あらすじ
北畠顕家率いる朝廷軍は、足利尊氏討伐に向かうため、東国から都へと帰還する準備を進めています。しかし、尊氏討伐軍の総帥である新田義貞は、瘧病にかかり、播磨への出陣を遅らせていました。義貞の弟、脇屋義助は、兄が内侍の愛に溺れているのではないかと疑い、千種忠顕と共に義貞の高倉の館へ詰め寄ります。一方、足利尊氏の密命を受けた一色右馬介は、住吉の打物屋鳶七と偽り、河内の楠木正成に会うため、筑紫から河内へと渡ってきます。正成は、新田義貞との対立や、後醍醐天皇からの厳しい叱責に悩んでいたため、金剛山寺に籠って心を落ち着かせようとします。そんな中、右馬介は、正成に会う機会を得ようと、金剛山寺へと向かうのでした。
 妙な噂が立った。
 それも宮中からである。正成諫奏(かんそう)の直後だった。
「河内守が乱心した」
「いや気鬱(きうつ)の程度だとか」
「何、そうでない。君前にてあるまじき狂語を吐き、ために謹慎を命じられたものだそうな」
「さよう。自分の聞いたところもそれに近い」
 と、いったような臆測まじりの風聞(ふうぶん)だった。
 公卿目、公卿耳
 と、よくいわれる。
 宮廷人の間には、その環境からも特有な感覚をみなもっていたらしい。正成の諫奏は、内容が内容だけに、そのおりの侍座(じざ)以外には、かたく口を封じられたが、それですらもうこのていどには六位ノ蔵人(くろうど)、外記(げき)、内記(ないき)あたりの者にはささやかれていた。
 事実、あのとき。
 逆鱗(げきりん)はたしかであった。
 いかに御心では、
「笠置(かさぎ)いらいの正成」
 と、特別なおいたわりはあらせられても、あまりな正成の直言には、おむねも痛く、はては御不快を禁じえなくなられたにちがいない。――正成をのこして、ついと謁見(えっけん)の御座(ぎょざ)をお立ちになってしまった御気色(みけしき)にみても、お腹立ちのほどは充分に窺(うかが)われる。
 すぐあとについて、坊門ノ清忠たち列座の公卿も、みかどのこもられた昼の御殿(おとど)へと、ぞろぞろ伺候して行った。
 しかし彼らは、正成のために、逆鱗をなだめようとしたわけではなく、むしろ正成の罪科かろからずとみて、
「廷尉のたわ言(ごと)、いかにとはいえ、このままには打捨ておかれません。わけてお味方の結束を第一とする今。重罰(じゅうばつ)に処(しょ)すべきものかとぞんじまするが」
 と、みかどのお怒(いか)りに乗(じょう)じて、正成の処置を仰ぎに出たものだった。
「…………」
 後醍醐はなかなかおこたえにならなかった。
 豪邁(ごうまい)、英気、また稀(ま)れなほど御自尊のつよい天皇ではあらせられたが、ときにより御反省もなくはない――。それが一廷尉正成にがんと鉄鎚(てっつい)をうけたようなお感じであったとしたら、正成を罰するぐらいでは、容易にお胸の解消にはならなかったであろう。――ややあっての仰せには、こうあった。
「正成はただではない。……清忠も言ったな、気鬱(きうつ)の症(しょう)だと。……おそらくはひどい気鬱なのだろう。しばらく病養を命じおくがいい」
 また、口外はつつしめ、ということも後醍醐から出た御注意だった。公卿たちは意外な感にうたれたが、みことばである、謹んでひきさがった。
 朝廷は多忙だった。――次の日には、北畠顕家(あきいえ)がおいとま乞(ご)いに参内していた。
 顕家はこのたびの功で、位階はもちろん、鎮守府大将軍の号に昇格され、ちかく奥州の府へ帰任することになっている。
 東国や奥州地方は、そのごいよいよ穏やかでない。――正成の一族楠木正家も先に派遣されて、常陸(ひたち)にあり、東北朝廷軍の中心になっていた。――正成の処置に、みかどが御慎重なのは、ひとつには、それにもよるかと、公卿たちはあとで思いあたっていた。
 顕家の奥州軍は、はや、都をひきはらって、みちのくへ帰る――と町ではさかんに沙汰されているのに、
「左中将どのは、まだか」
「まだ播磨(はりま)への御発向にはいたらぬのか」
 と一面では、しきりに、そのほうがいぶかられていた。
 すでに三月である。
 先発の先鋒(せんぽう)軍は、とうに赤松円心や足利の与党がいる播磨地方へついているころだ。――にもかかわらず、尊氏討伐の総帥(そうすい)たる左中将義貞は、いまだに三条高倉ノ亭を立っていない。
 今日もであった。
「……ぜひもないわ」
 その高倉の館を見舞って、むなしげに二条の営へもどってきた弟の脇屋右衛門ノ佐(すけ)義助は、すぐ自分をかこんで問う諸将へむかって言っていた。
「瘧病(おこり)だそうだ……。数日らいの兄者(あにじゃ)の御病気は」
「お会いなされましたので」
「いやお目にはかからん。なにしろおひきこもりなので」
「瘧病(おこり)とはまた」
「よりによってまた、わるい折に御発病となったものだ。……これまで、そのような御持病があるとは聞いたこともなかったに」
 ここの準備はできていた。いつでも出勢できるように、馬寄せ場から兵営全部が、ひたすら勢揃いの日を待機しており、いまはいささか待ちしびれの惰気(だき)すら生じそうだった。
「おう、右衛門ノ佐(すけ)さま」
「瓜生保(たもつ)か。どこへ」
「千種(ちぐさ)殿まで、例の軍状の御加判を願いに行(い)てまいりました」
「おられたか」
「は」
「発向の遅延(ちえん)についても、なんぞ仰せがあったろう」
「さて、困ったものよと、お喞(かこ)ちを洩らされ、ひとつ、佐殿(すけどの)からでもいうてもらうしかあるまいかなどと、お焦立(いらだ)ちのていにござりました」
「わしから何を」
「ご意見を」
「たれへ」
「おそれながら」
「兄者へか」
「さようでしかござりますまい。そのへん、よくは存じませぬが」
 右衛門ノ佐(すけ)義助は、ちらと顔いろを変えた。――このごろ彼の耳へも入っていたことがある。
 勾当(こうとう)ノ内侍(ないし)の噂だ。
 兄が、なかなか腰をあげないのは、内侍の愛に溺(おぼ)れているのだ……という京雀(きょうすずめ)のもっぱらな取り沙汰なのだ。
 義助は馬鹿ナと笑っていた。けれど千種忠顕までが、そう考えているとしたら、あるいはほんとなのかもしれない。しかりとせば、言語道断である。
「おいっ、外記(げき)、もいちど馬を曳いて来い」
 羽川外記に口輪をとらせ、彼はまた二条兵舎の門を出て行った。すぐ高倉ノ亭へ行くつもりだったが、念のためと思い直したものらしい。
「頭(とう)ノ殿(との)(忠顕(ただあき))にはおいででございましょうか」
 と、千種家の門で馬を降りた。
 そして、忠顕との話がつきぬまま、加茂川べりの亭で、宵の頃まで、つい飲んでいた。

「……麗子」
 呼ばれた気がする。
 勾当(こうとう)ノ内侍は「はい」と胸でいってみたが、耳を澄ましたのみなのである。
 麗子とは、彼女の元からの名であった。
 義貞がいうには、いまは後宮にいる身でもないに、なお内侍とは妥当(だとう)でない。これからは麗子と呼ぼう――と、三条高倉亭の奥では、そんなはなしも二人の間にできている。
 この幾日、わずか十日にもまだみたないが――彼女は生きがいの中にいた。わがものと呼べる夫を得、自由を得、またほんとの男の熱愛にも燃やされて、花開く夜の体を初めて自分のうちにも知った。そのよろこびは、うつつない泉に始終せせらがれている姿のようで「――麗子」と義貞に朝夕よばれるさりげないことまでが、いちいち彼女の琴線(きんせん)には、こころよい語感になって、雌蕊(めしべ)の命をふるわすのだった。
「…………」
 今宵、彼女は文机(ふづくえ)のわきに、小さい土炉(どろ)をおいて、薬湯(やくとう)をたぎらせていた。――そしてこれは徒然(つれづれ)がちな宮中ではよくしていた習性から、さる手書(てがき)の「古今和歌集」をお手本として手習いしていた。
「……?」
 やはりお呼びかしら? しばらくすると、彼女はまた筆をおいた。
「そろそろ、お薬湯もさしあげるころ」
 薬※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)(やくわん)へ熱いのを注ぎ、彼女はそれをささげて、すぐとなりの病間へそっと立って行った。温(ぬる)い病臭が灯かげをたちこめ、枕の人は、何も知らぬらしくよく寝入っていた。
 が、人の気配に、義貞はすぐ目をさました。そして自分をさしのぞいていた彼女へ、にっと、笑顔を作って、
「いたのか」
 と、つぶやいた。
「お薬湯を……」
「もうそんな時刻か」
 床のうえに起き直って。
「あ、汗をかいた。肌を拭こう。麗子、鈴を引いてくれい」
 遠くで鈴が鳴った。
 小侍が、廊の橋をかけてくる。耳盥(みみだらい)に湯をといいつける。調(ととの)うと、几帳(きちょう)や壁代(かべしろ)で注意ぶかく風ふせぎを立て、彼女は、義貞に肌をぬがせた。そして、熱いしぼりで義貞の背や腋(わき)を拭きまわった。何か、張合いのある女の善事を励むみたいに、かいがいしかった。
 数日前から、義貞はふと、不規則な熱と悪寒(さむけ)を訴えていた。
 瘧病(おこり)
 だと医者はいう。
 いまはそんな病名はない。「和名類聚鈔(るいじゆせう)」の病名部によると一名瘧病(えやみ)ともただ瘧(ぎゃく)ともいい、寒熱(かんねつ)、時ヲ措イテ振フ、とあるから今の流感に似て急性な症状でもあったろうか。
 噂は、嘘ではないのだった。
 ――ところが、この夜、
「なに。ご病中だと。ならば御病間でさしつかえない。取次げ。通さんなら通るまでだぞ」
 と、表の方で、あらあらと、家臣たちをどなりつけていた者がある。
 右衛門ノ佐(すけ)義助だった。
 すこし酒気もおびている。同夜、千種忠顕の邸で話しこんでいた彼。その足であった。何か、兄の義貞について、腹をたてて来たものらしい。
 そこの病間へ、
「ただ今、ご舎弟様が」
 と、家臣たちのあわただしい取次があったときは、もう渡りの廊のあたりで、脇屋義助の大きな足音がしていたのだった。
 勾当ノ内侍は、いや麗子は、まだ曠(は)れては、一族の人と顔を合せていないので、
「私は」
 と、いそいで、となりの間(ま)へ立ちかけた。
「いや」
 義貞は、裳(も)を抑(おさ)えて。
「ここにおれ。居てもよい」
 すぐそこには、右衛門ノ佐(すけ)義助のいかつく坐りこんだ姿を男女(ふたり)は見ていた。さすが薬湯の匂いやここの病臭は、義助の不作法をちと鼻白(はなじろ)ませたふうだった。――義助は仮病だと信じこんで来たらしい。それは、千種忠顕が「――仮病らしい」と彼に吹きこんだからだった。
「義助か。……昼も見舞うてくれたそうだが、このざまでの。……しかし夜中に、何事がおこったのだ」
「別条ではござりませぬが、こよい千種殿のおやかたで、我慢ならぬことを耳にいたしまいて」
「播磨(はりま)発向の遅延(ちえん)だろうが」
「それです」
「病には剋(か)てん。いかな義貞たりとも」
「ところが、千種殿は、笑うておられまいた。義貞ほどな武将も、女にはだらしがないと。……そして、自分が左中将の切ない恋を察して取りもったことも、また、せっかくな主上のおぼしめしも、これでは逆になった、仇(あだ)になったわえ……と、しきりなお悔(く)やみ。義助として、黙ってきいてはいられませぬ」
「……で、そちは何とおこたえしたのだ」
「見とどけましょうと」
「見たろうが」
「その女性(にょしょう)ですな」
「いや、わしが仮病か、仮病でないか、そのことをだ」
「それはわかりました。けれど千種殿のお疑いも、むりではない。時が時です。尊氏討伐を前にして、内侍の愛にひかれ、御門もとざしているとあっては」
「嫉(や)っかみだ、世間の口は」
「いや何であれ、ご病気も嘘でないが、そこな女性と離れがたいお心もあるにはちがいない。それも余人なら知らず、三軍の上に立つお方がそれでは困りまする。わけて河内守正成が、直々(じきじき)、主上へ御進言申したとかいう取り沙汰もある折に」
「正成が」
 義貞のひとみに、ちらと猜疑(さいぎ)めいた光がうごいて。
「なにを、主上へ?」
「さ、何かは洩れていませんが、もちろん軍沙汰のことでしょう。正成発狂などと申す極端なことをいう者もありますが、そうではなく、何か、非常な決意をもって、御諫奏(ごかんそう)に及んだらしく察しられまする」
「……ふム。……いや義助、とまれ讒者(ざんしゃ)にとれば、わしが女色(にょしょく)に溺れているなどは、よい口実になるだろう。正成も言いかねぬ」
「自分もそれを惧(おそ)れます」
「よし、立とう。病を冒(おか)して、明日にでも播磨発向の途へ」
「えっ、お立ち下さる?」
「知っておけ。義貞、この女はぞっこん好きで好きでならぬが、さりとて軍(いくさ)を怠るものではない。そちまでがわしを虞氏(ぐし)に溺れた項羽(こうう)のごとき愚将と見るな」
 いうならば、武門生活はいつも剣(つるぎ)の林の中に在(あ)る。
 まちがえば、ここの猛者(もさ)は不平にうごいて、いつ味方が味方を制裁に出る両刃の剣戟とならぬかぎりもない。――まして殺気満々な戦時下だ。大将たりとその大将の座に、晏如(あんじょ)と驕(おご)っているなどは、すこぶる危ないものであるぐらいなことは、左中将義貞ほどなものが、わきまえていないはずもなかった。
「御発向だぞ」
「明、三月六日」
「都門を立つは辰(たつ)ノ刻(こく)」
 右衛門ノ佐(すけ)義助が、三条高倉を辞して、やがてまもない後である。この陣布令(じんぶれ)は、洛中に散在している諸武家の屯(たむろ)へ、触れ廻され、戞々(かつかつ)の駒音が、夜どおし、都大路に鳴っていた。
 もちろん、義助が帰ったあとの高倉ノ館(たち)でも、例外ではない。足もとから鳥が立つような準備に邸内は夜を徹していた。――が、なおまだ渡りの廊の彼方の一亭だけは、夜を惜しむひそけさだった。……暁まではと、几帳(きちょう)の蔭にすすり泣く黒髪のひとの恨みが細い灯影をいとど淡(あわ)くし、義貞の膝を濡らしていた。
「わかったな、麗子。……それとも、まだ得心がまいらぬか」
「い、いいえ」
「ならば、泣くな。日ならずして、凱旋する。その日を待て」
「……はい」
「ここは後宮でない。涙など武門では不吉とする。とりみだすのは」
「殿。お別れを悲しむだけではございませぬ」
「では、何を」
「まだお病気(いたつき)も癒(い)えきらぬお身で……。そのおからだでと思いますと」
「ぜひもない。これが武者というものだ。からだもつらい。そなたとの別れはもっとつらい。だが武門とはこうしたもの。……後宮は火宅とか、そなたは言ったが」
「ええ……」
「武家は常住、剣(つるぎ)の中の起(お)き臥(ふ)しだ。世の定まらぬうちは安心ということはない。いつもどこかに敵を持つ。その覚悟なくては武家の女房とはなれぬ。いっそまた、そなたは後宮が恋しかろ」
「めっそうもない。むごい仰せばしでございまする」
「女人は三界に家なしとか。むごいのは、そういう約束の世をこの地上に作った人々だ。あわれとは思うが、ぜひもない。……お、たれか来る。離せ」
 足音は、家臣の群れだった。金属的なひびきがすでに彼らの鎧(よろい)いでたちを思わせる。――でも、憚(はばか)ってか、廊の遠くで。
「殿、殿。……はや夜も白みそめて見えまする。疾(と)うお身浄(みぎよ)めのうえ、おしたくを」
「おうっ、いま参る。一同、外殿(げでん)に揃うて待て」
 義貞の声も大きかった。
 しかし、遠ざかる武者ひびきへ耳をすましていた彼は、やにわに瘧病(おこり)のような発作で、彼女の白い濡れた顔を胸の下に抱きふせにかかった。とっさに、彼女のうけた彼の唇は乾いていて火みたいに熱く、羞恥もゆるしておかない気短なあらあらしい動作は、たちまち彼女に夢魂(むこん)のさけびをあげさせずに措かなかった。――それは後宮の火宅を出て、また剣(つるぎ)の門へ嫁(か)した三界に家なきものの悲哭(ひこく)とも歓喜ともつかない異様なまでの罪深いあえぎであった。

 半ば、この発向は、義貞の意地でもある。
 病間窶(やつ)れの翳(かげ)に加え、眼はするどく、大鎧(おおよろい)も重たげに、
「陽(ひ)も、久しぶり」
 と、馬上、弥生(やよい)の空の下へ出たが、まだ気懶(けだる)く、麗子のからだの香までが、心の奥にのこっていた。
 しかし、二条、三条ノ辻、朱雀(すじゃく)の大路(おおじ)と、諸所に勢ぞろいしていた万余の軍勢を一巡閲兵してまわると、ひたいは発汗に濡れて来て、もう彼女の存在など毛穴の一つにもとどめてはいず、完全なる三軍の将義貞だった。
「止まれ」
 里見義胤(よしたね)の一号令に、旗本隊はざッと一せいに騎を降りて、そして同じく、徒歩(かち)となって一人彼方へ行く義貞の背を見まもっていた。
 花山院の仮皇居の前である。義貞は衛門まで進んで出陣の奏(そう)をよそながらお告げした。と、その門内からだった。
「おう、左中将どの」
「や、千種(ちぐさ)どのか」
「ご快気の由、めでたい。今朝(こんちょう)、出陣と聞しめされ、天機もことのほかお麗(うるわ)しく拝された。尊氏の首をみる御殊勲の日をお待ち申すぞ」
「お贐(はなむけ)の辞、かたじけない。――じつは瘧(ぎゃく)を病んで、まだ少々病余にはござれど、武士の一分(ぶん)、押して今日発向つかまつる。仮病にてはあらざりしことも、いつか上聞(じょうぶん)に達しおかれたい」
「はははは」と、忠顕はあしらって――「夜前(やぜん)、右衛門ノ佐(すけ)から何か聞かれたな。しかしお腹を立てられな。正成の諫奏、其許(そこ)にたいして、容易ならざる儀を申しあげたと洩れ聞いたからだ。万一にもそのような献言が君辺をうごかすにでもいたってはと」
「あの河内守が、何事を」
「聞かぬがおよろしかろう。すでに正成は、気鬱(きうつ)重(おも)しとあって、御陣簿(ごじんぼ)からのぞかれ、閉居を命ぜられておる」
「とるにたらぬ河内の一守護。聞きますまい」
「喬木(きょうぼく)風にあたる。何しろ、御勲功の赫々(かっかく)たるほど、人の嫉(や)っかみもしかたがあるまい。わけて特に、君寵(くんちょう)義貞に厚しともあれば……」
「お、申し忘れた」
「なにを」
「三条高倉の家に、あわれなる女をひとりのこしてまいる」
「勾当(こうとう)ノ内侍(ないし)?」
「その内侍です。もし女の望みで、生家へ帰りたいとなら生家へもどしてやっていただきたい。もしまた、あなたが御所望なら千種どののお内へおひきとりくださるるもよい」
「お戯(たわむ)れを」
「いや、つくづく、女をあわれと思うてのことです。この十日余、かたじけない恩寵の賜物には堪能(たんのう)いたしたが、義貞は武人、ひとたび門を立ってみれば、生死のほどは測りがたい」
「…………」
「かたがた、このたびの遅延を、女色に溺れたためと、世上に風聞をたてられたなども不覚至極。……義貞の前には、尊氏があり申した。尊氏を討つのほか、何が今、男の意地にあり申そうか」
「出来(でか)された。それでこそ源家の嫡流を辱(はずかし)めぬ新田殿と申されよう」
「おだてめさるな。はははは。おさらば」
 義貞は自分を待つ騎列の方へ、さっさと大股を返していた。

 春の気象としては、とんでもない一ト晩だった。雷があばれ、大雨が翔(か)け狂い、明けてみると、住吉の燈明台はまず無事でいたが、倒れた松の数は知れない。
 こんな朝を、からくも漂い着いていた船もある。
 大きいのはいずれ四国か西国船であろう。いまやこのへんは都の食糧輸送路として活溌な役をはたしていた。嘘みたいに、空は青く照りかがやき、余波(なごり)のしぶきもまだ白い浦曲(うらわ)の諸所では、早や荷下ろしが始まっている。また、命びろいしたような態(てい)の旅人たちは、思い思いな方角へみな足早に散らばって行った。
「はてな」
 これもその一人。木妻(こづま)ノ辻のあたりまで来て、附近の新開地的な変り方に、雲水(うんすい)は驚いていた。
「いや、やっぱりここだ。戦とはさて皮肉なもの。都に焦土(しょうど)がふえる一方、ここらは逆に繁昌していたわけか」
 どこかでは、刀鍛冶の澄んだ鎚音(つちおと)がひびいている。行くほどに、「後藤助光」と木札を打った一軒の門もながめられた。さらに行くと、もっと軒ばを接しあった長屋の一聚落(じゅらく)が騒音とともにあった。――染屋、革はぎ、飾り師、小札(こざね)鍛冶、弓師、鎧師(よろいし)など、すべて武具の一大工廠(こうしょう)ともいえる職人町の横丁だった。
「おい、坊主坊主」
「え?」
「どこへ行くんだ。こんなところへ無断でへえって来ちゃあいけねえよ。無用の者入るべからず、と長屋木戸に立ってる札が見えねえのか」
「おっ。……禿鳶(はげとび)だったな、おまえさん」
「なにを」
「めずらしい」
「ふざけるな。乞食坊主に知り人はねえや。おれはここらの具足師をしめくくッている打物屋の鳶七(とびしち)ってんだ。てめえらに禿鳶なんて馴れ馴れしく呼ばれてたまるか。さ、出ろ出ろ、木戸の外へ」
「わからぬかな、おれの顔が。おい禿鳶、六、七年ほど前を思い出してみな」
「え。……?」
「柳斎(りゅうさい)だよ、おれは」
「あっ、あの」
「当時はここの一軒に住んでいた具足師の柳斎だ。変ったなアこの界隈(かいわい)も」
「これや驚いた。変ったなあ旦那の方ですぜ。どうしてそんなお身なりに」
「笑ってくれ。命が惜しくなったんだよ」
「へえ、いま頃はさぞ、いぜんの主家へお帰ンなすって、数々な功名も立てておいでだろうと思ってましたが」
「その足利殿がだ、あの大敗をかぶッたあげく筑紫落ちと落ちぶれ果て、しょせん、見込みもなくなったわさ」
「だめですよ、だんな」
「なんで」
「しらを切ッたっていけません。きっと足利勢はまたもりかえしてくると、たれだってそう言ってますぜ。それに、だんなが足利家の内でも古参な一色右馬介(いっしきうまのすけ)ッてえ人だったことなんかも、あとで鳶七(とびしち)も聞いていまさあ」
「そうかい。……」介(すけ)はふくみ笑いを持ったまま。「ま、どっちとも判断はまかせよう。それよりはむかしの縁。朝飯でもと言ってくれないか。ゆうべの風雨(しけ)で命拾いをして来たばかりなのだ」
 むかしは柳斎と変名していた介(すけ)の下で、手代をしていた鳶七である。
「お安いことで――」と、すぐ彼をわが家へともなって、朝風呂をたて、着がえをすすめ、旧恩を思ってか、下へもおかなかった。
「ほ。……なかなか豪勢な住居じゃないか。ええ禿鳶(はげとび)」
「へへへ。おかげさまで」
「いくさつづきで福々というわけだな」
「なにしろ、具足師などはいくらいたって足りゃあしません。それに近年では、禁裏御用も殖(ふ)え、諸家からは、あばき合いで買占めに来るし、でしてね」
「儲かってたまるまい」
「正直、こんな景気がもう十年もつづいてくれるようにッて――ごらんなすって、あの通り神棚へお神酒(みき)を上げて朝夕祈ってるんですよ」
「ははは。たまらんなあ、そう祈られては。ここらだけではあるまいが、住吉、堺(さかい)、そのほか諸所の鍛冶屋千軒、具足師すべてが、みな家蔵(いえくら)たててゆく一方、天下の武者は、殺し合いに殺し合い、やがて死に尽してしまうだろう」
「なアによくしたもんで」
 と、鳶七は、妾らしい女が運んできた膳部の盃をさっそく取って、右馬介へ酌しながら、
「いくらでも、あとから人だねは尽きませんしさ、それにだんなの前ですが、武家もお公家もあんまり悧巧じゃありませんからね」
「ひどいやつだな」
「だって、だんなはもう武家をお廃(や)めなすったんでございましょ。……それとも」
 と言いかけて、
「おい、あっちへ行ってろ」
 と、鳶七は急に、そばにいた女をあごで追いやった。
「だんな」
「何だ」
「ほんとのことを仰っしゃいよ。鳶七がこうなったのもあなたのお蔭だ、忘れちゃいませんぜ。――六年前、ここの具足師長屋は柳斎だんなの持ち物でしたよ。それが六波羅滅亡の兆(きざ)しと一しょに、だんなはここへ戻らず仕舞い、あとはごっそり鳶七が貰ってしまったというわけでさ」
「そうだったかな」
「おかくしなすっていらっしゃるが、ひとつ、図星(ずぼし)を中(あ)ててみましょうか」
「なんの」
「だんなの腹をさ」
「む、言ってみな」
「兵糧にはお困りなさるまいが、筑紫(つくし)といっても、武具や打物には調達にもかぎりがある、また急場にもまにあわねえ。そこで住吉、堺の鍛冶、具足師から買上げて、ごっそり船へというお使いじゃねえんですか」
「どうしても、おれをまだ足利家の者としか見ないのだな」
「一朝一夕(いっちょういっせき)に、あなたが足利家から離れるなんて、得心はできません。そうなんでしょうだんな。それならそれで、おうちあけ下されば、鳶七(とびしち)だって、一ト肌でもふた肌でもぬいでみせますぜ」
「いや、ちがう」
「ちがいましたか」
「腹を割っていうが、じつは察しのとおり、足利の大殿のお使いでは来たのだが」
「それごらんなさい」
「しかし武器の調達などではない。極秘裡(ごくひり)に、河内の楠木どのに会うため渡って来たわけだ」
「え。楠木さまへ」
「こう、打ちあけたからには、鳶七、口外するとゆるさんぞ」
「なんで。ですがだんな。ここらも今は河内守さまの御領内。油断はできませんぜ。いったい何の御用向きなんで」
「それは訊くな」
 右馬介は、まったく、あらたまった容(かたち)になって。
「たしか近くの四天王寺には、正成どのの御舎弟が陣所を構えていたはずだな」
「いえ、その正季(まさすえ)さまは、つい先頃、おひきあげと聞いてますが」
「河内の本拠へか」
「筑紫からおいでなすったんでは、まだ御存知もないでしょうが――都にいた正成さまも、新田将軍の追討軍からのぞかれて、いまでは河内の奥に御屏居(ごへいきょ)だっていうこってすぜ」
「屏居とはおかしいな」
「それがいろんな噂でしてね。みかどのお怒りをかったのだとか、ご病気だとか、中には、いや乱心だなんていう取り沙汰までありますが、ほんとのとこは、どうも新田殿とうまく折合いがつかないための帰国だろうっていわれてるんで」
「そうか」
 介(すけ)は、ちょっと、考え込む。あらぬ方へそらした目は、何か、いちばい目的への希望に燃えたふうだった。
「そうか」と、もいちど同じ嘆きをくりかえして「――笠置(かさぎ)いらいの功臣、千早金剛でもあれほど働いた正成どのが、兵庫合戦では後陣へ廻され、またこんどもそうだとあっては、さだめし不平も大きかろうな。何か領内の不穏は聞かないか」
「さ。そんな噂は耳にしていませんが」
「鳶七。じつはこれが頼みだ。ひとつおれと一しょに、河内へ行ってくれないか。密々に正成どのへ近づきたい」
「始終、御用をうけたまわっているおとくい先。いつでもお供はいたしますが」
「とうに先では忘れていようが、六年前、龍泉殿(正季の屋敷)の武器庫の土用干しに、ひと夏、雇われていったことがある。――正成どのと会わぬうちに、そのときの具足師柳斎と、他に見やぶられてはまずいのだ」
「ようござんす」と、鳶七はのみこんだ。
「――じつあ楠木家からも、物具(もののぐ)の繕(つくろ)いがたまっているから諸職の職人二、三十人よこせといわれていたんです。だがここのとこ、手不足なので、まだ十人ほどしかやっておりません。至急、あと一ト組を連れてゆくことにしますから、その仲間に交じってお出(い)でなすっては」
「たのむ」
 介は深くあたまをさげた。
 何かよほどな彼の使命らしい容子がそれにもみえる。もちろん尊氏の密命たるはいうまでもない。
 その日、僧服をぬいで、彼は一個の職人に姿を変えた。あたまは、あれからも伸び放題な蓬髪(ほうはつ)だった。それを渋染の布で粽頭巾(ちまきずきん)にしてつつむ。
 いたって、のん気な旅にみえた。鳶七が連れた職人は十人ばかりで、中に交じって行ったのである。介は元々、具足師で飯をたべてきた者だし、職人気質(かたぎ)にそつはなく、誰あやしむ者もなかった。
 ほどなく南河内へかかる。
 赤坂城がすぐ目に入った。
 南河内もここらまで入るとまったく山里の感で、世が戦国とは信じられぬほど、人の顔までが暢(の)んびりみえる。
 葛城(かつらぎ)
 金剛
 も、今日は薄むらさきの奥にいて、ひどく遠くなもののように霞んでいた。
 山腹や麓の部落には、さくらも桃も一しょに咲いてきたし、下赤坂(しもあかさか)の城、また、かつての水分(みくまり)の御本屋(ごほんや)(館(たち))も、みな新しく建て直っている。
 その御本屋の前には、大きな桜の木があった。“駒つなぎ桜”と里人が呼んでいたものである。かつての年、正成がみかどの召(めし)にこたえて、みずからここの館(たち)も焼きすてて千早(ちはや)の上にたてこもったときは、もうこの桜も枯死したかと惜しまれたが、年々歳々、春が来れば、花はこの老木からまえにもまして万朶(ばんだ)にたわわな精を咲かせた。――里人は火に会ったのに不思議なと首をかしげ、これも御武運のつよいせいだ、いよいよ御本屋様の瑞祥(ずいしょう)であろうなどと解ったようなことを言いあった。
 きのう、きょう。
 その桜も散っていたが、散るのが愉しくてならないように、そこの下には、追われても叱られても、すぐ子供らが群れ集まった。侍長屋の子やら近くの農家の鼻タレたちである。騒いでいた男の子の一ト組が駈け去ると、こんどは女童(めのわらわ)の組だけで鞠(まり)をつき、鞠つき唄をうたっていた。
朝ざくら
朝ざくら……
 と、声をそろえ。
夕べのさくら
さくら咲く
桜の里の
さくら乙女子
 正成は遠くにこれを聞いていた。奥の書院で法華経の写経をしていたのである。――筆をおき、自分も胸のうちで、唱歌をまねているうちに、ふと、写経机に涙をたれた。
 焦土の都ではじつにさまざまな女を見かけた。売女、女盗人、女喧嘩、餓鬼のように髪ふりみだして女の羞恥(しゅうち)もわすれた生態を見るたびに、彼は彼女をこうさせた戦のとがに「あわれ……」と胸を痛めるのが常だったが、この里のさくら乙女子たちも末始終まで、あのきれいな声と平和な姿でいられるだろうか。
 こころもとない。むずかしい。武家のみならず、主上をめぐる堂上の公卿までがあのようでは……と思うにつけふと目が濡れてきたものだった。
「……われながら」
 正成は、自嘲を覚えた。
「人のことばのごとく、これはちと、自分の気鬱(きうつ)気味か」
 彼が郷里へ帰ったのは、もう十日ほど前になるが、たれ知らぬまであった。だが、つづいて四天王寺の正季(まさすえ)もひきあげて来たことから、がぜん四隣の族党のあいだでは、いろんな論議や臆測がおこっていた。それらをなだめるのにも正成はひと骨だった。
「おつかれでございましょう」
「お、久子か。いい日だな」
「まことに。……お茶なとひとついかがでございますか」
「もらおう。ところで、あの門前でうたっている童歌(わらべうた)は」
「お耳ざわりでございましたか」
「いや何、古い里歌(さとうた)でもなさそうなと思ったまで。たれが作って教えたのか」
「卯木(うつぎ)さまでございまする」
「卯木があの鞠歌(まりうた)を童(わらべ)たちへ教えたのか」
「はい」
「……道理で」
 と、正成は久子のいれた茶を舌にまろばすほど少しふくんで。
「卯木と元成との仲に生(な)した子も、しばらく見ぬまに大きくなったな」
「もう四ツになりまする。……観世丸(かんぜまる)も」
「観世丸か、名もめでたい」
「夫婦(ふたり)して長谷(はせ)へお礼詣りに行って参籠(さんろう)したせつ、いただいて来た命名とやら。何ぞ長谷へ願(がん)を結んでいたことがあったのかもしれませぬ」
「あの妹夫婦の願掛(がんか)けと申せば、武門の外に生きたい、人を楽しましめる芸道のみちに立ちたい、ということであろ。――このごろは口に出さぬが、いぜんにはよく申しておった」
「ええ、卯木さまのお気もちもそれなのでしょう。この乱世、親はぜひもないが、子だけには芸能なと仕込んで、やがては自分たちの意志をつがせようとなすっているようでございます」
「皮肉だの」
「なぜですか」
「その観世丸が生れたのは、四年前、あの千早籠城の中だった」
「ほんに、わたくしたち初め、草や木の根を喰べていた中でしたのに、ようひとりの赤子でも、乳も出ぬ母御の手に、無事に育ったものでございますなあ」
「そうだ」
 思い立ったように。
「久子。あとで山支度を揃えておいてくれい」
「お出ましですか」
「法華経一巻、あと、奥書だにすれば写経が終る。それをたずさえて山上の金剛山寺(こんごうせんじ)におさめ、参籠(さんろう)をも遂げてまいりたい」
「では七夜(ななよ)も」
「いやほんの、ひと夜」
 久子が去ったあと。写経の末に願意、年月、姓氏を書きいれた。そしてもう半年も前から精進していた他の数巻とあわせて経箱へおさめ、また自身、廊の端の掛樋(かけひ)へ行って、課業のすんだ硯(すずり)の墨を洗っていた。
「や、ここにおいでなされましたか」
「爺(左近)か。何用」
「ただいま御門そとへ、えらく大勢まいりましてな」
「大勢」
「はい。住吉の打物屋鳶七(とびしち)と申すのが、お頼みうけていた武具繕(つくろ)いの職人どもをやっと都合つけて連れまいりましたとのことでござりますが」
「それなれば龍泉の屋敷へやれ。正季(まさすえ)が頼みおいたものだろう」
「いや龍泉殿へまいったところ、正季さまがお留守とあって、こちらへ来たもののように申しまする」
「留守か。では爺、そちが下赤坂(しもあかさか)の城へひきつれて行け。そして物具(もののぐ)奉行の佐備(さび)正安へ渡すがよい。さきにも諸職の工匠(たくみ)が入っていること。正安が心得おろう」
「かしこまりまいた」
「爺、待て。わしもその間に山上の金剛山寺へまいるであろう。ひと夜留守になる。たのむぞ」
「これはまた」
 と、爺の恩智左近は、仰山な目をみはって。
「俄に、何の思し召で」
「いや、かねがねの所願、出来心ではない」
 と、正成は笑った。
 山支度はほぼ狩猟(かり)いでたちのそれに近い。弓の代りに山杖を持っただけである。
 納経(のうきょう)の経巻は、これを、一族河原ノ入道の子、蔦王(つたおう)という童武者に負わせて。
「久子、行ってくる」
「あ、おまち遊ばして。お供の郎党たちは何しておりますやら」
「いや、それにおよばんと、いま了現(りょうげん)や新左の言もしりぞけたところだ。案じるな」
「でも、正季さまも仰っしゃっておられます。とかく兄君はお身軽すぎる、和泉、河内の御守護、もちっと、重々しゅうしていただきたいと」
「正成に敵はないはず。正季が叱ったらそういうがよい」
「では、せめて正行(まさつら)でもおつれなさいましては」
「正行は勉強部屋、そっとしておけ。また正時や三郎丸(正儀(まさのり))もさっきから大庭のすみで、独楽(こま)遊びに無心のようだ。あれもそのままがよい、そのままが」
 彼はもうそとへ出て、駒繋ぎ桜を通りこしていた。一童子の背に巻(かん)を負わせ、先へ山杖ついてゆく藺笠姿(いがさすがた)は、守護の御領主とはたれにも見えそうもない。画中の一道者(どうじゃ)か山人(さんじん)のようである。
 が、下赤坂城の近くへ来ると、ちょうど大手へ曲がりかけていた一群の雑人どもをうしろに、爺の左近が目ばやく気づいて、遠くの方で立礼していた。
 おそらくは、爺の注意によって、爺に導かれていた鳶七(とびしち)や以下の職人たちも、
「え、御本屋様か」
「あれが、正成様だって」
 と、あわてて礼を揃えていたものだろう。どれもこれも、首をあげて、あと見送りながら言っていた。
「えらくお身軽なもんだな。河内の殿さまは」
「お供といったら童(わっぱ)ひとり連れたきりでよ。ねえ御老臣さま」
「いつもここの殿さまはああなんですかい。あれでどこへお出かけなんで?」
 爺の左近は、
「ご参詣じゃよ」
 と、それへ言った。
 ぶっきら棒な答えでしかなかったが、彼ら凡下(ぼんげ)の推量(おしはか)りで、殿を軽んじるようではならぬと考え直したか、また自分からこう語り初める――
 過ぐる年の千早、金剛一帯の攻防戦では、何万人が死んでいる。お館(やかた)さまには、諸所に遺骸を寄せて、そのご敵味方なくご供養されてきたが、今日も御自身写経の何巻かを山上の御寺(みてら)へ納めにおいでられる。――いやそんな御奇特(ごきとく)は一再(いっさい)でない。さきにも天野山金剛寺や観心寺やまた久米田寺などへも、同様な納経をしておいでになった。――すべてそれは一日もはやく天下泰平万民安堵(あんど)の日が来るようにとの切なる御誓願(ごせいがん)にほかならない……。
 爺は、わがおあるじを頌(たた)えることに得々となって、そう、しゃべりつづけていた。
 くそおもしろくもねえ、と言いたげなソラ耳でいたのは一行の鳶七だった。それにつづいてはこの中に交じっていた右馬介である。――彼もこの老臣の饒舌(じょうぜつ)などへは面もむけていなかった。――そしてはや水分(みくまり)神社の見える山坂道のほうへ小さくなりつつある正成の姿へ、飛び出すような目をして、じっと見送っていた。

「蔦王(つたおう)。あるけるか」
「もっと早くですか」
「そうそう。そちは正行(まさつら)より一つ年下、わしなどには負けられんな」
 蔦王の父、河原ノ入道は、一族の正家に附随して、遠い東国の常陸(ひたち)へ赴任しており、兄の九郎正次は、天王寺在番として残されている。母はいない。……で正成はそれとなく、日頃、あわれをかけていた。
 しかしこのいたずら盛りは、今日しも正成の供にひとり選ばれて来たにかかわらず、目をはなすと、いつか正成のうしろにも見えず、とかく道くさばかり食っていた。
「はて。また」
 正成は立ちどまる。そして遅れた彼の姿をうしろに見つけてほほ笑んだ。
 上の水分(みくまり)神社の桜も、下の山添い道の山桜も、散りぬいていた。花ビラの斑(ふ)の妖(あや)しい舞が彼の童心を夢幻と昂奮(こうふん)の渦にひきこむのか。または子供の野性というものは、余りに美しいものへは嗜虐的(しぎゃくてき)に、かえって無性な暴に誘惑されて挑(いど)みかかってみたくなるものか。
 見ると、蔦王は、棒切れを持って、跳びかかり、跳びかかり、花の梢を打っては歩いているのである。そして白い花の吹雪が変化(へんげ)にでも見えるかのように、ひんぷんと散り舞う物を相手に、独りで立廻りを演じたりしているのだった。
 ふと正成の胸に、何かの書で見たたれやらの詩句がうかんでいた……
適(タマタマ) 伴(トモナ)フ児童
落花ニ戯レ
闘ヒ去リ 闘ヒ来ツテ
転(ウタタ) 風流
 正成は彼を呼ばなかった。ゆっくり先へ歩いていた。
 花なのでほほ笑まれ、児童なので、うたた風流、とも見過ごせたが、人間の子には本来、蔦王のしていたような性情が生れつきあるらしい。余りに完全なもの、熟(う)れきった美しいもの、また超然たるものを憎む。理由なき憎しみと、その壊滅を見んとする快感とにそそられる。その天邪鬼(あまのじゃく)な人心が大きく動いては、しばしば地上の大戦も呼ぶ。
 藤原氏が亡んだのも、平家が亡んだのも、また北条氏が亡んだのも、直接打ったものは武力という棒切れだが、案外、それを望んだ意欲は民心という天邪鬼がさせた業(わざ)だったかもしれないと、正成は歩きながら考える。――そして現朝廷の危殆(きたい)がまた、それでなければ幸いだがと思うと、ふと道も暗いここちになった。
「おやかた様、おやかた様」
 追っついて来た蔦王は、ひとりで笑いこけながら――
「そっちへ行っては道がちがいます」
「ほんにこう参っては桐山へ行ってしまうな」
「おやっ?」
「どうした、蔦王」
「あんなところに、野晒(のざらし)がすててある」
「野晒」
「ええ、人間の」
「捨てたのではなかろう」
 数日前の大雨に土砂と共に流されてきたものとみえる。洗われて真っ白になった一個の頭蓋骨(ずがいこつ)が、木暗(こぐら)い崖すそに、半ば埋もれていた。
「蔦王、拾って抱いて来い」
「え。あれをですか?」
 山坂いくつ。肌は汗だが、山高まるほど、山気(さんき)は冷々(ひえびえ)と毛穴にせまる。
「おやかた様」
 蔦王は始終うしろからしゃべりかけて行く。持たせられた骸骨(されこうべ)が不気味でならないものとみえ、
「この野晒(のざらし)は、どうなさるんです。上の金剛山寺(こんごうせんじ)まで持ってゆくんですか」
「む」
「それよりは、おやかた様、おととし、お坊さんをたくさん呼んで御供養なすった戦死者塚が途中方々にあったでしょ。そこへ埋(い)けてやればよい」
「でもな……」
 正成もぜひなく、たまにはそれへ返辞をしてやる――
「千早籠城から四年もたって、ゆくりなく、正成の手に拾われたその白骨だ……よほど宿縁……御寺(みてら)まで連れて行って、参籠のついでに、よう御供養をして上げようよ」
「だって」
 蔦王は、艶のない卵白色の物の眼窩(がんか)を気味わるそうに手に覗いて。
「敵だか味方だかも分らないでしょ。こんな亡者」
「よいではないか、敵でも」
「敵は憎い。そうお思いになりません?」
「死ねばたれもおなじ相(すがた)になるのだ。おまえの父も、東国で戦っている。東国の野で野晒となるかもしれん。正成もまた死ねばそのとおりな物になる」
「武士の家に生れたからにはしかたがないと、いわれています」
「だがの、憎しみ合いは、生きてる間でたくさんだろ。死者とは業(ごう)を終ったひとのことだ。ほとけさまだ、そのなにもないきれいな相(すがた)を見るがよい」
「ちっともきれいじゃありません」
「はははは、しかしもし、その白骨の人の妻なり子なりの手にそれが届けられたら、子は抱いて涙をそそぎ、妻は頬ずりもするであろう。どんなきれいなものも、そのきれいさにおよぶまい」
 蔦王には自分に関係もないはなしに聞えた。道はへんてつもない谷間へ入り、また次の胸突きを先に見上げていた。
 ここらの木暗(こぐら)い所には、なお拾われない白骨が土や落葉の下にどれほどあることかわからない。正成の心耳には切々とその浮かばれぬものの鬼哭(きこく)がわかる。石も草も木も蕭々(しょうしょう)と物みな哭(な)いているようで、しかもその幽鬼(ゆうき)がみな自分を指さして責(せ)め※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)く。
 ――千早の大将が来たよ
 ――正成が行くよ
 ――あのひとが千早にたてこもらなかったら、おれどもは死ななかったかもしれないよ
 ――敵のおれどもも討たれはしなかったろうによ
 ――死ね死ねとあの人は言ったのに、あの人はすまして生きているよ
 ――果てなく出世するつもりだろうよ。おれどもだけは浮かばれないよ
 今日だけとは限らない。正成はこの附近の谷を通るといつも地下の声を聞く。もろもろな形なき物に足もとをまといつかれる。だから口に真言の秘経をとなえて通るのがつねであった。
 そしてまもなく頂上にのぼり着く。豁然(かつぜん)と、心がひらけ、夢魔(むま)から醒(さ)めるのもつねであった。十方の碧空(あおぞら)にたいして、恥じない自分をも同時にとりもどしていた。
 金剛山寺(こんごうせんじ)では正成の不意なおとずれに、院主(いんず)役僧らまで、何事かと驚いたらしく、
「まえもって、御登山をうかがっておりましたらお出迎えにも立ちましたものを」
 と、客殿にこの風来な領主を拝して、ひたすら詫びた。
 正成はかえって気の毒そうに。
「いや何の。今日は日和(ひより)もよし、所願の写経も終ったので、ふと思い立って来たまでのこと。かたい儀礼はやめてほしい」
「御写経を」
「む。本尊法起菩薩の宝前に納めおきとうて」
「それは御奇特な」
「かたがた、こよいは参籠(さんろう)のつもりでまいった。なにかと供華(くげ)の用意などもしてもらいたい」
「かしこまりました」
 日は暮れて、沐浴(もくよく)、夕餉(ゆうげ)などのあと、正成は浄衣になって、転法輪院(てんぽうりんいん)の本堂に入った。途中で拾って蔦王(つたおう)に持たせてきた白骨は僧の手によって燈明や香煙のうちに安置され、やがて、僧たちの供養が春の夜をかけて長々といとなまれた。
 夜半になると、正成はひとりで籠堂(こもりどう)へ移って夜をあかした。ほとけと共に明かした朝はそう眠りもしていなかったのに体もあたまも清々(すがすが)としていた。これが自分だったと思われるような生き身の味を久々に味わった。
「そうだ、ここにいて」
 下山が惜しまれて、彼はその日も翌日もつい山上にいてしまった。心に深い傷手があり、それを医すためとしている正成ではなかったが、彼をひきとめる何かがここにあったとみえる。
「おやかた様、いつおもどりになるんですか」
「蔦王か、そちは退屈そうだの」
「でも、水分(みくまり)では、きっと御一同さまが、お案じでしょう」
「ほんに、それも思わぬわしはちとわがままだったな。さよう、そちは山をおりて、なお数日正成はこれにおると、その由、館(やかた)へつたえておくがよい」
 蔦王をも、その日、帰してしまい、彼は籠堂(こもりどう)でいよいよ孤独を愉しんでいた。さりとて西行法師の真似びを追うて安らげる自分でないし、また周囲の桎梏(しっこく)は、そんな逃げなどゆるさぬ時代とも知っていた。
 だから彼がここで求めたのは、ゆるされるかぎりの、わずかな憩(いこ)いに過ぎなかったろう。あるいは、帝に直諫(ちょっかん)申しあげたあとも、その絶望から将来の必然を千々(ちぢ)に悩んで、もはや一個の力ではいかんともなしがたい苦悶の自己を、ここでしずかに処理しているのかともおもわれる。
 するとすぐ、二日程して。
「や、蔦王。……またもどって参ったか」
「はい、仰せはおつたえ申しましたが、今日は卯木(うつぎ)さまのお頼みで、これを」
「なに卯木から? ……これはまた、短冊(たんざく)ではないか」
 手にとって見ると、
春柳(はるやなぎ) 葛城山(かつらぎやま)に
立つ雲の
立ちても居ても
妹し思ふに
 万葉の一つである。なるほど筆蹟は卯木だが、歌の意味は、妻の久子の胸の代弁だナとうけとれる。――久子が書かず、卯木がこれをよこしたなどにも、女心のあわれが読まれた。

 ある日、というのは、正成が金剛山寺へ登って行った日――。龍泉の正季(まさすえ)は、郎党八、九人に馬をひかせ、自身も騎馬で加賀田の山道をいそいでいた。
「この渓谷の桟橋(かけはし)もいぜんは毎日のように通ったものだが」
 加賀田川を下にのぞくと、正季は供へ言った。
「たれか先に走って、甚内と申す者をよんでおけ」
 道の上には、朽ちた山荘の門が見えて来た。吐雲斎(とうんさい)毛利時親は、そのご一ぺんもこの山荘へは帰っていない。すでにあれからもう四年になる。
「おったか、甚内は」
「ただいま山畑からこれへ連れまいりまする」
 そこへ野良着の半農半武士ていの男がまもなく呼ばれて来て、
「これは、龍泉殿でござりましたか、どうもお久しいことで」
 と、地にぬかずいた。
 正季はすぐ言った。
「甚内。――時親先生の大江家伝来の兵学書一切はおまえの手に預けられてあるそうだな」
「何の仰せか、俄かなことで、よう分りませぬが」
「まだ物忘れする年ではあるまい。過ぐる千早金剛の大戦中、ここもあぶなくなって、お師の時親さまには、ついに山をすてていずこかへ去り、いらい杳(よう)として御消息もなくなった」
「へい」
「おまえら山荘の召使は、このへんの山畑をもらって、あとに残ったわけだろう」
「さようで」
「しかし、ただ残されたわけではなかろう。そのさい、老先生からこれだけはと、かたく託された物があるはずだ。その軍書一切はどこにあるか」
「ございません。そのような物は全く以てぞんじませぬ」
「とぼけまい、甚内」
 と、正季は一通の書面をとり出して「――読め」と、彼の目のさきへ投げやった。
 まぎれもない時親の筆蹟である。甚内はくりかえし読んでいた。時親がどこかになお生きていたなども驚きらしい。書面には、秘蔵書全部の託送が正季宛(あ)てに書かれている。その所在は、いぜんの老僕甚内が承知のはずともしてあった。
「わかったか」
「申しわけございません。そのせつおあるじから、かたく秘事にしておけと、申しつかっておりましたため」
「いいわけはよい。はやくその在る所へ案内せい」
 甚内は先に立ち、段々畑の下の長屋裏へ伴(ともな)った。そして蓄備倉のような洞穴のおくを示した。荷梱(にごり)にして数個、冊数にすれば千巻の書物ともいえる。
 正季はそれをただちに馬五頭の背に移させ、そして郎党数名を付け、
「すぐ老先生の許へお届けに行け。近ごろは洛外大江山に御隠棲(ごいんせい)のよし書面に見える。吐雲斎と訊けばわかるであろう。確(しか)と御返事をいただいてまいれよ」
 と、命じた。そして彼は龍泉寺の邸に帰り、あくる日、水分(みくまり)に兄の正成を訪うと、正成は納経のため登山したとのこと。聞くと正季は、嘆じて言った。
「どうも近頃の兄上はどうかしたなあ!」
 その足で、彼は、下赤坂城の見廻りに廻っていた。
 城とはいえ、下赤坂はかつての砦(とりで)で、一時、ここは北条方に占領され、その湯浅勢に焼き壊(こぼ)たれたのを修理し、また近ごろでは久子の兄、松尾刑部季綱(ぎょうぶすえつな)の奉行でいまなお出丸や矢倉門などの手入れをしている状況だった。
 足場の上で、大工左官たちを督(とく)していた松尾刑部は、正季を見かけると、すぐ下りて来て。
「龍泉殿、御出仕(ごしゅっし)か」
「おう、あなたも御精が出るな」
「いやどうも、一こう工が捗(はかど)らんのでな」
「もっと人手をふやしたらよいでしょうに」
「お館へも、いつもそれを申し上げるのだが、おゆるしがない」
「なぜで」
「仰せには、春は百姓仕事がきりもなく忙しい。秋の収穫(とりいれ)はこれからの丹精にある。そのような野良の手を、城普請(しろぶしん)のために徴発(かりだ)してはならんとあって」
「それでは遅々(ちち)と進まぬ道理だ。とかく兄上の御意志はわれらには酌(く)みかねる」
「自分にも分らぬ。たとえば……」と、季綱は設計絵図をとり出して示しながら「ここに二の丸を拡げ、さらに搦手門(からめてもん)の上に、北曲輪(きたぐるわ)を建て増し、また本丸には、多少、普請らしい工を凝(こ)らして、正成殿をはじめ、御台所や和子たちにも、河内和泉の御守護らしく、ここへお城住居を仰ごうと申しあげるのだが、それも御気分に合わぬらしい。いまの水分(みくまり)で事足(ことた)ると言っておられる」
「やがては、入道(にゅうどう)して、山林の一庵にでも籠(こも)りたい気でおられるのではないか」
「よもや」
「よもやとは思うがだ」
「それくらいなら、さき頃のような、思いきった御諫奏(ごかんそう)などはなされまい」
「が、それは用いられず、堂上の笑いぐさとなり、みかどのご逆鱗(げきりん)にふれたらしくもある。……いらい、怏々(おうおう)として、浮かぬお顔。……この正季にも、四天王寺を引払って、河内へ帰れとのおさしずであったには、むっとして、何でそのように新田や世上へ遠慮ぶかくなさるのかと、兄上と一ト論議も覚悟でこれへ戻ったが、さてあのお顔を見ると何もいえなくなってしもう」
「まったく、あの御苦衷(ごくちゅう)のいろを見ては何もいえぬ」
「そして、諸寺への願文(がんもん)とか写経にばかり御専念とある。いまも水分(みくまり)で聞けば、きのうは金剛山寺へお登りとか」
「ム。爺の左近もそのように申していたが。……いや、その左近でおもい出した、きのう、住吉の打物屋鳶七(とびしち)が、これへ十人ほどの下職を連れて到着している。かねて龍泉殿からのごさいそくにもかかわらず、つい遅れておりましたがと」
「お。やっと、あとの職人どもをつれまいりましたか」
 そこで刑部と別れると、正季は曲輪(くるわ)の内へ入って、物具(もののぐ)奉行の佐備(さび)正安に会い、やがてまた、ただ一人で、外曲輪(そとぐるわ)のガタガタする長い板廊下を踏んで、物具倉(もののぐぐら)と共にあるだだッ広い武者溜(むしゃだま)りの床(ゆか)を覗きに行った。
 そこの一ト棟(むね)は、大きな工房と異(こと)ならなかった。数十人の武具職人が見える。黙々とみな背をかがめて仕事していた。
 工房といっておこう。工房の大床(おおゆか)のわきには、監督役人のいる袋部屋もある。
 一大戦のあとでは、武器武装の補充や繕(つくろ)いもたいへんな量と仕事になるわけで、どこの城や根拠地にもこういう武器廠(ぶきしょう)はあった。ここなどはまだ小規模な方といってよい。
 外には鍛冶のふいごや鎚音(つちおと)もしていた。床場(ゆかば)の内では、弓の弦師(つるし)、具足の修理、くさずりの縫工(ほうこう)、研師(とぎし)、塗師(ぬし)、革裁(かわた)ち、柄巻(つかま)き、あらゆる部門の職人が見える。そして大きな切炉(きりろ)の膠鍋(にかわなべ)から膠の煮えるにおいと薪(まき)のいぶりがむうとするほどな物をたちこめていた。
「や、これは」
 正季を見ると、溜りの役人二、三名がとび出してきて。
「黒縅(くろおど)しの御一領は、昨日仕上り、龍泉の方へ届け申し上げておきましたが」
「ム、見た。だいぶここは手が揃ったな」
「これもきのうのこと。住吉から新たに十人ほどの具足師が来て加わりましたので」
「鳶七は帰ったのか」
「忙しげに、すぐ住吉へ立帰りました。龍泉殿へは何とぞよろしくと、申しまして」
「新しく入った職人とは」
「は。……あれにおりまする一ト組、またこちらで、膠着(にかわづ)けをしている者、そしてむこうの隅で錣縫(しころぬ)いをしているのもきのうから参った者で」
 指さす所へ、正季の目がくばられ、順にそれらの職人を眺めていたが、ふと、彼の注意をひいた者があった。
「見たような?」
 と、思ったのである。
 その男は、渋色の粽頭巾(ちまきずきん)をかぶって、汚い布直垂(ぬのひたたれ)を職人結びに後ろでむすび、片膝たてて革胴(かわどう)の草摺(くさずり)を大きな動作で縫っていた。――横顔でしかないので正季のひとみが待つようにじっと見ていると、なにかのはずみで彼の顔もこっちを向いた。――しかし正季が思っていた人間とはそれは違っていたらしい。まもなく正季は立ち去っていた。
「…………」
 眼のすみで、それを知った男の容子には、ほっとしたいろがみえる。モミ上げを焼きちぢらし、顔も何かで汚していたが、これが右馬介であることはいうをまつまい。
 さとられたかな?
 と彼は一(いっ)とき腹をかためてはいた。しかし、龍泉殿の生一本(きいっぽん)な気性は彼も知っている。取り返しのつかぬことはしてはならない。――やはり正成に直々(じきじき)会う機会を得るまでは――と、南無三、わからぬことを密(ひそ)かに念じていたのだった。
 が、ここにいたのではいつその機会をつかみ得よう。きのう老臣の恩智左近も言っていたし、またその人の後ろ姿を目に見てもいた。正成はいま金剛山寺にのぼっている。はや下山の途にあるか、なおまだ山上か、そこは冒険だが、あわよくば正成に会える絶好な機縁が、絶好な山中において、めぐまれぬことでもあるまい――。
 彼は仮病を思いついた。
 翌日、係の武士へ持病を訴えて暇をとり、里へ出て探ってみると、正成はまだ下山した様子はない。さてこそやはり機会は今だったと、足を早めて、彼はたちまち金剛の山上をさして急いでいた。
 まったく人目のおそれない山中へかかると、身なりはどうであれ、彼は、本来の武士一色右馬介に返り、その人になりきっている。
 いつか千早川の水音もうしろに消え、下赤坂もはるか下だった。金剛の長い山裾は石川から河内平(かわちだいら)へかけてまで、模糊(もこ)と、すべて天地いちめんが春の陽炎(かげろう)と化している。
「お。……おちつこう。これからは大役だ。自分には荷がかちすぎるほどな大役」
 介(すけ)は、ひと息ついた。
 ひんやり汗が沈む。自然、山のしじまが彼に物思わせる。
 わけてこんどは主の尊氏から「介(すけ)! そちには多年のあいだ、縁の下の力持ちばかりさせて来たが、おそらくはこんどを以て、そんな蔭の働きも、働き仕舞いと思うてよかろう。それほどな大事だぞ、しかと頼む」と、あのお主(あるじ)にしてもめずらしいほど沁々(しみじみ)とした仰せ付けをうけて来たことでもある。
「……果たして、そのお望みが、成るか成らぬか」
 彼は自分を知っている。自己の器量があやぶまれた。主の尊氏でさえが、当代唯一の人物と観ているほどな正成にたいして、よくその人を説得して、尊氏の意のあるところを徹底させるほどな力がこの自分にあるかどうか……。
「思えば、足利家に武士も多いが、おれほど奇道から奇道をあるいた者はいない。よくよくふしぎな主従、ふしぎなおれという家来」
 その結びつきは、幼少にまでさかのぼる。
 幼時の尊氏に傅役(もりやく)として付き、いらい尊氏が十八歳の初上洛の旅の日から今日まで、影と形のように、離れたことはない。いや体は他の家臣よりも、側にいる日ははるかに少なく、どこか遠い所にいながら、始終、影と形のような不即不離の役目ばかりして来たのだった。
 おあるじの隠し子、不知哉(いさや)丸と藤夜叉(ふじやしゃ)のことでも、どんなに長い日蔭の日を送ったことか。いらい具足師の柳斎となり、主家の隠密をも果し、やがて、このごろの御陣となっても、何か暗中を翔(か)ける使命にばかり向けられていた。――武士でいながらほとんど戦場には立たされたことがない。――そしてまたも、こんどは「これがそちの、さいごの働きとも思え」といわれて来た重い役目なのである。
「とまれ、いちかばち命がけ。当ってみるしかみちはない」
 とうに腹はそれだったが、しかしもしこんな、いわば敵国の中で、この命を落したら、たれが右馬介の一生などを知って、念仏の一つでもとなえてくれる者があるだろう。ふと、そんな思いにも吹かれたか、介(すけ)は独りで首を振った。そしてあらたな勇を持ち直したように、身をおこすやいな、急にまた足を早めだした。
 すぐ、彼の姿は、大きな杉と杉との縞目(しまめ)の中を通っていた。――そこを過ぎて、次の山蔭へ入ると、しばらく姿は見えなかった。
 ところが。――やがてというほどもないうちに、杉林の道をもう一個の人間がいそぎ足に歩いて行った。大きな男である。狩衣の袖をたすきに結び、反りを打たせている太刀腰など、ただの急ぎ方ではない。
 男は一時、崖の鼻の曲がり角に止まり、入念に先の道をうかがっていたが、突如、駈け出して、手を振っていた。
「おおいっ。……待てっ」
 介(すけ)は、振り向いた。
「……?」
 呼ばれたと知ったときは、もう後ろの男を見ていたし、おそろしく迅い男の足も、とっさに、彼の用心をかためさせていた。
「わしかね」
 さりげなく見せて、まずいうと、男もまた、にやにやと、馴れ馴れしく。
「どこへおいでなさる?」
「大和へ抜けます」
「へえ、わざわざ金剛越えですかい」
「途中、修堂寺に用もございますんで」
「はてね、あそこにはいま、誰も人はいないが」
「そうですか」
「山伏寺だ、というよりも寝小屋寺だ、峰入りで、この間から閉まっている」
「じゃあ廻り道だけムダでしたかな」
「そうだね、よくは知らねえが、おまえさんの考えていることなどは、まずムダだろうよ。素直に麓へもどりなせえ」
「ご親切に」
「冗談をいってるのとはわけがちがうぜ。おい」
 男は二、三歩先へ出て、そして、ぐるりと向い直った。
「下りろ、麓へ」
「どうしてです」
「どうたって、てめえは住吉から来た具足職人のはずじゃあねえか。どうしてこんな所へ用があるんだ」
「…………」
「ええ、おいっ」
 と、介の胸板を一つ突いて。
「下赤坂のお城からこの御領内には、忍(おし)ノ大蔵(だいぞう)という御家来さまが眼をひからしているってえのを、てめえ知らずに入りこんできたのか」
「もし、ちょっとお待ちなすって」
「いいわけはよしなよ。ただの御家臣ならごまかされようが、おれは元々、六波羅の放免頭(ほうめんがしら)もしたほどな男だ。正成さまを慕って、そのごはここで御奉公している身だが、いぜんから持っているおれの眼力に狂いはねえ。てめえが根からの具足職人か、他国から入って来た怪しい奴かぐらいなことは一ト目でわからあ」
「ム。……そうか」
「何、そうかだって」
「しかたがないじゃないか。そう分ってしまったものは」
「観念したのか」
「しないわけにゆかない。しかし大蔵とやら、おれは決して、きさまの疑うような敵意を抱く物騒な人間ではない」
「では、何者だ」
「ぜひないゆえ打明けるが、正成殿に密々お会いしたいことがあって、じつは金剛山寺(こんごうせんじ)へまいる途中だ。見のがしてくれ」
「ならねえ! そう聞いちゃあ、なおのことだ。とにかく、もいちど下赤坂まで降りろ。ごたくは、お城の内で聞いてやる」
 と、また肩先を突いてくる。
 一、二度小突かせておいて、次のせつなを、介はすばやく、身をひねって、投げを掛けた。大蔵の体は大きくもんどり打ち、何か吠えながらひどい勢いでまたぶつかって来た。腰の物を抜いたと見て、介はあとへ跳(と)んだが、さはなくて無手で武者ぶりついて来たものである。介は充分な余裕のもとに格闘してついに相手を膝の下にねむらせてしまい、渓流の崖へむかって蹴落した。もとより殺す気はないのだった。
 ただしかし、こういう意外な邪魔者も出て来たとなると、もうぐずぐずはしていられなかった。彼はあとも見ずそれからの道を頂上へと喘(あえ)ぎ通していた。

 正成はその日、麓へ帰ることにきめていた。
 なろうことなら、なお当分は山上にいて、静かに、写経でもしていたらと、なかなかここを立つのも惜しまれはする。けれど一面、水分(みくまり)の館(たち)に留守している妻の久子の心を思うと、それもあわれでならなかった。
 妻にすれば、長い戦陣の先からやっと帰って来たばかりの良人であろう。それ以前といえば、あの千早の籠城やら一家の離散であったし――せめて、戦(いくさ)のない日だけでも、家庭の中に良人を見ていたいと念じているにちがいない。――幼い子らのためにも、父の姿を家のうちにと祈っているにちがいなかろう。
 蔦王(つたおう)に持たせてよこした卯木(うつぎ)の短冊にも、
春柳 かつらぎ山に
立つ雲の
たちても居ても
妹し思ふに
 と、万葉の一つに寄せてそれとなく留守のわびしさを訴えていた。もちろんそれは久子が卯木に頼んで書かせた物と正成には分っていたし、あらわに、早く帰って下さいなどと言っていないだけに、よけい不愍(ふびん)もまして、すぐ下山(げざん)する気になったものだった。
「これはまた、俄な――」
 と、金剛山寺(こんごうせんじ)では彼の下山と聞いて、急に、その日の昼餐(ひるげ)を、朝原寺の一房にととのえて、院主(いんじゅ)がお相伴(しょうばん)に坐り、役僧以下も給仕に付いて、
「ぜひ、またのお登りを」
 と、礼をつくした。さらには一山をあげて、正成の帰路を、下赤坂まで送って行こうとするらしい支度でさえあったが、正成はかたくそれを断わった。
「ぜひまたまいるが、大勢しての送り迎えなどは、かえって迷惑。途中そぞろな愉しみも、愉しいものでなくなってしまう。儀礼は一切やめてほしい」
「さようではございましょうが、ご領主にたいしまして、余りに非礼とぞんじますれば」
「いやいや、領主としてまいる日には、それと通達してまいる。――かつは千早籠城のみぎりには、ずいぶんこの御寺(みてら)も拝借して、踏み荒らしたこと。まだまだ大分修理のとどかぬ所も多い。――いずれ正成の身に閑暇(ひま)ができたら、正成自身奉行して、一堂を寄進し、なお山門の手入れなどもいたしましょうわい。……いやおたがいに、早くそのような日を持ちたいものだが」
 と、あとの一語には、何か、心残りを置くようではあったが、そういって笑いながら、一同の立礼をあとに謝して立去った。
 すぐ、道は千早の旧籠城跡を下に見ながら急坂を降りかけていた――当時、足に負傷し、弓杖(ゆんづえ)ついて、ここを登り下りしたことやら、餓死寸前にあった城兵の、あの顔、この顔、みな土に爪を立てながら生き抜こうとした凄(すさ)まじい人間の一心と団結力が、まだそこらの草の穂にも生き生きと息吹(いぶ)いているように眺められた。
「あの、尊いものを」
 と、正成は、うら悲しかった。身に責められた。――無(む)にしてはすまない――と思うのだった。何であれ、千人の城兵が心を一つに発露した人間最高なあれは真美な火華であった。時により人間のうちには、土に拠(よ)って、あのような鉄の団結と相互愛をも持ち合えるものだということを、人間お互いの中に失わせたくない、疑わせたくないものと、正成は思うのだった。
「おや。……誰か来る」
 そのとき、供の蔦王(つたおう)が、下の谷間道をさして、言っていた。
「おやかた様。妙な男が、こっちへ急いで登って来ますよ」
 誰か。
 と、正成も蔦王が指さす一個の人影を下に見ていた。
 男は、千早谷からこっちへ喘(あえ)ぎ登って来る途中なのである。といって、べつに気にする理由はないのだが、蔦王が「――妙な男」というままに、注意を向けていると、なるほど、怪しめば怪しまれぬこともない。
 泥まみれな布直垂(ぬのひたたれ)に、頭巾を粽(ちまき)にむすび、肩や袖には綻(ほころ)びをみせ、いかにも殺伐(さつばつ)な風采(ふうさい)であるばかりでなく、その足どりには、何かに追われているような迅(はや)さがあった。
「あっ。これは?」
 たちまち、男は近づいていた。思わざる僥倖(ぎょうこう)に、かえって驚いた風であり、坂道を降りて来た正成の前に、その姿を投げ出すなり、地に平伏してこう言った。
「もしや、河内守さまではございませぬか。いや、先頃お登りのせつ、よそながらお姿を拝してもおりました。おそれながら、しばしの間、御見(ぎょけん)をたまわりたく、また親しく申し述べたい儀もございまする。何とぞおききとどけ願わしゅう存じまする」
「ほ。……?」
 正成は、じっと見て。
「そちは何者か」
「まず、それを申すが順ではございますが、お後ろには、侍童もおられまする。ちと、ここでは」
「はて。侍童の耳をすら憚(はばか)る者か」
「さればとて、決して、悪意を持つ者ではございませぬ。かくのとおり……」と、男は帯前を叩き、さらに諸手(もろて)を開いてみせながら「身に寸鉄も帯びてはいません。いやいや、とばかりではまだ信じてはいただけますまい。これを御一見くださいましょう」
 と、頭巾を脱(ぬ)ぎ、頭巾の裏の縫目から、細かに折った一札(いっさつ)をまさぐり出して正成へ示したのだった。
「…………」
 正成は披(ひら)いて、黙然と見終った。それは四国、山陽などの足利方の水軍の間に用いられているらしい水路の関所札(せきしょふだ)――つまり船鑑札(ふなかんさつ)であり、黒肉の割印(わりいん)に加えて、足利直義(ただよし)の花押(かきはん)もまたあざらかといってよかった。
「さようであったか」
 正成はかろくうなずいて、すぐそれを相手の者の手に返した。かくべつ異(い)とも意外ともしてないらしい容子なのが、対者には、なお疑っているのかと思われて、むしろおちつかない眼(まな)ざしにさせていた。
 しかし正成はそんな狐疑(こぎ)にとらわれているのではなかったのである。ちょっと思案のいろはあったが、後ろの蔦王へ、
「そちはここにいて待て」
 と言い残し、そして男の顔へ向っては、
「あれへ参ろう」
 と、道の横へ、あごをさして、自身、先に歩きだしていた。
 坂の途中から正成の向いた方へはいってゆくと、そこには旧千早城の柵(さく)やら矢倉が朽ち傾いていて、いまは人もなき砦(とりで)の跡の荒涼(こうりょう)が、廃墟(はいきょ)の石やツル草と共に足へつまずくばかりだった。
 昼の月が淡(うす)く見える。
「それへ、かけるがいい」
 言いながら正成も一つの石へ腰をおろした。
 すると、そのとき不意に、男の背後へ襲って来た野猪(やちょ)のごとき者があった。何か、吠えたと思うと、二つの体は、早や組み合い、猛烈な勢いで、格闘していた。
 事の不意に、
「大蔵っ、ひかえろっ」
 正成は驚いて、制止した。
 が、すでに二人の格闘は、鶏冠(とさか)を咬(か)み合った軍鶏(しゃも)のようなもの。耳もかす風ではない。
 とくに忍(おし)ノ大蔵(だいぞう)にすれば、下赤坂から尾行(つけ)て来たものを、途中、不覚にも道から崖下へ蹴落されていたことでもあるのだ。ここに再度追ッついてその男を見つけたのだから「――野郎っ」とばかり間髪(かんはつ)も措かなかったのは当然でもある。
 しかし、本来の武士一色右馬介と、放免(ほうめん)上がりの大蔵とでは、ここでも格段な腕力の違いがすぐ出てしまった。――あッと、大蔵の巨体もしたたか地を打って転(まろ)び、また猛然と突ッかかっては行ったものの前よりも遠くへ、でんと、再び投げとばされていた。
「よさぬかっ、大蔵」
 正成に抑えられて、初めて、彼はその片肱(かたひじ)で顔を横にこすった。顔半分、柘榴(ざくろ)のようにスリ剥(む)けていたのである。
「なんで――」と大蔵はなお息まきながら「おやかた様には、このうさんな人間をそうお庇(かば)いなされますか」
「おちつけ。さほどな曲者(しれもの)でもあるまいゆえ」
「いいや、敵方の諜者か刺客に相違ございません。具足職人のひとりに化けて下赤坂へ入り込んでいた奴が、いつのまにかこんな山中へ来ているなどは、てッきり殿をつけ狙ッていたからのことで、ゆめ、御油断はなりませぬ」
「案じるな大蔵。いささか思うところもあれば、あとは正成にまかせて帰れ」
「滅相(めっそう)もない」と、大蔵は一方の曲者(しれもの)以上にも正成のその言を怪しんで「――万一でもあったら、てまえの役目が立ちませぬ。どう言葉巧みに殿へ近づいたものかは存じませぬが、構えて、その貉(むじな)にお騙(たばか)れなされますな」
「む、心得ておこう。しかし、自身でちとこの者に糺(ただ)したいこともある。そちは蔦王と共に一ト足先に山を降(くだ)れ。ほどなく正成もあとよりまいれば」
「え。お一人でここに」
「いかにも」
「ただおひとりで」
「早く去れ、去らんか」
 大蔵はその恐い目を見て、口をつぐんだ。
 何かは知れないが、やっと彼にも察しがついて来たらしい。まもなく不承不承ながら蔦王と共に山路を降りて行った。
 ――それを、ゆっくり見送ってから、右馬介は、またあらためて、正成へ頭(ず)を下げていた。
「ご家中の忠義者へ、まだ身素姓さえ告げぬ私の烏滸(おこ)な腕立て。さぞ不快にごらんでしたろう。何とぞ、平におゆるしを」
「いや、こちらも理不尽(りふじん)。気にかけられるな。……ところで、其許(そこ)の名は」
「三河国一色村の郷党、一色刑部のせがれ、右馬介と申す者にござりまする」
「足利殿譜代(ふだい)の党人だな」
「は。尊氏の君には御幼時からの傅役(もりやく)として仕え、今日に至っております」
「そして中頃では、具足師柳斎とも名のり、この河内にも、しばらくいたこともあったの」
「えっ? ……。では、その頃の私をば、なお御記憶でございましたか」
「はははは」と、正成は一こう相手を脅かす語気でもなく――
「それは覚えておるよ。たしかあの夜はひどい暴風雨(あらし)であった。そして、初めて御辺(ごへん)を見た所は、龍泉の正季(まさすえ)が家の奥。……な、柳斎、いや右馬介どの」
「まことに」
 と、介(すけ)はもう、その物やわらかな相手のあばき方にたいして、逆(さか)ろう気にも言い逃げる心にもなれなかった。
「おそらくは早やお忘れとのみ思っていましたが……。これは怖ろしい。あのつかのまのことをなお御記憶とは……。いや御炯眼(ごけいがん)です。恐れ入りました」
「なんの、忘れては正成こそ相すまぬ。――あの夜、妹の卯木(うつぎ)夫婦の者は、お辺に救われて河内を脱し、そして以後の幾十日も、住吉のお宅で厚いお世話になったと後に聞きました。――介どの。余りに古いことにはなるが、お礼を申す」
「これは!」
 介は顔をあからめた。狼狽に似たものすら持って。
「私こそ、お詫び申さねばなりません。当時の泥を吐けば、あの折こそ、じつは全く隠密(おんみつ)の目的で、ご領内に入り込んでいたものに相違ございませぬ」
「尊氏どののおいいつけでか」
「いや、介の一存にござりまする。しかし、尊氏さまには、かつてまだ鎌倉においでの頃から、河内に楠木氏と呼ぶ御一族のあることを、深くお胸に銘(めい)じてはおられました」
「ほ。正成にとって思わぬ知己(ちき)というものだの」
「一つには、私が、かの笠置(かさぎ)の戦雲いらい、御領下の民情は申すにおよばず、失礼ながら、正成どのと申すお方の人となりや御一族の内状までを、つぶさに探ッては主君の許へ密報していたことにもよりまする。……が、主君尊氏がお心の底からあなた様に惹(ひ)かれ出したのは、千早の御籠城百七十日のたたかいを、遠くにいて、見ておられた頃からのことにございまする」
「…………」
「やがてまた、世は建武となって、わが殿もあなた様も、ひとつ都の内の朝臣として、朝(ちょう)に仕える日となりましてからも、折にふれ、事にふれ、あなた様の御名は、ままよう主君のおくちから常に伺っておりました」
「介どの」
「は」
「ご用向きの要旨をさきに伺おう。このたび、さように姿を変えて、お辺がこれへ忍んで来られた事の仔細は」
「もちろん、主君尊氏のお胸をそのままうけたまわって、筑紫(つくし)の御陣から差向けられて参った次第にござりまする」
「ム。それはまた、いかなるお胸をあずかって?」
「……まずはお聞き給わりませ。いかんせん、これまでは、政途の茨(いばら)、四囲の諸事情、足利家として、あらわに御当家と好誼(よしみ)を厚うするなどの儀は不可能にございましたが、今はまったく天下の形勢も異(こと)なってまいりました。しかも世は一転機のほかなき秋(とき)とも思われます。このたびのお使いとは、すなわち、私を以て、両家のかたい結盟(むすび)を成しとげてまいれ。楠木殿のお望みもよう伺って立帰れとの、極秘のおいいつけにほかなりません」
 正成は、聞いているのかいないのか、そら耳のように、淡(うす)い昼の月を仰いでいた。
 石に腰かけている姿までが、石のごとき人に見える。
 しかし、介はあくまでも、
「もしっ……」
 と、懸命だった。雑草にうずめた膝がしらをにじりよせて、
「いかがでしょうか、打割ったお胸の底を、主君尊氏へ、お示し給わりますまいか。いやここで、私へお洩らし願えれば、かたじけのう存じますが」
 と、息をつめた。
 正成のしずかな眸は、やがてしげしげと介のおもてを見まもっていた。さて、べつにいうこともないような無感動をそのまま置いて。
「お使いのおもむきとは、それだけかの。――足利殿が、わざわざ、この正成ごとき者へ、好誼(よしみ)を深うしたいと仰っしゃって下されたのか」
「はっ。……まずはさような御主旨にもとづきますが」
「身の面目よの。身は河内の一小武門。足利殿といえば、人も知る御名門だ。それさえあるに」
「いやあなた様を、武門のうちの武門、人の中の人と、お見込みあってのことにございましょう」
「それは御同様よ。尊氏どのの御器量はよそながら正成も存じ上げておる。稀れにみるお人柄の一人として」
「ありがとう存じます」と、介はわがことのように感激して、
「御意(ぎょい)、そのままお伝え申しあげたら、主君尊氏も、さぞ、およろこびにございましょう。まことに、士は士を知るの譬(たと)え。使いの私にもかほどな歓びはございません。つきましては」
 と、彼は乾いた唇を舐めた。もう何を語っても大丈夫と観たものであったらしい。
「――じつは、ただいま筑紫(つくし)表にある主君尊氏も、今夏か秋のころまでには、九州、四国、山陽のお味方をこぞッて、再び上洛のご予定にて、着々、後図(こうと)をめぐらしておられまする。で、その日には、ぜひとも新田軍の背後より、楠木どのの御内応を得たきものと、切なるお望みをかけ、もしその密約に、御一諾を給わるなれば、はや天下は掌(て)のうちに図(はか)り得たようなもの。……いかなる条件のお報償(むくい)に応じてもよいがとの、御意中なのでございました。……いかがでしょうか。その儀、ここにて御確約は願われますまいか」
「はて、事難しゅうなって来たの。では、他日尊氏どのが東上のさい、時を期して、この正成に、宮方を裏切って足利方へ加担(かたん)せいとの、おすすめか」
「わざと、主君の墨付(すみつき)は持参いたしませぬが、何とぞ、密使右馬介をお信じ下されまして」
「お伝言は確かだと信じよう。しかしそのお求めには応じかねる」
「えっ?」
 と、介は愕(がく)としたように、胸を張って。
「おききとどけはかないませぬか」
「おろかな問いを」
 正成は初めて、語気に自分をこめて言った。
「正成は武人です。また、笠置へ伺候してこのかたは、身も心も今上(きんじょう)の御一方に誓いまいらせた一朝臣(あそん)。さよう、江口の遊女(おんな)のように、世を浮舟と渡るすべはよう存じておらぬ」
 介(すけ)は、黙るほかなく、しばし首をたれてしまった。
 が、これで退きさがるほどな使いなら誰でもする。――主君尊氏の依嘱(いしょく)もその熱意も決してそんなかろい思惑(おもわく)ではなく、
「このこと、容易には正成も一諾しまいが――」
 とは、すでに見越されていたことでもある。使者が使者たる命を果すか否か。それはこれからの自分にあり、ここぞ正成との勝負のしどころ! と介は説客の決意でひそかにその唇を歯で潤(しめ)すのだった。
「おことばですが」
 と、彼はしずかに、やがて一矢(いっし)を相手にむくいた。
「なぜ足利殿と結ぶことが、楠木殿には、武門の名折れになりましょうか。――元をただせば、楠木家とて、北条幕府の下の、一被官だったもの。――足利家もまたしかりです。――が、世の乱脈に会い、幕府の命脈もつき、必然な世直しの到来から、御当家も武家の使命、一方に拠って立ったものでございましょうに」
「御辺もいうのか。近ごろの流行(はや)り言葉を」
 と、正成は一笑の下に。
「だから、変節も裏切りも世の慣(なら)い。何をはばかることがあろう、と申すわけよな」
「それとはいささか違いまする。いや、大いに違う」
「どう違う」
「私欲の反逆や無節操と、世をよくしようと念じての苦節とは」
「まことに」
 と、正成は素直にうなずいてみせた。しかし一歩も譲ッているのではなかった。
「尊氏どのの本心も、それではあろう。……けれど世を思うことにおいてなら、みかどは申すにおよばず、おおかたは、世が悪(あ)しかれとは祈っていまい。まして至上の御位(みくらい)にあるみかどに私利私欲のないことは誰よりもあきらかなこと」
「が、それを繞(めぐ)る公卿、武家輩(ばら)。これは一概に申せませぬ」
「朝廷も世間のうち、人と人との寄りあい、げに、その弊(へい)は否(いな)みがたい。が、遠い祖(おや)たちが叡智で築いた国の要(かなめ)だ。乱離にしてよいものではない。正成はこの国の民、父祖いらい北条氏の被官であったには相違ないが、かつても大本の朝廷をおろそかに考えたことはなかった。朝廷に代るほどなものがこの国にありうべくもなしと奉じてきた。すでに心の宮柱としておるものを、何でわれからわが心にそむけようか」
「御意(ぎょい)」
 と、介(すけ)は同調して。
「主君尊氏のお心も、全くそこにござりまする。朝廷に敵対し奉る意志などは少しもお持ちではありません。ただ悲しいかな、今のみかどとは、事々御理想も違(たご)うため、そしてまた、義貞輩(よしさだはい)の讒謗(ざんぼう)のため、朝敵乱賊などと、一たんの汚名はうけられました。しかしひそかには、持明院統の御一方から院宣をいただき、あくまで、大君には仕え奉るおこころざしではいるのです」
「それは理窟だ、大君を国柱(くにばしら)とし、大君に仕えるとは、衆智の理を超えた理の磨き合いにほかならぬ。でなければそのような国姿は、かえって悪徒に利用されがちな乱(らん)の因(もと)と相なろう。その点、尊氏どのは乱臣と呼ばれてよい。正成とはまったく異(こと)なる道をあゆむ人。あかの他人だ。ゆくすえまでも、正成の敵ぞと、おつたえあるがよい」
「では」
 と、介もつい色をなした。
「――わが殿尊氏とは、永劫(えいごう)、相容(あいい)れぬ敵だと仰せなされますか」
「むム」
 正成は、ためらいなく肯定してみせたが、またふと、
「いや永劫とは申すまい。おたがい生あるうちの宿業といったらよかろう。ともあれ尊氏どのと自分とは、まったく両極。――もし足利勢が筑紫より大挙上洛の日には、正成もまた小ながら、河内の奥からただちに討って出て、戦陣の間にまみえ申そう。ご返辞はこれだけだ。立帰ってありのままにそう申されい」
「これはおかしい」
 と、介は苦肉な一笑に出た。
「さまで朝廷をおもんぜられる楠木殿が、持明院統の皇(きみ)には弓を引かれますのか。まぎれなく、持明院統の前帝も、皇統のおひと方なるに」
「だまんなさい」
 正成は初めて高い姿勢でものをいった。
「どなたであれ、御一人のほか天子あるものではおざらぬ。かの君、この君、皇統でさえあれば、朝廷をたてうるなどは、そもそも乱賊の考え方。尊氏どのの謀略だ。正成は時のみかど以外を存じもよらん」
「それや余りな御偏見でしょう。――順なれば、いまのみかど後醍醐は、御位(みくらい)にはないはずです。大覚寺統と持明院統と、御位(みくらい)は一代がわりに更迭(こうてつ)の約束でした。それを後醍醐はあえてお破りなされた」
「…………」
「それなども、乱の始めでしょうが。乱をすべて、臣下の所業には帰しているが」
「いかにも、ご理想の急やら四囲の公卿衆にも科(とが)はある。したがの、それは宮廷御自体の反省と政事によって正さるべきこと。かりにも武家が天下の烏合(うごう)をかりあつめて戦場に問うべきなどではない」
「でも、その儀にかぎらず、いまの御政治でよく一世を統(す)べて行かれましょうか。諸民の安堵はおろか、諸国の武士も一つになれぬこの無秩序ぶりで」
「そうだ。……今はそうだ。だから努めるしか臣の道はない」
「が、巷(ちまた)の沙汰にも聞いております。せっかくな楠木どのの御苦諫(ごくかん)も、みかどの容れ給うところとならず、逆鱗(げきりん)さえ蒙(こうむ)って、むなしく故山(こざん)に御帰臥(ごきが)とやらを……。さまでのことは、まだわが殿尊氏も遠くにいて御存知ありませぬが、もし聞かれたら、なんぼう、あなた様のために惜しまれることやらと思われてなりませぬ」
「はははは。同情はかたじけないが、さまで正成の身に立入ってくれるにはおよばん。山沢(さんたく)の子には、また山沢の子ならでは分らぬ本懐(ほんかい)と一楽(いちらく)がある。むしろ尊氏どのの道こそ終生如何あろうかと惜しまれる。……おう」
 と、不意に石から立って、
「おもわず時を過ごしたぞ。介どの。これから一人で麓へ出てはあぶない。正成が連れて進(しん)ぜよう。こう参れ」
「あっ。……もうしばし」
 介(すけ)は、あわてて、正成へ追いすがった。だが、振向きもせぬ彼だった。のみならず少し先には、とうに山を降りていたはずの蔦王と忍ノ大蔵が、なお用心ぶかく、物蔭からこなたをじっと睨(にら)んでいた。
 峰づたいに、南へ越えれば紀伊の人里へ、東へ行けば、大和へ出られよう。――介はここで正成と別れ去るべきか、なお正成について、下赤坂へ降りるべきか。さんざん迷った。
「ふしぎなお人だ」
 彼には、ただただ、解らない人の、一語につきる。
 本心、尊氏を敵とみるならば、その尊氏の股肱(ここう)であり密使でもある自分を、どうしてこう寛大にして帰すのか。
 生かして返さぬまでも、究竟(くっきょう)なとりことして、これを責め折檻(せっかん)のすえ、敵状を知る手懸りとするなどは、武門の常識、慣(なら)わしといってよい。
「……それなのに?」
 介は、疑いながらも、その怪しみに引かれて、ついつい犬の子の如く、正成のあとについて行った。
 正成もまた、あとの者を、犬の子ほども、気にとめていないふうだった。――そして大蔵は先に麓へ追いやり、蔦王だけを連れて歩いていたが、介が近づくのを、ふと待って。
「介どの。まずは真っすぐ筑紫へ帰る気か」
「は。ついに無能な使者と相なってしまいました。帰るしかございませぬ」
「気のどくだったな」
「残念に存じます」
「ぜひもない」
「が、まだ、あきらめ切れてまいりませぬ」
「思い出される」
「何事を?」
「あれは建武元年の秋、紅葉のさかり頃。石清水(いわしみず)の行幸(みゆき)にしたがい、われらも、また足利殿も、供奉(ぐぶ)いたしたことがあった」
「男山の御祈願で」
「さよう。帝(みかど)以下随身みな山上に二泊の折、足利殿には一夜不慮の刺客に襲われ、そのことで翌日、内裏の校書殿(きょうしょでん)にて親しくお詫び申したことがある。……思えば、二人が心の端を語りあったのはただ一度、その校書殿の夜だけでしかない」
「…………」
「が、その折、尊氏どのもかなりお胸の底をみせ、正成も偽らぬ自分を、おこたえしておいた。おそらく、正成が終生の友ならぬことはあのとき覚(さと)られていたはずと思う。……されば、まもなく大塔ノ宮を禁獄しまいらすなどの悪策をもあえて押し進められたのではなかったか。……正成にとり、宮は笠置(かさぎ)いらい、苦憂も末の愉しみも共にしてきた無二の御知己。それをついに弑逆(しいぎゃく)し奉った足利兄弟は、とりも直さず正成のあだ。その点でも両者が永遠の仇敵(あだがたき)とならざるをえぬ宿命は疾(と)くにお覚悟だったに相違なかろう」
「…………」
「さるをば……今さらふたたび使いをよこして、この正成が胸を糺(ただ)されるなどとは、尊氏どのも、流浪の空にて、よくよく血迷うておられるものか。……介(すけ)どの、この儀も確(しか)と尊氏どのへお伝えあるがよろしかろう。決して使者のお辺(へん)が至らぬゆえの破談でないことの証明(あかし)にもなる」
 もうそこに、下赤坂が望まれていた。
 介はついに一言も正成へ追い打ちかけてみることも出来ずにしまったばかりでなく、何事か、彼方からは一群の武士がここへ近づいて来るのを見ていた。
 それは、さきに正成が麓へ走らせておいた忍ノ大蔵で、うしろには、下赤坂城の家士十人ほども連れていた。
 正成は近づいて来た先頭の者へ、すぐ訊ねた。
「大蔵。小六はおったか」
「おいいつけどおり、あれへ連れてまいりました」
「ご苦労だった」
 大蔵を横へ措いて、彼はすぐべつな群れへ向い、その中の一つの顔へ、
「桐山の小六」
「はっ」
「これへ来い。珍しい者に会わせてやる」
 と、言った。
 小六と呼ばれた者は、組の頭でもあろうか、隼(はやぶさ)のような侍だった。不審そうな顔を持って、前へ進み出て。
「何事でございましょうか」
「小六。そちには忘れ難いはずの人だ。久しぶりお目にかかるがよい」
「え?」
 正成が身を退けると、そこには彼の見つけない人間が立っていた。小六には俄に思い出せなかったが、介にはすぐわかった。
「おっ。和殿はあのときの刺客、桐山の小六だな」
「貴公は」
「一色右馬介(いっしきうまのすけ)」
「はて」
「この姿、思い出されぬのもムリはない。それに四年も前――男山八幡の行幸(みゆき)に供奉(ぐぶ)して、楠木殿も足利殿も山上に明かした一夜のこと」
「あっ。ではあのときの」
「足利殿の家来のひとり」
「あの一色どのか。……あの翌朝、おれの縄目を解いて放してくれた……」
「いや、縄を解いて放してやれと仰っしゃったのは、たれでもない、和殿がその前夜、男山八幡の石段で、殿(でん)ノ法印(ほういん)の身うち岡本坊と共に、暗殺(やみうち)しようと計って仕損じたわがおあるじ尊氏どのだ」
「これは? ……」と、小六はあきれるほかなかった。
 そのさいの足利家の一家臣が、どうして、正成と共にここにいるのか。これは解らない方がもっともだった。
 正成はそこで初めて大蔵へも小六へも、事のわけを話してきかせた。そしてまた、かつて尊氏は、この桐山の小六にたいして、腹の大きな処置をとってみせたとも言った。
 およそ、わが身を狙ッた刺客といえば、これを八ツ裂きにしてもあきたらぬのが当然なのに、尊氏は、捕えたその明確な下手人を、介に命じて、放してしまった。しかも兇漢は楠木家の一郎党と、はっきり知ってもいたのである。
 その処置にたいして、正成も口を拭いてはいられず、翌晩、校書殿(きょうしょでん)の人なき所で、深く部下の不心得を彼へ詫びたことではあった。しかしそのことは正成の心に尊氏への“借り”としていつまで記憶されていたらしい。
 で今、その償(つぐな)いとはべつにいわなかったが、桐山小六へ、特にこう命じていたのだった。
「小六。そちを初め、組の者の手で、介どのの身をつつがなきよう、住吉の浦までお送り申せ。わしの領内でもし危害を加える者などあったら正成の心がすまぬ。足利どのの先の度量にたいしても面目ない。よろしいか、確(しか)と申しつけたぞ」
「こころえました」
 桐山の小六は、そういって。
「確(しか)と、この者は住吉の浦まで送りつけまする。が、すぐこれより立ちますので」
「いや」
 正成は介(すけ)をかえりみて。
「はや今日は黄昏(たそが)れ。明朝、早く立たれてはどうかの?」
 しかし、右馬介にとれば、その好意にも、どうという答えも持てない風だった。ここは敵中、とりことして扱われても仕方がない身なのである。何事にも唯々(いい)と従っているしかない。
 正成は一同をつれて、そのまま水分(みくまり)ノ館(たち)へと歩いた。館の前の“駒つなぎ桜”はもうわずかな日のうちに散り褪(あ)せていて、その下には、領下の雑人(ぞうにん)たちの直訴でもあるのだろうか。さまざまな風態の人間が、地にぶっ坐っているふうだった。
 が、彼らは、
「ア、おやかた様だ」
 と誰かの一ト声をきくと、みな立って、門へ入って行く正成のすがたへあたまをさげていた。
 小六と大蔵たちは、介をつれて邸内の長屋へ入り、正成は正面の式台をふんでいた。「……お帰りなされませ」と、久子の笑顔を中心にみな揃って出迎えている。正行(まさつら)も見え、卯木(うつぎ)も見えた。また幼い者たちの、はしゃぎ廻る足音や、爺の姿や、ほか家臣たちの礼をも廊下に見て通りながら、この主(あるじ)のからだは、奥の一室へおちつくまで、賑やかな声にくるまれ通しだった。
「……あとで。……あとで」
 正成はすぐよりたかって来る子たちを、卯木にあずけた。そして爺から留守中の報告をうけ、さてようやく、久子とふたりきりになったところでふと訊ねた。
「門前に見えた大勢の雑人たちは、いったい何か」
「石川あたりの散所民(さんじょみん)たちだそうでございます」
「散所の者か」
「はい。あの衆たちは、おやかた様が朝廷のおとがめで引きこもったのか、さもなくば御病気かと、巷(ちまた)の噂を案じ合って、相談のすえ、お見舞にうかがったものと申しておりました」
「すまんな。それはすまん。正成はこのとおり病気(いたつき)でも何でもない」
「ですが、何であれ、おなぐさみになればうれしいとか申しまして、干魚、干肉、菓子、酒などたくさんに持ち、中でも散所の芸人たちは、ぜひ、自分たちの芸をお慰みにいれたいと、あのように、いくら爺に諭(さと)させても、帰らないので、ほうッてあるのでございます」
「それは悪い」
 正成は言った。
「散所の民は、ゆらい領主も何もないはずの者。それがああして、せっかく自分らの代表をたて、わしの慰めにとこれへよこしたのに、むげに断るのは心ないことだ。長屋へ入れて、あすはその衆の芸を見ようと、爺からいわせておくがよい」
 めずらしい仰せ出しと、久子だけでなく、爺の左近も、家臣たちも、それには意外な思いをしたらしい。もっとよろこんだのは、せっかくやって来た散所の代表者たちである。それと、正行(まさつら)やその下の幼い子どもたちだった。
 どんなことになるのかと、みなあくる日を楽しんだ。正成は桐山の小六をよんで、介(すけ)にもそれを見せ、それから住吉へ送って行けと、いいつけた。
 次の日。
 野芝居の場所には、館(たち)の庭のほどよい所が見たてられた。
 散所民の芸人たちは、竿を立て、袖幕を張り、笛太鼓座(ふえたいこざ)などのしたくがすむと、
「こちらは、いつでも」
 と、見物が揃うまで、長屋で酒飯(しゅはん)のご馳走にあずかっていた。
 まもなく、楠木家の門は、もう朝からむらがっていた老幼男女のために開放されていた。
「日ごろめったに家を出ぬ者は誰なと見に来い」
 との触れだったので、多くは家士たちの家族だろうか。中には歩けぬ老人が背負われて来るのさえあった。また山里の百姓たちは「おやかたの内を拝見するだけでも」と、おずおずと連れだって、大庭のまわりを埋め、まばゆげな顔を野天にそろえて坐り合った。
 正成も縁へ出ていた。
 正行や三郎丸などの幼少をそばへおいて、いかにも祝福された父親の姿だった。卯木も観世丸と共に、家族のうちにいたが、久子だけは見えなかった。それを気にして、
「母上。始まりますよ。はやくいらっしゃいよ母上」
 と、正行は何度も、自分で呼びに立ち、やがて、爺の左近が連れて来ると、父のそばをあけて、そこへ母を坐らせた。
 母屋(おもや)の縁だけでなく、書院の廊から下屋(しもや)の方にも家臣の顔がいっぱいだった。水分(みくまり)の大家族はほとんど揃ッた観(かん)がある。龍泉の正季(まさすえ)も家来をつれて書院廊の角に坐っていた。しかしなぜか正季の周囲には、この光景を愉しんでいる色がなかった。
 散所囃子(ばやし)――
 が早や賑やかに鳴り出している。主楽器は太鼓と鉦(かね)であった。それに笛やササラの音(ね)がからむ気だるい野趣(やしゅ)をおびた民楽(みんがく)だが、遠くには、金剛や葛城(かつらぎ)の山波が横たわり、空には昼の月があった。いわばそれらが舞台をなし、いつかしら、ここの群集のうえには、一場(いちじょう)の法楽の天国が、理窟なしに降(お)りていた。
 そのうちに、衆の笑い声が、風と花のように、どよめき合い、どの顔も、相好(そうごう)をくずし出した。散所芸人たちの野芝居は、野卑で、淫猥(みだら)で、人間の皮を剥(む)いて見せるように開けッぴろげな芸であったが、しかし少しも暗くはなかった。悪人も聖者(ひじり)も尼もみなどこか滑稽で、しかもあわれな者、みな自分らと等(ひと)しい人間たちとして、彼らは演じているのだった。
「おもしろかった」
 正成は彼らをよんで、充分な引出物をそれぞれにとらせた。半日の野天興行もめでたく終り、正成にもよろこばれ、散所民たちは大満足で帰って行った。
 招かれた老幼もみなぞろぞろと去りかけている。その中を、桐山の小六は、右馬介(うまのすけ)をうしろに連れて、
「では、ただいまから、住吉の浦へ立ちまする。ほかに何か御用は」
 と、正成のいる縁の庭先へ来てひざまずいた。
「おう、行くか」
 と正成は、介へ、一言の別辞を送った。――尊氏どのへよろしくという意味深い一言だった。
 すると、そのとき、廊をこっちへ歩いて来た正成の弟正季が、
「小六。待てっ」
 と、声荒く、呼びとめた。
 正季は庭へおりて来た。
 しかし、小六へ用があるふうではない。小六のうしろにいた右馬介へむかって、
「待て、柳斎」
 と、するどく呼びかけ、
「はや筑紫(つくし)へ帰るのか」
 と、挑(いど)むような眸をそそぎかけていた。
「お。……ご舎弟様で」
 介はニヤとしたきりで、あいまいな顔を守った。
 このご舎弟と正成との性格の差は知りぬいている。だから何事も起らぬようにと、ここはただこの場のがれを密かに希っていた彼だった。しかし正季はすでにすべてを聞いていた風で、やりばない忿懣(ふんまん)が語気そのものにあらわれていた。
「やいっ、介とやら。いや足利家の諜者(いぬ)、よくも多年わが領内にいりこんで、正季が目をくらましていたな!」
「…………」
「敵ながらけなげな奴だ、汝の主人尊氏に代ってほめてやる。だがこれが兄上でなく、正季の手で汝を処分していたなら、その素ッ首は、無事に、尊氏の許へは返されまい」
「…………」
「命冥加(いのちみょうが)な奴ではある。かえすがえす、ありがたいと思え。したが、このことを以て、楠木党の甘さと見たら大間違いだぞ」
 正季は、ずかと寄って、
「覚えておけ。ここには龍泉の正季もいることを」
 と、いきなり介の横顔を平手打ちにばッと撲(う)ッた。
 介は、顔を抱えて少しよろめいた。それへ向って、さらに正季の二打(だ)が追いをみせたときである。縁の上から正成が、
「正季っ、よせ。よさんか。児戯(じぎ)のようなまねは」
 と、つよく叱ッた。
 ふとその兄を振向くと、いかにも愉しまぬ、不愉快そうな色だった。その態度が、この日頃にあった正季の不満の吐け口をつい誘った。
「児戯? 何で正季の仕置(しおき)が児戯でしょうか」
「打ってどうなるのだ」
「腹にこたえさせてやるのです。いずれはすべて尊氏の耳に入ること」
「尊氏に笑われたいか。さような児戯、尊氏は大いに笑うだろう」
「兄上は尊氏が恐ろしいのですか。宮(大塔ノ宮)を殺した怨敵(おんてき)、みかどの逆臣、世をみだす乱賊。あの尊氏が」
「……。小六、何しておる」
 正成は、弟へ答える代りに、桐山の小六へ、あごをしゃくって、
「介どのを連れて、はやく行け。介どのも、気にかけるな。はや立たれよ」
 と、せきたてた。
 小六は部下と共に介の身をとりかこみ、すぐ邸外へ出て行った。用意の馬に介を乗せ、自分も騎馬となって、たちまち、水分(みくまり)をあとにしていた。
 彼は途中で見た。
 おなじ館(たち)から今日半日の遊楽にみたされてぞろぞろ帰って行く老幼男女の影や散所芸人たちの群れをである。――介は、不思議な国をいま訣別(けつべつ)してゆく感だった。この郷(さと)での過去さまざまな見聞も思い出され、ふたたび、ここへ来る日はあるまいと思うにつけ、何か、第二の故郷でもあるように、金剛山が振向かれた。

 ことし、またも改元(年号改め)がおこなわれた。
 どうもこれまでの建武という称もおもしろくない。新政体の発足とともにせっかく用いられてきた年号だが、事々不吉が多かったようである。尊氏の西走と、洛内の人心一新を機として、よろしくこのさい改元を布(し)かるべきである、というのがおもなる理由であった。
 何も天下の吉凶は年号によるものではあるまいに、時代の新しい思想を持ち、それの実現を抱負としている堂上が、わけて若公卿までが、こんなことには完全に一致して、早々、令を見るに至ったのであった。
 二月二十九日以降は、従来の「建武」を廃して、
 延元(えんげん)
 とするとなったのである。
 ところが、奇(く)しくも。
 この延元元年の二月二十九日は、さきに西国へ遁竄(とんざん)していた尊氏が、敗残の兵をのせて、長門(ながと)の赤間ヶ関をはなれ、海上一日の航路をへて、たそがれ、筑前の芦屋(あしや)ノ浦へただよい着いた日にあたっていた。
 が、ここで断わっておかねばならない。――それは、尊氏の侍臣右馬介の河内潜行より約一ト月もさかのぼッていることである。――すなわち尊氏が、ひそかに、
「そちだけは、ここを去って、河内の楠木ノ兵衛(ひょうえ)に会うて来い」
 と、介(すけ)を密使として途中から放したのは、それ以前のことに属(ぞく)し、従って介が、下赤坂や金剛の峰をうろついていた時よりも、日はあとへもどり、同時にその天地もここで筑紫の一角へ移るとする。
「おうーいっ」
 芦屋ノ浦の夕暮れは、文字どおり墨絵のような芦や砂丘と蕭々(しょうしょう)たる風だけだった。
「おおうういッ……」
 と、さっきからの芦の中の声に、どこか、はるかな陸でも、同じような声がこたえていた。
 そのうちに、
「オオ、煙があがった」
「船をすすめろ」
「もっと先だ。あの煙が味方にちがいない」
 と、それまでは用心ぶかく河口に船体を隠していた数十そうが、いちどに遠賀川(おんががわ)の水面にみなその船影をあらわした。そして、えいえいと、川すじを深くのぼって来た。
 親船とみえる一そうの船上では、さきに太宰府から赤間ヶ関まで、尊氏を迎えに渡っていた筑後ノ入道少弐妙恵(しょうにみょうけい)(貞経)の子の頼尚(よりひさ)が、水案内(みずさき)を勤めて、みよしに立ち、
「待った、待った。水夫(かこ)の衆、宰相(さいしょう)(尊氏)の御船はここらでとどまれ」
 と、制止していた。
 そして彼は、尊氏のいる胴(どう)の間(ま)の座所へ来て、
「はや宵に入って、物の黒白(あいろ)もわかりません。よも合図に違(たが)いはなかろうと思いますが、万一があっては大変です。それがしどもがまずその辺の陸地を先に物見して戻りますゆえ、もうしばらく、ここにてお待ちねがいまする」
 と告げ、ただちに自己の一小隊だけをつれて陸へ上がって行った。
 これまでの九州は、いわば中央争覇(そうは)の圏外(けんがい)だった。ここも武家宮方の両派に別れていたが、要するに、両勢力のいずれに自家を託すか、遠くにいて、武族みな思い思いに、未来を賭(か)けていたにすぎない。
 が。
 尊氏の九州くだりは、俄然、颱風の進路が一変、急角度に筑紫九ヵ国の空をおおって来たようなもので、いまや中立帯でも衛星国でもなく、ここもいやおうなく、争乱の中心となって来たのだった。そして、
「なおしばし、御船にあって」
 と、尊氏を遠賀川の船上にのこして、岸へかけあがって行った少弐(しょうに)の太郎頼尚(よりひさ)の胸には、じつは、陸上の物見以上に、気が気でないべつな不安もあった。
 彼は、さきに。
 父の大宰(だざい)ノ少弐妙恵(みょうけい)から命ぜられて、弟の頼澄(よりずみ)、一子の氏鶴丸(しかくまる)、ほか郎党三百をひきつれ、率先(そっせん)、尊氏の誘導隊として赤間ヶ関まで迎えに行って――そしてここまでは来たのだが――赤間を船出する前に、
「肥後の菊池武敏、阿蘇(あそ)の大宮司(だいぐうじ)惟直(これなお)などの宮方が、太宰府の手うすを知って、水木の渡しをこえ、俄に、大軍を駆(か)ッて太宰府へ急進中――」
 との報を、留守の老父妙恵(少弐貞経)からの早打ちで耳にしていた。
 元々。
 妙恵と彼との作戦は、まず足利の宰相(さいしょう)(尊氏)を太宰府にむかえ、九州一円へ檄(げき)をとばし、肥後の菊池党とは、その後において堂々の一戦を展開しようとするにあった。――が、はやくも敵に先(せん)を取られ、逆に彼の襲撃をみてしまったのだ。そこで、
「もし今日にでも太宰府が陥ちていたら?」
 と、航路の一日中、心も空な頼尚(よりひさ)だったのである。またそうした不安も尊氏には告げていなかっただけに、芦屋の岸へあがるやいな、彼は、
「太宰府の侍は来ていないか。誰であれ、味方がいたら、ここに頼尚ありと触れて来い」
 と八方へ手分けして、まず太宰府の安危と、老父妙恵の消息をさきに知ろうとした。
 すでに、ここらの様子も変だった。彼の予想のようでない。
 本来なら、足利方と目(もく)されている島津貞久や大友具簡(ぐかん)の軍兵も、尊氏の通達で、一部は来会していなければならぬはずだ。しかるに、そんな軍隊は見えず、やがて捜し出されたのは十数名の太宰府からの落武者と、遠賀川のやや上流(かみ)で、焚火(たきび)をあげていた一団四、五十名の味方が発見されただけだった。
 その中に、太宰府の家臣、畦倉豊前守(あぜくらぶぜんのかみ)の末子(まっし)井筒丸もいて、頼尚(よりひさ)の姿を見ると、わっと泣いて、頼尚の足もとへ泣き仆れ、
「筑後さま。遅うございました。太宰府は今暁(こんぎょう)、菊池勢に攻めおとされ、大殿の妙恵(みょうけい)様、宗応蔵主(そうおうぞうす)さま、ご一族は内山へ逃げ退(の)いて、御寺(みてら)へ火をかけ、火中にて御自害をとげてみなお果てなされました。……ざんねんです、ざんねんでございまする」
 と、一切を告げた。
「…………」
 頼尚は一時茫然とした。
 涙も出なかった。
 どっぷりと遠賀川は夜になっていた。
 芦をわたる暗い風には、響灘(ひびきなだ)のとどろきがある。
 尊氏はまだ船の上だった。二月(きさらぎ)の星はいいようもなく肌ざむい。わけて敗軍の身、流亡の空だ。来(こ)しかた、明日の未来、尊氏は居眠ってでもいるように、船むしろに坐っていたが、心は複雑なのであろう。夜鳥の水音にも、ふと耳をたて、そしてまた半眼(はんがん)にもどっていた。
「はてなあ?」
 やがて呟いたのは、幕将たちの一人だった。そこへ仁木義長と高(こう)ノ師直(もろなお)も、舷(ふなべり)を接している隣の船からはいって来て、同じような焦躁(しょうそう)をおもてに持ち、尊氏へむかって言った。
「殿。いまだに頼尚がもどって見えませぬが」
「ム。どうしたか?」
「それに、上流(かみ)の煙を見て、さきに上陸したお味方の面々も、何の連絡もしてまいりません」
「妙だな。声だにせぬ」
「もっとも、この暗さ。浦も川すじも、芦屋一帯が闇と風音ばかりです。が、どうもこの地は吉(よ)い気配(けはい)とも思われませぬ。いちど貝を吹かせて、こころみに、おひきあげを命じてみてはいかがでしょうか」
「いや」
 と、尊氏は好まぬ色をみせた。
「いずれといえ、みな生死をともにと誓って、ここまで落ちてきた者どもだ。その者たちの心を疑うようなことはせぬものぞ。――それに少弐(しょうに)の太郎頼尚は、かならず戻ると言って上陸(あが)って行った。彼の容子にどこか憂いが見えぬでもないが、二心ない丈夫(おとこ)と尊氏は見込んでおる。まずもすこし待ってみるがいい」
 といっても、彼自身、待ちしびれたにはちがいなく、身じろぎして、坐り直した。
 かたわらの将はみな流亡の垢(あか)とつづれを纏(まと)っていたが、尊氏だけは、紅地金襴(あかじきんらん)の鮮(あざ)らかなよろい小袖と具足を着ていた。――これは頼尚から彼へ。「父の妙恵(みょうけい)入道が、筑紫(つくし)入りの御晴着(おんはれぎ)にと、とくに新調させたもの。なにとぞお召し給わりたく」と、先に献上していたものだった。――尊氏はよろこんで、それを着用すると共に、少弐父子の誠実さをも、同時に、心へ着込んだ風だった。
 すると、やがてのこと。
 その筑後ノ太郎頼尚が、
「お座船(ざぶね)の衆」
 と、岸の上に姿を見せ、
「諸所、物見をとげましたが、陸上何ら異状はございませぬ。ひとまず宰相の御座所は、芦屋の一寺に用意いたしおきました。お船をつけ、いずれもこの辺より御上陸なされませ」
 と、大声で告げていた。
 すでに、直義(ただよし)だの、高(こう)ノ師泰(もろやす)、師重(もろしげ)、南遠江守、畠山阿波守、細川顕氏(あきうじ)などは、先にべつな所から上がっており、尊氏は執事の師直(もろなお)、仁木、石堂、上杉、吉良などの幕将をつれて、陸に立った。――いやこれらの股肱(ここう)の者のほかに、西下途中の室(むろ)ノ津(つ)へ、持明院統の院宣をもたらして来て尊氏にそれをさずけた光厳院の御使(みつかい)、三宝院ノ賢俊(けんしゅん)もそのうちに立ちまじっていた。
「いざ、こうお越しくださいまし……」
 すぐ、頼尚(よりひさ)は先に立った。しかし寥々(りょうりょう)たる陸上の人数である。尊氏も不安なきをえなかった。
 童武者(わらべむしゃ)から中間(ちゅうげん)の輩(はい)を入れても、なお尊氏の供は五百人に少し欠けていた。
 そこへ少弐(しょうに)の太宰兵(だざいへい)三百名が加わったので、やや意を強うし、なお芦屋ノ浦では、数倍の九州軍が参加あるはずと観(み)ていたので、
「……まずは」
 と、或る目算もたてていたのだった。――ところがいま見れば、新参加は、わずか五、六十人の影でしかない。
 しかも、それさえ意気は沮喪(そそう)しているし、姿も疲れはてているようだ。「ただごとでない」と、尊氏も思わずにいられなかった。
 しかし尊氏は、途々何も問わず、ただ先に立ってゆく少弐頼尚を信じ、頼尚もまた、この誤算について尊氏へ何の釈明するところもなかった。
 やがて、同勢が着いたところは、芦屋から小一里奥の、※(「木+八」、第3水準1-85-47)(えぶり)の一寺だった。
 見るからにわびしい田舎寺だ。しかし先に頼尚がいいつけてあったのか、庫裡(くり)ではさかんな炊煙(すいえん)だった。なによりは一同の飢えが頼尚の責任感にあったとみえる。
 はじめて、ここでは頼尚をよんで、尊氏が不審をたずねた。
「直義たちの手勢はどこへ上陸(あが)ったのか」
「のこらず※(「木+八」、第3水準1-85-47)(えぶり)の部落に屯(たむろ)しておられます。いずれ後刻、お打合せにまいられましょう」
「たそがれ、河口から望まれた煙は、敵だったのか、味方だったのか」
「味方の群れにございました」
「それにしては、この地で参陣あるはずの、新しい手勢と見ゆるほどな兵も見えぬが」
「じつは」
 と、頼尚は申しわけないような態(てい)をがくと両の肩に落して。
「それには、ちと」
「何か、異変でも」
「は。……為に、大いなる齟齬(そご)を来(きた)しまして」
「とだけではわからぬ。何事かが起ったのか」
「肥後の菊池勢が、はや大挙して太宰府へ押し寄せ、味方は防ぎに苦戦しております由。これへ来て聞き知り、じつは、臍(ほぞ)を噛(か)んでおりまする」
「しゃっ。逆手を打たれたか」
「が、ご憂慮なされますな。老いてはおりますなれど、留守にはわが父妙恵(みょうけい)入道がおりまする」
「妙恵は、健在か」
「はっ……なおまだ……」と、頼尚(よりひさ)はしいて語気に気をつけながら「なかなか気丈な老父でございます。たとえ菊池、阿蘇(あそ)、どれほどな大軍に囲まれましょうとも、宰相(さいしょう)のお顔を拝すまではと、死力にかけて、防ぎ戦っているに相違ございません。なにとぞ、充分ここでお支度の上、御進軍ねがいまする……」
 苦しかった。
 頼尚として、すでに討死している父の死を想うことも、それを尊氏へ秘(かく)していることも、腸(はらわた)のちぎれるような思いだった。
 が、もしここで、九州の地をふんだばかりの出ばなにおいて、太宰府の失陥やら、大宰の少弐妙恵入道の死を公然にしたら、尊氏その人はともかく、全将士の意気の沮喪(そそう)はどうしようもあるまい。――頼尚はぜひなく自己をころしたのだった。そしてまた、陸上にいた者へも、すべて口止めしていたのであった。
 ほどなく、直義(ただよし)がみえ、直義についている上杉伊豆守重能(しげよし)そのほかもみな集まって、急遽、宵のくちの軍議となった。
 結論として。
 太宰府の危急――
 菊池勢の猛威――
「一刻も猶予はならぬ。すぐ行け」
 とは、きまった。
 しかし総勢八百にも足らないのである。装備といったら馬さえわずかな数でしかない。
「これはどうするか?」
 であった。
「どうのこうのを言っているところでない。むかし頼朝公が石橋山に破れて、海上を小舟で安房(あわ)へと、落ちのびられたことなどにくらべれば、まだわれらには生死を共に誓ッた八百の精鋭がここにある。何の怯(ひる)みを」
 左馬頭(さまのかみ)直義は、このとき火のごとき言を吐いた。人々もそれに打たれて二言となかった。
 が、尊氏はあくまで慎重な唇をとじ、そして、一同の積極的な意気を篤(とく)と見たあとで、頼尚へきいていた。
「ここから宗像(むなかた)までは道のりどれほどあろうかな」
「途中、山路もありますが、まず四里と見たらよろしゅうございましょうか」
「ひとまず宗像ノ大宮司(だいぐうじ)をたのんで行こう。先触(さきぶ)れには、南遠江守、曾我(そが)ノ左衛門の両名駈けろ。……もし大宮司に二の足がみえたらすぐ戻って来い。攻め破って通るまで」
「かしこまりました」
 と、曾我と南は、すぐ尊氏のむねをおびて、先に宗像へ馬を飛ばす。
 つづいて、尊氏、直義以下の全員も、寺を出て、西の道へいそいだ。真夜なか、蔦(つた)ヶ岳(たけ)をこえて、野坂、許斐(このみ)へ出る。――と、大宮司宗像氏重(むなかたうじしげ)の一族の者がすでにそこまで出迎えていた。
 やがて、また、大宮司の館では、
「どれほどのお力になれようとも思われませぬが、まずはお心やすらかに」
 と、宗像氏重が、自身で尊氏を内へ請(しょう)じた。そして、邸内を開放しての歓待だったが、尊氏は、
「いや、そうしてはおられぬ身、しばし御門前を床几(しょうぎ)の場に借用したい。そして馬に水飼(みずか)い、兵にも腰兵糧(こしがて)の用意をさせなどしたら、すぐにもここは立ち申す」
 と、門前に床几をおかせ、身を休めるにとどめていた。
 このあいだに、宗像大宮司のはなしから、初めて、尊氏は知ったのだった。――すでに太宰府はきのうのうちに陥(お)ちており、少弐妙恵(しょうにみょうけい)入道以下、あえなく、内山の城で自害し終ッていたということを――である。
「さもこそ……」
 と、尊氏はうなずいた。
 落胆もしたが、同時に、
「あわれや、頼尚(よりひさ)の心根」
 とも思わずにいられない。――それを自分に秘(かく)していた彼の心はよく分っていたので、すぐ頼尚を床几の前に呼び、彼の父妙恵の死を共に悼(いた)んだ。
 はじめて、頼尚は事実を告げた。そして、
「じつは、これが老父の遺書にござります。……老父妙恵が、自刃の直前に、井筒丸と申す童子武者に持たせよこしました物……」
 と、袖のうちから、血に染んだ一書を取出して尊氏にみせた。
 尊氏は読んだ。一読、愁然(しゅうぜん)としたきりであった。
 太宰府を死守して、そこの失陥とともに自刃した妙恵入道が、子の頼尚へあててよこした末期(まつご)の一文は、悲壮きわまるもので、その走り書きをたどれば、
――自分は遂にここで終る
元々
足利どのと志(こころざし)を契(ちぎ)って
御為(おんため)の下に果てること
さらさら何の悔(く)いではない
このうえは
其許(そこ)(頼尚)を初め
生き残ったわが一族は
いちばい心をかため
そして尊氏公を
天下のあるじと仰ぐまで
忠節を尽せ
働き抜け
それが我(われ)への大仏事ぞ
陀羅尼(だらに)の経(きょう)もどんな供養も
それ以外に
我への回向(えこう)はないとせよ
 と、あったのである。
「頼尚(よりひさ)……」
 やがて、尊氏が言った。
「わが家には、家祖家時公の“置文(おきぶみ)”というものがあった。これは少弐(しょうに)の家の置文といってよかろう。護符(ごふ)として、大事に肌に持っているがよい」
 尊氏は、妙恵の遺書へ、ていねいな拝(はい)を添えて、頼尚の手へ返した。――太宰府が早や敵手に落ちてしまったのは、このさいの尊氏には、まったく拠(よ)り所(どころ)を失った大傷手(おおいたで)ではあったものの、同時に妙恵のこの一書が、いかに彼の滅失を鞭打(べんだ)し励ましたことか、これも、はかり知れないものがある。おそらく、彼の胸には、意識なく、平時の日に坐っていた“禅”の禅機が生きて働いていたにちがいない。
 もう行く先のあてはないのだ。また、あとへ退く所もなかった。天涯(てんがい)の孤軍である。「いっそ、よからん!」と、尊氏は胸のうちで言っているかのようだった。必然、一死を期したに相違なく、迷いも澱(よど)みもない姿とその眉は何か清潔な感をすら左右の者に覚えさせた。
「直義(ただよし)」
「はっ」
「聞いたな」
「うかがいました」
「いまは秘(かく)しておくにおよばん。太宰府の陥落、少弐妙恵(みょうけい)の死、すべて、ありていに全軍へ告げわたせ」
「こころえました」
「待て。さらにこう言いそえておけ。敵の菊池勢は二、三万の大軍と聞きおよぶ。味方はこの小勢だ。しょせん、勝目はあらじと、怯(ひる)む者(もの)は、疾(と)う疾うここを去って立ち退けと申せ」
 直義は、すぐ立った。そして尊氏の床几布令(しょうぎぶれ)のままを、あなたこなたでくりかえし叫んでいた。
 さすが一瞬は死の風が通ったようなひそまりだった。しかし、怯(ひる)み騒ぐらしい動揺はなく、宗像(むなかた)の大宮司も、一族百余人を、加担人(かとうど)に提供し、また、秘蔵の黒鹿毛(くろかげ)の駒を、
「み軍(いくさ)のはなむけに」
 と、尊氏へ贈った。
 すでに明け方へかけては、刻々と、敵のうごきもここへ聞えている――
 一挙(きょ)、太宰府を落し、その勢いで、なおぞくぞく前進中と聞えていた菊池武敏を主力とする阿蘇(あそ)、秋月、黒木などの九州宮方の大軍は、今暁早や、博多箱崎の地点に近し――という情報がしきりだった。

 古い俗間のことばに、
 菊池千本槍(やり)
 という伝(つた)えがある。
 それまでの日本には鉾(ほこ)はあったが、槍はなかった、槍は九州の菊池党がつかい出したのが濫觴(はじまり)であるというのである。
 ほんとか嘘かは定かでない。もっと昔の“後三年合戦絵巻”などには類似の武器を用いている武者図があるし、必然な闘争動作からも“突く”という働きは本能的にやることだから、すでに鉾(ほこ)すら上代からあったのに、槍の発明がそう遅かったとも考えられない。
 しかし「菊池千本槍」の起りは、そんな考証にかかわりなく、箱根竹ノ下の合戦のさい、必要上、非常手段として、それに似た物をつかったという一場(いちじょう)の戦場談から始まったものだった。
 建武二年、新田勢が朝命の下に東海道をくだり、尊氏は“義貞弾劾状”を朝(ちょう)へ出して後、ただちに蟄居(ちっきょ)の一寺から上洛の兵をすすめて、両者、箱根の奇勝に拠って、雌雄(しゆう)を争ったあのときの戦である。
 肥後の菊池武重は、その日、新田軍の総くずれと共に逃げ退いたが、途中、兵を竹林(ちくりん)に隠して手頃な竹を伐らせ、それに短刀を結いつけて、追ッてくる敵を待った。そして不意に穂をそろえて突いて出たところ、敵は見たこともない武器にうろたえ、意外な戦果をあげた。それが千本槍のおこりだといわれている。
 真偽はともかく。
 肥後には古くから肥後鍛冶(かじ)が発達しており、当時、刀鍛冶の延寿(えんじゅ)国村の門輩がさかんに武器の需要におうじていたことはたしかであるから、菊池武重の実戦における経験から、
 これからの戦は槍
 槍に利あり
 と見て、大いに自領の肥後鍛冶のあいだに槍の製作を工夫させ、従来よりは一進歩したいわゆる延寿鍛(えんじゅぎた)えの菊池槍(きくちそう)を大量に作らせたろうという程度には考え得られる。
 いずれにしても、武門としての菊池党は、九州豪族中での重鎮(じゅうちん)だった。
 頼山陽(らいさんよう)は、その詠史(えいし)の詩のうちに言って、
翠楠未必勝黄花(すゐなんかならずしもくわうくわにまさらず)
 と、うたったが、菊池の一族一門中、初めから終りまで、宮方へ味方して、終始一貫、変節者や離反をひとりも出さなかったことは、たしかに、ひがしに楠木、みなみに菊池党、ほかになかったといってよい。
 しかも世はあげて、不道徳不感症時代である。節操(せっそう)はすたれ、利をみれば、旗も墨で塗りつぶし、義といえば、愚者の無知と嗤(わら)う世だ。
 そんな中で勤王といい、宮方と称(とな)えても、他の武門とちがい、この党だけには、うそでないほんものの概(がい)があった。なお廃(すた)れてない清烈な武門の旗がここだけにはあったといえる。
 肥後の菊池郡隈府(わいふ)町がその本拠だった。
 元々、上古の久米部(くめべ)の兵士の裔(すえ)でもある。
 中頃、後鳥羽院(ごとばいん)の武者所に勤番し、承久ノ乱にも宮方、元寇(げんこう)の乱(らん)にも、率先(そっせん)、国難にあたってきた。要するに、筑紫のくさわけでもあり徹底した防人(さきもり)精神のうえにその家風も弓矢も伝承してきた菊池家だった。いわれのないわけではない。
 ――こう観(み)てくると。
 時の後醍醐が、この九州菊池党へ、秘勅をくだして、早くから筑紫(つくし)無二のお味方と恃(たの)まれたのも、決して偶然なことではない。
 さきに、みかどが、隠岐ノ島を脱出して、名和長年の伯耆(ほうき)の船上(せんじょう)に拠り、御旗上(みはたあ)げをされたさいにも、
「まず第一に、九州では菊池の党へ」
 と、密詔(みっしょう)の檄(げき)は、どこよりもはやく、肥後の菊池城へとどけられていた。
 当時。――これを拝して起(た)ったのは、当年まだ四十二の寂阿(じゃくあ)入道菊池武時――すなわち今の武敏の父だった。
 その寂阿(じゃくあ)武時は、
「わが一代の事、今にあり」
 と、おなじ志の阿蘇(あそ)一族をかたらって、阿蘇火山の噴煙をうしろに、筑後川をわたり、博浪(はくろう)一撃(げき)の下にと、博多の北条探題邸の襲撃にむかった。
 当年――元弘三年三月に起った博多合戦とその前後のことは――もう先に“船上山”の条(くだり)から“博多日記”のあたりで一おう書いておいた。
 けれどなお、かさねて、ここで想起してほしい幾つかのことが遺(のこ)っている。
 そのときの探題襲撃は、見事、菊池方のやぶれに帰し、寂阿武時以下、一族郎党三百余人は、犬射(いぬい)ノ馬場で斬り死をとげ、じつに凄惨(せいさん)な全滅をみてしまったが、原因は一に、味方とたのんでいた者が、俄に、裏切りに出たことにあった。
 それを、たれかといえば、
 少弐ノ入道妙恵(みょうけい)(貞経)
 大友ノ入道具簡(ぐかん)貞宗
 の二人である。
 以来、菊池党として、これこそ深い恨みでないはずはない。
 ところが、時勢は急転した。
 鎌倉幕府、執権高時、すべて昨日の覇府(はふ)は地上から消えた。
 余波はすぐ九州へもおよび、博多の地に過去十年余の業績と人柄を称(たた)えられていた九州探題の北条英時(ひでとき)も、たちまち、四面楚歌(しめんそか)の包囲中におかれ、鎌倉滅亡の日からいくばくもない、当年の五月二十五日、館(たち)に火をかけ、自害して果てた。
 じつに、怪しいのは、こんなときにおける人のうごきで、先には、探題英時に与(くみ)して、菊池寂阿(じゃくあ)を自滅させた少弐妙恵と大友の入道具簡(ぐかん)も、こんどは、阿蘇、菊池の諸豪(しょごう)に伍して、共に、探題攻め包囲軍中にいたのである。――白楽天(はくらくてん)のことば――行路(カウロ)ノ難ハ山ニモアラズ水ニシモ非(アラ)ズ、タダ人情反覆(ハンプク)ノ間ニ在(ア)リ――という事実を人々は目(ま)のあたりに見たことだった。
 だが、市井(しせい)の目が、そのまま真相を映(うつ)すかといえば、これもそうとはかぎらない。
 激動中の表裏(ひょうり)には、怪奇複雑なかけひきやら、政治的な離合(りごう)なども、さまざま、波の底にはおこなわれている。
 一時、菊池党と結んだ少弐、大友の二党も、やがて建武新政の両三年を経(へ)て来るにしたがって、いつかまた、水と油の反目をみせだしていた。
 元々、九州九ヵ国の諸豪は相譲(あいゆず)らぬ対立を持(じ)していたし、またとくに、少弐、大友の二氏は、菊池党とはまったく違う時勢観と利害の上にも立っていた。
 それというのも、ひとつには尊氏の遠謀だった。少弐、大友などが、尊氏と密盟を持ったのは、きのうや今日のことではない。まだ尊氏が六波羅にいて、六波羅奉行の腕をふるっていた建武初年の頃からであった。
 当時、都に在番の少弐、大友、島津らの子弟はみな、
「足利殿の人物は大きい。新田殿とは比較にならぬ」
 と、帰国の都度(つど)、郷党の者へ語りつたえる風だったのである。
 もちろん、遠謀に富む尊氏は、そのころから筑紫(つくし)諸党へたいしては、かくべつ政治的便宜をはかり、またあらゆる好意を送っていた。で事々、筑紫の武族間には、
「なるほど」
 と、こころよく受けとられ、同時に、
「さすがは、赤橋殿の妹聟(いもとむこ)、うわさのごとく、なかなかな器量人(きりょうじん)か」
 と、衆望の観(み)るところにもなっていた。
 ゆらい疑い深いのは武族間のつねだ。それが未見の尊氏へ、どうして、こうつよい信頼を九州では高めていたのか。
 もっとも、これまでに、彼らの尊氏観(かん)が固まってくる根底には、それとの結び付けとなった重要な前時代の前提がないではない。
 何かといえば。
 その胚子(たね)は、すでにこの地で亡んでしまっている前(さき)の九州探題北条英時(ひでとき)が蒔(ま)いておいた徳望だった。
 英時は、探題十余年の在職中、治(おさ)め難いこの九州諸豪のうえに在(あ)って、よくその平和を維持していたばかりでなく、庶民の評判もよく、その人柄はわけて皆から親しまれていた。
 が、それほどな英時も、大本(おおもと)の鎌倉幕府の倒壊(とうかい)に会してはぜひもない。保身的な豹変者(ひょうへんしゃ)、元来からの宮方勢の包囲のうちに、あえなく自刃をとげてしまった。が、菊池党のような正真正銘の宮方をのぞいては、
「惜しい人をば」
「あえないことに」
 と、後々ではみな悼(いた)みもし、英時の善政なども、今さら慕(した)われていたことだった。
 とにかくそこへ尊氏の擡頭だった。彼の名がようやく武門の焦点となるにつれ、はしなくも尊氏という人物が、この九州では、特に大きく、彼らの意識にのぼって来た。
 なぜならば。
 英時は、北条一族の赤橋守時の実弟だった。
 その守時は、いうまでもなく、尊氏の妻、登子(とうこ)の兄でもある。――で、尊氏にとれば、前(さき)の九州探題英時は他人でない。妻の兄だ。この九州と尊氏との宿縁もまた、浅くはない。
「いつかは、この九州へ、お手をかける日もあるにちがいない」
 少弐妙恵などは、夙(つと)に、こうした洞察をもっていた。大友、島津らの党も、ひそかに宮方から離れていた。
 大友具簡(ぐかん)の一子貞載(さだとし)が、中央にあって、箱根竹ノ下で寝返り、義貞を離れて尊氏の手へついてから、九州でもふたたび、宮方と足利方とは、真二つに割れ、ここは大揺れに揺れ返していた。――尊氏の九州下りは、じつにそんな時であったのである。
 亡き菊池寂阿(じゃくあ)(武時)には、たくさんな子があり、元弘(げんこう)の博多合戦で、父寂阿(じゃくあ)と共に討死したのもあるが、みな父の遺志をついで、後醍醐の召(めし)に応じ、中央へ出て二心なき戦功をあげている。
 ――で、建武初頭の論功のさいには、
 嫡男(ちゃくなん)の菊池武重を、肥後の守護職、兼(けん)、左京大夫に。
 四男武茂(たけもち)は、対馬守(つしまのかみ)に。
 その弟武澄(たけずみ)は肥前守。
 また、末弟の武敏は掃部助(かもんのすけ)に。
 というふうに、一族みな任官、受賞の栄に浴した。
 当然、これには亡き寂阿の忠死もあずかって勧賞(かんしょう)の考慮にいれられたことではあろうが、およそ一家でこれほどな恩賞をうけた例はほかにない。同時に、九州における菊池党の位置もここへきてすばらしい勢威を増していた。――大宰(だざい)の少弐(しょうに)家も、鎮西奉行の大友も、もののかずともみえなかった。
 まさに、九州九ヵ国の重鎮とは、この家のことであり、朝廷の意向も「――九州の抑(おさ)えは菊池を要(かなめ)に」と恃(たの)むところにあったであろう。
 ――尊氏来(きた)る!
 とは、このような菊池家のうちに早くから反撃の奮起を呼びおこしていたのである。肥後の山河、阿蘇(あそ)の噴煙が、ただならず揺るぎ出したのは、まだ尊氏が、芦屋ノ浦へも上陸(あが)ッて来ない前からのことだった。
 が、長兄の武重は、なお都にあって、国元ではない。
 そこで、末弟ながら武敏が一切の軍事にあたり、上の武茂(たけもち)は、あとの守りに残った。
 武敏は、精悍(せいかん)な若さと、すぐれた膂力(りょりょく)をもっていて、
 寂阿(じゃくあ)の再来(さいらい)
 といわれ、その麾下(きか)には、いわゆる“菊池千本槍”の武名を持つ旗本の精鋭と、七千の兵があった。
 また。
 隣郡の阿蘇一族も、変らない宮方だった。阿蘇ノ大宮司惟直(これなお)、惟澄(これずみ)も、ともに兵をすすめたので、あわせると、すでに万余の大軍となる。
 この時からして、九州宮方の合い言葉は、
「尊氏に筑紫(つくし)を踏ますな。――遁亡(とんぼう)の将尊氏ごときに、一歩でも九州を踏み荒させてなるものか」
 であった。
 また、
「まずそれには、尊氏と通じている太宰府を陥せ」
 でもあった。
 太宰府へ向う途上、諸所において、少弐(しょうに)一族の抵抗はみたが、穴川口の戦い、太田清水の一戦、水木の渡し、菊池勢は行くところ破竹(はちく)の勢いでそれらに勝った。
 これへ、秋月寂心の兵数千も味方に参(さん)じ、日和見(ひよりみ)だった深堀、龍造寺、相良(さがら)、杉、富光(とみみつ)などの小武族も、ぞくぞく陣へ投(とう)じて来る。で、全兵力はたちまち二万をこえ、全九州も風靡(ふうび)するかのような勢いで、延元元年二月二十七日には、もうこの大兵力のため、少弐妙恵(みょうけい)の守る太宰府――宝満山のふもと有智山(うちやま)の城――は十重二十重(とえはたえ)にとりかこまれていたものだった。
 ささえうるはずがない。
 妙恵(みょうけい)の子頼尚(よりひさ)は、尊氏の迎えに赴(おもむ)いて遠くにあり、兵も連れて行ったので、ほとんど、ここは手薄だったのだ。
 しかし、少弐妙恵は、よく防戦した。
 太宰府の居館を焼かれたので内山にたてこもり、一族の託磨(たくま)、中村などの少数を督(とく)して、よく一日半ほどは、死力のふせぎに敵の大軍をてこずらせた。
 が、ここにもまた裏切り者があらわれた。しかもそれは少弐の娘婿(むこ)、原田対馬守で、
「存ずる所あって、われらは今よりは官軍へ味方する」
 と、俄に、とりでの高い所に、中黒(なかぐろ)の旗(新田方の印)を掲げ、妙恵の床几(しょうぎ)の前へ来て、
「舅殿(しゅうとどの)にも、いまはお覚悟のときでしょう。これまでの盟約などにとらわれているのは愚のいたりです。あの大軍、ここの小勢、守れるものではありません」
 と、降(こう)をすすめた。
「そうか」
 妙恵貞経(さだつね)は、うめいた。
 むき出しに見せられた人間の奥底のものに、わけて娘婿の豹変(ひょうへん)に、いいようのない顔いろではあったが、
「ぜひもない、わしも臍(ほぞ)をかためよう。が、託磨、中村などを諭(さと)すあいだ、お汝(こと)はやぐらの上へあがって、わしの合図を待て。合図を見てから敵を招き入れろ」
 と、言った。
 原田は、急いでやぐらの上へ戻って行き、一時、降旗(こうき)を巻いて、舅(しゅうと)の合図を待っていた。
 妙恵貞経が、先に尊氏の迎えに行った子の頼尚へあてて、あの悲壮な遺書を書いたのは、この瞬間のうちだった。
 したため終ると、それを侍童の井筒丸(いづつまる)に持たせて、
「そちはすぐ落ちろ」
 と、搦手(からめて)から出し、屈強な兵十人ほどもつけてやって、さて、左右の一族へは、いまは最期のほかなしと告げ、
「火を放(か)けろ、まず、やぐら下から一面に、火をかけろ」
 と、凄(すさ)まじい命を下(くだ)した。
 こうして、彼は有智山寺(うちやまでら)へ駈け入り表の廻廊に坐りこんだ。一族郎党百数十人も共にそこへ居ながれた。とりでの炎は、みるまに、あたりを熱風にし、大廂(おおびさし)の裏がわを舐(な)め廻る。――するうちに、妙恵の顔がニタと笑っていた。――彼方のやぐらの上で、炎に巻かれながら躍り狂ッている娘婿の影をその目が見たからであった。やがて、煙の中の蚊(か)のごとき人影はみな仆(たお)れ、やぐらも音をたてて轟然(ごうぜん)とその火の柱を燃えくずした。いちめん、火の塵(ちり)と火の風が、有智山寺の縁を吹き巻いた。
 妙恵以下、すべて、そのときもう自分の刃で、身を伏せていた。火も熱くなく、冷たくもない姿だった。
 妙恵の末子、頼尚には弟にあたる宗応蔵主(ぞうす)は、まだいと若い仏門の人だが、父に殉(じゅん)じて、おなじく自殺した。しかし沙門(しゃもん)の人だけに、武士の列には並ばず、本堂の御厨子(みずし)の前に、蔀(しとみ)の格子戸や薪(たきぎ)を積んで、仏者らしい火定(かじょう)のかたちをとって死んだ。
 ――あくる日もまだ余燼(よじん)は冷(さ)めきっていなかった。が、寄手の大将菊池武敏は、さっそく、ここへ来て、妙恵入道以下の黒焦(くろこ)げの死体を篤(とく)と実検して、そして言った。
「南無(なむ)……。これで先の年、博多において、少弐、大友らのため騙(たば)かられて無念の死をとげたわが父寂阿殿(じゃくあどの)の仇(あだ)を取ッた」
 これで仇(あだ)をとった!
 武敏が発した声のうちには生(なま)のままな人間が躍ッている。
 時潮の人間は、大義名分だけでも去就(きょしゅう)していない。利害だけで向背(こうはい)するとも限ッていない。恩や恨みによってもままうごく。
 乱雲の模様のように、地上の乱にうず巻く時の武族の離合集散ほど、はかり難いものはなかった。
 しかしいま、菊池武敏の若い眸には、毛頭、そんな顧慮などない。太宰府をふみやぶり、少弐妙恵(みょうけい)一族を屠(ほふ)り去って、
「あとはただ尊氏あるのみ。その尊氏とて、漂泊(ひょうはく)の一亡将だ、何する者ぞ」
 の気概だった。
 内山の――まだ余燼濛々(よじんもうもう)たるあとに立って、
「勝鬨(かちどき)、勝鬨」
 と、三たびの凱歌を全軍にあげさせ、その二万余騎にのぼる味方にほこり、もう明日の大捷(たいしょう)をも、確信していた。
 そして、思うには。
「朝敵第一の賊尊氏が九州へやって来たのは、招かずして、わが菊池家の門へ、幸運の鳥が来て啼いたようなものだ。――尊氏を討たば、その軍功は当然、宇内(うだい)随一の勲功(いさお)。――いやでもこの全九州は菊池家の下風(かふう)に服せざるをえまい」
 あながち、これは彼の夢とばかりは言い難い。
 朝廷でもいまは、尊氏、直義の首には、何ヵ国の恩賞を附(ふ)すもよいとしていることだし、ゆらい、九州の豪族間ではまた豪族同士で、この狭い領土を侵(おか)し合って、すきあらば寸土でも自家の勢力を伸ばそうと、互いに虎視眈々(こしたんたん)と境をせめぎあっていたのでもある。――たしかに今このとき足利尊氏を討てばだった。――一躍、武敏の夢も夢でない実現性は充分にあるといえる。
「それにはまず、尊氏方の手足から先に一掃せよ」
 と、武敏の令で、全軍はその日、博多へ殺到した。
 鎮西奉行大友具簡(ぐかん)がその目標だったのである。ところが、大友はすでに見えず、この日ごろ博多附近にありとみられていた島津道鑑(どうかん)、大隅忠能(ただよし)、中原貞元らの兵も早やどこかへ引き払ッていた。――そして一部の宮方だけが、わずかに菊池党を待っていて、
「風聞には、尊氏の一勢、およそ五、六百、少弐頼尚(よりひさ)の案内にて、昨夕、芦屋へ上陸したとのことにございまする」
 と、口をそろえて告げた。
 武敏は、動(どう)じない。すでに途上でそのことは、いくどとない早馬の報で知っていたからである。――けれどまた、まもないうちに、尊氏以下が、※(「木+八」、第3水準1-85-47)(えぶり)の一寺を出て、宗像(むなかた)へ急進中――と聞いたときには、やや意外そうな顔いろだった。
「はてな。そんな無勢で、彼から行軍を急いでくるはずはないのだが?」と。
 彼の胸算用では。
 まずは宗像一族も、ぜひなく尊氏へ味方と加算し、それに少弐頼尚(よりひさ)、大友具簡、島津道鑑、大隅忠能、そのほか河田、渋谷の徒(と)、つまり九州足利方のあらましが加わったとみても、たかだか千か千二、三百人。尊氏の手持ち勢と合せたところで、ほぼ二千にたらぬ兵力だ。笑うべき小勢にすぎない。
 敵は小勢だ、わが十分の一以下だ。それに、太宰府や博多の要衝(ようしょう)もこう抑(おさ)えたからには、これ以上、尊氏方へ転(ころ)ぶ馬鹿もあるまい。また地理的に行けもしない。
「砂か……。これやひどい。風が強くなって来たな」
 武敏は、そこの床几で、顔を払った。
 附近で兵糧をとっていた将士もみな背をまげて、弁当を庇(かば)った。午頃(ひるごろ)から北風はいよいよ募(つの)り、時々浜砂を持った烈風が、痛いほど目鼻を撲(なぐ)ッてくる。
 そこへ、味方の一将、秋月寂心(じゃくしん)が、伝令にもよらず、自身、彼の床几を訪うて来て、
「掃部助(かもんのすけ)(武敏)どの。兵糧はおすましか。どうも心得ぬふしがみえるぞ」
「心得ぬとは」
「宗像(むなかた)にいた所縁の者が、逃げて来たが、それの話によれば、尊氏の一勢は、宗像ではつかのま休息しただけで、ひた急ぎに、西へ急いでいたと申す」
「こなたへ向って」
「いかにも」
「それこそ、灯をみて飛びこんで来る虫よ。われから死所へ急いでくる敵なら、望むところではあるまいか」
「いや、そうばかりもいえますまい。尊氏とて凡将でなし、直義(ただよし)には勇猛の聞えもある」
「知れたものだ。彼らは筑紫武者の骨髄(こつずい)を知っていない。来れば思い知らせてやる」
「が、先導(せんどう)には少弐頼尚(よりひさ)、大友、島津、大隅(おおすみ)らも加勢のこと」
「何の、たかだか千か、千五百。味方は三万にちかい。鎧袖(がいしゅう)の一触(いっしょく)だ」
「にもかかわらず、その小勢は、ましぐらに前進中と聞えてくる。敵にも何ぞ目途(もくと)するところがなくてはかないませぬ。何か、目あてが」
「玉砕(ぎょくさい)だろう。彼らとすれば」
「それは恐(こわ)いことではございますまいか。小敵といえど」
「あなどらず、か」
「おそらく必死を決した猛兵かとおもわれます」
「それはそうだろう。この九州へ上がったものの、這奴(しゃつ)らの運命は、自滅のほかはありえない」
「けれどもし、小勢ながらその敵が、高地を占めて、地の利をとったら、ちと厄介ではありましょう。よろしくお味方もいまのうちに軍をすすめ、先鋒(せんぽう)、本軍、遊軍などの布置(ふち)に、抜かりなきを期しておかれてはいかがとぞんじますが」
「抜かりがあろうか」と、武敏は笑って――「布置(ふち)は今朝から武敏の胸には描けている。きょう、これより筥崎(はこざき)ノ宮に戦捷(せんしょう)の報をささげ、なお尊氏討伐の祈願をこめる」
「は」
「去って、多々羅(たたら)の浜へ出、さらに北へ一里、名島(なしま)から松ヶ崎の高所を見たてて旗を立て、あの附近を本陣としよう。――そして武敏の床几場を中心に、蓮華坂(れんげざか)から八田、土井(どい)方面へまで、わが二万余騎を扇なりに展開して待つ」
「さすがは!」と、寂心は賞(ほ)めそやした。「早やお胸にそこまでの御寸法があるものを、いらざることを申しあげました。仰せのごとく、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)、もはや恐れるものはございませぬ」
 北風はいよいよ強い。
 あたりの陣幕(とばり)を吹き捲くり、その一端の裾(すそ)が、武敏の半身へも、うるさく絡(から)みついてくる。
「伝令。阿蘇(あそ)どのを呼べ」
 と、そこの床几(しょうぎ)の声だった。
 旗本の一騎は、黄旗をえびらに挿して、すぐ飛んで行った。
 風に攫(さら)われた黄旗が地に捨てられてゆく。――まもなくまた、阿蘇惟直(これなお)と一族の惟澄(これずみ)が伝令と共に陣幕(とばり)へかくれた。
 ほか、菊池の一族重臣もみな呼ばれ、武敏と秋月寂心を中に、砂風(さふう)の中の立ち話みたいな忙しい一会議がそこでおこなわれた。戦場の選択やら配備のしめしあわせらしい。
 みな了解した。
 とくに先陣を命じられた惟直のいとこ阿蘇惟澄は、
「身の面目」
 と、勇んで去った。
 二陣、三陣、また遊軍、それぞれの将もみな、
「こころえて候う」
 と、ばかり各自の隊へわかれて行き、そのあとすぐ本陣から進軍令の貝の音(ね)が鳴りわたり、諸隊の貝もそれにこたえ、屯々(たむろたむろ)の陣幕は一瞬のまにたたまれ出した。
 しかし大軍である、この二万余騎の軍馬が、すべて博多の巷(ちまた)を出切るまでには、重たい熔鉄の流れに似て、勢いかなりな時をついやした。
 ひとつには、猛烈な空ッ風のせいもある。
 途中、
「あれよ!」
 と、幟(のぼり)や旗さし物を吹きちぎられ、そんな道くさにも、少なからず手間どり、やがて武敏の中軍が、筥崎(はこざき)ノ宮の大前に着いたときは、はやその日の午後も凄まじい夕焼け空となっていた。――明確にいえば、延元元年の三月一日――申(さる)ノ下刻(げこく)(午後五時)ごろ。
 武敏は、用意の願文をおさめて、神前の拝を終り、そして参道の方へ退がりかけると、送迎に立っていた神人のうちの老禰宜(ろうねぎ)が、おそるおそる彼へ告げた。
「いらざることをとのお叱りを蒙(こうむ)るかもしれませぬが、敵方はみなこの烈風を見て、旗幟(はたのぼり)は用をなさじと、杉の葉を笠印(かさじるし)としておる由にございまする。……お味方におかれても、何か吉兆の物を兵の章(しるし)になされましてはいかがなものとぞんじますが」
「なに、敵は杉の葉を笠印に付けて行ったと。そ、それをそちは、どこで見た?」
「わたくしが目に見たのではございませぬが、今日、香椎(かしい)の附近の噂と聞いておりましたので」
「香椎(かしい)で」
「はい、尊氏、直義どの以下、一軍こぞって、香椎ノ宮前に駒を降りて休息の折にとか」
「まことか」
「なんでいつわりを」
「寂心(じゃくしん)殿! どう思う」
 彼は色を変えて、うしろの秋月寂心へ、こう息を弾ませた。
「――香椎(かしい)といえば、いわずもがな、ここからわずか北一里。はやそこに足利勢を見た者があるというか?」
 寂心は小首をかしげた。しかし彼の答えにもおよばず、このときすでに先陣へ出ていた阿蘇惟澄(あそこれずみ)から一騎つづいて二騎三騎、あわただしい急をこれへ報じて来た。報によれば、予定していた名島(なしま)から松ヶ崎の重要な高地には、意外にも、はや敵が陣場(じんば)を占めている模様であるという。

 ――前夜。
 尊氏は、宗像(むなかた)の大宮司家(だいぐうじけ)の門前で、しばらく兵馬を休ませていたが、あれからまもなくそこを立っていた。
「敵は南、味方は北。もし追い風ならば味方の利だぞ」
 馬上で彼は言った。
 はやそのころから北風のきざしが草木のそよぎに見えだしていたからだった。
 宗像では、大宮司家の申し出でで、兵百名ほどの助力をうけたが、なお総勢は八百余にすぎなかった。
 これを以て、無慮三万にちかいと聞える敵の大軍へどうあたる気か。作戦のあてがあるのか。――正気でない急ぎといっても、疑う方がむりではない。
 そうした危惧を、兵の心理を、尊氏も、充分知って知りぬいていたろう。いよいよ、明日へかけて、博多へ向って急進撃と、南下の令をくだしたさい、
「この小勢を少なしと思うな。味方は敵の中にいる!」
 と、全軍の者へ言った。
 いわゆる“出陣の辞(ことば)”を以て、こう励ましていたのである。
「――敵の主たるものは菊池党と阿蘇(あそ)、秋月の二、三党にすぎぬ。が、九州はひろいのだ。筑紫九ヵ国は数十党の力と地盤のうえにたもたれている。――従来、わが足利家の教書(きょうしょ)に誓いをなしきた家々は十党二十党の少数ではなかった。――しかし尊氏の下向と、菊池方の進軍の急なりしため、心ならずも一時菊池の麾下(きか)につくとみせて機を待つ者、あるいは、間道に立ち迷って、まだここへの参陣を見ぬ者など。――それらはみなあしたの味方よ。申さば、この一勢は少ないが、九州地下水の呼び水なのだ」
 と、説(と)きすすめ、
「建武いらい武家はむかしの下種(げす)とみなされ、公卿専横の御支配もすでに腐爛(ふらん)の状にある。みちのく、北陸、五畿(ごき)、山陰山陽、武家の不平の声なき所はなく、九州とても鬱勃(うつぼつ)は久しかろう。――それらが挙げて尊氏を迎えぬはずはない。――が、それもただ呼び水のわが一軍の意気如何(いかん)にはかかっておる。みなに誓う。尊氏は引く地を持たず、勝って生きぬく道のほかに生きてはおらん。しかし一条その道は明るいぞ、ここから博多までのあいだに、みなの運も、わしの運も、また、天下いずれに傾くかのあしたもきまる! 生き抜こう! 死にもの狂い、死中に入っておたがい栄(は)えある生(せい)を剋(か)ちとろうぞ」
 といって結んだ。
 粛(しゅく)と、すべての顔が、光る眼を持って、聞き終った。
 出陣の辞はままある例だが、こんなにも長くまた熱をこめて尊氏が言ったなどの例は、左右の将ですら覚えがない。
 第一、尊氏はなかなか急を見ても腰をあげないたちだし、よほどでないと、乾坤一擲(けんこんいってき)といったような大勝負には出ないほうの人である。――だから尊氏をよく知る者ほど、この出陣の辞には、胸をうたれたし、そしてひどく気負ってもいないことばの正直さにかえって駈引のない覚悟をも、ひきしめられた。
 事実、その言は決して彼の希望的な観測だけのものではなかった。少弐頼尚(よりひさ)の意見をきき、また諸情報の綜合などからも、尊氏自身、かたく信じていたのである。
 で、じつにわずかな小勢にはすぎなかったが、
 わああッ……
 と、出足のとたんには、武者声をふるい揚げ、たちまち、後ろを見ない鉄の怒濤となっていたものだった。
 許斐山(このみやま)を越えると、道は西郷ノ庄を望んで展(ひら)け、右の山切れには、折々、水平線低く、玄海灘が壁画(へきが)のような顔をあらわし、強い北風もしばらくは後ろの峠にさえぎられる。
「オオ明け近いぞ」
 まだまっ暗だが、玄海の沖には、旭日の微光が映(さ)し、そしてこの頃からの参加者だった。
「足利どのの御一勢と見たてまつる。それがしどもは」
 と、道に会(かい)して、参陣を名のって来る者が――三十人、五十人、――ひきもきらない。
「田川郡の田川則武(のりたけ)と一族の者でおざる」
「これは、かねて御教書(みぎょうしょ)を給わった直方ノ庄の一党」
「御上陸と聞き、間道(かんどう)、夜を日についで、馳(は)せまいった鎮西村(ちんぜいむら)の者どもです」
 諸族雑多だ。
 しかし、龍造寺党や深堀、杉党などの大族の系類もあり、また、千葉氏や宇都宮氏のように、尊氏の将にしてこの筑紫(つくし)に領地のある者もいたので、当然、それらも馳(は)せ参(さん)じた。
 かくてこの混成隊も四百人ほどに達していた。なおまた、これら途上からの加担人(かとうど)が、いずれもいうには、
「立花山はこれから西へ三、四里ですが、きのう、博多の鎮西屋敷をひき払った大友近江守(具簡(ぐかん)入道)どの、島津道鑑(どうかん)どののお手勢などは、そこでみな、宰相(さいしょう)以下の御軍馬を、首を長うしてお待ちしておられるはず。兵も千余はございましょうか」
 とのことだった。
「さてはよ」
 と、尊氏の顔にも暁が映(さ)していた。ほっと燃える眉で。
「島津、大友の勢は、いかにせしと思うていたが、そこで待つ腹であったか。……したが頼尚(よりひさ)、なぜ立花山とやらに足ぶみしているのであろう?」
「ご存知でございませぬか」と、駒につづく駒の背から頼尚がいう。「――そこは粕屋郷(かすやごう)青柳ノ里と申しまする。和白(わじろ)ノ浜を近くに、花鶴川を北にひかえ、小高い七峰を平野に聳(そび)えたて、うちの一つを井楼山(せいろやま)と申し古くからの大友党の一城郭(じょうかく)です」
「ほ、大友の城か」
「されば、近年そこに住もうていたのは、いまの大友具簡(ぐかん)の一子、貞載(さだとし)でしたが、その貞載は、過ぐる箱根竹ノ下の合戦にあたり、宮方軍を脱(だっ)して、足利将軍のお手につき、為に、新田義貞は、大敗して都へ逃げくずれたと聞きまする……」
「や。あの貞載の」
「はい。立花城とよぶ彼方の山こそ、彼が故郷(ふるさと)にございまする。……が、その貞載は、箱根合戦からいくばくもない後、都において、結城(ゆうき)親光の刃傷(にんじょう)に会い、あえなき落命をとげました」
「む、おぼえておる。忘れはいたさん」
「今日(こんにち)、貞載の父具簡が、亡き子の城の跡に拠って、将軍をお迎えつかまつる心根も、分らぬことではございませぬ。……おそらくは、わが子の弔(とむらい)合戦の決意と、あわせて、貞載の死を、足利殿御兄弟にも、思い出していただきたいのでございましょう」
 尊氏は、うなずいた。
「頼尚、そちの一勢は、ここより蓑生(みのう)ノ浦(うら)へ出て、浜道を行け。尊氏は立花城へ真ッすぐ向う。夜は白んだ。もう一ト息ぞ」

 井楼山(せいろやま)の上に立って。――そこから和白(わじろ)ノ浜(はま)、さらに、北の山岳方面などを監視していた歩哨の一兵は、
「や。……?」
 何をみとめたのか、とつぜん身をひるがえして、立花城の一郭(いっかく)の内へ飛んで行った。
 ここの一砦(いっさい)は、貞載のあとをうけて、弟の氏泰(うじやす)が常住していたが、きのう以来、大混雑の様だった。――博多から父の近江守貞宗(具簡(ぐかん))をはじめ、島津道鑑(どうかん)だの、また大隅忠能(おおすみただよし)らの部下もみな一つとなって引きあげて来、徹夜で籠城の構築にとりかかっていたのである。
「なに、御勢(おんぜい)が見えたと」
「宰相(さいしょう)の御着(ごちゃく)とある」
「それ、お迎えに出ろ」
 こんな騒ぎの中へ、尊氏の軍は巳(み)ノ刻(こく)(午前十時)ごろこれへ着いた。
 出迎えに立った城将たち環視のなかで、尊氏は、そのうちの一人へすぐ眸をとめた。と思うと、われから進み寄って、その者の手をかたくにぎっていった。
「尊氏です。あなたが具簡(ぐかん)か」
「近江守具簡でおざる」
「都では、大事な御子息を亡(うしな)わせた。――あの大友貞載(さだとし)――よい武士であったものを、尊氏へ大功を尽くさせたばかりにあえなき死をとげさせた。おわびする」
「な、なんの」
 大友具簡は、初対面の彼から、いきなりこれをいわれたので、つい老いの目をキラと赤くうるませてしまった。
「兵家(へいか)にはありふれたことでおざる。わが家のみの悲事でもおざらぬ。ご斟酌(しんしゃく)はかえっていたみ入る」
「が、尊氏もきっといつかは貞載のうらみをなぐさめいではおかぬ。聞けばこの立花城はその貞載が住居であったとか。浅からぬ宿縁とおぼえ申す」
「されば、はしなくここに宰相(さいしょう)の将軍をお迎えしたてまつるもまことに不思議。ここを根じろに、一定(いちじょう)、弔合戦の覚悟にござりまする」
「いや」
 と、尊氏がこのとき、ここに拠(よ)ってたてこもる意志などはちっともないような語気を出したので、城将はみな彼へ疑惑の眼をそそぎかけた。
「空濠(からぼり)、逆茂木(さかもぎ)などの工はただちに止めさせたがいい。敵は三万にちかい大軍と聞きおよぶ。途上、按(あん)じてまいったが、ここは守るに利のある地形とも見えぬ。かつは尊氏が一城に籠(こも)ッて、屈居(くっきょ)すると聞えたら、なおまだ多い筑紫諸党の武士は、いよいよ菊池の麾下(きか)へ寄るであろう」
「では……。御所存、いかがなところに?」
「すぐ博多へ襲(よ)せてゆく」
「この御勢(おんぜい)で」
「それしかない」
「したが?」
「勝算をあやぶまれるか」
「たれが眼にも」
「もっともだ。が、案じられな。味方は敵の中に在(あ)る。かねがね教書を以て、心をかよわせていた九州諸族も、我に百難の中も行く意気あるを目で見ねば、なかなか来(きた)り投(とう)じまい。一定(じょう)、ここは九州のわけめ、いや天下のわかれ目だ。進んで戦うほかはない」
 具簡(ぐかん)はだまった。尊氏はすぐ夜来の兵たちに一刻(とき)の睡眠をゆるし、自身はなお、一郭(かく)の内で、軍議にはいった。
 初対面だった具簡は、このとき、尊氏という人間に、一見、よほど感じたところがあったらしい。
 後日の話にはなるが。
「続(ぞく)・伝燈広録賢俊伝(でんとうくわうろくけんしゆんでん)」のうちにはこういう一記事が載(の)っている。
 九州平定のいくさも終ったある日のこと、その大友具簡が、尊氏の侍僧日野賢俊(けんしゅん)にむかい、つくづく懺悔(ざんげ)して、こう述懐(じゅっかい)したというのである。
――じつ申せば
われ始めのほどは
到底(たうてい)、勝戦なきを思ひ
ひそかに
将軍(尊氏)を討たむもの
とちかひ居しが
そのをり将軍の形質を看(み)たるに
面容(めんよう)優長にして
げに大人(たいじん)の風貌備(そな)はる
天下の器(うつは)として
この人、何の不足かあらむと
即座に幕下(ばくか)たるを決したるなり。
云々(うんぬん)と。
 これでみると、立花城にとどまって足ぶみしていた大友たちの腹は、まだ決して尊氏一辺倒だったものではなく、次第によっては、尊氏を捕(と)り籠(こ)めて、おのれが、菊池党以上の勲功を一挙に揚げようという二の足掛けていたものであったらしい。
 この一話は、じつに当時の物騒きわまる九州武族の腹の底をよく打ち割ってみせてもいるし、また彼らが、尊氏の九州下りをいかに待ち、いかに観(み)たかの、好実例といってよい。――尊氏にすればまったく薄氷の上どころではなかったのだ。
 ゆえに、もし彼が消極的な大事をとって、立花城に籠(こも)るようなことだったら、具簡らにも「およそな者」とその器量をみくびられて、逆な悲命を招いていたかもしれなかった。――といって、そこまで複雑な人心のけわしさを尊氏がよく看破(かんぱ)していたというわけのものではなかろう。尊氏にすれば、すでに身を九州の一角においた以上、そう出る積極以外、勝機をつかむ途なしと信じていたまでのことだったにちがいない。
 やがて。
 一郭(かく)での軍議はすぐきまった。
 大友は、この辺の地勢にあかるい。
「昨夜らい、敵も博多へ入っており、きょうは兵をととのえて、北へ進撃して出るものとおもわれまする。また、お味方もここを出て進むとすれば、必定(ひつじょう)、その会戦の地は、香椎(かしい)と筥崎(はこざき)ノ宮との間――多々羅(たたら)ヶ浜(はま)からあのあたりの広袤(こうぼう)でしかございませぬ」
 との、観測を述べ、
「そこは宇美川(うみかわ)、久原川(くはらがわ)の流れが合(がっ)し、また支流は縦横に走って、沼や芦原や、いたる所、砂丘(さきゅう)の雑草もふかく、わけて足場のわるい平野でおざる。――そして西はいちめん多々羅の浪打ちぎわ。――御勢(おんぜい)の利は、一刻もはやく、同所の北寄りに散在する高地、名島(なしま)、松ヶ崎、陣ノ腰などを占めて、敵に先(さき)んずることにあるかと存ぜられる」
 と、鎮西屋敷所蔵の、詳細な絵図をひろげて、献策した。
「よくぞ」
 と、尊氏はすぐ腹をきめ、その場で諸将へ命令した。
「具簡の献言、至極と思う。絵図でみるも、松ヶ崎までは一、二里の近さ。ここの城に代えて、先の高地を取れ。まず、そこを占(し)めてから休もうぞ」
 香椎(かしい)はすぐだった。ものの一里ほどしかない。
 立花山にあった足利方の総勢がそこまで進出を見せたのはわずかなうちで、すでにここらが危険地帯に入るうわさは土地を風靡(ふうび)していたのであろう。通って来た部落から香椎附近でも人はおろか犬の仔すら見えなかった。それに昼ながら天地はひどい烈風の形相(ぎょうそう)でもある。
 だが、香椎ノ宮の神人たちはみな並んで尊氏以下を迎えに立った。
 彼が、祈願をこめたことは、後日、子の義満(よしみつ)が当社に納めた願文のうちにも見え、またこのさい、全軍の将士が、神主(かんぬし)から杉の葉をうけて、それぞれの笠印(かさじるし)に挿したということでもある。
「金葉集」にも。
――隆家(たかいへ)の卿、大宰(だざい)ノ帥(そつ)とな
りて、二度、香椎(かしひ)へ詣(まゐ)る。
かんぬし、形のごとく、杉
の葉を折りて、帥(そつ)の冠(かうぶり)に
挿すとて詠(よ)める。
ちはや振る
香椎の宮の
杉の葉を
ふたたびかざす
我が君ぞ 君
 熊野詣(くまのもう)でには、梛(なぎ)の木を折って、髪や冠(かぶり)にかざして帰る風俗があるから、ここでも杉の葉をそうするような風習があったのだろうか。
 あるいは、この日の強風に、旗さし物などは、用をなさずと見た尊氏が、戦略的な考えのもとに、
「かぶと、よろいの綿貫(わたぬき)、どこにても、味方は味方とすぐわかる目じるしを付けよ」
 という単なる思い付きの布令(ふれ)であったかも知れなかった。
 いずれにしろ、全軍は、
「それっ」
 と、ただちに、香椎からすぐ南の丘陵帯(きゅうりょうたい)へ思い思い駈けのぼって、そこの高所から、さらに南を望み、
「敵は?」
 と、菊池方のうごきを視野にさがしたにちがいない。
 が、この時刻ごろにはまだ菊池勢は博多を出たかどうかの頃であり、その先鋒すらなお、箱崎附近に見えていなかった。
 後になってみれば。
 じつに、多々羅合戦の勝目と敗けのわかれは、この機微な時間差のうちにあったといえぬこともない。
「しめた」
 直義(ただよし)は、躍ッて言った。
「敵はまだ、影も見せぬ!」
 一軍を名島に、一軍を蓮華坂(れんげざか)に、また一軍は松ヶ崎から陣ノ腰へかけての山上へ、長く横に布陣して、敵を待った。
 とはいえこの横陣(おうじん)が、奥行きの浅い薄手だったのはいうまでもない。
 総軍、わずか二千余だ。
 これを古典の諸書すべてが――菊池方を五万騎となし、足利勢は六、七百騎にすぎず――としているのは明らかなまちがいである。すくなくも二千がらみの兵は尊氏も配置したものとみてさしつかえない。ただ彼が戦わぬ前に稼(かせ)ぎ取っていた地の利は、やがて、その用兵を十倍にもする効果となっていたのである。
 果たして。それから一刻(とき)ほど後には、箱崎から多々羅へかかって来た菊池方の大軍がみえ、さすが武敏はすぐ、敵がすでに地の利に拠っているのを見て「しまった」と臍(ほぞ)を噛んだ。
 ひとくちに多々羅ヶ浜といっても、南は筥崎(はこざき)ノ宮(みや)から北は香椎手前(かしいでまえ)の丘陵線までの渚(なぎさ)一里半、芦(あし)、泥田、砂原などの広い平野もふくんでいる。
 そして、総じてここらは、元寇(げんこう)ノ役(えき)の遺跡だった。
 国をあげて、外敵にそなえた日の防柵(ぼうさく)や石垣や乱杭(らんぐい)の腐木(ふぼく)などが、今も川床(かわどこ)や草の根に見あたらなくはない。
 菊池武敏は、浜をひだりに、箱崎の松原を、ひがしへ出た(現・九州大学附近)。――秋月、星野、草野、黒木党などを両翼に、少しさがっては、松浦党だの神田党など、どっちをみても、味方の軍勢で、野も海辺も埋めつくしていた。
「敵はどれほどかある?」
 武敏の問いに、
「ざっと二千余」
 といったのは、大物見からいま返って来た赤星六郎兵衛で、
「それ以外な隠し勢は、よも、あるまいかと思われます」
 と、つけ加えた。
 武敏は馬上でうなずきながら、かぶとの眉廂(まびさし)に手をやって顔をそむけた。――敵のいる陣ノ腰から名島の方を望むたびに、その真(ま)っ向(こう)から吹きなぐッて来る北風が、かぶとの鉢金(はちがね)やよろい金具に砂音(すなおと)をたて、皮膚の出ている部分は痛いほどだった。
「越前。彼方の小川は」
「須恵川(すえがわ)の水です」
 そう答えた城(じょう)ノ越前守へ、武敏がすぐ一令をくだしていた。
「水を前に、一陣の敵が見える。越前、こころみに仕掛けてみろ」
「はっ」
 と、すぐ二百騎ほどが、夕陽を背にしてまっ黒に突いて行った。――すると、芦のうちから起(た)ったべつな敵の伏勢が砂丘をめぐって越前守の兵の後ろへ出た。武敏は驚いて。
「や、あぶない。六郎兵衛すぐ加勢へ向え。ひがしの芦原には敵が雁(がん)のように無数、隠れているぞ」
「おうっ」
 と、赤星六郎兵衛もすぐ手勢三百を叱咤(しった)して駈けて行った。
 この方面が序戦だった。
 浜の手の方面では。
 阿蘇惟直(あそこれなお)、惟成(これなり)の兄弟。また一族の惟澄などが、同時に、吶喊(とっかん)の声をあげていた。
 が、敵は浜戦を避けているかにみえる。――多々良川の川ぐちまでのあいだ、敵影は見ず、対岸の名島の高地に、旗(はた)、幟(のぼり)、うす煙などが強風下に翻々(ほんぽん)と狂い舞ッているだけだった。
 もとよりこれは偵知されていることなので、三千の喊声(かんせい)は、その黒い怒濤を右折(うせつ)し、川に添って、松ヶ崎の下へ迫った。高地の一部を占領して、山稜(さんりょう)に拠(よ)っている足利方を、両断するの作戦であったらしい。
 ところが、そこへ迫るやいな、まず乱箭(らんせん)の雨に見舞われた。――逆風なので矢向きは不利と初めから菊池方では接戦を主眼としている。ほとんど、こっちの矢は一矢(いっし)も役に立っていない。
「知れたものぞ」
「敵は小勢」
 これは合い言葉みたいに菊池方ではくり返された。しかし矢ばかりでない、土砂も吹きつけてくる。みるまに、犠牲が積まれてゆく。――「ひとまず退(ひ)け!」と退いたのもまたなおまずかった。敵の仁木義長、千葉大隅(おおすみ)らの兵に追い打ちをかけられて、みるまに阿蘇惟成(これなり)は負傷し、以下、数百の死傷をここの退路に出してしまった。
 落日(らくじつ)も薄れ、浜の手も野面(のづら)もいつか暗かった。
 陣ノ腰の高い所から形勢をみていた尊氏は、
「師直(もろなお)、師直っ」
 と、左右の人影へむかって。
「浜の敵は逃げくずれ、松原の方面でも、味方は深追いに入った様子だが、まだまだ序戦だ、敵の死命を制するには足らん。――それに早や宵闇。――長追い無用と、味方を退かせろ。全面的に、引きあげさせろ」
「はっ」
 と、高ノ師直は、すぐ旗本の数騎を、伝令に放ッた。
 ほどなく、多々羅のおちこちで退貝(ひきがい)の音(ね)が鳴った。――しかし、敵の逃げ足に釣られてつい箱崎あたりまでも深追いして行った味方が少なからずあったらしい。――すべての将士が引きあげ終るまでにはかなりの時間を要したし、なおまだ、貝を吹けども吹けども、ついに戻って来ない味方もある。当然、それらは敵の重囲に陥ちて、ふたたび帰ることない被殲滅者(ひせんめつしゃ)とは察しられながら、貝の音は、子をさがす母のように、いつまでも、あきらめきれぬその呼び貝を、夜の野に、吹いていた。
「……ちと、意外」
 と、尊氏は引き揚げてきた諸将を周囲に見て言った。
 その夕、最前線にあったのは。
 頭(こう)ノ殿(との)、と人の呼ぶ尊氏の弟、左兵衛頭(さひょうえのかみ)直義(ただよし)をはじめ。
 曾我上野介(こうずけのすけ)師資(もろすけ)
 南遠江守
 宇都宮弾正大弼(たいひつ)
 仁木義長
 千葉大隅守
 高(こう)ノ越後守師泰(もろやす)
 などだったが二、三帰らぬ顔もあった。
 それにせよ我の十倍以上にものぼる敵が、なんで脆(もろ)くもついえたのか、尊氏は、諸将から聞きとった戦況を按(あん)じて、たやすく勝ちに驕(おご)れなかった。
「……察するに、今日の烈風、敵も利ならずと考えて、決戦はあしたにと、俄に一時、退軍をみせたのであろう」
 と、引き緊(し)めて。
「油断はならぬ。明日こそは、われらの一期(いちご)だ。まずは酒に体でもあたため、こよいは充分に身を養っておけ」
 と、野戦食を喰べながら評議にかかった。
 風は、夜半ごろから小やみを示している。――一睡(いっすい)をとって、やがて起(た)つと、諸将は、名島から松ヶ崎そのほか諸所の高地にかがりを焚き、また無数の旗じるしを、木々の枝にまでつけて、偽陣(ぎじん)の態(てい)を作った。
 そして、暁早く。
 尊氏はその本陣を、多々羅の低地へふかくすすめて、旗を伏せた。
 直義も、師泰も、足利勢すべてこの日は、近々と敵前へ出て、後方の低い山々には、一兵も残していなかった。――要するに、総当りの体勢で――きょうを以ていちかばちの決戦の日と、期したのだった。
 反対に。
 菊池勢は自重しすぎた。
「なにほどかあらん」と思い。「敵は小勢」と初手(しょて)にあまく観たのが案外だったので、その反作用からかたく堅陣をとってうごかなかった。加うるに、彼方の偽陣を見て、それも足利方後詰(ごづめ)かと、誤算していた。
 あかつき。――風はなく――けさは白い川靄(かわもや)さえ、たちのぼっていた。
 その久原川を、ザブ、ザブ、ザブ、百余騎の影がいま南へ越えて行った。
 足利方の千葉大隅守(おおすみのかみ)だった。
「敵の首将菊池武敏が、今朝は陣地がえして、多々羅のみなみ、津屋へ出ている」
 と偵知したからである。
 そこは、自陣ともっとも短距離な地点だ。――抜け駈けは軍紀(ぐんき)の禁(きん)だが、みすみす、目のまえに敵の首将がいる! 大隅は後日のとがめを覚悟で単騎斬り込みの挙(きょ)に出たものだった。
 しかし、武敏の旗は、数千の兵馬で厚く守られている。すぐ気づかれて、
「しゃっ、小癪(こしゃく)な敵」
 と、大隅の兵は、朝討ちの奇功をあげないうちに、取りまかれてしまった。
 これに気づいた今屋敷(いまやしき)方面の足利直義(ただよし)は、
「大隅を討たすな」
 と、急に、助けの兵を突貫(とっかん)させた。――わああっと、それの野谺(のこだま)を機(しお)に――様相はこの一角から激変した。
「一方の大将は尊氏の弟、直義とみえまする」
 と、聞いた菊池武敏は、
「のぞむところの敵」
 と、彼も自身、陣頭指揮にあたりだした。
 名のりかけて――将と将との一騎打ち――といったような古風はもう廃(すた)っている。けれど首将みずから剣槍(けんそう)の中を駈けあるき、歩兵や騎兵を叱咤(しった)し廻る戦闘ぶりに変りはなく、武敏の手にある一槍(そう)もすでに血ぬられて、
「ひとりも生かして返すな」
 と、その包囲力は直義をつつみ、さらに麾下(きか)の人数を寸断していた。
 助けに来た直義も、果然、ここで苦戦におちた。
「あれよ。頭(こう)ノ殿(との)があぶない」
 足利方は、動揺した。大きな作戦の狂いでもある。
 不用意に敵へ迫った大隅や直義らの兵は、洲(す)や水に、後ろを断たれ、いわば死地の孤軍となった形なのだ。
「時を措(お)いては」
 と、少弐(しょうに)の兵、大友の部下、宇都宮弾正(だんじょう)らも、自陣をすてて、救援にはせつけた。――しかし敵の増援はそれにもっと数倍している。
「しょせんは、斬り死にか」と、直義はいまは覚悟のほかなかった。
 そこで彼は、乱軍の中から兄尊氏の陣へ使いをやり。「どうも、やり損ないました。直義は討死のほかございません。残念ながら兄上はもいちど周防(すおう)長門(ながと)の遠くへ落ちて、ご再挙をはかってください」と、よろいの片袖をちぎッて形見に送り届けたという。――これは「梅松論」の説だが、そんな余裕があったとも思われない。おそらくそれほどな危急だったということだろう。
 ――この危急をよそに。
 そのあいだ、尊氏が何していたかは、すでに多々羅全面、戦塵漠々(せんじんばくばく)のとどろきで、よくわからなかったが、ただしかし、彼がじっと、その危機感に耐えていたことにはちがいない。
 彼には、ひそかに、待つものがあった。
 その待つものを眸にするまでは、たとえ直義が戦死と聞いても、彼はおそらくめッたな妄動には出なかったろう。
 同時刻――
 浜寄りの方面でも、敵味方の戦列が、互いの顔が分るくらいな近距離まで接近して、しばしば、
 わああっ……
 うおおッ……
 と武者声を揚げあっていた。
 渚(なぎさ)を洗う大波は高かった。
 まだきのうからの余風をおさめきらない多々羅ヶ浜一里余の磯は、いちめん、まッ白な潮けむりなのである。――両陣数千の兵も馬もまた刀槍(とうそう)の光も――まるで飛沫(しぶき)に翻弄(ほんろう)される千鳥(ちどり)の大群か何ぞのように見えもした。
 当然、矢は用をなさないので、長柄(ながえ)、なぎなた、太刀、槍の白兵戦となろうが、いつまでも、或る至近距離から内へは敵もすすまず、こっちも出てゆく風はなかった。――対峙のままただ喊声(かんせい)をからして、両軍、どっちも潮に濡れ光ッている。
 この手の足利方は。
 細川顕氏(あきうじ)、上杉重能(しげよし)、畠山国清などで、それに少弐頼尚(しょうによりひさ)も、陣のさきに立っていた。
 その頼尚は、かねがね、尊氏へむかって、
「――敵はどんなに大軍でありましょうとも、恐れることはありません。いずれ皆、お味方にまいらんと希っている者どもですから」
 と、言っていた。
 果たして、そうなのか、どうか。
 前面に在る敵は、菊池方の阿蘇(あそ)ノ大宮司惟直(これなお)の軍勢だった。弟の惟成(これなり)、いとこの惟澄(これずみ)、みな一陣らしい。そのほか数千の後詰(ごづめ)がみえる。とうてい足利勢とは比較にならない陣容だ、鉄壁の陣だ。
 そのとき、少弐の隊にいた饗庭(あえば)ノ弾正(だんじょう)左衛門(さえもん)が、頼尚の馬前へ来て、
「これでは果てもありません。万一、かかるあいだに頭(こう)ノ殿(との)(直義(ただよし))が破れ、宰相(さいしょう)(尊氏)の中軍も突かれなどしたら一大事です。――まず饗庭(あえば)が捨て石となって駈け入りますゆえ、ときを外(はず)さず、おつづきください」
 と、言い捨てた。いうやいな、馬をおどらせて、敵兵の戦列へ猪突(ちょとつ)して行ったのだった。
 きッかけは、かならず一人か二人かの果敢(かかん)による。あとは、たちどころに、入りみだれての乱軍だった。猛兵というよりは盲兵のすがたである。斬りむすぶというよりは叩き合いだった。逃げる、追う、また取り組む。その上へ、大波が来て、波にさらわれて渚(なぎさ)を這う兵もある。
 でも、しょせんは、圧倒的な兵力を持つ方の勝利でしかないと見えたのだったが、俄然、ここを契機として多々羅全面には妙なうごきが歴然と見えだしていた。――重厚な総菊池軍のうしろから、いやどこからともなく、
「や、や、おかしいぞ」
「異変だ。裏切り」
 という奇妙な絶叫が諸方で流れ、陣は陣自体を寸断して、黒い渦、黒い奔流、まったく秩序を失った猜疑(さいぎ)ぶかいただの群集と化し去ってしまったもののようにみえる。
 せつな。
 これを砂丘の上でみとめた尊氏の眸は、細く目尻で笑ったようだった。
 ――味方は敵の中にいる
 とは、かねがね、彼も言っていた今日の信条だったのである。満身の声で彼はそこから中軍の将士へ言っていた。
「突ッ込め。前面の敵へ無二無三突撃しろ。時は今だ」
 寂心(じゃくしん)、秋月種道(たねみち)は、味方のくずれに押し返されて、落馬した。
「しゃッ、なぜ退(ひ)く? なんで逃げる!」
 彼はさっきから、尊氏の中軍を前に、機をうかがっていたのである。
 尊氏の弟直義の一勢が、久原川の洲(す)で危殆(きたい)に陥ちたかたちなので――もし尊氏が、それの救援にうごいたら、ただちに、陣の側面を突いてやろうと、虎視眈々(こしたんたん)でいたものだった。
 ところが。
 とつぜん、尊氏の中軍は、一大喊声(かんせい)と共に、こっちへ突進して来たのである。
「や、や?」
 彼が意外としたのは、そのことではない。味方全体がなぜか戦わぬうちにどッと逃げ足立てたことだった。――このとき、後方にも起っていたとっさの変(へん)が、彼にはまだ意識されていなかったらしい。
 けれど原因は、寂心にもすぐ分った。――杉の葉でない、折(お)り笹(ざさ)を笠印(かさじるし)とした紛(まぎ)れない菊池方の兵が、すでに、味方同士で激闘しているのが、そこかしこに見られ出している。――さては裏切り者の内応(ないおう)かと、寂心も早や狼狽措くところを知らなかった。
「松浦党だ! 松浦党だッ。――裏切りは松浦党と神田党だぞ」
 悲調な叫びが野を掃(は)いている。けれどべつな所では、
「龍造寺党だ」とも聞え、
「いや、草野党だ」
「相良(さがら)党もだ」
 と、いったふうに、まったく一致していない。
 事実、離反者は名のりもあげず、いきなり矛(ほこ)をさかしまに味方の腹を切り裂いてあばれ出したものであるから、明確に捕捉しえなかったのも当然だった。
 ただいえることは。一党や二党の少数の裏切りではないことである。
 ために秋月寂心(じゃくしん)種道(たねみち)は、この逆巻く人海から逃げおくれ、ついに、あえない戦死をとげた。
 また、浜の手方面の阿蘇(あそ)ノ大宮司一族の軍も、箱崎方面へと一散になだれ立ち、なお、とどまる所なく太宰府の方へ落ちて行った。――そのうえ大宮司惟直(これなお)も、弟の惟成(これなり)も、本国へ帰る途中、尊氏方の呼応者(こおうしゃ)にとりかこまれて、部下百六十人と共に、無残な死をとげてしまった。
 わけて、惨(さん)たる人は、総大将の菊池武敏だった。
 彼に、もう一刻(とき)の時をかしていたら、久原川の洲で、敵将足利直義(ただよし)を討ち取ってもいたろうに、せつなを、自軍の内から覆(くつがえ)されて、城(じょう)ノ越前(えちぜん)、赤星六郎兵衛、ほか三十七人の旗本まで、みなバタバタと討死をとげ、彼自身も重傷を負って、からくも危地を脱(だっ)しえたほどだった。
 様相すべて、ものの半日もたたないうちの一変である。
 いったい、なにが?
 何の作用が、この狂奔と大転機をよんでいたのか。――血の曠野はただ狂える物のようでありながら、尊氏の行く一勢のみは、それを中心に、続々と、騎馬鉄甲の影が厚くなって行くばかりだった。――おそらくは尊氏自身すらも、こう急激に凱歌の門が、こつねんと征野の前に開かれようとは、予想もしていなかったのではなかろうか。とまれ彼は、残敵を掃蕩(そうとう)しながら、その日の午後にはもう博多の内へ入っていた。

 尊氏の博多入りは、歩武(ほぶ)堂々な入市ではない。途々、降参人を入れ、掃蕩(そうとう)の余勢を駆ッて、いつか巷(ちまた)に乱入していたのである。
 町屋を見ると、彼は急に、駒を辻に止めて、
「火を放(か)けるな。路地(ろじ)へ逃げこんだ雑兵などは放(ほう)ッておけ。ただ町口に木戸を設けて警備に付け」
 と、命じていた。
 町そのものは案外なほど平静だった。戦争は別世界でしていることと見ているような表情なのだ。概(がい)して、この地の建物も住民の皮膚も、中央や東国の民よりは、はるかに豊かで健康らしく思われた。玄海の磯の香、湊(みなと)の風物、異国的な色調の橋やら客館など、尊氏には物なべて、
「ここが博多か」
 と、目新しい。
 また、その尊氏の姿を、遠くでながめている女子供を交ぜた群集も、
 ――どこから来たお人や?
 と、眩(まぶ)しげな怪訝(いぶか)りを顰(しか)めあっている顔つきだった。――が、たれからともなく「足利殿だ」とささやかれ出し「足利殿、足利殿」と、ものめずらしさを、さらに大きく呼び起すと、兵が追っても追っても、すぐ寄りたかって来てやまなかった。
「具簡(ぐかん)――」と、尊氏は駒をつらねていた大友近江守を見て。
「――かつて鎌倉の探題がいた探題屋敷はどのへんか」
「すぐ彼方の、櫛田(くしだ)神社のひがし隣にございまする」
「あの大屋根か」
「はっ」
「案内を」
 尊氏は、彼をさきに立てた。
 が、休息もとらず、彼は宏大(こうだい)な築土(ついじ)の館門を入ると、そこここを見まわして、何か、感慨無量な容子(ようす)だった。
「具簡……」
「は」
「鎌倉最後の探題、赤橋修理(しゅり)ノ亮(すけ)英時(ひでとき)(北条英時)どのが御自害の地はここだったな」
「さようで」
「御墳墓は」
「後に、おかたみは、承天寺の一僧がたずさえて、英時殿のお妹にあたらせられる東国の御方へ届けられたとうけたまわっておりまする」
「それはわしの妻の登子(とうこ)よ。いかにもそのせつ登子の許へ、かたみは届けられて来たが、お墓はないのか」
「当時、何分にも、九州全土は、宮方一色の有様となり、いずれも宮方のとがめを怖れ合うておりましたので」
「そうか。いやむりもないことだ。きょうここに、尊氏が参ろうなどとは、当年、たれに予測しえたろうか」
 ふと、彼は、身をかがめた。
 そして両(りょう)の掌(て)に、足もとの土を拯(すく)い取り、それを持ったまま彼方へ向って歩きだした。前栽(せんざい)から大庭へ入ったひだりに、まろい山芝の築山がある。
 何をなさるのか?
 と、人々は怪しみ見ていた。大友具簡をはじめ、島津道鑑(どうかん)、少弐頼尚(よりひさ)、ほか筑紫諸党の大将輩(たいしょうばら)も、ぞろぞろ、彼のあとについて行った。
 尊氏は、一塊(いっかい)の土を、築山のうえにおいた。そして、それを亡き英時の霊とみて拝すように、下へ退(さ)がって、ぬかずいた。
 疑うまでもない。尊氏の多感な今日の胸はわかる。
 乾坤(けんこん)一擲(てき)、勝って、博多の土をふんだのだ。そして、妻の兄英時が、あえなく滅亡をとげた恨みの地――探題屋敷の跡――へ勝者の将軍として十余年後のいま立った彼なのだ。
 一塊の土へ向って。
 彼がぬかずいたのは、自然な万感からであったろう。とりあえず、英時の霊へ、回向(えこう)の意(こころ)だったにちがいない。
 だが、足利譜代(ふだい)の諸将はともかくいられたが、九州諸党の大将輩にしてみると、これは何か肌寒い。卒然とみな色を失った。
 なぜならば、その英時滅亡の日の、攻囲軍中には、ここにいる全部の九州武族が、みな宮方と称(とな)えていたのだ。――つまり今日(こんにち)尊氏に従っている者も、かつては、ここの探題屋敷を攻めて英時を自滅させた当時の下手人ならざるはないのであった。
 大友具簡、しかりである。
 頼尚(よりひさ)の父、少弐(しょうに)貞経(妙恵(みょうけい))も、その一輩だ。
 また、島津道鑑(どうかん)
 深堀正綱
 龍造寺家泰(いえやす)
 松浦連(れん)
 草野間真(かんしん)
 宗像土都丸(むなかたとつまる)
 など、ほとんどが菊池、阿蘇(あそ)の協同者だった。そして英時(ひでとき)を屠(ほふ)ったのだ。――それらすべてが尊氏には義兄(あに)の仇(あだ)といえなくもない。
 だから彼らは、尊氏がここの土につよい旧怨を持っていたらしいのを見て、またその回向(えこう)の態(てい)をながめて、
「さてはまだ、過去の恨みをお忘れないものとみえる」
 と各※(二の字点、1-2-22)、尊氏の報復を、今後に思って、ぞっとしたに違いなかった。――で、尊氏が拝を終ると、具簡(ぐかん)は畏(おそ)る畏る、追従(ついしょう)してこう言った。
「泉下(せんか)の赤橋(英時)どのにも、今日はいかばかり、およろこびか。また、将軍(尊氏)におかれましても、お恨みの一端が、まずはいささかお晴れ遊ばしたでございましょう」
「……ウむ、……何?」
 反問するような顔を持ちながら、尊氏は、大庭の大きな平石へ腰をおろし、
「いい年をして、具簡はなにをいうか。復讐とな? ――そんなおろかな妄執を尊氏は念頭にもおいておらん」
 と、すこし叱りぎみな口調でつづけた。
「やれ、義兄のあだ、子のかたき、親の怨みのと申し合っていたら、弓矢の本道などは見失われてしまうだろう。それのみか、復讐は果てなきまたの復讐を生んでゆく。永劫(えいごう)、修羅の殺し合いを演じてゆくほか世に何を残す? ……。ばかな。われら弓矢の家の使命とはそんなものでない。……ときによりあえない犠牲を身内に見るもぜひなく、英時どのなど、真にお気のどくなお人ではあった。とはいえ、しょせん幕府と共に末路をいさぎよくなさるほかないお立場でもあり、それがそのお人の弓矢の大道であるならさぞ御本望であったろう。――尊氏はそう思う。そう思うて今日の御邂逅に、地下へ一言、ごあいさつを申したまでだ。恨みの何のと、そんな小義にとらわれて、愚痴なお手向けしたわけではない」
 いくさは復讐でない。復讐のため戦はしない。
 尊氏の弓矢はもっと大きな抱負と使命にある。そんなケチな……と彼は笑う。言い終って笑ったのである。
「…………」
 叱られた大友具簡をはじめ、筑紫諸党の大将輩(たいしょうばら)は、ほっと、みな色を持ち直した。それまではたれにも澱(おど)んでいた一抹(いちまつ)の危惧(きぐ)だったものも、恩怨(おんえん)すべて、尊氏のことばで、すかっと、一掃(いっそう)された感だった。
「ときに。道鑑(どうかん)」
 と、次は島津貞久へむかい、彼はすぐ、こう訊ねていた。
「ここ博多の探題所は、英時どの滅亡のあと、大友、島津、少弐(しょうに)の三家が寄合(よりあい)にて、九州の国事を視(み)て来たというが」
「されば、以後は探題と呼ばず、松ノ口寄合衆と称(とな)え、三家の合議で治政してまいりました」
「その一員、少弐妙恵(みょうけい)は太宰府で忠死いたした。いまからは、子の頼尚に妙恵の職をつがせよう」
 これ一つでなく、尊氏はその日に戦功のあった大友へも島津へも、また宗像(むなかた)、龍造寺、松浦、草野の諸党の将へも、それぞれ、なにかのかたちで賞をやった。――いかに彼が九州諸豪のこころをつかむことに気をつかっていたかがわかる。
 即刻。
 町にも町布令(まちぶれ)を布(し)かせ、人心の安定につとめさせた。――逃げこんだ残敵の自首して出るのやら捕われて来る者などが、夜どおし門に絶えなかった。
 さらには、前線からの伝令も、しきりに来ていた。
 武藤豊前(ぶぜん)ノ次郎という者が、
「頭(こう)ノ殿(との)(直義(ただよし))のお使いにて馳(は)せまいりました」
 と、尊氏の前へ出たのは夜明けがたであり、尊氏も夜来(やらい)、物ノ具を解かず、大庭に幕(とばり)を張らせ、楯(たて)のうえで、ほんの仮寝をとっただけだった。
「次郎。使いのおもむきは」
「は。頭ノ殿には、はや昨夜のうち、太宰府へお入りあって、降参人あまたを入れ、いまは宰相の光臨をお待ちするばかりの由。次郎、お迎えにまいってござりまする」
「疾(と)う来いとの旨(むね)か」
「博多から太宰府まで、五里の道、もう敵の残軍は一兵もおりませぬ」
 尊氏はうなずいた。
 博多、箱崎に抑えをとどめて、本軍はその日、太宰府へ転進した。
 直義は、水城(みずき)ノ址(あと)まで出て、兄を迎え、共に、原山の陣所へ入った。原八坊の一つ四王院がすでに営(えい)として装(よそお)われている。
 着くとすぐ、尊氏は、きのう以来の戦果や降参人の実数などをつぶさに聞きとった。そのあとで、直義は、
「このたびの大捷は、すべて人力(じんりょく)とは思えません。今となってみると、ただただ神の御加護という気がします」
 と、彼に似気(にげ)ない謙虚で言った。――が尊氏は、多年培(つちか)っていた沃野(よくや)に鎌入(かまい)れをしたまでのこととし、すぐ、別な旨(むね)を言いだしていた。
「喪(も)に服して、今日から七日の間、尊氏は酒、魚鳥を口にせず、別行(べつぎょう)(精進潔斎(しょうじんけっさい))を執(と)ろうとおもう。そしてあすは内山にて、亡き妙恵を弔(とむら)うであろう。衆僧に用意をつたえておくがいい」
 あくる日、尊氏は、直義や日野賢俊(けんしゅん)をつれて、内山の有智山(うちやま)寺にのぞみ、少弐妙恵の霊をねんごろに弔った。
 法会(ほうえ)につらなった筑紫(つくし)の諸将は、犠牲者への心からな傷(いた)みを尊氏の姿に見て、「――このような将軍へなら、身の将来をこのひとへ託しても悔いはない」と、みな尊氏への信頼を一ばい深くしたようだった。
 わけて、少弐頼尚(よりひさ)は、
「かかる破格な御供養をたまわり亡父(ちち)には死花(しにばな)が咲いたようなもの。さだめし地下でよろこんでおりましょう」
 と、法会(ほうえ)がすむと尊氏の前で感泣していた。
 けれど前夜いらい、尊氏が喪(も)に服して「魚鳥を口にせず」としていたため、なんとなく、陣中、士気も揚がらないふうだった。
 で、頼尚はその晩、尊氏の営所へ、わざと鮮魚や野鳥の一ト籠を献上に持って出て、
「十二刻(とき)(一昼夜)の御別行(ごべつぎょう)(服喪(ふくも))だけでも、このさい過分至極なのに、もしお体にでもさわっては一大事ですし、また、陣中どことなく銷沈(しょうちん)のていにもござります。なにとぞ、ご服喪は今日一日だけのこととして、おすましを願いまする」
 と、進言した。
 尊氏は、聞いて、
「それも一理」
 と、うなずいた。
 そこで、彼が持ってきた魚鳥をさかなに、杯を用意させ、
「諸将、兵士の端々にまで、こよいは酒をやって、喪(も)は一日かぎりと、触れ直せ」
 と、その夜は、精進落しの酒宴を開き、彼も大いに酔ったということである。
 これなども多分に尊氏の政略だったにちがいない。武将尊氏であるよりは、彼はつねに政治家尊氏であった。またそこに、より彼らしい真価もみられる。
 多々羅の一戦などでも、単騎奮迅(たんきふんじん)の猛は、決して、彼のよくしたところではない。――が、大友具簡(ぐかん)らの油断ならぬ老武族のこころをもよくつかんで、博多から太宰府に入ったあとでも、いかにそれらの“他郷の他人”で――そして勇豪な――九州人を心服せしめうるか。それに心をくだいていたあとがみえる。
 たとえば、妙恵の追善にしても、その諷誦文(ふうしょうぶん)(悼辞(とうじ))は、自身が親しく筆をとっていた。その文は「歴代鎮西要略」にあるが、ここでは略す。
 またおなじ「鎮西要略」には、尊氏がこれと同時に、九州の諸武士へ、勧賞していたこともみえる。――戦場でいのちをおとした者の妻、子、その縁類、郎従にまで、いたわりと次の勇気を与えているのである。
 こういうあいだにも。
 むろん菊池攻略と、他の反尊氏勢力への追撃は、着々、すすめられていた。――多々羅にやぶれた菊池武敏は、そのご、四散した味方をよびあつめて、筑後の黒木城に拠(よ)り、戦力の再編成に他念もない。
 尊氏は、令して、それへ。
 仁木義長と上野頼兼の両大将をさしむけ、九州では松浦党をその先鋒(せんぽう)として攻略に急がせた。すでに三月もなかばに入っていたのである。
 菊池党のほか。
 日向(ひゅうが)には、肝付(きもつけ)兼重と、伊東祐広(すけひろ)などの宮方が、
「なんで、尊氏ごときに、九州を思いのままにさせてなろうか」
 と、あくまで頑強な抵抗をしめしていた。
 尊氏はその方面の地理人情にあかるい島津道鑑(どうかん)を主力に、腹心の畠山国清を付けて、
「およそは、征伐が目的ではない。ただ邪(さまた)げを打ち挫(くじ)く分(ぶん)にて、たたかいの目標は足(た)るぞ。――あとは高(こう)ノ師直(もろなお)よりの執事の令に従って去就(きょしゅう)いたせ」
 と、いって発(た)たせた。
 師直の執事令(しつじれい)を、とくに重く出先の大将たちへ尊氏がこう言いふくめていたのは、すでにもう尊氏の心のうちでは、九州の地を去って、再挙(さいきょ)、ひがしへ軍を回(かえ)すの用意が――ひそかに、急がれていたからだろう。
 一面。菊池の黒木城の方は、
三月十七日
寄手(よせて)
ことごとくこれを破却(はきゃく)
菊池一類は
本地へ向つて潰走(くわいそう)のまま
お味方総勢
目下□[#「□」はママ]追撃に移りをり
肥後半国以上も
はや風(ふう)に靡(なび)いて御座候ふ
 との報(しら)せだった。
 これが出先の、仁木、畠山の二大将から、尊氏のもとへ、通達されていたころ。――彼はすでに、まったく、べつな軍務と指令に、あたまのかぎりをはたらかせていた。
 なにかといえば。
 九州津々浦々の船を、また、それに要する手馴(てだ)れの水夫(かこ)楫取(かんどり)たちを、博多の一ヵ所に集めさせることだった。――大挙して、ふたたび上洛の用意であるのはいうまでもない。
 そのため、博多には、一色ノ禅門範氏(のりうじ)をおいて、それらの運びを総攬(そうらん)させ、また託磨之親(たくまゆきちか)を、わき役として、師直から出す執事令(しつじれい)をぬかりなく進めることに努(つと)めさせた。
 船集めは、大事業である。
 遠くは、薩摩(さつま)、日向(ひゅうが)から。もちろん豊前(ぶぜん)、肥前(ひぜん)の沿海からも徴集し、しかもそれは戦艦として使える堅牢な船質でもなければならない。
 さらに、ともなう糧食やら馬匹、おびただしい数量の武器、征矢(そや)。じつに容易なしたくではない。
 しかし、この規模(きぼ)と、またそれのよく行われてゆく実力とをみて、いまは九州の各地にひっそくしていた武士もみな出て来て、尊氏の軍門へくだった。――残るものは、日向と肥後とで、なお抵抗をつづけやめない一勢があるだけだった。
 しかもその菊池武敏は国境の第二戦でまたやぶれ、つづいて合志郡(ごうしぐん)鳥栖(とす)ノ原(はら)でも負け、ついには、本国菊池郡の大琳寺(たいりんじ)ノ城まですてて一族深い山間の地にかくれてしまった。――不撓不屈(ふとうふくつ)な菊池だましいの本領である。――そこ北筑後から西肥後の山谷(さんこく)へ隠れてしまっては、もう寄手は、幾万の兵力を以(もっ)てしても、彼らに手はとどかなかった。
 自然、その方面のたたかいも終熄(しゅうそく)して来た頃である。――ある日、一色右馬介が、遠い河内の使いから帰って来た。そして、さっそく、太宰府の営(えい)に、主君尊氏を訪うていた。
 ひそかに、待ちかねていたことだったろう。尊氏は、
「介(すけ)。立帰ったか」
 と、すぐ会って、彼の長途の労をいたわった。
 右馬介が尊氏と会うばあいは、いつも人払いをして二人きりになるのがつねで、いまも侍座にはたれひとりいなかった。
「して。河内の方は」
 と、尊氏に何よりもまず、その吉左右(きっそう)を先として、
「河内では親しく正成に会うたか。また、首尾はどうであったぞ」
 と、その成否にかけていた密(ひそ)かな熱意のほどもただならぬ訊き方だった。
 それだけに。――介(すけ)は、
「はッ……」
 と、いったのみだった。主君の期待にそえずに帰って来たむなしさがつらく、
「されば、せっかくな御秘命をうけたまわって参りましたが、いかんせん、河内どののお心はかたく、事は不調に終りましてござりまする」
 と、おもてを伏せた。
「ふ……ウむ」
 あきらかな失望というよりも、もっとつよい落胆の色を顔いっぱいにじませて。
「では、正成とのはなしは、ついにつかずにしまったのか」
「お使いとして、介のいたらぬところにもございましょうが」
「いや、そちが至らぬの何のと申す仔細ではなかろう。さきは楠木河内守。ことわけは、よう噛(か)みくだいた上の返辞であったにちがいあるまい」
「じつは、河内の水分(みくまり)へまぎれ入ッて、当(とう)の河内どのへ近づくにも、さまざま、心をくだいたことにございましたが」
「さもあろう。そして」
「金剛山の人なき場所で、まったく、ただ二人きりでおはなし申すよい機会に恵まれましたなれど……」
「この尊氏の胸は」
「ことばを尽しておつたえ申しあげました」
「が、正成は、一笑に附して、耳もかさぬ態(てい)であったのか」
「いえ、さらさら、さようなご態度ではございません。……むしろ、ご謙虚に」
「謙虚に」
「身は河内の一小武門。足利殿といえば天下の武家中の名門。さるを、そのようなお人よりの知遇(ちぐう)は身に余る過分(かぶん)なれどと、仰せられての上のことで」
 と、介は、正成が自分へ言ったことばどおりを、寸言も余すなく、また誇張もせず、前後一切の様子とともに、尊氏へ、そのまま語った。
「…………」
 終始、尊氏は瞑目(めいもく)して聞いていた。
 ――介のつぶさな報告を聞くにつけ、正成を味方にと望む、彼の正成にたいする愛執と惜しみはむしろ、いよいよ募(つの)るばかりであるらしい。
 ひとり中央といわず、この九州でも、武族間における離反(りはん)雷同のあさましさは、いやというほど、四囲に見てきた彼である。なかなか正成への未練は多い容子(ようす)であった。しかし、あきらめるしかない介の報告なのだ。尊氏はやがて独り言のように。
「……そうか!」と、深くうなずいた。いたずらな嘆声も出せないほど、彼には正成の心もよくわかっていたのである。
 すでに、あきらめ顔の尊氏は、こう彼をねぎらった。
「介(すけ)。大儀だったぞ」
「なんの、面目次第もございませぬ」
「いや、そちのせいではない。……が、もいちど訊きおく。……正成はことばのさいごに、しょせん、この尊氏とは、異(こと)なる道をあゆむ者、ゆくすえまでも相容れぬ敵ぞと、きつく申し切ったのだな」
「さようで」
「永劫(えいごう)の敵とまで申したか」
「は」
「そしてまた……。正成は今上(きんじょう)の御一方にちかいまいらせた一朝臣(あそん)。さよう、江口の遊女(おんな)のように、世を浮舟と渡る上手なすべは知り申さぬと」
「仰せられてござりまする。御苦笑のうちに」
「いや恥かしいことだった。そちのつみではない。そちを密使にやった尊氏の不覚だった。尊氏という者は、人をみる明(めい)がないとおもわれたことであろう」
「…………」
「その一点はいまいましいが、荒磯の芥(あくた)のなかに一粒の真珠を見たような心地はする。――いやこの尊氏の前途にあたって、そのようなゆゆしい大敵が待つかと思えば、尊氏もまた、いちばいな智と勇をふるいおこさずにはおられん。珍重(ちんちょう)珍重。もうよい……。介、充分に休息をとれ」
 この日頃であった。
 介の帰陣と、ほとんど、時をひとつに、播磨の赤松円心からの急使が、太宰府の営に着いていた。
 状には――
三月初旬(しよじゆん)このかた
新田金吾(義貞)ノ大将
当城(白旗城)を取籠(とりこめ)
防禦おこたりなしと雖(いへど)も
兵糧、不用意
万一にも
御帰洛、延引(えんいん)あらば
城方(しろかた)の結束も
堪忍(かんにん)せしめ難し
早(さう)々
御進発 急がれたく……
 云々(しかじか)とあって、事態の容易でないことを、訴えて来たのであった。
 尊氏が西下のさい他日を約して、山陰、山陽に残しておいた仁木頼章(よりあき)や今川駿河守などからも、同日付けの飛脚が、前後して、尊氏の手許へ着いた。
 みな、一様に――
 御東上、延引となれば、とうてい新田の大軍はささえがたい。急ぎ、御進発を
 と、いまや尊氏の再上洛を首を長くして待つ声ばかりなのだった。
――かくて
帰洛の御評議あるも
衆言、たちまち
両議に別(わか)る
 とは「梅松論」が言っているところで、要するに、準備は未(いまだ)しとなす尚早論(しょうそうろん)と、即刻東上をよしとする意見とが二つにあったものとみえる。
 が、尊氏は、即刻東上の方を取った。
 元々、彼のはらは早くからそこにあったらしい。――彼は約一ヵ月ほどしか太宰府にいなかったが、そのあいだ、太宰府から他の戦線へは、いちども動いていなかった。――そしてただ執事師直(もろなお)を督して船集めに専念していたものである。――で、大小数百そうの船は、ただちに九ヵ国の兵と馬や食糧を満載して、博多湾をひがしへ出てゆき、尊氏自身は、べつの一軍をひきいて、四月三日、陸路を筑前(ちくぜん)芦屋ノ浦へと急いでいた。

 はやい。
 じつに早かった。
 われながら、尊氏はいま、薄れゆく九州の地をかえりみて、船上からそう思う。
 さきに赤間ヶ関(現・下ノ関)から九州へ渡ったのは二月二十日。――そしていま、芦屋ノ浦からその舳(みよし)を再度、赤間ヶ関へ回(かえ)している今日は、四月七日。その間(かん)、たった四十六、七日でしかなかった。
「……思えば」
 これは何の力だったのか。尊氏は自分に慢(まん)じ切れなかった。直義(ただよし)はたんに神明の御加護とそれをいっていた。が、彼にはそれとばかりもありがたがっていられない大きな責任感と、また現実の勝負とが、まだまだ前途には果てなく横たわっているのである。
「……つるぎの刃渡りは、そう何度も図に中(あた)る芸ではない」
 彼は、海峡の船中で、大いに思い直すところがあったらしく、
「師直。船はこのまま府中(現・長府)までやれ。串崎(くしざき)をめぐッて、そこへじかに」
 と、俄に、針路(しんろ)の変更をいいつけた。
 師直は、意外として。
「では、赤間ヶ関へは」
「立ち寄るまい」
「ですが、御牒(ごちょう)によって、長門(ながと)の厚東(こうとう)ノ入道、周防(すおう)の大内義弘(よしひろ)、そのほか大島義政なんども、みな、人数(にんず)をあげてお出迎えに出ておりますが」
「いや、それへは、早舟を一そう遣(や)って、云々(しかじか)の由を、沙汰がえ申しておけばよい」
「は」
「赤間から府中までは、わずか東へ一里少々。かくべつ、彼らの当惑にも相なるまいが」
「かしこまりました」
 かくてその夕、尊氏の主船隊は、串崎を迂回し、長門(ながと)の府中ノ浦へ着いた。
 予定は、赤間ヶ関に上陸、後続の船隊を待って、ただちに、東上の戦機へうごくはずだったものである。それが府中と変更したので、陸上に迎え出ていた側ではいくら程近い府中にしても、いろいろな手ちがいに狼狽したにはちがいない。
 まもなく。
 尊氏とはべつに、博多を発した九ヵ国の九州軍も、ぞくぞく、赤間ヶ関を見過ごして、海峡をひがしへ通って行った。――海峡附近の浦人たちは「……物々しさよ」と、目をみはった。彼らがざっと数(かぞ)えただけでも、次の日へかけて、ここをひがしへ通って行った船影は大小四百余そうをくだっていない。
 しかし尊氏は、この船舶や軍勢でも、なお足らないと観たのであった。九州は彼にとって多分な冒険であり、俗諺(ぞくげん)にもある――運(うん)と岩茸(いわだけ)は危ない所にある――というその岩茸を岩頭によじ登ッて採(と)ったようなものだが、これから臨む東上には、
「運(うん)はない。力と力。実力の差だけがあるのみ」
 と、まったく用意を革(あらた)めていたものらしい。
 按(あん)ずるに、軍ももう一倍の充実と作戦の練り直しが要(い)る。――首を長くして急援を待つ赤松の白旗城も、その他の味方も、すでに尊氏がここまで来たと知るならば、ここ一番の持ち支(ささ)えはするだろう。――尊氏はそう見たのである。そして先を急ぐよりは、まず充分な必勝の準備をと、それに重点をおきかえていたのであった。
 数日のうちに、浦々は船に、陸(おか)は軍馬にうずまった。
 ここからも尊氏は、諸国の武士へ教書(きょうしょ)を発して、
 ――急ぎ参(さん)じ候(そうら)え
 と、東上一致の大同をうながした。
 兵はふえ、兵糧も集まり船も寄って来る。ここは結集と団結に地の利であったのみでなく、古来(こらい)、
 串崎船(くしざきぶね)
 と名のある串崎も、遠くない。
 尊氏は、長門ノ守護、厚東(こうとう)ノ入道武実(たけざね)を呼んで、
「串崎の腕ききの船頭どもを、厚くもてなして、水軍に配属するよう」
 と、いいつけた。
 ところが、串崎の船頭は領主でもうごかしえない独自な自治と特権をもっている。――というのは、源九郎義経が平家を壇ノ浦に討ったさい、その水案内(みずさき)にはここの串崎船が先陣をつとめ、その功で以来「――日本国中、津々浦々、どこに寄っても、串崎船は公役を受くるに及ばず」という公役免除の墨付(すみつき)をうけており、いかなる軍官の命でも、おいそれとは応じない気質(かたぎ)をもっていたのだった。
 しかし彼らもこんどは、
「足利殿の御用とあれば」
 と、進んで課役に応(おう)じ、屈強(くっきょう)な串崎男八十人は水夫(かこ)の群れに投じてきた。中には赭顔(しゃがん)白髪の老船頭もいて、これらは“風見”“水見”といって、内海の水路や天気癖(ぐせ)などは掌(て)をさすようにそらんじている海の古老たちだった。
 すでにまったく準備は成ったといっていい。
 もちろん、このあいだにも、尊氏の急援を、今日か明日か――と待っている播磨(はりま)、備中方面の味方へは、忍びを放って、
「早や尊氏はここまで来ているぞ。九州、四国も挙げてわが麾下(きか)にあれば、不日(ふじつ)、ごく近々には馳(は)せのぼらん。それまでの怺(こら)えだ。歯の根を噛んで、新田勢を食い止めていよ」
 と、激励していた。また、あらゆる手段を講じて、ここの食糧を備中、播磨の味方へ密々輸送もさせていた。
 けれど、左右の諸将は、ようやく、尊氏の心裏をうたがい初めていた。――なぜなれば九州ではあれほど迅速な行動をみせていた尊氏が、
「なぜか?」
 と、怪しまれるほど、ここではおちついていたからだ。
 ここ長門(ながと)の府中滞陣も、いつか二十日(はつか)以上になっている。――するとここに果たして、尊氏が気にかけていた一報が九州から聞えた。
 それは菊池党がまた、威勢をもりかえしてきたことだった。
 ――尊氏が九州を離れたと知るや、菊池、阿蘇の両党が、日向の伊東祐広(すけひろ)、肥後八代(ひごやつしろ)ノ庄の内河彦太郎などと呼応(こおう)して、ふたたび、気勢を揚げはじめていたのである。わけて八代の内河党は、名和長年の聟(むこ)、彦太郎義真(よしざね)のひきいるところで侮(あなど)りがたい。
「それよ」
 尊氏が、人知れずおそれていたのは、前でなく、後ろだった。九州の再燃(さいねん)にあったのだ。彼はすぐ、少なからぬ船と兵力を割(さ)いて、仁木義長にさずけ、即日、在(ざい)九州の味方の加勢にあとへ引っ返させた。
 もし九州の再燃が悪化して、菊池以下の宮方が、東上の軍を追ッて来たら、これはなかなか一大事である。
 おそらくは首尾両端の苦戦を途上で余儀なくされよう。そしてせっかくな壮図(そうと)も、乱脈な状におちいるしかない。
 いや九州ばかりか。
 石見(いわみ)地方でも、宮方が起って、黒木城に兵を集めたとかの風聞が高い。――要するにみな、尊氏東上の風(ふう)を聞き、その背後を突こうとする兆(きざ)しだ。
 で、尊氏は大事をとり、約一ト月を、長門(ながと)にすごした。――しかし、恃(たの)む播磨の赤松の城も備前、備中の形勢も味方の危急をつげる声ばかりである。そこで尊氏も、
「いまは」
 と、腹をきめ、全軍へ向って東上の令を出した。
 四月末であり、舟艇(しゅうてい)、戦艦、すべて軍船の艤装(ぎそう)をした大小五百余艘(そう)の船影は、その日、府中豊浦(とよら)の海を出て行った。
 これが着いた先は、周防(すおう)の釜戸(かまど)ノ関(現・上ノ関)で、尊氏はここから安芸(あき)の厳島神社へ代参の使い舟を派し、
 五月一日
 付けの願文(がんもん)を以て、武運の長久を祈っている。
 すすんで、備後の尾ノ道に入港したのが、五月五日のひるだった。
「――男の節句(せっく)」
 と、尊氏は知っていた。
「酒酌(く)もう。重五の祝いだ、土地(ところ)の美酒(うまざけ)を酌(く)みながらさいごの軍議をとげようぞ」
 おもなる大将をみなつれて、尾ノ道の山ぞい町からすぐ上の浄土寺へ休憩に入った。
 浄土寺の僧、道謙(どうけん)は、
「これはまた……」
 と、俄な申し入れにうろたえはしたが、しかし寺中をあげて、尊氏や直義(ただよし)以下のために、客殿(きゃくでん)を挙(あ)げ、この不時の珍客たちの憩(いこ)いに供えた。
「住持は道謙と申さるるか」
 直義が、あいさつを受け、また、こういった。
「――当所は古くから備後酒の名のあるところ、万葉にも吉備酒(きびざけ)の歌さえみゆるの」
「は。御意(ぎょい)で」
「何やらの書にも――ソノ味ハ醇厚(ジユンコウ)、久シキヲ経(ヘ)テモ損セズ、故(ユヱ)ニ古(イニシヘ)ヨリ大宋(タイソウ)、南蛮(ナンバン)ニ往来スル倭船(ワセン)モ、必ズココニテ酒壺(シユコ)ニ吉備酒(キビザケ)ヲ満タシ、長キ船中ノ用ニ充(ア)ツ――とか。……和上(わじょう)、そのような美酒(うまざけ)をわれらへひとつ馳走して給わるまいか」
「いとおやすいことにござりますれば、しばしお待ちのほどを」
「おう急がいでもよい」
 軍議はそれのしたくが出来るまでのあいだにすすめられていた。すでにあらましは船中できまっていた事項でもある。
 すなわち、ここまでは、水軍編成に集中してきたが、はや備中は目の前に来ている。備中福山ノ城もあぶないといわれ、笠岡、玉島の辺にはすでに敵、新田方の先駆が、見えつつあるとの情報もある。――で、どうしても上洛の東上戦略は――海陸軍が二タ手となって併(あわ)せ進んで行くのでなければならなかった。
 やがて、酒が出る。――ヒタと、軍議の声はやんで、寺僧の一人へ、尊氏が言っていた。
「……寺僧、硯(すずり)と料紙(りょうし)をかしてくれい。一つ二つではこまる。杯の数ほど、硯もたくさんに」
「ほ。お硯を」
「ウむ。なるべく多く」
「かしこまりました」
「いや待て」
 と、尊氏はその寺僧へ、
「和上(わじょう)の道謙にも、これへまいって、共に、連歌(れんが)をして遊ばぬかと申すがよい」
 と、言いやった。
 さてはこの座をそのまま連歌の会とするおつもりであったのかと、直義やほかの諸将もやっとその意が解けたふうだった。
 杯もめぐって。
「なるほど」
 人々はみな、土地(ところ)の醸造(つくり)をまず賞(ほ)めた。
「これが、吉備(きび)の酒か」
「どこかちがう」
「いや、ずんと佳(よ)い。東国酒とはくらべものにならぬ」
「それに今日は重五の節句だ」
「さよう、男の日」
「いまや曠(は)れの御上洛、その途上にある美味(うま)さも心に加味されていよう。……お。おん僧もこれへ加わり給え」
 と諸将は、それへ見えた道謙(どうけん)にも、座をわかって、藹々(あいあい)とみな仲よく頬を染め合った。
 道謙がやがて言った。
「かかるお忙しい御途上ですのに、愚衲(ぐのう)にはどうも何か意外な感がして相なりませぬ」
「なにが、意外」
 と、直義(ただよし)がたずねると、和上(わじょう)は歯にきぬを着せぬたちの者とみえて。
「愚衲(ぐのう)らの心にある常識(わきまえ)では、およそ関東の武家方は、武弁殺伐(ぶべんさつばつ)……ただそれだけの者としかつい心得ておりませなんだが……。容易ならぬ先の軍(いくさ)をまえにして、悠々と、連歌のお催しあるなどは、何やらゆかしい、古(いにしえ)の武者を偲(しの)ばせられまする」
「はははは。関東酒なみに、われら東国の人間どもも、味ないものに観られていたか」
「いや、今日からは、人にもさような誤解(あやまり)は、篤(とく)とたしなめてやらねばなりませぬ。いなか者の目の狭さ。愚衲も恥じ入ったことにござりまする。では、おん大将より御題(ぎょだい)なと賜わって」
 と、道謙の口吻(くちうら)は、なお尊氏の文事の素養をいくぶんうたぐって、それを量(はか)るような容子でないことでもなかった。
「詠題(えいだい)か」
 尊氏は、ちょっと考えて。
「……普門品念彼偈(ふもんぼんねんぴげ)(観音経)の一句一句を、各※(二の字点、1-2-22)が詠題に分け持って、巻をおさめたなら、尊氏が浄書のうえ、当寺の法楽観音の宝前(ほうぜん)に献(けん)じたてまつること。いかがであろうな」
「それは」
 と、みな尊氏の趣向(しゅこう)に興(きょう)じて、しばし風流陣の苦吟に遊んだ。
 まず、尊氏が、
弘誓深如海(ぐぜいしんによかい)
 の五字をとって、
わだつみの
深き誓ひのあまねさに
頼みをかくる
法(のり)の舟かな
 と詠じ、つづいて弟直義は、
火坑変成池(くわかうへんじやうち)
 を題に、
さだまれる
姿の物になき故に
たやすく火をも
水と為(な)すらん
 そのほか、執事(しつじ)師直(もろなお)やら、つらなる諸大将もみな、一偈一詠(いちげいちえい)ずつのかたちで、三十三首の歌を作り、即座に、尊氏はそれを巻物に清書して、寺へ納めた。
 尊氏たちは、まもなく浄土寺を出、その夜のうちに船で鞆(とも)ノ津(つ)へ渡った。
 全軍は、そこでただちに陸海軍の二タ手にわかれた。すなわち。
 将軍(尊氏)は、執事の高ノ師直や関東いらいの宿老(しゅくろう)をつれて、水軍のお座船(旗艦)へ。
 また。――下御所(しもごしょ)(弟、直義)は、陸軍をひきいて、高(こう)ノ師泰(もろやす)を旗本頭(がしら)とし、少弐ノ頼尚(よりひさ)を先陣に、筑紫(つくし)、長門、周防、安芸、備前、備中の兵をこぞッて陸上を行く。
 途中も陸海両軍は、緊密な連絡をたもちながら、東上をすすめて行くときまり、五月十日、鞆(とも)ノ津(つ)を一せいに発(た)った。
 陸上七万騎。
 軍船千百余艘(そう)。
 あわせて、八万余騎と公称したが、もとより実数ではなかった。けれど近来、世人の覚えにもない大兵力であることに世間疑った者はない。
 これが陸(くが)を行き、海を掃(は)いて進んで行くさまは、けだし壮観をきわめたであろう。「梅松論」の筆者も、
船路、陸地
同日に御進発なり
しばしがほどは
両々、見通(みかよ)はして
船、陸(くが)を呼び
陸(くが)、船に応(こた)ふ……
 と、いっている。衝天(しょうてん)の意気、思うべしで、海上には、尊氏の乗船が、数百そうの船列の中に、二引両の紋幕(もんまく)をヒラめかせているのが望まれ、陸路には、先陣をゆく少弐頼尚の、綾藺笠(あやいがさ)の旗じるしが、あざらかなほど見えたという。
 ところがやがて、海上では一ト騒ぎが起っていた。
 この船列が、水島灘(みずしまなだ)へかかった日のことである。先頭を切ッて哨戒(しょうかい)して行く串崎船の檣頭(しょうとう)に、
 敵アリ
 御用意
 の赤い信号旗(しんごうばた)がのぞまれたので、全船隊は「すわ!」とばかり船楯(ふなだて)にむらがり立ッて、海ばらの八方に、眸をこらしあったものだった。
 脚の速(はや)い串崎船は、ひッきりなしに、前方の状況を、中軍のお座船へ、報告に漕ぎ返してくる。――それによれば、楠木の謀(はかり)で、正成のひきいる水軍が、ゆくての塩飽島(しあくじま)、ほか島々の島蔭に、待機している様子だ――というのである。
「なに、楠木勢が」
 と、それだけでもう、どの船でも舷々(げんげん)口々(くちぐち)な騒ぎだったが、かねて右馬介からつぶさな情報をえていた尊氏は、
「おちつけ」
 と、左右を制し、
「正成に、さような船手はないはずだ。よくたしかめてみよ」
 と、串崎船のほか、さらにべつな物見舟へ、一将を乗せて、見せにやった。
 はたしてそれは見まちがいであった。
 島々の蔭で尊氏を待っていたのは、讃岐(さぬき)の土岐一族、伊予の河野党、高松の細川定禅(じょうぜん)など、かねがね今日を待機していた四国の味方だったのである。しかも、その船力は数百そうの兵で、かくて驚きはよろこびと変ったものの、楠木の名は、その鬼謀神算の聞えによって、瀬戸内(せとうち)の船頭にまで、ふかく恐れられているらしいことを、あらためて、尊氏はまたこの日にも知った。
 また、いちばい勢威を加えた大船列は、五月十五日、
 備前児島(こじま)
 の湾内についた。
 ここは備前佐々木党の拠地である。加治、倉田、飽浦(あくら)、田井などの諸党に迎えられて、尊氏は加治安綱の邸に入った。
久々にて御風呂(おふろ)など
おくつろぎあり
折ふしまた
その夜の満月に
黒雲二た筋(すぢ)
引渡して見えければ
軍勢みな合掌(がつしやう)して
しばし拝し奉る……
 とは、当夜の記録にあるところで。――まんまるな月に、二タ筋の黒雲がたなびき、その様さながら、足利家の軍旗二引両の旗のようだったので、一同おもわず合掌した――との情景が、いかにも目にみえるようである。
 あくる日だった。
 加治安綱が、おそるおそる尊氏の前へ出て。
「昨夜は夜すがらな兵どもの騒音……。さだめし、お眠りづらかったでございましょう」
「いや、よく眠った」と、尊氏は気にもしていず。「やはり浪枕よりは、陸(おか)の寝心地の方がずんとよい。物音など、何も知らなかったわえ」
「じつは、ここより遠からぬ所に、宮方の児島(こじま)三郎高徳(たかのり)なる者がおりまして」
「ム。千種忠顕(ちぐさただあき)の手について、去年、洛中の合戦でもよう働いたあの高徳か」
「以後、国元の熊山に帰ッて鳴(な)りをひそめておりましたが、下御所(しもごしょ)(直義(ただよし))の大軍が、はや福山の城(備中・倉敷の西北)にせまッたのを見て、高徳らは、しょせん、阻(はば)め難(がた)しと見たのでしょう。昨夜、一族三百余人、熊山の自邸を焼きはらい、播磨(はりま)ざかいの方へ、逃げ落ちて行ったものにござりまする」
 こんな対話中の折だった。直義の陸手(くがて)からも、福山城をたッた今、攻めつぶしたとの捷報を早打ちしてきた。
 その勢いを駆ッて、陸上軍は、大安寺(岡山市の西)の松田一族を打ち、すすんで三石(みついし)城(船坂峠)に突ッかけてゆく予定――と使いは口上を述べ終ると、すぐ馬をとばして帰った。
 尊氏も、また、
「師直(もろなお)。ここも明朝は纜(ともづな)を解け」
 と、命を出した。
 海と陸とで、昼は呼びあい、夜は夜で、火光を揚げて、相互、比翼(ひよく)の軍となって進むこと。それが作戦第一の約束だった。
「申し上げまする。ちと、ご猶予(ゆうよ)を」
「安綱か。何だ」
「今朝、はやお船出のさいにはございますなれど」
「汀(なぎさ)では、軍勢がみな、纜を解いて、わしを待っておる。はやく申せ」
「疾(と)くより、言上いたしたものか、または時を待って、申し上ぐべきか、つい迷うておりましたが」
「ふム……? では何か、余り吉(い)い事ではないのだな」
「いや、決して凶事ではございませぬ。じつは」
 と、源太左衛門安綱は、少々思い余っていたらしいその一通を尊氏の手にささげた。尊氏はわけもなくハッとした。一見まぎれない、それは佐々木道誉の筆蹟であった。
 思いがけない――
 しかし、備前佐々木党は、近江佐々木の支族であり、加治安綱にとれば、佐々木道誉は、つまり宗家(そうけ)のお人である。――ここで道誉の消息を見たとてべつにふしぎはない。
 けれど。……?
 尊氏はその厚ぼッたい書簡の重たさからして、何かふッと、胸が騒いだ。
「師直」
「はっ」
「ちと、乗船が遅れる。浦に待つ軍兵どもに、そのよしを触れしておけ」
 尊氏は、いちど起(た)った室内へ、また戻って、道誉の長い手紙を細(こま)かな眼で端から解いて行った。
 手紙には、るると、以後の伊吹の城やまた足利家の根拠地――三河国(みかわのくに)におこった必然なともいえる――一変事を告げていた。
 先月。
 四月中のことという。
 義貞の一族、新田左馬助義氏の軍が、ふいに三河を襲ッて、吉良(きら)ノ庄から一色郡のあたりを荒しまわった。
 目的は、郷党の手に預けてある尊氏の系類を生け捕ろうとするにあったが、吉良、一色、仁木などの留守組も、おめおめ自分らの守護するお人を敵方へわたすような者どもではない。もちろん、防戦にこれ努めた。
 しかし万一を恐れた道誉は、変を聞くと、ただちに伊吹から援兵を送って、三河のさる所にひそんでいた尊氏の母上杉清子と、みだい所の登子(とうこ)、ならびに嫡子の千寿王の三名を――ひそかに自分の伊吹城のほうへひき取った。
 が、その伊吹城も、決して安全な場所ではない。
 尊氏の九州活動いらいは、伊吹へも宮方の疑いがきびしい監視をむけている。――いわば敵中の孤城にひとしい。――ただからくも、道誉が道誉一流の偽装と外交とによって、たくみに、どっちつかずの消極的な小康(しょうこう)をたもってはいるものの、それも宮方の動向如何(いかん)では、いつ「――伊吹をも、ふみつぶせ」と、新田方の兵が、攻めかかって来ないとはかぎッていない。
 かたがた、道誉は、
「ここも安心ならず」
 と考え、尊氏の肉親と、系類のすべてを、一夜、湖畔から一船に乗せて、琵琶湖の彼方、まったく、人の思いおよばない山間の地へかくしてしまった。
 ――というのが、道誉の手紙の全文の意味で、
 さるが故(ゆえ)に、
 おん母堂さま
 みだいどころさま
 ご嫡男(ちゃくなん)、千寿王ぎみ
 また。
 かねて当城におあずかり申していた、不知哉(いさや)丸の君も、越前ノ前(まえ)(藤夜叉(ふじやしゃ))も、いまはご心配にはおよびません。――それらの後顧(こうこ)には、さらさら、ご懸念(けねん)なく、瀬戸内(せとうち)、山陽、山陰の軍路に大捷(たいしょう)をおさめられて、やがて曠(は)れの都入りの日を、鶴首(かくしゅ)、お待ち申しあげております……とも、手紙の末尾には、書きそえているのであった。
「…………」
 尊氏は、読み終って、ほっとした。忘れようとし、忘れてはいたものの、やはり彼の心の奥には、大きな弱身として、気づかわれていたことの一つではあった。

 古典太平記には、
 備中福山合戦ノ事
 の一章に、かなり多くの筆をついやしている。
 足利直義(ただよし)の陸上軍が最初にぶつかった敵なので、わざと花々しく書いたものとおもわれる。が、城は小城にすぎず、兵数もまた少なかった。
 それに新田方の江田貞経も勇将ではあったろうが、東上軍の大兵のまえには、一トたまりもなく砦(とりで)をすてて潰走(かいそう)したものにちがいなかった。
 なぜなら、ここにかぎらず、新田方また宮方とよぶほうの陣営には、どうも一本に統一しているすがたがない。
 或る者は、
 後醍醐朝廷直々(じきじき)の綸旨(りんじ)
 によってと号しており、また或る者は、
 金吾どの一味
 と唱(とな)え、おなじ陣営にありながらも、新田義貞こそが、盟主であり総帥(そうすい)であるとまでの、強力な一致には、どこか欠けていたふうがある。
 たとえば。
 福山ノ城(幸山城(こうざんじょう)とも、後に高山城とも呼び、備後福山とは別)から近い熊山にいた児島高徳(こじまたかのり)にしてもまたそうだ。このさい、その高徳についてすこし述べておく要もあろう。
天(テン)勾践(コウセン)ヲ空シウスル莫(ナカ)レ
時ニ范蠡(ハンレイ)ナキニシモ非ズ
 の詩を、かつて、後醍醐(ごだいご)が隠岐(おき)へながされる日の途中に、御旅(みたび)の行宮(あんぐう)の庭に、目に見て引っ返したあの高徳だ。
 詩は、彼でなく、大覚(だいかく)ノ宮(みや)が書いたものである。――やがて天皇が、隠岐から都へ還幸(かんこう)となった曠(は)れの日に――高徳もまた宮と共に、龍駕(りゅうが)にしたがって都へ入った。
 大覚ノ宮は、以後、御父子のお名のりあいをとげられたのち、洛外の一寺に入り、高徳も窪所(くぼしょ)の一員としてお仕えしていたが、またふたたび、あの乱だった。高徳は七条口でよく戦い、兵庫にも参戦したが、日ごろ千種忠顕(ちぐさただあき)と折合いがわるかったので、それを機にまた元の、備中熊山の郷里に帰っていたものだった。
 そこへ、こんどの、尊氏と直義らの東上である。
 彼は、一議なく、
 朝廷のおん大事
 として、初志のままな忠節を、あらためて一族たちと誓い合った。そして熊山の自邸を焼いて、新田義貞のいる方へ奔(はし)った。――近くの福山ノ城へは行かず、播磨(はりま)へさして急いだのである。これをみても、宮方全般の陣営には、朝廷への忠誠の声やら反尊氏の意気はあっても、司令一本の統御(とうぎょ)に欠けていた点があったのは否(いな)みがたい。
 すでに、十八日ごろ。
 直義の大軍勢は、破竹(はちく)の勢いで、備前和気郡の三石(みついし)へかかっていた。――船坂峠へかけて、ここは山陽第一の嶮(けん)といわれる砦である。
 あらかじめ、直義もそこでは一大血戦をかくごしていたが、はや大風を知って散り退(の)いた枯葉(こよう)のごときものだった。敵は、ここばかりでなく、但馬(たじま)境から赤穂にまでわたる諸所の陣もみな引いて、一せいに、播州加古川へぞくぞく落ちて行くと聞え渡った。要するに、加古川は、総大将義貞のいる宮方勢の総本陣と、自然、大きく分ってきた。
 刻一刻、海陸の足利勢は、もうついそこの、播磨ざかいまで上(のぼ)ッて来ている。
 ここで当然、
 義貞は何していたか?
 の疑問にぶつかる。
 事実、尊氏がついやしてきた二タ月と、義貞の二タ月とでは、差がありすぎる。
 といって、都の京雀が、いちがいに、
「……あたらこの期(ご)を、勾当(こうとう)の内侍(ないし)の色に溺(おぼ)れ給うて」
 などとしている蔭口は、決して、その真相を言い当てているものではない。
 たしかに、三軍の総帥(そうすい)としては、勅を拝しながら、その都立ちも遅れてはいた。だが、その十日ほどは、多少、兵馬に休養をあたえたり、また下へも恩賞など頒(わ)けてやらねば、あとの士気もあがらぬような、期間であった。
 それに、あいにく彼が、瘧病(おこり)をわずらったことも事実である。――いや、その病をもおして、馬上都を立ち、播磨への征途へついていたほどだった。
 むしろ、悪いといえば。
 この間(かん)に朝廷が、北畠顕家(あきいえ)の奥州軍を、元の奥州へ返してしまったなどの安易感にこそ、より大きな落度がある。
 朝廷もここはすっかり小康(しょうこう)をえた安心感にとらわれていたのである。――尊氏はしょせん再起もおぼつかなかろう。かつ義貞が追討に向ッたからはと、はや平和の夢を、むさぼりあっていたとしか見られない。
 が、征途まず、義貞がぶつかった岩壁は容易でなかった。
 そのはず。――尊氏は九州へ落ちるにもただ逃げたのではない。丹波には久下(くげ)一族をのこし、但馬(たじま)には細川、仁木。播州(ばんしゅう)には赤松。そのほか、四国、山陽の諸所の要々(かなめかなめ)にはキメ石を打って、退(ひ)いていた。――さて義貞が、尊氏を追うには、まずその一石(せき)一石から抜いてゆかなければ、山陽道は通りえない。
 ひとつ、ここで考えられる疑問は。
 なぜ義貞も水軍を編成して、一路、筑紫(つくし)へ向わなかったかという謎である。が、おそらくは兵庫合戦以後、宮方の手に保持されていた船数(ふなかず)がそれに足りなかったものだろう。――でなければ、もし海上で、尊氏方の伏兵に、背後でも断たれたら、どうしようもないという、戦略上の危惧(きぐ)だったかもわからない。
 いずれにしろ、義貞は、三月すえには、播州加古川に本陣をすえ、すすんでは、斑鳩(いかるが)へ前線司令部をおいた。そしてまず序戦、赤松円心則村(のりむら)の居城、白旗城を一気に抜くつもりだったのだ。
 ここに、一説がある。
 この官軍の大兵力をみて驚いた円心は、さっそく義貞の陣へ使いを派して、
「自分は腹からの敵対ではない。やむなく一時、尊氏に従った者。もし播磨の守護職を約束してくれるなら、降(こう)を誓ッて城を出る」
 と言って来たので、義貞はその請(こ)いを容(い)れ、すぐ都へ急使を出して、赤松の播磨守護職を、朝廷に奏請(そうせい)した。――そのため、使いの往復十数日をついやし、またまた手おくれを重ねたという一話である。――しかしこれは、余りに義貞の武略を無能視したもので、信じられるふしはどこにもない。
 とにかく。義貞の三軍はふるわなかった。
 公称六万余騎錦旗(きんき)の兵をもって、なおまだ、赤松円心の白旗城(しらはたじょう)一つ抜けずにいたのだから、これでは彼へのいろんな誹(そし)りや蔭口がおこなわれたのもむりではない。
 が、その原因は、勾当(こうとう)ノ内侍(ないし)の色香でなく、円心の詭計(きけい)でもない。一に彼の尊氏観が甘かったところに起因し、尊氏が打ッて逃げた“退(の)きの布石(ふせき)”を読み違えていたことに重大な錯誤(さくご)がある。
 元来。――播磨には新田義貞の所領地も一部にあった。
 面目上、彼は、
「どんな犠牲を払っても、ここはふみつぶせ」
 と、白旗城の粉砕を、序戦第一の目標とした。――が、これもまちがいのもとで、その白旗城は、千種川(ちぐさがわ)上流のけわしい渓谷をはさんで、苔縄(こけなわ)ノ砦(とりで)と白旗城のふたつが、いわゆる牙城(がじょう)のかたちをしており、攻めるほど、味方は死傷をかさねるばかりだったのだ。
 それだけでなく。北の但馬や美作(みまさか)地方から、いくらでも後詰(うしろまき)(応援)のできる強味もある。
 ――美作の菩提寺(ぼだいじ)城には、これも尊氏がのこしておいた山間部隊がいたし、また備前には石橋和義(かずよし)、田井、頓宮(とんぐう)、内藤の一族もあって、かたく連鎖(れんさ)防禦を布(し)き、すべて義貞の前に、
「ここは通さん、通れるものなら通ってみよ」
 の陣に陣を、山陽道に沿(そ)って、幾重(いくえ)にも置いていたのであった。――いや義貞をして、もっとてこずらせたのは、ややもすれば、後方を突いて来る乱波(らっぱ)(ゲリラ)であった。
 尊氏は、さきに。
 あらかじめ、今日あることを察して、丹波に強力な味方を潜(ひそ)ませて行った。
 それは丹波氷上(ひかみ)郡の久下(くげ)弥三郎時重だった。
 この時重は、尊氏が篠村(しのむら)八幡で旗上げをしたさいも一番に馳(は)せさんじた尊氏股肱(ここう)の一人である。――これに、仁木左京大夫頼章(よりあき)の一手も付き、氷上郡の高山寺(こうざんじ)城から、たえず、加古川上流の渓谷づたいに下(くだ)って来ては、官軍のうしろをおびやかしていたのである。――このため義貞は前面の苦戦のうえ、さらに後門(こうもん)の狼(おおかみ)にもそなえを外(はず)せず、ついにさいごまで加古川の陣地を払うことができなかった。自身の床几(しょうぎ)は、はるか斑鳩(いかるが)あたりまで進めながらなお、むだな兵力を加古川におかないわけにゆかなかったのだ。
「こんなことをしていたら、どうなるでしょう!」
 ついに、業(ごう)を煮(に)やして言ったのは、弟の脇屋右衛門佐義助(わきやうえもんのすけよしすけ)だった。
「ここは、兄上の御指揮にまかせ、それがしは、それがし独自の作戦に出、山陽道を先へ蹴ちらしてまいりましょう」
 かくて義助の一軍は、ここの膠着(こうちゃく)をすてて、船坂、三石(みついし)の敵をやぶり、備前に入って、福山ノ城をも抜いた。――けれどたちまち、足利直義(ただよし)の東上に会して、またひとたまりもなく、元の道へ、押し返されて来たのだった。
「すわ」
 となった潰乱(かいらん)の兵には、見得もなかった。
 三石、船坂の要害から敗走しつづけてきた兵は、
「いやもう敵は、とほうもない大軍だぞ」
「陸(くが)は六、七万騎」
「海にも千数百艘(そう)の船」
 と、口々に言った。敵の強大に輪をかけて騒ぐのは潰走兵(かいそうへい)の常ではあるが、一夜、有年(うね)の高地から赤穂沖の火光をながめた脇屋義助も、また「あっ」とその不知火(しらぬい)のごとき兵船の数に驚き――一気に斑鳩(いかるが)まで駈けとおして来て、兄の義貞へ、
「とてもこの陣容ではどうもなりません。もし尊氏の水軍がさきを越えて、兵庫へでも揚がってしまったが最後、お味方は腹背の敵にくるまれましょう」
 と、総退却も即刻にとすすめたのだった。
 義貞もいささか慌てた。
「まず、白旗城をかこんでいる遠くの味方を呼び返せ!」と。
 が。山間深く入っていた味方は、そう急にもまとめられなかった。――すでに城将の赤松円心は、待ちに待っていた尊氏の東上軍がはや指呼(しこ)のあいだに来つつあることを知ってもいる。――城兵の勇気は百倍していたのだ。――それッと、たちまち城兵は、引きあげと見た新田勢へ追い打ちをかけて来る。――ために千種川(ちぐさがわ)の渓谷は、死屍に埋まり、血に染まった。
 このさいに、新田勢がうけた損害は、決して少ないものではない。
 さきに、宮方へ合流するため、備前熊山を去った児島三郎高徳(たかのり)なども、途中、一族郎党のあらましを打たれ、高徳はわずか数騎となって、からくも、新田方の陣へたどり着いていたほどである。
「いまは加古川もよい陣地ではない」
「兵庫(ひょうご)へ」
「ひとまず兵庫へ」
 義貞、義助の令は、全軍の将の合い言葉となって、播磨路は、ひがしへ押し返してゆく軍馬の影ばかりとなっていた。――こうして、ついに義貞の山陽道突破は、むなしい二タ月をついやして事成らずにはしまったものの、まだうしろには幾万の予備もあるとしている官軍だった。かつは兵庫の海、兵庫の山。そこは歴戦、官軍が勝利をえてきた吉祥の地だ。また義貞としては、よしや尊氏が幾万の兵を持って来ようとも、本来の勇と智略と、そして、故郷世良田(せらた)いらいの新田小太郎が面目にかけても、
「なんであの、うすあばた面(づら)に! 石の地蔵に! おくれをとってなろうや」
 と、いまや三軍の将帥(しょうすい)としての決戦を期すと共に、自分一個と宿敵尊氏との、最後の対決も明日に迫ッたものと思い、退路の馬上、人知れず唇(くち)をかんだ。
 これが、五月二十日から二十二日頃までの状況であり、足利直義の陸の大部隊は、はやぞくぞく、敵の去った加古川へ入っていた。
 一面――
 海上は、これも五月二十一日の夕ごろ、波間も見せぬほどな大船列が、室(むろ)ノ津(つ)にかかり、やがて夜は、烏賊釣舟(いかつりぶね)のような無数の灯を近々と見せていた。
 室(むろ)ノ泊(とまり)の群船に一夜が明けた翌日だった。尊氏が坐乗(ざじょう)の大船へ、ひる頃、一団の伺候者(しこうしゃ)があった。――奥地の白旗城から出てきた赤松円心則村(のりむら)と、一族の者だった。
「やあ、円心か」
「ごきげんうるわしゅう……」
「片手を頸(くび)に吊っておるが、怪我でもしたか」
「一昨夜、敵を追撃中、息子どもには負けじと、年がいもなく、ちと深入りいたしましたので」
「よい元気だな」
「わが君におかせられても、いちばい、おさかんな態(てい)に拝され、円心、こんなうれしいことはございませぬ」
「さぞ、待ちかねたろう。尊氏が東上を」
「いや、ご催促は申しあげましたが、疾風迅雷(しっぷうじんらい)のお迅(はや)さ。……もう逃げ足づいた義貞を都のすみまで、追いつめるまでにござります。その御先手(ごせんて)には、ぜひ、せがれ範資(のりすけ)、貞範(さだのり)、氏範(うじのり)らの若者輩(わかものばら)をお使い願わしゅう存じまする」
「よい子持ちだの。――嫡男(ちゃくなん)どもか。みんな前へ出ろ。わしが尊氏だ」
 と、手ずから各※(二の字点、1-2-22)へ杯をやり、また一族の輩にも、何かと、賞(め)で物(もの)を分け与えた。その間に、円心は、
「お。ひとつ、ご酒興にこれをごらんくだされい」
 と、たずさえて来た一(ひ)ト束(つか)ねの物を解かせ、おびただしい幟(のぼり)や小旗を展(ひろ)げだした。
「円心。何じゃこれは」
「されば、これはみなわが白旗城を包囲していた敵が、攻め口を解いて逃げ落ちるさい、道の諸所にあわてて捨て去った差物(さしもの)にござります」
「ほ。百旒(りゅう)を越す数(かず)だな」
「それよりは、篤(とく)、一つ一つの紋をごらんなされませ。この家々の紋には御記憶があるはずです。かつては、御麾下(ごきか)に従い、将軍の御馬前に働いていた輩(やから)の紋ではござりませぬか」
「む。……覚えがある。それもこれも、以前はわしに仕えていた奴よの」
「見さげはてた二(ふ)タ股者(またもの)です。先に、わが君が九州落ちの御悲運と相成ったさい、たちまち節操をすてて、新田方へ降参した犬武士どもの旗差物にござりまするわ。……いやお目の穢(けが)れとは存じましたが、陣中の御一興に持参してみたまでの儀にござりまする」
「なにさま……」と、尊氏は雨露(うろ)や泥にまみれた無数の旗を見まわして「――浮きつ沈みつの、流転(るてん)そのまま、波間の泡ツブでも見るようだわえ」
「つまらぬ物をお目にかけ、さぞ、御不快にございましょう」
「いやいや、いちどはこの尊氏に仕えていた者ども、憐(あわ)れではあるまいか。思えば、これらの者の心中も、なかなか不愍(ふびん)……」
「え。ご不愍とな?」
「根本(こんぽん)、敵たる者は、どうしようもない。したが、さまでにはなくて、ただ生きんがための方向に迷い、やむなく旗を敵に託した者などは、また何かの機には前非(ぜんぴ)をわびて尊氏の許へ帰って来ぬかぎりもない。……円心」
「はっ」
「旗は畳(たた)み束(つか)ねておけ。尊氏が秘封とする。そしてそちの手に預けておくゆえ、持って戻れ。一切、人に他言することも見せるなども相ならんぞ」
 その場にいた赤松の一族たちは、みな、尊氏の腹のひろさと、情(じょう)のこまやかさに、ひどく感銘したようだった。わけて円心は、戦場でひろい集めた二タ股者の旗屑(はたくず)などを、わざわざ尊氏の直覧(じきらん)に入れたなどは、自分のいやしさとかえりみて、いささか面目なかったものか、
「……では、兵庫御上陸の日も目前のこと。兵庫の戦場において、またお目にかかりまする」
 と、早々にいとまをつげて、陸上へ返っていった。
 この日ごろから、すぐそこらの揖保(いぼ)や飾磨(しかま)の山々も、白い雲か霧かの中に、漠々(ばくばく)と、見えなくなった。
 五月。とうに雨期へはいっていたのである。
 これまでわりに好天にめぐまれてきたのがむしろ僥倖で、その晩は、風さえ加わり、室(むろ)ノ泊(とまり)の内でさえ、すべての船が高く低くゆられとおした。舷(ふなべり)と舷とがぶつかり合わぬために“ともづな番”の兵は夜どおし声をからしていた。
「……さて、これは悪い模様になったな」
 次の日、尊氏もいくたびとなく、みよしに姿をたたずませていた。もことして、雨まじりの西風が波間をしぶき立てている。――すでに今日はと解纜(かいらん)を期していたのである。
 この日、陸上軍の直義(ただよし)からは、もう何の連絡も来なかった。おそらくはそのいとまなく、加古川以東へなおも敵を追いつづけているものにちがいない。
「……と、すれば」
 尊氏は思案になやむ。
 もう明石(あかし)海峡はすぐ目のさきだ。すみやかに退いた敵の義貞の覚悟のほどもわからなくはない。必然、兵庫の要地に拠(よ)って、さらに予備の大軍を都からよびあつめ、陣をかため直していることだろう。
 今は、すこしでも敵に時をかすのは当(とう)をえたものではない。それに直義(ただよし)の陸兵が、図にのッて、もし功にはやりでもしたら、明石の磯の隘路(あいろ)あたりで敵のため手いたい目にあわぬかぎりもない。――と彼には案じられて来て。
「やはり出よう!」
 と、はらをきめた。急遽、高(こう)ノ師直(もろなお)をして、全船列の水軍に、ともづなを解け! 帆支度にかかれ! と出港の令を出させようとしたのだった。
 ところが、この風浪を案じていたのは、彼ばかりでない。それぞれ、各船の大将たちも、水夫(かこ)楫取(かんどり)をつかまえて、空もようを談(だん)じ合っていたのである。たちまちいろんな意見が出てきた。そして尊氏のお座船へ来てまず高ノ師直をとりまいていた。
「なに、将軍には御出港のおこころですと? さアそれはどうかな?」
「海馴れた男どもは、みなこの空もようは測(はか)り難(がた)いと申しておる」
「いまは西かぜ、順風ともいえるが、月の出汐(でしお)の時刻には、風向きが吹きかわろうともいっています」
「もすこし、お見合わせあってはどうかな。とかく空グセの悪い五月の海……」
 騒(ざわ)めきが内へ聞えたのであろう。船屋形のなかで尊氏の声がしていた。「師直、師直」と、再度、彼をよんでいるふうだった。
 ――召されて、そしてふたたび、船屋形の内を出てきた師直は、そこらに、濡(ぬ)れ鷺(さぎ)のごとく群れたたずんでいる諸将へ告げた。
「いや各※(二の字点、1-2-22)、お案じにはおよばん。御命令は、ひとまずお差しひかえになった」
 どの顔も、眉をひらいた。が、それで終っていたのではない。
「――仰せには、先もいそがるるが、船出も慎重を期さねばならん。待つがよいか、すぐ出港が可(か)か。ひとつ船頭会議をひらいて、彼らの意見にたださんとの御意(ぎょい)。各※(二の字点、1-2-22)もそれに列座されよ」
 師直は言い終ると、ただちに、船屋形の外から胴(どう)ノ間(ま)いっぱいに、兵の手で莚(むしろ)を敷かせた。上には、帆柱から支えばしらを渡し、苫(とま)や幕(とばり)で雨除(あまよ)けの屋根を葺(ふ)いた。
 船頭会議とは、めずらしいことである。
 このお座船にのりこんでいた串崎(くしざき)船頭の老練なのを初めとして。
 千葉大隅守の船の船頭
 大友、少弐の船にのっていた筑紫の船頭
 厚東(こうとう)の船を操作(そうさ)してきた周防船(すおうぶね)の船頭
 上杉伊豆守の「今度船(このたびぶね)」と称する舟軍――長門安武郡の椿(つばき)ヶ浦(うら)の老船頭など……
 みな、将軍の御前と聞かされ、何事かと畏(おそ)れながら、船屋形の前にあつまった。
 やがて尊氏から直々(じきじき)に、
「忌憚(きたん)なく、思うがままを、申しのべよ。戦にかけては、われらが手馴(てだ)れだが、海(うな)ばらでの“風見”“波見”はそのほうたちのほうが、多年の経験、われらよりは、はるかにすぐれた先達(せんだつ)のはずだ。……どう観るな、きょうの風雨を」
 と、意見を徴(ちょう)した。
 しかし尊氏の前を畏れてか、なかなか率直な声は出ない。吶々(とつとつ)と述べる者もなくはないが、いっこうに明確でなく「――まずはすぐの御船出は、途中御難儀かとぞんじられまする」といったような類(たぐい)の意見ばかりだった。
 が、なかで一人、椿ヶ浦の船頭だけは、
「てまえ一存では、この雨も月の出頃にはやみましょう。風はそのまま、変ることもなく、明朝までも追ッ手に相違ございません。お日向きは上々吉(きち)、御大慶に存じたてまつりまする」
 と、はっきりいった。
 尊氏はこれを聞いているあいだに「ウむ」「むむ」と、二度ほどうなずいていたが、
「椿ヶ浦の船頭、よく申した。そちの申すに従って、やはり今日の戌(いぬ)の刻(こく)(午後八時)にここを出港とさだめよう。ついては諸人どもも、それときまったからには、一切、天候の異議雑評(ぞうひょう)はやめにいたせ。ただ船立ちのしたくを急げよ」
 これらのことはすべて「梅松論」にある記述である。大勢の言をいれず、ただ一人の老船頭の申し立てを採り上げられたのは、将軍の御真意、どのへんにあったものかと、人々不審にたえなかったといっている。
 風雨の戌(いぬ)ノ刻(こく)といえば、海上はさだめし、漆(うるし)のごとき闇と白浪だったであろう。室(むろ)ノ津(つ)を出て、室のひがし杓子(しゃくし)ヶ浦(うら)でいちど休んだ。大小の五千艘(そう)の船影が船陣を整(ととの)えていたのである。そして翌五月二十四日の暮れがたには、明石海峡を通過し、兵庫の沖に、その群影をみせていた。
了

底本:「私本太平記(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年4月11日第1刷発行
   2009(平成21)年12月1日第25刷発行
※副題は底本では、「筑紫帖(つくしじょう)」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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