。急に彼は小姓をやって、延福寺の警固の将をよびよせていた。
 呼ばれたのは、二階堂信濃ノ入道であった。彼は、延福寺におかれている恵源(えげん)禅門(直義)の警固役の責任者であり、毎度のこと、尊氏からは直義の起居、食事、健康上の容子を訊かれるのがつねであったから、きょうもそれかとばかり心得て、
「信濃にござりまする」
 と、いつものごとく管領邸の庭へ来てぬかずいた。すると廊の上に見えた尊氏は、黙って顎(あご)を横に振って、すぐ自身から先に縁を歩いて行った。で、彼は少し勝手ちがいに戸惑ッたのみでなく、尊氏のいつもにない恐(こわ)い顔つきも、ふと気にかかった。
 小壺(こつぼ)(中庭)のうちの日当りわるい一室に尊氏はもう坐っていて、信濃を見るとただ一言「……上がれ」という。依然、尊氏の容子が信濃には異常だった。
 それにこの日にかぎって、直義の細々(こまごま)しい日常事(にちじょうごと)は何も問われず、ただひとつ訊かれたのは、
「頑(かたく)なは、あいかわらずか」
 と、尊氏の口から一ト言出ただけでしかない。
 直義の頑(かたく)なと尊氏がいった意味は、信濃にはそれだけでわかっていた。――直義の延福寺生活はもう五十日にもなるが、それは虜将(りょしょう)にひとしい扱いだったので「約束がちがう」と初めから直義の感情をひどくこじらせてしまっている。
 だからそれ以後、尊氏の胸をおびた者が、どんな慰撫(いぶ)をこもごも持って行っても「なにが和談だ!」と、あたまから受けつけもしないのだった。尊氏としては、こんどに懲(こ)りてふたたびこんなことの起らぬような、いわば直義のほんとの出家遁世(とんせい)を強(し)いていたものであったから、直義が承服しないのもむりではない。逆にこれまでの不平をぶちまけて、兄の虚偽、不信、非情、卑劣をかぞえあげ、その罵るときはこめかみに筋をふとらせ狂者にまごうものさえあるとは、使いに立った畠山や今川もいう毎々なことばであった。
 その直義が何としても屈(くっ)しないのは、ただに骨肉の憎悪や甘えだけでなく、なお自分には多くの支持者があることを強く信じていたからであるらしい。事実、尊氏の幕僚中にもそんな気脈がないといえず、機会さえあればいつどんな逆変を現すかも知れないので、尊氏はそれも恐れた。そしてどう自由を奪ってみても延福寺に呼吸している一個の骨肉が何とも不気味でならなかった。しかもその処理は自分を措(お)いてはする者がないのである。
「お変りもございませぬ」
 信濃は答えた。
 充分な答えでないのは彼も承知だろうが、家臣として、多くは口にし難いものらしい。
「信濃……後ろを閉めて、もそっと寄れ」
「はっ。……?」
 あとは、主従の声の端も聞えなかった。しかし、それもそう長い間ではなく、まもなく信濃は小壺を退がって、管領邸を出て行った。
 まだ夕陽は高く、途々、彼の姿へ会釈(えしゃく)する者もまま多い。だが信濃はそれに気がつかないのか、往々(おうおう)、ぽかんとして馬をやっていた。何か尊氏の憑(つ)き物(もの)を彼が背負って帰ったふうにも見える。――そしてその晩の真夜半すぎ、信濃は、ふたたび尊氏の寝所の小壺へ這うように忍び入っていた。
 尊氏はまんじりともした容子でなく、信濃ノ入道が中庭に来て立った気配を知ると、すぐ寝所を抜け出して外に立った。
 当然、宿直(とのい)たちの影がすぐ「……あ、どちらへ?」と、あとを慕って来そうにした。信濃は彼らの怪しみ顔を、叱(し)ッと抑(おさ)えて、
「御危篤(ごきとく)なのじゃ」
 そして、もう一ト言(こと)。
「俄なことでお気もそぞろだ。なまじお供はせぬがよい」
 表御門でも彼はおなじことを触れ、そして門外の駒に尊氏を乗せるやいな駈けだした。
 靄(もや)のやわらかな春暁(しゅんぎょう)だが延福寺の屋根の下はまだ夜半の気配だった。墨(すみ)のような長い廊下を途中で曲がって小さい灯が一ツ風に恟(お)じながらおどおど奥へすすんで行く。かがみ腰に信濃が持っている紙燭(ししょく)であった。
 立ちどまる。
 信濃は尊氏を振向いた。
「ここでござりまする。ここが長の間の、お座所におざりました」
 そして御堂建具(みどうたてぐ)の重たい遣戸(やりど)を二尺ほどそっと開けた。
 尊氏は無言のまま紙燭を受け取って「外にいよ」と命じ、また「そこを閉めよ」と言った。内は天井の高い中広間(ちゅうびろま)で、小さい灯影の及ぶところ、何もない。
 ただ白い夜具(よのもの)と白い枕とが、しいんと、虚空(こくう)の底の物みたいにあるにはあった。枕は落ちて、行儀を外(はず)し、衾(ふすま)はその下に何もないかのようで平(ひら)べッたい。
「…………」
 何か言ったのではあろう。尊氏の眉も唇も稲妻(いなずま)のように引ッつれた。だが、膝の関節がささえきれずにその体を先に崩(くず)してしまっている。そしてふるえる手がもう意志でもなく夜具の襟(えり)を剥(め)くっていた。下に、顔があった。変りはてた直義(ただよし)の青白い顔だった。唇の端(はた)から糸のような血は見えるが苦悶したらしい痕(あと)はない。ただ落ちくぼんだ眼窩(がんか)のへんには、なお四十七歳の肉体から袂別しきれぬかのような生の執着が薄青ぐろく煙っていた。
「しかたがなかったのだ、こうするよりほか!」
 おまえが悪いのだと弟へ怒(いか)ッているような尊氏だった。自己への怒りと呵責(かしゃく)なのかもしれなかった。そう言ってふとんの端を手から離して、もう二度と見る勇気も別れの惜しみもないようにその手を憮然(ぶぜん)と胸に拱(く)んでしまった。ゆうべ信濃をして弟に鴆毒(ちんどく)をのませたのは兄の自分である。責められるだけ責められよう。尊氏は首をふかく垂れ、自分に許容できるかぎりの罪のしもとを滝の下の一裸身(らしん)みたいに浴びていた。涙は一滴も出なかった。しんしんと、肉が凍(こご)え、骨が冷え、五体もばらばらになり、その極(きわ)みには、かっと熱くなって、血があたまへ逆流するのが分ってくる。
「つまりは、ひとでなしよ」
 自分を嘲(わら)って、
「そもそも、ひとでなしでなければ、成就(じょうじゅ)もせず、思い立ちえぬような大望をいだいて立ったのだ。いまさら何を」
 と、しいてその眼を、壁の一方へそらした。
 脚長(あしなが)の香炉台(こうろだい)のうえに、床間掛(とこのまが)けの横物が見える。尊氏は紙燭を手に立って顔をよせた。その一、二行(ぎょう)でもすぐわからずにはいられない物である。家祖(かそ)家時からの鑁阿寺(ばんなじ)の置文(おきぶみ)だった。
 尊氏は灯をかざして「はて?」と壁の掛物(かけもの)にむかいあった。
 これが鑁阿寺の置文なら、世にありえない物があることになる。むかし、鑁阿寺の秘篋(ひきょう)からとり出して実物を一見したとき、彼はすぐそのあとで、焼きすててしまっている。あるはずはない。
 ところが近年、それを錦小路の邸で見せられたという者がままあった。今川了俊(りょうしゅん)も言い、二階堂や山名なども見たという。思うに、鑁阿寺(ばんなじ)から副本(写し)か何かをとりよせ、直義がひそかに愛蔵して、一味の重臣に誇り語っていたものであろう。
 尊氏はそう解釈してみる。
 そしておそらく直義は、戦陣の日も、これを肌身に持っていて、ここの延福寺では、寺僧か誰かに、掛物に仕立てさせ、朝夕、壁にかけて見ていたのではあるまいか。
「……いや?」
 そうではないかも知れぬとも思う。直義はこれを用意しておいて、自分が延福寺へ見える日を、いつかはと、ひそかに待っていたのではないか。
 家祖家時公の置文を前に、この尊氏へむかって、大望の初志から、兄弟(ふたり)して旗上げにいたるまでの苦労や誓いを「――いまはお忘れか」と大いになじるつもりでいたものとも思われる。
 まさに、この置文の前で、弟に面罵されたら、一言もない。――その遺言(ゆいごん)は告げているのだ。わが辱(はじ)を雪(すす)げ。わが家の家名を上げよ。また、足利家の名をもって北条の幕府に代れ、と。
 家に伝わる家祖のそんな遺言があるのを知ったのは、当時、兄弟(ふたり)ともまだ二十歳(はたち)がらみのころだった。茫々(ぼうぼう)、三十年ぢかい前だった。
 若い激血は祖先の悲痛な文字にふれて痛涙したものである。異常なそのときの感奮は長く忘られるものではない。大望の誓いに兄弟(ふたり)で抱き合って泣いた日のことも昨日のごとく覚えてはいる。
 ――しかし三十年のむかしだ。人間は育って行った。理想と現実とのいかに違うものかを、いやというほど社会の修羅の中で、じっさいに知らされてきた。
 置文は、彼にとって、動機ではあったが、もう終生の信条ではなくなっている。置文の主(ぬし)が生きていた時代とは時勢そのものがちがっている。尊氏はとうに置文を越えた“時”の尖端(せんたん)に立って現在と未来の間に戦っていた。古くさい置文などは胸の隅(すみ)にも持たない時代の権化(ごんげ)なのである。
「……が、弟は」
 たまらない憐愍(れんびん)がわいて彼はまた直義の枕元に坐り直した。弟は自分のように狡(ずる)くなかった。なお置文をたましいとして持っていた。自分はとうにただの古文書(こもんじょ)としていたものを、弟は純な初志と信条を離そうともしなかった。兄弟(ふたり)の葛藤(かっとう)の根はそこから来ている。そこで毒を呑ませて根の一方を兄たる自分が殺したのだ。ひとでなしでなければ出来ない。そしてまた、これからかかって来るであろう一生の仕事もまた、ひとでなしでなければ出来ない。それが尊氏の宿業(しゅくごう)なのだ。「……かんべんしてくれ」と、彼は初めて、直義の薄べったい体を、白いふとんの上から抱きしめた。若き日、口喧嘩のあげく、大蔵山の崖で取ッ組んだあとで泣き合ったときのように体じゅうで慟哭(どうこく)した。
 夜が白む。尊氏は、そっと帰った。彼が延福寺へ来たことも帰ったのも、警固のほとんどは知っていない。
 信濃ノ入道はすぐそのあとで、直義の遺骸はきれいに処理させてしまった。そして同朝、寺門のまえに兵を集めて、こういう発表を行った。
「恵源禅門(えげんぜんもん)直義公には、かねがね黄疸(おうだん)をわずらわれていたが、昨夜、事俄におかくれになった。お年もまだ四十七。惜しいことであられた」
 兵はしゅんと聞いていた。
 が、だれもがすぐ思い出していたふうである。昨夜といえば二月十六日。――前年の同じ二月十六日には、高ノ師直、師泰以下が武庫川堤で惨殺された。その一周忌(いっしゅうき)だ。妙な符合(ふごう)もあるものだ、と。
「因縁(いんねん)。おそろしいものだな」
「因縁といえば、建武の年、直義さまが大塔ノ宮を殺(あや)めさせたのも、所はこの鎌倉だった。ここでお果てなされるとは」
 衆口(しゅうこう)は、やがて言い出した。
「ただの御病死ではない」
「毒殺だ。無残な殺し方もなしえず、兄君の将軍家に一服盛られたものらしい」
 こんな声が立つ所にも、尊氏と麾下(きか)の軍そのものとの内部的な亀裂が見える。直義党の残党と通じて、いつ寝返るか知れない者が、なお鎌倉の内にはいる証拠と見てよい。
 尊氏はそれも知っている。彼は憔悴(しょうすい)しきっていた。毒を呑んだのは尊氏自身であったようだ。
 京都の留守も気がかりだし、外には大敵がせまっている。新田諸党のみか、北畠顕信(顕家の弟)の奥州勢も、はや白河辺まで来たと聞え出していた。
 閏(うるう)二月のすえ。
 尊氏はついに鎌倉を捨てた。
 三浦高通(たかみち)や二、三の武族は、はたして、内から敵を迎え入れて、尊氏を外へ追った。――尊氏は武州の神奈川へ落ちのび、船で房総へ渡ろうかとまでの覚悟をしたが、なお彼を慕ってくる軍はあとを絶たず、仁木、今川、大高、二階堂など京都いらいの将士二、三千は集まった。尊氏はそれに力を得、多摩の府中へ進出した。しかも兵は日々ふえて行った。尊氏の名はまだ東国でそう落ちぶれてはいなかった。
 しかし、新田義宗(義貞の三男)の大軍とぶつかって、尊氏はその序戦に惨敗した。金井、人見の原の合戦にもやぶれた。こんなとき、彼はさいごの物までは賭けない。陣を石浜(青梅線の多摩川原)に移して、甲州、相模、武蔵の兵をさらに糾合(きゅうごう)した。そして次の戦略を慎重にした。
 このあいだに、宗良(むねなが)親王の大旆(たいはい)は、碓氷(うすい)から武蔵の小手指(こてさし)ヶ原(はら)に着き、新田義興(よしおき)(義貞の二男)と脇屋義治(義助の子)を両翼とし、ほとんど武蔵野を風靡(ふうび)していた。
 が、尊氏はこれを、数日のまに、討って討って撃(う)ち破った。
 奥武蔵の高麗(こま)一族をしてその背後を驚かせ、また芳賀(はが)貞綱の勢を川越から。武田、薬師寺の軍を狭山から。およそ三面から総がかりで寸断したものとおもわれる。
 この一戦は「太平記」に“笛吹嶺(うすいとうげ)ノ合戦”として有名である。だがほんとは、多摩、入間、高麗(こま)の三郡にかぎられた地域の戦いであった。碓氷(うすい)峠や三国峠はただ宮方勢が敗走して行った山波の彼方であったまでにすぎない。
 すべて東国各地の戦いも、その令は、吉野の軍師親房から出ていたものにちがいない。
 しかし令使は遠すぎる。受ける方ではどうしても、準備不充分な急出動となりやすい。
 そうとでも解釈するほか、武蔵野の場合では解きようのない宮方の大敗だった。これで関東における計画はまるつぶれとなった形である。はるばる来た奥州勢もむなしく途中で引っ返してしまい、新田、脇屋の諸党も四分五裂、とくに宗良(むねなが)親王の軍は、碓氷の彼方へ、遠くその残影を再びひそめてしまった。
 この宮こそは、好まぬお手の弓だった。いつか四十二のお年を風雲の中にかぞえられたが、自著「李花集(りくわしふ)」の歌のかずかずにも窺(うかが)われるように、性はまったく文雅なおひとであった。信濃では「信濃ノ宮」と人みな申し上げて、大川原の香坂(こうざか)高宗の館(たち)に多年お身をひそめておられたのだった。
 信濃国大川原の深山(みやま)の中に庵(いほり)して住み侍(はべ)りける谷間(たにあひ)の月をみて〔李花集雑〕
いづ方(かた)も
山の端(は)近き柴(しば)の戸は
月見る空や
すくなかるらむ
 けれどこんな御生活の許へも、一朝(いっちょう)、吉野の軍令が来れば、宮は征夷府大将軍として馬上兵甲のあいだに伍(ご)し、即刻、庵を立たねばならなかった。――可惜(あたら)だが、尊氏の下の必死な将士に蹴ちらされたのもむりではない。まったく宮の責(せ)めではない。
 かつてお若い頃、お父ぎみの後醍醐の難に累(るい)せられて、讃岐(さぬき)へ流されてゆく途上、加古川で船を待つまに、兼好の弟子の命松丸から、ふところ飼いの仔雀をもらって、たいそう慰められたことがある。
 あんなあたたかなものを、そのごの宮は、いちどもふところにお持ちになったことはあるまい。――ともあれ、その年の武蔵野合戦で、手いたく打ち負かされた秋、宮は香坂高宗らのしきりに留めるのも振りきって、飄然(ひょうぜん)と、狩野介(かのうのすけ)ただ一人を供に、木曾路から美濃へと旅立たれた。
 おそらく、吉野へとのお心であったのだろう。けれど、途上の兵騒、とても吉野へは近づけないので、東海に出、諸国を漂泊(ひょうはく)されたのち、幾年もたって、また越後信濃にもおられたりして、地方的な小合戦に、お名をうたわれることはあったが、馬上の宮は、もうふたたび見られなかったといってよい。漂泊の旅に詠(よ)まれた一首には、
暫(しば)しだに
吹かぬ間もがな
風の上に
立つ塵(ちり)の身の
在(あ)りか定めむ
 という歌もあり、漂泊が宿命のような御一生だった。――晩年、「新葉和歌集」を奏進しておられるので、弘和元年、七十一歳まで寿(じゅ)をたもっておられたことだけはたしかだが、おかくれになった土地さえよく分っていない。河内の山田とも、越後か信濃とも、遠江国の井伊谷とも、諸説まったく、とりどりである。
 ところで、話をもどして、武蔵野合戦の大勝は、尊氏にとって、まさに死中に活をえたものといってよい。
 彼は、鎌倉を取り戻した。鎌倉じゅうの敵を追って、元の管領邸におちついた。けれど、この頃からとかく彼の健康は、これまでのようでなかった。

 そのご、京都の留守をしていた足利義詮(よしあきら)のうえにも、大困難がおこっていた。
 かねて。予定のこととして。
 賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)を発輦(はつれん)していた後村上天皇は、住吉、天王寺などを経て、閏(うるう)二月二十九日、八幡(やわた)の男山に入(はい)られた。
 南朝の天皇の還幸は、降伏した幕府代表の義詮としてはどうしようもなく、ただ奉迎の畏(かしこ)みでいたのである。ところが鳳輦(ほうれん)が八幡に着くと同時に、およそ七、八千騎の軍勢がどこからともなく来て、夜のうちに洛外をうずめ、それらが一せいに旗手(はたで)を解いて朝空にひるがえしたのを見れば、北畠顕能(あきよし)、千種顕経(あきつね)、楠木正儀(まさのり)、和田、越智(おち)、神宮寺など、いずれも南軍の精鋭であらぬはない。
「すわ……」
 と幕府方では、目に見てからの立ち騒ぎだった。
 義詮(よしあきら)の若さ! 輔佐の家臣たちの間抜けさかげん! ともいえばいえる。
 けれど義詮としては、多少、事前にいぶかられる兆(きざ)しもあったので、法勝寺の恵鎮(えちん)を先に行宮へやって、朝意を伺わせるなどの、ていねいな手順をふんでいたのである。そしてつい前夜までも、男山から帰って来た恵鎮の報告に、安心しきっていたところだったのだ。
 何をするひまもない。
 あっというまに、加茂川原も市中の辻々も、どっと混み入ってきた南軍の兵馬に駈け荒らされていた。
 迎え撃つのがやっとで、幕府の侍所預(さむらいどころあず)かり細川頼春さえ、身によろいを着けるひまもなかった。白袷(しろあわせ)と素袴(すばかま)のままで裸馬に騎(の)り、足なみも揃わぬ将士の指揮にあたっていたが、たちまち、むらがる敵の中で斬り死にをとげてしまったほどである。そのほか諸所の狼狽の状にいたってはいうを俟(ま)つまい。
 義詮は、細川顕氏や仁木義章(よしあき)にまもられて、やっと、京都のそとへ逃げ走り、やがて近江の四十九院(しじゅうくいん)(犬上郡)までたどりついたとき、はじめて、ほっと、おちつきを取りもどした。そこで佐々木道誉の、あの物に迫らない顔の黒子(ほくろ)と微笑とを見たからだった。
「いや、京都などはいつでもまた奪(と)り返(かえ)せましょう。大御所にもこれはお分りになっていたことで、そのため、道誉に帰れと命ぜられて、とくに近江を固めていたものです。深い御憂慮にはおよびませぬ」
 以後の道誉は、義詮をたすけて、大いに兵力の挽回につとめた。義詮の執事は自然、彼となっていた。このあいだの義詮の生殺与奪(せいさつよだつ)は一に彼の手の中にあったといってよい。
 が、ここに。
 逃げるにも逃げえられず都におきのこされていた御一家がある。北朝の皇室だった。
 そのご南朝方では、ただちに北朝の光厳、光明、崇光(すこう)の三上皇と皇太子直仁(なおひと)とを、そっくり人質として八幡に囚(とら)え来(きた)って、三月早々、河内の東条へ移し、後にまた、賀名生(あのう)の山中に連れて行ってしまった。
「はや、事は半ば成就(じょうじゅ)した」
 と、見たか、総帥(そうすい)の親房は、やがて自身、京都へ乗り込んでいた。そして第二だんの急務として、義詮(よしあきら)の追討に全力をそそぎかけたが、時にもう近江の義詮は、早くもその軍力をあらたにして、逆に、京都に進撃してきた。
 義詮がにわかに勢力をもち直した背後には、親の光というものがなくはない。尊氏が関東で勝った影響というべきだろう。京都を見下ろす東山のみねには、夜ごと兵のかがり火がふえていた。火の線は長楽寺、双林寺、阿弥陀ヶ峰の端までつらなり、四月に入ると、天を焦がすばかりになった。すべて近江から潜入した義詮の軍だった。
 こうして、わずか一ト月のうちに、ふたたび、
 宰相(さいしょう)ノ中将義詮
 の名が京都を圧してくると、阿波から細川の一手勢が住吉に上陸し、いちど南朝に降っていた赤松則祐(のりすけ)までが、またそむいて義詮に応じるなどの逆転を、南朝方は次々に迎えだした。
「退くしかない」
 親房の大きな計画も今は彼自身、その失敗をみとめないではいられなかった。
 計画が悪かったわけではない。失敗の原因は、味方がみな遠隔であり過ぎていたことにある。九州、みちのく、信濃、新田諸党も、急には上洛できない条件の地にあった。しかもそれにしては、伊勢、畿内(きない)の兵力だけで余りにここは手薄すぎた。
「ひとまず、男山を砦(とりで)に」
 と、洛中の南軍が八幡(やわた)に退くと、義詮は時をおかず、本陣を東寺へすすめた。そして細川頼之(よりゆき)の一手を洞(ほら)ヶ峠(とうげ)へまわして、八幡の糧道を断った。
 佐々木道誉は、始終、彼のそばにいた。細川、土岐、赤松、仁木の諸軍を督(とく)して、八幡をかこんだ。岩松頼宥(らいゆう)や山名時氏が来会したのもこの前後であり、義詮の陣営はいよいよふるった。そのうえ敵がわからの投降兵もたえなかった。「なんで投降して来たか」と訊くと、兵はみな「食えないからだ」と一致して言った。
「もう、いいでしょう」
 と、道誉は総攻撃の機(しお)と見て義詮にすすめた。
 五月十一日の夜だった。
 男山行宮(あんぐう)をめがけて、足利勢万余の将士がときの声をあげた。ふもとの寺坊や社(やしろ)などを焼きたてたので、山はそのまま山なりの炎になった。後村上天皇は、北畠顕能(あきよし)、名和長重(長年の子)らにまもられて、からくも河内野へ逃げ走られた。――この夜また、お味方の熊野の湯河(ゆかわ)ノ荘司(しょうじ)が寝返ったので、南朝方はいちばい混乱を大きくし、天皇についていた四条隆資(たかすけ)、三条中納言、頭(とう)ノ中将且忠(かつただ)、参議ノ実勝(さねまさ)など、みな途々、矢にあたったり名もない葉武者にかこまれて屍(かばね)を野にさらしてしまった。
 後村上天皇は、馴れぬ馬で、やっと、敗走兵の中に駈けまじりながら、朝がた、奈良まで来たが、
「みかどは?」
「天皇は」
 と、ここで急に同勢がかえりみ合っても、どれが後村上やら分らず、やがてのこと、おん直垂(ひたたれ)のまま、鞍に錦で包んだ筥(はこ)をお置きになっているのが、天皇だとわかって、初めて警固の隊を組むような有様だった。
 それから先は、楠木正儀(まさのり)たちが守護して、ともかくお身だけは無事に賀名生(あのう)へひきあげられたものの、なんと儚い京都還幸の希望だったことか。――親房の大計画も、わずか百日のお夢を帝にささげたのみで、むなしくここに終ったというしかない。
 南朝がたの望みも画餅(がべい)に帰して、賀名生はまた元のみじめな山中宮廷に返ってしまったが、より悲惨なのは、ここに拘置(こうち)された北朝の三上皇と皇子らで、それは、
 朝廷が朝廷を。
 天子が天子を。
 囚(とら)えて捕虜としたことでしかなかった。一系の根も血も一つの、金枝玉葉(きんしぎょくよう)ではあったのに。
 しかし北朝の皇室を見る南朝の憎しみはどうしようもなかったであろう。囚われの上皇光厳(こうごん)、光明。また崇光天皇は、南朝の廷臣らの詰問に、こう涙して弁疏(べんそ)したということである。
「もとより、即位は朕(ちん)の志ではなかったのです。また即位してからでも、諸政一事として、朕の意(こころ)から出たことはない」と。
 なにしろ、ひどい待遇であったらしい。「吉野拾遺」によると、黒木の御所の荒壁もあさましいばかりな上に、茨(いばら)やからたちの木をすきまなく植え込んだ中に押し込められていた、とある。
 梶井(かじい)ノ宮尊胤(たかたね)親王も囚われていたが、夜、警固の武士のすきをうかがって、どこへともなく脱走してしまった。――また、光厳上皇は、このさい髪をおろして、以後は一切、世の外にと、かたく御心にちかわれたという。
 すべてが惨だ。あわれでないものはない。
 それにつけても、北朝の方々を、こんな憂き目にあわせた責任者は誰か。いうまでもなく義詮(よしあきら)だった。いや尊氏でなければならぬ。尊氏こそは、根本の責任者だろう。
 従来、
「皇室への畏(かしこ)みと、朝廷を大事と念ずる誠意とは、自分とて決して人後におちる者でない」
 と、よく何かのばあいに彼が用いていた言葉も、いまはみずから放擲してみずから自己の非を暴露したもので、ただ巧みに皇室を利用して来たものといわれても、尊氏自身、弁解の余地はあるまい。
 が、これは尊氏や義詮の誤算であった。これほどまでに、南朝がたの北朝処理が、峻烈に出て来ようとは、予想しえなかったところからの手落ちであろう。もし予想していたら事前に方法もあったはずだ。
 ともあれ、尊氏は困った。自分の奉ずる帝室がそっくり賀名生(あのう)の捕虜となってしまっては、どうしようもない。
 彼は、あらたな苦慮をまたかさねていた。いまや北朝は空位空名でしかない。しぜん幕府も自己の立場も空疎(くうそ)なものに浮いてしまう。
 八月。
 彼は鎌倉から使いをやって義詮(よしあきら)に策をさずけた。
 光厳院の第三の皇子、弥仁(いやひと)親王(十五歳)を、しいて皇位に即(つ)けたのである。
 御母の広義門院は反対で、初め、どうしてもお許しになるみ気色でなかった。それを幕府は力で迫り、公卿の一条経通(つねみち)や二条の関白良基(よしもと)らも、古例や先例や、いろんな理窟をつけてついに、北朝の後光厳天皇として、践祚(せんそ)を見るにいたったものだった。
「受禅(じゅぜん)(皇位譲渡の式)もなく、上皇の詔(しょう)もなく、また神器もここにありませんが、尊氏は剣です、良基(よしもと)(二条関白)は璽(じ)(印)です。これを神器とすればよろしい」
 と、良基はいったという。まったく前例も無視して強行された天皇の誕生だった。
 義詮は、京都に。
 尊氏は、遠く鎌倉に。
 この変則的なかたちはほぼ一年の余つづいた。
 ところがここへ来て、九州の足利直冬は、南朝からうけた綸旨(りんじ)を名分に、正平八年の夏、大挙して都へ攻めのぼってきた。
 おそらく、鎌倉で毒殺された直義(ただよし)のことは、彼をいからせ、彼を一ばい奮然と蹶起(けっき)させたにちがいあるまい。
 実父の尊氏よりは、直義こそほんとの父だとしている直冬なのである。そのひとの遺志をついで、南朝方に降り、尊氏や義詮を敵として誅伐(ちゅうばつ)するのが何の不思議であろうやと、豪語を放ったことであろう。
 南朝軍は、もちろんこれに呼応して、直冬と共に、京都へせまった。――義詮は防ぎきれず、新帝の後光厳を奉じて、美濃へ落ちた。九月である。すでに、尊氏も変を聞くやいな、鎌倉を発足していた。
 けれど軍旅の尊氏は、美濃の垂井(たるい)ノ宿(しゅく)まで来て、ここで後光厳に拝謁をとげると、二十日ほども陣中で寝こんでしまった。医者も病名のつけようのない病気であった。去年いらい、食はすすまず、怏々(おうおう)とつねに楽しめない色なのである。一年半ぶりに父に会った義詮は、父の顔からあの茫(ぼう)として大どかなまろみが、無残に削(けず)りとられているのを見て、心のうちでぎょっとした。
「この残暑で、軍旅がおこたえになったのでしょうか」
「いや。もすこし、物が食えさえすれば何でもないのだ」
「関東での御苦労など、深くお察し申しあげまする」
「何、たいしたことではない」
 そして、いった。
「張合いもなし、力も出ぬ戦だが、さりとて、直冬という魔の申し子みたいな奴を、都にのさばらせておいてよいものか。あしたはここを立とう」
 あきらかに尊氏は病苦をこらえているふうだ。けれど止めてもきくまいし、また留まっていられる時でもない。軍旅は急調を加えて行った。そして月の末には、京都へ突いて入った。
 南朝ではその間(かん)、直冬を“総追捕使(そうついぶし)”に補(ほ)して、尊氏討伐の宣下(せんげ)まで与えて鼓舞(こぶ)していたが、直冬はもろくも京都をすてて山陰の石見(いわみ)へ逃げ落ち、そこでまた諸国の直義党を糾合(きゅうごう)し、他日の大挙をもくろんでいた。
 尊氏は、高倉の邸に入ってやっと療養につく暇をえた。しかし母の清子は康永(こうえい)元年の十二月に病歿しており、妻の登子(とうこ)や女(むすめ)の鶴王(頼子ともいう)は丹波へ難を避けさせておいたのでここにはいない。あたかも他人の家のような空漠が久しぶりの主人をくるんだのみだった。
 そのうえ、彼がまたなく可愛がっていた鶴王が、その冬、亡くなった。尊氏は、それを聞くと、病床ですすり泣いた。こんな父は見たこともないので、義詮(よしあきら)は父の変化と体の方が気づかわれ、日ごと高倉を見舞って、とかく政務も軍務も手につかなかった。
 すると、翌年の四月。
 南朝方にも不幸が起った。棟梁(とうりょう)の臣、北畠親房の死であった。この南朝の柱石とも見られていた人の死は、賀名生(あのう)の行宮(あんぐう)を悲しみの底につき落したのみでなく、世上へも敵味方ない哀傷の感をつよくひびかせた。
 親房の死を聞いたとき、尊氏の心はありのままにこう疼(うず)いた。
「もう南朝方には、恐るべきほどな人はいない」と。
 が、それは敵の悲しみを僥倖とするだけでなく、彼自身の心身もばらばらになっての気落ちと共にうめいていたのである。
 彼にとっての親房は、夢にまでみる強敵だった。軍(いくさ)にかけ謀(ぼう)にかけ、始終、あの一禅門には抗しえぬ威圧感と翻弄(ほんろう)の受け身におかれていた。何よりもその親房には、学識と思想があり、武力に理論づけ、武士を思想の下に統御していた。自分には、それがない。
 また、いつも親房の手のこまかさには、奔命に疲らせられた。直義と師直との衝突も、それいらいの直義の変り方も、なお先頃、義詮(よしあきら)と自分とを遠くに分離して、東西、個々に撃とうとした計なども、みな親房の方寸(ほうすん)から出ていたものだ。
 そして、それとはこっちも看破(みやぶ)って親房のウラを掻くつもりでは、またいつも尊氏は、自身を泥沼にのたうってしまう破目をまぬがれなかったものである。――だのに、その恐ろしい人物もいまは南朝方にいなくなったと知ると、彼は、その強敵を敵として、無残にまでつよく自己を生かして来た大きな張りを失っていた。淋しさに似る虚(うつろ)の下から、
「……死んだか」
 と一言、つぶやいた尊氏だった。
 尊氏はしかし、以後はなお繁忙だった。
 南朝方では一時、愁然としていたものの、決して戦意は沮喪(そそう)してはいなかった。九州の菊池党は、健在であり、いちどもその初志を変えていない。征西ノ宮将軍(懐良(かねなが)親王)の旗幟(きし)は筑紫(つくし)を圧している。
 そのうえ、ちかごろ、尊氏方の大族、山名時氏父子が、佐々木道誉と不和をかもして、南朝方へ奔(はし)ってしまった。
 山名の本拠は但馬(たじま)である。――さきに石見(いわみ)に落ちていた足利直冬(ただふゆ)とむすび、伯耆(ほうき)、出雲の兵をあつめて、それはたちまち、京都をおびやかす一団の疾風雲(はやてぐも)になり出していた。
 佐殿方(すけどのがた)(直冬の称)
 と、この雲は呼ばれた。
 佐殿方には、自然、さきの直義党の残党はみな加わった。桃井直常、斯波(しば)高経らも北国の兵をあげて応じ、またも京都は、あやうくなった。
 尊氏は、義詮(よしあきら)へ、
「洛中の兵をみな引っさげて播磨へ向え。遠国の味方を待っていては間にあわぬ」
 と、すぐ急がせた。
 そして彼自身も、さきの例があるので、やがて新帝の後光厳を奉じ、われから京都を捨てて出、近江の武佐寺(むさじ)で、その年の正月をこえた。
 尊氏は、自身の健康をいつか意にもしなくなっていた。運命が彼を引きずり廻し、皮肉な健康をしいて彼に授けていたのだ。しかし彼をめぐる諸将は「めっきりおすこやかになった。また一ト頃よりもずんとお肥(こ)えになられた」といって祝福した。一個の大器が、百戦百難の風雪を凌(しの)いで、年もようやく五十路(いそじ)に入り、いよいよその風貌にも年輪(としわ)の威を加えてきたものとみな頼もしく見ていたのである。

 しかし尊氏は変った。わけて直義の死から後において著(いちじる)しい。
 何事によれ大ざっぱで、人まかせで、大局はよくつかんでいたが、つねに茫洋(ぼうよう)と見える彼だった。ぜひなく陣頭に立つときでも、不利と見れば見得なく逃げるし、すすんで乱軍の中を馳駆(ちく)するような猛将ぶりは彼にはなかったことである。
 その彼が、近来は往々、将士のさきに立って大童(おおわらわ)な働きを見せ、血に染んだ赤い陣刀を肩にかついで、体じゅうで息をはアはアいわせながら引き揚げて来るようなこともしばしばだった。
 いや、こまかい政令や賞罰のことなどでも、病床の日でさえ、みずからびしびし裁決をくだし、その命じ方がまた、ただならず気短だった。かつてのような悠々たる風(ふう)ではない。
 師直も今はいないのだ。
 直義も亡くなった。
 左右の手を失ったにひとしい寂寥(せきりょう)がひしとそこにはあるのであろう。師直に代る者、それはいない。直義に代る者、なおさらいない。人は多いが、残っているのはみな犬と猿だ。ひとり佐々木道誉の名はいつも彼のあたまにあるが、しょせん、腹から心のゆるされる男ではない。
 しかも、義詮はまだ若年(じゃくねん)だ。
 あれこれ周囲と将来を考えると、彼は、自分という者を置き換えずにはいられなくなってくる。一日も早くその義詮を次代の将軍にすえて、幕府統一を固めておかねばとするあせりがつのッた。それに自分もいつか年は五十をまたいでいる。
「顕氏(あきうじ)」
 武佐寺での尊氏は、油幕を引いた大庭に床几をおき、朝も昼糧(ひるがて)も、粳(うるち)に味噌をつけたような物を床几のままで噛(かじ)っていた。
「叡山はまだ、うんといわないのか」
「はっ。再度のお使いも、今もって戻らず、何の早馬もないところを見ますと」
「よい条件を申しやってあるものをな。なぜだろう、即答を渋るのは」
「いまだに、天龍寺造営のいきさつを、恨みにふくんでいるのではありますまいか」
「ばかな」
 と、癇気(かんき)をたてて。
「では、直冬(ただふゆ)へつく気か」
「いや、佐殿方(すけどのがた)への加担も拒んでいるということではありまする」
 しばらくすると、彼はまた、畠山国清をよんで、
「きのう今日の軍兵の着到を見せい」
 と、簿(ぼ)を取寄せていた。
 管領の基氏が派してよこした東国勢やら、美濃の土岐、信濃の小笠原など、諸国の兵は毎日のようにここへ着いていた。その数は武佐寺の内外にあふれて、すでに万をはるかにこえている。
「よし。叡山の返答など、気永に待っているにおよばん。明日は東坂本へさして進め。ただし湖上で、後光厳のきみに、お風邪をひかすな」
 あくる日。後光厳の御船をかこむ一軍は湖上を行き、大部分の兵馬は、陸路を迂回して東坂本へ向って行った。
 この大兵を目にみると、叡山側は一も二もなく山上の延暦寺へ後光厳をお迎えした。また尊氏は、さらに一歩を進めて、東山のみねに陣取った。
 直冬とその一味の軍は、この二箇月余を洛中で驕(おご)りに驕っている気勢だった。一躍、都の主となり天下をここに取ったようにである。
「…………」
 尊氏はそれを東山の陣地から見下ろして、ただの敵ならば起りそうもない憎悪やら複雑な感を催した。
 京都は、彼が幕府を置いてからでも、猫と猫の間の鞠(まり)のように、奪(と)ったり奪(うば)い返したりをくり返してきた。だから今さら無念はそれではない。
 私情である。まったく彼だけの私情であった。――藤夜叉の産んだ、あのひよわい一病児の不知哉丸(いさやまる)が、こんにち、都に君臨を見せようなどとは、かつては、夢想もしていない。それがしかも、尊氏誅伐(ちゅうばつ)の宣旨(せんじ)を南朝から申しうけて、公然と、義父直義(ただよし)の讐(あだ)とも称(とな)えているのである。小癪(こしゃく)とも何とも言いようはない。
「困ったやつ!」
 じつに、尊氏には厄介(やっかい)な挑戦者であり、困惑きわまる相手ではあるのだ。けれどもまた、どう憤(いきどお)っても、
「不逞な子!」
 とは本心で罵(ののし)れなかった。不逞な父は自分かもしれないのだ。
 彼は焦々(じりじり)する。
 相手は自己の分身にひとしいものだ。それへの憎しみは自分を憎むことでもある。だから骨肉の憎しみ合いは他人の比でない深度と非人間性を持つ。すでに尊氏はもうそんな愛憎本能など無性に七面倒(しちめんどう)くさくなっていた。憎悪一本になっている。むらと、胸の毒焔(どくえん)を声に吐いて、左右へ令をくだしていた。
「今夕から総がかりをかけて、あの有頂天(うちょうてん)な痴者(しれもの)どもを、ひとり残らず洛中から追ッ払え」
 これが三月十二日である。
 しかし洛中の合戦は、二十一日までかかった。
 相互、血みどろをきわめ、この時も見さかいなく民家や寺院を双方で焼いた。
 その間には、播磨の斑鳩(いかるが)から急進してきた義詮(よしあきら)の軍も尊氏をたすけ、佐殿方(すけどのがた)は木ッ端みじんに破れてしまった。そして当の直冬は、敗走に敗走をつづけ、どこへ落ちのびて行ったのか、これ以後は、まったくその居る所すらわからなかった。安芸にいるともいわれ、石見(いわみ)に隠れたままだともいわれたが、ついにその生涯も分明せずに終っている。
 ともあれ、京都はそれ以降、ややおちついた。
 といっても、北朝に本来の御威光はなく、幕府のうちの内訌(ないこう)も後(あと)を絶(た)つふうでない。
 たしかに、武力は強力になった。けれど諸国の武族は各※(二の字点、1-2-22)みなその郷国での地盤をかため、自信を蓄(たくわ)え、それが次に来る群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の萌芽(ほうが)を地表にあらわし始めていた。
 尊氏はいぜん心の安まるひまはなかった。
 幕府の内訌も、因(もと)をただせば、細川、畠山、斯波(しば)、今川、佐々木といったような功臣が、みな自力で割拠(かっきょ)しうる力を持ってきたからである。若い義詮がこれをおさめるのは容易でない。手習の手を取って教えるように、尊氏は政治を教える。
 けれど、ともすれば義詮自身がその渦中にまきこまれた。そしてしばしば、南朝方へ奔(はし)る者やら小反乱を内に見た。武家統一の幕府造成は、前途まだ遠い感だった。
 しかし、それらのことはあったにしても、とにかく、
 正平十一年(北方の延文元年)
 正平十二年
 の両年は、諸国とも静謐(せいひつ)な方だった。
 さきに南朝に囚われていた光厳法皇やほかの上皇親王たちも、五年ぶりで、解かれて京都へ還って来られた。が、ひとり光厳法皇だけは、伏見の寺へ入って、人にもお顔を見せられなかった。よくよく、酷(むご)い世の仕組みがお身に沁(し)みたものとみえる。
 また、それいぜんに、後村上天皇は、賀名生(あのう)の行宮を、河内の金剛寺へ遷(うつ)されていた。尊氏へたいして、一歩前進を見せ、親房は亡くも、決して素志(そし)を喪(うしな)う南朝でないことを、つよく示されたものといえる。
 しかし、滔々(とうとう)と、諸国の武家は独自な力を養って肥(こ)え出していたが、南朝の勢力は、一こう不振をたどっていた。ただこの間(かん)にも、ひとり昔ながらの宮方としていよいよ強大になっていたのは九州の菊池一党だけだった。
 尊氏にも、九州は数年らいのなやみであり、わけて昨今では、
「なんとかせねば」
 と、焦躁のたねとしている課題であった。
「もいちど、わしは二十二年前の若さに返って、筑紫(つくし)の地を踏み、みずから菊池征伐にあたらねばなるまい。九州さえ平定し得ればまずは天下も一おう定まる。――そのうえで、義詮(よしあきら)に将軍職をゆずり、大名どもをして、二代将軍へのかわりなき忠誠を誓わせよう。――それを見るまでは」
 と、彼はこの正月、正平十三年の年頭に、しみじみ言った。
 妻の登子(とうこ)にむかって洩らしたことばであった。
 正月四日。
 天龍寺が焼けた。
 尊氏はただちに再建を命じ、二月には早や奉行を任命したりしていたが、こえて三月に入ると、建武三年いらい二十二年の間、筑紫(つくし)の探題として留(とど)めておいた一色直氏(なおうじ)が、菊池武光に追われ、九州を捨ててさんざんなていで都へ帰って来た。
「義詮」
 と、彼をよびつけて。
「これに教書(きょうしょ)の案文をしたためておいた。祐筆(ゆうひつ)に命じて、同文の教書十数通をしたためさせ、そちが花押(かきはん)して、それに書上げておいた大名諸武士らへ、すぐ布令(ふれ)をまわせ」
「や。これは御出陣の」
「そうだ、わしみずから征(ゆ)く」
「いけません。お見合せください。義詮もすでに二十九。私が征きます」
「いや、九州の少弐(しょうに)、大友、島津。そのほかの古い輩(やから)も、多くはそちをよく知っていない。尊氏ならでは心を一つに集まるまい。わしがまいれば」
「ですが」
 と、義詮は思いきって言った。
「ご健康があやぶまれます。さなくても、母上はそれをここ数年のお体によく見ていて、始終、お案じなのでございまする。どうぞ、御遠征のことだけは、時を見て、このさいはおとどまりを」
 それは妻の登子も共に強(た)って止めた。尊氏はなかなかきく風でなかったが、四月に入ってからすぐである。尊氏はついに倒れた。その夕、寝床(とこ)につくなり登子へ悪寒(さむけ)を訴えて、子供のように彼女の腕(かいな)にしがみついた。
 灯が白く冴えて、病間は病間らしくない木ぐちの新しさと木の香だった。
 旧高倉の将軍御所は義詮に渡して、二条万里小路(までのこうじ)に去年造営されたものである。尊氏はそれだけでなく、やがては、将軍職のすべてをも最愛の子に譲(ゆず)るべく、その一つとしてこんな心支度もしていたのであったらしい。
「とくと、拝診(はいしん)申し上げましてござります」
 さっそく召された二人の典医は、登子の案じ顔をみて言った。
「ままある急な御風熱(ごふうねつ)と拝されます。肝(かん)、胃、腎(じん)、お悪いところはありませぬしお脈もいたってたしかなので」
「では、さしての心配にはおよびませぬか」
「元々、人いちばい根が御丈夫なお骨ぐみ。かえって、そのためつい御過労も積もりましょう。お熱さえ下がれば御本復は疑いございませぬ」
 明け方までに二度、登子の手で熱い煎薬(せんやく)を服(の)ませられたほかは、あくる日もあらかた、よく眠ってばかりいる尊氏だった。
 そして三日目にはもう、
「起きる」
 と言い出して、登子や義詮をこまらせた。けれど尊氏は、こうしているぶんにはよかろうと、ふとんの上に坐って、その日は、義詮をつかまえて帰さなかった。
 義詮は、問われるままに、当面の政務や時局の処理方針などを、なにくれとなく答え、そして、かりに五十日や百日お寝(やす)みでも、決して時務に遅滞(ちたい)はいたしませぬ、諸大名も案じています、どうぞ充分御静養を取られますようにと、さすがもう世嗣(よつぎ)の嫡男(ちゃくなん)らしく自負して言った。
「む。……うむ。……」
 尊氏は聞いていた。しかし憂いを残している容子(ようす)で。
「義詮」
「は」
「わしの体よりは、むしろ、おまえの体こそ粗末に持つなよ。わしは貧しい幼少と野性にめぐまれ、風雲にもいやというほどきたえられた。わしはまだなかなか死ぬまい。けれど、おまえはどうも弱いな。どこか弱い」
「いや、さようなことはないはずです。お父上から見たらお目だるいかもしれませぬが、戦陣でもめったに疲れは知りませぬ」
「それは若さというものだけだ。この父に似ず、何よりは意志が弱い。決断力も鈍(にぶ)く、人を観(み)る明(めい)にはすこし欠けておる。わけていまの武士どもを統御(とうぎょ)するのは容易でないことをよく知っておかねばならぬ」
「それは、まいどの仰せ事。心しておりまする」
「頼む者はまったくないのだ。自分だけが頼みと思え。しかも将軍家であれば、それではならん。由来(ゆらい)、この京都には常時たくさんな兵は置けぬ。事あるたび、諸国の大名や家人どもへ召(めし)を発して呼び集めるのが慣(なら)い。むずかしいことではある。おまえは尊氏の子でも尊氏ではない。人を観、人の心をよくつかむだけを習うがいい」
「義詮がこれと頼みにしてよい人物は、麾下(きか)の内で、見渡すところ誰でしょうか」
「まず、頼春の子、細川頼之(よりゆき)だろう……」と、言って「したが、まだ若すぎるな。そちの執事には」
 と、尊氏は急に疲れ気味な色をみせて、自分から横になった。
 尊氏が病間になずみ出したことも、初めは、ごく側近にしか知られていなかったが、月の半頃(なかごろ)にはやがて外部にも洩れて、それは洛内じゅうの大きな関心事とならずにいなかった。
 朝廷からは、典薬頭(てんやくのかみ)の和気(わけ)、丹波の二家をさしむけられ、門前には見舞の公卿車(くげぐるま)もあとを絶たない。
 諸山の寺院では祈祷がおこなわれ、邸内でも薬師十二神将の法とか、不動延命(えんめい)の修法とかを、日夜、勤めているのであろう。館の大廂(おおびさし)からは護摩(ごま)の煙が雲のように立ちのぼり、衆僧の振鈴(しんれい)や誦経(ずきょう)が異様な喚叫(かんきょう)をなして二条の町かどあたりまでも聞えてくるほどだった。
「眠たい」
 尊氏は、そうした中心にある一室の厚いふとんの上にうめいていた。
 体を横たえているのではなかった。横になれない症状なのである。胸の高さにまで折り畳んだ夜具(よのもの)に、両の肱(ひじ)と苦患(くげん)の顔を乗せて、俯(う)ッ伏せに凭(もた)れて坐ったきりな容(かたち)だった。
 はじめ、館の典医が、お風邪(かぜ)とかろく診(み)たのは、まもなく、まったく誤診とわかった。
 高熱はつづくばかりなので、医師も小首をかしげているうちに、病人は、自分の左の手を背へ廻して、やっと指がとどくあたりの肋骨(ろっこつ)裏にあたる部分の異常感を訴えだした。ポチとそこに何か腫(でき)ている。“蚊触(かぶれ)”という病名があった。医師たちはこの発見をすぐそれに附してかぶれの練薬(ねりぐすり)を塗布して容体の変化をみていた。ところが数日のまに、そこは朱(あか)い椀のフタぐらいな大きさにまで腫(は)れ上がり、また幾つもの小さいくちを作って、さながら柘榴(ざくろ)みたいな皮色(ひしょく)さえ呈して来た。
「これは?」
 と、典医たちも狼狽して、ようやく自分たちの手におえない重患とさとり、協議のすえ、当時、町医ではあるが外科の第一と評判のある医僧有隣(ゆうりん)という者をよんで篤(とく)と診(み)させた。有隣は濁さないことばで告げた。
「癰瘡(ようそう)と拝診つかまつりました。おそれながら癰は古来から命とりと申すほど難治の病。ひたすら、看護(みとり)と療法の最善をつくすしかございません」
 以来、看護(みとり)は登子(とうこ)が、療治には侍医たちが、有隣のもとに全力をつくしてきた。わけて登子は帯も解かない窶(やつ)れを病人と共にして、良人の苦熱を自分のなかにも喘(あえ)いでいた。
 しかし経過は何の見るべきものもない。患部は朝ごとに目もあてられぬ斑点(はんてん)を増して、腫れた所は赤ぐろく耀(かがや)き、無数といっていい孔(あな)からは血膿(ちうみ)を出した。それは煮え沸(たぎ)る火山の噴火口が幾つもの吐けぐちから硫黄(いおう)を噴(ふ)いているのに似ていた。熱はたびたび、病人の意識界を超え、尊氏は時折、異様なうわ言をいった。そしてはまたふと現(うつつ)に返った。
「登子。……ああ眠たい。すこしやすませてくれ」
「ようお寝(やす)みのようでございましたが」
「いいや、耳の中で、のべつ釜の湯が鳴るような声がわんわんする。祈祷僧のわめきだ。止めさせろ」
「でも、せっかく……」
「今、わしは何ものにもすがってはいないのだ。また、神仏に後生(ごしょう)を頼める自分でもない。ただ静(しず)かが欲しい。坊主どもはみな帰せ。祈祷はいらん」
 以前から彼の心の隅(すみ)には“山林(さんりん)”があった。“後生の願い”もたぶんにあった。すべて能(かな)わぬ希(ねが)いであった。
 それがいま、懐かしまれていたのであろうか。
 尊氏はだんだんに、病間の孤独と寂(しず)かとを欲していた。邸内の祈祷僧はすべて帰してしまい、有隣や侍医たちの手当さえ、とかくうるさげに退(しりぞ)けるふうだった。そして、薬餌(やくじ)、何から何までを、
「登子、登子」
 と、妻へ甘える眼をして求めた。患部の膿汁(うみ)を拭きとることから、朝夕のくすりの塗布や煎薬(せんやく)なども侍医にはさせないで妻にさせた。また熱湯でしぼッた布で体じゅうの皮膚を隈(くま)なく拭かせるときでも、子供のように安心して、彼女の手には人に見せたくない所もまかせきッているのだった。
 そんなあとでは、さばさばするとみえて。
「登子、おまえと夜も昼もひとつにこうして暮すなども、思えば病気のおかげだな。三十年もつれそいながらないことだった。不愍(ふびん)といっても追いつかぬが、おまえもとんだ阿修羅(あしゅら)の女房になったものよの……」
 また、あるときは、
「背なかの腫物(できもの)をこの眼で見たい。鏡をよこせ」
 と、登子にも鏡を持たせ、自分も鏡を持って、患部を合せ鏡に映して、その惨烈とも無残ともいいようのない自己の糜爛(びらん)した肉体の一部をしげしげと見、
「なるほど。これは尊氏がやって来た“業(ごう)”そのままな縮図だわえ。人のからだでは癰(よう)だが、国に腫(でき)れば地上の大乱そのものだ。身にこれを病むとはよくよくわしは宿命の子にちがいない。……母者(ははじゃ)は地蔵尊を信仰なされ、わしも地蔵尊を身の守りにして来たが、しょせん地蔵菩薩(ぼさつ)の御手(みて)でも救いがたい阿修羅の申し子だったとみえる」
 と、深い吐息(といき)で言った日などもある。
 かと思えば、高度の大熱に、こんこんとして、「基氏(もとうじ)か、何しに来た?」と譫言(うわごと)に言ったり、また「筑紫(つくし)はどうした、義詮(よしあきら)はまだ返らんか」と、あらぬことを口走ったりした。けれど現(うつつ)ない口走りの多くは登子にも意味のうけとれないことが多かった。ただいちど「河内どの」と明らかに言って、楠木正成と話してでもいるような幾言(いくこと)かを洩らしたときは、登子にもすこぶる意外な思いがされた。そのほかには、まま、
「平家を聞きたい」
 と、よく言った。
 平曲(へいきょく)をと望むときは、苦痛をそれに忘れたいとする容子らしく、すると次の間では、畏(かしこ)まって、ただちに琵琶を掻き鳴らす者があった。尊氏の息づかいも、苦患(くげん)とたたかっている炎の眉も、それを聞いているうちには、だんだんとおさまって来て、やがて、すやすや肩に安らぎをみせて寝入るのが常であった。
 しかしついにことぎれた。彼の癰(よう)はやはり命取りの癰だった。
 正平十三年四月三十日の子(ね)ノ刻(こく)(ま夜中)と、その薨去(こうきょ)は、幕府から公布された。
 なか二日おいて。
 葬儀は、衣笠山(きぬがさやま)の等持院でいとなまれた。勅使の差遣(さけん)、五山の僧列、兵仗(へいじょう)の堵列(とれつ)、すべて、儀式の供華(くげ)や香煙のさかんだったことはいうまでもない。
 尊氏は、五十四歳であった。

 五月の明るい日であった。
 歩みの鈍(のろ)い、そして長い行列がいま、西洞院(にしのとういん)綾(あや)ノ小路(こうじ)の職屋敷の門からえんえんと出て行った。
 みな盲人なのである。
 もちろん、幾人かは狩衣(かりぎぬ)や布直垂(ぬのひたたれ)の目あきもいて、何かと勘(かん)のわるい者の世話をして行くふうではあった。
 いったい、どれほどな盲人の数なのか。――先頭はもう長蛇形(ちょうだけい)に染屋川の土橋を渡って、はるか先に霞(かす)んでいるのに、まだ尻尾(しっぽ)の方は、職屋敷の清聚庵(せいしゅうあん)の門を出切れず、そこの曲り角で、
「こっちだ、こっちだ」
「何と、かんの悪い座頭衆だよ。かんのいい振りをしなさんな。杖と杖をつなぎ持ちにして歩いたらどんなものだね」
 と、目あきの座役たちに手を焼かせている有様で、ざっと二千人はかぞえられる。いわば二千の盲人大衆が遊山(ゆさん)にでも練(ね)ッて行くような奇観であった。
 けれど、嵐山も大堰川(おおいがわ)もとうに花は散ったあとだし、めくらに新緑を愛(め)ずる風流気はなかろうし、だいいち、故(こ)征夷大将軍尊氏が薨(こう)じてから今日はまだ八日目なのである。
 ついきのうは初七日(しょなのか)の忌(き)で、宮中をはじめ二条の故館(こかん)では法要が行われ、各寺院でも終日の勤行(ごんぎょう)があり、町の声にしても、もう亡(な)い人となると、いまは何か、巨大に感じられる人間像とあとの空虚(うつろ)に、つい話を持ち切っていたような時でもあり、往来はこの奇異な行列にみな目をそばだてた。
「ほう、世間にはいるもんだな。めくらの衆も」
「いるとも。綾ノ小路には、諸国から集まって来る」
「いつもこんなにかい」
「いやこんなに集まったのは始めてだろう。けれど職屋敷の一郭(かく)ときたらたいへんな広さだ。建物の数でも外からではわからない」
「えらいもんだな、盲人でも」
「なにしろ明石(あかし)の検校(けんぎょう)と仰っしゃるのは、当道派(とうどうは)の主座で、それに、死んだ将軍家とはお従弟(いとこ)にあたる人だ。あれくらいなことはわけなくできたろうさ」
「そういえば列のいちばん先に、職屋敷の執事と一人の女性(にょしょう)をつれて歩いて行ったね、あれが明石の検校か」
「もと明石ノ浦にいたのでそう呼ばれているが、覚一(かくいち)法師というのがほんとの名だよ。晩年は、当道(とうどう)の如一(じょいち)に就いて、琵琶の奥の奥の道までをきわめたものだそうだが、もう二十歳(はたち)ごろ名人の聞えがあって、なんども宮中に召されたことだってあるのだそうだ」
「晩年というが、見たところまだ、四十四、五にしか見えぬ検校だったが」
「そう、まだそんなもんだろうよ。けれど老成してござるから聖(ひじり)といってもおかしくない。盲(めしい)最上の位(くらい)なので、緋(ひ)の衣(ころも)に、検校帽子をかぶり、後ろに燕尾(えんび)を垂れて行くさまは、唐画(とうが)の人を見るようじゃったな」
「それはいいが、この途方もないたくさんな盲(めしい)の衆は、いったいどこへ行くのかな」
「さればよ。きっと等持院(とうじいん)へ行くのであろう。御葬儀の当日から初(しょ)七日までの等持院は、目あきばかりでゴッタ返していたからね。そこで盲は盲同士と、七日過ぎての会葬を、今日はゆっくりお練(ね)りで練ッて行くのであろうて」
 まもなく、衣笠山の麓(ふもと)にたどりついた盲人の列は、順次、本堂での席序(せきじょ)をただし、廻廊のそとにまですきまもないほど座(ざ)についていた。
 施主(せしゅ)、検校覚一(かくいち)
 当道之盲官(とうどうのもうかん)一同
 の名で、寺中へは多額な寄進もされ、つづいて東陵(とうりょう)和尚の主導(しゅどう)のもとに、盛大な追善が長々といとなまれる。そして終ると、一同はまた庭上に出て、土の色も宝篋印塔(ほうきょういんとう)の石もまだ新しい
 等持院殿仁山妙義大居士
 の墓所へ順にぬかずいた。
 それも長い時間がかかった。ひと口に盲官といっても、検校、別当、勾当(こうとう)、座頭の職位のほか、なお幾十階の下級もあるので、中には昔ながらの乞食放下(こじきほうか)や路傍の琵琶弾(びわひ)きそのままな盲者もたくさんいたのである。けれど、それらの盲(めしい)にしてさえ、
「この将軍の御代(ごだい)に会って、わしらは初めて人なみになったのじゃ。目あきに馬鹿にされずともよく、目あきとひとしく職を持ってりっぱに生きて行ける者となったのじゃ」
 という謝恩の念は胸にきざんでいるふうだった。
 その、いわれをただせば、これは尊氏の発意で始まった民政ではない。ひとえに、覚一の願望だった。彼が身に舐(な)めてきた世路(せいろ)の盲人の生き難い相(すがた)から常に考えさせられていたものを、将軍家へ献策して、その結果、ひとつの盲官組織と、また盲人たちを総括する職屋敷の土地とを与えられたことに由来(ゆらい)する。
 それまでの盲人といっては、社会の視る目もむごく、
「めくらが一人死ねば、富者(ふしゃ)が二人できる」
 などと平気でいわれていたほどだった。戦乱が生んだ餓鬼道(がきどう)の巷(ちまた)では、癈人、穀(ごく)つぶし、足手まとい以外の何者とも視(み)られなかったといってよい。
 職屋敷ではまず従来から乞食扱いにされていた盲(めしい)の琵琶弾きを収容して、これに官の印可(いんか)と保護を与えた。また、すさんだ大道芸に平曲(へいきょく)のよさを習得させた。さらに筋(すじ)のいい者には座の職階を上げて、座頭、勾当(こうとう)の名誉もさずけた。
 盲人は、ほこりを取りもどした。技をみがいて、人をたのしませ、自分も高い盲官の位置をえて、人中でも敬われる身になりたいとする希望にもえた。が、中には天性、平家の一曲も覚えられない者もある。それらの者には鍼(はり)、灸治、按摩(あんま)、売卜(ばいぼく)の道など教えて、ともあれ職屋敷の制度下にいれば、何かの生業(たつき)と保護を得られ、そして穀つぶしなどと蔑(さげす)まれるいわれもなくなった。
 戦争は目あきを無限の闇に追いたてていたが、ここの盲人は曙光にみちていた。近国の盲人まで伝え聞いて寄って来た。もちろん盲人たちはその稼ぎから冥加金(みょうがきん)や印可料を「座」に納めることなので職屋敷の経済力もなかなかばかにならぬ力だった。
 こうした一制度が地に育ってから、今年はもう十二、三年になる。しかし覚一はこれを自分の功とはせず、いつも将軍尊氏の恩徳であるといった。また今もである。一同の墓拝(ぼはい)がすむとそのことをるると述べて、あとは随意に散会してよいと施主(せしゅ)の辞をむすんでいた。――そして、座頭以上、勾当(こうとう)、別当、検校(けんぎょう)などの六、七十名だけが残って、しばらくは等持院の内で、茶と点心(てんしん)の饗(きょう)をうけていた。
 そこへ寺僧が入って来て、大勢の中へ告げた。
「……じつは先ほどから、明石の検校どのにぜひお会いしたいと、年のころ六十路(むそじ)がらみの法師と、さよう、親子とおぼしき能役者(のうやくしゃ)ていの者が三名、あちらでお待ちしておるのですが」
「わたくしに」
「はい」
「はて、どなたやら?」
 覚一(かくいち)は、そばの人へ、
「そなたには、心あたりがありますかの」
 と、しずかな睫毛(まつげ)を向けて訊いた。
 そばに付き添っていたのは彼の妻であった。母の草心尼(そうしんに)はとうに亡い人だったが、よく明石の家へ遊びに来ていた兼好法師がその母をも説いて、たって覚一に娶(めあわ)せたひとなのである。
 覚一よりやや年上だったが、草心尼の若い頃をも思わせる清雅できれいな女性だった。そして母の歿後、やがて明石の隠れ家を捨てて尊氏を都にたよって出て来た時には、尊氏もまた、この女性を前からなみなみならず知っていた関係もあって、この良縁を共によろこび、覚一の盲人救済の主旨や職屋敷の実現には、いちばい力をいれてくれたものだった。
「さあ、わたくしにも」
 と、彼女はまた、
「思い寄りはございませぬが、きょうの御法要の先を慕って、ここへ来てお待ちになっているからには、やはり生前、尊氏さまに、何か有縁(うえん)のお方たちではありますまいか」
「それは、そうだの」
「ともあれ、お通しになってみてはいかがでございますか。こう大勢の中ではありますが」
「む」
 覚一はこの女性を、妻とも、また亡くなった母とも思っているように、素直にうなずく。
 寺僧はやがて、四人の訪客を案内して来て、坐る所もないままに、座敷のそとの廊にその人々を据(す)え並べた。
 四人は年配の順に坐った。
 老法師をかしらに、年五十がらみの、芸能者とはいえ武者烏帽子(むさえぼし)に狩衣姿の人柄のいい男と、次には、その妻であろう、髪を布結びにした色白でふくよかな女と、また息子(むすこ)とみえる二十四、五のきりっとした若衆とをつれて、
「せっかく、お休息の所を、おさまたげ仕りまして」
 と、さすが芸能者の行儀よく姿をそろえて辞儀をした。
 が、検校はじめ、別当、勾当(こうとう)、座頭、ここにいるほとんどは盲人である。辞儀にこたえて席の一同も頭を下げたが、いかなる服装やら人態(にんてい)やら一見で知る識別はその人たちにはない。
 とくに息子らしい若衆は、髪を艶(つや)やかな髷(まげ)に結って、後世の裃(かみしも)に似る腰みじかな役者羽織を着、いうならば水もしたたる美貌の青年であったが、それも幾人かの目あきの者だけに、目をみはらせたのみである。
 けれど、覚一検校のそばにいた彼の妻だけは、初めからその綺羅(きら)な若者よりも、親の夫婦と、もひとりの老法師の容子とに、じっとひとみを注(そそ)いだきりで、やがてのこと、はっと思い出したようにこう軽い声でさけんだ。
「法師は、右馬介(うまのすけ)どのではありませんか。また、夫婦(ふたり)のお方も、たしかどこかで、お見うけしたような? ……」
「さればで……」
 と、言い詫(わ)ぶる態(てい)で。
「いかにもこの老法師は、右馬介が成れの果てにござりまするが、してあなた様は?」
 訊かれると、彼女はまだどこかに残る佳麗(かれい)を面(おもて)にほの紅(あか)らめて、
「自分ですら思いがけぬ身の移(うつ)ろい。お分りでございましょうか」
「もしやその昔(かみ)の、小右京(こうきょう)さまでございませぬか」
「おお、その小右京でございまする。双(ならび)ヶ岡(おか)の法師のおすすめやら、いまは亡き草心尼(そうしんに)さまの、たってのおことばで……」
「やれやれ、それは覚一さまにはまたなき良い御内助。草心尼さまも、御自分に代るお方を得て、さぞ安心して世を終られたことでございましょう」
「いいえ、倖せなのは私でした。おかげで、それからの月日は」
「とかく世の女性(にょしょう)が世の荒波に負けて、ややもすれば尼の門に髪をおろしてしまう様(さま)を、兼好法師は、世にもあじけなきことと、いたく嫌うておられましたな。法師の心も酌(く)めますわえ」
 このとき初めて、覚一も。
「右馬介か。久しいのう」
「これは覚一さまで。ああ、お立派になられましたなあ。かつは、目あきでも成し得ぬお仕事をこの大乱の世に果して」
「それもこの目の盲(めしい)がさせてくれたのだ。目が見えぬゆえ人皆の欲しがる物に思いをわずらわされずに。……して、お辺(へん)は湊川合戦の後は、どこに?」
「は。今は何もかもお話し申しあげる時と存じまする」
 と、右馬介はこう話した。
 ――正成の首級を故郷の遺族にとどけてやれと尊氏から命ぜられたとき、彼は自分の奉公もこれまでと弓矢も思い断(た)っていた。そして河内へ行き、いらい二十二年の長い間、観心寺の片すみに一庵をむすんで、人知れず正成の掃墓をしていた。
 これを彼は「尊氏さまに代って」とも思ってして来た。尊氏が多年、正成へ抱いていた思慕と深い惜しみは、彼のみがよく知っている。いわば「両雄の胸に秘(かく)された私の情(じょう)」は――今生(こんじょう)相容(あいい)れぬ敵――と尊氏を呼んでいた正成の方にもあった。
「まずは、さようなわけで」
 と、右馬介はことばを切った。そして、連れの三名を横に見ながら。
「じつは、尊氏さまの御逝去と聞き、都へ出てまいりましたところ、はしなく職屋敷のほとりで、日ごろ親しゅうしているこの方々と行き会うたのでございました。……聞けばお三名も、明石の検校どのを訪ねて来たが、今日は当道の門人一同と等持院へお出ましの模様らしい、どうしたものかというおはなし。……ならばいっそ、われらも等持院へ行って、御法要の終るのをお待ちしていたらと、そこでかように控えていた次第でございまする。……さ、元成どの、卯木(うつぎ)どの」
「は、はい」
「つい自分ばかり喋(しゃべ)っていましたが、いまこそです。さあ久濶(きゅうかつ)の情(おもい)をお遂げなされませ」
 すると、覚一の方から先にはたと膝を打って言った。
「わかりました。では、そこにおいでのお方は、むかし雨露次(うろじ)と隠れ名していた服部治郎左衛門どのと、卯木さまでございましょうがな」
 夫婦(ふたり)は胸の堰(せき)を切ったように、にじり出て。
「おおようお忘れなく。……私は治郎左衛門元成、これにいるのは妻の卯木でございまする」
「やれ、おなつかしや」
 と、覚一は、離れ過ぎている上座(かみざ)から、もどかしげに。
「世になみならぬ騒ぎにつけ、また、少しでも戦が休(や)むにつけ、どうなされておられるやらと、おふたりのことは忘れた日もございませぬ。さ、さ、どうぞこちらへ寄って下さい」
 ほかの座頭や別当や勾当(こうとう)たちは、そう聞くと、客の四人を急に内へ請(しょう)じて、覚一のすぐまえに席をあけた。
「お、どこに。……お手は」
 と、覚一の両の手は、片方に元成の手、片方に卯木の手をさぐりあてて、握りしめると。
「ああ、おすこやかよ。あれはもう二十数年も前の春の暮でしたな。けれどあの折、お別れした時の通りなお手の温(ぬく)みが、思い出と共にあふれてくる。ただここに母がいないのだけが淋しい」
「ほんに……」と、卯木はすぐ涙して。「私たち夫婦(ふたり)には生涯の門出となった一夜でした」
「それは私も同じこと。――母と私は住吉の具足師柳斎――いまここにいる右馬介の家を訪ねて行きました。――が、柳斎はいず、そこにおいでたのは、下絵描きの元成どのと、御内儀の卯木さまでした」
「そして」と、元成もいう。「もしあの翌晩の長屋騒動がなかったら、お互いの身の上や心の底などお話しあう御縁もなかったでしょうに」
「それも所は住吉の浜、四所(しょ)のおやしろのある白砂の上でしたから、ひとしお胸に銘(めい)じるものがありました。世はいかにあろうとも、お互いはわき目もすまい。志(こころざ)す道につき進もう、そしてもし一道の芸能の士(し)と成り得たら、何十年の後なりと、またお目にかかりましょうと……」
「ええ。そこには草心尼さまもおいでられて」と、卯木は言いふるえて「――私たち夫婦をお身に比べて励ましてくださいました。そして夜すがら四人で松落葉の火を囲み、語り明かしたその朝、浪華(なにわ)の河口で舟と陸(おか)とにお別れしたきり……」
「いらい母も私もさんざん修羅の巷(ちまた)をさまよいました。けれどおふたりを思うと私は精進(しょうじん)せずにいられません。いつかはお目にかかる日が来よう。そのときに、消え入るような自分であってはならないと」
「ああ、今日は思いが果たされました。お目にかからぬうちから、とうに明石の検校のお名は伺っておりましたものの」
「してただいま、お夫婦(ふたり)は」
「修業のかいもありましてか、大和の結崎(ゆうさき)に田楽能(でんがくのう)の一座を開き、春日、法隆寺、東大寺などの仏会神事(ぶつえしんじ)の催しごとも預かって、どうやら結崎一流の能舞(のうまい)を打ち創(た)て得ようかと、なお工夫の途中にござりまする。そしてその望みは、これなる若年のせがれにかけておりますようなわけで」
「お。御子息よな」
 やや離れて控えていたその若者は、検校がさぐる面へ向って、急ぎ両手をつかえていた。
 その日、卯木(うつぎ)夫婦が連れていた若者は、幼名を観世丸(かんぜまる)といっていたが、やがて観世を姓に直して、まだ二十五の若手ながら、大和結崎座(やまとゆうざきざ)の観世清次(せいじ)と、未来を嘱望(しょくもう)されている者だった。
「ほう」
 覚一は、おどろいたふうである。
「では、近ごろよう評判を承(うけたまわ)る観世清次とは、おふたりの仲の御子息であったのか」
「まだ未熟者にすぎませぬ。どうぞこれからはお引立てを」
 はれがましそうに、夫婦(ふたり)は子に代ってそう言った。
 そしてなお子を語る親心の問わず語りがつい続いた。住吉の浜でお会いしたときは、まだ清次は生まれていず、そのせつ妊娠(みごも)っていた子も流産したので、長谷(はせ)の観音へ祈願をこめて、初めて得たのがこの子であり、そこで幼名も観世丸と名づけたものであったという。
 けれど生まれたのは、千早(ちはや)籠城の食べ物もない中だった。
 卯木の兄正成が、一族すべてをつれて立て籠(こも)ったため、彼女も良人と共に籠城の辛酸(しんさん)をなめ、清次はそこで呱々(ここ)の声をあげたのである。――だから生まれながら修羅(しゅら)矢(や)たけびの中に怯(おび)え、母乳も出ぬほどだったし、はたして人なみにこの子が育つか否かさえもあやぶまれたことであった。
「それが」
 と、卯木は現在の清次を、身のそばにかえりみながら。
「このような成人を見ましたのは、まったく兄正成どののお慈悲と、芸一ト筋に生きて来た賜物でございました。いえ、すべては観世音菩薩の御庇護(ごひご)であったのでございましょう……」
 それからそれへ話は果てる模様(もよう)もなかったのである。ところが、座役たちはそろそろ帰りの時刻を案じだしていた。
 というのは今夜、職屋敷に職位四階以上の者だけが寄って、故等持院殿(ことうじいんでん)(尊氏の法号)どのに関する思い出や世評是々非々(ぜぜひひ)にたいする検校の意見なども伺い、かたがた琵琶(びわ)の一曲を霊前にささげようではないかという申し合せをしていたのだった。
「それよ」
 覚一は、卯木たちへ、急に思い出したふうで言った。
「今宵(こよい)、私たちは私たちなりの琵琶供養を職屋敷の内で営みたいと存じております。いかがでしょう、綾(あや)ノ小路(こうじ)の宅までこれからご一しょにおはこび下さいませぬか」
「でも……」と、卯木は良人の顔を見てためらった。
「女ではありますが、この身も楠木家の一人です。尊氏さまとは生前、倶(とも)に天を戴(いただ)かぬ仇敵(あだがたき)とまで世上にいわれていた正成どのの妹。そのようなところへ交(ま)じるのは、後に世間の聞えもいかがでしょうか。もし職屋敷の御迷惑にでもなってはいけませぬ」
「ああいや、それは御斟酌(ごしんしゃく)がすぎるというものです。たとえ新将軍家のお耳に入ろうと何のおそれがございましょう。私たちはひとえに芸の道を以て諸民に仕え、諸民と苦楽を共にしているだけのもの、弓矢の徒(と)ではなし、南朝北朝の争いなども知るところではありません。その点、尊氏さまにはよく理解がございました。お案じにはおよびませぬ」
 綾ノ小路の職屋敷では、その晩、使用人やふつうの会衆には酒飯(しゅはん)の追善振舞(ついぜんぶるまい)があって、それも終りをつげていたが、やがて子(ね)ノ刻(こく)(深夜十二時)ごろとなると、四職以上の盲人に客の四人、座役の数名の人だけが口を嗽(すす)いで、道場にあつまっていた。
 日ごろは琵琶(びわ)の祖神蝉丸(せみまる)像の幅(ふく)が見える板かべの床(とこ)には、それが外(はず)されて、稚拙(ちせつ)な地蔵菩薩像の幅(ふく)がかけられ、下には一基(き)の位牌(いはい)がおかれていた。――「等持院殿仁山大居士(とうじいんでんにんざんだいこじ)」のそれで、懸物(かけもの)もまた故人が戦陣のひまにはよく画いていたといわれる尊氏自筆の地蔵絵であった。
 ところでこの夜の琵琶法要は、おもてむき故人の遺徳に報(むく)う行事(ぎょうじ)として、以後は年々行われたが、初めのほどは、まだ足利幕府の力もよわく、三代将軍の義満(よしみつ)の治にいたるまでは、なお南北両朝の争いも絶えぬありさまだったので、しぜん尊氏にたいする功罪論の是々非々(ぜぜひひ)だの、その人物を疑惑視する世評もつよく、それが当道の盲人にはとかく胸のわだかまりになっていたので、盲人たちは、ここの結界(けっかい)をたのんで、その夜は明石の検校(けんぎょう)を中心にかなり突ッ込んだ質疑や応答があったものであるらしい。
 というのは、当道(とうどう)の一門人がそれを口授(くじゅ)して記録しておいたものがのちに、
 桐蔭軒(とういんけん)無言録
 という小冊子(しょうさっし)となって世に残されたからである。「桐蔭軒」とは琵琶道場のわきに大きな桐の木があったのでその名があり「無言」は「無絃(むげん)」の意をもじったのではあるまいか。
 しかし何もかもが一朝(いっちょう)に瓦礫(がれき)となるような戦も珍しくない世に、それの正本などがただしく伝えられるはずもない。おそらくは伝写に伝写をかさねて世を経(へ)たものだろうから、どこまでがほんとか、記載のことも巷説(こうせつ)の程度以上とは信じかねる。が、それにしてもなお、数十年の大乱をただよそにしているしかなかった無明(むみょう)世界の盲者(もうじゃ)たちには、どんなふうに、その目あきの世界が映(うつ)っていたか、考えられていたか、明暗を逆にした彼らの社会観として見るぶんにはなかなか捨てがたいものといっていいように思われる。
 で、ここに当夜の模様などを描写するよりは、むしろ「無言録」の語録そのままで見る方が有効におもわれるので、その一端を次に抜抄(ばっしょう)しておくことにする。文中ではもちろん、問者は誰々、答えたのは誰と、いちいち明記はないが、質問者は大床(おおゆか)に居ながれた当夜の盲人三、四十人(例外として目あきの質問も出たかもしれぬ)と見てまちがいなく、答える方は覚一検校ひとりであったにちがいない。
 問「まず、序問(じょもん)の僭越をおゆるし下さい。何事も腹蔵なく問え腹蔵なく答えん、との仰せですが」
 答「そのとおりです」
 問「けれどそれが過ぎて、御生前の批判やら世上の悪声などに及んだら、先将軍(尊氏)の霊にたいし奉って、失礼にはあたりませぬか」
 答「あたりません」
 問「でも主旨(しゅし)の御供養にはなりますまいが」
 答「いや、何よりの大供養なりと信じます。棺(かん)を蔽(おお)って定まるとか。生きとし生ける者のほんとの声を、尊氏さまも今は千万部のお経(きょう)よりは、泉下(せんか)で聞きたいとしておられるものと存じまする」
 問「はて、いかにとは申せ、検校どのには、先将軍のお心をそこまで、御断言できますか」
 答「幼少より存じあげ、かたがた、薨去(こうきょ)の当夜まで、お枕べに近い控えの間にいて、夢寐(むび)のまもなきおくるしみや折々のおん譫言(うわごと)さえ洩れ伺うておりました。いささか御胸中を拝知しておる一人かと自負しております」
 問「死ぬるまぎわまでおん悩みとしていた第一のことは何でしたろうか」
 答「たくさんな人間をこの地上で殺したことでしょう」
 問「尊氏公が殺したわけでもないでしょうに」
 答「あのお方の正直さではそう逃げられぬ。でも家を興すには戦争もせねばならん、戦争へのぞむからは勝つため敵も殺さねばならん、が末始終(すえしじゅう)には、これは天下の諸民を助けることになるのだ、世を安きに建て直す途上では仕方がないと、一生わき目もふらぬおすがただったものでしょう」
 問「それがいつ頃からお心の悩みと変ったものですか」
 答「私にもわかりません。おそらくは曲がりなりにも幕府が出来たころでしょうか」
 衆声「……解(げ)せぬことのう?」
 問「幕府の御成立は、尊氏公にすれば、大望成就(じょうじゅ)、得意(とくい)でありましょうに、なぜそれを境に、お迷いが始まったので」
 答「たとえば粘土(ねんど)を以て一つの円(まろ)い陶壺(すえつぼ)を仕上げようとなされていたものが、真二つとなってしまったからでした」
 問「朝廷の両立ならば、その亀裂(ひび)は昔からの古傷で、いま始まったことではない」
 答「いや、何よりは足利自体の内訌(ないこう)です。股肱(ここう)の臣と臣とが啀(いが)みあい、骨肉の弟御(おととご)や異母子(いぼし)までが、みな主体に叛(そむ)いてわが身をわが歯で啖(く)いはじめました」
 問「世間の蔭口では、それも尊氏公が政略のやり損じで、御自分の嘘(うそ)から御自分を破ッたものと申しますが」
 答「さよう。私もそんな気がする。一例をあげれば、清水寺(きよみずでら)の願文(がんもん)など、あれを書かれた御本心が疑われてならないのです。――この世の幸(さち)はみな弟直義(ただよし)に与えて給え、この尊氏にはただ後生(ごしょう)のみを授け給われ――と、ひたすらな遁世(とんせい)の念と弟思いが溢(あふ)れているあの願文なのですから」
 問「それが、その弟御をついには毒殺なさるとは」
 答「げに、人の心とは怪しいものです。とはいえ、清水寺の願文が嘘の文字とは申せませぬ。あれを書いたときのお心はその通りな尊氏さまであったに相違ございませぬゆえ」
 問「不(ぶ)しつけに申すなれば、先将軍というお方は、何せい、われらどもには解(わか)らぬことだらけですが」
 答「げに、矛盾にみちたお方でした。情(じょう)にもろく、情のお人かと思えば人以上に冷たい。藤夜叉という女性へも、直冬(ただふゆ)どのにも、あの冷たさは異常です。そして閨房とて、ほかに入れた女性(にょしょう)もありません。すべてを大望にかけて御自分をころし切ッていたものでありましょうが」
 問「でも、その大望も、御自身ついに滅失されたのでは」
 答「いや、さいごには、その滅失を取り戻そうとなされた焦躁(あせり)が、直義(ただよし)さまを、あんな思いきッた御処置になされた、第一の御理由であったように思われまする」
 問「検校(けんぎょう)。てまえにも一つ借問(しゃもん)させていただきます。――夢窓国師は、尊氏公の長所三ツを賞めて、一は生死に超脱(ちょうだつ)している、二には慈悲心ふかく人の非もよく宥(ゆる)す、三には無欲恬淡(てんたん)で物に慳貪(けんどん)の風がない――と。その通りでございましょうか」
 答「御長所ならば、もっとありましょう。尊氏さまの周(まわ)りには、つねに大どかな和がありました。ほがらかで茫洋(ぼうよう)で、小さい事にはこだわらず、お気楽で威張ったところが少しもない」
 問「ではずいぶん人好きのするお人柄としか思えませぬが」
 答「そうです。たとえば八朔(さく)の朝など、諸家の進物(しんもつ)で広間が埋まるほどな物も、そばから人に与えてしまうので、夕には一物もなかったということです。ですから土地なども奪(と)るにしたがって武士どもに分け与え、御自身は権力すらも実はそんなに欲しがっておられなかったと思われまする」
 問「だのになぜ一面では、権謀術策、無情苛烈(かれつ)、血も涙もない政略家のように誤られたのでございましょうか」
 答「いや、それも誤りではありません。悪と善、鬼と仏、相反(あいはん)する二つのものを一体のうちに交錯して持つふしぎな御仁(ごじん)」
 問「すこし分ってまいりました。後醍醐天皇とのお争いなどもそれでしょうな」
 答「これまでの歴代にも現れなかった烈しい御気性の天皇と、めったにこの国の人傑にも出ぬようなお人とが、同時代に出て、しかも相反する理想をどちらも押し通そうとなされたもの。宿命の大乱と申すしかありませぬ」
 問「その大乱というのが、てまえども庶民、わけて盲人の身には、何のためにやってござるやら、武家衆や公卿衆の、正気のほどが解(わか)りませんが」
 答「たれにも解ることではございますまい。もし足利殿なかったら、戦争は起らなかったか。後醍醐のきみが武家に取って代る御謀反気(ごむほんぎ)を持たれなかったら、かような乱世にはならなかったか。そんな単純には言い解けませぬし」
 問「では誰が、いや何が、こんな凄まじい世にしたのでしょうか」
 答「下手人はないのですよ」
 衆声「ほう? ないとは」
 答「しいてあるといえばあるともいえましょう。一部の陰謀や火ツケで出来るものではありません。全土に素地(したじ)ができているから始まったことなのです。源平、鎌倉、北条と長い世々を経てここまで来たこの国の政治、経済、宗教、地方の事情、庶民の生業(なりわい)、武家のありかた、朝廷のお考え――までをふくんだ歴史の行きづまりというものが、どうしてもいちど火を噴(ふ)いて、社会(よのなか)の容(かたち)をあらためなければ、二(に)ッ進(ち)もさっちも動きがとれない、そして次の新しい世代も迎えることができない、いわば国の進歩に伴(ともな)う苦悶が何よりな因(もと)かと思われまする」
 問「では、何十万の死者も、その犠牲(にえ)というわけですか」
 答「北条殿、新田殿、足利殿、そして後醍醐のきみも、正成どのも、犠牲(にえ)であるに変わりはない」
 問「ほかに工夫はないものでしょうか。そんな殺し合いをしないでもすむ――」
 答「それが智恵です。けれど人間はまだ悲しいかな、そこまで叡智の持ち主でありませぬ」
 衆の声「はアて? どうじゃな同朋(どうぼう)たち。検校(けんぎょう)どのの今のおはなし、合点(がてん)がゆくか」
 衆「いや合点なまいらぬ。大乱の因(もと)は地震のようなもので、火ツケの悪徒のせいではない。ただ、人間全体が叡智にさえなれば、戦はなくてすむという仰せだが」
 答「ま、同座の衆、お静かに。今の言い方では宇宙から下界を見たような感をうけたかもしれぬが」
 衆「その通りじゃ。こんな馬鹿な戦を果てなくやっていられたら、人間全部が一生の五、六十年はまるつぶれになってしもう」
 答「ならば旧態のままでよいか。それも不断に進む世の自然に反します。行き詰りの世が腐りだすと、腐り放題に腐(す)えてゆく。いやでもまたその無秩序や不平が恐ろしい不安を醸(かも)して来ますのでな」
 問「と仰っしゃるのは、庶民も戦争の手伝い人だと仰っしゃるので」
 答「庶民は戦争にふるふるです。ですが時には、事を好む弥次馬性と射倖心にもうごかされやすい」
 問「なるほど、そんな浮浪もいるにはいますな。けれど戦争の元兇は、やはり権力の中に住む人間どもにありとしか思われぬ」
 答「……権力。そうです。権力欲とは何なのか。摩訶不思議(まかふしぎ)な魅力をもって人間どもを操(あやつ)り世を動かす恐ろしいものに相違ございません」
 問「天皇、女院、将軍、執事、大名、大名の下の武士、みな権力に憑(つ)かれて、それが戦争の」
 答「ああいや、他を言って自分を措(お)いてはいけません。それは私たち盲人の中にさえあるものだ。この座のうちにも潜んでいるものです。恐(こわ)い。何がといって、権力の魅力ほど恐いものはない。下手人はこれと見つけたり! としておきましょう」
 問「では話をかえて。――当今の武士の廃(すた)れは嘆かわしい。裏切り、偽セ降参などは朝飯前。これを源平時代の武士にくらべると、雲泥(うんでい)のちがいですが」
 答「堕落も泥ンこも、次へたどりつく途中と思えば」
 問「ではまだ当分続くのでしょうか、こんならちゃくちゃのない風潮と、暗黒時代が」
 答「が、必ず朝は来ます。朝の来ない夜はない」
 問「何か、曙(あけぼの)の兆(きざ)しが、ちょっとでも何処かに見えていましょうか」
 答「それはある、萌(も)えかけている」
 問「どこにです」
 答「地の下、つまり庶民の中にです。長い戦乱は、みなを苦しめたには違いないが、庶民の生活(くらし)はいつともなくずんと肥えていましょうが。外へこぼれ出た宮廷の文化。分散された武家の財力、それらも吸って」
 問「そういえば、虐(しいた)げられつつ、庶民の生活(くらし)は枯草のように、前より根強くなり進んで来ておりますな」
 答「自分の力に自覚を持って来たからです。田楽能(でんがくのう)一つに見ても、以前は権門の物でしたが、当今では、河原小屋や辻能(つじのう)で、庶民に愛され、庶民が育てているものとなっている」
 衆「いかにも、いかにも」
 答「また、われら盲人にしても、このような職屋敷を持ち、以前にはなかった職能と人なみの生活(くらし)を得たのは、やはり暗黒の世の陣痛が生んでくれた一つの光明であったのではないでしょうか」
 問「光明……今の世にも光明があるとは初めて伺いました……。無限の暗黒、無限の合戦、無限の南北両朝のお争いかと悲しまれておりましたが」
 答「長い時の流れからみれば、わたくしどもが見た半生の巷(ちまた)など一瞬(しゅん)のまに過ぎませぬ。大地とはそれ自体、刻々と易(かわ)ってゆく生き物ですから、易(かわ)るなといっても易(かわ)らずにおりません。そして易(かわ)り易ってゆく地上には、時にしたがって時代の使命を担(にな)った新しい人物が出現して来る」
 問「そして次の時代を耕(たがや)すというわけですか」
 答「そうです。それが血で耕されるような季節こそ人間最大な不幸の時期に当りましょう。思えば北条殿、新田殿、足利殿、また後醍醐のきみや、幾多の連枝(れんし)、廷臣もみなこの時に生れ合せて、いやでも越えねばならぬ悪時代をこえるために戦ったものとも申せましょうか。……と私は考えるのです。そう思い去り思い来(きた)ると、何十万の白骨もくるめて、上下なく、誰も彼も、ただあわれでなりません。……このあわれを誰よりもよく知って、人間の叡智(えいち)を持てと、あえてすべてを祈りへ捧(ささ)げて壮烈な自滅を取ッたようなお方もただ一人はありました」
 問「それはどなたです」
 答「正成どのです」
 衆「……ああ、げにも」
 問「しかし、それでは運命とは何と不公平なものでしょう。楠木殿のようなお方もある一方、佐々木道誉どののような世渡り上手で狡(ずる)いお人が、憎(にく)ていにいよいよ栄えておりましょうがな。やはり正直者はばかをみるということですかな」
 答「さよう一概にはいえませぬ。道誉どのの無節操や婆娑羅(ばさら)ぶりも、武門の風潮で、あのお方一個が狡(ずる)くて驕慢(きょうまん)なわけでもない。むしろ憚(はばか)りなく、生きたい生き方をやって退(の)けるなどは、それも一流の正直で独自な頭の良さともいえましょうか」
 問「ほ、これは意外な御賞揚ではある」
 答「いや賞(ほ)めはしません。ただ宇宙は人間それぞれの性(さが)をよく公平に“時の役割”に使っていると言いたいのです。彼が道楽に創(はじ)めた立花(りっか)(生け花)、闘茶(とうちゃ)(茶道)なども、やがて観世清次どのの舞能(ぶのう)のごとく、案外、ゆくすえ世の文化に大きな開花を見せるやも知れません。なべて人に役立つものは亡びない。けれどどんな英傑の夢も武力の業はあとかたもなくなる。ですから、もののふとは、あわれなのです。とくに尊氏さまの御一生などは、無残極(きわ)まるものでしかない」
 問「が、お名は千載(ざい)に残る」
 答「いや、それも覇力(はりょく)の名ですから時の移(うつ)ろい次第です。ひとたび足利氏が衰えれば、逆賊、佞将(ねいしょう)、涙なき権謀の人物と、あらゆる悪名や人の唾(つば)を浴びるときがないとも限りませぬ。……ですがわが仁山大居士(にんざんだいこじ)はもう御観念でしょう。何事も大悟(たいご)して、世の流れのままにどんな毀誉褒貶(きよほうへん)もあの薄らあばたを幻(まぼろし)として地下に笑っておいであるに相違ございませぬ」
       ×
 以上、桐蔭軒無言録の問答記事はここで終っており、項(こう)をべつにして、次にはつづいて行われた仁山大居士琵琶法要のもようと、観世清次の手向(たむ)け能(のう)があったこととが記されている。
 職屋敷始まって、始めてのことであろう。
 ――検校(けんぎょう)以下、別当、勾当(こうとう)、座頭が一堂に集まって、しかも丑満下(うしみつさ)がり、おのおの琵琶(びわ)を抱いて、故人の亡魂をなぐさめるため、当道の秘曲をささげるなどの例は稀れにもなかったことである。
 大床(おおゆか)に居ながれた盲人四十余名は、やがて上座にある明石の検校の、
「いざ」
 というあいずを聞くと、各自、うしろにおいていた琵琶のふくろを解いて、絃(いと)を調べ出した。そしてしばらくは大勢の絃(いと)のしらべや転手(てんじゅ)を締める音(ね)などで床(ゆか)はただ水の乱声(らんじょう)するような風情(ふぜい)でしかない。
 が、すぐ粛(しゅく)となる。
 そしてみな、仁山大居士の位牌の方へ坐を向け直して一せいに低い礼をする。
 検校の撥(ばち)に始まって、四十数面の琵琶がいちどに奏(かな)でられ出した。詞(ことば)は平曲のうちでもきわめて淡々と無常を謡(うた)い上げている筋のない一節であり、歌詞はないにひとしいくらいなものだった。けれど四絃(げん)の変化と音色(ねいろ)は当道覚一流の玄妙をつくして余すところもなかった。
 そもそもまだ覚一も小法師の頃から、彼の、黒い網膜(もうまく)に映じていたこの国の内乱と諸相(しょそう)は、彼の琵琶にもつよい影響を与えずにいなかった。
 彼の悲泣は絃(いと)に宿って人の世の黒業白業(こくぎょうびゃくごう)を傷む曲となっていた。単なる無常観に終り切れないで、如法長夜(にょほうちょうや)の闇にもなお朝の光を待ってやまないもの。それが明石ノ浦から興った当道覚一流の格調だった。
 だから新しい。どこか明るい。一同、弾奏を終って、礼をすましたあとも、余韻(よいん)はなお、盲人たちの明日への希望をどこかにただよい繞(めぐ)らせていた。そしてこのあいだに、観世(かんぜ)清次は、道場の一隅で能舞(のうまい)に立つ身支度をし終り、琵琶をおいた大勢の者がひと息つくさまを、こなたで謹んで待っていた。
 これはあらかじめ、検校とのあいだで「御縁にひかれてこよいの御法要につらなるからは」と、ふと話が出来あがっていたことにちがいない。元成が自作の一曲を清次に舞わせて、いまは敵も味方もない足利殿と楠木殿の霊に併(あわ)せて回向(えこう)したいと望み出たのである。もとより覚一に異存はなく、願うてもないよい御回向(ごえこう)とよろこんで、盲(めしい)に見られるものではなかったが、
「故人の霊も目でごらんあるのではない。われらも心の眼で拝見させていただきましょう」
 と、なったもの。
 すでに、宵の打合せで、小右京には鼓(つづみ)をたのみ、元成が太鼓を勤め、卯木(うつぎ)は笛を持つことになっていた。地謡(じうた)を謡い出たのは老法師右馬介である。――それにつれて、大床(おおゆか)の中ほどへすすみ出た観世清次は白の小袖に白地に銀摺(ぎんずり)の大口袴(おおぐち)を穿(は)き太刀を横たえ、尉(じょう)の仮面(おもて)をつけていた。
 驚くべきことには、仮面(めん)は余りにも正成の顔に生写(いきうつ)しだった。しかし、いわれなきことではない。これは湊(みなと)川へのぞむ前のあの哀(かな)しい諦観(ていかん)と苦憂の半ばにあって、ただ永劫(えいごう)へかけての和と人の善智とを信じようとしていた当時の正成を、仮面師(めんし)赤鶴(しゃくづる)が一心に鑿(のみ)に写しとっておいたあの一作であったのだ。
 地謡(じうた)を謡う顔も、笛をふく白い顔も、いつかみな濡れていた。舞は湊川の矢たけびをここに呼び、討つ者、討たれる者の、ひとしいあわれさやら、矛盾(むじゅん)の世が生んだ矛盾の子尊氏と、悲心のひと正成の祈りとを、清次の一つ姿に、足拍子(あしびょうし)もとどろに描(えが)き――そして舞い終ってもなおなかなか終る気色はなかった。
「みな琵琶(びわ)を把(と)り給え」
 と、検校の声がかかっていたからである。四十余面の琵琶は、ただ松風と浪音の宇宙のひびきを一せいに奏(かな)で出し、連れて、笛はさけび、つづみや太鼓もまた、清次のすがたをかりて地上の人みなの平和の願いを打ち囃(はや)すがごとくであった。なんらの違和もない不思議な楽(がく)のあらしとなって。
 いつか外には外で小鳥のさえずりがしはじめている。小鳥の世界だけでない人間界の夜明けもついそこまでは白みかけている朝かのような今朝であった。
了

底本:「私本太平記(八)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年5月11日第1刷発行
   2009(平成21)年12月1日第27刷発行
※副題は底本では、「黒白帖(こくびゃくじょう)」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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