あらすじ
後醍醐天皇の鎌倉幕府に対する反撃が始まった。天皇は六波羅探題の監視の目を逃れて、京都の里内裏から脱出し、叡山の二皇子、護良親王と宗良親王のもとへ逃れることを決意する。二皇子はすでに三千の僧兵を率いて、鎌倉幕府打倒を目指していたのだ。天皇の脱出を察知した六波羅探題は、兵を動かし、天皇を捕らえようと追跡を開始する。天皇は、六波羅の追手をかわしながら、険しい山道を進む。果たして、天皇は無事、叡山にたどり着けるのか? そして、二皇子との協力で、鎌倉幕府を倒すことはできるのか? 緊張感あふれる展開に、息をのむこと間違いなし!
 ここで日と月は、少し以前へもどるが。
 足利家の大蔵邸に預けられていた囚人僧(めしゅうどそう)のひとり忠円が、鎌倉表から越後へ流されて行った前後に、その忠円の密使らしい者が、叡山(えいざん)の坂本にある山門の別当へ、
「なにとぞ、これを大塔(だいとう)ノ法親王(ほうしんのう)さまへ、お直々(じきじき)に」
 と、一書を投じて去った事実がある。
 それが誰だかわからない。
 流罪の僧に、そんな書状を差し立てる自由がゆるされるはずもないし、幕府側の足利家が、そのような違反を見のがしたとも考えられない。さらに使いの者が、投げ文(ぶみ)でも投げ込むように、ただ「法親王ノ宮へお直々に」とのみいって風の如く立ち去ったのも、いぶかしい限りであった。
 が、何はともかく捨ておけない。
 さっそく疑問の書状は、坂本から中堂の執行(しぎょう)へとどけられ、執行自身が大塔へ伺って、法親王のお手許へささげた。
「なに、忠円から?」
 一ときは、やや御気色(みけしき)をうごかしたが、さして怪しむ容子でもなく、
「そうか」
 といって、収められた。
 人まえでお披(ひら)きになる風はない。宮はそれを袂(たもと)に入れたまま、執行を相手にしばらくは雑談だった。――それも、多くは兵事であった。山門はいまや堅固な城塁(じょうるい)と何の変りもなかったのである。ひとたび中堂の大梵鐘(だいぼんしょう)が三塔十六谷を鳴り揺すれば、日ごろ訓練に怠りない三千の僧兵がいつでも雲のごとく武装して立つほどにまでなっている。
 この準備は、昨今のことではない。――宮が、叡山第百十六世の天台座主(てんだいざす)として山入りされた三年前からの奨励だった。
 それも山門大衆の訓練にとどまらず、宮御自身も武技の鍛錬に衆目をみはらせたものである。むかし鞍馬の僧正ヶ谷における牛若もかくやと思われるばかりだった。――ことし元弘(げんこう)元年の秋、二十四歳の御血気なのだ。
 執行が帰ったあと。
 宮は自室へこもって、しずかに疑問の一書を読んでおられた。――いや、宮には疑問ではない。囚(とら)われの僧忠円は、宮が梶井の梨本(なしもと)ノ門跡(もんぜき)としておわした頃の侍僧(じそう)である。べつな意味では近臣といってもいい。
 書中には「――この便りは足利家の情による」とも認(したた)めてあった。そうだろう、と宮はうなずかれた。囚人(めしゅうど)の忠円に、足利家が手厚くしてくれているという消息も、何かでお耳に入っていた。
 しかし今。
 忠円が越後へ流されるに先立って密かに知らせてきた内容には容易ならぬものがある。
 幕府の内では、すでに、現帝の遠島を考えているだけでなく、大塔ノ宮はこれを殺害し奉らねば、到底(とうてい)、北条氏の安穏はないと、密議一決しているというのであった。
 そのため、上洛軍の兵員や将の選考も着々進められている由、その奇襲に驚くことなきよう、機先(きせん)を制して、対処の策を――とも、忠円の書は告げていた。
「すわ」
 と、お胸も騒いだにちがいない。
 しかし、豪胆きわまる天性でおわしたのだ。御父の後醍醐に似て、後醍醐以上なところがある。しばしは机に頬杖(ほおづえ)のまま、満山の秋に対しておられた。

 大塔ノ宮二品尊雲(にほんそんうん)と並んで、山門にはもう一ト方(かた)、べつな皇子がいた。
 尊澄法親王(そんちょうほうしんのう)である。
 皇子名(みこな)は、宗良(むねなが)。
 大塔ノ宮よりは、三ツ下の二十一歳で、前年、兄宮が退いたあとをうけて、妙法院から入山され、現在の天台座主として本院にいる。
 もとより、皇子二人までを、山門の上におかれた父皇後醍醐のむねは、問うまでもないことだった。この弟宮も、しごく閑(しずか)な性(さが)ではあったが、父皇の遠謀によるおいいつけと、また兄宮大塔の下にもよくその命に従って、
「墨のころもは、仮の衣(きぬ)」
 と、ご観念のていだった。
 で、武技や兵学の励みも、兄宮に負けずおさおさ怠りない。しかし一面、この弟宮の優雅な天性は、なお自己の本心まではあざむき切れぬようで、
「……あわれ、やがて世もしずまらば、仮の姿は捨て、墨染の本身に帰り、まことの一沙弥(しゃみ)になり申さん。――生れし所、生れし世、かくのごとき時なればと、ゆるさせ給え。――阿耨多羅(あのくたら)三藐(みゃく)三菩提(ぼだい)の仏たち」
 と朝夕、ひそかには念じておられた。
 元来、大塔ノ宮とは、御生母も異るが、すべてにおいてちがっている。おなじ美丈夫ながら、兄宮は六尺ゆたかな体躯で、叱咤(しった)は山谷(さんこく)に木魂(こだま)する概(がい)を持っていたが、この弟宮のほうは、蒲柳(ほりゅう)であった。――歌よみの家の、冷泉家から出たおん母に似たものか、いと優しい。――いうならば、弟宮は母似、兄の大塔ノ宮は、父似ともいえようか。
 だから、山門大衆の間では、
「両親王は、似も似給わぬ」
 と、ささやき、
「座主(ざす)は、春のごとく、大塔は秋のごとし」
 といったりした。
 また、その大塔ノ宮が一山の僧兵を指揮する秋霜(しゅうそう)烈日ぶりや、ご自身も朝夕に、太刀薙刀(なぎなた)の猛訓練に一心不乱なお姿には、皆こういって舌をまいた。
「開山いらい、叡山百十六世、まだかつて、こんな稀代(きたい)な座主は、この御山(みやま)に見たことはない」と。
 ところで、その日。
 かつての侍僧忠円の密書を手にされた大塔ノ宮から、本院の座主へお使いがあると、ほどなく、弟宮の座主は、みずからその兄宮のいる東塔(とうとう)南谷の円融坊(えんゆうぼう)とよぶ坊舎の内を、そっと訪ねていたのだった。
 人を遠ざけて――。
 両宮は、夜に入るまで、なにかヒソヒソ水入らずな談合だったが、お互い久しい苦吟(くぎん)の後、
「いまは早や、ぜひを問うてもいられん」
 とのお声が洩れた。そして、
「かくなっては、かねて諜(しめ)し合せていた通り御動座(ごどうざ)(天皇のお遷幸(うつり))を仰ぐしかあるまい。その一策あるのみだ。……やみやみ、座して鎌倉の魔手を待ってよいものか」
 ついに、ご兄弟の意はそれと決したものらしい。やがてのこと、人を呼ぶお声があって、
「公人(くにん)の森掃部(もりかもん)に、すぐ罷(まか)れと申せ」
 とあり、まっ暗な廊を走る足音をそこに聞いたのが、もう深更に近い頃。
 公人(くにん)とは、僧ではない。雑掌(ざっしょう)の上役とでもいえようか。荘園の貢税(みつぎ)をつかさどる山門の武士である。その掃部(かもん)は、倉皇として来て、み簾(す)洩(も)る灯の遠くに、平伏した。
「掃部……。火急だ」
 大塔ノ宮は、待ちかねておられたように。
「かまわん、近う。ずっと近うすすめ」
「は。……はいっ。何事にござりましょうか」
「すぐ行って欲しい。この二通を持って」
 と、宮は弟宮と連署(れんしょ)の一札(さつ)に、忠円の密書をも、併せて、
「これよりすぐ下山して、密かに禁中へ罷(まか)り、花山院(かざんいん)(大納言師賢(もろかた))か、万里小路(までのこうじ)(宣房(のぶふさ))へこの二通を手わたし、時を措(お)かず、奏聞(そうもん)に達せよと、くれぐれ申せ。――よいか、書中は重大だぞ」
「仰せ、かしこまりました。では即刻」
「待て。――みかどには、先ごろから、皇居を二条富小路の里内裏(さとだいり)(町なかの仮ノ御所)へお移しあったと、うけたまわる。承知してか」
「心得ておりまする」
「また、いうまでもなく、叡山から内裏への途々には、六波羅の眼が油断あるまい。雲母坂(きららざか)、白川道など、いずれを行くも危うかろうぞ。なんとするか」
「姿を変えて、黒谷より大原、芹生(せりゅう)の間道(かんどう)をこえ、明夜、夜にまぎれて御所へと存じますが」
「むむ。寸時をもいそぐが、時のみ急いで、万一あらば、とり返しはつかぬ。ぬかるな」
「は。身命にかけて」
「それよ、この使い、身命を賭(と)してくれい。そちのほか公人(くにん)数名、連れまいっては、どうかの」
「いえいえ。身を窶(やつ)して忍ぶには、かえって、一人こそよけれです。とまれ明夜中には、ご密旨(みっし)の儀、相違なく、内裏のおん内へ達するものとおぼし召し下さいましょう」
 かくて、森掃部は、急遽、その夜の夜半から暁のあいだに、山門から密々下山して行ったかと思われる。――その彼とも見えぬが、手も顔も黒くした“漆掻(うるしか)き”の男が、まだ夜も明けぬうち、大原から鞍馬への間道を急いでいたが、思うに、それが森掃部であったかもしれない。
 時もそのころ。
 山門の上では、根本中堂(こんぽんちゅうどう)の大梵鐘(だいぼんしょう)がいんいんと鳴りわたっていた。
 いつもの時ノ鐘ではなく、非常の鐘である。乱打とも聞える谷々の唸(うな)り、山のひびき。
 八月二十四日の朝だ。
 その鐘の予告を、たれがよく腸(はらわた)に聞きわけていたろうか。――国家安泰のために、また仏法万代のためにとおかれた千年の法(のり)の山から、以後百年余にわたる南北両朝の争乱やら民の塗炭(とたん)が、ここに始まる未来の第一声が、いま撞(つ)き鳴らされていたものであろうとは。
「や、や?」
「すわこそ」
 三塔十六谷の山法師は、各※(二の字点、1-2-22)のねぐらを蹴って、僧衣に武装した。まだ霧も黒い谷々から駈けのぼってくる弓、長柄、大薙刀などの光は、さながら谷間落葉を吹きあげる山風のすさまじさそのままといってもいい。――南嶺北嶺(なんれいほくれい)の高きにある堂塔をおどり出た大衆の集合はもっと早かった。
 そして、大衆論議の場とされている大講堂の輪奐(りんかん)は、はや論議のない甲冑(かっちゅう)と刀箭(とうせん)に埋まり、ただ見る階廊の角に、一旒(りゅう)の錦の旗が、露をふくんで垂れていた。
 大講堂の外陣(げじん)の廊上には、長老、執行(しぎょう)、四座などの上僧級が、いずれも忍辱(にんにく)の法衣に具足をよろって居流れているし、また、階だんの正面を仰げば、左に大塔ノ宮護良(もりなが)、右に、尊澄法親王宗良(むねなが)と並んで、その両宮だけは、御床几(ごしょうぎ)だった。
 おからだの逞しい兄宮大塔のよそおいは、見事であった。卯ノ花おどしの鎧(よろい)に、黄金の大太刀、くわ形のかぶとを負い、その上、美男でもおわしたから、光彩、すでに大将軍らしい威容を燦々(さんさん)と辺りに払って、ご自身確(しか)と、将座を自覚しているようだ。
 それに比しては、蒲柳(ほりゅう)な弟宮の宗良(むねなが)は、いかにもいたいたしくみえる。
 すずしの御衣(おんぞ)の下に、もえぎの腹巻、太刀を横たえ、箙(えびら)を負うた武者姿など、たとえば紅梅が雪を負ったようで、かの平家の公達(きんだち)一ノ谷の敦盛(あつもり)も、こうであったかと、おもわせる。
 とまれ、さっきからその両親王は、堂下の見わたすかぎりな地に、一山の勢揃いがととのうのを待ち澄ましておられる風だった。
 やがて、梵鐘(ぼんしょう)の音も止む。
「ほぼ揃うたらしいな」
 兄宮のお顔がかすかに横へ。
 それに、頷(うなず)きかえして、弟宮の宗良が、座主(ざす)として、
「玄尊、大衆(だいしゅ)へ物申せ」
 と、かたわらの者へすぐ命じる。
 起(た)ったのは、妙光坊の阿闍梨(あじゃり)玄尊だった。「はっ」と答(いら)えて、前へすすみ出で、両親王の床几へ、
「ごめん」
 と、一礼してのち、堂下の大衆へむかって、吼えるような声で、大弁舌をふるい出した。
 非常の鐘の下に、この朝おこなわれた大召集の目的、またここまでのいきさつ、明日への理想などである。
 ゆらい、わが叡山は、王城鎮護(ちんご)の寺、宮廷の厄(やく)は、坐視できない。
 幕府の暴逆は、いまに限らないが、いまはその魔刃(まじん)を、宮の首(こうべ)に加え、現帝をも囚(とら)えて、人界の外へ、遠流(おんる)せんとの行動に着手しだした。
 ひそかに、ホクソ笑んでいるものは、おなじ皇統なのに、事ごと、関東へ媚びを送っている持明院派の方々だろう。
 そもそも、持明院派の密告行為は、宮方にとり腹心の害をなしてきた。しかし万事は、北条幕府を倒すことで決しよう。その機会がいままさに来たのだ。
 かねがね、父皇の後醍醐と両親王の間には、ご秘計が交わされている。――何ぞやといえば、みかどの御動座を仰ぐことだ。この叡山の上を仮の皇居として、諸州の武門が召しに応じていたるのを待つことだった。
 さらには当然、六波羅の敵も時をおかず、即時にこれを一掃せねばならぬ。
「そうだ! まず六波羅をだ」
 玄尊はここで、シワ嗄(が)れた声に、ひと息入れた。
「装備、腰糧(こしがて)など、午(ひる)までに万端、発向の用意をおわること。やがて、二度の鐘合図(かねあいず)ととも、一手は日吉(ひえ)坂本より大津ぐちへ、一勢は雲母坂(きららざか)より上加茂へうごき出るぞ。――こよい、夜にまぎれて、内裏(だいり)を忍び出で給うみかどを山門へお迎えしたてまつるためだ。もし六波羅勢がさえぎらば、討ち払うまでよ。――わかったか」
 わかった! とする大衆の応(こた)えが、鬨(とき)の声をなして、全山をどっと身震(みぶる)いさせた。

「増鏡(ますかがみ)」の筆者は、この国家的事件のあった日には、まだ若年か幼少かであったかもわからない。
 けれど宮廷、あるいは宮廷に身近な人ではあったようだ。その人は、当夜の変を、こう見聞のまま書いているのである。
――つつむとすれど、武家にも早(はや)う漏(も)れ聞えて、さにこそあンなれと用意す。
まづ九重(ここのへ)を、きびしくかため申すべしなど定めたり。かくいふは元弘(げんこう)元年八月(はづき)二十四日なり。
雑務(ざふむ)の日なれば、記録所におはしまして……。
 六波羅両庁と、二条富小路の里内裏(さとだいり)のあいだは、まさにこんな磨(と)ぎすまされた空気だったにちがいあるまい。
 天皇は、その二十四日も、日ねもす記録所(政務所)にお励みであったとある。――そして宵ごろ、おつかれの身を、しばし本殿に憩(いこ)わせておいでになると、なにか、中門廊の方で、
 だ、だ、だ、だ
 と、あわただしい足音だった。
 清涼(せいりょう)、紫宸(ししん)の皇居とちがって、ここは広いといっても、もと西園寺実氏(さねうじ)の私邸であった町なかの館である。何につけお耳うるさい。いつもそれには気をつかっている三位ノ局廉子(やすこ)がすぐ言った。
「お上(うえ)のまぢかです。すこしたしなめてください」
「まことに」
 侍座(じざ)の洞院(とういん)ノ公敏(きんとし)が、すぐ叱りに立ったと思うと、細殿の西の廂(ひさし)での出会いがしら、北畠具行(きたばたけともゆき)のすがたに、ハタとぶつかった。
「や、あなたか、いまのあらい足音は」
「一大事だ」
 具行は、息をはずませ、
「たそがれから、六波羅の広場、車大路などに、兵馬の気負いただならずと聞える」
「それは近頃、常時のこと」
「いや、二千余が、陣をわかち、一せいに馬を餌糧(えがい)し、あきらかに、戦備のようだという物見の知らせ。……どうやら、さきに諸州へ発した密勅が漏れたか、持明院統のまたぞろな密告か」
「そ、それや、こうしてはおられん、ここへも」
「もとより、目ざすはここ。……お上(うえ)には」
「本殿にいらせられる」
 ふたりが、御座(ぎょざ)のまぢかへ入ってから、いくらもたたないうちだった。
 漆掻(うるしか)きに身をやつした森掃部が、門の衛士(えじ)に誰何(すいか)されつつ、しいて中門まで駈けこんだので、蔵人(くろうど)たちとの間に、烈しい言いもつれを起していた。掃部はすべての咎めに耳もかけず、
「両宮のお使いです。花山院どのか、万里小路(までのこうじ)どのでなくば、御直書、おわたしはできません」
 と、必死なのだった。
 ようやく、花山院師賢が顔をみせて、掃部の手からそれを受けとり、ただちに伏奏(ふくそう)のうえ、天皇のみ前にさしあげた。
 これこそは、いま具行が告げてきた事実を、もっと大きくしかも的確に、裏書していたものといっていい。
「…………」
 侍座の諸公卿が、順次、両宮のお文(ふみ)と、忠円の書状を、廻し読みにして、そわそわと、青ざめているあいだを、後醍醐はまだお一ト言もいわず、また、黙視の瞼(まぶた)をとじることもなさらず、かえって、そのおん眼(まなこ)を一ツの灯にすえて、らんと大きく見つめておられた。
 迷うときではない。
 また迷っているひまもない。
 後醍醐のおん眉は、つねそのままに、
「噪(さわ)ぐまい」
 と、まず廉子(やすこ)をなぐさめられた。そして次に、側近たちの、戦(そよ)ぐ葦(あし)のような恐怖やら狼狽の影へ、
「むしろ、こよいの不慮は、儂(み)の本意ぞ。かかることでもなければ、めったに、動座も思い立てぬ。すぐ、したくせよ」
 と、命ぜられた。
「やっ、御動座とな」
 あらためて、あたりの上達部(かんだちべ)(上卿)たちは、からだのしん底から、異様な感動につかれたような声を発した。
 いまや取る途はそれしかないとは分っていたが、動座は天皇の蒙塵(もうじん)を意味する。――この夜をかぎりに、皇都は皇室なき空都(くうと)となり、この国の歴史の断崖にのぞむ夜となるのかと思うと、いまさらの如く、多年王朝の復古をさけんで来た革新的な若公卿ですら、身の毛がそそけ立ッて来るものとみえる。
「かねての、諜(ちょう)じ合せをふくみ、護良(もりなが)(大塔ノ宮)と宗良(むねなが)のふたりも、一山の衆徒をひきい、白川口、大津あたりまで出て、待ち迎えんと、書中に見らるる。――藤房、忠顕(ただあき)」
「はっ」
「お汝(こと)らは、ただちに内侍所(ないしどころ)(三種ノ神器をおく所)へすすみ、つつしんで神璽(しんじ)、御鏡(みかがみ)などを捧持(ほうじ)して、早よう車のうちへ遷(うつ)したてまつれ。……また公敏(きんとし)、季房(すえふさ)なんどは、供の用意を」
 かかるさしずは、補佐(ほさ)の臣こそが、なすべきであったが、天皇のお声の方が先だった。さてとなれば、まるで足もとから鳥の立つ騒ぎなのも、ぜひがない。――側近、たれも彼もが、うろたえている。
「廉子」
 と、おん眼くばせの下に、天皇もすぐすっくと起った。そして彼女をうしろに北ノ対(たい)のぬりごめの一間へ走り入られた。
 お身支度のためである。
 いっぱいな涙を眸に、廉子はみかどの後ろへ、なよらかな直衣(のうし)をお着せ申したり、御剣(ぎょけん)を取ってささげたり、また女心に気づかれる物、何くれとなくお身に添えて、
「……わたくしは?」
 と、花の頸(うなじ)を、お袴の下に折った。
「そもじか」
 ご思案だった。
 恋々(れんれん)たる離別は龍顔(りゅうがん)をかきくもらせてはいたが、ふと、幾多の唐土(とうど)の妃(ひ)と帝王の例などもお胸をかすめたことであろう。国と女――その比重へこたえるような語気であった。
「あとへ残れ」
「お供はかないませぬか」
「ここには中宮(ちゅうぐう)(皇后の禧子(よしこ))もおり、余の女房の小宰相(こさいしょう)や大納言ノ局もおる。水仕(みずし)の末の女童(めのわらわ)まで、そもじを見失うたら途方にくれて惑(まど)い泣こう。よも六波羅とて、女は追うまい。各※(二の字点、1-2-22)、身をよき所へ隠せ。やがて時来たれば迎えてとらせる」
「……はい」
 艶姿(えんし)にはなお、瑞々(みずみず)と垂れるようなものがあったが、廉子ももう聞きわけのない妙齢ではない。女性の三十一であった。
「お上(うえ)。はや御車(みくるま)へ」
 外では、扈従(こじゅう)が急(せ)きたてていたし、局々(つぼねつぼね)では、不意を知った女房たちが、いちどに灯を濡らして泣き乱れていた。
 里内裏(さとだいり)とはいえ、地域は広大だ。一ときの、御座所のあたりは言語に絶する騒ぎだったが、しかし中門の外、まして外門(げもん)の遠くへなどは、この夜のこと、何一つ響いてはいない。
 月もない二十四日の闇空、ただ秋の声だけだった。
 キキキ、キキ……と奥の木立から軋(きし)みめぐッてくる牛車の輪音(わおと)に気づくと、門の衛士(えじ)、滝口(たきぐち)ノ義数(よしかず)はすぐ衛士小屋の部下を呼ばわって、待ちかまえ、
「どなただ? まいられしは」
 と、誰何(すいか)した。
 出入ともに、昨今、ここは厳重をきわめている。
 が、星かげの青い暗がりに淀(よど)み駐(と)まったのは、一輛の女車と、それをつつむ、ゆゆしい上達部(かんだちべ)のひと群れだった。
 宮門の厳戒なればと畏(かしこ)んで、中のひとりが、
「これは、中宮のお実家方(さとがた)に、俄な御病人が出来たため、夜も厭(いと)わせ給わず、おん見舞に罷(まか)られる御車(みくるま)です。――列を遠くにお開きなさい」
 と、どこか諭(さと)すような口吻で言った。
 義数は、はっとして、
「では、皇后(みきさき)でおわしますか」
 と、部下を道のわきへズリ退けて、敬礼の姿を執(と)った。
 前駆(ぜんく)の人々とみえる七、八名の影が、大股にまず門を出て行った。つづいて、夜目にも著(しる)き白と黒のまだら牛が、車おもげに曳いて通る――。
「はて?」
 一瞬、滝口の者は、みないぶかしげな眼で見送った。
 女車は女車でも、華麗なみ妃車(きさきぐるま)とも見えない。窶(やつ)れたるただの女房車なのだ。
 しかし、車の下簾(したすだれ)の裾からは、何さま、み妃(きさき)ならではと思われるような御衣(おんぞ)の端が垂れ見えていた。……で、やはりみ妃かな? と思っているうち、供奉(ぐぶ)の駒を曳いた公卿、輿(こし)を舁(か)いた雑色風(ぞうしきふう)の者などが二十数人、まぼろしか、影絵のように、どろどろと過ぎて、二条大路を北の方へたちまち消えた。
 いうまでもなく、これは天皇後醍醐の御車(みくるま)だった。――敵を計るには味方を計れと、衛門(えもん)の兵にすらも覚られぬように、動座のご一歩を、まずはつつがなく踏み出されたものである。
 天皇は、み車の内で、女房衣を打ち被(かず)いて、俯っ伏しておられた。――急に、簾(れん)を吹く風は、加茂川の冷たい湿(しめ)りをもち、ハタハタと鳴って、ひとしおお胸のときめきを打った。
「ああ、これでついに、籠のごとき大内裏から世間という大空へ翔(か)け出たのだ。ふたたび、宮門へ還る日には、もはや内裏を、幕府に都合のよい古苑(こえん)と古池(ふるいけ)にはしておらぬぞ。……この尊治(たかはる)(ご自身の名)が、かく大空の下に出て世の大気を吸ったからには」
 車の輪は、車上の君の誓いを知って、その運命の道へひたぶる目ざすように、がらがらと揺れ急いだ。
 けれどそれも、じつに儚(はかな)い間でしかなかった。
「しまった。はや通れぬ」
「加茂の彼方、粟田、蹴上(けあげ)を境に、柵が見える。おそらく六波羅の一陣か」
「や、や。いつのまに」
 所名(ところな)の辻占(つじうら)も悪い。一条戻り橋まで来たときだった。供奉(ぐぶ)の面々は急に轅(ながえ)を抑えて立ちどまった。いや遮(しゃ)二無(む)二、み車を回(まわ)し初めた。
 途方に暮れるとは、まさに、かかることか。
 ひとまず御車を、木蔭に寄せて、殿上(てんじょう)ならぬ辻評定が、ただ恟々(きょうきょう)と、ささやかれた。
 そのまに、物見も帰って来た。物見に交じって、終始、お道先の万一を見とどけては、供奉へ報じていた森掃部(かもん)の言はもっとも信頼できる。
 その掃部に聞けば。
 ――六波羅がたは、今日の午下(ひるさが)りから、叡山方が、両親王の下知のもとに、一手は雲母坂(きららざか)から、一手は大津へゆるぎ出たのを知り、すぐさま粟田、蹴上に一陣を押し進めた。で、叡山六波羅相互の陣は、逢坂山(おうさかやま)をはさんで、不気味な暗夜の対峙になっている、というのであった。
「さもこそ」
 と、この夕、北畠具行が、六波羅の戦気ただならず、とべつな諜者からうけていた、あの一報もうなずかれる。
 人々は、進退きわまったように、一とき、無言の奈落(ならく)におちた。と、み車の内なるお声が、
「師賢(もろかた)」
 と、召された。
 師賢は、轅越(ながえご)しに、近々と何事か承っていたが、やがてのこと、み手ずから賜わった香染(こうぞめ)の羅衣(うすもの)と、蒔絵の細太刀を拝して、こなたの群れのうちへ退がって来た。
「ご決断はお早い」
 師賢は、授けられた急場の策を、諸卿へつたえた。
 すなわち、花山院師賢は、この場からすぐ“身代りの天皇”となって、叡山へ行けとの御命(ぎょめい)を拝したのだ。
 森掃部を案内とし、輿(こし)に乗って、鞍馬越えから大原の間道を行け。――かつては、平家都落ちの前夜、後白河法皇も暗夜の嶮を越えてゆかれた所である。むずかしくはあるまい、との御諚。
 四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明、中院(なかのいん)ノ貞平らは、それに従え。
 そして、後醍醐ご自身は、ここより車を南に回(かえ)し、奈良へ落ちん、というお計りなのである。――南都も深く宮方に契(ちぎ)りおるもの。時を一つに、比叡と並び立つならば、六波羅ごときは一朝(いっちょう)に圧倒し去ろう。さりとて、このさい叡山に帝の遷幸(せんこう)を見ずあっては、山門の気勢を削(そ)ごう。玉座の簾裡(れんり)、大衆のさとる気づかいはないから、しばらくは、“身代り天皇”を以て――という、お考えに出たものらしい。
 案は、じつに奇策である。だがこの奇謀が、かえって、御大志の最初のおつまずきになるものとは、後醍醐も思われなかったし、側近たれひとり、不安に覚えた者もない。むしろ、窮(キユウ)スレバ通(ツウ)ズ――としていた。
 こうして、供奉(ぐぶ)の人数は、出(い)づるやいな、二つに別れたのである。――俄に南へいそいだ御車には、万里小路藤房、季房(すえふさ)、源中納言(げんちゅうなごん)北畠具行、六条ノ少将千種忠顕(ちぐさただあき)、按察(あぜち)ノ大納言公敏(きんとし)たちの諸公卿、ほか随身をいれても、わずか二十名前後。
 ここにまた、帝の一ノ宮尊良親王(たかながしんのう)(宗良(むねなが)の兄)は、その夜のことを、ほかにいて聞き知られるやいな、馬に乗って、単身お父君のあとを、奈良街道の方へ追っかけて行かれた。

 ゆらい後醍醐には、ご壮年からもう、大きな御子(みこ)が多かった。生涯を通じては、三十人をこえる皇子や内親王もあったのである。
 一ノ皇子、中務(なかつかさ)ノ宮尊良(たかなが)は、みかどがまだ皇太子時代の寵姫(ちょうき)、冷泉為子(れいぜいためこ)のお腹であるが、そのおん母為子は、後醍醐の即位も見ずに亡くなっている。――いわば、親なる者は、父のみかどしか知らぬ宮なのだ。――だからその父君の蒙塵(もうじん)を追って、馬を飛ばして行った気もちには、泣く子のような慕情が先立っていたといっても大過あるまい。
「おううい。おういっ」
 宮は、やがて行く手の闇に、松明(たいまつ)を持たぬ牛車と一(ひ)ト群(む)れの影が、恐怖に吹かれつつ、急ぐのを見て、
「中務(なかつかさ)です。一ノ宮ですっ。待たれよ。供奉(ぐぶ)の人々」
 と、遠くから言った。追手とまちがえて、彼らの狼狽が、みかどを逸(はや)まらせ奉りなどしては――と、思ったからである。
 後醍醐は、み車の中で、
「誰(た)ぞ」
 と、おたずねだったが、
「尊良(たかなが)、おあとより、追っつきまいらせましてござりまする」
 という聞き覚えのある御子(みこ)の声には、よほどうれしかったのであろう、
「お、尊良なりしか。時にとって、百万の味方」
 と、仰っしゃった。
 宮が追いつかれた所は、七条か九条あたりか、とにかく六波羅は突破できないから、竹田街道を迂回して、木幡(こばた)へ出たものにちがいない。
 が、どう急いでも、牛車はしょせん牛車である。かつは暗夜の田舎道にも、行きなやんだことであろう。「古典」によれば、途中、牛車はすてて怪しげな張輿(はりごし)に召し換えられたとある。
 かつまた、駕輿丁(かよちょう)の雑人(ぞうにん)をつれていたわけでもないので、そのおん輿(こし)は、大膳ノ大夫重康(しげやす)、楽人(がくじん)の豊原兼秋、随身の秦久武(はたひさたけ)などが、馴れぬ肩に、舁(か)きまいらせたとのことであるから、途上の難行苦行のていも、察するに余りありといっていい。
 かくて、夜の白々(しらしら)明(あ)けに、
「……ここは、どこ」
 と、見まわし給えば、奈良街道の木幡口(こばたぐち)、六地蔵の辺りであった。「――やれうれし、まずは事なく、都の外へ脱したるわ」と、名知らぬ小社(こやしろ)の森蔭へおん輿をおろして、しばしお憩(いこ)いの玉座となし、楽師兼秋が、わびたる禰宜(ねぎ)の家へ行って、
「われらは、昨日、七大寺詣(もう)でに出た京家の青侍(あおざむらい)どもだが、道に迷うて夜すがら難渋のあげく、おあるじには御腹痛を起され、ぜひなく、しばし社前を拝借しておる。――物代(ものしろ)は何なりと与えるが、従者どもに朝糧(あさがて)を。また、おあるじには、白粥(しらがゆ)なとさし上げて給わるまいか」
 と、頼み入れた。
 四林は、鳥の音ばかりだが、供奉の面々は袖垣をつらねて、おん輿を囲繞(いにょう)し、天皇は輿を出(い)で給うことなく、内でそのまま、一碗の白粥を、朝餉(あさがれい)として召しあがった。――随身たちも、腹をみたした。――皇居を脱(ぬ)け出られた第一夜はこうして明け、さて、こよいは何処に寝ることか。
 この間に。
 中務ノ宮は、奈良街道をふたたび馬にムチ打って、南都東南院の法務聖尋(しょうじん)の許へ、夜来(やらい)のてんまつ、並びに、勅のお旨をつたえに馳せた。
 報をうけた聖尋が、いかに驚いたかはいうまでもない。
「えっ、勅使ですと。しかも木幡の路傍から?」
 と、仰天した。
 路傍からの勅旨(ちょくし)などとは、そもそも、前例もない奇怪事である。だが、天皇はすでに、ついそこの奈良街道の途中まで来て、迎えを、お待ちうけであるという。
「すぐ罷(まか)りまする」
 何はともかく、御使(みつか)いに答えておき、彼はさっそく薬師院の寛宝(かんぽう)、正法院の実佑(じつゆう)のふたりへ計って、寺内の僧兵二百ほどを引きつれ、お迎えに駈け向った。
 ――吉左右(きっそう)いかに。
 と、待ちわびておられた天皇と供奉(ぐぶ)の面々が、その人数を見られたのは、どう早くても、その日、二十五日の午(ひる)ちかくではなかったろうか。
 そこは宇治の五ヶ庄の森蔭だった。みかどは、破れ輿の内に、背をもたせかけて、夜来(やらい)、おつかれらしく、うつらうつらしておわしたが、
「オオ参ったるか聖尋」
 と、彼の姿を見そなわすや、なかなかなお元気で、こう御諚(ごじょう)であった。
「さっそくの迎え、うれしいぞ。……笑うべし、かねがねの細(こま)やかなる謀(はかり)も、いすかの嘴(はし)と食いちがい、かくの如く、俄か落人(おちゅうど)とはなって、昨夜、ひそかに大内を脱け出てまいった。たのむぞよ」
「……はっ」
 聖尋は、唯々、平伏したその体におこたえを見せたのみで、ことばも何も現わしえない。
 御脱走は、やはりほんとだったのか……と今さら身ぶるいが出るばかりだった。
 この聖尋は、鷹司基忠(たかつかさもとただ)の子で、後醍醐とは、皇太子時代からの、友ではあり、以後の同志の一人でもあった。
 さきに囚(とら)われて、硫黄島(いおうとう)流しとなった、小野ノ文観(もんかん)とも親交がある。――すべて、後醍醐という不世出の恒星(こうせい)をめぐる一群の衛星が早くからあって、彼もまた、その連環(れんかん)中の一衛星であった者といっていい。
「いざ、お供を」
 そこから、おん輿は、法師武者に舁(か)かせ、聖尋は奈良入りの先駆を勤めた。
 ただし、このさい直接、奈良の東南院へ潜幸(せんこう)されたとなす説と、一夜は唐招提寺(とうしょうだいじ)に入御(にゅうぎょ)して、奈良の動静をたしかめたうえ行かれたという二説がある。
 が、いずれにしても、まもなく東大寺の東南院におちつかれ、ただちに別当聖尋から、廻状して“――天皇、難ヲココニ避ケ給フ”と、衆徒に披露し、そして東大寺大衆の協力を求めたことには間違いない。
 ところが、この反応は、きわめて複雑な波紋をその日にもう描きはじめた。
「いかにとはいえ」
 批評桟敷(さじき)は彼らの得意なのである。たちまち、ごうごうと、あげつらう声が多かった。
「九五(きゅうご)ノ尊(そん)たるお身をもって、余りにも、軽々しい」
「おんみずから、皇居を捨て、都を空都となし給い、わずかな公卿ばらのみお連れあって、そも何の大策を、お持ちあるのか」
「やんぬる哉(かな)、世の辛(から)きを御存知ないのだ。これが貴人の白日夢(はくじつむ)でなければまあ倖せだが」
 その上にも、おなじ東大寺中でも、西院の主僧、顕実(けんじつ)は北条高時の一族の出で、しかも衆徒の間に強大な潜勢力をもっていた。
 どこでもだが、奈良もまた一色ではない。
 東大寺大衆の底流にも、宮方と関東方があったし、興福寺の反応など、わけて、はっきりしないものがあった。
「これはいけない」
 聖尋は早くも万一を案じて、供奉(ぐぶ)の面々に、一ノ宮尊良をもいれて、諮(はか)った。
「人の心は怪しいものと、この聖尋も、いま知りました。――つい前年の三月、ここに天皇の行幸を仰いだ日は、東大興福の二大寺を挙げ、盛儀三日三夜のご歓待は申すもおろか、鹵簿(ろぼ)の還幸(かんこう)には、全山お名残りを惜しんで、聖武の帝の古(いにし)えもかくやと、みな申し囃(はや)したものでしたが……今、やつれ輿(ごし)にて、ここへ御避難あらせ給うと聞くや、みな手のうらを返したような横向き顔。……何ともはや……」
 長嘆して、彼は、人々へ二段の策を、切にすすめた。
 しかも、その対策を、なおよく、御前で練っている暇などもなかったらしい。
 そこで、当夜、二十六日の夜半――「古典太平記」を始め、諸書はみな、二十六日としているから、それに従えば――都を二十四日に脱出された天皇には、途上の難行のうえ、着御(ちゃくぎょ)のあとも、ほとんど、席のあたたまる暇はなかったことになる。――また以て、いかに顕実一派や、興福寺などが、このたびの天皇の蒙塵(もうじん)を、白眼視していたかが分ろう。そして、天皇以下、
「――事成り難(がた)し」
「ここも、安からねば」
 と、即夜、ほかへ行在所(あんざいしょ)を求めて、奈良を立ち出でて行ったことか。あわただしさのほど言いようもない。
 ひとまず……と、さして出たのは、甲賀ざかいの和束(わづか)ノ里(さと)、鷲峯山金胎寺(じゅぶせんこんたいじ)だった。
 月もなし、わざと、松明(たいまつ)もともさない。おそらくおどろな秋の山風は、御輿(みこし)の簾(れん)も吹きちぎって、お肌に粟(あわ)を生ぜしめていたことだろう。――ただ少々供の人数はふえていた。
 供奉の公卿雑人のほか、聖尋僧正もこの夜は武装し、薬師院、正法院の僧兵二百余人。行く行く、土地(ところ)の郷士僧人なども、ちらほら、列に参加していたという。
 しかし「元弘日記」によれば、この夜の暗夜行(あんやこう)も御無事ではなく、待ち伏せた兇徒との間に小戦闘も行われたとあるから、為に、天皇の御輿にも、外(そ)れ矢(や)、狙い矢などの二、三は突き刺さったのではあるまいか。
 もとよりお覚悟のこと、それに動じる後醍醐ではなかった。むしろ、これから世のあらゆるものに出会う一歩の門(かど)の物試(ものだめ)しとうけて、いよいよ生来の荒胆(あらぎも)を、御輿のうちに、すえておられたかもしれない。
 こうして、翌二十七日は、金胎寺(こんたいじ)へ入られたが、
「はて。ここも地の利であるまい」
 と、たちどころに、御座(ぎょざ)をめぐる人々の間から、ここを不安とする説が出た。余りに、山奥すぎて、糧道の難(なん)すらあるというのである。
「さらば、笠置(かさぎ)へ。……幸い、笠置は、この聖尋のあずかる管下(かんか)の寺でもござりますれば」
 と、あくる日、彼はさらに、天皇の御嚮導(ごきょうどう)に立ち、犬打峠から杣田(そまた)の難所を越えて、笠置の山へさして行った。
 天皇、その日の御詠(ぎょえい)に。
うかりける身を秋風にさそはれて
おもはぬ山のもみぢをぞ見る

 一方。
 天皇脱出と分った後の都こそ、たいへんだった。
 上下、唖然(あぜん)としたのは、いうまでもない。また、そのとつぜんな真空が呼びおこした旋風は、たちまち満都にわたって、木の葉のごとき兵馬の哮(たけ)びを吹き起した。
 その六波羅の軍兵が、まずまっ先に殺到したのは、当然、二条富小路の里内裏(さとだいり)であった。――それが二十五日の早暁。すでにみかどは、宇治の辺まで、落ちのびられた後である。
 もし、このさい、武者の誰でもあれ、
「早よう、奈良街道へも手をまわせ」
 と気転(きてん)をはたらかせていたら、駻馬(かんば)の一ムチ、天皇はその日に囚(とら)われていたことだろう。
 何しても、六波羅の抜かりは、みかどの僥倖(ぎょうこう)であった。それというのも、夜来、六波羅の総力が叡山のうごきにつり込まれて、大津や白川口などに、全神経をそそいでいたためだった。――で、山門の二皇子の出で迎えも、結果的には、全然無意味でもなかったのである。
 とはいえ、その朝、内裏へ踏みこんだ武者輩(むしゃばら)の狼藉は、腹いせまぎれもあるが、ひどいものだった。
「通せ」
「通さぬ」
 で、外門(げもん)を守護していた滝口の衛士とのあいだに、一ト争い起ったが、彼らの甲冑(かっちゅう)の前には、ひとたまりもない。数名は討死し、あとはどっと逃げ争う。
 生け捕られて、高手小手にいましめられた滝口もある。呶号の中に蹴とばされて、
「みかどは、どうした?」
「皇后(みきさき)はどこへ隠した?」
 さんざんに責められたが、もとより彼らも、寝耳に水で、おん行き先など知ろうよしもなく、ただ、ゆうべ、いぶかしい一輛の女房車に、上達部(かんだちべ)などが車副(くるまぞい)して出門された、という一事だけを、くり返すばかりだった。
「さてこそ」
「何か、証(しるし)でも」
 土足の武者たちは、局々(つぼねつぼね)の調度(ちょうど)を荒らし、御簾(みす)を引き落し、お座所の御手筥(みてばこ)から帳(とばり)までひッくり返して、家探しに興がッた。
 えならぬ香気や、女性(にょしょう)のいたらしい部屋温(ぬく)みまでするのだが、さて、女童(めのわらわ)ひとり見当らない。「……ここぞ、内侍所(ないしどころ)らしい」と、さし覗けば、神器もすでに持ち出されてあり、ほの暗い細殿に、ただ残燈(ざんとう)の影がかそけく、またたいているだけだった。
 ――やがて、陽がのぼる頃、彼らはつむじのように引き揚げて行った。危なかったことである。あとでの取り沙汰では、皇后の禧子(よしこ)は、野の宮殿のお妹のところへ難を避け、三位ノ局廉子も、小女房の中にまぎれて、はや、ここはのがれ出ていた。そのほか、水仕(みずし)や女童の多くも、ちりぢり泣く泣く、各※(二の字点、1-2-22)の親もとや有縁(うえん)をたよって、逃げのびていたものとみえる。
 また、同朝。
  洛中各所にも、襲撃がおこなわれていた。――かねて天皇帷幄(いあく)の秘臣とにらまれていた大納言宣房、洞院(とういん)ノ実世(さねよ)、侍従の中納言公明、烏丸(からすま)ノ成輔(なりすけ)など、みなその自邸で寝込みをおそわれ、一網打尽に、捕縛された。
「えっ、天皇の御脱出とな?」
 聞かされて、彼らはみな仰天した。この人々にさえ、寝耳に水であったとすれば、六波羅が事を未然に覚(さと)りえなかったのもむりではなかった。
 六波羅武者の合い言葉は、いまや公然と、
「宮方征伐」
 であり、また、畏(おそ)れもなく、
「――後醍醐(ごだいご)退治」
 とも罵(ののし)って憚(はばか)らないのではあったが、しかしその彼らとて、全面的な皇室否定に狂奔しているものではない。
 幕府が憎むものは、幕府を倒さではやまじ、としている後醍醐中心の“大覚寺統”一派にあるのみで、おなじ皇室の“持明院統”までを、抹殺しようとするのでは決してなかった。
 で、このところ、抜かりだらけな六波羅でも、
「それよ、持明院統の方々に、万一があっては」
 と、混乱のさなかに、兵力を割(さ)いて、その方面には、さっそく保護の手をさしむけた。
 すなわち、持明院系の後伏見(ごふしみ)、花園の二上皇と、皇太子量仁(かずひと)とを、それぞれの御所からみ車にのせ、一時、六条の仮御所へ、ご避難を乞(こ)うたが、「そこもなお物騒――」とあって、すぐまた、六波羅の北ノ一殿へ移しまいらせたのだった。
 これを見ても分ることは、幕府側にも、後醍醐に代る次の帝位ノ座が、
「いつでも」
 と、用意のできていたことである。
 もちろん、持明院統の上皇も皇太子も、人質同様な庇護(ひご)ながら、その日のくるのを、切に待ちこがれていらっしゃる。いわば、ここの方々にすれば、
「恃(たの)むは、幕府」
 というお形(かたち)だ。
 だが、その幕府はいまや、てんてこ舞いの状である。
 そもそも、天皇は宮苑(きゅうえん)から一歩も自由には出られぬ籠の鳥とみていたのが大誤算だった。――いかに後醍醐の豪気といえ、暗夜、皇都脱出の挙(きょ)に出ようなどとは、夢想もしていなかったことだから、その狼狽(ろうばい)ぶりたるや、絵にも描けない。
 するとまた、ちょうど、そんな緊急事やら、早馬立てに、ごッた返していた中である。叡山の一法師が、駆け込み訴えをして来た。その坊主の告げるところを聞けば、こうだった。
「――天皇のお行方は叡山でおざる。二十四日の夜どおし、鞍馬の間道をさまよわれ、二十五日の朝がた、北嶺(ほくれい)より入山あって、釈迦堂(しゃかどう)を行在所(あんざいしょ)にあてられ、即刻、みことのりを発せられたうえ、坊舎の上に高々と、錦の御旗をお掲(かか)げでおざった」
 おおかた、それとは察していたところだが、この訴人をえて、六波羅方は、
「やはり、そうか」
 と、ふるい立ち、
「いまは一刻も猶予すな」
 とばかり、即刻、全兵力を叡山攻めにかたむけた。
 しかし、鎌倉へ飛ばした早馬は、いかに早くても三、四日はかかる。さらに鎌倉本軍が到着するには、なお十余日は見なければならない。まさに、すべては六波羅の後手(ごて)だった。
 その上にも、六波羅はまたぞろ大きな誤認の下に戦端を切った。後醍醐の“笠置がくれ”とはまだ気づかず、叡山の上の偽(にせ)天皇を、まことの天皇と信じてかかったことである。
 世は大乱の底へと一気に急ぐはずだった。謀略のためには、嘘の錦旗や偽宣旨(にせせんじ)もおこなわれ、血まなこの幕府方は、目さえ見えなくなっていたのだから。

 叡山攻めは二十八、九の両日にわたり、わけて二十九日は激戦をきわめたらしい。
 六波羅の大将は、かの佐々木道誉(どうよ)の一族で、これも近江源氏の六角(ろっかく)ノ判官(ほうがん)時信(ときのぶ)だった。
 その下に。
 海東左近将監(かいとうさこんしょうげん)、長井丹後守、越後ノ前司(ぜんじ)貞知(さだとも)など、およそ二千騎。
 この手は、大津から唐崎(からさき)への、湖畔へかけて布陣したが、べつな一軍は、叡山の京口、一乗寺下がり松に陣して、そこの表と、搦手(からめて)の湖畔口との、両面包囲のかたちで、迫ったのである。
「ほどの知れたもの」
 と、山上から小手をかざした僧兵らは、すっかり敵を呑んでいた。
「まだ、鎌倉勢は、一兵もあれに加わってはいない」
 それが、読めたので、
「いでや、加勢が上って来ぬまに、六波羅の虫ケラどもを、みじんにしておけ」
 と、意気高々なものがあった。
 加うるに、彼らは、
「天皇、御山(みやま)にあり」
 と信じて、本堂釈迦堂の上にひるがえッている錦旗の光彩を、すこしも、疑いなどはしていなかった。
 つたえ聞いて、近郷の比良(ひら)、焼津(やいづ)、そのほかの山家などから、お味方にと、山へ馳せのぼって来る郷士らも多かった。彼らにすれば、野望を賭ける「時こそ」だった。千載一遇(せんざいいちぐう)、この時潮に乗りおくれては――と、錦旗をのぞんで来たものだろう。
 合戦第一日の戦況も、この意気がものをいって、山門がたの大勝に暮れた。――同夜、大塔ノ宮は、日吉(ひえ)山王(さんのう)の八王子に床几(しょうぎ)をすすめ、弟宮の座主宗良も、同所に陣座して、
「明日こそは、なお」
 と、勝ちにのッた大衆の沸(たぎ)るような戦意の中につつまれておいでだった。
 はや、湖光が白(しら)む。
 坂本にはもう朝霧のうちから雄(お)たけびがわいていた。
 たえず戦況が、ここへ来る。
 そのたびに、大塔ノ宮は、
「良忠、味方はつよいな」
 と、かたわらにいる殿(でん)ノ法院良忠をみて、ニコとされた。
 この良忠は、越後に流された忠円の法弟なのだ。また無二の宮の腹心でもあった。
 そのうちに、麓の方から、わあっというどよめきにくるまれつつ、一人の大法師が、薙刀(なぎなた)の先に、武者首をつらぬいたのを担(かつ)いで、駈け上って来た。たれかと見れば、岡本坊の快実という豪の者だった。
 その快実は、両宮の床几に近い所まで来ると、ほこらしげに、六方(ぽう)踊(おど)りの足踏み鳴らしながら、
「ごらんあれ、物始めよし。――岡本坊ノ律者(りっしゃ)快実、武家の大将一人打ち取ッたり」
 と、み幕(とばり)の内へすすみ、穂先の首を抜いて、実検に供えた。
 首は、敵の副将、海東左近将監(かいとうさこんしょうげん)なりと、彼は披露し、そしてその将監との戦いぶりを、さも得意げに、申したてた。
「あっぱれ、よくやった」
 大塔ノ宮は、賞辞されたが、弟宮の宗良は、よく正視もなされぬのみか、お顔のいろすら、青白うなられた。
「後刻、さらに二の首を、御見(ぎょけん)に供えたてまつらん」
 と、阿修羅(あしゅら)はまたすぐ、麓へ向って駈けて行った。
 戦況は刻々、お味方有利と、聞えてくる。大塔ノ宮は、じっとしておられぬように、
「実戦のさまも見ないでは、将として不覚、かつは、みかどへおはなしも出来ぬ」
 と、三ノ宮林まで陣座をすすめ、麾下(きか)の法師旗本へ、
「敵は退(ひ)き色(いろ)、もう一ト押しぞ。ひとり岡本坊のみに、手柄を誇らせておくな。われと思わん者は行け」
 と、みずから指揮された。
 おおっとばかり、桂林坊の悪讃岐(あくさぬき)、中の坊ノ小相模(こさがみ)、侍従の定快(じょうかい)、伯耆(ほうき)ノ直源など、各※(二の字点、1-2-22)堂衆四、五十をひきつれ、戦いの中へ割って入った。
 でなくてさえ、山門勢の鋭鋒(えいほう)に押しまくられていた六波羅方は、唐崎の陣をすてて、みぎたなく潰乱(かいらん)しだした。
 しかも、街道では四分(ぶん)五裂(れつ)にたたかれ、深田や林へ追いこまれた上、大津ノ浜にはまた、叡山と同心の堅田党や和仁党の武士が、たくさんな小舟に僧兵を満載して、先廻りしていたので、六波羅の主力は、そこでもさんざんな敗北を喫してしまった。
 六角ノ判官時信、長井丹後などの六波羅の諸将は、
「このまま夜に入らば、なおどんな犠牲をぜひなくすることかも知れぬ、――ひとまず退け」
 退(ひ)き貝(がい)を吹かせて、思い思いな散陣(さんじん)のまま、三井寺の甍(いらか)へも恟々(きょうきょう)と気をくばりながら、山科辺(やましなへん)まで引きあげた。
 山も湖もいつか夕雲を赤く流して、暮色の中に鴉(からす)の声が、人の血を嗅(か)いで騒ぐのか、ひどく異様な啼きかただった。
 いや鴉だけでなく、白い夕星(ゆうずつ)の見えはじめた山門の上でも、
 わあっ……
 わああっ……
 と、人間たちの鬨(とき)の声が、その日のいくさを「勝った」「勝った」と誇り狂っていた。法(のり)の庭(にわ)を血臭い姿の剣光にうずめて、かがり火やら松明(たいまつ)やら、まるで天魔鬼神の乱舞なのだ。
 けれど、この大捷(たいしょう)の沸騰(ふっとう)も、あくる日は、もう山上に冷(さ)めていた。怪しげな※(「口+耳」、第3水準1-14-94)き声がたちまち拡まっていたのである。たれからともなく、
「なんと、行在所(あんざいしょ)の釈迦堂におわす天皇は、まことの後醍醐の君ではないぞ。どうやらあれは、偽(にせ)天子だわ」
 といわれ始めたものだった。
 登山いらい、玉座としている所は、ふかく御簾(ぎょれん)を垂れて、四条隆資、二条ノ中将為明、中院ノ貞平らが、衣冠おごそかに奉仕(ほうじ)のていを作って、めったに人も近づけずにいたのだが、衆目はいつか、簾中(れんちゅう)の人物が、みかどならぬ花山院ノ大納言師賢であったことを、ふと、覗き見に知ってしまったものとみえる。
 さあ、事だった。――蜂の巣を突ッついたような紛議である。非難、腹立ち、失望、呶罵(どば)の声など、半日のまに、三塔十六谷の様相は、一変してしまった。
「だまされた」
 とする、やり場なさを抱いて、はやくも、山を蹴ッて去る者も多く、また、
「両宮は、知ってのことにちがいない。座主(ざす)の責任を問え。執行(しぎょう)をとらえて質(ただ)せ」
 などという不穏も見え、わるくすれば同士討ちも起りかねない険悪さだった。
 そしてその夕も、鴉はギャアギャア嘲(わら)っていた。

 なにがといって、世に“味方割れ”ほど浅ましい人間の姿はない。また、その陣に在るお互い疑心暗鬼の恐ろしさといッたらあるまい。
 釈迦堂の錦旗は捲かれた。
 天皇となりすまして、偽装の御座(みくら)に耐えていた花山院ノ師賢も、いまは御簾内(みすうち)にも居たたまれず、ほかの廷臣らと共にうろうろして、
「あの騒々しさは、だまされたと怒る山法師らの声であろ。どうしたものか」
「なだめても、詫びても、いッかな耳に入れようとはせぬ」
「こんな態(てい)では、両親王のお身さえも危ぶまるる。われらの身とて、しょせん、こうしては居られまいぞ」
 と、身も空もない。
 垣の外には、たくさんな篝(かが)り火(び)が、バチバチと赤い火をハゼている。つい昼まで、ここの錦旗を守って近衛(このえ)していた僧兵らも、どこへ行ったか影もなかった。
 おそらく、その彼らまでが、離反の仲間に加わり、ここの行在所へ向って、遠くから鬱憤を言い哮(たけ)ッているものにちがいない。まるで、野獣の吠えるあらしだ。これこそ四面(めん)楚歌(そか)というものだろう。
「……なにを泣かれる」
 大塔ノ宮は、そんな中で、弟宮の宗良を、叱っていた。
 両宮の前に、かたちばかりな陣中のお膳がみえる。それも、釈迦堂の縁である。仲よくお兄弟(ふたり)して、箸(はし)をとっておられたかと思ううちのことだった。俄に……み手の箸をも投げそうな語気を高められていたのである。
「女々(めめ)しいぞ、弟宮(おとみや)。飯(いい)を食べながら涙を垂れるとは、何事かよ。女の腐ッたような」
「おゆるしください。悪うございました」
「事は、破れたが、敵にやぶれたわけではない。何とでも後図(こうと)は考えられる。これしきの蹉跌(さてつ)に、すぐメソメソするようなことで、ゆくゆく、宮方の三軍を指揮できようか」
「……あ。兄君」
「怒ったか、宗良」
「ちと心外でございます」
「言い過ぎとは思わん。なにが心外ぞ」
「……ふと涙したのは、宗良の不覚ではございましたが、わが身の途方にくれて、泣いたのではございません。……御父ぎみのことを思うて、つい」
「それが女々(めめ)しいと申すものよ。さまで父恋しくば、おもとは御父ぎみの膝を慕うて、奈良へ落ちてゆくがいい。――この護良(もりなが)は、一時いずこへなと身を潜めて、再挙を計ろう。そして天皇の御本軍をたすけ、日の昇る勢いをみるならば、ここの山門大衆など、招かずとも、帰服して来るは知れたことだ」
 そこへ、本院の執行(しぎょう)が、
「たいへんです。いよいよ物険(ものけわ)しく見えまする。護正院ノ僧都(そうず)猷全(ゆうぜん)そのほか、一ノ木戸の者どもこぞッて、六波羅方へ降参に出たとやら沙汰しております」
 と、告げて来た。
 大塔ノ宮は、うなずかれたのみである。殿ノ法印良忠を呼んで、
「そちは残れ。そして、八王子から三ノ宮林へかけ、たくさんな松明をとぼし連(つら)ねて、敵をあざむく擬勢(ぎせい)をつくれ。そのまに、われらはべつな道より、山を降りて落ち行こうほどに」
 と、いいつけた。
 これを聞くやいな、花山院ノ師賢以下の公卿も、おのおの素破(すわ)と身じたくに慌てだした。
 大塔ノ宮護良も弟宮の宗良も、その夜のうちに山門を落ちて、はやくも“落人(おちゅうど)”と変り果てた身を、暗い湖上の秋かぜに吹かれていた。
 湖畔の柳ヶ崎から、堅田舟の一ツに乗り、瀬田川をのぼって石山寺へ――という一(ひ)ト先(ま)ずの御思案らしい。
 さすが、一山のうちには、
「宮々御落去(ごらっきょ)」
 と、知って、おあとを慕う法師武者も少なくはなかった。それらの人数も前後して、陸路(くがじ)や舟で思い思い追っかけまいらせた。
 しかしまた、宮の扈従(こじゅう)でいながら宮に迷(は)ぐれて、散り散り舟にも乗りおくれたりした公卿もある。
 花山院ノ師賢など、その一人だった。
 師賢は、馬を拾って、大津の方へ駈けたが、いつか前後に味方もみえず、夜も白みかけて来る心ぼそさに、
思ふこと無くてぞ
見まし ほのぼのと
あり明けの月の
志賀の浦なみ
 などと、日ごろの歌詠(うたよ)み癖は、口をついて出たが、ついに石山寺の同勢へは落ち合えなかった。
 おそらくは途中で、敵兵に阻(はば)まれたせいか何かであろう。一時、洛外の醍醐寺辺にかくれ、やがて日を経てから、笠置(かさぎ)の山へたどりついている。
 またさきに、石山寺へ落ちられた両宮にしても、
「天皇は奈良にも御座(ぎょざ)あたたまらず、即日、金胎寺(こんたいじ)を経て、笠置へ向かわせられた」
 という情報をえたのは、たぶん次の日ごろであるまいか。
 そこでよくいう“――落ちぶれてこそ人の心の奥は知られる”――その人心を今日はまざと目に見られたことであろう。
 石山寺まで従(つ)いて来た人々こそが、まことの、二心なき者どもだったわけで、山門三千のあれ程なお味方のうち、かぞえれば今は二百にも欠けている。
 が、大塔ノ宮は、
「落ち行く身には、これでもまだ多い。わしは山伏となって、伊賀伊勢吉野にわたるつわものを募(つの)り、ややあとより笠置へ参(さん)じる。――笠置で会おうぞ」
 と、弟宮へいう。
 宗良もまた、
「わたくしはなおのこと、足弱ですから」
 と、供は小人数を希望された。そして宗良ノ宮は人目立たぬようにと、あじろの笠に、お顔をつつみ、父の天皇がいます笠置の山へ、向かわれた。
 石山を出て、大石中までは、同勢、一しょだったが、
「――さらば、笠置で」
 と、そこでみな、後日を約して、別れ別れとなった。
 しかし、いざとの別れになると、宗良は兄宮の後ろ姿を見送って、涙をためておられたが、大塔ノ宮は、単に一顧されたきりだった。
 ――男らしいというものか、烈々な壮志に燃えて他はかえりみられぬとしておられるのか、なにしろ、山野(さんや)はむしろわが家居と観(み)ているものみたいに、みるまに甲賀奥地の雲へかくれてしまった。
「いざ、急ぎましょうず」
 宗良親王についていた中院ノ貞平、四条隆資なども、宮同様なタドタドしい足どりだったが、とにかく笠置をさして、ひたぶる歩いた。

 笠置の山は、山城、大和、伊賀三国の三角点にそびえている。
 さして高くはないが、俗に“上り十八町”といわれ、胸突き坂の一方道と、嶮峻(けんしゅん)な絶壁など、個性きびしい山容だった。
 九月に入ったばかりのこと。――宗良親王は、やっとここへたどり着かれた。
 見るからに、野に伏し山に寝(い)ねて来た姿である。供の二、三の公卿たちも、びッこを曳いて、
「これは叡山より、座主(ざす)の五ノ宮のおん供してまいりし者」
 と、麓の木戸へ言い入れ、それと共に、
「ああ」
 と、意地も我慢もなく、みな、ヘタばり坐ってしまった。
 山内は、上ノ堂、下ノ堂の二聚楽(じゅらく)にかけて、岩磐を割るこだまやら工匠(たくみ)らの物声やらで、すさまじいばかりだった。……その中を、だ、だ、だッと駈け下りて来る一群のうちに、一ノ宮中務(なかつかさ)の尊良(たかなが)の顔もあった。
「宗良か」
「オ。兄ぎみ」
「ようまいられた。みかどにも、お待ちかねでいらせられる」
「叡山は、事やぶれました。面目もございませぬ」
「なんの、おもとのせいではない。いやそのために、六波羅の目もそれて、みかども、つつがのうお落ち出来たと申すもの」
「でも、破れは破れです。なんと父のみかどへ、おわびいたしましょうぞ」
「はや、それらの事情も、疾(と)く聞こし召していらっしゃる。……そして、護良(もりなが)はいかにせし、宗良はどうしてと、さすが御父情、お案じあらせられていた折だ。この兄もおる。ここの砦(とりで)の難攻不落なさまも見よ。……のう、気を強う持て、弟宮(おとみや)」
 と、尊良はその胸に、露や草の実にまみれた弟の細い姿を抱きかかえた。
 この兄宮と宗良とは、生母もおなじ兄弟だった。そしてその母、冷泉為子がすでに世に亡いひとである点でも、宗良は、
「……はい。……はい」
 と、シャクリ上げたいような兄の温(ぬく)みと、なつかしみについ浸(ひた)される姿だった。
「さあ、早よう来い」
 尊良は、手をひいたが、足を痛めている宗良の様子に、
「歩けぬか。いやむりもない。武者も喘(あえ)ぐ急坂だ。遠慮すな」
 と弟の腰を押してやりつつ登って行った。そして一ノ木戸仁王門から、二ノ木戸の塀、下(しも)ノ堂の櫓(やぐら)や矢間(やざま)などの俄な砦(とりで)工事を指さしながら、
「あの工匠(たくみ)らも、土をかついでいる者どもも、みな笠置寺の僧兵ぞ。その僧兵四百人も、心を一つに、あれあのような懸命さで、夜も日もない」
 と、それも弟を励ますためのように、いちいち足を止めては、説明して行くのだった。
 行宮(あんぐう)はなお上にあった。その行宮の南面の廊の角に一竿(かん)たかく、錦の旗が、大和、山城、河内の山野を望みつつ、へんぽんと山風を呼んでいる。
 いやこの旗は、全土の国々からの、こたえを待つものといっていい。久しき前には、日野俊基や、資朝(すけとも)から、密々に。――つい、さきごろは北畠具行から諸州へ発した密勅の檄(げき)もある。
 が、その応(こた)えよりより早く、すでに六波羅勢の先鋒(せんぽう)、また鎌倉の大軍が、近くにまで到れりと、この日もここ笠置の行宮には、早馬の報が頻々だったのだ。

 大自然は、そ知らぬ顔だ。
 秋深む移りのほかは、雲の行きかい、山の姿、きのうも今日も、変りはない。
 だが人間はついに、われからその棲(す)み家(か)を業(ごう)の窯(かま)として、自分も他人も、煮え立つ釜中(ふちゅう)の豆(まめ)としてしまった。――天下騒然、
「戦(いくさ)だ」
「いよいよ始まったぞ」
「さ、宮方へゆくか。幕府方に付いたがいいか」
 もう眼も見えない有様である。身の去就(きょしゅう)さえ、こうなってからの、うろたえだった。
 ここ笠置(かさぎ)の城は、どっちを向いても山ばかりな一孤峰(こほう)だが、世間の騒ぎや沸(わ)き返(かえ)ッている人心は手にとるように聞えてくる。――それは、どれ一つ、まとまッた人数や兵力でもないが、山城、河内、伊賀、伊勢などの地方からも、
「笠置へ、笠置へ」
 と、錦旗をのぞんで、ここへ馳(は)せ参じるやからが連日絶えず、それらの郷武者(さとむしゃ)どもの口から世情さまざまな声が、自然入ってくるからだった。
 とはいえ、参陣の衆も、これと名のある武士は一人とてない。
 いわゆる烏合(うごう)の衆なるものだ。――これを、みそなわしては、後醍醐のおむねも、公卿ばらの心のうちにも、ひそかに、安からぬものがあったのは、いうまでもない。
「具行(ともゆき)」
 と、いまも後醍醐は、笠置山上のせまい行宮(あんぐう)の御座(ぎょざ)から、侍座(じざ)の源中納言具行へ、
「すでに、秋の初めには、そこの手から、檄(げき)は国々の武門へ、くまなく飛ばしてあったろうにな」
「は。たしかに、それは」
「それにしては、なぜか、しかるべき武者の一人も罷(まか)らぬのは、不審よの」
「いや。……昨夜おそく、三河の足助重範(あすけしげのり)が、一族百名余をつれて、はやくも御麾下(ごきか)に参じました」
「それは聞いたが」
 と、憂いは、解かれず、
「三河からさえ、着いたほどだ。……摂津、播磨(はりま)、備後(びんご)あたりの武者ばらも、駈け参じるなら、はや見えてよい頃だが」
「お案じあそばされますな。やがては続々と、踵(きびす)を次いで集まりましょう。ここは、何せい山せまき土地、俄な大軍は、布陣にも混雑するばかり……。それに、糧道(りょうどう)もつづきません」
「兵糧は何としておるか」
 それには、千種忠顕(ちぐさただあき)がおこたえした。
「ここから南へわずか半里ほどに、柳生ノ庄がございまする。そこの柳生播磨守永珍(やぎゅうはりまのかみえいちん)は、弟の柳生源専(やぎゅうげんせん)と共に、武士の一番に馳せさんじた者。――兵糧一切も、その大柳生より運ばれて来ております」
「そうか」
 と、それには、ひとまず、ご安心のていだった。
 その柳生播磨守とは、後世、柳生流剣道で世に名を成した、かの柳生但馬守らの祖先なのだ。――が、当時はまだ、微々たる山間の一武族であっただろう。
 だから、鎌倉の大軍をやがてここに迎え、さらに幕府をやぶる宮方の大将とたのむには、その柳生でも足助一族でも、おこころもとない。べつに、ひそかな天皇のお心待ちは、
「正成(まさしげ)(楠木)は、なぜ見えぬか。来るべきはずの正成は?」
 と、それの御不安と、そぞろな、いらだたしさの中にあった。
「のう。人々」
 後醍醐は、お胸のものをつつみえず、ついに諸公卿を見て、お口に出された。
「かねてより聞いておる者だが、河内の水分(みくまり)ノ庄(しょう)に住む楠木正成とやらは、まだ参陣してまいらぬな」
「さればで……」
 と、侍座では、言ったきりである。
 万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、季房(すえふさ)。
 千種忠顕(ちぐさただあき)、大納言公敏(だいなごんきんとし)。
 師賢(もろかた)、具行(ともゆき)らまで。
 たれにも、それは一抹(まつ)の疑惑となっているらしい。
 正成の名が、天皇のご記憶に入っていたのは、もう数年も前からである。
 ――かの日野俊基や資朝らが、密々同志をつのるため、諸国を潜行していた頃からすでに「――河内の住人、楠木多聞兵衛正成(くすのきたもんびょうえまさしげ)なるものこそ、一朝(いっちょう)のさいには、頼みにおぼし召してしかるべきもの」とは、彼らがたびたび奏聞(そうもん)に入れていたことにちがいない。
 だから、その一朝の日とは今ではないかと、
「正成、いかにせし?」
 との下問も、故(ゆえ)なきお疑いではなかった。
 が、侍座はみな、おこたえに窮したような顔である。それをながめて、後醍醐は慨然とこう呟かれた。
「……河内とここの笠置とは、遠くもない所であろうに。……さては正成もまた、心がわりか」
 すると、末座の方で、
「いえ、楠木はさような者ともみえませぬ。思うに、何か仔細があって、御旗(みはた)の下に、参じかねているのでしょう。――御使(みつか)いをつかわし給わば、かならず罷(まか)るものと存じられます」
 と、一人がいった。
 見るとそれは、東大寺の聖尋(しょうじん)だった。
 聖尋は、地方事情にくわしいので、正成の人となりもよく知悉(ちしつ)しており、また土豪の正成にも、一族は多いことだし、隣郡との一致もなければ、不用意には起ちあたわぬことでもあるし……と、その難しさを、説明した。
「げにも」
 人々は、うなずき合って、
「一族多くを持ち、また名のある武士ほど、四囲の事情もむずかしく、俄に起てぬとは察しられる。……したが、かつては日野朝臣(あそん)とも幾たびとなく会うていた正成が、ここへ姿を見せぬは、ふた心にちがいない」
 と、内々心にあった失望を、みな口々にもらし始めた。
 しかし聖尋は、望みをすてず、あくまで召しの勅を降(くだ)さるべきだ、と主張していた。――おそらくは、その夜にでも、ふたたびまた、彼と藤房などが、玉座のあたりへ、ひそと、すすめたのではなかったろうか。
 あくる朝のこと。
 上(かみ)ノ堂(どう)の行宮(あんぐう)は、ご寝所も、常の陣座の間も、まことに手ぜまな所だったが、そこへ御出座あるやいな、尊良(たかなが)、宗良(むねなが)の二皇子へたいして、
「昨夜は、奇異な夢を見たわえ。……日ごろ、めったに夢などは見ぬわが身だが」
 と、おっしゃった。
「え、奇異なお夢とは、どんなお夢を?」
 尊良親王は、興がった。父ぎみの今朝のお顔から見て、吉瑞(きちずい)のように思われたらしい。――はや出御(しゅつぎょ)とあって、仮屋(かりや)のうちの公卿たちも、あらまし姿を揃えていた。
「吉か凶か」
 天皇は独りいわれた。
 やがて、玉音(ぎょくおん)しずかに、
「たれぞ、夢占(ゆめうら)を立ててみい。その夢とは……」
 と、次には一同へ向って、ゆうべの夢の“夢ものがたり”を話しだされたのであった。
 ――そこは、どこか。
 夢の中なので、さだかでない。
 いちめんな敷き砂は、春の浦波のような箒目(ほうきめ)を描いている。
 はて、見たような所と思って見まわすと、紫宸殿(ししんでん)の広庭にちがいない。けれど「右近(うこん)ノ橘」「左近ノ桜」は見あたらず、そこには一本の大きな常磐木(ときわぎ)だけがそびえていた。
 その木は、何の木やら?
 薫々(くんくん)と、えならぬ香気を放ッている。
 さらに仰ぐと、葉はみな、南へよく茂り、わけて勢いのいい南枝(なんし)の一つは、中天の龍みたいであった。
「ここよ」
 夢の中で帝はおもう。
「……いまは幕府に追われて都門を捨て、紫宸(ししん)の廂(ひさし)もない身であった。たのむ木蔭の宿は、これだろうか」
 と、涙しながら佇(たたず)み寄ると、こずえの空から虹(にじ)のごとき彩雲が降りてきた。――見れば、雲に乗った二人の童子で、
「わたくしは、弥勒菩薩(みろくぼさつ)のみ使いです」
 と言い、もひとりの童子も、それに倣(なら)って、
「わたくしは、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)のおいいつけでまいりました」
 と、あきらかに告げた。
 そして、その二童子のいうことには、
「大いなる宇宙の循環は、人間の知恵では測り及ぶところではありません。武家の大逆もさることながら、ここしばしは、日月(じつげつ)も暗(くろ)うなり、至尊(しそん)たりとも、天(あめ)が下(した)にお身を隠す所すらない乱れを地上にみるでしょう。――けれどこの大樹の蔭、南枝(なんし)のさしている方角こそ、つねにお身をおくのに安泰な御座(ぎょざ)です。なにかにつけ、南枝をたよりにおぼし召しあるがよろしからんとのおさとしにござりまする」
 朗々の声が、現(うつつ)の外でしたと思うと、童子は見えず彩雲は消え、そして小鳥のさえずりや、笠置の朝の寒風に、
「……夢か」
 と、眼ざめ、さめての後までうつらうつら、
「不思議な夢をみるもの」
 と、今朝は思いつづけられたことであった――と、ここで天皇は、その“夢ものがたり”の話を切った。
 始終、人々は聞き入っていた。あらかたは、聖慮を酌(く)んでいたのである。――が、畏(かしこ)んで、
「お夢は、まさに吉夢(きちむ)と申すものでございましょう」
 と、まず藤房が答え、つづいて公敏(きんとし)や忠顕(ただあき)らも、口をそろえて、いい囃(はや)した。
「行宮の下の岩壁には、年月もわからぬほど古い弥勒(みろく)、虚空蔵(こくうぞう)の二菩薩が彫ってある」
「お夢に現われた童子とは、そのみ使いであったものか」
「亭々の一樹(じゅ)は、南の木。このあたりに、楠(くすのき)という者がいるのであろう」
「ならば、きのうもおうわさに出た、楠木多聞兵衛正成をさすのでしょうか」
「それよ、それをたのめとの、ご夢告(むこく)にちがいない」

 余談となるが。
 天皇軍の笠置備えにあたって、旗上げ第一の重要事となった、
“主上お夢の事”
 は、古くから有名なはなしであって、かつては国民伝説ほどな力をもって、諸書に語りつがれて来たものである。
 これが「古典太平記」を元として、なんら拠(よ)りどころない一場(じょう)の架空談とは、史家の史説をまつまでもなく、現代人には、わかり切っていようというもので、私本太平記の筆者もまた、夢そのままを、おしつける気は少しもない。
 しかし、否定はやさしいが、否定に伴う確証は一こうない。たんに「夢」などとは受けとり難いとするだけの論のようだ。
 ところが、古人の夢の扱いは、現代人とはたいへん違う。夢告、夢想、吉夢、凶夢――そして夢占(ゆめうら)などもおこなわれていた。
 つね日ごろの、たあいもない雑夢はとにかく、何かのときは、人間の夢も、神や仏に通じるものと観(み)、あだし事とはしていなかった。――例は、歴史の中にもたくさんある。
 だから、笠置での天皇とその側近が、意識して、
「奇異なお夢見」
 を作為して、利用していないとは決していえまい。
 北条幕府の天下を向うにまわしての、展陣の第一歩だ。
 こんな大勝負へのぞむさい、もし元来の武将だったら、かならず士気を考えよう。大いにそれを振るわすため、途上の神仏に願文(がんもん)をささげ、また何らかの奇蹟を行い、三軍を沸騰(ふっとう)させて出向くのを常道とする。兵法として、はばかるまい。
 いわんや、笠置の今。
 地勢こそ嶮(けん)だが、また、草木もなびくべき天皇旗だが、いたずらに山風寒いのみで、馳(は)せ参じてくる者といっては、微々たる小族烏合(うごう)の輩(ともがら)ばかりだった。
 おそらくは、側近輩(ばら)も、
「案に相違したことよ」
 と、ここ数日の情勢をみて、うたた心細さに耐えなかったことでもあろう。
 とはいえ、彼ら若公卿たちは、新しい宋学(そうがく)にもふれ、宋代の兵法書にも精通していた。この貧しい孤軍の士気を考えないわけはない。
 なおまた。
 楠木正成一族を、この不利な陣へ招き入れる策としても、御夢は、ただの“みことのり”にも増して、大きな感激を正成にあたえるものと思われる。
 と、すれば、策を立てたのは誰だろう。後醍醐ご自身か、藤房か、聖尋(しょうじん)か。――ともあれ、その朝のことは、全山の将士にもすぐひろまった。そして、
「ここの弥勒菩薩(みろくぼさつ)と、虚空蔵(こくうぞう)菩薩が、みかどの夢枕に立たれた」
 と、称(とな)えあい、中腹の岩壁像のまえでは、山の律師(りっし)、成就坊(じょうじゅぼう)たちが、盛大な戦勝祈願を執(と)りおこなった。そして式には、天皇以下も列せられて、その場から、万里小路藤房へ、
「すぐさま、河内へ行け」
 との御命(ぎょめい)がくだった。
 勅を拝すと、藤房はすぐ身装(みなり)を変えて、陣中を立った。――九月初めである。わざと従者も多くは連れなかった。――さはいえ任は重い。正成のこたえも予断はゆるされていなかった。

 柿は赤い。
 烏(からす)は黒い。
 南河内の山里は、そう二つの物が、いとど秋を深めている。
 農家では当然やるが、楠木家の館長屋(たちながや)でも、大勢の召使が、老幼のべつなく、今は柿の皮ムキに忙しそう。
 干し柿は、無上な冬の甘味だった。それに、その白い粉を竹ベラで掻き溜めたものは――まだ砂糖などということばもないが――砂糖代りの上菓子に用いられ、蜂蜜や甘葛(あまずら)などより、はるか貴重な食品となる。
「久子」
 正成は、庭でよんだ。
 庭はひろい。金剛山を真正面にのぞみ、千早川(ちはやがわ)を崖下(がけした)にめぐらしている丘陵のここ一角は、庭といっては当らないほどな山間の自然を、ひっそりと、抱きかかえていた。
「おや。そちらでしたか」
 久子は、いちど、良人の声を、居間の方へさがし廻って来たらしく、
「いつのまに」
 と、ホホ笑みながら、秋の日の下に、さも徒然(つれづれ)らしく佇(たたず)んでいる良人の姿を、まぶしげに、廊の端から見まもった。
「どうしたかの?」
「爺(じい)をおさがしでございますの」
「いや、多聞丸(たもんまる)(正行(まさつら))よ」
「見えませぬか」
「また、川遊びかと思うて、崖をのぞいてみたが、今日は、どこの子供らの声もせぬ」
「では、きっと下屋(しもや)ノ衆(しゅう)の中に交じって、柿ムキに興がっているのでございましょう。午(ひる)見たときも、手の指を渋で黒うしておりましたから」
「はははは。奴、柿ムキをやっておるのか」
「呼んでまいりましょう」
「いや、放っておけ。下部(しもべ)の者や、長屋の子らと、一つになっているなどはいいことだ。……なあ久子」
 正成も、縁へ来て、妻のそばに腰かけた。そして、指さしながら言った。
「あれみい。そなたが、この楠木家へ輿入(こしい)れの日に、実家(さと)から移し植えた柿苗も、はやあのような木になって、大きな実をつけ出している」
「秋の来るたび、わたくしも、あの若木の伸びが、目に入ってなりませぬ」
「早いなあ」
「もう、多聞丸をかしらに、二郎(正時)、三郎丸(正儀(まさのり))。三人の母となりました。柿も実を持つはずでございまする」
「むむ、そこでさて、夫婦(ふたり)の仲の柿の子は、まだ渋柿やら甘柿やらも分らんなあ。たのむぞ、親根はそなただ」
 南河内には、古い習慣がある。――嫁に行く折、柿の苗を持ってゆき、嫁(とつ)いだ家に植えるのだった。――やがて子を産みつくし、働きつくし、かつての花嫁も婆となって死ぬと、共に老いたる柿の木も伐(き)って、薪(まき)とする。そして、その薪(まき)で火葬に付(ふ)されて終るのが、女の一生と約されていた。
 だから、秋々の柿の育ちと、実の赤さは、女の眼には、女の短い一生に物を思わせる――。
 と。そのとき、
「や。ここでおざりましたか」
 爺(じい)の恩智左近が、うしろへ来ていた。
 閑(しず)かなお主(あるじ)の姿とちがって、老臣の彼のひとみには、戦下の世音(せおん)が、ギラギラと爛(ただ)れている。
「爺か」
 よいところへと、正成は彼の赤ら顔へ、すぐいいつけた。
「何やら徒然(つれづれ)……。侍女(こしもと)に申して、茶でも入れさせて来ぬか。……そしてな左近、そちもここで、秋の日を愉(たの)しめ。好い日だわ。久子もこれにおる」
 だが、爺の恩智左近は、ひどくむッそり面だった。
 お家大事と仕えている日ごろの老臣ぶりも、どこへやらである。答(いら)えもせず、廊へ坐って。
「殿っ」
「なんだ、きつい眉して」
「ただ今も、領下の者より、奈良、笠置あたりの沸(わ)くがごとき騒ぎを、矢つぎ早に、お表まで告げまいりました」
「そうか」
「昨夜は昨夜でまた、都からのお飛脚。――ご親戚(しんせき)の玄恵法印(げんえほういん)さまより、事つぶさに、これも楠木家を案じられてのご情報で」
「そうだったなあ」
「はアて?」
 ひと膝、ゆすって、
「殿には、なぜ、そのように、ひと事みたいに仰っしゃいますのか」
「そちこそ、なんでまた、度(ど)を失うのだ。ここ幾日も」
「度を失わずにいられましょうか。天下は真二ツに割れ、おそれおおくも、時のみかどは、わずかな手兵を召されたのみで、笠置(かさぎ)にお籠(こも)りと聞えますのに」
「たわけ、それがどうしたと申すのだ」
「な、なんと仰っしゃいますか」
「それとわが家と、なんのかかわりがあろうぞといったまでよ。わからぬか」
「わかりませぬ」
 爺は、その白髪な童顔に、柘榴(ざくろ)のような色を吹いて、断乎(だんこ)と、日頃にもなく意地張ッた。
「いまの仰せは、魔でもいわせたか。何ともはや、わが殿のお旨とも聞えませぬ。……この爺(じい)めは、ご先代正遠さまの代から仕え、あなた様がまだお洟(はな)を垂らしていた頃からの下郎(げろう)ではございますが、かつてまだ、そんな呆(ほ)うけたお方とは、存じませなんだ」
「呆(ほ)うけたは、正成のみではない。天(あめ)が下(した)みな、どうやら、瘋癲(ふうてん)にでも罹(かか)った気味。――流行(はや)りの時宗踊(じしゅうおど)りも笑えまい」
「いったい、何がお気に食わぬのでござりますな」
「世のすべてだ。……されば、茶でも喫(の)もうよと申せば、老臣のそちまでが、はや瘋癲病(ふうてんびょう)とは助からぬことだわえ。……お、久子」
「はい」
「おくで乳のみの三郎丸が泣いているではないか。行ってみてやれ」
 久子はすぐ立ちかけたが、良人の悩みはよく分っているし、爺の気もちもむりではないと察しるのである。眸で、爺の眸をなだめ、そして後ろ髪を引かれるように奥へかくれた。
 それと、入れちがいに、
「案内(あない)はいい」
 と、客殿の角から、小侍を追い返す声がしていた。――久子の実兄にあたる松尾刑部季綱(まつおぎょうぶすえつな)だ。
 刑部と知ると、爺は、味方をえたように声をかけた。が、刑部は近づくなり言った。
「どう召さる! 正成どの。あなたの態度に業(ごう)を煮(に)やして、ついに舎弟(しゃてい)正季(まさすえ)どのは、自分だけの手勢を作って、たった今、龍泉(りゅうせん)の屋敷を捨て、笠置(かさぎ)へ行くと広言して出発したそうですぞ。イヤどうも弱ったものだ!」
「えっ、正季が」
 さすが正成も、それには色をなしたのだった。すっと立って、
「ま。こちらへ」
 と、書院の内へ、季綱(すえつな)をつれて入った。爺の左近も、季綱のうしろに坐った。
「刑部(ぎょうぶ)(季綱)どの。……いつ聞いたのか、そのことは」
「つい今しがた。しかし、笠置へ参陣の用意は、こっそり、おとといあたりからしていたらしい」
「おろかなやつ」
 そこに弟をおいて、叱りつける時のような正成だった。
 ありありと、その感情が、右の眼にあらわれている。幼少のとき、ソギ竹で突かれた右眼のまぶたが、ぴくぴく痙攣(けいれん)するらしく、しいてそれを閉じている。ために少し顔がゆがむ。
「して、人数は何ほど連れて?」
「よく分りませぬが、龍泉(りゅうせん)の郎党はもとより、日ごろ語ろうていた附近の若者ばらも糾合(きゅうごう)し、かつは中院(ちゅういん)の雑掌俊秀(ざっしょうとしひで)も、けさから姿を失せたといわれております」
「中院(楠木家の菩提寺(ぼだいじ))の者までもか」
「はい。……いや観心寺の法師らなどは、寺中でおこなわれた激論の座を蹴って、十数名の法師が、笠置へ参(さん)じたとやら聞きおよびます。それも、一昨夜のこととか」
「ああ、ここもはや騒然だな」
「すててはおかれますまい」
「いかにも、すててはおかれん。……爺(じい)」
「はっ」
「馬をとばして、弟正季を、すぐ呼びもどして来い」
「仰せですが、思いきわめての、武士の出陣。お返しあろうとは思われませぬ」
「いや何でも帰れと申せ。帰らねば、義絶あるのみと」
「そんな、ご無態(むたい)な」
「無態でない」
「でも、どうお急ぎありしか、道筋もわかりませぬで」
 と、爺は頑としてうごかない。つまりは内心では、正季に同調しているものなのだ。
 それも、正成には分っている。それだけに、きびしく命じた。
「分らいでか、爺。まっすぐ笠置へ行くはずはない。正季をかしらに、日ごろ同心の近郷の輩(やから)が、日をしめし合わせ、ひとまず加賀田の毛利時親どのの山荘に集合するものと思わるる。――加賀田まで、わずか小二里。すぐまいれ。……否というなら、そちも勘当する。まいらぬか、爺っ」
「ぜひもござりませぬ」
 爺は首を垂れた。――勘当も辞さぬ反抗かとみえたが、やはり老臣は老臣、
「……行(い)てまいりまする」
 と、やっと腰をあげた。
「刑部どの。すまんが、弟をはじめ気負い立った若者ばらのこと、爺の説得(せっとく)だけでは心もとない。加賀田まで、お辺(へん)も共に、一(ひ)ト鞭(むち)あててくれまいか」
 ふたりを、そうして急がせた後で、正成は独りふかい思いに沈んだ。一族のたれよりも、一世の鳴動は、彼のおもてを深刻なものにしている。それを聴(き)く心耳(しんじ)を持たない正成ではない。
「……お。多聞丸か」
 ふと、後ろから抱きつかれた小さい手をにぎって、彼は、父の笑顔を振り向けた。
「柿ムキをやっていたのか。多聞丸、黒い指だなあ」
「お父さま、いま御門の外へ、きれいな女の客人(まろうど)が来ましたよ。笠を持った旅の女のひとが」
「ほ。女の旅人が来たと?」
「ええ、御門へ」
「いや、よう下屋門(しもやもん)へ来る販(ひさ)ぎ女(め)(物売り)であろ。……多聞丸、まあそこへ坐れ」
「なんです、お父さま」
「毎日、勉強に通っているか」
「います」
「今日はなぜ休んだ?」
「中院のお師匠さまが、当分、御用が多いンですって」
「龍覚坊(りゅうかくぼう)さまが、そう仰っしゃったのか」
「え。中院でも観心寺でも、わいわいお坊さんたちが騒いでましたよ。戦争になったんですッて。……ほんと、お父さま」
「ほんとだ」
「じゃあ、お父さまも合戦に行くんでしょ」
「行かない」
「なぜ」
「おまえらが、可愛いから」
「でも、うちは侍でしょ。侍たちのお父さまは大将でしょ」
「だから行きとうない。たくさんな人間を死なすからな」
「だッて、仕方がないや。多聞もあしたからは、中院のお師匠さまへ通うのを止めて、加賀田の時親先生のとこへ行ってはいけないでしょうか」
「加賀田の隠者(いんじゃ)の許へ、なにを習いに」
「兵学です。多聞丸もそろそろ兵学を習わなければいけないぞと、いわれました」
「たれが、すすめたか」
「龍泉の叔父上が」
「正季がか。……はははは」
 正成は、子の背をなでた。
「まだ早い。急ぐことはない。それよりも、龍覚御坊について、学問に精を出せ」
「でも、戦(いくさ)になると、その学問もできなくなるし」
「そしたら、自分でやれ」
「叔父上がいいましたよ」
「なんと」
「お父さまだって、小さいときから、十年の余も、毎日毎日兵学を習いに、雨風の日もなく加賀田へ通ったのだ、だから多聞よ、おまえもやれって」
「正季はそういったろうが、この父はな、ほんとのところは悔いている。ほかにしてよい学問はたくさんあった。それもせずに、なぜ兵学一途(いちず)にあの頃は夢中になって通ったろうか。……時親先生は偉(えら)いお人に相違ないが、なにか人界の外にあって妖(あや)しく光る不気味な凶星(まがつぼし)みたいなお方でもあってな。……あの山荘に集(つど)う若者は、みな先生の魅力にとり憑(つ)かれてしまう」
「そう?」
「そうなのだ。それに憑(つ)かれてわしも一心不乱な頃、夜道の戻りに、加賀田川の崖ですべッて、これこの通りソギ竹で右の眼を悪うしてしもうた。これだけが身について残ったものだ。兵学などは、身にとっても人にとっても、いちども益となったことはない。……だからの」
 ふと、正成はその右眼のわるい横顔を振り向けて、細殿の小暗がりを来る白い顔を待って言った。
「久子か」
「はい、久子でございます。めずらしいお方がただいま御門へ見えられました。卯木(うつぎ)さまと仰っしゃるお妹(いも)さまが」
「え、卯木が来た?」
「これへおつれいたしましょうか」
「ま、まて」
 正成はむずかしい顔いろを、俄に沈めた。
「……折さえあるに」
 久子を待たせておいたまま、正成は考えこむ。
 ここの山里も、もう平和とはいえない。――血気な正季などは、日ごろの同気をかたらって、はや無断、陣立ちしたと知らされて、気が気でなく、呼び返しにやった使いの吉左右(きっそう)を、待たれているところなのだ。
「夫婦(ふたり)でか。……卯木は」
「いいえ、おひとりのようでございまする」
 久子は恐々(こわごわ)こたえた。
 それほど正成の容子は、愉しまないものに見える。
 何でであろう。あんなにも妹思いな――そして去年の夏ごろ、その妹のつれあいという者と一しょに、そっとこの水分(みくまり)へ頼ってきた時は――あれほど妹夫婦の身を思いやっていた肉親の兄正成が、どうして今日はと、久子には、良人の眉の彫りがわからない。
 で、もいちど。
「のう、わがつま。お通し申してもおよろしいのでございましょ。……多聞(たもん)、お客さまじゃ、そなたは、こちらへ来やい」
「いや、通すまい。……久子、卯木を内へ上げてはならぬ」
「ま、なぜでございますの」
「そちも聞いているはず。幼少から仕えている西華門院(せいかもんいん)のお内を、情夫(おとこ)ゆえに逃げ退いて、女院のお名にまでご迷惑をかけたみだら女(もの)」
「が、そうした事情(わけ)もご存知のうえ、去年は正季どののおやしきで、あなたさまも夫婦(ふたり)の者へ会うてやり、あの大あらしの夜を領外へと、見送って上げた程ではございませんか」
「いやあの折も、二度と故郷へは立ち寄るなといってある。武門の兄などあると思わず、良人のこころざしを扶(たす)け、ただ倖せに世を送れと」
「でも、せっかくおいでなされたものを、あなたさまにも似ぬ無慈悲な仰せ。傷(いた)ましゅうて、久子にはお取次ぎができませぬ」
「無慈悲――。そちにさえ、そう聞えるか。……そうだのう」思い直したふうで。「むごいと思い違えたら、いとどあわれな者をいたずらにまた悲しませよう。久子、内へは上げることはならぬが、庭の亭(ちん)へでも廻しておけ。わしは後から行く」
「ありがとうございまする」
 久子は多聞丸をつれていそいそ去った。じつはもう、その卯木は、自分の部屋へ通して、何かと、いたわっておいたのであるが、それとはいわずに退がったのだ。もちろん、卯木へも深いことは告げない。
 しかし、卯木にすれば、ほぼ兄のむずかしさも察しられている。だから、ひとたび脱いだ女草鞋(わらじ)をはき直して、杖や被衣(かずき)を手に、厩(うまや)の横から庭門をまわり、そして人気もない亭(ちん)へ身を運んで行ったにしろ、
「冷たい兄の仕打ち」
 とは思われなかった。
 さらに、やがて正成に会ってみれば、忘れもえぬ去年のあらしの夜に会ったあの時の兄と、少しも変らぬ兄だった。
「卯木よな。女ひとりで、ようここまで来られたなあ。諸所、戦(いくさ)の血迷いで、旅路もたいへんであったろうに」
「はい。……その戦が起ったため、良人の元成(もとなり)どのも、元の武士に返らねばならないことになりました。それで、ただもう一心に……」
 千早川の水音が、崖下から吹き上げてくる。
 ここも庭内だが、呼ばぬかぎりは人の来るはずもない。――正成のむねには、左近と松尾刑部(ぎょうぶ)が呼び返しに行った正季の返答如何(いかん)が、切々(せつせつ)案じられてはいたが――しばしは眼のまえの卯木に、自分を貸していた。
「ああ」
 妹のはなしにも、彼はまた大きく嘆息をもらした。
「……では何か、そなたの良人元成(もとなり)も、ついに芸道への望みもすて、以前の武家に返らねばならなくなったか」
「はい。……この一年あまりは、具足師の柳斎に匿(かくま)われておりましたが、その柳斎も、夏の初めから行方知れず、ぜひなく、知り人の仮面師(めんし)の手づるで、住吉の楽座(がくざ)へ入り、太鼓打ちなどしておりましたが」
「むむ」
「良人の養家、伊賀の小馬田(こまた)の領主、服部信清どののご家来などが、わたくしたち夫婦(ふたり)のものを、八方さがしていたのでございました」
「伊賀へ帰れとか」
「はい。……でも良人は、たとえ、ご勘当はゆるされても、帰る気はない、とうに武士は捨てたと、言い切ッておりました。なれど何せい養父御(おやご)の長のお病気(いたつき)やら、思いもかけぬ戦乱となりましたので」
 みなまで聞かず、それは想像に難くなかった。
 現(げん)に、楠木家の内ですら、この正成がいてすらも、きのう今日は、この通りである。
 おそらく、伊賀方面も、在所(ざいしょ)在所の郷武者まで、わき返っているのだろう。――そして北条方の者、宮方の者、おのおの虎視眈々(こしたんたん)と、睨(ね)めあい出したにちがいない。
 いずこもおなじだ。この南河内もそれだ。
 必定(ひつじょう)、卯木の良人、治郎左衛門元成の養家先でも、そのごッた返しやら、当主の病などで、どうでもここは勘当の人、元成をよびもどして、家中の態勢をととのえねば、この動乱に耐えまい、となったものか。
「おそろしいものよ。……始まったばかりな戦(いくさ)だが、もうその波及(はきゅう)は、こんなしがない夫婦の上にまでかかって来ている」
 正成はしんそこ恐れた。
 もし「世に恐ろしいものは何?」ときけば、正成は戦と即答するにちがいない。それほど今の彼は、平常心の理性に、身の毛をよだてていた。
「ぜひもない。……それでそなたも良人も、これより伊賀へまいるのか」
「ええ、元成どのは、迎えのご家来たちに囲(かこ)まれて、一日の仮借(かしゃく)もなく、もう伊賀へ立たれました。ただわたくしは、こうなる以上、ご無事のうちに、ひと目でも、お別れをしてゆきたいと存じまして」
「無残だのう。せっかく、望みを持って、そち夫婦だけは、まあ無事に世をすごすことかと思うていたに。……して、元成の養家服部どのは、宮方か、鎌倉方か」
「そこは、何もわかりませぬ」
「わからぬはずよ」
 あわれむように言ったとき、足音烈しく、庭門から駈けこんで来た者があった。待たれていた、爺の左近と刑部だった。
「もどったか、爺っ」
「はっ」
「刑部どのにも、ご苦労でおざった」
「さぞ、お待ちかねならんと、気はせきましたが」
「して、弟の正季は」
「ご明察にたがわず、日ごろ、よく寄り合う加賀田の山荘に」
「おりましたか……」
「正季とその郎党だけでなく、天見(あまみ)ノ五郎、中院(ちゅういん)ノ雑掌俊秀、高向甲斐(たかむきかい)、隅屋新左(すやしんざ)。まだまだ、かぞえきれぬ者どもが」
「同勢どれほど」
「三百には足りますまいが、なおまだ、紀伊、和泉などから駈け合う同志を待って、こよいは時親どのの山荘に明かし、あすあたり、旗鼓(きこ)堂々、一路笠置へのお味方に馳(は)せ向う所存――と、いやもう、たいへんな」
「そして」
 二人の復命につりこまれて、正成もつねにない急(せ)き込みかたと唇(くち)の渇(かわ)きをみせた。
「正成の旨は、弟正季へ、しかとお伝え下されたか」
「もとよりです。懸命にお諭(さと)しつかまつッた。けれど、耳にもかけるふうではない。……兄者(あにじゃ)には、ここ数日、泣かんばかり出陣の儀を、おすがりもし、言い争いもして、しかも肯(き)かれなかった上のことだ、と」
「…………」
「じゃによって、決して、無断の出陣などではない。兄者とて、ご合点(がてん)のこと。――それを今さら、追ッかけ使いを飛ばして来て、途中より引っ返せなどとは、兄者もすこしどうかしておられる、と逆(さか)ねじを報(むく)うて来るような始末でおざった」
「ちっ……」
 正成は、舌打ちした。どこかを抉(えぐ)られるように、おもては、血をひいていた。
「さても、しょむない弟め。……どうしても引っ返さぬとあらば、義絶もすると、そこまでをお聞かせあったか」
「義絶もぜひない――と、一言(ごん)の下にいわれるのです。古来、兄と弟、叔父甥(おい)なども、戦(いくさ)となっては、思いを違(たが)え、別れがたい骨肉も、別れるためしはままある慣(なら)いと」
「さまでな形相(ぎょうそう)とは」
「正季一人のみか、辺りの面々までが申す。もう正成どのが、われらの笠置参向(かさぎさんこう)を阻(はば)めるなら、一戦も辞すまいなどと、声も猛々(たけだけ)、言いののしる有様だ。これでは、かれらの火に油をそそぐばかりと、ひとまず、ご賢慮を伺いに立ち帰った次第でござりまする」
「…………」
 正成の影は氷ったもののように見えた。いつか四辺は暮れかけていたのである。金剛山は藍(あい)のなかに、四日月の光が細い。そして千早川の水音だけが、地底からのものみたいに淙々(そうそう)と俄に寒さをおもわせる。
「……よしっ。わしが行こう」
 正成は、卯木もそこにおきわすれて、大股に庭門、厩門(うまやもん)と急ぎ抜けて、
「馬を。――馬を曳け」
 と、侍長屋へ呼ばわった。
 そして往来へ出た正成の姿が、黒鹿毛(くろかげ)の狂いを乗りしずめて、鞭(むち)を小手に持ち直したときだ。
 彼方からヒラヒラ見えた松明(たいまつ)と二、三の人影が、
「勅使です。勅使です」
 と、警蹕(けいひつ)のように叫びながら走って来た。

 勅使もただの勅使でない。
 ――笠置からわずか三日路たらずの道も、千里潜行ともいえる辛苦をなめて来たであろう藤房(ふじふさ)。
 たそがれ前に、錦織(にしごり)の金剛寺の別坊にたどりつき、
「みことのりを帯びて、楠木家へ下向のもの」
 と、告げたので、坊中の驚きとなり、すぐさま彼のために、輿(こし)を仕立て、坊の人々が松明(たいまつ)を打ち振って、その先触れに駈けて来たものだった。
 ちょうど、門前での出会いがしらだった正成は、
「え。勅使?」
 と、立ちすくみ、恐懼(きょうく)と共に全身は、なにか雷気(らいき)をふくむ黒雲の中にでも立ち暮れたような茫然を見せ、
「……み使いとあっては」
 と、余儀なげな姿を駒の背からすべらせた。
 おそらく彼もこんな山家の門へ、勅使を迎えようなどとは、思いもかけぬことだったろう。光栄などという思惟(しい)で心をかざる気にはなれない。
 それはむしろ困惑だった。人には人の世に処(しょ)する考え方や生き方もみなちがう。彼はこの山間に、凡々とただ生を安んじて来たひとりに過ぎない。たとえば、岩間の石楠花(しゃくなげ)かつつじの如きものだ。山の花は誰の来訪も好んではいない。また宮苑(きゅうえん)に咲くことも欲しない。まして砦(とりで)の石垣に――と正成は密(ひそ)かに思う。
 だが、ともあれと、
「爺(じい)。――いそいで、おくの書院を清めておけ」
 と、命じ。また、松尾刑部に駒をあずけ、何くれとなく、勅使迎えの礼に欠くなきようにいいつけたりした。
 ――まもなく輿(こし)が見えてくる。
 それも貧しげな山輿にすぎなかった。供は坊の者四、五人。藤房のつれていた従者らしいのがやはり四、五名。
「…………」
 正成は、門側にひざまずいて、輿から降りた人影を礼拝した。――藤房も坊で休息中に装いをあらためたか、中納言の衣冠(いかん)をしていた。チラと正成を見、会釈(えしゃく)だけしておくへ通ってゆく。――ほぼ正成と同年配の三十七、八とながめられた。
「おもてなしにも粗相あるな」
 家臣へいって、正成は遠くの部屋で身清めやら衣服のかえにかかった。さすがに久子は極度な緊張におそわれている。良人の着がえをみるやら、厨(くりや)へ行って、もてなしのさしずをするやら、ただならない。
 やがて、土豪造(どごうづく)りの楠木家の古い館(たち)のうちも、まったく人なきもののように、ひそまり返った。――すべての者が、遠くへ退(さ)げられ、勅使、万里小路(までのこうじ)藤房のいるところの燭(しょく)だけが、
「あるじや何時(いつ)?」
 と、待ち澄まされていたからだった。
 正成は、しずかに廊をつたわって、勅使の前へ出た。
“兵衛(ひょうえ)”なる官職名だけはあるが、それは名だけのものにすぎない。いわば一個の山家侍だ。――著名なる“天皇側近の三房”の一人宣房(のぶふさ)の嫡(ちゃく)、中納言藤房のまえでは、勅ならずとも、はるか下賤(げせん)な地下人(じげにん)だった。
「多聞兵衛正成は、わたくしでございまする」
「あなたか。儂(み)は」
 と、藤房も名のった。
 正成は言った。
「かかる山家へ、みかどの御使(みつかい)とは恐懼(きょうく)にたえません。そも、何事でございましょうか。ごらんのような、名もなき、田舎(いなか)武門のあるじなどへ」
 藤房もまた、あらたまって。きっと姿をただした。
「勅(ちょく)です。――つつしんで、うけたまわられい」
「は」
「かねがね、主上(しゅじょう)におかせられては、河内の楠木こそはと、深く頼みとしておわせられた」
「…………」
「しかるに、今もって、笠置(かさぎ)への参陣なきゆえ、楠木はいかにせしか、正成はまだ見えざるや、との御下問もいくたびか。……ついに、この藤房をもって、かくは親(した)しゅう、お召(めし)のみことのりを降(くだ)されたもの」
「…………」
「まこと、古今に例もないことです、破格なお沙汰じゃ。ご当家としても、大きな誉(ほま)れ、武家としては、冥加(みょうが)この上もないお仕合わせではあるまいか。……兵衛(ひょうえ)(正成)。ありがたくおうけなされい」
「はっ。……お答えつかまつりまする」
 正成は、深く額(ぬか)ずいて。
「げにも冥加にあまる御諚(ごじょう)、有無(うむ)なく、おうけ申しあげるべきでございましょうが、元々、さしたる力は持たず能(のう)もなき正成。とてもおん頼みにこたえ奉るなどは、思いもおよびません。ひらに御辞退申しあげまする」
「なに」
 藤房は、愕(がく)と、つい姿を崩(くず)して、唇までをわななかせた。
「お受けあらぬと申さるるは、鎌倉方への義理立てか」
「されば、武家と名のつくもの、いずれも鎌倉に多少の恩縁なきはありません。が、わが家は父祖いつの頃よりか、北条どのとの縁もうすれ、水分川(みくまりがわ)の水利やら、寺社の用などつとめて、家の子郎党を養うてまいりました。……ゆえに、申さば独歩の野党、悪党楠木の名を得ております」
 うすい自嘲が声にかすれた。――悪党楠木の聞えは、かつて河内野を風靡(ふうび)した時代もある。それは藤房も知っていた。けれど“悪党”の称は、悪人の意味ではない。こわらしき者、理不じんな者、命しらずの侠(きょう)なる者への愛称にすらつかわれる。
 かつて、日野俊基が、文談会などの席で語ったことばに「――そういう輩(やから)なればこそ、たのもしいのだ。野性といえば、天下の武家みな野人だ。悪党というなら、ひとり楠木党だけでもない、あの辺の土豪はみな悪党よ」と、いったのを、藤房は今ふと思い出していた。
「あ、いや」
 藤房は、自分をたしなめて。
「失言でした。人もあろうに、あなたを鎌倉方へ二の足か、などと申したのは儂(み)の言いすぎ。つゆ、そのような疑いは持たぬ。また、悪党楠木とご卑下(ひげ)だが、悪左府(あくさふ)、悪源太、悪七兵衛(あくしちびょうえ)、それもよからずや、と申しあげたい。――ともあれ、笠置の主上には、お待ちかねであらせられる」
「おん前、なにとぞ、よろしきように」
「と仰せらるるは」
「しょせん、武も才もなく、ただ、土くさいのみの田舎武者、おわびのほかはございませぬ」
「では、どうあっても?」
 藤房はあやしんだ。
 おおむね、世の武士とは、いかに強くて富裕な守護大名でも、みんなガツガツしているものと、公卿眼(くげめ)では見える。
 彼らはなべて、位階が欲しい、いかめしき官職名にありつきたい、また昇殿の栄を欲しがっている。尾を振る犬のごとく、衣冠の餌には、右往左往するのがつねだ。そこが武家操縦をねらう公卿のツケ目でもあり、公卿台閣の誇りでもあった。
「……だのに?」
 藤房は、胸ぐるしくなった。相手には欲望反応がほとんど見えない。一方、勅は絶対と彼はしている。「正成を連れまいれ!」とは綸言(りんげん)なのだ。笠置城の浮沈でもある。
「兵衛」
 睨(にら)まえるように、正成へ。
「一介の武門へたいし、かくばかりなお頼みあらせらるるのも、時なればこそぞ。それをおうけ出来ぬとあらば、藤房もここはうごけぬ。幾日でもここで待とう。思案のつくまで」
「思案はほかにありませぬ。たとえ百日御座(ござ)あっても」
「否(いな)とか」
「非力不才の者が、御陣の扶翼(ふよく)に参(さん)じなどしては、かえって乱を大きくし、宮方の禍(わざわ)いを深うするのみでございますれば」
「はて、遁辞(とんじ)ばかりいわるるの。謙虚はお辺(へん)の隠(かく)れ蓑(みの)か」
「いや、真(ま)っ向(こう)、腹を申しおりまする」
「なんの、さような辞をたずさえて、むなしゅう笠置へ帰れようか。花や歌の御使(みつかい)ではなし」
「背命(はいめい)の罪は、万死に値(あたい)いたしましょうが、幾重にも、こう、ひれ伏しまする」
「ば、ばかな」
 こうなってはもう個人藤房の語気である。激舌がついいわせてしまった。
「勅、さわやかにお受けとのみ思いのほか、こうなっては、藤房もはや、死を覚悟のほかはない。主上へおわびのため、自刃つかまつる」
「こは、迷惑な」
「ご存知ないか。われら君側は、ただに主上を至尊(しそん)と仰ぎ奉るだけでなく、天地の神祇(しんぎ)にかけて、一死の契(ちぎ)りは常にこうなのだ。さもなくて、何でかほどな大事を挙げえようぞ。……が、聞かれよ正成。死すまえに藤房が、もう一言、申し聞かすことがある」
 藤房は自然ふるえをおびてきた。この場のはずみでは、自刃もぜひない羽目になるかもしれない。――その必死が、眼の中をたぎらせ、また、満身を賭けての説得(せっとく)にもさせていた。
 主上のおん夢
 は、ここで彼から語られた。――語りつつ藤房は、その夢ものがたりが、自分の唇(くち)から出るのでなく、自分も聴かされている天(てん)の啓示(けいじ)みたいな気がされていた。そして折々、感動の極(きわ)まりに涙をたれた。自分のかくまでな懸命のいじらしさにも自分で泣かれた。
「……ああ。つらいおはなし。この正成ずれを、さまでにおぼし召したまわるとは」
 始終、平伏していたが、彼は泣いてはいない、彼には、嘆息あるのみだった。その長大息の下で、ついに言った。
「正成一人の所存は、尽しましたなれど、なお一族とも談合の上、明朝までに、さいごのお答えを申し上げるといたしましょう。ご宿所にて、おやすみがてら、しばらくの御猶予を」
 藤房はいちど、楠木家の門を辞して、楠木家の菩提寺中院へ移った。
 そのあと、正成はすぐ、近村の同族へ、
「大事なある。一族の会議だ。相違なく、子(ね)ノ刻(夜半十二時)までに集まれ」
 との、触れをまわした。
 この“御本屋(ごほんや)ぶれ”も、遠くの親族までには、まに合いかねる。及ぶかぎりな範囲だった。
 松尾刑部は、言った。
「おやかた。御談合の座には、ぜひ正季もおらねばなりますまい」
「むむ。加賀田の方でも、早や勅使の下向と耳にしたろうが、すぐ報(し)らせておけ。それでも来ねばそれまでだが」
 すると、恩智左近までが、
「再度、この爺も参りましょうず」
 とばかり、二騎となって、駈け去った。
 ひろい邸内は、人も馬も出払って、空洞のような夜気が吹き抜けていた。秋の霜に弱まった虫の音がどこかでする。……奥では寝つかない三郎丸(正儀(まさのり))を寝かしつけている乳母の歌う子守唄が河内訛(かわちなま)りをおびてあわれに洩れてくる。
「殿、いまの間に」
 久子が膳を運ばせてきた。子を持ってからも、夜々の食事は彼女が給仕していた。そして自分も共にする。
 すぐ終った。
 そして、それがすんでも灯を横に、良人の影は、怏々(おうおう)と揺れ悩んでいるかにみえる。久子は、側に冷(ひ)んやり侍(じ)した。多聞丸も二郎丸もみな寝たらしい。
「久子。……ここだけはと思うていたが、ついに来るものがここへも来た。……地上は一つ車輪の上のようなものだった。地上に足をのせているかぎり、その輪廻(りんね)の外に生きるわけにはゆかないとみえる」
「お苦しそうでございます。白湯(さゆ)にお持薬でも持ってまいりましょうか」
「あとでよい。……それよりはの、同族どもと寄るまえに、そなたの胸もききおきたい。久子、み使の沙汰、どう思う」
「武門。ぜひないお召しと存じまする」
「それだけか」
「心ならずも、鎌倉方へ捲き込まれる恐れだってなくはございませぬ。さるを、みかどの御夢告によるお召しと聞けば、いっそもう、弓矢の家の冥加(みょうが)。なんのこの期(ご)に、おためらいを」
「うそをいえっ。……そんなこと、夫婦(ふたり)の仲でたしかめ合うことはない。正成がきいておるのは、本心、そちはどうかということだ。多聞丸は遊びざかり、下はまだ乳(ち)さえ恋しがる。そしてこの正成は」
「…………」
 とつぜん俯ッ伏した姿のなだれに、正成もあとを黙った。彼が確かめようとした女の奥の奥のものは、突きやぶられた堰(せき)みたいに咽(むせ)びをしばし続けていた。――庭の柿の木はこの家へ嫁(とつ)いでまだやっと実を持つ秋を持ったばかりである。飽きも飽かれもし初(そ)めている仲ではない。
「いいのか、万一あっても。――戦(いくさ)とはどんなものかも知るまいが」
「……い、いけないと申しましても」
「いや思案の仕方もある」
「いいえ、そんなお考え、お悩みなど、久子はくちおしゅうございまする」
「では、正成の心は分っているとお言いやるか」
「わたくしたちを、酷(むご)い戦に曝(さら)させとうない……。そう思うてのお悩みでございましょうが」
「そうだ、いやわし自身とて、そなたたちといつまでもこう平和にいたいわ」
「けれど、武門の常、その御悲願もかないませぬ。……それでわたくしたちを離別し、おこころおきのうお覚悟に就(つ)こうお胸でございましょうが」
「されば一族はじめ末々(すえずえ)の輩(やから)からその家族まで、みなわしの肩にかけられている者だ。身一つの覚悟などで、正成の臍(ほぞ)が決められようか。……で、まずわが妻子から離別してとは、考えられた。……久子、遠慮なくいえ、愛情とはべつだ、そなたがその方を望むならば」
「むごい仰せ。久子に死ねと仰せあるのもおなじです」
 これまでの年月に、良人も知っていなかった彼女の気性の一端が言い切った。涙の乾いた皮膚の下から曙(あけぼの)いろがさしている。こんな事態でもなければ生涯覗くまい心の扉がいま久子の内部に開きかけていた。
 正成はそれを見とどけた。
「いやもう問わぬ。久子、前言はとり消す。なおまだ、一族どもの心底をたしかめねば相ならぬが、いずれにせよ、吹きつのッて来た金剛颪(こんごうおろ)し、この屋の棟(むね)もあらしの外には措(お)かれまい。何事があろうと、驚くな」
「驚きますまい。なみならぬ世は女にもわかりまする。わがつま。せめては、わたくしと子たちのことだけでも、おむねの外においてくださいませ」
「それ聞いて安心した。一つの重荷は、そなたに頼もう、身を愛(いと)しんでくれい。これからはそれが女の役……」
 とつぜん、門外にあたって、馬のいななき、蹄(ひづめ)の音など、なにか殺気立ったあらしの先駆に似たものが、ぶつかって来た。
「はて。刑部が正季を連れて来たにしては早すぎるが」
 正成自身、すぐ大玄関へ駈け出てみた。土塀ごしに、赤々と松明(たいまつ)のいぶりが無数の墨を吹いている。そして、その群れから門内へ、
「おっ、殿」
 駈け込んで来たのは、やはり刑部と恩智左近であって、
「はしなく、途中の三昧(まい)谷(だに)で、行き会うたのでおざりました。――こなたへ降って来る御舎弟(ごしゃてい)と、若者輩(ばら)に」
 とのことだった。
 聞けば、加賀田の山荘でも勅使の下向はすぐ知ったものらしい。それにたいして、正成がどう答え奉るかに、正季以下は、重大な関心をもった。
「拝辞するかもしれぬ」
「いや、いかに正成殿でも、勅とあっては」
「どっちにせよ、われらは勅をまつまでもなく、笠置へ参ずる者。明日は立とう」
「いやいや。どうせのことなら、水分(みくまり)へ行け。そして腰ぬけ殿の御返答を確かめろ」
 と、はや正成を、彼らは腰ぬけ者ときめていた。――しかし途上で使いの刑部と爺に出会い、仔細をきいたので、これでもいくらかは、穏やかになってこれへ来たものだった。
 ほどなく、他の一族たちも遠地の――和田、橋本、神宮寺――などを除くほか続々この夜の“御本屋会議”に参集してきた。
 間(ま)ごとのふすま境を取りのぞけば、邸内はただ一つの広い武者床(むしゃゆか)となる。だがそこにさえ入りきれぬ七、八十名の甲冑(かっちゅう)と硬ばッた顔は廊にまで溢れた。そして深夜の燭(しょく)も人もすべて粛(しゅく)となった。
「正季」
 やがて、口が切られた。
 正成の声である。
「……なんでそちは、この兄や同族にも計らず、血気な若者ばらを誘うて、ひとり笠置へまからんとしたか。いつの場合も一つぞと結んでおる日ごろの誓いを忘れおったな」
「忘れはしませんっ。……おことばですが、笠置へ参軍のお願いは、もう再三再四、兄上へむかって」
「だまれ。たれがゆるした。ゆるしてはないはずだ」
「けれど」
 正季は、逆に食ッてかかる。
「すでに兄上こそ、以前ここへお訪ねあった日野朝臣などと、密々、宮方(みやかた)加担(かたん)の盟(めい)をむすんでおられたのでございましょうが」
「そんな約はせぬ。そんなかろがろしい約は」
「いや、聞くところでは」
「それや周囲の推量だわ。わけて正季、そちの推測に過ぎん。――思うてもみるがいい。これだけの者には、これに何十倍する妻子老幼がみなここにおる者をたよりに生きている。正成一存で、賭(か)けられようか」
「…………」
「さらに領下の百姓や億衆のくるしみまでを予想すれば、おぞ毛がふるわれてくるばかりだ。なんとか、そんな禍(わざわ)いもなくすまぬものかと、田舎武者のどうにもならぬ身ばかりが身もだえされ、せめてこの河内の奥の山里だけでも平和にと、ただ祈りを抱いているものを」
「では、この先も」
「それを、みなに問いたい」
 正成は、見まわした。
 佐備正安(さびまさやす)、天見ノ五郎、中院ノ俊秀、矢尾常正(やのおつねまさ)など、らんらんな眼をして、凄(すご)んでいる血気も多いが、べつに安房四郎左や安間了現(やすまりょうげん)、宇佐美(うさみ)、南江(みなみえ)など、ふんべつ顔もまた少なくはない。
「おやかた」
「お、四郎左。意見があるか」
「勅使へのお答えは、おやかたのお胸には、はやお決まりなのでございましょうな」
「正成としては、おことわり申しあげてある。何ら能(のう)もない微力ではと」
「えっ。おことわりを」
 しゅんと、一瞬の気落ちと、研(と)がれた冴えが、人々を吹いたと思うと、佐備、天見、中院、矢尾など以下、ほとんど半数以上が一せいに座を立って、
「正季どの、行こうっ。おやかたの腹はわかった」
 と、語気も荒々、言い合った。
 しかし、正季には、起(た)ちきれなかった。
 ここで兄と袂を分かてば、みすみす兄とも血を見るようなことにならぬかぎりもない。――その悶々(もんもん)たる彼をも、総立ちとなった人々をも、正成はまた、まるで知らないかのような姿だった。
「爺っ、お止めして。お止めして」
 すると、見かねたのであろう。後ろの細殿の蔭から走り出た久子が、爺の恩智左近へ叫んでいた。
 ただ、つつましく蔭にいるのが、妻の婦徳といわれているが、今はそんな妻の座など、顧慮していられない久子に見えた。
「皆の者、まアおちついて、坐って給(た)もい。ようわが良人(つま)のお胸の底を、確かめてみたがよい。……いずれも、日ごろは一トかどの男どもが、なんとしたことです」
 彼女の必死な宥(なだ)めは、若者たちの血気な沸(たぎ)りにも、やや反省を抱かせて来た。いちどは座を蹴ッたもののいつかみな坐り直して、久子のことばに耳をかした。
「わが身は、正成の妻ですから」
 と、久子はまず自分へも言いきかせた。
 そして、良人の気もちは誰よりもよく知る者として、一同へ切言(せつげん)した。
 正成の本心では、ほんとはもう“ぜひない運命”を覚悟している。のがれ難い自己の立場を正視し、早や妻子との“死別”すら心に固めているほどなのだ。
 けれど、その決意は、勅使の“御夢”の告げや綸旨(りんじ)に感泣のあまり無方針に起ち上がろうとするのでは決してない。
 むしろ正成には当惑だった。そこは勅使の藤房に答えたとおりで、言いのがれでも卑下でもない。そして、真の正成を知る者は正成以外にないとは、彼の固い信条でもあった。――しかもその正成は微力だし、また、現況の家庭以上に、正直、何をと欲(ほっ)する欲望もない凡人だった。
 しかし周囲は違う。
 弟の正季以下、周囲の血気や貧しい一族にとっては“回天の業”という“時の相言葉”は否みなく各※(二の字点、1-2-22)の出世意識につながる魅力であった。わけて天皇の笠置潜幸(かさぎせんこう)という冒険には、理も非もなく、千載一遇(せんざいいちぐう)の騎虎(きこ)をそれに逸(はや)りきッている。――正成と別れても――とまでしているものを抑えれば、当然、一族は真二ツに割れ、骨肉同士、仇敵(あだがたき)ともなりかねない。
 正成にはとても忍べないことであった。よしんば忍びえたところで、やがて鎌倉幕府の招致(しょうち)には、自己の態度をあいまいにはしておけない。天皇と幕府との全土にわたる開戦なのだ。中立などは望んでも望みえまい。二者いずれを選ぶかがあるだけだ。
 しかし、その点だけなら正成にも迷いはなかった。幕府にも過去の恩はあるが、自分の代となってからは縁もうすい。――ひるがえって朝廷をみれば、その過激な思想や内紛やまた暴走的な挙兵などに、多分な不安も持てなくはないが、ここの御旗の下には一死を賭けていい目標と死のかがやきが考えられた。正季初め、単純な若人ばらの覇気(はき)にせよ、功名心だけでもない誉(ほま)れと死の意味も、一面の気概となっていることは見のがされない。
 だが、困るのは、彼らのそうした逸(はや)り気だった。彼らは少しも戦争を怖れていない。それが、正成には大きな怖れだった。正成からみると、彼ら若者は戦争を好んでいながら戦争がどんなものかは一こうに知っていない子どもにみえる。
 ……久子は、良人の正成に代って、噛んでふくめるように、それをみんなにいったのだった。
 正成はそのあと、多くもいわず、ただ久子のことばにこう補足していた。
「じつのところ、わしにはまだ一同の腹が、信じ切れていなかった。ほんとの覚悟があるのか否か。わからぬのだ」
 しかしその一語は、あらためて、千鈞(せんきん)の重さで各※(二の字点、1-2-22)の生命に深い覚悟の反復を迫ッたらしい。満座は声もなかったが、やがて、
「もとより一死は覚悟の上です。たやすく勝てる戦(いくさ)とは決して思うておりません」
 異口(いく)同音に。――そして奮然と気概を沸(わ)かせた。
 正成は、あくまで冷静に。
「一死と申すが、自分一個の死だけでは足るまい。縁につながる者すべて、老いも幼きも、みな生死の境にさまよわせよう。それもよいのか」
「よういいきかせます。宮方へ拠(よ)らねば、鎌倉方の走狗(そうく)に狩り立てられましょう。それよりは、いっそと観念させまする」
「いやその上、功名はできても、出世や栄達の望みは薄いぞ。――史を見ても、昔から朝廷の御楯(みたて)となった武門で後に厚くむくわれた例はほとんど少ない。――それも承知か」
「合点(がてん)です。元々朝家(ちょうか)のおん為に、身も家も捧(ささ)げたてまつる所存にござりますれば」
 彼らはここで、一そうその異口同音を高めながら、天皇の御楯(みたて)となることのよろこびを、武士の本懐(ほんかい)であり、大きな生きがいだといった。
 事、天皇の御名(みな)に及ぶと、正季初め、満座の顔には“時の潮(うしお)”の色が映(さ)した。正成は、日野俊基のあの志士的な口調をそこに聞く気がした。正成にも朝家にたいする尊崇(そんすう)はあるが、彼らに見られる熱病のような尊王とは全くちがう思いがする。しかし今はそれを問わなかった。
「よしっ。みなの覚悟が、そこまで一つだと申すなら、正成も共に起(た)とう。起つしかあるまい。ただし、どんな苦境に立ちいたろうと、悔いはないな」
「毛頭、悔いは残しません」
「……久子」
「はい」
「聞くとおりだ。そなたも異存ないな」
「血で血を洗うようなお身内同士の争いさえ避けられるなら」
「忍びきるか」
「ぜひもございませぬ」
「では、さっそくの誓いを固めよう。酒を持って来い」
 やがて、土器(かわらけ)と冷酒が運ばれ、一座七十余名の手へ、順々に酌(く)み交わされて行った頃、いつか秋の長い夜も明けかけていた。
「正季」
「はっ」
「ほかの面々も聞いておけ。以後、一切の独断や盲動はまかりならぬぞ。正成の一命はそちたちのものとしよう。また、そちたちの生命も正成にあずけてくれい。さもなくては、合戦には向い難い」
「ご念には及びませぬ」
「ならば微力ながら、楠木一家の全生命は強い一つだ。挙(あ)げてそれを朝廷にささげますると、勅使の許まで、今朝お答え申しあげよう。一同はここで待て」
 すぐ馬の用意をさせ、正成は藤房の泊っている錦織(にしごり)の坊へ向った。――朝焼け雲のさやかに紅い朝だった。藤房もゆうべは眠られずにいたことだろう。――そこへ正成の確答をうるやいな、勅使の藤房は、吉報を持って、すぐ先に笠置へ急いで帰った。

 正成参陣
 とある藤房の復命に、笠置の御座は、がぜん生色に甦(よみがえ)った。
「すぐ、罷(まか)るとか」
 天皇のご喜悦(きえつ)はもちろん、公卿、全山の将士も、
「楠木とは、どんな男?」
 と、百万の味方の思いを彼の風貌にまで寄せて待ちぬいた。
 すでに、その正成は、小半日遅れて、笠置の下ノ堂まで到着した。だが、従者もわずかしか連れていず、そのうえ、孔明(こうめい)の再来とも思えぬ平凡な風采だったので「はて、これもただの田舎武者よ」と、たれの眼も意外らしかったし、やがてまた、山上の行宮における拝謁の床(ゆか)でも、公卿たちの一眄(べん)は、あきらかに、がっかりしたようなものを彼にただよわせた。
 が、後醍醐は、この一個の山家男を、なんとごらんになったろうか。
 やがて、み簾(す)のうちで、
「藤房、簾を掲(あ)げよ」
 と、命じられた。
 地下(じげ)の一野人を、こう近々と召されるさえ、時なればこそである。のみならず、簾を捲かせて、謁(えつ)を与え給うなどは、殿上にはない破格だった。――正成もこの優渥(ゆうあく)なご態度には、身のしびれを感じたにちがいあるまい。彼の背はこれ以上には伏せられぬほど低まった。
「正成、気強う思うぞ」
 直々(じきじき)のお声だ。――伝奏を期していた正成はどう答えていいかわからず、ただ「はっ」と、体が言ったのみである。
 そのあとから、花山院師賢、千種忠顕らが、帝に代って、かわるがわる訊ねた。要は「関東を打ち破るてだてはどうか。忌憚(きたん)なくその謀計(はかりごと)を述べてみよ」と、いうのであった。
 ここで、正成が答えたことばとして「古典太平記」は、こう書いている。
「――合戦の慣(なら)いです。一旦の勝負に、一喜一憂なされてはなりません。正成一人生きて在(あ)りと聞こし召すあいだは、お心丈夫に、いつかは聖運の開かれるものと思し召しあって、およろしいかと存じまする」
 たしかに、彼に勝算などはなかったろう。単なる武力だけの比重なら三歳の児童でもわかりきった戦いである。それも充分知っての上の正成とすれば、大言には似るが、あえて自分を巌頭(がんとう)に立たせるためにも、このくらいなことはいったかもわからない。
 けれど、思慮にも富む彼である。気休め同様な自負や、そんな気概だけを述べて、得々とはしていなかった。べつに自己の謀(はかり)とする抱懐(ほうかい)もつぶさに述べて、やがて笠置を退がったにちがいない。――とにかく正成は、また即刻、河内の水分(みくまり)へ帰って行ったのだった。
 その日、正成から奏聞(そうもん)に入れた当面の戦略は、要するに、
 持久
 ということに尽きていた。
 またなぜ、正成が笠置にふみとどまらず、河内へ帰ったのかといえば、ここでは自身の指揮も、徹底的には行われ難いと見抜いたからであったろう。
 むしろ少数でも、一族一体を基盤とする金鉄の本塁(ほんるい)を奥河内の嶮(けん)に築いて、築塁(ちくるい)が成ッたら、すぐさまそこへ天皇を迎えて、思うざまな統御(とうぎょ)を取ろうとするものにほかならなかった。

 九月半ば。
 鎌倉の大軍は、潮のようなその先鋒(せんぽう)を、笠置のふもとへ、はやひたひた寄せはじめていた。
 旧記によれば、号して七万五千の兵とあるが、これは誇張にすぎる。せいぜい二万前後と見てよい。
 それにせよ、当時の軍旅や兵站(へいたん)からすれば、たいへんなものだろう。――そして日数からみても、遅くはなかった。
 だいたい幕府方では、九月に入ってからでも、まだ天皇が笠置にありとの情報は、はッきりつかんでいなかったらしい。――「光明寺残篇」とよぶ記録の九月五日付ケ鎌倉執達状には、
先帝、叡山ニ還幸(クワンカウ)、防ギ申スベキノ旨(ムネ)
院宣ヲ下サル云々(ウンヌン)
 などとある。
 また、この公文書の表で目につくのは、鎌倉ではもう後醍醐をさして“先帝”と称(とな)えていることだった。
 いずれにせよ北条幕府としては、こんどこそ一挙に積年(せきねん)のわずらいを除いて、新たに持明院派からべつな天皇を立て、その統治を一新するに今を絶好な機会としたにちがいない。
 だから鎌倉の主脳と武将は、続々として、ここ関東から上方へのぼっている。
九月 十四日  二階堂出羽守、秋田城ノ介、着京。
   十六日  金沢貞冬、宇治ニ着。
   十八日  大仏貞直(オサラギサダナホ)、入京。
  二十一日  長崎四郎左衛門ホカ諸将、前線ニ続ク。
  二十四日  足利高氏、笠置ヘ向フ。
 これらは、主軍というもので、ほかにも幕令をうけた畿内(きない)五ヵ国の兵や、東海、山陽、山陰の兵などが、おくれ走(ば)せにも参加したのはいうまでもない。
 中でも、足利高氏の着陣は、遅かった。――もっとも、それには理由があった。
 彼にたいして、出陣令がくだったのは、九月五日であったが、折わるく、彼の父、足利貞氏は多年の病が重って危篤(きとく)に瀕(ひん)していたのである。
 しかも、一方には、
「即刻、出陣せよ」
 とある幕令を手にし、途方にくれたその夜に、父貞氏は亡きかずに入ったのだった。
 だから彼は、出陣支度の忙(せわ)しない間に、からくも子としての死に水を取っただけで、あとの葬儀万端さえ見ることが出来ずに軍旅へ急いだのである。「……無情な幕府の仕打ちよ」と、彼が怨んで立ったと噂されたのも道理だといってよい。
 ――が、この事を以て、後に彼の幕府叛逆の原因とするなどは当らない推量というものだ。むしろ、父の生涯ともそんな別れ方をして立った出陣は、高氏の内にひそむ多年の大志を、ひとしお途上の秋風に吹き研(と)がせていたことだろう。いずれにせよ、後年の足利尊氏(たかうじ)なるものも、笠置包囲軍の一角に、遅くはあったが、参加していたのである。
 しかし、笠置合戦では、この大鵬(たいほう)は、まだなんらの動きもその圭角(けいかく)も見せていない。
 合戦はまず、やたらに目先の功を競(きそ)う我武者(がむしゃ)な前線の気負い者から口火が切られた。
 相互、敵陣をみても、すぐには合戦とならなかった。
 何しろ笠置の天険だ。不気味な、さぐり合いの対峙が二、三日つづく。
 昼は、鳥の音も絶え、夜となれば、二万ぢかい寄せ手の布陣が、笠置の砦(とりで)を二里余にわたって包囲している“火の図”となって、描(えが)き出された。
 峰から峰を綴(つづ)る火も、沢にひそむ伏陣の火も夜はチラチラ望まれる。特に、山麓(さんろく)の木津川べりへ近々と陣した一角では、終夜、
「一ノ木戸は?」
「街道口は?」
 と、物見のうごきが、絶えなかった。
 相模(さがみ)武者の高橋又四郎は、その辺の一部将だったが、
「たかの知れた宮方の烏合(うごう)。それに、これしきな砦一つを、味方二万が、いつまで、ただ遠巻きに見ているのか」
 と豪語して、しきりに物見の偵報をあつめていた。
 そのうちに、奈良街道から笠置口へ、一隊の宮方が、寄せ手の眠りを見すまして、馬の背や輸送車で、兵糧運びをしているという情報をえたので、
「しめた」
 と、又四郎は選(よ)りすぐッた手勢三百をひきいて、抜け駈けの功名に急いだ。
「それこそ、かねがね目をつけていた柳生ノ庄からの兵糧入れだろう。そいつを突いて、敵の木戸へなだれ込み、所きらわず砦ノ内へ火を放(つ)けろ」
 輸送隊といえば、土民を交ぜた弱い兵ときめてかかったものである。ところが、それは宮方では屈指(くっし)な柳生播磨守永珍(ながよし)の手勢だった。――輸送隊をみなごろしにして、そのまま敵の城中へなだれ込むという又四郎の思わくはよかったが、敵の質を見損ねたのが不覚といえよう。
 彼の襲撃は、逆ネジを食った。柳生勢は強かったし、手まどッているまに、坂下の木戸を押し開いて出た宮方勢が、
「よい獲物(えもの)」
 と先に退路をふさいで、蔽(おお)いつつんで来たため、又四郎以下三百人は、ことごとく乱刃の下にさいなまれてしまった。
 朝は血に明けて。
「……わああっ」
 と、笠置の城に、初の凱歌がわき揚ッていた。
 寄せ手の大軍は、味方から抜け駈け者が出たことを、それで初めて知ったらしい。
「ばかな奴よ」
 と、陣々では高橋又四郎の下手(まず)さを嘲(あざけ)り、敵が曝(さら)し物にして坂下へ掲(かか)げた又四郎の首を見て帰って来る者などもあった。そして、口々に、
「あいつは娶(もら)ったばかりの嫁を、もう後家にしおった。一躍、大名にでもなろうとしたものだろうが」
 と、その死を笑った。
 とはいえ、功名と立身は、たれもが内々燃やしているもの。――又四郎の死を口火に、万余の潮は一だんと山下へ迫り、気をよくした官軍もまた積極的な姿勢をしめし出した。――三河の住人、足助(あすけ)次郎が、幕府方の荒尾兄弟を射て取り、般若寺(はんにゃじ)の本性坊が、寄せ手の頭上に、大石の雨を降らせて、天皇旗の下に、二度の凱歌をわき上がらせたのも、この日につづいた合戦の中だった。
 激戦がつづき、毎日、大軍の魔のこだまが山谷(さんこく)にくり返された。
 だが、血を見る場所は、いつも一局地にかぎられていた。麓の柵(さく)の一方道しか、攻め口はないのである。
 そこの守備が堅いかぎり笠置は不落(ふらく)といっていい。北も東も、絶壁だった。切り削(そ)いだような岩石の峨々(がが)たる下は木津川や布目川(ぬのめがわ)の急流だ。しょせん甲冑(かっちゅう)では取りつきようもなく、
「これやいかん。まるで拳(こぶし)で石を割ろうとするようなものだわ」
 と、寄せ手の諸将も、ようやく、あぐね顔だった。
 無理押しを逸(はや)ッた先鋒(せんぽう)は、すべてここ十日ほどの間に、外聞の悪いような損害をつみかさね、逆に、孤峰(こほう)の城をほこらせるばかりに終った。
「これでは、いかに大軍を擁(よう)したところで役にもたたん。ほかに何とか、攻め口はないものか」
「いや、待てばまもなく冬が来よう。敵の兵糧にも、限度がある」
 ところが。
 彼らのそんな目企(もくろ)みはゆるされなかった。
 たまたま、後方の連絡は、
「楠木一族が、宮方に応じて、河内の赤坂に旗上げしたぞ」
 と、つたえて来たし、また、はるか備後の桜山四郎茲俊(これとし)も、同国一ノ宮を城郭(じょうかく)として、宮方加担を声明し、兵を山陽にあつめているとの早馬だった。
 そのほか、伊勢平氏(へいし)いらいの関(せき)一族や、大和の奥の地方でも、大塔ノ宮の募兵に応じて起(た)ったものが日ましにその勢いを増して来たというし、おなじ気運の兆は、頻々と、諸国からここへ響きつたわっていた。
「すわ。後ろが寒いぞ」
「冬など待てぬ」
 ここでふたたび、猛攻撃は起されたが、笠置はいぜん、鉄壁だった。――山下の木戸や、せいぜいが仁王堂附近まで進んでは、死屍(しし)に死屍を積み、もう黒バミ初(そ)めた山紅葉より可惜(あたら)に、たくさんな兵を散り急がせては、どっと退却を繰返すにすぎなかった。
 すると、ここに。
 備中の武士で陶山義高(すやまよしたか)、小見山次郎とよぶ二人があった。一ト出世を思って、若党家ノ子など五十余人を語らって、こんどの笠置攻めに、いちはやく参加し、木津川沿いに陣幕をむすんで功名の機会をうかがっていた者どもだが、
「どうだ、みんな」
 と、その夕、味方にもそっと、部下を幕舎にあつめて、こういった。
「今日の守護や大名も、むかしをただせば、みなおれたち同様な無名の武者よ。ただその祖先が一ノ谷、宇治川、藤戸ノ渡しなどで、先陣、奇襲の功名をあげたものにすぎぬ。――その出世のツルは今、おれどもの前にもあるのだ。わいらも、それをつかもうとは思わぬか」
 そこで、或る一策を打ち明けられると、聞きいっていた、陶山(すやま)、小見山の部下たちは、唸るように「……おうっ」と応じた。武者ぶるいとも呼べようか。それは怖ろしい冒険だが、それだけにまた、彼らの生命を賭(か)けての貪欲(どんよく)も奮い立った。
 酒を酌んで、宵は寝た。
 やがて夜半の頃、一同はもそもそと起き出して身支度にかかり出す。
 ――折ふし風がつよく、雨さえ交じって、血ぐさい戦場はいとど寒々と暗かった。
「おのおの太刀は背中に背負(しょ)え」
 陶山義高は、言い渡す。
「身軽がいいぞ。よけいな物は、一切具足(ぐそく)から取り捨てろ。かぶとも用いず、素頭(すこうべ)に鉢金(はちがね)だけを当て、草鞋(わらじ)の緒はきつく締めるな。絶壁を攀(よ)じ、乱岩の山上で働くには、緒が切れやすい」
 小見山次郎も次にいう。
「――笠置の山上は足場も狭い。忍び込んだらすぐ砦(とりで)の諸所へわかれて火を放つのだ。その火を見れば、味方の総軍が一気に攻めかかろう。勝利は早や掌(て)のうちのもの。抜かるな一同」
「…………」
 部下五十余の顔の列、どれもみな、硬直し、声もなく、ただうなずく。
 二部将に引かれて、彼らは、味方にもそっと自陣を離れ、暗い冷雨に打たれながら、木津の川べりを北へ走った。
 人もない部落がある。有市(ありち)の部落だ。――陶山と小見山は一軒のやや大きなワラ屋根の土間(どま)へ入った。
 合戦いらい、戦場となった農村には、人影はおろか鼠もいなくなっている。――が、ここには貪欲(どんよく)な鼻を持った白髪まじりの老農夫が、竈(かまど)のそばにうずくまって陶山、小見山らを待ちあわせていた。淳朴(じゅんぼく)な土民のうちにもまた乱世に乗じて一ト儲けを賭ける野性がいなくもないのであった。――これが土地(ところ)に詳しい案内人であったとみえる。
「おうい。みんな入れ」
 土間のうちで、部下五十名は、それぞれ身につけて行く持ち物を渡された。
 油びたしの雑巾束(ぞうきんたば)やらカギ縄や忍び道具の類だった。
「いいな。みな持ったか」
 念を押して、陶山は、
「では、案内しろ」
 と、老農夫を頤(あご)で追った。
 外は、すぐ木津の早瀬だ。農夫は狩犬のように先へ渡りこえた。浅瀬も杣道(そまみち)も心得ぬいているかに見える。一同も腰まで飛沫(しぶき)に吹かれながら、対岸の淵(ふち)から絶壁の下にとりついた。
 ここはちょうど笠置の北で、屏風(びょうぶ)のような切り岸である。しかし断崖(だんがい)の所々には松の根や、まばらな灌木(かんぼく)が仰がれる。腰に鉈(なた)のような物を差した農夫の影は、縄のはしを口にくわえ、老猿(ろうえん)のように、もう中腹の灌木に手をかけていた。そして上から、
「それっ、よしか」
 と、木の根に結んだ縄梯子(なわばしご)を岩肌で一つ振ってみせる。
 面々がそれにすがって中腹まで攀(よ)じて行くと、老猿の影は、さらにまた一段上にあって、下の者をさし覗いていた。こうして、さしもの嶮岨(けんそ)ものぼり切ってしまうと、彼は厚ぼったい唇を剥(む)いて、陶山の前に、強欲な手のひらをすぐつき出した。
「さ、旦那。ご褒美の金を下(くだ)ッせい」
 ――ぎゃッ、と老猿の声がしたのはもう眼の前のことではない。とたんに陶山はその老農夫を断崖の空(くう)へ向って蹴とばしていたのである。それを血まつりとして、陶山は部下五十のそそけ立ッた影へ烈しく手を振った。
「それっ、分れろ。城兵の眠りをさまさぬように、篝(かがり)の火を盗んで、手ばやく諸所へ油玉をぶり撒けぶり撒け」
 そして、彼と小見山次郎とは、さらに上の、天皇の行宮(あんぐう)を見つつ、四ツん這いに這い忍んで行ったのだった。
「たれだッ」
 行宮の外の柵守(さくもり)らしい。
 陶山と小見山の二人は、ぎくとして、いちど岩蔭に潜みかけたが、
「おおっ、見廻りでおざる」
 と、風の中から、不敵な声を作って答えた。
「われらは大和柳生勢の兵ですが、かかる夜こそ、怠るなと申しつかッて諸所見廻り中の者でおざる」
「やあ、ご苦労」
 仮屋の蔭で、眠たげな返辞がする。
 二人はすっと通りぬけた。行宮にあてられている上ノ堂は、広前もないほどな一平地でしかない。山頂だけに、小雨をもった烈風が蔀(しとみ)や廂(ひさし)を吹きなぐり、仮宮にしろ、これが天皇の御寝(ぎょし)ある皇居かと怪しまれるほどだった。
「火ノ用心!」
 小見山次郎はわざと二度ほど声を張りあげた。寂(せき)として、これをいぶかるような気配もない。そのまにミシリミシリ堂の廊を一巡してゆくと、神器のある賢所(かしこどころ)でもあろうか、み簾(す)を垂れた内陣の一隅に夜すがら点(とも)っている一穂(すい)の灯が見えた。
 ずかずかと二人はそこへ寄って行く。
 そして、隠し持っていた油びたしの鞠(まり)を解いてその布の一端に火をつけたと見えた途端(とたん)だった。
「あっ、何をする?」
 宿直寝(とのいね)していた公卿の一人がふと眼をさまし、
「曲者っ」
 と、小見山のその手もとへ向って跳(と)びかかった。
 でん! と公卿の体は内陣の床にたたき捨てられ、同時に彼の手から躍った火の鞠が一条の炎の線を曳いたままはるか須弥壇(しゅみだん)の礼座(らいざ)の辺までビユッと火叫(ひたけ)びしながら飛んで行った。
 ほかにも、具足のまま転(まろ)び寝していた宿直武者(とのいむしゃ)があったらしい。大床の隅からどっと金属的な鳴り響きを起すと共に、
「敵だっ」
「裏切り者ぞ」
 と、狂気じみた声で呼ばわり合った。
 それへ向って、陶山義高もまた、火の鞠(まり)を抛り投げた。鞠は油の細布を解き放題にころがッて行き、その火焔を踏みつぶそうとすればするほど縦横な火の渦やら火の線を描くばかりなのだった。
「出合え」
「火を防げ」
「お座所を守れ」
 すでに、それらの叫びも、誰の発しるものかさえわからなかった。火はすぐそこらの祭具や蓮華(れんげ)、瓔珞(ようらく)などに燃えうつり、解脱(げだつ)上人いらいの貞慶式(じょうけいしき)建造の古い金壁(きんぺき)が、にわかに眼をさましたかのごとく炎の映(は)えに燦爛(さんらん)とかがやくかと思えば、また一瞬に、咽(む)せるばかりな黒煙の底となった。――そしてその中を閃々(せんせん)と盲薙(めくらな)ぎに相手を叩き廻っていた陶山と小見山の剣光も、やがてのこと、
「次郎、もういいぞ」
「おうっ、外へ」
 とばかり、廊の欄(らん)から真下へ跳(と)び下りていた。
 それを、どっと追って出た行宮(あんぐう)の近衛武者(このえむしゃ)も、欄に立つやいな、二度の驚きに、あっと打ちひしがれた。
 変(へん)はここだけでなく、下の仁王堂、二ノ丸櫓(やぐら)、諸所の木戸や仮屋からも黒煙を噴いて、山じゅうが轟(ごう)ッと火唸(ひうな)りしていたのであった。
 笠置の嶮も、こうなると、逆に燃えやすい一ト張りの蚊帳(かや)みたいに脆(もろ)かった。
 急ごしらえな仮屋や櫓(やぐら)はいうまでもない。七院の伽藍(がらん)もみな懸崖造(けんがいづく)りなので、炎は山肌を舐(な)めずり登って、ふだん鳶(とび)の巣が見える枯れた大樹(だいじゅ)の天(て)ッぺんにさえチロチロ赤い舌がひらめき見えた。
「麓を防げ」
「いや、山上もだ」
「さては寝返りが出たか」
「忍(おし)の者(もの)だ。敵の忍びに違いないわ」
 こんな狼狽が見られたうちは、まだしもだった。が、たちまちそれらの叫喚(きょうかん)も、また煙の中の蚊(か)みたいな将士の人影も、火つむじの底に没して火屑(ひくず)と共に吹き散らされる。
 もう、すでに。
 ここの火を遠く望んで総懸りを起した寄せ手は、一ノ木戸二ノ木戸へばりばり迫って、ほしいまま功名を争っていた事でもあった。
「鎌倉の剛の者、江馬殿の身内(みうち)、酒匂(さかわ)ノ十太(じゅうた)こそ、仁王堂口を一番に乗っ取ったぞ」
「つづくは、伊東ノ介」
「六浦(むつら)ノ冠者(かんじゃ)一郎丸」
「横山党の横山孫六」
「椎名景政(しいなかげまさ)」
 そのほか、阿修羅(あしゅら)のものすごい声々が、敵の首を求めて駈けずり廻る。
 城中の宮方は、まったく戦意を失っていた。とはいえ、みかどの御楯(みたて)とここへ拠(よ)った侍の初志を遂げた将士もないではない。それらの者は、ふみとどまった少数の手兵と共に、
「おぼえておけ。錦織(にしごり)ノ判官代俊正とはわれぞ」
「石川の一族、石川義継が最期のさまを見よ」
 つづいては、
「ざんねん。三河の足助次郎重範(あすけじろうしげのり)、いま果てん。どいつも、道づれだ。寄って来い」
 名のり名のり、急坂のぬかるみや、岩間の隘路(あいろ)で、すべて無残な枕をならべてしまった。
 また、からくもみずから柵外(さくがい)へ突いて出て、戦った兵もある。それらは柳生谷から大和月ヶ瀬方面へ向って駈け、数珠口坂(じゅずぐちざか)あたりに無数な屍(かばね)をすてて逃げおちた。
 が、彼らの最期や、そうした支(ささ)えも、山上の行宮にとっては、時を稼ぐに大きな任務をとげていたといえよう。――天皇のご寝殿(しんでん)も、変と同時に、炎にくるまれてはいたが、そこへ幕兵が駈けのぼって来るまでには、なお、お身支度やら何やらの、寸時のいとまが幸いにあった。
 おそらくは、後醍醐も、がばと刎ね起き給うやいな、御衣(おんぞ)、お袴(はかま)をつけるのさえ、やっとの間ではなかったか。
「誰(た)ぞ、神器を取り出して、護(まも)り持て」
 とのお叫びがあったのも、まちがいあるまい。
 なにしても、公卿ばらは動顛(どうてん)して、身一つさえうろうろだった。いちはやく、お手をとって、外へ走りのがれていたのは、日ごろは柔弱なと、父皇さえ嘆いておられた弟宮の宗良(むねなが)で、
「みなはお後から続きましょう。さ、すこしもお早く」
 と、山頂の杣道(そまみち)を、ひたむき急いだ。もちろん、天皇もお革穿(かわば)きの跣足(はだし)だったし、皇子も跣足のままだった。
 またその影を慕って、すぐ公卿の一ト群れや僧衣の影も、氷雨(ひさめ)、火の雨の下を、走りつづいていた。

 道らしい道はない。雨、風、黒白(あやめ)もわかぬ山中の闇。
 きのうまでの殿上人(てんじょうびと)が、どうやってその艱難(かんなん)に耐えたろうか。天皇も皇子も公卿もみな跣足(はだし)である。クマ笹(ざさ)や木の根に血をにじませ、雨は肌にまで沁みとおったことだろう。
「おおい……」
「オーイ」
 呼び交わし、扶(たす)け合いつつ、初めのうちは天皇のおあとにつづく者十数名はかぞえられたが、谷へ辷(すべ)り落ちたまま声なき者、道に迷(は)ぐれて答えの消えた者、それに敵兵らしい気配にも折々脅かされて、いつか後醍醐のおそばには、万里小路藤房と、季房(すえふさ)のふたりしかいなかった。
 北畠具行は。
 大納言師賢は。
 公敏や、忠顕は。
 そのほか、皇子の宗良も、奈良の聖尋坊も、ことごとく見あたらない。
「藤房」
「はっ……」
「そちはさきに楠木家へ使いした者、こう参れば、正成のおる河内の赤坂とやらへたどりつけようか」
「されば、その河内路を心あてにしておりますなれど、山から山の彷徨(さすら)い、いかにせん、方角もわかりませぬ」
「まだ敵の中だろうか」
「だいぶ歩きました。が、ほどなく夜も明けましょう。それまでのおこらえを」
「明けたらまた、敵の目につく惧(おそ)れも多いの」
「昼は、どこぞにお憩(いこ)いあって、夜を行くほかありませぬが、幸いに風雨も小やみに見えまする」
「それだ」
 と、後醍醐は、お唇を噛んだ。
「どんな大難も、一過(か)を待てば、おのずから雲間に晴天を見せてくれる。――藤房、わしは死なぬぞ!」
 藤房はハッと思った。
 御自害を考えておられたのかと知ったのである。はらはらとつい涙がこぼれた。――しかしそういって雲間の切れを仰いでいる後醍醐のおん眉は、この君の超人的な資質を荒彫りの鬼神仮面(きじんめん)みたいにくッきり抉(えぐ)り出しておられた。
 藤房はあわてて涙を拭い。
「オオ、空もやや明るんで来たそうな。のう季房、ここはどの辺だろう」
「よく分りませぬが、ゆうべから西へ西へ来た気がします。近くの水音は、木津へ落ちてゆく谷川かと思われますが」
「うかと、里へ出ても危ない。……さて、どこかにお休みをねごうて、御食(みけ)でもさしあげられる小屋でもあればよいが」
「見てまいりましょう」
 彼がすぐ駈け出しかけると、後醍醐はその季房をよびとめて、
「そちの護持する神器は、藤房にあずけてまいれ」
 と御諚(ごじょう)だった。
 賢所(かしこどころ)の宝剣と御鏡とは、行宮を落ちて出るとき、帳(とばり)の帛(きれ)を裂いて、彼がきびしく背に守っていたのである。御諚にまかせ、それを兄藤房へわたすと、彼はどこかへ走って行った。
 その朝は、こうして山中の杣小屋(そまごや)にお身を休ませられ、以後二日、それも夜だけ、彷徨(さすら)いをつづけたあげく、三日目の夜明けごろは、まったく疲れはてたお姿を、神童子越(じんどうじご)えの路傍に茫(ぼう)としておいでだった。
 神童子越えは、笠置から山つづき四、五里、瓶(みか)ノ原(はら)の西方(現・山城国相楽郡)である。
――藤房、季房も、三日までは、口中の食(じき)も断ちければ、足たゆみ、身疲れて、今は、いかなる目に逢ふとも、逃げぬべき心地もせざりければ……。
 とは「古典太平記」がいっているところだが、冷たい晩秋の山雨(さんう)に吹き打たれたあげく、二日三晩もの彷徨(さすら)いを、天皇までが、まったくお口に一物を摂(と)らなかったとはおもわれない。
 おそらくは季房が、木樵(きこり)や炭焼き小屋を窺(うかが)っては、持ちあわせの物代(ものしろ)を食に換(か)えて来たり、野葡萄(のぶどう)だのあけびのツルなども曳いて、かつて九重(ここのえ)の大膳寮では見もされぬ奇異な物も、柏(かしわ)の葉に載(の)せて供御(くご)に差し上げたのではあるまいか。
 いずれにせよ、三名とも、この朝はもう疲労にかすんで、歩むつもりの足も前に出ず、よろ這うていたほどだろう。
 いかに後醍醐のご気性であろうにせよ、肉体のご困憊(こんぱい)には剋(か)ちえない。十善の天子とお生れあっていらい、初めて“非情な世の粗土(あらつち)”というものに、そのお跣足(はだし)を噛まれたのである。おん目は赤濁(あかだ)み、蒼白な龍顔(りゅうがん)にはお髪(ぐし)がみだれかかり、白絹の小袖袴もあとかたなく、泥のみならず血痕も滲(にじ)ませておられたと、「花園院御記(はなぞのいんぎょき)」には見える。
「藤房……」
「お上(うえ)」
「つかれた。……ああ、つかれてきた」
「おくるしげなおん息、大事ございませぬか」
「赤坂はまだか」
「まだ、ここは」
「楠木のいる赤坂とやらは、そのように遥(はる)かなのか」
「日ごろの旅で急いでも、二日路(ふつかじ)ほどはござりますれば」
「木津川もまだ越えてはいず。……さて、いつ行き着けようぞ」
 かたわらの松の根がたを見かけると天皇はわれともなくお腰をよせて、そのまま息を休められるご容子だった。藤房も季房も、仆(たお)れるように、あたりの松の根にからだを崩した。
「…………」
 ここは神童子越えのうちの峠の一つ。幸いに、通る者はなかったものの、君臣三名は、そのまま昏々(こんこん)と絶え入りそうな姿だった。
 と、冷たい雫(しずく)が、襟もとへぱらと降った。――ふと、現(うつつ)に返った後醍醐は、愕(がく)とお顔を振りあげて、そのお眸を朝雲にすえたまま、
さして行く
笠置の山を出でしより
天が下には
かくれがもなし
 低いが、朗(ろう)として洩るるお唇(くち)ずさみをきいて、藤房もすぐこう詠(よ)んだ。
いかにせむ
たのむ陰とて
立ちよれば
なほ袖ぬらす
松の下露(したつゆ)
 すると、峠のあちこちを見まわしていた季房が、とつぜん、身を刎(は)ね起(おこ)して、
「あっ、何者かが麓の方からこれへまいりますぞ」
 と、さけんだ。
「なに」
 藤房につづいて、天皇もよろりとお起ちになった。
 近くの綴喜(つづき)郡松井村の郷士に、深栖三郎(ふかすさぶろう)という者がある。
 彼ら一村(そん)の一ト旗組も、地理に明るいところから、夜来(やらい)、幕軍の落人狩(おちゅうどが)りの犬となって、あちこち獲物を求め歩いていたが、いま神童子越えの字(あざ)“岩間”の山中まで来ると、先を歩いていた仲間が、
「やっ、公卿ていの者がチラと彼方に見えたぞ」
 と、大声で後ろの同勢へ告げたのだった。
「いたか」
 とばかり、騎馬の数人はすぐ鹿追(しかお)い構えに矢交(やつが)えをそろえて、猛然と、天皇たちへ向って驀進(ばくしん)して来た。――その矢ジリは、明らかに天皇のお眼にも映っていたはずである。
 が、お逃げになるふうもなかった。いやその御気力もはやなく、荒くれどもの矢ジリを見ては、逃げまどう愚はさとられたことでもあろうか。
「…………」
 しかし、無下(むげ)に寄れば咬みつきもしそうな藤房、季房二人の恐ろしい顔が、天皇のみ楯(たて)をなして突ッ立っていた。
「おうっ、公卿だな」
 彼らは、近づくやいな、もう捕(と)ったも同様な獲物と眺めながら、ゲラゲラ笑い合って、矢交(やつが)えを外(はず)し、すぐ追ッついて来た徒歩(かち)の兵どもへ、馬上からあららかに命じていた。
「なに、縄か。いや縄目にもおよぶまい。ただ尻帯をとらえて引ッ立てろ。……そうだ。ひとまず内山へだ」
 彼らは、これが天皇とは考えてもみなかったのである。たんに殿上の貴人とのみ見て、日ごろの反抗心と拾い得た功名とに野性の舌ナメずりをしたものだった。兵の乱暴さにいたっては、いうまではない。そこらの枯れ木などを手にするやいな「……おうっ」と、天皇のおそばへ迫り、そして「歩けッ」とばかり竹や棒きれを振りかぶった。
 藤房は毛穴をよだてた。彼の日月(じつげつ)はまッ暗な虚空(こくう)と変り、グラと奈落(ならく)の口もとでかかとを踏まえるような思いだった。季房も背中合わせに大手をひろげ、
「匹夫(ひっぷ)。ひかえろッ」
「無礼すなっ」
 と、絶叫した。
「な、なにが無礼」
 と、嘲(あざけ)りかけるのを、いわせもはてず、藤房はさらに体じゅうのものをふりしぼって。
「ここにおわせられるは、ただ人(びと)ではないぞ。よも、なんじらとて、文盲の田夫野人(でんぷやじん)でもあるまいが」
「人でなくば、いったい何だ。まさか変化(へんげ)でもあるめえに」
「下におれ、馬を降りよ」
「どういうわけで」
「おそれ多くも、みかどでいらせられる。たとえかかるお姿にはならせられても、万乗(ばんじょう)の天子の御前(みまえ)」
「……ふうむ?」
 鼻を鳴らして、彼らは少しずつ馬をうごかし合い、後醍醐のおすがたを横から縦から覗き下ろしていたが、しかし容易に信じるふうではない。
 ところへ、山中の一院、金剛蔵院(こんごうぞういん)の小道から、この近くへ出て来た同類の一群があった。深栖(ふかす)三郎はそれを見ると急に、馬の背から身伸びして、彼方へ声をかけていた。
「おおいっ蔵太(くらた)。松井ノ蔵太。そっちにも何かよい獲物があったのか」
 松井蔵太も深栖三郎と同郡の者で、また同目的のもとに、この朝、笠置の落人を狩りたてていたのである。
 そして、一行に迷(は)ぐれて父皇後醍醐をさがしあるいておられた宗良親王と、もうひとりの公卿とを捕えた。
 公卿は四条少将隆兼(たかかね)だった。
 蔵太は、雀躍(こおど)りして、
「これや大功名の拾い物」
 と、附近の金剛蔵院から古輿(ふるごし)を借り出し、皇子のお身をそれに乗せて、意気揚々、ここを通りかかったものである。
「おーい」
 深栖の手に答えながら、蔵太はやがて同勢と共に近づいて来るなりすぐ言った。
「どうだ三郎。そっちの景気は」
「わるくはないぞ。が、おぬしの舁(か)かせている古輿の内は何者だ」
「皇子(みこ)だよ」
「え」
「瓶(みか)ノ原(はら)で捕(つか)まえた皇子宗良と四条ノ何とやらいう公卿さ。これでまあ俺も、鎌倉殿の軍功帳に一ト筆書かれる身となったわえ。……ところで、きさまも何か一ト網かけた様子じゃねえか」
「おおさ。軍功ならこっちが上だぜ。深栖三郎が捕えたのは、もったいなくも、時のみかどだ」
「笑わすなよ、三郎」
 蔵太は、相手の負け惜しみと受けて、肩をゆすッた。
「先ごろ叡山の上でも、偽天子(にせてんし)があったそうだ。いくら笠置が落ちたにしろ、天皇が二人や三人ばかし連れて、こんな所をうろうろなさるはずはあンめい」
「嘘かほんとか、おい蔵太、あの古輿(ふるごし)をこっちへ呼んで、おれの捕(と)ったそこのお人と、つき合わせてみてくれい」
「よし、合点だ」
 蔵太はすぐ、後ろに見える輿の者をさしまねいた。
 古輿はおうと応(こた)えて揺らいで来た。と思うまの出来事だった。轅(ながえ)を担(にな)っていた前の兵が、とつぜん地へ膝を折って俯ッ伏し、がたっと、地響きやら物音がしたせつなに、輿の内から暴(あば)れ出た皇子(みこ)宗良の姿が、
「あっ、お父ぎみ」
 と一ト声、それは辺りの肺腑(はいふ)をも刺すような劈(つんざ)きのまに、走り寄って、後醍醐のお胸へ、しがみついておられた。
「…………」
 後醍醐もひしと抱いて、皇子の背へ、はらと御落涙のふうだった。どちらも破衣素跣足(はいすはだし)の親と子である。瞬時、この尺土の上の父子像には、ただの土民や散所民(さんじょみん)とも何の違いもない血の慟哭(どうこく)が見えていた。
 だから深栖や松井の兵にも、それだけは共通な人間感をよび起した。……で彼らもまた、はらわたをしぼられるような苦渋にみちた顔していたが……やがてわれに返ッた深栖三郎は、突如、唖(おし)みたいな発声をふるわせて、こう叫び出した。
「た、たいへんだ。みかどだ。み、みかどに相違ねえわ。蔵太、そっちの輿(こし)を貸してくれ」
 余りな重さと畏(おそ)れに彼は自分で抱えこんだ大魚に狼狽したものらしい。さっそく古輿には天皇を舁(か)きまいらせ、皇子公卿たちは馬の背へ押し上げて、
「それ、いそげ」
 と、当日の捕虜収容所とされていた大和内山の永久寺へ駈けて行った。

 幕軍はかねて布告していた。
「諸方で捕えた落人は、一応みな内山永久寺へ曳いて来い。そして備えの“捕虜ノ簿(ぼ)”に氏名を載(の)せ、後日の恩賞を待つがいい」――と。
 笠置が陥(お)ちて諸方から曳かれて来る捕虜はたいへんな数にのぼった。それも名だたる人々ばかりだ。さしも広い永久寺五十二坊の寺中が足のふみ場もない。
 わずらわしいが、いまその捕虜ノ簿をちょっと繰って見れば。
 僧正では、東南院の聖尋(しょうじん)、峰ノ春雅(しゅんが)、妙法院の執事澄印(ちょういん)。
 公卿では花山院師賢(もろかた)、あぜちの大納言公敏(きんとし)、北畠具行(ともゆき)、侍従の公明、別当実世(さねよ)、烏丸(からすま)ノ成輔(なりすけ)、さえもんの督(かみ)為明(ためあき)、左中将行房、ちぐさ忠顕(ただあき)、少将能定(よしさだ)。
 それに北面の武士、諸家の侍、各地のいなか武者、奈良法師のたれかれなど、おもな宮方だけでも六十一名、またそれらの家来けんぞくまで入れれば、記録物の筆法どおり、
 計(かぞ)ふるに遑(いとま)あらず
 と、するしかない。
 ところで一時とはいえ。
 こんな中へ、天皇と皇子も、やがて土地(ところ)の荒クレどもに追っ立てられて来たのである。それがすぐ坊中の捕虜たちへ水のように伝わったので、一とき、
「……ああ、主上もまた」
 と、彼らの取(と)り籠(こ)められている獄屋(ごくや)から、無念泣きや嘆声が一せいに洩れたというのは、さもあったろうと思われる。
 事の由は、逐次、京都へ早馬されていた。
 すぐ千余騎をつれて、常盤範貞(ときわのりさだ)(北ノ探題)が、天皇を迎えとりに下ってくる。
 が、ひとまずは、宇治の平等院へお移しして、二日後の入京となった。――「花園院御記」によると、武家がたは、後醍醐へお召服(めしもの)の着がえを上げるべきか否かまでいちいち、新帝(後ノ北朝)の侍側、西園寺大納言へ伺いをたてていたという。――以て、天皇がこの日までなお、笠置いらいの白絹小袖一枚でおいでになったことがわかる。
「やわ、かかる身なりで都へ行けよう。しいて連れ行きたくば、武家どもみな礼を以て、輦(くるま)の供奉(ぐぶ)に従(したが)え」
 後醍醐のことである。おそらくはこう仰っしゃって、常盤範貞に手をやかせたにちがいあるまい。で、ぜひなく幕軍も儀装をととのえ、やっと入京の運びとなったものであろう。
 いずれにしろ、警固のものものしさや洛中の混雑は、前代未聞(ぜんだいみもん)なことだったらしい。はやくも、
 天皇奪回
 の風説などさえ飛んでいる。万一をおそれて、この日、武家がたでは、万余の兵を以て、京中の周(まわ)りを、鉄の桶(おけ)にしていたという。
 同時に、捕虜のすべても、六波羅へ送りこまれた。
 かつての月卿雲客(げっけいうんかく)も、人違いするばかりな窶(やつ)れ方やら破(や)れ衣(ごろも)のまま、怪しげな竹籠(たけかご)、伝馬(てんま)、板輿(いたごし)などで、七条を東へ、河原のぼりに入洛(じゅらく)して来た。――見物のなかには、有縁(うえん)の男女も多かったことだろう。涙をしばたたく顔、嗚咽(おえつ)する姿、群集の表情は複雑で、一がいには、言いきれない。
 かかる中を、天皇のお身柄は、南六波羅の別院の一ト棟(むね)で、見るからに怪しげな板屋(いたや)のうちに押し籠(こ)められた。

 ここも変った。
 もう正成が願っていたような平和な南河内の山里ではありえない。
 さきに正成が笠置から郷里へ帰るやいな、楠木家の館(たち)から近い赤坂の一丘には、昼夜兼行で築城の土木(どぼく)がおこされていた。――いらい、昼夜のけじめもなく急がれた“城づくり”なのである。
 地相の選びも、
「ここよりない」
 と、一日できめ、縄取りや、壕塁(ごうるい)の構想なども、自身、わらじ穿(ば)きでさしずを下し、
「短時日の仕上げこそ、このばあいの第一だぞ。おそくも二十日うちに築(きず)き上げよ」
 と、日を切っての急工事なのだった。
 またそれの奉行役には、村人に衆望のある松尾刑部(ぎょうぶ)と爺(じい)の恩智左近を振りあててある。
 土木の工は、武略だけでもおよばず、権力だけでも捗(はかど)らない。――が、正成の“御本屋触(ごほんやぶ)れ”がゆきわたると、領下の百姓から老幼までが、赤坂の丘へ来て、夜も日もなく、土をかつぎ、木を伐(き)り、石をうごかした。
 様式は、いわゆる、
“掻き上げ城”
 というものだった。
 丘のすそ三方面は二百尺から三百尺の断崖である。下にカラ壕(ぼり)を掘りめぐらす。そして土は内部へ掻き上げてゆく。つまり巨大な土壇にたたみあげて、その急斜面には、鹿垣(ししがき)をつらね、さらに胸壁(きょうへき)やら板塀など二重三重のかまえを上にむすび、内にはまた大木や大石を山とつんで、
 ――ござんなれ。
 と、眼下に取りつく敵兵を待とうとする構想なのだ。
 なお上には、数十ヵ所の櫓(やぐら)やら陣屋の板屋根も点々と木のまを綴(つづ)ッて見え、南の高塚山にまでわたっているが、しょせん“城”とよべるほどな城ではない。――まして二十日足らずの早づくりだ。これが、関東二万騎の大軍を前に、どれほどな戦意をしめそうというのだろうかと、味方にしてさえ、あやぶまれたのは、当然である。
 それすら心もとないのに、と正成の弟正季は、
「はてな」
 と、その工事中は、たえず或る一不安に、かられていた。
 というのは、宮方として、彼が日ごろ数えていた近郡の諸武士が、一こう呼応(こおう)もせず、ここへ合流して来る風もないからだった。で、ひとり不安と忿懣(ふんまん)にたえず、或る日、工事の場でふと、そのことを兄に洩らすと、正成は愍然(びんぜん)と、弟の顔をみて言った。
「そんなものを、おまえは初めから計算に入れていたのか。……あらまし、かれらは日和見(ひよりみ)主義。そう見ておれば間違いはない」
 さらに言った。
「それにひきかえ、領下の百姓老幼までが、正成の下知(げじ)に従って、ともあれ必死に働いてくれておるのは、何と、あわれな者ではないか。もし後日、正成が寸功を剋(か)ち得たなら、この者たちを第一の功労としよう。あとの味方などは、寄るも寄らぬも、正成の旗色次第。まずは関東を相手に、一戦の上ならでは、寄りつくまい」
 正成のことばどおり、やがて赤坂の一塁は急速に出来上ったが、そこへたてこもり得る兵力は、一族五百少々、近郡の武士百人足らずにすぎなかった。

 累代(るいだい)、住み馴れた水分(みくまり)ノ館(たち)も、ゆうべの一睡(すい)をさいごに、いよいよ、今朝は立ち退くことになった。
 正成以下の男どもはすべて“砦入(とりでい)り”して赤坂の陣地へうつり、妻の久子は女子供のすべてを抱え、ここからはるか山奥の千早村(ちはやむら)へ一時疎開(そかい)せよといわれて、この朝、同時に引きはらうこととなったものである。
 そんなあわただしい中にも、久子は、三方(さんぼう)にかわらけを載(の)せ、
「お門出(かどで)のお祝いに」
 と、出陣の古式に倣(なら)って、勝栗(かちぐり)やらのしこんぶなどを良人に供え、つとめてホホ笑みを持とうとしていた。
「いい日だなあ。ちかごろにない小春日和(びより)」
 正成もひどく今朝は機げんがよい。――いッそこうなってしまった帰結が、かえって彼をからりと定着させていたのだろうか。――あのジメジメと長雨に腐っている人みたいな怏々(おうおう)とした以前の陰影はどこにもなかった。
「多聞(たもん)、ここへ来い」
 さしまねいて、多聞丸の唇へも、かわらけの酒をちょっぴり舐(な)めさせたり、乳(ち)のみの三郎丸(後の正儀)を、借り物みたいに、鎧(よろい)の膝に抱きかかえて、しばらくは子の髪の毛の手触(てざわ)りに、さいごの家庭の味を嗅いでいる風でもあった。
 それから、またふと、
「たれでもよいが」
 と、廊や武者床にあふれている郎党たちをかえりみて、
「――庭にみえるあの柿の若木の方を、根巻きしておけ」
 と、いいつけた。
 すぐ二人の若党が、下屋(しもや)から鍬(くわ)を持って来て、柿の根廻りを掘りおこし、素縄(すなわ)からげに根を巻きおえたが、しかし「……なんのために?」と、みないぶかしげな顔をしていた。
 正成はまた庭へ向って、
「その柿の木は、わが家の宝。すぐ担(かつ)いで行って、わが家の菩提寺(ぼだいじ)中院の庭の、ほどよい所へ移植しておけ」
 と、命じた。
「かしこまりました」
 若党たちは、柿を四纏(よてん)に担(にな)ってすぐ庭門から出て行った。けれど正成の真意は、いよいよたれにもわからない風だった。――その中にひとり久子だけが、今朝は見せまいとしていた涙をかくしきれずにいた。
 その柿は、土地(ところ)の風習(しきたり)にしたがって、彼女が楠木家へ嫁(か)す日に、生家(さと)から苗を移して来たものなのだ。女は死ぬ日まで、嫁(とつ)いだ家でその柿と共に生きつづけ働きつづけて終るものと、南河内では女を宿命づけている。
「さあ、よいか」
 正成は、円座(えんざ)を立った。
「久子、先へ出ろ」
 子や妻を、うながしてから、やがて彼も、大勢の一族郎党と共に、門の外へ出揃った。「……出たらすぐ火を放(か)けよ」と、たれかに命じおいたものとみえる。たちまち、黒けむりがすぐ後ろの廂(ひさし)から捲きあがっていた。
「左近、左近」
 正成は、爺(じい)を呼んでせきたてた。
「爺、そちと南江正忠は、女子供を守って、千早村へ従(つ)いて行け。山中の多聞寺(たもんじ)をしばしの隠れ家として時節を待つのだ。――なに、なにを不平面するぞ。後ろの安心も戦(いくさ)の大事。はよう立て」
 ことばには馴れる。覚悟の必死のと言いあってみても、すぐ観念化されやすい。
 正成が“砦入(とりでい)り”のその日に、祖先いらいの館を、まず真ッさきに焼き払って出たのは、ことばだけでない覚悟のほどを、みなの眼に見せたものだった。
「これからの毎日は、おまえ方の想像を超えよう。毎日が殺されるか人を殺して自分が一日生きのびるかだ。生(なま)やさしい世ではない。もう今日からは三界に家などもないわれらと思え」
 門外に出て並んでいた一族や妻子は、住み馴れたわが家の炎を前に、また正成の言に、みな水を浴びたようなきびしさに打たれた。――久子もまた、良人のその声を、叱咤(しった)にほかならぬものと聞いた。――で、爺や南江正忠などに守られながら、多聞丸、二郎丸、三郎丸らの幼子を連れ、涙ながら火宅の下を追わるるように、疎開先の千早の奥へ落ちて行った。
「…………」
 妻子の影を見送って後、
「これでいい」
 正成は全身の血がひくような安心感をもった。そして、べつな自己に返っていた。
 が、彼はまだ一族大勢とともに、駒をつらねて、燃えさかるわが古館(ふるだち)を弔(とむら)うごとく門前にたたずんでいた。――もうそこの炎は猫の子、鼠一匹残すまい。すべては灰だ。
 同時に、祖父や父の代に積まれた多少の財も、悪党楠木の名とともにこれで終ろう。あとはいずれ短い自分の半生と、さきに菩提寺の庭へ移させた妻の記念の柿の木が一本あるだけだと思う。
 火は母屋(もや)の上へ燃えぬけてきた。そしてその大屋根の切妻(きりづま)の辺には、橘紋(たちばなもん)の古い旗がひらめいていた。
 累代(るいだい)の楠木家の当主が、遠い地方まで出張(でば)ッて、しばしば土豪的な荒稼ぎをやった陣頭の旗である。正成もまたこの旗を用い二、三度は喧嘩掠奪の快(かい)をむさぼった青年期もあったが、幼少から通っていた兵学の師毛利時親の本心に疑いをもちだし、またほかの学問へ身を入れたり、妻子と愉しむ日を無上として来てからは、とみに領土欲や物欲のために血をながす明け暮れなどは厭(いと)わしくなり、家の軍旗なども、久しく旗箱の中に朽ちさせていたものだった。
 いま。
 その古旗もぴらッと燃えた。
 一炬(きょ)と見えた瞬間に灰となッて吹き飛んだ。
「さ、行こう」
 それまでを見終ると、正成はすぐ駒首をめぐらして、立ち去った。そして一族もろとも赤坂の城へ籠(こも)った。
 砦(とりで)に立つと。
 遠くは摂河泉(せっかせん)の山野から、石川、東条川などの村落も近々見わたせる。西、東、北の三方は高地の展望を占(し)め、南の高塚山や桐山の方から入ると、ただの狭い一平地の平城(ひらじろ)にすぎないのだった。正成たちは、その道から入ったのである。
「正季。拝領の旗を掲げよ」
 正成の命に、この日初めて、赤坂の城頭たかく、世に見馴れない旗がかかげられた。――つい先ごろ、中務(なかつかさ)ノ宮(みや)尊良(たかなが)と四条隆資(しじょうたかすけ)が、二度のみ使としてこの地へ下(くだ)って来たとき、特に下賜された菊水紋(きくすいもん)の旗だった。
 そも、菊水の紋は、たれの考案になったものか。
 流水は、正成の産土(うぶすな)の地、水分(みくまり)を象徴しており、半花の菊を泛(う)かべた図は、天皇軍をあらわしている。
 おそらくは、藤房あたりか。絵心ある公卿のたれかの図案であろう。
 が。それはそれとし、この菊水紋の旗を、尊良親王に付(ふ)して、赤坂城へ下賜された叡慮のうちには図案以上な、機略の妙がうかがわれる。
「宮のうち、どなたか御一ト方を、赤坂城に戴(いただ)けますなら、士気も大いにちがいましょう」
 とは正成も望んでいたところだが、同時に、菊水紋の授与(じゅよ)は、一躍彼を天皇軍の無官の大将として遇せられたも同じである。いいかえれば、この恩賜(おんし)がさらに正成の運命を絶対の極地へおいてしまったといっていい。
 また、このさいの正成の心事については、後世、諸説をよびおこしている。
 天皇の勅、うむなく一死をささげて起ったとする旧説と、いや彼も一類の悪党楠木だったにすぎない。天皇をかついで大いに覇(は)を成し、栄位にありつこうとした野心家であった、と見る新説などである。
 が両説ともに、一個の凡夫正成の、あわれな人とは遠いようだ。かつてはあった大伴氏(おおともし)らの「――大君のへにこそ死なめ」の純粋な気風はもう野にも都にもなかったし、宮廷自体が、そういう大切なものを、荒らし果たしていた。栄職争い、後宮争い、両統の帝位争奪など、百年、限りもないほどな紊(みだ)れである。
 ひとり野人正成だけに、後世いうが如き烈火の勤王の精神があったとするのはむりであろう。肉親の一族から郷土の老幼までを死界へ投げこむような非情はなぜしたろうか。ほんとの大御心のわかる奉持者なら、逆にこれはなしえまい。
 では、野心家か。
 もし彼が野望の奸物(かんぶつ)なら、当然、勝目のわかっている北条方へ付く。――幕軍の先鋒を買って出て、人手も借りず、笠置を陥すぐらいなことはなしえたにちがいないし、またわが家へ臨んだ勅使藤房なども、まッ先に生け捕って、六波羅へつき出し、初手(しょて)の恩賞にありつくことさえ、いとやさしかった。
 それもせず、朝廷の積弊(せきへい)や、後醍醐の無謀もわかりながら、ついに彼が、菊水の旗をここに持ったのは、要するに正成は、同じ時人(じじん)ではあっても、天性、かの佐々木道誉(ささきどうよ)にはなれなかった人だったというしかない。
 もし道誉をして、彼の立場におかせたら、道誉は笑っていうだろう。おれなら正成みたいな馬鹿正直はやらぬ。宮方と幕府の間を巧くやって、べつに生きぬく道を見つけよう、と。
 ともあれ、ここに初めて、菊水の旗が時代の空へ掲げられ、その赤坂城には、天皇御名代格の一ノ宮も加わっていた。
 一書には、大塔ノ宮も共に籠城のように記しているが、なんらかの形で、連絡はあったにしろ、ここにおられた形跡はない。
「籠城の大事は、まず水の手と兵糧だが」
 正成が心したのはそれ。
 水の手は、高塚山のふもとから城中へ引き、兵糧にはおよそ食える物は何でも山野から運び入れた。ただ河内地方は去年も今年もあいにくな旱魃(かんばつ)で作物のみいりはよくなく、蓄備の郷倉も水分(みくまり)の土倉もその底は浅かった。
 が、正成は、
「この冬さえ支(ささ)えれば」
 という見こしだった。
 冬さえ越せば、その間に、かならず「変(へん)」が生じよう。変の起る可能性は二つある。
 一は北条氏自体がいなみなく内にもっている自解素因の表面化であり、二には、各地の宮方が、ようやく腰をあげて、呼応(こおう)の旗を上げはじめるにちがいないとする観測だった。
「それを待つまの支(ささ)えだが、さて、笠置がそれまで保(も)つだろうか」
 これにたいする正成の答えはなかった。
 しかも、あまたな人は死なすのだ。運を天にまかす愚は、正成もわきまえている。が、起ち上がりからすでに、彼の本意でない戦(いくさ)だし、もちろん用意もなかったのだ。やはり奇蹟を祈らずにいられない。
 と、籠城後まもなく。
 その日、近郷巡回の偵察帰りに、加賀田の隠者(いんじゃ)毛利時親に会ってきた弟の正季は、なにかの報告も終ったあとで、正成へすすめていた。
「兄上。……兄上にも、いちど加賀田へお越しあって、時親先生へお目にかかり、久々に先生の兵略や胸中のご意見なども、お叩(たた)きになってみては、どんなものでしょうな」
「近ごろもお元気なのか」
「いよいよ以て」
「ならば、それでいい。あらためて、おたずねしてみたい儀もべつにない」
「が、師弟の情、先生には、しきりとお案じでおられまする」
「正成が戦をか」
「いや、兄上が勅を畏(かしこ)んでお起ちになったことは、われら同様、祝着(しゅうちゃく)にたえぬ、会心のいたりだと、あの琥珀(こはく)いろの眸をかがやかして、異様なまでに、ご満足なていでしたが」
「では、不沙汰のご不満だな」
「そうです。なぜ正成は、築城にかかる前にも、この山荘へやって来ぬか。……正成には、大江家伝世の兵学、この時親が胸中のもの、あらましは授(さず)けてあるが、さらに、かかる時に会したからは、六韜三略(りくとうさんりゃく)の奥義までも、ことごとく伝授してやろうものを、と」
「そうか」
 かろく聞き流して、
「正季。合戦は机の上のことではない。隠者が机に頬杖ついて、ご見物なされているのは仕方もないが、そちまでが、隠居の門へ、いちいち物好きな伺い立てをしに行くのはよせ」
 やや不機嫌にたしなめた。
 なぜ兄は事々に、加賀田の隠者を嫌うのか。
 かつての兵学の師として、畏敬はしても、努めて避けている風にみえる。
 正季には、正成の真意が酌(く)めず、その折も、もっと告げたい師の伝言はあったのだが、正季はついいえずにしまった。
 どんなことかといえば、隠者時親は、ここから二里余の奥の山荘で、彼にこういっていたのである。
「赤坂の築城はむだだ。――地形、兵糧からみても百日とは支(ささ)えがたい。よしまた守りえても、笠置が保(も)たん。――笠置が陥ちたあとの赤坂城は孤(みな)し児にもひとしかろう」
 予言者めいた冷たい声音(こわね)でこういわれたとき、正季はぞっとせざるをえなかった。
 時親の言はまだあった。
「そのばあいを考えてみい。天皇は関東勢に囚われ、北条氏は御座(おまし)へ迫ってどんな勅令でも発しえよう。きのうの宮方も、逆に賊軍とよばれ、正成が心に待つ諸国の呼応(こおう)なども、そうなっては心もとない。……正成ほどな者がよ、どうしてそんな先が見えぬのか。あれほどわしが兵学を仕込んだ正成がと思えば、その起(た)ち上がりの下手(まず)さ、おろかさ、腹立たしいばかりぞ。……が、なお奇策はなきにしもあらずだ。立ち帰って兄へ申せ。陣中の寸時をさいても、わずか二里余の道、なぜこの加賀田まで来ることを、さほど億劫(おっくう)にしておるのか、と」
 あきらかに、師時親は、往年(おうねん)の弟子正成が、築城に先だって、これへ見えないことを、不満としている口吻(こうふん)であった。
 正季は、師の達見を、きもに応(こた)えて帰ったのである。が、恨むらくは兄へそれはいえず、城中の空気も、城外遠くの形勢も、すでに何を顧慮しているひまもなかった。
 その晩から、翌々日あたりへかけて、ここへ迫りつつある敵の全貌もあらまし手にとるごとく映ってきた。
 およそ鎌倉発向の東国勢は、四ツの流れをみせている。
 第一軍は、大仏貞直を大将に、大和路から水越峠をへて赤坂をめざすもの。
 第二軍の大将金沢貞冬は――河内讃々良(ささら)から高野街道を南へと。
 第三軍は、仙馬越前、北条遠江守、武田、江馬、渋谷、狩野などの諸族連合で、天王寺から平野街道を赤坂へ。
 そしてまた第四軍は。
 笠置との両端をかけながら伊賀方面を遊撃しつつある足利高氏の一軍――などだった。
 すべてで、二万をこえる大軍だし、もちろん、彼らは赤坂の小城を眺めて、滑稽にさえ感じていた。――東国武者の大部分は、楠木だの正成などという名すら初耳であったのだ。だからここを主力とも、功名の主戦場とも見ず、尤(ゆう)なるものは、まず笠置の陣へむかっていた。
 ところが、笠置はまもなく陥ちて、天皇以下、捕虜すべて都送りとなったので、俄に、全軍二万は、捲き返して、狭隘(きょうあい)な赤坂城一つの下へ、ひしめき寄って来たのであった。

 十月半ばである。万木(ばんぼく)の落葉や、秋風のさけびは、
「笠置は陥ちた」
「天皇も捕まったぞ」
 と、赤坂の孤塁へ、夜も日も告げているようだった。
 寄せ手の陣から、異様な唸(うな)りをひいて飛んで来るかぶら矢の結び文(ぶみ)も、再三、
降伏せよ
 と、すすめ
なんのための戦いか
 とも書いている。
 まったく、幕軍側からみると、石と材木の組み合せにすぎない一孤塁に拠(よ)っている人間どもの妄念は、ただただ、「奇態(きたい)な奴らよ」としか思われなかった。
 が、一ト揉(も)みにと、当ってみればおそろしく強いし、城中の結束は見事にピンと張りを示すので、なおさら理解できないものがある。
 そこで、寄せ手は、城兵の心理をついて「降伏して出る者はみな助けん。正成以外はその罪を問わず」という矢文(やぶみ)を、土塁(どるい)や竹楯(たけだて)の内へむやみに射こんでみたが、それにもなんの反応はない。
「やめろ、やめろ」
 後陣(ごじん)の大将が代って出た。そして新手を誇って言った。
「しょせん、奴らは死に神につかれているのだ。望みのままここを奴らの墓場にしてやる」
 鼓(こ)を鳴らし、陣鉦(じんがね)をたたき、数千のかぶと虫が、東国訛(なま)りの将に叱咤(しった)されては、赤坂の丘の下へ向ってまッ黒に駈け、たちまち丘の三方にわたるカラ濠(ぼり)を埋めつくす。
 上では、
「すわ」
 と見た城兵の顔が、土塀、櫓(やぐら)、楯(たて)、さまざまな障碍物(しょうがいぶつ)の蔭などから覗いている。
 一せいな矢の雨も、頃を計っているのらしい。ムダ矢を嫌う風なのだ。やがて、寄せ陣の敵が、傾斜を必死に這いのぼり、あらまし断崖の半ばごろにいたると、城中にも合図の鼓(こ)や鉦(かね)が鳴りとどろき、傾斜全面にわたって、乾いた土砂が濁流(だくりゅう)のようになだれて来る。
 怪我(けが)はしないが、土砂との闘いはしまつが悪い。そのころ矢は的確にそそぎ初め、射る矢射る矢が敵をさらッて、ごろごろカラ濠へころげてゆく。
「つづけ、怯(ひる)むな」
 寄せ手のほこる兵量が、二陣三陣とさらに崖の全面をおおいつくせば、むしろそれは城方の好餌であった。大木、岩石の雨が、轟然(ごうぜん)と、彼らの頭上に降りかかって来る。
 こんな繰返しの十日間ほどに、幕軍はもう全く手を焼いていた。――地勢が狭隘なので、大軍もいちどにはつかえない。小出しでかかれば、みなごろしの惨(さん)に会う。
 しかし、城兵の姿も顔も、はやこの世のものとは見えなかった。
 すでに、笠置の破れが聞えただけでも、士気の銷沈はいなみようなくいたところへ、またも意外な一事件が城中には起っていた。
「兄上っ」
 あわただしく、櫓(やぐら)へ駈けのぼって来た正季が、昨夜来、夜すがらそこを陣座としていた正成へ早口で告げた。
「いつのまにか、宮のお姿が見えません。四条殿をお供に、陣脱(じんぬ)けされたものとみえます」
「なに、宮が」
 正成は、ちょっと色をなしたが、しかし驚いた眉ではない。嘆息だった。
「……ああ、ついにお怺(こら)えなく、ここを落ちてしまわれたか。切(せつ)に、お止めしておったのだが、ぜひもない」
「兄上、城中の兵には、なんと触れおきましょう。笠置は落ち、ここの天皇御名代の宮までが、ご落去(らっきょ)とわかったら、いかに股肱(ここう)の兵でも、はや戦う気にもなれますまい」
「正季。おまえは」
「え」
「はや挫(くじ)けたか」
「なんで、この期(ご)に」
「そうだろう。ならば、ほかの面々をも、疑うのはよくない。こんな小城、こんな小勢、疑えばすぐにも割れる」
「では、宮のご失踪も、あからさまに触れおきますか」
「む。御脱落は残念だが、敵にとらわれた父皇(ふおう)をお慕いの余り、ここを出て、みかどと運命を共にせんとの御至情かと察せられる。……そのとおり各部署の将兵に、告げわたしてよいぞ」
 正季はだまって去った。
 この一事も、孤塁の士気を、沮喪(そそう)させたことはいなみえない。――正季には愚におもわれた。宮はいてもいなくても、陣頭には立たれないのだ。本丸ふかくに御座(ぎょざ)あるように拵(こしら)えておくことだって不可能ではない。――やはり兄は兵法に不得手なのか。
「さすがは、お師は炯眼(けいがん)だった」
 加賀田の隠者時親が、たえず彼のあたまにあった。――隠者の予言はここへ来て、事々に的中している。
 正季はもだえた。
「元々、自分たちには大志がある。大志を抱いて起ったのだ。兄にはそうした気概もみえぬ。自滅を考えているらしい。それをいさぎよしとしているらしい。くそっ、ここで死んでは」
 彼は毎日の合戦に、歯がみを噛んだ。
 敵は、尊良親王(たかながしんのう)が城中から消えたことも知ったように、日にまし猛攻を加えてきた。しかも、防ぎとする岩石や大木も、また矢数(やかず)にもかぎりがある。で、正成の指揮は一変していた。夜陰(やいん)、間道をとっては、奇襲に出た。風のごとく襲っては風のごとく返り、そのたびに大きないたでを敵に与えた。
 もっとも、この前後、正成の手には一つの有利な情報として「関東勢ノ内ニハ頻々(ヒンピン)トシテ内紛ノ騒動絶エズ」という聞えが、味方の細作(さいさく)(おんみつ)から入ッていたと思われる。
 なにしろ公称四万と号す関東武者だ。それがこのとき京から前線まで、無軌道にあふれたのだから、味方同士の喧嘩沙汰も引ッきりなしであったらしい。小田時知(おだときとも)の陣所と同輩の宿所との間では、すでに同士討ちの合戦が起るところだったと「花園院御記」のうちにはある。
 連日、敵のその虚を突きつつ、正成は十月二十日がらみとなって、ついに悲壮な一令を、赤坂中の将兵に触れ出した。
「よく戦った。矢は尽き力も果てるところまでやった。ところで今夜、正成は死のうと思う。生きたい者は落ちるがいい。別れても止(とど)まっても、ここまで信じあった者、二心とは思わぬ。随意、どこへでも落ちてくれい」
 もとより正成の真意はべつにある。最後とは本心ではない。むしろ、阿修羅(あしゅら)の世に、ぜひなく悪鬼正成と生れかわった自己の修羅道の苦患(くげん)は今日が第一歩ぞとさえ、ほんとには思っている。
 けれど。
 もう後悔をおぼえだしている兵も中にはあるにちがいない。かりにじぶんがただの一兵だったら、この二十日あまりの血の籠城だけでもうたくさんだ。泥水をすすって野に生きるまでも逃げ出したくなるだろう。そうした者までを、このさき無限の修羅道へひッ抱えてゆく気にはなれなかった。
 そこで、
「正成は今夜死ぬ覚悟」
 と、彼らへ告げ、
「生きたい者は、どこへでも落ちて行くがいい。ここまでもよく戦ってくれたぞ」
 と、礼までいったわけである。――が、寂(せき)としたきり、土塊(どかい)の群れを思わせる将士の列はいつまで何の声だになかった。かすかな列のせせらぎは鬼みたいな男が顔をおさえているすすり泣きなのだった。
「さて心には思うても、おたがいの前では、あらわにも言いえまい。いま名のり出よとはいわん。……深夜、ここが火の手となるいぜんに、随意思うところへ落ちのびてよいぞ」
 言いわたしは終った。
 だが、それからの指揮は峻烈(しゅんれつ)そのものだった。
 砦(とりで)のうち二ヵ所ほどに大坑(おおあな)を掘らせ、あちこちの屍(かばね)をみなその中へ運ばせる。もちろん敵方の死骸も拾い残さない。
 正成の所持の品、持仏(じぶつ)、経巻(きょうかん)なども、一つの坑へ入れた。さらには、一トすじの菊水の旗もそえておく。
 そうして、たそがれにいたると、正成は、糧倉の物や、わずかな酒も、すべて取り出させて、
「思うざま、名残りを尽せ」
 と、全城に振舞った。
 いつにない大どかな炊(かし)ぎの焚(た)き火が、砦(とりで)の丘をあかあかと浮きあがらせた。その頃まではまだ一員の脱落者もみえなかった。すべて兵は悲壮になっていた。また、正成の死の覚悟を、たれひとり疑っていた風でもない。
「はて、変だぞ?」
 早くも見たのは寄せ手方の陣である。すでに夕方ぢかくから、しきりに、さぐりの勢(ぜい)で小当りに当らせていたが、山上の常ならぬ気配を知ると、
「さては、死にもの狂いの苦計に出て、深夜の逆襲(さかよ)せを謀(はか)っているにちがいない。奴らの酒もりがすんで、宵寝(よいね)に入ったと見えたらそれが機(しお)だ。ぬかるな」
 と、大挙の姿勢をくずすなく刻々と更ける夜をにらまえていた。
 やがてのこと、砦(とりで)は降る落葉の下に余煙も消えて、ひそまり返った。と、たちまち、山下にとどろくものがあった。武者声である。陣鼓である。はやわれがちに三方の崖を漆(うるし)光りの甲冑(かっちゅう)やら刀槍の影が、おめきおめき、よじのぼっている。
 喊声(かんせい)は、城中にも揚がッた。「――敵にも、さいごの馳走をしてやれ」と、一人の城将のいった声が、特に大きく寄せ手のうえに聞えた。およそ、あるかぎりな矢も、これぎりとする大木や大石も、地鳴りとともに降(ふ)って、崖の肌から敵影(てきえい)をなだれに捲いて拭き去った。
 人海戦術などという意図でなくも、寄せ手はしぜん大軍の量にものをいわせている。
 一波をおさめては、またすぐ一波の喊声(かんせい)を繰出し、激闘は夜半におよんだ。――すでに守備の城兵側には、たれの手にも弓はなかった。射る矢が尽きていたのである。よじ登ッてくる命知らずを迎えて、いたる所で乱刃(らんじん)の斬りむすびや取ッ組みあいの肉闘が行われていた。
「正季、さいごだ。かねていいおいたとおり、二ノ櫓(やぐら)、三ノ櫓(やぐら)、ほかの陣屋陣屋へも、今はいちどに火をかけろ」
 正成は、眼の下の味方へ、こう命じた。
 そして自身の立っていた本丸櫓へも火をつけさせて、炎のうちから、
「多聞兵衛正成がさいごを見よ」
 と、なんどか叫んだ。
 けれど彼の姿をよく見たものはなかった。
 そこの黒煙には面を向けようもなかったし、砦は全面な紅蓮(ぐれん)の池と燃え、また、たちまち山そのものが、焼けるにまかせる山火事となっていた。
 その下をくぐって。
 城兵は桐山、吉年村、森屋などの方へ、算(さん)をみだして逃げて行った。また、水ノ手の高塚山を掻き分けて、無二無三、奥へさして落ちて行く一群も先にあった。
「おやかた」
「兄上」
 喘(あえ)ぎ喘ぎ、追っついて行った正季らの若武者ばらは、先に見えた正成の影へ、恨めしげにまず言った。
「お見捨ては残念です。ただの雑兵ではなし、どこへでも落ちて生きよと仰っしゃられても、効(か)いなく生きられる者ではない。どこまでもお連れください」
「おう正季たちか」
 正成のそばには、松尾刑部、神宮寺正師(じんぐうじまさもろ)、安間了現(やすまりょうげん)など六、七人の同族がかこんでいた。
「怒るな、ゆめ、見捨てるなどという腹ではない。正成死す、と敵を謀(はか)るには、こうせねばならなかった。――しかしこれから先は長い冬ごもり。多くの同勢をつれては歩けぬ」
「では千早の奥の、お子たちや北ノ方の隠れ家へでも一時お潜みなされますか」
「いや、そこへは寄らぬ。あくまで女子供の巣は世の外にそっとしておきたい。……さし当って後図(こうと)を立てるいとまもないが、大塔ノ宮の隠れおわす大和の般若寺(はんにゃじ)へさして行こうと思う」
「般若寺へ」
「一切が、ひとまず終った。あとは長い、十年二十年の計をもって臨まねばなるまい。再挙のはかりも、親しゅう宮にお会いしたうえならでは」
「お供はかないませぬか」
「むだだ、むしろ邪(さまた)げになる。それよりは、時の来るまで、随所に身をひそめ、縦横(たてよこ)の結びを密にし、再び、正成が招く日の合図を山野に待っておれ」
「わかりました……」正季は、引きつれている若武者ばらをかえりみて「赤坂は敵にわたしたが、河内の土は、おれたちの体もおなじものだ。おれたちのあるかぎり、金剛山の失(う)せぬかぎり、ここの御楯(みたて)の城は変らぬ。しがみついて時節を待とう。……のう、ここは仰せのまま袂(たもと)を別ッて、静かにお見送りしようではないか」と、言って諭(さと)した。

 赤坂落城は、笠置全滅後二十三日目だ。――十月は終りかけている。
 正季やほか一党ともちりぢり別れて、その夜、姿を消した正成は、おそらく心あてとしていた大塔ノ宮とも会えず、宮のお行方を追って、さらに紀州熊野か、吉野方面へでも分け入ったのではあるまいか。
 なぜなら、正成が大和の般若寺(はんにゃじ)へたどりつくいぜんに、宮の潜伏は、はや幕軍の知るところとなっていたからである。
 路傍にさえ風説があった。
 一乗院の好専(こうせん)なる法師が、幕軍に密告して出て、みずから討手の先に立ち、大塔ノ宮の隠れている宿坊を、夜明けに急襲したものだという。
 折ふし、宮の随身らも、前夜どこかへ出むいていて、宮おひとりであったらしい。
「南無三、のがれえぬところか」
 一たんは自害を覚悟されたが、元来、胆(きも)ふとい宮である。
「待てしばし」と、しずかに隙見(すきみ)しておられた。
 すると、本堂の大床へのぼって来た土足の将士は、あららかに何か吠えたけびながら、内陣を掻き荒らしたり、また大床のすみにすえてあった大般若(だいはんにゃ)の経唐櫃(きょうからびつ)のまえに立ち、中の経文(きょうもん)をつかみ出して、その底までをしらべていたが、やがてのこと、
「ここでもない」
 と口々に、奥の方丈や別殿のほうへ駈けこんで行った様子。
 そのすきまに、宮はすばやく、大般若の経ビツの中へ躍りこんだものである。みずから乱離(らんり)な経巻(きょうかん)の解(ほぐ)れをかぶって、深く沈み、息をこらしておいでになった。
「もし、ふたたび兵が来たら、天命それまで」
 と、み手の短刀を、腹に擬(ぎ)しておられたのだ。
 と。ほどなく、またもいぜんの兵どもが引っ返して来て、血まなこな様子だったが、一度掻き荒らした経ビツの底までは覗こうとせず立ち去った。じつに九死に一生をえられたのである。
 この宮――ただしくいえば大塔ノ宮二品親王(にほんしんのう)は――かくてその随身、光林坊玄尊、赤松(あかまつ)ノ律師(りっし)則祐(そくゆう)、木寺(きでら)ノ相模(さがみ)、岡本ノ三河坊、村上彦四郎、片岡八郎、平賀三郎、矢田彦七らと共に、熊野詣りのいなか山伏と身を化(け)して、その日に、般若寺から掻き消えてしまった。
 しかし、笠置、赤坂の失墜(しっつい)がひびいて、熊野ノ別当以下三山(ざん)の勢力も、宮方には冷たく、宮はやがて吉野から十津川(とつがわ)の深くに一時身をかくした。
 そのあいだ、どこで正成と会われたかは、山中の雲煙裡(うんえんり)、まるで神仙の会盟みたいで、なんの確証ものこっていない。が、両者の後の行動には、はっきりした連繋(れんけい)がとれている。どこかで密会をとげ、また再起の計などしめしあわせていたことは疑いもない。
 ひるがえって。
 その後の世上をみると、
「河内の正成は、砦(とりで)の火の下に、自害して果てた」
 と、一般に信じられていた。
 また、凱歌のもとに、大軍を収めて、やがて六波羅へ帰った鎌倉諸大将の面々も、
「多聞兵衛以下、楠木一族、あらましは死にたえました」
 と、公報していた。

「兼好(けんこう)さん、兼好さん」
「どこ行くの」
「から傘抱えてどこ行くの」
「酒瓶(ちろり)を提(さ)げてどこ行くの」
 子供たちは彼の姿を囃(はや)した。どこまでも、からかいながら、くッついて来てはなれない。
 およそこの界隈(かいわい)でなら、吉田山のすね法師を知らぬはなく、子供らまでも、この小父さんが麓へおりて来たと見れば、いつもこの通りなのである。
 兼好は立ちどまって、
「だめ、だめ」
 と、子供たちへかぶりを振った。
「今日は町へ買物に行くんだからね、またこんど、おもしろい話をしてやるよ。今日はだめ」
「なに買いに行くの」
「お米」
「うそだい」
「お酒もね」
「お酒なんか明日でもいいじゃないか」
「そうはゆかない。味噌(みそ)もないし炭もない。この兼好さん、干乾(ひぼ)しになっちゃう」
「こないだの話の続きをしておくれよ。よう、よう」
「もう日が暮れる」
「よう。ようッてば」
「ごらん。雪か雨になりそうだよ。みんな早く家(うち)へお帰り。兼好さんも、お腹(なか)が減ってる」
 幸いなことに――そのとき彼のそばをすれちがった半蓑(はんみの)に旅笠の男が、ふと、
「おや、吉田山の卜部(うらべ)兼好さまは、あなた様でいらっしゃいますか」
 と、小戻りに腰をかがめて来た。
「は、兼好は私ですが」
「それは、それは。いや、よい所で」
「おまえさんは」
「伊賀の飛脚でございまする。こんな道ばたでお手渡しもいかがと思いますが」
 と、腰へ廻した包みの内から一札(さつ)の手紙を抜いて、それに矢立(やたて)の筆を添え、
「おそれいりますが、一つこの帳面にお受判(うけはん)を」
 と、さし出した。
「はてね、伊賀の誰から?」
「小馬田(こまた)の殿のお託し。ごらん下さればお分りのはずで」
「お。……」
 封には、服部治郎左衛門元成(はっとりじろうざえもんもとなり)、妻卯木(うつぎ)と、二つの名がならべてあった。
 兼好は、旅さきの初瀬で会った扇売りの夫婦と、その夜の蛍(ほたる)を瞼にうかべた。
「では、おまえさまは、この御夫婦のお知りあいか」
「いえいえ、小馬田(こまた)のご領内に住むただの使い屋にすぎません。ほかにも御用をおびて、あちこち駈けずり廻っている者。お花判(しるし)をいただいたら、さっそくこれでお別れを」
 飛脚は、その迅(はや)い足を見せて、もう先の角を曲がって行った。いつのまにか、子供らの影も消え失(う)せている。
 すぐにも手紙を見たい気がしたのだろう。兼好は山の庵へもどりかけたが、思い直したふうでそのまま傘をかかえ、酒つぼを提げ、足駄(あしだ)の音も不器ッちょに、たそがれ近い洛東(らくとう)の粟田口(あわたぐち)を、まごまごしていた。そして一軒の小酒屋を見かけると、
「や。しばらくだね」
 と、そこの土間へ入って行った。
 ここの小酒屋はなじみとみえる。
 兼好は酒艶(さけつや)の出ている土間の卓へ頬杖(ほおづえ)ついて、横着猫みたいな眼つきでじろじろ店中を見まわしていた。
「ご亭主、いつから店を開けたんだい」
「つい五日前からですよ。いやもう、ひどい目にあいました」
「鎌倉の軍勢がどっと入ると、京中の酒が、たちまち、なくなってしまったそうだが」
「ひどいもンで、大酒屋の蔵はみな封印され、小酒屋も、雑兵たちの踏ン込み放題。タダ飲みされてしまいましてね」
「あげくに、店は休みか」
「笠置、赤坂とかの、戦(いくさ)は終ったそうですが、町の衆へ上げるお酒なぞは、てんで手には入りません。……そいつを、何とかした物なので、兼好さん、お気のどくですが今夜のはお値段が、倍の上にもハネ上がっておりますよ」
「酒ばかりか、米も塩も着る物もだ。いやはや、らちゃくちゃない世の中」
「だが、戦はこれでお仕舞いでしょうね」
「いや、業(ごう)の車の廻る音が、地獄に聞え始めたばかりだ。廻り出すと、それを廻し始めた下手人でも、止まらないのが業の車さ。これからだろうよ人間が泣きをみるのは」
「おどかしちゃいやですよ」
「ま、お互い達者に機げんよく凌(しの)ぐことさ。一日でも正味のとこを、人間いかに生くべきや、よく噛(か)みしめて暮らすんだな」
「お待ちどおさま」
 亭主は酒とつまみ物を彼の前にならべた。そして、兼好の提げて来た徳利にも酒をつめて、そのほうは明朝お住居へ小僧に持たせましょう、と言った。
「あ、そうしておくれ。そしてな、ご亭主。ここへ蝋燭(ろうそく)をかしてくれないか」
 兼好はふところの飛脚手紙を取り出した。
 封は卯木(うつぎ)と元成の夫婦(ふたり)名前になっているが、筆つきからみて、良人の元成がしたためたものらしい。
 手紙のうちには。
 まず初瀬いらいの不沙汰のわびやら、その折に誓ったことなど繰返したすえに、
――この秋、ぜひなく伊賀の養家の跡目を嗣(つ)がねばならぬことになり、心ならずも、いぜんの武士に立ち返っておりますものの、初瀬でのおことばなど、卯木(うつぎ)ともかたりおうて、念々、忘れたことはありませぬ。
時も時、あさましい戦乱、世のすえ、どうなりましょうか。自分たち小さい者はただただ漂(ただよ)わされている思いです。どうか、おん僧にも、ひとしおお身ご大切に。
 としてあった。
「……ああ、あの夫婦(ふたり)もか」
 兼好は、嘆息した。
 みすみす濁流のさか巻く淵(ふち)へ、呑まれ去る者を見ながら、手もとどかず、救うすべも持たない身を自分に見たような辛(つら)い、わびしい、やりきれない顔いろだった。
「ご亭主、もひとつおくれ」
 酒も、うまくはない。
 しかし、彼は、うまく飲まねば、自分もまた人生の一敗北者になるように思っている。やがて陶然(とうぜん)と、外へ出た。
 外は、白河颪(しらかわおろ)し、いつかチラチラ京の雪だった。

 雪は翌朝まで降った。初雪らしく、うッすらと京の三十六峰を白くして明けた。
 兼好は、炉(ろ)のカユ鍋を覗いて、
「そウれ炊(た)けてきた。命松(めいしょう)、いま持って行ってやるぞ」
 と、一ト枝の柴(しば)を折って火にくべ足した。
 吉田山の庵(いおり)はせまい。
 おまけに小僕(こしもべ)の命松丸が、炉部屋(ろべや)のとなりに、さんばらな童頭(わっぱあたま)だけを夜具から見せて、熱臭く寝こんでいた。よほどたちの悪い風邪とみえて、日ごろの元気者が、今朝もまだうんでもなければ、すんでもない。
 こんな小っこい僕(しもべ)でも、さて、寝込まれてみると不便であった。物臭な兼好も、自分で買物には出ねばならず、朝の掃除も、といったふうに、机だけに倚(よ)ってもいられない。――だから彼はよく人にもいうように「子などはないがいい」主義であり、結婚なども「つまらない拵(こしら)え事(ごと)」と見、家のうちに多くの子孫をかかえて、その子孫繁栄のために、あくせくしている一般の風をも、
“いやしげなるもの”
 とさえ嫌っている。
 一定(じょう)この世は、無常(むじょう)が住(す)み家(か)。
 それが、このすね法師の徹しようとするところか。ひとつわが一生は、それの試(ため)しに生きとおしてみようとでもしているらしい兼好だった。
 長い放浪のあとは、すっかり旧知や縁類にも見かぎられて、ひと頃は神龍院にもいたが、法師でありながら坊主の世界にも馴じめず、ついにはこんな一庵をむすんで、人からは「なに楽しみに生きているすね法師か」と、いぶかられていた。
 その彼は、やがて、
「さあ、できた」
 碗(わん)にカユを盛(も)って、
「たんと、お喰べ」
 と、童(わっぱ)には枕もとまで運んでやり、自分も炉べりで喰べはじめている。
 命松丸は引きとりてのない親類の孤児だった。もっとも八歳ぐらいまでは、押しつけッこに三、四軒は転々として養われてきたのだが、夜尿症という癒りにくい病気はあるし、ほうっておいたら羅生門の乞食の群れにでも落ちるしか未来はあるまい――と、ついこれを、兼好が背負ってしまったわけだった。
「生涯、妻ももたねば、家族ももたぬ」
 としている兼好としては、これは一つの矛盾といえよう。自分でもまた、後悔はしていたが、寝小便たれの命松丸(めいしょうまる)も、ここへ来ては、気性もすっかり快活になって来たし、また小僕(こしもべ)として調法でもあったから、兼好の悔いは、償(つぐな)われて余りがあった。
 ところが、この寝小便小僧は、兼好という家族嫌いなすねお主(あるじ)の厄介になって来た身でありながら、この庵へ来たときから、もひとり自分以外の、連れ子を連れていたのである。
 何かといえば。それは、雀の子であった。
 友だちなしに育ってきた命松丸は、いつか雀を袂(たもと)の中に飼うことを覚えていた。使いへ行くにも、ふところに入れて歩き、寝るにも雀と寝ていたらしい。――その雀が一羽、いまも顔を汗だくにして、カユの碗をふうふう抱えこんでいる命松丸の肩先で、
 ――ここへも朝飯を。
 といいたげに、ちょんと、行儀よく止まっていた。
 雀は、いつか兼好にもよく馴れていた。
 命松丸がカユ碗(わん)を下において咳(せ)き込むと、雀は、彼の肩から兼好の肩へピラと移って、餌をネダるような媚態(びたい)を作る。
「命松、もういいのか」
「たくさんです」
「もっと食(た)べい。たくさん食べぬと風邪は癒(い)えぬ」
「もう、はいりません」
 彼はまた烈しく咳き入りながら、火の玉みたいな顔に深々と夜具をかぶって寝てしまう。
 ――雀はチョン、チョンとそこらを歩く。――兼好が机の方へ立ちながら、なにか撒(ま)いてやったからであった。
 机は主(あるじ)の“止まり木”に似ている。――吉田山の梟(ふくろう)は、ここから世のうつり変りを飽きもせず眺め暮らす。
 つい百日ほどな間に世は一ぺんに引っくり転(かえ)った。
 笠置で捕われた公卿やら法師や武者ばらが、たくさん六波羅へ送り込まれ、つづいてはまた、赤坂城も落ちたと聞く。
「……この冬を」
 みかどの後醍醐も囚(とら)われのまま、いまだに六波羅別院の板屋びさしにお過ごしと人々は沙汰している。
「人みな何を求めて?」
 と、兼好は自問自答をしてみるほどな興もなかった。――釈迦(しゃか)のいう救いもない末法末世(まっぽうまっせ)がやって来たかと見きりをつけているばかりだった。
「……だが、ふしぎ」
 その彼にも、むかしの恋人のみは忘れえない。初老の埋(うず)み火は亡き女の面影をあたためている。
 もし若いころの恋が成っていたら、子も生(な)していたかもしれず、必然、滝口の武者の一員として、こんどの合戦には召されていたろう。失恋と女の死が、自分を今日にいたらしめていたものだった。――ふしぎである。自分の遁世(とんせい)も、自分できり拓(ひら)いて来たつもりでいたが、やはり運命に吹き舞わされつつこう生きている一片の生命なのか。
 運命はある。否めない。
 逆に、あんなにまで、芸道へ生きたいといっていた元成と卯木(うつぎ)の夫婦すらも、ついに時の浪に攫(さら)われて、余儀なく以前の武士に返ったと、昨日の便りでは告げていた。
 では世の種々相は、みな運命か。人々の意志もじつは運命の従僕にすぎず、そして戦争なども、季節のごとく、たれが好まないでも、自然におこってくるものなのか。
 そうとは思えぬ。
 としたら、たれが火つけの下手人だろう。いや自分にかかる運命すらも捌(さば)きのできない人間が、ただ一個でそんな魔力をほしいままには出来ッこない。衆というものらしい。衆愚のなす業(わざ)らしい。じゃあ衆愚とはなんだ。どんな化け物か。――それもやっぱり一個一個の中に住んでる物(もの)の怪(け)ではあるまいか。
「……もし、兼好さまえ」
 台所で声がした。
 いまじぶんになると、毎日台所へ来て、水瓶(みずがめ)に水を漲(は)ったり、洗い物などしてゆく近所の洗濯婆さんであった。
「へんな武者がお二人、枝折(しおり)から庭の方へ、黙って、いきなり通って行かしゃりましたぞえ」
「え。こっちへか」
 いや兼好は、机のまえの庭先に、もうその強(こわ)らしき者を、眼に見ていた。
「そちが、あるじか」
 案内も乞わず、庭へみえた二人の武者は、横柄(おうへい)だった。
「さよう、あなた方は」
 つり合いをとって、兼好もまた、机のままをうごきもしない。
「鎌倉どのの侍大将、長崎四郎左衛門(ながさきしろうざえもん)ノ尉(じょう)の麾下(きか)の者だが」
「それはゆゆしいお越し」
「四条京極の陣所まで、一しょに来てもらいたい。いなやを申すなら引っ立てても連れて行く」
「ほ。なにしにです」
「先夜、梨(なし)ノ木の辻で、お使い先のご家来へ、手いたい狼藉(ろうぜき)を働きおった奴は、後になって、吉田山の曲法師(くせほうし)なりと、やっと分った。もうそれだけでいいだろう。さあ立て」
「ははは。あのことでか」
「なにを笑う」
「笑わずにおれぬ。長崎殿の兵が、なんと告げたかしらぬが、先夜、二条の暗がりを通りかかると六、七名の兵が一人のみやびな女性(にょしょう)をとらえ、必死な悲鳴もなんの、見るにたえぬ猥(みだ)らな乱暴におよぼうとしておった」
「いいわけか。そんな作り事を聞きに来たのではない」
「いや、作り事として、水に流す気ならその方が大いによろしい。……あの折は見るに見かねて、ついわしが石を投げた。すると、犬か兵か、夜目でよく分らんが、女をすてて一度にわしの方へ咬(か)みついて来た。わしとて、身は守らずにいられない。投げつけ、蹴仆し、中には多少怪我をさせた者があったかも分らんな」
「ともかく立て」
「迷惑だ。陣所へなどまいるのは」
「あくまで腰を上げぬ気か」
「困ったのう」
 兼好は呟いた。
「うかと、道ばたのひとの難儀も救えぬとは、さてさて不便な世の中になったもの」
「ぐずぐず申すな。引きずり出すぞ、襟がみ取ッて」
「ぜひもない」
 やっと、机を離れて、ふとんの中の命松丸と、台所の媼(おうな)へ、
「行って来るよ。世間様とのおつき合いは、どうにも仕方がないからな」
 と、すぐ垣の外へ出た。
 雪の後なので、兼好はわらじをはいた。外にはまだほかの兵が十人もいて、彼を馬の背へ押し上げた。ていのいい捕物である。
「世捨て人にも、災難はやって来るのか?」
 するとふと、彼の襟くびの辺に、ふんわりと、あたたかな物がさわった。何げなく手をやってみると、掌(て)の中に雀がはいった。命松丸が飼い馴らしているあの雀である。
 チュン!
 と雀は嘴(くち)を鳴らした。
 人に接吻を求めるような姿態(しな)である。その掌(て)を顔へ近づけてやると、雀は、兼好の歯ぐきに挟(はさ)まっていた今朝の汁の実の菜ッ葉を見て、ツイと嘴(くち)に奪(と)るやいな喰べてしまった。
 雪解(ゆきげ)の道がひどい。
 馬の背は、岡下がりに、いつか町へ出て、丸太橋も越えている。ぬかるみの人わめきやら雪光りなど、戦後の巷は、まだあらかたが、まばゆい騎馬の人やら兵の色調に占められていた。
 すると、とある辻で、
「おおい、すね法師、吉田の兼好、どこへ行かるる」
 と呼ぶらしい声が、どこかでしていた。
「おや、誰なのか」
 兼好は馬の背から振りむいた。
 そして。大勢の供を道ばたにのこして、一人こっちの方へ近づいて来る騎馬の武将を見いだすと、
「オ、六角(ろっかく)殿でしたか」
 と、兼好の顔には、旧知の人に会ったとするなつかしみよりは、すぐ地獄で仏と、すがりたいようなものが正直に出てしまった。
 六角時信(ろっかくときのぶ)といえば、昨今、市中で羽ぶりのいい篝屋奉行(かがりやぶぎょう)(警視の職)のひとりである。――近江源氏の佐々木一族で、この秋の叡山攻めでも、とにかく湖畔の戦いでは勇名を売っていた。――で、兼好が、
「いや、よい所で」
 と、たてつづけに、身の災難を訴えたのは、彼としては唐突でもなし、まの悪いことでもなかった。
 ところが時信は、日ごろのすね法師が、今日はかぶとを脱いで、泣き言を言い抜くわいと、滑稽に感じたのか、あるいは軍は軍に同調するたてまえで、長崎四郎左衛門ノ尉の部下をはばかっての表現か、
「ははは。それは」
 と、かろく聞き、また、
「ハハハハ」
 と笑いながし、一こう身に沁(し)みて、兼好のこの難儀に同情の風はなかった。
 のみならず、その返辞もまた、たぶんに揶揄的(やゆてき)な口調であった。
「……道理で、今日はいつもの兼好に似ず、馬に乗り徒士(かち)をしたがえ、どうしたわけの外出(そとで)かと思うたら、そんな仔細で曳ッぱられてゆく途中だったか。その程度なら、まあたいした科(とが)にも問われまい。これが宮方加担(みやかたかたん)の露見(ろけん)とでもいうのだったら、まずまちがいなく首はないが」
 彼がこう言っているまに、長崎の家来たちは、時信へ目礼したのみで、さっさと兼好の馬を先へ追い立ててしまったし、時信もまた背をむけかえて、待たせておいた自分の部下を呼んでいる。
 兼好は淡(あわ)い悔いを噛んだ。
 彼にとっても、じぶんにとっても、おたがいは、路傍の人にすぎなかった。――それを頼みに縋(すが)ろうとしたなどは、こっちの戸惑いというもので、時信の知ったことではあるまい。
 元々、世の外にいて、戦乱はもちろん世事一切にも関(かか)わらぬとしている者が、自分に生じた災難だけを、その世間の中で生きている者へむかって「助けてくれ」と、救いを乞うのも、虫のいい料簡だった。兼好は気がついて、われとわが身を、
「いい気な者よ」
 と、憐(あわ)れんだ。
 それにしろ、途中で六角時信に声をかけられただけでもその功徳(くどく)はあった。――追っ立ての兵たちも、ていねいに変って来たし、やがて四条京極の陣所では、よくある蹴(け)る撲(なぐ)るの乱暴な目にもあわされなかった。
 揚屋(あがりや)とよぶ板囲いの内に、ひと晩、ぶちこまれたばかりである。天皇ですらこれくらいな目には遭(あ)わされている異常季節な世とおもえば、腹が立つこともない。
 彼は、朝夕の獄飯(ごくはん)を、少しずつ残しては、命松丸がよくやるように、掌(て)の上で、雀にそれを食べさせていた。
 すると、二日目の午さがり、番卒がやってきて、彼を外へ呼び出した。
 牢の外には、ひとりの部将が待っていた。しかも、いんぎんな恰好で、
「やあ兼好どの。お気のどくな目におあわせした。きのうからの無礼は、どうか御用捨(ごようしゃ)を」
 と、なんべんとなく、腰をかがめる。
「……ほう?」
 いずれは白洲にでも曳きだされて、権柄(けんぺい)な言いがかりやら笞(しもと)にも耐えなければなるまいかと、腹もきめていた兼好なのだ。
 それなのに、相手は、
「まったく、部下どもの思い違いでおざった。一切は当方の落度、どうかお忘れおきを」
 と、あやまり入って、どこかには、兼好の逆ネジをさえ恐れている風がみえる。
 それどころか、兼好は一歩もはやく、こんな所の武者門は出てしまいたい。彼は断るように言った。
「では、帰ってもよろしいのですな」
「ご念にはおよびません」
「やれやれ」
 心から、身を暢(の)ばすと、
「あれに、お迎えの輿(こし)もみえておりますれば、輿の内へ」
 と、部将が先に立って、揚屋路地(あがりやろじ)から、横門のわきへ誘って行く。
 みると、あじろ輿をすえたまわりに、派手やかな半武装の武者が三人、輿丁(よちょう)が四人、ひざまずいて待っていた。
「……これは?」
「さ、どうぞ」
「輿などいらん。吉田山の乞食法師、歩いて帰ります」
「でも、せっかくなお遣(つかわ)し」
「お迎えとは一体、誰の?」
「委細は行く先でおわかりになりましょう。じつはそのお方より主人長崎殿へ、なにか直々(じきじき)の御交渉があったので、かくは貴僧の身をお返しすることになったものだ。……ひと言、先のお方へは、貴僧からもお礼をのべねば相すむまい」
「なるほど。しかし、誰とも分らいでは」
「いや告げては興(きょう)もない、対面までは告げるなと、迎えの者も口を封じられて参ったとか。……ともあれ、お乗りください」
 輿に付いて来た家来たちも口をそろえていうのである。まかせるしかない。兼好は背をかがめて輿へ入った。ぷうんと蘭麝(らんじゃ)の薫(かお)りがする。
 と、そのとき外の者が笑った。なにか他愛(たあい)なく輿の周(まわ)りで噪(さわ)ぎ合う風だった。兼好はそれに思い出して、ふところや袂をさぐった。雀がいない。
 雀は輿(こし)を恐がッて、兼好が内へ身を入れかけたとき、輿の屋根に残っていた。それを見て、輿丁(よちょう)の者が捕まえかけると、ピラと逃げ、輿を上げかけると、また輿の上へ来て止まる。奇妙な雀もあるものと、武者や輿丁もつい面白がったものらしい。
 そこで、兼好は、
「チッ、チッ」
 と、唇(くち)を鳴らした。そして輿の横へ掌(て)を出して見せると、雀はすぐ掌のうえに降りてきた。兼好は淡紅色(ときいろ)のきゃしゃな彼の足を折らないようにそっと持って、すこし怯(おび)えているらしい眸とその柔かい腹毛に頬ズリを与えた。
「しんぱいするなよ。どこへ行ってもわしがいるよ。いやおまえがいいお手本だ。おまえに習ってさえいれば、この世間どこにいても心配はないはずだっけな」

 むかしは誰の邸宅か。
 いずれはここも、洛内進駐軍の一大将の宿所と変っているのだろうが、馬糞だらけにしておくには無残なほど、築土(ついじ)のさまや庭園などもすばらしい。
 七条坊門を見て、佐女牛(さめうし)の杉並木を横に、兼好を乗せてきた輿は、そこの門内へ入った。
 と見えてからまもなくのこと。侍の一名が、おくの橋廊下をこえて、渡殿(わたどの)の蔀(しとみ)の下に平伏していた。
「殿」
 それも再三、
「……殿」
 といっては、内の答(いら)えか、ゆるしかを、待つ風だった。
 まだ西日が赤い。小首をかしげて、彼は次の細殿へ入って、そこからおなじように内の主君へ声をかけ直した。
 すると、やっと、
「たれだ」
 と、中で返辞があった。
「主膳(しゅぜん)にございまする。行(い)てまいりました」
「主膳か、主膳なら入ってもいい。どうした、吉田の法師は」
「は」
 何げなく主膳はさかいの唐戸(からと)を開けた。が、壁代(かべしろ)が垂れていてどちらの姿もよく見えないのでなお一ばい大きく開けた。すると何を見たのか、五十男の早川主膳が顔をまっ赤にして、さしうつむいたまま、いうべきことばもどうかしてしまった姿である。
「――法師は首尾よく連れて来たのか」
 内の者は、べつだん何ともしていない声音(こわね)である。が、主膳はなお「……は」といったきりなのだ。戸惑いがしずまらなかった。何かご主君が、悪戯(わるさ)をおもいついて、じぶんを試しているのかとさえ疑われたらしい。
 なぜなら、まだ昼中なのに、几帳(きちょう)のうちではご主君が女を抱いていたのである。それもあらわな枕絵(まくらえ)の痴戯(ちぎ)そのままなかたちで、こっちを振りむいているのであった。さすが女性(にょしょう)のほうは羞恥にたえないというよりは酷(むご)い仕置きにでもあっているように花の顔(かんばせ)を捻(ね)じかくしたきり息をつめている様なのであるが、ご主君の方はその青い艶(つや)やかな若入道(わかにゅうどう)の頭(つむり)から額(ひたい)へかけてぼうと上気をみせながら、どこかには残忍な悦(えつ)を持った眼が生き生きと獣(けもの)めくまで主膳を見すえているのだった。
「あほうよ……」
 若入道は罵(ののし)った。
 主膳が襟くびまで真っ赤にしているのが、むっと、気にさわったものかもしれない。が、主膳の方ではご主君がみずから自嘲を聞かせたものと受けとったようである。やっと勇気をえて顔を上げかけた。すると、焦立(いらだ)たしげに若入道がまた語を投げた。
「主膳、懸け合いは、うまくいったのか。何か先で、ごてごてはいわなかったか」
「いえ。おこころよく」
「ハハハ。こころよくでもあるまいが」
「でも、長崎殿には、ほかならぬ佐々木殿のお扱(あつか)いではと、さっそく法師を揚屋(あがりや)から出して渡してくれました」
「そして、すね法師の身は」
「書院に待たせておきましたが、しきりに不審顔のていで」
「そうだろう。いや一興(きょう)一興。夜食は出さずにおけ。後ほどその兼好と一しょに喰べてやろう。大儀だった主膳」
 主膳は始終おもてを上げず、またそうっと、片手でさかいの唐戸(からと)を閉めた。
 やがてのこと。
 それまで、ぽかんと独り一室におかれていた兼好は、家臣の早川主膳から、
「こちらへ」
 と、みちびかれて、べつな客殿の方へ案内されていた。
 あかりが灯(つ)く。館(やかた)じゅうが朧(おぼろ)に浮き出す。灯は雪まだらな庭園と映(は)え合って、廊から廊のツリ燈籠まで小松の大臣(おとど)の風流を真似たかのようである。
「いぶかしい?」
 兼好には、ここのあるじが何者なのか、まだ判断がつかなかった。
 公卿か、武将か。
 いやいや、そのどっちにせよ、現下の洛中はまだ暗黒の府も同然なのだ。――笠置、赤坂は一おう終熄(しゅうそく)したものの、伊賀、伊勢、吉野、紀州、西国にまでひそむ正体知れぬ宮方のすべてまでが消えてしまったわけでもない。
 それに、そなえて。
 現(げん)に鎌倉の二万余騎も、畿内(きない)から洛中にふみとどまって、万一に待機しながら、ごった返しの軍政下にあるのである。
 だから一般の物騒はいうまでもないし、流言蜚語(りゅうげんひご)もさかんで、たとえば昨今では、
「先帝(後醍醐)には、六波羅別院の獄屋(ひとや)で、もう暗殺されている」
 などという声すら巷(ちまた)をくぐっているほどだった。
「……はて、そんな中で、陣屋の態(てい)なら知らぬこと、こんな私邸めかした華奢(かしゃ)を飾って、はばからぬのは何者なのか」
 彼の怪しみは、やがて解けた。まもなく、たったひとりズカズカと入って来て、
「やあ」
 と、設(もう)けの上席に、あぐらを組んだ人がある。
 つやつやしい入道(にゅうどう)あたまながら、鎧(よろい)を外(はず)した腹巻だけの華美な武将いでたちで、こがね作りの太刀を横におき、
「おどろいたか、法師」
 と、いった。
 近江の佐々木道誉である。
 兼好のまごつき顔を興がッて、しきりに笑い抜くのであった。
「ア。これは」
 兼好は正直に驚いてみせた。佐々木殿の京屋敷は、たしか以前から梅小路であったはず、思いつくはずもありません、と言った。
 それからまた、どうしてこの兼好の災難をご存知あって、お助けの迎えを賜わったのでしょう? と呆れ顔に首をかしげると、
「知らいでか」
 道誉は、兼好の迂(う)かつさを、また笑って、
「おととい御僧が途中で出会うた六角時信は身の同族、すぐ彼より聞いた。で急に、久しく見ぬすね法師の姿を思い出し、長崎殿へ貰い下げの使いをやったわけよ。……まあ数日は、ゆるりとここにいるがよい」
 と、はや独りぎめに、極め込んでいる様子だ。
 もっとも、兼好の東国放浪中には、鎌倉の彼のやしきに、ふた月も三月(みつき)も気ままにいたことがある。だから兼好の境涯から癖(くせ)まで、彼には何もかも知られていたし、おなじように兼好もまた、道誉なる人物の、表も裏も、観(み)とおしていた。
「ともあれこの乱世を、どちらも健在でまずはめでたい。すね法師、久々で一献(こん)まいろう」
 道誉は、次の間へ向って、派手派手と手を鳴らした。
 兼好も酒は嫌いな方ではない。それに相手が佐々木道誉、身分は月とすっぽんほど違うが、知縁(ちえん)は古く、その欲望の旺盛な人間味なども、まずはよく分っている。
 世間では。――近江の守護で、さきの執権高時の無二の愛臣というだけでもう彼を特別な羽ブリの人物としかみてないが、兼好としては、そんな羽ブリとつき合ったおぼえはない。
 どっちも、何ら求めようとしない裸と裸を黙契して、ただその交(まじ)わりを幾ぶん意識的に戯画化しながら、他愛なく愉しみあうのを本意としていた。たとえば道誉が、
すね法師
酒のむときは
すねもせず
と、言ってからかったりすると、兼好も負けずに、すぐ筆をとって、
婆娑羅(ばさら)な
殿を
肴(さかな)にもする
 と下(しも)の句(く)をつけ、共に大笑いするといった風な仲にすぎないのであった。
 だが今夜はすこし兼好も勝手がちがって、どうも出鼻がまずかった。
 助けられてこれへ来た負目(おいめ)もあり、一別いらい、こよい久々で見た道誉は、さすが陣中の人らしく、うかとは、“肴(さかな)”にもできないような惧(おそ)れが多少兼好にもしていたのである。
 が、道誉は自分も窮屈らしいその腹巻すがたを説明して、
「こうしていても、いつ軍務のため、表(おもて)ノ間(ま)へ立つかもしれぬし、真夜半、六波羅へ馬を飛ばすなども、再三なのでな」
 と、こんな一刻(いっとき)が、せめて陣中での鬱(う)さ晴(ば)らしなのだといわぬばかりに、よく飲むし、また相手へも、
「飲め、飲め」
 と、しきりにすすめた。
 座には、侍はいず、女ばかりが三人も酌していた。遊女ともみえず、侍女(こしもと)のようでもない。
「……ははあ」
 兼好には頷(うなず)かれた。
 先夜自分が二条の辺で、兵の狼藉から救ってやった女性(にょしょう)なども、この一例に入るであろう。――あの晩の“女狩り”もじつは兵らの欲望でなく、女を攫(さら)ッて来いと命じたのは、案外、彼らの主君、長崎殿自身であったのかもしれない。
 むかし、木曾殿の兵が、平家に代って都入りしたときも、都の女は、影をひそめたそうである。その木曾義仲ほどではなくても、いま、関東方の将士にしてみれば、その野性と飢えたる目に、この混乱の都は、禁断の木の実や花が、採るにまかせてあるように香(にお)っていて堪(たま)るまい。
「そうだ、昔も今も。……おそらくはこれらの女も」
 木曾殿時代の夜をおもい合せて、兼好がふと、そばの女たちの色の沈みを、あわれと見ていると、道誉はその眼を邪(さまた)げるように、からかった。
「法師。どれがお気に入ったかな。志賀寺の上人でさえ、迷えば迷う。すね法師だって、おかしくはない」
「いや、恋には懲りました。もう燃え殻のままでいたい。二度とは燃えたくありません」
「うそだ。四十そこそこで」
「いや、まったくです」
「では、試(ため)そうか」
 兼好は本気に恐れた。
「女。そいつは平にご遠慮する。なによりも拙僧のニガ手です」
 道誉は面白がって、
「いや、こん夜こそ、御僧に女を抱かせてみせる。いやとはいわせぬ」
 と、よけい執(しつ)こい。女たちを、わざとケシかけて、
「その法師をものにしたら、ほうびをつかわすぞ。もっと酌してやれ。そばへ寄って纏(まと)うてやれ」
 と、いよいよ天(あま)ノ邪鬼(じゃく)をあらわし始めた。ことばだけでなく「意地にでも……」と、思い募(つの)ッて来たのかもしれない。
「おゆるしを。もうはや、一献(こん)も飲(い)けませぬ」
 正直、兼好もいちどに酔(よい)をおぼえて来たので、こう、かぶとをぬいで暇(いとま)をつげると、
「なんの、帰ろうとて帰そうか。それ女、手をとって寝室へ運んでやれ。……なに、無用じゃと。ならば、もすこし落着いて飲め」
 と、道誉は離さない。眼をすえて、あらたまる。
「法師」
「もう、この辺でお放しを」
「ム。……いや口を割ってまで、飲ませようとはいわんよ。代りに、道誉の説法をすこし聞けい」
「ほ。それは聞き物」
「このくそ坊主。なんじは元来、何者だ。――法師めかしながら世の法師でもなし」
「おそれいります」
「ひたぶるな世捨て人といいながら、じつは人間好きで、弥次性もたっぷりで、世間を、ひょこひょこ見歩いては、独りでおもしろがっておる」
「やはり地獄行きの方ですな」
「むろん無間地獄(むげんじごく)だわ。空々しゅう酒の害など説くくせに、酒ほどよい物はないともいう」
「その通りなのでして」
「恋を讃美するかと思えば、女という女は、口を極めて悪くいう。猥(みだ)らなら猥らを誹(そし)り、さればとて、世帯持ちよく、貞女めかしたなども、女としてつまらぬもの。むしろ厭(いや)な部類に入る女だと、いつかいったぞ」
「はははは」
「男の死を追って尼となり、なりすました女など、ことに味気なくて浅ましなんども」
「ほんとですよ」
「きまった妻(め)などは持たぬにかぎる。男としては、独り住みして、折々通うて逢(あ)う女こそが、にくからぬものと」
「そうです」
「――総じて“花は盛りに、月はくまなきのみを、見るものかは”これが自分の好むところ。恋も“逢うさ切るさの、思い乱るる恋こそがいい”と、それも信条みたいに申しおった」
「どうもよく、愚僧の古いたわ言を、いちいちお覚えでございますな。……そこで婆娑羅殿(ばさらどの)の説法とはなんですか」
「この道誉も、兼好坊主の言い草に、そっくり、まずは賛意を表(ひょう)しておく」
「はて。やくたいもない」
「がの、法師。じつの話はこれからなのだ」
 道誉は女たちへ「退がれ」と眼くばせした。そして彼らが座から消えるのを待って、声をひそめた。
「たしか法師は、後家の小右京(こうきょう)を昔から知っていよう。花は盛りにのみ見るものかは、正直、道誉はいま、乱るる恋に乱れているのだが、どうじゃ、ひとつ仲を取り持ってくれまいか」
 小右京という女性名(にょしょうな)はめったにない。兼好にもすぐその人は思い出された。
 それも彼女がまだ西華門院(せいかもんいん)(後宇多(ごうだ)の後宮(こうきゅう))に仕えていた女童の頃から知っている。
 兼好も、かつては後宇多の仙洞(せんとう)に北面として近侍していたことがあったからだ。
 しかしその小右京は、やがて恋人の日野俊基と人も羨(うらや)むような家庭をもった――と、そこまでは兼好も聞いている。――が、俊基が鎌倉へ曳かれて斬られた後の消息は、さっぱり聞いてもいなかった。
 それをいま、道誉からふいに彼女の名が言い出されたので、薄命な佳人(かじん)の以後の漂(ただよ)いを、兼好もすぐ現実の波間に置いてみたのだった。
「じつはの、法師」
 道誉は、言いつづけた。
「まだこんな乱(らん)にもならぬ以前から、日野朝臣とわしとは、公的にも、また私(わたくし)の交(まじ)わりも浅くなかった。するうち、血の気の多い朝臣はあんなふうに突ッ走って、ついに鎌倉の断罪に会うてしまったのだが」
「して、小右京の君は、ちかごろどうしておりますか」
「後家となって、仁和寺(にんなじ)の辺りにかくれておるそうな」
「では、世に背(そむ)いて」
「安心せい。おぬしの嫌いな尼には未だなっていないそうだ」
「いや近ごろは、尼もあまり流行(はや)りません。平家の世頃には、男を亡くした女、恋にやぶれた女、女の半分は、ぞくぞく、尼になったものですが」
「それだよ、女の考えも、進んで来ておる。小右京もまだ二十四、五。悩んでいるだろうと思う」
「だからどうしたというんです」
「わしも悩んでいるということをいっているのだ。兼好、あとは読んでくれい」
「それだけでは、ちと難読でございますな。この頃では、お会いになったこともないので?」
「いや、白状するがの。ついこの間、陣の余暇をうかがい、鎌倉の軍監佐々木道誉という資格でなく、個人として、そっと微行(しのび)で、小右京の隠れ家を見舞うてやったわさ」
「ははあ、後家見舞いですな」
「後家見舞い」
「あちこちの敗亡の公卿館へ、後家見舞いと称(とな)えて、夜ごと、東国武者の群れが、築土(ついじ)を乗りこえて入るのを、ずいぶん町の者は見ているそうで」
「ばかな、そんな悪戯(わるさ)かよ。たしかに道誉とて、好(す)き心もないではないが、元々は純な同情だった。けれど訪ねて、泣かれたのがいけなかった」
「まるで女性(にょしょう)のせいみたいにしてお仕舞いなさる」
「仏法でもいうではないか、そこを“女性の罪障(ざいしょう)の深さ”だと。亡き良人の友へ、余りに美しく泣いてみせるなどは、その罪、半分は女にもある」
「なるほど」
「また日もたつにしたがって、小右京の涙も乾(かわ)いてくるに違いない。どうだろう、彼女(あれ)をひき取って、余生を見てやりたいとおもうのだが」
「よいではありませんか。女性の方さえご承知なら」
「ところが、その後は無情(つれな)い。とんと文(ふみ)の返辞もない。ひとつ御僧が参って、兼好流に小右京の頑(かたく)なを、説法してはくれまいか」
 兼好流にとは、道誉のうまい口前だった。日ごろの兼好の恋愛観や女性観を是(ぜ)とすれば、自説にたいしてイヤとはいえないはずである。
 はたして、兼好は、「そいつは閉口(へいこう)ですな。色恋のとりもちなどは、法師の不得手。ましてただ人(びと)の後家ではなし」などと、頭を掻いたりはしなかった。
 一おう、考えてはいたが、
「承知しました」
 兼好は呑みこみ顔に。
「私の災難を助けていただいた儀では……いわば一貫(かん)お借り申しているわけ。ご返礼に、お使いはいたしましょう」
「ひきうけてくれるか」
「おやすいお言伝(ことづ)て」
「ム、ありがたい」
「したが、殿」
「なんだ」
「自然でないことは成り立ち難い。そこは、あらかじめおふくみおきを」
「いや、そこを兼好流に口説(くど)け。ぜひとも、うんといわせて欲しい」
「いやいや。口説くのと、ただ説くのとでは、大きな相違です。口説くとは、当人どうし相対(あいたい)のことで、愚僧の役は説くにとどまる。……たとえば虻(あぶ)や蝶が、雄(お)シベと雌(め)シベのあいだの風にのって、花粉を運んだとしましても、胚子(たね)を結ぶときもあり結ばずに終ることもありますからな」
「では、あの小右京が、尼になるのも、御僧見ていられるか」
「知ったら、止めるかもしれません。おぞましい」
「そうれ見い。尼になるよりはと、そこを説くのだ」
「ことばも過度に用いれば暴力でしょう。暴力でなら何も、兵をおやりになって、攫(さら)って来てしまえばそれまでのことです」
「だが、小右京を自害させたら何もならぬ。だからこそ、御僧にこんな打ち明け事もしたものを。いやか」
「いやならひきうけはいたしません」
「ならば、きっとやれい」
「やりますが、自然の所作(しょさ)は知りませんよ。生き生きと物すべて生きたいように生きている。乞食法師の知るところにあらずです」
「なんのかのと言いおるが、きっと行って小右京を説いてくれるな」
「は。そのうちに」
「そのうちでなく、近日にも」
 道誉はここでまた酒を呼び、それからは、さらにりんりと飲み更(ふ)かした。
 帰るのをあきらめて、兼好も屈託(くったく)なく酔って寝た。べつの寝所へ入るとき、彼にもひとりの女がついて来た。が、兼好はあえて拒みもしない。またそれ以上のこともしない。
 女は兼好と枕をならべて、初めのうちは一つの姿態(しな)をもっていたが、やがてすっかり安心感を四肢(しし)にたるませて寝息に入った。その経過もよく知っていたほど、じつは兼好のほうこそ、ちと寝つきが悪かったようである。
 が、彼はあたたかな、可愛いい物に、その胸毛の辺を、こそぐられていた。宵からふところに寝つかせていた雀である。が、雀も寝飽いていたのであろう。やがて夜も明けぬうち、彼のふところを飛び出して、チチ、チチと、ふとんの上で囀(さえず)ッていた。
「おやっ?」
 彼も首をもたげた。館(やかた)じゅうで、何かただならない物音がする――。
 音の性質で、兼好はすぐ四囲(しい)のとどろきを、
「お、合戦だな」
 と、判断した。
 むかしは滝口の武者卜部兼好(うらべかねよし)だった者である。すぐ体には以前のものがよみがえっていた。あわてはしない。
「女」
「…………」
 女は、ふとんの上にふるえている。館じゅうの屋鳴(やな)りを白い顔に聞きすましていた。
「外へ出るな。ここにおれよ。耳をふさいで」
 兼好はいそいで法衣を着る。そして、ハタハタと胸へ跳(と)びついてくる雀を手に掬(すく)い取って、それを懐中(ふところ)へ仕舞いながら、外の廊へ出て行った。
 暁闇も、まだ真っ暗といっていい。
 ただ中ノ坪や大屋根には、消え残りの雪が白々と凍(こお)ッている。そこから切りつけてくるような冷たい風。
 見れば、薙刀(なぎなた)、槍(やり)、長柄(ながえ)などの光が、閃々(せんせん)と、坪向うの廂(ひさし)の下を表のほうへ駈け急いでいた。――いや兼好の身も、後から後から、走って来る甲冑(かっちゅう)の者に、叱咤(しった)されたり、突き飛ばされたり、幾度となくよろめいた。
「夜討ちか」
「いや朝駈(あさが)けだ」
「敵はどこに」
 口々、さまざま、兼好の耳をもかすめて行ったし、兼好自身も外へ出て見まわしたが、異変はここの館(やかた)ではなく、どこか遠い所のものらしい。
 しかし、すぐ横の佐女牛(さめうし)の杉並木では、非常太鼓のうちに、くろぐろと陣備(じんぞな)えがおこなわれていたし、またいんいんたる貝(かい)の音は洛中の空の諸方で鳴っている。
「ともあれ、何事か起ったな」
 兼好はこのまま帰るにはいい機(しお)だとも考えた。で、館の前の辻を、六条坊門の方へ一歩曲がりかけると、人数のあいだを、馬の軽歩でトットと馳けて来た佐々木道誉が、ちらと彼の影をみとめたらしく追って来た。
「法師法師。どこへ行く」
「オ、これは殿」
「なぜ無断で帰る」
「非常の勃発(ぼっぱつ)とみえますゆえ」
「なに大したことはない」
「どこかで、小合戦でも起りましたか」
「まだ確報はわからぬが、どうやら宮方の残党が起って、白河口や鳥羽、北野あたりで騒ぎ出しているらしい」
「ほう」
「おそらく這奴(しゃつ)らは、六波羅の獄舎(ひとや)におわす先帝(後醍醐)のおん身を、何とか、奪(うば)い回(かえ)さんものとあがいているのらしいが、そうはさせぬ。……が、法師よ、いまから吉田山へ帰るなどは物騒だぞ、よせ、よせ」
「いえ、ほどなく夜も白みましょうし、それにまた、法師の気安さ」
「行くか。行くなら行け」
 事態をひかえているので、道誉も見かぎッたように言い放った。けれど、兼好の背へ、もう一ト言、こう浴びせておくことは忘れなかった。
「法師、小右京のことは胸にたたんでいるだろうな。いい返辞を待っておるぞ」
 ――兼好はもう先へ歩いていた。空は明けしぶるような雲を低く垂れ、市中には犬の子一匹見えず、この朝の不気味さはまたかくべつだった。

 未明の頃どこかでは、たしかに小合戦もあったらしいが、やはり都は広いというものか。昼になっては五条の市(いち)や坊門の人通りも、ふだんのとおりで、町はけろりとしたものだった。
 だが、洛内進駐の諸大将の門では、今暁の動員そのまま、まだ武備を解いた様子はない。
 とくに道誉は、軍目付といわれており、鎌倉の北条高時に代って、耳目(じもく)の役を果たしていたので、
「黄母衣(きほろ)の者を組め。巡察に出るぞ」
 と、午(ひる)ごろからは、小隊をひきいて、自身市中の見廻りに出あるいていた。
 黄母衣(きほろ)が通る――
 町の目は、馬上華やかな若入道の姿へ、まばゆさと、遠い恐れを、そばめ合った。篝屋(かがりや)の兵も敬礼する。――一般に、道誉の評判はたいへんいい。
 とくに工芸、美術、建築などの諸職のあいだでは、彼を守護神みたいにありがたがっている。
 都に軍馬が満ちてからも、鎌倉同様に、それらの者の保護令を布(し)いただけでなく、彼自身の華奢(かしゃ)好みも刺戟して、諸職の振興に一段の戦時景気をよび起していたからだった。
 彼が、巡視隊の家士十二人を選んで、そのすべてに白と黄(き)おどしの具足(ぐそく)を着せ、黄と白の母衣(ほろ)を負わせ、手綱、馬飾りまですべて山吹ぞっきの行装で練り歩いたなども、一端の例といえよう。――それは暗黒下の殺伐な都に、明るい異彩となったにちがいないから、人はみな、
「佐々木殿の山吹(やまぶき)一揆(き)」
 と、呼び囃(はや)した。
 一揆とは、一式の意味である。
 色(いろ)一揆は、ほかの大名にも、流行(はや)り出した。
 いま、洛内に駐(とどま)っている諸大将には、大仏貞直、金沢貞冬、長崎四郎左、千葉貞胤(さだたね)、結城親光、六角時信、小山秀朝、江馬越前守、三浦ノ介の入道などが十数ヵ所に門を張っているが、それら諸家の軍装のあいだにも、紫紺(しこん)、赤、くさ色、はなだ、小豆色(あずきいろ)など自家の色彩をさまざま誇る色一揆の傾向が現われかけていた。一目(もく)して「何家の誰」と分る実用上の便宜もある。
 ――話はそれたが。その日、道誉は、
「まず、これ以上には、さしたる変(へん)も起るまい」
 と、市中一巡を終りかけていた。
 今暁、諸所に蜂起(ほうき)した宮方の残党なるものも、数では知れたものだった。そしてその元兇も、大塔ノ宮の腹心の者で、いまなお叡山(えいざん)にいるという、殿(でん)ノ法印(ほういん)良忠なることがほぼ分った。
 首魁(しゅかい)の良忠は、どうやら、捕り逃がしてしまったらしい。だが各所で、残党の兵十幾人かは捕え獲たと、道誉は、途上の篝屋(かがりや)の者から聞いて、
「よしっ」
 とばかり、さっそくその駒を六波羅へ向けかえていた。
 彼の観察では。捕虜のうちには、かならず楠木勢の下にいた河内兵や、大塔ノ宮の部下もいるに相違ないと観(み)たのである。
 そして、これが中(あた)っていれば、さらに後醍醐の警固には一そうの緊密を要するがと思い、急に、北ノ探題越後守仲時と会う気になったものだった。
 そこも六波羅広場のうち。俗に“樗門(おうちもん)”と呼んでいる庁と別院の境にある一門の通路だった。
「やあ」
 と、出あいがしら。
 越後守北条仲時は、じぶんを捜してこれへ来たらしい佐々木道誉を見て、
「今暁来、ご苦労だったな」
 と、まず言った。
「あなたこそ」
 道誉も、探題仲時の重責を心から察して、
「事あるごとに、ここのお守り役も大抵ではありますまい」
 と、ねぎらった。
 樗門(おうちもん)の向うは、疎林(そりん)にかこまれた別院である。いちめん大地は朽(く)ち落葉で埋まって見え、寂(せき)として、人声もない。
 後醍醐はそこに囚(とら)われておいでだった。陽あたりの悪い冬木立のうちに寒々と見える板屋廂(いたやびさし)の古建物がそれである。――それをめぐッて、はるか遠くの四隅(よすみ)に急ごしらえの仮屋建ての兵舎があった。すくなくも三、四百の兵は昼夜交代で万一の変(へん)にそなえているものらしい。
「いや、まったく」
 仲時は、探題としては若すぎるほどな年歯(ねんし)だが、それでもおおいえない疲労の翳(かげ)を見せながら、しいて薄く笑った。
「時務、軍務などは、いくら多端(たたん)でも何ともせぬが、先帝(後醍醐)のお守(も)りにはとんと手を焼いたぞ。佐々木、早よう何とかならんかな」
「ならぬかとは」
「ご処置の決定だ」
「そこは、鎌倉表においても、あらゆる議事を尽しておりましょうが、ほかならぬ前天皇のことですから」
「うかと断(だん)を下(くだ)せぬのは分りきっているが、何せい、こう延々(のびのび)では、ここが堪(たま)らぬよ、仲時もほとほと疲れた」
「まこと、今暁のように、残党どもの出没もあり、ややもすれば、先帝奪回とか、先帝御殺害などの風説もあっては、お気の休まるひまもありますまい」
「それらはまあいい。当然な軍務だからな。やりきれんのは、朝に晩にのおむずかりだ、ご逆鱗(げきりん)だ。そのいちいちに仲時参れと、呼びつけられる」
「ご起居のていは」
「いぜんご勇壮そのものだ。獄舎(ひとや)に籠(こ)められても、ご自身、罪の意識などはまったくない」
「それや、ありますまい」
「常人(つねびと)でも、笠置いらいの憂(う)き目(め)にあい、獄舎住(ひとやず)みとでもなれば、痩せ細るものを、ご健康な点も、驚くべきものがある。そして、板屋にいても、いッかな天皇の礼を執らねば、一切のご応対もして給わぬ」
「それは、きついお気疲れ」
「今もまた、仲時召さるというので、何事かと参ってみると、侍側の者から、ご幽所(ゆうしょ)に火の気(け)も無うては、夜の御寝(ぎょし)もお凍(こご)えでいらせられる、火桶(ひおけ)をそなえよ、という申しつけだ」
「お囲(かこ)いには炭火もないので?」
「おいてない」
「それはちと……」
「いや、鎌倉の指示で、一切の刃物や火気は厳禁とされておる。まして今暁のような残党どものうごきもあっては」
「でも、そう杓子定規(しゃくしじょうぎ)にとらわれず、そこは何とかなりませんか。いかに鎌倉のおさしずでも」
 道誉は樗門(おうちもん)を振りむいた。その眸にはなにか人に窺(うかが)わせぬ深淵(しんえん)のようなものが潜んでいた。
 やがて道誉は、仲時と共に、南の探題時益にも会って、
「あれでは、あまりひどい」
 と、後醍醐のあつかい方に、意見をのべてみたが、その時益も、仲時と同様に、
「鎌倉のおさしず。また、いちいち新朝廷の勅裁(ちょくさい)を仰いでもおることで、われら探題職の権限では、どうにも」
 と、はなはだ難色の態(てい)だった。
 だが、道誉はあきらめず、
「では、鎌倉へ書状して、この道誉からじかに、高時公の御意(ぎょい)をよく伺ってみるといたそう。なおそのあいだに新朝廷の補佐(ほさ)たちへも、それとなく諒解をえておきますれば、板屋の御座(ぎょざ)へ、火桶(ひおけ)を入れることや、朝暮(ちょうぼ)のお給仕をもっと良くするぐらいなこと、計らえぬはずはありますまい」
 と、自信をみせ、
「いくら北条氏の怨敵(おんてき)とはいえ、きのうまでは、万乗の天子と、幕府も立てていたお方を、この冬ぞらに火桶一ツゆるさぬなどは、下種(げす)の復讐(しかえ)しにも似て、武家根性がいやしまれる。決して高時公のお為にもならぬ」
 と、やや憤慨のいろを洩らした。
 それには、両探題も、
「ごもっともだ」
 と一言もなく頷(うなず)いた。そして道誉の立場と才覚に、そのことはまかすとなった。
 夜に入った。
 晩には、検断の大将、糟谷宗秋(かすやむねあき)と高橋刑部左衛門も加わって、べつな協議に更けた。
 検断の二将は言った。
「――今暁、からめ捕ッた宮方の残党中には、あきらかに楠木勢の敗残や、笠置のこぼれも交じっている風ですが、彼らは一様に何を問うても頑として口を開きません。……いまなお拷問(ごうもん)中ですが」
 さらに、糟谷が、
「大塔ノ宮や楠木が、どこかで蔭の指揮をしているものとは察しられるものの、とんとその正体はつかめませぬ。まるで出没自在な魔の兵を相手にしておるようなもので」
 と、ぐちをこぼすと、一方の刑部左衛門もその尾について訴えた。
「だいいち、洛中の形がなっておりません。笠置の囚(とら)われ公卿は、諸家に分けられ、二人の皇子もべつべつに監禁されておりまする。そのうえ、ここには先帝のお獄舎(ひとや)もある始末。……ために、すわという場合も、敵の残党がどこを突いて来るのかさえ見当がつかず、検断所の手勢では手不足を喞(かこ)つのみ。なんとか、御一考なくば、いつまで、人心の不安もおさまるまいと存じまする」
 ――こんな情況も聞いたりして、道誉は深更に、佐女牛(さめうし)の宿所へ駒を返していた。
 なるほど、都の深夜は、鬼気せまるものがある。所々の辻篝(つじかがり)などは、むしろ地獄の火を連想させて、ために、そのほかの闇が一そう濃い。
「……高時公へは、こう書いて。……新朝廷の補佐たちは、誰と誰とに、こう呼びかけて」
 帰路を悠々とやる馬上の道誉の胸は、もうその方寸をえがく夢でうつつなかった。彼は闇を忘れている。また彼は地獄を感じていない。彼の生の意味と欲望は、婆娑羅(ばさら)な道にあるだけだ。この世は、欲望の園であり、じぶんは花に飽かない虻(あぶ)の大王だと思っている。

 鎌倉の前執権、相模入道高時は、あの小児病とも瘋癲(ふうてん)ともつかない物狂いで、職はすでに退いていたはずであるが、いぜん近ごろでは、その軍令政令のすべてが、彼の裁可に発しられているふうだった。
 道誉が、その高時からの返辞をうるまでには、往復ほぼ半月もかかったので、もう十二月に入っていた。
 下状(くだしぶみ)には、
「願いはゆるす」
 とあった。
 なお、ただし書きには、
「公(おおやけ)には、むずかしい儀だが、先帝以下、一味の皇子公卿ばらの御処分も、明春早々には、勅裁を仰ぐにいたろう。わけて厳寒のことでもあれば、内々の情として、取り計らうぶんには、さしつかえない」
 との旨だった。
 道誉は、さっそくそれを、南北の両探題にしめして、
「さし出がましいが、おゆるしによって、道誉もお囲(かこ)いの給仕人(きゅうじびと)として折々、樗門(おうちもん)へ出仕(しゅっし)いたしますゆえ、おふくみおきを」
 と、断(ことわ)った。
 もちろん異存のない手順である。仲時も時益も、むしろ重荷を転嫁したように、
「おねがい申す」
 と、よろこんで言った。
 こうして道誉はついに、板屋廂(いたやびさし)の牢愁(ろうしゅう)におわす先帝後醍醐に、給仕人として、近づくことになったのである。
 何をもくろんで、彼が?
 その腹は、彼のみが知るで、余人に窺(うかが)いようはない。
 けれど、彼の性行や、彼の前々からの交際(つきあ)い範囲までを考えてみると、彼は朝廷も信じてはいないし、幕府の永続なども信じているふうではない。
 こんな時代だ、おれはおれの生き方で行く。時代をおれの時代のように振舞ってゆくぞ、と、いつの時にか腹をすえたような太々(ふてぶて)しいものがあった。――もう一歩その底意に立ち入れば、彼もまた、近江半国の守護という好位置を利して、ひそかに天下への野心を抱くものかも知れず、または婆娑羅大名(ばさらだいみょう)の奢(おご)りだけにほぼ満足しているものか、その辺の区別は、彼もまた一種の怪物であり大物だけに、余人にはつかみようもないのである。――いや彼が稀世の怪物なら、時雲のうごきも一寸さきが逆睹(ぎゃくと)できない怪雲であるから、彼自身にさえ、ほんとの腹は固まってないのかもしれなかった。しいて本音(ほんね)を吐かせれば「……いやその両方だ。生きるからには婆娑羅に世をたのしみ、あわよくばまた、天下も取りたい」と、空嘯(そらうそぶ)く者なのかもしれない。
 だが道誉は元来、ふっくらした美男子だし、若入道ぶりも異彩で、そんな毒のある河豚(ふぐ)とは見えず、むしろ人を魅するものさえある。その日、さっそく樗門(おうちもん)のお囲いへ伺候したうえ、
「今日よりはお獄舎(ひとや)へ、夜の灯も、火桶(ひおけ)(火鉢)も差し上げますゆえ、昼や御寝(ぎょし)の座までも、充分お凌(しの)ぎよいように、お用いください」
 と、申し入れた。
 板屋の内には、わずか二人の公卿が、後醍醐の侍側としていただけだった。一条の頭(とう)ノ大夫(たいふ)行房(ゆきふさ)と、六条の少将千種忠顕(ちぐさただあき)だ。
「えっ、火桶を下さるとか」
 彼らは狂喜した。すぐ奏聞(そうもん)にと、一種の獄臭(ごくしゅう)がこめている薄暗い奥へこけ転(まろ)んで行った。
 別院とはいっても、ここは別院の書庫(ふみぐら)か物入れにでもしてあった建物らしい。
 高い所に、角な切り窓が一つあるほか、明りの入る坪縁(つぼえん)もなく通(かよ)い廊もなかった。洞然(どうぜん)たる幾つかの箱部屋と荒土の塗籠(ぬりごめ)である。これではどんな忍びの者も外部から御座(ぎょざ)へ近づくことはできまい。
「ふむ、火桶」
 後醍醐は、侍者(じしゃ)の狂喜していう伝奏に、ふと暗中の御気配をゆるがして、
「それはうれしい。……また夜のともし灯も、今夜からは点(つ)くのか。それもまた、ありがたいの」
 と、素心にほほ笑まれた。
 一条行房と、少将忠顕は、
「これで助かりました。およろこび斜(なな)めならずと、給仕人(きゅうじびと)へも、申しつかわしましょう」
 と、すぐ退(さ)がった。
 彼らの挙止(きょし)の礼は、九重(ここのえ)の清涼(せいりょう)と何ら変らないが、二人の衣冠は、ぼろぼろだった。鼠の巣を鼠の影がちょろちょろ出入りしているようであった。
 後醍醐はといえば。さすが、大内の御座(おまし)も今の孤座も、そのお容(かたち)には変りがない。
 けれど、こうした囚(とら)われのご不自由もすでに七十余日になる。入浴は三日おき、肌着のお着がえも忘れるほどだし、剃刀(かみそり)はゆるされないので、おもいがけない美髯(びぜん)が黒々といつかお顔の半分に蓄(たくわ)えられていた。
「――わしにも人間の臭いがして来た。笠置いぜんまでは、わしは人間の垢(あか)を知らなかったのだな」
 帝の剛毅は、ここでも一こう萎縮(いしゅく)していない。或る折にはお腕の垢を縒(よ)りながら、こういって呵々(かか)と大笑されたことなどある。
 とはいえ、極寒を火の気もなく、陽の目も見ない二た月あまりには、おからだは萎(な)え、頬は蝋のごとく褪(あ)せて、お髪(ぐし)も伸びるままだった。そして一脚の机を前にした白衣すがたは、さながら趺坐(ふざ)の行者のようにみえる。
 それも初めのほどは。
 赤坂を脱(だっ)して、みずからここへ捕われて来た御子(みこ)の尊良(たかなが)やら、宗良親王やら、ほかの囚(とら)われ公卿も、たくさんおなじ棟(むね)にいたのであったものを、それも鎌倉の幕令で、みんな市中の武門へ“分け預け”に分散されてしまったのである。――かの始終おそば離れずにいた藤房すらも――もぎ離されて、他家に監禁される始末――。いらい帝の牢愁のお翳(かげ)りはいとど濃い。
 平家の頃にも、承久の乱にも、帝王の受難は、二、三にとどまらなかったが、なお幾らかの畏(おそ)れと、いたわりや礼もあった。が、現下にはもうそんな仮借(かしゃく)がない。それだけ、人心の荒(すさ)びは烈(はげ)しく、時勢も尖(とが)り立ってきたものだろうか。
 と、侍側の二人はただ、嘆きから諦めへ、身も心も凍(こご)えさせていたところであった。そこへ、はからぬ火桶のゆるしで、七十日ぶりに炭火を見たうえ、夜になると二基(き)の燭台まで差し入れられた。
「……ほう、灯とは、目がくるめくほど、明るいものだの」
 と、君臣は、なにか美しい光輪の虹(にじ)でも見まもるように、しばしその夕は、一穂(すい)の灯に見恍(みと)れ合った。
 夜の御食(みけ)にはまた、あたたかな椀の物が加えられ、やがて御寝(ぎょし)の具(ぐ)も新たなのが調進された。
 獄はいぜん獄だが、扱いすべて、昨日とはちがって来た。俄な変り方である。
 だが北条氏のことだ。そう安心させておいて、いつ刺客の兇刃をここへ見舞わせぬかぎりもない。……何か早やこれは、密(ひそ)かにそう方針を決めた幕府の無言な予告ではなかろうか。
「行房、忠顕」
 帝(みかど)はそれを、夢寐(むび)にまで猜疑(さいぎ)しておられるらしい。
「……のう、急に六波羅の異(い)な持てなしよの。油断はなるまい」
「いえ、数日前から、ご給仕の牢司(ろうつかさ)が代りました。あるいは、それゆえかもしれませぬ」
「新たな役人とは、どんな男か」
「近江の守護佐々木と申す武者にござりまする」
「一守護の権限などで、扱いをままにできるはずはない。それも不審。いちどその男を、儂(み)の前に連れまいれ」
「が、佐々木ずれの武者に、直々の御見(ぎょけん)は、如何(いかが)なもので」
「かまわぬ」
「御簾(みす)とてない御座(ぎょざ)へですか」
「殿上とはちがう。こんど見えたら、その道誉とやらを見てやろう。内へとおせ」
 二人は、仰せに驚いた。異例な御諚(ごじょう)だ。
 帝は、自身の虜囚(りょしゅう)の姿などを、人目にさらすのは、極度に嫌ッておいでだった。従来、探題の北条仲時や時益へも、じかに謁(えつ)を与えられたことはない。すべて二人の伝奏(でんそう)に依っている。
 ただ二度ほどの例外はぜひなくあった。
 いちどは、幕府が新たに立てた持明院統の光厳(こうごん)天皇が御位につき給うまえに、後伏見(ごふしみ)、花園の二上皇の旨をうけた西園寺ノ大納言公宗(きんむね)がこれへのぞんで、後醍醐が笠置いらいかたく御所持の“三種ノ神器”を、
「たって、御譲(おんゆず)りを」
 と、請(こ)い伏して、持ち去ったときだった。
 しかし帝は、御剣(ぎょけん)を譲られただけで、璽(じ)(印)はお離しにならなかった。あるいは偽物の璽を渡されたとも後世ではいっている。
 もう一度の例は。
 おなじ西園寺公宗(きんむね)に、幕府側の両探題がつき添って、後醍醐へ、出家を迫りに来たときである。
 それとなく、公宗が、
「すでに、朝(ちょう)には新帝(光厳天皇)のご即位も行われ、世もなべて、ほっと安堵(あんど)の色めきにもありますこと。畏れながら、昨夢(さくむ)はサラリとお忘れあって、いっそ御法体(ごほったい)におなり遊ばしてはいかがなものでございましょうか」
 と、調達してきた香染(こうぞめ)の法衣に、おん数珠(じゅず)まで添えて、押しつけがましく差し出した。
 何とお答えになるだろうか。帝は応とも否とも仰っしゃらない……。公宗と両探題は、息もつまる思いでヒレ伏しているうちに、一喝(かつ)、震雷(しんらい)のようなお声が梁(うつばり)から頭上へ落ちて来たかと思った。
「帰れっ、公宗……」
 そして、もう御一言、
「法衣はそちにくれてやる。二度とまいるな……」
 それいらいは両探題も、御見(ぎょけん)に入って拝伏したことはないのだ。帝もまた一切、おんみずからの垢の玉体を、余人に見せることはお好みにならなかった。
「だのに、道誉へは?」
 と、二人の侍者(じしゃ)は、今日の仰せ出しを特に意外としたのだった。

 庁や樗門(おうちもん)の内へも、道誉は折々には姿をみせたが、しかし、獄中の帝へ、われから近づいたことはいちどもない。
 ただ従前からの係の役人や警固頭(けいごがしら)へこう訓示しておいただけだった。
「かりそめにも前(さき)の帝(みかど)へお辱(はずかし)めを加えてはならんぞ。御侍者の求めには何なりとかなえてあげい。一切は身が牢司(ろうつかさ)として責任を持つ。――よろしいか、これはわたくしならぬ高時公の御内許でもある」
 そして、彼は、このさいの陣の余暇を、佐女牛の宿所では、日夜、ばさらに愉しんでいた。
 さる公卿の倉から、封印された十数コの茶壺(ちゃこ)が、盗賊の手か何かで市販に出されたのを聞くと、彼はそっくり買いとって、それを自家の秘蔵にした。
 国産茶だけでなく、四川茶(しせんちゃ)や杭州茶などの舶載物もあったのである。また中には数壺(すうこ)の茶の胚子(たね)もあった。
 彼は、これを誇って、
「じたい関東武者などは、物の値打ちも余暇の愉しみようも知らぬ不風流者。ひとつ彼らにもこの悦楽(えつらく)を頒(わ)かってやろう。――女狩りばかりが能(のう)でもあるまい」
 と、一夕(せき)、佐女牛の邸に、闘茶(とうちゃ)の会を催して、在京の諸大将を招待した。
 だが、茶の味を愛(め)で合うなどはおろか、陸羽(りくう)の茶経(ちゃきょう)ひとつ読んだことのないのが多い。――茶の会は、とどのつまり、ただの乱痴気(らんちき)な大酒宴で終ってしまった。
 それで今朝は道誉も、不きげんな色だった。
「いやはや、つまらぬ客呼びをした。いずれも鎌倉直参(じきさん)とか、国持ち大名だとかいっているが、あんな手輩(てあい)が、それぞれ何千騎も擁(よう)して、何か考えているのだから、すさまじい」
 そこへ、早川主膳が、
「殿……。お待ちかねの法師のご返事が、やっと、ただ今まいりました」
 と、飛脚文(ひきゃくぶみ)をおいて行った。
 ――明石の浦にて、兼好
 と、ある。
「気まぐれ坊主め。あれきり梨(なし)のつぶてよと思うていたら、いつか旅路に出ていたのか」
 開いてみる。
……須磨、明石も塩屋のけむりのみにて、冬ざれ、うら淋しうは候へど、汀々(なぎさなぎさ)、千鳥の賑(にぎ)はひをかしくて、うかうか、都の師走(しはす)も忘れ歩きをり候ふままに。
 と、筆はここで、小右京のことに移って、
「――お約束のあの一儀は、忘れてはいません。旅立つ前に、小右京の君の隠れ家を訪い、殿の思いのたけは先様へおつたえおきました。しかし、法師の説法でも、氷室(ひむろ)の女心は解けもせず、ひき退(さ)がりました。あとは殿との相対(あいたい)におまかせするしかありませぬ。ゆめ、胸わるくおとりくださいますな――」と、言いわけが書いてあった。
 胸わるくとるな、といわれても、むしゃくしゃしたに違いない。
「主膳っ」
 と、再びよんで、彼は何か持ちまえの不逞な命を、主膳へ耳打ちした後、
「よいか」
 念を押して、その日も六波羅へ出かけた。そして例の樗門へ入るとすぐ、係の者から聞いたのだった。
「――先帝が、いちど道誉を見たいとか仰せられたよし、侍者(じしゃ)のお内沙汰(ないざた)にございますが」と。

 侍者の行房と忠顕とは、御座(ぎょざ)へぬかずいて、かねてお噂に入れた牢司(ろうつかさ)の佐々木が、今日は見えておりますがと、念のため、もいちど叡慮にうかがってみた。
「呼べ」
 との仰せである。――さっそく当(とう)の道誉にそれはつたえられ、道誉は警固がしらの武者に、柵(さく)の錠(じょう)を開(あ)けさせて、すぐお囲いの内へ伺候した。
「これが殿上なら」
 と、道誉は思いつつ畏(かしこ)んで平伏した。
 武家では、昇殿の資格など滅多にえ難い。まして御簾(みす)もない咫尺(しせき)にまかるなどは、時なればこそだと思った。伝奏にも俟(ま)たず、後醍醐はじかにおことばをかけられた。
「佐々木と申すか」
「は」
「ちか頃の扱いは、鎌倉の命か、そちの計らいか」
「公(おおやけ)でもなく、一存でもございませぬが、内々には、相模入道(高時)どののおゆるしをえております」
「公(おおやけ)でなく」
「はっ」
「……そうか。するとそちの心入れでもあるのだな」
「余りなおいたわしさに、いささか、苦慮をめぐらして、お扱いかたや改善の儀などを、相模どのへ、嘆願つかまつッたわけでござりまする」
 こう聞かれて、帝はこの間じゅうからの疑念をほっとお休めになったらしい。同時に、
 ――頼もしき者
 と、道誉のうえに、巨大なお眼をじっとそそがれた。
 道誉は、なにか持って行かれそうな心の斜面にふと畏怖をおぼえていた。魅力などという生やさしい引力ではない。もっと崇高で怪しきまでな誘惑だった。出世のつる、栄華権勢(けんせい)の欲望など、ほしいまま何でもつかめとばかりな甘い秘密な※(「口+耳」、第3水準1-14-94)(ささや)きが、たとえば深淵(しんえん)の珠のごとく、帝と自分とのあいだには今ある気がした。そしてその深淵の龍王がそのまま後醍醐のおすがたのように彼へ映った。
「忘れまい」
 後醍醐は、やがてぽつんと、仰っしゃった。
「道誉。今のもののふにも、そちのような者もいたのか。まだ世は末でないの」
「御諚(ごじょう)、身にすぎまする」
 道誉は、この寒いのに、汗をおぼえた。自分という奴の人間性をかえりみて忸怩(じくじ)となったためでもない。依然、そのお方の持つ不可思議な牽引力(けんいんりょく)にぐいぐい吸い込まれそうな自分を感じつつ内心でその縁(ふち)に踏みとどまらんとしていたからであった。
 が、彼は侍座の二人へ、さりげない眼を移していた。
「この上にも、何なりと御用仰せつけられませい。道誉が身に及ぶことなら、いかようにも取り計らいましょう」
 すると行房が、折入って道誉に一つの嘆願をした。
「ここへはただ一度、中宮(皇后)のお歌が届けられたのみです。ほかの女御(にょご)たちの御消息は絶えてない。いずれはみな他家に幽(ゆう)せられておわそうが、何とか共にここの御座(ぎょざ)に侍(はべ)って、お上(うえ)の憂さをおなぐさめするようには計ろうてもらえぬか」
「いや、それはひそかに、此方もお察し申し上げていました。帝のお側に一人の女性がおいでなくてはと」
 道誉はのみこんで退出した。粋人の彼である。その方のことならば人一倍わかりはいい。
 獄中の拝謁をえてから後(のち)十日あまりを、道誉は懸命な“蔭の働き”につくしていた。帝のおたのみ事の実現をみるまでは、自分の私恋(しれん)私慕(しぼ)も打ち捨てている姿だった。私生活では婆娑羅(ばさら)な見得者(みえしゃ)の彼でいながら、ときによっては目に見えないこんな舞台裏の骨折りも、彼はなんともおもっていない。
 はや街は歳暮景色(くれげしき)である。
「ぜひ、正月までには」
 と、獄裡(ごくり)のおこころも察して独りあせっていた。
 思うに、後醍醐が恋いこがれていらっしゃるのは、ご寵愛第一の三位ノお局(阿野廉子(あのやすこ))にあろう。――後宮の佳嬪(かひん)は十幾人もお持ちだったが、かの玄宗(げんそう)皇帝における楊貴妃(ようきひ)のように、一身の寵(ちょう)の誇りは廉子にある。あの艶姿と賢さと、わけてその情熱とは、獄裡(ごくり)の夢にも夜々恋々(よよれんれん)と消し難いものがおありなのにちがいない……と、道誉にはよくわかる。
 だが、困ったことに。
 およそ新帝の一派からも、また幕府方からも、廉子はひどくにくまれている。後醍醐の愛妃十幾人のうち、敵視されていることも彼女が第一なのだった。――道誉の蔭の運動は、その至難をも排しつつほぼ八、九分の成功はみていたが、ただそれひとつのため、まだ鎌倉の最後の承認がえられていない実情だった。
 新朝廷の方は、西園寺公宗をはじめ、光厳帝の傅(ふ)、久我(こが)ノ右大臣や中院ノ大納言も説きふせてあるし、また後伏見、花園の二上皇も、意地悪くは仰せもなく、
「よいように」
 との、御意(ぎょい)はえている。
 けれど鎌倉の相模入道からの可否はおそく、やっとそれの下状が届いたのは、年も余すところ少ない師走(しわす)の二十四日だった。
「吉左右(きっそう)は?」
 と、道誉は自分のことのように封を解くまも胸占(むねうら)におどった。
 高時の下状には、こう見える。
先帝ご不自由のため、獄中へお介添(かいぞ)えの女房を移し参らす儀はかまいない。しかし三位ノ局ひとりではならぬ。ほかに権大納言ノ局と小宰相(こさいしょう)のふたりをも合せてお側におき申せ。
「出来た」
 道誉は笑った。画匠が大作を描き上げたときのような悦(えつ)に入って独り手を打った。
 すぐ彼は諸家の間にそれを伝えた。廉子はじめ後宮の女人(にょにん)たちもすべて、諸家の“預(あず)け籠(ご)め”となって分散されていたのである。また新朝廷の、久我(こが)ノ右大臣へも事のよしを報じてもどった。
 そろそろ街も正月支度に忙しげな師走(しわす)二十七日。
 彼の馬上姿を先頭に、十二人の黄母衣組(きほろぐみ)以下の一小隊が、三輛の牛車に、三人の佳麗な女囚の后(きさき)たちを分かち乗せて、六波羅松原へさして揺らいで行った。途中、さんさんと粉雪が降りだして来て、五条をわたるころには、車のうえにも、道誉好みな彼の綺羅(きら)な陣座羽織の肩へもはだらに白いものが降りたかッていた。
 だが道誉は、雪風の冷たさなど忘れている。事の成功もうれしいし、元来が舞台廻しの策士でもある。こんなことが好きなのだ。そして独り空想する。
「まずはよし。これでお獄舎(ひとや)の正月も来よう。いや今宵すぐにも、獄内は春景色かな。ただ近習のお二人は、悩まされようて」

 変りはてた先帝の影を獄中のほの暗い所に見いだしたとき、三人の妃(ひ)は、しぜんにみなそれぞれちがった悲しみようをその姿にみだし合った。
 妃たちは帝をとりかこんだ。わっと泣いて小袿衣(こうちぎ)のたもとに黒髪を埋(うず)めたまま、童(わらべ)のようにヨヨと泣きじゃくってやまないのは権大納言ノ局であった。また、
「あな、おいたわしや」
 と沁(し)んみりさけんで、いらいの憂(う)さ辛(つら)さを、涙ながら掻(か)き口説(くど)くのは小宰相の君だった。
 ひとり三位ノ局廉子(やすこ)だけは泣きもしない。泣く以上なものをじいんと黛(まゆ)に耐えている白い顔なのだ。きッと結んだままな唇(くち)も風雪に抵抗する冬牡丹(ふゆぼたん)のつぼみの紅(べに)を置いたようである。いうに勝(まさ)るものを……聞かまほし……とするのだろうか。後醍醐もまた、沸(たぎ)るような眼で彼女の凝視に凝視を返していらっしゃる。
 あたかも、それは廉子だけがひとり帝とここにいて、ほかの二人の妃(ひ)など、そばにいないかのようであった。
 あきらかに廉子は意識している。その意識を帝も映しとっている。ゆるされるなら、彼女はこう叫びたいにちがいない。
 ――ご無念でしょう。
 ――このご無念も。いつかは、真っ暗な日月と共に、青天に回(かえ)して仰ぐ秋(とき)がありましょう。それまでのご辛抱です。それまでは廉子もどんな辱(はじ)にも耐えて死にますまい。お上(うえ)もゆめご短気などおこしくださいますな。
 そしてもしまた、ほんとにここにほかの妃もいず人目も見なければ、廉子はいきなり帝の膝へむしゃぶりついて、そのお肌へじかに、物狂わしいまで瀝(そそ)ぎもしたろう。
 だが、帝にも廉子にも、惧(おそ)れられたのは、そばにいる小宰相ノ局だった。
 その小宰相は、こんど新帝の朝(ちょう)に右大臣と返り咲いた持明院方の久我具親(こがともちか)(堀川ノ大納言)の妻の姪(めい)だ。もとから帝も小宰相にはお気をゆるしていなかったが、幕府は抜け目がない。新朝廷がたの息がかかっているその小宰相をさりげなく三女人のうちに加えていたのだ。
 が、もひとりの権大納言ノ局には、そんな懸念もない。藤原為道のむすめで、美貌ではあるがただもう気だてのよい――帝にいわせれば、毒にも薬にもならぬ麗人である。いわば女の三人三様を幕府が選んでよこしたようなものだった。猜疑すれば、色糸の色も芯(しん)もちがうこう三つの鞠(まり)を後醍醐がいかに綾(あや)なすかを、幕府の意地悪い目がひそかに見ようとでもするものなのか。
 いや、小宰相を秘偵につかう策はあっても、現幕府にそんな余裕などはない。現実は、苛烈だった。ふくむところは、もっときびしい。
 すでに、この十二月二十四日には、鎌倉表の評定で、後醍醐のご処分を、
 隠岐(おき)ノ島へ
 と、配流(はいる)の決定をみていたのであり、それの御裁可を仰ぐ手続きが、もう極密裡(ごくみつり)に、後伏見院、花園院の二上皇のお手もとまで差し出されていたのだった。
 後醍醐はゆめ御存知ない。
 佐々木道誉ですらも、まだその決定は知らず、妃三人を送りこんだ次の日も、なお、樗門の内へ来て、行房と忠顕に会い、昨夜の御気色(みけしき)ぶりなどを、それとなく洩れ伺ッたりなどしていた。
「いやもう、およろこびは絶大なもの。昨夜はお妃三人にかこまれて、お上(うえ)にも夜もすがらなおものがたりでした。お獄舎(ひとや)ながら今朝(けさ)はお囲いも匂いめいての……、われらまでが何やらうれしゅうて、うれしゅうて」
 と、行房は涙をたれて言い、千種忠顕もともに、
「みな、其許(そこ)のお蔭」
 と、道誉にむかって、拝(おが)まんばかりな礼だった。
 道誉は胸いッぱい報われた気がした。きのうの殿上では、一条ノ大納言とか二条の少将とかいわれていた側近たちが、こんなにまで感謝してやまない。――のみならず後醍醐もと思うと、彼の瞼も理由なしに熱かった。
「ところで」
 道誉はそれを告げに来たのだ。
「はや、わずかで今年も終る。あなた方みな、はからざる新年を獄でお迎えなさらねばならぬが」
「……ぜひもない」
「朝(ちょう)におわせば、大晦日(おおつごもり)には追儺(ついな)の式、元日には清涼東階(せいりょうとうかい)の四方拝のおん儀、節会(せちえ)、大饗(たいきょう)など、さまざまな行事やら百官の唱(とな)える万歳に祝(ことほ)がれ給う大君であり、あなた方であるものを」
「もう仰っしゃって下さるな」
 行房は、嗚咽(おえつ)しかけた。
「いや、いたずらにお辛(つら)がらせをいうわけではない。さぞと、お察し申すゆえ、かたちばかりの正月の神酒(みき)、ご膳部など、種々(くさぐさ)、係へ申しつけおきました」
「や、それまでに」
「ところで、この道誉もですが、正月は一度近江へ帰国し、またすぐ上(のぼ)りますが、しばしはこれへ伺えぬかもしれませぬ。とまれ世は有為転変(ういてんぺん)、蛟龍(こうりゅう)も淵(ふち)に潜む時もありとか。お心落しなく、元弘二年の新玉(あらたま)をお迎えあらせらるるよう、何とぞよしなに、ご奏聞(そうもん)のほどを」
 道誉は、告げ終ると、廂(ひさし)から鎖木戸(くさりきど)の方へ、さっと戻りかけた。
 すると、なに思ったか、千種忠顕は「――道誉どの。ちょっと」と追いすがって、彼を外の葦垣(あしがき)の蔭へ誘おうとした。そして胸の密語を急に※(「口+耳」、第3水準1-14-94)きかけそうに、その眼が挑んだ。
 道誉はすぐさとった。――この公卿はおれを抱き込む気でいるな。――腹のなかで愍笑(びんしょう)しながら、彼はトボけた顔したまま、木戸の外へ出た。身を交(か)わすやいな、外から錠を卸(おろ)して大股に立ち去った。
「あぶない虎口(ここう)」
 彼は帰路の馬上で、悪戯(いたずら)ッぽく思いうかべていた。ぽかんと後に取り残されたであろう忠顕の顔が彼にはおかしい。
 やがてその道誉は、佐女牛の邸に帰ると、さっそく早川主膳を奥へ呼びつけていた。
「どうした? そのご小右京の方のことは」
「はっ、なんとも」
「次は自分の恋の番だ。忘れていたわけではない。ここ半月余は、先帝の女房がたの儀で、ついわが恋も振り向けずにいたまでのことだ。小右京の否やの返辞はなんとしたか」
「はっ」
「もし、小右京があくまで嫌(いや)と申すなら、夜陰、引ッ攫(さら)っても、ここへ連れまいれとまで申しつけておいたはずだが」
「それがはや、お行方も知れませぬので」
「なに。いつのまにかもう元の家にはいないと。なぜ取り逃がした。ばかっ。……馬鹿、馬鹿」

 増鏡の「十九」に。
元弘二年の春にもなりぬ
新しき御代(みよ)の始めには
思ひなしさへ花やかなり
 と、あるその御代はもう後醍醐を完全に世の外のものにしかしていない。そして一転、
――上(うへ)(新帝・光厳)も若う清らにおはしませば、よろづめでたく、百敷(ももしき)の内、何事も変らず
(中略)
ひとつに立ち混(こ)みたる馬、車、隙(ひま)なく賑(にぎ)はしけれど
見し世の人は交(ま)じらはず
参(まゐ)り罷(まか)ンづる顔のみぞ変れる
 と、新朝廷の大内へ参賀(さんが)につどう人々の春めき様(よう)を写している。去年も今年も、よろず正月の春景色に変りはないが、拝賀に参内する顔ぶれだけが変って、後醍醐の朝(ちょう)に誇り栄えていた顔は一つも見えぬ――と、暗(あん)に人心を諷(ふう)している。
 また、同じ増鏡の別の章では、そうした持明院派の朝(ちょう)に時めく人々のさまは、そこはかとなく、板屋の獄裡(ごくり)へも偲(しの)ばれようと、
世の音なひを聞(きこ)しめす
先帝のおんここち
たとへやうもなく
妬(ねた)く人わろし
 ともいっている。
 だが獄中の後醍醐のおむねは到底“妬(ねた)く”などでは尽くせぬものがあったであろう。松の内も暗くわびしく過ぎて、もう二月に近かったが、まま板屋の廂には氷柱(つらら)の剣(つるぎ)が垂れ下がり、朝々の冷えと寒さは、獄の男女を八寒(はちかん)の責め苦にさいなむものがあった。
「佐々木は見えぬか」
 帝も幾度か仰っしゃった。
 なぜか、道誉はこのところ姿をみせない。獄の給与も以前のように悪くなった。炭火一つ朝もなかなか運んで来ないのだ。侍者たちはぜひなく囲いの次の部屋で、白い息を凍(こお)らせながら手を揉み揉みじッと寒烈に耐えている。
 が、帝の方はどうお凌(しの)ぎかとみれば、そこのお囲いには、板壁の高い所に、小さい角な切り窓がただ一つあった。
 朝々のきわめて短い時間の一刻(いっとき)だけ。――もし晴天ならば、その高窓から四角い太陽の光が獄の底へ斜めに映(さ)し込む。
 帝はよくその下へ御座(おまし)をうつした。そこの方(ほう)四尺にも足りない日光の下にあぐらして瞑想(めいそう)されるのであった。
 そして三人の妃(きさき)らへも、
「ここへ寄れ」
 と、白いお息で招く。
 三位ノ局廉子も、小宰相も権大納言ノ局も、帝のまわりにヒタと寄り添って、この一刻の貴重な太陽の恩にしばし温(ぬく)もるのが常だった。それは日輪の下に一つの花芯(かしん)をつつんで生命を愛(いとお)しみあう花弁の睦(むつ)みと違わない。
 が、つぶさに見れば、彼女たちの小袿衣(こうちぎ)の袖口にも、帝のお襟にも、白い獄舎虱(ひとやじらみ)が這い出て共に太陽を恋うていたかもしれない。――が、獄もすでに百余日だ。瞑想のおん瞼はそんな虫どもの蠢動(しゅんどう)も超然と観(み)ておわしたことだろうか。それとも、生きとし生ける物の中でいちばん尊いものは何であるかなどを、今ぞ沁々(しみじみ)、お心に享(う)けておられたことでもあるか。
 ところが。人間はなぜだろう。
 こんな見てならぬものをも、密かに覗き見する酷(むご)い無情な隠し穴が、板壁の思わぬ所に設けられてあったのだ。
「…………」
 長井縫之助秀正(ぬいのすけひでまさ)は、さっきからそこの暗い所の板壁に外から顔を貼(は)りつけていた。
 内では分らぬ節穴ほどな覗き口が出来ていて、顔を離せばすぐ閉まる。こんな仕掛けは獄舎には例外なことでもない。
 しかし縫之助秀正がいま見たものは、昨日までは至尊(しそん)と仰がれた君と三人の妃が、わずかに射(さ)し入る日光の下に相擁(あいよう)して八寒の獄をいたわり合(お)うている姿だった。
 ――彼はなにか地上では見られなかった深海の魚巣(ぎょそう)でも透(す)かし見たようにその片目皺(じわ)と、足のしびれをも忘れていた。
 彼の後ろにも人がいた。
 探題の越後守北条仲時である。
「縫殿(ぬいどの)」
 そっと袖をひいて、
「もう参りましょうか」
「お……」
 縫之助は振りむいたが、その唇を仲時の耳のそばへ寄せて行った。仲時へも、まあ覗いて見給えと、すすめるらしい白い歯だった。
 仲時はいやな顔をした。
「…………」
 黙ってその顔を横に振っただけである。見るにしのびないとはいわなかった。
 まもなく二人は別院の明るい廊の方へ出て来た。いまここの別院は廃屋(はいおく)も同然でつかっていない。――しかるに、旧役部屋らしい一室にふたりは対坐したのである。なにか極密な打ちあわせでもあるらしい。
「……では。後伏見、花園の二上皇の御裁可(みゆるし)も」
「む。まちがいなく降(くだ)るものとみております。承久ノ乱の前例もあることなので」
 この縫之助秀正は、若年だが、鎌倉評定衆のひとりで、文官的な才能がある。一族には大膳(だいぜん)ノ大夫(たいふ)広秀、左近将監高広(さこんしょうげんたかひろ)などもあり、準北条氏の家格からもまず屈指(くっし)な重臣といってよい。
 すでに歳暮(くれ)のうち。後醍醐のご処分は、
 隠岐(おき)へ遠流(おんる)
 と鎌倉ではきまったが、いかにとはいえ……というおためらいか。さすが後伏見院には、なかなか、おうなずきもないのであった。
 そこで急遽(きゅうきょ)、この長井縫之助がえらばれ、新朝廷の西園寺、久我(こが)などの大臣(おとど)をとおし、二上皇の御裁可をうながすべき東使(とうし)として、派遣されて来たものだった。
「それにしろ、隠岐ノ島へとは思いきったご処断。もし外へ聞えたら、大塔ノ宮や楠木の残党など、かならずや、ただ見てはおりますまい」
「それも鎌倉表の密かな心痛です。で、先帝の隠岐遷(おきうつ)しがすむまでは、軍勢すべて、洛中洛外にとどまり、一切無断で帰国はならんと、再度の令が出たわけでおざる」
「して、遷幸の日は」
「未定だが、ともあれ、遠い先にはせぬ。ほぼ近日とおふくみおきを」
 やがて、二人が、庁へ帰って行くと、さっそく仲時には、一時務が待ちかねていた。
「探題どの、また宿所割(しゅくしょわり)のご選定を願いまする」
「誰の入洛か」
「足利殿です」
「や、足利が?」
「――かねて、伊賀路から奥大和をこえ、和泉方面までを遊撃して来られた足利又太郎高氏どのの一軍が、昨夕、洛外(らくがい)鳥羽(とば)に着いたとのお届け出にござりますので」

 昨日の夕がたである。
 鳥羽の旧離宮の南門外に、どこから来たのか、疲れきったような約五百ほどの軍隊がたどりついて、一夜を明かしていた。
 いずれこの兵馬も、鎌倉大軍の一部に違いあるまいが、およそ戦勝者らしくもなく、兵は泥ンこでみな無口で、すでに洛内で凱旋(がいせん)気分を揚げているほかの得々(とくとく)たる諸大将の派手やかさとは、全く似ても似つかない。
 もし軍装や兵の表情が、いくらかでもその大将の立場なり性格を反映するものなら、この一勢(ぜい)の大将は、よほど何か不遇(ふぐう)にあるか、不満なのか、とにかく、異常者にちがいなかった。
 旗はと見れば。
 その旗も幾多の風の日、雨の日に会って、印(しるし)もよく分らなくなっているが、丸の中に二引き両の紋(もん)、つまり足利氏の定紋(じょうもん)である。
 足利又太郎高氏が、これをひきいている者だった。
「おい、十郎」
 さっきからその高氏は、掖門(えきもん)ノ廊(ろう)に床几(しょうぎ)をおいて、内苑(ないえん)の梅でも見ている風だったが、ふと過(よ)ぎりかけた部将の佐野十郎へ、こう呼びかけた。
「どうも退屈だなあ十郎。――六波羅の返事はまだ来ないか」
「まだ見えませぬ」
「着到の届けは今朝早く差し出してあるのになあ。もう午(ひる)ちかいだろう」
「やがてと思われまする」
「しかたがない。どう言ってみても、探題から宿所のご指定がないことには、入洛するにも行く方向がつかん。……オオ彼方の坊へ参って、剃刀(かみそり)と鏡を拝借して来てくれい」
「剃刀ですか」
「そうだ。四月(よつき)ぶりの都入り。宿所割(わり)の沙汰が来るまで、せめて髯でも剃(そ)って少し洒落(しゃれ)ておこうよ。早く借りて来い」
 やがてのこと高氏は、十郎を床几のまえに膝立てさせて両の手に鏡を持たせ、その鏡へ向って、百日余のヒゲをぞりぞり自分で剃っていた。
 どこからか、鏡の中の顔を覗くように、梅の花が散ってくる。
 去年。――
 彼は鎌倉軍の第四軍をひきいて、伊賀方面へまわされた。一手の司令官の格である。
 が、まもなく笠置は陥ち、赤坂城も潰(つい)え去った。そこで諸将はあらそッて現地からもとの洛中洛外へ凱歌の潮(うしお)を引っ返した。高氏の麾下(きか)も各※(二の字点、1-2-22)、なんのかのと理くつをつけてはみな引き揚げた。
 ひとり高氏だけは、この正月も山野(さんや)ですごした。伊賀路を捨て、大和、紀伊、和泉(いずみ)、摂津を股にかけての跋渉(ばっしょう)を、あえて続けて来たのである。
「――各地にひそむ、大塔ノ宮一味や楠木の残党を掃討(そうとう)のために」
 名分(めいぶん)はそれだったが、彼の意中には、べつに何か後日(ごじつ)のための目的があったのかも分らない。それの証拠には、軽馬軽兵がいいとして、手兵の半数も、途中から鎌倉の直義(ただよし)の許へ送り返してしまっている。
 そしてそれにも、彼は、公(おおやけ)な理由を唱(とな)えた。
「各地とも、兵糧はとぼしい。大部隊が行く先々で、少ない民土の食糧を食い荒らすのは、東国方の悪政をひろめ、逆に、宮方を殖(ふ)やすようなものになる」と。
 腹にはべつな後日の目的があったとしても、高氏の公言は嘘ではない。
 その畿内跋渉(きないばっしょう)のあいだ、部下の掠奪や暴行はゆるさなかった。彼はじぶんの手足のごとく兵をつかった。数千、何万の兵はとかく統一もむずかしいが、五百騎ぐらいだと、ほぼ命令もよくおこなわれる。
「この将士五百を持てば」
 高氏にすれば、こんどの出兵こそ、さまざまな意味を持つものだった。
 そもそも、去年、鎌倉を立つ日の前に、彼は父の死に会っている。亡父(ちち)の野辺の送りも見ず、七々の忌日(きにち)も営んでいないのだ。陣中には、位牌(いはい)を持って歩いていた。
 だから彼はこの出兵を、ぜひとも意義あらしめたい。父も陣中とおもっている。――笠置、赤坂に目さきの功を争う輩(やから)にはやらしておけ――であった。
 その彼は、ここ百余日の期間を、じつは手兵の演習に用いて来たのだ。選(よ)り残した五百の兵を鍛(きた)えに鍛えて文字どおり他日の鉄兵としておくためにだ。
「……よかった」
 きのうこの洛外鳥羽の南門まで来て、一夜を明かした今日でも、ふと人知れないほくそ笑みがわいてくる。――いま、佐野十郎に鏡を持たせて、百余日のヒゲを剃りながらも。
 その間にえた知識と体験を鏡の中の顔と一しょに回想していた。畿内五ヵ国の地理、運輸、水路、機微な人心など、絵図となって頭にある。ただ部下はくたくたになったろう。山岳の徒歩(かち)越えや騎馬の川渡し、伝令、斥候の演習など、風雨の日までわざと歩かせた。正月もさせていない。
「なあ、十郎」
「は」
「おたがいに、屠蘇(とそ)もまだ酌(く)みあわず、雑煮餅もまだだったな」
「そうでした」
「さぞ兵どもは、陰でぶツぶツ申しておることだろう」
「いや、さような気(け)ぶりは、つゆ見えません。よく殿のお胸が、兵の端にまで分っているようにございますれば」
「なに」
 高氏は、剃りかけていた剃刀の手を休めて、鏡のうちの眼を、きっと十郎の顔へ上眼づかいに射向けた。
「おれの胸が分っていると?」
「はっ」
「どう分っているのだ」
「大殿貞氏さまのお位牌を陣中におくお心を拝察するにつけ、お子として、喪中(もちゅう)いちばいの御精進(ごしょうじん)なのであろう、と」
「む。よく言ってくれた」
 やがて剃りおえて、小姓武者の手からしぼり手拭いをうけ取ると、それで無造作に薄らあばたの顔をぐるぐる撫でまわし、もいちど鏡を覗き込んだ。
「どうだ、ちっとは、きれいになったか」
「ちっとどころか、おきれいに相なりました。お髯を落せば、明けてまだ二十八の花の若殿」
「十郎。宿所へおちついたら、賞(ほ)め賃(ちん)には、うんと餅を食わすぞ。そうだ、坊へ剃刀をお返しして来い」
 彼も去り、高氏も床几を立って、ふと掖門(えきもん)の梅の下に立ったときである。やっと六波羅の使いが見えたらしく、彼方から兵に案内されて来る者があった。
 使いの者は、六波羅寄合(ろくはらよりあい)の武田伊豆であった。探題仲時に代って、高氏の僻地の長陣にたいして、厚く、ねぎらいの辞を述べたあとで、
「ご宿所の先は、庁議でここへとの指定です。したが、ちと御不便な地。ご辛抱ねがわしゅう存じまする」
 と、一葉の“宿所割(しゅくしょわり)”を披(ひら)いて、高氏へ手渡した。
 それで見ると。
 洛内繁華の地や、目ぼしい館(やかた)とみられる所は、あらかたもう諸大将の営(えい)に割当てずみであるらしい。そして足利一勢に宛(あ)てがわれた宿所の地は、やっと捜したような京も辰巳(たつみ)(東南)端(はず)れの月輪(つきのわ)だった。
「お。この印の所か、伊豆」
「さようです。六波羅の南、大和大路からやや山寄りの……。そこに昔からの山本左大臣の山荘がありますので、ひとまずそこへ」
「羅刹谷(らせつだに)としてあるな」
「俗称、そう呼んでいるらしゅうございまする」
「羅刹谷か。……うん、よかろう。仮の宿だ」
「庁の役人や雑役(ぞうえき)も、多勢やって、さっそく手入れ掃除などさせおきましたゆえ、いつなりと御宿所入りを」
「わかった。なにぶん兵も疲れている。いずれ庁へも罷(まか)るが、仲時どのへは、よしなに」
「探題殿にも、ちょうど、鎌倉の御使長井縫之助殿とのお打合せやら何やらで、今は暇(ひま)もないゆえ、他日ゆるりと、小松谷のご自邸へでもお招きしたいものと申しておられました」
「長井が上洛中なのか」
「極密の御用とやらで」
「それは、さぞ」
 高氏は自分へうなずいた。――後醍醐のご処分にかかわる秘事だなとすぐ察しがつく。
 なぜなら、初め彼は宿所なども求めず、一路東国へ帰ろうと願っていた。ところが、自分のみならず、諸軍へも同様に、ここしばらく無断帰国は相ならず、という鎌倉の軍令を、ついおととい頃、手に受けていたからだった。
「――発(た)つぞ」
 やがてのこと。午(ひる)の腰糧(こしがて)もすませ、野営をもたたませると、
「用意」
 の号令が兵にくだる。
 高氏は先頭の馬に乗った。
 その前を、武田伊豆が例の“宿所割(わり)”の図面を持って先駆して行った。案内のためにである。そして、道すじを伏見街道に変えて、深草の里から大宮大和路へ抜け、月輪(つきのわ)の方へすすんでいた途中だった。
 兵馬の列が通ると、行くところの道ばたにすぐ人だちがするのはいつものことだが、いまも月輪殿(つきのわどの)の長築土(ながついじ)まで来ると、路傍の物売りや尼や雑人(ぞうにん)たちの中に交(ま)じって、旅笠に垂(た)れ衣(ぎぬ)した若い女性と、そのそばに年ごろ八、九歳の可憐な少年が寄り添っているのが見えた。いや、たんに眼にとまったぐらいでなく、妙に高氏の眸(ひとみ)をそれはひきつけた。
「……?」
 とつぜん彼の頭裡には、鎌倉の一ツの辻と或る女の姿が、突拍子(とっぴょうし)もなく思い出された。
 まさかと、彼は打ち消してみたものの、女の連れている少年がさらに気になった。少年のどこか脾弱(ひよわ)そうで美しい眉目が彼の眸をとらえて離さなかった。――高氏はつい、過ぎてからも、振り返った。

 すぐ二月に入っていた。春は俄に来た感じである。
「ここも悪くない」
 羅刹谷の宿所にも馴れ、馴れるがままに、ときには高氏もこう呟(つぶや)く。
 山荘はひどい古御所で、使用にたえないほどだが、兵も馬も不足はいわない。彼もまた、崖(がけ)に架(か)した危なッかしい一殿を寝るにも起きるにもつかっている。
 崖の下は月輪川で、谷の奥所(おくが)に月輪関白(つきのわかんぱく)兼実(かねざね)の墓があるという。墓といえば、ついそこの眉にせまる阿弥陀(あみだ)ヶ峯(みね)の下あたりは墓や御陵(ごりょう)だらけだった。鳥部野が近いのである。
 しかし。
 春霞の彼方、洛内の屋根は一望だった。加茂川は上(かみ)から下(しも)まで、五条総門は六波羅ノ庁の群舎の森まで。
 高氏には、これが気に入ったらしい。――洛中にみちている鎌倉の軍馬、その中にある新朝廷の皇居。そして、六波羅の木々の底には、先帝後醍醐の板屋の獄。
「…………」
 彼はこの大観につい見とれる。
 これは“時勢の縮図”だ、天下の俯瞰図(ふかんず)だ。――この谷には鶯(うぐいす)が多かったが、彼の耳には鶯の声もない。徐々にちかづいて来る夢の跫音(あしおと)だけがあった。
「殿。……おう、そこの欄(らん)に肱をおかけなされていては、お危のうございます。欄も腐っておりましょうに」
「十郎か。何ごとだ」
「ただ今、異(い)な女性(にょしょう)が、折入ってお目にかかりたいと、訪ねておいでなされましたが」
「女が」
 高氏は、とむねをつかれた。
 さきごろここへ宿所入りの日、道ばたで、ふと見かけたあの子連れの女性が、彼の血をすぐ騒がせていたのだった。
「……女とは、子連れか」
「いや、お子は連れておりませなんだ」
「して幾歳ぐらいの?」
「二十三、四を出てはおられますまい。いと優雅(みやび)な」
「名は」
「さ、それをおたずね申しても、いっかな名も御用むきも仰っしゃいませぬ。お目にかかれば、おわかりのはずと」
 さてこそと、高氏の苦(にが)りきる理性とはべつに血はひとりでに煮えくりかえった。藤夜叉(ふじやしゃ)だ、藤夜叉にちがいない。
 このあいだ連れていたのは、まだ一ぺんも父として会ってもいないが、不知哉丸(いさやまる)であったのだろう。おそろしいものだ肉親の血がさせる直感は。あのとき、すでにそんな気がした。
 だが、ゆるしもなく、なぜこれへ来たか。高氏は腹が立つ。その激怒と咬(か)み合う底で、また、会ってもみたいし、なつかしい。
「十郎。……ま、ここへ通せ」
「お会いなされますか」
「ウむ」
「素姓も告げぬ異(い)な女。お耳にだけと思うておりましたが」
「ち、よけいなことを。――だまって連れて来ればいいのだ」
「はッ」
 と、十郎は顔を赤くしてひき退がった。言い過ぎを悔いたのだ。で、ふたたびその女性を案内して廊口に現われても、彼は客のみあとにおいてすぐ消え去った。
 女は被衣(かずき)をとって遠くに白い手をつかえている。――じっと、目迎えしながら、高氏のその眼はもンどり打っていた。女は、藤夜叉ではなかったのだ。
 おもても上げえない。ものも言いえない。女の姿は世馴れないことだけを語っている。
「……?」
 高氏は肋骨(あばら)に一つ波を見せて大きくふウと息をついた。
 よくよく眸はこらしたが、藤夜叉ではない。藤夜叉でなければ誰か。それが思いあたりもないのだった。
「女性(にょしょう)。……もっとお進みなさい。あまり遠い」
「……はい」
「ついぞ高氏は見知らぬが、折入ってとは何の用か。なんぞ公事(くじ)の訴訟頼みでもあるのか」
「いえ……」
 女の顔が、はじめて高氏の眼に映った。二月(きさらぎ)の日蔭のどこかにはまだ消え残っていそうな雪にふと出会った思いである。睫毛(まつげ)が濃い。襟(えり)くびの細さや総じての嫋(なよ)かな薄い体つきは、袂の忍び香(こう)に交じって涙の香もするようだった。
「お見覚えもないはずでございまする。初めての御見(ぎょけん)。それなのに、こう厚顔(あつか)ましゅう」
「では、いずこの」
「奇(く)しき御縁と申すしかございませぬ。先年、わが良人(つま)が鎌倉表へ曳かれて長い幽居のうちに、ごねんごろなお宥(いたわ)りを給うたうえ、良人の形見までを、おあずかりおき下さいましたそうな」
「や。……ではお許(もと)は」
「はい、亡き日野右少弁俊基の妻、小右京と申すものにござりまする」
「ああそうだったか……」
 高氏はさっきからの不審が、やっと、自分の失念にあったかと気がついた。
 去年、出陣のさい。――高氏はかねて亡き俊基から死の前夜に「……いつの日か妻に手渡して給われ」と頼まれていた彼が幽居で手写(しゅしゃ)した法華経一部と、和歌の詠草(えいそう)一帖とを、忘れずに持って西上したのであった。
 だが。
 あのさいは笠置、赤坂の戦いを先にひかえ、洛中それどころな騒ぎでなかった。
 ただ、依然、洛外に潜んでいた具足師柳斎の右馬介が、さっそく陣所へやって来た。そして――佐渡ヶ島から資朝卿(すけともきょう)の一子阿新丸(くまわかまる)をたすけて、共に島を脱出して帰った報告などあったので――「それよ……」と思い出し、小右京への言伝(ことづ)ても、そのせつ右馬介に命じておいた。
 だから、その後たしかに言伝てだけは、右馬介から小右京へ届いていたにちがいない。――しかし俊基が形見の品はいまなお高氏の手もとにあった。――自身の父の位牌とひとつ厨子(ずし)のうちに納めたままでここに在る。
「おう、小右京どのとは、あなただったか。では去年、身の家人(けにん)右馬介から、委細をお聞きおよびだったのか」
「はい。いずれ次の都入りのとき、親しくお会い給わって、高氏さまから、俊基朝臣の最期のさまもお話しがあるであろう。また形見の品もお渡しであらんと、そのご家来のお言伝てをいただいておりました」
 高氏は少し姿をただして。
「いや、すまん。陣務にまぎれて、つい沙汰するのを忘れていた。ゆるされい」
「めっそうもない。たとえお沙汰をいただいても、今は住み家(か)も秘めて、身のおき場もない私です。それゆえ自分からこうお訪ねして来たわけでございまする」
「なんと仰せある。今は住むに家なく、身の隠しばもない境遇とお嘆きなのか」
「つい、つまらぬことを」
「ははあ、察するに」
 高氏は、眼をそらした。小右京の痩せと、消えかかる雪のようなその白い皮膚が、とかく眸には邪魔らしかった。
「宮方随一の元兇、日野朝臣の妻と憎んで、六波羅も意地わるく、また新たな朝廷に媚(こ)びへつらう公卿仲間も、みな冷ややかな眼であなたを見るのか」
「世のつね。それはぜひもございませぬが」
「なお、ほかに?」
「…………」
「お、悪かったな。こころない問いつめなどして。……いやしかし、ここは泣くには閑(しず)か。……むりもない。人眼もなし、こころゆくまでお泣きなされ」
 高氏は身を曲げて、そばの欄へ肱(ひじ)をのせた。そして下の谷水へ眼を外(そ)らしてしまった。小右京がとつぜん身をうち伏せて、嗚咽(おえつ)の黒髪によよと波打たせていたからだった。
 良人に別れただけでなく、世人すべてから冷眼視されている美しいこの公卿後家が、いかに生きづらいかなど、訊かなくても彼にも分る。
 また、あまり聞きたくはない。自分の立場は、彼女の良人と真反対な戦勝国の一将だ。心の底など割るわけにもゆくまい。……どれ、俊基の形見をわたして、非情には似るが一刻も早く立ち帰らせるとしようか。――高氏はそれを取りに立ちかけた。
 すると、小右京もふと共に濡れた顔をあげた。あわれなと高氏は見た。それが彼女のことばを誘う眸になったかもしれない。縋(すが)るような声が唇(くち)ばたの涙もそのままほとばしり出た。
「高氏さま。どうしたらよいでしょうか。女は、このような世を」
 高氏は、はたと、その腰とまた当惑顔とを下へ落した。
「……お察しする」
「仰っしゃるような辛(つら)さには耐えても、世間は世の隅にもおいてはくれませぬ。恐ろしいお人が、つねにこの身を追ッて、捕えずにはおかぬと、狙(つ)け廻(まわ)しておりまする」
「検断所の役人どもでも」
「い、いいえ。名だたる鎌倉がたの大将です」
「えっ、名だたる者で。……とは誰です、何者ですか」
「亡き良人(つま)が、事の前から、密(ひそ)と親しゅうしておられました佐々木道誉どのでございまする」
「なにっ、道誉が」
 愕(がく)として……。
「あの道誉が、あなたをか?」
 半信半疑、高氏は茫とする。
 小右京は、その怯(おび)えから抜けたい一心で打ち明けた。去年の初冬ごろ。仁和寺の隠れ家へ道誉が訪ねてくれたが、それ以後、恐ろしい彼の執念につきまとわれていることを、告げて、
「どうぞ、お助け給わりませ。すこしはある身寄(みよ)りの者も、新しい朝(ちょう)や六波羅をはばかって、寄せつけてはくれませぬ。……というて、道誉の館(たち)へ引っ立てられて行くほどなら、死んだがましでございまする。高氏さま……」
 と、あとは涙に沈んだ。
“罪の半分は女にもある”
 それは道誉が兼好へ言ったことばだが、高氏のばあいは違う。高氏のは、ただ当惑だった。
 いわばふところへ逃げこんで来たこの窮鳥。しかも、美しい窮鳥である。――高氏は迷った。
 断(ことわ)ッたらどうなろうか。
 おそらく小右京は死を選ぶかもしれない。いやきっと死ぬ気だろう。その顔は死相と紙一(ひ)ト重(え)の白さだ。生き物の必死がしめす或る凄気(せいき)さえおびている。
 ……が。待てよ。
 高氏は自分を踏みとめた。おれとしたことが、こんな煩(わずら)いなどにとらわれていていいものか。一女子の涙などに――。
 時局は重大だ。
 今日も午後には、六波羅集会があり、その寄合触(よりあいぶ)れもとどいている。在京の諸大将はあらかた寄ろう。高氏もそろそろ支度して出向かねばならないと考える。そつぜんと、彼はその頭を切りかえていた。――すると、われにもあらぬ非情な笑いが口へ出てきた。
「ははは。ハハハハ」
 もうその姿を、路傍の花か何ぞと軽く見ている風で、
「いやこんな世の中、さだめしと、察しはつくがの、なにせいここは陣中だ、女をお匿(かくま)いするわけにはゆかぬ」
 自分を突ッ放すように言ったのである。そしてあとから、慰めをつけ加えた。
「だがの小右京どの。いかようにもお力にはなって進ぜる。ゆめ、死のうなどと馬鹿なお考えは持たぬがいい。そのうち、所領の丹波篠村(しのむら)へでもお隠ししよう。今日のところは、ひとまず、身寄りの家とかへお帰りなされ」
 彼女の返辞は待たなかった。彼はすぐ立って、
「十郎っ、十郎」
 と、遠くへ呼びたて、その佐野十郎にわけを話して、小右京の身に万一のないよう、途中を兵に守らせて、宿まで送ってやれ、といいつけた。
 なお、俊基のかたみの品も、十郎の手から彼女へ渡させ、高氏自身は、怯(ひる)むように、
「出仕の時刻も近いので」
 と、次の間の塗籠(ぬりごめ)へ身支度にかくれてしまった。
 十郎にうながされて、彼女はやがて、ぜひなげに帰って行った様子である。高氏はほっとしながらも、なぜか心が重かった。非情は、自分の心を軽くするためだったのに、逆に自分のなした非情があとでは心を暗くしていた。
 しばらくすると、十郎がふたたび見えて。
「殿。ご出仕になりますか」
「ム、出かけよう。小右京どのは?」
「おいいつけのように、兵五人ほど添えて、送らせました」
「あわれだな。いや戦乱の生む不幸な女は、かずしれまい。いちいち見てもやれぬ。十郎、馬の用意は」
「は。いつでも」
 高氏は室を出た。
 山荘の玄関には、馬や従者がさっきから主人の姿を待っている。高氏は羅刹谷の門を出て、駒下がりに坂道を降りて行った。
 すると、さきに小右京を送って行った兵の一人らしい。彼方から駈けまろんで来たと思うと、供の十郎へ向って近づくやいな、大声で、途中の変(へん)を告(つ)げわめいた。
「なに。道誉の家来どもが、道に待ち伏せしていたと」
 聞くと、すぐ高氏は、
「小右京はどうした、小右京の身は?」
 と、もどかしげに、馬上からその者へ、直(じか)にたずねた。
 急を告げに来た兵は、自責に晦(くら)んでいたし、怪我もしていた。相手との間に斬り合いがおこなわれたものとは、すぐわかる。
 高氏は叱ッて。
「はやくいえ。場所はどこだ」
「はっ。ついそこの、新熊野(にいくまの)の近くです」
「たしかに佐々木の家来なのか。待ちうけておったのは」
「あらわに、道誉どのが八方お捜し中の女、渡せと、迫ッて来たことですから」
「渡したのか。小右京を」
「なんで、渡しましょう。しかし、先は腕ずく、しかも大勢なので」
「小右京自身は」
「刃(やいば)の下を、法住寺ノ池の方へ、ひた走り逃げたようでしたが、あえない悲鳴が聞えました。ざんねんですが、なンともはや」
「十郎っ」
 高氏は、供へどなった。
「あとから来い」
 癇(かん)しゃくをおこしたらしい。馬腹を蹴ッた。馬は馬体を斜めにしつつ逸散に大和大路のかどを東へ曲がって行った。
 三十三間堂を横に、いちど瓦坂の下も駈けすぎたが、高氏はひらと馬首を回(かえ)した。そしてそこの松原の木々の枝の下を、鞍屈(くらかが)みしながら走り抜けて、先に見えた一群の武者どもの前へ馳け迫り、
「佐々木の雑人ばら、待てっ」
 と、言った。
「や?」
 彼らの中には、一つの張輿(はりごし)がまもられていた。いうまでもなく、その内の人は、捕えられた小右京であろう。が、ただ人(びと)とも見えぬ相手とながめて、
「なにか、御用か」
 と、内の一名が、進み出て、まずはおだやかに応答した。
「そちは佐々木の内の、何役の何と申す者だ」
「早川主膳と申す者。家職の一名にござりまする。あなたは、高氏どのですな」
「そうだ。狼藉(ろうぜき)は、主人のいいつけか、なんじらの意志か」
「狼藉ではございませぬ」
「だまれっ。小右京どのは、この高氏が故(ゆえ)あって見ておるもの。いわばわが家のひとり。どこへ連れてゆく」
「わが家のひとり? ……。はて初耳、そんなお言いがかりは受けとれぬ。かねがね、主人道誉がなにかと仕送りもし、また行く末のご相談にもあずかっていた女性(にょしょう)でおざる。連れ戻るにふしぎはない」
「渡さぬな」
「ご不足なら、主人へじかにおかけあいなされい。われらはただ主命によること」
「しゃッ」
 いきなり駒を割り入れて。
「輿(こし)を下に置けっ。置いて立ち去れ。佐々木へは、おれからいう。なにっ、渡さぬと」
 彼は、鞭(むち)を振りかぶった。
 鞭のうなりが、そこらの武士を、めちゃめちゃに撲(なぐ)り廻った。輿(こし)の垂れをも打った。輿は地へ投げ出される。
 ちょうど、佐野十郎らの供人も、背後から駈けつけていたことだった。道誉の家来たちは、われがちに逃げ出した。相手が悪い。逃げるしかなかったろう。
 すぐ輿の戸を開けさせてみると、声もしなかったはず、小右京の身は猿ぐつわを噛まされて、後ろ手にくくられていた。
「むごい仕方を」
 高氏は面をそむけた。義憤めいた感情のむかつきを、今やどうしようもなかったらしい。
「十郎っ。そちはここから引っ返せ。そして、小右京どのの身を、どこへでも、匿(かく)もうて上げるがいい」
「では、羅刹谷の内へ、留めおかれますか」
「むむ。ここの一難は去ったとしても、さきゆき、またも虎口(ここう)に見舞われたら何もなるまい。一存でよいようにしておけ。申しつけたぞ」
 高氏は、もう人委せにしたかったのだ。そういい捨てて、すぐ六波羅へいそいで行った。
 この日の五条総門は、もと薔薇園(しょうびえん)の辺から主典(すてん)ノ辻(つじ)、車大路まで、供待ちの馬や車でいっぱいだった。
「はて、遅刻かな?」
 外の雑鬧(ざっとう)にひきかえ、庁の閣内は、しいんとしていた。高い橋廊下を大股に行く高氏の影はややあわてていた。
 すでに広間の議場では、在京の諸大将の列座が粛と水を打ったような行儀をつつしみあっていた。――折ふし高氏が遅れて、一つの席につくと、見るともない全員の眼が、少しうごいた。中にはそっと目礼を送るもあり、あえて眼中におかない態度を持している顔もある。
 公卿も見えた。向い側に九人の公卿が居ならんでいる。その列の次に、佐々木道誉も坐っていた。
「居るな」
 こっちで、思うと、
「…………」
 ニタリと、道誉の方でも、薄ら笑みを見せたようにとれた。
 なにかまだ、ちぐはぐな高氏の胸だった。すべての者が、日頃とはみな別人の顔をしていた。じぶんだけが異端に思われ、溶(と)けこむのに、時間がかかる。
 上座には、両探題の越後守仲時と北条時益のふたりが見え、なお鎌倉の上使長井縫之助、工藤次郎左衛門、二階堂信濃ノ入道らも居ながれていた。そして何やら声をひそめ合っていたが、
「では……足利殿がいま見えられたによって、かさねて申し告げるが」
 と一応、すでにすんでいたらしい発表が、高氏のために、もいちどこう反覆された。
「かねて内々、後伏見、花園の二上皇へ、お諮(はか)り申しあげていた先帝ご処分の儀は、みゆるし、次のごとく降(くだ)されましたゆえ、ここに御一同へ、披露な仕(つか)まつる」
 仲時のあとに次いで、時益が条文の要を読み上げた。
臣として心ならねど、
天下静謐(せいひつ)のため、
承久の例に倣(なら)って。
先主後醍醐は、隠岐(おき)ノ島へ遷(うつ)し奉るものとす。
おん付添いは、男、一条行房、千種忠顕の二名を限り、女房には、
阿野廉子、権大納言ノ局、小宰相の三人(みたり)を添えまいらすこと。
ご発駕(はつが)、三月七日。以上
「…………」
 高氏は自分だけに聞かされているように、慎(つつし)んでそれを聞いた。ほかの顔はもうみな先に呑みこみ顔だった。
 幕府議定(ぎじょう)の発表は、それで終っていたものではない。
 後醍醐の“隠岐流し”につづいて、すぐ翌八日には、
「一ノ宮尊良親王(たかながしんのう)を、土佐へ」
 また。
「もと叡山ノ座主(ざす)、宗良(むねなが)親王を、讃岐(さぬき)に流したてまつる」
 という二皇子の配所さきも、あわせて布令(ふれ)出されたとのことだった。なおまた、後醍醐に付いて、帝が隠岐の船路につくまでの長い道中を護送してゆく警衛役の大将には、
 千葉ノ介貞胤
 小山五郎左衛門秀朝
 佐々木の入道道誉
 の三名が、幕府任命となったことも、同時にこの場で言い渡された。
「このほか、まだ」
 いろめく満座のおちつきを待って、両探題はなお、次のようにつけ加えた。
「――一味の公卿、僧侶、武士どもも、追ッつけ、鎌倉のご議定がまいり次第、処断となろうが、ひとまず先帝と二皇子の遠流(おんる)を執(と)りおこなった後と見られる。――要は、かならず島送りの前後、大塔ノ宮一味や楠木の残党が、先帝奪回の挙(きょ)に出るものと予想されますゆえ、在京の諸大将には、いちばい、備えにお抜かりなきよう、ご用心をたのみ入る」
 これで、この日の寄合(よりあい)は終ったかたちだった。――と見てから、立会いに来ていた持明院派の公卿たち九名は、すぐ席を立って、先に帰った。
 三々五々、諸大名も散らかった。会場の片すみや閣の広縁(ひろえん)などでは、俄に立ち話の輪が方々に見えだしている。
 すると、そのあいだを縫って来た佐々木道誉が、高氏の姿へ、
「やあ、しばらく」
 と、呼びかけた。高氏もまた、渡りの高廊下から振り向いて、彼を待つかの姿でいた。
「おう、若入道。いつも艶々(つやつや)しいの。お元気よな」
 のッけから高氏は、つい揶揄(やゆ)を弄(ろう)してしまった。小右京のことが胸に生々(なまなま)あったからだった。しかし道誉はまだ何も知ってはいない。高氏の揶揄をただ親しみと片笑靨(かたえくぼ)でうけている。
「いや、元気なのは、あたりまえだ。お互いこんな時代にこの若さではないか。浮世がおもしろくて堪らぬよ。ときにおぬしはどうなのだ」
「のそのそ遅く入洛したため、名からして地獄の入り口みたいな、羅刹谷の山荘に、先ごろおちつきを得たばかりだ」
「いちど佐女牛の邸へも遊びに来て欲しいな」
「いや貴公は、それどころではあるまいに」
「なぜ」
「隠岐遷(おきうつ)しの警衛に赴(ゆ)くとあっては容易でない。何かの準備もたいへんだろう」
「なあに、まだ十日以上のいとまはある。それはそれとし、いちどゆっくり飲もうではないか。こんな時勢に会して、まこと、話し相手とおもうているのは、足利又太郎お一人だ。いや世辞ではない、ほんとのところ」
 そのとき、高氏の後ろへ来て、何か小声に告げている者があった。
 北ノ探題仲時の側役で「――仲時どのが、庁の茶座敷でお待ち申しあげておりますゆえ、後刻でも、ちょっとお寄りを」との伝言だった。
 庁の茶座敷は、いわば探題専用の休憩所だった。
 仲時は、忙しい寸暇を、そこに待って、
「高氏どの。つい折もなかったが、今日はちょっとお耳にだけ入れておきたい」
 と、彼へも一盞(さん)の茶をすすめた。
 もちろんここでの話は公務ではない。個人的な閑談のくつろぎにとどまっている。が、仲時の話に高氏はとむねをつかれて、
「……では先ごろ、小松谷のおやしきを頼って行った母子(おやこ)の者が、そのままご邸内で、お世話になっているというのですか」
 と、意外そうに反問した。こう反問するあいだに、頭を整理していたのでもある。
 あれは、初めて鳥羽口から軍をつれて入洛した日であった。眉目(みめ)よい一少年を連れた路傍の垂衣笠(たれぎぬがさ)の一女性を、高氏は、その晩、夢にもみたほどだった。
 しかしその幻覚は、しいて今日までは打消していた。
 ――あれほどかたく、時の来るまで待てといましめて、三河の一色郷(しきごう)に隠し、生みの子の安穏な育ちを、そっと守らせておいたはずの藤夜叉だ。
 その藤夜叉が、子を連れて、しかも戦陣のこの都へ、だまって出て来るはずはない。
 鎌倉における自分の立場も、またいま、不知哉丸(いさやまる)を高氏の長子として表面に出すことのむずかしさなども、充分、得心(とくしん)していたはずの彼女である。
 だから、いつぞやの垂衣笠(たれぎぬがさ)は、人ちがいにちがいない。日ごろに抱いていた幻影がふと路傍のゆかりもない母子にかさなって見えた錯覚だろう。そう否みつつ忘れかけていたところなのだ。それをいま、仲時の話にくつがえされたので、彼のあたまの紊(みだ)れもぜひなかった。
「して、いつ頃ですか。その母子(おやこ)が、あなたを頼ってまいったのは」
「いや」
 仲時はかろく否定する。
「あれは、正月早々でしたが、しかしこの仲時を知って、頼ってこられたわけではない」
「でも、なんの御縁もなくては、あの藤夜叉も」
「まだ御辺(ごへん)には、お聞きおよびでなかったかの?」
「なにをです」
「それ以前、去年の秋頃から、仲時のやしきには、かの草心尼と覚一と申すふたりが、身を寄せていたことを」
「おお。いつか右馬介から、それはちらと耳にしましたが」
「ならば、ご合点(がてん)はつくはず。さきに草心尼の母子も、鎌倉から都へのぼる途中で、藤夜叉には、なにか危難を助けられたことがあったそうな。そのうえ三河の一色郷にも、幾十日かを共に過ごしたことなどもあるよしだ」
「ははあ。それが縁で?」
「草心尼も子を持つ親、藤夜叉も子持ち。おたがいに似たような薄命を喞(かこ)ちあって、その後もたいそう仲よく、常々、文(ふみ)のやりとりなどしていたらしい。……いや、それはともかく」
 と、仲時は親身(しんみ)になって。
「高氏どの、いちどその和子へも母へも、父親として、会って上げるお心はあるまいか。もしよろしいなら、折を見て、小松谷の亭にお越しいただき、一同お顔を揃えて上げたいと思うのだが」
 正直、いまの高氏には、子のことなどは、嫌悪と当惑以外のなにものでもない。この若い父親の胸は、べつな方向でいっぱいなのだ。しかも人知れぬ天下への野望なのである。
 不知哉丸(いさやまる)
 それも一ト目ぐらいは、成人ぶりなど、見たい気がどこかでしていないのではない。しかし、ひとから押しつけがましくすすめられると、逆に、むかついては来るし、またのめのめその子をつれて、この人目あまたな都へ出て来た藤夜叉へも腹が立つばかりだった。
「なにを、ご思案かの」
 仲時は愍笑(びんしょう)をふくんだ。
 あいかわらず思考力の鈍(どん)な“ぶらり駒殿”とでも見ているらしい。
「すぐ二月も終る。いっそ月をこえた二日の夜、お待ちいたそう。どうだの、ご都合は」
 それでも、高氏はまだ、答えなかった。迷いを顔に描いて、
「はあ。……?」
 と、煮えきらず、ついには、
「いやお待ちください」
 と眼をそらした。
 子は二の次でも、藤夜叉には無性に会いたい。恋慕が身のうちを焦(こ)がし、ひさしく触れない白い肌を空想するだに苦しくなる。とはいえ、彼は今を、この千載一遇の日を、大望の緒(しょ)と思わずにいられない。生涯の大きな賭(かけ)はこれからなのだ。――彼女の女心では、草心尼や仲時にすがって、不知哉丸(いさやまる)に初の父子の対面をさせ、じぶんの生んだ子を、高氏の嫡子(ちゃくし)と、確認させようとするのであろうが、時節でないし、憎むべき女の狡(ずる)さだ。
 このさきの高氏は、よくその大望への万難に剋(か)てるか、または、半途で、あえない敗者となって野たれ死にするか、神以外には分らない身だ。いわんやその緒(しょ)にもつかないうちに、足手まといな女子供――ともいっていいものなどにかかずらっていられようか。
「せっかくですが。……いやご親切の儀は、まことにかたじけのう存じますが」
「なんじゃ、ご異存か」
「さればで」
 高氏は、自分をも相手をも、あざむくようで胸ぐるしかった。
「内輪(うちわ)の恥を申せば、たしかに、不知哉はわが子に相違ありませぬが、まだ妻の登子(とうこ)にも聞かせていず、一族も知らず、藤夜叉にはかたく時を待てと、申しつけおいたものにございます。それなのに無断、人なかへ出て来るなどは、不埒(ふらち)な女。何とぞおかまいなく、早々、三河一色村へ追ッ返していただきとう存じまする」
「はははは。ご内室へお気がねとは」
 仲時は真(ま)にうけない。
「足利殿ともある者が、側室の二人や三人お持ちあったとて、世間のならわし、何のふしぎもあるまいに」
「でも都はまだ戦陣の中」
「それもまたお堅すぎよう。佐々木の風儀などは、人目をみはらせておるほどだ」
「いや道誉は、道誉流で通せましょうが」
 こんどは、高氏の方で、こう苦笑しながら言った。
「この高氏は不器用者です。わけて目前には、先帝の遠流(おんる)、二皇子のご処分など、お互い重大な任を山とひかえているばあい。探題どのにもどうか女子供風情(ふぜい)の些事にはおかまいなく、お打ち捨ておき下さいまし。両名ともに即刻、元の田舎へ、追っ返していただきとう存じまする」
了

底本:「私本太平記(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年2月11日第1刷発行
   2010(平成22)年4月1日第29刷発行
   「私本太平記(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年3月11日第1刷発行
   2008(平成20)年3月3日第25刷発行
※副題は底本では、「帝獄帖(ていごくじょう)」となっています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2012年11月7日作成
2013年4月18日修正
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