あらすじ
徳島城では、阿波守重喜が健康を取り戻し、討幕の計画を着々と進めています。一方、重喜に命じられた法月弦之丞と、その愛人お綱は、暴風雨の夜に海に身を投じたはずでしたが、実は生きており、阿波の地に潜伏しているという噂が流れ始めます。
その噂を耳にした、弦之丞を討ち取った天堂一角は、不安を感じ、かつての仲間たちと共に、弦之丞が身を潜めているという剣山へと向かうのでした。
 それから四、五十日の日が過ぎた。
 暑い。
 南国らしい暑さの夏!
 雄大な雲の峰の下に、徳島の城下は、海の端(はし)に平たく見えて、瓦(かわら)も焼けるようなギラギラする陽(ひ)に照らされている。
 カチ、カチ、カチ! たえまのない石工(いしく)の鑿(のみ)のひびきが、炎天にもめげず、お城のほうから聞えてくる。町人の怠惰(たいだ)を鞭(むち)うつようだ。
 徳島城の出丸櫓(でまるやぐら)は、もうあらかた工事ができている。今は、いつか崩壊(ほうかい)した石垣の修築が少し残っているばかり、元気のいい鑿(のみ)の音は、そこで火を出しているひびきである。
 阿波守重喜(あわのかみしげよし)も、その後、めっきり快方に向っていた。
 ひと頃、家臣たちが眉をひそめた、病的な乱行(らんぎょう)も止(や)まって、今では、神経衰弱のかげもない程、まっ黒に日にやけている。
 あまたの若侍と一緒に、徳島城の大手から津田の浜へ、悍馬(かんば)をとばしてゆく重喜の姿をよく見かける。
 水馬、水泳、浜ではさかんな稽古である。ある時は、家中(かちゅう)をあげて、陣練(じんねり)、兵船の櫓稽古(やぐらげいこ)などが行われた。
 今日も阿波守は、水襦袢(みずじゅばん)に馬乗袴(うまのりばかま)をつけたりりしい姿で、津田の浜のお茶屋に腰をすえ、生れ変ったような顔を潮風に磨かせていた。
 そして、白浪をあげて乗り廻している水馬の群れを眺めて、時々、ニッコとさえしている。
 健康とともに、強い希望の火が、かれの行く手によみがえってきていた。赫々(かっかく)としてきた。
 潮音、海風、すべて討幕(とうばく)の声! そう胸を衝(う)つのである。
 炎日、灼土(しゃくど)、すべて回天(かいてん)の熱! そう感じられてくるのである。
 健康な心には、迷信の棲(す)みうる闇はなかった。間者牢(かんじゃろう)のことも俵一八郎の死も、阿波守の脳裏からいつか駆逐されて、その後には、ただ大きな望みだけが占(し)めていた。
 ことに。
 もう五十日ほど前に、沼島(ぬしま)の沖合で、法月弦之丞(のりづきげんのじょう)とお綱とが、暴風雨(あらし)の狂瀾を目がけて身を躍らせたので、とうとう、それなり海のもくずになったであろうという三位卿の報告は、かれをして、ホッとした息をつかせたに違いない。
「幸先(さいさき)はよいぞ!」
 阿波守の意気があがるとともに、出丸曲輪(でまるぐるわ)の工事は成り、石垣の普請(ふしん)は近く手を離れるばかり、火薬は硝薬庫(しょうやくぐら)にみち、兵船はそろい、家中の士気は揃ってくる。すべてが、不思議なほどトントン拍子に吉事を重ねてくる。
 近くは、前もって盟約のある京の代表者、徳大寺(とくだいじ)家の密使をはじめ、加担の西国大名、筑後(ちくご)の柳川(やながわ)、大洲(おおず)の加藤(かとう)、金森(かなもり)、鍋島(なべしま)、そのほかの藩から、それぞれの使者が徳島城に集まって、幕府討て! 大義にくみせよ! の最後にして最初の狼火(のろし)をあげる諜(しめ)しあわせをすることになっている。
 で、阿波守の爽(さわ)やかな胸から、時々、明るい笑いが頬へのぼる。
 波を見ては笑(え)み、人をみては笑み、馬をみては笑む。
「阿波殿!」
 と、お茶屋の端にかけている三位卿が、それを見て声をかけた。
「ウム、何か?」
「愉快でござりますな」
「心地よいの」
「若侍たちの水馬も、日に日に上達してまいります」
「蜂須賀武士じゃ!」
「南蛮鉄(なんばんてつ)のような皮膚――」
「あれへ具足(ぐそく)を着込ませたら、よもや江戸の青ひょろけた侍どもにひけはとるまい」
 といいながら阿波守、ふと、有村(ありむら)のうしろにかがんでいる二人の見なれぬ侍に目をつけた。

「あれにいるのは何者か?」
 と、重喜が妙な顔をした。
 ひとりは頭巾をつけ、ひとりは総髪(そうはつ)。どちらも大名の前に出られる風姿(なり)ではない。
「もと川島郷(かわしまごう)の原士(はらし)、関屋孫兵衛です」
 と、待っていたように、有村がひきあわせた。
「ひとりは旅川周馬という浪人、一角にも劣らず、弦之丞を討つについて骨を折りました」
「ウム」
 重喜は鷹揚(おうよう)にうなずいた。
 さきに、天堂一角から推挙があったので、その名前だけは耳にしていた。
 有村は、お言葉をたまわりたいと願った。そして、関屋孫兵衛は、某所で果し合いをした折の刀傷(かたなきず)を病んでおるので、頭巾のままおゆるしを願いたいとつけ足した。これは、三位卿も真偽を知らないことだが、孫兵衛のいうままを取次いだのである。
 で、機嫌のよい阿波守は、謁(えつ)をゆるして、当座の手当を与えるように近侍(きんじ)へいいつけた。
 納戸方の侍の手から、金一封ずつが渡された。
 すくない金ではないらしい。
「なお、いずれ後日には、何かのお沙汰があるであろう」
 ということに、周馬も孫兵衛も予期どおりなつぼへ来たわえと、内心ニタリとして、殊勝(しゅしょう)らしく引退った。
 だが頭巾のことでは、さすがなお十夜も冷汗をかいたらしく、腋(わき)の下を拭きながら、周馬とくすぐったがりながら、空いている浜小屋のひとつへ入ってくる、とそこに天堂一角が、水襦袢(じゅばん)に馬乗袴(ばかま)の姿で、腕をくんで鬱(ふさ)いでいた。
「お」と、顔を見あわせて、
「どうした」
 と、肩を叩く。
「う……」と一角は元気がない。
「水馬で疲れたとみえる」
「そうでもない」
「今、阿波守に拝謁(はいえつ)してきた」
「ふーん……」
「貴公の推挙もあり、三位卿の口添えも利(き)いて、すっかり面目をほどこしたというわけさ」
「そうか」
「よろこんでくれ」
「うム」
「おれも川島へ帰って、元の原士千石の身分になれる。周馬だって、いずれ、近習とまではゆかなくっても、馬廻りやお納戸ぐらいには役づくことになるだろう」
「早いな、話は」
「とにかく、吉運到来だよ」
「そうかしら」
「オイ、一角」
「え」
「そうかしらって、お前(めえ)だって、噂にきけば、たいそういい運が向いてきたというじゃねエか」
「ウム、加増(かぞう)のお墨付(すみつき)をいただいた」
「不足なのか」
「過分さ」
「じゃあ」
 少し話がこじれてきた。周馬が代って、
「おれたちが仕官したり帰参するのが気にいらないのか」
 とひがんでいう。
「ばかをいえ!」
 と一角は傲岸(ごうがん)になった。
「お互いに立身出世の緒口(いとぐち)がついたのを、誰が気にいらない奴がある」
「それならよろこんでしかるべきじゃないか」
「だからよろこんでおるではないか」
「ちッ、まずい面(つら)をしているくせに」
「ほかに屈託(くったく)があるからだ」
「なんだ?」
「おれは少し気になってきた」
 と一角はまた首をたれて考えこんでしまった。
「どうしたっていうんだ。天堂一角にも似合わん憂鬱じゃないか。今、蜂須賀家もおれたちも、吉兆と吉運にめぐまれているのに」
「だからよ、その夢が凶(わる)く、裏切られてきやしないかと心配しているのだ」
「妙なことをいう……」
 解(げ)せない。
 ふたりは眉をひそめて一角を見た。一角は何か真剣になって苦念していた。

 剽悍(ひょうかん)で一徹者、何ごとにも荒けずりな性格を見せる天堂が、妙に楽しまぬ色で、考えこんでいるので、周馬と孫兵衛がだんだんたずねると、やっと、口を開いた。
「どうも、吾々の吉運到来は夢らしいぞ。夢はいいが、さめた後の悪さが思いやられる」
 と、何かに、おびえていうのである。
「なぜ?」
「どうも、弦之丞とお綱は、まだ死んではおるまいと思われる。もし、ふたたびかれが姿をあらわすことでもあった日には、殿を欺(だま)したことになる」
「ばかな!」と周馬は一蹴して、
「あの怒濤(どとう)の中へおどりこんで、助かるわけがあるものか」
 お十夜も同意した。
「一角、そりゃ、余りお前(めえ)が考え過ぎるよ」と。
 そして、もう一言(ひとこと)、冷笑をまぜてつけ加えた。
「運が向くと人間は臆病になる。金持になると病気ばかり怖くなる、この夢がさめるな、この夢がさめるなってやつよ。それと同じだ。ばかばかしい。夢といってしまえば、棺桶の底へあぐらを組むまでは、みんな夢じゃないか」
「くだらんことをしゃべってくれるな、拙者は心の底から心配しているのだ。恩賞の帰参のと、吉運に酔っている貴公たちを見るといっそう後が思いやられる。決して、根柢(こんてい)もなく取越し苦労をしているのではない」
「どうして急にそんなことを考えだしたのか。おれたちにはおかしくってしようがない」
「実をいうと、拙者も、今しがたまでは得意だった。で、今日この浜で出会った叔父貴にも自慢をしたくらいなのだが」
「ウム」
「叔父というのは水泳指南番(しなんばん)で、赤組頭(あかぐみがしら)、生島流(いくしまりゅう)の達人で、平常(へいぜい)は船預かりという役名で四百石いただいている、海には苦労をしている人間だ」
「成瀬銀左衛門(なるせぎんざえもん)のことではないか」
「そうだ」
「その成瀬に自慢をしたというのは、法月弦之丞のことをだな」
「刃(やいば)で止(とど)めを刺したのではないが、とにかく、海の藻(も)くずになったことは分りきっておる。かたがたお墨付をいただいたから、それを話したのだ。さだめし、叔父にしても家中へ鼻が高かろうと思って」
「なるほど、そしたら?」
「おめでたい奴じゃ! 頭からそうどなられたものではないか」
「ふウむ、変り者だな」
「どうして、常識過ぎるくらいな常識家だ。その叔父が苦(にが)りきって、罵倒(ばとう)するのだから、拙者もちょッと面食らった。――で理由を糺(ただ)すと、法月弦之丞は決して死んではおるまい。必ずどこからか陸地へ上がっている! 祝杯に酔ッぱらうなよ、阿波守様はいい時にはいい殿だが、悪い時にはその逆がひどく出るお方だぞ! こう叱るのだ、拙者をな。で、だんだん叔父貴の説に耳をかしてみると、どうも彼はまだ生きているという結論になってくる」
 周馬もお十夜も、なんだか嫌な気持になった。あまり正確な推理がそのあとから出るのが怖ろしく思えた。
「深いことはいわないが、叔父は水泳と船術の経験から、近海の潮流に詳しい。また、みずから海へ飛びこんだ程の弦之丞だから、必ず自信があったろう。相当にいける者なら、あの晩の波ぐらいは大したものではない。ことに隠密というものは、捕われるまでも決して自殺をしないものだ、拷問(ごうもん)にたえ、恥をしのび、首を斬られる最後の一瞬まで、生きて命(めい)をまっとうしようともがく粘(ねば)り気(け)のあるところに、隠密の本分と、かれらの誇りがある。その辺はなみの武士のいわゆる最期の美とはよほど違う。だから、弦之丞も、お綱を引っ抱えて海へ入ったのは、おそらく、逃げるだけの自信があってしたことに違いないし、船も阿波の沖へ近づいていたといえば、かたがた油断(ゆだん)はなるまいというのだ」
「けれど、もう五十日あまり過ぎた今日になっても、かれがどこに潜伏していたという知らせも、ないではないか」
「その代りに、かれの死骸がどこへ流れ着いたということも聞かない」
「そういえばそうだなア……」と周馬の声は溜息(ためいき)に似てきた。
 吉運到来の歓喜は苦もなくぐらつきだした。
 そう疑いをもってくると、弦之丞の変幻自在なことから推しても、ヒョッとすると、徳島の城下あたりを澄まして歩いているような気がする。
 下手をすれば、浜で動いている足軽や人足、お城に取ッついている石工の仲間などに、かれが巧妙な変装をしていない限りもない。
「祝杯に酔っぱらうなよ!」
 海で苦労をした人間がいったという言葉が、気味わるく耳にこびりついてきた。

 阿波守が浜から帰城した後で、三人は思案にあまった顔を揃え、三位卿にどうしたものか相談してみた。
「ふウム……」と聞いていたが、かれも専門家の成瀬銀左衛門がいった説というのでは、頭から否定もしきれないで、
「そういわれてみると、ほうってもおけぬな」
 と、同じ疑念にとらわれてしまった。
 そして、またこういった。
「なにしろ万全を尽くしておくに限る。それには、第一案も第二案もあるから決して心配することはない」
 翌日、かれは三名の者をつれて、助任町(すけとうまち)の代官所に桐井角兵衛(きりいかくべえ)をおとずれた。
「こういう者であるが」
 と有村が、代官の角兵衛に示したのは、前夜、周馬が入念に描(か)いた弦之丞とお綱の人相書で、骨格、年配、特徴、背丈(せたけ)などが、微細にわたっている二枚の巻半紙。
 それをひろげながら、
「今から五十三日前の暴風雨(あらし)の夜から後に、こういう男女の死骸が、御領内の沿岸へ上がったことはないか。あるいは、無智の漁師(りょうし)などが、曲者(くせもの)に騙(かた)られて匿(かくま)っているような様子はないか、また、巧みに変装して御城下などにまぎれ込んでおるようなことはあるまいか、どうか、入念に至急、お調べを願いたい」
 と、むずかしい注文を持ちこんだ。
 桐井角兵衛は罪人の揚屋(あがりや)を預かり、手代手先の下役を使って、阿波全土の十手を支配している役儀上、いやとはいえないで、すぐに人相書を十数枚複写させ、それを美馬(みま)、海部(かいふ)、板野(いたの)、三好(みよし)などの各地の配下へ持たせて、しらみ潰(つぶ)しに各村を調べさせた一方、代官所の手先に命じて、城下はいうに及ばず、阿波の沿海、残るくまなく捜索させた。
 叩けばほこりの道理で、その結果いろいろな報告が集まった。だが、ひとつとして取るに足るような手がかりはなかった。
 ただ、あの暴風雨(あらし)から数日の後、徳島より南の燧崎(ひうちざき)に、一枚の渋合羽が流れついたということと、まるで方角違いな、富岡郷(とみおかごう)の山林の中に、日数をへた男女の死骸が抱き合って朽ちていた、という二つの事実があったが、それも深く探ってみると、いずれも縁のない暗合に過ぎない。
 ふたりの消息は、依然として謎(なぞ)であった。求め得たものは、そういう偶然が起こさせる錯覚(さっかく)と、吉運をおびやかす疑惑、それだけである。
 で、有村は、前から阿波守には内密に考えていた、第二の案を実行しようとした。それを天堂や孫兵衛や周馬に打ち明けると、三人も異議なく雷同(らいどう)した。
 重喜(しげよし)に話せば、無論許されないにきまっていることであった。許されないよりは或いは激怒を買うかもしれないと思ったので、秘密に出立しようとなった。
 山支度! できうる限りの軽装で、竹屋三位卿以下、夜にまぎれて城下を抜けだし、剣山へ指して行った。
 お十夜孫兵衛だけは、久しぶりで、途中郷土の川島郷(ごう)へ立ち寄りたいというので、それより一日前に立っていた。そして、後の者を川島で待ちあわせ、そこで、何かの手筈を諜(しめ)しあわせる約束。
 孫兵衛にしても木の股(また)から生れた男でない以上、川島へ帰ってみれば、老いさらぼうた祖父だとか、顔を知らない甥(おい)だとか、麦畑でねじ伏せた女だとか、古い記憶の中から彼を取りまくさまざまな人があった。
 だが。
 故郷(ふるさと)へまわる六部(ろくぶ)の気の弱り――で、お十夜がこの際寸閑(すんかん)をぬすんで、郷里をのぞいたことは、ようやくかれの放縦(ほうじゅう)な世渡りと、そぼろ助広の切れ味に、さびしい薹(とう)が立ってきたのを語るものである。
「おれもこんどは落ちつくぜ。うム、御恩賞と扶持米(ふちまい)を大事に守って、昔のとおり川島の原士(はらし)となって、この屋敷を建てなおすつもりだ」
 周囲の者にも、こんな放浪児らしくない気持をもらした。
 焼きが廻ったというものであろうか、それとも、人間らしいところへ落ちついてきたのであろうか、とにかく、吉運到来がだいぶ獰猛(どうもう)性を和(やわら)げているのは事実だ。
「おれだって、後生は安穏(あんのん)に送りてえからな」
 といったところが本音であろう。
 そこへ有村が来てかれを誘い、一行四人、吉野川の上流へと急いだ。
 灼(や)くような陽(ひ)が、かれらの笠の上から焦(い)りつけた。有村も一角も、袴(はかま)の上から小袖を脱いで、白い肌着になっていた。柄頭(つかがしら)の金具や刀の鍔(つば)も、手をふれると熱いほど焼けている。やがて仰ぐ行く手の雲と雲の間に剣山(つるぎさん)の姿がどっしりと沈んで見えた。
 甲賀世阿弥(こうがよあみ)のいる山だ。
 全身の血とぎらん草の汁をしぼって、かれが孜々(しし)と書き綴(つづ)っていたものは、もうどの辺まで進んでいるか?
 三位卿たちは世阿弥が最後の仕事として、そういうことに魂を打ちこんでいるとは夢にも知らなかった。だが、ぜひとも、かれを殺してしまうことが、最善の手段だとは考えついていた。
 いずれ、お綱は父に会うべく、また、弦之丞は世阿弥から阿波の内秘を聞きとるべく、剣山へ目指してくることは想像される。だから、その二人がかりに生きているものと仮定しても、先廻りして、世阿弥の命さえ奪(と)っておけば、さまで驚くことはないではないか――。
 こう有村は考えたのであった。
 そして、それを実行するために、四人は焼け土を踏んで剣山へ急ぐのだった。

 鼬(いたち)のような鋭さをして、今朝、塀裏町(へいうらまち)の横丁(よこちょう)を出てきた手先の眼(がん)八は、ツンのめるようなかっこうで、牢屋塀(べい)の下草へ痰(たん)つばを吐きかけながら、そそくさと、代官屋敷のほうへ急いで行った。
 それを見かけると、城下の者は、
「オヤ、何かまた朝ッぱらからお召捕(めしとり)があるぜ、眼八が大股で行った」
 と、すぐに伝えあうほどな記録を持っているすごい眼八。
 手拭でふくれている懐中(ふところ)も、人一倍長い捕縄(とりなわ)の束でアアなっているのだろうと恐(こわ)がられている手先である。
「お早う」
 と、その眼八が門に立った。
 黒い冠木門(かぶきもん)の外から中へ、玉砂利が奥ふかくしきつめてある。城下代官と町奉行を兼ねている桐井角兵衛(きりいかくべえ)の役宅だ。
 箒(ほうき)と打水で、役宅の前を掃除していた菖蒲革(しょうぶがわ)の袴(はかま)と、尻はしょりの折助(おりすけ)が、
「やあ、眼八」
 と、朝機嫌のいい声を出して、
「ばかに早いな、何かあるのか」
 と、竹箒を肩に立てかけた。
「ウム、ちょっと」
「相変らず隼(はやぶさ)だな、いずれ大物だろう」
「そうでもないが」
「町同心(まちどうしん)の田宮(たみや)様ならば、もうあちらに詰めておいでになる、取次いでやろうか」
「田宮さんじゃ、少し相談相手にならねエことなんだが、お奉行はまだ――」
「まだお住居(すまい)のほうだろうよ」
「折り入って眼八が申し上げたいことがあって起き抜けにまいりましたと、ひとつ、取次いでみてくれないか」
「いいとも」と、菖蒲革(しょうぶがわ)のほうが、役宅の横を廻って、塀つづきの角兵衛の住居のほうへ様子を見に行った。
 待っている間、眼八と折助は、何かの話の末に思いだして、
「そういやあ、森の屋敷の宅助はどうしたろう?」
 と、眼八からいいだした。
「あいつにこまごまと積もって、十両ばかりの貸(か)しがあるンだが」
「借金で首が廻らないところから、出先で随徳寺(ずいとくじ)をきめてしまったンじゃあないか」
「だが、主人の啓之助も、まだ御城下には帰っていないらしい」
「噂によると、何かマズいことがあって、大阪表でお扶持(ふち)放れとなったそうだ」
「ヘエ、森啓之助が?」
「なんでも浪人したという話だ」
 そこへさっきの菖蒲革が帰ってきて、
「眼八、やはりお役宅のほうで待っていろとおっしゃったよ、すぐにお越しになるだろう」
「ありがとうぞんじました」
 と、およその時間を計りながら、そこで、二、三服煙草を吸ってから、役宅の奥へ入って行った。
 案内を知っている代官部屋を覗(のぞ)いてみると、桐井角兵衛はもう机に積み重ねてあるいろいろな書類をめくっている。それがみんなこの間うちから八郡の地方代官所へ問いあわせをした、人相書の反響かと思うと、眼八は、なんとなくおかしくって、しばらく、苦笑を押えていた。
 と、それに気がついて、
「眼八ではないか、早朝から折り入って話したいこととは何だな」
 と声をかけた。
「ごめんこうむります」
 と、眼八は板縁にかしこまって、
「先日、竹屋三位卿のおいいつけで、ふれを廻しました法月弦之丞とお綱という女のことでございますが」
「ウ、ウム」と膝をのりだして――「今朝(こんちょう)も諸方から来ている書類に目を通しているのだが、ひとつとして確(かく)たる手がかりはない。ところで、何かそちの手で、めぼしいことが挙(あが)ったか」
「ちょっとばかり心当たりがございますので、それで、お指図をうけに上がりました」
 と眼八は、煙管(きせる)を抜いて、指に挟んだが、煙草盆が遠いので、その手を空しくさせたまま、しばらく言葉を切っていた。
「ふウム……そうか!」
 と桐井角兵衛は、机に山積している各地の郡奉行(こおりぶぎょう)の報告よりは、眼八が、煙草入れの筒(つつ)と一緒に抜いた心当たりという一句に、すっかり引きずり込まれて、
「して、その二人の生死は?」
 と、まず、訊(たず)ねた。
「奴らは、たしかに死んではおりません」
 と眼八は、濁(にご)りのない声で、言いきった。

 ゆうべ、手先の眼八は、免許町(めんきょまち)の刀研師(かたなとぎし)大黒宗理(おおぐろそうり)の店へ寄って、ある兇行に使われた小柄(こづか)の目利(めきき)をして貰っている間に、思いがけない拾いものにぶつかった。
 髪切虫(かみきりむし)のヒゲみたいに鋭いかれの感覚は、そこへ来た男と宗理の対話を二言三言(ふたことみこと)聞いただけで、
「こいつあ※(感嘆符疑問符、1-8-78)」
 と、思った。
 職業的な興奮を超(こ)えて、一種の功名心に燃ゆる動悸(どうき)さえうった。
 この間うちから、阿波全土の代官や手先や町同心が、蚤取眼(のみとりまなこ)でたずねていても、なお、その生死すら判定しない法月弦之丞という江戸方の隠密と、お綱という女を、ひとつ、この眼八の手で、アッサリ引っくくってみたら、節穴同様な目玉をもって納まっている町同心や郡奉行などが、どんな面(つら)をするだろうか?
 思ってみるだけでも痛快だ。乗り気になる値(あたい)がある。
 で、眼八。
 その男が帰ったあとで、何食わぬ顔をして、宗理の口うらをひいて家へ戻ってきた。
 寝床の中で、とっくりと前後のことを綜合してみると、やはり弦之丞もお綱も立派に阿波へ入って、どこかにほとぼりをさましているという結論が生れてくる。
 眼八は寝られなかった。
 当たった富札(とみふだ)をふり廻しているような興奮で一世一代の仕事だと考えた。初めは直接に三位卿のところへ持ち込んで、城内で羽振(はぶり)のきく若公卿に取り入ろうと胸算(むなざん)をとったが、それもあまり支配者を出しぬく形になるので、とにかく蒼惶(そうこう)として起き抜けに代官屋敷へやってきたわけ。
 それは桐井角兵衛にも寝耳に水であった。
「で、お前がいた時に、大黒宗理の所へ来あわせた男というのは、いったい、何者なのだ? まさか弦之丞自身ではあるまい」
「そうです、無論弦之丞じゃありません、どこかこの辺の浜へ稼ぎに来ていた船大工の手間取(てまとり)。そいつが研師(とぎし)の宗理の手から、研(と)ぎ上がった二本の刀を受け取って帰って行きました」
「船大工が?」
「ヘエ、しかし、ひとつは、無銘の長い刀(やつ)、ひとつは新藤五という小脇差で、すばらしい名作、鑿(のみ)や手斧(ちょうな)なら知らないこと、船大工風情の手にある代物(しろもの)でないことは分っています。で、頼み主はと台帳を見て貰うと、海部(かいふ)の日和佐(ひわさ)の宿(しゅく)、大勘(だいかん)という棟梁(とうりょう)の名になっています」
「ふム、そして?」
「頼(たの)み人(て)の名に偽りのないことは、品物が大事な金目のものだけに、まあ、嘘はないと見ておきました。それに日和佐の宿あたりには、それ程の刀を研(と)ぐ腕の研師はありますまいから、わざわざ徳島の城下まで持ってきたに違いありません。ことに、その刀もただの研(とぎ)ではなく、潮水浸(しおびた)しになったのを、鞘(さや)、柄糸(つかいと)、拭上(ぬぐいあ)げまですっかり手入れをしなおしたもので、宗理の手もとでも五十日ほどかかったという話。――指を繰ってみると、ちょうど沼島(ぬしま)沖で四国屋の船が暴風(しけ)をくった日から四、五日後に持ちこんだ勘定になるンです」
「なるほど」
 と、角兵衛もうなずいたが、
「だが、それだけの事実を押して、双腰(ふたこし)の刀を、弦之丞の持物であると断じるのは早計ではないか」
「そこにゃ、動かない証拠があるンです。というなあ、無銘の方の小柄(こづか)には、弦之丞の印(しるし)と聞いた三日月紋の切銘(きりめい)があり、もう一腰の新藤五の古い鞘(さや)には、甲賀世阿弥(よあみ)という細字(さいじ)が沈金彫(ちんきんぼり)に埋めこんでありました。で、もうこれ以上の詮索(せんさく)は無用でしょう。すぐに使いの男をつけて、その場から日和佐(ひわさ)へ突ッ走ってもいいところですが、大事を取って一応ご相談に上がったわけです」
「ウーム、そうか」
 桐井角兵衛にも、もう少しも疑う余地がなかった。
「日和佐の宿に潜伏(せんぷく)して、刀の手入れのできるのを待っているものとみえる」
「それと、これにゃ弦之丞をかくまっている奴が、ありそうですから、ただいきなり捕手をくりだしても、風を食らってしまうでしょう」
「とにかく、何より先に、このことを、有村卿(きょう)のお耳に入れて、お指図をうけた後の手配とするが順序であろう」
「あれが仕上がって届いたとすると、弦之丞はすぐにも日和佐にいないかもしれません。どうか、ご相談に暇どって、大事な機(おり)をはずさないようにお願いいたします」
 にわかに蒼惶(そうこう)とした気持で、桐井角兵衛は使いをもって、このことを城内の三位卿に知らせてやると、その有村は、きのう山支度をして、かねて望んでいた剣山の踏破に出かけてしまったという返辞。
「あれほど役人の手を騒がしておきながら」
 と、かれの腹蔵(ふくぞう)を知らない桐井角兵衛は、三位卿の行動を不快に思ったが、みすみす眼八がつきとめてきたものを、悠々と、有村の帰りを待ってはいられないので、かれは彼の独断で、日和佐へ手配することにきめた。

 手先の眼八はわらじをはいた。
 足は自慢な男である。
 城下から海ぞいに、土佐街道を南へ十四里ばかり、日和佐の宿へ急いだのだ。
 磯の香の高い海辺町(うみべまち)にはいった晩、かれの姿は、すぐと、海部(かいふ)代官所の中へ消えていた。
 で、何かの手筈はその晩にすんだとみえて、翌日になると眼八、旅職人の風(ふう)つきで、わざと間のぬけた顔をしながら、厄除橋(やくよけばし)の辺をウロついていた。
 薄暮の海が眺められた。漁港らしい灯が日和佐川に映っている。宿(しゅく)の中を通っている街道には、ひとしきり荷駄(にだ)の鈴や、宿引きの女の声や、さまざまな旅人の影が織っていた。
 四国二十三番の札所(ふだしょ)薬王寺(やくおうじ)にゆく足だまりにもなるので、遍路(へんろ)の人のほの白(じろ)い姿と、あわれにふる鈴の音(ね)もこのたそがれのわびしい点景。
「あ、こちら様だナ」
 と、やっと見つかったというふうに、眼八、とある角構(かどがま)えの格子先に腰をのばした。
 船玉祀(ふなだままつ)りの御幣柱(ごへいばしら)が、廂(ひさし)の裏に掛けわたしてあり、荒格子に三間(げん)土間(どま)、雑多な履物が上げ潮でよせられたほど脱いである。
 欅(けやき)の板に「大勘(だいかん)」と書いて、表に打ってある標札(しるし)をたしかめながら――実は海部代官所で所も内状も調べてきてはいるのだが――どこまでも不案内の渡り者らしく装って、
「大勘……ウム、大勘、こちらの親方に違いない」
 とつぶやきながら荒格子をあけ、畏(おそ)る畏る、
「ごめんなすッて」
 と、上がり框(がまち)へ腰をかがめた。
 部屋にいる手間取か内弟子か分らないが、いけぞンざいな若いのが出てきて、
「なんだい」と見下ろした。
「旅人(たびにん)でございます。親方のお名前を承知しまして、お頼り申してまいりました」
「同職か」
「ヘエ」
「上(あ)がンねエ」
「ありがとうぞんじます」
「裏へ廻ると井戸がある。その側に小屋があるから、そこでゆっくり泊ってゆくがいい。朝立つ時にゃちょっと俺たちの部屋へ声をかけて行きな、わらじ銭と午飯(ひるめし)だけは餞別(せんべつ)してやることになっているんだから」
「ご厄介になります」
 格子を出て裏へ廻った。
 路次の横に窓があった。すだれ越しにチラと見ると、羅漢(らかん)のような裸ぞろいが、よからぬ弄戯(あそび)に耽(ふけ)っている。
 同職の渡り者といえば、宿なし犬に縁の下を貸すくらいな気安さで泊めてはくれるが、ちゃんとあしらいの寸法がきまっていて、何ひとつ道具のない部屋で、塗(ぬ)りの剥(は)げた箱膳(はこぜん)に、沢庵(たくあん)四きれ、汁一椀(わん)、野菜の煮しめが一皿ついて、あたりに人はなしといえども、それをあぐらで食うわけにはいかない。
 禅僧のように、椀や皿の残り汁まで、きれいに湯で洗って飲んで、きちんと隅へ下げておく。一椀の恩に対する作法である。
 そこへ中年の小僧が、
「客人、すんだかい」と膳をさげに来て、
「蒲団(ふとん)と行燈(あんどん)は、その板戸をあけると中にあるから勝手に出してくんな。油があったかしら、油壺を見てくンないか、客人」
「ございます、どうもご馳走様で」
「そうか、じゃお寝(やす)み」
「もし、もし。ちょっとお待ちなすって」
「何か用かね」
「親方にご挨拶をしたいと存じますから、ひとつお取次ぎを願います」
「親方はいないよ、この間うちから留守なんだ」
「じゃお内儀(かみ)さんか誰か、お身内の方に、ちょっと会わせて貰えませんでしょうか」
「お内儀さんは近所の衆と、遍路(へんろ)に出て今は留守だし、ほかにゃ弟子か部屋の者ばかりだが、何か用かい、客人」
「ナニ、別段なことじゃございませんけれど……じゃ、お前さんに伺ってみますが、誰か、ここの家に商売違いなお客が二人ほど、お世話になっちゃあいませんかね?」
「商売ちがいな?」
「若い男と女です」
「いねエなあ、そんな者は」
「いませんか……」と眼八が、ダメを押して額越(ひたいご)しに相手を見つめた。ひょいと、その眼光りが変ったのを自分でも気がついて、
「へ、へ、へ、へ。まことに、妙なことをきくようですが、私の身寄りの者で、今は、大勘さんの家にお世話になっているというような噂を、ちょっとよそで聞いたもんですからね……それで、何ですが……じゃ、そんな方はおりませんか?」
「いつ頃のことだい、それやあ」
「さようで……」
 と、額に平掌(ひらて)をあてて、わざと考えるふうを装(よそお)いながら、にわかに、思いだしたように、鼻紙へ一分銀を一ツ包んだ。
「兄哥(あにき)、これやホンの少しだけれど」
「いらねエや、お前(めえ)は旅人(たびにん)じゃないか。旅人からそんな物を貰うと、部屋の者に叱られら」
「なアに、誰がそんなことをしゃべるもんですか、まア取っといておくんなさい、私だってこうしてお世話になれば、旅籠賃(はたごちん)というものが助かっているんですから……。エーところで、その若い男と女の客が、多分、こちらへ来たろうと思うのが、そうですネ、今から五十日前の前後か、それから後のことなんですが、よく考えてみておくんなさい、きっと、お心当たりがあるでしょう」
「ああ、そうか……」
「知っているね!」
 と眼八、一分銀を握らせたその腕くびをギュッとつかんで、
「それごらんなせえ、やっぱり、お前さんが忘れていたんだ」

 眼八の誘いにツリこまれて、大勘の内弟子は、うっかり、
「ア、そういえばネ、客人」
 と、しゃべりだした。
「似た話があるぜ」
「ある? ふム」
「もう一月あまりも前なんで、すっかり忘れていたけれど、ちょうど、客人のいった頃にあたるよ。小雨がソボソボ降っていた、暴風(しけ)あがりからズッと降り通しで、部屋の者も仕事がなしで、早く床についた晩なのさ」
 へたな言葉をさし挟んで、相手のしゃべる図(ず)をはずすまいと、眼八、大事そうにソッとひとつうなずいた。
「……とネ、宵の五刻(いつつ)ごろ、トントンと表をたたく人があるんだ。おらあ親方の瘤(こぶ)みたいな肩を揉(も)ませられていたので、イイ機(しお)だと思ったから、親方、誰か表に客人でございますヨ、そういって顔を覗(のぞ)くと、ふム、分っているとうなずいて、部屋の奴アみんな寝たか、とこう聞くんでございます」
「なるほど」
「ヘエというと、親方は、いずれ今頃ウロついてくる客は、旅人だろうから、あっちの小屋へ行燈(あんどん)を入れておけ、そして、後はおれが見てやるから、てめえは床に着くがイイ。そんな優しい親方でもないのに、妙だナと思いながら、いわれた通り――今お前さんのいるこの部屋へ灯を入れていると、そこへ親方が、ふたりの客を外からここへ案内してきました」
「ふたり?」
「エエ、ふたりです。しかも、頭から酒菰(さかごも)をかぶって、まるで乞食(こじき)のような風態をしているのに、親方はばかに親切に世話をしていました。すると、てめえはあっちへ行って寝ろといわれたので、そのまま、母屋(おもや)のほうへ戻りながら、井戸端で足を洗っているお菰(こも)を見ると、とても、白い足をしているんで、オヤ、とその時気がつきました。ひとりのほうは、ゾッとするようないい女、ひとりは五分月代(さかやき)の若い浪人者です」
 しめた! と眼八は、腹の中で雀躍(こおど)りしていた。
 なお、さあらぬふうで、言葉巧みに聞き出してみると、その晩、ここへ泊った素姓の知れない男女(ふたり)は、翌朝、部屋の者が眼をさました時分には、もうどこかへ立ち去っていて、誰も知らないくらいであったという話。
「そうでしたか、それでおよその事情が分りました。イヤ、大(おお)きにありがとう」
 眼八はていねいにこういってから、自分の振分(ふりわけ)を解いて、
「うるさいことをきいてすみませんが、ついでに、もうひとつお伺いしたいと存じますが……」荷物の中から取り出した渋紙の端をほごすと、コロコロと一本の鑿(のみ)がころがりだした。
 商売道具。
「平鑿(ひらのみ)だネ」
 と、すぐに向うも目をつけた。
「エ、なかなかよく使いこんである鑿(のみ)です」
「売るつもりなら部屋の者に見せてあげるぜ」
「なに、これは、手放すわけにはゆかない品なんで」
 と、眼八、のみの平首に拇指(おやゆび)を当てて、ピカリと、ひとつ引っくり返した。
「これや、私が徳島の城下はずれで、フイと拾った物なんです。落し主は、こちらの半纏(はんてん)をきている若い棟梁(とうりょう)、うしろから声をかけましたが、ツイ見失って、そのまま、いつかついでがあったらと、振分の中へまるめ込んでおきましたが、ここに……」と、鑿(のみ)を眼のそばへ寄せて――「源という字が片彫(かたぼり)してあるが、こちらのお職人で、そういう頭字(かしらじ)のつく人がおりましょうかね」
「源? ……じゃア源次のことかもしれない」
「じかにお渡しいたしたいと思いますが、ちょっと、耳へ入れて上げてくれませんか」
「いいとも、じゃア今ここへ連れてくるから」
 と、大勘の中年者は、膳を掌(てのひら)へのせて母屋のほうへ戻った。
 眼八は拇指の腹であご髯(ひげ)をコスリながら、畳へおいた平鑿(ひらのみ)を見つめておった。
 何かのクサビになるだろうと、この間、研師(とぎし)大黒宗理の店さきで、そこにいた職人の道具箱からソッと一本かすめておいた品物だ。
「この鑿を持っている源次という職人を取ッちめてみれば、大黒宗理のところから受け取って行った刀を、どこへ届けたか分ってくる。そいつさえ当たりがつけば、もうしめたものだが……」と、息を殺していると、
「ここか」と、外で職人らしい声がした。
「客人」
 と、前の中年者が顔を出して、
「聞いてみたら、やっぱり鑿を失(な)くしたのは部屋の源次という人だった」
「ア、それやどうも、お世話様で」
「先でも、使い馴れていた稼業(かぎょう)道具を失(な)くして、困っていたところなんで、話してやったら大よろこびさ。で、今ここへ連れてきたからね」
「そうですか」
 と、片手をついて身をねじりながら、
「源次さんとおっしゃるのは? ……」
 と、土間の外を見ると、まぎれもなく、この間、宗理の店から、弦之丞とお綱の刀をうけ取って帰った、あの若い男である。

 失くしたとばかり思っていた道具が手に戻って、大工の源次は、わけは知らずに礼をいった。
「近づきの印(しるし)に、どこかで一杯(ひとくち)やろうじゃねエか」
 どっちから誘うでもなく、涼み半分、ぶらりと、連れ立って飲みに出かける。
 眼八には思う壺(つぼ)。
「不案内でございますから」
 と、ついて行った。
 源次は礼におごるつもりなので、町の西端れの馴染(なじ)みの家へ案内した。だが、そこの払いも眼八が先に越して、
「どうせ、今から部屋へ帰っても、この暑さじゃ寝つかれやしません。少し、どこかで涼んで行こうじゃありませんか」
 と、厄除薬師(やくよけやくし)の石段を上りかける。
「上へあがってみなせエ、寒いようだから」
 同職と思って、源次はすっかり気をゆるめているらしい。だが腹の底はしまった男とみえて、飲屋で話しあっている間に眼八がチョイチョイかまを試みたが、いっこう、口を辷(すべ)らせてこなかった。
 で、かれは、少し業(ごう)が煮えていた。
 どこかで睨みの利(き)くところを見せて泥を吐かせてしまおう胸算。足場ばかり見廻している。
 山は医王山(いおうざん)の幽翠(ゆうすい)を背負って、閑古鳥(かんこどり)でも啼(な)きそうにさびていた。
 厄年(やくどし)の男女がふめば厄難をはらうという、四十二段、三十三段の石段を上ると、日和佐川のはけ口から、弧(こ)をえがいている磯の白浪、ひと目のうちだ。
 明鏡のような夏の月が、荒海から天へ洗い上げられている。
 うろこ雲の徐々とした歩みに、月光が変るにつれ、海もたえず明暗の変化を見せていた。その、冴えきった一瞬には、水天髣髴(すいてんほうふつ)の境、紀(き)の路(じ)の山が、ありやなしやに見えている。
「エエ、気味のいい風だ」
 と汗をひそめて、眼八は境内の捨石へ腰をすえ、
「なるほど、ここはいい所だ」といった。
 眺めのいい所という意味と、源次をひっぱたくにはいいお白洲(しらす)だという二様の意味にとれる。
「夏知らずというところさ、あっしゃあ、昨日(きのう)もここでウットリとしてしまった」
「昨日?」
 と、眼八は、すぐに揚足(あげあし)をとって、
「きのうは浜へ仕事に行ったと言いなすったが」
「なに、ちょっとこの辺へ使いがあってね」
「一昨日(おととい)はたしか徳島にいなすった」
「エエ、親方の代りに、新造船(しんぞう)の絵図をとりに行って、帰りに、御城下を少しブラついてきた」と、源次もそこで鑿(のみ)をなくしたという事実があるので、これだけは隠されなかった。
 よウし! この辺からソロソロ締木(しめぎ)を責めてやろうか。
 眼八はそう思いながら、
「源さん、まア掛けねえな」と、煙管(きせる)の先で、杉の木の根あがりを指した。
「御輿(みこし)をすえると、眠くなるからなあ」
「眠くならねエようにしてやるから、とにかく、そこへ落ちつきねえ」
「いやだぜ、悪い喉(のど)なんかを聞かせちゃ」
「いいやな、お前(めえ)、ここは四国二十三番の札所(ふだしょ)だ、御詠歌(ごえいか)ぐらいはおつとめしなくっちゃ、霊地へ対して申しわけがない。そこでぼつぼつ始めるが……オイ、源次ッ」
 と、肩を突ッ張って、にわかに鋭くなった。
「なんだ、旅人」
 と源次はあッ気にとられた顔をした。
「お前(めえ)は何か、先刻(さっき)おれが返してやった平鑿(ひらのみ)を、徳島のどこでなくしたか気がついているか?」
「冗談いうない、落した所を知っているくらいなら、何も、わざわざ他人(ひと)に拾われやしねえ」
「そうだろう。じゃ教えてやるが、実は、あれや御城下の刀研(と)ぎ、大黒宗理(おおぐろそうり)の店先で、お前(めえ)が頼み刀(もの)をうけ取っている間に、道具箱からぬけだしていたんだ。なにも、平鑿に足が生えたわけじゃねえから、無論、おれの指先が、黙ってお預かりと出かけたんだが……」
 源次は静かに顔色をかえていた。
 その時、宗理の店で、背中合せに掛けていた男の姿を思い浮かべて、かれは、しまった! と臍(ほぞ)をかんでいるらしかった。
 眼八は相手の眸(ひとみ)を読みながら、
「オイオイ、駄目だ駄目だ、逃げようたって逃がしゃあしねえ。徳島奉行の御配下で、釘抜(くぎぬ)きの眼八といわれている鬼手先(おにてさき)だ。その釘抜きが噛みついてしまった以上は、めったにここをズラからすものか」
「野郎!」
 と、源次は片足ひいて、
「じゃてめえは、旅人といっていたが、徳島から潜(もぐ)りこんできやがった岡ッ引だな!」
「神妙にしろッ」
「やかましいやいッ」
 手拭にくるんでいた平鑿が、風を切って眼八の脳天に跳びかかってきた。
「ふざけやがって!」と、眼八は身をねじって、鑿の腕くびを引っつかみ、デンと投げ業(わざ)をかけたが利かず、腰をくだいて、ふたつの体、よじれながら横ざまにぶっ倒れた。
「ちイッ……この野郎」
「御用だ……御ッ……御用」
 と、組んず、ほぐれつ。
 龍姿(りゅうし)の松をすく月の斑(ふ)に、ここを必死に、キラめき合う鑿と十手。

 月光の下(もと)に、黒いふたつの体、ややしばらくというもの、転々と、上になり下になってよじれ合っている。
 と。
 下に組み伏せられたと見えた眼八、足業(あしわざ)にかけて、相手の胴を万力(まんりき)のように締めつけ、源次が、
「うッ」
 と、気を遠くしたのを見すまして、
「骨を折らしゃアがった」
 と、起きかえって、側を離れてくると、その手と源次の間に、いつのまにかタランと、捕縄(とりなわ)がつながれている。
 源次はもう抵抗しなかった。肘(ひじ)で、やっと体を起こしながら、縛られている自分の手へ眼を落したままうつむいている。
「ばかな奴だ」
 と、月に光っている足もとの鑿(のみ)を遠くの方へ蹴とばして、眼八、捕縄の端を三尺ばかり垂らして持った。
「名うてな釘抜きだといい聞かせているのに、ムダなあがきをしやがって、ふざけた野郎だ。さッ、お白洲(しらす)だぞ、世話をやかせずに、泥を吐かねえと、捕縄の端の鉛玉(なまりだま)が横ッ面へ飛んで行くからそう思えッ」
 と、凄味を加えた言葉つきで、右腕の袖をつまみあげた。
「――一昨日(おととい)の晩、てめえが大黒宗理の所から持って帰った刀、一本は無銘の長い刀(やつ)、一本は新藤(しんとう)五国光(くにみつ)だ。宗理の店の研物(とぎもの)台帳から、ちゃんと洗いあげてあるンだから、いい遁(のが)れはかなわねえ。あの双腰(ふたこし)を、てめえいったいどこへ届けてやったのか、まず、それからひとつ訊(き)こうじゃねえか」
「……おれに訊いたって無駄だからよしてくれ、源次は口が固いと見込まれて、親方から固く頼まれてしたこと、代官所へショッ曳かれたって、算盤(そろばん)ゴザへ坐らせられたって、決して口を開(あ)きゃしねエから」
「ふん……面白い」
 と、あざ笑って、
「てめえがそういう男なら、眼八の釘抜き根性も、いっそう脂(あぶら)がのってくるというもンだ。腕によりをかけても、その口を開かしてやるから見ていろいッ。おうッ、吐(ぬ)かさねえか」
 ブランと提(さ)げていた縄の端で、荷馬(にうま)の尻をなぐるように、いきなり二ツ三ツ源次の頬を見舞った。
「さッ、申し上げちまえッ。あの双腰を誰に届けてやった! いや、その届け主は読めている、場所をいえ、隠れ場所を!」
「そんなことまでおれは知らねえ」
「ナニ、知らねえ!」
「知らねえ! おらあ、そんな深いことまで知っちゃいねえ」
「甘く見るなッ」とまたひとつ、鉛玉をビュッとうならせて、源次の顔に血を吹かせた。
「ア痛(つ)ッ……」
「いてえか!」
「し、知らねえものを」
「野郎」
 と、土足でその背中を踏みつけて、
「知らねえというなア申し上げますという枕言葉だ。そんな白(しら)をいくら切っても、手加減をするような眼八じゃあねえ! 吐(ぬ)かせ、いえ、ひとこというのが遅れるたびに、ひとつずつてめえの面(つら)にアザが殖(ふ)えるぞ」
 ばらばらと冷たいものが降りかかった。
 沖の辰巳島(たつみじま)から、まともに吹きあげてくる海風に、身ぶるいをした巨松の梢(こずえ)が、振るい落した白玉(はくぎょく)の雫(しずく)――。
 眉に光るやつを、手の甲で拭きながら、
「――今から一月半ばかり前に、法月弦之丞とお綱という奴が、酒菰(さかごも)に身をつつんで、小雨のふる闇にまぎれて、大勘の家へ来たという図星まで、スッカリお調べが上がっているのだ。いくらてめえが親方に義理だてをしたところが、やがてすぐに判ることじゃあねえか、つまらぬ強情を突っ張っていねえで、潮(しお)びたしをなおしにやったあの刀を、どこへ届けた。その匿(かく)れ家(が)を白状してしまえ。すなおに泥を吐いてしまえば、眼八のとりなしで、お上(かみ)のお咎(とが)めはいいようにしてやるぜ。どうだ源次、オイ源次、よく胸に手をあてて考えなおせよ」
「徳島へ出かけたついでに、刀を受け取ってきたのはたしかだが、それを途中で棟梁(とうりょう)の手へ渡したきり、後のことは何にも知らねえ」
「しぶてえ奴だ、じゃ、どうあっても実(じつ)を吐かねえな、よし」
 と、捕縄に輪を描かせて、グルグルと源次の喉(のど)へからませたやつを、グンと引っ張って、
「知りませんという音(ね)を止めねえうちは、しばらく、こうしてやるから、根(こん)くらべをするがいい」
「ウーム……」と、源次は縄の輪に喉笛(のどぶえ)をしめられて、苦しそうな眼を吊りあげた。
「どうだな、塩加減は?」
 と、眼八、時々ジリジリと締めて、
「まだ甘(あめ)えか、これでもか!」
「くッ……く、くるしい」
「そりゃア苦しいにきまっていらあ、まだまだ釘抜きの眼八が本気になって責めにかかると、こんなどころじゃございませんよ」
 と、憎々しい面(つら)がまえを寄せて、源次の苦しみを冷然と眺めていると、突然、かれの後ろのほう――。
 そこから木立を隔てて見えるのは、月光の底に沈んでいる二十八柱の大伽藍(だいがらん)、僧行基(ぎょうき)のひらくという医王山薬師如来(やくしにょらい)の広前(ひろまえ)あたり、嫋々(じょうじょう)としてもの淋しい遍路(へんろ)の鈴(りん)が寂寞(せきばく)をゆすって鳴る……。

 その鈴は、この境内では常に聞くところの、珍しくない音(ね)であったが、伽藍の森厳にひえびえとした夜気を流して、なんとなく、釘抜きの眼八の鬼の心をも寒くさせた。
 で、場所が悪いと気がさしてきたものか、
「立て!」
 といって、源次の首の輪縄(わなわ)をはずし、その縄尻をショッ曳(ぴ)いて、
「せっかくここで、おっ放してやろうと思っていたが、そう情を突っぱるならゼヒがねえ、代官所の砂利を咬(か)ませて、ゆっくり、荒療治で聞くとしよう。ばかな奴だ、ここで白状してしまえば、眼八の胸ひとつ、お咎(とが)めなしに見のがしてやるものを、向うへ行きゃあ公然(おおっぴら)になる、泣いてもわめいても間に合わねえぞ」
「…………」
「棟梁の大勘が、どれほど口止めしたかは知らねえが、こんなことで臭い飯をくうなんて、気の利(き)かねえ話があるものか。御牢舎ぐらいですみゃいいが、隠密を匿(かくま)いだてした連累(れんるい)となると、とても、そんなことじゃすむまいぜ……エエ源次」
「…………」
「船大工の部屋にゴロついているお前(めえ)にしろ、どこかの在所にゃ、肉親もいるだろうに、助任川(すけとうがわ)の曝(さら)し場へてめえの首が乗ってみろ、親兄弟にまで、泣きを見せなくちゃなるまい。アア、口が酸(す)ッぱくなった、俺にもこれ以上の親切気は持ちきれねえ、さ、立ちなよ、そろそろ行く所へ行くとしよう」
「……ま、待って下さい」
「腰が立たねえのか」
「いってしまいます、隠していたなあ、あっしが悪うございました」
「白状するっていうのか」
「ヘイ……」と源次はしおれ返って、唇の血を吸うように噛みしめた。
「じゃ、弦之丞とお綱の奴は、いったい、どこに匿(かくま)われているのだ」
「それだけは、まったく源次も知らないことなんです……ただ、あっしの知ってるだけを白状します」
「嘘はあるめえな」
「ヘエ、嘘と真(まこと)を七分三分にまぜたところで、なんの役にも立ちゃしません。ほかのことは、洗いざらい申し上げます」
「ウム」
「あっしは、あの侍と若い女が、法月というのかお綱という女か、国者かどこの者か、皆目(かいもく)、そんなことだって知りゃしません。ただ棟梁の大勘が、お家様の義理合いでやむなく一時の匿(かく)れ家(が)を、どこかへ探してやったことから、細かい用事をあっしにいいつけたんでございます」
「そのお家様というのは」
「徳島の御城下と大阪表に出店のある、四国屋のお久良(くら)様、たしか、そういったと思います」
「ふウム」
 どうやら筋がほぐれてきた。
 眼八は、釘抜きのように固く結んでいた口もとから、大きな前歯をニッとむいて、
「その四国屋のお久良に、大勘のやつは、どういう義理合いをうけているんだ」
「あすこの持船以外の仕事は、雑魚(ざこ)舟ひとつつくろわないというほどな大顧客(おおとくい)でございます」
「ウ、なるほど」
「ことに、お家様には可愛がられている大勘なので、こんどのことも、嫌とはいえずに頼まれたことだろうと思います」
「そういう仲じゃ無理はねえ、そして、お久良は今大阪にいるはずだが、どうしてそんな打合せができたのか」
「ちょうど、先々月の月半(つきなか)ばでした」
「ウム」
 と、胸で日数を繰っている。
「お久良様からきた飛脚をうけて、棟梁が何か心配そうに考えていました。と、それから三、四日――そうだ十九日の晩」
「えっ、十九日の晩?」
 と、思わず、おうむ返しに眼八の返辞が出たのは、胸で繰ッていた日数から推して、それが、ぴったりと四国屋の商船(あきないぶね)が、大阪表から阿波へさして出た日に符合(ふごう)していたので。
「ウーム……それから」と、笑壺(えつぼ)にいって一心に聞く。
「その十九日の朝、棟梁が突然、小松島(こまつじま)に長崎型の船が入っているから、仕事のために見ておこうといって出かけました。わっしも、自分から頼んでついてゆくと、向うへ着いたのはもう夕方で、浜へ行ったが、そんな船は見当たらねえんです。で――妙だなと思ったから、棟梁、どこなんで? と聞くと、沖だよ、だが源、てめえ今日のことは、親兄弟にも洩らしちゃいけねえぞ、そういって、固く口止めされたんで……」
 と、その口止めを破っている自身に気がついて源次は、ちょっと、うなだれた。

「それから?」
 と眼八は、相手に顧慮のいとまを与えないで、問いつめた。
「じゃあ船図面を取りに来たわけじゃないンですか、ときくと、棟梁は、ウム、と少し怖い顔をして、小松島の磯をブラブラあるいていましたが、そのうちに、どこからか、船頭三人、ギーと棟梁の前へ漕いできて、どっちも黙(だ)ンまりで乗りました」
「それが、十九日の夕方だな」
「そうです。宵はよかったが夜半(よなか)です、イヤな雲になってきました」
 と源次は、その晩のことを思い浮かべるらしく、海の方へ眼をやった。
 宵に飲んだ酒の気もどこへやら、更(ふ)けるほど冴えてきた月明りに病人のような顔色だ。
「――船が島の蔭へよったので、ここは? と訊(き)いてみると淡路のそばの沼島(ぬしま)だっていうンで、わっしもあっけにとられました。――とそのうちに風がだんだん強くなる、浪は荒れる、大雨はやってくる。で、みんなヘトヘトに疲れた頃、真っ黒な沖合に、ポチと、赤い灯が一ツ、浪にもまれて見えました」
「……オオ、……ウム……」
「あれだ! というと棟梁が、三人の船頭に、十両ずつの酒代(さかて)を投げだして、腕ッ限り漕(こ)がせました。何がなんだか分りゃあしません、途方もねえ大暴風雨(おおあらし)です。だが、ヒョイと目を開いた時には、向うの船の赤い灯が、前よりよッぽど大きく見えて、なんだか、わーッという声が聞こえやした。近寄ったナ、と思う途端に、その灯も消えれば向うの船も、グルグル廻っているようでした。なおワッワッという人間の声です。まもなく白々(しらじら)と夜が明けて、少し凪(な)いだ時には、こっちの船は、昨日(きのう)の小松島を素通りにして、日和佐(ひわさ)手前の由岐(ゆき)の浜(はま)へ、ギッギッと帰っていたんです。……ヘイ、これだけいえば、もうお分りでございましょう、その船の中へ、何をすくい込んで来たか、これ以上、棟梁のしたことをはッきりいうのは、なんぼなんでも、舌がしびれていえません。どうか、お察しなすって下さいまし」
 いかにも眼八には、これ以上の贅言(ぜいげん)をきく必要がない。
 あの理智の澄んだ四国屋のお久良が、大阪表からつづらを首尾よく乗せただけで、阿波に到達した時の、より以上きびしい岡崎の船関(ふなぜき)や、撫養(むや)の木戸の厳重を、案じていない筈はない。
 で、沼島の沖あたりで、こう、かく、というような諜(しめ)しあわせは、とくから諜(しめ)しあわされてあったのだ。
 してみると。
 当夜――ふなべりを傾けて阿波方の納戸船(なんどぶね)がぶつかってきた刹那、四国屋の船のみよしから、お綱をひっかかえて激浪へ身を躍らせた弦之丞の行動は、あえて、殺到した追手におどろいて、進退きわまったのではなく、あのことはなくとも、当然、なすべきことを勇敢にやってのけたまでであった。
 そして、あの晩の暴風(しけ)と、弦之丞の運命が窮極にまで行ったと見えたことが、それから後、二月(ふたつき)あまりの経過とともに、すっかり阿波の要心をゆるませ、かなり目ばしこい三位卿にしてからが、一度は、弦之丞の最期を漠然(ばくぜん)と信じたものだ。
 眼八は、息を内へひいて源次の自白を聞いていた。
 かれも、大阪以来の顛末(てんまつ)は承知していたが、こんな裏面があろうとは、想像もつかないこと、潮びたしの刀から足をつけてここに到ったのは、自分ながら、あやまちの功名という気持がする。
「そうか! ……」
 と太い息と一緒に、聞き終って、
「その晩傭(やと)われた船頭、誰と誰だか、覚えているだろうな」
「存じません。へい」
「徳島訛(なま)りか、それとも日和佐の船頭か」
「この辺の者ではなく、おそらく、抜荷屋渡世(ぬきやとせい)の仲間だろうと思うんで」
「抜荷屋か? ……」と眼八も少しウンザリした顔だ。
 弦之丞の召捕をすました後で、大勘をはじめそいつらも、芋(いも)づるにあげてしまおう下心で聞いたのが、海鳥のように、巣を定めない抜荷屋では、いくら釘抜きでも手がつけられない。
 長崎沖渡しで、蛮船(ばんせん)から禁制の火薬や兵器を買いこむため、一時、蜂須賀家を利用した抜荷屋のともがらが、いまだに近海の野々島(ののしま)、出羽島、弁天島あたりに巣を食っていて、手のつけられない海辺漂泊者(かいへんひょうはくしゃ)となっている。
 山の山窩(さんか)、海の抜荷屋(ぬきや)、どっちもどっちのしろものだ。
「じゃ、まあ、それはいいとして……」と、匙(さじ)を投げて「由岐(ゆき)の浜(はま)へあがってからどうしていた?」
「あっしはすぐに、潮水浸(しおびた)しになったお両人(ふたり)の刀を、大黒宗理の所へ頼んでくれと渡されて、棟梁と別れました」
「そこは?」
「八幡様の森でした」
「弦之丞と口をきいたか」
「あっしがいる間(うち)は、棟梁もその人も、黙りあっておりました。もっとも、女のほうが、だいぶ水を呑んでいたので、その手当てにも追われていたんで」
 で――眼八の腹の中の口書は、さっき、中年の小僧がしゃべった話とぴったり継目(つぎめ)が合ってきた。
「そうか、それですっかり事情が分った。まア、今のところじゃこの辺でよかろう、オイ源次、立ってくれ」
「ヘイ、ありがとうございます」
「なにがありがてえんだ」
「知ってる限りのことは白状しました。約束どおり、放しておくんなさるんでしょう」
「けッ、虫のいいことをいうなッ」
 と、いきなり縄尻をしぼった眼八、
「さ、代官所へ歩け!」
 と、源次の腰を蹴って、石段の方へ引きずってきた。

 欺(だま)しに乗ったと知って、源次は、地だんだをふんだ。
 いまさら、大勘の信を裏切ったことをすまなく思う。親方の秘密を売って助かろうと思った根性が、われながら情けない。
 だが、もう追いつかない。ただ、歯ぎしりを噛むばかりであった。
 釘抜きの眼八に、弱腰を蹴とばされて、勢いよく突ンのめりながら、何かわめいた。
 眼八は、セセラ笑いをして、
「さ、出かけた、出かけた!」
 と、もう一つ、足をあげて弾(はず)みをくれる。
 よろけた途端に、捕縄が張って、また仰むけにひっくりかえった。
 もう自棄(やけ)だという風に、
「畜生ッ」
 と、かぶりついてくるのを、
「亡者(もうじゃ)めッ」
 と、用捨(ようしゃ)のない捕縄の端で、牛を懲(こ)らすようにひッぱたく。
 そして、半死半生にさせながら、女坂をゴロゴロと蹴転がして行った。
 すると。
 雪のような月影をふんでまだら石段の下から息をせいてくる三、四人――それと白い月明りと闇のまじった杉木立の間を、バラバラと駈け寄ってくる提灯(ちょうちん)が見えた。
 眼八は、
「あっ?」と、むねを衝(う)ったが、その明りの一つに、海部代官所(かいふだいかんしょ)という朱文字を認めてホッとした。
 ――というよりはこの場合、助かったという気持で、死物ぐるいの厄介者を、何よりはその手へと、
「おう、御支配所の衆!」
 声をかけると、熱い息がハッハッと聞こえるほど、すぐ側まで駈けてきて、
「や、眼八か」
 と、意外らしく、かれを囲んだ。
 桐井角兵衛(きりいかくべえ)のさしずで、少し遅れて出張(でば)ってきた徳島の町同心(まちどうしん)、浅間丈太郎(あさまじょうたろう)、田宮善助、助同心(すけどうしん)岡村勘解由(かげゆ)。
 提灯(しるし)を持っているほうは、海部同心の安井民右衛門(たみえもん)と土岐(とき)鉄馬のふたり。
「どうしてここにおったか」
 と、一同、不審な顔つきである。
 実をいうと眼八は、大勘の家へ旅人として静かに泊り込んだまま、夜半(よなか)に、外へ迫る捕手(とりて)へ案内をする約束であった。
 それが、無益(むだ)だとみぬけたし、源次という者に執着をもったので、急に独断で方針をかえた。そして、これからその源次を代官所へ曳いて、断(ことわ)りに行こうと思っていた出鼻(でばな)だったので、向うも、合点がゆかない様子である。
 手短かに、源次から調べ上げた事実を話すと、五人の同心、少し出しぬかれて鼻白(はなじろ)んだ様子に見えた。
 眼八は傲慢(ごうまん)に胸を張って、
「じゃ、こいつを渡しておくから、弦之丞を召捕(あげ)るまで、海部の揚屋(あがりや)へ預かっておいて貰おうか」といった。
 海部側の同心は、言下(げんか)に、
「それは困る」と拒(こば)んだ。
 なぜ? と眼八がほじくると理由(わけ)は簡(かん)にして明、――今、町の辻々に伏せておいた密偵のひとりが、この間から行方の知れなかった大勘がこッそりと帰ってきて、何用か、この薬王寺の道へ廻ったという報(し)らせ。
 すわとばかり、代官所の騒ぎである。
 折から、助勢にきて打合せ中の徳島同心、浅間、岡村、田宮の三名も加わって、捕手はうしろ巻きとして山下に伏せ、五人は先廻りをしてここへ登ってきたところ。
「今、源次をここで預かるのは困る」と、にべなくいったのも、ムリではない。寸刻を争っているのだ。
 だが、眼八は我(が)を曲げない。
 ここは、海部代官の支配区域、本来、お手前たちの腕だけで、こんな者は、とうにパキパキと召捕(あげ)てみせなければならないのではないか。それを、徳島から釘抜きの眼八様が助(すけ)に来てやっているんだ。おまけに、縄までかけて渡してやるんだ。もったいねえ御託(ごたく)をいうな――という鼻息。
 慢心もあるし、郡奉行(こおりぶぎょう)の配下というと低く見る癖がついている。で自然と、手先のくせに同心を顎(あご)あつかいな物言いぷし、海部側も納まらない、ガヤガヤしばらくもめていた。
 ところへ、捕手のひとりが飛んできた。
 大勘の姿が、参詣(さんけい)道に見えたという。もうグズグズしてはいられなかった。
「おい、捕方」
 と、仲を取って、助同心(すけどうしん)の岡村勘解由(かげゆ)が、
「お前が暫時これを預かっておけ」
 と、半死半生の縄つきを渡した。
 渡された捕手は、源次を抱きこんで、女坂を駈け上がり、さっき、眼八が腰をすえたあたりの巨木へ、縄尻を巻いて、番に立った。
 海部側も徳島側も、もうケチな仲間割れをいいあっているひまはない。
 無言で、広い境内の物かげへ、思い思いに姿を散らかす……。
 腕でこい! と眼八は、ふたたび前の木蔭へ返って、伽藍(がらん)の正面につづく白い敷石を睨みながら、腹巻を固く締めた。
 ――その口には十手。
 もう、人気(ひとけ)は滅している。
 時折、伽藍の近くから、夜籠(よごも)りの遍路(へんろ)の鈴(りん)が、ゆるく、眠たげに……。
 シーンとしてしまった。
 月の位置もだいぶ変って、細(こま)やかな針葉樹の影は、大地へ蚊帳(かや)の目のようにゆれている。

 石段の口から、一ツの影が上ってきた。
 月に白い菅笠(すげがさ)に、顔は暗く隠されているが、肩幅のひろい巨男(おおおとこ)、裾(すそ)をとって、脚絆(きゃはん)わらじ、道中差を落している。
 ジッと、境内を見廻していたが、やがて、大股に本堂へ向ってきた。と、思うと、またふと足を止めて、参差(しんし)とした杉木立の奥をすかすように見た。
 鈴(りん)が鳴っている。
 かすかだが、耳にふれた。夜籠りの詠歌(えいか)の鈴(りん)の音(ね)。
 それを便りに、木立の蔭へまぎれ込もうとすると、いきなり、
「大勘ッ」
 と、おどりかかって行った釘抜きの眼八が十手で、力まかせに肘(ひじ)を撲(なぐ)りつけてから、
「御用だッ」
 と烈声(れっせい)をあげた。
「あッ」と、よろめきながら大勘。
「しまった!」
 という様子で、脱兎(だっと)のように後へ駆け戻ったが、もう、むらがる人数が足もとを待ちかまえて、
「御用ッ」と、飛縄(ひじょう)の風!
「御用だ!」と十手の雨。
 月光を衝(つ)いてわめきかかってきた。
 わらわらと八方を塞(ふさ)いで、入れ代り立ち代り、からんでは離れ、組んでは解かれる。
「退(ど)いた」
 と眼八、海部側の者に見よがしとばかり、群れをわけて正面から飛びかかる。
 大勘は道中差を抜いて、かれの真(ま)っ向(こう)を待ちかまえた。だが、眼八の十手が、風を切って入るのと同時に、飛んできた捕縄(とりなわ)が、拝み打ちに下ろしたかれの手元をさらって、ガラリと刃物を巻き落してしまった。
 黒い人間の声が、山になって、ひとりの上へ揉(も)みあった。
「ご苦労だった」
 と、徳島の同心浅間丈太郎と田宮善助が、火事を消したように一同をねぎらった。
 海部側の安井、土岐(とき)の二同心も、自分たちが、手を下すにいたらなかったことを同慶(どうけい)しあって、
「眼八、さすがに、鮮やかだな」
 と、ほめた。
「オイ、そっちの奴も曳き出してこい」
 助同心の岡村勘解由が、口へ手をかざして向うへどなると、
「おっ」と、さっきのひとりが預けられた縄付きの源次を曳いてくる。
「引きあげましょうか」
 と同心連中、涼しい顔で、月明りの顔を見あった。そして、源次と大勘、ふたりの縄付きを引っ立てて、意気揚々と、前の裏道――女坂のほうへ向って行く。
 わざと、正面の参詣道を避けたのは、医王山薬師如来の霊地を意識するおそれであった。かれらも、不浄役人(ふじょうやくにん)ということを、気づかずに自認している。
「暗いな」
「こう廻るのが近道なのだ」
 そういったほど、喬木(きょうぼく)の厚ぼったい茂りが、一同の上をふさいできた。みんなわらじばきなので、シト、シト、シト……と揃う跫音(あしおと)が言葉のない間を静かにつなぐ。
 ドウーッと、滝の落ちるような音の奥から、寒いような嵐気(らんき)が樹々の眠りをさましてくる。大勘は時折、ものいいたげに源次のほうを見た。源次もうなだれて棟梁の影を眺めた。だが、無論、一言(ひとこと)声をかけることもできない。
 と――真っ暗な、女坂の降(くだ)り口にかかろうとした時、すぐそのあたりの物蔭から、鈴(りん)を振り鳴らして、一同の前へ歩みだしてきた者があった。
 白衣(びゃくえ)をまとった遍路(へんろ)である。
 紺(こん)べりの道者笠(どうじゃがさ)をかぶり、白木の杖と一個の鈴(りん)を手にしていた。そして、黙然(もくねん)と、そこに突っ立った白い姿に、絣(かすり)のような木の影が落ちている。
「退(ど)けっ」
 と、ひとりの捕手がどなった。
 うつむき加減に、杖をついた道者笠は、月に咲いた毒茸(どくだけ)のごとく、ジイと根を生(は)やしたまま、退(ど)こうともせず、驚いた様子も見せない。

 道者笠の遍路、いやに、おっとりとした物構えで、意気揚々と引き揚げてきた捕手の前に、鷺(さぎ)とも見える白木綿(しろもめん)の姿を立たせ、肩杖をついて、黙然(もくねん)と、いつまでも狭い山笹の小道をふさいだまま、どなられても、動く様子がないので、先に立ってきた捕手の四、五人、少し、小気味がわるくなってきた顔色。
「オイ、同役」
 と、後からボツボツ歩いてくる仲間を待ちあわして、
「変なやつがいる」
 と、肩だけは突ッ張ったが、やや息を殺したかたちである。
「なんだ、遍路人(へんろにん)ではないか」
「そうらしい」
「さっきから間の抜けた鈴(りん)を振って、しきりと医王山の境内をウロついていた奴だろう。それがどうしたンだ?」
「あの通り、道を阻(はば)めて、テコでも動く気色がない」
「太(ふて)エ奴(やつ)だ」
 と、帯の十手を抜いて、それを手にピカピカさせた一人、ずかと前へ踏み出して、
「やいッ、遍路!」
 と、肩をもたせている白木の杖を、ゴツンと十手でぶちながら――
「なんだって、こんな狭い道に棒を呑んで突ッ立っているんだ。退(ど)け退(ど)けッ、海部代官所の者と徳島同心の方が、縄付をつれて通るところだ。動かねえと蹴飛ばすぞ!」
 遍路の笠へ顔をよせて、威猛(いたけ)だかにどなりつけたが、かれは、依然として、ヌックと立ったまま、肩杖をついたまま、そして、紺べりの笠をうつ向けたまま、返辞もせねば、微動もせぬ。
 ははア! とそこで顔を見あわせたことである。こいつア片輪だ。ツンボか唖(おし)か、気の変な脳病もちかに違いない。常人なみにあしらって、埒(らち)のあかないのはこっちの落ち度。
 だが、不具者の遍路、お上(かみ)の者といって手荒くもなるまい、どこかそこらの横へソッと抱いて片づけてしまえ! と目くばせで五、六人ゾロゾロと前へ出ると、その手も触(ふ)れさせず、杖一歩、かえって向うから一跨(ひとまた)ぎして、
「あいや」
 と、少し笠を揺るがせる。
「この野郎、唖ではない」
 かッと、怒っていうのを冷(ひや)やかに、
「無論――」
 と、声を含んで、
「唖ではござらん!」
 さらに一歩、あきれ顔の捕手の前へ出て、それには目をくれず、紺べりをつかんで相手の肩越しに、後の人数の影を見る。
 とは知らずに、得意な眼八と五人の同心組、なお十四、五人の捕手に縄付の前後をまもらせて、何かガヤガヤと話しあいながら、杉と杉との間をうねって押してきたが、道が狭いので三人と肩を並べては歩けず、そのまに先がつかえてしまった。
「オイ、どうしたんだ?」と、うしろのほうであせっているのは眼八の声。
 その返辞もこずに前の者が、逆に、タジタジと後退(あとずさ)ってきたので、のび上がってみると、ひとりの遍路を相手に何か言い争っているふうなので、眼八は縄付のそばを離れて、すばやくそこへ潜(くぐ)って行った。
 と見て、海部同心の安井、土岐、助同心の岡村勘解由(かげゆ)、眼八について列の前へかき分けて出る。
 遍路は、磐石(ばんじゃく)のように佇立(ちょりつ)したまま、しきりと猛(たけ)る捕手などには、言葉もくれず、耳も藉(か)さない。そうして、同心組の者が来るのを待ち設けていたように思われる。
「てめえは夜籠りの遍路だろう、何をグズグズいっているんだ、ついでに海部の百姓牢へも参籠(さんろう)して行きたいというのか」
 と、眼八は無造作に見て、その襟(えり)がみをつまみそうに、片腕の袖をまくりあげたが、キラッと笠の蔭から射向(いむ)けられた眼光りに、そう簡単に手がのびなかった。
「お前たちに用はない、上役がおるであろう、同心の者をこれへ出せ」
「な、なにッ?」
「話がある! 同心衆」
 呼ぶように腰を伸ばした。
「何者だッ、貴様は」
 海部の安井民右衛門、胸を張って威喝(いかつ)した。
 浅間丈太郎、田宮善助、徳島側の者も何事かと騒いで、捕手を排(はい)して進んできた。そうして、口々にまた咎(とが)めた。
「何者だッ、汝(なんじ)はッ」
「何用あってそこに立つのか」
「名乗れ!」
「姓名を申せ」
 各※(二の字点、1-2-22)一句ずつわめいたところで、遍路は、さらに悪びれない語韻(ごいん)で――。
「拙者は」
 と、もの静かに名のりかけ、
「おのおのの尋ねている、法月弦之丞でござるが……」
 と、澄みきった態(さま)で、向うの動(どう)じ方を眺め廻した。

 ぎょッとして足もとを浮かしかけたが、同心も捕手の者もひるがえって、自分たちの耳を疑っているように。
 ――拙者は法月弦之丞であるが。
 こういったと思う相手の、こともなげな今の声を反復して、見つめあった。
 そうして、彼とこれとの間に、氷のような無言が張りつまった。徳島の城下はいうまでもなく、八郡の代官手代が、血眼になって検索している人間が、捕手や同心の集まっている直面へきて、こう冷然と、みずから名乗って立つばかがあろうか。
 と、一度は思ったが……。
 彼の自若(じじゃく)として不敵な態(さま)。わずかにうかがわれる面(おも)ざし、背恰好(かっこう)、まぎれもあらず、人相書のそれとピッタリ。
「ア――」
 ややしばらくしてから度胆(どぎも)を抜かれた空声(からごえ)を筒抜(つつぬ)かせたが、助同心の岡村、突然、
「それッ、取り囲め!」
 と、ののしって、身(み)みずから十手を揮(ふ)って当ろうとするのを、
「待てッ」と、弦之丞の一喝(かつ)が、その出足をくじいて、
「妄動(もうどう)するな、うかつに動くと危ないぞ、動かぬ切れ刀(もの)へさわってきて、われから命を落すまい。無益な殺傷沙汰はしたくないと思う、で、話がある! 静かにせい」
 と、自分の配下でも鎮(しず)めるように威圧した。
 十手を把(と)る者が、これだけのことを、対手(あいて)に悠々(ゆうゆう)といわせただけでも恥辱の限りだ。多少の犠牲者を出すまでも、一気に、召捕ってしまえ! そうはじりじり思ってみるが、どうにもならない対手(あいて)だった、どこから飛びつく隙もない、いや、既にそういう衝動を作る大きな意気というものを失っていた。
 弦之丞は知っている。
 すでに、捕手の頭(かしら)は冷智になって自分を見ている。何か一瞬の狂人にさせるきッかけがなければ、かれらは決して、朱(あけ)をあびる域へまで、捨身にかかってこられない。
「弦之丞!」
 やむなく浅間丈太郎がいった。
「――遁(のが)れぬところと覚(さと)って自首して出たか」
「そうならば定めしご都合もよかろうが……」
 口辺に冷蔑(れいべつ)を漂わせて、
「少しご無心を申すのじゃ」
「無心ッ?」
「今、この境内で召捕られた、ふたりの縄付を、拙者の手へ渡してもらいたい」
 こんな言葉へ、もしまじめな応答をするならば上役人の資格はない。――弦之丞はそういった口ですぐにまた、
「お渡しはあるまいな、それが世上へ聞こえては貴公たちの扶持(ふち)ばなれじゃ。しかし、拙者一身のため、縛(ばく)をうけた大勘と源次を見捨ててもおかれぬ。どうでもこのほうへ申しうけるぞ」
「だ、だまれッ」
「アイや」
「文句をいわさずに、弦之丞を召捕ってしまえ」
「騒ぐなッ、ここは医王山の霊域、汝ら、不浄な血と死骸を積んで、寺社奉行への申しわけ何とするか。それはともあれ、仏地への畏(おそ)れ、また第一足場が悪い。まず騒がずにおいでなさい。山を下るまでご同道申しあげよう」
 先に立って歩きだした。
 まさか、逃げるとは考えられない。自分から捕手の前へ立った彼――。
 五歩――六歩――誰も足を出す者がなかった。
「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)なやつだ、よしッ、俺が」
 と、釘抜きの歯がみをさせた眼八。
 目をつぶってゆく気もちで、一跳足(ちょうそく)に、かれの体へ貼りついた。と、弦之丞、身をひねって、
「これッ」
 と、眼八の小肥りな体を、左の腕の中へ締め込んで、グッと抱きあげ、後(あと)の十手へ白木の杖を一揮(ふ)りするや、急に、眼八をかかえたまま、女坂を闇の底へ、ドドドドドッと駈けだして行った。
 途端。
 怯智(きょうち)な居すくみをどやされた捕手や同心たち、あッと眼色をかえ、初めて、瞬間的な狂人になり得て一散に、麓(ふもと)へ小さくなる白いものを追いかけた。

 やがて、薬王寺の山の裾(すそ)で、ワーッと、乱闘の叫びが起こる。
 目前にいた対手(あいて)を逸して、今さら仰天した捕手のわめきであろう。逃がしては大事と、駆け廻っている同心たちの叱咤(しった)であろう。
 ところが、皆の疾走したあとに、三、四人ほど駆けおくれていた。
 召捕った二人の縄尻をつかまえていた者で、これは空身(からみ)でないから、走るに走り得ないで、縄付を突きとばすように、後からあわてて気を急ぐ。
 いちど走りだした同心の土岐鉄馬(ときてつま)は、ふと思いあたって、
「アッ、もしや?」
 と、途中から踵(くびす)をめぐらし、大急ぎで後へ戻ってみた。かれの推測は誤っていなかった。
 はたして、大勘は、この機会にすなおになってはいなかった。
 自分の縄尻をつかんでいる捕手を蹴倒し、源次も、腕はきかないが、親方の大勘と一緒に、死にもの狂いで、あばれ廻っていた。
 近づくに従ってその様子の見えた土岐鉄馬は、いい所へ戻ってきたと一足跳(と)びにそこへ来るが早いか、
「おのれ、まだ無用な手抗(てむか)いをしているかッ」と、十手をもって、骨ぶしの砕けるほど、源次の肩を撲(なぐ)りつけた。――で、その途端。
「わッ……」
 と、大地へ仆れたが、それは、打たれた源次ではなく、鉄馬であった。
 後頭部から背すじへかけて、土岐鉄馬は斬られていた。傷が浅いので死にきれず、ウームとうめいたかと思うと、十手をつかんだなり自分の血の中をころげている。
「あッ」と、縄尻をほうりだして、逃げかけた捕手も、脛(すね)を払われて前へのめった。残るひとりは、源次が夢中で蹴とばした足の先に、脾腹(ひばら)をかかえて悶絶(もんぜつ)した。
 途端に――源次も大勘も、今まで性(しょう)なくシビれていた両の腕が、ふッと自由になって、一時に早い血の脈をうってきたのに、われながら茫然(ぼうぜん)とした。
 その、茫(ぼう)とみはった目の前には、ひとりの美女が立っていた。艶(えん)とはいえないがすきとおる水のような美しさ、白い行衣(ぎょうえ)を着た肌の白い黒髪の美女である。
「オオ、お綱さん!」
 大勘は源次へ目くばせした。源次は縛(いまし)めを切られた腕をさすりながら、あたりを見廻してかがまり込む。
「――弦之丞様と御一緒に、どこにおいででございました」
「ここで待ちあわすという約束なので、宵から上の森の中に、お前さんの跫音(あしおと)を待っていました」
「あ、そのうちにこんな手違い?」
「源次が捕まったのも知ってはいたが、お前さんが来てからの思案と、森の蔭で心配しながら、息を殺しておりましたのさ」
 弦之丞と同行同衣(どうぎょうどうえ)の遍路にやつした見返りお綱。今――土岐鉄馬のうしろへよって、浴びせつけた新藤五の小脇差をさげている。
 それはまだ大黒宗理の手で研(と)がれてきたばかりの刀(もの)、斬ってもその切ッ尖(さき)に、口紅ほどの血も止(と)めていない。
「ここにいては海部の捕手が、また押し返してくるにきまっているから、お綱さんは、源次に道案内をさせて、ここの裏山を抜けて、赤河内(あかかわち)へお逃げなさい。あっしは、捕手に追われて行った弦之丞様の安否を見届けて行きます」
「ご親切だけれど、それに及ばない。弦之丞様は、わざと捕手を釣りこんで、麓のほうへ駆けだすから、後で三人はここから先に、土佐街道の寒葉(かんば)へ出て、そこで待ちあわしていてくれろとおっしゃったのだから」
「ですけれど、あの人数に囲まれちゃあ……」と、大勘が不安らしくいうのを、お綱は、微笑(ほほえ)んだきりで、自分から先に裏山の道を上りだした。
 そして、予定どおりに寒葉(かんば)の近くで、後から来た弦之丞と落ちあった。かれの手甲と裾(すそ)の二所三所(ふたところみところ)に、黒い血痕(けっこん)がついていた。大勘は、怖ろしいような、不可解なような顔をして、歩をともにしてゆく、その人の横顔を眺めていた。
 土佐街道が白々と明けてきた頃――四ツの影は、牟岐(むき)の上流から本道と岐(わか)れて、笹見(ささみ)、西又(にしまた)、入道丸(にゅうどうまる)、いよいよ深い奥海部(おくかいふ)の山地へ分け入っていた……。

 翌日。
 こんもりした槙(まき)の森蔭で、わずかな眠りをとった後。
 大勘はふところから一枚の山絵図を出して弦之丞に見せた。お綱もそばへ寄って眼を落した。剣山(つるぎさん)の山絵図である。
 源次は森を出て見張っていた。こうしている間も、日和佐(ひわさ)から殺到してくるであろう捕手の跫音が聞えるようでならない。
「まるで、道がないような所です」
 大勘は、数日家を空にして、苦心して描いた山絵図を前に、あれこれと、細かい心おぼえを説明した。
 かれが指さす図面に目を辿(たど)らすと、彼岸(ひがん)剣山の頂(いただき)へ行きつくには、まだ重畳(ちょうじょう)たる山また山が阻(はば)めている。
 杣(そま)か猟師(りょうし)でもなければ、通わない所が多い。
 大体、剣山へのぼるべく、ここを選ぶのは順路ではない。だが、順路をとって行かれぬ二人の目的、ぜひがなかった。
 弦之丞とお綱よりは、二日半ほど早く徳島の城下を出ている竹屋三位卿とほか三人組が、急いで行ったあの道こそ、剣山へのぼるに都合のいい表道。途中、お十夜の用で、川島に一日あまり費やしたにしても、かれらの一行は、やがて貞光口(さだみつぐち)から塵表(じんぴょう)の巨山を仰いでいるに違いない。
 かれは北、これは南、かれは表道から、ふたりは道なき裏にかかっている。
 だが、その者たちが、自身より一足早く、甲賀世阿弥(よあみ)を殺しに向っているとは、もとより知らないふたりであった。
「何よりの心づけかたじけない」
 大勘の厚意を謝して、弦之丞はその山絵図をふところに納め、追手の姿を見ぬうちにと、また一心に道を急いだ。ある時は、口もきかず、ある時は、行願(ぎょうがん)に向っているような汗をしぼっている自身に気づいた。
「剣山は……まだ?」
 お綱はそういう言葉を、時折、大勘へくり返していた。
「まだ見えません」
 …………。
「剣山は?」
「まだです」
 清澄な空気、耳なれぬ禽(とり)の声、森々(しんしん)と深まさる山また山。行けども山である、行けども山である。
 沢を下り、岨(そば)をめぐり、わずかな山村を眺め、また奥へ奥へと歩みつづける。たまたま逢う樵夫(きこり)や部落の人も、遍路姿のふたりに、何の怪しみも持たなかった。
「あれだ!」
 力のこもった声で、大勘がこう指さした。
 四人は、星越峠(ほしごえとうげ)を踏んでいた。
「えっ、剣山?」
「あれが剣山です。次郎笈(じろぎゅう)と矢神丸(やじんまる)の間から、肩を張りだしている山がそうです」
「アア、あの……」と、お綱も大勘が指さすところを指さした。
 弦之丞も黙然(もくねん)と、ふたりの見まもる山を見つめている。お綱は何かの感慨に衝(う)たれて、白雲の流るる行く手に佇立(ちょりつ)した。
 アア、あれが剣山か――。
 そう思って見た山は、父の姿を仰ぐのと同じ感銘を与えた。まだ見ぬ父の姿は、剣山を見て逢ったと等しい心地がした。
 動こうともせずじっと山と直面しているうちに、お綱の目がしらは、涙でいッぱいになってきた。涙で山が見えなくなった。
(お父さん! 生れてからまだ顔を知らないお父さん! お綱はここまで来ているんですよ! あなたに会いに、あなたが生涯をかけた仕事を活(い)かしに)
 声いッぱい、あなたの雲表(うんぴょう)へ、お綱は呼びかけてみたかった。
 だが、直前に見えるようでも、まだそこへは数里、それも、これからはいっそう嶮(けわ)しい峡谷(きょうこく)や岩脈に阻(はば)まれている距離がある。――でもお綱には、ここから呼べば、剣山の山牢から、オオと、返辞が木魂(こだま)してくるような気がするのだった。
「では、大勘も源次も、どうか、ここまでとして、後へ帰ってくれるように」
 弦之丞は、笠ぐるみ頭(ず)を下げて、二人へ礼をのべ、袖を別つことを宣した。
「気の毒な……」と、弦之丞はふと暗くなった。さだめしこの者たちは、後で代官所の追捕(ついぶ)に趁(お)い廻されなければなるまい――。
「じゃ……どうぞ御堅固に」
 と大勘も別れをつげたが、弦之丞のすまぬ色を見て、言い足した。
「お案じ下さいますな。あっしと源次は、これから土佐境(ざかい)の港へ出て、そこから抜荷屋(ぬきや)の仲間をたのみ、しばらくどこかの島でほとぼりをさましております。そのうちには、四国屋のお家様にお目にかかって、何とかいたすつもり、そこは手に職のあるありがたさで、尺金(さしがね)一本(ぽん)さし込んでいれば、どこの国にも天道様(てんとうさま)は照っております」
 なおいろいろと、山へかかった場合の注意を残して、大勘と源次は後へ取って返した。
 その後――やや久しいこと、お綱は茜色(あかねいろ)に変ってくる雲と山に明日(あした)を思い、弦之丞は、山絵図を按(あん)じて、山へかかる二つの道について考えている。

 そこは廃寺の方丈のあとであろう。荒れはてているが、古ぶすまの白蓮(びゃくれん)には雲母(きらら)のおもかげが残っていた。古風な院作りの窓から青い月影がしのびやかに洩れている。
 荒涼とした室内の、くもの巣だらけな欄間(らんま)や厨子(ずし)に、はげ落ちた螺鈿(らでん)の名残りが猫の目みたいに光っていて、湿(しめ)っぽい妖気(ようき)を漂わせ、かびと土の香をまぜたような、一種の臭(にお)いが面(おもて)を衝(う)つ。
「明日のために」
 との心がまえで、あれから峠を下りた弦之丞とお綱は、充分な眠りをとるべく、この廃寺へ入った。
 眠ろう。眠らなければいけない。
 お綱は経筥(きょうばこ)にもたれ、弦之丞は何かに腰をかけて、杖に肩を支(ささ)えていた。しかし、しきりと旋舞(せんぶ)する毒虫やバサと壁をうつ蛾(が)の音に、ふたりの神経は容易にしずまらなかった。
「明日は剣山にかかるのだ」
 そう思う昂奮(こうふん)も、よけいに眠りを拒んでいる。ほとんど、死の世界のような寂寞(せきばく)さも、かえって心を冴えさせた。
 うつうつとまどろんでいたかと思った弦之丞も、やはり眠りつかれずにいたとみえて、不意に立って、方丈を出て行った。
 しばらくすると、枯れ杉と榧(かや)の枝をつかんで戻ってきた。そして、所を見計らって、その榧(かや)の木をプスプスと煤(いぶ)しはじめる。
 お綱の眠りつけないでいる様子をみて、蚊や毒虫を追ってやろうとする、弦之丞の心づかいであった。うすくまつわう煙の情けが、お綱の身を和(やわ)らかに巻く。
 ようやく、虫の責め苦からのがれた。
 だが、お綱はまだ眠れなかった。
「弦之丞様、まだ夜明けには間がありましょうか」
「そちは少しも寝ないようだが」
「なんとなく気が冴えて」
「それはいけない」
「でも、ゆうべあの森で、だいぶよく眠りましたから」
 いっそ夜の明けるまで語り明かしたいとお綱は思った。弦之丞も眠られぬまま、つい答え、つい話頭を向ける気持になる。
 万吉はどうしているだろうか? 常木鴻山(こうざん)もさだめし消息を案じているだろう? 松平左京之介様は、自分たちの吉左右(きっそう)を、首を長くして待っているに違いない。
 そんな話。
 そんな話からお綱は、お千絵様は――といって弦之丞の顔色を見た。
 かれは、それなり黙然(もくねん)としてしまった。
 お綱は自分のつつしみを破って、ふと弦之丞を憂暗(ゆうあん)にさせたことをすまなく思った。もとより、この人とお千絵様とは、切る、捨てる、ことのならない仲なのである。
 生れた時から悲恋の宿命をもっている恋。咲かない土に芽生(めば)えた花、それが、自分の恋ではなかろうか。
 普通の境遇(きょうぐう)の人なら、なんでもない、実父の顔をひと目見るということが、生涯最大な希望になるほど不幸(ふしあわ)せな身には、恋にも、同じような恵まれない宿命をもっていた。
 剣山へ行くまでの――この苦難の途中だけが、わずかに楽しい恋の時間だ。自分の恋のゆるされる道のりだ。そしてその恋も、あるものを超(こ)えてはならない恋。
 はかない!
 こんなはかない恋があろうか。
 父の世阿弥に逢うという、希望の彼岸(ひがん)に立った時は、恋人を、義理のあるお千絵様に返さねばならない時だ。
 剣山のいただきは、お綱に最大な希望と最大な失望の二ツをもって待っている。人生の悲喜明暗ふたいろの雲がそこにはたなびいている。
 弦之丞は沈黙をまもり、お綱は眠りを装(よそお)って、思い悩む。
「ああ、もっとあの山が、遠ければいい……」剣山にいたることが遠ければ遠いほど、お綱の恋はこのままでいられる。よしやそこに、あるものを超(こ)えるまでの強い力が結ばれなくても、ふたりの世界、楽しい旅が、お綱にはある。道が嶮(けわ)しければ嶮(けわ)しいほど、夜が暗ければ暗いほど、お綱の旅は人知れず楽しい。
 しかし、もう二人は、剣山の裾(すそ)まで来てしまった。苦難、迫害、ふりかえってみても、お綱には、なお短かった心地がする。
 明日(あす)は明暗の雲をわけて、間者牢に初めての父の顔を見る! それも待たれてやまぬものだ、今でも、想像の父の顔が、眼の前にチラつくほどである。どういおう! なんと名乗ろう! 千々(ちぢ)に乱れて涙ばかりを見あわすであろう! そんな想像だけでも涙がわく。
 と、かの女(じょ)の乱れた胸に、微笑をそそるような空想がかすめた。
「死ぬという方法があるじゃないか。剣山へ行きついた後に、弦之丞様とふたりで死ぬのが、すべての幸福をもちつづける一番いい道じゃないか。死出の旅は長い! 剣山へ来たよりは遠い! そして静かで果てというものがない」

 父に会った歓(よろこ)びの絶頂に、弦之丞とともに手をとって死のう。
 そう思うそばから、また、一方の心は、
(お千絵を不幸に墜(おと)してもよいのか!)
 と責める声がする。
 剣山に行きついて、剣山の土になるのは、いわゆる、木乃伊(みいら)とりの木乃伊(みいら)になるの類(たぐい)で、弦之丞がここまでの苦艱(くかん)も、結果は、無意味なものに帰してしまう。
 ふたたび重囲の阿波を逃れ出なければならない。
 その時になって、初めて、父の名も闇から光明へ、弦之丞も一箇の武士として、栄光の江戸に迎えられる。
 すべての、いい結果を呪(のろ)って、わがままな死の世界へ、弦之丞を導こうとする心を、お綱は自身でおののいた。奔放になろうとする恋のわがまま――自我主義をおそろしく気づいた。
「そうはなれない、私の気性でもそうはなれない」
 お綱は情熱と理智のたたかいにもまれて、固く睫毛(まつげ)をふさいでいた。弦之丞には、静かに眠っているふうを粧(よそお)っている心の奥で――。
「生きねばならない」
 と、つよく思い返した。
「目ざして上る時よりも、いっそうなまっしぐらで、剣山をのがれ出なければならない。死んではならない! 弦之丞様を死なしてはならない! そして父の世阿弥とその人を、義理あるお千絵に渡してやることを自分の本望としなければならない、それを、無上として歓ぶのが人間だよ、愛だよ! ――じゃあ、お前はなんにもなくなるではないか? 愛って、人間の一生って、そんなつまらないものでいいものかね? そうさ、ほんとに空(くう)な話だ、だけれど、そうした自分を無にする気もちは、さびしいだろうが、まんざら悪いものじゃあるまい。私はそれを信じよう、考えてみればもともとから何もなかったお綱じゃあないか」
 眠りを粧(よそお)っているまぶたから、いつか、涙……涙……涙……とめどなくながれている。
 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)――。
 廃寺の内陣で唱える人声があった。お綱は、今宵この荒れ寺に、自分たちのほかにも行き暮れた遍路が雨露をしのいでいるのを知って、そっと、涙をふきながら弦之丞を見た。
 杖により、壁にもたれて、寂(じゃく)としているその人は、寝ているのか、起きているのか分らない。白い行衣(ぎょうえ)の裾(すそ)を、榧(かや)の煙がうすく這(は)って――。
 お綱は遠いところの、鉦(かね)と詠歌(えいか)の声に、思わず耳をすませられた。
ぎゃく縁も
もらさで救う
ねがいなれば
巡礼道(じゅんれいどう)は頼もしきかな
南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)――
 その巡礼道の身ではないが、お綱もせめて、今の一時でも、その境地に安住して寝(やす)もうと念じた。しばし静かに口のうちで、あなたの詠歌の声について合せている――。
 と、突然。
 バリバリッと、院作りの窓を破り、おどり込んできた同心四、五名。
 山支度をして十手をくわえ、まっ先に、豹(ひょう)のごとく飛びこんだのは海部同心(かいふどうしん)の安井民右衛門(やすいたみえもん)。
「弦之丞、お綱、御用であるぞ」
 と、雷声をつんざかせた。
 アッ――と不意をうたれて、お綱が方丈の外へ退(の)くとたんに、安井同心はピシリッと白木の杖で腹を打たれた。眠っているように見えた弦之丞が、咄嗟(とっさ)、そこを支えたのである。
「ウム!」と気丈な安井同心、杖をつかんで奪おうと試みた。
 白刃を仕込んだ杖! 相手につかませておいて、弦之丞、合口(あいくち)に掛けていた指を弾(はじ)くように開いた。
 と杖はそこから二ツに別れて、アッというと民右衛門、鞘(さや)だけ持ってよろよろと後ろへ。
 そこを真(ま)っ向(こう)胸落(むなおと)し! 切ッ尖(さき)はなお余って、膝行袴(たっつけ)の前まで裂いた。たじろぐ隙に、弦之丞は、死骸のつかんでいる鞘をとり、それを下段に、白刃を片手上段に持って、四、五たび廃寺の廊下を駆け廻っていたが、やがて、お綱の姿をチラと見て、庫裏(くり)の裏手へ飛び下り、大竹藪の深い闇へ、ふと、影をくらましてしまった。

 間者牢(かんじゃろう)の柵外(さくがい)に、山番が焼飯の糧(かて)をおいてゆくのを取りに出る時と、渓流(けいりゅう)へ口をそそぎにゆく時のほかは、洞窟(どうくつ)の奥に陽(ひ)のめも見ず、精と根を秘帖(ひじょう)にそそいで、ここに百四十日あまり、血筆をとって岩磐の火皿にかがまったきりであった甲賀世阿弥(こうがよあみ)も、今はようやく疲れてきた。
 疲れてふと洞窟の床(ゆか)へ身を投げて臥(ふ)すと、昏々(こんこん)として二日もさめないことがある。そんな時、頭心(とうしん)だけが錐(きり)のように研(と)げていた。書こうとする意気をもつ、これを書き遺(のこ)すことによって、自分は犬死をまぬがれる、隠密生涯(おんみつしょうがい)の墓石が立つ、武士の本分をつくし得る。
 で、書こうとして起つのである。けれどその意気はあるが、今は精根がつづかない。精根はしぼりだしても、筆を濡らす血がもう出ない。指、腕、股(もも)、かれの全身は油液を採(と)りつくされた漆(うるし)の木の皮みたいに傷だらけだった。
 十幾年もの間この山牢に生きて、たださえ痩せ衰えていたかれは、血筆をもち初めてから一層枯骨(ここつ)をむきだして、幽鬼のようになっていた。一行(ぎょう)に精をきらし、半行に血が出なくなると、世阿弥は落ちくぼんだ眼を光らして洞窟の外へ出てくる。
 そして、餓鬼のように、野葡萄(のぶどう)や山苺(いちご)を食べ草の茎(くき)を噛む。渓流にかがみこんで、小魚や水に棲(す)む虫まで口に入れた。血を摂(と)るべく食うのである。生きようとする本能よりも、筆にぬる血墨をつくるために食うのが、この場合の世阿弥であった。
 ひと頃、山牢の近くに春を染めていた岐良牟草(ぎらんそう)のむらさき花も散りつくして、真ッ赤な山神の錫杖(しゃくじょう)や白龍胆(しろりんどう)や桔梗(ききょう)の花がそれに代っていた。かれはまたぎらん草にかわる色素をたずねて、それには事を欠かさなかった。
 ほんの常識的にわきまえていた本草学(ほんぞうがく)が、どれほど実際に役立ったかしれない。かれは自分の知識にある限りのことを今の上に応用した。そして、ともあれ、三位卿の落した小法帖形(こほうじょうがた)の海図の余白から裏へかけていちめん、微細な文字をもって埋めた。
 もうわずかだ、もう五、六行。
 そこまで辿(たど)りついてきて、世阿弥はふと、
「おれは死ぬだろう」
 と直覚して、筆の穂をふるわせた。
「あとの五、六行を書きおえたとたんに、おれはバッタリ眼をおとしてしまうに違いない! そんな気がする! アア、あと五、六行だ」
 かれは高い山の頂(いただき)へついた時のような呼吸の逼塞(ひっそく)をおぼえだした。指をやらなくても感じられるくらい、乱れた脈を搏(う)っていた。
「アア、あと五、六行だ」
 火皿の獣油がとぼりきれたのを機(しお)に、洞窟から這いだした。
 ぐッたりと山牢の口によりかかって、かれはしばらく目を閉じた。そのわきに合歓(ねむ)の大木が立っていた。淡紅色の合歓の花と俊寛のようなかれの姿とは、あまりにふさわしくない対照であった。
 尖(とが)った膝へ手を結んで、独り語につぶやいた。
「ここで、おれのなすべきことだけはした」
 だが? ……と世阿弥はすぐに後の哀寂(あいじゃく)にうたれた態(さま)で、おそろしく光る、そして空虚な目を、的(あて)なく空に向ける。
 血をしぼってなしあげた穏密覚え書の一帖も、江戸の大府(だいふ)へ送り届ける頼りはなし、このまま木乃伊(みいら)となる肋骨(あばらぼね)に、抱いてゆくより道はないのである。
「それでいい」
 かれは、諦(あきら)めるよりほかない所へさびしい肯定(こうてい)を落して、
「それでいいのだ……」と重ねて、独り語をいった。
「やがて、おれの死に骸(がら)からあの一帖を見出した時には、阿波の武士たちも、いかに大府笹(ささ)の間(ま)の隠密というものが、使命を奉じるに根強いものか、侍根性にない執着をもつものかを知って慄然(りつぜん)とするだろう。そして、後には人の口からわしの最期も江戸表へ通じるであろう。しかし、それと共に、仲間で誇る隠密魂もおそらく、この世阿弥の終りと一緒に甲賀組にも亡ぶに違いない。世の中が変っている、わしが江戸を出た時からもう元和(げんな)寛永(かんえい)の世の中ではなかった。それから十幾年……」
 ふと、膝に落ちている合歓(ねむ)の花に目が行った――うす紅い合歓の花。
 その優しい膝の花を眺めていると、かれの想像は、ふッと翅(はね)が生えたように飛んで、ふたりの可愛らしい少女をとらえてくる。
 江戸表に残してきたお千絵であり、腹ちがいのお綱である。
 もう二人の娘は、その頃の少女ではないと思っても、かれの想像はやはりあの当時の稚(おさ)な顔を描いてみせる。
「ふびんな娘たちよ……」
 合歓(ねむ)の花は世阿弥のくぼんだ眼からポロポロと涙を呼んだ。
 その時、一本の羽白の矢が、ヒュッ――と鏃(やじり)に陽(ひ)の光を切って、うつつな、かれの姿を狙ってとんだ。

「しまった!」
 と、三位卿、素早く二の矢をつがえて向うを見た。
 山牢のある瘤山(こぶやま)の裾(すそ)は、覗(のぞ)き滝(だき)の深潭(しんたん)から穴吹(あなふき)の渓谷へ落ちてゆく流れと、十数丁にあまる柵(さく)が、そこの地域を囲っている。
 柵外の爼板岩(まないたいわ)の上に立つと、あなたのほうに洞窟の暗い口と、合歓(ねむ)の巨木が見えた。有村は、弓を構えて磐石(ばんじゃく)の上に立っていたが、
「ちイッ……」と舌打ちして、しぼりかけた二の矢、弓ぐるみ、ガラリと手から捨ててしまった。
「お手際(てぎわ)」
 と、下から賞めた者がある。
「皮肉を申すな」
 と三位卿は、岩から跳び下りて、天堂一角、お十夜孫兵衛、旅川周馬、その三人の前へ立った。
「むごい殺し方をするよりは、ただひと矢にと思ったのだが、一の矢、襟元(えりもと)をかすめて合歓の木の幹へ刺さってしまった」
「では、世阿弥のやつ、覚(さと)りましたな」
「ふいと姿を隠しおった。しかし、逃げられる場所ではないから安心じゃ」
「殺害(せつがい)しに来たのを知ったとなると、かなわぬまでも、さだめしジタバタするでしょう」
「なぶり殺しもぜひがない」
「衰えきった老いぼれ、大したことはあるまい。じゃ一刻も早く殺してやるほうが、せめて殺生(せっしょう)の罪も軽かろう。おい、天堂」
 と、お十夜は先に立って、
「どこから柵を超えるんだ?」
「もっと上だ、この辺は一帯に柵と激流が一緒になっているから、とても乗り超えてはゆかれない。もう少し上へ登ると、山の腹へかけて流れに添っていない所がある」
「よし!」と、周馬も前へ出た。
 周馬の気負(きお)ったうしろ姿を見ると、天堂はニッと笑った。決して、悪い意味ではなかった。――この男も可愛いやつだ、そう考えて、和田峠で癇癪(かんしゃく)まぎれに、煙管(きせる)をぶつけた時のことを思いだしたのである。
「最初は、ひどく油断のならない男と考えていたが、決して、ムキになって憎むほどの人間じゃない。むしろ、愛すべき稚気(ちき)さえ持っているじゃアないか! こうして世阿弥を殺すにも先に立ってゆくんだからな」
 と、かれの背なかを眺めながらゆく。
 お十夜は幾度も剣山を踏んでいるが、周馬は初めてなので、嶮(けわ)しいのにあきれている、倶利伽羅坂(くりからざか)でもかなりヘトヘトになった。だが、ひと度冷(ひや)やかな山気(さんき)に面(おもて)を吹かれると、その疲れも忘れてしまう。
 次の山容をあおぎ、谷をのぞいて、森々たる喬木林(きょうぼくりん)の間に、合歓(ねむ)の木の多いのにも驚いた。和州(わしゅう)多武(とう)の峰にのぼった折に、この花の多いと思った記憶はあるが、かくも幽邃(ゆうすい)な光線と深い冷気のうちに塵(ちり)もとめぬ神秘さをもった花とは違ったように思われた。
 人を殺害(せつがい)しにゆく人間にも、山は冷寂(れいじゃく)な反省と幽美な感激を与えている。けれど人間はなかなかそれに浸(ひた)りきらず、邪念なかなかそれには消えない。
 すでに四人は、大刀に反(そ)りを打たせて踏み登ってくる。
 世阿弥の生命(いのち)は風前のともし灯。
 さっき、かれがふと意識した脈音のみだれは、この兇事(きょうじ)の来たることを肉体の持主に予察させた霊感の微妙であったろうか。
「死ぬナ、おれは」
 不思議にみずからこういった。
 しかし、人間にさほど霊の感知がありうるならば、父子同じ血をもっているお綱の血のうちへ、世阿弥の今搏(う)つ脈音がひびいてゆかないものだろうか。
 深夜、廃寺の方丈から、ふたたび徳島海部(かいふ)の同心に追われた弦之丞とお綱は、あれから、深林、峡谷(きょうこく)をよじのぼって、剣山の裏伝いへかかったことは想像に難くない。
 それは弦之丞が、医王山の境内でも廃寺の折でも隙を見るや一散に逃げ去ったことであきらかに知れている。かれには、捕手(とりて)も同心もない。ただあるのは、目指す剣山の山牢があるばかりだ。
 けれど、貞光口(さだみつぐち)から難なくここへ来た三位卿の一行と、道なき裏山の、それも山番の目を忍び忍びくる彼とは、時間にして半日、嶮路(けんろ)の不利にしてだいぶな差がある。
 ただ、僥倖(しあわせ)というべきことは、深更(しんこう)に十手の襲うところとなったため、勢い、あのまま暁へかけて、道を急ぎにかかったであろうと察しられる一点。
 そうすると、麓(ふもと)の見付役所で、山嵐の寝心地よく、遅くまで、熟睡してここへ着いたお十夜などよりは、ゆうに半日以上の早駈(はやが)けとなり、時間の差だけは取り返して余りがある。
 かれの消息については、漠然として疑惧(ぎぐ)をもっただけで、徳島の城下を離れてきた有村や三人組、もとより間髪(かんはつ)の差で、ここへ弦之丞とお綱がくるとは夢にも知らない。
 急ぐうちにもどこか悠々として柵を越える場所を見廻してくると、やがて面前に見た急坂(きゅうはん)の上から、早足に駆け下りてきた人物があった。

 四人が姿を隠したと知らずに、そこへ駆け下りてきた男、日除笠(ひよけがさ)をおさえて、大股にゆくところを、いきなり跳びついたお十夜が、どこをすくったか、気味よく投げた。
「あっ!」といったが、日除笠、すッくと向うに立ったので、怪しい! と天堂や周馬が、いちどに三方から姿を見せると、
「な、なンだ!」
 声はでかいが、案外なあわてざま。
「貴様こそ何者だ、見れば、町人姿、山牢のあるこのあたりへ何の用があってウロついている」
「じゃあ、あなたがたは蜂須賀家の……」と言いかけたが、町人、小首をひねった。総髪、十夜頭巾、顔の見えない編笠、見くらべて妙な顔をした。
「アー」と、そのうちに、後ろにいる三位卿を見つけると、あわてて、笠の紐(ひも)を解いて、
「そちらにいるのは、御城内のお公卿様、わっしは、徳島御奉行の下廻り、釘抜きの眼八という者でございます」
「オ、手先の眼八か」
 一角は顔を見知っていた。
「あ、天堂様でございましたか、ひどい目に会わせますな、あぶなく谷間へ玉転がし、命を棒にふるところでした。だが……ああ、いい所で会ったもンだ」
 胸板へ汗ビッショリ、押し拭(ぬぐ)って、笠を団扇(うちわ)に、ほっと一息ついている。
「眼八」と、一角は素振りを見て、
「妙なほうからやってきたな、いったい何用があってこの剣山へ来ているのか」
「ご存じはありますまい」と、眼八は、これほどのことを苦もなく話してしまうには惜しい気がして、
「何しろ大事(おおごと)になったもんです」と、もったいをつけた。
 そうした後で、眼八は、事実の細要より自分の功を誇り顔に、弦之丞とお綱の行動を手にとるように話した。
 その生死すら疑惑にしていた四人は、聞くにつれて開いた口がふさがらない。のみならず眼八の言によると、お綱と弦之丞のふたりは、星越(ほしごえ)とこの山の中間にあたる廃寺からのがれだして、遂に剣山の樹海のような森林へ影を隠してしまったということである。
「で、なんでござんす」と、眼八は話の筋にひと区切つけて――「あっしは同心方と別れて、ひと足先に間道を登り、やつらの道に網を張っておりましたが、なにしろこの通りな深山幽谷(ゆうこく)、町の捕物みたいなわけにゃ行きません。それにご承知のとおり土佐境から海部方面は、道が嶮(けわ)しい代りに、目付役所もなく、山番も手薄なので、案外楽に来られるということを実地に踏んできましたから、こりゃあいけねえと、急に泡をくッて考えなおし、これから、原士(はらし)衆の詰めている麓(ふもと)の木戸へ行って、この大変をお報(し)らせしようと存じ、急いで、平家(へいけ)の馬場から降りてきたところでございます」
 ひと息にいって、汗光りの赭(あか)ら顔を手拭で拭き廻った。
「ではお綱と弦之丞めは、すでにこの山の深みへ入り込んでいると申すのじゃな」
「多分……」と少し曖昧(あいまい)になったが、眼八、自分の見込みに誤りはないと自信をもって、
「……そうだろうと思います、いや、こっちで下手(へた)を踏んでいると、いつ、この間者牢(かんじゃろう)へあらわれて、世阿弥を助けだそうとするか分りません。なにしろ、ご要心なすって下さい」
 三位卿は混惑してきた脳髄(のうずい)をいきなり村正(むらまさ)かなんぞの鋭利な閃刃(せんじん)で、スッカリと薙(な)ぎ抜けられたような心地がして、踏みしめている足の裏から、かすかな戦慄さえおぼえた。
「ここへやって来る以上は弦之丞も、死にもの狂いに違いありません。たださえ腕の冴えた奴、そいつが夜叉(やしゃ)になって暴れ廻った日には、とても、同心方やあっしの手では抑えがつきません。どうか、よろしく一つお手配を願いとうございます」
「そうか……」と、すべてを聞き終った有村は、下唇を締めて、こうしてはおられないという焦躁(しょうそう)を、静かな動作のうちにゆるがせた。
「眼八、そちはこの足で麓へ急げ、そして山見付の溜(たま)りへ急を知らせ、十分に、手分けをしておくよう、この有村がいいつけじゃと伝えるがよい」
「合点です、じゃ……」と、笠をかつぐのと目礼を一緒に、釘抜きの眼八、汗の乾くまもなく、足を急がせて、倶利伽羅坂(くりからざか)を降りて行った。
 後に残った四人、何かヒソヒソささやいていたが、やがて、目配せをしあって、柵(さく)の尽きる所から重畳(ちょうじょう)した岩脈へ這い上がり、ヒラリ、ヒラリ、山牢の地域へおどり込む。
 まだ七刻(ななつ)を過ぎたころ、黄昏(たそがれ)には間のある時刻だが、剣山の高所、陽は遠く山間(やまあい)に蔭って、逆(さか)しまに射(さ)す日光が頂(いただき)にのみカッと赫(あか)く、谷、峡(かい)、山のひだなどにはもう暗紫色な深い陰影がつくられている。
 咲き乱れている山神の錫杖(しゃくじょう)、身を隠すばかりな茅萱(ちがや)などの間をザクザクとかき分けて、やがて小高い瘤山(こぶやま)の洞窟へ這い寄った四人――。
 お十夜と天堂一角は、抜刀(ぬきみ)を背後(うしろ)へ廻して膝歩きに、ソッと、穴の両脇から、息を殺して暗い奥を覗(のぞ)きこむ。
 スウ――と下がっていた一本の銀糸に、びっくりしたらしい蜘蛛(くも)が一匹、岩天井へ手繰(たぐ)り上がった。

 氷室(ひむろ)のような冷気を感じながら天堂とお十夜孫兵衛、洞窟の奥へスルスルと這い進んで行った。
「ヤ、いねえぞ」
 先へ向った孫兵衛の声が、暗闇の突き当たりから、ガアーンと響いて返ってきた。
「ナニ、おらんと?」
「ウーム、見えない」
「さてはほかへ隠れおったな」
「隠れたって、間者牢の柵、あれより外へは出られねえものを」
「こんな中に生きていても、やはり生命(いのち)は惜しいものとみえる。出よう、外へ」
 手探りで後戻りをしはじめたが天堂一角、またひょいと気がついたように、
「どこぞ横穴へでもへばりついているようなことはあるまいな」
「いや、そんな隠れ場所はねえようだが……」
 と答えながら、お十夜は後ろを眺めなおした。
 しかし、なくはなかった。
 よくよく闇に眼を馴らしていると、妙な所が一ヵ所ある。
 どんづまりの真ッ暗な岩壁が、右側へ少し窪(くぼ)みこんでいるらしい。その袋穴の漆壺(うるしつぼ)みたいな狭い所に、人の眼らしいものがギラリと光っている。動かずに光っている。そして、孫兵衛を睨みつけている。
 けれど、にわかにそれが人の眼だとは断定されない。なにしろそれ以外には何も見えないのである。で――孫兵衛は抜刀(ぬきみ)を後ろ廻しにひそめたまま、屈身(くっしん)を伸ばして、ジッと自分の息を殺した。すると、向うの呼吸が感じられた。世阿弥はやはりそこにじっとしていたのだ。
 一角は、孫兵衛の最初にいないといったのを信じて、気早に外へ這い出していた。
「ふーん、すくみこんでいるな」と感づいたけれど、お十夜は、あえて助勢を呼ぼうとは思わない。
 十年以上、日蔭干しになっている死にぞこない、そぼろ助広で一突きに抉(えぐ)るくらいはなんの造作もないこと。そう思っている。
 しかし暗い、どんな得物を持って、どう構えているか見当がつかない。窮鼠(きゅうそ)猫(ねこ)を噛むということも一応思ってみる必要がある。ちょっと暗闇に眸(ひとみ)が馴れてこないうちは迂濶(うかつ)に飛びかかれぬ気もした。
 すると不意に、岩壁の窪(くぼ)みへじっとしたまま、目無魚(めなしうお)のごとく動かずにいた甲賀世阿弥が、
「おおう! ……」と、不意に、太い息をもらして、さらにまた低く、
「オウ……」と驚いたような声を繰り返した。
 この暗所に棲(す)みなれている世阿弥の眸は、自然生理的に、闇の中でも見とおしが利(き)く筈だが、お十夜には、皆目、対手(あいて)の見当がつかない。ただ、爛(らん)と射る双(ふた)つの眼を感じるばかりだ。
「狂いだすな、こいつア。よし、そのほうが始末がいい」と、かれは世阿弥が呻(うめ)いたのを、恐怖のあまりだと思って、爪を立って来る猛獣を待つくらいな覚悟をもった。
 だが、相手は身ゆるぎもしないで、
「そこへまいったのは、川島郷(ごう)に棲(す)んでいた原士、関屋孫兵衛に相違ないと思うがどうだ」
 といった。
「あっ……」孫兵衛は、ズバリと気構えを割られて、思わず、見えぬ闇にムダな目をみはった。
「世阿弥! てめえはどうしておれの氏素姓(うじすじょう)を知っているのか」
「知っておるとも、知っているわけがあるのだ! 孫兵衛、お前もよく思いだしてみるがいい」
「思いだせ……ウーム、不思議だなあ……何しろそちの面(つら)がまるで見えない」
「もう一昔も以前のことだから、こっちの顔が見えたにしろ、或いは思いだされまい。わしも、わしを殺しに来た人間の前で、そんなことを思い浮かぶ筈はなかったが、フトお前の頭巾を見て思いだされた、その、じゅうや頭巾を見て」
「な……なンだって……」
 頭巾といわれて、孫兵衛の声は意気地なくみだれてきた。
 外の光線で見たなら、面貌(めんぼう)まッ蒼(さお)に変っていたかもしれぬ。
 世阿弥には、ありありとその態(さま)が見て取れた。
「因縁だな……」
 かれはこう嘆じた。
「お前がおれを殺しに来る……まさか川島にいたあの孫兵衛が、わしを殺しに来ようとは……、ウウム面白い、冷(ひや)やかに生死を超えて人の世の流転を観じれば、おれがお前に殺されるのも面白い」
「とすると、てめえはこの山牢へ捕まってくる前に、川島の村にも忍んでいたことがあるんだな」
「川島の郷(さと)はおろか、阿波の要所、探り廻らぬところはない。まだ誰に話したこともないが、徳島城の殿中にまで、わしの足跡が印(しる)してある。そして、一番永く身を隠していた家が、孫兵衛、お前とお前の母親とがふたり暮(ぐ)らしで棲んでいた川島の丘のお前の屋敷だ」
「えっ! お、おれの元の屋敷にいたッて?」
「しかし、そうはいっても、隠密の甲賀世阿弥を、みつめていたでは、いつまで、考えだされる筈がない。十一年前、わしは阿波へ入り込むと同時に、すぐに畳屋(たたみや)に化けていたよ、紺の股引(ももひき)にお城半纏(しろばんてん)を着て、畳針のおかげで御普請(ごふしん)を幸いに、本丸にまで入り込んだものじゃ。そして、いたる所を畳屋の職人で歩いた末に、川島の郷(さと)で、元のお前の屋敷の畳代えにも雇われて行った」
「はて? ……」孫兵衛には、まだ何を話されているのか思い当らない。ただしきりと気になるのは、世阿弥が頭巾の秘密を知っているらしい口ぶりである。

 世阿弥は覚悟をしていた。死に直面しつつ話すのである。その態度は、姿に見えなくても、語韻(ごいん)に感じるので、お十夜も、殺すべく握っていた大刀を忘れかけた。
「――原士の屋敷はすべてだが、お前の屋敷も旧家でかなり広かった。わしは畳代えの職人で、名前はかりに六蔵(ぞう)といっていた。あの奥の十八畳の部屋、十二畳の客間、六畳の茶の間、十畳の書院」
 孫兵衛は自分の旧屋敷の畳数を心でかぞえた。世阿弥のいうところ一畳の間違いもない。
「そして、玄関、女中部屋、仏間だな。話はその仏間から起こってくる。そこの古いお厨子(ずし)は青漆塗(せいしつぬ)りで玉虫貝(たまむしがい)の研(と)ぎ出しであったかと思う、その厨子の前へ、朝に夕に眉目(みめ)のいやしくない老婆が、合掌する、不思議はない、御先祖を拝むのだ。ところがそこから不思議が生れた、わしが、畳代えの手をかけた日に、敷きつめの工合をなおす響きから、お厨子のそばの柱がポンと口を開いた。ちょうど、平掌(ひらて)が楽に入るくらい、切り嵌(は)めになっている埋木(うめき)がとれて落ちたのだ」
「ウーム、分った」
「分ったろう」
「じゃてめえは、それが縁になって、半年ほど下男になっていたあの六蔵か」
「そうだ、お前の母親は、それからぜひ屋敷にいてくれという、わしも都合のいいことだ、隠密甲賀世阿弥は当分下男ということに早変りした。するとまもなくお前の母者人(ははじゃひと)が重病にかかった。うすうす事情を眺めていると、その当時、関屋孫兵衛というひとり息子、博奕(ばくち)は打つ、女色(にょしょく)にはふける、手のつけられない放埒(ほうらつ)に、それが病のもとらしかった」
 ガチャッと、何か金属性な音がしたので、世阿弥は突然言葉を切った。
 すでに最前、合歓(ねむ)の木の下で、鋭い鏃(やじり)にかすめられた時から、自分へも、俵(たわら)一八郎と同じ運命が訪れてきたなと直覚して、覚悟はきめているかれだったが、話し半ばに、剣の音を聞くと、やはりぎょっとして舌が吊(つ)りあがった。
 見ると――世阿弥の眼で見ると――お十夜は大刀をつかんでいる手をにわかに、バッタリと前へついたのであった。その鍔(つば)の音だった。
 で、言葉を次ごうとすると、先に、岩穴を出た一角が、
「お十夜、何をいたしているのだ!」ととば口から奥へ言った。井戸へどなったように、その声が、おそろしく大きく響く。
 孫兵衛はハッとして、大刀を持ちなおした。
 しかし、声に応じて世阿弥をすぐに突き殺す気は出なかった。
 今の話は、多分な好奇心もあり、後に、阿波守の耳へ伝えていい重要なこともあるが、何より、彼をたじろがせたのは、自分の母親のことを、世阿弥が話しかけているせいだ。
 あらゆる放埒(ほうらつ)、物盗り、辻斬りまでやって、なお恬然(てんぜん)たる悪行の甘さを夢みるお十夜だが、母を思う時、かれはもろい人間だった。不思議なくらい、その常識の一ツだけは、誰にも負けない善人孫兵衛であった。
 もっとも、悪党の常として、お十夜も、母親のことなどは、おくびにも口に出していったことはない。よその母親が手を曳(ひ)かれてゆくのを、後(うし)ろからバッサリ斬るくらいな無情さは平気で持ちあわす男であって、自分の女親(おんなおや)のこととなるとから意気地のない特殊な愛情の持主だ。
 が、孫兵衛は、身辺の者や悪行仲間(あくぎょうなかま)に、そんな微量(びりょう)な人情でもあることを気取られるのは、ひどく恥辱だと信じ、倶利伽羅紋々(くりからもんもん)の文身(いれずみ)に急所が一ヵ所彫り落ちているような考えで、努めてまる彫(ぼり)の悪人を気どっていた。
 後(あと)にも前(さき)にも、たった一度、何に感じてか、その彫落(ほりおと)しの気持を口に洩らしたというのが、木曾路へかかる旅籠(はたご)で、飯盛の女を買った晩、周馬と一角に向って、
「おれもさまざまな女に逢ったが、いつまでも好きな女は、やはり、おふくろという女ひとりだ」
 と、冗談まじりにいったくらいなもの。
 今度七、八年ぶりで阿波へ帰り、剣山へ来る途中、郷里の川島へ立ち寄ったかれが、こッそりと、屋敷裏の丸い墓石と逢ってきたことも、誰も知らない事実である。
 で、孫兵衛は、たじろいだ。
 世阿弥がまだ母親のことを何かいいそうなので、すぐに殺すのは惜しかった。
「おウ! 孫兵衛!」
 一角がまたどなっている。
「おらんと見たら早く出てこい、手分けをして探さねばならぬ」
「待て」と、孫兵衛も奥から胴間声で、「ちょっと横穴を見つけたから念のためにあらためている」
「そうか、さてはそこだな」
「オイ、待て、入ってくるな」
「なぜ」
「怖ろしく狭そうだ。それより、ここはおれ一人でいいから、ほかを探してくれ、いなかったらすぐに出てゆく」
「ウム、じゃ入念に頼むぞ」
「ぬかるものか! 周馬と三位卿は?」
「血眼でそこらをかき分けている」
 一角の立ち去った足音を聞いて、孫兵衛はふたたび暗闇の眼へ問いかけた。
「だが世阿弥! 初めにてめえは、おれの頭巾を見て思い浮かんだといったが、こいつア腑(ふ)に落ちねえ。隠密から畳屋、畳屋から下男と、三段に化けてあの当時すましていた者にしろ、おれの頭巾の曰(いわ)くを知っているはずはねえんだが」

 世阿弥の眼と孫兵衛の影が向い合って、洞窟の奥の不思議な暗闇問答は、それからであった。
「わしがお前の頭巾の秘密を知らないと思っているのか」
 と世阿弥がいった。するとお十夜も、ふと、
「あの晩は、おれとおふくろ、あとは身寄りだけだった」と古い記憶をよび起こした。
「いかにも、わしは使いに出されていた、吉野川を越えて向う地へ」
「その間に……」とお十夜はゴックと唾(つば)を飲む音を重苦しくさせて、「おれのおふくろは息を引き取ったのだ」
「世間の者は、不審とも気づかなかったろうが、わしには読めた。なみの下男なら知らぬこと、かりにも大内府直遣(だいないふちょっけん)の隠密、しかも棲み込んでいる家の中の出来事だ。その夜以来、孫兵衛、いつのまにかお前のその十夜頭巾が脱(と)れないものになっていたな」
「おう、ではあの時、使いに出て行った後のことを?」
「いかにも、残らず見届けていた。お前の母が危篤というと、すぐに七人の肉親ばかりが集まった。そこは例の厨子(ずし)のある仏間、出入りに錠(じょう)をおろしあたりを見張り、そして、静かにお前の母の枕元をとり巻いた。……と、あの柱だな。切(き)り嵌(は)めにして妙なものを埋め込んであるあの柱だ。それより前に、わしが畳を敷き代えた日に、埋木(うめき)の口が落ちた途端には、何か、燦然(さんぜん)としたものを見たが、お前の母親が茶の間から飛んできて、妙にあわてて隠したものだ。その柱へ、臨終にのぞんでいるお前の病母は、枕へ頭(つむり)をのせたまま、弱い眸(ひとみ)を向けたようだ。そうして、あれを……という意味を見せると、寂(じゃく)としていた七人の中から、ひとりが立ってうやうやしく埋木をはずし……」
「ウーム……」
 と、孫兵衛、頭の鉢をしんしんと締めつけられるように呻(うめ)いて、
「もういい! 話は止めろ」
 突然、対手(あいて)の声を打ち消した。
「世阿弥、おれはてめえを殺さなけれやならない。分っているだろうな」
「うむ」自若(じじゃく)として、
「この春、俵一八郎が殺(や)られているから、わしにもやがてやってくるだろうと思っていたところ、観念はしている。だがの、孫兵衛、もう少し話してもいいじゃないか」
「つまらねえ」
「いや、愉悦(ゆえつ)だ、わしは話したい」
「おれはてめえを殺そうとしているのだ。殺されるこの孫兵衛と話をするのが、愉悦だというばかはあるめえ」
「この身を殺す敵でも悪人でも、こうして、世間の人間と口をきくのはわしにとると言いようのない珍しさだからな、まアゆるしてくれ、そこで今の話だが……」と、世阿弥は低い声音(こわね)で、平調な言葉を自然につづける。
「――臨終の間際に、あれをと、お前の母親が、柱の隠し穴から取りださせたものを、細い蝋細工(ろうざいく)みたいな手にふるえながら持った。白蛇(はくじゃ)の喉(のど)をおさえるようにつかんでいた。そうして、しばらく口のうちで、経文のようなことを唱(とな)えていた」
「で、世阿弥、それをてめえは、いったいどこで見ていたのだ」
「――使いに出ると見せかけて、わしは天井裏に潜(ひそ)んでいた、甲賀流の忍法、塵(ちり)も落しはしない筈だ。そこで息を殺していると、病人の指の間に小蛇の首みたいな形のものが、弱い灯明(あかり)にもさんらんとしている。と七人の肉親の者たち、みんなシーンと後ずさりをし、顔を上げる者はなかった。ああいう時には原士という者も、みな怖ろしく森厳だ、儀礼みだれず古武士のよう、ことにその晩の七人は、川島郷(ごう)の原士の中でも、また特別な密盟組(みつめいぐみ)らしい、切ッても切れない因縁の仲間だ」
「やめろ、どこまで聞いてもくだらねえ、もうそんな思い出話なんざア聞きたくもない」
「わしにも、少し謎が残っている、まあ今しばらく聞くがいい」
「止めろというのに、くどい奴だ! サ、殺(ばら)しにかかるぞ」
「耳に飽(あ)きたらその時に、黙って、突くとも斬るともするがよい。世阿弥はここにかがまったきり、とても、逃げる体力はないのだから。――でお前の母親だ、その時、絶え絶えな息づかいで、お前に涙ぐましい意見をいったな、後生(ごしょう)だと、わが子に手を合せて、改心を迫ったな。だのに孫兵衛、そちは邪悪の権化(ごんげ)のように、一生悪事はやめられぬと答えた」
「当りめえだ、死んでゆくお袋に嘘がいえるか」
「それはいい、悪党の率直もいいが」
「チッ!」と、舌打ちして「おふくろの幽霊みたいに、おれにいったい何を説(と)こうっていうんだ」
「十夜頭巾――」
 と、世阿弥は暗黒の中で笑った。
「頭巾の悩みとでも申そうか」

 孫兵衛は口をつぐんだ。
 暗闇の中の二ツの目はジイと白く真向きにすわったまま、
「――お前が改心はできぬといいきると、お前の母、死にきれぬ悶(もだ)えを見せ、サメザメと泣いて、孫兵衛よと呼んだ。孫兵衛よとまた呼んだ。お前は立たない、あの時の女親は怖かったのであろう、で、病人は三度目に、お祖父様(じいさま)、どうぞ、孫兵衛をこれへ、と側にいる老人へ眼で哀願した。名は知らぬが白髯(はくぜん)の老武士、あとで聞けば、川島郷の原士の長(おさ)で、ひとたび、その老人に、あいつと杖を向けられた者は、たとえ、どう他国へ逃げ隠れしても、必ず手を廻して殺されるという、怖ろしい支権者(しけんしゃ)であるそうな」
 高木龍耳軒(たかぎりゅうじけん)のことをいうのだなと孫兵衛には分った。
 それや龍耳(りゅうじ)老人は怖ろしいにきまっている。原士の長(おさ)はあの人だから治まっているといわれているくらいなものだ。仲間の脱走者で、長崎の果てまで逃げたやつがあるが、老人はいながらにして、その男の首を見た。
 孫兵衛も故あって、他国へ出ていても、絶えず龍耳(りゅうじ)老人の監視をうけている身だから、すぐに頭脳(あたま)へピーンときた。
 世阿弥はまた話しつづける。
「お祖父(じい)様と病人が頼むと、その老人が、黙ってお前の襟がみをつかみスルスルと母親の枕元へ引きずってきた。と――お前の母の細い腕は、お前の首を強く巻いて、夜具の下へ押しつけた。その片手には、柱の隠し穴から取り出したさんらんたるものをつかんでいる。アッ、お前は悲鳴をあげて四肢(し)を突っ張る、同時に母は息をひきとりそうになった。ぎょッとしたが、周囲の者も、見ているよりほかなかったらしい、白い蒲団(ふとん)は血で染まった」
 しばらく言葉を切っていたが、孫兵衛は、刻一刻と、世阿弥を突く機を逃がしていた。
「――まさに絶えなんとする息の下で、お前の母は、原士の長(おさ)の老武士へ頼んだ。――孫兵衛が改心するまで月代(さかやき)をのばすことはなりませぬ。孫兵衛めに私のお祈りが要らなくなるまで、遺物(かたみ)に与えた頭(つむり)のものをとることもなりませぬ。この遺言を破った時は、お祖父(じい)様、川島郷七族のため、どうか、お情けに孫兵衛を殺してやって下さいませ。でなければ一生このまま日蔭者にしてやっておいて下さいませ。子が可愛いからです。ほかの七人方も、お頼みいたします。こういって最期の眼を閉じた」
「…………」はッ、はッ、と、聞こえるような息をついて孫兵衛は無言。
「と――原士の長(おさ)、七人の肉親たちとともにしばらく黙祷(もくとう)をささげ、死者の前で厳然とお前にいい渡した。孫兵衛聞けよ、その与えられた恩愛の秘密をみずからやぶる時は、貴様、たとえどこに逃亡潜伏しても、必ず、五十日の間に命を奪(と)るぞよ! と……」
 ふと、落涙していたらしかったが、お十夜孫兵衛、いきなり猛然と、大刀の鍔(つば)ぶるいをさせて世阿弥の胸もとへ跳びかかった。
「ええ、果てしがねえ! ぐずぐずしちゃいられねえんだ、片づけるから覚悟をしろ」
「待て、もう一言(こと)」
「ちッ、未練を吐(ぬ)かすな」
「隠密根性といおうか、ここで、最期に一目見せて貰いたいものがある。わしも甲賀世阿弥だ、なんでこの期(ご)に見苦しい死にざまを望むものか。実をいうと、わしはその晩の有様を覗いた後から、お前のかぶり初(そ)めた十夜頭巾の下に、おそろしい興味と執着を持った、隠密の執着だ。得心のゆくまで見届けなければ気がすまぬ。しかも、頭巾にくるまれたお前の秘密は、やはり一つの阿波の秘密だ。江戸城へはいい土産(みやげ)、それをつかんだなら阿波から足を抜こうと、一念に、お前の頭巾の中を狙っていた。と、お前は放埒(ほうらつ)に荒(すさ)んだ揚句、阿波を出奔(しゅっぽん)して行方をくらまし、わしは、原士の長(おさ)に見破られて、とうとう、この剣山へ捕われの身となってしまった。よくよくの因縁だ。そのお前が今日はわしの痩せ首を斬りにきた。で、古いことを思いだしたのじゃ……。しかし今、死の間際に、頼んであの時の秘密を見せて貰ったところで、何の役にも立ちはしないが、わしが捕われの原因となった物だけに、山牢へきた後も、自分の眼が誤っていたか正しかったか、始終気になっていたところ、人にはわからぬ隠密煩悩(ぼんのう)、死際(しにぎわ)の欲望に、ありありと、手にのせて見て死にたい。孫兵衛、わしのいおうとする中心はここだ、ひと目でいい、見せてくれ」
「な、何をだ?」
「その頭巾の下に隠されているものを」
「ばかなことを吐(ぬ)かせッ」
「嫌か」
「当たりめえだ!」
「じゃあ、話はそれまでのこと。殺(や)るか、いよいよ」
「おウ、催促がなくっても殺してやる」
 伸びた猿臂(えんぴ)――
 ムズと、甲賀世阿弥の襟もとをつかみ、右手(めて)の大刀をギラリと後ろへひいた。
 その刹那だった。
 突然、洞窟の口元にあたって、天堂一角がただならぬ絶叫と共に、地ひびきをさせてぶっ仆れ、山つなみでも来たように――。
「お十夜ッ、早く手を貸せ、一大事だ! 三位卿があぶない、周馬もッ」
「やッ、ど、どうしたって※(感嘆符疑問符、1-8-78)」
「助剣(じょけん)しろ、早く! 法月弦之丞とお綱が来たッ――、法月ッ――うう……ム」
 と、乱脈な声がすれ、すでに、そういう一角が、どこかへ一太刀浴びせつけられているらしかった。

 ふた声ほど絶叫して、天堂一角は岩牢の外へ仆れてしまった。
 孫兵衛は足もとの大地がめりこむような響きにうたれた。かれの眼は頭巾の蔭にあわてきった輝きをうごかせた。そうして、思わずつかんでいた者の襟もとを離して、
「くそうッ! 弦之丞などに」
 と、洞窟の奥から走り出ようとしたが、また思いなおして、どうせのこと、世阿弥を殺してから行こうと、戻りかけると、世阿弥は発作的に、突然、居どころから飛びあがった。
 とがった肩骨がかれの胸を打った。上へ刀を振りかぶれる空間があれば、据物斬(すえものぎ)り、ただ一揮(ふり)に割りつけること、孫兵衛の手になんの苦もないことだろうが、見当のつかない暗闇。
 胸もとへぶつかったのを幸いに、孫兵衛は世阿弥の細いのど首を左の腕へすくい込んだ。締めつけて脾腹(ひばら)をひと突きに――と思ったが、そうたやすくもゆかなかった。
 甘んじて死をうけるようであった甲賀世阿弥は、今の一瞬に、もの狂わしく変って、
「わしは死なぬ! わしはまだ死なぬ!」
 とない力をふりしぼり、孫兵衛の腕から逃(のが)れようともがいた。
「じたばたするなッ」
「むむむッ、一刻(とき)ちがいッ……」
 滅前(めつぜん)の一燦(さん)、おそろしい念力(ねんりき)で対手(あいて)の腕くびへ歯を立てる。
 白い刃は、世阿弥のわき腹に当てがわれていた。
 かれの前歯が孫兵衛の肉へ入ってゆく力は、同時に抱かされた刃を食い入れる力となった。孫兵衛は腕くびの痛みをこらえつつしばらくソッとしておいた。
 サーッと早い血汐が裾へ行った。
「よかろう」
 と、孫兵衛は思った。
 強く刀をしごいて、平手で世阿弥の顔を押すと、闇の中へドシンと音をさせて、仰むけになった目と歯が白い。
 グウッと、一度腹をつきあげた傷負(ておい)は、
「一刻(とき)ちがいッ……」
 とまたいった。
 そうして、ビク、ビク、と大動脈から息を吐き出すように痙攣(けいれん)する。
「とどめを」
 と思って孫兵衛が探りかけると、ふたたび洞窟の外で、お十夜、お十夜ッ、と三位卿と周馬の声が響いて、あわただしい足音の重なってくるのを感じ、かれの手も心もますますうろたえたらしく、そのまま豹(ひょう)のごとく洞窟の外へ向って駈けだしてきた。
 頭の上から、明るい光線を浴びた途端に、孫兵衛はやわらかいものを蹴って、もんどりを打ちそうによろけた。
 蹴ころがされて、ウムと呻(うめ)きながら立ち上がったのは、口元に昏倒(こんとう)していた一角で、正気づいたが深傷(ふかで)を負っている、左の肩先から袖半身、染めわけたような紅(くれない)である。
 それにもぎょッとしたが。
 外の有様を眺めるとともに、孫兵衛には天堂などを顧(かえり)みている余裕もなかった。法月弦之丞がそこから見下ろされる傾斜に立って、周馬と三位卿を対手(あいて)に斬りむすんでいる!
 月山流(がっさんりゅう)とやら薙刀(なぎなた)の型はやるが、初めて、白刃対白刃の境に立った三位卿はしどろもどろだ。周馬とて腕にかけてはまことに頼りがうすい。いわんや、法月弦之丞の前に立ってをや。
 ふたりは、何か高声をあげあっているが、弦之丞の剣前に近づくことはなしえないで、走れば追い、追われれば逃げ、そして、息の間に、お十夜お十夜ッ、としきりに助けを呼びつづけている。
 なおかなたの柵(さく)と山際(やまぎわ)との境を越えて、ここへあせってくる武士の姿が見えた。
 弦之丞とお綱とを追跡して、からくも駈けつけてきた海部(かいふ)と徳島の役人、浅間、岡村、田宮の三同心。
 その急なるを知り、またからまる二人をあしらいつつ、弦之丞は隙あるごとに、お綱へ向って叫びを投げた。しきりと手を振って急(せ)きたてた。
「お綱ッ」
「あい」
 お綱もかれに添って働いていた。
「ここはかまわぬ、山牢の安否を!」
「あい」
「早くゆけ! 世阿弥殿と名乗りをしてこい」
 お綱は夢中で側を離れた。
 洞窟の黒い口がもう真上に!
 三、四十間ぐらいの距離しかない!
 新藤五の柄(つか)を固く右の手に、片手で草の根をつかみながら、上へ上へ、洞窟の口へと、かの女(じょ)は汗と涙の力をつづけた。

 いちど立ち上がった天堂一角は、また合歓(ねむ)の木の下へ仆れてしまった。何か声をかけたが、お十夜は返辞も与えないで洞窟の前から駈け下りている。
 ドドドッと傾斜な地面を下りかけると、互いちがいに、向うの灌木(かんぼく)の間をかき分けて、懸命に登ってゆく白い影がある。
「や?」
 と、急にそっちへ駈けだしてみると、振り向きもせず洞窟へ向って行くのは、白い手甲(てっこう)脚絆(きゃはん)をまとったお綱であった。
「おうッ、お綱」
 お綱はその声をすら顧みていなかった。必死に上へあえいでいた。
 孫兵衛は幾百里の山河を越え、今ここまで会いにきたかの女の父世阿弥の血を塗ったばかりの刃(やいば)を持って、お綱のうしろへ追いかかった。かれは阿波へ来る前まで、ふたりの仲がどれほど密(みつ)に深いものかを思ってみて、寝苦しい夜があった。その後、あの暴風雨(あらし)の夜の狂瀾(きょうらん)に、死んだものとのみ信じた後はさすがに煩悩(ぼんのう)の霧が散ってせいせいとした気もちであったので、今、お綱の姿を見ても、得ようとする念はなかった、殺意のほうが強かった。遂げえぬ悪魔の恋は、必然な、破れかぶれに変ったのである。殺刀(さっとう)の下(もと)に魂切(たまぎ)らすことによって、永い間の鬱怨(うつえん)を思い知らせてやろうとする。
 追いつくと一緒に、孫兵衛、
「そこへはやらねえ」
 と、背すじへのぞんで、助広の白光(はっこう)を一揮(ふ)りなぎつけたが、崖に等しい傾斜であり、灌木の小枝に邪魔されて、行き方少し軽かったか、
「あッ」
 と、横ざまに走った小脇差、女の力ではね返された。
「孫兵衛だね!」
「急いだところでムダだろう、甲賀世阿弥はたった今おれが殺(ばら)してきたばかりだ。サ、次にはてめえの番」
「えーッ……じゃあ……」
 山の根も揺(ゆ)るいだかと思うほど、仰天(ぎょうてん)してよろめいた身を、お綱はあやうく手で支(ささ)えた。
「てめえにはまたさんざッぱらな怨(うら)みもある、なぶり斬りにしてやらなけれや、このお十夜の虫が納まらねえ。お綱、覚えていたろうな」
 かの女(じょ)が、何か叫んだ声を割って、サッと白い風がきた。上へと思ったが逃げきれず、後ろへかわした弾(はず)みにズズ――ッと七、八尺辷(すべ)り落ちる。
 孫兵衛の下りてくる足もとを、お綱は新藤五の切ッ尖(さき)で待った。上の顔は嘲笑(あざわら)って、構えをとりながら飛ぼうとする。
 途端である。
「おのれッ!」と耳もとで。
 はッと見ると、法月弦之丞、浅間、岡村の同心と、周馬、有村の四人を上へ上へとおびきよせて、それを捨てるが早いか、お十夜の方へ疾風(しっぷう)に来た。
 迎えざるを得なかった。孫兵衛はすばしこく刀を持ちかえた。これは四人を束(たば)にしたよりもこたえがある。
 すでに、ここまで一同が吊り上げられてくるうちに同心のひとり安井民右衛門が斬り伏せられていた。それと、最も頼むべき天堂一角が弦之丞の姿を見つけた真ッ先に、機先を制せられて一太刀浴びてしまったのは、なんといってもはなはだしい力を失していた。頼むは孫兵衛だけといってもよい。
 弦之丞はたえずお綱を見ていた。四人を対手(あいて)にしつつ、かの女の身辺を開くように開くようにと防いでいた。
「あッ、間者牢へ」
 お綱がそれに力を得て、洞窟の入口へ近づいたのを見た同心の浅間丈太郎は、こういって敵の剣前(けんぜん)を離れ、上へ這おうとすると、飛び寄った弦之丞の皎刀(こうとう)が、鋭く足をすくった。
 丈太郎の体は雑木の茂っている所まで、一気に、俵のようにころげて行った。
「寄りつくものは一太刀(ひとたち)に薙(な)ぐぞ」
 徐々と力の練りだされてきた弦之丞は、丈太郎を斬り落した弾力で、さらに上へ踏み登った。
 お綱はその後ろを風のようにすりぬけて、洞窟の中へ夢中で走りこんだ。
 孫兵衛がああは言ったが、なお半信半疑であった。殺(ばら)したぞといったことは、むしろ父がまだ生きている実証のようにさえ思えて、冥府(よみ)のような冷たい闇へ飛びこむと一緒に、
「お父様――ッ」
 と、叫ばんとした。
 けれど、なぜか、幾百里をあえぎあえぎきて、この山牢まで達してみると、父娘(おやこ)名乗りをしないうちに、父とは呼びかけ難い気がして、のどをつまらせながら、
「――江戸からお綱がまいりました。甲賀世阿弥様(こうがよあみさま)! 甲賀世阿弥様!」
 と、固い言葉で、続けざまに呼び立てて入ったが、深い闇は冷々(れいれい)となんの答えも与えない。奥のほうからガアーンと返ってくるのは、おのれの口真似(まね)をする穴山彦(あなやまびこ)。

 ふいに、お綱の足のくるぶしをつかんだ手がある。
 洞窟の一番奥であった。
 はッと、よろめいた弾(はず)みに、ヌラリとした岩苔(いわごけ)に手を辷(すべ)らせて、
「よ、世阿弥様※(感嘆符疑問符、1-8-78)」
 何がなし、ぞっと毛穴をよだたせて、つかまれた足を抜こうとすると、だらりと重い感じがそのままついてもち上がる。
 と。
「ううウ……」
 人の呻(うめ)きだ、弱い、苦しそうな息……。
 お綱は血を騒がせながら足元を探った――手ざわり? ――一個の人体? ――が、硬(こわ)く横になっている。
 わなわなした指先が、その冷たい顔から胸を撫でて行った。
 骨ばった老人の四肢(し)、誰? と疑ってみるまでもなくお綱はつづけざまに名を呼んで、腕の中へ抱きあげた。
 夢中で、よろばうように、洞窟を後へ戻りだした。だが、口元の明りを見ると同時に、ギクと足をすくませてしまった。
「敵(かたき)は?」
 外へ気を研(と)ぎすまして、
「弦之丞様?」
 と、そこの激しい乱刃(らんじん)を想像した。
 ままよ!
 必死な気もちでお綱は新藤五を構えながら、薄暮(はくぼ)の白い明り目がけて走りだした! と、その勢いの余りに鋭く、まッしぐらな姿は世阿弥の体と縒(よ)れて、合歓(ねむ)の木の根元まで泳いで仆れた。
 あたりを見廻すと――いつのまにか、別の所のように変っている。
 いちめんな霧だ。
 漠(ばく)として山も樹木も見えない、ただ西の方に夕照(ゆうでり)の光だけがボッと虹色を立てている。
 微小な水粒(みずつぶ)は、睫毛(まつげ)の先にギヤマンの玉のように光って、息づまるような乳色の気流がムクムクとゆるい運動を描いてゆく。
 どうしたろうか? 弦之丞、そのほかの者の影も見当らない。耳をすましたが、霧の中にも、それらしい叫びを聞かない。
 お綱は身を起こすと一緒に、世阿弥の顔をむさぼるように見つめた。
 世阿弥は目を開いていた。
 深傷(ふかで)だ、眸(ひとみ)は虚空(こくう)にすわってうごかない、だが、何か言いたそうに、唇がかすかに歪(ゆが)む……。
 お綱は、お十夜の一言を思いだした。そして、さすがに取り乱した。
「お綱です! お綱でございますよ! 分って下さい、気を……気をたしかにして下さい」
 アア、と心をくじきかけては、また、
「お父さん!」
 と、耳へ口をふるわせて、
「お綱ですよ――ッ」
 涙まじりの金切(かなき)り声になった。
「ウーッ……」と少し通じたらしい。世阿弥の手が、目の先の白い霧をつかむようにした。
「お……」
「分りますか! 分りますか」
「…………」
「お父さんッ」
「…………」
 ゴクリと喉(のど)の骨がうごいた。と、少し楽な呼吸がふッと洩れて、ニイとお綱を見て笑った。
「あなたの子のお綱です、江戸表から……あ、逢いにきました」
「ウ……ム」
「お千絵さんも、私のように、無事に向うで成人しております。お分りになりますか、わ、わたしの顔が……わたしの……」
 世阿弥はひとつうなずいた。
 そして、ふところから例の血筆(けっぴつ)の一帖(じょう)をとりだして、お綱の手へ持たせて、
「こ、これを」
 とかすかにいった。
「え」
「江戸へ」
「ア……御遺書(ごゆいしょ)?」
「弦之丞の手へな」
「わかりました」
「と……」
「ハイ」
 ぼろぼろと湯玉(ゆだま)のような涙が走る。お綱は拭こうともしないで、
「ハ、ハイ……」と声を曇らせた。
「折があったら……関屋孫兵衛の」
「オ、下手人、きっと、仇を討たずにはおきません」
「いや……」
 違っている!
 と、いうように、世阿弥はかぶりを振ったが、その途端が――もう最期だった。
「ず……頭巾の……」
 と舌を巻くように言ったきり。
「あっ、お父さん」
「…………」
 水!
 お綱は夢中で駈け下りた。
 白い片袖に、流れの水を濡らして帰ってみると、もうまるで世阿弥の顔が変っていた。けれど、その死顔は満足していた。
 だが、禍(わざわ)いはまだあった。
 今、水をしめしに行った留守に、世阿弥のそばへおいた大事な秘帖(ひじょう)が、わずかな間に失(な)くなっていた。

 麓(ふもと)から仰げば、山の中腹を、一朶(だ)の白雲が通っているのであろう。
 その霧が過ぎぬうちは山牢の前から遠くを見渡すことはできないが、ふと気づくと、さして隔(へだ)ててもいない岩の間を、ひとりの男が這ってゆく。
 そこに見えなくなった秘帖を、涙の目で探していたお綱は、霧をとおして怪しい男の影を認め、
「盗んで行ったな!」
 と直覚した。
 急いで、父の亡骸(なきがら)を洞窟の内へ隠し、向うへ這ってゆく男をつけた。
 駆けるかと思いのほか、男は、振り向いても、なお、這っていた。奄々(えんえん)とした息で――。
 近づいてみると、屈強(くっきょう)な武士、しかし、肩にどっぷり朱(あけ)をにじませている。
 最前、お十夜が走りだした時、足にかけられて、草の根に呻(うめ)いていた天堂一角だった。かれには、深傷(ふかで)ながら、まだ這うだけの気力と意識があった。
 一角は、今の隙に、世阿弥のそばから血筆の秘帖をつかみとり、はッ、はッ、と荒い息づかいで這いだした。
 同じように這いかがみ、足音をぬすんで、お綱は後ろへ寄っていった。
 おのれ、おのれ、おのれ。
 心のうちで叫びながら、一太刀にと狙い廻した。
 一角は熊のように、岩から岩の上へ攀(よ)じてゆく。三位卿はどうしたろう? 周馬はどうしたろう? 声をあげて呼ぶ力はなし、霧は深い。
 颯(さ)ッ――と不意。
 風をつらぬいた白い条(すじ)が、一角の後頭部へ消え込んだ。
 お綱が斬っていった新藤(しんとう)五!
 はずれても肩――或いは背すじへ切(き)ッ尖(さき)下(さ)がり。
 と思うと。
 ズンと、刀だけ、岩へ深く、斜めに立ってしまった。
 肩越しに腕をつかまれ、お綱は一角の前へ投げられている。どっちも死身(しにみ)、組むなり火のような息を争って、秘帖を奪(と)り返そうとする! 渡すまいとする! 組んではもつれ、伏せられては突っぱねる、一方は女、一方は傷負(ておい)、天堂勇(ゆう)なりといえどもなにしろ前からの痛手がある。お綱は江戸女の勝気とはいえ、やはり女だけの力である、力量公平に減殺(げんさい)されているのでいずれともいえない、秘帖を中心に双鶏羽毛(そうけいうもう)を飛ばすありさまだ。
      *     *     *
 めったにないことだ。
 原士(はらし)の長(おさ)龍耳(りゅうじ)老人が出かけるなんて稀有(けう)なことだ。
 第一、吉野川の上流平和な地域にそんな事件がかつてないせいもあったろうが、なにしろ、龍耳(りゅうじ)老人が出張(でば)ってくるなんてまことに珍らしい。
 ごう――ッと空が鳴っていた。
 夕方、真っ白に隠された剣山は、夜になって、すッかり霽(は)れていた。
「秋が近いな」
 空の銀河を仰いで、老人は白い髯(ひげ)の先をかじっている。
「山へ入ると秋の音が聞こえるよ」
 誰も返辞のしてがない。
 老人の前には松明(たいまつ)が二本、うしろには人影が四、五、黙々とついて歩いてくる。剣山の山路である。今日の夕方のすさまじい光景が目に残っている。そしてまだ、法月弦之丞が捕われていない。
 あの死をきわめた颯爽(さっそう)たる白衣(びゃくえ)の影が、いつ檜(ひのき)の蔭から、閃刃(せんじん)とともにおどり出さない限りもない。
 老人のほかの者には、秋の音も銀河の壮麗もない様子、ザワというたびごとに、足の関節がはずれそうになる。
 その中に伍(ご)してきた、お十夜と旅川周馬さえ、龍耳老人の案内としてついているのだが、眼底に異様な緊張をただよわせ、まるで、仮面(めん)のように顔の筋をこわばらせていた。

「やあ、これは」
 と龍耳(りゅうじ)老人、杖を指してうしろの者へ、
「つまずくなよ、またここにも一人斬(や)られている」
「は。明りを」
 松明(たいまつ)を呼び返して、供の原士が、死体を抱いてズルズルと後戻りに、道のわきへ片寄せ、
「今の男は、木戸へ変事を報(し)らせに来た、目明しの眼(がん)八という者です」
 と歩きながら告げた。
「目明しか」
 杖をコツコツ運ばせながら、
「どうも十手を持った者で、終りのよかったのはすくないようだな」
「ああ、また斬(や)られています」
 と、松明が止まる。
「これで四、五人目だな、もう片づけるのは明日(あした)にしよう」と死骸を廻って歩きかけたが、ちょっと小腰をかがめて、
「ウーム、なかなか立派に斬(や)られている」
 首を振ってテクテク登りだした。
 山は追々(おいおい)深くなる。しかし、龍耳(りゅうじ)老人、壮者(そうしゃ)にまけない足どりで、何かぶつぶつ言っていた。
「――法月弦之丞(のりづきげんのじょう)とやら、たとえ夕雲(せきうん)の使い手にしろまさか天魔神(てんまじん)でもあるまいに、遠巻きにするの山狩のと、いやはや仰山(ぎょうさん)千万だ。その上、この老人をわずらわすなどとはお話にならない沙汰……まあまあこんな事件は、蜂須賀家の御記録にも態(てい)よく省(はぶ)いておくことだな」
 耳が痛いのは孫兵衛だ。
 周馬は黙ってついて歩いた。昼の元気もどこへか、少しも意気があがらない。
 ――洞窟の前で、弦之丞を取りかこんだ時、三位卿と周馬がもう少し腰を入れこめば、自分の力でも、きっとどうにかしたものを。と、お十夜は、今もそのいまいましさが胸に消えない。
 眼八が、ワッと原士をすぐってきた時には、もうどうにも手がつけられなかった。
 霧が来たのも悪かった。
 弦之丞はそれに乗じて、存分に行動した。眼八も斬(や)られ、原士の中にも沢山な傷負(ておい)が出た。霧がはれた頃には、夜になって、姿を探すよすがもない。
 こうなると、地理は彼に利で衆には不利。ひとまず山番小屋の評議となり、異論まちまちという所へ、ひょっこり来あわせた龍耳(りゅうじ)老人が、耳を掘りながら聞いていて、
「これよ、若いの、剣山は渭城(いじょう)のお庭より少し広いぜ」
 と笑った。
 山狩評議を諷(ふう)したのである。
「どれ、おっくうだが行ってみてやろうか」
 深夜にかけて押し出した。
 といったところで、人数は六人、それも途中で返す約束の案内に過ぎない。ただし、三位卿は賢(かしこ)く同行をはずした。おそらく老人の前ではわがままがふるまえぬからであろう。
「だいぶ来たな、ウム」
「倶利伽羅坂(くりからざか)でございます」
「ちょっとくたびれたよ。やはり、年は年だな」
「吾々でさえ、この通りな汗ですから」
「おいよ」
「はい」
「ご苦労だが後(うし)ろへ廻ってくれ」
「はっ」
「松明(たいまつ)はわしが持ってやる。腰を押せ、腰を」
 供の原士がうしろへ廻って老人の腰へ手を当てがう。高野(こうや)の尻押しの故智(こち)に習って、老人は楽そうに押されてゆく。
 そうして、山牢もだいぶ近づいてきた。ふと仰ぐと、削(けず)り立ったような絶壁が前にあった。
「おう、この上だな、間者牢は」
「さようで」
 と、孫兵衛が応じて――
「ここはちょうど、あの山の背にあたっています」
「どこかで水音が高くするな」
「しばらくゆくと流れがあり、それに沿って十町あまり登りつめます。するとやがて間者牢の柵(さく)が見えるはずで」
「そうか」と、老人は杖を止めた。
「――ご苦労だった、これから先はひとりでよろしい、お前たちは帰ってくれ」
「しかし、もう少々先まで」
「懸念(けねん)には及ばんよ」
「危ぶむわけではございませんが、お差しつかえなければ、せめて、弦之丞の姿を見つけるまでも」
「いや、かえって邪魔だよ」
 手を振って、独り先へ歩きだしたが、一、二丁足を進めるごとに、杖を立て、間者牢の山をふり仰いでいた。

 老人のうしろ影を見送って、旅川周馬は、
「なるほど剛腹(ごうふく)なおじいさんだ」
 と、舌をまいて、
「なあお十夜」
「ウム?」
「深夜しかもこの深岳(しんがく)だ、弦之丞のやつは山にこもって、血に狂したやぶれかぶれ、人と見たら盲目(もうもく)に斬りつけるだろう。とても、吾々にもあんな勇気はないよ」
「そうさ、困った老人だて……」
 何が困るのか、孫兵衛の返辞はすこし意味をちがえて、
「あの分じゃ、どうも当分は死にそうもねえ」
 と、頭巾の重さをふと気にしていた。
 そんなことをいって、ただひとり間者牢へのぼって行った影が、うすい夜霧にボケるまで、一同見送ってはいたが、誰も、
「あの老人が、血刀(ちがたな)を下げた白衣(びゃくえ)の影にパッタリ行き会ったらどうする気だろう?」
 とは心配をしていない。
 龍耳(りゅうじ)老人の胸には何か、しかとした方寸(ほうすん)がたたみこまれているものと信じて、少しも行く先に危惧(きぐ)を感じていないようであった。
「ここに待っていてもしかたがあるまい」
 龍耳老人の目を放れて、お十夜はすこしのンびりしたようなふうで、
「オイ周馬、三の木戸の番小屋まで行って、明方まで藁(わら)ぶとんでもかぶろうじゃねえか。どうせ今夜でなくても、袋の鼠、片づくにゃ決まっている弦之丞だ、麓口(ふもとぐち)さえ縫いこんでおけば、何もあわてることはない」
 松明(たいまつ)がとぼりきれたので、ふたりの原士は、スタスタ先へ下ってしまった。
 孫兵衛も踵(くびす)をめぐらして戻りかけたが、周馬の相槌(あいづち)がきこえないので、ひょいとふりかえってみると姿が見えない。
「おい、どこへいったんだ!」
 ――奴、先へいってしまったのかしら?
 気がついて、にわかに大股にあゆもうとすると突然、切ッ立てになった断崖の下で、
「孫兵衛! 孫兵衛!」
 と急(せ)きこんで呼ぶ声がする。
「おう、周馬? ――」
 ――闇をすかして、
「なにをしているんだ、そんな所で、先のやつは下ってしまったぜ」
「また、ここにも一ツ、死骸を見つけたのだ」
「ほうッておきねえ、どうせあした、麓のやつが片づけるだろう」
「だが……待てよ、少し……」
 半身埋まるような雑草の中に立って、重そうに死骸を抱きあげているらしい。
「……あっ、天堂だ、やっぱり天堂一角だぞ、この死骸は」
「そんな所で絶息していたか」
「オオ、来てみたまえ」
 かれが、弦之丞の第一刃をあびたのは知っていたが、日没、木戸へも集まらなかったので、どうしたのかと思っていた際だ。
 周馬とは江戸表以来、お十夜とは、ことに永い交際(つきあい)の仲。
 かれはよく周馬やお十夜の安価な女色漁(にょしょくあさ)りを軽蔑(けいべつ)して、討幕の挙(きょ)の成功を信じ、事なるにおよんでは、何万石を夢みていた小なる光秀(みつひで)みたいな男だった。
 悪友か善友かしらぬが、道中などでも、ふたりが痴話(ちわ)に更(ふ)けているまン中の部屋で、ひとり猪(ちょ)八戒(かい)みたいな寝相(ねぞう)をして、朝の鏡に目をこすり「わるい悪戯(いたずら)をしやあがる」と顔の墨汁(すみ)をあらい落して怒らぬところもあった男だ。
 まさか、捨ててはおけない。
「残念なことをした」
 と、孫兵衛も飛んでいった。
「もう氷のようだ……」
 悲壮な姿をして、周馬は、やっとのように死骸を前抱きにして、深い草むらを、ひと足ずつ跨(また)いでくる。
「この断崖から落ちたのだな……」
「高いな」
 と、周馬もふりあおいで、
「じゃ、合図があった時、傷手(いたで)ながら飛びおりて、麓(ふもと)へ下ろうと思ったのだろう」
「いや、自分で、こんな所から跳ぶはずはねえ。間者牢の山つづきだから、日が暮れて、うっかり辷(すべ)り落ちたにちがいない。……重いだろう、周馬」
「足がつかえて困る」
「よし、手を貸そう」と、孫兵衛は側へ寄って行ったが、あさましい姿をみると、衝(う)たれたように立ちすくんだ。
 周馬の抱き方がまずいので、乱(らん)びん蒼白の死者が、グタッと襟骨(えりぼね)を尖(とが)らせて垂れている。
 ひと言。
「オイ」と、声をかけてみたい気がした。
 額(ひたい)へ手を入れて、孫兵衛、グーと無理にもちあげてみると、目をねむって、青蝋(あおろう)のような冷たい死顔、頬と耳のうらあたりに、爪でひッ掻いたような赤い筋……。と見ると――
 口が裂けたように、白い前歯が何かくわえていた。
 一帖(じょう)の血書!
 いきなり、死首(しにくび)の歯から、孫兵衛がグッとそれを引ッたくったので、周馬は重さにのめりながら、すばやく、白眼(はくがん)にお十夜の手もとを見つけて、
「オイ! なんだ、今のはッ」
 と死骸を下へ捨ててしまった。

 一方。
 龍耳(りゅうじ)老人は達者な足どりで、まないた岩の辺まで登ってきた。
 なんたる寂寞(せきばく)さであろう、無辺な天地だろう。
 足もとの闇から黄泉(よみ)の府にまで続いているのではないかと思われる。群山すべて低く白い曳迷(えいめい)は雲である。
 仰ぐと。
 けむりのような銀河をかすめて、星がひとつ流れた。老人は歩をとめて、しばらく、草のそよぎを聞きわけている。
 じっと……
「? ……」
 行きくれた盲目(めくら)のように。
 ありとも思えぬくらいな微風が、老人の姿にあつまってヒラヒラする。白い髯(ひげ)――骨ぐみのすいてみえる麻の両袖。刀は、鎧(よろい)どおしのような短いのを一本、前ざしでなく、わざと横へ。
 ……てく、てくとまたいつか歩きだしていた。
「ここだな」
 間者牢(かんじゃろう)の柵(さく)わきへ来ると、例の奔流がドーッと耳をうった。山牢の穴も柵の中も見えない。見えないが老人は、そこで、夕陽時(ゆうひどき)の修羅のすごさを眼に描いた。
 かれは、夜もすがらここを歩こうとするのか。歩いて夜の明けるのを待とうとするのだろうか。
 かくて、一刻半(ときはん)ばかりも、その辺にたたずんでいた。
 何事もない。
 強(し)いて天地の変移をさがせば、霞(かすみ)のような星雲が消えて、特に大きな星がひとつ、西に目立っていたことである。
「はてな……?」
 ピタ、ピタ、と夜露をふむ自分の足音を聞きながら――
「ひょっとして、自刃したかな、所詮(しょせん)のがれぬことは分っておるからな……だが、いや、自害はしまい。よく侍というやつ、都合のいい潮時にいさぎよくという言葉で、結尾(けつび)の責任をのがれるものだが、自身で命を絶つような弱腰では、最初から、ここへ入ってくる資格がない」
 と……つぶやいていると、かれの行くてに、いつか、薄いふたつの人影がうごいてくる。
 はッ……と思うと、向うも足を止め、老人も歩みを止めた。ザザザザと茅(かや)をなでてくる風が、うしろから押すように吹いて通った。
 しばらく、うかがいあっているうちに、ふたつの影のうち、ひとりは忽然(こつぜん)と、岩の蔭か草むらの中へでも隠れてしまったらしく、やがて、近づいて来た様子の者は、ひとりしか見えない。
 龍耳(りゅうじ)老人も、のそ、のそ、と前へ足を運びだした。そして、双方の間、二、三間(げん)まで寄りあった。
 で、星明りでも、互いにその姿を明瞭に認めえた筈である。
 ことに、先のものは白衣(びゃくえ)なので、いっそう老人にははっきりと輪廓(りんかく)が見てとれた。その上、白い袖の端や裾(すそ)に、点々と、血汐らしいものが滲(にじ)んで見え、白木(しらき)の杖をつかんでいる。
 法月弦之丞であろう!
 いち早く、弦之丞が隠したのはお綱という女にちがいない。
 こう胸のうちで、龍耳老人、うなずいていた。
 おれを何者と思っているだろう? どういう態度でかかってくるだろう。抜き打ちにくるか、突いてくるか? 老人はちょッとそんな興味を感じていたが、すぐにまた一歩前へ出て、
「弦之丞、腰をおろせ」
 と不意にいった。
 錆(さび)のある老声だが、ヒッソリした大気にひびいて、いかにも雷喝(らいかつ)したようだった。
 そしてすぐに、先で安心するように、自分から岩の上へ、ゆったりと腰をすえてみせた。
 しかし、弦之丞は立っていた。

 カチ、カチ、と燧鎌(ひがま)を磨(す)って、首をかがめこんでいた老人の耳の裏から、香りのある煙がゆるく這った。
「ちと、話がある」
 吸いつけたその煙草を斜(なな)めに持って――
「若者、まずそれへ、腰をおろしてはどうか」
 と木の根を指した。
 弦之丞は不審にたえぬように、
「何者?」
 と見つめている風であった。
 しかし、血に狂(きょう)しているだろうなどといった周馬や孫兵衛の臆測(おくそく)はあたっていない。
 老人の目にも案外なくらい、そこに立った弦之丞は冷静であった。むしろ、常のかれよりは沈鬱(ちんうつ)な影さえ持っていて、みじん、心のさし迫っている様子はなかった。
 ――あれから、日没頃のひどい霧がはれて夜に入った後。
 かれとお綱とは、前の洞窟で落ちあっていた。
 弦之丞はかの女の無事をまずよろこんだ。
 けれど、お綱はあの際、とうとう傷負(ておい)の一角に死にもの狂いに振りほどかれて、絶壁の岩角(いわかど)から、大事な秘帖(ひじょう)とともに、かれの姿も見失ってしまったので、悲嘆と絶望にくれて、世阿弥の亡骸(なきがら)にすがっていた。
 血筆(けっぴつ)の秘帖? 世阿弥の遺書?
「江戸へ」
 といったという、最期のさまを思いあわせてみても、それは必然に、大府(だいふ)へ届けよという、かれが鏤骨(るこつ)の隠密報告だな、ということは弦之丞にすぐうなずけた。
「心配はない」
 かれは、かれにすら自信のもてない言葉で、お綱を励まそうとした。
「一角が絶壁から転落したものとすれば、当然、骨をくだいて落命している。夜が明けたら、道を探って尋ねてみよう……」
 そうはいったが、暁天(ぎょうてん)の光を見たなら、麓(ふもと)から孫兵衛や有村が、原士の新手(あらて)をすぐって、ここへ襲(よ)せてくることは分っていた。
 といって――
 半生を無明(むみょう)の中に送って、不遇な生涯をとじた甲賀世阿弥の亡骸(なきがら)を、そのまま涙なく打ち捨てておく気にもなれない。暗澹(あんたん)たる洞窟、また悲惨ではあるが、隠密の霊壇(れいだん)としては、むしろ、香華(こうげ)の壇にまさるかもしれない。
 ふたりは、半夜の黙侍(もくじ)をした。そして、世阿弥の死骸を剣山の深くへ隠した。
「秘帖をさがし当てたとしても、それを携(たずさ)えて、どうして、この重囲を脱出することができるか?」
 次の問題はそれであった。
 一難、また一難。
 これには、さすがの弦之丞も惑悩(わくのう)している。
 生きるはやすい。
 この山に無為な生命をつづけようとするならば、屋島(やしま)の浦から祖谷(いや)へ落ちてきた平家の余族のように、それはいとやすいことに思える。しかし、麓の手配りを破る策は絶対にない。
 それは、きょうまでの受難を、ひとまとめにしたよりはまだ難事だった。
 山つづき、祖谷(いや)の桟橋(かけはし)をよじ越えて、土佐、讃岐(さぬき)の国境をうかがおうか。
 それも至難。
 第一お綱にたえられまい。
 ふたたび海部路(かいふじ)へ戻るは下策(げさく)である。
 ただわずかに弦之丞の誘惑を感じるのは、最難関と思われる貞光口(さだみつぐち)の木戸を斬り破って、徳島の城下へまぎれこむ。――だが、剣は守るべく、頼るに絶対のものではない。
 要するに、絶体絶命! それが二人の足をのせている運命の石だ。
 どう転落してゆくか?
 天意だ、もういちど、明日(あす)の変化を待ってみよう。弦之丞はそこに意をすえて、星のうごきに夜明けの近いのを知った。
 で――麓の木戸から新手(あらて)の声があがらぬうちにと、まだ真っ暗であるが、天堂一角の死骸を断崖の下に探そうとして、お綱と一緒に来たところであった。
 そこで、龍耳(りゅうじ)老人と行き会った。
 無論、油断もしないが、騒ぎもしない。弦之丞は、じっと、奇怪な老人を見つめていた。
「若者、腰をかけたらどうだ」
 と、老人は煙草をくゆらしている。枯淡だが憎いくらい落ちつき払った態度だ。
「まず、お訊ね申そう」
 弦之丞もピッタリ前の岩へ腰をのせた。今はもう双方の顔の筋(すじ)のうごきまで見て睨みあった。
「ウム、問わっしゃい」
 さりげなくはいったが、老人の身ゆるぎに、キッと構えたところが見えた。
「そこもとはいずれの人(じん)か」
「川島村、ほか七郷の原士の長(おさ)、高木龍耳軒と申すものじゃ」
「原士の長? ……ウム、して、拙者に話があると申したが、何の用でここへまいった」
「問うまでもない!」
 煙管(きせる)を斜めにかまえて、龍耳老人、古武士のように豪放な口調、膝びらきになって胸を張った。
「おぬしを討ちにまいったのじゃ」

 かれの※(「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61)(けい)とした眼は、やがて、弦之丞の面(おもて)に、ゆるい微笑が彫られてくるのを見た。
 ――慮外である、と冷酬(れいしゅう)して答えざるように思われた。
 老人は、そこで一だん声を張った。
「不敵な東方の間諜(かんちょう)! もはやもがいてものがれぬところだ、岩を噛んで飢うるよりは、いさぎよく死をうけろッ」
 そういっていながら、かれは、足もとへ火縄を置き、スパリスパリと煙草をくゆらしている。
 弦之丞にも、これは、ちょッと不解な対手(あいて)であった。本気か、威嚇(いかく)か、解(げ)しかねていた。
「老人、拙者に話といったのは、その儀か」
「いや、以上は要旨だ、今申したのは宣言だ。その前に、一言いって聞かすことがある」
「オオ、聞こう」
「ここまで登ってくる途中でも、犠牲(にえ)になった幾人もの斬口(てぐち)をみたが、汝、あたら天禀(てんぴん)の才腕をもって、時勢の反抗児となり、幕府の走狗(そうく)になって、無為に終るのはつまらんではないか」
「武士の心事(しんじ)、山家(やまが)のものにはわかるまい」
「ふウム……小賢(こざか)しい。――王道を暗うし、民人に苛政(かせい)をしき、徳川門葉(もんよう)のおごりのほか何ものも知らぬ幕府の隠密となって、その小さなほこりをば、おぬし、俯仰天地(ふぎょうてんち)にはじぬ心事とするか」
「だまれ」
 かれの声も、勢い、やや激調をおびた。
「そちなどに、答える限りでない」
「逃げを張るな、弦之丞!」
「なにッ?」
「なんじ、燈火の恩を知って、太陽の恩を知らぬはずはあるまい」
「尊王の美しき仮面(めん)をかぶるな。禁門の御衰微(ごすいび)を売りものにして、身を肥やそうとする曲者(しれもの)の口癖」
「たとえ、仮面(めん)でもいい、偽善でもいい」
「恥じろ、その醜陋(しゅうろう)な自分の本心を」
「皮と肉とをはいでは生きられない人間だ。どこまでこね返しても、表裏のない人間と世の中はつくれない。要は、今の混沌(こんとん)たる暗闇(くらやみ)政道をただして、まことの天日(てんじつ)を仰ぎたい。それは、万人の要望で、正しい声だ」
「いや、乱(らん)をのぞむ、戦賊の鳴り物、山家(やまが)そだちが、都へのし出ようとする方便に過ぎない」
「あれは木曾義仲(きそよしなか)、時代がちがう。ばかげているぞ、よく胸に手を当てて考えてみろ、幕府が何ものだ! あれは王廷(おうてい)の番頭で、番頭でありながら、主家をないがしろにし、民税をくすね、巧妙な組織のもとに、十余代二百幾年、ていよく栄華をぬすんできた悪の府ではないか。――その妖雲にわずらわされて、月顔(げつがん)はれたまわぬは主上である」
「では訊(たず)ねるが、その徳川が仆れたなら何が代る?」
「王政がかわる」
「権(けん)をとって廟(びょう)に立つものが、第二の幕府をつくりはせぬか」
 老人、グッとつまったが、強情に、
「いや、いったん王道の赫(かく)たる御政道がたてば、そういう虫ケラどもが業(わざ)をする日蔭はない」
「迂遠(うえん)でござる、お考えがちがう」
「ともあれ」
「イヤ!」と押しかぶせて、
「――法月弦之丞は学徒ではござらぬ。また憂国の士でもござらん。弱い人間の微情にひかされ、武士という形づけられた意気地に押されて、ここに立った一個の放浪者――、世潮(せちょう)を口にする資格はない」
「では、その情といい、意地というのは?」
「恋もある、泣かぬ涙もある。凡人弦之丞、愚痴はてんめんでござる。話すのも聞くのはわずらわしかろう。――意地といえば、二百年来、江戸の禄(ろく)を食(は)んだ家に生まれた江戸の武士、このきずなをどうしよう! いや、それはもう、清濁(せいだく)の時流を超え、世潮(せちょう)の向背(こうはい)をも超えてどうにもならない性格にまでなっている」
「ウーム……では、戦国に戻って天下は割れる、紛乱(ふんらん)する」
「割れるでしょう、禁門方(きんもんがた)、徳川方」
「いったん、泥と血とがこね返って、新しい世が立てなおる、王政は古(もと)にかえる」
「しかし、易々(いい)とは渡しもせず、うけ取れもせまい」
「なんの、大したことがあるものか」
「その偉業が成る前には、蜂須賀家ぐらいの大名、三家や四家は、狼火(のろし)がわりにケシ飛ぶであろう」
「ウム」うなずくと見せて――
 突然。
「こうかッ!」
 と叫んだとたん、ズドーン! と不意に切った火ぶた。
 翼(つばさ)を搏(う)った鸞(らん)のように、飛びしさった龍耳(りゅうじ)老人の手には、黒檀柄(こくたんえ)に銀鋲(ぎんびょう)を打ったスペイン型の短銃(たんじゅう)! 真綿(まわた)のようなけむりを曳(ひ)いて持たれている……。
「あッ……」と弦之丞。
 仕込(しこみ)の山杖、ヒュッと虚空へは抜けたが、白衣(びゃくえ)は丹花(たんか)をちらしていた。
「……痛(つ)ウッ……つつつ……」と朱(あけ)を片手に抱きしめながら、硝煙(しょうえん)を離れた姿は、ドンと、仰むけに地ひびきをうった。
「やッ?」
 かなたに隠れていたお綱は、自分の心臓を射ぬかれたように身を弾(はじ)いた。

 弾(たま)けむりのうちに、弦之丞が仆れたのを見て、龍耳老人はぽろりと手から短銃をとり落した。
 いかにも疲れたらしい様子が、今になって、かれの呼吸にあらわれた。
「オ、夜が明けてきたな……」
 空を仰いでいた老人は、すぐにうしろの崖縁(がけぶち)をのぞいて、
「次郎、まいっておるか」
 と、誰かを呼んだ。
 すると――思わぬ所から思わぬ人間の答えがあって、そこへザワザワとわけ登ってくる男がある。影のように離れたことなく、耳目(じもく)となり手足となって、老人の信頼あつい次郎とよぶ若者であった。
「まいっております」
 と次郎、主人の前へ、蟇(がま)のようにうずくまった。
「……あれは?」
「これに持参いたしました」
 肩からおろした具足櫃(ぐそくびつ)を眼で示すと、老人は篤(とく)と見て、きげんよくうなずいた。
「弦之丞の仆れているそばへおいてゆけ。……ウム、よかろう、その辺で」
 かれは飄々(ひょうひょう)と歩みかけた。弦之丞を射った得意や思うべしである。五、六歩、何か微吟(びぎん)に謡(うたい)のひとふしを口ずさんでいた。
 ――声もかけぬ狂刃が、いきなり暁闇(ぎょうあん)からおどったのはその時である。颯然(さつぜん)たる技力(ぎりょく)はないが、必死! と感じられる小脇差の切ッ尖(さき)が、うしろから老人の鬢(びん)をかすった。
 ピシ――ッ!
 白髯(はくぜん)風になびいて、杖は横なぎにうなった。
「ちイッ……」と歯がみを洩れる口惜しまぎれ。
「エエ、お、おのれ……」と、打たれてもやまず、狂わしくも、一念必死な女の影!
 無論、お綱である。
 血相、なんといおう、夜叉(やしゃ)、鬼女、なお言いたりない勢いであった。およそある場合の覚悟はしていたものの、目(ま)のあたりに、弦之丞が短銃の一弾に仆れたのを見たお綱が、こうなるのは当然であった。
 だが、対手(あいて)は龍耳老人、かなわぬまでもと、見返りお綱の捨て身に斬ってかかる刃(やいば)は、二度まで、三度までむなしく空(くう)を打たされて、なぶるがごとく後ろへよろけると、
「――汝もかッ」
 と、仮借(かしゃく)なき杖はふたたび持ちなおされて、お綱の新藤五を一撃に叩きおとした。そして、なお身を跳ばしてかかる脾腹(ひばら)をのぞんで、ウムと、左突きの拳(こぶし)がのびた。
 とたんに、次郎はお綱のうしろから組みついていた。しかし、その必要はなかった。もうなんの反抗もなく、まなじりを吊りあげたまま、お綱は次郎の腕にグウと反(そ)って、だんだんにその力も四肢(し)から抜けていった。
「……離せ」
 老人が顎(あご)をすくうと、次郎は、手を放してうしろへ退(の)いた。
 お綱の体は、かれの足のほうへ仆れて、霧の中へ繭糸(まゆいと)のように捻(よ)れて寝た。
 桔梗(ききょう)の花の芯(しん)から夜が白む。あたりの暁闇はひと風ごとに淡(うす)くなった。無念をのんで目をふさいだお綱の顔へも、水のような微光が這っている。
 見ると。
 その顔に、むざんな涙の痕(あと)があった。
「……ぜひがなかった」
 龍耳老人はこうつぶやいて、鼻息をみるように、ちょっとお綱の唇(くち)のあたりへ手をやっていた。
 そして、そのまま、次郎をうながして立ち上がった。
「間道(かんどう)からお帰りになりますか」
「いや、いや、昨夜の道から」
「では、こちらのほうを下(くだ)ります」
「おい、次郎よ」
「はい」
「お前だけは、間道から帰らなければいかん」
「あ、そうでした、では……」
 目礼して次郎はスルスルと谷間(たにあい)へ入ってしまった。まるで、葉裏へかくれてゆく蜘蛛(くも)のように。
 見送って、老人はすがすがしい朝風を満腹に吸った。そして、一顧(こ)するとそのまま黙々と麓へ去った……あとは、有明けを啼(な)く虫の声がひとしきり。
 ……ふと。
 お綱は舌に苦い味を知った。
 冷やかな朝の冷気が、薄荷草(はっかそう)を噛むように口へ流れこんできた。
「お……」と意識づいて、身を起こした時に、一粒の気つけ薬が喉(のど)を通ったことを自身も知らない。
 かの女(じょ)は、手にふれた新藤五を拾いとって、仆れている弦之丞のそばへ、いざり寄った。暁(あけ)の空の下に見た恋人の鮮麗な血は、お綱に美しい誘惑であった。
 嘆きとか、悲しみとかいうような、ふだんの感傷は起こらなかった。むしろ微笑したいくらいな不思議な心の淵(ふち)に立っていた。
 かの女は、今はじめて許されたように、男の顔へ頬ずりした。頬と頬を重ねたまま、流るる涙を拭かなかった。飽(あ)かずに恋人を抱きしめた。
 そして、自分の乳房を男の胸で圧(お)されながら、袖にくるんだ新藤五の冷やかな切ッ尖(さき)に見とれた。
 白い襟くびを仰向かせる……。
 喉(のど)へ!
 突こうとすると――手が利(き)かない。いつか弦之丞の手が下から自分の腕くびを握っている? ……。

 お綱はそれを錯覚(さっかく)ではないかとあやしんだ。
 けれど、弦之丞の手は、しかと自分の腕くびをつかんで離さない。待て――というらしく、喉(のど)へやろうとする刃(やいば)の手もとを握り止めている。
 龍耳(りゅうじ)老人の短銃にうたれて、弦之丞が一弾に絶命したものと早合点したのは、旋風(せんぷう)のような危機に吹かれて、何より先にお綱の心そのものが、平調を欠いてしまった証拠だった。
 さすがに、お綱ほどの女も顛倒(てんとう)していた、血が逆上(あが)っていた。
 弦之丞の撃たれた箇所は、右胸部の上、腕のつけ根に寄った所で、一時、仆れたものの、急所ではなく、起(た)てない程の傷手(いたで)ではなかった。かれは、その瞬間かすかながら、対手(あいて)がすぐと次に、止刀(とどめ)を刺しに近づくであろうという意識をもって待っていた。
 だが、老人は不解な行動に移っていた。弦之丞も傷口の出血を抑えきれず、霞(かすみ)にぼかされてゆくように気が遠くなった。
 お綱に胸を押されて、気がついた。ほとんど無我に、刀の手をつかんだのである。
 弦之丞が目をみひらくと、お綱は何か大声で叫んで、夢中な手で扱帯(しごき)を裂き、朱(あけ)になったかれの腕根をギリギリ巻きにする。
 弦之丞はなすままになっていた。
 しばらくして、やっと身を起こすと、まだらな血の痕(あと)に、草の実(み)がいッぱいついた。かれの面(おもて)は、まだ青白かったが、どこかに気力の熱が燃えかえってくるようであった。
 と――そこに。
 龍耳老人の残して行った謎のような具足櫃(ぐそくびつ)が、人の疑目(ぎもく)を待っていた。お綱もあやしさにうたれて見つめあった。
 蓋(ふた)はすぐに開いた。
 軽いものだった。
 のぞいてみると、意外、中には二ツの天蓋と、二掛(ふたか)けの掛絡(けらく)と、鼠木綿(ねずみもめん)の小袖や手甲(てっこう)までがふたり分?
 いうまでもなく虚無僧の宗装(しゅうそう)、なんの意味でか、尺八までが添えてあった。
 いや、まだ解(げ)せないものが、それに添えてある三衣袋(えぶくろ)の中にあった。阿州普化宗院派僧(あしゅうふけしゅういんはそう)の印可を焼印(やきいん)した往来手形である。それは、身をつつんで遁(のが)れろといわんばかりな品である。ふたりは唖然(あぜん)として、対手(あいて)の心を汲みかねた。
 こうして、自分たちを徒労に空手で江戸へ帰そうという心か?
 ならば、止刀(とどめ)を刺す機会があった。またことに右腕のつけ根をえらんだ狙撃も腑(ふ)に落ちない。
 でなければ、わざと恩を売って、隠密方の執着(しゅうじゃく)をにぶらそうとする策だろうか?
 そう考えるのもあまりにうがち過ぎる。要するに老人の底意は不可解である。けれどまた弦之丞には、対手(あいて)の意志などはどうであろうとよかった。そんなことは眼前の道草だ。問題の末だ。
 目的はまだ達しられていない。
 世阿弥がお綱に託した隠密遺書はどうしたろう? 一念、奪(と)り返さずにはおけないのはあの血筆の一帖(じょう)だ。あれをつかんで遺志をとげないうちは、命のある限り、闘わなければならない。
「お綱」
 やがて弦之丞は、しっかりした声音(こわね)で、かの女を見る目に愛熱の火をこめた。涙ぐましいくらいな情思をかくありありと彼が見せたことはなかった。
「お綱! お前はどんな危地に迫ろうと、決して、この弦之丞より先に死んではならぬ。拙者には、何かしら霊感(れいかん)というような自信がある。きっと、あの秘帖は奪(と)り返してみせる。サ、今日はどこかへ姿を隠そう、この傷の血さえ少し止まれば……」
 と、立ちかけたが、お綱がその膝に顔をうツ伏せて、泣いているのか、離れる様子がないので、また言いつづけた。
「よいか、お綱、拙者が秘帖をそちの手に返してやったら、お前はあれを持って江戸へ帰れ! そこには、お千絵殿の幸福やら、甲賀家の栄(はえ)やら、お前の亡き母の霊もまた、みんな、微笑をもって待っていよう。必ず、短気を出して、世阿弥殿の託(たく)にそむいてはならぬぞ。わしとて、そちが阿波をのがれる姿を見届けるまで、必ずみずから死を招くことはいたさぬ」
 この上にもお綱の意志を強めようとほとばしる言葉のうちに、死を覚悟している弦之丞の心がほのめいた。
 お綱は咽(むせ)んで叫びたかった。
 いいえ、弦之丞様! わたしはあなたとこの国に死んでこそ幸福です。本望です。なんであなたを残して帰る江戸表にうれしい微笑(ほほえみ)が待っていましょう。
了

底本:「鳴門秘帖(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1989(平成元)年10月11日第1刷発行
   2009(平成21)年2月2日第21刷発行
※副題は底本では、「剣山(つるぎさん)の巻」となっています。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2013年2月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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