あらすじ
建武の新政がスタートし、後醍醐天皇は鎌倉を倒した功績者たちを迎え、都に凱旋します。その中には、鎌倉幕府を滅ぼす中心人物となった新田義貞もいました。しかし、都には足利尊氏がおり、彼の勢力も無視できません。義貞は、尊氏と対立する大塔宮護良親王の意向を受け、都入りを果たしますが、二人の間にはすでに深い溝が生まれ始めていました。やがて、義貞は鎌倉に残したまま、上洛を決意するのですが、その裏には、彼自身の野心と、複雑な政治情勢が渦巻いていました。
 いわば五月は革命月だった。誌(しる)すべきことが余りに多い。――で、鎌倉をしばらく措(お)く。――そしてここはまだ天下混沌(こんとん)といっていいところだが、奕々(えきえき)と天の一方からは、理想の到達に誇ッた凱歌のあしおとが近づいて来つつあった。――都門還幸の後醍醐(ごだいご)の龍駕(りゅうが)であった。
 路次の日誌によれば。
 さきに伯耆(ほうき)の船上山(せんじょうせん)を立たれた帝の瑶輿(ようよ)(こし)は日をかさねて、二十七日、播磨(はりま)の書写山(しょしゃさん)まで御着(ごちゃく)。
 あくる二十八日は、法華山へ行幸(みゆき)され、あとは一路いそいで月のすえ三十日、兵庫(ひょうご)の福厳寺(ふくごんじ)につき、ここで中一日は御休息あったとある。
 しかし、それはただ単なるお泊りだけのものではない。
 新田義貞からの早打ち――鎌倉大捷の上奏文――をたずさえた急使、長井六郎、大和田小四郎のふたりは、福原(神戸)の道で鹵簿(ろぼ)の列に会し、思わず供奉(ぐぶ)の前列へ走りよって、
「これは東国の新田小太郎義貞より遣(つか)わせられた急使の者です! 一刻もはやく奏聞(そうもん)にとの主命により、いそぎのぼってまいりました。――路傍ながら御侍者(ごじしゃ)まで!」
 と、大声で言ってぬかずき、先駆から後列の公卿たちまでを、びっくりさせた。
 とりあえず、福厳寺に入り、庭上の二使から正式に新田の羽書(うしょ)(軍の急便)の捧呈をうけた。そして公卿はこれをすぐ、叡覧(えいらん)にいれたのだった。
 まもなく。御座(ぎょざ)のあたりから、御喜悦と感動に震(ふる)うお声がもれ、それはすぐ供奉(ぐぶ)の全員にも狂喜の渦をよびおこした。せつな福厳寺の内外は、わきかえるような歓声また歓声だった。
「鎌倉は陥ちた!」
「高時も自害とあれば」
「いまは六波羅もなし、東国の府もほろび、全北条は、地から消えた」
「しかも、還幸のご途上に、この吉報がとどくとは」
「去年の三月には、みかどの隠岐遠流(おきおんる)を、人みな、ここでお見送りして悲しんだものだが」
 口々の昂奮はやまず、どよめきはいつまで醒(さ)めなかった。――また後醍醐のお胸もこれに表現されていたといえよう。こうも早く鎌倉が陥ちるとは、まだまだ予期されていなかったことである。配所の一年余、隠岐脱出の苦難、思い出はつきあげて、おん瞼はふと熱かったに違いない。……すぐ三位ノ局廉子(やすこ)もこれを聞くやいなおそばへ来ていた。
 また、同日。
 赤松円心父子(おやこ)四人が、勢(せい)五百騎で、奉迎のお供にと、福厳寺へ参向(さんこう)してきた。折しものことである。龍顔わけてうるわしく、
「かかる日に会しえたのは、ひとえに汝らの忠戦の功による。いずれ恩賞は望みにまかすぞよ」
 と、朗々としたおことば。将士へも、賜酒(ししゅ)があった。
 この晩、たれにもまして、もて囃(はや)されたのは、新田の使者の二人だった。野営の庭では供奉の将士から酒攻めの果て、胴上げされんばかりな騒ぎ。これさえホホ笑ましくお聞きあるのか、御簾(ぎょれん)のあたりのお叱りもない。そして鶏鳴(けいめい)早くも、いよいよ都入りのおしたくに忙しかった。
 還幸の途々は、伯耆(ほうき)いらい、ここまでも、たいへんな列伍(れつご)だった。
 頭(とう)ノ大夫行房と、勘解由(かげゆ)ノ次官光守は、衣冠すがたで、馬上。ほかの公卿官人はみな、騎馬戎衣(じゅうい)(軍装)で供奉についた。
 出雲の守護、塩冶(えんや)判官高貞も、国元兵をつれて、前駆の役をつとめている。朝山太郎は五百騎で後陣にしたがい、金持(かなじ)大和守は、錦の旗を捧持し、また、伯耆守名和長年は、
 帯剣の役
 といって、主上のすぐそばに騎馬を打たせ、
「途上、万一でもあらば」
 と、警固のまなこをくばって行く。これは名誉第一の役目らしい。
雨師(ウシ)、道ヲ清メ
風伯(フウハク)、塵(チリ)ヲ払フ
 と、古典の形容も過大ではなかった。
 ゆらい沿道の行粧に、威儀や綺羅をたっとぶ風は、古い王朝ほどうすく、時代がさがり、乱に乱をかさね、世間の瞼が、権力のまばゆさを覚えてくるほど、それはものものしい故実(こじつ)を積んで人心収攬(じんしんしゅうらん)の演出を、諸民のなかに凝(こ)らしてみせた。
 まして、今日はだ。
 つい一年前には、囚人輿(めしゅうどごし)で隠岐ノ島へ送られた道を、この還幸となったこと。――この日、六月二日には、赤松円心の五百騎もお供に加わったから、その行列は、福厳寺の門を出るまでもずいぶん時間を要したであろう。大納言ノ局、三位ノ局廉子(やすこ)など、隠岐このかたの、妃(ひ)たちもお連れなのである。
 廉子は、昨夜らい、
「こういう時にこそ、かえって一時のお疲れが、どっと出ぬでもありませぬ。なるべく朝は朝涼(あさすず)のまに、お道をすすめ、京もはやとて、おいそぎなく」
 と、それのみでなく、こまかいご注意をすすめていた。そのいそいそしさ、良人の晴れの日を見た糟糠(そうこう)の妻(つま)の風がある。
 中一日の御逗留のまに、
「御衣(おんぞ)もこれでは。……お帝冠(かんむり)も、ま新しいのに」
 と、お身まわりから、乗車のさしずまで、行房をつうじて、一切のきりもりしていた彼女は、当然、自身の后車(きさきぐるま)やら身粧いにも、細心な装いを忘れなかった。それだけを見れば、あたかも、彼女自身の凱旋を、彼女がときめいているようだった。あるいは、こういう日の誇らしさに酔うことは、女人のほうが数倍かもしれなかった。なにせい、今朝の阿野廉子が、軍兵環視の中を、車御簾(くるまみす)のうちにかくれた姿には、もう島窶(しまやつ)れの翳(かげ)もなかった。
 輿(こし)はすて、みかども、妃たちも、ここからは牛車となられたわけである。――そして朝霧もまだほの白いうち、兵庫をはなれて来たときだった。前駆の塩冶判官(えんやほうがん)が、駒を返して来て、
「頭(とう)ノ殿(との)、頭ノ殿」
 と、行房へ告げていた。
「ただいま、行く手の先に、河内の楠木多聞兵衛(たもんびょうえ)正成が、家の子郎党をつれ、お迎えにと、これへ馳(は)せ参じてまいりました。――後陣に加えましょうか、そのまま、先を打たせて進ませましょうか」
 すると、行房の答えも、その奏聞(そうもん)もまたず、み車のうちで、後醍醐のお声がした。
「なに。河内の正成がこれまで来たとか。……車を止めい。そして、まずは正成一人に、ここへと申せ」
 正成は、西の宮へ、今朝ついたばかりであった。「何は措(お)いても……」と急遽、参向(さんこう)したのであろう。千早の籠城半年余の囲みが解け、死中に活をえたのも、つい二十日前のことでしかない。
 だから曠(は)れの凱旋の鹵簿(ろぼ)をお迎えに――と、これへ来ても、正成はじめ、弟の正季(まさすえ)、一族すべて、特別、身にかざる綺羅(きら)なよろい太刀や行粧などは持ち合せていなかった。錣(しころ)のボロを縫い、具足の破れをつくろい、ただ肌着を清めて来ただけの姿なのだ。――古典によれば――正成七千騎ニテ参向、ソノ勢(ゼイ)、殊(コト)ニ由々(ユユ)シクゾ見エタリ――とあるが、彼自身も以下の兵も、みな見じめな身なりで、しかもその大半が、まだ飢餓線上からよみがえったばかりの顔いろの悪い者やら、負傷者であったはずである。
「お召ぞ」
 との伝令で、彼は歩いて、一人、み車立ての方へみちびかれて行ったが、気がつく者があれば、正成自身もすこし跛行(びっこ)をひき、その頬肉のソゲも、他の諸大将の比でない窶(やつ)れ方と思われたにちがいない。
 だが、衆目はそう取らず、かえってべつな思いをしたかもしれないのだ。「……これが百七十余日、敵数万の包囲の中で、千早の孤塁(こるい)をささえて来たあの大将か?」と、その風采や太刀粧いの見すぼらしさに、ふと軽侮に似た案外な容子(ようす)を、露骨にただよわせた人々もなくはなかった。
「……おん前に」
 正成は言って、み車の轅(ながえ)の下に坐り、地へつけた両肱(りょうひじ)と平行に、かしらを低く垂れていた。
「楠木か」
 と、後醍醐は、み車のすだれを掲(かか)げ、乗り出すように下を見て。
「……やれ兵衛(ひょうえ)、よく見えたの。思えばまた、よくも再会しえたものよな」
「はっ」
「笠置(かさぎ)いらいか」
「は」
「そうだったな」
「御意(ぎょい)にござりまする」
「茫(ぼう)として、遠いむかしのようだし、つい昨日のようでもある」
「…………」
 正成は、ご感激にこたえて、何か言上せねばと思い、また、およろこびを述べるべきだとも知っていたが、何も口に出なかった。河内の片すみにある一土豪に過ぎぬ身が、伝奏も経ず、じきじきなお答えなどはどうだろうか。そんなためらいも交じっているまに、後醍醐のほうは、溢れる感激のままに叡慮余すなく吐いて。
「兵衛(ひょうえ)。そのほうの終始変らない忠誠は忘れはおかぬぞ。そのほうなくば、今日の還幸は見ることもできなかったろう。回天の業も夢に終っていたかもしれぬ」
「…………」
 正成の顔が、地を濡らしているふうだった。その破れ烏帽子が、ふるえて見えた。
 後醍醐は、凝視のまま、ここで彼へも他の武将なみに、よく仰っしゃることを、仰っしゃった。
「いずれ恩賞は望みにまかすぞ。沙汰を待て」と。
 次に。供奉(ぐぶ)の公卿へむかって、
「兵衛の勢(せい)は、列の先に立たせ、都入りの前陣を勤めさすがよい」
 とも直命された。
 正成は、面目をほどこした。恩賞そのことよりも、彼には、その直命が、ありがたかった。千早百日の苦闘も今一瞬にむくわれた思いがしていた。
 西の宮から先、鹵簿(ろぼ)は、正成以下の畿内(きない)の兵数千が露ばらいして進み、六月五日の夕、東寺(とうじ)に着いた。
 ここでお待ちしていた洛内軍には、千種(ちぐさ)ノ中将忠顕(ただあき)があり、足利高氏、弟直義(ただよし)も見えている。
 中でも一トきわ目についたのは、佐々木道誉の黄母衣(きほろ)組の美々しさだった。彼も急遽、近江からこれに会して、
「足利と共に力を協(あわ)せ、六波羅攻略の大功を仕遂げし者」
 と称(とな)え、また高氏もそれを称揚して、共々、曠(は)れの御車(みくるま)迎えに来ていたのだった。
「……あの、道誉か」
 と、後醍醐のご記憶にも、彼の特有な人間臭が、忘れえぬものとしておありらしく、謁見(えっけん)の庭、夜の賜酒(ししゅ)にも、道誉は加えられていた。
 何しろ、これまでは、いわゆる大覚寺統の――後醍醐方の公卿と忌(い)まれて――逼塞(ひっそく)していた公卿ばらも、みな旧衣冠を新たに着けて、どこからともなく、ぞくぞくここに参集していた。よくいう、
 蛇(ヘビ)、穴ヲ出ル
 の趣(おもむき)にも似て。――前(さき)の摂政ノ関白太政大臣から、左右の近衛(このえ)ノ大将、大納言、八座の公卿、七弁(べん)の高官、五位、六位の蔵人(くろうど)、諸司(しょし)の宮人までが、むらがり寄って来たのである。まことに御稜威(みいつ)というものか。はた、あさましい人心というべきか。とにかく、世態一変の観がある。
 明くれば、六月六日。
 東寺から二条里内裏(さとだいり)までの行列は、荘厳をきわめていた。
「増鏡」はその壮大な列を写して、
 ――先陣は二条富ノ小路の内裏に着かせ給ひぬれど、後陣の兵どもは猶、東寺の門を離れずとも聞えし……
 と、いっている。
 また、この日の、
 帯剣の役
 は、名和長年に代わって、千種忠顕(ただあき)が勤めた。
 公卿にして実戦も経てきた忠顕にすれば、今日の曠(は)れに、この名誉第一の役を、他の一武臣などに委(ゆだ)ねてはおけない気概だったものだろう。
 そして鳳輦(ほうれん)(みくるま)のすぐあとにつづく近衛(このえ)の儀仗(ぎじょう)には、足利高氏、直義(ただよし)の兄弟があたり、さらに赤松円心の千余騎、土居得能(とくのう)の二千、結城(ゆうき)、長沼、塩冶勢(えんやぜい)などの数千騎が、果てなくお供にしたがって、沿道は、数万の見物が押しあいへし合い、その盛観と、洛中の人出は、古今未曾有(みぞう)なものであったといわれた。
時まだ非常の中なればとて
路次の行粧
行列の儀式
前々の臨幸(りんかう)と事替(ことかは)つて
百司の守衛(まもり)
すべて厳重を極めたり
 つまりは、朝儀にしてまた軍国的でもあったことか。とにかく万歳の声沸(わ)くばかりなうちに、還幸のほこりは、やがて二条御所の内裏(だいり)深くにしずまった。
 ところが、ここに。
「はて?」
 と諸人をあやしませていたことがある。当然、率先して、父君のこの還幸をお迎えに出ていなければならないはずの大塔ノ宮が、信貴山(しぎさん)の毘沙門堂(びしゃもんどう)から降りても来ないことだった。

 平和は回(かえ)った。市(いち)はひらかれ、諸国の商人もどっと入って来て、万戸(ばんこ)の賑わいに、
「やれやれ、やっと、陽の目が見られた……」
 と、その日暮らしの貧者までが、心の底から涙していた。無条件に、ただ平和だけが、彼らの待っていたものだったのだ。
 それほどな今なのに。
 なぜか。この平和に、不服らしいお人がいる。大塔ノ宮護良(もりなが)親王のご態度である。それはたれにも解(げ)せないものに見えた。
「信貴山といえば、つい洛外においでなのに」
「どうして、宮だけは還幸の日にもお見えあらず、以後も山から降りて来られぬのか?」
 人々の揣摩臆測(しまおくそく)は、一日ましにたかまっていた。――ここ数年、ご父子は遠く別れあって、流離艱難(かんなん)、ただ今日のために戦って来られたものであろうに、なぜ、何はおいても、
 お顔だけでも。
 と、父皇のもとへ奔(はし)っては来られぬのか。それが人の子のあたりまえな姿だろうに、何がそこまで宮をして頑(かたく)なにしているものか。
 これは、後醍醐にとっては、ご帰洛後まず第一の、お胸のつかえだったに相違ない。というよりも、ご心中穏やかならぬものさえあろう。――なぜなれば、信貴山毘沙門堂(びしゃもんどう)の陣所では、いぜん武士を募(つの)り、軍の装備も解かず、戦気烈々であると一般にいわれているからだった。
「なにが不服?」
 後醍醐にも、子の拗(す)ね心(ごころ)は、おわかりにならぬらしい。それだけでなく、帝には、当面の政務も山ほどある。いや理想の天皇親政が始めらるべき第一歩のいまなのだ。
 すでに、勅命して。
先ノ光厳院(クワウゴンヰン)ノ朝(テウ)ヲ廃ス
 また。
先ノ朝ニテ仮称セシ「正慶」ノ年号ハ停止(チヤウジ)スル
 などの発布(はっぷ)はすましておられたが、なおさしあたって、楠木正成、名和長年、足利高氏、新田義貞、赤松円心、千種忠顕、北畠親房、等々、あまたな公卿武士らの殊勲者にたいしては、それの論功行賞も、目前の懸案として、さっそく公布のはこびをつけねばならない。
 まさに、あれやこれの、最中(さなか)なのである。ご焦慮(しょうりょ)もいちばいだった。ついに、右大弁(うだいべん)ノ宰相(さいしょう)清忠を召されて、
「使いにゆけ」
 と、命ぜられた。
 信貴山の宮の陣へである。
 おことばは、こうだった。
「――天下騒乱の間こそ、宮も還俗(げんぞく)して、法衣をよろいにかえ、三軍のあいだに立つようなことも、ぜひない儀であったが、いまや北条氏も仆れ、世間、静謐(せいひつ)となったうえは、その必要もない。――また元のごとく剃髪(ていはつ)の姿に帰り、門跡(もんぜき)の位置におさまることが望ましい。さように宮へ、すすめ申せ」
 清忠は、勅をかしこんで、さっそく、信貴山へ登ってゆき、親しく、大塔ノ宮に謁(えっ)して、お胸どおりを、つたえ上げた。
 すると、宮は、
「はッははは。は、は、は」
 と、仰ぐがごとく、大きく笑った。
「なんと。この護良(もりなが)へ、頭をまろめて坊主になれとの仰せというか。……そしてまた、乱(らん)となったら、またぞろ髪を伸ばせばよいとの、お沙汰であるか?」
 もとから、らいらくで、豪放な宮ではあった。
 だが、それに輪をかけたお変りように、宰相(さいしょう)ノ清忠は、きもを恟(すく)めた。――が、勅のお使いである。あくまでつつしんで。
「……これは、お戯(たわむ)れを」
「戯れではない」
「では、ご得心あそばしましたと、ご奉答申しあげても、およろしゅうございますな」
「清忠っ」
「はっ」
「和郎(わろ)は、どこに耳をもっているのだ。たれが、ふたたび坊主に還(かえ)るなどということを、承知したか」
「はい」
「よく聞け。――この護良(もりなが)が還俗(げんぞく)して、仏手(ぶっしゅ)に干戈(かんか)を取ったのは、遊戯ではないのだぞ。そのほうらにも、父の皇(きみ)にも、いっこうわけの分らんところがある」
「と、仰せられますのは」
「なるほど、北条は亡んだ。しかしもう次の北条ができかけている」
「異(い)なおことばを」
「奇異にひびくのか。こんな当然な言が。……還幸(かんこう)、新政、そんな祭り騒ぎに万人酔うている様(さま)こそ心もとない。くれぐれ、護良が嘆いておりましたと、父の帝(みかど)へ、聞え上げい」
「では、ふたたび沙門(しゃもん)へ還(かえ)るお心は」
「ない!」
 大塔ノ宮は、二度いうなと、叱るような語尾を切って。
「老後は知らず、いまにおいては、せっかく蓄えたこの黒髪を、あたら再び剃(そ)る気はない。……と、ばかりでは、叡慮にたてつくまろの依怙地(えこじ)のように取られもせんが、世を思うためだ。また、ここまで剋(か)ちとってきたご理想の具現をふかく憂えるからだ。もう次の高時が洛中に驕(おご)っておる。――第二の高時、第三の高時、総じて、不逞なる仮面の敵を、誅罰(ちゅうばつ)しきらぬうちは、この信貴山(しぎさん)毘沙門堂(びしゃもんどう)の軍はめったに解くわけにはゆかぬ」
「それはそも、たれをさしての、お憤(いきどお)りでございますか」
「高氏よ」
「えっ」
「六波羅一掃(そう)の後、おのれ六波羅奉行と称(とな)え、御教書(みぎょうしょ)などを布令(ふれ)だし、かずかずの越権、目にあまるものがある。――その足利こそ油断ならぬ者だ。しかるに、みかどはその高氏を、さっそく治部卿(じぶきょう)の官にあげられ、弟直義(ただよし)をも、左馬頭(さまのかみ)に任じておられる……。まるでもう新しい宮門へ、先に邪神(まがつび)を入れているようなものよ。おろかさ、物騒さ、見てはいられようか」
「…………」
「清忠、まろの顔を見て、何をあきれ、何をかおののく? ……。とまれ、まろは坊主にもならん、軍も解かん。おこたえは、これだけぞ」
 坊門ノ宰相清忠は、そうそう下山して行ったが、途中の輿(こし)のうちでも、瘧病(おこり)に罹(かか)ったような気(け)だるい熱ッぽさを持ちつづけて帰った。
 ――このうえまだ、合戦再発のいぶりを思うなどは、思うだけでもやりきれたものではない。
 さらには、こんなことを、いかに大塔ノ宮のご真意にせよ、そのまま奏上したものかどうか。彼は大いに迷い悩んだが、嘘を作るわけにもゆかない。やがて簾下(れんか)にありのまま伏奏(ふくそう)していた。
 高氏を憎み、また高氏の越権をあげて、
「彼こそは、第二の高時だ」
 と、いったという大塔ノ宮の弾劾(だんがい)は、宮中をおどろかせた。
 蔽(おお)いえないご困惑をみせたのは後醍醐だった。復位早々の政治始めに、ゆゆしい難障害を見たわけだし、しかもその一投石は、わが子によってなされたのだ。当然な親心というものもある。
「……他言すな、清忠。ここに居あわす諸卿も、同様に」
 と、清忠の復命は、一切、かたく口外を禁じられた。
 内々のご評議やら、またこれを父のお立場から、准后(じゅんごう)の阿野廉子(あのやすこ)にもおはかりになった結果か。――再度、坊門ノ清忠が信貴山の宮に謁(えっ)して、
「何はあれ、こうしておいで遊ばしては、世間沙汰もおもしろからず、ふたたび人心が揺れ出しては一大事です」
 と、切になだめ、
「高氏のことは、仰せなくとも、主上にも内々はおふくみのことでもありますれば……」
 と、具体的な案をも出して、さまざま、宮の言い条を解きにかかった。――すなわち、大塔ノ宮の僧門復帰は、これを取消し、そして宮がひそかに望んでいた兵馬の権――征夷大将軍の職――に任じようというのであった。
「ならば」
 と、宮もやっと、その条件の下に、
「これ以上、父の皇(きみ)のお立場を、お困らせしても悪しかろうで」
 と、洛内入りに同意をみせた。
 ご気性、爽(さわ)やかなところもある。交渉が成り、それでお胸も溶(と)けると、宮はからからと打笑うのであった。
 ――戦乱二年、吉野の奥から高野(こうや)、十津川と、山野に臥(ふ)して、郷士竹原六郎の娘を妃とし、野武士や山伏の徒とも、膝ぐみになって、秘策をかたらい、自身陣頭にも立ってきた宮である。――もうまったく宮廷人の風ではない。猛獣使いではあっても、かつての御門跡の宮ではなかった。
 そのうえ、天下の武士は、宮の令旨(りょうじ)によってもうごいた。新田義貞はもちろん、正成すらも、指揮下の一将校と見ておられた。いわんや、足利ごとき者をやである。「……なんの、寝返り者が」と、蔑視(べっし)のお心すらなくはない。宮直参の諸将もまた、口々に宮へおもねる。自然、この宮将軍のお耳には、戦後の高氏の行動が、いちいち人もなげなものにみえた。いまを利して、自分の上にも超え出ようとしている覇者(はしゃ)と、彼を注視していたのだった。
 たとえば、一事例だが。
 ここの殿(でん)ノ法印良忠(宮の股肱(ここう)の臣)の部下が、焼けあとの市中の土蔵から財宝を持ち出そうとして、市中取締りの篝(かが)り屋(や)武士に捕まッたことがある。
 使者が行き、良忠が行き、なんどとなくその釈放を、足利方へかけあったが、足利方では頑(がん)として解いて帰さず、しかも六条河原でみな首斬ッてしまったのだった。そのうえ、いかに見せしめとはいえ、「――宮将軍内方(うちかた)の兵」と、高札にまで公示したので、殿ノ法印が怒ッたのはもちろん、宮もそのときは、じつにいやなお顔をした。それ以来、足利といえば「――這奴(しゃつ)か!」というほどなお口吻(くちぶり)にもなり、事は瑣末(さまつ)だが、解けないしこりとなっていた。

 宮が、信貴山をくだって、いよいよ入洛されたのは、六月十三日。その下山の日の行粧も宮らしかった。
 赤橋則祐(そくゆう)が千余騎でその前陣をうけたまわり、二番陣は殿(でん)ノ法印、三番には、四条隆資(たかすけ)の五百騎、四番には中院ノ定平が八百余騎をひきい、宮の親衛隊には特に屈強(くっきょう)な精兵五百人が、すべて長やかな帯刀で、二列にそろって進んで行った。
 思うにそれらは、かつての熊野山伏の徒だの、また十津川、吉野いらいの、木寺相模、矢田彦七、平賀三郎、野長七郎、岡本三河坊といったような直参(じきさん)中の直参たちか。
 そして、大塔ノ宮ご自身は。
“白石毛”とよぶ白馬にまたがり、赤地錦の直垂(ひたたれ)に、緋(ひ)おどしのよろいを着、兵庫グサリの丸鞘(まるざや)の太刀をはき、重籐(しげどう)の弓をお手に、鵠(こう)の羽(はね)の征矢(そや)をえびらに負っておられたという。
 いかにも、宮将軍らしいお好みだ。
 沿道には「増鏡」の筆者のような目撃者もいたことだろう。このいでたちの宮の姿は、よほど都人士の目をそばだてさせたことらしい。その英姿を称(たた)えるとも怪しむともつかない※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)きが諸人の間に流れていた。
「えらいお変りようじゃな」
「まこと眉目清秀(びもくせいしゅう)の好丈夫」
「まだお年も二十七。天台座主(ざす)であるよりは、やはり馬上青春のほうが、ご気性にかなっているのか」
「いや、お似合いでもある。あの馬上凛々(りんりん)なお勇ましさのどこやらは」
 宮が過ぎると、後衛の軍には、千種忠顕(ちぐさただあき)が、一千余騎で、炎日の下をつづいて行った。
 かくてその日、父皇後醍醐とのご対面は、とげられた。
 これで、巷の揣摩臆測(しまおくそく)も、一掃されていいはずである。一般の疑いも解けたはずだ。
 ところが、じっさいには、かえって逆な反応をしめしだした。民衆はもう感じとっているのである。彼らは上層の機微など何も知らないし、論理的に事を考えるわけでもないが、本能的に、本源的な発生の法則を知る能力の持ちぬしだった。
「ここ六波羅の足利どのは、川の向うで、しいんとしてござらっしゃるが?」
「どうなろう? 宮将軍と」
「いや、むずかしいことになったぞ。兵馬の権とやらは宮のお手に収められたが。……黙っていようか、一方で」
「それよ。足利どのの勢力が増さぬうち、あの一勢(ぜい)は、ぶち潰(つぶ)すとか宮の武士はいっている。……ゆうべも、殿(でん)ノ法印の家来衆が、辻の小酒屋で言っておった」
 こんなあいだにも、二条の皇居は、日々入る吉報にのみ酔っていた。
 九州からの早馬は、五月の末、九州探題の北条英時が、少弐(しょうに)、大友の兵に攻められて滅亡をとげたと報じ、長門の探題北条時直も、おなじころ、宮方軍の殲滅するところとなり、そのほか、北陸北越、諸所の北条代表の武族も、降伏、あるいは火中で自刃し去るなど、一報一報の捷報がきこえるごとに、
「めでたい」
「万歳」
 と、公卿ばらは、有頂天(うちょうてん)になって、乾杯のどよめきをあげ、そして、足もとの不穏には、おおむねたかをくくっていた。

「また、犬神憑(つ)きか」
「違う、違う。喧嘩らしい」
「ならば、ほぼ似たようなものじゃないか」
「いや、武者の喧嘩は気狂い以上だ。そばづえ食うな」
 ぼつぼつ、小屋がけも見え出しているが、鎌倉はいぜん広い焦土の炎天だった。
 良水に乏しい土地なので、清水のわき出る所には、戦後、水茶屋なるものができ、天草(てんぐさ)で作った心太(ところてん)や、甘(かん)ぞうを入れた甘露水などを売っていたが、それでは金がさにならないので、多くは、怪しげな女が地酒を冷やしてひさいでいた。
 こわい物見たさの人だかりは、さっきから、そこの軒ばの日除(ひよ)け棚をへだてて蠅のむらがりみたいに騒いでいたが、そのうちに、
「わっ、出て来た」
「抜くぞ」
「あぶないっ」
 と、遠くへ逃げ退き、そのくせ、六月の陽の直射もわすれ、なお、事の成りゆきに、弥次馬心理をわかしていた。
 どん! と屋の内の腰かけから突き飛ばされたものだろう。ふいにいま、ひとりの軽武装した若侍が、軒先から泳ぎ出してきたと思うと、見事二つ三つ、地面をころがって、起ち上がった。
「やりおったな!」
 と、踏み直って、内へどなると、つづいて胴巻いでたちの武者二人が、
「おおっ、やったがどうした。いまのごとき広言を吠(ほ)ざくなら、鶯谷(義貞の陣営所)へ来て吠ざくがいい」
「さあ、歩け歩け」
 と、軒ばをはなれ、さらに若侍の肩を、も一つ強く突こうとした。
 若いほうは、肩をひねって、
「くそっ」と、反抗を研ぎ「おれは足利殿の家来だ。なんで新田の陣所へなど曳かれようか。のみならず、よくもいまは、辱(はずかし)めたな」
「あたりまえだ」
 新田の武士は、年も身分も上なのだろう。意識的な挑発かと見えるほど傲岸(ごうがん)だった。
「この若造めが、たわ言もほどにしろ。昼酒くらって、足利若御料(わかごりょう)の礼讃(らいさん)はまア笑止(しょうし)ながら聞き捨ててもおこうが、鎌倉入りの大合戦は、ひとえに、若御料(千寿王)の参陣があったからこそ勝ったのだと吐(ぬ)かした雑言(ぞうごん)だけはききずてならん。――まるでわが新田軍は、なきかのごとくに」
「いやないとはいわぬ。ただ新田だけの軍功ではないと話していたのだ。もし若御料の御旗が加わっていなければ、関八州(かんはっしゅう)から東北の武者までが、かほどまでには馳せ集まるまい――といったのが、どうして悪い」
「だまれっ、たかだか数百の小勢をつれ、鎌倉入りの途中で入って来た洟(はな)タレ御料の陣借り者が、なんであの凄まじい激戦に寸功(すんこう)でもあったといえるか」
「なに、洟タレ御料だと」
「まだ四ツか五ツの御料なら、そう申しあげてもよろしかろう。いわば陣中のやッかい者だ。それを粗略にもせず、足利御名代としておくのも、まったくわが殿義貞さまのお情けだわ」
「うぬ、もういちど申してみろ」
「何を」
「いまの悪(あく)たれを」
 と、若いほうは、蒼白になった。たしかに昼酒の気(け)もみえる。
 とかく民間の戦後人気といったようなものが、まだ子供の、足利若御料のほうへのみ傾いて、鎌倉入りの大戦が、いかに新田軍一手の功にあったかを、庶民もよく知ってないようなのだ。――そこで彼らは、この機(しお)とばかり、まわりに見える弥次馬へも、演舌するような口調で、足利若御料の周囲を漫罵(まんば)したあげくに、
「不服か」
 と、相手の若い真額(まびたい)をにらみつけ、
「だから歩けというのだ。その不服を聞いてやるから、鶯谷のご陣所まで来いというのが分らんか。……どうした、若造。足がすくんで動けぬのか」
 と、背を突いた。
 そして、また小突き、また小突きに、若いほうの体が二十歩ほど前のめりに泳いだせつなのことだった。奮然と、若いほうが、身をよじり返して何か一声吠えたと思うと、すでに一方は斬られていた。――仰天して、抜き合わせたあとの一人もまた抜く手を過っていたものか、
「うッ」
 と、相手のすばやい太刀にどこかを薙(な)ぎられ、
「逃がすな」
 と、だけは聞えたが、体は朱(あけ)になって仆(たお)れていた。
 わっと、弥次馬は、埃(ほこ)りをあげる。こんな喧嘩は毎日なのだ。だが、今のは酒の上や女沙汰でなく、双方が主名を称(うた)ってやった喧嘩だけに深刻だった。たちまち屯々(たむろたむろ)の武者が駈けつけ、二人を斬ッた若いほうを包囲した。――一方の軽武装した若侍は、まだ逃げもせず、血刀をさげて茫然と立っていたから、すぐ新田兵の怒りの中に押し揉(も)まれつつ、鶴ヶ岡の内へ拉致(らち)されて行った。
 その日の夕である。
 義貞は、柱にもたれて、独り蜩(ひぐらし)の声に目を塞(ふさ)いでいた……。
 ここの鶯谷は日蔭が早い。鶴ヶ岡の元神官屋敷そのままの営所で、まだ新田の館(たち)というものを、他に新築しようとしてもいなかった。
「いずれは、ここに腰をすえてもいられまい」
 彼の注意も、また志向も、たえず中央の牽引力(けんいんりょく)といったようなものに、ひかれていた。
 これは武士ほとんどの気もちでもある。ここの焦土からは何の軍功の褒賞(ほうしょう)も得られはしない。恩賞として、土地の分けまえを貰うのも、官位や職にありつくのも、すべて中央から出るものだった。
 高氏はその都にいる。
 義貞は心やすらかでいられなかった。ひたぶるな鎌倉攻めを戦って、そして勝って、いま、甲冑(かっちゅう)を白い衫衣(すずし)に脱ぎかえ、蚊やり香の糸に閑(しずか)な身を巻かれてみると、あだかも血の酔いから醒めたような、むなしいものだけが心に澱(おど)んでくるのだった。――こうしている間に、高氏にしてやられそうな、焦慮に駆られずにいられない。
「……?」
 ふと、そのうちに、彼は柱から背を離した。手の唐団扇(からうちわ)で蚊うなりを一つ払って。
「たれかおるか」
 すぐ、次の廊口で、
「はっ、新兵衛これにおりますが」
「なんだ、表のあの武者声は」
「ただいま、ご舎弟も見にゆかれましたが、何やら、ご家中の血気者が物具(もののぐ)取って、扇(おおぎ)ヶ谷(やつ)へ仕返しに行くとか、いや先から襲(よ)せて来るとか、ただ事ならぬ騒ぎのようにござりまする」
 義貞は怒って「そんなことを目企(もくろ)むやつは誰か」と、つぶやき、
「――新兵衛、すぐ行って、しずまれと申せ。しずまらぬやつは、厳罰にする」
 と、先へ走らせ、自身もすぐあとから、武者どもの沸(わ)きたっている表門に近い中門ノ廊の端まで出て行った。
 そして、弟の脇屋義助を呼びつけ、昼の喧嘩のいきさつを訊きとっていたが、それが判ると、彼はなおさら彼の神経質らしい半面をみせて、きびしく、門外の動揺へ、こういわせた。
「仕返しに行くなどは、もってのほかだ。もっとも、こちらで捕えた殺人の下手人を、足利家の方から腕ずくで取り返しにでも来たのなら、応戦もまたぜひはない。しかし噂ぐらいで、われから押し襲(よ)せてはならん。かまえて、ならんぞ」
 これでやっと夕の一ト騒ぎもやみ、篝(かが)りも暑い夏の宵になりかけていたが、下部の兵らは、いぜん警戒を研(と)ぎすましているふうだった。
 元々、新田と足利とは、
 犬と猿だ
 と世間もいっているほどだが、鎌倉入りの目標だけには、それが完全な一つにうごいてきた。けれどその目的をとげ終るやいな、勝者と勝者の仲は、また元の水と油の遊離をさっそく見せだしていた。今日の家士同士の喧嘩などは、ほんの一例でしかなく、その確執(かくしつ)は、もっと遠い日からの、根元的なところにあった。
 たとえば、昨今、足利方の士気を極度に刺戟したこんな風説などもある。
 すぐる日のこと。
 義貞は、鶴ヶ岡若宮の拝殿のまえで、敵方の首実検をおこなった。――これは事実である。――だが問題はそれではない。それのついでに、神殿を打ち破って、宝物庫を調べたところ、錦の袋に入った一旒(ひとすじ)の旗が出てきた。まぎれなく、それは源家の祖八幡殿が、願文とともに納めた旗らしく思われたが、あいにく紋は二引両(にびきりょう)(足利の定紋)であって、新田家の中黒(なかぐろ)ノ紋(もん)でなかった。で、彼は不きげんな色になって、
「かような古旗は、当家にとって用もなし、ここの宝物としておくにも、おかしなものだ」
 と、首洗い池へ捨てさせたとか、足のさきで蹴ったとか、とにかくそんな風聞も一ト頃、足利方の士を、いきどおらせていたのであった。
 だからややもすれば、今夕のように、根底にあるその対立感情がすぐ“一触即発(いっしょくそくはつ)”の危機を孕(はら)み出(だ)すのであったが、さいわい、その晩は何事もなくすんだ。そして翌朝のことだった。
「来たぞ」
 大鳥居の前にいた哨戒の兵は、大声で営内の将へ知らせていた。
「扇(おおぎ)ヶ谷(やつ)の細川三兄弟が、三人打ちそろって、これへまいる様子です」
「さては、きのうの懸合いだな。人数は」
「いや少々の郎党だけで、べつに隊はひきいておりません」
「なんのこッた。それならさして騒ぐこともないわ。立ち騒いで逆に笑われるな」
 義貞は、奥でこれを聞き、座を設けて、努めて平静に、三人が通されて来るのを待っていた。
 細川三兄弟のその朝の義貞訪問は、いったい何のためだったのか、窺(うかが)い知ることもできなかった。
 客院では、主客の歓談だけが聞かれて、終始、予想されていたようなけわしい空気はどこにもないのだ。
 その上、午(ひる)ともなると、
「まあ、よかろう」
 と、義貞の方からひきとめ、
「これでしばらくお目にもかかれぬのだ。袂(たもと)を分つと申しては不吉(ふきつ)めくが当分はまずお別れ……。陣中何もないが」
 と、酒飯(しゅはん)を出して、もてなすなどの有様だったし、和氏(かずうじ)らが帰るさいには、脇屋義助をよんで、きのう新田方の武士が拉(らっ)して来た喧嘩相手の若侍の身を、
「何も申さず、水に流して、お返し申せ。……処分は細川どのに委(まか)すべきだ」
 と諭(さと)して、それすらも解き渡して帰したのだった。
 しかし、あとは騒然となった。それを不満とする下部の将士の声である。わけて脇屋義助は、昨夕彼らをなだめていただけに、彼らの声に突きあげられる立場にもあったし、また、兄の解(げ)せない態度には、いぶかり以上なむかつきをすら覚えて、
「兄者! なんで」
 と、すぐそのあとで、義貞へつめよっていた。
「まるで卑下(ひげ)ではありませぬか。なぜ足利方へ、あのような」
「いや、ここは仕方がない。がまんのしどころだ。高氏(たかうじ)の策(て)に乗ってはなるまい」
「高氏の? 高氏はこの鎌倉にはおりますまいが」
「さればこそだ。そちには高氏の腹が読めぬとみえる。……高氏にすれば、この義貞をいつまでも鎌倉へおいて、自身中央にある位置を利とし、すべての功を、おのれひとりの手に収(おさ)めようとしているものに相違ない」
「ですが、北条幕府にとどめを刺した新田家の大功は、世上隠れもありません。いくら高氏が朝廷に策動しても、よもや当家の軍功を、足利以下とは、衆目がいたしますまい」
「いや、そうとばかりも楽観はしていられぬ。都の近状やらまた大塔ノ宮のご消息などうかがっても」
「何か、宮の御状があったのですか」
「殿(でん)ノ法印の一状がこれへとどいておる。それによれば、宮すらも、高氏の都における権勢ぶりには、油断ならずと仰せあって、いまのうちに彼の頭を抑えておかねばなるまいと、深くご警戒なされておられるそうな」
「なるほど、それで俄に御上洛と、お考えが傾いたのでございましたか」
「まずはそうだ。細川兄弟が見えたのをば幸いにな……。相互がこのせまい土地にひしめき合うていては紛糾沙汰(ふんきゅうざた)を増すばかりゆえ、義貞は上洛いたす……と。そしてあとは若御料(わかごりょう)がよしなにここを治(おさ)め給えと、恩にきせて、申し告げてやったわけだ」
「でも、せっかくお手に入れた鎌倉をむざと捨てても?」
「いや、いまは鎌倉などにいる時ではない。時局の機微も中央へ出てみなければ分らぬし、恩賞の分配、官職の等差なども、すべて中央できまるのだ。義助、そちと船田ノ入道とで、さっそく、上洛の準備にかかれ」

 義貞の上京を、古典太平記が、あくる年の建武元年としているのはまちがいで、彼の出した“上野(こうずけ)ノ国宣(こくせん)”や任官日時などからみても、鎌倉占領後からまもなく、同年秋には、はや、都へ出ていたことは確実といってよい。
 中原(ちゅうげん)の鹿(しか)
 それを追う地は、もう東国ではなかったのである。――また朝廷をはなれての領土の分配や任官もありえなかった。
 すでに、朝廷ではあまねく、こんどの革命に軍功のあった宮方将士に報(むく)う「論功行賞(ろんこうこうしょう)」の調査機関が開始されているとも彼は聞いている。――そんな点も心をおちつかせていなかったろうし、内々には、大塔ノ宮のすすめもあったかと思われぬこともない。いずれにしても義貞は、
「安閑と、今を、鎌倉などにいて、うかうか過ごすべきではない」
 と考え、好んで中央の渦中へ、身を投じて行った。
 そのあとの鎌倉は急に兵馬も騒音も減っていた。――自然、足利若御料だけの鎌倉になり、なんのことはない、結果的には足利勢一手で鎌倉入りを仕遂げたようなかたちとなった。
「はははは。これはまた、うますぎる。こちらの思うつぼすぎる」
 細川和氏(ほそかわかずうじ)は、あとで笑って、
「どこまでも、わが大殿は御運がつよい。この東国に気長な根を張られたら、すえ始終、目の上の瘤(こぶ)ともなる新田殿だとおもっていたが、何と、われから根も土も捨てて上洛めされた。さても、いくさのほかとなると、あれほどな勇将だが、先の見えないものではある」
 と、義貞の器(うつわ)を評した。
 そしてただちに、事のつぶさを、都の主君高氏の方へ飛報していたが、ほどなく都の方からも、急ぎの一状が、和氏宛(あ)てに、送られてきた。
 意外な内容であった。――登子(とうこ)の消息がつたえられてきたのである。――八方、さがしていた御台所の居どころが、都から知れてきたのは、細川兄弟はじめ、紀ノ五左衛門までが、びっくりしたのはむりもない。
 事情は、こうであった。
 登子と侍女たちの四、五人は、あの鎌倉陥落の前夜、紀ノ小市丸の知らせで、北条守時の戦死を知り、谷(やつ)の隠れ穴から山づたいに六浦(むつら)の方へさまよい出て、武州金沢の称名寺へかくれていた。――だが、そこもまた両軍の交戦場となりはじめたので、称名寺の寺侍に付き添われ、船へ移って、海路、三河の一色村へ落ちのびて行ったのだった。
 三河足利党の留守居は、すぐこれを、高氏の方へ飛脚し、登子もまた、どうすべきか、身の処置を、良人のいいつけに待っていた。
 高氏は、どう考えたか。
 もちろん、彼も妻の無事は大いによろこんだところだろうが、さりとて、すぐ都へのぼれとは告げてやらなかった。元の鎌倉へ帰れと命じ、そして幼い身で鎌倉にいる子(千寿王)のために、母としてそばに居てやるがよい――との返辞を送っていた。
 またここへの書状には、それの知らせと共に、「都のことは、一切心配におよばぬ、ひたすら千寿王の守護と、士卒の統御(とうぎょ)に心せよ」という意味のことが、高氏の命として、つけ加えられていた。

 雨もほどよく、土用の照り込みも充分だったせいだろう、近年になく、ことしは稲の伸びがいい。しかしまた何十年ぶりの猛暑だともいわれており、新田義貞の上洛(じょうらく)途上では、飲み水や食中(しょくあ)たりで、将士のうちで腹をこわした者が多かった。
「やれ着いたか」
「京が見える」
「あれが、加茂川か」
 麾下(きか)の越後新田党といい、僻地(へきち)の東国武士などは、その大半以上が、都を見るのも初めてだった。だから逢坂山を経、山科(やましな)をこえ、やがて洛中の屋根が一ト目に見えだすと、ものめずらしげに、うだるような汗もわすれて、どよめきあった。
 すくなくも、義貞の連れてのぼった軍兵は四、五千騎をくだっていまい。
 生品(いくしな)明神の社前で旗上げいらいの功臣は、すべて旗もとの左右にひきつれていたのである。そして彼もまた、ほかの例にならって、
 主上の御還幸
 ならびに
 御新政お祝い言上のために。
 という触れで、この上京をあえてすすめてきたのであった。また一面、これを新田軍の凱旋としている気負いでもあった。
「木蔭があるな」
 義貞は、馬をとめ、
「旅の埃(ほこ)りとこの汗まみれで、都の人中へ入るのもどうか。全軍へ休めとつたえろ」
 そして彼も、涼しげな所に床几をおかせ、脇屋義助、船田ノ入道、堀口貞満、篠塚伊賀守などと、入洛の手順について、なにかと諜(しめ)しあわせていた。
「まず、手続きとして……」
 と、船田ノ入道は、義貞の顔いろを見ながら言った。
「このところ諸国の武門も、ぞくぞく入洛中のよしですが、武家の着到は、すべて一(いち)おう六波羅奉行へ届け出る掟(おきて)とか。……宿所割りなどの都合もありますれば、ご当家としても、ひとまずは、六波羅の足利へ、お届けの使いを先に走らせておいてはいかがとぞんじますが」
 すると、案のじょう、義貞は不快の色をみせて、
「なに、掟……?」
 と、船田の顔を目で弾(はじ)いた。
「この義貞、そんな法規は、ついぞ公文でも見たことはないぞ。――いや道中においては、しばしば、早馬や駅令の高札(こうさつ)などが、高氏の名で掲(かか)げられてあるのを見うけたが、いつ彼がそのような職権を持ったのか。義貞は、とんと聞きおよんでもおらぬ」
「……御意(ぎょい)、ごもっともではござりまする。なれど六波羅奉行の御教書(みぎょうしょ)といえば、諸州に渡っておりますし、また入京の軍勢なども、足利の証判を貰わねば、宿所割りも得られぬそうでござりますで」
「他家は他家。なんで義貞が入京するのに、高氏へあたまをさげて、証判などをもらわねばならぬのだ。片腹痛いわ。むしろ、高氏から来るがいい。子の千寿王の礼をも申すべきではないか」
「理はまあ、さようでも」
「いや彼の証判などはいらん。わしは大塔ノ宮御直々(ごじきじき)に宿所をいただく。そうだ、ひとまず千種(ちぐさ)殿のおん許まで行こう。二条の千種殿のとこまでまいれ」
 ところが、同勢、蹴上(けあげ)をくだって、粟田口の下まで来ると、そこに待っていた一群の武士がある。――高氏の名代として、弟直義(ただよし)が六波羅から来ていたのであった。
 直義は、平服だった。すずやかな狩衣すがたで、
「おお絶えてお久しぶりな。……さだめし、おつかれで」
 と、義貞の前へ来て、何かと出迎えの辞をのべた。
「や、わざわざ」
 あわてて義貞も駒をおりた。ついさっき、旗もとたちへ、豪語を吐いたてまえがある。いささか、ぎごちない応答だった。
「兄高氏がまいるところでございましたが」と、直義のほうは、にこやかに。
「あいにく今日は、御用のため禁裡(きんり)へ召されており、くれぐれ、よろしくと申しつかってまいりました。鎌倉入りの目ざましいおはたらきには、一同驚嘆申しあげており、また陣中では千寿王をお引立て給わるなどお礼のことばもございませぬ」
 どこまで、行きとどいたあいさつである。――義貞もこれはすこし自分の方が悪く取りすぎていたかと思った。
「いやいや、すべてはただ同慶のいたりだ。高氏どのにも、ずいぶんお忙しかろうが、おちついたらいちどゆるりとお物語りを交(まじ)えたいの」
「兄もさように申しておりました。とりあえず、今日はこれへ、ご宿所割りの証判だけを持参いたしましたが」
「お。船田ノ入道、絵図割りをいただいて、こころえておけ」
「では、いずれまた」
 直義は、六波羅へ。義貞の人馬は、三条の仮橋を西へ渡って、二条へ折れた。――宿所の指定地は、二条烏丸(からすま)の一館と、附近の寺院長屋などである。狭いとは見られたが、空地はひろく、いくらでも兵舎や厩(うまや)の建て増しはきく。それに千種(ちぐさ)中将忠顕(ただあき)のいる二条梨ノ木とも近いので、義貞は、
「まずよかろう」
 と、旅装を解いた。
 そして大塔ノ宮の御所へ、着京の使いを立て、また自身は、その夕、千種忠顕の二条梨ノ木の亭をたずねて行った。
 そこは千種家代々のやしきだが、義貞はその宏大さにまず目をみはった。ずいぶん戦争中に荒らされてもいたらしいが、わずかなまに、修理やら増築もして、庭の泉石には、加茂の水まで引き入れてあるほどだった。そのうえ近くには、馬場、弓の的場(まとば)、兵舎、厩(うまや)なども擁(よう)していて、常時、一軍隊の兵を私邸に養っているふうなのだ。
「やあ新田か。よう上洛(のぼ)ってみえたの」
 その人は、風とおしのよい一殿(いちでん)のすだれを捲(ま)かせて、時めく公卿らしく、大容(おおよう)に坐っていた。川をへだてた東山一帯の翠巒(すいらん)が廂(ひさし)にせまるほどだった。――座にはさきに来ていた客がいて、
「ほ」
 義貞と顔を見合わせ、
「……これは」
 と、たがいに奇遇の戸まどいを、ちょっと笑顔のうちに溶かしあった。
 忠顕は一人の方へ訊ねた。
「新田とは、相識なのか」
「はい。鎌倉では、いくたびとなく、よそながら」
「はははは。よそながらの程度なら、今を初対面とするがよい。これからはいずれも、朝家(ちょうか)の臣義貞であり、朝家の臣、道誉(どうよ)だからの」
 と忠顕は、先客の佐々木道誉が返した杯を、すぐほして、義貞の手へ廻した。
「これは」
 と、受けた杯も下に、
「今日入洛の新田義貞にござりまする。朝廷むきの御儀(おんぎ)にはいっこう不案内な武辺者。よろしく諸事共におさしずを」
 と、彼はまず忠顕を拝して着京のあいさつを先にした。
 忠顕は、らいらくに。
「いや心得申した。きのうも筑紫(つくし)から少弐、大友、菊池、松浦などの党が上洛いたし、それらの武士の参内(さんだい)に、あわただしく暮れたばかり……。あすはお辺(へん)をともなって、親しゅう闕下(けっか)に拝謁の儀をとげさせましょう」
「なにぶんとも」
「なお准后(じゅんごう)(廉子(やすこ))にも、また宮(大塔ノ宮)にもこのさいぜひ、お目通りねがっておくがよろしかろう」
「は」
「お辺は鎌倉入りの殊勲者(しゅくんしゃ)、かつは足利ともならぶ立派なお家柄でもあることだ。朝廷としても、ご粗略にはなされまい。ま、忠顕にまかせられい」
「ひとえに」
 再度の礼をしてから、義貞は初めて杯をふくんだ。
 従来、ひそかには、帝の密詔や宮の令旨も賜わってはいたが、直接、宮廷人に近づくのは、これが初めての義貞だった。――で、なんといっても、どこか、かたくなっていた。いや彼だけでなく、先天的みたいに武将は朝廷人の前へ出ると妙にみな弱くなる。――鬼をもひしぐ剛の者も、公卿からは、みなその弱身を見すかされていた。
 そこへゆくと、折ふし、この座に居あわせた佐々木道誉は、都ずれしていた。物質欲にはもろく、優越感にはひたりやすい公卿の弱点を、彼はよく見ぬいており、いつのまにか、ここでも千種(ちぐさ)忠顕のふところの人となりすましているかっこうだった。
「ま、中将どのにも、ちとお過ごしなされませ……。それに新田殿も、ここは中将どのの御私邸だ、そうお堅くならんでも」
 と如才(じょさい)なく、ふたりのあいだを、とりなしていた。そして彼独自な戯(ざ)れ言(ごと)なども自由に吐いて、しかもさりげないそんな雑談の中で、義貞の人物を測(はか)ってみたり、また忠顕の口うらからは、政局の機微なども抜け目なく感じとっている彼だった。
 もっとも、千種忠顕と道誉との関係は、ほかの武将連の比ではない。
 かつての、隠岐遠流(おんる)の日には、佐々木道誉がその護送役だった。天皇、准后(じゅんごう)、侍者の忠顕などを送って、出雲国まで付いて行ったことでもある。――その道中では、彼は、ずいぶん後醍醐にも准后の廉子(やすこ)にも、できるだけの好意をささげたつもりでいる。だから今日の御代(みよ)となった“蔭の功労者”の一人であるとも、道誉は自分を自負しているのだ。
 しかし、この晩は、義貞という者が来て、終始、かたくなっていたせいか、道誉もあまりいつものような酒興はみせず、ほどなく先に佐女牛(さめうし)の屋敷へ帰って行った。
 彼が帰ると、義貞も、すぐ辞しかけて、
「すべてこれらの物は、私(わたくし)すべきでないと考えられますゆえ、なにとぞ、公庫へお収めおきを」
 と、鎌倉戦利品の数々(かずかず)を、献上目録としてさし出した。また千種忠顕個人へは、べつな一目録が、手土産として、贈られた。
 たいへんな財。ひとくちにいえば、金銀珠玉といってしまえるが、鎌倉幕府の滅亡による戦利品の種目と量は、一部だけでも、莫大だったに違いない。
 義貞が帰ったあとで、忠顕は、その献上目録の数々に目を通しながら、
「さすがは、北条九代の府」
 と、驚嘆していた。
 ここぞくぞくと入洛中の凱旋軍も、すべて、から手で入京はしていない。かならず敵地から押収した戦利品の一部は、公庫へ献上し、また宮廷人の要路へ、賄賂(わいろ)されている。が、義貞のもたらしたほどな財宝はかつてなかった。――それに忠顕個人へのみやげとしても、これまで彼のうけた誰のどんな贈り物よりそれはすばらしかった。
「新田は、律義(りちぎ)な男とみえる」
 忠顕は、すっかり惚れこんだふうだった。――高氏にくらべて、その家柄も劣らず、人品もずっと立派だし――などと彼は義貞をより高く値ぶみしていた。
 明けると。約束どおり義貞は、弟の脇屋義助をつれ、
「よろしく、おみちびきを」
 と、千種家の門へ来ていた。
 参内のためにである。
 すでに忠顕から宮中へは「義貞着到」の届けや拝謁の手続きなどが執(と)られてあった。――しかしまだ少々時刻は早いとあって、忠顕は、ふたりを、二条の水亭に入れ、その小憩のあいだに、
「ここだけの話だが」
 と、いろんな機微を、義貞への、予備知識として洩らしてくれた。
 いま、新政府では。
 その新政の第一着手に、閣僚の任命をみたばかりで、
 右大臣に、久我長通(こがながみち)
 内大臣に、洞院ノ公賢(きんかた)
 また、前参議の坊門ノ清忠や、大納言宣房(のぶふさ)などを復職させて、関白、太政大臣などはおかず、すべて「天皇親政」のむかしに復(かえ)し、諸事の政(まつりごと)は、みな天皇みずからこれを執(と)る――というたてまえになっていた。
 そして、さっそく、
 記録所
 雑訴決断所
 侍所(近衛軍)
 などの機構を設け、恩賞のわりあてだの、国司制度の復活、税制、財務の急などをすすめることになっているが、まだ、それぞれ委員は人選中で、それらの機関が、はたらき出すまでにはいたっていない。
「……されば、よい機(しお)に、御出頭あったものといってよい。もし鎌倉においでたら、恩賞にあずかっても、それら枢要(すうよう)の職につくことはなかったろう。ぜひ、ご推挙(すいきょ)申し上げる」
 忠顕はそんなことまで言ったりした。
 そして、やがて彼と共に二条富ノ小路の仮皇居へ参内した。が、これは違例(いれい)であった。多くの上洛武将は、六波羅から着到の証判をうけ、日時の指示を待ってから単独でみな参内している。――それを義貞は、高氏のあつかいをうけずとして、あえてこの違例な拝謁をとげたのだった。
 しかし賜謁(しえつ)は、上々の首尾で、義貞は身にあまる思いにくるまれ、さらにべつな庭では、准后(じゅんごう)三位ノ廉子(やすこ)にも謁(えっ)した。
 そして帰路、神泉苑(しんせんえん)の御所に大塔ノ宮をおたずねして、そこでは御酒をたまわり、すべてこの一日は、彼の最良の日らしくみえた。

 洛内はいま復興の物音で、一見、新政府の開幕はじつにすばらしい。諸官衙(しょかんが)から公卿武将の家々まで、普請(ふしん)をしていない所はなく、戦災で焼け落ちた五条大橋も、いつか新橋(しんきょう)の粧(よそお)いを成しかけている。
 義貞は、こうした物音の中に住みはじめて、
「義助、ここの古館(ふるやかた)も、このままにはしておかれんな」
 と、着京後すぐ、二条烏丸(からすま)の改築を考えていた。
「されば船田ノ入道も、才覚中(さいかくちゅう)のようですが……。何せい、大工や諸職の職人は、昨今、引ッぱりだこだそうで」
「それは兵舎や武者長屋のことであろ。それも急ぐには急ぐが、この古館自体を、さっそく、何とか修理させい」
「こころえました」
「昨夜も佐々木道誉の招きで、彼の佐女牛(さめうし)のやしきへ行ってみたが、豪奢、目ざましいのに驚いた。……もっとも、常に彼の門へは、公卿大臣(おとど)の車が見えるらしいが、わが家にしても、しぜん将来は、上卿たちとの往来もしげくなること、これではいかにもひどすぎよう」
 まもなく、ここでも大普請(おおぶしん)が始まッた。執事の船田ノ入道は、金にいと目をつけなかった。世間沙汰でも、鎌倉攻めを果した新田家は、武家中第一の内福だろうという評だった。
 はたして、そんな“匿(かく)し財宝(ざいほう)”があるか否かは知れないが、とにかく、まだ普請中の新田家へも、しきりと公卿往来がみえ出した。殿(でん)ノ法印良忠もよくみえ、新政府の重職の者をつれて来たこともある。――何しろ戦後社会での大きな現象の一つは、おそろしく臆面なしな社交であった。新政府の店びらきと共に、その裏面における武家と公卿官人らの接触は、ほとんど日々夜々の招宴となり、目にみえぬ何かが取引されていた。
 いうまでもなく。
 いまや武家の関心は、朝廷の決裁による戦後の“論功行賞”が、自分らのうえに、どう割り当てられて来るだろうかにかかっている。
 また、新しい職制の座をさして、その猟官に、やっきとなっている者は無数だった。
 総じて、公卿層も武士階級も、旧北条領の全国にわたる厖大(ぼうだい)な土地が、自分も入れて、誰にどう分け与えられるのか、それの発表がないうちは落ちつき得ない風であり、それの運動や猟官のうごきには、もちろん贈賄(ぞうわい)がつきものだった。はなはだしきは、天皇の准后(じゅんごう)三位ノ廉子(やすこ)すらも、賄賂(わいろ)を好む方のおひとであると、執事船田ノ入道などは、職掌柄、たしかな筋から耳にいれていた。
「ほんとかの?」
 義貞は、あやぶんで、
「粗相するな」
 と、彼の執事振りにも、その渉外面の行き過ぎにも、注意を与えたほどだった。
 すると、船田の善昌(ぜんしょう)は、
「いや案外なもので……。じつはてまえも、よもや後宮(こうきゅう)のおん方(かた)まではと、さし控えておりましたが、何と、足利家の執事、高(こう)ノ師直(もろなお)のごときは、とうに御簾中(ごれんちゅう)へ近づきを得て、准后のお覚えもいとめでたいそうでございまするで」
 と、暗(あん)に自分の手腕も誇るかのように言って笑った。

 ついこのところ、公務の忙しさに取りまぎれて。
 爾来(じらい)、ご不沙汰申してきた。
 つもるおはなしもいろいろとたまっている。お気がるに、今夕、お出かけくださるまいか。お待ち申しあげておる。
 ――こう六波羅の高氏から招きがあって、義貞は、その夕、
「行かずばなるまい。月毛の背に新しい鞍(くら)をおけ」
 と、近侍の瓜生保(うりゅうたもつ)に、駒支度をいいつけ、自身もすずやかな小袖狩衣(かりぎぬ)を、つとめて都風に、着かざっていた。
「兄者(あにじゃ)、おひとりですか」
「む、高氏の招き文(ぶみ)には、誰と御一(ごいっ)しょにとも書いてない」
「さればといって、万が一にも」
「まさか、そのような害意ではあるまい。そちや船田ノ入道は、すでに公務のうえで六波羅へはいくたびとなく参っておるゆえ、こよいは義貞ひとりを客に呼び、何か、高氏もくつろぎを見せたいつもりなのであろ」
「ともあれ、ご油断なきように。――供もなるべくは大勢を」
 と、脇屋義助は言って、瓜生保のほか、里見新兵衛、世良田兵庫助など、屈強(くっきょう)な供二十人を選んで兄を送り出した。
 が、それでもなお不安なのか、五条大橋と二条烏丸のあいだに辻立ちの者をおいて、もしもの時には、すぐ伝令が聞えるような配置まで取っていた。
 架(か)けかえられた五条大橋はまだ木の色も新しい。渡って、総門を入ると、旧六波羅ノ庁――いまの六波羅奉行所――で、高氏は元の北ノ御所を住居としていた。
「ようこそ」
 まず出迎えにみえたのは、執事の高(こう)ノ師直(もろなお)だった。下へもおかず、客殿(きゃくでん)にみちびく。
 ここは、薔薇園(しょうびえん)の亭ともよばれ、平家全盛時代ほどなものはないが、ついさきごろは、後伏見、花園の二上皇もご避難していた御所ではあり、さすがにその規模(きぼ)は義貞が私邸にもらった二条烏丸(からすま)の古館(ふるやかた)の比ではない。
「…………」
 義貞は、何へともなく、反撥をおぼえた。思い上がった主顔(あるじがお)を目に見るような気がされてくる。だが、ただ晩涼(ばんりょう)の川風と、庭の蛍(ほたる)だけは、いささか、それをなぐさめるに足るものだった。
「お。……」
 ちょっと、義貞は、居ずまいを直した。――廊の間を通って、そこへ来た者があったからだった。しかし、高氏ではなかった。どこかで見たような尼とは思ったが、いわれるまでは、気づかなかった。
「まことに、お久しゅうございました」
「ほうっ、草心尼(そうしんに)だの」
「はや、お忘れかと思いましたが」
「なんの、尼前(あまぜ)を忘れようか。もう十年も会わなんだであろ。そうだ、国元の世良田で会ったきりだったな。……それにしては変っていない」
「あなたさまも」
「ま。意外な所で会ったものよの。して、いつから都に、いやここには?」
 こう訊きながら、義貞は、十年前の一夜――世良田の館(たち)の桜吹雪をとつぜん胸に泛かべていた。そして自分の犯しかけた――思い出したくない古傷に――ふと、心の灯を吹かれて、墨(すみ)のような黒い煤(すす)の回顧に落ちてしまった。
 変っていない。――十年前のとおりだと、義貞も目をみはって言ったくらいに。
 けれどその草心尼の清楚(せいそ)な美しさも、年とすれば、もう四十路(よそじ)にとどいていたはずである。かつてのような濡れ濡れしい若後家の尼とはおのずから落ちつきも違っていた。義貞と話していても、過ぎた日の責めなどは、ほほ笑みの翳(かげ)にもみせていなかった。
 そこで。
 義貞もやや眉をあかるくして。
 ――尼と覚(かく)一との、以後の流転(るてん)なども聞き終り、努めて、むかしの古傷には触れずにいた。
「――では覚一も成人して、今はひとかどの琵琶法師とおなりだろうな」
「いえいえ、体ばかりは大きくなりましたが、まだほんに子どもで困りまする。……いずれあとからこれへ、ごあいさつに伺うはずでございますが」
「時に。あるじの高氏どのは、どう、おしやったの?」
「じつは、たそがれ、俄に九条殿からお召があって、やむなく、お出ましでございまする」
「え。外出か」
「新田殿へはお悪いが、公用火急のお召ゆえ、ぜひもない。昔なじみの尼前(あまぜ)がごあいさつに出て、ようお詫び申しておけ。かならず早くに帰って来る。――と、かように私へ仰ッしゃって」
「ふうむ……。九条ノ民部卿光経どのの所へな?」
 義貞は、独り喞(ごち)に呟いた。
 九条殿こそはいま、全武門の武士の焦点となっている上卿(じょうきょう)だった。
 そのわけは、こうである。
 初め、朝廷の軍功調査の局は、洞院(とういん)ノ実世(さねよ)が主宰していたが、諸国の武士どもは、われもわれもと上表(じょうひょう)して、自分の功を言いつのり、かえって、ほんとに勲功のある者は、つつしんで身を矜持(きょうじ)する風で、あえて当事者へ諂(へつら)うようなことはない。
 ところが。
 じっさいには、実績以上な分外の恩賞にあずからんとする者ばかりが、百人中で九十人の上だった。――だから、いくたび朝議にかけても一決せず、朝廷も裁決にこまって、ついに実世(さねよ)を免官とし、大納言万里小路(までのこうじ)藤房を、その任にあたらせた。
 藤房は、公平厳正な態度で、査定にのぞんだ。
 しかし、その結果は、ついに藤房をも「……ああ」とサジを投げさせてしまったのだった。なぜなら、縁故(えんこ)の手づる、見えすいた贈賄(ぞうわい)、後宮の女性の口出し、あらゆる浅ましいもののがんじがらめにされてしまい、藤房の潔癖では、到底、その処理もなしえず、やがて辞任を申し出る始末とはなった。
 で、ついに恩典局の上卿は、三たびその人をかえて、九条光経におちつき、やっと近日その発表をみるであろうといわれていたさいである。――その九条殿の邸へ、高氏が急に召されて行ったとは、何の用か?
「…………」
 草心尼とさりげなく話しながらも、義貞の心は、ついそんな気がかりにもとらわれていた。
 ――いつか山海の珍味や酒は客座に運び出されており、ほどなく、細殿のすだれが小姓の手で捲かれた。すると、そこには覚一法師が琵琶を抱えて坐っていた。あるじが戻るまでのつなぎに、客の無聊(ぶりょう)を、慰めよとでも、いいつけられていたものか。
 覚一は遠くから、黙って、客のほうへ礼をした。
 そして、琵琶の絃(いと)をしらべ、やがて平家の“屋島”のくだりを、一曲ひいた。
 至芸であった。
 曲の秘妙を聞きわける耳はもたない義貞にも何となく心を打たれた。それに、那須ノ余一の扇の的(まと)は、武門の間には“祝いの曲”とされている。
 彼は、自分の鎌倉の功名と、余一の扇の的とをむすびつけて、祝福感にひたりながら、これが今夜の高氏の馳走であったかと、うなずいていた。
 ……絃(げん)はやみ、覚一は、撥(ばち)を絃にはさんで、終りの礼を低くすました。そして、しずかに退座しかけると、母の草心尼が、
「覚一、こちらへおじゃ。……世良田の小太郎義貞さまに、ごあいさつ申しあげたがよい」
 と、注意した。
「はい」
 と、覚一は、細殿のすみに琵琶をおいて、母の声がするそばへ来て坐った。もう二十歳をとうにすぎていたが、なるほど、母のそばにちょこねんと坐ると、どこやらまだ子供子供した盲の小法師そのものだった。
「大きくなったの」
 義貞は言って。
「いや、いまの一曲にも感服した。なにか褒美にとらせたいが、持ち合せもない。そのうち二条烏丸のわがやしきへも遊びに来てくれい」
 母子(ふたり)をあいてに、ふた言三言、雑談しているうちだった。忙しげな足音や家臣の声を、廊の外において、あるじの高氏ひとりが、
「やあ、おゆるしを。……義貞どの、おゆるしを」
 と、坐らぬ前から、詫びを言い言いここへ入ってきた。――それを機(しお)に、尼は覚一の手をひいて退がってゆき、主客は、二人だけになった。
 はじめのほどは、義貞も余りいい顔はしていなかった。しかし、高氏がひたすら今夕の事情を説(と)いて、
「じつは、恩賞のご発表が、いよいよ朝議一決を見、それについて九条殿へ召された次第。悪く取って給うな」
 と、まったく、他意はない容子なのである。――で義貞も顔色を直して、何かと、鎌倉いらいの戦談に、興(きょう)をわかした。
「お手柄だったな」
 高氏は、なんども、口をきわめて、新田勢の迅速と、その戦術をほめそやした。とくに、当初五、六百騎の小勢で、生品明神で旗上げしたその決断を、
「当今無双のご勇気」
 と、称(たた)え、
「頼朝公の伊豆のお旗上げのほかには、くらぶべきものもない」
 とまで言った。
 義貞はすっかり酔った。――会ってみれば、何のことはない、二人は盟軍の盟友だった。こんなにも自分の真価を知っている高氏が――と、今さらのように見直されて、夜更けるまで、飲みあった。
 この間にも、彼は、明日発表になるという恩典の内容に話を触れてみたかったが、おくびにも自分からは問わなかった。また高氏もいわなかった。あくまで武辺話に終始した。また未来の夢をかたるに終った。そしてやがて深更、五条大橋の風に酔面を吹かれつつ、義貞はここちよげに、二条烏丸へ帰って行った。

「聞いたか。おい」
「なにを」
「なにをって。軍功の恩賞沙汰が、いよいよ、朝議を通ったというじゃないか」
「それだ。それを今、おれもあちこち聞き歩いてみたのだが」
「わからぬのか」
「皆目(かいもく)だ。発令とだけで、内容はまだたれにも分らぬ。高札布令(こうさつぶれ)に出るわけでもないからな」
「では、恩賞の授与は、一体どういう形で出されるのか」
「勲功にも、第一、第二、それ以下の輩まで、たいへんな数だろうから、とても一時に沙汰書も行きわたるまい。――順次、記録所から各家へ宛てて、綸旨やら授与ノ状が届けられようと、いわれておる」
「いや。それは新田とか足利などの、武門の将でも棟梁格(とうりょうかく)の家々のことだろう。われらのような地方武者の、家ノ子郎党合せても二、三百に足りぬ中階級(ちゅうどころ)の族党はどうなんだ?」
「さ。そこまでは、聞いてもおらん。おそらくは、われらの上まで廻って来るには、まだ七日も十日も先になるんじゃないか」
「ばかなことを。たとえ取るに足らん小党でも、すべてを宮方へ賭け、命がけで官軍のために働いたことでは何の上下があろう」
「ま、そう息(いき)り立(た)つなよ。われらの軍功が取り上げられぬはずはないのだ。お沙汰書が遅れるぐらいは仕方もないさ。早く知りたければ、記録所へでも伺って訊いてみるしかないだろう」
「記録所はどこだ?」
「朝廷の内さ」
「そいつは困る。むむ、雑訴決断所なら郁芳門(いくほうもん)のそばではないか。あそこへ行ってみよう。あそこの外記(げき)か蔵人(くろうど)でもつかまえて、論功ノ表(ひょう)を内見(ないけん)させろといったら、見せぬとも拒(こば)めまい。這奴(しゃつ)らにそんな権能はないのだからな。おれたちは、命をすてて戦ったのだ。軍功は他人(ひと)のものではないぞ。骨肉や家来の血をながして購(あがな)った軍功なのだ」
 武者の鼻息はみな荒い。訛(なま)りのある田舎弁で、あたりかまわぬ立ち話だった。――それが、辻々、随所で見かけられた。全都の話題をさらっていた。
 なにしろいま、洛内人口の大半以上が諸国から来ている武士だった。そしてそれらのすべてが関心を集中していたことであり、またべつな意味でも、恩賞配分の内容如何(いかん)は、新政府の新政治が、どんな施策(せさく)をひっさげて世に臨んで出るか? それの「お手並拝見」というところでもあるから、武士大衆は個々の欲望にわくわくしつつも、一面そんな興味の期待もかけていた。
 しかし、全貌はなかなか分らず、やっとその内容が知れたのは、発布数日後であった。
 まず一般は、意外な感に打たれたらしい。
 軍功第一ではないが、授与の筆頭におかれて、飛騨(ひだ)一国の守護と、十所(しょ)の地頭職をさずけられた者は、
 岩松経家
 弟、吉致(よしむね)
 のふたりだった。
 これは、足利家と新田家の仲に立って、両勢力を結合させ、鎌倉入りの功をとげさせたということと、また、先には後醍醐の隠岐脱出をたすけた働きとによるものだろうといわれていた。
 岩松経家、吉致といっても、名さえ知らない者が多かった。――だからその二人の大功をみとめて、恩賞の筆頭においたのは、おそらく、後醍醐直々のおはからいではなかったか。
 しかしまた、それは事難(ことむずか)しい論功行賞の上における等級の、一種のはぐらかしと見られないこともない。
 いかに朝議の決定までには、上で揉みに揉んだ結果だったか。まず表の一端にもそれは出ている。
 足利高氏を
 従三位(じゅさんみ)、左兵衛(さひょうえ)ノ督(かみ)に任じ、武蔵、常陸、下総の三ヵ国を賜る。
 同苗(どうみょう)、直義(ただよし)には
 左馬(さま)ノ頭(かみ)をさずけられ、三河の一部と遠江一国を。
 新田義貞を
 正四位ノ下(げ)、右衛門佐(うえもんのすけ)に叙(じょ)し、越後守とし、あわせて上野(こうずけ)、播磨(はりま)を下さる。
 同、脇屋義助を
 駿河守に。
 また、楠木正成には、摂津、和泉の一部と、河内守への叙任(じょにん)がみられ、また船上山いらい忠勤の名和長年には、因幡(いなば)、伯耆(ほうき)の両国があたえられた。
 それ以下、幾多の武門に、それぞれな恩賞下附が沙汰されたが、ここにたれの目にも、
「これは、何かの間違いか」
 とすら怪しまれた例外中の例外があった。
 播磨の赤松円心則村(のりむら)にたいする授賞だった。
 彼の軍功は、顕著(けんちょ)である。――おそらくは円心自身も、名和長年や千種忠顕(ちぐさただあき)には劣らぬものと自負していたにちがいない。
 ところが、発表になってみると、佐用(さよ)ノ庄(しょう)一所(しょ)を賜う、とあるだけだった。――のみならず前から所領していた播磨の守護は取り上げて、これを新田義貞の新知行(しんちぎょう)の方へ組み入れ、人の物で他人(ひと)の恩賞を行っている。
「怒ったろう」
「おれでも怒る」
「ましてや円心入道だ」
「あの戦下手な公卿大将の千種殿さえ大国三ヵ所も受領したというのに、その人を扶けて、早くから中国の勢(せい)を狩り催し、六波羅攻めにも、獅子奮迅(ふんじん)のはたらきをした赤松勢がよ」
「このあつかいでは、恩賞の不平よりは、武士として顔が立つまい」
「勇猛をほこる円心だけに、一族や部下を死なせた数も、赤松が一番だろうといわれておる」
「ばかばかしさよ、とあの円心が、おもてに朱(しゅ)をそそいで、沙汰書を引き裂いて捨てたというが、目に見えるようだ」
 と、衆口は、みな円心に、同情的だった。
 果たして、それからまもなく、赤松円心の一勢は、朝廷へも届け出ず、ただ一書を六波羅の高氏へ投(とう)じたのみで、憤然、京をひきはらって国元へ帰ってしまった。
 それを見た日も、武士大衆は、
「むりはない」
 と、みな言った。みな円心の後ろ姿を思って気のどくがった。けれど、かえりみて自分たちが必死を賭(か)けて、いま、掌(て)に乗せ得たところの恩賞を見ると、
「……何と、これは」
 と、一抹(まつ)の不満と淋しみを噛む顔でない者はない。内々たれもが、自己の功には過大な期待を持ちすぎるものではあったが、やがて彼らの間に起ったやり場なき不平の色は、ただ単にそれだけのものでもなかった。
 国家の名で戦った勝者と勝者との、分けまえ争いも、ひとりの女を捕えて身の皮を剥ぎ、その分け前で、仲間争いを演じ出す野盗山賊のつかみ合いも、何と大した違いはないものか。
 後醍醐のご理想も。
 新政府の新政第一歩も。
 まずはこのおなじ轍(てつ)を踏みはずさない人間通有の欲の目に迎えられ、武士大衆は公然、ごうごうと不平を鳴らしだした。
「これが、ご新政というものか」
「いやもうガッカリだわえ」
「日本全土は、おれどもの力で取ったものじゃないか」
「何で公卿だけの力で、北条の世が仆(たお)せたろうぞ。おれどもの取った土地ゆえ、おれどもへまず充分に分けるべきを」
「さはなくて、恩賞の、やれ綸旨(りんじ)のと、事々しく、端(はし)クレばかりくれくさる」
「いや、過小でも、貰ったほうは、まだいい方だ。いまだに、沙汰なしの者すら多いぞ」
 野性の言いかたは露骨で、わざと堂上へもとどけとばかり、声を大にして言いつのる。――「神皇正統記」の筆者、北畠親房は、この状をみて、大意、こんな風に書いた。
大かた、おのれ一身は
みな功をほこるなれど
君は万姓の主(あるじ)なりとて
日本六十余州
限りある土地を分かたむには
いかにせむ
もし一国づつを人望まば
六十六人にてふさがりなむ
一郡づつといふも
日本は五百九十四郡
五百九十四人に終りなむ
 その北畠親房の書は、べつのところで、こういう論旨をも述べている。
「――北条の末路は、天運が極まったもので、人力ではない。その運を開いたのは、朝威であった。それを武士どもは、自分の力のように思っている。そもそも、武士はどういうものかといえば、元来、代々の朝敵である。それなのに、はからずも天皇のお味方に参じ、その家々を失わないですんだだけでも、皇恩というべきだ。しかるを、多少の忠をいたし、労を積んだからといって、功にほこり、恩賞の不足を鳴らすなど、怪(け)しからんことといわねばならん」
 これは「神皇正統記」の著者ひとりの考え方ではなかった。当時の公卿思想そのものを代弁したものといってよい。
 武士は、武士大衆の自力を信じ、公卿は公卿で、御稜威(みいつ)に帰した天下であるとし、それはわが世の春だと思っている。
 真(ま)っ向(こう)、利害も理想も、武士大衆とは、根本からちがっていたのだ。――得意絶頂にある朝廷方は期している。――これからは、頼朝や北条幕府のごときものは絶対につくらず、万機、天皇の直裁とし、遠い延喜(えんぎ)、天暦(てんりゃく)の制に復古する以上、もっと積極的に、後世の新例をどしどし立てて行くべきである、と。
 だから、土地の分配に、まずその考慮がはらわれていたわけでもある。力は土地だ。しぜん天皇も帝室領の拡大を度外視してはいられない。――すなわち、旧北条高時の領は、すべて御料の内へ入れ、高時の弟泰家の所領は、大塔ノ宮のものに。また大仏陸奥守の土地は、そっくりこれを、准后(じゅんごう)三位ノ廉子(やすこ)の御領とした。いやまだそれ以外にもたくさんな分け前が、先に取られる処置とはなった。
 すこし極端な筆法ではあろうと思われるが、古典「太平記」には、
このほか相州一族の地
関東諸家の所領をば
させる功もなき宮廷内(みやうち)の
伶人伎女、衛府(ゑふ)の諸司
女官、僧侶にまで
一跡(せき)二跡と
内奏より申し賜はりければ
いまは武士に頒(わか)つべき地も
闕所(けっしょ)すべて、残り少なになりにける
 などと見える。
 これほどでないとしても、准后の阿野廉子あたりから、内々、内奏の運動がおこなわれたのは事実であろう。彼女が天皇の寵(ちょう)をもっぱらにする後宮第一の女性であり、またさかんに賄賂(わいろ)を容れ、美言をよろこぶ質(たち)のひとであったことは、諸書、どれに照らしても一致している。
 世評、これとすれば、この手で、彼女や堂上の要路へ、うまく取り入って、ほくそ笑んだ人々は、あながち宮廷の周囲とだけはかぎるまい。卑劣な武士、抜け目ない田舎武族までが、
内密の秘計によつて
昨日までは朝敵でありつる身も
また、さらに忠なき輩も
五ヶ所、十所の所領を賜はる有様なれば……
 とあるのも、一概に否定はできない。先に正直者の万里小路(までのこうじ)藤房が、厭世的な気鬱に負けて、恩賞局を辞し去った気もちもわかる。そのひどさは「梅松論」なども、
天皇の側臣
随時に秘奏をへて
非義を申し行ふため
綸旨(りんじ)
朝(あした)に変(へん)じ、暮(くれ)に改まるほどに
諸人の浮沈
掌(てのひら)を返すがごとし
 とまで、痛言しているふうだった。
 なにしろ、想像もおよばぬほどな、裏面運動と、土地餓鬼(がき)のあばき合いではあったらしい。――またそれの受け入れ態勢もおよそ乱雑でお粗末な政治機関であったようだ。――なにしろつい昨日までは、式部官とか神祇官であった公卿が、一朝、天皇親政の謳歌(おうか)にのって、“俄か政務官”となったのだから、なんら行政的手腕があるわけでもない。事務の渋滞はもちろん、裁決のまちがいなどもたびたびで、ただもう、てんやわんやの新政だった。
 すると。朝(あした)に夕に、綸旨(りんじ)が変るような乱脈さを見すかして、たちまち、偽(にせ)綸旨が流行(はや)り出した。恩賞の偽地券(にせちけん)に、天皇の名を騙(かた)って、地方人の土地を欺(あざむ)きとる悪党たちが横行しだして来たのである。もっと、はなはだしい実例では、当事者の官人が、一ヵ所の領地を四、五人に与える沙汰書を発してしまい、
「ここは、おれのだ」
「いや、おれどもの土地だ」
 と、武士同士の殺傷沙汰をおこすなどの騒ぎもあった。そのため、地方人の陳情団がのぼって来るやら何やらで、その政治的無能が呼んだ混乱と奇観は、奇観というより、いっそあわれなほどだった。
 しかも、北条遺産の没収地には、限りがあり、恩賞不足、あるいは、恩賞未受の人数には際限(さいげん)がない。――鈍(どん)な武士大衆も、ここへきてみな考えた。どう考え出したかといえば。
「待てよ、このまま公家一統(くげいっとう)の天下で行ったら、一体、おれどもはどうなるのか。また平家以前の世のような、公家の番犬に逆戻りすることじゃないか」
 不平の声は、さいげんなく、不平を呼ぶ。
 忿懣(ふんまん)の果て、彼ら武士大衆は、その野性と無知にまかせて、
「いったい、きのうの戦いは、たれのために戦ったのだ」
 と、いい出した。
「おれどもは公家(くげ)の番犬になるため戦ったのではあるまい。こんなことなら、いっそ昨日の北条天下のほうが、まだましだわ!」
 その結果は、
あはれ、いかなる不祥事なりとも出来て
武家、ふたたび
権(けん)を執(と)る世にまた成れかし
 と、乱を終った今またすぐ、乱を待つような危険な心理におちいっていた。
 元々、彼らにすれば。
 その全部とはいえないまでも、大部分の武士輩が、北条の下ではうだつも上がらぬものとみて、土地欲、子孫繁栄欲、身一代の名聞(みょうもん)欲などを、この風雲に賭けたのであって、
 朝廷が何であるとか
 なぜ天皇を至尊(しそん)と仰ぐのか
 そんな理解はおろか、信念らしいものは、いたって希薄なのであった。――決して、勤王などという語義がわかっていたわけではないのである。
 いわんや、公卿当局がここへきて、“中興ノ新儀”だの“復古ノ御新政”などと謳(うた)ったところで、武士あらましは、馬耳東風(ばじとうふう)の面(つら)でしかない。そしてただ、
「どうしてくれる?」
 とばかり、都のうちにふみとどまって、都じゅうを馬糞と馬蠅の巷(ちまた)となし、大刀、長柄を横たえ歩き、何か、事件(こと)こそ起れと、物騒な放言や火遊びを持ち廻っている状だった。
 そこで不思議な戦後社会の現象が菌(きのこ)みたいに咲き出してきた。――蒔(ま)いたタネにはちがいない。しかし公卿理想にしろ、武士の戦争目的にしろ、あんな大量の血をながして、こんな化(ば)け菌(きのこ)を巷(ちまた)に見る気でなかったのはもとよりだろう。
 ところが、社会に咲き出たものは何かといえば。
 小酒屋の灯の馬鹿繁昌
 火つけ、強盗、ゆすりの横行
 女狼藉(ろうぜき)、ばくち流行
 主殺し、良人殺し
 河原の捨て子
 乞食、疫病、男娼喧嘩
 すべて毒々しい悪の花ばかりだった。何一つ庶民にとっての安心楽土は回(かえ)っていない。公家(くげ)の大邸は、例外なく新築され、かぎられた大藩の武門でも、負けずに普請(ふしん)へかかっているが、さもない不平武士の大衆には、虚無的なやけ酒があるだけだった。いや彼らに虚無の酒などという余裕はない。――やり損なった戦争の仕上げは、ふたたび戦争をやるしかない。――そういう眼(まな)ざしが明らかだった。――そしてその眼が、暗黙に、
 たれを?
 と、次の首領をあたりにさがし求めたのである。不平だけでは旗じるしとして舁(かつ)ぐに足らない。やはり家門は良くなければならず、人物、器量、声望もある人でなければならない。
 新田殿か。
 その義貞へ、一時、人気は高まるかとみえたが、義貞はしきりと大塔ノ宮に近づき、公卿貴紳(くげきしん)に親しむふうなので、彼らには自分らの真の味方とも思えなかった。そしてやがて、彼らの目は、そこに、高氏を発見していた。
 おれどものこの不平を分ってくれそうな人は他にない。足利殿のほかにはいない。
 だが、武士大衆の寄せる期待をよそに、その六波羅は、ひっそりだった。――五条大橋以南の森には、当今流行の普請(ふしん)工事のいろめきもしてないし、武者風俗も一般に地味で、さかんなのは、蝉の啼き声だった。
 それと。
 当(とう)の高氏も、めったに朝(ちょう)に出ることもないらしい。社交上のやむない向きへは、執事の高(こう)ノ師直(もろなお)をやり、公庁の時務には、もっぱら弟の直義(ただよし)が出むいて事にあたっている。しきりと高氏へ接したがって、六波羅を訪う者でも、高氏と会った者はすくないといわれている。では、この多事多端な日を一体何しているのかといえば、外観上では何もしていないかのような彼なのだった。事実、そう見えることが高氏のねらいであったかもわからない。
「ちと、慎(つつし)もうよ」
 そういったことがある。
 とくに日常、いやでも公卿の庁だの、渉外の局に当る直義や師直にたいしては、
「行き過ぎをやるな。何事によれ、下手(したで)に下手に」
 と、いっていた。
 こんなにも彼が気をつかっていたというのも、ひとえに世評をやわらげるためだった。また露骨な武士大衆の輿望が、ここ急潮に自分へかたむいて来る形勢なども、彼としてはむしろ危険視していた。
 なぜならそれはいよいよ、大塔ノ宮一派の嫉視と、宮の宮中における画策の矛(ほこ)を、駆り尖(とが)らせるものと覚(さと)っていたからで、わけて新田義貞の一面小心な競争心の潜在も彼は見のがしていず、あくまで、ここは低姿勢を守ろうとしていたのである。
 この間に、新政府では、恩賞令の発布につづいて、こんどはその政治機構の人選を内々ですすめていた。
 すなわち、最高の裁可は、
 記録所
 で執(と)り、ここの長官は卿相(きょうそう)を以てすえ、なお“記録所ノ寄人(よりゅうど)”としては、武家では、楠木正成、名和長年、伊賀兼光の三人だけが、その局に挙げられた。
 また。
 雑訴決断所
 は、ひろく聖断を仰ぐところの役所とあって、五畿(き)、七道、八番の地域にわかたれ、それぞれ政務を分担する仕組みであったが、ここもその上層部は、すべて公卿任官で名をつらねた。そして武士では、正成、長年が“決断所付き”兼務を仰せつかり、また結城(ゆうき)親光や、塩冶(えんや)高貞、高(こう)ノ師直(もろなお)、佐々木道誉などの顔ぶれが加わっている。
 ほかになお、重要な機関では、
 武者所
 があった。ただ単に「窪所(くぼしょ)」ともいい――兵馬の権はここにある。天皇の一令下に、諸国の武士をうごかすところだ。また朝暮(ちょうぼ)、禁門をまもる近衛府とともに、みかどの、もっとも信頼に足る武将でもなければならない。そのひとは誰か。人々は注目したろう。ほかならぬ、新田右衛門佐(うえもんのすけ)義貞だった。
 そのうえ、それら“翼賛の武者”は、義貞以下すべて、新田党の武将ばかりでかためられ、足利党はひとりもあげられていなかった。――畢竟(ひっきょう)、これはみな大塔ノ宮の背後力によるものと人は察した。高氏もそう解した。直義(ただよし)、師直らは、うすら笑って、歯牙(しが)にもかけぬ風だった。

 秋は、駆け出してきた。ここへ来て、めッきり風は冷涼だった。
 八月の五日。
 高氏はめずらしく、左兵衛(さひょうえ)ノ督(かみ)の衣冠で、参内した。
 さきに、昇殿(しょうでん)をゆるされ、位記(いき)では、途上の牛車(くるま)もはばかりない身分である。ふっくらと、ふくら雀のように袖をひらいて、彼は牛車の中であぐらしていた。
 時に、二十九だった。
 あらためて、彼も感慨をおぼえていたろう。――十八、初めて家来の右馬介をつれて、都見物に出てきた頃の姿を振りかえると「自分もすこしは当時より大人になったか?」と思いもする。が、必ずしも「大人になった」とは、自分ではまだ信じえなかった。牛車、衣冠、こんなものは仮の装いと分っている。苦労もたりないと知っている。前途の大きな多難は、京洛の盆地をかこむ山々のように彼には見えていたのだった。
 何の召か。
 朝廷での朝儀はいともおごそかだった。
 皇居はいま、二条の里内裏(さとだいり)にあるので、紫宸(ししん)、清涼(せいりょう)の階(きざはし)ではないが、御簾(みす)ちかく彼を召されて、特に、賜酒(ししゅ)を下され、そして音吐(おんと)まぎれなく、帝じきじきのおねぎらいであった。
「高氏。――以来、六波羅にあって、治安の難に当るやら雑訴を見るなど、くつろぐまもあるまいに、よう精励いたしおるな」
「は。……なかなか以て、ゆき届かぬことばかりでござりまする」
「ただの治世とは違う。そちならではと、思っておるぞ」
「御諚(ごじょう)、身に余ります」
「長通(ながみち)、叙位(じょい)を申しわたせ」
「は」
 右大臣久我(こが)長通が、すすんで彼へ辞令をさずけた。先の位記(いき)を一階昇(あ)げ、あわせて武蔵守、鎮守府将軍に任ず、という朝命だった。
 そのうえにも、後醍醐は、
「わが諱(いみな)(実名)の一字をとらす。……以後は、高氏をあらためて、尊氏(たかうじ)となすがよい」
 と、いった。
 後醍醐の名は、尊治(たかはる)である。――北条高時の高を高氏の名から捨てさせたいお心もあったのか、何しても一武臣へ、これは破格なことだった。寵遇(ちょうぐう)の象徴としてこれ以上な附与(ふよ)はない。
 高氏は、感激した。彼には愚直な一面もある。かほどまでに自分を知ってくれるお人には何らの異心も抱けはしなかった。かつは、帝王でいながら今日までの迫害と艱苦(かんく)に克(か)ちとおしてきた後醍醐を、彼は、平等な人間としても、心から尊敬していた。勲位は、その傑出した人からみとめられたということで、いちばい、うれしかったようだった。
 で、彼は六波羅へ帰ると、
「今日は云々(しかじか)であったぞ」
 と、参内のもようを一統の家臣にかたって、さっそく内祝の酒を酌みあい、兵の端にまで、褒美のしるしをわけてやった。また、この日以前に、朝廷から授与されていた武蔵、常陸、下総三国の土地も、一郡二郡、あるいは一庄半庄と小分けして、まるで池の鯉へ麩(ふ)をちぎッて投げやるように、おもなる部将へ、あらかた、頒け与えてやったのだった。――こうした例は、このほか彼の日常にはたくさんあった。そこで近ごろ、「物惜しみせぬ大将よ」とは、雑兵の末端までが、尊氏をさしてすぐ言うことばとなっていた。

 かつての日、北条氏のために流された人々が、前後して、この秋、都へ帰ってきた。
 じつにさまざまな人だったが、硫黄(いおう)島からよび戻された僧の文観(もんかん)やら、讃岐(さぬき)の配所にいた宗良(むねなが)親王などもそのうちのお一人だった。
「こうして、ふたたびお目にかかれる日があろうとは……」
 親王は、父後醍醐との一年半ぶりの邂逅(かいこう)に、人の子の情と自然な嗚咽(おえつ)をどうしようもない姿だった。
「馴れぬ配所で、からだでも悪うしたのか」
 と、さすが後醍醐も、いたましげなお目をそばめた。
 親王は、やっと涙をふいて。
「いえ、べつに病みはいたしませぬが、あけくれ、隠岐の絶海や、また都のあとをのみ思って……。あれいらいは」
「物もよう喰べなんだのであろう。護良(もりなが)とちごうて、其許(そこ)は生れながら体もひよわい、気もよわい。こういう世に生きるには、もっと心を大きく身もたくましく持たねばならんな。これからは何が望みか」
「何も望みませぬ。ただただ、二度と戦のないことが望まれまする。今、かえりみてもぞっといたします。……これは、捕われて讃岐へ流される前の詠草(うたぐさ)ですが」
「どれ、見せい。なに、
思ひきや
手もふれざりし
あづさ弓
おきふし我れに
馴れむものとは
 とか。はははは、いかにも宗良(むねなが)らしい歌よな。だがこれからは、すべて朝政に一統され、公武の別などなく、武士も朝臣(あそん)としてみな朝(ちょう)に仕え、公卿も武を忘れてはならぬのだ。そことても、世捨て人にならぬかぎりは」
「おゆるしを給わるなら、ふたたび山へ戻って、静かに、歌の道でも励んでいとうございまする」
「叡山(えいざん)へ帰りたいのか」
「はい」
「やはりそちは歌の家、二条為子の腹の子ではあるの。いまこそ人はそれぞれに――すみ染(ぞ)めの色をも更(か)へつ月草の、移れば変る花のころもに――とみな栄耀(えよう)を愉しもうとしておるのに」
「いえ、沙門の身と、歌(うた)詠(よ)むことさえ、ゆるしていただけたら他に何も欲しくはありません。……のう、友には、そなたという者がおるし」
 と、ふと親王は、わが懐(ふところ)をのぞいて言った。
 ご不審がられて、帝が、そも何を抱いているのかとお訊ねになると、親王は、一羽の雀を掌(て)にのせてお見せした。――そしてこれは、去年、播州の加古川から船で讃岐へ送り渡される朝、兼好という法師に仕えている童(わらべ)から餞別(はなむけ)にもらった雀の子を配所で育てたものですと語り、そしてこの日の父子邂逅(かいこう)に、はじめて一つニコとなされた。
 まもなく、宗良親王は、叡山(えいざん)へ上って、元の天台座主(ざす)につき、願いどおり墨染の身に返った。
「おなじ竹(たけ)の園生(そのう)、おなじ御子ながら、違うものかな」
 と、世人は言った。
 ことばの裏に、大塔ノ宮をさしていたのはいうまでもない。秋もいつか十月を過ぎ、肥馬(ひば)天に嘶(いなな)くときを、その将軍の宮は、神泉苑の御所のふかくに、若さと智と、また多血から来る鬱々(うつうつ)な忿懣(ふんまん)とをやりばなくしておいでだった。
 あり余る若さと鬱(うつ)のやりばとして、宮はよく洛外へ狩猟(かり)に出た。供にはいつも吉野、十津川いらいの猛者(もさ)を大勢つれていた。
 木寺相模、岡本三河坊、野長七郎、矢田彦七、平賀三郎などである。これら原始人めいた郷士出身の一群は、みずから宮将軍の功臣と誇ッて、他人を下に見、社会の規矩(のり)にも嵌(はま)らない荒くれだった。――がしかし、宮には猫のごとく慴伏(しょうふく)して何一ついやがるということはない。御命(ぎょめい)とあれば水火の中へでもとびこんでゆく。宮にはこれがたまらない御快味だった。宮廷人の中では味わえないものである。猛獣使いのみが知る鞭(むち)の快とおもしろさであるらしかった。
「良忠です。戻りまいてございまする」
「お、帰ったか殿(でん)ノ法印(ほういん)。して忠顕(ただあき)の返辞は?」
「千種(ちぐさ)どのには、やはりこのさいは、とばかりで……」
「狩猟(かり)はよせという意味か」
「世間の目、いかがなものかと」
「小心な奴の」
 大塔ノ宮は笑って。
「ではなお、四十九日は喪(も)に服して、諸事、門を閉じたままでいろと申すのだな」
「いえ、さにはございませぬ」
 殿ノ法印は、べつな答えをもたらすため、すこし膝を前へすすませた。
 この十月の一日――
 宮中には服喪(ふくも)ノ令が出て、一切の慎みが守られ、市中にも数日の鳴物停止(ちょうじ)が令せられた。――ご病中だった皇后の禧子(よしこ)がおなくなりになったからである。
 そのため宮中はここひっそりで、諸政、一頓挫のかたちだった。だが世上の推移は一刻もとどまっていず、先ごろ尊氏が、鎮守府将軍号をうけ、また御諱(おんいみな)の一字をいただいたなどいう破格な聞えは、いよいよ武士層のあいだに、足利の存在とその実力を牢固(ろうこ)なものに思わせ、いまや六波羅一劃は、大塔ノ宮から見ると、かねがね予想していた通り恐るべきものになりかけていた。
 宮はおくちを噛む。
 なんたることだ。高時を討ったのにまたすぐ次の高時が出来かけている。
 聞くところによると。一部の不平の徒は彼の門へよしみを通(つう)じてゆき、彼もまたいい気になって、“元弘以来収公ノ所領、各自、相違アル可カラズ”という自署の安堵状(あんどじょう)などを諸武士へ発行しているという。まるでもうそれは主権者気どりではないか。
 その彼へ、またぞろ、過大な恩賞に次ぐ抽賞とは何ごとか。危険を増長させるのみである。諫言はたびたび奏(そう)してあるがお用いのふうもないのだ。といってこの趨勢(すうせい)を坐視してはいられない。
 宮は、喪(も)の門に、その閑に、たえきれなかった。
 そこで今日、殿(でん)ノ法印を、おなじ思いの千種忠顕の所へやったわけであったが、忠顕はこう分別を、お答えしていたのである。
「とかく足利の方でも、われらへ目を光らせているにちがいありません。ましてご服喪(ふくも)の折、野駈けに出て、洛外で密談に寄り合うなどはまずいでしょう。……それよりは新田と二人で、こよいひそかに御所へ参(さん)じまする。ほかに耳よりな或る一事もございますので、万事くるめて、そのせつの御談合にゆずりたいとぞんじます」と。

 やがて。夕日も静かに。
 神泉苑(しんせんえん)の御所は、赤松の幹のほの赤い縞目(しまめ)の奥に墨(すみ)いろを刷(は)いていた。
「たれだ?」
 宮はお湯殿の内だった。
 湯上がりのつやつやしい濡れ髪を、愛妃のお手で櫛梳(くしけず)らせ、その総髪の毛さきを、剪(き)り揃えさせておられたのである。
「召次(めしつぎ)の者か」
「は」
 青侍の姿は、廊の外にかがまったままでいた。
「待たいでもよい。そこでいえ、何の用だ」
「ただいま、河内守どのがおとずれてみえられましたが」
「河内? ああ楠木か」
「はい」
「決断所の寄人(よりゅうど)でもありながら、田舎にのみひき籠って、めったに出仕(しゅっし)もせぬと聞く正成が、めずらしくも出てきたとみえるな。通しておけ」
 お支度は長かった。宮ご自身、美丈夫ではあり、なかなか身粧いに丹念なうえ、愛妃の心くばりもこまやかなので、やがてやっと客殿へ渡って行かれた。
「はて。……見えんではないか。どこにおる、正成は」
 すると、まだほの明るい庭面(にわも)の階(きざはし)の下で。
「これにおります。いつもごきげんようわたらせられ、大慶に存じあげまする」
「やあ、なんの遠慮。通せと申しつけておいたのに」
「いやたんだ今、六条の宿についたばかりで、このとおり旅のほこりのままでございますゆえ」
「ここ一ト月も田舎だそうだの。きょう出て来たか」
「はい。先年、お旗上げの砦(とりで)として、ご籠城のみぎり、賊軍のため焼亡した笠置寺(かさぎでら)へ、さきごろ造営再建(ぞうえいさいこん)のありがたい勅が降(くだ)されましたので。……それの木材、人工(にんく)などの用務をおびてのぼりました」
 正成は吶々(とつとつ)と言いながら、たずさえて来た大ぶりな竹籠の献上物を、宮の坐っている広縁まで捧(ささ)げてから、また階を下りて、庭面に低くぬかずいた。
「なんだの? これは」
「河内の秋の物でございます。山の芋、栗、甘柿、野葡萄(のぶどう)、松茸(たけ)などの山の幸(さち)。もしや野山に臥(ふ)しておわせられた戎衣(じゅうい)(軍服)の日を思い出られて、珍しくもない物ながら、ふと、おなぐさみにもなろうかと存じまして」
「忘れていた。まことに、これらの物で露命をつないでいた日のことを我れ人ともにもう忘れかけている。今夜の客どもにもそういうて馳走してやろう」
「ご内客でございまするか。ではいずれまた改めて、ご拝謁にあがりますれば」
「ま。……そう急がいでもよかろう」と、宮はふりむいて、さっきから広縁の端に侍坐していた殿(でん)ノ法印良忠の顔を見た。
 どうせ今夜の客は、新田と千種(ちぐさ)だし、楠木とても、宮はわが腹心の一人としておられたので、ならば、同席させてもと、思いつかれたものらしかった。
 ……だが、殿ノ法印の目を見ると、彼は、ひたい越しに宮のご意志を読んで止めていた。それで急に、宮もためらいに戻ッたらしい。そのままあとは何も仰っしゃらず、まもなく、暮れなずむ内門へ退きさがって行く正成を――依然、田舎武者の風の抜けきらない河内守正成の背を、ただご微笑のまに見送っていた。
 正成の帰ったあとで、宮は殿ノ法印にむかって、
「良忠、そちはなぜ彼を、きらったのか。正成には何か心をゆるせぬ疑いでもあってなのか」
 と、訊いていた。
「いえ決して――」と殿ノ法印は猪首(いくび)をかがめ。「さような河内殿とは思いませぬ。なれど余りに真っすぐな田舎武人」
「どうも、そちとは前々からちとソリが合わん風だの」
「なかなか」
 と、法印は笑いはぐらした。
「個人としては、世にめずらしき河内殿と、とくより尊敬しておりまする。なれどその楠木も、土豪の雄(ゆう)でこそあれ、中央の賢(けん)ではありませぬ。廟堂(びょうどう)のご政治むきなどには、とんと役にもたたぬ者と、記録所や決断所でもはや定評となっております」
「あの風貌は殿上でもだいぶ損していような。口かずも多くはきかず、いつも片目まばゆげに、沈湎(ちんめん)と坐っているとか。それでは錚々(そうそう)たる列臣のあいだにあっては、なお精彩がないはずだ」
「しぜん、腹のわからぬ者だという蔭口もございまする。したがこの良忠は、笠置(かさぎ)、赤坂、千早など、多年にわたって見てまいりましたゆえ、さような人物とは疑いませぬ。むしろその寡黙や沈剛の風を愛するのではございますが、どうもその……融通(ゆうずう)がききません。世事にはくらく、信じると曲げず、そのうえ無口ときているので、従来、楠木との談合だと、こちらがいらいらする例は一再ならずでありました」
「……あるな。ハハハハ、そんな風が」
「正直者です、直情です。しかし人は愚直とそれをいうのでしょう。ちかごろ、六条、二条などの河原では、凡下(ぼんげ)の輩(やから)が、やたらに落首(らくしゅ)をたてることが流行(はやり)でございますが、そのうちにこんなのもあったとか聞きおよびます……
まんなかを
あるけぬ世には
めぐり会ひて
 ……と」
「ははあ?」
「すると、たれやらそれに
みぎもひだりも
くらやみの関
 と添え句した者があるそうで」
「御新政を諷(ふう)したのだな」
「凡下(ぼんげ)のいたずら、深い意味ではございますまい。なれど洛民どもの間でさえ、宮将軍と足利とは、いつかは真二つに割れるにちがいない、新田と足利も、元々からの不和だしなどと、はやくも申しおりますそうな。……で、宮将軍へ付くか足利へ寄るか、とまたもや武士みな去就(きょしゅう)の迷いを右往左往にしておりますので、それを嗤(わら)ったのかもしれませぬ」
「ふーむ」
「かたがた、こよいのご談合は、機微むずかしいところです。そんな席へあの煮(に)えきらぬ河内殿が加わっては、新田、千種の両所も、ぞんぶん腹のそこを割っておはなしもできますまい」
「そうだの。余り才用のきかぬ不自由者は、時によって邪魔になる。まずよかろう。楠木を加えれば、名和(長年)なども入れねばならず、そう大勢となっては、密談の主旨(しゅし)にそむく」
 客殿に灯をみるとまもなくだった。約束のとおり千種忠顕(ただあき)と義貞はつれ立って来た。供もつれず、二人とも微行(しのび)であった。
「こよいは水いらずだ。いかにすべきかを、とくと諜(しめ)しあっておこうと思うが……夜は長い、ま、杯をとるがよい」
 宮は言った。まずそのお膝をくつろげて。
 客は、千種ノ中将忠顕
 新田右衛門佐(うえもんのすけ)義貞
 それだけである。それに殿(でん)ノ法印良忠が、宮のわきに侍(じ)していた。人払いした客殿の灯の外は、夜寒(よさむ)の虫声だけだった。
「佐(すけ)」
 と、義貞をさして、宮は。
「どうだな、都の住み心地は」
「は。何かと中将殿のおさしずをうかがっておりますれば」
「忠顕の指南役はよいが、この忠顕は、公卿らしからぬ荒公卿での。かつては、ばくち好きで女盗みの上手な男、と堂上までも聞えたものだ。その面の教授はうけぬほうがよいぞ」
「これは、きつい仰せを」と、忠顕は苦笑し「――そのような昔ばなしはまず措(お)くといたしましょう。……ほ。香のよい松茸(たけ)やら、種々(くさぐさ)な山の幸(さち)が、見事に台盤に盛られてございますな」
「む。たそがれ見えた正成の田舎土産だ。喰べてやれ」
「河内守がみえましたか」
「笠置寺再建の用務でのぼって来たという」
「寺の建立(こんりゅう)奉行などは、もっとも楠木にふさわしい役柄でしょうか。決断所ノ寄人(よりゅうど)などはあの仁(じん)の能(のう)でないとみな言います。自身もそれは知ってか、余り顔を見せませんな」
 野葡萄(のぶどう)の幾ツブかを口に入れ、忠顕はその皮を器用に懐紙(かいし)へ吐いてくるみながら言った。
 雑談の会ではない。まもなく宮将軍を中心に真剣な小声となった。目的は、尊氏をこれ以上のさばらせず、究極においては、自滅か追討の淵(ふち)へ追い落してしまおうとする点にある。
「そこで一案がございまする。……過日、そのことで北畠どのにお会いして、内々ご同意をも得ておりますが」
 と、忠顕はその“一案”なるものを、ここでもちだした。
“北畠どの”とは、いうまでもなく、前(さき)ノ大納言北畠親房(ちかふさ)のほかではない。
 この親房(神皇正統記の筆者)の北畠一門には、かつて近江伊吹山の下であえなく断罪にされた源(げん)中納言具行(ともゆき)がある。――当時、親房は出家して、一線を退いていた身であったが、やがて、みかどが隠岐へ流されると、隠岐と大塔ノ宮のあいだに立って、あらゆる蔭の働きと画策をささげてきたのであった。
 で、新政府の樹立後は、准大臣として、隠然、元勲の重きをなしていたのである。――それと、親房のむすめは、大塔ノ宮の正妃でもあったから、宮将軍の“反尊氏”のうしろだてに、彼がいたところで不思議でなく、事実また、親房も尊氏はきらいであった。――いや、彼のたれより生一本(きいっぽん)な皇室至上の理念とその気位が、尊氏のような武士層に人気のいいいわゆる“あらえびす”にたいしては、危険視が先立って、よくその人間を知ろうともせず、警戒の念をまず先に深くしていたといってよい。
 いずれにしろ、反尊氏の側(がわ)は、こうして機密な計(はかり)を“皇后ノ喪(も)”の期間にも着々すすめ、やがて数日の後には、宮が参内して、父皇後醍醐へ直接そのことをすすめていた。これが例の“一案”なるものだったのはいうまでもない。
「それはよい。……なかなか遠謀でもある」
 後醍醐は、その献策に、こう一議なく、うなずかれて。
「さっそく、大臣どもの議判にかけ、そのうえで裁可を与えよう」
「いや! 古びた仰せを」
 宮は、甘えるでもなかったが、父皇の前だといつもこうすぐ耳朶(じだ)を紅くする。何事によれ、歯に衣(きぬ)きせぬことが、生(う)ぶ声早々な新政体のためだし、唯一の孝道ともおもっておられるようなのだった。
「いかんのか」
 子なればこそか、父皇は笑って、子の護良(もりなが)を見ておられる。
「すべて、天子ご一存の新政となった今。いちいち公卿どもへおはかりなどにはおよびますまい」
「それでは補佐が無用になる。儂(み)とて、神ではないのだから」
「親房はよく言います。天皇は現人神(あらひとがみ)でおわしますと」
「あれもこまる。親房の一徹(いってつ)には儂(み)からして少々まいる。第一政治の直裁は、人間でなければできぬ。――其許(そこ)がしきりと憎む尊氏にも、よいところはあると思う。正成や義貞らにもない器(うつわ)の大きさ、また、衆望をひきつける何かがある」
「それが彼を増長させているのです。そうしたお上(かみ)の恩寵(おんちょう)を逆用して、勢いを諸州に蓄(たくわ)え、武士を手なずけ、時が来たら、天下の権をにぎって、いにしえの頼朝、きのうの北条に、おのれ成り代わろうとしているものを」
「護良(もりなが)」
「は」
「ここは二人だけだからよいが、余りな激語はちとつつしめ。いくたび聞いたことかしれぬ」
「にもかかわらず、お用いはいただけませぬ」
「わかっているのだ、わからずにいるわけではない」
「では、先ごろ尊氏へなされた過分な陞進(しょうしん)や恩遇(おんぐう)もですか」
「尊氏のもつ底力は、なんとしても無視できぬ。戦は終ったばかりなのだ。このさい、このんで彼を怒(いか)らすでもあるまい」
「いっそ怒らした方がよいのではありますまいか。今なれば、ふいに上意をかざして六波羅をつつみ、彼を討つことはまだ難事ではありませぬ。……しかし年を経て、彼の勢力が駸々(しんしん)と諸州に根を張るようにでもなったすえには、一朝(いっちょう)には仆せますまい。なぜなら前に北条の仆れた轍(てつ)を見ておりますから」
「待て。それゆえ、そうさせぬ政略として、そこが申し進めてきた今日の一案ではないか。――察するに、その献言は、親房の元案であるとみえるの。……そうだろう、そこの申す若さと、遠大な計(けい)の内容とは、矛盾(むじゅん)すぎる」
 それには、宮も口をとじるしかなかった。たしかに矛盾であった。宮の口吻では、一日たりと、尊氏は生かしておけぬ者としていたのである。
 だが、先に述べた案は、そう性急な計ではなかった。――徐々に、足利勢力をその基盤たる東国から牽制(けんせい)してゆこうという政略だった。
「のう……護良(もりなが)。それを容(い)れたらそこの意見も通ったのと同じではないか。まずもすこし尊氏の仕方を見ておれ。そしてその上でもなお、危険な者と見えたなら、いつでも討って取る備えを支度しておくがよい」
 かくまでの御諚では、宮も、父皇のお立場を察して、一応それで満足しなければならなかった。

 目ざましい行装だった。
 十一月の初めである。沿道の見物人は、その行列へ息をのんで、
「あんな小さい親王さまも、みなと一しょに、みちのく(奥羽(おうう))の遠くへ行くのか」
 と、信じられぬようなおももちで見送っていた。
 勅の旗を奉じて。
 この朝。――十七歳の少年北畠顕家(あきいえ)は、緋(ひ)ぶさ飾りの月毛に乗って、御所の郁芳門(いくほうもん)から奥羽の鎮守に赴任して行った。
 その顕家も、まだどこやらあどけない少年将軍の眉だったが、べつな輿(こし)へ乗って、軍士の群れに舁(か)かれて行った後醍醐の第八皇子(母は准后(じゅんごう)廉子(やすこ))――義良(のりなが)親王は、わずか六歳の幼少だった。
「なにも御存知あるまいに、お祭りにでも行く気で乗って行かしゃるのであろう」
 見物の男女は言っていた。
「あの年頃ならよ、おらどもの家(うち)のハナタレ坊主を見さッし、遊びざかりで、夜さりは、おふくろの肌を離れもしねえだに」
「それを遠くへ手放しなさる親御も親御だが、ようまた、得心して、行かしゃるものだの」
 庶民の親たちには、堂上人種の親子観念そのものは、ふしぎな酷薄さにおもわれて、いかに王政一新のためとはいえ、こうまで“人の情(じょう)”を超えてしなければならないわけがどこにあるのか了解にくるしんだ。
 しかしこの赴任は、すでに前の月の勅令で、
参議左近衛ノ中将顕家ヲ
陸奥守ニ任ジ
親王義良(ノリナガ)ヲ副(ソ)ヘテ
陸羽ノ鎮守ニ
差シ下(クダ)シ賜フ
 と、わかっていたものだった。
 そしてこれはまた、朝廷が東国東北の武士勢力を牽制(けんせい)するために打った一大布石であったことも、権力にたずさわる者にはすぐ読みとれていた。
 元来、奥羽二国の富は、日本の半分にあたるといわれていた黄金の産地ではあり、馬匹の供給源でもあった。――かたがた、平泉の藤原三代の府は亡んでも、あれいらいの伊達(だて)、佐竹、結城(ゆうき)そのほか北藩(ほくばん)数十の族党は、つねに不気味な武力と潜勢力の保持者である。――これが鎌倉に在る足利千寿王の翼下に収められないうちに、まず両者間を断ちきッて、掣肘(せいちゅう)しておく必要がある。
 さきに、北畠親房と忠顕から大塔ノ宮へすすめ、やがて帝のご同意となった一案とは、これだったにちがいない。――親房の子、顕家は、まだ十七の白面(はくめん)でしかないが、六歳の皇子を奉じて、その大任につくことになり、その朝、親しく天皇から詔、御衣、御馬などを賜わって、千里のさき奥羽の中心地に、鎌倉とも匹敵しうるほどな公武合体の小幕府をあらたに創(つく)るべく発足して行ったものだった。
 その補佐(ほさ)には。顕家(あきいえ)の父、北畠亜相(あそう)(親房)、結城宗広。――供には、冷泉少将家房、伊達(だて)ノ蔵人行朝、三河前司(ぜんじ)親朝、そのほか数千の弓箭(きゅうせん)が、列の先も霞(かす)むばかり流れて行った。
 そして、これがすむと、こんどは十二月の中旬、足利家へたいして、足利直義(ただよし)への、鎌倉赴任が、朝廷から命じ出された。
 幕府は亡んでも、鎌倉そのものは、まだ生きている。
 当然、新政府はそれを、
「いつまで、いまのままにはしておけぬ」
 と見ていたに違いない。
 で、朝令によると。
 成良(しげなが)親王(義良(のりなが)の兄)を、関東の管領(かんりょう)とし、足利直義(ただよし)朝臣(あそん)を相模守に任じ、その補佐とする――
 というものだった。
 要するに、そこを奥羽の鎮守と同格なものにして、武士勢力をたがいに牽制(けんせい)させ、そのどちらにも親王将軍を上において、都の朝命を、一様に布(し)かせようという政治構想のものと見られた。
「兄者(あにじゃ)」
 直義は、命をうけて、いよいよ鎌倉へ下るという日の朝、尊氏の部屋へひとり来て、
「当分、西と東にわかれて暮らさねばなりませぬ。切に、おからだだけはお大事に」
 と、別辞をつげた。
「ご苦労だな、直義」
 尊氏はそういって。
「あとは心配するな。むしろ心配はそちの身にある。鎌倉へ赴任のうえは、まいどの言だが、控え目をくずすなよ。諸政、朝命のままにの」
「どうも、都ではちとやり過ぎたかもしれません。なぜか公卿どもはこの直義を、尊氏のふところ刀だの、切れ者だのといって、いたく恐れられております。鎌倉では、当分、呆(ほう)けておりましょう」
「が、その精力に吐け口がなくなると、そちの若さは前(さき)の高時にもなりかねんな。高時の真似はせんでくれい」
「ご冗談を」
 と、直義は笑った。
「それよりも、私と入れ代えに、嫂君(あねぎみ)(尊氏の妻登子)と千寿王どのを、都へお上(のぼ)せ申しましょうか」
「さ。……?」
 尊氏は考えていた。
 が、迷いを断(た)って。
「斟酌(しんしゃく)におよばん。母子(ふたり)は従来どおり鎌倉におくとしよう」
「お淋しくはございませぬか」
「まだ家庭の淋しさなどは思う身にもなっていない。わかるだろうがの直義」
「お察しできまする」
「この都とてまたの変(へん)が、いつ起るやもしれぬのだ。それと東国においても、北条の残党が勢いを培(つちか)って、これもいつ蜂起(ほうき)するか計りがたい。……妻子とひとつに暮らすなどは、さて、幾年の先になろうか」
 六波羅の広場では、はや人馬が整列を作っていた。直義について鎌倉勤仕となって行く諸将たちで、長井、二階堂、仁木、武田など数十家の人数は二千をこえている。
 その中には、もと北条家の重臣だった降参の将も少なからず見え、また飛騨守にあげられた岩松経家も、入っていた。
「では、たのむぞ」
 尊氏は、弟をそこまで送り出して、同時に東下(とうげ)する諸将たちへも、いちいち一顧(いちこ)ずつの別れを送った。――もちろん、この列は、いちど御所の郁芳門(いくほうもん)へ立ち寄り、成良(しげなが)親王のお輿(こし)を奉じて、それから立ったことなので、何かと手間どり、じっさいに都を出たのは、午(ひる)ごろになっていた。
 かくて奥羽にも鎌倉にも、幕府でない、新政体下の民政府ができ、一応、形はととのったかのようなうちに、元弘三年は暮れ、明けて、建武(けんむ)元年に入っていた。

「あっ。もしっ……」
 居酒屋の女はあわてて呼びとめたが、たらふく食ッて飲んで立った三人づれの侍は、もう六条の往来中を、もつれあって歩いていた。
 するとすぐ、女に代って、店の亭主らしいのが、突ンのめるように、その三人を追いかけて行き、
「だんな、ご冗談を」
 と、恐々(きょうきょう)ながら、何か片手の物をつき出して、哀訴にかかった。
「なに」
 と、侍たちは、その手へ、ぎょろと一瞥(いちべつ)をそそぎ合って。
「冗談とは何だ、冗談とは」
「どうぞ、その……召上がったお代を払っていただきたいんで」
「酒代か」
「へい」
「正直なやつではある。剰銭(つり)はいらんよ。酌(しゃく)の小女にくれてやったのだ。取っておけ」
「おふざけなすっては困りますよ」
「まだ言ってやがる。よく見ろ。うぬが手に持っているそれが金だ」
「これは……だんな、どう見たって、銭(ぜに)ではございませんぜ、ただの紙キレで」
「知らんな、きさまはまだ」
「たれだって、こんな物ア」
「こんな物とはなんだ、こんな物とは。これっ。かりそめにもこれは、朝廷の御名を以て、あらたに御発行なされた“楮幣(ちょへい)”と申す貨幣なのだぞ。……“銭(ぜに)五百文(もん)也(なり)、記録所ノ頭人(とうじん)、造楮幣使(ぞうちょへいし)、中御門(なかみかど)ノ宰相宣明(のぶあき)”と、お花判(かきはん)まで刷(す)ってあるのが読めないか」
「…………」
「ははあ、文盲(もんもう)とみえるな。読んで聞かせる。その裏面(うら)を返してみい。――楮幣(チヨヘイ)ハ銅幣『乾坤通宝(ケンコンツウホウ)』ト同ジク併(アハ)セ用ヒ、一切ノ交易ニ滞(トドコホ)リアル莫(ナカ)レ――としてあるのだ。よくおぼえておけ。すなわちこれは、ことし建武元年正月から、ひろく朝廷から発せられた楮幣と申す銭(ぜに)なのだ」
「で、でも」
「まだ申すか」
「ちょへいか、ちょろまかしか知りませんが、こんな紙きれでは、市(いち)の仲間が受けとってくれません」
「だまれ。そんなはずはない」
「ないッたって、世間で通用しないものは、どうしようもありませんや。銭(ぜに)でお払いなすってください」
「銭など持たん」
「じゃあ食い逃げなさるおつもりなんで」
「こいつが」
 と、やにわに、侍の一人は、亭主の襟がみをつかんで。
「かりにも、大塔ノ宮の候人(こうじん)、殿(でん)ノ法印殿に扶持(ふち)されているおれどもをさして、よくも食い逃げ武士と、汚名をきせたな。――しかのみならず、御新政の楮幣(ちょへい)をば、ちょろまかしの紙キレと吐(ぬ)かすなど、怪しからん奴だ。もうゆるせん。さアこう来い」
 盛り場の辻でもある。
 まわりはたちまち黒山の人だかりをみせていたが、こうなると、わっと一角から崩れ立つ。
 居酒屋の女房であろうか、
「――助けてえっ。うちのひとを。うちのひとを」
 と、はだしで駈けて行くのもみえたが、殿(でん)ノ法印の身内と聞いては、たれも恐れをなして、詫びてやる者もなかった。そしてただ「ちょへい? ちょへい?」という怪訝(いぶか)りの小声だけが、魔の※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)きみたいに、盛り場の昼を、吹き廻っていた。

 宮の候人(こうじん)、殿(でん)ノ法印良忠は、大塔幕下(ばっか)第一の羽振り者だが、神泉苑にちかい六角の彼のやしきも、宏大なこと、世をも人をも恐れないものがあった。
 朝から晩まで、人出入りが多いのも特徴で、「……今日は何があるのか?」と往来の目は振向いて行った。去年、硫黄(いおう)島から帰されてきた文観(もんかん)僧正の供人の列なども、しばしば門を出入りしていた。
 すべてみな、時めく宮将軍の威勢が、背光となっていたのはいうまでもなく、その背光を負って、近ごろ彼の門では、
 一能一芸の士を招く
 と称し、公然と、強弓をひく猛者(もさ)や、太刀使いの達者を、ひろく世間から募っていた。ましてしかるべき武歴でもあれば、どしどし召抱えて、邸内の侍長屋や兵舎に入れ、私兵として、唸(うな)るほど飼っていたのだった。
「おい、町にはまだ、怪しからんやつがおるぞ」
 そこの兵舎門からいま居酒屋のおやじの襟がみを引きずッて入って来た三人の侍も、おそらくここの私兵仲間か。その組頭でもあったのか。――広場までくると突き放して、
「いためてやれ。くせになる。御新政のためにもならん」
 と、あたりへ言った。
 奇妙な世界といっていい。兵舎にはちがいないが、長屋によっては、赤子のオムツや女の腰巻めいた物が干してあり、べつな囲いでは、博奕(ばくち)にうつつを抜かしている車座の群れがある。かと思えば、的場(まとば)へ出て、片肌ぬぎで、弓の射競べに、汗をぬらしている連中を、むしろの上で、酒をのみながら見物している――もちろんそれも、武技の励みではなく、賭(か)け弓(ゆみ)だった。銭(ぜに)、新発行の楮幣(ちょへい)などが、むしろ仲間でさかんにやり取りされている。
「おや組頭が、誰か、しょッ曳いて来たらしいぜ」
「六条の飲屋のおやじだ」
 四、五人が抜けて、彼方へ走り、その三人と何か話しているうちに、一同、げたげた笑い出していた。
「何のこった、また楮幣(ちょへい)のいざこざか」
「いやおれもゆうべ、同じ目にあった。いつもの遊女宿(あそびやど)で楮幣を出したら、売女どもまで口をそろえて、これは紙キレだと吐(ぬ)かしおる。――そこで、ばかめ、これは天朝様のご証文だ、うぬらは都に住みながら、天朝様のご証文ではいやなのかと一喝(かつ)くれたら、それなり黙って引っ込めやがった」
「ところがだ」と、三人の方のひとりが言った。「このおやじには、そんな物分りすらもない。あげくに、おれどもを食い逃げ武士と人中で罵(ののし)り、楮幣(ちょへい)やら、ちょろまかしやら知らぬなどと、御新政向きまで誹謗(ひぼう)しおった」
「こいつがか」
 と、おやじの横顔へ足蹴をくれた一人の私兵が、私兵のわが身にくらべて言った。
「ばか野郎。おれどもがいただく給与は、この正月からみなこの楮幣(ちょへい)で支払われたのだ。それが通用もせぬ紙きれだったら、この身ばかりか女房子は乾干(ひぼ)しだわ。しかもおれどものは体を張(は)ってのご奉公だぞ。酒の売掛けが取れなくても命に別条はあるまいが、こっちは、まかりまちがえば命が飛ぶんだ。……ふざけやがって。……どうして楮幣がいけねえんだ?」
 これは道理である。「――どうして楮幣がいけねえんだ?」と問いつめる彼ら私兵の言い分は間違っていない。
 けれど一方、酒屋のおやじが、従来見たこともない一片の紙キレなどを、銭(ぜに)として受けとれない、と頑張ッたのも、これまたもっとも至極であった。
 まして今のような世に、刀も帯びず、権力にも守られず、ただ頼むものは金でしかないと、銭に生き、銭と苦楽を一つにしているしがない一個の市人(いちびと)とすれば、私兵の兵舎でゴロゴロしている彼ら以上にも真剣に言い争ッたのはむりではない。
 するとこの騒ぎの折へ、殿(でん)ノ法印の家臣が駈けて来て。
「何事だ、しずまれ。法印殿がおひろいで見えられるぞ」
「え、お見廻りで」
 私兵たちは、俄に、その慌てぶりを思い思いにして、附近の侍長屋や兵舎の方へ、拇指(おやゆび)を示しながら、
「おうい。来るぞ」
 と、知らせ合っていた。
 博奕(ばくち)仲間もゴロ寝の組も、みな飛び出して、厩(うまや)の世話だの武器庫の方へ歩いて行く。――と、その広い地域をななめに、法印良忠は、きれいな小姓やら侍者(じしゃ)を連れて、これへ来るなりすぐ地に仆れている居酒屋のおやじの姿に目をとめていた。
「これ。なにをしたのだ、その者は?」
「はっ」
「町人ではないか」
「さようで」
「だいぶ足蹴にあって、傷(いた)みつけられている容子(ようす)だが」
「捨ておけぬ奴でございまする」
「間諜(いぬ)か」
「いや、たかが居酒屋のおやじではございますが、御新政にそむいて、楮幣(ちょへい)を受けとらぬばかりか、こんな物は紙クズだなどと、恐れもなく、人中において政治(まつりごと)のご誹謗を吐(ほ)ざきましたゆえ、懲(こ)らしめずばなるまいと」
「ははあ、こやつも楮幣に不服なのか。ならばなぜ、折檻(せっかん)などせず、表向きに、検非違使(けびいし)ノ庁へつき出さんか。――この良忠から一札(さつ)を添えて引渡してやる。のちほど、表役人の手もとまでつれて来い」
 法印は、颯爽(さっそう)と、小姓たちを連れてすぐ歩きかけた。
 すると、私兵頭の侍の一人は、自分たちでも、じつは内々不安としている楮幣の真価を、ふと、法印その人へ、直接ただしてみたくなったのだろう、つい思い余った容子で、
「ただその、念のため、お伺いしてみるだけでございますが、ほんとに、手前どものいただいている楮幣は町で費(つか)ってもよろしいンでございましょうか」
 と、恐る恐る訊いてみた。
「なんじゃと」
 法印は、大喝して。
「きさまらまでが、天下通宝の楮札(ちょさつ)をば、心では疑いおるのか。また、通用もせぬ札(さつ)を以て、この殿(でん)ノ法印が、きさまらの給与を支払い、それで、きさまら皆、食えぬとでも申すのか」
「と、とんでもない。さらさら、さようなわけでは」
「たわけめが。手下の兵へもよく申しわたしておけ。いまや王政の下、その朝廷の御保証において発兌(だ)された楮幣(ちょへい)なのだぞ。しかも汝らは宮将軍の一兵だ、世間の中でも威張ッて費(つか)え。もし非を鳴らす者あらば、いつでもわが門へ引ッぱって来い。――それなる酒屋のおやじ同様、検非違使(けびいし)の牢へぶち込んでくれる」

 俗に。六条をもじって“六道の牢”と世間でよぶ検非違使の雑人牢は、むうっとするほど人間でいっぱいだった。
 なんで入れられたのか。
 居酒屋のおやじはどう自分を低く考えてもわからなかった。殿(でん)ノ法印からここへ引渡され、一(いち)どの調べもなく放り込まれていたのである。「……たくさんいるが、ほかの衆はどうなんだろう?」と彼の闇馴れて来た目は徐々に、まわりの者の影をさぐり見ていた。
 近ごろやたらにふえたと聞く、火つけ、群盗、辻斬り、残党といったような恐(こわ)らしい人相の者は一人もいないらしい。日ごろ町で見つけているただの男女ばかりである。いささか彼は安心すると、商売柄、口もかろく、そろそろ暗闇の中の無口な魚たちへ小声ではなしかけていた。
「もし。おまえさまはどう見ても、どこぞの旦那衆のようなお方だが、どうして牢などへ、ぶち込まれなすったのかね」
「わたくしですか」
 と、その五十がらみの男はいう。
「悪いことをした覚えは何もありませんが、ただ先日のこと、記録所にお勤めのさるお公卿さまから、唐織(からおり)十反、そのほか品々のご註文があったので、よろこんでお納めすると、その代金じゃといって、楮幣(ちょへい)とやらいうひょんな札(さつ)の束(たば)を手代にわたしてよこしたではございませんか。驚きましたね。かような紙では、代金とも物代(ものしろ)ともいただきかねますと、自分でお返しに伺ったところが、怪しからぬ奴、ひかえておれとのことで控えていると、まもなく検非違使からお役人が来ましてね」
「へえ? じゃあおまえさまも、何か、楮幣を悪くいったんですかえ」
「それあ、言いますよ。商人(あきゅうど)ですもの。あんな紙きれを、銭だといって、糸屋や織娘(おりこ)へ払っても、先で承知するもんじゃありません。……わたしばかりじゃない、そこにいる法師も工匠(たくみ)も、また向うにいる田楽(でんがく)役者の一と組も。かわいそうに、隅の方で寝こんでいるあの十五、六の子供までがそうなんですからな」
 おやじは気づよくなった。牢中のあらましが、楮幣拒否罪だったのだ。
 いや、もっと彼を驚かせた一事がある。牢には、一羽の雀も入っていた。――ぴらっと何か飛ぶものがあったので、ふと目で追うと、隅で寝ている浮浪児のような汚い少年の姿に止まり、そしてチュン、チュンと、二た声三声、少年の肩や寝顔をめぐッて弾(はず)んでいるのである。
 だが、少年はぐッすり寝こんでいて目醒めもしない。そのうちにこっちは話がはずんでいた。河原に、楮幣(ちょへい)を皮肉った落首(らくしゅ)を立てて捕まった法師だの、楮幣で洟(はな)をかンだことが知れて引っ張られた遊女(あそびめ)だの、どうせ罪は軽いと信じているのか、割合にみな陽気なのである。
 ところがその夕、たいへんなことが牢外の噂に流れた。――殿(でん)ノ法印の献言で、新政府では、発行早々とかく市民の間で軽侮されている楮幣の流用と絶対価をここで徹底させるため、楮幣拒否のかどで捕えた入牢(じゅろう)中の者をみな、見せしめのため、六条河原で首斬れと、ここの庁へ達してきたというのである。
 ――牢中はみな色を失った。
「どうしてだろう?」
「楮幣を断わッたぐらいな科(とが)で」
「まちがいだ、首を斬られるなンて法はない」
「でも、たしかに役人が外で話していたよ、順ぐり河原へひき出して、見せしめに断罪とするにきまったらしいと……」
「わからない。ああ」
 突如、発狂しそうな声が、
「ご新政だ、ご新政だ!」
 すると、くらやみの中の人間がみな、それに和して、呪(のろ)うように嘆(なげ)きあった。
「これがかい? ……これがご新政だというのかい」
 むりもない。この国での紙幣の慣用などには、まだまったく未経験なところへ、新政府の公布も法令一片で、ほかになんらの馴致(じゅんち)をうけていた民ではないのだ。
 ただついて来いというのが、新政府の強権意識であったとみえる。事のおこりはこの建武元年の正月、天暦(てんりゃく)いらい荒廃のままとなっている
 大内裏(だいだいり)造営
 の議が決まって、さてその国費は? というところから、このくるしい捻出案も即時に可決されたものだった。
 ただでさえ、新政府の財政面は火の車なのである。破壊だけで、生産、建設面はまだ何一つ行われていず、天皇の還都いらいは、朝威をかざるに急で、諸式万端、華美と見栄に走って、さいげんもない加速度な支出をぜひなくして来ている。――しかもなお当分は、諸国の貢税(こうぜい)による国費の予算案などは立つ見込みもない。
 これでうなずかれるというものである。政務にある公卿大官から、内奏のきく准后(じゅんごう)のあたりまでが、がつがつ、賄賂(わいろ)を取りいれたというのも、一つにはこの渇(かわ)きが招いたものであったのだろう。――また、こうした新政府の閣僚たちであってみれば、天下は公家(くげ)一統に帰す、としているその気負いと、諸政革新の急鋒にまかせて、ここに、
 改銭ノ詔(しょう)
 を請うて、わが国初めての、楮銭(ちょせん)、すなわち紙幣の発兌(はつだ)を断行したのも、いわれないことではなかった。
 だが、これとて、独創の案ではない。隣邦の中華では、すでに元朝(げんちょう)の初めにこれをこころみて失敗していた。紙幣制度にはかならず附帯していなければならない兌換(だかん)の約が国におかれてなかったからである。――ところが、建武の新政府にもその裏打ちは何もない。ただ形だけを異邦の先例にとってその真似をしたにすぎないものだった。
 もっとも、詔と同時に、鋳銭局(ちゅうせんきょく)ノ長官中御門宣明(なかみかどのぶあき)は、銅銭の「乾坤(けんこん)通宝」のほうも昼夜、鋳物工を督してつくらせてはいた。しかしいずれにしろ経済膨脹の余波がやがて物価におよび、さらに生活混乱のおそろしい様相をよびおこす日はもう寸前といっていい。それは知れきったことだった。にもかかわらず、気鋭な若公卿や経済面にくらい新政権の当局たちは、ただ楮幣(ちょへい)の流通がいたるところで嫌われたり、また官民間の物議となっている現象へだけ気をいらだてて、ようやく、
「これではならん」
 と、首をひねっていたところだった。――そこへもし、噂のごとき殿(でん)ノ法印の献言だとすれば、なるほどこれは、見せしめの首斬りが行われるという六道牢の恐怖が、事実化する可能はある。

 雑炊桶(ぞうすいおけ)をさげた牢番二人は、毎度のように、中を覗いて、わめいていた。
「やい、どうしたンだよ、日が暮れれば餓鬼のようにガツガツしていくさるくせに。いらねえのか今夜の粥(かゆ)は」
「ア。すみません」
「早く椀を出せ。椀を」
「いただきます順ぐりに……」
「取ったら、早く次の奴と代れ」
「ですが、牢番さん」
「うるせえナ、何だよ」
「ほんとでしょうか。昼、牢のそとで、お役人と番衆が、立話で言ってたことは」
「知らねえよ、おらあ」
「楮幣の科(とが)で入った者はみんな河原で首になるって噂ですが」
「なると思ってたらいいじゃねえかよ。それ以上は心配なしだ」
「じゃあやっぱりほんとですか」
「首になる朝は、かたい盛り飯に、白饅頭(しろまんじゅう)が三ツ付くよ。その日になれあ分るこった。楽しみに待つがいい」
 晩の牢内は、もう呪いの声もしなかった。それでもみな粥(かゆ)だけは喰べたらしいが、寝息もしない沼だった。
「……おじさん」
 昼、牢のすみっこで、よく寝こんでいたあの浮浪児じみた少年であった。悄(しょ)げ込(こ)んでいる居酒屋のおやじのそばへ寄って来て。
「ね。おじさんの店は、戦争前は粟田口(あわたぐち)にあったんだろ。あの辺も焼けちゃったけれど」
「ヘエ……。よく知ってるな」
「おらあ、何度もおじさんの店へ、お師匠さんの使いでお酒を買いに行ったんだもの」
「そうか!」おやじは、大きく眸をこらしながら、「む……そういえば、おもい出した。おまえ、雀をふところに飼っていたね」
「飼ってるよ」
「すると、吉田山の兼好さんのお弟子じゃないか。命松丸(めいしょうまる)とかいったように覚えているが」
「その命松だよ。おじさん。……みんなもう首が失くなっちまった人間みたいに、さっきから悄(しお)れてるけれど、どうだろう、おらがこれから知ってるお方の門へ行って、命乞いを頼んでみたら?」
「ありがとうよ」
 おやじは、涙だけをためて。
「気もちはありがたいが、おまえはここをどこだと思うのか。ここは六条の六道牢だぜ」
「だって、雀じゃないが、おらならここを出られないこともないよ。あの高い切窓からね」
「それよりおまえはどうしてここへ入れられたのだ」
「河原の落首が悪かったんだよ。よく河原へ落首が立つだろう。あれをうちの兼好さまが、いつも面白がっておいでだから、使いに出るたび河原へ廻って、書き写してはお目にかけていたんだよ。……すると運悪く、きのう役人に見つかってさ。……でもおらあ、死んでもお師匠さんの名は口に出さないときめてたからね」
 自分はまるでこの中でない圏外にでもいるような彼の明るさなのだった。むしろの上のあちこちに澱(おど)んでいた男やら女やらの影は、急にワラをもつかみたい目つきになって、彼のことばに耳を研(と)いでいた。
 命松丸はなお言った。
 自分のお師の兼好さんはお顔がひろい。たとえば雑訴決断所の寄人(よりゅうど)佐々木道誉さまなども古くからのお友達だ。――だからそうした御知人の門をあるけば、何とか助かる道がつこう。嘘じゃない、おらを信じて、その訴願の使いに出してみてくれ。首の座を前に、これだけの人間がただ悲しんでばかりいるなんて、余りに能(のう)がなさすぎるじゃないか、おらでさえ見ていられない……と、昂(たか)ぶって説(と)くのであった。
 すると、むくむくと、這い寄ってきた男女のうちの一人が。
「ほんとかね。ほんとにおまえは兼好さんのお弟子で、道誉さまもご存知かい?」
「どうしてそう疑うのさ」
「じつは、わたしたちは田楽者(でんがくもの)だ。戦もやんだので、近江の衆と一座して都へ稼ぎに出ていたわけよ。するとおとといの辻猿楽(つじさるがく)で、仲間の役の一人が、楮幣(ちょへい)に引ッかけて、楮幣もじりの戯(ざ)れ舞(ま)いを演(や)ッたところ、お客には大受けに受けたものの、そのあとは、たいへんな事になってしまってね」
「捕まったんだろ」
「そうだ。楽屋じゅう十把(じっぱ)ひとからげに引ッ立てられ、三人四人と別々な牢へぶちこまれたというわけさ。……ま、長くなるから、それはともかく、道誉さまは伊吹のご城主だし、近江田楽はそのご領下のものなんだよ。中でも花夜叉などはお抱えの一座だが、わしらは諸国を打って廻る素の旅芸人でしかない。だが、それにしろご縁故はあるのだから、もしお耳に入れば、何とか助けて下さらぬかぎりもないと思われる。命松さん、ほんとにおまえ、行ってくれるかね」
「あ、みんながその気になって頼むなら」
「どうして牢を脱(ぬ)けられる?」
「あそこの、高い切窓まで、ここの者がみんなして背なかを組み、それを人梯子(ひとばしご)にして登れば造作ないだろ」
「でも、窓は小さいが」
「だいじょうぶ。おらの体はもっと小さいぜ」
「外は、たしか紙屋川だし」
「だからなおいいよ。みんなの帯をつないでおらに持たしてさえくれれば」
 日頃の大人たちも、今はみな、一少年の素朴な機智に全生涯をあずけて悔いない顔つきになっていた。それに命松丸も、世間の大人たちから、かつてこんな信頼感をもって身をくるまれたことはない。師の兼好と友の雀のほかは、みな自分を“寝小便小僧”と嫌ったり冷たい目で刺すばかりで、およそこうまで大人が自分をみとめてくれた覚えはなかった。それが彼を無性にその行動へ弾(はず)ませてもいたらしい。
 やがて。その夜のうちのこと。
「……放すよ」
 彼は首尾よく牢をぬけ出して、その体を、紙屋川の水の中へ、肩の辺まで浸(つ)けていた。そして後ろの高い土壁の切窓を振り仰いでいた。
 すぐ、スルスルと長くつないだ帯の影が牢の中へ手繰(たぐ)りもどされて、その端も見えなくなった。だがまだ彼は仰向いたままでいた。――するうちに、ピラと彼の待つものが切窓から降りて来て、彼の肩にとまった。まもなく、ジャボ、ジャボと水音を忍ばせて、紙屋川の向うへ彼は消えて行った。

「そうか。あれはもう夜明け近かったのか。……なにせい、えらいやつに舞い込まれ、とんだ訴えを聞いたものだ」
 道誉(どうよ)は今朝笑っていた。
 佐女牛(さめうし)の邸である。彼の思いだしていたものは、命松丸(めいしょうまる)の姿だったにちがいない。
「主膳。そして、あの小僧は今朝どうしておるな」
「朝餉(あさげ)をくれ、ひとまず双(ならび)ヶ岡(おか)へ帰れと申して追いやりました」
「双ヶ岡の法師の許へ帰っていったか。さすればその兼好(けんこう)も、あとからやって来るかもしれんな。いやあの気まぐれだ、見えぬかもしれん。政治向きには一(いっ)こうつんぼを装(よそお)うている曲法師(くせほうし)よ」
 しかし道誉はゆうべ、命松丸の訴えをかなり熱心に聞いてはやった。そして「安心せい」ともよろこばせてある。
 そのための他出だろうか。まもなく彼は供揃いを命じ出した。一ト目で佐々木家とわかる道誉好みの“山吹いろ一色”の行列は、やがて華奢(かしゃ)な粧いをこらした主(あるじ)を螺鈿鞍(らでんぐら)の馬上にみせて佐女牛から練って行った。
 すると大路の一つの辻で、ふいに供頭の侍が、
「やい、こっちが先だわ、待て待て」
 と、何か大わめきに猛りだしていた。見ると、べつな一列が横から出て来て、道誉の列の先頭と交叉(こうさ)しかけ、どっちも道をゆずろうとせず、威嚇(いかく)のし競(くら)べになったものらしい。
 その豪勢な行列は、流行語の色(いろ)一揆(き)でいうならば“黒(くろ)一揆(き)”とでもいえそうである。供の半数以上は、蟻(あり)の化け物みたいな黒衣の僧侶で、あとは胴巻姿の武士どもだった。そして僧はいずれも薙刀(なぎなた)を持ち、武士はもちろん大太刀を横たえ、また、これらの主(あるじ)かと思われる一人の男は、輿(こし)をつれているが、それには乗らず、紫衣金襴(しえきんらん)の僧正すがたをほこらかに、でんと、黒鹿毛の背にまたがっていた。
「ははあ、文観僧正(もんかんそうじょう)だな」
 道誉は列の中から、彼方へ目をやりながらすぐ「……まずい」と思った。
 ちかごろ飛ぶ鳥も落す勢いの宮廷僧は、文観上人だといわれている。いぜんから高徳(こうとく)の聞えはあって、後醍醐に瑜伽灌頂(ゆがかんちょう)の法をさずけ、元弘の元年には、例の“中宮御産(ごさん)の祈祷(いのり)”と称し、北条調伏の呪(のろ)いを行ったかどで、硫黄島(いおうじま)流しとなった豪僧なのだ。
 それが去年、硫黄島から解かれて帰洛してからは、がぜん羽振りをふるい出し、公卿といえ武家といえ、彼の鼻息(びそく)を怖れぬはないほどだった。なにしろ准后(じゅんごう)をはじめ後宮の女人もすべて彼の随喜(ずいき)の弟子とさえいわれているうえ、内々には政治の面にも、彼のくちばしが入ると信じられていて、ちょうどその威勢は、かの孝謙帝(こうけんてい)の朝(ちょう)における道鏡(どうきょう)に似たようなものがあるという。
「ひかえろ」
 道誉は喧嘩の中へ来て、まず自分の供侍らを叱りつけた。
 そしてすぐ、馬のかしらを曲げ、文観のそばへ来て馬を降りるやいな、
「まことに慮外なご無礼を。……家来に代ってお詫び申しあげる。さ、どうぞお先にご通過を」
 と、謙虚に言った。
「や、佐々木殿ご自身か」
 と、これには文観も恐縮ないろを見せ、おなじく、馬をすべって、あいさつを互角にした。
 おれが、おれが、の時代である。人の後ろにかがんでいては恩賞にも屁(へ)にもならぬ。そのままにさえ踏みつけ去られる。これが時人(じじん)のあたまにあった。道行く列の色(いろ)一揆(き)なども、つまりは、おれ見よがしの流行だろうか。
「いや、無礼のかどはお互いとしよう」
 文観は、にんまり笑う。
 精力的な五十歳がらみの肉(しし)むらをくるむ紫衣(しえ)と金襴(きんらん)からは、名木(めいぼく)の香と人間臭とが一つに交(ま)じって立ちのぼっている。
「なにせい昨今、洛内の人口は、古今未曾有(みぞう)な殖(ふ)え方(かた)だとかいっとるの。しぜん往来も気が荒うなるのじゃろ。つい道すら譲れん意地張りになるとみえる。あとで供のやつらを叱りおこう。道誉どの。お腹を立てまい」
「なんの……」
 と、一そう道誉はいんぎんに。
「おそらくは参内のご途上でしょうに、どうぞお列を先におやりください」
「お辺(へん)はどちらへ」
「されば二条の千種(ちぐさ)どのまで」
「ほ、ほ」
「じつはちと、世相、憂(うりょ)うべきものを感じまして、後刻には、殿(でん)ノ法印(ほういん)どのの許(もと)へも伺いたいとぞんじおりまする」
「ならば、のちほどまた、ご一しょになるやも知れんな。――参内の帰途、愚衲(ぐのう)も六角の法印邸へ立ちよる約束をしておるで」
「それは倖せです。まずどうぞ、お鞍(くら)の上へ」
「ゆるさっしゃい」
 文観は、馬上に返ると、高い所からの一顧(いっこ)の愛想を道誉に残して行ってしまった。
 その姿は、一団の騎馬にくるまれ、徒歩(かち)の供僧やら武士やら百人以上な大列だった。それが朱雀(すじゃく)大路もせましと辺りを払ってゆくさまは、妖(あや)しいばかりな威風に見える。
「いつもこうなのか」
 道誉は左右の臣にきいていた。
「――世間はおれを婆娑羅(ばさら)というが、おれもおよばぬ婆娑羅僧正ではないか」
「何せ、たいした上人(しょうにん)でございまする。お住居の坊には武器財宝など山と蓄(たくわ)えられておるそうで。……時には、天蓋輿(てんがいごし)に乗り、供には、数百騎をつれての参内の日もありますとか」
「ふふン。喧嘩なら喧嘩も来いという構えか。変った上人が出てきたものだな。つまり陽気のせいだろ、これも乱世の」
「さようかもしれません。町の蔭口も、今道鏡(いまどうきょう)だなどといっておりますそうで」
「今道鏡か、なるほど」
「が。君恩をかさに着て利欲名聞(みょうもん)のほか何ものもない行状は、ごく近ごろのことゆえ、きっと硫黄(いおう)ヶ島(しま)にいるあいだに、天魔外道(てんまげどう)に心を食われ、都返りをして来た者は、その外道の身代りだろう……などともいっておりまする」
 彼の行列もまたそこの辻をあとに流れだしていた。道誉はゆるやかな馬の上で、
「は、は、は、は」
 なにがおかしいのか、いつまでも肩をゆすっているふうだった。おれの上を超す同類が出てきたと思ったのだろうか。あるいは、時の湿地が咲かせる隠花植物や化(ば)け菌(きのこ)の多種類なのに、さすがの彼もあきれていたのか。
 まもなくその道誉は、二条千種(ちぐさ)邸の例の水亭で、あるじの忠顕(ただあき)と何事かを懇談していた。
「よろしい。さっそく、お辺(へん)の望みのように取りはからおう」
 忠顕のことばに。
「やれこれで伺った効(かい)がある。ありがとうぞんじまする」
 と、道誉はくりかえして礼をいった。
「なんの、礼にはおよばん。事は、わたくしごとでない。すこぶる聴くべきご意見じゃ。――ただ不届きな凡下(ぼんげ)とのみ見て、これを河原で首斬るなどは、見せしめにならんで、かえって御新政への怨嗟(えんさ)になる――。これは、お辺のいうのが、ほんとのようだ」
「が、この儀は、殿(でん)ノ法印(ほういん)どののご献言とか。万一、法印どのから、要(い)らざる道誉のさし出口と、お怒りをうけてはたまりません。そこをちと怖(おそ)れ憚(はばか)ッておりますが」
「でも……、見せしめの刑などをおこなわずとも、楮幣(ちょへい)の流通が円滑に相なるような、何かべつな一政策が、そちにはあると申すのであろうが」
「は。それには、この道誉、自信をもって、おひきうけするだけの一案を、ひそかに持っておりまする」
「ならば殿ノ法印とて、べつだんな不快もあるまい。……それになぜまたお辺は、直々(じきじき)、六角の法印邸へまいって、その人と会わず、ここへ相談にみえたのか」
「法印どのも、よう存じあげてはおりますが、しかし元々は、ご当家を介しておちかづきを得たものゆえ、まずはご内意を伺ってからと存じまして」
「ほ。この忠顕(ただあき)の世話を、お辺は、さまで心に銘(めい)じていてくれたか。いや珍重(ちんちょう)に値(あたい)する。近ごろは信義もすたれ、軽佻(けいちょう)な奴らばかりが多い中でよ」
「ご恩、忘れるどころではございませぬ。出雲に半国を賜わり、決断所の寄人(よりゅうど)にお取立てのことなども、ひとえにお力添えと存じますれば」
「…………」
 ふと黙った。忠顕がである。
 なに、それは、足利尊氏が上申(じょうしん)して、道誉の戦功をつよく主張し、その実現に努めた結果にほかならない。――ということを忠顕は知っているので、もしや道誉も知りつつトボケているのではないかと、ふと彼の一ト皮下が恐(こわ)く思われたからであった。
 しかし、ここでの道誉は、千種ノ中将忠顕にとって、まったく無二の者に思われた。こういう顧問は、彼には必要なのである。婆娑羅(ばさら)な半面もよく気が合うし、わけて武将間の内輪さぐりにも、市井(しせい)の雑訴を知るうえにも、得やすからざる人物、最良な顧問役と、彼は見ている。いまも信じて疑わなかった。
「使いをやろう。さっそく」
「お使いで事足(ことた)るでしょうか」
「わしと法印との仲なればだ。わざわざ両名が首をそろえ六角へ行くにもあたらん。文書(もんじょ)と使者の口上で足りると思う」
 地位は、はるかに高い忠顕である。こけんもあるにちがいない。いちど書院へ入って、書簡をしたため、家司(けいし)の重臣二人をよんで、こまごま、使いの口上をさずけてから、またもとの水亭へもどって来た。
「道誉、望みの件は、もう心配すな。あとは、例の楮幣(ちょへい)の人気を、お辺がどんなふうに昂騰(こうとう)させるものやら、それをわしは見ているばかりだ。うまくゆくかな?」
「それこそは、やさしいものです。ご心配にはおよびませぬ」

 まもなく。
「行ってまいりました。殿(でん)ノ法印(ほういん)どののご返書はこれに」
 と、忠顕の前には、さきに六角へ行った使いの二名が戻って、ぬかずいていた。
「ほかに口上はなかったか」
「は。ございませぬ」
「そうか。退がってよい」
 そのあとで、忠顕は、道誉へ言った。
「一議(いちぎ)におよばず、貴意に委(まか)すといって来た。これでよかろう」
「おかげで獄中におる多くの凡下(ぼんげ)どもの首が救われました。あとは楮幣(ちょへい)の流通をさかんにしてみせるだけが、道誉の責任にございまする」
「そこで、お辺の腹にある一案というのは?」
「追い追いに申しあげましょう。釈迦(しゃか)に説法(せっぽう)のようで恐縮でございますが。……そして、なおこの上の御助力を仰がねば実現もかないませぬで」
 と、道誉はここで、貨幣と人心との微妙な反射作用だの、元朝(げんちょう)の故事(こじ)だの、そして昨年度は、全国的に気温が高く、五穀豊作でもあったから、楮幣の裏付けは、充分に可能なはずであるなどと、自分の経済観から割り出したかぎりのものをかたむけた。
「なるほど。むむいかにも」
 と、忠顕は、ほとほと感じ入ったていで。
「――頼朝創業のときの例にならって、このさい、諸国の武士領へ、所領二十分ノ一の税(ぜい)を課すがよいと申すのか。さすれば、物資はどっと朝廷の廩倉院(りんそういん)に集積されて、楮幣裏付けの信用にもなり、かたがた、行き悩みの大内裏御造営の着工も、いやその国費の出どころにも、目鼻がつくというわけだの」
「じつは」
 と、道誉は急に話を折った。せっかく忠顕が熱意をみせだしたのに、話をかえて。
「今日、はからずも文観上人(もんかんしょうにん)に道で会いましたところ、参内の帰途、六角の法印邸へ立ちよるが、お辺(へん)も来ぬかとのお誘いに、かたい約束はせず別れましたが、どうでしょう、ご一しょにまいって、あの僧正にもこの建議に一ト肌ぬいでくれるよう、このおはなしをすすめてみては」
「いやつまらん」
 一言のもとに、忠顕(ただあき)はその人物までをけなし去った。
「あれは一種の妖僧だ、あんな邪僧に御政治のくちばしを容(い)れさせてはならん。なるほど、後宮の女人にはうけがよいし、みかどや准后(じゅんごう)のお覚(おぼ)えもよろしいが、その説くところは、男女交合の極致を宗教の中に置いた※(「咤−宀」、第3水準1-14-85)枳尼(だきに)の密教とやらであるそうな」
「ほ。それは初めてうかがいますが?」
「真言(しんごん)のうちでも封教となっておる秘密な経(きょう)だ。それへ勝手な教義や荘厳(しょうごん)を加え、宮中でおすすめしているばかりでない。文観の名をうたって、彼の弟子どもが関東にくだり、武蔵野の立川とやら申す所に邪教の道場をひらき、それがまたおそろしい勢いで世間の若い男女のあいだにひろまっているとも近ごろ聞いておる」
「つまり淫祀(いんし)邪教と仰せられますか」
「もちろんだ、さもなくて、わずかなまに、立川流などと申すいかがわしき教義が、そうそう燎原(りょうげん)の火のごとく世俗の中に弘まるはずはない。ま、とにかくそんな坊主なのだ、あの今道鏡(いまどうきょう)は」
 よほどソリの合わない仲とみえる、忠顕の口にかかっては、さしもの朝廷僧文観(もんかん)も、密教の邪淫の秘法を後宮に行う破戒堕落の悪僧にすぎぬとばかり、あたまからくそみそな評価なのである。
 だが?
 と、聞きての道誉には、まんざら、そうばかりとも思えない。宮廷内のあつれきも相当ひどいものと聞いている。たぶんにそれらの感情もあるだろう。
 これほどな世の革新を、ともかくも実現したみかどである。准后の廉子(やすこ)にしろ、賢(かしこ)すぎるくらいな女性だ。文観の宗旨(しゅうし)がたんなる邪教や愚昧(ぐまい)な説法にすぎぬなら、それにたばかられるはずはない。何か、その教義には新味があるか、べつな魅力があるのであろう。「……いちど親しく文観からそこを訊いてみたいものだ」と、道誉は、忠顕のいう悪口とは反対にひそかな興味をかられていた。
「……つまらん」
 やがて、忠顕はぷッつり言った。人をそしるおのれにも嫌厭をおぼえてきたように。
「やめよう、もうそんなくだらん他人の評は。ところで、どうだな道誉、酒としようか」
「けっこうですな」
「それとも、先を急ぐか」
「いやべつに」
「殿(でん)ノ法印(ほういん)のところに寄って、文観と会わんでもよろしいのか」
 忠顕の口うらにある嫉妬(しっと)を読んで、道誉は自分の口のはしにも気をつけた。
「なんの、今道鏡などに、会わねばならぬ用は何もございません。それよりも、せっかくのこと、今日はひとつ、道誉に所望がございますが」
「なんじゃの」
「いつもお招きの遊女(あそびめ)どもを、この水亭に坐りきれぬほど、大勢よんでいただきたいので」
「ほ。そして」
「遊(あそ)び呆(ほう)けるのも一快でしょうが、そのうえまた、彼女らの世界に楮銭(ちょせん)の価値を教えてやって流行らせます。……で、あなた様にも、さきに申しあげたとおり、諸国への貢税(こうぜい)の新制度やらその他の策を、明日にでもさっそくお上(うえ)へ御建議あることを、どうぞお忘れなきように」
 それから、二(ふ)た刻(とき)ほどたつと、ここの水亭の景は、まったく昼とちがっていた。
 堀川、六条、紅梅ノ辻子(つじ)、そのほか方々の妓家(ちゃや)からよび集められた一流の遊君たちが、ここをうずめていたばかりでなく、脂粉(しふん)の園(その)は狼藉(ろうぜき)をきわめ、酒に飽き、戯(ざ)れ口(ぐち)に飽き、芸づくしに飽き、やがては、
「賭(か)けよう。なんぞおもしろい賭(かけ)はないか。褒美(ほうび)を出すぞ。何か、考えろ」
 と、道誉の称(うた)い出しだった。
「ま、ほんと」
「ほんとだとも」
「ごほうびには、いったい、なにを下さるの」
「なんでもやる」
「お小袖。布。伽羅(きゃら)の油」
「そんな物代(ものしろ)ではつまるまい。現金をやる。ほれ、ここにこう積んでおく」
 あらかじめ彼が用意をしておいたものだろう。大ぶりな文庫(ぶんこ)をそばへ取りよせさせ、そのふたを開いてみせた。新しい銭札(せんさつ)の楮幣(ちょへい)がいっぱいにつまっていた。……しかし彼女たちは、顔見合せたきりで、何の昂奮もあらわさなかった。
「女たち。知ってるか」
 道誉は、手の切れそうな楮幣の一(ひ)ト束(たば)を函(はこ)から取って、
「これは紙の札(さつ)だが、かねとして費(つか)えるものだ。いわばお上(かみ)のご証文、楮幣五百文は銭(ぜに)五百文と同様に通用する。……さ、これをここへおく。勝った者への褒美にだ。さあ何でも始めろ」
 と、囃(はや)すように言った。
 しかし女たちは、一(いっ)こう弾(はず)んで来なかった。楮幣のことは聞いてるが、費(つか)えないことも知っていた。またそれを拒(こば)んで捕まった者も身ぢかに見ていて、手をふれるのもふるふるなくらいに思っているらしい。
「はははは。おまえたちは、まだよく分っておらんのだな。有難味も真の値打(ねうち)も……。よろしい、こん夜ここでの楮幣は、明日、わしの佐女牛の屋敷へ持参せい。――わが家の倉にある伽羅(きゃら)、油、宋(そう)の薬、白粉、唐織(からおり)、珠、釵子(かざし)、欲しい物と交易(こうえき)してやる。楮幣と引き替えで売ってやろう」
 遊女(あそびめ)たちはやや色めいた。
 なにも自分たちは、資本(もとで)を出すわけでなし、まちがっても、元ッ子ですむというもの。まして、道誉さまがああまでいうならばと、がぜん打算になったらしい。
「じゃあ、ほんとにあした、おやしきへ伺いますわよ」
「おお来い来い」
「そして何でも売ってくださる?」
「天下の通宝だ、何でも売る」
「ついでに、おやしきも買っちまおうか」
「それだけの楮幣を持ってまいればな」
「どうれ、そこに、どれほどあるの?」
「多くはない。祝儀(はな)として、賭けに勝った者にだけ取らせる。さ、始めないか商売を」
「そう、商売をね」
 ほかの妓(おんな)たちも、
「商売、商売」
 と、気を揃えてはしゃぎ出した。
 ばくち遊びなら何でも知らぬはない彼女らだった。ここのお館にも、投扇興(とうせんきょう)や貝遊びや、また双六(すごろく)とか半弓の遊具なども備えてあるにちがいないが、そんな殿上遊戯はお上品すぎておもしろくない。さりとて、銭投(ぜにな)げや賽(さい)コロのツボ伏せも、大道博奕(だいどうばくち)じみるしと、喋々(ちょうちょう)、協議のあげく、
「拳(けん)がいい」
「なに拳?」
「このごろ流行(はや)ってるあれよ」
「あれって?」
「お公卿拳よ」
 ことばの弾(はず)みで、そういってしまってから、妓(おんな)たちは、気がついたように、千種忠顕と佐々木道誉を見くらべて、急におなかを抱えて笑い合った。
「なにを笑う。お公卿拳とは、どうするのだ」
「悪いかしら」
「いや怒らん」
「なにも、わたしたちが考えた元祖ッてわけじゃないことよ。ただ流行ってるから真似(まね)しているのよ、よくッて」
 そこで妓(おんな)たちがする闘拳(とうけん)遊びを見ていると、拳(けん)の三則はふつうの拳とちがっていない。ただ狐と庄屋と猟人を、「公卿」と「天王さん」と「武士」に変えてあるだけのものだった。すなわち、公卿は天王さんに弱いかわりに武士には強く、天王さんは武士に弱くて、公卿には強い。
 拳(けん)に気合いがのッてくると、妓たちはすぐ夢中になった。三人抜くと楮幣(ちょへい)が十枚、五人抜くと、二十枚。文庫の楮幣もあらまし懸賞に出て行って、どの妓の膝にも、それが紙屑みたいにくしゃくしゃに持たれていた。
「よし、こんどは」
 道誉と忠顕が乗り出して、挑(いど)みかかると、彼女らは一せいに、
「だめ、だめ」
 と、排斥しあった。
「あなたがたは記録所の恩賞方よ。恩賞方が出ちゃいけないわ」
「どうして」
「負けたらどうなさるの」
「負けはせん」
「きまってるわよ、勝てないに。もう楮幣はおしまいでしょ。ないんでしょ」
「こいつめ」
 道誉はさらに、千鳥棚のべつな函から新しい楮幣を出して、膝の前に山と積み、
「さあ、来い」
 それを見ると、どっと嬌笑の陣を片寄せて、中のひとりがすぐ出て応じた。
「サ。いらっしゃい」
 もちろん、彼女らには勝てもしないし、道誉も忠顕も、勝つ気ではない。ただ楮幣を紙吹雪とすればよいのであった。
 その拳にも飽き、また馬鹿騒ぎの歓(かん)もつきると、やがて水亭の夜は、おひらきとなっていた。そして妓たちは、さらに楮幣のお祝儀(はな)を、それぞれ多分にもらって引き揚げて行った。
「こんなもの?」
 彼女らは、ペチャクチャと、その帰り途で囀(さえず)り合った。
「費(つか)えるのかしら」
「お座興さ。どうせ費えやしないわよ」
「癪(しゃく)ね」
「だから嫌いさ。お公卿だの、大名づらは」
「このごろの御大身と来たら、やくざが錦を着たようなものさ。どうせ婆娑羅者(ばさらもの)なら、笏(しゃく)も刀も持たない素(す)の無頼漢(ならずもの)のほうが、いっそどれほど可愛いか知れないじゃないの」
「おのろけだよ、このひとは」
「そうよ、こんな楮幣(ちょへい)なんかも、あのひとに遣(や)っちまおう……と」
「たれが貰うもんかね。博奕場だって、こんな紙きれは通用しないにきまってるわよ」
「ち、いまいましい。溝(みぞ)川へ打ッちゃってしまおうかしら」
「ま、お待ちよ」
 ひとりが止めた。
「まさか、佐々木道誉ともいわれるほどなお人がさ。わたしたちをだましもしまい。みんなで、これを持って、あした佐女牛(さめうし)のおやしきへ行ってみようじゃないの。ほんとに、私たちの欲しい物と換(か)えてくれるかどうか」
 もとよりその約束は、道誉が思うところがあっての計画だった。彼は、次の日、家臣に命じて、倉の内から、女の欲しがりそうな物を種々(さまざま)取り出させて、宮中の后町(きさきまち)で開かれる“女御(にょご)ノ市(いち)”みたいに、通用門の内に棚をならべて彼女らを待ちうけていた。
 妓たちは来てみて驚いた。
 買いえた物を夢かとばかり抱えて走りもどって行くのもあり、楮幣を紙きれ扱いにして、つい人にやってしまったのを、急にその場で返してくれと争っているのもあり、なにしろ目の色を変える騒ぎだった。
 道誉はにやにや眺めていた。そしてさらにその日、倉庫の内の、茶、染料、薬種、そのほか種々な物資を外に出させていた。
 噂はたいへんだった。もっぱら、花街の妓たちから、ぱっとひろがったものである。
「楮幣さえ持ってゆけば、なんでも払い下げて下さるそうだ。佐女牛のおやしきでね」
「銭(ぜに)ではいけないのか」
「楮幣にかぎる、物と物との交易も相ならず、というんだそうだよ。――市でも近ごろ見なくなった舶載(はくさい)の上茶だの、糸、朱粉、薬種、香料、唐織(からおり)、欲しい物だらけだというんだが」
「あるかね、楮幣が」
「さ、それがない」
「もったいないことをしたよ。じつは武具仲買の大手筋が、楮幣払いでなら、ここで漆(うるし)一千斤(きん)、革(かわ)五百枚の大注文を出すといっていたんだが、つい断わってしまったばかりさ」
 おおむね、こんな話なのである。中には、さっそく楮幣をかきあつめ、そこから入手して来たという品種を市へ持ち出して転売の巨利をせしめた者もあった。そんなことから、がぜん、東西両京の市(いち)を中心に、楮幣人気が沸(わ)いてきたものだった。
 従来、貨幣の流用は一部で、多くは物と物の交易であったから、公家、武家を問わず、払い下げや交易は、ふつうのことで、かくべつな奇でもなかった。――だが、楮幣にかぎるという倉出しは、初めてである。――その先例を佐々木家がまずひらいたわけだ。すると、つづいて公家の廩倉(りんそう)でも、おなじ条件の倉出しがおこなわれた。それは一ト月もたたないうちといってよい。楮幣(ちょへい)はどこでもよろこばれるものとなり、銭(ぜに)の値打をも凌(しの)ぎかねない盛行をしめしだした。
 もちろん、こうした信用度は、それだけで興(おこ)ったものではない。この間(かん)には、新政府の一大経済策もその裏付けとして大きくかかげられていた。なにかといえば、それは諸国の武家地頭への“非常税”ともいえるもので、
諸国ノ庄田(シヤウデン)ニタイシ
歳入(サイニフ)ノ二十分ノ一ヲ
新ニ徴(チヨウ)ス
 と勅令されていたのである。
 もっとも、ひろい武士層の動揺を察して、旧領安堵(あんど)、新恩の所領、動かすべからず、などと既得権への保障も同時にうたっていたが、どう言いまわしても、思いきった重税の断であるに変りはなかった。
 これで国費の財源も見通しが立ち、急場しのぎの紙幣も円滑におこなわれ、ひいては大内裏(だいだいり)造営の記念事業も緒(しょ)につくことができようか。そして市況は活溌になり、景気を増すほど、庶民も新政を謳歌して、王政万々歳の御世(みよ)を現じだすにちがいない――
「この案は、卓見だった」
 と、廟堂(びょうどう)の政客たちは、目さきだけをみて、新政府の経済面には、もうなんら憂いはないものと、楽観しだした。
 だが、これをひどく憂えていた者がないではない。
 万里小路(までのこうじ)藤房だった。
 藤房は、天皇の簾下(れんか)に伏して、
「悪貨が悪風を生むことは、目にみえておりまする。また重税のくるしみが、百姓に帰し、武士共々の怨嗟(えんさ)となることも疑う余地はございませぬ。新儀の令も、ほどほどにお発しなくば」
 と、痛涙してお諫(いさ)めした。
 しかし後醍醐は笑った、
「今の例は、昔の新儀だった。朕(ちん)の新儀は、また後世の先例となろう。藤房、そちには駸々(しんしん)たる時勢の歩みがわからんとみえるな」と。

 不気味な風はいつもどこやらに吹いている。
 しかしたれもが深く意にとめようともしていない。あるいは、気がついても、思うことさえ無意識に避けるのらしい。むりもなかった。思うだけでもぞっとする。そういう者が多かった。
「こんりんざい、いやですね」
「おたがい、二度ともう戦は、まッぴらだ」
「ご新政も、ご新政だけれど」
「まったく、どんな世直しかとおもったらね」
「イヤ、がっかりだよ。前代以上、権柄(けんぺい)ずくで、おッかない政府ができてしまってさ。こんなことなら、前のほうが暮らしよかったと年よりたちは言っていますな。たとえば楮幣(ちょへい)にしたってさ」
「そう。一時は楮幣(ちょへい)楮幣と大人気かと思ったら、ここへ来てまた、銭(ぜに)でないと、商人たちはいい顔をしてくれない」
「そのはずさ。いくらでも後から後から紙の札(さつ)が出て来るうえに、銭の“乾坤通宝(けんこんつうほう)”も鋳直(いなお)したので、いぜんの物よりまるで銭の質が悪くなった」
「だから今日の銭百文(もん)は、前の銭四十文の物しか買えず、それが楮幣だと、ただの十文ぐらいな物しかくれない。……それがいやなら、お断わりと来る」
「ほんに、貧乏人ほど暮らしにくくなったものさね。そのくせ、世間は建武景気とかいって、何か浮かれきっていましょうが」
「わけがわからない」
「いったい、どこが金まわりがいいんでしょうな。紙のかねでも、値が下がった鐚銭(びたせん)でも、うんと出廻っていればまた、うんとふところのいいやつが出来るにちがいないが」
「ま。ぼやいてみたって、わしらには向う河岸の眺めさ」
「そうだなあ、戦に追ン廻された日を思えば、まだましかも知れないて。……おや、来たよ」
「役人だね。……また河原に落首が立っているかとおもって、抜き捨てに来たんだろ。……はて、そうでもないのかな?」
 染屋の紺掻(こんか)き男と、いつも河原で笊(ざる)を編(あ)んでいる老職人との、ふたりだった。
 役人がこっちへ来る様子なので、紺掻きは流水に脛(すね)をひたして、せっせと、布を晒(さら)しはじめ、老人は手ぎわよく竹を割(さ)いては、ウネリをくれて、鉈(なた)台のわきにそれを揃えていた。
「こら、雑人(ぞうにん)ども」
「へい」
「あっちへ行け」
「へ?」
「はやく行かんか」
 役人は、二人を追っ払うと、うしろに連れていた刑吏と土工らしい者たちへ命じ出した。
「このへんでよかろう。なにせこんどのご処刑は首かずが多いのだから、矢来(やらい)もひろく取らねばならんし、獄門台も渡してある図面どおり幾ツも要する。ここらを中心に、まず囚人(めしゅうど)のツナギ杭(ぐい)を、一間おきに打ちはじめろ」
 いやな槌(つち)の音が、こんこんと、加茂の水にひびきはじめた。
 そして、次の日には、ここで十数名の人々が首斬られた。もと鎌倉の幕臣、阿曾(あそ)ノ弾正(だんじょう)時治(ときはる)、長崎高真(たかざね)、佐介貞俊(さかいさだとし)、以下いずれも、去年の千早包囲軍をひきいていた鎌倉方の首将や侍大将たちで、そのご奈良へ逃げ籠り、また奈良で敗れて、ついに宮方へ降参に出ていた面々だった。――それがなぜ、みなここへきて、事俄かに、打首となったのか。不気味な風は、ここにもあった。

 新政府が立ち、すべて「北条九代」の社会は一拭(いっしょく)されたようでも、広汎な土壌に潜む旧幕人たちの生命綱(いのちづな)は、まだどこかで息をしているにちがいない。殺しても殺しても、殺しきれるものではなかった。
 はやくも、この冬から、ことしに入って、
 前代の遺臣
 と、となえる北条残党の徒が、東北では、出羽や磐城(いわき)地方に叛乱しだし、九州でも、筑前から薩摩方面で、あなどりがたい猛威をふるい、畿内(きない)の近くでさえ、紀伊の飯盛山(いいもりやま)に叛徒がこもって「世を前代に回(かえ)せ」と騒ぎだしている。
 考えてみると。
 亡き執権(しっけん)高時の弟、北条左近大夫泰家は、まだどこかに生きているはずであるし、高時の子のうち、一人は殺されたが、次子の亀寿丸(後の時行)は、炎の下から遺臣の背に負われて信濃方面へ落ちのびたきり、以後の消息はわかっていない。
「これは捨ておけん」
 中央では、俄に、それへの戒心(かいしん)がつよまっていた。
 そこで、たちまち一決を見たのが、かねがね、阿弥陀ヶ峰の囲(かこ)いに入れておいた降将たちの処分だった。阿曾、大仏、長崎、佐介(さかい)など、北条遺臣中でも歴々な輩(やから)を、いつまで未処分にしておくのはよろしくない。――王軍に抗した賊は、みなこのような末路ぞと、諸人に示すべきである。――と、即日、七条河原にひきだして、断罪の刑とし、十幾人もの生首を、半月あまりも、梟(か)けならべてみせたのだった。
 が、これで諸国の残党の騒擾(そうじょう)が少しでもやむだろうか。
 結果はなんのみせしめにもなったらしくはない。逆に、地方の山河(さんが)を怒らし、諸民は新政府の非情を冷たい目で見た。そして都人士(とじんし)の風潮は、いよいよ虚無的に、また刹那的になり「どうせ、人の世はむごいものぞよ、息をしているあいだが目(め)ッけものだ。あれを見、これを見ては、あすの日などはあてにならぬ。できるときに、できることを、やりたい放題やっておけ」という浅見(せんけん)を深い諦観みたいにみな持ちだした。
 ――これはなにもとつぜん湧いたものでなく、蒙古襲来の戦後、そして末期北条の頃へかけて、たぶんに醸成(じょうせい)されていた人心の腐敗土だったが、こんどは世直しの世と期待していた建武新政にも失望して、前途の滅失を感じだしたとなると、いまやそれは極端にまでなってきた。信じられるのは、せつなの快楽だけで、前時代の道徳などは、犬の糞ほどな価値ともみられぬ悪の嘆美時代を呼んできたらしくみえる。
 だが、また。
 世間の見えぬ所では、こういう世相に怏々(おうおう)として、ふんまん遣(や)る方(かた)ない正直まッ法な良民も少なくなかったにちがいない。
 河原の落首(らくしゅ)がそれを証拠だてていた。落首は、ご新政をひぼうするものとして、検非違使ノ役人が見つけしだい取り払って捨て、また下手人は仮借(かしゃく)なく挙げてもいたが、なお三条、七条河原などに、夜陰、落首をたてて世を皮肉る者がたえなかった。それはその諷言(ふうげん)を見に集まる民衆の顔つきから察しると、いわば自分たちの代弁者として、それに喝采(かっさい)しているふうであった。
 彼らにも批判はあるが、無力な民だ、批判を吐く自由の場がない。
 それが河原の落首となった。そして毎度、瓦版(かわらばん)の立ち読みでもするような人だかりをみたのであった。
 中でも「建武記」に誌(しる)されている建武元年夏八月の“二条河原落書”などはその代表的なものといえようか。それそのままが“時世粧”の側面観をなしていて、彼らのかなしい泣き笑いが諷嘲(ふうちょう)のうちに聞えもする。
 ちと長いが、以下原文のまま掲(かか)げてみよう。
この頃、都に流行(はや)るもの
夜討ち、強盗、偽綸旨(にせりんじ)
召人(めしうど)、早馬、から騒動
生首、還俗(げんぞく)、自由出家(まましゆつけ)
俄か大名、迷ひ者
安堵(あんど)、恩賞、虚戦(そらいくさ)
本領離るる訴訟人
文書(もんじよ)(訴願の)入れたる細葛(ほそつづら)
追従(つゐしよう)、讒人(ざんじん)、禅律師(ぜんりつし)
下剋上(げこくじやう)する成り出者
器用の堪否(かんぴ)、沙汰もなく
もるる人なき決断所
着つけぬ冠(かむり)、上の衣(きぬ)
持ちも習はぬ笏(しやく)もちて
内裏交(だいりま)じはり珍しや
 これが革新政府下の社会図だった。その乱脈さを庶民は滑稽とさえ見ていたらしい。
――まな板烏帽子(ゑぼし)ゆがめつつ
気色(けしき)めきたる京侍
たそがれ時になりぬれば
浮かれて歩く色ごのみ
幾そこ許(ばこ)や数知れず
内裏拝(だいりをが)ミと名づけたる
人の妻ども、浮(うか)れ女(め)は
よその見る目も心地悪し
 彼女らの辻姿に、戦後の傷(きず)はまだそのまま残っていた。そして男は。
尾羽(をは)折れ歪(ゆが)む、えせ小鷹
手ごとに誰も持ちたれど
鳥捕る事はさらになし
鉛(なまり)作りの大がたな
太刀より優(いう)に拵へて
前下がりにぞ指し誇(ほ)らす
婆娑羅扇(ばさらあふぎ)の五ツ骨
広腰、ヤセ馬、薄小袖
日銭(ひぜに)の質の古具足
関東武士の駕出仕(かごしゆつし)
下衆(げす)、上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じやうらふ)の際(きは)もなく
大口に着る美精好(びせいかう)(織絹の名)
鎧(よろひ)、ひたたれ、なほ捨てず
弓も引けぬに犬追物(いぬおふもの)
落馬は矢数(やかず)に勝(まさ)りたり
誰を師匠となけれども
あまねく流行る小笠懸(こがさが)け
在々所々の歌、連歌(れんが)
点者にならぬ人ぞなき
譜代(ふだい)外様(とざま)のさべつなく
自由狼藉世界なり
茶、香(かう)、十※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)(しゆ)の寄合(よりあひ)や
犬、田楽(でんがく)は関東の
滅(ほろ)ぶる元といひながら
田楽はなほ流行るなり
町毎に立つ篝(かが)り屋は
荒涼(くわうりやう)五間(けん)、板三枚
幕引き廻す役所ども
数さへ知れず満ち満てど
諸人の敷地定まらず
 と、半作の家や、牛馬糞の空地だらけな周囲を、これが庶民暮らしの今日だと嘆き、また、鎌倉の世の頃には、まだ多少は礼儀作法の品のあった武士も、さてさて、ふしだらになったものだと慨嘆し、終りに、
花山桃林(くわざんたうりん)さびれつつ
牛馬は華洛(みやこ)に遍満し
非職の兵仗流行(へいぢやうばや)りにて
天下一統珍しや
御世に生まれて様々の
事を見聞くぞ不思議なれ
京わらんべの口遊(くちずさ)み
十分の一を漏らすなり
 で、結んでいる。
“二条河原落書”は、文辞からみても、そう学識がある者の業(わざ)ではない。けれど、七五調なので、覚えよく、謡(うた)いやすいので、すぐ人口に膾炙(かいしゃ)し、
このごろ都に流行るもの
夜討ち 強盗 偽綸旨(にせりんじ)
召人(めしうど) 早馬 虚(から)騒動――
 と、そのまま流行歌となって、辻の子供らまでに、この夏、唄(うた)い囃(はや)されていた。
 童謡にも民の声があり、諷言(ふうげん)もまま天の声をなす、とか。――これが火もない煙でなかったのは、思いあわされぬことでもない。
 この“二条河原落書”のあらわれるつい二た月ほどまえだった。――的確にいえば、六月七日の未明のこと。――洛内の市民は、不気味な、しかし静かな、暁闇のうちに、
「すわまた、二度の世直しか」
 と、一触即発の戦気を感じとって、みな、きもを冷(ひ)やしたものだった。
 たれいうとなく、前夜六日の夜半ごろから、
「まもなく五条、二条へかけ、ここら町中までも、合戦の巷(ちまた)になろうぞ」
 と、声から声へ、騒がれだしていたのである。
 といって、深夜の世間は、日頃以上、しいんと、ひそまりかえっており、犬の子の影も宵から絶えていた。それがなお、いぶかしいという者もあったりして、
「逃げようか」
「いやもう間に合わぬ」
「へたに外へ出たら、かえって危ない」
 と、人心地もない都の万戸(まんこ)は、六月の夜を、いちばい、不安に蒸(む)されながら、音なき音に、夜すがら、きき耳を疲らせていた。
 ところで。こうした噂のおこりはといえば、火元は、色街からだった。
 前夜の宵のくち。――六条の遊女宿(あそびやど)で気焔をあげていた一座の武士たちが、意味ありげに、遊女(おんな)たちへ、
「おれどもが帰っても、今夜は寝ずにいたがいい。やがておもしろい物を目に見せてやる」
 と、いつになくみな、早目に引きあげて行ったという。
 おなじような例が、おなじ宵、堀川の妓家(ちゃや)でもあった。昼ごろから出たり入ったりしていた一座の客は、公卿を交じえた相当な侍たちで、初めは妓(おんな)たちも遠ざけていたが、宵になると一酌(しゃく)の宴をひらき、そしてしきりに、
「前祝いだ」
 とか、
「首尾を祈る」
 とか言いあっているので、妓たちがなんの気なく、いったい何があるのですか、と執拗に訊ねたところ、若公卿の一人が、大塔ノ宮の候人(こうじん)と称する年配の武者と顔見あわせて、
「火祭りじゃよ」
 と、笑って答えた。けれどなお妓のひとりが、座興半分に、
「火祭りは鞍馬の行事じゃありませんか。嘘ばッかり」
 と、なじったところ、こんどはその若公卿が真顔になって、
「なにも鞍馬とはかぎらん。都の内でも時々には、塵芥焼(あくたや)きをする必要がある。王政の敵を一掃(そう)する火と血の祭りだ。夜半すぎ、六波羅の方を見ておれ」
 と、これも帰りがけに、言って立ったというのである。
 それやこればかりでなく、洛内の市民は、前夜から、
 はてな?
 と、いぶかられることばかり見聞(みき)きされていた。
 宇治や鳥羽(とば)の川舟が一切止まったとかで、市(いち)に着く荷が、その夕は入って来ない。
 いつもなら、「このごろ都に流行るもの」で唄われている――
気色(けしき)めきたる京ざむらひ
黄昏(たそが)れ時になりぬれば
浮かれて歩く色好み
 の、その人通りもまったくなく、柳かげやら空地の小屋に、夕顔みたいな辻君の顔が、どれもこれもお茶挽(ちゃひ)き姿で手持ちぶさたを喞(かこ)っている風(ふう)。
 また、やがて夜が深まると、辻々四十八ヵ所にいつもは終夜詰めている篝屋(かがりや)(後世の辻番所)の武士が、こつねんと、みなどこかへ姿を消し去った。
 そして、それらさまざまな揣摩臆測(しまおくそく)から噂の疾風(はやて)が、夜半ごろには果然、戦だ! ……という魔のかたちになり、主謀者は、宮将軍の大塔ノ宮とも、あきらかにされ出してきたのだった。
 と、すれば?
 あいては、足利尊氏のほかではあるまい。平素、宮将軍のお憎しみは、庶民間にもわかっていた。わけて宮の候人(こうじん)といえば、川一つ向うを敵国のように見、足利といえば、悪罵がすぐ二の句に次ぐ。また殿上では殿上で、何事によれ「……足利なし」という排他的な隠語が用いられているほどであるともいう。
「足利こそは、都の風にも、王化の一新にも染まぬやつ」
 とは、殿上人(てんじょうびと)あらましの十目十指であるらしい。そして主上後醍醐もまた、
「いまの如くんば、ゆくすえ、禍根となるおそれは充分にある」
 となされ、近ごろでは、これまでの尊氏懐柔策はすてて、しばしば、宮将軍との御密談も内裏(だいり)で行われているなどの事実も、俄に、宮一味をここで気負わせ、
「討つなら今だ。尊氏が片腕とたのむ弟直義(ただよし)も、去年引き裂いて、鎌倉へ追いやってあれば、六波羅にいま在る勢(せい)は、主従あわせても知れた数(かず)」
 と、いうつけ目を狙った夜討ち計画となったらしい。
 しかし、これは甘かった。
 尊氏は知っている。堂上における“尊氏なし”などという排他的空気にも、彼は鈍(どん)のようでいて鈍感ではない。とくに六月六日の宵からは、すでに非常をさとって、六波羅一帯は急武装にかかっていた。――宇治舟がとだえたのは、その方面から、楠木正成が畿内の兵を動員しているものと見て、大和口へ一手をそなえ、また二条方面から五条へかけては、明け方までに、数千騎を配置して、
「いつでも」
 と、宮の出方を待ちすましていたのであった。
 どうして、そんな迅(はや)く、しかも六波羅勢だけとも思えぬ兵力を尊氏が配備したのか。
 これには大塔ノ宮以下、一驚を喫(きっ)して、夜討ちの出鼻をくじかれた。大誤算を生じたらしい。しょせん、正攻では敵(かな)わぬことはわかりすぎている。――ついにむなしく夜は明けてしまい、夜討ちの秘密計画は不発に終ってしまったのである。白々と事なく明けた町を見て、ほっとしたのは洛内万戸の市民であった。
 あとでは尊氏も、りつ然としたことだったろう。「――宮将軍の悪ラツさよ。もしこなたが事前に宮の秘計をさとらずにいたらどうなったろう?」と。
 尊氏が本心、宮にたいする警戒以上な敵愾心をむらと抱いたのはこのときだった。自分にたいする大塔ノ宮があくまで抱擁の寛度(かんど)もない冷ややかな“他人”であることは夙(つと)に承知だが、それは世間知らずのお人が陥(おちい)りやすい周囲からの誤解と観て、決してこころよくはないが、何事も受け身に受けていたのである。
 が、いまはちがう。
 宮こそは自分にとっての「当(とう)の強敵」。また宮をめぐる殿(でん)ノ法印(ほういん)、千種忠顕、新田義貞、名和長年、楠木正成ら――のすべては一群の一敵国と、心のもちかたを、ここであらためずにはいられなかった。
 そして、それらの宮一味のうちに、佐々木道誉の名も彼はかぞえてみたかもしれない。なんとなれば、その道誉は、めったに六波羅へ顔をみせず、また尊氏も彼を訪わず、つまり、いらい疎遠となっている。
 しかも道誉と千種忠顕とは、ここ急速にその交友ぶりを密にしており、また殿ノ法印や義貞とも親しんで、たれの目にも宮将軍幕下のひとりと今は見なされているからだった。
 ところが、こんどのばあい。
 いつはやく、
「六月六日の夜半過ぎ。不測にそなえて、おぬかりあるな」
 と、尊氏の許へ、それを密報してよこしたのは、たれでもないその道誉だった。
 ために尊氏の早手まわしが効(き)いて、大塔ノ宮が、謀(たく)みに謀んだことも断念のほかなくなったものなのである。
 だが、尊氏には、この僥倖(ぎょうこう)もすこしあと味がわるかった。――なぜならば彼にはまたもや、道誉という人間がわからなくなり出してきたからだ。
 さきに、朝廷の恩賞審議のさいに、たれひとり道誉の戦功など挙げる者もない中で、
「自分の功は割(さ)いても、ぜひぜひ、彼へはしかるべき恩賞を」と、主張したのは尊氏だった。またそのご、決断所寄人(よりゅうど)の一員へ、かれを推挙(すいきょ)したのも尊氏である。
 道誉もそれは知っていよう。「彼のような男でも、恩義は恩とおぼえているのか?」と、解釈してみたが、しかし“六月七日事件”が不発で終ってしまうと、それからはまた、ふつりと絶えて、たまたま禁裡(きんり)への参内でふと会っても、どことなくよそよそしい佐々木にすぎない。
 この間(かん)。――これも坊間の取り沙汰にすぎないが、尊氏は、大塔ノ宮の悪策について、宮の御父後醍醐へ直々(じきじき)せまり、いくつかの実証をならべ、その問責は、強迫的な語気であったとさえいわれている。「かような秘密計画をもって、尊氏をのぞかんとなされるようでは、しょせん、この尊氏は、都にとどまりかねまする。朝臣の一人として王政へのご勤仕もなり難いこと――」と、暇(いとま)を請(こ)うたものだという。
 それはこまる。
 と、後醍醐はことばをつくして、彼を恐れなだめられたとも伝えられた。それかあらぬか、いちばい尊氏に優遇の実をしめされ、まもなく彼を参議(さんぎ)に昇(あ)げられた。そして季節は中秋九月に入っていた。

 秋には、行幸(みゆき)が多かった。
 加茂へも、東寺(とうじ)へも、それはあったが、しげしげのお出ましは、おおむね二条高倉の新地で、古典には、こうみえる。
鳳闕(ほうけつ)の西、二条高倉に
馬場殿とて
俄に離宮をたてられたり
天子、常に行幸(みゆき)あつて
歌舞、蹴鞠(けまり)のひまには
競馬を番(つが)はせ
笠懸(かさかけ)を射させ
御遊(ごいう)の興(きよう)をぞ添へられける
 秋も、つい二年前の秋は、どうだったろう。
 天皇は隠岐(おき)の島にあり、皇子らも遠い配所の月だった。大塔ノ宮は吉野の孤塁(こるい)に、千早は敵の重囲のなかで、明日の望みはおろか、一命すらも、いつ北条の寝刃(ねたば)に会うやらと、日々が露の身のおここちだった。
 それが。今はわが世だ、都の秋だ、愉(たの)しまずして何の人生、とは衆生の願いだが、天皇とて、それにもれるものではなかろう。わけて後醍醐はまだまだ壮者だ。後宮もかずあるうえになお、二条家の美姫(びき)栄子を女御(にょご)に入れたのもごく近ごろのことである。いわゆる“お姉さん女房”の准后(じゅんごう)三位ノ廉子(やすこ)も、みかどのこの病だけには、灸(やいと)を持ちだすこともできず、「……ま。おからだをおこわしなさらぬほどに」と、品(しな)よく苦笑して、見て見ぬふりでいるらしい。
 いかんせん、彼女の容色もはや三十路(みそじ)のなかばである。自信はない。けれどそれは決して帝という男を肌から離しきった意味ではない。むしろ完全なわがものとしての安心でさえあったろう。みかどが夜(よる)ノ御殿(おとど)にいることなく、栄子の几帳(とばり)や后町(きさきまち)の局々(つぼねつぼね)を、毎夜毎夜かえておいでであろうと、帰るところは自分のほかにないものときめていた。またそう信じていいだけの理由もある。
 廉子が産(う)んだ親王恒良(つねなが)は、かねがね、彼女がのぞんでいたとおり、ことしの正月、
 皇太子恒良
 となって、東宮(とうぐう)にさだめられた。すなわち次代の天皇である。もうこれ以上、彼女が後醍醐にせがみ求める何ものもないはずだった。でもなお、安心できないとするならば、それは嫉妬以外なものではない。だが嫉妬が男を独占しうるものでないぐらいな分別は彼女の賢さとその見識が噛みわけていないわけもない。
 皇太子は十三だった。
 ほかにも腹ちがいの年上の親王方はたくさんいる。それをこえて東宮に立てられたのであるから、廉子のどんな力が蔭で帝に迫っていたにせよ、後醍醐もこの恒良をいたく愛しておられたのはいうまでもない。――それのしるしには、高倉の馬場殿へお成りあって、競馬を見る日も、歌舞、蹴鞠(けまり)を上覧のさいにも、かならずといってよいほど、そばには東宮をつれておいでだった。
「お上(かみ)」
 と、その日、十番(とつら)の競馬も終るころであった。花壇のような桟敷(さじき)の揺れの中で廉子がふと後醍醐へささやいていた。
「二十日の夜、東宮の御所へ、おひろいで気軽う、お遊びにいらっしゃいませぬか」
「なにしに」
「東宮のおのぞみで、近ごろ都で評判な琵琶(びわ)の上手、覚一法師を召されることになっておりまする」
「覚一?」
「はい、おかみも、噂はご存知でいらっしゃいましょ」
「ついぞ、聞かんのう」
 それは後醍醐の習性といってよく、姉のような廉子の機嫌に、どこかでお心をつかいながら。
「覚一とは、初めて聞く琵琶法師だが、どうして、東宮が御所へ招きたいなどといい出したのか」
「いつか斎宮(いつきのみや)へおいでの折、ちょうど来あわせていたのでございました。斎(いつき)の君(きみ)とその母子とは、冷泉家(れいぜいけ)の歌の同門だそうでして」
「ほ」
「その折は、琵琶も聞かずにお帰りでしたが、あとで、東宮ノ大夫やら小女房までが、覚一法師というのは、近ごろ蝉丸(せみまる)の再生とみんなが評判している琵琶の上手、みすみす惜しいことを遊ばしたと、皆していうものですから、……もの珍らな東宮のご童心が、俄に、覚一を召せ、覚一を呼んで……と、おせがみなのでございまする」
「盲(めしい)か」
「かいもく無明(むみょう)らしく、斎宮(いつきのみや)でも、母の草心尼とやらが、つき添うておりました。……いえこんなことは、みかども夙(つと)に御存知と思うておりましたが」
「いや知らぬ」
「でも、東宮ノ大夫に調べさせてみましたら、それは参議(さんぎ)尊氏(たかうじ)の身よりだそうでございますよ」
「足利の」
「いとことやら、叔母とやら」
「はての。近習もそのような世事話はしたことがない。では六波羅の内におるのか」
「いいえ、近ごろ小松谷のほとりに、一庵(いちあん)を作ってもらい、そこにいて専念、琵琶の工夫をしているのだとか聞きまする」
「……。ふうむ」
「二十日といえば、月の見頃はすこし過ぎますが、せっかく、東宮もその覚一を御所へ呼んで、お愉しみにしておられますこと。そのうえもし、お父のみかどにもお渡りくださると聞けば、どんなにおよろこびかとぞんじますが」
「それは、あいにくだ。二十日の夜は、そうしておれぬ」
「なにか、ご政務でも」
「きょうきめたばかりだが、石清水(いわしみず)へ詣(まい)って、二十一日二日と、参籠(さんろう)の約になっておる」
「…………」
 ふと、歓声とほこりが馬場のほうで沸(わ)いた。十番(とつら)の競馬のさいごの騎手が、もう勝負ノ標(しめ)の彼方からこっちへ馬を返してくる。――桟敷(さじき)の公卿百官から武臣たちも、すべて天皇、准后、東宮のほうへ起立の拝(はい)をみせていた。還御(かんぎょ)の太鼓のうちにである。
 便殿(べんでん)へ入られても、あとは優勝騎手への賜謁(しえつ)だの、近習の奏上やらで、玉座は衣冠の群れのたえまもない。で、みかどが、すぐそばの廉子(やすこ)へもう一ト言、何か仰っしゃりたいとしていることも、なかなか、※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)くひまが見つからなかった。
 そのうちに、諸官はみな、御車寄(みくるまよせ)へなだれていった。つづいて後醍醐も准后も立座して、廊を並んで歩みだした。そのとっさ、歩々(ほほ)のあいだに、帝は、廉子の横顔をチラと見て言った。
「……盲(めしい)の法師やその母ぐらいはよろしいが、かまえて、足利家の人間を、東宮へ近づけてはならんよ」――と。
 御車寄の階下には、その足利家の高(こう)ノ師直(もろなお)、また、近衛(このえ)の武将新田義貞、名和長年など、天皇のお目からみると、どれも御(ぎょ)し難(にく)い面だましいが、敷波(しきなみ)に充満していた。一見、みなどうにでもなるものみたいに慴伏(しょうふく)していた。

 九月二十一日。
 天、晴(はれ)。
 みくるまは早朝、都門を発し、淀川のみなみ、男山の石清水(いわしみず)八幡に御着。
 その日に。
 北条誅滅(ちゅうめつ)、王政一統、ふたつながら大願の成った報告がおこなわれ、天皇神拝の御儀(おんぎ)に次いで、玉串(たまぐし)がささげられる。
 二十二日。
 山上護国寺にて大供養(だいくよう)。
 夜、一山をおねぎらい。
 二十三日、御下山。
 途上、ふもとの善法律寺(ぜんぽうりつじ)では、俗に“もみじ寺”とさえいわれる――紅葉の盛りをごらんありながらお小休み。そして同日中に還幸(かんこう)。――というのが、時の「護国寺供養記」に誌(しる)された“行幸次第書き”だった。
 供奉(ぐぶ)には、六衛府(ろくえふ)の公卿、近衛の騎馬、舎人(とねり)、仕丁(しちょう)から、窪所(くぼしょ)の侍までみな盛装して従った。
 当然そのうちには、千種忠顕、足利尊氏、新田義貞、楠木正成、名和長年、佐々木道誉らの列も交じっている。――あの物堅そうな名和長年までが、ちかごろ彼の家中風俗を町でも“伯耆様(ほうきよう)”と呼んでいるほど、いつのまにか都振りに染(そ)んで、恩賜(おんし)の“帆掛(ほか)け紋(もん)”を、旗、道具、衣裳につけ、その行装の華奢(かしゃ)なこと、たれにも負けない風だった。
 それとまた。
 二日目におこなわれる供養の大導師(だいどうじ)は、東寺ノ長者道意であったから、それの一行もたいへんな人員だった。導師の僧正は長者ノ輿(こし)に乗り、力者十二人がかつぎ、大童子、そば侍四人、仕丁(しちょう)らがつき添い、法橋(ほっきょう)以下の僧官やら一隊の侍やら、仲間(ちゅうげん)、随聞(ずいもん)、稚子(ちご)まで目をうばうばかり華麗な列だった。――だが、途中の混雑をさけるため、これはべつな道から男山へ参向した。
 こうして、まる二日間の山上は、その式事次第の終りまでは人で埋められたというも決して言いすぎでない。ほかの公卿武将も例外であるまいが、尊氏はわけて気疲れをおぼえていた。――こういう故事式目(こじしきもく)の連続には何の興味がないのみならず、ささいな過失にもすぐ尖(とが)る公卿や僧官根性に、うんざりさせられたせいだろう。――だが、護国寺宝塔院のさいごの夜も無事に終了して、賜酒(ししゅ)の酔いを頬に、諸人と共に彼もこの晩だけは、自分の宿所へさがってきた。
 それもすでに深夜だった。
 諸人の宿所は山上山下にわかれていて、尊氏の屯(たむろ)した一院は、ふもとに近い平等王院(びょうどうおういん)の内だったのである。――二十日過ぎの月はどこかにあるはずだが――東坂の大杉ばかりな木(こ)ノ下蔭の坂道は星も見えない闇だった。
「あっ」
 ふと、尊氏は足をとられた。
 たれの悪戯か。
 縄でも引いてあったらしい。それが平地でもあることか。苔(こけ)さびた石段だし、かなり急な降(くだ)りでもある。
 おもわず前のめりに三、四段ほど、とととととよろめいた。そして、あやうく身を起(た)て直したか否かの刹那(せつな)といっていい。
「かっッ」
 と、すぐそばで五体の精を一喝(かつ)の息に凝(こ)らして斬りつけてきた者がある。無意識に、尊氏はばッと外(はず)していたが、とっさ、うしろからもまた、彼の背を目がけて突いて来たするどい白刃の光があった。
 刺客は二人らしい。
 刃(やいば)は目にもとまらず、くら闇なので、顔かたちも分らないが、尊氏はとっさに知った。――いつかは、こういう曲者におそわれる惧(おそ)れは多分にあったものを、という自省だった。
 だが、悔いてなどいるひまはもちろんあろうはずがない。直感と、本能だけが、彼の間髪(かんはつ)にさらされた生命をからくも二、三度ふせぎ交わしていた。そしてその閃光のあいだに、
「なにやつッ」
 と、大喝(だいかつ)し、
「ものをいえっ」
 と、相手の飛躍に空(くう)を打たせるたびごとに身を仰(の)け反(ぞ)らしつつ叫んだが、うんもすんも、二つの人影はもとより答えもしないのだ。すぐ持ち直すその白い刀背(みね)をとおして、あらあらと必殺の息をととのえ直しては、尊氏を中にはさんで、
 逃がしはせぬ!
 と注意ぶかく、石段の上と下とから、何度でも執拗にせまり寄ってくるのだった。
 ――人を呼んでも声がとどく場所ではない。
 逃げるにしくはないと思ったが、この急な坂道では、それもたぶんな危険をふくむ。今はと、尊氏の全五体は否みようない死を知る忿怒(ふんぬ)の皮膚に変っていた。そして彼の手にもいつか太刀は抜かれていたが自信もなかった。自分を狙ッて待ち伏せていたほどな相手である。腕に充分な覚えのない輩(やから)とは考えられない。
「あ。……?」
 相手の影の一つが振向いた。
 そのとき、それが頭巾をした大法師であることが、尊氏にやっとわかった。もひとりは山袴をはいた軽装の武士なのである。法師につづいて、その武士も、何かあわてぎみに、
「来た」
 と、言ったようだった。
 とたんに、おうっと吠え合って、薙(な)ぎこんで来た二人の迅い太刀に次ぐ太刀の光は、一瞬尊氏の知覚のほかのものでしかない。彼もまた無我の応酬に火花をちらした。だがその足は石段を踏みはずして勢いよく五、六段ほど鞠(まり)になってこけ転(まろ)んだ。
 ところへ、夜気のしじまに変(へん)を感じて駈けつけて来たのだろうか。上のほうから飛んできた六、七名の者がある。その中の一人に肩を蹴られて尊氏はまたもや石段をまろばった。しかし彼を跳びこえた者はハッとしたらしく、
「やっ。大殿ですか」
 と、すぐ駈けもどり、さらに一ばい大きな声をして、あたりへどなった。
「やはり大殿であったぞ。ただしお怪我はない、お怪我はないっ」
 尊氏は、起つやいな。
「石堂か」
「は。石堂十馬です」
「ここはいい。逃げたやつを逃がすまいぞ。法師頭巾の大男と、ひとりは膝行袴(たっつけ)の侍だ。取り逃がすな」
「ごめん」
 と、十馬もすぐ追っかけて行った。――が、尊氏はからだの痛みをおぼえてか、位置そのまま石段に腰をくずしてしまった。
 まもなく、石堂十馬、畠山五郎、仁木於義丸(おぎまる)、そのほか、尊氏の他行にはつねに随参している若党輩(わかとうばら)が、ひとりの男をとりかこんで坂下からもどって来た。だが、もひとりの大法師のほうは、ついに捕(つか)まえ損(そこ)ねたらしくみえる。
 今夜の奇禍を、彼は、
「口外するな」
 と、供の者へ口どめした。
 仁木於義丸らの若党たちは、今夜も主人尊氏は、山上の宝塔院に宿直(とのい)と聞かされていたのであった。
 ところが、ほかの武将連はみなそれぞれの宿坊へひきあげたと知り、あわてて迎えに行ってみると、はや尊氏は退出したとのこと。そこでいよいよ不審をもち、道を追って来ると、この始末であったという。
「こよいも宿直(とのい)と、……誰が、そんなことを言ったのか」
 途々、尊氏の問いに、供頭の石堂十馬は、そのさい、過ッて尊氏のからだを跳び越えた罪をも詫びて、
「たそがれ、新田の供廻りが言いおりましたが、念のため、千種殿の方で訊くと、同様、こよいはお迎えなしだと申しまする。そのいずれもが、まことしやかな言でしたので、ついそれを信じての不覚、おわびのいたしようもございませぬ」
 と、言った。
「そうか」
 とのみで、尊氏は彼らの手ちがいは、ふかくも責めず、事もなげに、宿所へ帰った。
 けれど、彼にとっては、骨髄に徹するほどな、これが衝撃だったのはまちがいあるまい。石段で打ったふしぶしの痛みもあろうが、よく眠れなかった様子である。あかつき、平等王院の寝所を出て、
「石堂。ゆうべの曲者を庭へ引いて来い」
 と、いいつけたのも、まだほの暗いうちだった。
 石堂十馬と仁木於義丸のふたりが、やがて、がんじ縛(がら)めにした若い男を縁の雨落ちの辺にひきすえた。そこで尊氏自身から「――どこの家来か」「誰に頼まれたか」を、さんざんに質(ただ)してみたが、男は口をとじ、どうかすると、その口辺に、不敵なうすら笑いをみせるだけだった。
「よし、いわんな」
 尊氏はしばらく彼と根(こん)くらべのように黙りあった。
 そして、こんどはずばと言った。
「河内殿(楠木)の内に、龍泉殿とか呼ばれているご舎弟があったな。そうだたしか正季(まさすえ)殿という。――そちはその正季の家臣であろうが」
「…………」
「顔にも出たぞ、口をとじている意味はあるまい。つまらん痩せ意地はよせ」
「どうしてわかる」
「わからいでか。そのわけは、あとでそちが以前親しくしていた具足師の柳斎(りゅうさい)から聞け」
「柳斎?」
「お。……はや今朝はみかどの御下山。そろそろ、供奉(ぐぶ)のお勤めに罷(まか)らねばなるまい。あとは柳斎にあずけておく」
 尊氏は、縁を立ち、そしてつきあたりの杉戸へむかって、
「右馬介、右馬介」
 と、よんでいた。そして一色右馬介の姿を前にみると、こう言いのこして、彼は出仕(しゅっし)の身支度にほかの部屋へ入ってしまった。
「そちはこの者を、いぜん河内の龍泉で見ているといったな。むかし馴(な)じみだ。よく話しあってやるがいい。そしてすんなり白状したら、縄を解いて放してやれ。あずけたぞ、生かすとも殺すとも」

 この朝ふたたび、石清水八幡の宝前に、天下泰平の祈願をこめ終った後醍醐は、やがて、天楽喨々(てんがくりょうりょう)のうちに、男山のながい石段を、彩雲のように供奉(ぐぶ)全員とともに下山された。
 みくるまは、ふもとの善法律寺(ぜんぽうりつじ)に前夜からお待ちしており、ここで小憩の後、夕方までにご帰洛という順序。
 律寺では点心(てんしん)(間食)の設けなどして、還幸のお立ちよりを、境内の紅葉とともに、お待ちうけしていた。
「やれやれ」
 と、供奉の公卿たちも、ここでは山上の潔斎(けっさい)も解かれて、俗称“もみじ寺”の今を盛りなもみじの間を逍遥(しょうよう)しあった。
 点心とはいえ御酒(みき)も出る。
 御座(ぎょざ)のあたりは、談笑にわいていた。たれの声よりも後醍醐のお声が高い。朗(ろう)として、おもての方へまであきらかにお声とわかるほどだった。
「ここは秋はもみじ、夏はほととぎすの名所でもございまする」
 と、右大弁(うだいべん)清忠がいうと、
「そうそう、門前の歌碑に、読人不知(よみびとしらず)の歌が、こう刻(きざ)まれてありましたな」
 と、堀川の大納言が、懐紙(かいし)にとめておいたその歌を言上した。
 すると、すくなからずごきげんな後醍醐は、隼人正(はやとのしょう)藤原康清(やすきよ)という者をとくにお名ざしあって、
「康清。そちはたいそう声が美(よ)いそうだ。いまの歌を朗吟してみよ」
 と、命ぜられた。
 康清は権(ごん)ノ大外記(だいげき)にすぎない者なので階下にいたが、ひょうきんな男とみえて、
「なかなか陛下のような美音ではございませぬが、大杯で一献(こん)いただけば、あるいは、お耳をけがすぐらいには吟じられるかもしれません」
 と、洒(しゃ)ア洒アと言った。
「ずるいやつだ」
 と、お笑いになりながら、康清へ大杯をやれ、と仰(お)っしゃる。満座も笑った。笑いがやむと康清はいま聞いた読人不知(しらず)の歌をいい声で朗詠しだした。
ほととぎす
八幡(やはた) 山崎
啼きかはす
声のなか行く
淀の川ふね
 やんや、やんやの喝采であった。わけて康清は有名な美声家なので、その音声(おんじょう)は、はるか山門の方にまでよく聞え、そのへんで出御待(しゅつぎょま)ちしていた武者輩(むしゃばら)までが、しいんと、一とき耳を洗われていた。
「……淀の川ふね」
 尊氏も、そこの床几で、ふと口で反覆してみた。
 淀は、尊氏にとっていろんな思い出のことが多い。歌の意味も、何か、胸に沁(し)み入(い)ったふうである。
 ――と。急にそれで思い出したらしく、床几を離れて、山門の袖のほうを見た。大勢の足利一党だけが西溜りにひかえている。その中から一つの顔が尊氏の目にこたえて立った。
「…………」
 尊氏が黙って人なき楓林(ふうりん)の中へ歩いてゆくと、その者もすぐあとを追って来た。一色右馬介なのだった。
「介(すけ)。どうした?」
「昨夜の刺客のことでございますな」
「そうだ。そちに預けておいた楠木家の廻し者、白状したか。それとも、あのままか」
 右馬介は、答えた。
「されば、仰せつけのまま、あとに残って、糺問(きゅうもん)いたしましたところ、ついに観念したか、曲者もやっと泥を吐きおりました」
「そうか」
 と、尊氏は注意ぶかく、楓林(かえでばやし)のそとを見て。
「――誰も来まいな」
「まいる様子はございません」
「そちも、かけろ」
 と、燃えるような紅葉の根もとに尊氏は腰をすえる。
「して、なにか。……曲者はやはりそちが見たとおり、楠木正季(まさすえ)の郎党に相違ないのか」
「はい、この右馬介は、いぜん具足師柳斎の名で、河内龍泉の屋敷では、逗留仕事をしていたことさえあるので、這奴(しゃつ)も私を見ては、白状せぬわけにはゆきません」
「名は、何という男」
「正季どのの内で、桐山小六(きりやまころく)と申す郎党でした」
「もう一名、つい、取り逃がしたほうの大法師は」
「小六の白状によれば、殿(でん)ノ法印(ほういん)の部下、岡本坊とか申すやつだそうで」
「とまれ、いずれも、大塔ノ宮将軍に属する者だな」
「そういえましょうか」
「そも、たれに頼まれて、この尊氏を闇打ちしようとしたのか。そこはどうだの」
「そればかりは頑(がん)として、実(じつ)を吐きませぬ。のみならず、殿をさして、当今の国賊は尊氏だ、今のうち尊氏の一命をちぢめねば、未来かならず、朝廷の大害になる、尊氏をころして、王政のさまたげをのぞくのは、自分らの信念でやったこと。やむなく頼まれた雇われ刺客ではおざらぬ、などとも大言を吐きおりました」
「まるでそれは、つねに聞く、宮の口吻そのままではないか」
「おそらくは、と察しられますものの、宮のみの字も、おくびにさえ出しません」
「それでいい。そして小六の身柄は?」
「即座に放しつかわしました。素直に白状したら解いてやれと、あの場で、殿が這奴(しゃつ)へ約束をお与えなされましたことゆえ」
「それもまた、それでよかった。命びろいをしたと、よろこんで立ち去ったろうに」
「ところが、縄を解かれてどこへ帰る? と訊きますと、問うもおろかよ、主人正季どのの許へ帰る、と豪語してはばかりません」
「ふむ」
「そしてなお申すには。――いつかまた、きっと尊氏の命を狙うぞ、目的をとげるまでは、所望(しょもう)してやむまいと、太々(ふてぶて)しくも言い払い、どこへやら姿をかくし去ってござりまする」
「はははは」
 と、尊氏は起(た)ちかけて、
「なかなか健気(けなげ)な者だな」
 と、ひとごとのように笑った。――ちょうど彼方の亭では、帝(みかど)の立座(りゅうざ)とみえて、公卿たちの群れの間から、供奉(ぐぶ)の人員へ、御車触(みくるまぶ)れが、しきりに手合図され出していた。
 まもなく、紅葉寺を出発――
 還幸は、夕に終った。
 二条里内裏(さとだいり)は、殿上殿下、ひろい夕闇が、せわしなげに、すべてチロめく灯であった。そして尊氏も供奉の任をすました上はと、退出の機をうかがっていると、ふと、自分を呼びとめる者がある。みると、この三日間、共に行幸(みゆき)の供奉をしていた河内守正成(まさしげ)だった。
「ご退出ですか」
 正成は、寄って来て、
「もしお急ぎでなくば、折入って、しばし人なき所でお話し申しあげたい儀があるのですが」
 と、言いまわしも歯ぎれ悪く、ただ、この人らしい、いんぎんさだった。
「お。何かと思えば……」と、尊氏は気がるに「ちょうど、ご用も終ったところ。どちらへでも」
「かたじけない」
 鈴(すず)ノ間(ま)の西の廊であった。正成が先にあゆみかける。それを尊氏はふと止めて。
「供の輩(やから)は疲れています。先に人数を六波羅へ帰してからお目にかかりたい。どこでお待ちくださろうか」
「ならば校書殿(きょうしょでん)の廊ノ間(ま)でお待ち申しあげておる。あれには、つねに人もいません」
「では、のちほど」
 いちど二人は別れた。
 尊氏は、衛府(えふ)ノ門の外へやって来て、供の面々へ、自分はひとり後から帰る、一同は先にひきあげて、くつろいでいいぞと、いい渡した。
「いや、夜に入っても、お待ちしておりまする」
 こばんだのは、畠山五郎、仁木於義丸(おぎまる)たち。また一色右馬介も、
「つい昨夜のこともあり、またぞろ、どんな御危難が待たぬともかぎりません。いかに都の辻とても」
 と、みな不安顔してきかないのだった。その気もちを、ありがたいとでもいうことか。尊氏はかえっていやな顔をした。
 この仰々(ぎょうぎょう)しさが彼には困惑なのである。男山の奇禍はかたく口止めしておいたのに、もうすべてに洩れているらしい。おおいがたい激昂が彼らにみえる。それが尊氏には心にそむくものらしい。
「わからぬやつらよ」
 と、ついに叱って。
「先へ帰れと申すに!」
「はっ」
「右馬介にも申しておくが」
「は」
「かまえて、夜前の刺客のことは、これ以上は他言をするな。してくれるな。もし、世上の口端(くちは)にまでのぼるようになったら、それはかえって尊氏を危(あや)ううし、暗やみの兇刃以上な難儀を呼ぼう。わかったか」
「はい」
「おとなしく引揚げて、どこまでおとなしくしているのだ。よろしいな。行け」
 いい捨てると、尊氏はふたたび衛府(えふ)の門内へもどって行った。そして、内裏の西北にある校書殿(きょうしょでん)の廊ノ細殿の外にかかるや、ふと佇(たたず)んで、
 楠木は?
 と、約束の正成が、もう来ているか否かを、そっと体で聞きすました。
 正成が、いおうとすることは何か、それは分らないが、尊氏としては、このさい、彼と人なき所ではなしうることを、またなき好機と、重視していた。
 正成の人となりや、その性情、その地方的人望などは、とうに彼へ近づいていた柳斎一色右馬介から聞いている。
 また彼の、千早籠城時代の辛抱づよさや、その戦略ぶりも、尊氏は、たれにもこえて、注意して来たところである。
「や、お待たせしました」
「なんの、ご迷惑を願って」
 正成は、彼をみると、すぐ座(ざ)を下にさがった。
 低く、下座(しもざ)についたのは、あながち、正成が悪くいんぎん過ぎるのでもなければ卑下(ひげ)でもない。
 身分の差なのだ。
 尊氏が三位の参議、左兵衛(さひょうえ)ノ督(かみ)であるにたいし、正成は従(じゅ)五位河内守たるにすぎない。
 また尊氏の家柄は、新田とならぶ源家の正系だが、正成は、南河内の一土豪だ。殿上の順列でも、はるか正成が下である。
「ま、河内どの。お手を上げられい」
「おつかれのところへ、まげてお顔を拝借など、心ないわざとはぞんじましたなれど」
「あいや」
 尊氏は、くだけて見せた。
「つい日頃おちかづきを得ぬが、よそながらご辺(へん)の人となりはうかがっておる。何ごともお気軽う。以後、親しゅうしていただきたい」
「これは」
 と、心から恐縮して。
「正成のほうからこそ申すべきところをば……はて、さような御意(ぎょい)を先にうけたまわると、どう申しあぐべきか、正成、いよいよお詫(わ)びに窮(きゅう)しまする」
「なにをで?」
「舎弟(しゃてい)正季(まさすえ)に代り、ここにふかくお詫びいたしまする。と申せば、はやご合点(がてん)にございましょうが、正季の郎党、桐山ノ小六という者が、昨夜、男山において、人もあろうに足利殿をねらって兇刃におよびました由」
「あ、そのことで」
「重々(じゅうじゅう)の不とどき。小六めはただちに打首ともぞんじましたが、その者の郷里桐山村には老母もおります。かたがた、罪は家来より弟正季にあるもの。……さあて、どうおわびいたせば、お心が解(と)けようかと、かくは正成が、おん前に身をおいて、いかなるお責めもいただこう所存に出た次第にございまする」
「はははは」
 尊氏は手を振った。
「そのことなら、お忘れおきください。尊氏はもう水に流した。それのしるしには、小六とやらも、縄を解いて、ご舎弟の許(もと)へ返してある」
「仔細(しさい)、小六からも聞きとりました。それゆえ、なおもって」
「いくら聞いても、おわび言(ごと)はおわび言だけのもの。それとも何か尊氏へ、お心のものでも下さるか」
「お求めなれば」
「ご辺へ望むなら、欲しいものはたくさんある。だが、昨夜のことに関(かか)ずらうのはやめにしたい。おたがい武門。狭量な輩(やから)、御(ぎょ)しにくい猛者(もさ)、いろんなのがたくさんいる。それらも飼っておかねばならん。わけて小六とやらは、なかなか主人思いと見うけ申した。可愛がっておあげなさい。何かのとき役に立つ」
「いよいよ、冷汗のほかございません。小六も申しおりました」
「なんと」
「命は助けられたが、足利殿は測り難い。いちばい、おそろしいお人と見うけ申したと」
「そこで、なおさら、この尊氏を失わねば、心も安まらぬと申してはいませんでしたか」
「…………」
 正成がなんと答えるかを待つような尊氏の眼(まな)ざしだった。すると正成は、はじめて、唇のあたりに微苦笑をみせた。
「仰っしゃるとおりです。なんとも頑迷な奴で、私の前でもなお、誓ってお命をいただくと、吠えおりました」
 いくら歯(は)に衣(きぬ)きせぬ正成のことばとしても、真剣となって聞くには、正直な言い方すぎる。返辞にこまる。
「…………」
 黙っているしかなく、尊氏は黙って、正成の顔を見ていた。
 正成の右の瞼にかすかな痣(あざ)ともいえないほどなひッつれがある。片目がすこしわるいのだなと、尊氏はそのまに初めて気がついた。そしてこれが千早の孤城に拠って関東数万の大兵を百七十日ものあいだくいとめていたのみならず、しばしば敵のきもを寒からしめたと聞くあの智略の将であるのだろうかと、つらつら、その風采(ふうさい)までが見直された。
 土豪には土豪の土臭(どしゅう)、武者には武者の骨柄(こつがら)があるものだが、正成には、そんな力(りき)みがどこにもなかった。
 それも、しいてしている低姿勢とはみえず、人前に臆(おく)しがちな、はにかみともいえそうな翳(かげ)が、その肩や面(おも)ざしを、自然なやわらかいものにしていて、するどい圭角(けいかく)らしさなどは物腰のどこにもない。いってみれば、そこらの往来でも役所の門でも、ざらに見かけられる平凡な四十男、あるいは布衣(ほい)のなにがしといった程度の人としか思えない目の前の正成だった。
「おわらいください」
 やがて、正成は、いちど途絶(とだ)えたことばを、また声低くつづけていた。
「……そのような下郎の暴言、いや一徹など、ご失笑にも値(あたい)せぬかとぞんじますが、しかしいつか信(しん)をなしてくる一般の誤解ほど恐ろしきはございませぬ。郎党小六の兇行も、まったくその誤解より生じましたもの。きっと戒(いまし)めおきまする。……またいつかは当人も前非をさとって、おん前に、心からおわび申す日があろうかとおもわれます。それをもって、なにとぞ昨夜のことはおゆるしおき給わりますよう、いくえにも正成、このようにおわびつかまつりまする」
「誤解か。なるほどな」
 尊氏は言った。
 こう対座しているのに、なにか遠くでものをいっているような正成を、ここで手もとへ引きよせて、彼の殻(から)を割ってみたいとするらしい衝動にふッと突かれたふうだった。
「河内(かわち)どの」
「はっ」
「おしえていただきたい」
「何をば」
「この尊氏が、下輩どもにまでうけている誤解とは、何なのか」
「はて。お心あたりはございませぬか?」
 尊氏は息を内へのんだ。
 あらためて正成の顔をみても片目をほそく何の色も変えて訊いているわけではない。それなのにこっちの肺腑へ忍びこむような圧力が彼の姿から押してくる。そう受けとれる胸の息ぜわしさを尊氏はどうしようもなく、
「ない」
 と、つよく言って、おもわずその語尾の刎(は)ねあがったことにみずから羞(は)じた。
「では申しあげましょう、とるに足らぬひが事には過ぎませんが」と、正成は世間ばなしでもするように淡々(たんたん)とこう言った。
「足利殿こそは、王政にご不服で、ひそかに謀反(むほん)をたくむ者と、近ごろ取り沙汰なす輩(やから)が一、二ではありませぬ」
 ぎくとしたが、彼にも元々、つかみどころのない風貌がある。縹渺(ひょうびょう)とにじみ出たその顔つきが、
「ほ、ほう。この尊氏を」
 と、さりげなく、
「世間はそのような物騒な人物と見ておるかの。買いかぶられたものではある」
 と、苦笑した。
 だが、正成はどこまでも生(き)まじめだった。
「さればです。足利殿の逆意などというそのような風説には、私もひそかに心痛にたえませぬ。せっかく、王政一統となって、諸民もほっとしたばかりの今日、またもこの平和がやぶれるようなことになってはと……」
「では、河内どの。ご辺もこの尊氏にたいする異(い)な風説を信じているのか」
「いや、かりそめにも、朝(ちょう)の御信任は厚く、参議左兵衛(さひょうえ)ノ督(かみ)とまで、天子もお取り立てあるあなたさまです。なんで衆口(しゅうこう)に駆(か)られたお疑いなどもちましょうか。けれど相互の誤解は、何を生むかわかりません」
「相互というと?」
「愚考いたしますに、宮将軍とのあいだに、何ぞ、おたがいの理解を欠くところがあるのではございますまいか」
「それなら思いあたらぬでもない。なぜか大塔ノ宮のお憎しみはつよい」
「ご同情をもちまする。ひそかには、正成も」
「おわかりだろう。しかも尊氏は、宮なればこそ何事も下にくだって、あえてその御無態にさからったことはない」
「さまざま、世の辛酸(しんさん)に会われたようでも、もともと深宮のお育ち、真の世間、人間がおわかりというのではありません。英邁(えいまい)ではあらせられるが、一面のご気性には、周囲の虚勢、排他、利害などの私心に乗(じょう)じられるおそれも多分にないではない。それが足利殿とのあいだに、魔と影のごとき、禍(わざわ)いの因(もと)をなしておるものとおもわれまする」
「そのとおりだ。さりとて宮の高いご位置にあって、その魔形(まぎょう)の輩(やから)を自由自在にお使いあるにはどうにもならぬ。この尊氏はどうしたらいいのか」
「いや宮ご自体のお心ではありません」
「では、たれの心」
「誤解という、いわれなき魔、形なき魔のする業(わざ)です。左兵衛(さひょうえ)ノ督(かみ)さま。およばぬながらも、この正成がおもてを冒(おか)して、そのことにつき、宮へはご諫言(かんげん)をこころみまする。依って、あなたさまも直々(じきじき)、宮のおん許へ伏して、あらぬ御嫌疑をお解きなさるべきではありませぬか」
「むだだ。おそらくは」
「なぜです」
「禍根は、宮の上にもある」
「上と、仰せられるのは」
「申すまい。だが河内どの。ご辺も存知のはず。六月七日のあの夜以来、尊氏は気鬱とでもいうか、ややもすれば近ごろ気疲れに負けてくる。……そうした折に、ありがたい忠言だった。ご友情は心から謝しておく」
「いやこれも、世を思う微衷(びちゅう)のほかではありません」
「世を思う。いかにもな。尊氏とて世は思う。一つ心だ。では河内どの、ご辺には今の王政一統なる御政道ぶりを、どう考えておられるの?」
 政治への批判を求められると、正成は、あきらかにそれまでの平静をやや欠いて、
「さ。公家御自体にしても、決して、いまを善政とは、満足してもおられますまい」
 と、当惑な色をみせた。
 そして、口をとじたが。また、口おもたげに。
「延喜(えんぎ)、天暦(てんりゃく)のむかしに回(かえ)すというご理想も、当時の世でこそ、万民謳歌の美しい統治の実を結んだでしょうが、今日の土壌では民ぐさの生活(なりわい)がまるでちがいます。廟堂(びょうどう)もまた、いにしえの大宮人(おおみやびと)の心ではありません。それを今に復古して、実績をあげるには、なおいくたの困難と上下の協和とがなくては能(かな)わぬところで、真の御世泰平を仰ぐ日は、まだまだ遠い日と覚悟せねばなりますまい」
「む」
 尊氏は、うなずいて。しかし、わが意をえたというような色は深くかくして。
「ご辺もそう思うか」
「憂いております」
「このままでは」
「案じられることのみでございまする」
「まったくのう」
「…………」
「さても。このままではならぬとしたら、河内どのは、どうしたら、よりよい万民の住みごこちよい世が、打ち建てられるとおもわれるの」
「微力、憂えるだけで、何の力も策もない身をかなしむだけでございまする」
「だが、ご辺も武門、歴乎(れっき)とした武門だ。元々、おたがいの弓矢は、人を殺すためにあるものではないはずだが」
「御意(ぎょい)」
 ――俯向いて、正成は、そのままいつまで黙(もだ)していた。
 その姿のうちにあるものを、尊氏はじっと見抜こうとするらしく目を凝(こ)らした。
 かねがね彼は、河内の正成ひとりは、どうあっても、敵にまわしてはならぬものとしていたのである。もし味方に加えて大望の一翼とすることができたらとさえ――ひそかに考えているほどだった。それはきのう今日の思いではない。赤坂、千早における楠木一族なるものに遠くから注目しだした頃からの慕念(ぼねん)であった。士は士を知る。男が男に惚れたのだと彼は思う。――彼にそれほどな色気があればこそ、自分を狙い寄った刺客の小六もわざと正季(まさすえ)の手もとへ返してやったのである。ただ正成がここでそこまでの尊氏の腹を読んでいてくれるかどうか、ではあった。
 いやそこは心もとない。
 律義一偏だ。今夜も観(み)ているに、正成とは、ものごとの表裏を余り疑わない人間らしい。王政一新の中興政治が、ことごと、幻滅的な世態をよびおこしている実状にも、その憂いは、自分とは両極なほど違った憂いであるかもしれないのだ。――それへ自分の抱懐している完全武門統治にひとしい志(こころざし)を洩らすとしたら? ――。どうだろう。いや、これはあぶない。
 尊氏の心のものが、その目のうちに、かげろうのように燃えては、また迷っていたときだった。
「どなたさまか、まだこの内においででございますな」
 廊の外で声がした。夜殿(よどの)の諸所を戸じまりに廻る六位ノ蔵人(くろうど)と舎人(とねり)のようであった。
 それをしおに、尊氏と正成とは校書殿(きょうしょでん)ノ廊を出て、
「お、いつか夜更(よふ)けていたとみえる」
 と、二人して星を仰ぎ、
「おもわず話にみがいって、みじかい時間のように思われていた。河内どの。なかなか語りつきた気もいたさぬ。いつかまたゆるりお会いしたいものだの」
「ぜひ」
 と、正成は言って。
「くれぐれ、宮将軍とのおわだかまりが、解けますように」
「仰っしゃったな。すべては誤解だと」
「誤解にすぎませぬ」
「そうかな」
「相互の誤解です。微力ではありますが、宮へは、正成が畢生(ひっせい)の思いをこめて、いちどは、何といたせ、ご諫言申しあげる所存でおざる。なにとぞ、あなたさまにおかれても」
「尊氏は臣下」
「でも、ここは、何事もおしのび給わって」
「さまでにご心配か」
「累卵(るいらん)の危うさを見ているようです。ひとたびまたの変(へん)でも生じましては、せっかくな御世(みよ)初めも」
「気をつけよう。六月七日のようなこともある」
「二度とあってはなりませぬ」
「王政の中興を、可惜(あたら)にしてはならんとのお祈りか」
「もちろんです。みかどが、笠置籠城(かさぎごもり)のせつ、正成へくだし賜わった勅のおことばは、正成の心となって、一族どもにもそのたましいを打ちこみました。いまも変っておりませぬ」
 尊氏は、ふっと、目の前の恋人を失ったような気がした。いつか衛府(えふ)の門へ来ていた。で、別れかけると、正成は、物騒な夜中、おひとりの帰館はこころもとない、たって自分の部下をもって、お送りしよう、と言い出した。
 つい昨夜、楠木の郎党に危うく命を奪われかけている尊氏だ。それなのに正成はその部下をして送らす、という。
 あくまで正成らしい好意だ。彼の誠意にちがいない。また、部下を使って人を闇打ちさせるがごとき卑劣漢でない自己を証(あか)し立てたい意味もあろう。――断わるのは狭量に似る。尊氏は正成からじぶんの幅や奥行きを測られてはならぬと思った。
「では、おことばにあまえて」
 と、まもなく彼は、正成が衛府の内からさし招いた十騎の武者のうちに身をまかせた。そして正成と衛府の前で別れた。
 十騎の武者は、どれも屈強(くっきょう)なつらだましいの者どもだった。いずれも河内者だろうか。二騎はたいまつを翳(かざ)してやや先に立ち、尊氏を中にかこみ、深夜の町を戛々(かつかつ)と行く。
「…………」
 始終、黙ったままだった。
 それでも尊氏は六波羅までのあいだに、この者たちの態度や騎馬法などを見て、なるほどこれくらいな者が千もいれば、赤坂、千早の戦いもできえたろうと思われた。兵をみればその主将の人柄はたいがいわかる。尊氏は広い世界を恐れずにいられなかった。それにつけ、正成の存在は、前より大きな障害と考えられた。大望の一路をさまたげる難山となるかもしれない。今夜の口吻とあの信念、焼(や)き刃(は)がねのような純鉄な人柄。まるで動かぬ山だ。山はこっち向けにすることは不可能だ。彼はひそかにあきらめた。

 執事の高(こう)ノ師直(もろなお)は、定刻、六波羅北殿(きたどの)の廂(ひさし)の一室で、いつもどおり坐っていた。
 諸国との往来文書(もんじょ)、鎌倉にいる直義(ただよし)との連絡時務など、山ほどな用を一おう整理しておき、朝々、ここで主君の胸に訊くのが、彼の要務の一つなのである。
 が、今朝はだいぶ遅い。――尊氏の目ざめがである。――お疲れはごむりもないと、彼もそれは合点(がてん)の容子(ようす)だ。
 ふところから毛抜きをとり出し、懐紙を持ち添えて、鼻の毛など抜いていた。
 だが、そのつれづれも余りになると、彼は固ぶとりな体躯をやがてもてあましてきた。家中では木像蟹(もくぞうがに)とアダ名があり、他家の御執事とは型ちがいで、いたって不行儀なほうである。それにこのごろ奥歯かどこか、歯を病んでいるらしく、片方のアゴが少しふくれている。
 それを気にして、しきりにそこを指頭で揉んだり、歯の根を噛んだりしていたが、次第に歪(ゆが)めつづけていた顔は、一切夢中になってきて、
 よし
 と、関東者の我武者を振いおこしてきたとみえる。毛抜きのさきに小さい巾(きれ)を巻いて、口のなかへ頬ばッた。痛む歯を引き抜こうとするのらしい。
「げッ、ゲッ」
 と、なんども顔を赤くしてはやり直していた。そのうちに戦場で組打ちしたときのような眉を深く彫ッたとおもうと、顔を仰(あお)に持ったまま縁から庭へ下りて行った。膝をつき、庭の石組みのあいだにかがまり、赤いよだれを垂らしては、ベッ、ベッと、懐紙で唇をふいていたのだった。
「師直(もろなお)、師直」
 その声は遠かった。主君のにちがいない。あわてて彼は元の座へもどった。だが横着者は、あたふたもせず、何事にも寸法をとって、物事の間(ま)をこころえている風だ。おちつきこんでまだ懐紙で口をつつんでいる。
 そこへ廊の渡りを小姓の姿が越えて来て「殿がお待ちです」と、彼につたえた。いつも会う所は、薔薇園(しょうびえん)へ面している東の書院であった。――が尊氏は、その書院へゆく途中の角廊(すみろう)に立っていて、彼を見ると、
「なにしていたのだ」
 と、すぐたずねた。
 師直は、遠くから見られていたとは思わず「いや、べつに」と、尊氏のあとについて書院に入り、下の座について、行儀を作った。そしてうやうやしく朝のあいさつを述べ終ると、尊氏は、
「師直」
 と、また笑って。
「木像蟹(もくぞうがに)が庭の流れで小蟹と遊んでいるわえとホホ笑まれたぞ。なかなか、きさまも風流だな」
「ごらんでしたか。いや風流どころではございません。つい癇(かん)しゃくを起しまして」
「どういたした」
「さき頃からこの身を昼夜悩め苦しめておるやつを、やっと一ト思いに退治しておりました」
「歯か。抜いたのか」
「いかがでございます。今朝の師直の顔は、晴れ晴れとお見えでございましょうが」
「まだ血がついておるわ、口の端に」
「あ、さようで」
 と、懐紙を取り出すはずみに、毛抜きと共に抜いた大きな奥歯をくるんだ物も膝へ落した。
「それで抜いたのか。師直」
「はい、これで」
「毛抜きで歯を抜くとは。はははは、無茶な男だ」
「殿には、歯痛の苦を御存知ありませぬな。古い虫歯なので、ヘタにしたら根を残しまする。そこで毛抜きを用いましたところ、ズバと鬼歯の根も除かれ、なんともいえぬこころよさにござりまする」
「よかった。それでわしも朝々そちのまずい面(つら)を見ないですむ」
「おそれいります。なぜか今朝はよくお戯(たわむ)れを」
「寝坊したせいだろう」
「行幸(みゆき)のおん供三日、昨夜もおそいご帰館で」
「さればよ、疲れはてた。気づかれでな」
「てまえは留守役だけのものでしたが、殿には、えらいご危難にお会いなされましたとか」
「もう聞いたのか」
「師直は執事。胸にたたみおかぬわけにまいりませぬ。仔細は右馬介より聞きとりました。のみならず、昨夜、禁裡からお退(さ)がりのせつは、楠木の一勢が、殿のお身を六波羅まで送りとどけてまいりました由」
「うむ」
「それも言語道断な沙汰です。過ぐる六月七日、ここを夜討ちせんと、宮将軍が密々な令を廻したとき、楠木の手勢は、奈良から宇治口をとって、あきらかに六波羅の背後へうごきを見せたものではございませぬか」
「そうだ。宮の令とあれば、正成はいつでもそれに反(そむ)くことはないだろう」
「しかもまた、男山で殿を襲った曲者(しれもの)も、楠木の弟の部下。それと分りながら殿も殿です。都の中とはいえ、夜ふけの道を、その楠木の手の者に送られてお帰りあるなどとは」
「ま、よかろう。行幸(みゆき)も事なくすみ、わしも無事にゆうべは眠った。が、じつはの師直。ほんとに眠れたのは明け方だった」
「なかなかお寝(よ)れなかったのでございまするか」
「だめだのう、まだおれは。あれを思い、これを思い。……ちょうどそちが煩(わずら)っていた歯痛みとおなじような疼(うず)きに終夜悩まされての」
 なるほど、尊氏のどこかには、いうがごとき我慢にじっと歯の根をかんでいる風がある。それが暗い翳(かげ)とならず、今朝の冗談にさえなっていたのは、尊氏の心の作為か、この主君の天性か、どっちかだろうと師直は思った。と同時に、彼は思いきって膝をすすめ、尊氏のすぐ顔の下でその声を押しころしていた。
「殿。……病(や)む歯は抜くにかぎります。殿も毛抜きをお用いなされませ」
「わしの病む歯は、どこの歯か分っているか」
「もとよりあの御方です。大塔ノ宮という一歯(いっし)をのぞけば、そこらじゅうの得態(えたい)の知れぬ腫熱(うみねつ)もみな自然に解消するでしょう。いずれにいたせ、ご大望のためには、放置してはおかれませぬ」
「だが、先は宮なのだ。武門の列の者とはちがう。わけてうしろには主上がおられる。その主上もご同腹と考えられる。いやむしろ宮をしてやらせておられるのかもしれぬ」
「でも、策を以てすれば」
「どういう策をな?」
「ここに手頃な毛抜きがありまする。それは准后(じゅんごう)の三位ノ廉子(やすこ)さまです。あの女御(にょご)をつかうに限りましょう」
 この男の短所長所、アクのつよさしぶとさなども、尊氏は主人である、百も承知のうえで執事の重職に用いていた。
 が、なおかつ、いまの師直の一言には尊氏もおもわず生唾(なまつば)をのんだらしい。じっとそのおもてを睨(にら)まえるように見て。
「師直」
「は」
「容易ならんことをやすやす申すが。よも雑言(ぞうごん)ではあるまいな」
「なかなか」
 と、師直(もろなお)はひれ伏したままで。
「苦肉(くにく)の計(けい)、もし、ほどこすとすれば、それ以外に手はないと考えられます」
「だが、いかに良い策があるにいたせ、阿野廉子(あのやすこ)の御方とあっては、ちと手に遠い深宮の花だ。どうして、近づくことさえできるだろうか」
「殿のお目は真正面に過ぎまする。後宮も世間のうち。抜け目ない唐者(からもの)商人などは、准后(じゅんごう)さまといえば、下々(しもじも)以上にお話もよくわかり、利に賢いお方と狎(な)れて、うまい商売さえしておりますに」
「商売を」
「はい。それも小さい商いではありません。海外との交易です。彼らは准后さまに取入って、官符(かんぷ)をいただき、ご朱印船(しゅいんぶね)と公称して、あちらの国からさまざまな物を交易して帰り、その一部を、内裏の后町(きさきまち)で捌(さば)いたあとを、市(いち)にも出して、巨利をせしめながら、後宮の女たちからは、大受けに受けておりますので」
「聞いてはいるが、あれも准后のおとりもちか」
「そのほか、准后さまを介(かい)してなら、どんなことも叶(かな)うと見て、何かと思惑(おもわく)を抱く輩(やから)は、手づるを求め、縁故をたどり、いまや三位の廉子さまでなければ、夜も日も明けぬというほどな崇(あが)め方なのでして」
「なるほど」
「師直は、つねづね、目をつけておりました。執事役として、こころえおかねば相なりませぬ」
「む」
「そこで、そうした准后さまなれば、これは近づくに法がないでもない。また、いつかはきっと、ご当家のためにも相なるものと存じ、とうに道をつけておきました」
「どんな道を」
「まだお耳に入れておりませぬが、じつは、殿が男山供奉(ぐぶ)のお留守中に、覚一法師と草心尼さまが、東宮の御所へまねかれて、親しゅう琵琶を聞え上げ、たいそうお賞めをいただいて退がられました」
「え。あの母子(ふたり)が、恒良(つねなが)皇太子へ、琵琶をおきかせに上ったのか」
「はい。皇太子の御母として、その准后さまも御一しょにです。そして、これからはしげしげ東宮のお相手にまいるようにというおことばもあった由。……いかがでござる、殿。道は立派についておりましょうが」
「はての。どうして准后が、覚一母子(おやこ)を俄にお召しあったのだろうか」
「過ぐる頃、斎宮(いつきのみや)でお会い遊ばしたのが初めですが、お歌の師、冷泉家を通じて、その御縁を作ったのは、かく申す師直が蔭の役者にございまする」
「ではその折、そちが東宮の御所へ、供して行ったのか」
「いえ、蔭の役者は、めったに表に顔は出しませぬ。筋書はまだこれからでもございまするし」

 この朝の尊氏にもそれが見えるが、そうじて彼のやりくちは、胸には夢寐(むび)にも忘れぬ大望をおいていながら、おおむね、その画策も運びも、人にやらせて見ているというふうだった。
 そしてただたんに、
「よせ」
 とか、
「やるがいい」
 とかの、判断と注意だけを与えるにとどまって、いちいち「こうせい」「ああせい」と、細かなさしずはしなかった。
 もっとも、切れ者の弟の直義(ただよし)を右腕に、執事の師直(もろなお)を左の腕ともしていたので、まずたいがいな茨(いばら)のみちも、まかせておけようとしていた安心もあったからではあるにちがいない。
 そのくせ、それほど主君から買われていたこの師直という執事ほど、ほかの周囲には誤解されている人間もなかった。
 ひとつには、彼の風貌のせいもあろう。「あの木像蟹どのか」と、すぐ一笑の下にかたづけられる。ところが、じっさいの彼という人間は、その野臭(やしゅう)にも似ず、なかなかこまかい神経があり、武将のうちでは学問もあるほうだった。わけて筆をとれば柄にもない美しい文字を書くし、その作歌は「風雅和歌集」にさえ載せられたほどなのだ。
 家柄といえば、曾祖父高(こう)ノ重氏は、かの、
 鑁阿寺(ばんなじ)の置文(おきぶみ)
 を遺して死んだ足利家時につかえていたもので、いわば足利家代々の譜代(ふだい)である。だから尊氏とは生れながらの主従であった。しかし、師直は足利家の家風からはまったくハミ出しているところがあり、人間的には尊氏とどこも似ている点はなかった。むしろ、尊氏よりも道誉にちかい当世型の婆娑羅肌(ばさらはだ)といってよい。
 道誉とは、まだ鎌倉のころ、滑川(なめりがわ)の妓家で、双方、極道(ごくどう)の面をさらけ合って、飲んで、喧嘩別れをしていらい、逆に、あれからはどっちも「おもしろいやつだ」と見て、この都でもつきあいをつづけていた。そして、その密度は主人尊氏をおいて、個人的にまで深まっていた。
 といっても、この婆娑羅同士のことである。
 遊宴、放逸、どんな酒間においても、腹のなかのより大きな欲望はいつも忘れていなかったろう。――で、おそらくはこの朝、師直が尊氏からゆるしをえてかかった或る一秘策なども――それをすすめた原案者は、案外、彼ではなくて佐々木道誉であったかもしれない。
 なぜなら、そのご或る苦肉の計がはこばれて行った過程には、あきらかに道誉も蔭ではたらいたらしい形跡があるからだ。もちろん師直も、冷泉家や斎宮(いつきのみや)などをとおして、それとなく当(とう)の大敵、大塔ノ宮を陥れる讒(ざん)を植えてゆき、道誉もそれにあわせて、馴じみの武器商人や公卿貴紳(きしん)のあいだに、巧妙な流言(るげん)をまいていたのだった。
 すると、この反間(はんかん)の計(けい)は、まもなく、その効を、後宮のうちにみせだしていた。
「准后(じゅんごう)さま」
 と、彼女への忠義だてに、精いっぱいな後宮の女たちは、
「お聞き遊ばしましたか。ちかごろの忌(いま)わしい蔭沙汰を」
 と、争ッて廉子(やすこ)の耳へしきりと大塔ノ宮に関する風説がささやかれて来た。けれど、当の阿野廉子は、もとより世のつねの女性ではない。人の告げ口や噂などに、すぐうごかされはしなかった。
 廉子のいとこに、阿野ノ式部大輔(だゆう)公知(きんとも)という色の小じろい男がいる。
 その公知が、ある日、彼女の局御所(つぼねごしょ)へ来て、
「あねぎみ」
 と、これも近ごろ彼女がよく聞く忠義だてをヒソヒソと※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)いた。
「どうして、いまのうちに、なんとかお手を打たないのですか。このままではやがてまた、もいちど、隠岐ノ島のうき目を見かねませぬぞ」
「公知。おまえまでが、そんな告げ口はおつつしみなさい」
「と仰っしゃるが、私はまだなにもほんとのところは言っておりません」
「いわなくても、わらわには、わかっています」
「おわかりのはずはない」
「いいえ、ほかからも聞いている。宮将軍のことでしょうが」
「それにはちがいありません。けれど公知は、人の口端(くちは)などに乗せられて、申すのではありませぬ」
「では、噂は根無し草ではないというの?」
「人は知らず、この私が、何でそんな軽はずみなものを持って、あねぎみのお心をわざわざ騒がせにまいりましょうか」
 公知(きんとも)は言いきッた。ほんとの心情にはちがいあるまい。廉子(やすこ)にもそう思われた。
 もともと公知は、廉子の父の公廉(きんかど)の家で育てられた者であった。また何の能もないのに、廉子の引立てひとつで出世してきたものといってよい。だからいまだに幼少のまま「あねぎみ」と彼女をよんで、多少、この女流権力家にあまえる気味もあり、何かと、よく局御所へ姿をみせる一人であった。
 それだけに、廉子も公知の言には、だいぶ心をうごかされたらしい。――だんだん問いただしてゆくうちに、いつか理知のつよい彼女もただの女の猜疑(さいぎ)だけになっていた。それを根ホリ葉ほりする執拗さは、むしろ公知以上な動揺をうちにもってきたふうであった。
「……まこと、いまの話のようならば」
 と、彼女はもう抑えきれぬ血のいろを、皮膚の下に騒がせて。
「なんとか、ここで……。思案せねばなるまいのう」
「あねぎみが、ここでご思案などとは、おそいくらいですよ。万里小路(までのこうじ)どのですら、心痛の余り、主上へご諫言したといわれているのに」
「あの藤房卿までが、そう言いましたか」
「いえ、その藤房卿からじかに聞いたのではありません。けれど、あねぎみもお聞きおよびでしょう。……藤房卿がお上へご諫言して、その夜のうちにやしきを捨てて、どこへともなく姿をかくしてしまわれたあの事件は」
「お。おとといの夜とか」
「そうです。……それも宮のおそろしい御腹中が近ごろ歴々とわかってきたので、万一にも、陛下と宮とのご父子の間に、憂うべき事態でも起ってからではと、あのまじめ一方な藤房卿のことなので、怏々(おうおう)と、思いあまったあげく、おかみへお諫めしたものだろうと、みな評判しておりまする」
「でもなお、おかみはお耳にいれなかったというのですね」
「……え。藤房卿の突然なご出家は、たしかに、それも一つの原因に相違ございませぬよ」
 廉子(やすこ)は黙った。理性と瞋恚(しんい)のあいだに迷いぬく姿であった。

 一方は後醍醐の正子。一方は父皇のいわゆる愛妾である。大塔ノ宮と廉子とのあいだは、さなきだに、すぐ棘(とげ)だちやすい立場にある。
 宮からみれば、准后(じゅんごう)と彼女を繞(めぐ)る一派の者は、
 警戒すべき後宮の癌(がん)
 であり、政治上最も忌(い)むべき、
 女奏(にょそう)
 という女のさし出ぐちも我慢ならぬものだったに相違ない。しかも年上の親王たちをもさしおいて、廉子の産んだ恒良(つねなが)が、皇太子の位につき、はやくも次代の天皇に擬せられているなど、
「どこまで、帝を手玉にとって、のさばろうとする女か」
 とも言いたいような感情であったろう。
 そこへ近頃また、血統をやかましくいう公卿間では、
「准后のお血すじには、北条家の濃い血が入っている」
 などの蔭沙汰が頻りにあり、
「ほんとか」
 と、さっそく、しらべてみた者もある。ところがこれはたしかであった。
 遠いさきではない。
 源頼朝の弟に、阿野全成(あのぜんじょう)(幼名・今若)なるものがいた。
 頼朝、義経の運命とおなじく、幼少の折、醍醐寺に入れられていたが、やがて頼朝の幕府に召しだされ、還俗(げんぞく)して、北条時政のむすめ政子の妹、滋子(しげこ)と結婚したのであった。
 滋子は、阿波ノ局ともよばれ、再婚の身で、一女子を連れ子して、全成に嫁(とつ)いだらしい。
 とかく不運な女性だった。
 その不運にまつわるこんな話も有名になっている。
 姉の政子も滋子も、ともにまだ父の北条時政の深窓に養われていた処女(おとめ)時代。
 妹の滋子が、ある朝、吉(い)い夢(ゆめ)をみたことを姉にはなした。すると政子が「その夢を私に売っておくれ」と、何かのかたちで妹の夢を買った。
 まもなく政子には恋人ができた。それが蛭(ひる)ヶ小島(こじま)に流されていた頼朝だった。当然、彼女はのちの鎌倉殿の御台所となり、老いては、尼将軍政子とかがやく一生をもった。ところが妹の、
 夢を売った女
 の滋子のほうは、初婚にもやぶれ、全成とつれ添ってからも、血で血を洗う頼朝歿後のいろんな事件にかかりあって、人生のあらゆる惨をなめ通した。ただ彼女の連れ子(前夫との一女子)は右馬頭(うまのかみ)公佐(きんすけ)に嫁いでいたので、その女子だけは、良人と共に京都へ移り、時の一条能保(よしやす)と肩をならべて、かなり一ト頃は羽振りをふるった。
 が、この公佐(きんすけ)もまもなく京都で失脚している。そして子孫は朝廷に仕えてきたが「尊卑分脈」でみると、それからは――阿野実直――(不明)――公廉――廉子(やすこ)――の順となっている。
 系図の途中に不明な人がいたほどだから、公卿としても、きわめて栄(はえ)のない古衣冠を伝えてきた低位の公卿にすぎまい。
 けれど、夢を売った女の、北条時政のむすめから、ここに幾代かをおいて、阿野廉子という、人の夢をも食う貘(ばく)のような一世の美婦人が生れ出て、後醍醐の深宮に住み、皇太子の生母として威をふるッていたのである。これは血の不思議をおもう公卿輩(くげばら)などには、なにか因縁事(いんねんごと)のようなオゾ毛を慄(ふる)わせたのではなかったろうか。
 いいかえれば、皇室もただの大きな家庭にすぎない。
 ただ周囲はだいぶ違う。
 異母弟、異母兄、たくさんな妃、それにともなう栄冠や不遇。わけて天皇の世つぎとなると、これはもう家庭などといえる問題ではない。古来しばしば国乱をさえ呼んでいる。
 理知にとむ廉子でさえも、それには聡明も失った。いらい大塔ノ宮をみる目に、一ばい女の異常を研(と)ぎすます。――すると事ごとに、周囲の言も、いとこの公知(きんとも)が知らせてきたことも、
「うそではない」
 と、思われ出し、
「もし、先(せん)を打たれて、宮のたくみに乗(じょう)ぜられたら?」
 と、もう一日もすておけない不安にかられだしていた。
 昼の御座(ぎょざ)であった。彼女は人なき折をみてついに胸の火ぶたを切った。その顔いろには後醍醐もハッとされたふうである。まったく、いつもとちがう廉子の黛(まゆ)であったからだ。
「なに。身をひきたいと」
「はい」
「なんでそんなことを俄に」
「わらわだけでなく、このさい東宮(皇太子恒良(つねなが))にもご退位をねがって、この母共々、争いの外へ身を避けることが世のためとおもわれますから」
「ばかな、そんなことができるものではない。一たん皇太子とさだめたものを」
「けれど、ほかにも東宮の御位(みくらい)をのぞんでやまぬものがあれば、乱(らん)になるしかございません」
「たれがそんなあるまじきことをば……。恒良(つねなが)のほかに皇太子はない」
「いいえ、いらっしゃいます。みゆるしはべつとしても」
「たれだ。言ってみい。……言いにくいのか」
 彼女の涙をみて、これは容易でないと帝もおどろかれた。かつては、隠岐ノ島でのどんな苦難にでも、ついぞ涙など見せたことのない廉子である。その廉子が身をばしぼって肩の黒髪を泣きふるわせているではないか。
 思いあまって。
 とする情感を姿にこめて、やがて彼女が嗚咽(おえつ)の絶え絶えに訴え出したのは、もちろん、大塔ノ宮のことだった。――建武招来の第一の偉勲は、御自身なりと驕(おご)り誇ッている大塔ノ宮は、一面に尊氏をのぞかんとし、一面、もっと大それたたくみを抱いて、着々、その密謀をすすめているというのである。
 宮には、御子がある。妃は北畠家の女で、御子もまだ二歳でしかない。
 けれど宮は、自分のその御子をもって、皇太子としたいらしい。もし父帝がおきき入れなくば、帝を廃してでも、いまの恒良を蹴落して代わらせてみせる。――元々、北条家の血を母系にもつ准后の子などを、次の皇位にすえるなどは言語道断であり、あくまで帝系の血は、高貴な流れでなければならぬ。逆臣北条のどす黒い血を、かりにも帝脈に入れていいだろうか。
 近ごろ宮方では、なかば公然と、そんな誹謗(ひぼう)まであげ出している。のみならず、武器商人から大量な武器を買い入れたり、またいよいよ浪人どもの召抱えも目立つばかりか、諸国の武士へも“宮将軍令旨”なるものを発して、一朝(いっちょう)の日に備えている――と、廉子がいちいちつき刺す言は、帝のお胸をば抉(えぐ)らずにおかなかった。
「泣くな。いつまでも」
「はい……」
「みぐるしい」
「申しわけございませぬ。では、これをかぎりに、廉子はおいとまをいただきまする」
 彼女は指を袿衣(うちぎ)の袖にかくしてそっと顔の濡れをたたいた。澄みきった女の覚悟を姿に描いて退がりかける容子である。後醍醐は、狼狽(ろうばい)された。
「どこへ行く。あらたまって、いとまをとは?」
「さきにお願いしたとおり、どこぞ野山へ身をひそめまする。そして人の恐ろしい謀(たく)みから遁(のが)れて、ただただ、お上と宮将軍とのご父子のあいだが、円(まる)うおさまってゆきますように。……廉子のとる途は、それ一つしかございませぬ」
 すると帝は、おん目をいからせた。まったく、当惑にみちたご気息だった。
「廉子っ」
「はい」
「そなたは、そなたの高い地位をおわすれか」
「身にすぎた准后ではございまするが、まだ准三后(皇后)とは仰がれておりませぬ」
「でも、皇太子の御母ではないか。やがては当然、国母たるそなたではないのか」
「いいえ」
「ちがうか」
「それがいけないのです。護良(もりなが)(大塔ノ宮)さまには、第一にそれがお心に染(そ)みません。二つには、この廉子の血は北条家のながれを汲(く)む者ゆえ、逆臣の血を帝系に入れるなどは沙汰のかぎりであるなどとも蔭口されておりましては、なんぼう、廉子がお上をお慕いして、おそばにいたいと希(ねが)っても、しょせんは、末しじゅう、恐ろしいことでしかございませぬ」
「…………」
「……また、しいて、み心のまま、わらわの産んだ恒良(つねなが)(皇太子)を帝位(みくらい)につけまいらせても、いまの宮将軍のご勢威では、決してその下にお服しなさることはございますまい。……さすれば、世はどうなりましょうか……。朝廷のお内輪から乱に乱を生みおこすようなことにもなりかねませぬ」
「やめいっ」
 おん眉を凝(こ)らして叱った。
 そして乾いたお口の唾(つ)を待ってまた仰っしゃった。
「身勝手な退身の願いなどは決してならん。ただの女御(にょご)更衣(こうい)とはちがう。かりそめにもそなたは皇太子の御母。その皇太子を他の親王に代えるなどの儀は、つゆほども、考えてはいないことだ。……とまれ何事があろうと、准后は准后としておれ。命じたぞ。よろしいか」
 きびしい綸言(りんげん)であった。いや、あらあらしい男性的なご態度で、いつもの“姉さん女房”廉子にたいするものではなかった。
 その夜は。
 後醍醐も、后町(きさきまち)のどの妃の局へもお通いは見えなかった。ひとり夜(よる)ノ御殿(おとど)に悶々と御寝(ぎょし)もやすからぬご様子だった。おそらくは、父として、帝王として、ここの紛糾(ふんきゅう)をどうしたものかに、夜すがらな、おなやみだったものに相違なかろう。
 護良(もりなが)。征夷大将軍ノ宮。
 ご自身の第三皇子だ。――この出来すぎているほどな子を、父後醍醐も、はじめは、帝血にめずらしい俊豪な獅子児と、ほこりにしておられたのだが、近ごろはまったく、手におえぬ者と、一再ならず、持て余していたところなのである。護良、ああ護良と。

「おーいっ。彦七」
 宮は、手綱をしぼッて、その半身を、鞍(くら)の上から後ろへ反(そ)らせて、
「どこへ行く。どこへ行く」
 と、はるかな一群の供の騎馬を呼んでいた。
「や。お声は彼方だ」
 と、気づいたらしく、矢田彦七、平賀三郎、木寺相模、岡本三河坊などの随身は、馬をとばして追ッついてきた。
 大塔ノ宮は、狩猟(かり)の藺笠(いがさ)、豹(ひょう)の皮のはばき、弓を手に。
「口ほどもないな。たれひとりおれのさきを駈けてみせるやつもないではないか」
「じたい無茶でおざりますわ」
 彦七が、すぐ言った。
「あの野川を騎馬で跳(と)び越えられたとは、思われもいたしません。それで川下の土橋を廻り、ついお姿を見失うたので」
「それが不覚だ。戦場ならば、今日の供など役に立っておらん。そうだろう」
「おそれいります」
「鷹(たか)を持った徒士(かち)どもは」
「とうに見えもいたしませぬ」
「とにかく急ごう」
「いやもう森の彼方の北野の町なか、この同勢で余りに馬をとばしては、何事ならんと、人目をひきましょう」
「ひいてもかまわん。もし殿(でん)ノ法印(ほういん)のしらせが、まこと大事(だいじ)の兆(きざ)しなら、一刻もゆるがせならぬぞ。つづいて来い」
 前ほどな鞭(むち)ではないが、宮はまた快足をみせて洛内へいそいだ。陽はまだ午(ひる)である。何が起って、今日の野駈けを途中から引返したのか。
 いつものごとく、清滝から衣笠(きぬがさ)へかけて鷹(たか)をこころみに出たのであった。ところが留守の法印から容易ならぬ使いを飛ばして来たものだった。
 今暁らい、異常なうごきが、尊氏のいる六波羅を、おおいつつんでいるというのである。
 尊氏のうごき
 と聞くと、宮の眉は反射的にすぐ「すわ」となる。
 この軋轢(あつれき)はどっちからともいえないものだが、武力のきッかけを示したのは、宮のほうが先だった。再三、尊氏をうかがっては、不意を突くのに失敗をかさねている。
 もっとも、これは宮ご自身の、気負いとのみするわけにゆかない。このごろでこそ、困ったお顔をしているが、今夏六月七日の仕損じ以前は、父の天皇も、暗黙のうちに、尊氏退治にはご同意をよせ、宮の手をもって、尊氏を処理できるなら、それに如(し)くはないとしておられたのである。
 もひとつ。
 この宮将軍を、いやが上にも、信念づけさせていた者がある。それは南禅寺の僧、明極(みんきょく)だった。――たまたま、宮が南禅寺へ詣(もう)でたとき、明極和尚は、一法語を宮にさずけた。それは兵仏一致論ともいえるもので、仏家としてはずいぶん穏やかでないものである。宮の若い火鉄は、この和尚の鉄鎚(てっつい)によっても、いよいよ、
「おれの信念は正しい」
 とする気概をもったらしい。失敗はしたが、六月七日事件は、南禅寺の参禅の直後におこしたものだった。
「良忠(殿ノ法印)。もどったぞ」
「お。お帰りなされませ」
 宮は、神泉苑の御所に入るとすぐ訊ねた。
「して。尊氏めが、兵でも集めているというのか」

 宮も、随身たちも、それからの小半日は、急遽、狩猟(かり)の出先からもどった野駈けの姿のままだった。
 解くまも惜しんで、
「すぐ門をかためよ」
 と常備の兵を配置につけ、新規召抱えの浪人軍へも、動員をくだしたうえ、なお、
「千種(ちぐさ)(忠顕)を呼べ。義貞(新田)にも使いを出せ」
 と、おもなる味方へ、非常の使者を飛ばすなど、ものものしい手くばりだった。
 そのあいだに、宮は、
「良忠――」と、殿ノ法印へむかって。「そちが会った密訴の者は、どこにおいてあるのだ。ここか、六角か」
「されば。訴人は六角のてまえのやしきへ駈けこんでまいりましたものゆえ、六角へとめおいてござりまするが」
「連れて来い。そちを疑うのではないが、念のためだ。おれみずから、しらべてみる」
「宮ご自身?」
「かまわん」
 やがて訴人の一武士が宮御所へ移されてきたのはもう夕がただった。暗い冬ざれの庭に大かがりがドカドカ焚(た)かれ、宮は、寒烈もいとわず床几(しょうぎ)へかかる。そして直々、訴人を見た。
 昼、すでにこの者の口上は、つぶさに法印からお耳へとどいているのである。あらためてご自身、聴取の必要もないのだが、事は重大であり、宮のご気性も、それではお気がすまぬらしい。お好きといっては語弊(ごへい)もあるが、諸事、もの珍らなことには、とかく臨まれたがるふうもあった。なにせい、天皇の御子という高貴と、征夷大将軍なる武威とがある。どんな人間も唯々(いい)として、一令にうごき、目のまえに慴伏(しょうふく)するなどのことは、たまらぬ御快事ではあったのだろう。
 そのくせ、ちかごろのことでもないが、宮のつかわれる用語もまったく随身の山武士や浪人なみの粗野なことばに変っている。軍を統御するには宮廷風の殻を脱いでその体臭へ御自分からも同化してゆかねばならぬと努(つと)めておられるものだろうか。
 このてん武家と公家とはあべこべである。都へ入ると武将はみな一様に大宮人の生活や粧(よそお)いをまねしたがり、堂上の若公卿ばらは、逆にかれら武人の鞍上(あんじょう)の姿だの、小鷹(こたか)を据えたり、弓矢を飾り持つ風俗などに大かぶれの有様なのだ。それが建武の往来に描(えが)かれ出した時世粧(じせいそう)の特徴みたいなものだった。
 とにかく、宮はつねに意気軒昂(けんこう)たるもので、言語もそれそのままに。
「やい、つらを上げい」
「はっ」
「きさまか、訴人は」
「さようにござりまする」
「どこの者だ」
「代々近江伊吹に住みおります」
「伊吹。……伊吹といえば佐々木道誉の領下であったな」
「は。その道誉の家臣、民谷玄蕃にござりまするが、主人道誉の仰せもあって、かねがね、六波羅と鎌倉との使者往来に注意しておりましたところ、はからず極秘の一札(いっさつ)を手に入れましたので」
「それを持って出てきたわけか」
「御意(ぎょい)」
「ならばなぜ、主人道誉へ見せに行かず、これへじかに訴え出たのか」
 道誉の国元の家臣だと名のるその民谷玄蕃は、
「あ、いや」
 と、宮の早呑みこみに慌てて、すぐ言い直した。
「もとより主人道誉へも、それは一見に入れてあります。そこで殿の申されるには、こはこれ、容易ならぬ六波羅の秘牒(ひちょう)だ、すぐ宮の候人(こうじん)殿(でん)ノ法印(ほういん)どのまで、そのほう直接、訴人となって、先にお届けに及べ、との仰せつけにござりましたようなわけで」
「分らんふしがあるな」
 と、宮は小首をかしげて。
「それくらいなら、なぜ、道誉自身でこれへまいらんのだろう?」
「いえ、お召とあれば」
「よべばいつでも参るというのか」
「はっ。義理がたい殿ゆえ、千種(ちぐさ)どのをさしおいてはというご遠慮があり、さりとて、大事は火急、遠廻しな手順はとっておられぬと」
「わかった」
 宮はやっと、得心(とくしん)がいったご容子だった。ひとたび、疑いがはれると、あとはやはり宮中そだちのお人の良さが、それもまた度(ど)がすぎるほど、寛容にあらわれてくる。
 どうしてこんな六波羅密牒がやすやす手に入ったかなどの、細部のしらべは糺(ただ)そうともせず、いずれ道誉から訊きとるおつもりでもあるか、
「よく告げて来た」
 と、玄蕃の労をいたわって、
「良忠、この者を下屋(しもや)へさげて、当座のほうびに、酒でもうんと飲ませてやれ」
 と、いいつけた。
 そして宮は奥へかくれ、宵の灯の下で、さきに訴人から殿(でん)ノ法印(ほういん)をへてお手に入った六波羅密牒の内容を、もいちど検討しているふうであった。
 それは、六波羅の執事高(こう)ノ師直(もろなお)のふでにちがいない。ひどく達筆である。
 文意は、鎌倉の直義(ただよし)へあてて、近日中に京都で異変があるむねを予報しているものであった。
 異変とは何か。洛内の挙兵だとも、宮将軍の門を攻めてご自決をせまることだとも、文面ではどこにでもいっているものではなかった。けれど文の裏には充分にそれと読まれるものがある。
――かからん上は
関東、奥羽の一ゑん
宮かた武士どもの動揺
わけて陸奥(むつ)の屯軍(とんぐん)
鎮守府将軍(顕家(あきいへ))
ほか、東北大軍勢の
鎌倉殺到(さつたう)はほぼ近日に候(さふ)らはん
とく、万々にそなへて
ご遺漏なからん事を
みぎ御下知に依而(よつて)
火急 恐惶謹言
 と、むすび「執事師直」の名のほかに、尊氏の袖判も附(ふ)してあるのだ。
「……?」
 一点の疑う余地もない密牒だ。宮の血はたぎりたった。尊氏もいまは懐柔策をあきらめ、近攻遠防の腹をきめたものとみえる。いよいよ尊氏と勝負を決する日が来たわえと。
 そこへ殿(でん)ノ法印(ほういん)が、
「お使いにてお味方の千種どの以下、新田、名和、結城、塩冶(えんや)そのほかの諸将は、はや、お広間のほうで、あらまし顔をそろえてお待ち申しあげておりまする」
 と、知らせてきた。
 とつぜんな宮御所の召集には、千種忠顕(ただあき)以下、たれもが驚いて馳せ参じた。そしてよく密議する一殿(いちでん)の凍(こお)るばかりな灯に対して、それぞれの吐く白い息が固く居ながれていた。
 宮は、これへ臨むと、
「おもしろうなって来たぞ。尊氏の仮面も、しびれを切らし、ついに自分で仮面を剥(は)ぎ出した」
 と、まず笑って、
「くわしくは、良忠から一同へ告げわたせ」
 と、説明をあずけた。
 殿ノ法印はかしこまって、大事到来とばかり、その兆候をるると説明しだした。
 今暁らい、六波羅には武士の参集が続々のぞまれ、五条大橋は、朝の巳(み)ノ刻(こく)以降、一般に往来止メの札立(ふだだ)てとなっている事実。
 また。東山は黒谷附近から先、これも同様、木戸かぎりとなっているという聞え。
 さらには高台寺の高嶺(たかね)から望むと、六波羅の南北、車大路、大和口までも、たいへんな馬数がみえ、さだかに、その人員は量(はか)りえないが、その物々しさから察して、ゆうに数千騎が鳴りをひそめているのではなかろうか、とある。
「そのうえに、折も折でござったよ」
 と、法印は、伊吹の一訴人が持って訴え出た六波羅の密牒を、宮のお手から借りてここで読みあげた。そして、
「なんと、これは尊氏の反撃の準備、明瞭ではおざるまいか。――思うに、今夏六月七日には、あやうく、宮将軍の御成敗をうけるところであったゆえ、このたびは、逆襲(さかよ)せに這奴(しゃつ)より不意を突いてくるつもりとみえる。各※(二の字点、1-2-22)、ご油断あるなかれ」
 と、大声でむすんだ。
 しかし、たれもが一瞬、そのおもてを冬の夜らしく研(と)いだだけで、しいんとしていた。きたるべきものが来たという悽愴(せいそう)な気以外、何もない。
「中将」
 と、宮は千種忠顕をさして。
「いつなと、六、七千の兵はたちどころに揃うだろうな」
「はッ」
「新田義貞はじめ、武田、塩冶(えんや)、結城、宇都宮、名和そのほか、これにおる者の手兵だけでも……。いや、雑賀隼人(さいかはやと)、加賀の前司(ぜんじ)信宗、土佐守兼光らなど、指を折ればまだまだ多い。味方は万をかぞえてもよかろう」
「御意(ぎょい)」
 と、うけて、忠顕はほかの顔を見まわしてから。
「さきには、宮将軍令旨も発してありますれば、いざと御旗を見れば、万や二万はすぐ近国からも馳(は)せ集まりましょう。……したがここには、河内守が見えませぬが」
「正成か」
「は、決断所では役にもたたぬ仁(じん)でおざるが、畿内の兵を狩りだすには、あれもなくてはならぬ一人ですが」
「その正成は勘当(かんどう)した」
「え、なんで御勘気にふれましたか」
「つい十日ほど前よ、おれの前で、くどくど、説法めいた諫言だてをしてやまぬゆえ、出仕(しゅっし)止めを命じたのだ。まもなく、河内の奥へ悄々(しおしお)として帰ったそうな」
 こともなげに、宮は笑う。宮と正成とは、よほど心契(しんけい)の仲(なか)とこれまで思っていた人々には、少なからぬ意外であった。
「……さては、正成は河内へ帰ってしまいましたか」
 と、中には彼がここに見えないのを惜しむ者もあり、宮はぜひなく言い足した。
「いやの。たしかに正成は戦はうまい。しかし彼のはどこまで自衛の戦だ。ただ辛抱づよいのが取柄だけだ。天下布武の大志もなし、政治などは、何もわかっている者ではない」
 ことばのうらに、宮は宮ご自身を語っていた。自分にはそれがある。正成にはそれがない。――またかつての、千早籠城にせよ、自分がたえず大局的見地から彼の孤塁へ全国的な観望やら兵策をさずけていたからこそ、よく持ちささえたものなのだ。ということを、一同へ、ほのめかしてもおいでだった。
「ま……。正成は除こう。いずれ折をみて勘気は解いてやる心でおるが、おれのまえでも尊氏を庇(かば)い、ああ拗(しつ)こい諫言をするようでは今日の役には立たぬ。なんといたせ、ちと変り者だ。あれはやはり河内の奥で柿作りのかたわら寺普請(てらぶしん)の奉行でもさせておくのが一番よい。さりとて弓を逆(さか)に引くやつではなし」
 こう、正成のことは結論づけて、宮はまた、
「越後」
 と、忠顕のとなりにいる越後守新田義貞へ、熱のこもった眸(ひとみ)を、らんと向けられた。
「そちは武衛の大将、弟脇屋義助とともに、朝廷でも一ばいお頼みある者だ」
「……はっ」
「さいぜんから深く沈思の態(てい)のみで、まだ一言もないではないか。尊氏は、そちも常々、倶(とも)に天をいただかざる宿敵なりと申していたはずだが」
「されば」
 と、義貞はつつしんで。
「武者所の重きにある身、かろはずみは、弟義助にも戒めておりますが、尊氏のうごきについてなら、その一挙一動といえ、たれよりは注視を怠っておりませぬ」
「ならばまた、たれより意見があろう。言ってみい」
「今暁からの六波羅の人集まりは、軍兵の催しではないように自分は聞いておりまする」
「たれから」
「家中の里見新兵衛なる者を細作(さいさく)(しのび)に仕立て、探りとったところによりますると」
「ではなんだ? 五条以南の往来止めは」
「六波羅の内で、尊氏が、父貞氏の法要を執(と)り行い、足利有縁(うえん)の武士をひろく招いたのだということですが」
 と、すぐ座のなかの一将から、いや二、三人から「それはおかしい?」とささやかれ出した。
「越後どの。ご存知ないか。尊氏の父貞氏が亡くなったのは、たしか四年前の九月五日だ。――ところが今日はこれ十月の二十一日。忌年(きねん)にも命日にも当っていませぬぞ」
「ごもっともだ」
 と、義貞はさからわず、
「じつはその不審をどう解くべきかと、思案にくれていたところでおざる」
 すると、宮は笑いだした。
「それこそ偽計だ。謀略だわ。はははは」
 法要か。
 軍兵の動員か。
 かりに尊氏の亡父貞氏の法事なら、その年忌(ねんき)にも命日にも当っていない不審はどう解くのか。
 幼稚な偽装である。――論ずるにもたらん、と宮は言って、
「尊氏も智恵のとぼしい男とみえる」
 と、義貞のこだわりは歯牙(しが)にもかけられず、話はすぐほかの実際的な軍議のほうへすすんでいた。
 けれど、義貞はなお、冴えない顔だった。
 尊氏という人間を観(み)るうえでは、たれよりも、自分が最もよくそれを知る、としていたからである。
 新田、足利とならんで郷国も隣り合っていたし、幼少からの人となりもお互いよくわかっていたうえ、隣国同士、喧嘩のしのぎもけずりあい、鎌倉入りには味方ともなって、両軍、くつわをならべて攻め入った仲でもあるのだ。――が、その後においては、
 食えぬ男。
 心底の読めぬ尊氏。
 と、義貞の尊氏観は、いちだん、以前とちがっていた。
 いまとなってみれば、自分が畢生(ひっせい)の一戦としてやった決死の鎌倉攻めは、尊氏のためにやったようなものでしかない帰結となっている。ばかなはなしである。今日の鎌倉の主人は足利直義(ただよし)なのだ。朝廷もみとめ、世間もそれをあやしんでいない。
 考えてみると。
 すべて尊氏の謀(ぼう)だったのだ。じっくり見直してみなければならない。鎌倉在住のころも、這奴(しゃつ)はただの“ぶらり駒”ではなかったのだ。やつの薄あばたの一ト粒一ト粒から爪のさきまでが謀(ぼう)の結晶で出来あがっている人間と見なしていいほどである。それを石地蔵の申し子のように若いときから馴れッ子に見ていたのが、自分の不覚を取った一因というほかない。
 ゆめゆめ、もうあまく見てはならぬ。――戦でなら負けはしないが――謀(ぼう)にかけては寸毫(すんごう)の油断もならぬ尊氏、義貞一生の強敵と心がくべきだ。さもなければ、鎌倉終末の大失敗を、ふたたび都でもかさねるだろう。謀だ。彼は謀にとむ大敵だ。
 今夜も今夜。――義貞ひとりはそんな思いでいたことなので、ともかく一座の軍議にも腹から乗ってゆけなかった。のみならず次から次へ疑惑がわいた。
 たとえば。
 伊吹の一訴人が、宮御所へ提出して来たという六波羅飛牒などにしても、その入手経過は、はなはだ怪しく、第一、訴人の主人佐々木道誉がみずから顔を出していないなども変である。義貞は、その点をもついて、
「念のため、道誉へお使いを賜わって、彼をこれへよび、訴人の儀、たしかかどうか、仔細をおただしあってみても、事は遅くはありますまい」
 と、提議してみた。
「なるほど」
 うなずく顔が多かった。
 従来、道誉は宮一党の連判には加わっていなかった。千種家へは、ひんぱんに出入りし、義貞や殿(でん)ノ法印(ほういん)とも面識はあるが、それだけのものだった。――で、親しく令旨のお使いがくだれば、道誉にとり、初めて宮御所の門をくぐるの栄を許されたことにもなる。
 宮御所のお旨をおびた召(めし)の使者は、すぐ佐女牛(さめうし)の道誉のやしきへ急いで行った。
 もう深夜だ。それをしおに、
「あとは道誉が見えてから」
 と、軍議もひとやすみに入り、
「寒いっ」
 と、人々は肩をそばめあった。
「はや子(ね)か、丑(うし)ノ刻か」
 と、鼻赤らめて、みな凍(こお)る息を手でかこむなどの姿に、宮もまた、
「良忠。夜食を」
 急に、それをうながして、なお追っかけに、
「酒もだぞ。酒を先に」
 と、いいつけられた。
 小半刻(とき)のまに、座景はすっかりあたためられ、酒は人々の語調まで活溌にかえだしていた。
 酒のおつよい宮は、しきりと、大杯をかたむけられる。物など喰(あ)がらず、それは見る目も小気味よい飲み振りだった。二十七の若さが、そこには誇って色に出ている。
 尊氏何者ぞ
 との御気概は、しぜん列座のすべてをも異常な酔いの霧につつんでいた。寒気と空腹へそそぎ込まれた酒である。あらあらしい血の脈を、どの顔も、こめかみに膨(ふく)れさせ、人々は一足跳(いっそくと)びに、原始人めいた殺(さつ)ばつな鼻息や放言になっていた。
 夜明けとともに、ここを本営とし、兵の配備、遊撃隊の潜行、第二次の動員、それらの結集地点など、作戦のあらましはもうつくしている。
「だが」
 と、そのうちに呟く者があった。
「おそいのう」
「道誉か」
「もうお使いも戻りそうなもの」
「はて。どうしたか」
 遅いはずであった。
 やがて使者は返ってきたが、道誉はつれていなかった。それの報告によると、佐女牛の深夜の門を叩いて令旨をつたえたところ、道誉は家臣を通じて、折わるく、風邪の大熱できのうから薬餌(やくじ)にしたしんではおれどほかならぬお召、また道誉一代のほまれであることゆえ、すぐ出仕(しゅっし)いたしまする、という答え。
 そこで使者は、長いこと、一殿(いちでん)で待っていたが、二(ふ)た刻(とき)もたつのに、どうしたのか出ても来ない。こらえかねて、家臣へたずねると、主人道誉は勝気にまかせ、一たん、ご装束(しょうぞく)を着(つ)けにかかったが、大熱にはかてず、俄に、ふるいを起してしまい、ただいま典医をよんで、薬湯をあげるやら何やらの最中なので――と、恐縮して、ただただわび入る態でしかないので、ぜひなく一おう立帰ってまいりました、という逐一な使者の報だった。
「仮病(けびょう)ではないのか?」
 口走った者がある。
 すると、千種忠顕が、すぐ庇(かば)った。
「いやそんな人物ではない。婆娑羅(ばさら)なたちだが竹を割ったような男。せっかくなお召をと、さぞ無念がっておりましょう。また何も彼の不参が作戦上のさしつかえではなし、明日は手兵を送ってくるか、病をおかしてでも、自身見えるにちがいない」
 もう外には鶏鳴(けいめい)が聞えた。
 いつか明けていたのである。戦端はいつどこから切られるかもわからない。人々は戦備のため、いちど、それぞれの自邸へ別れて帰った。――この頃から京はチラチラ細かい雪になっていた。
 雪は、ことしの初雪だ。十月二十二日である。寒さもこの冬はじめてといっていい。
 こんな朝をいうのだろうか。唐詩人などがよくつかう
 凍天(とうてん)
 という語そのままな空でもある。盆地のせいもあろうが暗灰色ともなんともいいようない陰極の天地であった。風を交じえた粉雪なので、霏々(ひひ)と、雪には声があり、まだ凍(い)て乾(かわ)いている地上から逆さに白く煙って翔(か)ける。
「へんだね、今日は」
「なにかこう?」
「六月七日の夜半(よわ)みたいだぜ」
「また、はじまるのか」
「いやだね」
「つるかめ。つるかめ」
 往来には人影もなく、氷柱(つらら)の下がッている町家の暗い中では、そんなささやきもしているらしい。午(ひる)になっても戸を開ける店はなかった。京の庶民の生態にはしぜんこうした保護神経が身についてしまっている。彼らはその肌で、ゆうべからの宮将軍御所の空気やら町々諸所の武家の門の異常な緊張をもうちゃんと嗅(か)ぎとっていたとしかおもわれない。
 もっともこんな雪では、淀、宇治川の荷舟も入らず、東西の市(いち)の棚(たな)もほとんど業を休み、辻猿楽(つじさるがく)の小屋の鳴り物も大原から出てくる販女(ひさぎめ)の声も聞かれはしなかった。――それとなお、この日例によって二条の馬場へ、天皇、皇太子の臨幸をみる予定であった十番(とつら)の競馬も中止となったので、つねならば町を染める妃車(きさきぐるま)や公卿車の雲集もまったく見えなかったことでもある。
 すると。午(ひる)もやや過ぎたころだった。
 一輛(りょう)の牛車が、五条大橋口から富ノ小路の里内裏(さとだいり)のほうへむかって、黒いわだちの痕(あと)をのこして行くのが見える。
 牛車は三位の格式のものであり、参内の盛装の人を乗せていることはいうをまたない。牛童(うしわらべ)と装束筥(しょうぞくばこ)をになった供のほかは、車副(くるまぞい)も先駆もすべて、よろいに身をかためた騎馬武者だった。さらには、いかにも軍紀整然とみえる歩兵の長柄隊、長槍隊、弓隊などが三段になって、雪かぜの中を面もそむけず粛々(しゅくしゅく)と行く。
 こはこれ、ただの参内車ともみえないから、すわ、といったような驚きを町のしじまに与えたのはムリもなかった。しかし家々の破れ戸から覗き見していた庶民たちはかえってほっとしたような色でもあった。
「あ、足利どのじゃ」
「え。足利どのか」
「おととい、きのうと、六波羅中では、法要のお営みとかで、橋止めされていたが」
「では、それも終って、何かで参内されるのじゃろ」
「ならば物騒な噂などは?」
「それもまんざら嘘ではないかもしれんが」
「いや宮方のひとり角力よ」
「そうだ、ひとり角力よ。まことの戦沙汰なら、足利どのが、ゆらゆら、この雪の日を、大路を打たせて通るわけはない」
 しかし、これらは庶民のふし穴観測に過ぎないもので。――やがて粉雪のけむる果てにその車廂(くるまびさし)も騎影も没して見えなくなったと思うと、辻を斜めに、あるいは大路を横ぎッて、どこの武士か、神泉苑の宮御所のほうへ馬にムチ打って飛んで行くのがしきりに見られ出していた。

 宮御所では明けがた作戦を終って、千種(ちぐさ)、新田、一(いち)おうみなおのが屋敷や館(やかた)へ引きとって行ったあと、宮もまた、
「このまに一睡を」
 と、表の守りを、竹原八郎らの親衛隊にまかせ、奥へひきこもられていた。いやゆうべは大杯の酔を通したことでもある。つい深々眠って、妃ノ宮のおいたわりもよく知らなかったほどらしい。
 やがて、むくと目ざめられて、
「……水っ」
 と、大声で求め、そのお声で、すぐ妃の君が玻璃(がらす)の※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)(わん)を盆にささげて、細殿の簾(す)ごしに見えたお姿と共に、外いちめんの銀世界にも初めて気づき、
「雪か」
 と、まばゆげな眉をしゅんと持ち直した。そして玻璃※(「怨」の「心」に代えて「皿」、第3水準1-88-72)の水をひと息にのんでから、ふと、妃の君のどこかに氷のような憂いの翳(かげ)があるのを知って、ふと口かろく、その憂いの君へ戯れられた。
「ああ美味(うま)かった。だが水ではなかったと、腹の虫は泣いている。……夜来、酒のほかなにも食べていなかったからな。湯漬けでもよい。いやあたたかな白粥(しらがゆ)ならなおいいぞよ。はやく膳のしたくをさせてくれい」
 そのとき、廊下の侍女がなにか言っていた。いやそれいぜんに、ひどくあらッぽい足音が聞えていたので、宮はすぐ細殿を通って渡りの前まで歩いて出られた。
「お、良忠か」
「はっ」
「なんぞ敵のうごきでもみえ出したか」
「いやどうも、異(い)なことに相なってまいりました」
「異なこと?」
「つい今しがたまでは、何ら変った報もなく、加茂川をはさんで六波羅の岸もこなたの町も、朝からの降りしく雪に、ひッそりかんとしておりましたところ、ただいま新田の一騎が飛んで来ての報によれば、尊氏の車が参内の装いで大路を打たせ、悠々通って行ったとのことにござりまする」
「尊氏が?」
「はい」
「余人だろう、人ちがいに相違あるまい」
「いや、車副(くるまぞい)の三十余騎、徒士(かち)百余人、いずれも日ごろ見る足利党の者どものよしで」
「たしかなのか」
「たしかだと言いまする」
「不敵なやつ!」
 宮はお唇を噛んだが、
「いや待て。……足利方でも覚(さと)っていないはずはなかろう。いかに彼が大胆なればとて、悠々、敵中を通るなどは考えられん。――察するに、車の内は尊氏ならぬ偽者だな。わざと、こなたの手出しを誘い、それを合図に、また口実に、一(いっ)せい市街から大内へまで、なだれ込まんとする憎い狡智(こうち)だ。そう思わぬか」
「ご明察。てまえにも、たぶんそれかと思われまする」
「うかと、かかるな良忠。すぐ諸方の味方へ伝令しておけ」と、命じてから、
「おれもすぐ表書院の陣座へ出る。そちもまた、早くせい」
 と、殿(でん)ノ法印(ほういん)を追い立てた。そして宮は一たん奥へもどって妃のお給仕で食膳につき、また装いも腹巻にかえて、おもての陣座とする一殿(いちでん)へ出て行かれた。すると、そこには早や第二、第三の情報が逆に宮の判断をさっきからお待ちしていた。
 情報はまちまちだった。
 尊氏の参内は、
「不時のお召によるもの」
 と、報ずる者や、また、
「さにあらず、尊氏みずから思い立った火急の何かをもって、至尊(しそん)を驚かし奉ったという由を洩れききまする」
 などと告げるもある。
 いずれにしろ、通過した牛車の内の人間は尊氏でない代え玉だろうとしていた宮のご観察を裏づけるものは何もない。そのうえ、だいぶ遅くではあったが、千種忠顕がわざわざ重臣をよこしてつたえて来た事々には、さすが宮廷内に自己の耳目(じもく)をたくさん持っている彼だけに、かなりくわしく、かつ真相にふれているらしくもあった。
 それによれば。
 尊氏はおとといの夜半からきのうの夜半まで、六波羅内の寺院で盛大な亡父の供養をいとなみ、かねがね、主上と准后の廉子(やすこ)からは、祭祀の供華(くげ)を賜わっていたので、そのおこたえに参内したものと、衛府(えふ)や伝奏(でんそう)には触れられているという。
 また。
 今日の参内には、ひとりの盲法師を同車しており、主上へ拝謁は彼だけらしいが、あとでは揃って、東宮と准后の廉子へもお目にかかり親しくお礼申しあげるなどの儀も内官にとりはからわれているとある。
 そのお礼とは、彼のいとこにあたる覚一法師という琵琶の上手が、東宮にも准后からも可愛がられて、このたび、
 検校(けんぎょう)
 の官名をゆるされたので、盲(めしい)のことゆえ、彼が介添えのもとにまかり出たものであるとか。
「……禁裡(きんり)のうち、たれの申すところも、ほぼそのようなことにござりまして」
 と、千種忠顕の重臣は、いかにも言いづらそうに、
「さればどうやら、六波羅の軍兵集めとする取沙汰は、やはり虚伝で、法要のいとなみが、真実のようにござりまする」
 と、この寒いのに、汗して言った。
 宮は、大きく空(くう)を打ったお眼である。張り充ちていた闘志も画策も音をたてて血の中からくずれてゆく。お顔には青白い惑いだけが残ってみえる。
 だが疑いをのこす余地すらない。それさえもすぐ消えた。――尊氏はすでに去年の秋、亡父の三回忌をいとなむべきを、戦後早々の多事で、今年にのばしたものと、千種の使いから重ねて聞かされたからである。
 また尊氏は日頃「わが亡父(ちち)には命日なし」といっているのだそうで、そのわけは、彼は父の死の枕元からあわただしく笠置攻めの出征を命ぜられて立ち、陣中に父の位牌を持ってあるき、笠置陥落後、初めてかたちのみの法要を征地の冬でしたきりであると、つねに人に語っていたという。
「もういい」
 宮はお首を振った。
「そして忠顕は、この手違いをどうすべきだと申したな。何か意見はなかったか」
「は。……このうえは夜来(やらい)の軍備をそっとお解きあって、またのよい機会をお待ちあるようにと、お案じをのこしつつ、ぜひなく参内なされました」
「なに、参内した?」
「はい。わが中将殿へも、俄なお召がございまして」
 殿ノ法印は、宮のかたわらで、突然、いきり立った。
「なにを寝ぼけて」
 と、千種の使者を駁(ばく)し、
「軍を解くなどはもってのほかだ。尊氏がどう出ようと、このさい、せっかくなご準備をくずしてはなりますまい。何はあれ六波羅を攻めつぶし、一方、禁中にいる尊氏めを、生け捕るべきでございます。いまを外(はず)したらまたの機などはありませぬ」
 と、宮へも強硬に迫ると、宮はきついおん眉を見せて怒ッた。
「黙れっ。かく手違いをまねいたのは、きさまが六波羅のうごきを見損(みそこの)うた過ちによろう。そのなんじが、千種を罵るなどは、自分の落度をひとに転嫁するものだ。聞きぐるしいぞ」
「その儀は」
 と、急に平蜘蛛(ひらぐも)になって、
「重々、申しわけござりませぬ。しかしながら、ここのご決意一つでは、過失を僥倖(ぎょうこう)に転じ、あとではお賞めをいただけるかともぞんじまする」
「図々しいやつよ。あくまで何をいうか」
「宿敵尊氏をのぞくには」
「その尊氏が六波羅にあるものならばだが、禁中へ兵を入れるわけにはゆくまい」
「なんの、尊氏成敗の計(はか)りは、宮ご一人(いちにん)の信念でもなく、かねて父皇にも内々には、ご黙契(もっけい)と伺っておりまする。いわば尊氏はいま禁中のかごの鳥」
「いやその父のみかどは、今夏いらい、尊氏の歓心を購(か)うほうへ変っておられる。なぜか尊氏にはお弱いのだ。脅されていらっしゃるのだ」
「ならばこそ、這奴(しゃつ)の首を、六条河原に梟(か)けさらすこそ、大なる孝の道でもおざりませぬか」
「おそらく、おききいれはあるまい。尊氏もだが、もっと恐いと見ておられるのは、尊氏がうしろに持っている全土の武士層というものだ。天皇のお立場はむずかしい。だからこの護良(もりなが)の手をもってやらせようとは、望んでおいであっても、朝廷内で尊氏を捕えるなどのことは、おゆるしになるはずがない。このたびは、あきらめよう。良忠、あきらめろ」
「宮さまッ」
 法印は、立って奥の廊へ入りかける宮の姿を追って、後ろからその袂をつかんだ。
「せっかくな、天の与えを」
「とはいえ、父のみかどと争いはできぬ」
「でも。断じておこなえば鬼神も避くとか」
「逆上するな」
「良忠、逆上はしておりません」
「ならば、この雪の降りやまぬまに、夜来集めた兵をすぐさま解け。それしかない!」
「では、どうありましても!」
「…………」
 ご返事はなかった。
 じつは残念さ彼以上にもちがいない。その我慢のみえるお背を、渡りの彼方へ見送りながら、殿(でん)ノ法印(ほういん)もふたたびそれに追いすがる気力を土気色な顔に失っていた。
 するとあわただしい一家士が彼を見つけて駈けよって来た。
「法印どの。宮中からお使いです」
「えっ、宮中から」
「ご勅使とあって」
「どなたが」
「弼(ひつ)ノ大外記(だいげき)師行(もろゆき)どのとか聞えました。恒例(こうれい)の初雪の御文(おんふみ)とかで、宮のお返辞をいただきたいとのことにござりまする」
「時も時に?」
 と、殿ノ法印のふとした疑心は、小首をかしげる。
 宮中から大塔ノ宮へ、不時のお招きというのも気がかりだが、初雪見参(げんざん)のお催しなども珍しい。
 まことに今日は、今年の初雪だが、しかし宮中で初雪の御宴がもよおされるなどの古例(これい)も、世上不穏のため、久しく絶えていたことなのである。
 とはいえ、世も一新の平時と帰した今日とすれば、それらの古風な御遊(ぎょゆう)が復古されたからといって、別条、あやしむことはない。ただ場合が場合だけに、彼はふと、何か疑念をともなわずにおられなかったまでだった。
「……いかがなされまするな。御使(みつかい)の弼(ひつ)ノ大外記(だいげき)は、否やのお返辞を持ち帰りたいよしで、お待ちしておりまするが」
 宮のおすがたを奥に捜し求めて、やがて彼は、召(めし)の御文(おんふみ)を取次いでいた。
 おそらくは、妃ノ君のお部屋かと彼は想像していたが、そこにはおいでなく、火の気もない一殿(いちでん)に、宮はひとり仰臥して、じっと、天井を見つめたまま何か思い耽(ふけ)っておられたのだった。
 が、すぐ起きて。
 勅
 と聞くや座容をただし、多少、お迷いの風はあったが、確(しか)といわれた。
「良忠。――御使(みつかい)へは、こうお答えせい。不時のお召、少々は手間どるかもしれませぬが、おそくも宵過ぎぬうち、きっと参内つかまつりまする、と」
「はっ」
 と、良忠は、かしこまったような平伏を見せていながら、すぐ起とうともしなかった。
「……宮さま」
「なんだ」
「もしお心がすすみませなんだら、そこは、ご風気とも、おさしつかえとも、よろしきように、良忠から御使へ、申しつくろうておきますが」
「それには及ばん。初雪見参(げんざん)の御遊(ぎょゆう)とは、近ごろ珍しい」
「いえ、勅ではありましても、廟議(びょうぎ)の大事ではなし、ご欠席あそばしたところで、あながち何も」
「いやいや。なにかおれの胸のものは今、やりどころなくなっている。深々(しんしん)と胸にも雪が降り積むようだ……。そして白々しい虚無がおれをたまらぬ淋しい子にひがませている。急に、父の皇(きみ)へお会いしたくなったのだ。会って、ただの子として父として、一度いろんなことを、恨みつらみをも、言ってみたい」
「めっそうもない。この夕には、さきには尊氏も参内しており、ほか上卿の方々も、みな御一会(ごいちえ)でござりましょうに」
「もちろん、そんな中ではいわん。あるいは、父皇(ちち)の御顔を見たら、それなりいえずにしもうことかもしれぬが」
「何はあれ。尊氏ごときとご同席では、折も折、せっかくな御宴もお愉しいものには相なりますまい」
「くどい」
「はッ」
「行くと申すになにを阻(はば)む。おれは仮病をつかうなど大の嫌いだ。それよりは牛車(くるま)の用意でも命じておけ」
 宮はすぐお支度のつもりとみえる。彼をその場におきすて、さっさと、妃の宮の御殿(みどの)のうちへ入ってしまわれた。
 身ぎよめにお湯殿へ入る。お髪(ぐし)もむすぶ。
 ご装束(しょうぞく)、着帯(ちゃくたい)。
 そして宮は、冠台(かむりだい)の冠(かんむり)を取ってさしあげる妃へ、いつになくこうお優しかった。
「……雪はやむまいし、宮中の御会(ぎょえ)も遅うなろうから、そなたは先に寝(やす)まれたがよい。ふとしたら、こよいは帰れぬかもしれぬ」
 お妃(きさき)は、その背のきみを、渡りまで見送ってから、戻りには突(とつ)と涙ぐまれてしまった。――こよいは帰れぬかもしれぬ――と宮の何気なく言い残されたことばの端が、なぜなのか、心にせぐり返された。
 はや車寄(くるまよせ)には、随身たちが頭(ず)を揃えていた。つねの参内ならずとして、これも殿(でん)ノ法印(ほういん)の用心か。屈強(くっきょう)なのが、供人(ともびと)の装いで、こぞッて、轅(ながえ)の両わきにひざまずいている。
 宮は、二品(ほん)の親王、征夷大将軍の正装で、束帯(そくたい)のすそを侍臣に持たせ、車びさしの下へ、上手にお身をかがみ入れてから、外の殿ノ法印へ。
「良忠。供はいつもの顔と変っておるな」
「は。念のために」
「輩(やから)は、誰と誰か」
「木寺相模、平賀三郎、矢田彦七、岡本三河坊、野長七郎など。吉野いらいおそば離れぬ者どもは、みなおん供を申し出で、先駆、お供後(ともじり)の警固につかんと言いおりまする」
「そちも行くか」
「は。参らではなりませぬ」
「風雅(みやび)な御会(ぎょえ)へまかるのに、ちと仰々しくはあらざるか」
「さような態(てい)は見せませぬ。いらざる供は省(はぶ)いて、選(よ)り抜いた男ばかりを連れまいることでござりますれば」
「あくまでそちは疑い深いな。あつものに懲(こ)りて膾(なます)を吹くというやつか」
 宮は笑って、手ずから簾(れん)をパラと下ろした。
 それを機(しお)に車の輪は中門からそとへ軋(きし)み出(だ)す。すると、べつな奥口から駈けてきた家臣の一群が、何か、殿ノ法印へむかって事々しい顔つきで告げていた。――それを、宮は物見(車の小窓)から振向いておられたが、牛車はもう表門を出て銀一色の人通りもない大路(おおじ)の夕を打っていた。
 殿ノ法印は、そのためややおくれてあとから車副(くるまぞい)に追ッついた。先駆と車副の十数人は騎馬なのである。「良忠、良忠」と車のうちからお声があったので、法印が馬の鞍に身をかがめながら答えると、「何事があったのか」と、いうお訊ねである。――良忠はいっそ申し上げまいと思っていたふうだったが、ぜひなくありのままお耳にいれた。
「きのうの訴人――佐々木道誉の家来民谷玄蕃(げんば)という男が、いつのまにか下屋から姿を消し、どこにも見えぬと、立ち騒いでいたものにございまする」
「そんなことか」
「はい」
「元々、他家の家来だ。無断で去ったからとて、べつだん気がかりにする要もあるまい」
「は。べっして、気がかりとはしておりませぬが?」
「それよりは、牛が遅いな。車の輪が重いのか」
「雪もだいぶ積もりましたので」
「初雪からこれでは、この冬が思いやらるる。まだまだ、世は風雪の時代とみえるな」
 天は濃い墨(すみ)。地は白いほか何もない雪の都ほど、うらわびしい黄昏はない。
 わけて、一ト合戦はあるかと恐怖のうちに無事暮れた今日一日のあとだった。およそまだ人の通る影、人の住む家らしい灯影もない。
 でも、軌(わだち)の痕(あと)はある。宮の牛車のまえにも誰かは通ったものだろう。やがて二条富小路の禁裡の内へ御車が消え入ったのは、すでに初更(しょこう)(宵)の頃だった。
 雪の御所内は諸殿(しょでん)の灯を遠方此方(おちこち)にちりばめて神々しいばかりである。供人(ともびと)の殿(でん)ノ法印(ほういん)以下は、衛府(えふ)を入って、さらに中重(なかえ)ノ門までは参入したが、当然、そこからさきへは行かれなかった。供一同は兵部省側の一堂に止めおかれ、昇殿の口では、はや、宮おひとりの姿だった。
 お沓取(くつとり)には大舎人(おおとねり)の信連(のぶつら)がひかえ、廊の立礼(りゅうれい)には、葉室(はむろ)ノ前大納言長隆(ながたか)、頭(とう)ノ中将宗兼、右中弁正経などのすがたが見えた。宮は、黙然お通りあって、そのまままッすぐに殿上のほうへ歩まれて行く。
 皇居も古くからの大内とはちがい、かりの里内裏なので、規模は小さかったが、それでも「仁寿」「承香(じょうこう)」「常寧(じょうねい)」「校書」「清涼」「弘徽(こき)」「麗景」「登花」の八殿(でん)に擬(ぎ)せられている大屋根と大屋根との谷はずいぶん長い、そしていく曲がりもしている廻廊だった。
「お気をつけ遊ばして」
 たえず、宮の足もとを脂燭(ししょく)で照らしながら、かがみ腰で先にあるいていた式部の権ノ大夫在房(ありふさ)は、中坪へ面する廊へかかると、雪がうッすらと通り道にまで吹きこんでいるところもあったので、そのたびには、自分のせいみたいに、
「申しわけございませぬ」
 と、あやまったりして行くのであった。
「在房」
「は」
「よい雪だの」
「まことに」
「しかも初雪の御宴(ぎょえん)とはこれも近ごろ珍しい。護良(もりなが)など御会(ぎょえ)のお召(めし)にあずかったことはない」
「上卿(じょうきょう)がたでも、お覚えのない方が大半なのではございますまいか」
「そうだろう。して御前には、すでに大勢お集まりか」
「は。かの君、この君と、はや夕の灯ごろから文武のべつなく、仮の藤壺をめぐって、お歌やら御酒やらに、打ち興じておわせられまする」
 尊氏は?
 とは、宮はお訊きにならずにしまった。
 五節(ごせち)はもちろん、残菊の宴、重陽(ちょうよう)の会などは、恒例(こうれい)の宮廷年中行事であるが、選虫の会だとか、初雪見参などは、むかしからめったになかった御遊らしい。「公事根源(くじこんげん)」によれば、桓武(かんむ)天皇の延暦(えんりゃく)十一年の冬、
 初雪見参
 といって、天皇以下、雪の夜がたりに明かされたことがみえ、一条院の御世には、清少納言が、藤壺に雪の山をきずいて、興じあったなどのことが枕の草子にはみえる。
「……お。琵琶の音(ね)が」
 と、宮はふと、在房(ありふさ)の影をよびとめて佇(たたず)まれた。
「あの琵琶も御宴(ぎょえん)で弾(ひ)いておるものか。そしてそも、弾(ひ)き人(て)はたれか?」
 在房は脂燭(ししょく)の揺れを手のひらで庇(かば)いながら、遠くの琵琶へ耳をすまして、やがて宮のご不審へ答えて言った。
「いやあれは、御宴のあたりではございませぬな。思い出しました。東宮のお内かとぞんじられます」
「では、東宮のお奏(かな)でか」
「いえいえ、覚一法師にちがいありませぬ」
「覚一」
「はい。このほど検校(けんぎょう)のみゆるしを賜わった盲法師で、そのおん礼のため、左兵衛(さひょうえ)ノ督(かみ)(尊氏)さまに伴(ともな)われて、今日、春の宮(東宮)へも伺うたよしを聞いております。……折ふし、この雪なので、東宮のお内にあっても、おん母の廉子(やすこ)の君やら侍女たちも交じえて、平家の一曲でもひかせ、お興じ合っておられるものでございましょう」
「そうか」
 宮は、しかし、いつまでもそのお佇(たたず)みを忘れたような姿だった。廻廊の廂(ひさし)は浅いので、そうしているまも冠(かんむり)の纓(えい)や束帯(そくたい)の裾には吹きこむ雪の明滅が妖(あや)しいまでに舞っては消えている――
 尊氏
 と聞き、また、
 准后(じゅんごう)の廉子(やすこ)
 と聞くからに、大塔ノ宮のおむねは、それだけでもうただならぬもののようであった。尊氏と准后とのあいだに、いま在房の言ったような親しい交渉がいつのまに結ばれていたのか。ふとそんな御懐疑もゆう然とおこころを晦(くら)くして進まぬ足にしていたにちがいない。が、もうこの廻廊をあとにもどれるものではなかった。――在房の脂燭もまた早や先に立っていた。宮をみちびいて、いや一歩一歩牽(ひ)いてゆくようなまたたきを見せて、さきへ歩いて行き、やがてのこと、
「おあぶのうございます。鈴(すず)の間(ま)の階(かい)へかかります。お気をつけて」
 と、廊の果てからさらに幅(はば)の広い階段(きざはし)を七、八段ほどのぼっていた。
 そこからは、いわゆる殿上(てんじょう)で、清涼殿(せいりょうでん)の南の廂(ひさし)にあたるところである。そして謂(い)うところの鈴の綱は、廊の隅柱(すみばしら)から校書殿(きょうしょでん)の後ろのほうへ張られてあり、主上の御座(ぎょざ)で蔵人(くろうど)らを召されるときそれを引き、鈴が鳴る。――で、ここの大廊下を鈴(すず)の間(ま)の廊と呼びならわしているのであった。
 いましも、式部の権ノ大夫在房(ありふさ)を先に、宮は大廊下の中ほどまで歩まれてきたが、何か、一抹の不審にハッとその御眉は吹き研(と)がれたかのようだった。――なぜならば、ここまで来ればもう御座のあたりの賑わいも御灯(あかし)の色めきもそれと洩れ窺(うかが)われるはずであった。しかるに雪の夜の大殿籠(おおとのごも)りそのままに蔀(しとみ)も扉(と)も見わたすかぎりは閉(と)じられて、すべて墨(すみ)を刷(は)いたような森閑(しんかん)たる夜気ではないか。いや鬼気ともいえる人気(ひとけ)なさではないか。
「在房っ」
「は。……はい」
「待てっ。不審なあるぞ」
「おゆるしを!」
「なにッ」
「ごめん」
 在房は、とつぜん、手の脂燭を捨てて、だだだだッと、逃げまろんだ。それが合図だったのか。とつぜん、宮のうしろから鬼のような固い具足の諸手(もろて)が組みついて来た。
 でん!
 宮は渾身(こんしん)の力で、とっさ、組みついてきた者を、肩ごしに大廊下の床(ゆか)へ投げつけていた。
 冠(かんむり)も飛ぶ。
 束帯(そくたい)の裾(すそ)が、同時に、長い弧(こ)をえがいた。すかさず、べつな武者へも宮は足蹴(あしげ)をくれるやいな、だっと、元の階段のほうへ、一躍しかけた。
 逃げようと、なされたものにちがいない。中重(なかえ)ノ門までもどれば、殿ノ法印以下、腹心の随身たちがこの身を案じて待ちひかえている!
 だが、それらの猛者(もさ)の家来どもを宮から遠くひき離すためにも、この御座(ぎょざ)にも間近な鈴の間の大廊下が、あえて用いられたに相違なかった。
「御諚(ごじょう)ですぞっ」
 とばかり、三人目にかかった武者は、宮のおからだを、羽がいじめにしながら、廊の口の階からふたたび大床の方へ、ど、ど、どッと引きもどした。
 ふりほどきつつ、
「何者だっ。名をいえッ」
 宮は、お怒りを、声にも髪のほつれにも、ふるわせて言った。
 しかし、答えは、
「御諚」
「御諚」
 と、だけである。そしておめきかかる武者もいつか十人やら二十人やら数も知れない。
 あるまじき出来事だった。所は殿上である。宮は阿修羅になった。
「御諚とは、誰のことばを?」
 問わずにいられない。絶叫せずにいられない。
 たとえ冬降る雪が夏降ることはあっても、父のみかどが子の自分へかかる御諚を降(くだ)すことはありえないと、なおまだ信じて疑いえない御子(みこ)大塔ノ宮だった。
 あるいは?
 と、その憤怒を、一つの想像が、つき抜けもする。
 これは足利の暴兵ではなかろうか。
 あの足利のことだ。
 謀(はかり)をもって、兵を禁闕(きんけつ)に入れ、帝を幽囚(ゆうしゅう)して、自分をもここへおびきよせたものでないとはいえない。
 そういう暴挙は、保元(ほうげん)・平治(へいじ)の世にも行われたことがある。宮は必死になった。かつては吉野の奥、十津川の原始林をとりでとして豼貅(ひきゅう)を叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)(しった)した生命の持ちぬしでもある。武者の幾人かは血ヘドを吐いたような声を発してよろめき仆(たお)れた。しかし、しょせんは、お力のおよぶところではない。宮の巨体もついには大勢の下に組み伏せられた。でもなお、五体を捻(ね)じりに捻じって、
「無念っ」
 と、床板(ゆかいた)にこすりつけられたお顔が唇を噛み、
「なに奴だっ。なに奴が、かかる理不尽(りふじん)を」
 と、罵り猛ッて休(や)もうともしなかった。
 あまりな暴れかたに、武士たちの後ろから、一人の将があらあらと言った。
「ぜひもない、お縄をかけろ。縄にして引ッ立てろ」
 宮は、その声を知って。
「やや? そちは伯耆(ほうき)であるな。名和長年であるな?」
 長年は横を向いた。正視にたえぬものらしい。宮は双手を後ろに廻された姿をわれから突ッ立ってその横顔へ罵(ののし)った。
「長年。そちは人間か」
 逆上は、ご無理もない。
 身は天皇の御子(みこ)――
 という生れながらのご自尊からも無理でない。
 武士下郎(げろう)の輩の膝下(しっか)にねじ伏せられて、荒縄の縛(いまし)めをうけるなどは、およそ心外なと、おん目をつりあげ、
「なぜ答えぬっ」
 と、答えぬ名和長年の横顔へ吠(ほ)えたのも当然だった。
「唖か。畜生ゆえに口はないのか。長年っ。なんでこの護良(もりなが)に縄をかけた。しかも、なんじは日ごろ我が宮一味の盟約にも名をつらねていた者ではないか」
「…………」
「おうっ、そこには結城(ゆうき)ノ判官(ほうがん)親光もおったな」
 宮は、両手の自由もきかぬお体を、もう一人の将、結城ノ判官へむかい、肩でぶつかるように迫って行った。
「親光、もの申せ。ここは御座(ぎょざ)にもまぢか、めったに武士輩の立ち入る所ではない。あまつさえ、こよい初雪見参のお召を畏(かしこ)んで参ったわれに、理不尽なこの乱暴とは何事ぞ。いったい、これはたれのさしずか?」
「おしずまりなされ。みぐるしい」
「無礼であろう下郎。わしは二品(にほん)ノ親王、征夷大将軍護良だ。なんじらこそ、下に畏(かしこ)め」
「いいや、ご合点(がてん)なされい。すでにあなたは昨日のお方ではおざらん。ただの一護良(もりなが)だ」
「な、なにっ」
「すべては御諚(ごじょう)です。われらは、みかどの上命のままあなたをここに捕縛したまでのこと。さッ、お歩きなさい」
「だ、だまれっ。上命とはたれの上命」
「もちろん天皇の御命(ぎょめい)です」
「そんなはずはない。たとえ天地がくつがえろうと、そんなはずがあるものか。天皇はおれの父だ」
「わたくし事は存じも寄らず、天皇のおいいつけは公儀の勅とのみ心得ています。お歩きなくば、ぜひもない。兵の腕ずくで引っ立てさせる!」
「しゃっ、待てっ」
 宮は、寄りたかる武士を、両の肩で振(ふ)り退(の)けた。足でも蹴とばした。そして、
「父ぎみ!」
 ど、ど、どッ――と盲目的に駈けまろんで行き、彼方の夜(よる)ノ御殿(おとど)のひそまりへ向って、
「父ぎみ。これはまったくの御叡慮か。ただしいお旨を聞かせてくださいッ。父ぎみ」
 と、その体じゅうを振りしぼって叫んだ。
 もちろん瞬間のことでしかない。お声はすぐ追いかぶさった武者たちの下になっていた。あとはもう論外な暴としか言いようもない。宮を拉(らっ)した武士たちの足音は遠ざかる雷鳴みたいに殿廊(でんろう)をつたわって消えて行った。
「…………」
 始終の様子を、その物音の遠くになる果てまでを、殿上の“櫛形(くしがた)の窓”のあたりで聞きすましていた女性がある。准后の廉子(やすこ)であった。
 彼女の影は暗がりで見る玉虫の妖しい光さながらに、やがて、みかどのおられる中殿(ちゅうでん)のほうへサヤサヤ裳(も)を曳いて行く風だった。そしてまもなくこう御座(ぎょざ)へおつたえしているのが声低く洩れていた。
「お上。事はただいま、武士どもの手でまずは難なくすみましてございまする」
 みかどは、中殿の大きな黒塗りの文机におん肱(ひじ)をのせ、その上へ俯伏しておいでだった。
「…………」
 廉子のさまざまな慰(なぐさ)め言(ごと)にも、なんのお答(いら)えもなく、やがてお胸をもたげても面はなお、あらぬ方へ向けたままだった。武士の捕縄にゆだねたわが子大塔ノ宮の縄目姿を、父のお眸が、えがいていたには相違あるまい。
 だが後醍醐は、父ではあるが天皇でもある。その意志力は泰山のごときものだった。すべてをそれに支(ささ)えとめている御眉で、廉子が世の親なみにいうなぐさめなど「いまさら何を」と、耳うるさげでおわすばかりか、大義親ヲ滅ス、を揺(ゆ)るがせまいとし、一トつぶの涙も睫毛(まつげ)に見せられてはいないのである。ただいいようもない暗澹(あんたん)なお顔いろであることだけは否めなかった。
「……これでいい。ひとりの子には代えられん」
 ぼそと、ご自分へ言った機(しお)に、廉子もそれについて言った。
「世のため。これもなにかのご宿縁でございましょう。ただもう世へのおん祈り、犠牲(いけにえ)なりともおあきらめ遊ばして」
「いうな。もう」
「申しますまい、返らぬことは。……ですが、廉子をおうらみではあるまいかと」
「おろかなことを。政治(まつりごと)の断(だん)をくだすものが、女(おんな)の言(げん)などに晦(くら)んでよいものか。……いや、さような繰り言は措(お)け。……尊氏は、どうしているか」
「昼、法師の覚一をつれて、東宮の御内へまいり、東宮のお遊び相手をいたしながら、ひそかには、こよいの御処断の吉か凶かを、心待ちにしているものとおもわれまする」
「もし、こよいを出(い)でず、朝廷が護良(もりなが)の処置を明らかに執(と)らなんだら、六波羅中をあげて、彼は、彼独自の行動をおこさんと言ったのだな」
「いいえ、尊氏はむしろその宥(なだ)め役(やく)でございますそうな。……何となれば彼の一族、諸国の輩(やから)は、みな宮の挑戦を怒って、いつとなく六波羅に蝟集(いしゅう)し、必定(ひつじょう)、禁裡のお方も宮の同腹ぞと申し合せ、不穏の気を研(と)いでおりますため、尊氏自身、かくては一大事と、身を皇居の質ともなす覚悟で、押して、今日の参内をしたものの由でございまする」
「では、父貞氏の法要と触れていたのは」
「いたずらに、洛中の民を騒がせまいと、彼の心をくだいた一計であったと申しておりまする。さまでな尊氏の心根と訴えには、わらわもこれを捨ておかれず、ついお上の叡慮にまで入れたわけでございました。わらわも辛(つろ)うございまする。どうぞお汲(く)みとり賜わりませ」
 みかどは、やがてこの夜、一殿(いちでん)へ召しおかれていた諸公卿の議席へ臨んで行かれた。もちろんこれからの宮の御処分、対足利との交渉、また朝廷の長期方針など、おそらく夜を徹することであろう。
 同夜また、殿(でん)ノ法印(ほういん)以下、宮の供人(ともびと)四十余名は、中重(なかえ)ノ門側の一ト棟(むね)を滝口の兵に包囲されて、ひとり残らず縛(ばく)されてしまった。彼らは「何が何やらわからん」と吠え狂い、ののしり叫んだ。道理である。禁門の内外すべて、みな同様なてんやわんやの混乱だった。そして無残な初雪の夜は明けた。

 修羅の合戦だけが戦ではない。
 十月二十二日事件は、陽戦ではないが、見えぬところの陰戦ではあったのだ。尊氏派と反尊氏派とが、相互ギリギリな死闘を決した一戦であったといえる。
 結果は、大塔ノ宮御一味のやぶれに終り、消えやすい初雪が翌日はもう泥ンこな都の辻と化していたように、あとかたもない壊滅をとげてしまった。
 それにしても?
 と、多少裏面に通じているわけ知りまでが、いろんな疑惑を後ではもった。
 尊氏を懐柔しつつ、いつか宮の手で尊氏を亡ぼそうものとしておられた天皇が、土壇場へ来て尊氏にせまられ、やむなくその陰謀のとがを宮おひとりの罪にかぶせたなどのことは、天皇というお立場の苦しさ、廷臣の圧力、あながち、わからぬこともない。
 また、准后の廉子(やすこ)が、てもなく、尊氏方へ廻って、大塔追放の讒(ざん)に、大きな役割をつとめたなどは、むしろ彼女自身の凱歌としたところなので、これなどもよくわかる。
 しかし、なんとも解(げ)しかねるのは、これまでに、当(とう)の宮を、自分らの盟主かのごとく「宮将軍、宮将軍」と、かつぎあげてきた一連の武将たちのこのさいの態度であった。
 千種忠顕をはじめ、新田義貞、名和長年、ほか十指にも余るお味方武門が、たれひとり、宮に殉(じゅん)じようとはせず、また宮のお体を奪回するの挙(きょ)にも出ていない。――いや言い合せたように、当夜いらいは弓矢も鉾(ほこ)もかえって鳴りをおさめている。
 一体これはどういうわけか。凋落(ちょうらく)の権門にまま見るところの、人情紙ノ如シ、というにすぎないものなのか。あるいは、ここにも後醍醐のおむねが内々降(くだ)って彼らの妄動をかたく抑えたものだろうか。
 おそらくは後者であろう。むしろ中には、急進過激な宮将軍の没落を、よろこぶ風で、内心ほッとしていた者もないとはまた言いきれない。
 しかし、宮にたいする周囲の態度は、いかにどうあろうと、昨日にくらべて、余りにも非情であった。その非情さは、人個々のものというよりは、建武社会そのものの非情と観るのが正しいかもしれなかった。――とまれ、宮のお身柄は、当夜、ただちに二条の馬場殿(うまばどの)(一説には常磐井殿の内)へ拘禁されたとまでは世間へも知れていたが、宮の候人(こうじん)殿(でん)ノ法印(ほういん)以下随参の供四十余名の猛者(もさ)などは、どこへ繋(つな)がれたか、どう処分されたのか、闇から闇に消し去られたかたちである。もっとも、主を替え名を変えて、他家で余生を働いた者が全然なかったわけではなかろう。ただいかに人命がちりあくたの如くあつかわれていたか、この一事でも推知されようというものである。
 かくて、月を越えると、宮の御処分は、関東方へ御預けと、事きまった。
 関東とは、いうまでもなく、現下、足利直義(ただよし)のいる鎌倉の府である。――すでに冬も荒涼(こうりょう)な十一月十五日――尊氏の一族細川顕氏(あきうじ)が警固のもとに、大塔ノ宮は、あずまの空へ押送(おうそう)されて行った。侍(かしず)きには“南の御方”という女房ひとりが供をゆるされただけだった。
 なにしろ威名を天下に振るわせていた宮である。
 直義をはじめ在(ざい)鎌倉の面々は、猛虎のように恐れ扱ったにちがいない。――ただちに二階堂薬師谷の東光寺に押し籠(こ)め奉(たてまつ)って、昼夜、きびしい軍兵監視のもとにおいた。
 それはただの流人(るにん)にもまさる暗い幽窓の拘束であったろう。が、よく聞く大塔ノ宮の、
 土牢
 というのは嘘である。ただの伽藍(がらん)の一室だった。
 にもせよ、きのうのお身とは余りな変り方である。権勢。それに寄りたかる人の美言。いったい人間を眩惑してやまぬそれらの正体は何であったのか。
 さすが剛邁(ごうまい)な宮も、これへ来てからは、打ち沈んだお姿で、まったく物を仰せられない日が多かったといわれている。
 そして、或る折には、お独(ひと)り言(ごと)に、
「尊氏も憎いが、こうなっては、いっそ尊氏よりも、父の皇(きみ)がうらめしい」
 とお洩らしになったとか。誰が耳にしたわけでもあるまいが、「梅松論」の著者も、
ふと
お独(ひと)り言(ごち)ありけるとぞ
もれうけたまはる
 と、書いている。
 おそらく時人(じじん)がみな、そんなふうに、宮のご胸中を推量していたものではあろう。とにかく、時局の不利、その禍因のとがすべてを一身の責(せ)めに負わされた犠牲者として、人々は宮を傷(いた)んだ。しかもその陰謀は、天皇も元々よくご存知だったとは「押小路文書」その他、当時の公卿記録にさえ、明らかなのである。――いっそ父の皇(きみ)がうらめしい――といわれたという流布(るふ)が巷間におこなわれたとしても奇異ではない。
 すぐ年は暮れていた。
 建武二年に入る。
 大内裏造営の事業などは、外記(げき)ノ庁内に役署がおかれて、
 造営事始(ことはじめ)
 の式は挙げられていたが、じっさいの工はすこしもまだ進んでいない。それに要する周防材(すおうざい)や備後材などの国々からの運上(うんじょう)にせよ、土地(ところ)の武家と中央の令との折合いがさっぱりつかず、いたずらに国費を食っているだけだった。――楮幣(ちょへい)のよびおこした物価の昂騰(こうとう)もようやくひどいものになってきて、これまでの定賃金では「働き働き、食えなくなる――」という怨嗟(えんさ)が街には充ちているありさまだった。
 けれど、春ともなれば。
 都は貴顕(きけん)の、びんろう毛車や花漆(はなうるし)のあじろ車で、どこにそんな飢えがあるかのようにしか眺められない。
 正月の節会(せちえ)
 小朝拝(しょうちょうはい)、百官の参賀
 朝覲(ちょうきん)の行幸(みゆき)
 二ノ宮(東宮・中宮)の大饗(たいきょう)
 子(ね)の日遊び
 と、毎日が行事(ぎょうじ)の式やら御遊(ぎょゆう)であった。遠い王朝の頃とくらべれば、ずいぶん略されてはいても、二条内裏の諸門は飾り競(きそ)う車馬の群れで朝夕、霞立(かすみた)つばかりであった。
 だが、諸国の早馬は、時しもしきりに都門へむかって、北条残党の蜂起(ほうき)の急を告げていた。宮廷内の割れ目や、新政府不信の民心に乗(じょう)じて、がぜん、諸国に高まってきた春早々からの兆候(ちょうこう)はそれだった。
 谺(こだま)のように諸国の乱は中央に敏感だった。
 政局の危機とか、公武の違和でも生じると、かならず各地で北条残党の烽火(のろし)が揚がる。
 新政府が、その樹立いらい、もっとも悩まされてきた問題の一つである。――これの対策には武力しかない。その武力は尊氏の協力をまたねばならない。勅とあっても、在京の武門は、千種忠顕や新田義貞の下では、色よく派兵に応じるふうもないのであった。それが、尊氏の令だと、とにかく動く。――とにかくというのは、尊氏もまた、残党討伐にたいしては、あまり積極的ではないからである。
 しかし、建武二年からの各地における残党蜂起は、それまでとはちがって、すこぶる活溌な動乱の相(そう)をおびてきた。
 正月。
 二月。
 四月へわたって。
 西は、長門(ながと)だの伊予地方に。北は信濃、上野国にも。そのほか飛び飛びに近畿(きんき)から東北まで、いわば野火か山火事のように、ここを消せばかしこ、そこを叩けば彼方で、といったような全土全面のいぶりであった。
「このままでは」
 と、朝廷もようやくその蔓延(まんえん)の状に憂色を濃くしだしていた。天皇がたのむところは尊氏でしかない。尊氏はひんぱんに天皇のお召をうけた。また彼もよく天皇の寵遇におこたえして八方その鎮圧に力をささげた。断然、武族のあいだに声望のある彼の軍政がものをいって、
「伊予の乱もまずは」
 と、終熄(しゅうそく)の報が到り、つづいては、
「長門(ながと)の北条党も」
 と、官軍の攻略によって、やや鎮(しず)まったとは聞えていた。
 けれど、それで根絶(こんぜつ)したものとはかぎらない。同じ所、べつな所で、また火を噴(ふ)くおそれはある。――なぜならば、全土の反乱は、名を北条残党にかりているが、あながち北条氏再興が絶対な目標ではない。――要は、新政府の公家政治に失望して、元の武家による武家政治を取りもどそうとしているのだ。――尊氏はそこを冷静に観ていた。彼の目はいつも遠くを観(み)ている。
 たとえば。
 西国の手当にしても、彼は、在京中の少弐頼尚(しょうによりひさ)や宗像大宮司氏範(むなかただいぐうじうじのり)らをさしむけて、豊前、筑後、肥後の兵を催(もよお)させていたが、それらの将にたいする尊氏の心づかいなども、内々、じつに細やかだった。決して、勅をかさに着たり、一片の軍令などではしていない。自己の一族を征地にやるのも同様な物心両面の扶(たす)けを与えて、なおまた、
「――後日には」
 と、その功に報ゆる約も忘れなかった。で、九州西国の武将たちは、いつか胸に人間尊氏をきざまれて立って行ったものである。彼らが在京中第一の印象といえば、足利殿、おそらくその人だったろう。
 こうしたうちに、突如、都では“北山殿(きたやまどの)手入れ”という大事件が起ッた。たれもが耳を疑うほど驚いたのは、これもまた、北条残党の巣であったことである。――北山殿といえば、朝廷では重臣中の重臣、西園寺ノ大納言公宗(きんむね)のほかの人ではない。
 北山殿、すなわち、西園寺ノ大納言公宗の存在は、今でこそ時流の外にうすれているが、家柄は七清華(せいか)の一、代々、立后の姫ぎみも出し、官は太政大臣をいくたびも経(へ)、いわば人臣の栄をきわめてきた子孫なのである。
 現に。
 いまは、みまかられたが、後醍醐の皇后ノ宮、西園寺禧子(よしこ)も、この一門の出であった。お若いころ、北山殿へ遊び、禧子を見染めて、よそへ盗み出し、やがて後に入内(じゅだい)させたもので――それほどに、後醍醐もよくお遊びに出かけたことが「増鏡」の“秋のみ山”“北野の雪”など随所の巻に載(の)っている。
「……なにっ?」
 千種忠顕(ちぐさただあき)は今、そういって、いちど声をのんだ。
「昨今の北山殿は、まるで北条残党の根じろだとお言いやるのか。……そ、それは、まったくかの。いや何か、証拠でもあっての仰せか」
 六月二十一日のこと。
 客は、いや客ともいえない。
 竹林院ノ中納言公重(きんしげ)は、そんな閑寛(かんかん)たるふうではなかった。――ゆうべ思い余って一睡もとれなかったといっている。――が、意を決して、自分も一門の端ながら、余りな北山殿のおそろしい秘密なので、どうしたものか、その秘事一切をぶちまけに、これへご相談に伺い出たものと、さっきから、面を土気色にしているのであった。
「証拠と仰せられますか。さ……証拠といえば、この公重(きんしげ)がその生き証拠でございますが」
「どうもちと、お話が切れ切れで、またいちいち意外すぎる。ひとつ初めから、おちついて、もいちど順を追って下さらんか。……でないと、忠顕にも、なにやら俄に信じがたい」
「ごもっともです」
 公重は、気がついたように、置かれてあった天目(てんもく)の茶をうつつなく服(の)んだ。
 そしていうには。
 先年、北条一門滅亡のさいに、執権(しっけん)高時のじつの弟、北条左近大夫泰家(やすいえ)は、奥州へのがれていたが、ほとぼりもさめた頃と、京都へ入りこみ、旧縁をたよって、いつからか西園寺の内に寄食し、名も、
 刑部ノ少輔(しょうゆう)時興(ときおき)
 と、変えていた。
 元々、西園寺家と北条氏とは、遠い承久(じょうきゅう)の乱(らん)いらいの深い因縁がある。当時、関東方について、北条氏に協力したので、それからの西園寺家は、朝廷にあっては関東の出店役をなし、関東へ向っては朝廷の代弁者として、いわゆる共存共栄の利を代々幕府とともにしてきたのだった。――いまさら北条の亡命者に、すげなくはできない。
 いや北山殿の公宗(きんむね)自身が、建武新政の世の下では、まったく失意の人でもある。で、ここの斜陽の門と亡命者との結びつきは、必然なように、
「ふたたび、天下を」
 と、大それた陰謀を持ち、世間もしらぬまに、密事も着々すすんでいる――と、公重(きんしげ)はいうのであった。
「……む、なるほど」
 忠顕はうなずいた。これならうなずける。そして心のうちでよろこんだ。西園寺家をはじめ、持明院統をとりつぶすには、絶好な機会と、考えられたからだった。
 公重は、なお告げた。
 北山殿のうちには、高時の弟の変名“時興(ときおき)”が匿(かくま)われているほか、いずれも名を変えた北条残党の輩が、
 新規(しんき)お召抱えの田舎侍
 というていで、十人以上も住みこんでいる。
 陰謀はそれらの者のすすめだが、盟主はもちろん西園寺ノ公宗(きんむね)卿で、卿(きょう)の手から持明院殿(花園上皇)の院宣(いんぜん)を申しうけ、おなじ逼塞(ひっそく)なかまの公卿どもをもかたらって、事はもう寸前の機までに熟している。
 そして、その計はなかなか大規模でもあった。
 亡き高時の一子の亀寿丸が、いまでは北条二郎時行と名のって、甲斐、信濃、武蔵にわたる北条残党の上に擁されている。――で、その幼い北条氏のわすれがたみを関東総大将にあげ、これとも連絡ができている。
 また。
 越中、加賀、能登の方面には、名越太郎時兼らが、近来強大な一勢力をなしてきたので、これへも西園寺家から密使を送り、三方同時に起つ日としては、
「近く、都に変があろう。それを合図に一せい旗をあげる事」
 という密約もすでになっているというのであった。
 以上が――公重(きんしげ)の密告の全貌であるが、なお、公重の口うらには、もっとさしせまった目前の何かがいわれつくしていない風だった。
 忠顕は待ちきれず、そこを突いて。
「いやよくわかった。またよくお報(しら)せ給わった。……が、その都の変を合図とは、いったい何をさすものか」
「明日の事でございまする」
「あすの事?」
「まだ、ご存じありませぬか」
「はての」
「みかどの行幸(みゆき)を」
「いずこへ」
「明(みょう)六月二十二日、衣笠(きぬがさ)なる北山殿へ、蛍狩りの御遊(ぎょゆう)と、つとに御内定をみております。もとよりこれは、西園寺家から特に臨幸を仰いだもので」
「そして」
「その日にそなえ、西園寺家では、ひそかに数多(あまた)な番匠を入れ、数日前からお湯殿普請(ぶしん)などいそがせておりまする」
「はて、何でお湯殿を?」
「思いますに、上がり場の板を、踏めば落ちるような造作(ぞうさ)にしておき、主上臨幸(りんこう)のせつ、陥(おとしい)れたてまつらんとの、恐ろしい企(たくら)みではないかと私には見られまする」
 忠顕は仰天した。が、なおも念を入れて。
「ともあれ、公重(きんしげ)どの。以上はご責任を以ての上告としてよろしかろうな」
「もちろんです。自分も西園寺一門の端、ぜひものう、北山殿のご密議には加わりました。しかし昨夜は恐ろしさに眠りもえず、思い切って、伺ったわけでございまする。これは千種殿のお考えに問う以外、思案もないと意を決しまして」
「よろしい。お辺(へん)はここを出てはならぬ。その代り、お辺は罪なき者として進(しん)ぜる」
 忠顕は言って、そのまま公重の身は、自邸の内に監禁してしまった。そして彼自身はすぐ二条内裏の御門へ馬をとばして行った。
 参内には、みゆるしを待たねばならぬ。牛車、束帯(そくたい)が慣(なら)わしでもある。だがいま、忠顕にはそんな顧慮のいとまもない。乗りすてた駒を衛府(えふ)へ預け、中重(なかえ)ノ門を大股に殿上のほうへ通って行った。
「あれ? 千種(ちぐさ)どのが」
 いぶかる中でもたれひとり、とどめる者はなかった。時めく頭(とう)ノ中将殿であるからだ。おそらくその唐突(とうとつ)な出仕(しゅっし)に殿上でもまた同じような怪しみと静かな驚きの渦紋(かもん)がよび起されていたことであったろう。
 まもなく。
 主上をめぐって、俄な密議がおこなわれ出したふうだった。――いつか夜になっていて――深更もなお御簾越(みすご)しに中殿(ちゅうでん)の白い灯をよぎる衣冠の影が、そっと外へ立ったり席へもどってはまた議事に入るなど、ただならぬ気配であった。しかし、外部には一切何もなきかのようなひそまりが蔵人(くろうど)たちの端にも注意ぶかく守られていた。
 明くれば六月二十二日で、北山行幸(みゆき)のご予定だった。御車備(みくるまぞな)えの大舎人(おおとねり)や随身もみなそのつもりで供奉(ぐぶ)のしたくが始まり、ほかには何らつねと変ったところもなかった。
 だから当然、みかどの臨幸(りんこう)を約していた北山の西園寺家では、御車(みくるま)迎えの清掃にチリもとめぬ用意をととのえ、やがて夏の陽あしも蜩(ひぐらし)の声に涼めきそめる頃ともなれば、
「もうか」
「今か」
 と一同、首を長くしてお待ちうけ申していたにちがいない。
 北山殿とは、洛外衣笠(きぬがさ)村大北山のすそで「増鏡」内野の雪ノ巻に、
そのかみ
太政大臣公経(きんつね)のきみ
夢み給へることありて
ゆゆしき法堂を建て
名をば
西園寺となむ申しおかる
 とある、その宏大壮麗な一地域であって、殿楼(でんろう)の数寄(すき)はいうまでもないこと、園内にはひろやかな池水をたたえ、峰からは滝津瀬のひびきを降(くだ)し、浮島のなかに夢殿を、汀(なぎさ)には法水院を。そして化水院、無量光院(むりょうこういん)などを朱(あけ)の橋や廊でつなぎ、つまりは王朝貴族の浄土具現の道楽をそのあるかぎりな財富で地に画(えが)きつくしたようなものだった。
 代々の西園寺家はここに栄え、いまの大納言公宗(きんむね)の父の代には、後醍醐もまだ皇太子であったが、その頃からしげしげ遊びにみえられた所である。当時は美しい姫たちがお目あてで、雪見、紅葉などはつけたりだった。しかし、思い出の多い故園(こえん)ではあった。――だから持明院統の西園寺家ではあるが、御代となっても、かくべつむごい圧迫は加えず、また、こんどのような臨幸のすすめにも、ふと、御遊(ぎょゆう)の意をうごかされたものであったろう。
 ところが、やがて。
「はてのう?」
 公宗は、つぶやき出した。
「はや、夕風。まだ御車(みくるま)が着かぬとはおかしいぞ。誰(た)ぞ、路地をみてまいれ」
 と、侍臣の群れへいいつけた。しかし、みかどの行幸は、極秘のうちに、はや沙汰止みとなっていたのである。そしてそれに代る一陣の兵馬が、このときもう北山殿へ殺到(さっとう)していたのであった。
 騎馬ばかり二百余騎。あっというまに北山殿をくるみ、馬をそとに捨てるやいな、いちどに内へ込み入って来た。
 この物音に、
「事破れしか」
 と、奥の公宗(きんむね)はすぐ観念した容子だった。
 侍臣は立ち騒いで、
「はやくここを」
 と、うながしたが、公宗は自失したように蒼白なおもてをしていた。弟の中将俊季(としすえ)が、廊の欄(らん)へ片足をかけながら、
「兄上っ、裏山へ逃げよう。裏山越しに」
 と、呼んだのへさえ、こたえもせず坐っていた。
 彼の妻――北の方――は妊娠(みごも)っていた。
 その局(つぼね)の方でも、かなきり声や悲鳴がきこえる。公宗は胸を八ツ裂きにされつつ呵責(かしゃく)の矢来(やらい)の中にいるようだった。だが、彼のまわりは依然、人もない空間のままである。
 逃げる者はとたんに逃げ、覚悟の者はせつなに斬って出たのらしい。邸内に匿(かくま)われていた北条残党の者どもはいまをさいごと暴れまわって太刀に火を降らしているものとおもわれる。が、そのすさまじい呶号もほんの一瞬だった。われに返ると、公宗の背後と両わきには、三名の将がつッ立っていた。そのうしろにも追捕(ついぶ)の兵がひしひしと見えた。
「…………」
 公宗には、ひとりの将の言ったことが、はっきり意識にとまらなかった。
 血は凍(こお)ッてしまっている。うつろな眸が三名の将を仰(あお)に見た。その顔に覚えはある。――中院ノ中将定平、結城ノ判官親光、伯耆守(ほうきのかみ)長年なのだ。――「大納言どの、お立ちなさい。勅宣(ちょくせん)の御使です」と、言っているのらしい。
 公宗は、
「……妻ばかりは」
 と、いおうとした。
 声が出ない。逆に、あらあらしい一喝(かつ)を聞き、彼の身は鞠(まり)のようにくくられていた。初めて、声が唇から出た。
「定平っ。日ごろのよしみを思うて、妻の身は助けてくれ。伯耆(ほうき)、親光、たのむ」
 物狂わしい彼を追い立て追い立て誰もつんぼのように歩いた。行幸(みゆき)待ちの庭は地獄と化して、幾つもの死体があえなく転がっている。中でも生け捕られた北条残党の二、三は半殺しの目にあって曳かれて行った。そのほか持明院統の公卿二人、また公宗の妻、女房、老臣にいたるまで、悉皆(しっかい)、護送車に押し込まれ、あるいは馬の背にひっくくられ、暗い夜道を、やがてまっ赤な松明(たいまつ)が洛中へむかって連れて行った。
 逃(に)げ果(おお)せたのは、公宗の弟俊季(としすえ)だけであった。公宗は、伯耆守長年に預けられ、
 出雲国へ流罪
 と、議定(ぎじょう)はあったが、これは表沙汰だけのことか、都を出る朝、みずから舌を噛んで死んだと公表された。じつは武士の手で斬られたのである。
 が、妊娠(みごも)っていた彼の妻はゆるされ、その子は、後に尊氏が、足利将軍家をたてる時代となるにおよんで、西園寺家のあと目をつぎ、北山の右大臣実俊(さねとし)とよばれた。――いやここでは後日を語っているいとまもない。この残党事件が片づくか片づかぬまに、もっと本格的な大乱が、もう東国じゅうを騒がしていた。
 それは北山殿の大手入れがあってから、わずか十日もすぎぬうちだった。
 兇徒、信濃ニ兵ヲ挙グ
 と、都に聞えた。
 つづいての第二報では。
 旗上げは諏訪(すわ)の入道昭雲が主となって、高時のわすれがたみ北条時行(亀寿丸)をいただき、滋野(しげの)、保科(ほしな)、四ノ宮などの北条遺臣の族党をかたらって起(た)ったものとわかってきた。
 するとすぐ、第三、第四の早馬がまた、こう急を朝廷へ告げていう――
「ときを合せて、加賀、能登、越中の賊兵も、名越太郎時兼の麾下(きか)に、善光寺平(だいら)へ打って出て、ために土地(ところ)の守護国司らの官軍は、千曲川そのほかの戦場でことごとく打ち破られ、はや、手のくだしようもありません」と。
 そこへ、さらに。
 四日ほどおいてである。
 守護の官軍、小笠原信濃守貞宗から、こう決断所へ急達してきた。
「――賊は燎原(りょうげん)の火の勢いです。あるいは、木曾路をへて尾張黒田へ打って出るやもしれません。一刻もはやく尾張方面へ、お防ぎの軍勢をくだしおかれますように」
 朝廷はごった返した。
 北山事件もまだすっかりは片づいたともいえないのである。そこでもうためらッてなどいられなかった。
 勅使、千種忠顕(ただあき)は兵をひきいて、持明院殿へ馳(は)せむかい、持明院統の後伏見法皇、花園、光厳の二上皇をうながして、監禁同様にこれを京極殿へ移しまいらせてしまった。
 なお、べつな手勢は、かねがね西園寺公宗(きんむね)が一味とみられていた日野中納言父子、三善文衡(みよしふみひら)、中原清景、橋本氏光などの持明院統の公卿をその家々に急襲して、かたっぱしから獄へ送りこみ、また、獄中にあった北条残党の武士は、毎日のように曳き出しては首を斬り、六条獄門外の樗(おうち)の木の根に大きな穴をほって、樗の肥(こえ)にしてしまった。
 すでに、夏も七月。
 信濃では、雲の峰のように湧いた大小いくつもの乱軍が合流しあって、一手は碓氷(うすい)峠をこえ、一手は甲州を席巻(せっけん)し、もう武蔵野へなだれ出ていた。
 一時、木曾路から尾張へうごくかと見せたのは、巧妙な偽勢で、彼ら北条遺臣のめざすところは、あくまで北条旧縁の府、鎌倉の奪回にあったのだ。
 もちろん、鎌倉の足利直義は、これを坐視してはいない。
 即時、武蔵野に迎え撃(う)った。
 けれど敵は破竹(はちく)の勢いだ、一念、先代の地奪回を合言葉とする怒濤の大兵は、怨霊(おんりょう)のような強さであった。
 これにむかった足利勢は一勝さえ見ていない。――女影(おなかげ)ヶ原(はら)では、岩松経家と渋川刑部の二大将が自害をとげ、小手指(こてさし)ヶ原(はら)では、今川範満(のりみつ)が討死するし、かさねて府中における大激戦でも、小山秀朝と一族数百人、かばねを並べての、大殲滅(だいせんめつ)をこうむるような始末だった。
 鎌倉は危殆(きたい)にひんした。あたかもこれ、かつて北条高時が、新田義貞の猛攻撃の中におかれたあの日を逆にしたようなものである。
 ついに、足利直義(ただよし)は、ささえきれず、鎌倉をすてて西へ逃げ落ちる腹をきめた。
 それが、七月二十一日の事。

 直義(ただよし)の鎌倉放擲(ほうてき)は、直接鎌倉から逃げたのではない。
 七月二十一日。
 彼は、武蔵井出ノ沢の陣地にいた。――今の都下町田市本町田から鶴間ヶ原のあたりである。
 味方の多くが死んだ。
 入間川、小手指ヶ原、府中、分倍河原、関戸――と前線いたるところでやぶれ、岩松経家など、おもなる将も何人となく討たれたので、
「いまは」
 とばかり、直義の気性、鎌倉内の残り少ない兵をひっさげ、関戸附近のたすけに出たが、そこでもさんざんに負けたので、
「ひと息入れん」
 と、井出ノ沢まで、退いたのだった。
「負けた! ものの見事に敗北したわ。だがよ! 足利勢が弱いせいとはいわさぬぞ。どうだ、そう思わぬか。それとも、直義の負け惜しみと聞ゆるか」
 異口同音(いくどうおん)に
「なんの!」
 と、彼をくるむ血や泥まみれな部将たちも叫んだ。
 どの眼もギラついていた。汗の塩も出つくしている。兵は三、四百ソコソコしか辺りに見えない。支離滅裂だ、まだ迷っている兵もいようが、ひとまず、これがすべての味方である。
「元々、むりな戦だった。敵はこっちの数の十倍といってもきくまい。ぜひないことだ。一時、鎌倉をくれてやろう。そして、三河の矢矧(やはぎ)まで退き、ちと面目ないが、兄上(尊氏)のおさしず如何あるか、生きるも死ぬも、それを待っての上としようではないか」
「よう、ご分別を」
 と、かたわらの細川和氏(かずうじ)が同意をよせた。
「もし、ここで斬り死にせんなどと仰せ出られたら、和氏は大いに笑うつもりでおりました。ここまで戦いぬいたものを、まだ都の援軍もつきませぬ。何の不面目。尊氏さまとて、お叱りはできますまい」
 あたりには、彼のほか、吉良(きら)宮内大夫貞家、仁木四郎義長、武田孫五郎時風、長井大膳、河越高重など、手負いは多いが、数十の部将がいる。それらもまた、
「ざんねんだが」
 と言いつつも、鎌倉放擲に一致した。
 だが、鎌倉はすてるにせよ、放擲できないものがある。
 さきに直義(ただよし)が奉じて下向した成良(しげなが)親王はぜひにお連れ申し上げなければならない。いやそれと、尊氏の子の千寿王や、みだい所の登子(とうこ)もいるのだ。――で、それらのお人を連れ出して、どこか途中で出会うべき打ちあわせが必要だった。そのため、吉良(きら)、細川の二将は別れて、急遽、鎌倉へ駈けもどった。
 しかし、あとの直義も、すぐには退けない。――退けば追撃をくうからである。
 日いっぱい、擬勢を張って、陣をくずさず夜を待った。そして二十一日の真夜中、ひそかな退却にかかり出したときである。彼は何を俄かに思いだしたか、
「おう、忘れていた。伊賀、伊賀、これへ来い」
 と、旗本の一士、淵辺(ふちべ)伊賀守という者を、なぜかわざわざ、人なき所へさしまねいた。
「左馬頭(さまのかみ)(直義)さま。何ごとで?」
 と、淵辺もふと、妙な顔してひざまずいた。
「な。……わかったか」
 直義は言った。
 相手の耳へ口をよせ、何か、ささやいた後にである。
 毛の生えた耳の穴の持ちぬしにも似ず、淵辺伊賀守義博(よしひろ)は、
「……はっ」
 と、からだの慄えにたえるだけが精いっぱいか。直義の顔をただ息をつめて見すえてしまう。
 ふ、ふ。
 とその主君の唇もとに冷笑を見ると、淵辺は恥に打たれたように、持ちまえの武者ぎもを具足の肩にいからせた。そして奮然それに答えかけたが、直義がまた言っていた。
「伊賀。――やれそうもない気がするのか。やれぬなら、やれませぬといえ。ほかの者をさし向けよう」
「なんの! 主命とございますれば」
「奥州(みちのく)に武者も多いが、そちは真(ま)っ向(こう)二心を持たぬ奥州ざむらい。そう見込んだがゆえ、いいつけたのだが」
「いたしまする。さまでなおことばをうけながら、いたさいでおきましょうや」
「ならば、すぐ行け。さきに参った吉良、細川は、若御料(わかごりょう)やら親王をお連れ出し申すだけでも手いっぱいだし、たれでもよいと安心できるような秘命でもない」
「かずあるお旗本のうちから伊賀ひとりへ重大なお打ち明け。面目にぞんじまする」
「だがの」
 と、また声をひそめ。
「……伊賀よ。気のどくだが、その大事を仕果たしたら、そちは頭をまろめて、当分どこぞ世の外に身を隠せ。やがて足利の世となったら大身(たいしん)に取立てて迎えてやる。……いくら武者輩(むしゃばら)の仲間でも、天皇の御子(みこ)を刃(やいば)にかけた当(とう)の者となっては、自然たれからも白眼視され、忌(い)み嫌(きら)われぬものではない」
「覚悟にござりまする。そのへんも」
「……察しる。つらい役だ。しかし鎌倉を明け渡すのやむなきにいたった今、あの宮までを連れてはあるけぬ。しかも、あの宮の豪毅不屈(ごうきふくつ)は天分のものだ。直義がその牢御所をお預かり中、朝夕、篤(とく)と注意していたが、しょせん、檻(おり)の中でも虎の性(さが)はあらたまって来てはいない。野に放てば行くすえあくまでわが足利の大敵だろう。……な、伊賀。これは兄尊氏どのの仰せつけとも聞け。不日、そちの功はかならず兄上へも達しておく」
 直義と尊氏とは、つねに一心同体である。いつも兄の公然果たしえないことは直義がやる。やり過ぎもままあるが、大望達成の目標においてそれも二人を不和にはしない。――直義がいま信じているものもそれだった。
「では、これで」
 やがて、淵辺(ふちべ)が身を地から剥(は)がすように立つと、直義もまた。
「そうだ。おれも急ぐ。くれぐれ抜かるな」
 すでに井出ノ沢一帯の敗残の陣は放置され、先をいそぐ悲壮な人馬の群れが彼方の闇で直義一人を待ちわびていた。
「…………」
 淵辺だけはあとに残る。
 そして直義以下の、味方すべてが敗亡の駒音を捨てて遠く落ちて行ったあと、彼も自分と郎党ぐるみ八騎ほどでとぼとぼ抜け道をたどり出した。――明けまぢかに、山ノ内街道をこえ、そっと、鎌倉へもどっていた。
 その日も諸所方々の小合戦は熄(や)んではいない。
 敗戦のつねだ。すでに挽回なき下にありながら、彼らはまだ、主将直義から若御料(千寿王)までが西走して落ちたとも知らされず、早や鎌倉も空(から)っぽとはつゆ覚(さと)らず、なお、むなしい死守を六浦(むつら)街道や武蔵口などのふせぎにかけて、かなしい兵(つわもの)の業(ごう)におめいていたのであった。
 わけて、淵辺伊賀守などは、よくよく業(ごう)のふかい者であったとみえる。主命もだしがたく、鎌倉へまぎれ返り、その日は疲労と困憊(こんぱい)に、ぬしなき屋敷の厩舎(うまや)で馬ととも寝くたれていたが、やがて晩をむかえ、七月の宵空に星を仰ぐと、
「さて」
 と胸がときめいていた。
 こよいを過ごせば敵が三道から込み入って来るのは必定(ひつじょう)と思う。――しかしどうにも気が勇んでこなかった。――そこで彼は空き屋敷の内から酒をさがさせ、郎党七人と外で車座で飲みはじめた。寂寥(せきりょう)、まるで無人のごとき鎌倉だ。波の声、山の音。どうかすると遠い遠いところで、あらしの吠えに似たようなものが夜をゆする。
「どうなされまいた?」
 淵辺の郎党は、主人の無口の顔いろにも、また、主人の意図もくみかねて、怪しみあった。それほど彼はいくら飲んでもさっきから酔えないのだった。――そして昼見た夢の、ふるさとの、じじやらばばやら女房子などについひかれて、味ない酒をただ沈湎(ちんめん)と仰飲(あお)っていたが、
「おう、わいらはな」
 と、言いだした。
「わいらには、ひまくれる。ここから勝手に故郷(くに)へ帰れ」
「へ? おあるじは」
「おれが身は、しさいあって、仮に坊主となって山入りするから、当ぶん世間へは顔もみせまい。三、四年がほどは国元へも立ちよらぬと、わが家の家族(やから)につたえてくれい」
「ど、どうしてです」
「わけはあとで知れよう。だがの、やがて足利殿の天下になるは知れたこと。そのあかつきには、おれは大名になる。お取立てをうけるのだ。わいらにもいい目をみせるぞ。故郷(くに)の家族(やから)をたのんでおくぞよ」
 彼はついに郎党たちともここで別れた。たって追いやってしまったのである。宮の牢御所へちかづくには、そしてあとの身仕舞いにも、いっそ一人がよいと考えたものらしい。
 つまりは彼として身を巌頭(がんとう)においたもので、強いて盲目な勇に自己を駆るべくむしろ孤独を必要としたのだろう。淵辺伊賀守義博という四十男は、こうして大塔ノ宮刺殺の腹じたくをまずは作った。腰の太刀は関か、備前ものか。いちど抜いて、刃(やいば)をしらべ、さいごの酒の一碗を飲みほすと、やおら、のっそりのっそり歩きだした。――二階堂薬師(にかいどうやくし)ヶ谷(やつ)の牢御所のほうへである。
 淵辺は、一書には“淵野辺”とも書かれ、生国は奥羽本荘とだけで、その他は、身分もはっきりしていない。
 しかし直義(ただよし)がえらんでこの大秘事をいいつけた男である。身分は低くても猛勇で正直者と見られていたのはたしかであろう。――やがて、彼の影は、薬師(やくし)ヶ谷(やつ)東光寺の裏へ、獣の這うように這い寄っていた。時はもう丑(うし)の刻(こく)ごろ。谷(やつ)の内は灯一つ見えなかった。
 現今、そこは郷社「鎌倉の宮」となっているが、古くは東光寺、薬師堂、理智光院などの廂(ひさし)や塔影が接しあっていたものだった。
 しかし大塔ノ宮が幽屏(ゆうへい)された当時は、それよりつい一年前にあの鎌倉幕府滅亡の大戦災をみていたことであるから、ここも例外なく半壊同様な寂(さび)れであったにはちがいない。それとさきにも書いたが、宮がこの一年を土牢(つちろう)に押しこめられていたとする古典「太平記」の土牢説はまちがいで、まったくは陽の目も見ぬ一堂の居室ではあるが、侍女南の御方のかしずきも受けておられたほどなのである。
 ことむずかしくいえば、土牢(どろう)は塗籠(とろう)で、すなわち“塗(ぬ)り籠(ご)め”――壁ばかりな部屋ということの訛伝(かでん)であろうか。
 それにせよ、通い戸のほかは、庭口も廊の渡りも、牢御所と名に呼ぶごとく矢来(やらい)やぶつけ板で囲まれていたこととは想像される。わけて、北条時行の軍勢が三道から鎌倉奪回にせまると聞えわたり、ここの警固もおろそかにならざるをえなくなってからは、門も戸も結び丸太や釘付けのままにし放して、番の兵らもみないずこともなく立退いてしまったらしいひそけさだった。
 そのしじまの中に。
 ま夜中もすぎているのに。
 奥のぬりごめの内には、小さい灯が一つ冴えていた。
 宮は、この夜、日ごろの白麻の小袖に白のお袴のまま、経机を前に、うとともお眠りになった気(け)しきでない。
 虫の知らせ?
 そんな漠(ばく)としたご不安からではなかった。研(と)ぎすました理知のもとに、今明日が、ここの運命を一転する妙機かと、ひそかに、息をつめておられたのである。
 目には見えないが、宮の兵略眼をもって観れば、鎌倉三道の攻め口は早や破れつつあるものとわかる。
 夕方からは、警固の兵までが、ここを釘付けとして逃げ去ってしまった様子だ。それからみても、はや直義(ただよし)の総敗退か。
「……待てば」
 と、時節のほほ笑みがもうそこまで来ているようなお心地であったのだ。
 直義に代って、鎌倉へなだれこんで来る次のものは、かつての高時の遺臣らだが、彼らはおそらく、自分を以て、対後醍醐朝廷への、絶好な牽制(けんせい)になるものとし、自分を利用にかかるだろう。そうしたら大いに利用されてやろう。彼らと足利とは、不倶戴天(ふぐたいてん)、あくまで戦わねばならぬ宿敵だ。その間(かん)にいて、未来の活路をはかればよい。
「……だが?」
 もしまた、彼らが往年(おうねん)の怨みをすてず、つらく報(むく)いてきたらどうするか。ぜひもない。それまでのことである。
 宮は経机にお目をおとした。仁王経の一端がひらかれていて、
 無死無生(むしむしやう)
 の四字が眸にとびこむ。――一切衆生ハ無生ノ中ニ於(オイ)テ、妄(ミダ)リニ生滅ヲ見テ惑(ワク)ス――語の余韻(よいん)がお胸の底に重たく沈む。
 余韻といえば。――鎌倉じゅうの鐘も今夜は一度だに鳴っていない。――しかるに、ふとどこかでミリッという物音がした。しばらくやむ。また、妙な気配がする。宮は燭(しょく)を切って面を澄ました。
 ハタと、おもての虫の音(ね)もやんでいる。
「……?」
 宮はすわり直された。
 それまではまッすぐに立っていた燭(しょく)が微(かす)かな墨をふいて横になびいている。――眠っていた蚊うなりまでが急に騒ぐ。――廊の外のどこかが開いて、忍び入る暗い風がぬりごめの壁をめぐり出していたものにほかならない。それなのに目に見える物は何もないのであった。
「たれだっ?」
「…………」
「南か」
 宮は、侍女の南の方(かた)でもあろうかと、なかばなお、妄想を制しておられるふうだった。だがふたたび、いやこんどは、もっと間(ま)ぢかな所で、廊の板じきがキシみ鳴って、ぬりごめの内へ、のそっと、獣(けもの)じみた背をかがめた武者の影が這うように躄(いざ)り進んできたのをごらんあると、さすが、
「……や」
 と、一瞬にお顔の血をひき、そしておん眼の力のあらんかぎりをその者へ凝(こ)らしながら、
「下郎っ。推参(すいざん)な。この深夜なにしにまいった」
 と、怒喝(どかつ)された。
「は」
 と淵辺(ふちべ)はそのままつい、行儀を作って、辞儀をした。下郎習性と、自分でも歯がゆかったが、どうしようもなく、
「お迎えにまいりました」
 と、思わざることを、口のうごくままつい言った。
「なに」
 宮は、きびしく。
 また寸分のご油断もなかった。
 だがふと。これはまことの鎌倉奪回軍の迎えかも知れぬと良い方への解釈にもなる。――古来、宮廷に戦犯なしという不文律があった。近世ではそんな特権は無視され、擾乱(じょうらん)のあとでは公卿も斬られ天皇さえ流竄(るざん)の例を往々(おうおう)にしてみてきたが、よもや死を以て迎えるようなことはあるまい。そんな甘えはこの苛烈きわまる時相のもと武士の嘲笑でしかないとはお覚悟であったにせよ、生れながらに“人の上の人”と思惟(しい)づけられてきたお育ちのものは是非もない。無心な燭(しょく)すら、消えなんとする風には抗して必死にまたたきつづけていた。
「迎えとな。では、朝夕ついていた番の武者でもないのか」
「ではござりませぬ」
「ならば、どこの何者だ」
「奥羽のさむらい、淵辺伊賀守義博と申しまする」
「あるじは」
「は」
「いやさ、そちの仕えるあるじは」
「…………」
 淵辺はもとよりそれを明かす気もないし、こんな問答は心にもないことだった。蟇(がま)のごとき姿態のうちにあぶらをたらして野蛮な勇を用意しながら、身に寸鉄もおびられてはいぬ宮の白いお姿を、上眼(うわめ)づかいに窺(うかが)うほかの念慮ではない。
 その眼に。
 いやそれと、武者臭ともいえる彼の体から発しる汗くささに交って酒のにおいがふとしてきたので、宮はとたんに、理知のかけらもない兇暴な生き物との対決を否みようなくはッとさとって。
「うそを申せッ。そちはこの護良(もりなが)を殺害しに参ったな。迎えなどではあるまいが」
 宮の一喝(かつ)に、淵辺は躍りかけた身じろぎを、せつな逆に、居すくめて、
「いや、いいや」
 と吃(ども)りに吃った。
「さ、さにはございませぬ。主君のおいいつけ、もだしがたく」
「とは、何用あって……」
「畏(おそ)れ多けれど、宮をあの世へお送りし奉れと申しつかり、ぜひなく推参(すいさん)いたしてござりまする」
 さてこそ。
 と、宮は生命のそそけ立ちをその全姿に見せはしたが、しかし御狼狽などではない。お驚きはすでに超えていたのである。
「だまれっ」と、さらに御叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)(ごしった)するどく――「夜来(やらい)いかなる非常か知らぬが、なんでわが身の処置を、なんじらごとき者のさしずに待とうや。退(す)さらぬか。退(す)さりおろうっ」
「あわれ」
 と、淵辺の血走ッた眼は咒文(じゅもん)のように呟いた。何かが憑(の)り移ったもののごとく、両の膝がしらで、ジリジリ前へすすみ出ながら。
「あわれ、なにとぞ、ご観念あらせられい。しょせん、のがれぬところゆえ、天寿、これまでと、おあきらめあって」
「下種(げす)、身のほどこそ知れ。臣下のまた陪臣の分際(ぶんざい)で、この護良へ、なにをばかな……」
「あいや、われら武者の持つおあるじは、元来、武門の一ト方しか知りませぬ」
「そのひとりとは北条か。さにあらねば、足利か」
「いまは申すしかおざりますまい。直義殿の臣淵辺義博におざりまする。いずれはここへ寄する北条遺臣どもの刃(やいば)にお伏しあらんよりは、ねがわくば、直義殿より差し上げたてまつる刀(もの)をもって、いさぎよう」
「おのれ」
 直義と聞いて宮の官能すべての動きはふっと消えた火みたいに一とき止まった。――直義のさしずでは助かるみちはない。――絶望的なおひとみだった。そしてふと、下種(げす)武者の畏(おそ)れ硬(こわ)ばった構えに隙を見つけたかのようでもある。反射的に、淵辺は一ト腰そのからだを斜めに退いた。それは右手を太刀のつかにやった自然な反動でしかない。とたんに、彼の抜く手がおそかったというよりは、宮の猛然たる動作が彼に勝(まさ)っていたといえよう。宮の白いおすがたは床(ゆか)を蹴ってわれから跳び、淵辺伊賀守のごつい体をでんと押しかぶせに捻じ伏せておられたのだった。
「うおうっ」
「かっ」
「う。う」
 淵辺の足は宙を蹴りぬく。
 すぐ、宮のおからだも縒(よ)り糸(いと)のように具足の諸足(もろあし)で捻(ね)じ縒(よ)られる。
 灯が仆(たお)れた。
 なんともかとも凄まじい。無色の中の物は、ただの生ける物と生ける物でしかなくなっていた。声もはや人間の声ではない。どっちか蛮力のあるほうが勝つだけだった。やがてのこと。耳をふさぎたいような唸(うめ)きとともにがつんと爼板(まないた)の上で庖丁が魚骨でも斬るような音がした。――同時に一個の影は、血ぐさい蚊うなりの闇を、ふらふらと、そとへ歩きだしている。
 ひらっと、人影は、縁を跳(と)び下りた。するとどこかで彼の思わざる女の悲鳴がした。彼は怯(おび)えにふかれ、泳ぐがごとく逃げに逃げた。
 すぐあとの女のさけびは、侍女の南の御方(おんかた)があげた驚きにちがいあるまい。――宮のおこたえもないぬりごめの内の異状を知り、狂気のように走り出て、怪しい風のごとき者を夢中で追いかけ転(まろ)んでいたものとおもわれる。
 また時を措(お)かず、近くの理智光院の外にも僧の影がわらわらみえ、南の御方と一しょになって曲者を追っかけていたが、降ッてわいた一瞬の出来事ではあり、時はあかつきまぢかな漆(うるし)の闇(やみ)、それに鎌倉じゅうは無人寥々(りょうりょう)なさいであったから、この騒ぎにもほかには出で合う人影などまったくない。
 だのに、淵辺は、ひどく逃げとまどっていた。
 小わきにかかえた宮のお首も、いく度となく血ぬめりに持ち辷っては下へ落し、拾ってはまた持ち直した。そしてそのたびお首の重さが増すような不気味におそわれているふうだった。
 おかしなことである。
 淵辺伊賀守ほどな荒武者であるのに、血は戦場で見なれているのに、どうしたのか、血に酔った気味で、彼が抱いている首よりは、彼の生きている首のほうが、この世のものでないような面色だった。彼にはあらい呼吸があるだけで、たえまなく後ろへキョトつき、何か追ってくる白いものが踵(きびす)から離れぬような恐怖に憑(つ)かれているらしい足つきなのだ。
 白いもの?
 そのお人はぬりごめの内でたったいま手にかけてきたはずだと思う。その宮があとから自分を追って来るはずがない。淵辺は、混濁したあたまの認証をたしかめるように、抱えていた重い物のもとどりを掴んで、ついその死に顔を見てしまった。無念を噛んだお唇もとはただ蝋のごときものだった。けれど淵辺には宮のおん目とお口がカッと開いて、せつな、自分の五臓(ぞう)へ咬(か)ぶりついて来そうな形相(ぎょうそう)に見えたのかもしれなかった。――さもなければ、いかにといえ武者にあるまじき小心ぶりというしかない。ひえっ! とばかりに、おぞ毛をふるい、かたわらの藪(やぶ)だたみ目がけて宮のお首を抛り捨て、やっと身軽となるやいな、後ろも見ずにその醜い姿をいずこともなく晦(くら)まし去ってしまったものである。
 後に。
 お首は理智光院の長老が拾いまいらせてかりの埋葬をいとなみ、南の御方は泣く泣くおかたみを持って京へのぼって行ったとつたえられている。京にはうら若きお妃やら乳(ち)の御子(みこ)もおわしたのだった。いやいやたれよりは雲居の深きところでこの変を聞こし召された、父皇後醍醐のご感慨こそ、何とあったか。
 俗説土牢はうそで、まことは一寺院のぬりごめにおいての御受難であったとさきには書いたが、おもえばそんな末端事は訂正してみても訂正のしがいはない。宮の御生涯そのものがすでにこの世の土の牢だった。
 いや、現世土牢にひとしい宿命の人は、宮おひとりのみかはである。ただならぬ世のことだった。帝王、貴紳、武門、どこに生れても輪廻(りんね)まぬがれ難い土牢の魔の口がいつも身辺にあったといえよう。宮を殺害した武士淵辺なども根は愚直なほど朴(ぼく)とつな人間だったに相違ない。何が彼をそうさせたかの方がよほど恐ろしい世態である。淵辺はこれによって後に出世などはしていなかった。
 ぼんやり、淵辺伊賀守は、西へ向って歩いていた。
 あの夜のままな姿だった。人相はひどく変ってしまっている。
「おれは?」
 ぶつぶつ、独り何かつぶやき、行くべき道をさがしているような、しかし、世間の目がみないまや自分へそそがれているような、おちつきのない彼だった。おれは天皇の子を殺した悪党だ。と世間の声を自分でぶつぶつ言っているのらしい。
 酒の気があった。途々、居酒屋でもみつけると、一杯かぶっていたもののようである。
 事を仕果した上からは、直義(ただよし)との約束もあること。頭をまろめて世外へ隠れ、出世の迎えを待ってさえいれば、よかろうものを、淵辺の愚直なまでの本心の呵責(かしゃく)が彼をそうさせなかった。――でなければ血の酔に憑(つ)かれた当夜の心理からまだ醒(さ)めていなかったのか、
「ああ」
 時々、茫(ぼう)と立ち暮れた眸で、北の空をふりかえった。ふるさとを考え出しているのだった。
 そのふるさとの人間は口うるさい。ひとの立身出世はやたらにそねむ。宮を殺した悪党よの、畜生よのと誹(そし)るだろう。家の家族(やから)も肩身のせまい思いで世間を歩けもしまい。後日、恩賞にあずかったところで、生涯そんな人中では幾日心からたのしい日を持てるだろうか。
「なにもない。末のたのしみもない。ふるさとも失(な)くなった。あるのは人のそしりと白い眼つきだけだ」
 淵辺は首を振った。何をふり払おうとしたのか、または独り合点するところでもあったのか、それからは急に足を早め、日ならずして、先に落ちて行った主君直義の人数に、手越(てごし)附近で追いついた。
 手越の宿(しゅく)は、駿府(すんぷ)(現・静岡)の西で、直義たちは、渡河を敵にさまたげられ、数日の苦戦になやんでいたところだった。――そこへ、ひょこっと姿を見せた淵辺に、直義は驚きもし、また仔細を聞いては、
「よくやったぞ」
 と、口をきわめて賞揚したことでもあった。
 淵辺はボロと涙をこぼした。自分の労が賞められる場所はここにしかないのを知ったからだった。しょせん、地獄の業(ごう)を負った身なら、地獄の花になれと観念したようだった。その夜である。彼は手越河原の闇戦(やみいくさ)に駈け入ったまま再び味方の中へ帰って来なかった。
 彼の死は「天正本・太平記」では淵辺甲斐守義博とみえ、「難(なん)太平記」はたんに、
 淵辺ト言フ年来(ネンライ)ノモノ
 御馬前ノ先ヲ馳ケテ
 タダ一騎
 敵大勢ノ中ニテ討死ス
 となっている。
 異説はまだ多い。一本には淵野辺ともあり、さらには彼は死なず、生涯、僧門に送ったというもの。また、宮を助けて奥州へ下(くだ)ったとなす“大塔ノ宮生存説”などもあって、宮の墓蹟は全国十数ヵ所におよんでいる。もしかりに、宮がなお世にいたとするなら、後、北朝と吉野朝廷との長き争乱の年月に、どこからか再び宮の活動が見られないはずはない。ところが以後、宮の息吹(いぶ)きどこにもなく、しかもいよいよ世は大乱の業(ごう)へ向ってつきすすんでいた。
了

底本:「私本太平記(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年4月11日第1刷発行
   2009(平成21)年10月1日第25刷発行
   「私本太平記(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年4月11日第1刷発行
   2010(平成22)年1月5日第26刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月9日作成
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