「どうだな、何か近頃、おもしろい話は聞かぬか」
忠利がこういい出す時は特にあらためて、無礼講とゆるされなくても、家臣たちは、
「されば、こういう事がございますが……」
と、いろいろな話題を持ち出すのをきっかけに、――礼儀こそ紊さないが――家長を囲む一家族のように、睦み合うのが例であった。
主従という段階があるので、忠利も、公務の場合は、峻厳な容態をくずさないが、晩飯の後など帷衣一重になって、宿直の者たちの世間ばなしでも聞こうとする時は、自分も寛ぎたいし、人をも寛がせたいのであった。
それに、忠利自身が、まだ多分に、一箇の若侍といったふうだから、彼らと膝を組んで、彼らのいいたいことを聞いているのが好きであった。好きばかりでなく、世情を知るうえには、むしろ、朝の経書よりも、活きた学問になった。
「岡谷」
「はあ」
「そちの槍は、だいぶ上達ったそうだな」
「上がりました」
「自分で申すやつがあるか」
「人がみな申すのに、自分だけ謙遜しているのは、かえって嘘をつくことになりますから」
「ははは。しぶとい自慢よの。――どれほどな腕なみになったか、いずれみてやるぞ」
「――で、はやく、御合戦の日が来ればよいと、祈っておりますが、なかなか参りませぬ」
「参らずに、仕合せであろう」
「若殿にはまだ、近頃のはやり歌を、ご存じありませぬな」
「なんという歌か」
「――鑓仕鑓仕は多けれど、岡谷五郎次は一の鑓」
「うそを申せ」
忠利が笑う。
一同も笑う。
「あれは――名古谷山三は一の鑓――という歌であろうが」
「ヤ。ご存じで」
「それくらい」
と、忠利は、もっと、下情の通をいってみせようとしたが、慎んだ。そして、
「――ここでは、平常の稽古に、槍を致しておる者と、太刀を致しておる者と、いずれが多くあるな?」
と訊ねた。
ちょうど、七名いたが、
「拙者は槍」
と、答えた者が、五人で、
「太刀」
といった者は、七名のうち、二人しかなかった。
で、忠利は重ねて、
「なぜ、槍を習うか」
と、その者たちへ訊ねたところ、
「戦場において、太刀よりも利がござれば――」
と、一致した答えだった。
「では、太刀の者は?」
と、訊くと、
「戦場においても、平時においても、利がござれば」
と、太刀を稽古しているという二人が答えた。
槍が利か、太刀が利か。
これは、いつも、議論になることだったが、槍の者にいわせると、
「戦場では、平常の小技の稽古などは、役には立たぬ。――武器は、体に扱える程度に、長いほど利である。殊に、槍には、突く手、撲る手、引く手の、三益がある。槍はまた闘いに損じても、太刀の代りがあるが、太刀は、折れたり曲がったりしたら、それ限りではないか」
太刀の利を説く者は、
「いや、われわれは戦場だけを武士の働き場所と考えていない。常住坐臥、武士は太刀をたましいとして持っているので、太刀を習練するのは、常に魂を研いでいることになるゆえ、戦場で多少の不利はあっても、太刀を本位として武芸は研くべきだと心得る。――その武道の奥義に達しさえすれば、太刀に依って得た練磨も、槍を把れば槍に通じ、鉄砲を持てば鉄砲に通じ――決して未熟な不覚はあるまいかと存じます。――一芸万法に通ずとか申しますれば」
これは、果てしない問題になりそうである。忠利は、どっちへも加担せずに聞いていたが、太刀に利があると、力説していた松下舞之允という若侍へ、
「――舞之允。今のは、どうもそち自身の口吻でない所があるぞ。誰の請売りだ」
と、いった。
舞之允は、むきになって、
「いえ、てまえの持論で」
と、いったが、
「だめじゃ。わかる」
と、忠利に観破されて、
「実は――いつぞや、岩間角兵衛どのの、伊皿子のお住居へ招かれた節、同じ議論がわき、居合せた佐々木小次郎と申す、その家の懸り人から聞いたことばでございます。――しかし、てまえの平常の主張と一致しておりますので、てまえの考えとして、申し上げた次第で、他を偽るつもりはございません」
と、白状した。
「それみい」
忠利は、苦笑しつつ、胸のうちで、ふと、藩務の一ツを思い出していた。
それは、かねて、岩間角兵衛から推挙している――佐々木小次郎という人間――を召抱えるか、否か、聞きおいてあるまま、いまだに宿題として、決めかねていたことである。
推薦者の角兵衛は、
(まだ若年ゆえ、二百石を下し置かれれば)
といっているが、問題は禄高ではない。
一人の侍を養うことが、いかに重大か。殊に新参を入れる場合においては、なおさらであることは、呉々も、父の細川三斎からも、彼は教えられていた。
第一が、人物である。第二が、和である。いくら欲しい人間でも、細川家には、細川家の今日を築き上げた譜代がいる。
一藩を、石垣に喩えていうならば、いくら巨大な石でも、良質な石でも、すでに垣となって畳まれている石と石との間に、組み込める石でなければ使えないのである。均等のとれない物は、いかに、それ一箇が、得難い質でも、藩屏の一石とするわけにはゆかない。
天下には、可惜、そういう角が取れないために、折角の偉材名石でありながら、野に埋れている石が限りなくある。
殊に――関ヶ原の乱後には、たくさんある筈であった。けれど、手頃でどこの垣へでも嵌るような石は、抱える大名がその多いのを持て余し、これはと思う石には、圭角があり過ぎたり、妥協がなくて、自己の垣へはすぐ持って来られないのが多かった。
そういう点で、小次郎が、若年者であってしかも優れているということは――細川家へ仕官するには無難な資格であった。
まだ、石とまではならない、若い未成品だからである。
佐々木小次郎という者を思い出すと、細川忠利は、同時に、宮本武蔵なる者をも、自然胸の中で思いくらべた。
その武蔵のことは、初め、老臣長岡佐渡から聞いたのである。
かつて佐渡が、今夜のような夜伽の――君臣団欒の折に、ふと、
(近頃、変った侍をひとり、見出してござるが――)
と、例の法典ヶ原開墾のことを話したのである。そして、その法典ヶ原から立ち帰って来た次の折には、
(惜しいことに、その後、行方も相分りませぬ由で)
と、嘆息と共に復命した。
だが、忠利は断念しきれず、ぜひ見たいものだといって、
(心がけておるうちに、居所も知れよう。佐渡、なおも心がけよ)
と、命じておいた。
――で。忠利の胸には、岩間角兵衛から推薦の佐々木小次郎と、武蔵とが、いつのまにか、較べられていた。
佐渡の話を聞けば、武蔵のほうは武に優れているばかりでなく、たとえ山野の部落にでも、開墾を教え、自治を覚らせるなど、経策もあり、人物の幅もある。
また、岩間角兵衛にいわせれば、佐々木小次郎は、名門の子で、深く剣に参じ、軍法に通じ、まだ年ばえも若いのに、すでに巌流という一派をすら自称しているとあるし、これも、ざらにある豪傑とは思われない。殊に、角兵衛以外の者からも、近頃、江戸における小次郎の剣名はしきりと聞くところであった。
隅田河原で小幡門下を、四人も斬って平然と、帰って行ったということ。
神田川の堤でも。――また、北条新蔵までも、返り討ちにしたというようなことが、よくうわさに上るのだった。
それにひきかえて、武蔵という名はとんと聞かない。
数年前に、京都の一乗寺で、その武蔵が、吉岡一門の何十名を相手にして打ち勝った――というようなことは一時喧伝されたが、すぐその反対説が出て、
(あの噂は、眉つば物だそうじゃ)
とか、
(武蔵というのは、売名家で、派手にはやったが、いざとなった場合は、逸はやく、叡山へ逃げこんだというのが真相らしいて)
とか。――その他、よい時にはすぐ一方から出る反動説が、間もなく、彼の剣名を揉み消してしまった。
いずれにしろ、武蔵の名が出るところには、何かすぐ悪評がまとっていた。――さもなければ、黙殺されて、彼という剣人などは、剣人の仲間に、いるかいないか、存在の程度すらない程だった。
それに、美作国の山奥で生れ、名もない郷士の伜では、誰も顧みる者はなかった。尾張の中村から秀吉が出ても、まだまだ世の中は階級を重んじ、血統を衒う風習から少しも脱けていなかった。
「……そうだ」
忠利は、思い出した手を、膝に打って、若侍たちを見廻しながら、武蔵について、居合す者たちに訊いてみた。
「誰か――そち達の中に、宮本武蔵という者を、存じておる者はないか。――何か、うわさでも訊いたことはないかな?」
すると直ぐ、
「武蔵?」
と、顔を見合せて、
「つい近頃、その武蔵の名は、街の辻々に出ておりますので、誰でも名だけは存じておりますが」
と、若侍のほとんどが、皆それを知っているような口吻だった。
「ほ。――武蔵の名が、辻々に出ておるとは、どうした理か」
忠利は、目をみはった。
「立て札に書かれてあるのでござる」
若侍のひとりがいうと、森某が、
「その立て札の文言を、他人が写してゆくので、拙者も、おもしろいことと思うて、懐紙に写して参りました。――若殿、読みあげてみましょうか」
「ウム、読んでみい」
「これで――」
と、森某は、反故を拡げて、
いつぞや、おら衆に、うしろを見せて、突ン逃げた、
宮本武蔵へ、物いうべい。
皆クスクス笑った。宮本武蔵へ、物いうべい。
忠利は、真面目だった。
「それきりか」
「いや」
と、森某は、
――本位田のおばばも、讐と尋ねてあるぞ。おら衆にも、兄弟ぶんの意趣があるぞ。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
と、読みつづけた。そして、「これは、半瓦弥次兵衛という者の、乾児どもが書いて、各所に立てたものだそうで。――いかにも文言が、無法者らしいと、街の者は、欣しがっておりまする」
と説明した。
忠利は、ほろ苦い顔をした。自分が胸に持っていた武蔵とは、それでは余りに違うからである。その唾は、武蔵が浴びているばかりでなく、自分の暗愚も嘲られている気持がしたのであろう。
「ふム……武蔵とはそんな人物か」
忠利が、なお一抹の諦めかねたものをもって、そういうと、ほとんどが、異口同音に、
「どうも、つまらぬ男のようでござります」
といったり、
「いや、何よりも、よほどな卑怯者とみえまする。素町人などに、こうまで、恥かしめられても、いッこう姿を見せんそうですから」
と、一同がいった。
やがて、自鳴鐘が鳴ると、若侍たちは皆、退座した。忠利は、眠ってからも、考えていた。
けれども彼の考えは、あながち衆と一致していなかった。むしろ、
「おもしろいやつ」
と、思った。武蔵の立場になって、複雑に考えてみることに、興があった。
あくる朝、いつもの経書の間で、受講をうけて、縁へ出ると、庭に、長岡佐渡の姿が見えた。
「佐渡、佐渡」
と、呼びかけると、老人は振り向いて、朝の礼儀を、庭先から慇懃にした。
「その後も、心がけておるか」
忠利のいい方が、佐渡には、唐突に聞えたとみえて、ただ眼をみはっていると、
「武蔵のことじゃよ」
と、忠利がつけ加えた。
「――はっ」
と、佐渡が頭を下げると、
「とにかく、見つけたら、いちど屋敷へ召連れい。人間が見たい」
――同じ日。
いつもの弓場へ、忠利が、午すこし過ぎ、姿をあらわすと、的場の控え所に、彼のすがたを待っていた岩間角兵衛が、それとなく、小次郎の推挙をまた、繰返した。
忠利は、弓を把りながら、うなずいて、
「忘れておった。――ウム、いつでもよい、いちどその佐々木小次郎とやらを、この弓場まで召連れて来い。――抱えるか、抱えぬかは、見たうえのことじゃが」
と、いった。
ここは伊皿子坂の中腹、岩間角兵衛が私宅の赤門の中。
小次郎の住居は、その地内で、独立した手狭な一棟であった。
「おいでか」
と、訪なう者があった。
小次郎は、奥に坐って、静かに、剣を看ていた。
愛剣の物干竿――
これはここの主の角兵衛に依頼して、細川家に出入りの厨子野耕介へ研にやっておいたものである。
ところが、あの事件。
その後、耕介の家とは、いよいよ経緯がまずくなったので、岩間角兵衛から催促してもらうと、今朝、耕介から送り届けて来たのである。
無論、研げてはいまい。
そう思って、小次郎は、座敷の真ん中に坐って、鞘を払ってみたところが、研げていないどころではない――晃々と百年の冴えを革めて、淵の水かとも、深くて蒼黒い鉄肌から――燦として白い光が刎ね返したのである。
痣のようにあった、うすい錆の斑紋も消えているし、血あぶらにかくれていた錵も、朧夜の空のように、ぼうっと美しく現れていた。
「……まるで、見直してしまったな」
小次郎は、飽かず看入っていた。
ここの座敷は、月の岬の高台にあるので、芝の浜から品川の海は元より、上総沖から湧きあがる雲の峰とも坐ながらに対い合っていた。――その雲の峰の影も、品川の海の色も、剣の中に溶けていた。
「お留守かの。――小次郎どのはお在ででないか」
間を措いていた戸外の声が、ふとまた、柴折戸からそう訪れていた。
「誰方か」
刀を鞘におさめて、
「小次郎はおりますが、用事なら柴折から縁へ廻ってくだされい」
いうとすぐ、
「やれ、いるそうな」
と、いう話し声がして、お杉ばばと、一名の無法者が、縁先へ姿をあらわした。
「誰かと思うたら、ばば殿であったか。暑い日中を、よう見えたの」
「ご挨拶は後。――洗足水をいただいて、足を浄めたいが」
「そこに石井戸があるが、ここは高台なので、怖ろしく深いぞ。――漢。ばば殿が、墜ちると事だ。介添してやれ」
漢――とよばれたのは、彼女の道案内に、半瓦の部屋から付いて来た下っ端である。
井戸で、汗をふいたり、足を洗って、やがてお杉ばばは、座敷へあがり、挨拶をすますと、吹き通す風に眼をほそめて、
「涼しい家じゃが、こんな家に閑居してござったら、よい怠け者になりはせぬか」
と、いった。
小次郎は、笑って、
「お息子の又八とは違う」
ばばは、ちょっと、淋しげな眼をしばたたいていたが、
「そうじゃ、何の土産もないが、これはわしが写経したもの、一部進ぜましょう程に、閑な時、誦んでくだされ」
と父母恩重経の一部をさし出した。
小次郎は、かねてばばの悲願を聞いていたので、それか――とよい程に眺めたのみで、
「そうそう。そこの漢」
と、後ろにいる無法者へ向って訊ねた。
「いつぞや、わしが書いて遣わした高札の文面。――あれを、方々へ建てておいたか」
漢は、膝をのりだして、
「――武蔵出て来い。出て来ずば侍とはいわれまいが……っていう、あの高札でござんしょう」
大きく頷いて、小次郎は、
「そうだ。辻々へ手分けして、建てておいたか」
「二日がかりで、目抜きな場所へは、たいがい建てておきましたが、先生はごらんになりませんので」
「わしは、見る要もない」
ばばも、その話に、側から割りこんで――
「きょうもの、ここまで来る途中、その立札を見かけたが、札の建っている所には、街の衆がとり巻いて、くさぐさの噂ばなし。――よそ耳に聞いていても、胸がすいて、おもしろうござったわ」
「あの立札を見ても、名乗って出ぬとすれば、武蔵の侍はもう廃れたも同じこと。天下の笑いぐさじゃ。ばば殿も、それでもう恨みは済んだとしてもよかろう」
「なんの。いくら人が嗤おうと、恥を知らぬ面の皮には、痛くも痒くもあるまいに。――あのくらいなことでは、このばばの胸も晴れねば、一分も立ちませぬわえ」
「ふふム……」
と、小次郎は、彼女の一念を見やって、笑つぼに入りながら、
「さすがは、ばば殿、幾歳になっても、初志は曲げぬの。いや見上げたもの」
と、煽動した。そして、
「時に、きょうござったのは、何用かな」
と、訊ねた。
ばばは、改まって告げた。――他でもないが、半瓦の家へ身を寄せてからもう二年余にもなる。いつまで、世話になっているのも本意でないし、あらくれ男どもの世話にも飽きた。折からちょうど、鎧の渡しの附近に、手頃な借家があいたので、そこへ移って、一軒構えるという程でもないが――一人住居がしてみたい。
「どうであろ?」
と、相談顔に、
「武蔵も、まだ当分は、出て来る様子もないしの、せがれの又八も、この江戸にはいるにちがいないが、居所が知れぬし……で、国許から金をよび、しばらく、そうしておりたいと思うが」
と、小次郎へ計るのだった。
小次郎に、元より異議はない。そうするもよかろうという程度だった。
実をいえば、小次郎も、一時は興味もあり利用もしたが、この頃は、無法者達とのつきあいも、少々うるさくなって来た。主取をした後のことなども、計算に入れると、深入りは禁物だと思った。――で、近頃は、そこへの稽古にも、足を絶っているところだった。
岩間家の仲間をよんで、裏の畑から西瓜を採らせ、ばばと漢に馳走して、
「武蔵から、何か申して来た節は、すぐ当方へ使いをよこせ。――わしも近頃ちと体が忙しいから、当分は無沙汰じゃと思うてくれ」
そういって、二人を、陽の暮れぬうちと、追い立てるように帰した。
ばばが帰ると、小次郎は、ざっと室内を掃いて、庭面へ井戸の水を撒いた。
山芋の蔓や、夕顔の蔓が、垣から手洗い鉢の脚にまでからみついている。その白い花の一つ一つが、夕風にうごき出した。
「きょうも、角兵衛どのは、宿直なのか?」
母屋に煙る蚊遣りを眺めながら、小次郎は部屋の中に寝そべった。
灯火はいらなかった。燈してもすぐ風に消えるであろうし、やがて宵月が、海を離れて、彼の顔まで映して来た。
……その頃である。
坂下の墓地から、垣を破って、この伊皿子坂の崖へ、一人の若い侍が、紛れ込んで行ったのは。
いつも、藩邸へは騎馬で通っているので、岩間角兵衛は、坂の下まで来ると、そこで馬を捨てる。
彼の姿を見ると、寺門前の花屋が出て来て、馬を預かってくれるのだ。
ところが、きょうの夕方は、花屋の軒をのぞいても、老爺が見えないので、自身で裏の樹へ繋いでいると、
「おう、旦那様で」
老爺は、寺の裏山から駈けて来て、いつものように、彼の手から馬を受取りながら、
「――たった今、墓地の垣を破って、道もない崖へ上って行くおかしなお武家があるので、そこは抜け道ではござらぬ、と教えてやると、怖い顔して、こちらを振向いたまま何処ともなく行ってしまいましたが……」
と、問わず語りをして、
「あんなのが、近頃やたらに大名屋敷へ忍び込むといううわさの盗賊ではございますまいかの」
と、まだ気に懸けて、黒々と暮れた青葉の奥を見上げていた。
角兵衛は、気にもとめない容子だった。大名屋敷へ、怪盗がはいるといううわさはあるが、細川家など見舞われたこともないし、当家に盗賊がはいったと、自らの恥を自らいう大名のあった例しもないので、
「はははは。あれは、単なる噂にすぎない。寺の裏山などへもぐる盗賊なら、多寡の知れた小盗人か辻斬かせぎの牢人者であろう」
「――でも、ここらは、東海道の街道口に当りますので、他国へ逃げ出す奴が、よく行きがけの駄賃という荒仕事をやりますので、夕方など、風態のわるい人間を見ると、その晩は、嫌な気もちがいたしまして」
「変事があったら、すぐ駈けて来て、門をたたけ。うちの懸り人どのは、そういう折を待ってござるが、出会わないので、毎日、髀肉の嘆をもらしているくらいだ」
「あ。佐々木様でございますか。あんな優姿でも、お腕はたいそうなものだと、この界隈の衆も、評判でござりまする」
小次郎のいい噂を聞くと、岩間角兵衛は、鼻が高い気がした。
彼は、若い者が好きだった。とりわけ現今の気風として、有為な青年を家に養うということは、侍として、高尚な美風とされていた。
一朝、事のある場合に、ひとりでもよけいに、家の子輩をひき連れて、君侯の馬前へ出ることは平常のたしなみ好き事になるし――また、その中でも、抜群な男ぶりの者は、主家へ推挙しても一つの奉公ともなるし、自己の勢力扶植にもなる。
自己を、考えるような奉公人では、侍奉公の者として、頼母しくない家臣ではあるが、自己をまったく捨て切っている奉公人などというものは、細川家のような大藩にも、そう幾人もいるものではない。
さればといって、岩間角兵衛が、不忠者かといえば、決して一かどの武士以下の者ではない。ただ当り前以上に出ない譜代の侍だった。平常の時務には、かえって、こういう人間が、人一倍、便利でよく働くものだった。
「戻ったぞ」
伊皿子坂は、ひどく急なので、わが屋敷の門へかかって、彼がこういう時には、いつも少し息を喘っている。
妻子は、国許へおいてあるので、元よりここは、男手と雇い女がいるばかり。――でも、宿直でない夕方には、彼の帰邸をおそしと待って、赤い門から玄関までの笹むらには、打水の露が光っていた。
「お帰りなさいまし」
出迎える召使たちへ、
「うむ」
と、応えて、
「佐々木どのは、きょうは家におるか、それとも外出か」
角兵衛はすぐ訊ねた。
――今日は終日、家にいた様子だし、今も、寝転んで涼んでおります、と召使から聞いて、
「そうか。では、酒の支度をしての。支度ができたら、佐々木どのを、こちらへお呼びして参れ」
――その間に、風呂に入ってと、角兵衛はすぐ汗になった衣服を脱ぎ、風呂場で浴衣になった。
書院へ出て来ると、
「お帰りか」
小次郎は、団扇片手に、先へ来て坐っていた。
酒が出る。
「まず、一盞」
と、角兵衛は酌いで、
「きょうは、吉い事があるので、それをお聞かせしたいと存じてな」
「ほ。……吉い事とは」
「かねて、其許の身を、御推挙しておいたところ、だんだん殿にも其許の噂を耳にされ、近日、連れてこいということになったのじゃ。――いやもう、ここまで運ぶには、容易ではない。何しろ、家中の誰や彼から、推挙しておる人間もずいぶん多いからの」
さだめし小次郎が欣んでくれるに違いない。角兵衛は正直に期待していた。
「…………」
小次郎は、無言のまま、杯の端を唇へつけて、聞いていたが、
「ご返杯」
そういったのみで、欣しそうな顔もしないのである。
だが角兵衛は、それを不服と思わないのみか、むしろ尊敬さえ抱いて、
「これで、お頼みをうけたそれがしも、世話効いがあったというもの。こよいは、祝杯でござる、お過ごしなさい」
と、さらに、酌いでゆく。
小次郎は初めて、
「お心添え、かたじけない」
と、少し頭を下げた。
「いや何、其許のような器量人をお家に薦めるのも、御奉公の一ツじゃ」
「そう過大にお買いくだされては困る。元より、禄は望まず、ただ細川家は、幽斎公、三斎公、そして御当主忠利公と、三代もつづく名主のお家。そうした藩に奉公してこそ、武士の働き場所と思うてお願いしてみたことでもあれば」
「いやいや、身共は少しも、其許の吹聴はしないつもりだが、誰いうとなく、佐々木小次郎という名は、もう江戸表では隠れのないものになっておる」
「こうして、毎日、懶惰にぶらぶらしている身が、どうして、そう有名になったものか」
小次郎は自嘲するように、若々しい歯ならびを見せて、
「べつに拙者が、出色しているわけではない。世間に似而非者が多いのでしょう」
「忠利公には、いつでも召し連れいと仰せられたが……して、何日、藩邸までお出向き下さるの」
「此方も、何日なと」
「では、明日でも」
「よろしかろう」
と、当り前な顔つきである。
角兵衛は、それを見て、なおさら彼の人物の大きさに傾倒したが、ふと、忠利から念を押された一言を思い出して、
「しかし、君侯には、とにかく一度、人間を見た上でという仰せでござった。――とは申せ、それは形式で御仕官の儀は、もう九分九厘まで、きまったも同じようなものではあるが――」
と、小次郎へも、一応はと考えて、断っておいた。
すると、小次郎は、杯を下へおいて、角兵衛の顔をじっと正視した。そして、
「やめた。角兵衛どの、折角だが、細川家へ奉公は、見合せる」
昂然といった。
酔うと鮮紅になって、血のはち切れそうな彼の耳朶であった。
「……ほ。なぜ?」
と角兵衛は、さも当惑そうに、彼を見まもった。
小次郎は一言、
「気にそまぬゆえ」
と、にべなくいったのみで、理由は口に出さないのである。
だが、小次郎が急に、不機嫌になったのは、角兵衛が今、君侯のお断りとして、
(召抱えるか否かは、当人を見た上で)
といった――その条件が気に障ったものらしかった。
(何も、細川家に抱えて貰わなければ、困る体ではない。何処へ持って行っても、三百石や五百石は――)
と、平常それとなく示している小次郎の誇りに、角兵衛のありのままな伝え方が、ぐいと当りが悪く触ったものに相違ない。
小次郎は、他人の気持に関っていない質だったから、角兵衛が当惑して困った顔をしていようが、自分をわがまま勝手な人間と思おうが、いっこう心にかけるふうもなく、食事を終ると、さっさとわが住む棟へ帰ってしまった。
燈灯のない畳には、月明りが白く映しこんでいた。小次郎はそこへあがるとすぐ、酔った体を仰向けに横たえて、手枕をかった。
「ふ、ふ、ふ……」
何を思い出したか、独りでこう笑いだしながら、
「とにかく、正直者だな、あの角兵衛は」
と、つぶやいた。
ああいったら、角兵衛が主君に対して困ることも――また、どう振舞っても、角兵衛が自分に対して怒らないことも――何もかもよく知りぬいている彼だった。
(禄に望みはない)
と、かねて自分からいってはあるが、彼の満身は、野望に満ちていた。その彼に禄の望みがないわけもなく、自分の力で能う限りの名声も、また立身も望んでいた。
さもなくて、何で、苦しい修行などやる必要があろう。立身のためだ、名を揚げるためだ、故郷へ錦を飾るためだ、そのほか人間と生れた効をあらゆる点で満足させるためだ。そのためには、今の時代では何といっても兵法に優れることが出世の捷径である。幸いにも、この時代に自分は剣にかけては天稟の質をもって生れて来た――と、こう彼は考えている。自尊心を持っている。また聡明なる処世の歩みとして歩んでいる。
だから、彼の一進一退は、すべてこの目的と駈引から、割り出されていた。そうした彼の眼から見ると、ここの主の岩間角兵衛などは年こそ自分よりはずっと上だが、
(甘いものだ)
と、思わざるを得ないのであった。
――いつか小次郎は、そうした夢を抱いて、寝てしまった。月は畳の目を一尺もうごいたが、まだ醒めなかった。窓の女竹に絶えまなく涼風が戦いで、昼の暑さから解かれた肉体は、打たれても醒める気色はなかった。
――すると、その頃まで、蚊の多い崖の陰にかくれていた一つの人影は、
(よし!)
と、頃を見定めたように、燈のない家の軒端まで、蟇の這うように忍び寄って来た。
凛々しく見拵えした武士であった。――夕刻、坂下の花屋の老爺が挙動を怪しんで、寺の裏山へ見送ったという――あの若い武士がこの男であったのではあるまいか。
――這い寄って、
「…………」
その人影は、縁先から、ややしばらくのあいだ、じっと、屋内を窺っている。
月明りを避けて屈んでいるので物音を立てない限り、そこに人間がいるとはちょっと分らないくらいだった。
「…………」
小次郎の鼾声が微かに聞える。――一時、ハタと竭んだ虫の音もふたたび何事もないように、そこらの草の露からすだき始めた。
やがて。
人影は、ぬっくと立った。
そして刀の鞘を払うや否、ぽんと縁先へ跳ね上がって、小次郎の寝すがたへ向い、
「くわッ」
と、歯を喰いしばって、斬りつけたと思うと、小次郎の左の手から、黒い棒が発矢と唸って、その小手を強く打った。
振り下ろした刃は、よほどな勢いであったとみえて、小手を打たれながらも、畳まで斬りさげた。
だが、その下に在った小次郎の姿は、水面を打たれた魚が摺り抜けて悠々と他を泳いでいるように、さっと、壁際へ身をよけて、此方を向いて立っていた。
手には、愛剣の物干竿を、二ツにして持っていた。――つまり左の手には鞘を。右の手にはその抜刀を。
「誰だ」
こういった彼の呼吸でも分ることは、小次郎がこの刺客の襲撃を、疾くから予感していたという点である。露のこぼれにも、虫の音にも、油断のない彼の姿というものが、壁を背にして、その時少しも紊れず見えた。
「わ、わしだッ」
それにひきかえて、襲った者の声は割れていた。
「わしでは分らん。名をいえ。――寝こみを襲うなどとは、武士らしくもない卑怯者め」
「小幡景憲の一子、余五郎景政じゃ」
「余五郎!」
「おお……よ、ようも」
「ようも? 如何いたしたと申すのか」
「父が病床にあるのを、よい事にして、世間に小幡の悪口をいいふらし」
「待て。いいふらしたのは、わしではない。世間が世間へいいふらしたのだ」
「門人どもへ、果し合いの誘いをかけ、返り討ちにしおったのは」
「それは小次郎に違いない。――腕の差だ、実力の差だ。兵法の上では、こればかりは致し方ない」
「いう、いうなっ。半瓦とか申す無法者に手伝わせ……」
「それは二度目のこと」
「何であろうと」
「ええ、面倒な!」
小次郎は癇癖を投げて、一歩踏み出しながら、
「恨むなら、いくらでも恨め、兵法の勝負に、意趣をふくむは、卑怯の上の卑怯者と、よけい、もの笑いを重ねるのみか――またしてもそちの一命まで、申しうけるが、それでも覚悟か」
「…………」
「覚悟で来たかっ」
さらに一歩ふみ出すと、それと共に伸びた物干竿の切先一尺ほどに、軒の月が白く映した。チカッと、余五郎の眼も眩むばかり、白い光芒がそれから跳ねた。
きょう研ぎ上がって来たばかりの刀である。小次郎は、渇いた胃が饗膳へ向ったように、相手の影を獲物として、じっと見すえた。
ひとに仕官の斡旋を頼んでおきながら、主君とする人のことばが気に喰わないなどと、間際になって、わがままをこねる。
岩間角兵衛は、弱って、
(もう関うまい)
と、思った。そして、
(後進を愛すのはよいが、後進の間違った考えまで、甘やかしてはいかん)
と、自省した。
けれど角兵衛は元々、小次郎という人間が好きだった。凡物でないと打ち込んでいた。従って、彼と君侯のあいだに挟まって、困った当座は、腹も立ったが、数日経つと、
(いや、あれが彼の、偉いところかも知れぬ)
と、考え直して来た。
(凡の人物なら、お目見得といえば、欣んで行くだろうに)
と善意に酌んで、むしろそれくらいな気概は、若い人間にあるほうが頼母しいし、また、彼にはその資格があると、よけい小次郎が大きく見えて来た。
で、四日ほど後。
それまで、彼は宿直があったり、気色も癒らなかったので、小次郎とも顔を合せなかったが、その朝、彼の棟をぶらりと訪れて、
「小次郎どの。――きのうも御館から退がろうとすると、忠利公がまだかと、其許のご催促じゃ。どうじゃな、お弓場で会おうと仰せられるのじゃから、御家中の弓でもごらんになるつもりで、気軽に出かけては」
と、気をひいてみた。
小次郎がにやにや笑って答えないので、彼はまた、
「仕官をするなれば、一応お目見得をすることは、どこにでもある例じゃから、何も、其許の恥辱にはなるまいが」
「だが、御主人」
「ふム」
「もし、気に入らぬ、断るといわれたら、この小次郎は、もう古物になるではないか。小次郎はまだ、自分を商品のように売り歩くほど落ちぶれてはおり申さん」
「わしのいい方が悪かったのだ。殿の仰せは、そういう意味あいではなかったが」
「然らば、忠利公へ、どうお答えなさったの」
「――いやまだ、べつにどうとお答えはしておらぬ。それで、殿には殿で、心待ちにしておられるらしい」
「はははは。恩人のあなたを、そう困らせては相済まぬな」
「こよいも、宿直の日じゃ。また、殿から何か訊かれるかも知れぬ。そうわしを困らせずに、ともあれ一度、藩邸へお顔を出してもらいたいが」
「よろしい」
小次郎は、恩にでも着せるように、頷いて、
「行って上げましょう」
といった。
角兵衛は欣んで、
「では、今日にも?」
「左様、今日参ろうか」
「そうして欲しい」
「時刻は」
「いつでもという仰せでござったが、午すこし過ぎならお弓場へ出ておられるから、窮屈でもなし、気も軽く、拝謁できるが」
「承知した」
「相違なく」
と、角兵衛は、念を押して、先に藩邸へ出かけて行った。
その後で、小次郎は悠々身支度をした。身装などは関わない豪傑ふうなことを常にいっているが、彼は実はなかなか洒落者で、非常に見得をかざる質だった。
羅衣の裃、舶載織の袴、草履も笠も新しいのを出させ、岩間家の仲間に、
「馬はないか」
と、訊ねた。
坂下の花屋の小屋に、主人の乗換馬の白が預けてあるからと聞いて――小次郎はその花屋の軒に立ったが、きょうも老爺はいなかった。
そこで、彼方の境内を見ると、寺の横に、その花屋の老爺だの僧侶だの、近所の人々が大勢して何か首を集めて騒いでいた。
何があるのか――と小次郎もそこへ行ってみた、見ると、菰をかけた一箇の死体が地上にある。それを、取り囲んでいる人々は、埋葬の相談をしているのだった。
死者の身許は分らない。
年頃は若い。
そして侍だという。
肩先から、思いきって深く斬られているのである。血しおは黒く乾いていた。持物は何もないらしい。
「わしは、この侍を、見かけたことがある。四日ほど前の夕方じゃった」
花屋の老爺がいった。
「……ほ?」
と、僧侶や近所の人々は、彼の顔を見まもった。
老爺は、なおも、何か喋舌りかけたが、その時自分の肩を叩く者があるので、振り顧ると小次郎が、
「おぬしの小屋に、岩間殿の白馬が預けてあるそうだが、出してくれい」
「お、これは」
あわてて辞儀をして、
「お出ましで」
と、老爺は、小次郎と共に急いで家の方へ戻った。
小屋から、曳き出して来た月毛を撫でて、
「良い馬じゃな」
「はい。よいお馬でございまする」
「行って来るぞ」
老爺は、鞍の上へ移った小次郎のすがたを見上げて、
「お似あいなさいます」
小次郎は、巾着の中から、若干かの金をつまみ出して馬上から、
「おやじ、これで、線香と花でも供げておいてくれ」
「……へ? 誰方へ」
「今の死人へ」
小次郎は、そういって、坂下の寺門前から、高輪街道へ出て行った。
ベッと、彼は馬上から唾を捨てた。いやな物を見た後の不快な生唾がまだ残っていた。――四日前の月の夜、研ぎ上がったばかりの物干竿に、斬けた人間が、さっきの菰を刎ねて、馬の後から尾いて来るような気がする。
「怨まれる筋はない」
彼は、心のうちで、自分の行為に、弁明していた。
炎天を打たせて、彼の白馬は、往来を払って行った。町家の者も、旅人も、歩いている侍も、彼の馬前を避けて、そして皆、振顧った。
実際、彼の馬上姿は、江戸の街へはいっても目につくほど立派だった。――どこのお武家だろうと、人々は見るのであった。
細川家の藩邸についたのは、約束どおり暑い真昼中だった。駒をあずけて、邸内へかかると、岩間角兵衛はすぐ飛んで来て、
「ようお出で下された」
と、まるで自分のことのように犒いながら、
「すこし、汗でも拭いて、お控えでおやすみ下さい。唯今、殿へお取次ぎをする間」
と、麦湯、冷水、煙草盆と、下へも措かない。
「では、お弓場へ」
と、間もなくべつの侍が案内をしに来る。勿論、彼が自慢の物干竿は家臣の手にあずけ、小刀のみで、従いてゆく。
細川忠利は、きょうもそこで、弓を射ていた。夏中、百射をつづけるというので、きょうもその幾日目かであった。
大勢の近侍が、忠利を取り巻いて、矢を抜きに駈けたり介添えしたり、また、固唾をのんで、弓鳴りを見まもっていた。
「手拭、手拭」
忠利は、弓を立てた。
汗が眼に流れこむほど、射疲れていた。
角兵衛は、その機に、
「殿」
と、側へひざまずいた。
「なんじゃ」
「あれに、佐々木小次郎が参って御拝謁を待っております。おことばを戴きとうぞんじまする」
「佐々木? ああそうか」
忠利は眼もくれないで、もう次の矢を弦に懸け、足をふみ開いて、弓手を眉の上に翳していた。
忠利ばかりでなく、家臣たちも誰ひとり、控えている小次郎に、眼をくれる者はなかった。
やがて百射が終ると、
「水、水」
忠利は、大息でいった。
家臣たちは、井戸水を揚げて、大きな盥に水を漲った。
忠利は、諸肌をぬぎ、汗を拭いたり、足を洗った。側から家来が、袂を持ったり、新しい水を汲んだり、介添えは怠りないが、それにしても、いわゆるお大名の仕草ともみえぬ野人ぶりであった。
国許にいる大殿とよばれる三斎公は茶人である。先代の幽斎は、それにもまして風雅な歌人であった。さだめし三代目の忠利公も、みやびたる公卿風の人か、御殿育ちの若殿だろうと考えていた小次郎は、ちょっと、その体に、意外な眼をみはっていた。
よく拭きもしない足をすぐ草履にのせて、ずかずかと忠利は、弓場へ戻って来た。そして、さっきからまごついている岩間角兵衛の顔を見ると、思い出したように、
「角兵衛、会おうか」
と、幕の日陰へ床几を置かせ、九曜の紋を後ろにして腰かけた。
角兵衛に麾かれて、小次郎は彼の前にひざまずいた。人材を愛し、士を遇することに厚かったこの時代では、一応、謁見をうける者からそういう礼は執るが、すぐ忠利の方でも、
「床几を遣わせ」
と、いった。
床几を受ければ客である。小次郎は膝を上げて、
「おゆるしを」
会釈しながら、それへ腰をおろして、忠利と対いあった。
「仔細、角兵衛から聞いておるが、生国は岩国と申すか」
「御意にござります」
「岩国の吉川広家公は英邁の聞えが高い。そちの父祖も、吉川家に随身の者か」
「遠くは近江の佐々木が一族と聞いておりますなれど、室町殿滅亡後、母方の里へひそみました由で、吉川家の禄は喰んでおりませぬ」
などと家系や、縁類などの質問があって後、
「侍奉公は、初めてか」
「まだ主取は存じませぬ」
「当家に望みがあるやに、角兵衛から聞いておるが、当家のどこがようて、望んだか」
「死に場所として、死に心地の好さそうなお家と存じまして」
「む、む」
忠利は、唸いた。
気に入ったらしく見える。
「武道は」
「巌流と称します」
「巌流?」
「自身発明の兵法にござりまする」
「でも、淵源があろうが」
「富田五郎右衛門の富田流を習いました。また、郷里岩国の隠士で片山伯耆守久安なる老人から、片山の居合を授けられ、かたがた、岩国川の畔に出ては、燕を斬って、自得するところがございました」
「ははあ、巌流とは――岩国川のその由縁から名づけたか」
「御賢察のとおりです」
「一見したいな」
忠利は、床几から、家臣の顔を見まわして、
「誰か、佐々木を相手に、起つ者はおらぬか」
と、いった。
この男が、佐々木か。近頃、よくうわさに上る、あの著名な人間なのか。
(それにしては、思いのほか、若いものだな)
と感心して、先刻から、忠利と彼との応接を見まもっていた家臣たちは、忠利が唐突に、
(誰か、佐々木を相手に、起つ者はないか)
といった言葉にまた、顔を見あわせた。
自然、その眼はすぐ、小次郎の方へ移ったが、彼には、迷惑そうな気色もなく、むしろ、
(望むところ)
と、いわんばかりな紅潮が面に見えた。
だがなお、さし出がましく、我がと名乗って、起つ者もないうちに、
「岡谷」
と、忠利が、名指した。
「はっ」
「いつぞや、槍が太刀に勝る論議の出た折に、誰よりも、槍の説を取って退かなかったのは、そちであったな」
「は」
「よい折だ、かかってみい」
岡谷五郎次は、お受けすると、次に、小次郎の方へ向い直って、
「不肖、お相手に立ちまするが、おさしつかえございませぬか」
と、訊ねた。
小次郎は、大きく、言葉を胸で肯くように、頷いた。
「お願いいたしましょう」
慇懃な礼儀のあいだであるが、何かしらさっと肌じまるような凄気がながれた。
幕の裡で、的場の砂を掃いていた者や、弓の整理をしていた人々も、それを聞いて、忠利のうしろへ皆、集まった。
朝夕、武芸を口にし、太刀や弓を箸の如く持ち馴れている者にでも、稽古以外のほんとの試合などに立つ体験は、一生を通じて、そう何度もあることではなかった。
仮に――
(戦場へ出て戦うのと、平常の場合、試合に立つのと、どっちが怖いか)
ということを、ここにいる大勢の侍に、正直に告白させたら、十人が十人まで、
(それは試合だ)
というに違いないのである。
戦争は集団の行動だが、試合は箇と箇の対立である。必ず勝たなければ、必ず死ぬか片輪になるのだ。足の拇指一つから髪の毛一筋までを味方として、自己の生命力を尽して戦い切らなければならない。――他人が戦っている間、ほっと一息を入れるというような余裕なども、試合にはない。
――粛として、彼の友だちは皆、彼の挙止を見まもった。だが、五郎次が落着いているのを見ると、やや安心して、
(彼なら負けまい)
と、思った。
細川藩には、従来、槍術の専門家という者はいなかった。幽斎公三斎公以来、数々の戦場で人と為った者ばかりが君側なのである。足軽の中にさえ、槍の上手は沢山いた。槍を上手につかうなどということは、必ずしも奉公人の特別な技能ではなかった。だから特に師範役というような者はいらなかったといえるのである。
けれど、その中でも、岡谷五郎次などは、藩での鑓仕といわれていた。実戦を踏んでいるし、平常の稽古や工夫も積んでいる老練家であった。
「しばし、ご猶予を」
と、五郎次は、主君と相手の者へ、そう会釈をして、静かに、彼方へ退がって行った。もちろん身支度のためである。
朝に笑顔で出て、夕方には死体で帰るかもしれない侍奉公の嗜みとして、きょうも、下帯から肌着まで、垢のつかない衣を着ていたということが、支度に退がる彼の心を、その時ふと、涼やかにさせていた。
身を開け放した姿で、小次郎は、突っ立っていた。
借りうけた三尺の木太刀を提げ、袴の襞もたらりと――絡げもせずに、試合の場所を選んで、先に待っていた。
逞しかった。誰が見ても、憎んで見てさえも、それは凛々しい男振りであった。
殊に、鷲のごとく勇猛で、しかも美しい横顔には、平常と何の異なるところも見えなかった。
(どうしたか?)
相手に立つ岡谷五郎次へは、家中の者の友情がわいた。小次郎の異彩を見るにつけ、彼の腕のほどが案じられ、彼が支度にかくれた幕の方へおのずと不安な眼がうごいた。
だが、五郎次は、落着きすまして身支度を終えていた。それになお、手間どっているわけは、槍の先に濡れ晒布を、ていねいに巻きつけているためだった。
小次郎は、見やって、
「五郎次どの。それは何のお支度だな。てまえに対する万一のお気づかいなら無用なご配慮だが」
と、いった。
ことばは尋常に聞えるが、意味は傲慢な放言に等しい。――今、五郎次が濡れ晒布を巻いている槍は、彼が戦場で得意につかう短刀形の菊池槍である。柄の長さ九尺余、手元から先は青貝塗りの磨出し、菖蒲造りの刃先だけでも七、八寸はあろうという業物なのだ。
「――真槍でいい」
それを見ながら、小次郎は、彼の徒労をすでに嘲うかにいったのである。
「無用ですか」
キッと、五郎次が、彼を見ていうと、君侯の忠利も、君側にいる彼の友も、皆、
(ああいうのだ)
(かまわん)
(突き殺してしまえ)
と、いわんばかりに、眼でぎらぎらと、使嗾した。
小次郎は、早くと、促すように、語気をこめて、
「そうだ!」
と、眼をすえた。
「然らば」
巻きかけた濡れ晒布を解きほぐし、五郎次は長槍の中段をつかむと、ずかずかと進んで来て、
「お望みにまかせる。しかし、それがしが真槍を把る以上、貴方も真剣を持っていただきたい」
「いや、これでいい」
「いや、ならぬ」
「いや」
と、小次郎は、彼の呼吸を圧しかぶせて、
「藩外の人間が、いやしくも他家の君前で、真剣を把るなどという無遠慮は、慎まねばなりますまいが」
「でも」
五郎次がなお、心外らしく、唇をかむと、忠利は、彼の態度を、もどかしく思ったように、
「岡谷。卑怯ではない。相手のことばに任せ。逸くいたせ」
明らかに、忠利の声の中にも、小次郎に対する感情がうごいていた。
「――では」
二人は、目礼を交わした。するどい血相が双方の顔に映り合った。とたんに、ぱっと五郎次から跳び退いた。
だが、小次郎の体は、モチ竿に着いた小鳥のように、槍柄の下に添って、五郎次のふところへそのまま、つけ入って行った。
五郎次は槍を繰り出す暇がなく、ふいに身を向き転えると石突きの方で、小次郎の襟がみの辺りを撲り下ろした。
――ぱッん、と石突きの先が谺して宙へ跳ね返された。小次郎の木剣は、咄嗟にまた、槍の勢いで上げられた五郎次の肋骨へ向って、低く、噛みつくように唸って来た。
「ち。ち。ち!」
五郎次は、踏み退いた。
さらに横へ跳んだ。
息もつかず、また、避けた。また跳び交わした。
――だがもう、鷲に追いつめられた隼だった。つきまとう木剣の下に、戛然と、槍が折れた。せつな、五郎次の魂がその肉体から、無理に

伊皿子の「月の岬」の家へ帰ってから、小次郎は、主の岩間角兵衛にたずねた。
「ちと、やり過ぎましたかな? ――今日の御前では」
「いや上乗でござったよ」
「忠利公には、わしの帰った後で、何というておられたかな」
「べつに」
「何か、いわれたろうが」
「何とも、仰せられずに、黙って、お座の間へお出でられた」
「ふむ……」
小次郎は、彼の答えに、不満足な顔を見せた。
「いずれ、そのうち、お沙汰があるでござろう」
角兵衛が、いい足すと、
「抱えるとも、抱えぬとも、いずれでもいい。……だが、噂に違わず、忠利公は、名君と見た。同じ仕えるなら――とは思うが、これも縁ものだからな」
角兵衛の眼にも、小次郎の鋒鋩が次第に見えてきて、きのうから、少し気味わるくなった面持である。愛すべき若鳥と抱いていたのが、覗いてみたら、いつの間にか懐中で鷲になっていた感じである。
きのう、忠利の面前では、少なくも四、五名は相手にしてみせるつもりだったが、最初の岡谷五郎次との試合が、余りに残忍であったせいか、
(見えた。もうよい)
と、忠利の声で、終ってしまったのである。
五郎次は、後で蘇生したというが、怖らく跛行になってしまったろう。左の太股か腰部の骨は砕けた筈である。あれだけ見せておけば、このまま、細川家に縁はなくてもまず遺憾はないがと、小次郎はひそかに思う。
だが、未練はまだ、十分にある。将来、身を託す所として、伊達、黒田、島津、毛利に次いで、細川あたりは慥な藩である。大坂城という未解決な存在がまだ風雲を孕んでいるので、身を寄せる藩に依っては、再び素牢人に転落したり、落人の憂き目にあう惧れは多分にある。奉公口を求めるにも、よほど将来を見通してかからないと、半年の禄のために、一生を棒にふるかも知れない。
小次郎には、その見通しがついていた。三斎公という者がまだ国元に光っているうちは、細川家は泰山の安きにあるものと見ていた。将来性も十分にあるし、同じ乗るなら、こういう親船に乗って新時代の潮へ、生涯の舵を向けてゆくことこそ賢明だと考えていた。
(だが、いい家柄ほど、易々と、抱えもせぬし)
小次郎は、やや焦々する。
何を思いついたのか、それから数日後のこと、小次郎は急に、
「岡谷五郎次どのを見舞って来る」
と、いって出かけた。
その日は徒歩で。
五郎次の家は、常盤橋の近くだった。彼は突然、小次郎の慇懃な見舞をうけて、まだ病床から起き上がれない身であったが、
「いや、試合の勝負は、腕の相異、わが未熟は恨むとも、なんで其許を……」
と、微笑をみせ、
「おやさしい、お労りをうけ、かたじけない」
と、眼に露を見せた。
そして小次郎が帰ると、枕辺に来ていた友へ、
「ゆかしい侍だ。傲慢者と思うたが、案外、情誼もあり、礼儀も正しい」
と、洩らした。
小次郎は、彼が、そういうであろうことを、弁えていた。
ちょうど、来ていた見舞客の一名は、もう彼の思うつぼに、彼の敵たる病人の口から、小次郎の讃美を聞かされていた。
二日おき、三日おきに、前後四たび程、小次郎は岡谷の家を見舞った。
或る日、魚市場から、生きた魚など、慰めにと、届けさせた。
夏は、土用に入った。
空地の草は、家を蔽い隠し、乾いた往来には、のそのそ蟹が這っている江戸だった。
――武蔵出てこい。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
と、半瓦の者が立てた辻々の立札も、夏草の背にかくされ、或は雨で仆れたり、薪に盗まれたりなどして、もう眼にふれる折もなかった。
「どこぞで、飯を」
と、小次郎は、空腹を思い出して、彼方此方、見まわした。
京とちがって、奈良茶というような家もまだない。ただ、空地の草ぼこりに、葭簀を立てて、
どんじき
と書いた旗が見える。
屯食――とは遠い時代、握り飯のことを称った名と聞いている。屯食いという意味から生れた言葉であろう。だが、ここの「どんじき」とは一体何か。
葭簀の陰から這ってゆく煙は草にからみついて、いつまでも消えない。近づいてゆくと、煮物のにおいがする。まさか、握り飯を売るわけでもあるまいが、とにかく、喰べ物屋には違いない。
「茶をいっぱいくれい」
日陰へはいると、そこの腰かけに、ひとりは酒の茶碗、ひとりは飯茶碗を持って、がつがつ喰っている二人づれがある。
対いあった腰かけの端へ小次郎は倚った。
「おやじ、何ができるのか」
「めし屋でござります。酒もございまするが」
「どんじき――と看板に書いてあるが、あれは何の意味だな」
「皆さまがお訊きになりますが、てまえにも分らないので」
「おぬしが書いたのではないのか」
「はい、ここでお休みなされた旅の御隠居らしいお人が、書いてやるといって、書いて下さいましたので」
「そういえば、なるほど、達筆だな」
「諸国を、御信心に歩いているお方だそうで、木曾でも、よほど豪家な金持の御主人とみえましてな、平河天神だの、氷川神社、また神田明神などへも、それぞれ莫大な御寄進をして、それが、無二の楽しみだと仰っしゃっている御奇特人でございまする」
「ふム、何という者か、その人の名は」
「奈良井の大蔵と仰っしゃいます」
「聞いたようだな」
「どんじき、などと、お書きくださって、なんの意味か、通じはしませぬが、そういう有徳なお方の看板でも出しておいたら、少しは貧乏神の魔除けになるかと思いましてな」
おやじは、笑った。
小次郎は、そこに並んでいる瀬戸物鉢をのぞき、肴と飯を取って、箸で蠅を追いながら、湯漬にして喰べ始めた。
前に腰かけていた二人の侍のうち――一人はいつの間にか立って、葭簀の破れ目から草原を覗いていたが、
「来たぞ」
連れを振り顧って、
「浜田、あの西瓜売りじゃないか」
といった。
あわてて、箸をおいて、もうひとりの男も立ち上がった。そして葭簀へ顔を並べながら、
「む、あれだ」
と、何か物々しく頷いた。
草いきれの炎天を、西瓜売りは天秤を肩に歩いてゆく。
それを追って「どんじき」の葭簀の陰から出て行った牢人は、いきなり刀を抜いて、天秤の荷縄を払った。
――もんどり打つように西瓜と西瓜売りが前へ転んだ。
「やいっ」
先刻、どんじきの中で、浜田とか呼ばれていたもう一名の牢人が、すぐ駈けて、横から西瓜売りの首を抓み上げた。
「お濠ばたの石置場で、このあいだまで、茶汲女をしていた娘を、おのれは、何処へ連れて行った。――いいや、空惚呆けてもだめだ。なんじが隠したに相違ない」
一人が責めると、一人が刀を鼻先へ突きつけて、
「いえ。吐かせ」
「そちの住居はどこだ」
と、脅かし、
「こんな面して、女を誘拐すなどとは、もってのほかな奴だ」
と、刀の平で、西瓜売りの頬をたたいた。
西瓜売りは、土気色になった顔を、ただ、横に振るだけだったが、隙を見ると、憤然一方の牢人を突きとばし、天秤を拾って、もう一名の方へ、打ってかかった。
「やるかっ」
と、牢人は呶鳴って、
「こいつ、満ざら、ただの西瓜売りでもないぞ。浜田、油断するな」
「何、多寡の知れた――」
と、浜田某は、打って来る相手の天秤を引っ奪くり、それへ叩き伏せてしまうと、西瓜売りの背中へ天秤を背負わせ、有合う縄で、棒縛りに、ぎりぎり巻きつけた。
――すると彼の背後の方で、猫の蹴られたような声と共に、どさっという地響きがしたので、何気なく振り顧ると、その顔へ、夏草の風がぱッと赤い細かい霧を持って来て、吹きつけた。
「――やっ!」
馬乗りになっていた西瓜売りの体の上から跳び退いた浜田某なる牢人は、あり得ないことを見たように、疑いの眼をみはって、愕然とさけんだ。
「何者だッ……な、なに者だっ汝は……」
だが。
蝮のように、するすると、そういう彼の胸へ真っ直ぐに迫って来る刀の先は――冷然と、答えもしない。
佐々木小次郎なのである。
刀は、いうまでもなく、いつもの長刀物干竿。厨子野耕介が研桶に古い錆垢を落して光芒を改めて以来、近頃しきりと、血に渇いて、血をむさぼりたがっている刀である。
「…………」
笑而不答――小次郎は、後ずさる浜田某をぐいぐい追いつめて夏草を繞っていたが、ふと、棒縛りの目に遭っていた西瓜売りが、その姿を見るなり、さもさもびっくりしたように、
「あっ……佐々木……佐々木……佐々木小次郎どの。助けてくれっ」
と、大地から呶鳴った。
小次郎は、見向きもしない。
ただ、抜き合せたまま、後へ後へ、果てなく退がってばかりいる浜田某の呼吸を数えながら、死の淵まで押してゆくように、彼が一退すれば、彼も一進し、彼が横へ旋れば、彼もさっと、横へ旋って、刀の先から外さず押しつづけているのみだった。
もう青白くなって来た浜田某は、その耳に、佐々木小次郎の名を聞くと、
「えっ、佐々木?」
遽に、戸惑いし出し、くるくる旋ったかと思うと、ぱッと、逃げ出した。
物干竿は、宙を刎ね、
「何処へッ」
と、いうや否、浜田某の片耳を削いで肩先から深く斬りさげてしまった。
彼がすぐ、縄目を切ってやっても、西瓜売りは、草むらから顔を起さなかった。
坐り直しはしたが――いつまでも面は上げないのである。
小次郎は、物干竿の血をぬぐい、鞘に納めると、何かおかしくなったように、
「大将」
と、西瓜売りの背を叩いた。
「何もそう面目ながらないでもいいじゃないか。――おいっ、又八」
「はあ」
「はあ、じゃあない、顔を上げろ。さてもその後は久しぶりだな」
「あなたも、ご無事でしたか」
「あたり前だ。――しかし、貴様は妙な商売をしておるじゃないか」
「お恥かしゅうございます」
「とにかく、西瓜を拾い集め――そうだ、あの、どんじき屋へでも、預けたらどうだ」
小次郎は原の中から、
「おおウい、おやじ」
と、麾いた。
そこへ、荷や西瓜をあずけ、矢立を取出して、どんじきの掛障子のわきへ、
空地の死体ふたつ
右、斬捨て候ものは
伊皿子坂月の岬住人
佐々木小次郎
後日の為のこす
こう書いて、右、斬捨て候ものは
伊皿子坂月の岬住人
佐々木小次郎
後日の為のこす
「おやじ、ああしておいたから、其方に迷惑はかかるまい」
「ありがとう存じまする」
「あまり、有難くもないだろうが、死者の由縁の者が来たら、言伝てくれ。――逃げ隠れはせぬ、いつでも、御挨拶はうけるとな」
そして、葭簀の外にいる西瓜売りの又八へ、
「参ろう」
と、促して、歩き出した。
本位田又八は、俯向いてばかりいた。近頃彼は、西瓜の荷を担って、江戸城の此処彼処にたくさん働いている石置場の人足や、大工小屋の工匠や、外廓の足場にいる左官などへ、西瓜を売ってあるいていた。
彼も、江戸へ来た当初は、お通に対してだけでも、男らしく、一修行するか、一事業やるか、壮志のあるところを見せていたが、何へかかっても、すぐに意志のへこたれてしまうことと、生活力の弱いことは、この人間の持ち前で、職を換えることも、三度や四度の数ではない。
殊に、お通に逃げられてからの彼は、よけい、薄志弱行の一途を辿るばかりで、わずかに、各所の無法者のゴロ部屋に寝泊りしたり、博奕の立番をして一飯を得たり、また、江戸の祭や遊山の年中行事に、その折々の物売りをしたり――とにかくまだ一ツの定った職業すらつかんでいないのであった。
だが、それが不思議とも思わないほど、小次郎も、彼の性情は前から知っている。
ただ、どんじき屋へ、ああ書いておいた以上、やがて何とかいって来るものと心得ていなければならない心構えのために、
「いったい、あの牢人どもから、どんな恨みをうけたのか」
と、理由を糺すと、
「実は、女のことで……」
と、いい難そうに、又八はいう。
又八が生活を持つ所、何か必ず女の事故が起っている。彼と女とは、よくよく前世から業のふかい悪縁でもあるのだろうと――小次郎すらも苦笑をおぼえ、
「ふム、相変らず貴様は色事師だの。して、その女とは、どこの女で、そしてどうしたという理か」
いい渋る口を割らせるのは骨だったが、伊皿子へ帰っても、かくべつ用を持たない彼には、女と聞くだけでも、無聊をなぐさめられて、又八と会ったのも、拾い物のような気がしていた。
ようやく、又八が、打明けていう事情というのを聞くと、こうであった。
濠端の石置場には、お城の作事場に働いている者や往来の頻繁を当てこんで、何十軒といっていいほど、休み茶屋が、葭簀を張っている。
そこの一軒に、人目をひく茶汲女があった。飲みたくもない茶をのみにはいったり、喰べたくもない心太を啜ったりしにゆく連中のなかに、先刻の浜田某という侍の顔もよく見えていた。
ところが、自分も時折、西瓜を売上げた帰りになど、休みに寄るうち、或る時、娘がそっと囁くことには、
(わたしは、あのお侍が嫌いでならないのに、茶屋の持主は、あのお侍と遊びにゆけと、此店が閉まるとすすめるのです。あなたの家へ隠してくれませんか。女ですから水仕事や綻びを縫うぐらいなことならしますよ)
と、いうので、否む筋合もないから、諜し合せて、自分の家へ、早速、娘を匿ってやっているので――ただそれだけの理由なので――と、又八は頻りとそこのところを繰返して言い訳する。
「おかしいじゃないか」
小次郎は、頷かない。
「なぜですか」
と、又八は、自分の話のどこがおかしいのかと、すこし反抗を見せて、突っこんでゆく。
小次郎は、彼の、惚気とも言い訳ともつかない長文句を、炎天に聞かされて苦笑いも作れず、
「まあいいわ。ともかく貴様の住居へ行って、ゆるゆる聞こう」
すると、又八は足を止めてしまった。ありありと、迷惑そうにその顔つきが断っているのである。
「いけないのか」
「……何しろ、ご案内申すような、家ではないので」
「なあに、かまわぬ」
「でも……」
又八は、謝って、
「この次にして下さい」
「なぜじゃ」
「すこし今日は、その」
よくよくな顔していうので、強ってともいわれず小次郎は急にあっさりと、
「ああそうか。然らば、折を見て、そちの方からわしの住居へ訪ねて来い。伊皿子坂の途中、岩間角兵衛どのの門内におる」
「伺います。ぜひ近日」
「あ……それはよいが、先頃、各所の辻に立ててあった高札を見たか。武蔵へ告げる半瓦の者どもが打った立札を」
「見ました」
「本位田のおばばも尋ねておるぞと、書いてあったろうが」
「は。ありました」
「なぜすぐに、老母をたずねて参らぬのじゃ」
「この姿では」
「ばかな。自分の母親に何の見得がある。何日、武蔵と出会わんとも限らぬではないか。その時、一子として、居合わせなかったら、一生の不覚だぞ。生涯の悔いをのこすことになるぞ」
彼の意見じみた言葉を、又八は素直に聞けなかった。母子のあいだの感情は、他人の見た眼のようなのではない。――そう腹の膨れるように思ったが、たった今、救われた恩義のてまえ、
「はい。そのうちに」
と、渋った返辞をのこして、芝の辻でわかれた。
――小次郎は人が悪い。別れると見せて、実はすぐまた、引っ返していた。又八の曲がった狭い裏町を、見え隠れに尾けて行った。
幾棟かの長屋がある。藪や雑木を伐り拓いて、どしどし人間が先へ住み出したといったような、この附近の開け方であった。
道などは、後のことで、人が歩けば、それからつくし、下水なども、戸ごとから、行水の水や台所の汚水で、流るるままに出来たものが、自然小川へ落ちて行く――でいいとしている。
何しろ、急激に殖えてゆく江戸の人口は、それほど無神経でなければ納まりがつかなかった。その中で多いのは、やはり労働者であった。わけて河川改修と、城普請の仕事に就く者たちである。
「又八さん、帰ったのか」
隣の井戸掘りの親方がいった。親方は、盥の中にあぐらをくみ、横にした雨戸の上から首を伸ばしていったのである。
「やあ、行水ですか」
今、家へ戻って来た又八がいうと、盥の中の親方は、
「どうだい、わしはもう上がるところだが、一浴びやっては」
「有難うございますが、宅でもきょうは、朱実が沸かしたそうですから」
「仲がいい」
「そんなでもございません」
「兄妹か、夫婦か、長屋の者もまだよく知らないが、一体どっちなんだね」
「ヘヘヘヘ」
そこへ、彼女が来たので、又八も親方もだまってしまった。
朱実は、提げてきた大きな盥を、柿の木の下におき、やがて、手桶の湯をあけた。
「又八さん、加減を見てよ」
「すこし、熱いな」
車井戸の音がきりきりする。又八は裸で駈けてゆき、手桶の水を取って来て、自分でうめて、すぐ入浴りこむ。
「ああいい湯だ」
親方はもう浴衣になって、糸瓜棚の下に竹床几を持ち出し、
「きょうは、西瓜は売れたかい」
と、訊く。
「知れたもんですよ」
又八は、指の股に、血が乾いていたのを見出して、気味わるそうに、手拭で落していた。
「そうだろうな、西瓜なんぞ売るよりはまだ、井戸掘り人足になって日傭稼ぎしたほうが、楽だと思うが」
「いつも、親方が、おすすめしてくれますが、井戸掘りになると、お城のなかへはいるんですから、滅多に、家へ帰れないでしょう」
「そうさ。御作事方のお許しが出なくっちゃ、帰るわけにゆかねえな」
「それじゃあ、朱実がいうには、淋しいから、やめてくれといいますんでね」
「おい、のろけかい」
「決して、あたし達は、そんな仲じゃございません」
「そうめんでも奢りなよ」
「――ア痛っ」
「どうしたい」
「頭の上から、青い柿が落ちて来やがったんで」
「ははは。のろけるからよ」
親方は渋団扇で、膝をたたいて笑った。伊豆の伊東の生れで、運平さんという名で界隈の尊敬をうけていた。年はもう六十すぎ、麻のようにもじゃもじゃした髪の毛をしているが、日蓮信者で朝夕は題目を称え、若い者達を、子ども扱いにするだけの体力をもっている。
この長屋の入口に、
お城御用あなほり土方口入れ
いどほりうん平宅
と立札にあるのは、この親方の家のことである。城郭の井戸の開鑿には、特別な技術がいるので、ただの井戸ほりではできない。そこで伊豆の金山ほりの経験のある自分が、工事の相談と人足の口入れに招かれて来たのである――とは、運平親方が、晩酌にやる焼酎のごきげんで、よく自慢する糸瓜棚の下のはなしだった。いどほりうん平宅
許可がなければ、家には帰さないし、仕事中も監視はつくし、留守宅の家族は、人質同様、町名主や親方の束縛もうけるが、その代り、御城内仕事は、外の仕事より、体も楽だし、賃銀はざっと倍額にもなる。
工事が終るまで、寝泊りも、御城内の小屋でするから、小費いもつかいようがない。
――だからそうして一ツ、辛抱してから、それを資本に、西瓜など売らずに、何か商売でもする工夫をしてはどうか。
隣家の運平親方は、前から又八へ、よくそういってくれていたが、朱実は首を振って、
「もし、又八さんが、お城仕事へ行くなら、わたしはすぐ、逃げちまうからいい」
と、脅すようにいった。
「行くもんか、お前ひとり置いて――」
又八も、そんな仕事はしたくないのである。彼がさがしているのは、体が楽で、もっと、体裁のいい仕事だった。
行水から彼が上がると、次には朱実が、囲いの戸板を殖やして、湯を浴み、ふたりとも浴衣になってから今も、その話が出たが、
「少しぐらい金になるからって、囚人みたいに、体を縛られる働きに出るなど、いやなこった。おれだって、いつまでも西瓜売りじゃいねえつもりだ。なあ朱実、当分貧乏暮しでも、辛抱しようぜ」
冷し豆腐に、青紫蘇のにおう膳をかこみながら、又八がいえば朱実も、
「そうともさ」
と、湯漬を喰べながらいった。
「一生に一遍でもいいから、意気地のあるところを見せてやりなさいよ。――世間の人に」
朱実が、ここへ来てから、長屋では、夫婦者と見ているらしかったが、彼女は、こんな歯がゆい男を、自分の良人に持とうとは思っていない――
彼女の、男を見る眼は、進んでいた。江戸へ来てから――殊に堺町の遊びの世界に身を置いているあいだに――多くの種々な型の男を見ていた。
その朱実が、又八の家へ逃げて来たのは、一時の方便にすぎなかった。又八を踏み台にして、再び、立ってゆく空をさがしている小鳥だった。
――だが、いま又八に、お城仕事になど行ってしまわれるのは、都合が悪かった。というよりも、身の危険であった。茶汲女をしていた頃の男――浜田某という牢人に、見つけ出される惧れがあるからである。
「そうそう」
飯が終ると、又八は、そのことについて、話し出した。
浜田につかまって、ひどい目に遭っていたところを、佐々木小次郎に助けられ、その小次郎が、此家へ案内しろといってきかないので、閉口したが、とうとう体よくいって、別れて来た――ということを審に、彼女の気を迎えるように、語り出したのである。
「えっ、小次郎に、出会ったんですって」
朱実は、もう顔いろを失いながら、息をついて、
「そして私が、ここにいるなどということをいったんですか。まさか、いいはしないでしょうね」
と念を押した。
又八は、彼女の手を、自分の膝へ取って、
「誰が、あんな奴に、おまえのいることなどいうものか。いったが最後、あの執念ぶかい小次郎がまた……」
――あっと、そこで、又八はふいに呶鳴って、自分の横顔を抑えた。
誰が抛ったのか。
裏の方から飛んで来た青い柿の実が一つ、ぐしゃっと、彼の顔に当ったのである。まだ固い青柿だったが、白い肉が砕けて、朱実の顔へもかかった。
もう夕月の藪の中を、小次郎に似た影が、涼しい顔して、町の方へ立ち去った。
「――先生」
と、伊織は追う。
その伊織の背丈より、秋近い武蔵野の草は高かった。
「はやく来い」
武蔵は、振向いて、草の中を泳いで来る雛鳥の跫音を時々待つ。
「道があるんだけれど、分らなくなっちまう」
「さすがに、十郡にわたるという武蔵野の原は広いな」
「どこまで行くんです」
「どこか、住み心地のよさそうな所まで」
「住むんですか、ここへ」
「いいだろう」
「…………」
伊織は、いいとも、悪いともいわない。野の広さと等しい空を見あげて、
「さあ? どうだか」
「秋になってみろ、これだけの空が澄み、これだけの野に露を持つ。……思うだに気が澄むではないか」
「先生は、やっぱり、町の中はきらいなんだな」
「いや、人中もおもしろいが、あのように、悪口の高札を辻々に立てられては、なんぼ武蔵が厚かましゅうても、町には居づらいではないか」
「……だから、逃げて来たの」
「ウむ」
「くやしいな」
「何をいうか、あれしきのこと」
「だって、どこへ行っても、先生のことを誰もよくいわないんだもの。おいらは、くやしいや」
「仕方がない」
「仕方がなくないよ。悪口をいうやつを、みんな打ち懲らして、こっちから、文句のあるやつ出て来いと、札を立ててやりたいや」
「いや、そんな、敵わぬ喧嘩はするものじゃない」
「だって、先生なら、無法者が出て来たって、どんな奴が対って来たって、負けやしないよ」
「負けるな」
「どうして」
「衆には負ける。十人の相手を打ち負かせば、百人の敵が殖え、百人の敵を追ううちには、千人の敵がかかってくる。どうして、敵うものか」
「じゃあ、一生、人に嗤われているんですか」
「わしにも、名には、潔癖がある。御先祖にもすまない。どうかして、嗤われる人間にはなりとうない。……だから、武蔵野の露にそれを捜しに来たのだ。どうしたら、もっと嗤われない人間になれるかと」
「いくら歩いても、こんな所に、家はないでしょう。あれば、お百姓が住んでるし……また、お寺へでも行って、泊めてもらわなければ」
「それもいいが、樹のある所へ行って、樹を伐り、竹を畳み、茅を葺いて、住むのもよいぞ」
「また、法典ヶ原にいた時のように?」
「いや、こんどは、百姓はせぬ。毎日、坐禅でもするかな。――伊織、おまえは書を読め、そしてみっしり太刀の稽古をつけてやろう」
甲州口の立場、柏木村から野へはいったのである。十二所権現の丘から、十貫坂とよぶ藪坂を下りてからは、ほとんど、歩いても歩いても、同じような野であった。夏草の波のなかに、消え消えになる細い道であった。
行くほどにやがて、笠を伏せたような、松の丘があった。武蔵はそこの地相を見て、
「伊織、ここに住もう」
と、いった。
行く所に天地があり、行く所に生活が始まる。鳥が巣を作るのから較べれば、二人の住む一庵を建てるのは、もっと簡素だった。近くの農家へ行って、伊織は一人の日雇いと、斧、鋸などの道具をやがて借りて来た。
草庵とまではゆかない、ただの小屋でもない、妙な家が、とにかく数日の間に、そこに建った。
「神代の家は、こんな物でもあったろうか」
武蔵は、外から、わが家をながめて、独り興に入っている。
木の皮と竹と茅と板とで出来ている。そして柱は附近の丸木である。
その家の中の壁とか、小障子とかに、ほんのわずかばかり使用されている反古紙が、ひどく貴重に見え、また、文化的な光と匂いをたたえ、やはり神代ではあり得ない住居を証拠だてている。
しかも、朗々と、藺のすだれの陰からは、伊織の読書の声がながれている。秋となっても、蝉の声はまだ旺だったが、到底、その伊織の声には敵わない。
「伊織」
「はいっ」
はいっ――と返辞した時は、伊織はもう彼の足もとに来てひざまずいていた。
近頃、厳しく慣らした躾である。
以前の童弟子、城太郎には、彼はこうしなかった。彼の振舞いたいように振舞わせ、それが、育つさかりの者には、よいことであり、人間を自然に伸ばすことだと考えていた。
武蔵自身がそう育てられて来たからである。――だが、年と共に、彼の考え方も変化して来た。
人間の本来の性質の中には、伸ばしてもいい自然もある。だが、伸ばしてはならない自然もある。
放っておくと、得て、伸ばしてはならない本質は伸び、伸ばしてもいい本質は伸びないものだった。
この草庵を建てるので、草や木を刈ってみても、伸びて欲しい植物は伸びず、醜草や邪魔な灌木は、刈っても刈っても、蟠って仕方がない。
応仁の乱この方、世の中の相は、文字どおり乱麻であった。信長がそれを刈り、秀吉が束ね、家康が地ならしと建築にかかりかけているが、まだ、まだ、危ないことは、附火木の火一ツで、天下を火となさんず気ぶりも蒸々と、西には満ちている。
だが、この永い乱麻の世相は、もう一転する秋だろう。野性の人間が、野性を大きく買われる時代は過ぎた。武蔵があるいた足跡の範囲だけを見ても、将来、天下が徳川になろうが豊臣の掌に帰ろうが、人心の一致している方向はすでにきまっている。
それは、乱麻から整理へ。また、破壊から建設へ。――要するに、求めても求めなくても、次期の文化が、人心の上へひたひたと潮を上げているのである。
武蔵は、独り思うことがある。
(生れたのが、遅かった)
――と。
(せめて、二十年も早く生れていたら、いや十年でも、間に合ったかも知れない)
――と。
自分が生れた時がすでに、天正十年の小牧の合戦のあった年である。十七歳には、あの関ヶ原であった。もう、野性の人間が用をなす時代はその頃から過ぎてしまったのだ。――今思えば、田舎から槍一本持って出て、一国一城を夢みるなどということは、おかしいほど、時代錯誤な田舎者の世間知らずであった。
迅い。時勢は急流のように早い。太閤秀吉の出世が、津々浦々の青年の血へ響いて来た時には、もう太閤秀吉の踏襲ではいけないのである。
武蔵は、伊織へ訓えるのに、そう考えずにいられなかった。そのために、城太郎とはちがって、殊に、躾を厳しくした。次の時代の侍を作り上げねばならぬと思った。
「先生。なにか御用でございますか」
「野末に大きな陽が落ちかけた。いつものように、木剣を把れ、稽古をつけてつかわそう」
「はいっ」
伊織は、二本の木剣を持って来て、武蔵の前におき、
「おねがい致します」
ていねいに頭を下げた。
武蔵の木剣は長い。
伊織の木剣は短い。
長い木剣は、青眼に、短い木剣も青眼に。いわゆる相青眼にあって、師弟は対い合っている。
「…………」
「…………」
草より出て草へ沈むという武蔵野の陽は地平線に仄かな余映を残していた。草庵の後ろの杉林はもう暗かった。蜩の声を仰ぐと細い月がその梢に忍び寄っている。
「…………」
「…………」
稽古である。勿論、伊織は武蔵の構えを真似て、自分も構えているのであった。打ってもいい、といわれているので、伊織は打って行こうとするが、思うように体が動かせないのである。
「…………」
「眼を」と、武蔵がいう。
伊織は、眼を大きくした。武蔵がまたいう。
「眼を見ろ。……わしの眼をくわっと見るのだ」
「…………」
伊織は、懸命に、武蔵の眼をにらもうとする。
だが、武蔵の眼を見ると、自分のにらみは刎ね退けられて、武蔵のにらみを、受けてしまうのである。
それでもなお、じっと怺えて、見つめていようとすると、頭が、自分の頭だか、ひとの頭だか分らなくなってしまう。頭ばかりでなく、手も脚も、五体すべて、うつつになってしまう。するとまた、
「眼を!」
と、注意される。
いつのまにか眼は、武蔵の眼の光から逃げるように、そわそわ動いているのだ。
はっと、それに心をあつめると、手に持っている木剣まで、伊織は忘れてしまうのだった。そして、短い木剣が、百貫の鉄の棒でもささえているように、だんだん重くなってくる。
「…………」
「眼。眼」
いいながら、武蔵が少しずつ前へすすんで見せる。
この時、伊織が、どうしても後へ退がりたがるので、それを幾十度も、きょうまで叱られて来た。――で、伊織は、武蔵に倣って、前へ出ようと努めるのだったが、武蔵の眼を見ていては、到底、足の拇指も、にじり出せないのである。
退がれば、叱られる。進もうとするが、進めない。伊織の体が、くわっと熱くなる。人間の手につかまれた蝉の体みたいにくわっと熱くなる。
この時、
(何を!)
と、伊織の幼い精神の中にも、鏘然と、火華が発しるのだった。
武蔵は、それを感じると、すぐ、彼の気を誘って、
「来いっ」
いいながら、魚が交わすように、さっと、肩を落しながら身を退いてやるのだった。
伊織は、あッといいながら、飛びかかる。――武蔵の姿はもうそこにはいない。――一転して振り向くと、自分のいたところに武蔵はいる。
そして、最初の時と同じ姿勢にまた、回るのであった。
「…………」
「…………」
いつかそこらは、しとどに夜露が綴っている。眉に似た月は、杉林の陰を離れ、そこから風の落ちてくるたびに、虫の音はみな息をひく。昼はさほどとも見えない秋草の花々も、顔を粧ってみな霓裳羽衣を舞うかのように戦ぎ立つ。
「…………」
「よし、これまで」
武蔵が、木剣を下ろして、それを伊織の手へ渡した時、伊織の耳に初めて、裏の杉林のあたりに、人声が聞えた。
「誰か来たな」
「また、泊めてくれと、旅の人が迷って来たんでしょ」
「行ってみろ」
「はい」
伊織は、裏へ廻って行った。
武蔵は竹縁に腰かけて、そこから見える武蔵野の夜をながめていた。もう穂芒が穂をそろえ、草の波には秋の光がある。
「先生」
「旅人か」
「違いました。お客様です」
「……客?」
「北条新蔵様が」
「お。北条どのか」
「野道から来ればよいのに、杉林の中に迷いこんで、やっと分ったんですって。馬を向うに繋いで、裏に待っておりますが」
「この家には、裏も表もないが――此方がよかろう、お連れ申してこい」
「はい」
家の横へ駈け廻って、
「北条さん、先生はこちらにいます、こっちへお出でなさいまし」
伊織が呶鳴る。
「おう」
武蔵は、立って迎え、すっかり、壮健になった新蔵の姿にまず、欣びの眼をみはった。
「ご無沙汰いたしました。怖らく人を避けてのお住居とは察しながら、押して突然、お邪げ申しました。おゆるしのほどを」
新蔵のあいさつに、会釈しながら武蔵は、縁へ誘って、
「ま。お掛け下さい」
「いただきます」
「よく分りましたな」
「ここのお住居で」
「されば。誰にも告げてないはずだが」
「厨子野耕介から聞いて承知いたしました。過日、耕介とお約束の観音様がお出来とかで、伊織どのが、届けられたそうで……」
「ははあ、ではその折、伊織がここの住所を喋舌ったとみえる。……いやべつに、武蔵もまだ、人を避けて閑居するなどという年齢ではありませぬが、七十五日も身を潜めていたら、うるさい噂も冷めようし、従ってまた、耕介などに禍いのかかる惧れもなくなろうかと思ったまでのことでござる」
「お詫び申さねばなりませぬ」
と、新蔵は、頭を下げて――
「みな、てまえのことからご迷惑を」
「いや、お身のことは、枝葉に過ぎない。原因はもっと遠いところにあるのです。小次郎とこの武蔵との間に」
「その佐々木小次郎のために、またしても、小幡老先生の御子息、余五郎どのが、殺害されました」
「えっ、あの子息が」
「返り討ちです。わたくしが仆れたと聞かれたので、一途に、彼奴を狙って、かえって落命なされたのでした」
「……止めたのに」
武蔵は、いつか小幡家の玄関に立った若い余五郎の姿を思いうかべ、可惜――と心のうちで、つぶやいた。
「しかし――御子息のお気もちも分るのです。門下はみな去り、かくいうてまえも仆れ、老先生も先頃病死なされました。――今は、というお気もちを抱いて、小次郎の家へ襲ってゆかれたものと察しられます」
「うむ。……まだわしの止め方が足らなかった。……いや止めたのが、かえって、余五郎どのの壮気をあべこべに駆りたてたかも知れぬ。かえすがえすも惜しいことを」
「――で、実はわたくしが、小幡家の跡を継がねばならぬことになりました。余五郎どののほかに老先生のお血筋もないので、すでに絶家となるところ、父安房守から柳生宗矩様へ実情を申しあげ、お骨折りで、師の家名だけは、養子の手続きを取って、残ることに相成りました。――しかし、未熟者のわたくしでは、かえって甲州流軍学の名家の名を、汚すようなものではないかと、それのみを惧れておりまする」
北条新蔵がことばの中に、父安房守といったのを、武蔵はふと、聞き咎めて、
「北条安房守どのと申せば、甲州流の小幡家と並んで、北条流の軍学の宗家ではありませぬか」
「そうです、祖先は遠州に興りました。祖父は小田原の北条氏綱、氏康の二代に仕え、父は、大御所家康公に見出され、ちょうど三代、軍学をもって、続いて来ております」
「その、軍学の家に生れた其許がどうして、小幡家の内弟子などになられていたのか」
「父の安房守にも、門人はあり、将軍家へも、軍学を御進講しておりますが、子には、何も教えませぬ。他家へ行って、師事してこい、世間から苦労を先に習んで来い――と申すような風の父でありますゆえ」
新蔵の物ごしや、そういう人がらのどこかに、そう聞けば、卑しくないところが見える。
彼の父は、北条流のながれを汲む三代目安房守氏勝であろう。そうすると、その母は、小田原の北条氏康の女である。人品のどこかに、下賤でないものが、仄見えるのは、道理であった。
「つい、余談に紛れましたが――」
と、新蔵はそこで辞儀をし直し、
「こよい、急に、お訪ねいたしたのも、実は、父安房守のいいつけで、本来、父の方からお礼に伺うところであるが、折からちょうど珍しいお客様も来あわせて、屋敷にお待ちいたしておるので、お迎えいたして来いと、いいつけられて参ったのでござりますが」
と、武蔵の顔いろを窺っていた。
「はて?」
武蔵は、まだ彼のことばが、よく酌めないらしく、
「珍しいお客が、其許のおやしきで拙者を待ちうけているから来い――という仰せかな?」
「そうです。恐縮ながら、てまえがご案内いたしますほどに」
「これから直ぐに?」
「はい」
「いったい、その客とは、誰方でござるか。武蔵にはとんと江戸には知己がないはずでござるが」
「御幼少からよくご存知のお方でござります」
「何、幼少から?」
愈

(誰だろう?)
幼少からといえば懐かしい。本位田又八か、或は、竹山城の侍か、父の旧知か。
ひょっとしたら、お通ではあるまいか? ――などと思いながらまた、その客とは一体誰かと訊くと、新蔵は窮した容子で、
「お連れして参るまで、名は明かさずにおれ。会って意外と欣び合ったほうが興があるから――と申されるのです。……お越しくださいましょうか」
と、いうのである。
武蔵は、頻りと、その分らぬ客に会ってみたくなった。お通ではなかろう。そう思いながら、また、心のすみで、
(お通かも知れないし)
と、思われたりする。
「参ろう」
武蔵は立って、
「伊織。先に寝め」
と、いった。
新蔵は、使いの面目が立ったと欣んで、早速、裏の杉林に繋いでおいた駒を縁先まで曳いて来た。
駒の鞍もあぶみも、秋草の露に、しとどに濡れていた。
「どうぞお召しを」
と、北条新蔵は、馬の口輪をつかんで、武蔵へすすめた。
武蔵は、敢て辞退せず、鞍上の人になって、
「伊織、先に寝め、わしの戻りは、明日になるかも知れぬ」
伊織も、外まで出て、
「行っていらっしゃいまし」
と、見送った。
萩、芒の中を、馬上の武蔵と、口輪を持つ新蔵の影とが――やがて、いちめんな露の彼方へ沈んで行った。
伊織は、ぽかんと、独りぼッちになって、竹縁に腰かけていた。この草庵に、独り留守をすることも、珍しくはない。また、法典ヶ原の一ツ家にいた頃のことを思えば、淋しくもない。
(眼。……眼)
伊織は、稽古のたび、武蔵からいわれることが、頭にこびりついて、今もすぐ、銀河の空を仰ぎながら、ぽかんと、それを考えていた。
(どうしてだろ?)
なぜ、武蔵の眼に睨まれると、あの眼を見ていられなくなってしまうのか、伊織には分らなかった。そして、少年の純な口惜しさが大人以上の一途となって、それを幼い思念で解こうとしていた。
そのうちに、彼は、草庵の前の一本の樹に絡んでいる野葡萄の葉蔭から、キラと、自分のほうを睨んでいる二ツの眼に出会った。
「……おや?」
生き物の眼である。それは師の武蔵が、木剣を持って自分を見る眼にも劣らない光を帯びている眼だった。
「……

伊織は、野葡萄の実へよく来るむささびの顔を覚えている。あの琥珀色の眼が、草庵から映す燈のせいか、妖怪のそれのように、怖ろしくぎらぎら光っているのだった。
「……畜生め。おいらが意気地がないと思って、むささびまでひとを睨んでやがるな。負けるか、おまえなどに」
伊織もまた負けない気になって、むささびの眼を、きつく睨み返した。
彼が、竹縁から、両肱を張って、息もせずに、そうしていると、何と、感じたものだろうか、依怙地で、猜疑ぶかくて、執念づよい小動物は逃げもせず、かえって鋭い光をその眼に加え、じいっと、いつまでも、伊織の顔を見ているのである。
――負けるか! 汝ごときに。
と、伊織も、見つめる。
長い間を、まったく呼吸もせずに、そうしていたのであったが、やがて、伊織の眼の力が、彼を、圧伏してしまったものか、野葡萄の葉が、カサと揺れたせつなに、むささびの影はどこへやら消えてしまった。
「ざまをみろ」
伊織は、誇った。
彼はびっしょり汗をかいていたが、何だか胸がせいせいして、こんど師の武蔵と立合う時には、今みたいに睨み返せばいいんだと思った。
彼は、藺すだれを下ろし、草庵の中で眠りについた。灯を消しても、藺すだれの隙間から、露明りが、青白く映している。
――彼自身では、横になると同時に、すぐ眠りにはいった気がしていたが、頭の中には、何か光る珠のような物が、ぎらぎらしていて、それがだんだん、むささびの顔のように、夢うつつの境に見えて来るのだった。
「……ウウム。……ううむ」
何度も彼は呻いた。
そのうちに、どうしても、その眼が夜具の裾のほうにいる気がしてならないので、むくり起き直ってみると、果たして、薄明るい蓆の上に、一匹の小動物が、くわっと自分を睨みつけているのだった。
「アッ、畜生っ」
枕元の刀を把って斬るつもりの伊織は、もんどり打って、刀と共に転び、さっと動いた藺すだれに、むささびの影が黒く止まっていた。
「畜生」
その藺すだれもズタズタに斬り、外の野葡萄も、乱離と斬って、なお、野を見廻していた伊織は、二ツの眼の行方を、天の一角に見つけた。
それは、青い大きな星だった。
どこかで、神楽笛の音が、遠く聞えるようでもある。夜祭でもあるのか、篝の火花が、森のこずえに、うす赤く映している。
馬でこそ、一刻だったが、口輪を把って付いて来た北条新蔵には、この牛込まで、かなりの道であったに違いない。
「ここです」
赤城坂の下。
一方は赤城神社のひろい境内であり、坂の道を隔てて、それに劣らぬ広い土塀をめぐらした宅地がある。
土豪の門のような、そこの構えを見て、武蔵は鞍を下り、
「御大儀」
と、新蔵へ手綱を返す。
門は開いていた。
彼が曳き込む駒のひづめが戛々と邸内へひびくと、待ちもうけていたらしく、紙燭を手にした侍たちが、
「お帰り」
と、出迎えて、彼の手からまた駒を受けとり、そして客の武蔵の先に立って、
「ご案内いたしまする」
と、新蔵と共に樹々の間を縫って、大玄関の前まで来る。
すでに、そこの式台には、左右に明るい燭台を備え、用人らしい者以下、安房守の召使がずらりと頭を下げていた。
「お待ちうけでござります。どうぞそのまま」
「――御免」
武蔵は、箱段を上って、家人の導くままに歩いた。
ここの家造りは変っていた。階段から階段へ、上へばかり登って行くのである。赤城坂の崖へ依って、櫓組みに幾部屋も、積み上げられてあるのであろう。
「しばらく、御休息を」
一室へ通して侍たちは退がってゆく。武蔵はそこへ坐るとすぐこの部屋の高い位置に気づいた。庭の崖先から真下に、江戸城の北の濠が見え、城壁をつつむ丘陵の森と対して、昼間はさぞと、ここからの展望も偲ばれるのであった。
「…………」
音もなく、火燈口のふすまが開く。
美しい小間使が、楚々と、彼の前に、菓子、茶、煙草などのもてなしを供え、無言のまま退がって行った。
その艶な帯や裾が、壁から出て壁へ吸われてゆくようにかくれると、後には、ほのかな香いだけが漂って、ふと武蔵に、「女」なるものを、忘れていた胸から思い起させた。
しばらくすると、小姓を従れた主がそこへ現れた。新蔵の実父安房守氏勝である。武蔵のすがたを見ると、非常に馴々しく――いや自分の息子たちと同年輩なので、やはり子どものように見えるのであろうか、
「や。ようお越し」
と、厳しい辞儀などを略して、小姓の設えた敷物へ、武将らしくあぐらをくみ、
「――聞けば伜の新蔵が、いかい御恩になったそうな。お越しを願うて、礼をいうなどは、逆礼じゃが、ゆるされい」
と、扇の先に、手を重ねて、高い頭をちょっと下げた。
「恐れ入る」
と、武蔵も、かろい会釈をして、安房守の年輩を見ると、もう前歯は三本も抜けているが、皮膚の艶は、老人ぎらいな負けん気をあらわし、少し白いのも交じってはいるが、太い口髯を、左右へ生やして、その髯がまた、歯のない唇のまわりの梅干皺を巧くかくしているのであった。
(子沢山な老人らしい。そのせいか、若い者にすぐ親しまれそうな人である)
武蔵はそう感じながら、彼もまた気軽にすぐ訊ねた。
「御子息から伺えば、私を存じおるお客が御当家に来合せておられる由。いったい誰方でござりますか?」
「今、お会わせする」
安房守は落着いて――
「よう其許を知っている人だ。――偶然にも、二人が二人とも、よく知っておる」
「では、客どのは、お二人とみえますな」
「どちらも、わしとは親しい友達、実はきょう御城内で出会ったのじゃ、そしてここへ立寄られて、よも山の話のうちに、新蔵が挨拶に出たことから、其許のうわさが始まった。――すると、客のひとりの方が、遽かに、久し振りで会いたいという。また一方も、会わせて欲しいという」
そんなことばかり述べたてていて、安房守もなかなか客が何人であるか明かさないのであった。
だが、武蔵は、うすうす解けて来た心地がした。にっと、微笑みながら試みに、
「わかりました。宗彭沢庵どのではございませぬか」
と、いってみると、
「やあ、あてたわ」
果たして、安房守は、小膝を打って、
「よう、お察しじゃ。いかにも、きょう御城内で出会うたのは、その沢庵坊。おなつかしかろう」
「その後は、実に久しく、お目にかかりませぬ」
一人の客が、沢庵であることはこれで分った。だが、もう一名は誰か、思い当りもない。
安房守は、案内に立って、
「ござれ」
と、部屋の外へ導いた。
そして外へ出ると、また、短い階段を上り、鉤の手に曲っている廊下を、奥深くはいって行った。
その辺で、ふと、先にいた安房守の姿が見えなくなった。廻廊も階段もひどく暗いので、勝手を知らぬ武蔵の足が、遅れがちであったせいもあろうが――それにしても、気の短い老人ではある。
「……?」
武蔵が足を止めて佇んでいると、燈りの映している彼方の座敷らしい内から、
「此方じゃ」
と安房守がいう。
「お」
眼は答えたが、武蔵の足は、一歩もそこから出ていない。
燈りの流れている縁側と、彼の立っている廊下との間を、約九尺ほどの闇が中断していて、そこの暗い壁の露地に、武蔵はなにか好ましからぬ物の気配を感じたのである。
「なぜござらぬ? ――武蔵どの、此方じゃよ、早う渡られい」
安房守は、また呼んだ。
「……はい」
武蔵は、そう答えずにいられない所に立っている。だが、彼はやはり前へ歩まなかった。
静かに、足を回らして、十歩ばかり戻ると、庭先へ出る手洗口がある。そこの沓脱石にある木履を穿いて、庭づたいに廻って、安房守が呼んでいる座敷の前へ出て行った。
「……あ。そこから」
と安房守は、何か、出し抜かれたような顔して、座敷の端から振り顧った。武蔵は意にもかけず、
「……おう」
と、座敷の内へ呼びかけて、床の正面に坐っている沢庵へ、心の底から笑顔を向けた。
「おう」
と、同じように、沢庵も眼をみはり、席を立って迎えながら、
「武蔵か」
と、これも懐かしそうに、待っていた、待っていた、と何度も繰返していうのだった。
さて、久しい邂逅である。二人とも、しばらくは、見飽くことなく、お互いの姿をただ眺め合うばかりであった。
しかも、場所も場所。
武蔵にとっては、なんだか、この世の対面とも思われぬ心地がするのだった。
「――まず、その後の事ども、わしから話そうか」
と沢庵はいう。
そういう沢庵は、昔ながらの、粗まつな僧衣で、決して金襴も、珠も、飾ってはいないが、どこか以前の彼とは、風貌もちがっているし、ことばの角もまろくなっている。
武蔵が、かつての野育ちから洗われて、昔ながらの一野人でも、どこかに温厚を加えて来たように、沢庵もようやく、その人間に、風格というようなものや、禅家の深みを備えて来たものであろう。
もっとも、武蔵とは、年齢も十一も違う。やがて沢庵は、四十に近いのである。
「この前、お別れしたのは、京都であったのう。――京都以来か。あの折、わしは母の危篤で、但馬へ帰った」
こう語り出して、
「母の喪に服すこと一年、まもなく旅へ出て、泉州の南宗寺へ身を寄せ、後には大徳寺へも参じ、また、光広卿などと共に、世の流転をよそに、歌行脚よし、茶三昧よし、思わず数年を暮して来たが近頃、岸和田の城主、小出右京進が下向に同道して、ぶらと、江戸の開けようを、ありのままいえば、見物に来たのじゃが……」
「ほ、では、近頃のお下向でござりましたか」
「右大臣家(秀忠)とは、大徳寺でも、二度ほど会うているし、大御所には、しばしば謁しておるが、つい江戸には、こん度が初めて。――して、お許には」
「私もつい、この夏の初め頃から――」
「だが、だいぶもう、関東でも、おぬしの名は、有名なものじゃの」
武蔵はぞっと、背すじに恥を覚えながら、
「悪名ばかり……」
と、俯向いた。
沢庵は、その体をしげしげ眺め入って、彼の「たけぞう」時代の姿を思い出しているらしかった。
「いや何、おぬしぐらいな年頃に、早くも、美名の高いのは、むしろどうかな? ……。悪名でも関うまい。不忠、不義、逆徒――そんな悪名でない限りは」
と沢庵はいって、
「さて、次には、そちらの修行――また、今の境遇など、訊きたいが」
と、問い出した。
武蔵は、この数年のあらましを語って、
「今もって、未熟、不覚、いつまで、真の悟入ができたとも思われませぬ。――歩めば歩むほど、道は遠く深く、何やら、果てなき山を歩いている心地でございまする」
と、述懐した。
「む。そうなくては」
と、むしろ沢庵は、彼の嘆息を正直な声として、欣びながら、
「まだ三十にならぬ身が、道のみの字でも、分ったなどと高言するようじゃったら、もうその人間の穂は止まりよ。十年先に生れながら、野僧なども、まだまだ、禅などと話しかけられると、背すじが寒い。――だがふしぎと、世間がこの煩悩児をつかまえて、法を聴聞したいの、教えを乞いたいのという。お許など、買いかぶられていないだけに、わしよりは、素裸じゃな。法門に住んで怖いのは、人を、ややともすると、生仏かのように、崇めこむことじゃよ」
ふたりが、話に熱しているまに、いつか、膳や銚子などが、運ばれて来ていた。
「……おう、そうそう。安房どの、亭主役じゃ。もう一方の客をお呼びして、武蔵どのへ、紹介せてもらいたいの」
と、沢庵が気づいていう。
膳は、四客分くばられてある。そしてここにいるのは、沢庵、安房守、武蔵と三名だけである。
姿の見えぬもう一名の客とは誰か?
武蔵には、もう分っていた。しかし彼は黙って控えていた。
沢庵にそう催促されると、安房守は、少しあわてた顔いろで、
「お呼びするかの?」
と、ためらった。
そして、武蔵の方を見て、
「ちと、こちらの画策が、其許に見事、観やぶられた形でな――。いささか、発案者のわしが、面目のうて」
と、意味ありげに、言い訳を先にする。
沢庵は、笑って、
「敗れたからには、潔う、兜をぬいで、打ち明けてしまったがよろしかろう。――ほんの、座興の企み、北条流の宗家じゃとて、そう権式を張っておるにも当るまいて」
と、いった。
「元より、わしの負けだ」
安房守は、そう呟いたが、まだ不審ないろをその顔に残して、自分の企みを割って話すと共に、武蔵へ向って、次のような質問をした。
「――実は、伜の新蔵からも、沢庵どのからも、お身様の人間は、よう承って、その上、お迎え申したことじゃが、失礼ながら、今の御修行がどれほどなものか、それは知るよしもなし、またお目にかかって、言葉の上で伺うよりも、まず先に、無言のうちに拝見いたそうかと――ちょうど居合わせた仁も然るべきお方ゆえ、如何? と計ったところ、畏まったと、すぐ呑みこまれて――真は、あれなる暗い廊下の壁露地に、そのお方が、刀の鯉口を切って、お待ちしていたものでござる」
安房守は、今さら、人を試すようなことをした所為を、自ら恥じているように、そこで、謝罪の意を示して――
「……それゆえに、実はわざと、てまえが此方から、渡られい、渡られい、と幾度も、罠へ誘うつもりで、お呼びしたのじゃが。――それをあの時、お許には、どうして、後へ戻って、庭さきから、此室の縁側へと、お廻りになられたのか? ……それが伺いたいものじゃて」
と、武蔵の顔を見入っていうのだった。
「…………」
武蔵は、ただ唇の辺に、にやにやと笑いを湛えるのみで、どうとも、その解説を与えなかった。
そこで、沢庵がいうには、
「いや、安房どの。そこが軍学者のお許と、剣の武蔵どのとの差じゃな」
「はて、その差とは」
「いわば、智を基礎とする兵理の学問と、心を神髄とする剣法の道との、勘の相違でござりましょう。――理からいえば、こう誘う者は、こう来なくてはならぬはずという軍学――。それを、肉眼にも、肌にも触れぬうちに、察知して、未然に、危地から身を避ける剣の心機――」
「心機とは」
「禅機」
「……では、沢庵どのでも、そうしたことがおわかりになるかの」
「さあ、どうだか」
「何にしても、恐れ入りました。わけて、世の常の者ならば、何か、殺気を感じたにしても、度を失うか、または、覚えのある腕のほどを、そこで見しょうという気になろうに――後へもどって、庭口から木履をはいてこれへお見えになった時は、実はこの安房も、胸がどきっと致しました」
「…………」
武蔵自身は、当然なことと、彼の感服にあまり興もない顔つきだった。むしろ、自分が主の目企みの裏を掻いたために、いつまでも、この座敷にはいり難くて、壁の外に佇んでいる者が気の毒になったので、
「どうぞ、但馬守様に、お席へお着きくださるよう、これへ、お迎えを願いまする」
と、いった。
「ええ」
これには、安房守ばかりか、沢庵もちょっと驚いて、
「どうして、但馬どのと、お許に分っておるのか」
と、訊ねた。
武蔵は、但馬守に、上座を譲るべく、席を退がりながら、
「暗うはござりましたが、あの壁の陰にひそと澄んでいた剣気、またここのお顔ぶれといい、但馬様を措いて、余人であろうとは思われませぬ」
と、答えた。
「むむ、御明察」
と、安房守が感嘆して、頷いて見せると、沢庵も、
「その通り、但馬守どのに相違おざらぬ。あいや、物陰のお人、もう知れておる。これへござあってはどうか」
室外へ向っていうと、そこで笑い声がひびいた。やがてはいって来た柳生宗矩と武蔵とは、いうまでもなく、初対面であった。
その前に、武蔵はすでに、末席に身を退いていた。但馬守のためには、床の間の席が開けてあったが、彼はそこへ坐らずに、武蔵の前へ来て、対等の挨拶をした。
「身が、又右衛門宗矩でござる、お見知りおき下さい」
武蔵もまた、
「初めて御意を得ます。作州の牢人、宮本武蔵と申す者、何分、この後は御指導を」
「先頃、家臣木村助九郎から、お言伝ても承ったが、折わるく、国許の父が大患での」
「石舟斎様には、その後の御容態、いかがにございまするか」
「年齢が年齢でござれば、いつとも……」
と、語尾を消して、
「いや、あなたのことは、その父の手紙にも、また沢庵どのからも、よく聞いておりました。――わけて、唯今のご要意には感じ入る。不作法には似たれども、かねがねこの身へ御所望の試合も、これで果したと申すもの。お気に障られな」
温厚な風が、武蔵の貧しい姿を和らかにつつむのであった。うわさに違わず、但馬守は聡明な達人であると、武蔵もすぐ感じた。
「おことば、痛み入りまする」
武蔵は自然、彼の挨拶以上に、身を低くして、そういわざるを得ない。
但馬守は、たとえ一万石でも、諸侯の列に在る人である。その家格からいっても、遠く天慶年代から柳生ノ庄の豪族として知られ、しかも将軍家の師ではあり、一介の野人にすぎない武蔵とは、比較にならない権門の出である。
同席して、こう語りあうことすらが、すでに当時の人の観念では破格であった。だが、ここには旗本学者の安房守もいるし、また、野僧の沢庵も、極めて、そういう隔てにはこだわらずにいるので、武蔵も救われた心地で坐っていた。
やがて、杯を持つ。
銚子を酌み交わす。
談笑がわく。
そこには、階級の差もない、年齢のへだてもない。
武蔵は、思うに、これは自分への待遇ではなく、「道」の徳であり、「道」の交わりなるがために、許されているのである。
「そうだ」
沢庵は、何を思い出したか、杯を下におきながら、武蔵へ、
「お通はどうしておるの? ……近頃」
と、ふいに訊ねだした。
その唐突な問いに、武蔵は、ちょっと顔を紅らめ、
「どうしておりますやら、その後はとんと……」
「とんと、知らんのか」
「はい」
「それは不憫。あれも、いつまで知らぬままにはしておけまい。其許としても」
宗矩がふと、
「お通とは、柳生谷の父の許にもいたことのあるあの女子のことか」
と、いう。
「そうじゃ」
沢庵が代って答えると――それならば今、甥の兵庫と共に、国許へ行って、石舟斎の看護をしてくれている筈――と宗矩が話し、
「武蔵どのとは、そんな以前からの、お知り合いか」
と、眼をみはる。
沢庵は、笑った。
「お知り合いどころではおざらぬよ。はははは」
兵学家はいるが、兵学の話はしない。禅僧はいるが、禅のぜの字もいわない。剣の但馬守、剣の武蔵もいながら先刻から、剣道のことなどは、おくびにも話題には上らないのである。
「武蔵どのには、ちと面映ゆかろうが」
と、沢庵が、かろく戯れながら断って、一頻り今、話の種にしていたのは、お通のことで、彼女の生い立ちやら、武蔵との間がらを打ち明けて、
「この男女は、いずれどうにかせねばならぬが、野僧の役には向かぬ。ひとつ御両所のお力添えを借りるのじゃな」
と、それを基礎に、暗に武蔵の身の落着きを、但馬守と安房守へ計るような、沢庵の口うらであった。
ほかの雑談のうちにも、
「もう、武蔵どのも御年輩。一家を構えられてもよかろう」
と、但馬守もいい、安房守も共に、
「御修行も、これまで積めばもう十分――」
と、口を協せて、それとなく武蔵に、長く江戸へ留まることを最前からすすめているのであった。
但馬守の考えでは、今すぐではなくても、お通を柳生谷から呼び戻し、武蔵に娶せて、江戸に一家を持たせたら、柳生、小野の二家に加えて、三派の剣宗が鼎立し、目ざましいこの道の隆盛期を、この新都府に興すであろうと思うのであった。
沢庵の気もちも、安房守の好意も、ほぼそうした考えに近かった。
殊に、安房守としては、子息の新蔵が受けた恩義に酬いるためにも、
(ぜひ、武蔵どのを将軍家御師範の列に御推挙したい)
と、いう考えを抱いていて、それは新蔵を使いにやって、武蔵をここへ呼び迎える前に、話し合っていたことなのである。
(一応、彼の人間を見て)
というので、話は決まっていなかったが、武蔵を試した但馬守には、もうそれも分っている筈だし、素姓、性格、修行の履歴などは、沢庵が保証するところであるから、これにも、誰も異議はない。
ただ、将軍家の師範に推挙する場合は、当然、旗本に列しなければならない。これには、三河以来の譜代者がたくさんいて、徳川家が、今日を為してから新規に抱える者に対しては、とかく白眼視する傾きもあり、近頃、うるさい問題も起っているので――難といえばただそこに難関はある。
だが、これも沢庵が口添えしたり、両人の推挙があれば、通らないこともなかろう。
もう一つの困難と想像されるのは家柄のことである。武蔵は勿論、系図書などは持っておるまい。
遠祖は赤松一族で、平田将監の末裔とはあっても、確証はなし、徳川家との縁故もない。――あるのはむしろ反対に、無名の一戦士としてではあったが、関ヶ原の折、槍一筋でも持って、徳川の敵に立ったという不利な経歴ぐらいなものである。
だが、関ヶ原以後、たとえ敵方であった牢人でも、ずいぶん召抱えられている例はある。また、家格のことも、小野治郎右衛門のごときは、伊勢松坂にかくれていた北畠家の一牢人であったのが、抜擢されて、今では将軍家師範となっている前例もあるので、これとて案じるほどの障害にはならないかもしれない。
「――とにかく、推挙してみようが、ところが、かんじんな、其許の肚は、どうおざるな」
沢庵が、こう話の結びへ持って来て、武蔵に糺すと、
「身に過ぎたお心添えにござります。――なれどまだ、この身一つの埒すらあかぬ未熟者」
いいかけると、
「いやいや。それゆえ、もう埒をつけてもよかろうと薦めるのじゃ。一家を構える気はないのか。お通もあのままにしておくつもりか」
沢庵は率直に問いつめた。
お通をどうするか。それを問われると、武蔵は、責められる心地がする。
(不運となるとも、わたしはわたしの心で)
とは、彼女が、沢庵へもいったことだし、武蔵にも常にいっていることばであったが、ひとは許さない。
ひとは、男の責任とする。
女が、女自身の心でうごいて来ても、その結果のいいわるいは、男のせいにあると観る。
――自分のせいではない。などとは武蔵も決して思いはしなかった。いや思いたくない心のほうが強い。やはり彼女は恋にひかれて来たと思う。そして、恋の罪は、ふたりが負うべきものと知っていた。
けれど、さて、
(彼女の身をどうするか)
と、なると、武蔵には、胸のうちだけでも、的確な答が出て来ない。
その根本には、
(まだ、一家など構えるのは、自分としては早過ぎる)
と、いう考えが、潜んでいるからであった。入れば入るほど、深い、遠い、剣の道へのひたむきな欲求が、そのために少しも、紛れようともしないからであった。
もっと、打割っていえば。
武蔵の胸には、法典ヶ原の開墾からこっち、剣に対するそれまでの考えが一変して、まったく従来の剣術者とは観点のちがった方へ、彼の探求は向って来ている。
将軍家の手をとって、剣を教えるよりは土民百姓の手をとって、治国の道を切り拓いてみたい。
征服の剣、殺人の剣は、かつての人々が揮って、その行くところまで行きついている。
武蔵は、開墾地の土に親しんでから、その上へ行く剣を、道を――どんなにつきつめて考えてみたことか。
修める、護る、磨く――この生命と共に、人間が臨終の際まで、抱きしめていられるような剣の道が立つとしたら――その道をもって、世を治めることはできないか、民を安んぜしめることは不可能か。
それからは――彼は敢て、単なる剣技を好まなくなった。
いつか伊織に手紙をもたせて、但馬守の門を窺わせたのも、かつて、柳生の大宗を仆すべしとなして、石舟斎に挑んだような、浅い覇気では決してなかった。
で――武蔵の今の希望としては、将軍家の師範となるよりは、小藩でもよい、政機に参与してみたい。剣の持ち方を説くよりも、正しい政治を布いてみたい。
嗤うだろう。
おそらく今までの剣術者が、彼の抱負を聞いたら、
(大それた!)
と、いうか、
(若いやつだ)
と、一笑するか、さもなければ、政治に触れたら人間は堕落する、殊に純潔を尊ぶ剣は曇ってしまう――と、彼を知る者なら、彼のために、惜しむであろう。
ここにいる三名の人々も、自分の真底をいえば皆、前のうちのどれか一つの言を為すにちがいないと、武蔵にもそれは分っている。
で――武蔵は、ただ未熟を理由として、何度も、断ったが、
「まあ、よい」
沢庵は、簡単にいうし、安房守もまた、
「とにかく、悪いようにはいたさぬ。われわれに任しておかれい」
と、のみ込んでしまう。
更けてくる――
酒は尽きないが、燭は時々、灯の暈をかぶった。そのたびに、北条新蔵は、灯を剪りに来て、ここの話を耳に挟み、
「まことに、よいお話で。皆様の御推挙が通り、それが実現すれば、柳営武道のためにも、武蔵どののためにも、もう一夕、宴を張って、お杯を挙げてもよろしゅうございますな」
と、父へもいい、客たちへもいった。
――今朝、起きてみると、姿が見えないのである。
「朱実」
又八は、台所から首を出して、呼んでみた。
「……いねえぞ?」
小首を傾げる。
前から、予感がないでもなかったので、押入を開けてみると、ここへ来てから作った、彼女の新しい衣裳もない。
又八は、顔いろを変え、すぐ土間の草履を穿いて、外へ出た。
隣家の、井戸掘り親方の運平のうちも覗いてみたが、見えなかった。
又八は、いよいよあわて気味に、
「うちの朱実を知りませんかね……」
長屋から、往来の角まで、訊き歩いて出て行った。
「見たよ、今朝」
と、いう者がある。
「ア。炭屋のおかみさんですか、どこで見かけましたか」
「いつもと違って、美麗におめかししているので、何処へといったら、品川の親類までといっていたが」
「え。品川へ」
「あっちに、身寄りがあるのかえ」
この界隈では、彼を亭主とおもい、彼も亭主顔しているので、
「へい。……じゃあ、品川へ行ったのかもしれません」
追いかけて――というほど強い執着ではない。なんとなく、ほろ苦いのだ。舌打ちをしたいような忌々しさがやたらに着きまとう。
「……勝手にしやがれ……」
唾をして、又八はつぶやいた。
そのくせ、ぶらんと放心した顔つきで、浜のほうへ歩いて行った。浜は、芝浦街道を横ぎると、ついそこだった。
漁師の家がまばらにある。朝、朱実が飯を炊いているまに、浜へ来て、網からこぼれる五、六尾を葭に通し、提げて帰ると、ちょうどお膳ができていたものである。
その魚が、砂の上に、今朝もこぼれていた。まだ生きているのもある。だが、又八は拾う気も出なかった。
「どうなすったえ、又さん」
背を打たれて、おや誰か、と振向いてみると、五十四、五の肥り肉な町人が、豊かな福相に、眼皺をたたえて笑っていた。
「あ。表の質屋の旦那でしたか」
「朝はいいね、清々しくて」
「ええ」
「毎日、朝めし前には、こうして海辺をお徒歩いかね。養生にはいちばんいいからな」
「どういたしまして、旦那のような御身分なら、歩くのも養生かもしれませんが……」
「顔いろがよくないな」
「へえ」
「どうかしたのかい」
「…………」
又八は、一握りの砂を拾って、風の中へ撒いていた。
急場の算段をしに行くたびに、又八も朱実も、いつもこの質屋の旦那とは、店で顔を突きあわせていた。
「そうだ。いつか折があったらと思い思い、いい機もなく過ぎていたが、又さん、おまえ今日は、商いに行くのかい」
「なんですか。行ったって行かなくたって、西瓜や梨を売っていたんじゃ、どうせ埒はあきやしません」
「鱚を釣りに行かないか」
「旦那――」
と、又八は、悪いことでも詫びるように、頭を掻いて、
「あっしゃあ、釣はきらいですが」
「何さ、嫌いなら、釣らなくてもいい。――そこにあるのは家の持舟だが、ただ沖まで出てみるだけでも、気が晴れるぜ。棹ぐらいは突けるだろう」
「へい」
「まあおいでよ。おまえに、小千両も儲けさせてやろうという相談だ――。嫌かい」
芝浦の浜から五町も沖へ出たが、そこらもまだ、棹の立つほど浅かった。
「旦那、あっしに、金を儲けさせてやるってえのは、一体どんなお話ですか」
「まあ、悠りと……」
と、質屋の旦那という男は、巨きな体を、ずしりと小舟の胴の間に坐らせて、
「又さん、そこの釣竿を舷から出しておくといいな」
「どう出しておくんで?」
「釣をしていると見えるようにさ。――海の上だって、あの通り人目があらあな。用もない舟で、二人が首を突き合せていたら、疑われるだろうじゃないか」
「こうですか」
「む、む、それでいい……」
と、陶器作りの煙管に、上等なたばこをつめて、くゆらしながら、
「わしの肚をはなす前に、又八さんに訊くが、おまえの住んでいる長屋の衆などは、この奈良井屋をどう噂しているね?」
「お宅のことですか」
「そう」
「質屋といえば、因業ときまっているが、奈良井屋さんは、よく貸してくれる。旦那の大蔵様は、苦労人でいらっしゃると……」
「いや、そんな質屋稼業のことでなく、この奈良井屋の大蔵を」
「よいお人だ、お慈悲ぶかい旦那だと、まったく、お世辞ではなく皆申しておりますが」
「わしが、信心家だということは誰もいわないか」
「さ、それだから、貧乏人を庇って下さるのだろうと、そのことは、ご奇特なことだと、いわない人はございません」
「奉行所の町方などが、なにかわしについて、聞き歩いたようなこともないかね」
「そんなことは……どういたしまして、あるわけがない」
「はははは、つまらないことを訊くと思うだろうな。だが、実をいえば、この大蔵は、質業じゃない」
「へ……?」
「又八」
「へえ」
「金も小千両と纏まった大金となると、おまえの生涯にも、二度と、そんな運にぶつかるかどうかしれないぜ」
「……多分、それやあ、そうでございましょうね」
「つかまないか、ひとつ」
「何をで?」
「その大金の蔓を――だ」
「ど、どうするんです」
「おれに約束すればよい」
「へ……へい」
「するか」
「します」
「途中でことばを違えると首がないぞ。金は欲しかろうが、よく考えて返辞をしたがよい」
「何を――いったい――やるんですか?」
「井戸掘りだ。仕事は、造作もないこった」
「じゃあ、江戸城の中の」
大蔵は海を見まわした。
材木や伊豆石や、城普請の用材をつんだ船が、誇張していえば、舳艫をつらねてといえるほど、江戸湾に、それぞれの藩旗を並べていた。
藤堂、有馬、加藤、伊達――中には細川家の船旗も見える。
「……勘がいいなあ、又八」
大蔵は、煙草をつめ直して、
「その通り――ちょうどおめえの隣家には、井戸掘り親方の運平が住んでいるし、その運平から、いつも井戸掘り人足になれとすすめられてもいるだろう。渡りに舟というものじゃねえか」
「それだけでげすか。……井戸掘りに行きさえすれば、何かあっしに、大金の授かることがあるんでしょうか」
「ま。……あわてるな、相談というなあ、それからだよ」
――晩に忍んで来い。前金として黄金三十枚、耳をそろえて渡してやろう。
そう約して別れた。
又八の頭には、大蔵のいったその言葉しか、残っていない。
その代償として、
(やるか)
と大蔵から持ち出された条件に対しては、その内容を漠然と呑みこんで、
(やる!)
と、いったことだけしか後に覚えていないのである。しかし、そう答えた時、怪しく顫えた唇には、まだ微かな痺れが残っている気はしているが――
何としても、又八にとっては、金が魅力であった。しかも途方もない額である。
年来の不運はその金だけで埋め合せがつく。そして生涯の生活を保証される。
いや彼の心には、そうした慾望そのものよりも、きょうまで、自分を小馬鹿にした世間の、ありとあらゆる奴らに、
(どうだ)
と、見返した顔をしてやりたい――とする、その魅惑のほうが強かったに違いない。
舟から陸へもどって、長屋の家に帰って、ごろんと、仰向けに寝ころんだ後も――頭の中を占めているのは、金の魔夢であった。
「そうだ、運平さんに、頼んでおかなくっちゃあ……」
思いついて、隣家をのぞいたが、運平親方は出かけていない。
「じゃあ、晩にまた」
と、家へ帰って来たが、熱病に憑かれたように、落着かなかった。
それからやっと、彼は、海の上で質屋の大蔵に命じられたことを思い出して、ぶるぶると人もいない裏藪や表の露地を見まわした。
「いったい、何だろ? あの人は……」
今になって、それを考えてみるのだった。それと共に、舟の上で大蔵から命じられたことを思い出してみた。
井戸掘り人足は、江戸城の中の、西の丸御新城とよぶ作事場へはいる。――と、そんなことまで大蔵は知っていて、
(機を窺って、新将軍の秀忠を鉄砲で撃止めろ)
と、いうのであった。
また。
それに使う短銃は、こちらの手で城内へ埋け込んでおく。
その場所は、紅葉山下の西の丸裏御門の内にある、樹齢数百年という巨きな槐の木の下とし、そこに、鉄砲も火縄も、併せて隠しておくから、掘り起して、密かに狙え――ともいった。
もちろん、作事場の監視は厳密にちがいない。奉行、目附などの警戒も元よりであろうが、秀忠将軍は若くて闊達だ。よく侍側を従えて普請場へも現れるという。そんな折、飛び道具なら瞬間で目的を果すことができよう。
咄嗟の騒ぎに乗じてすぐ火を放ち、西の丸の外濠へ飛びこめば、そこにはわれわれの仲間が救いの手を伸ばしているから、屹度助け出してやる――
ぽかん、と天井を見ながら又八は、大蔵から囁かれた声を、頭の中で繰返していた。
肌がそそけ立ってくる。
あわてて、跳ね起きて、
「そうだ、とんでもないこった。今のうちに断って来よう!」
と、気がついたが――また、あの時、大蔵から、
(――こう話したからには、もしお前さんが、嫌だといえば、気の毒だが、おれの仲間が三日のうちに、きっと寝首をもらいにゆくぜ)
と、いわれたのが、その時の凄い眼つきと共に、そこらに見えて来る気がした。
西久保の辻を、高輪街道の方へ曲って、もう夜半の海が、横丁の突き当りに見えている四つ角。
いつも見る質屋倉の壁を、横に仰いで、又八は露地の裏木戸をそっと叩いた。
「開いているよ」
中ですぐ誰かがいう。
「お……旦那で」
「又八さんか。よく来てくんなすった。倉へ行こう」
と、雨戸をはいって、廊下づたいに、すぐ土蔵の中へ導かれた。
「さ、坐るがいい」
主の大蔵は、蝋燭立を、長持の上において、肱をかけた。
「隣の運平親方のところへ行ってみたかね」
「へい」
「で――どうしたい?」
「承知してくれました」
「いつ、お城へ入れてくれるというのか」
「あさって、新規の人足が、十人ばかりまたはいるそうで、その時に、連れて行ってやろうといってくれました」
「じゃあ、その方は、きまったんだな」
「町名主と、町内の五人組の衆が、請判を捺してくれさえすればいいことになっております」
「そうか。はははは。おれもこの春から、町名主のすすめで、強ってといわれて、その五人組のひとりになっているんだ。……そのほうは心配なし通るぜ」
「へ。旦那も」
「何を驚いた顔しているんだ」
「べつに、驚いたわけじゃございませんが」
「はははは、そうか、おれみたいな物騒な人間が町名主の下役をする、五人組衆にはいっているので呆れたというわけか。――金さえあれば、世間はおれみたいな人間でも、やれ奇特人の、慈悲ぶかいのと、こっちで嫌だといっても、そんな役付まで持ちこんで来るんだよ。――又さん、おめえも、金をつかむこったぜ」
「へ、へい」
又八は、何かしら、急に胴ぶるいをしながら、早口を吃らせていった。
「や、やります! だ、だから手付の金をおくんなさい」
「お待ち」
手燭と一緒に立って、大蔵は倉の奥へ首を入れ、棚の手文庫から三十枚の黄金を鷲づかみに持って来た。
「入物を持っているか」
「ございません」
「これにでも巻いて、胴巻へしっかり抱いてゆくがいい」
そこらにあった更紗の襤褸を投げてやる。
――と、又八は数えもせず巻き込んで、
「何か、受取でも、書いて参りましょうか」
「受取?」
思わず笑って、
「可愛らしい正直者だのう、おめえは。受取はいい。間違ったら、そこに持っている首を抵当にもらいに行くばかりだ」
「じゃあ、旦那、これでお暇を……」
「待て待て。手付金だけ受取ったからいいやで、忘れるなよ、きのう海の上で、いいつけたことを」
「覚えております」
「御城内の西の丸裏御門の内――そこにある巨きな槐の樹の下だぞ」
「鉄砲のことで?」
「そうだ。近いうちに、埋けにやるからな」
「え。誰が埋けにゆくんで」
又八は、解せない顔して、眼をみはった。
口入れ親方の運平の手から、町名主や五人組の請判付きで、身ひとつで御城内にはいるのさえ並たいていな厳しさではないのに、どうして外部から鉄砲や弾薬などを持ちこむことができるのか。
そして、約束どおり半月後に、西の丸裏御門の内の槐の下へ、誂えたように、埋けておくなどということは、神業でもなければ、なしうる筈のものではない。
又八が、そう疑って、まじまじと大蔵の面を見つめていると、
「ま、その方のことは、おめえが気を揉まなくてもいいから、おめえは、自分の役割だけをしっかりやってくれ」
と、大蔵は深くいわず、
「まだ、ひき受けたものの、おめえも恟々しているだろうが、御城内へはいってから、半月も働いているまには、自然、肚もすわってくる」
「自分も、それを頼りに思っていますが」
「その肚が、ぐっと出来てから、うまく機会をつかむのだな」
「へい」
「それと、抜かりはあるめえが、今渡した金だ。仕遂げてしまう後までは、どこか人目にかからぬ所へ隠しておいて、手をつけちゃあならねえぞ。……とかく未然に事の破れるのはいつも金からだからの」
「それも考えておりますから、ご心配には及びません。……ですが旦那、首尾よく仕遂げた後で、後金はやれねえなんて苦情は出やしますまいね」
「ふ、ふ。……又さん、口幅ったいようだが、この奈良井屋の蔵には、金なんざ、千両箱であの通り重ねてある。眼の楽しみに眺めてゆくがいい」
手燭を揚げて、大蔵は埃だらけな蔵の隅を一巡した。
膳箱だの、鎧びつだの、何の箱か知れないものが雑然とみえた。又八は、よく見もしないで、
「お疑いしたわけじゃございませんが」
と、言い訳して、なお、半刻ばかりそこに密談していたが、やがて、やや元気になって、元の裏口からそっと帰って行った。
彼が、出て行くとすぐ、
「おい、朱実」
大蔵は、灯りのついている障子の内へ、顔を入れて、
「あの足ですぐ、金を埋けに行ったろうよ。試しに尾けて行ってみな」
湯殿口から、誰か出てゆく跫音がした。見ると今朝、又八の家から姿を消したばかりの朱実ではないか。
近所の者に出会って、
(品川の親類へゆく)
などといったのは、勿論、彼女のでたらめであった。
質ぐさを抱えて、何度か、此処へ通ううちに、主の大蔵の眼は、いつのまにか、朱実を擒にして、朱実の今の境遇や心もちまで、聞いてしまった。
もっとも、彼と彼女とは、近頃初めて会ったわけではない。彼女が、中山道を江戸下りの女郎衆と共に、八王子の宿まで来た時、そこで泊り合せた旅籠で、彼女は、城太郎の連れだという大蔵を見かけていたし、大蔵は二階から、陽気な一座の中に、朱実の姿を見て、薄ら覚えに記憶はしていたのである。
(女手がなくて、困っているところだが)
と、大蔵が謎をかけると、朱実は一も二もなくここへ逃げて来てしまった。
大蔵にとれば、その日から、朱実も役に立ち、又八も役に立つのであった。又八の始末はすると前からいっていたが、思い合すと、それが今日のことらしかった。
……何も知らない又八の影は、朱実の先を歩いて行った。いちどわが家へ戻って鍬を持ち出し、夜もすがら裏藪のあたりを歩いていたが、やがて、西久保の山へ上って、その金を埋けていた。
朱実が、それを見届けて来て、大蔵に告げると、大蔵はすぐ出て行った。――そして彼が帰って来たのは明け方だったが、掘出して来た金を、土蔵の中で調べてみると、三十枚渡した黄金が、どう数えても二枚不足しているので、損失でもしたように、頻りと小首をかしげていた。
悲心の闇、悲母の迷い、風流を解すおばばではないが、秋の虫、萩すすき、前にはゆるい大川のながれ。――こうした中に身を置いては、彼女も、もののあわれに誘われぬ人間ではあり得ない。
「いるのか」
「誰じゃ」
「半瓦の部屋のもんだよ。葛飾から野菜物がたくさん届いたから、ばば殿のところへも頒けてやれと親方が仰っしゃるんで、一背負い持って来た」
「いつも、お心深いことのう、弥次兵衛どのによろしゅういって下されよ」
「どこへ置こうか」
「水口の流し元へ置いといて下され。後で仕舞うほどに」
小机の側に灯を掲げて、彼女はこよいも筆を執っている。
千部写経の悲願をたてた、例の父母恩重経の行を積んでいるのであった。
この浜町の原の一軒家をかりうけて、昼間は、病人に灸点をして困らぬながら糊口の生業もし、夜は静かに写経などして、ひとり暮しの気易さに馴れてからは、持病も久しく起らないし、この秋は、体もめっきり若返ったふうである。
「あ。ばば殿」
「なんじゃ」
「夕方、若い男が、訪ねて来なかったかい」
「灸点のお客か」
「うんにゃ、そうでもねえ様子だったぜ、なんだか用ありげに、大工町の部屋へ来て、おばばの引っ越し先を教えてくれといって来たが」
「幾歳ぐらいな男かの」
「そうさ、二十七、八かな」
「面ざしは」
「どっちかといえば丸っこい――そう背は高くなかったな」
「ふム……」
「来なかったかい、そんな人は」
「来ぬがの……」
「ばば殿のことばと、訛もよく似ていたから、国者じゃねえかと思ったが。……じゃあ、お寝み」
使いの男は、帰って行った。
その跫音が去るとまた、やんでいた虫の音が、雨のようにこの家をつつんだ。
ばばは、筆を擱いて、灯の暈を見つめていた。
ふと、彼女が思いだしたのは、燈火の占いであった。
明けても暮れても戦ばかり多かった彼女の娘時分には、戦に出ている夫とか、子とか、兄弟とかの便りを知る術もないし、また、自分たちの明日も知れぬ運命に顫いて、よくその頃の人々は「燈火占」というものを口にしていた。
宵ごとに点す灯を見て、灯の暈が華やかに映しているから吉事があるとか、灯の色に紫色の陰があるから誰か死んだ知らせに違いないとか、灯が松葉のようにはぜたから待ち人が来るとか……。
そうして、憂いたり、喜んだりした。
遠い娘時代の流行り事であるから、彼女ももうその占い方さえ忘れていた。けれど、こよいの灯は、なんとなく、彼女に吉い事があるように、そよめき立っている気がする。そう思うせいか、ぽっと、虹いろの暈まで映して美しい。
「もしや、又八じゃないか」
そう思うともう、筆も持っていられない。彼女は恍惚と、愚かなる子の面影をえがいて、半刻や一刻は、身も世もわすれてそれのみを考えていた。
がさっ――と裏口で何やら物音がして、ばばの、うつつを醒ました。また悪戯な鼬でもはいって、台所を荒しているのであろうと、ばばは、灯を持って立って行った。
さっき、男が置いて行った野菜物の上に、何か、手紙のような物が見える。何気なく披いてみると二枚の黄金がつつんであって、その包み紙に、
まだ会う顔も候わず、もう半年ばかりの不孝、平におゆるしをと、そっと窓よりお別れを告げて、立ち去り申し候
又八
と書いてあった。草を蹴って駈けて来た一人の殺伐な風を帯びた侍が、
「浜田、違ったのか」
と、寄って来るなり喘いでいった。
大川端に立って、河原を見まわしていた方の侍は二人で、浜田とよばれたのは、まだ部屋住みらしい若者で、
「むむ……違った」
と、呻きながら、なお、何者かを探すように、ぎらぎらと眼をくばっていた。
「たしかに、彼奴とみえたが」
「いや船頭だった」
「船頭か」
「追いかけて来たところ、あの船へはいってしもうた」
「でも、何ともしれぬぞ」
「いや調べてみた。まったく別人なのだ」
「はてな?」
と、こんどは三人して、河べりから浜町の原を振り向いて、
「夕方、大工町でちらと見かけて、確かに、この辺までは追いこんだものを。――逃足の早い奴」
「どこへ失せたか」
川波の音が、耳につく。
三名はなお佇んだまま、各

――すると。
又八……。又八……。
少し間を措いて再び、原の何処かを、同じ声がながれて行った。
「又よう……。又八っ……」
初めは、耳のせいと疑っていたのであろう。三名とも黙っていたが、急に、眼を見あわせて、
「や。又八と呼んでおるぞ」
「老婆の声だが」
「又八といえば、彼奴のことではないか」
「そうだ」
浜田という部屋住みの若者がまっ先に駈け出し、後の二人もつづいて駈けた。
声を目あてに、追いついたのは造作もなかった。先は、老婆の足である。それに、彼らの跫音を聞くと、かえって、お杉ばばは、自分の方から駈け寄って、
「その中に、又八は居やらぬか」
と、呼びかけた。
三名は、ばばの両手、襟がみを、三方からつかんで、
「その又八を、われわれも追い廻しておるのだが、一体、そちは、何者だ」
返辞の前に、
「何しやるッ」
と、ばばは、怒った魚のように、棘を立てて、彼らの手を振り

「おぬしらこそ、何者じゃ」
「われわれか、われわれは小野家の門人。これにおるのは、浜田寅之助だ」
「小野とは何じゃ」
「将軍秀忠公の御師範、小野派一刀流の小野治郎右衛門様をしらぬのか」
「しらぬ」
「こいつ」
「待て待て、それよりは、このばばと、又八の縁故を先に聞け」
「わしは、又八の母じゃが、それがどうぞしたか」
「では、おのれは、西瓜売りの又八の母か」
「何をほざく。他国者と侮って、西瓜売りとはようもいやったの。美作国吉野郷竹山城のあるじ新免宗貫に仕えて郷地百貫、歴乎とした本位田家の子、わしはその母じゃぞ」
耳もかさず、一人が、
「おい、面倒だ」
「どうする?」
「引っ舁げ」
「人質か」
「おふくろとあれば、取りに来ずにはいられまい」
それを聞くと、ばばは、骨ばった体を反らして、蝦蛄のように暴れた。
おもしろくないこと夥しい。佐々木小次郎は、不平に腹が膨れていた。
寝ぐせがついて、近頃は寝てばかりいる。月の岬の例の家だった。寝るといっても、寝るべき時刻に寝るようにして寝ているのではなかった。
「物干竿も泣くだろう」
それを抱いて、仰向けに、畳へじかに転がりながら鬱勃たる独り言なのである。
「この名刀、この腕の持主が、五百石に足らぬ扶持を取りかね、いつまでも懸り人で朽ちているとは」
そういって、戛然と、抱いていた物干竿の柄を鳴らし、
「盲め!」
と、寝なりに宙を薙ぎ払った。そして、大きな半円を描いた光はすぐ、鞘の内へ、生き物のように潜み込んでいた。
「あざやかでございますな」
と、縁先から、岩間家の仲間が――
「居合のお稽古でございますか」
「ばかをいえ」
小次郎は、腹這いに寝返って、畳の上に落ちている虫の体を、爪の先で、ぽんと縁先へ弾き飛ばした。
「こいつが、灯へ飛びついて来てうるさいから、手討にしたのだ」
「ア、虫を」
仲間は、それへ顔を近づけて、眼をまろくした。
蛾に似た虫である。柔らかい羽も腹もきれいに斬れて半分になっていた。
「寝床を敷きに来たのか」
「いえ……つい申しおくれました。左様ではございません」
「なんだ」
「大工町の使いの者が、手紙をおいて帰って行きました」
「手紙……どれ」
半瓦弥次兵衛からであった。
この頃、そこにも余り関心がない。少しうるさくなったのである。寝そべったまま、彼はそれを披いた。
ちょっと、彼の顔色がうごいて来た。――昨夜からお杉ばばの行方が知れなくなったとある。そのためきょうは一日中、部屋の者総出で探し、やっと、所在は知れたが、自分らの手に及ばない所へ運ばれているので、ご相談申しあげる次第ともある。
それが分ったのは例の、どんじき屋の懸障子に、小次郎がいつぞや書いておいた文句を、誰か捺摺り消して、こう新しい墨で書かれてあったからだという。
佐々木どのへ申す
又八の母預り置く者、
小野家内、浜田寅之助なり
――弥次兵衛の手紙にはそんなことまで細々書いてあった。小次郎は読み終ると、又八の母預り置く者、
小野家内、浜田寅之助なり
「……来たな」
眸を天井へ上げながら、口の裡でいった。
きょうまで、その小野家の内から、沙汰のないのが物足らない所であった。二名のそれらしい侍を、どんじき屋の側の空地へ斬り捨てて来た時、公明正大にあそこの懸障子へ、自分の姓名を後日のため、書いて来たものを――と心待ちに思っていたところである。
――来たな。
と、呟いたのは、その反響がやっと出て来たほくそ笑みから思わず洩れた声なのだ。彼は、縁先へ立って、夜空を見まわした。――雲はあるが、降りそうもない。
それから間もなく。
高輪街道から駄賃馬に乗って行く小次郎の姿が見かけられる。駄賃馬は晩く、大工町の半瓦の家に着いた。彼は弥次兵衛から委細を聞きとり、翌る日の肚をきめて、その夜はそのまま部屋へ泊ったらしかった。
以前は、神子上典膳と称っていたが、関ヶ原の戦後、秀忠将軍の陣旅で、剣法講話をしたのが機縁で、幕士に加えられ、江戸の神田山に宅地をもらって、柳生家とならんで師範に列し、姓も、小野治郎右衛門忠明とかえたのである。
それが神田山の小野家だった。神田山からは、富士がよく見えるし、近年、駿河衆が移住して来て、邸宅の地割がこの辺に当てられたので、この山一体を、近頃は駿河台とも呼び始めている。
「……はて。皀莢坂と聞いて来たが」
小次郎は、そこを登りきって、佇んだ。
きょうは富士が見えない。
崖ぷちから深い谷を覗く。樹々の透き間を淙々とゆく谷川が望まれる。お茶の水の流れだった。
「先生、ちょっと、探してきますから、ここにお待ちなすって」
と、道案内について来た半瓦の若い者は、ひとりで何処かへ駈けて行った。
しばらくすると戻って来て、
「分りました」
と告げる。
「何処だ」
「やっぱり、今、登って来た坂の途中ですぜ」
「そんな屋敷があったかな」
「将軍家の御指南と聞いていたんで、あっしゃあ、柳生様のような屋敷かとばかり思っていたら、さっき右側に見えた汚い古屋敷の土塀がそうなんでさ。――あそこは以前、何とかいう馬奉行がいた屋敷だと思ってたが」
「そうだろう。柳生は一万一千五百石。小野家はただの三百石だからの」
「そんなに違うんで」
「腕はちがわないが、家柄がちがう。――柳生などはその点では、先祖が七分禄を取っているようなものだ」
「ここです……」
と、足を止めて指さすのを眺め、
「なるほど、ここか」
と、小次郎も立ち止まって、まずその家構えをしばらくながめていた。
馬奉行時代の古い土塀が、坂の途中から裏山の藪へかけて繞らしてある。地内はかなり広いらしく扉のない門から奥をのぞくと、母屋の裏に道場らしい、木の色の新しい建て増しの棟もみえる。
「帰っていい」道案内の男へいって――
「晩までに、お杉ばばの身を受取って帰らなかったら、小次郎も骨になったと思え――と、弥次兵衛へ伝えておけ」
「へい」
男は、振り顧りながら、皀莢坂の下へ、駈け降りて行った。
柳生へは、近づいて行っても無駄である。彼を負かして、彼の名声を、自分の名声へ転じようと計っても、柳生は、お止流である。将軍家流である、という口実があるから、牢人剣士のそんな手に乗るようなことはしない。
それに反して、小野家の方は、無禄者でも、強豪の聞え高い者でも、随分、相手にとって試合にも応じると聞いている。どう転んでも三百石だ。柳生の大名剣法とちがって、殺伐なる実戦的鍛錬を、ここでは目標としているからでもある。
――しかし、小野家へ行って、小野派一刀流を蹂躙して来たという者があったという例も聞かない。
世上では、柳生家を、尊敬している。けれど、強いのは、小野だと誰もいう。
小次郎は、江戸へ出て来て、それらの事情を知った時から、この皀莢坂の門を、
(何日かは)
と、密かに眼をつけていたのである。
――その門は今、彼の眼の前にあった。
浜田寅之助は、三河出身の――いわゆる御譜代衆で、小禄でも今の江戸では、それだけで、随分大きな顔をしていられる幕士のひとりだった。
今――
何気なく、道場わきの支度部屋と呼んでいる部屋の窓から、外を眺めていた同門の沼田荷十郎というのが、あっと、その寅之助の姿を眼でさがし求め、
「来たぞ、来たぞ」
小声で――ひどく早口に告げながら、道場の真ん中にいた彼のそばへ、飛んで来て、
「浜田。参ったらしいぞ。――参ったらしいぞ」
と、もう一度、告げた。
浜田は答えない。
ちょうど木剣をかまえて、ひとりの後輩へ稽古をつけていた折であるから――それを背中で聞いたまま、
「いいか!」
と、正面へ向って、こう攻撃の予告を与え、木剣を真っ直に伸ばして、だ、だ、だっ――と床を鳴らして押して行った。
そして道場の北の隅まで、その勢いのまま行ったと思うと、どたっと、後輩はもんどり打って、木剣は刎ね飛ばされていた。
寅之助は、初めて振向いて、
「沼田。来たとは、佐々木小次郎がか?」
「そうだ。今、門をはいって来た……。すぐ見えるぞここへ」
「思いのほか、早くやって来たな。やはり、人質が利いたとみえる」
「だが、どうする」
「何が」
「誰が出て、どう挨拶してやるかだ。充分、備えておらぬと、一人でここへやって来るほど剛胆な奴――不意に何をやり出すかもしれぬ」
「道場の真ん中へ通して坐らせるがいい。挨拶はおれがする。各

「ウム。これだけいれば……」
と、荷十郎は居合わす人々を見まわした。
亀井兵助、根来八九郎、伊藤孫兵衛、などの顔は、彼を気強くさせるものだった。そのほか、すべてで二十人足らずの同輩がここにはいる。
その同輩たちは皆、先頃からの経緯もよく知っていた。どんじき屋の空地で斬り捨てにされた二人の侍のうちの一名は、ここにいる浜田寅之助の兄に当る者だった。
寅之助の兄というのは、ろくでもない人間らしく、ここの道場でも評判のよくない男だったが、それにしても、佐々木小次郎に対する怒りは、小野派の者として、
(捨て措けない)
程度に昂まっていた。
殊に浜田寅之助は、小野治郎右衛門が手塩にかけた門下中でも、前記の亀井、根来、伊藤などと共に、皀莢坂の驍将といわれている一人でもあるし、――小次郎がどんじき屋の障子に不遜な文句を書いて、公衆へ曝してあるというのに――なおも、寅之助があれを放っておくようでは、小野派一刀流の名誉にも関るがと、事件の成行きに注意を払うと共に、陰ながら力んでいた場合でもあった。
そこへ、昨夜のこと。
寅之助や荷十郎などが、何処からか、ひとりの老婆を担ぎこんで来て、実は云々という話に、彼の同輩や後輩たちは、手を打って、
(それは、よい人質を取って来られた。小次郎の方からやって来るように仕向けられたのは、さすがに兵法の御巧者というもの。――参ったらさんざんに叩きのめしたあげく、鼻を削いで、神田川の樹に曝し者にしてやるのだな)
と、いい合った。そして、だが来るか、来まいか、などとつい今朝も、賭事のように噂していたものだった。
大部分の者が、来まい、と予想していた佐々木小次郎が今、荷十郎の言によれば、
――門をはいって来た。
と、あるので、
「何。来たと?」
居合せた人々の顔は、白木の板みたいに硬ばった。
浜田寅之助以下、広い道場の床を、しいんと開けて、固唾をのんでいた。
今に、道場の玄関へ、声がかかるか、今に小次郎の訪れがあるかと、待ち構えていたのである。
「……おい、荷十郎」
「うむ?」
「門をはいって来るところを確かに見たのか」
「見た」
「じゃあもう、これへ見えそうなものじゃないか」
「来んなあ」
「……遅すぎる」
「はて」
「人違いじゃなかったのか」
「そんなことはない」
厳しく床を占めて、坐っていた面々も、ふと、間拍子が抜けて、自分の緊張に、自分で力負けを覚えかけて来た頃、ぱたぱたと、草履の音が、控部屋の窓の外に止まって、
「御一同」
と、外から、同輩の顔が一つ、背伸びして、中を覗きこんだ。
「おう、何だ」
「待っていても、佐々木小次郎は、こっちへは見えぬぞ」
「おかしいな。でも、荷十郎がたった今、門内へ通って来たのを見たといっておるに」
「ところが、彼は、お住居の方へ行ってしまって、どう奥へ刺を通じたものか、お座敷で、大先生と話しこんでいるのだ」
「えっ。大先生と」
これには先ず浜田寅之助が、どぎもを抜かれた顔つきであった。
兄が斬り捨てにされたことも、原因を洗うと、ろくでもない兄の不行跡が必然に出て来るにきまっている。――で、師の小野治郎右衛門などには、体よく告げてあったし、ゆうべ、浜町の原から、老婆を人質に取って来たなどということも、勿論、告げていないのである。
「おい、ほんとか」
「誰が、嘘をいう。――嘘だと思ったら、裏山の方へ廻って、庭ごしに、大先生のお書斎の次の客間をのぞいてみたまえ」
「弱ったなあ」
しかし他の者は、彼の嘆息をむしろ歯がゆく思った。小次郎が直接、師の治郎右衛門の住居の方へ行ったにしろ――また、どんな詭弁を弄して自分たちの師を籠絡しようと考えているにしろ――堂々と対決して、彼の非を挙げ、こっちへ引き摺って来てしまえばいいではないか。
「何を、弱ることがある。おれたちが行って、様子を見て来てやる」
道場の入口から、亀井兵助と根来八九郎のふたりが、草履を穿いて出ようとした時であった。
住居の方から、何事か起ったように、顔いろを変えてこっちへ駈けて来る娘がある。――アアお光どの、と呟いてふたりは足を止め、道場の内にいた人々も、どやどやとそこへ出て、彼女のけたたましい声を、騒ぐ胸へ、受け取った。
「皆さん、来てください。伯父様がお客様と、刃を抜き合せて、外へ出ました。――庭先で、斬り合いを始めています」
お光は治郎右衛門忠明の姪である。彼が一刀流の伝をうけた師の弥五郎一刀斎の妾の子をひき取って育てたのだ――と陰でいう者もある。或は、そうかも知れないし、嘘かもしれなかった。
それはとにかく、色白で愛くるしい娘だった。
おどろくと、そのお光が、
「伯父様が、お客様と、なにか大きな声をし合っていたかと思うと、庭で斬り合っているんです。――伯父様のことですから、万一のことはないでしょうが」
告げるのを、皆まで聞かず、亀井、浜田、根来、伊藤などの主立った者が、
「やっ?」
と、いったのみで、何を問うまもなく、駈けて行った。
道場と住居とは離れていて、住居の庭へ行くには垣と竹編戸の中門がある。一つ塀の中でありながら、こういう風に、棟が離れていたり、垣が結ってあるのは、城郭生活の慣しで、少し大きな侍の家となれば、これになお、手飼の者の長屋だの何だのが、加わっているのである。
「ヤ、閉まっている」
「何、開かない?」
ひしめいた門人達の力は、門の竹編戸を押し破ってしまった。そして、裏山を抱いている約四百坪ほどの山芝の平庭を見ると、師の小野治郎右衛門忠明は、日頃、持ち馴れている行平の刀を抜いて、青眼――というよりはやや高目にひたと構え、かなり距離を措いてその向うには、紛う方なき佐々木小次郎が、物干竿の大剣を、傲然、頭上に振上げたまま眼を炬のようにしているのだった。
――はっと、その有様に誰も一瞬、眼が眩んだ。そして四百坪からある芝庭の広さと、張りつめた空気は、線でも引いたように、他の人間を近づけしめなかった。
「…………」
慌てて来てはみたものの、門人たちは、遠く見守って、毛穴をそそけ立てているしかなかった。
立ち合っている双者の間には、断じて、横あいから、手出しを許さないほど、森厳なものがある。無知蒙昧な者ならそれへ、石でも唾でも投げられるかもしれないが、武士の家に生れて、童学からその教養に躾けられて来た者には――
「ああ」
と、真剣の荘厳に打たれ、そのせつなには愛憎も忘れて、ただ、見まもる気になるのだった。
けれど、それは一瞬の、忘失的作用にすぎない。すぐ感情は全身をくわっと醒まして、
「うぬ」
「お助太刀」
とばかり二、三の者が小次郎の後ろへ駈け迫ろうとした。
すると忠明が、
「寄るなっ!」
と、叱咤した。
声も常とはちがう。霜のような気を帯びていた。
「……あ」
と、乗り出した身を退きながら彼らはふたたび、徒らに、手出しのならない刀の鯉口を握りしめているしかなかった。
――けれども、少しでも、忠明の方に、敗色が兆したら、耳をふさいで、四方から小次郎をつつみ、一気にずたずたに斬ってしまうつもりでいるらしい――めいめいのその眼ざしであった。
治郎右衛門忠明は、まだ壮健だった。五十四、五歳であろう。髪は黒く、見たところはなお四十代にしか見えない。
小づくりであるが、腰の据りがよく、四肢は伸び伸びして、全体の姿態に、少しの硬化もなく、また、小柄にも見えなかった。
小次郎は、それに対って、まだ一太刀も下していない。いや、下し得ないというべきであろう。
だが、忠明は、彼を剣の先に立たせて見たせつなに、
(これは――)
と、侮り難いものを感じ、密かに、身をひき緊めながら、
(善鬼の再来か!)
とさえ思った。
善鬼――そうだ善鬼以来、こんな当るべからざる覇気を持った剣には久しく遇ったことがない。
その善鬼というのは、彼がまだ青年の頃、名も神子上典膳といって、伊藤弥五郎一刀斎に従いて修行に歩いていた当時――同じ師に付いていた恐い兄弟子だった。
善鬼は、桑名の船頭の子で、さしたる教養もなかったが、強いことは天性だった。後には、一刀斎でさえ、善鬼の剣を、如何ともすることができなかった。
師が老いてゆくと、善鬼はその師を見下して、一刀流は自己の独創であるように誇称した。一刀斎は、善鬼の剣が、磨かれて行くほど、社会に害があって、益のない成行きをながめ、
(われ生涯の誤りは、善鬼にあり)
と嘆いた程だった。また、
(善鬼を見ると、おのれの内にある悪いものを、みな持って、躍っている化け物にみえる。――だから善鬼を見ると、自分という人間までが忌わしくなる)
と、述懐したこともある。
しかし、典膳にとっては、その善鬼があったため、よい鑑にもなり、励みにもなって、遂に、下総の小金ヶ原で、彼と試合して、彼を斬った。そして、一刀斎から、一刀流の印可伝巻を授けられたのであった。
――今。
佐々木小次郎を見て、彼はその善鬼を思いだしたのである。善鬼には、強さはあっても、教養はなかったが、小次郎には、それへ加うるに、当世的な鋭智があり、侍の教養も身についていて、それは彼の剣に、渾然と一つのものになっている。
それを、じっと見て、
(自分の敵するところではない)
と忠明はすぐ潔く心のうちで、思い捨てた。
柳生に対してだって、彼は決して卑下は抱いていない。今でも但馬守宗矩の実力などは、そう高く買っていない彼ではあるが――今日という今日――佐々木小次郎という一介の若者に対して、彼は正直に、
(おれも、そろそろ時代に取り残されて来たかな?)
と、剣の老いを覚えたのである。
誰かのいった言葉に、
先人ヲ追イ越スハ易ク
後人ニ超サレザルハ難シ
と、あるが、その語を、今ほど痛切に覚えたことはない。柳生とならび称されて、一刀流の全盛を見、老来やや人生に安んじているまに、社会の後からはもう、こんな麒麟児が生れつつあったのか――と、大きな驚きをもって、小次郎を見たものであった。後人ニ超サレザルハ難シ
双方とも、固着したまま、姿勢の上にはいつまでも、なんの変化も見えなかった。
だが、小次郎も忠明も、肉体の内には、怖ろしい生命力を消耗していた。
その生理的変化は、鬢をつたう汗となり、鼻腔の喘ぎとなり、青白な顔色となって、今にも、寄るかと見えながら、剣と剣は、依然、最初の姿勢を持続していた。
「――降ったっ」
忠明が叫んだのである。――叫びながら、刀と身を、そのまま、ぱっと後ろへ退いたのであった。
けれど、その言葉が、待てっ、といったように響いたのかも知れなかった。小次郎の体は、とたんに、動物的な跳躍を空にえがいていた。それと共に、揮り伸ばした物干竿は、忠明の姿を真二つに斬り下げたかのような旋風を起し、忠明の髷のもとどりは、それを交わすに急なため、逆立って、ぷつりと、元結の根が切れた。
――しかし、忠明が、肩を落しながら刎ね上げた行平の切先もまた、小次郎の袂を、五寸ほど切り飛ばしていた。
「理不尽!」
憤りは、門人たちの顔に、燃えあがった。
忠明が今、
(降った)
と、いったことばで、双方の立合が、喧嘩ではなく、試合であったことは明白である。
だのに、小次郎は、むしろその隙を得たりとなして、無下に斬って行った。
彼が、そういう不徳を敢てして出た以上、もう、手を拱いている必要はない。――咄嗟に、その気持が一致して、行動へ移って行ったのである。
「うっ――」
「うごくな」
小次郎へ向って、すべてが、どっと駈け雪崩れた。小次郎は、鵜が飛ぶように、身の位置をかえていた。巨きな棗の樹が平庭の一方にあった。その幹の陰から姿をなかば見せて、おそろしくよく動く眼をぎらぎらさせながら呶鳴った。
「勝負。見たか」
――俺が勝ったぞという名乗りをあげたつもりであろう。忠明は彼方で、
「見えた」
と、答えた。そして門人達へ向い、
「ひかえろ」
と、叱った。
刀を鞘におさめて、書斎の縁へもどると、彼は腰かけて、
「お光」
と、姪を呼び、
「もとどりを結げてくれい」
と、ぱらぱらになった髪の毛を撫で上げていた。
お光に髪を上げさせているうちに、初めてほんとの喘ぎが出て来たらしく、忠明の胸は、汗に光っていた。
「ざっとでよい」
そして、お光を、肩越しに見て、
「あちらにいるお若い客へ、おすすぎを上げて、元の座敷へ、お上げ申しておけ」
「はい」
忠明はしかし――その客間へは通らなかった。草履を穿いて、門人たちの面を見まわし、
「道場の方へ集まれ」
と、命じて、自身が先に彼方へ歩いて行った。
どうした理なのか?
門人らには、分らないのである。第一、かりそめにも、師の治郎右衛門忠明が、小次郎に対して降ったとさけんだのが、心外であった。
(あの一声は、きょうまでの無敵小野派一刀流の誇りを、一敗地にお汚しなすってしまったものだ)
と、青白な面のうちに、怒りに似た涙をのんで、忠明の顔を、睨めつけている門人もあった。
道場へあつまれ――と呼ばれてそこに坐った者は、約二十名ばかり、三列になって、板の間に、ぎしっと固くなって、坐っていた。
治郎右衛門は、上座の――一段高い席に、寂と坐って、それらの顔をしばらく眺めていた。
「さてさて、わしも年齢を老ったものである。つかの間に、時代も遷ってゆくな」
これが、やがて忠明の唇から流れた――最初のことばだった。
「過去、自分の来た道を顧みてみると、師の弥五郎一刀斎様に仕えて、善鬼を仆した頃が、自分の剣が最高な冴えを示した時であり、この江戸表に、門戸をもって、将軍家の御師範の端に列し、世間から無敵一刀流とか、皀莢坂の小野衆とか、いわれ始めた頃はすでに、わし自身の剣としては、降りへ来ている頃だった」
「…………」
門人達は、師が、何をいおうとしているのか、まだその意が酌めなかった。
で、粛とはしているが、その面には、不平だの、疑惑だの、思い思いな感情がまだ動いていた。
「思うに」
忠明は、そこから遽に声を張って、今までの伏し目な眼を、大きく見ひらいた。
「――これは誰にもある人間の通有性だ。安息に伴うてくる初老の兆しだ。この間に、時代は移ってゆく。後輩は先輩を乗りこえてゆく。若い、次の者が新しい道を拓り開いてゆく。――それでいいのだ。世の中は転変の間に進んでいるから。――だが、剣法では、それを許さぬ。老いのない道が剣の道でなければならぬ」
「…………」
「たとえば、伊藤弥五郎先生。今はもう、生きて在すや否や、その御消息だにないが、小金ヶ原でわしが善鬼を斬った折、即座に、一刀流の印授をこの身にゆるし給い、入道して、そのまま山へはいられてしまわれた。そしてなお、剣、禅、生、死、の道を探って、大悟の峰に、分け登ろうと遊ばすお口吻が見えた。――それにひきかえて、この治郎右衛門忠明は、早くも、老いの兆しを現し、きょうのような敗れをとったこと、師弥五郎先生に対しても、なんの顔があろうか。……きょうまでのわしが生活などは、思わざるも甚だしいものであった」
堪らなくなったように、
「せ、先生っ」
根来八九郎が、床からいった。
「敗れたと仰っしゃいますが、あのような若年者に、敗れる先生ではないことを、われわれは日頃から信じております。今日のことは、なにか、ご事情でもあったのではござりませぬか」
「事情? ……」
一笑の下に、かぶりを振って、
「かりそめにも、真剣と真剣との立合、その間に、なんで、微塵の情実など許そう。――若年者といわれたが、その若年者なるがために、わしは彼に負けたとは思わない、移っている時代に負けたと思うのだ」
「と、とは申せ」
「まあ待て」
静かに、根来のことばを抑え、また、大勢の同じ顔いろを見直して、
「手早く話そう。あちらには、佐々木殿もお待たせしてある。――そこで各

――自分はきょう限り、道場から身を退こうと思う。世間からも身を隠す。隠居ではない。山中へ行って、弥五郎入道一刀斎先生の分け入った道の後をたずねる心で、なお、晩成の大悟を期したい。
「これが一つの希望」
と、治郎右衛門忠明は、弟子一同へ告げるのだった。
――弟子の中の伊藤孫兵衛は甥にあたる者ゆえ、一子忠也の後見をたのむ。幕府へは、その由を願い出で、自分のことは、出家遁世と届けておいてもらいたい。
「これが二つの頼みである」
といった。
次に、この機会に、いい渡しておくこととして、
「わしは、若輩の佐々木殿に負けたということを、そう恨みには思わぬ。しかし、彼の如き新進が他から出ているのに、まだ小野の道場から一名の駿足も出ておらぬということは、ふかく恥じる。――これというのも、わが門下には、御譜代の幕士が多く、ややもすると、御威勢について思い上がり、いささかの修行をもって、すぐ無敵一刀流などと誇称して、よい気になっているせいと思う」
「あいや、先生。お言葉中にはござりますが、決して、われわれとても、そのような驕慢怠惰にのみ日を暮しているわけでは――」
と、亀井兵助が、その時、声ふるわせて、弟子の座からいうと、
「だまれ」
と、忠明は、彼の顔を睨まえて師の座から一言に圧して、
「弟子の怠りは、師の怠りである。わしはわし自身を慚愧して、自ら裁いておるのだ。――お身らすべての者が、驕惰だとは申さぬ。だが、この中には、そうした者もおると見た。その悪風を一掃して、小野の道場は、正しい、若々しい、時代の苗床とならねばならぬ。――そうせねば、忠明が身を退いて、改革いたす意味もないことになろう」
沈痛な彼の誠意は、ようやく弟子たちの肺腑へ沁み透ってきた。
弟子の座に居ならぶ者は、みな頭を垂れて、師の言葉を噛みしめながら、自分たちも反省した。
「浜田」
忠明が、やがていった。
浜田寅之助は、ふいに、名を指されて、
「はっ」
と、師の顔を見た。
忠明の眼は、彼をきっと睨めすえていた。
寅之助は、その眼に、さし俯向いてしまった。
「立て!」
「はい」
「立て」
「は……」
「寅之助、立たんかっ」
と、忠明は、声を励ました。
三列に坐っている弟子たちの中から、寅之助だけ直立した。彼の友達や後輩たちは、忠明の心を測りかねて、しんとしていた。
「寅之助、おぬしを、今日限り、破門する。――将来、心を改め、修行を励み、兵法の旨にかなう人間となった時は、また、師弟として会う日もあろう。――去れっ」
「せ、先生っ。理由を仰っしゃってください。拙者には、破門される覚えはございませぬが」
「兵法の道を穿きちがえているゆえに、覚えがないと思うのであろう。――他日よく、胸に手を当てて考えてみれば分ってくる」
「仰っしゃって下さい! 仰っしゃって下さい! 仰せなくば、寅之助、この席を去るわけには参りません」
昂ぶった顔に、青すじを太らせて、彼はまたいい猛った。
「――然らば、いおう」
と、忠明は、やむなく、寅之助に破門をいい渡した理由を、その寅之助を立たせておいたまま、一同へも、釈明した。
「卑怯――は武士の最も蔑む行為である。また、兵法の上でも固く誡めておる。卑怯の振舞ある時は破門に処す、というのはこの道場の鉄則であった。――然るに、浜田寅之助は、兄を討たれながらいたずらに日を過ごし、しかも当の佐々木小次郎には、雪辱をなそうともせず、又八とやらいう西瓜売り風情の男を仇とつけ廻し、その者の老母を人質に取って来て、この邸内に押しこめておくなどとは――いやしくも武士のすることといえようか」
「いや、それも、小次郎をこれへ誘き寄せる手段でいたしたのです」
寅之助が、躍起となって、抗弁しかけると、
「さ。それが卑怯と申すものじゃ。小次郎を討たんとするなら、なぜ自身、小次郎の住居へゆくなり、果し状をつけて、堂々と、名乗りかけんか」
「……そ、それも、考えぬではござりませんでしたが」
「考える? 何をその期に、猶予などを! ――衆を恃んで、佐々木どのをこれへ誘き寄せ、打たんとした卑劣は、お身の今いったことばで自白しておるではないか。――それにひきかえ、佐々木小次郎なる者の態度、見上げたものだと、わしは思う」
「…………」
「――単身わしの前へ来て、卑劣な弟子など、相手に取るに足らぬ。弟子の非行は師の非行、立ち合えとばかり、挑みかかった」
弟子の座の人々は皆、さては、最前のいきさつは、そうした動機から起ったことかと――頷いた気色だった。
忠明は言葉をつづけ、
「しかも、ああして、真剣と真剣とで、立ち向ってみた結果は、この治郎右衛門自身の中にも明らかに、恥ずべき非が見出された。わしはその非に対して慎んで降ったといった」
「…………」
「寅之助、これでもそちは、自身を省みて、恥なき兵法者と思うか」
「……恐れ入りました」
「去れ――」
「去ります」
寅之助は、俯向いたまま、道場の床を、十歩ほど退がって、両手をつかえて坐り直した。
「先生にも、御健勝に」
「うむ……」
「御一同にも」
と、さすがに、声が暗くなって、後はかすかに、別れの挨拶をした。そして、悄々、どこへか立ち去った。
「――わしも、世間を去る」
と、忠明も立った。弟子の座の中に嗚咽がきこえた。男泣きに泣きだした者もあるのである。
愁然と、うなだれ合っている弟子達の頭を、ながめて、
「励めよ、皆」
忠明は、最後の――師の言として――師愛をこめていった。
「なにを憂い悲しむのか。おまえ達は、おまえ達の時代を、この道場へ、溌剌と迎え取らねばならぬ。明日からは謙虚になって、一層、精を出して磨き合えよ」
やがて――道場の方から住居へ戻って、そこの客間へ姿を見せた忠明は、
「失礼いたした」
と、最前から控えている小次郎へ向って、こう中座を詫びながら静かに坐った。
その顔いろには、なんの動揺も読まれなかった。平常と変った点はなかった。
「さて――」
と、忠明は口を切って、
「門人の浜田寅之助は、ただ今あちらで、破門をいい渡し、向後、心を改めて修行いたすよう、よく訓誡しておきました。――で、寅之助が人質に隠しおいた老婆の身も、当然、お帰しする考えであるが、其許がすぐお連れ下さるか、それとも改めて、当方からお送り申そうか」
いうと、小次郎は、
「満足でござる。拙者がすぐ連れて戻ります」
今にもと、立ちかけた。
「そうきまれば――何もかも水に流して、一献お酌み交わして戴きたい。――光っ、光っ」
と、手をたたいて、
「酒の支度を」
と、姪へいいつけた。
さっきの真剣の立合で、小次郎はありったけの精神を消耗してしまったような気がしていた。その後、独りでぽつねんとここに待たされていた時間も長かったので、すぐ帰りたかったが、臆しているように思われてもと、腰をすえて、
「では、おもてなしに甘えようか」
と、杯を取った。
そして小次郎は飽くまで、忠明を眼下に見た。心で眼下に見ながら、口では、――自分も今日まで随分、達人にも出会ったが、まだ貴公のごとき剣に対したことはない。さすがに、一刀流の小野と音に響いただけのものはある――などと褒めて、おのれの優越感を、その上へもっと高めた。
若い、強い、覇気満々だ。酒を飲んでみても、敵わないことを、忠明は体に感じてくる。
けれど、大人の忠明から彼を見ると、自分には敵わないとは思いつつ、いかにも危ない強さ、若さであると思った。
(この素質を、よく磨けば、天下の風はこの人に靡こう。――だが、悪くすれば、善鬼になる惧れがある)
そう惜しんで、忠明は、
(弟子ならば)
と、その忠言を喉まで出しかけたが、遂に、何もいわなかった。
そして小次郎の言葉には、なんでも、謙虚に笑って答えた。
雑談のうちに、武蔵のうわさなども出た。
――近頃、忠明が聞いたこととして、北条安房守や僧沢庵の推薦で、また新たに、宮本武蔵という無名の一剣士が、抜擢されて師範の席に加わるかも知れない――という話なども、彼が洩らした。
「……ほ?」
小次郎は、そういったきりだったが、心の安からぬ顔いろをした。
西陽を見て、彼が、
「帰る」
と、いい出したので、忠明は、姪のお光にいいつけ、
「お老婆の手をひいて、坂の下までお送りして行け」
と、いった。
恬淡で、真直で、柳生のように、政客との交わりなどもなく、素朴な武士気質の人で通って来た治郎右衛門忠明の姿が、江戸から見えなくなったのは、それから間もなくであった。
(将軍家にも、直々、近づける身なのに――)
(うまく勤め上げれば、いくらでも出世の先があったものを)
と、彼の遁世を怪訝しがった世人は、やがて佐々木小次郎に彼が負けたということを誇大に取って、
(小野治郎右衛門忠明は、発狂したのだそうだ)
と、いい伝えた。
恐かった。ゆうべの風は。
――あんな暴風雨って、生れて初めてだと、武蔵さえいった。
二百十日、二百二十日。
そういうものの恐さに善処することは、武蔵よりも細心で、よく知っている伊織は、ゆうべの暴れが襲って来る前に、屋根へ登って、竹の押しぶちを結びつけたり、石を乗せたりしておいたが、その屋根なども、夜半に吹き飛ばされてしまって、今朝見ても、どこへ行ったか、屋根の行方がわからない。
「アアもう書も読めなくなっちゃった」
崖の肌やら、草叢やら、あちこちに、ベトベトになって散らばっている書の残骸をながめて、伊織は、何より未練そうに呟いた。
だが、被害は、書どころではない。彼と武蔵の住む家さえ、跡形もなく潰がれて、手のつけようもない有様。
それを他に、武蔵はどこへ行ったやら、
(火を焚いておけ)
と、いって出たまま、まだ戻って来なかった。
「――暢気だなあ。稲田の出水を見物に行くなんて」
伊織は、火を焚き始めていた。その薪は、わが家の床や板壁である。
「今夜、寝る家だった」
と、考えると、煙が眼に沁みてくる。火は出来た。
武蔵は戻らない。
ふと見ると、そこらに、まだ割れていない栗の実だの、風に叩きつけられて死んでいる小鳥の死骸などが眼についた。
朝飯に、伊織は、そんな物を火に焙って喰べていた。
午頃、武蔵は帰って来た。それから半刻ほどして、また後から、蓑笠を着た村の人々がそろって来た。そして、お蔭で早く出水が退いたとか、病人が喜んでいるとか、かわるがわる礼をのべ出した。――いつも後始末では自分自分のことにばかり懸って、争いになるのだが、今度は仰っしゃる通り、村人が一致して、誰の田だの、彼の家だのという分け隔てなく、力を協せてやることにしたので、案外早く被害の取返しもつきそうで――などとも、中の老百姓が、礼を繰返していった。
「あ。そんな指図をしに行ったのか」
と、伊織は、やっと、武蔵が夜明けに出て行った用事が分った。
伊織は、武蔵のためにも、死んだ小鳥の毛をむしって焙っておいたが、
「食い物は、わしらがとこに、幾らでもあるで」
と、甘い物、辛い物、何くれとなく運んで来る。
伊織の好きな餅もあった。
死んだ鳥の肉は不味かった。自分だけの身を考えて、あわててそんな死肉で腹を膨らましてしまった伊織は後悔した。――自分を捨てて、大勢のために考えれば、食物はひとりでに、誰かが与えてくれるのだということを覚えた。
「家も、こんどは、潰れぬように、わしらの手で建ってあげますでの、今夜は、わしが所へ来て寝さっしゃい」
と、年老った百姓は、いってくれる。
その老百姓の家は、この近村ではいちばん旧かった。ゆうべずぶ濡れになった、肌着や着物を乾かしてもらい、武蔵と伊織は、その晩、老百姓の家のお客になって寝た。
「……おや?」
寝てからのことである。
伊織は、隣に眠っている、武蔵の方へ、寝返りを打って、小声でいった。
「先生」
「……ウむ?」
「遠くの方で、神楽囃子が聞えませんか――遠くの方で」
「聞えるようでもあり、聞えないようでもあるが」
「変だな。こんな大暴風雨の後に、神楽の音が聞えるなんて?」
「…………」
寝息はするが、武蔵の返辞はしないので、伊織もいつか、眠ってしまった。
朝になって、
「先生。秩父の三峰神社って、そう遠くないんだってね」
「ここからでは、幾らもあるまいな」
「連れて行っておくんなさい。――お詣りに」
なにを思い出したのか、今朝、急に伊織がいい出したのである。
わけを訊いてみると、彼は、ゆうべの神楽の音が気になって、起きるとすぐ、此家の老百姓に聞いてみたところ、ここから近い阿佐ヶ谷村には、遠い昔から、阿佐ヶ谷神楽といって、旧い神楽師の家があり、毎月、三峰神社の月祭りには、そこの家で調べを奏せて、秩父へ出張ってゆくので、それが聞えて来たのだろうという説明だった。
音楽と舞踊との、壮大なものといえば、伊織は、神楽よりしか知らないのである。しかも三峰神社のそれは、日本三大神楽の一つといわれるほど、古典なものであると聞かされたので、彼は、矢も楯もなく、秩父へ行ってみたくなった。
「よう、よう、先生」
と、伊織は甘えて、
「どうせ、まだ草庵は、五日や六日じゃ出来ないし……」
と、強請んだ。
伊織にこう甘えられると、武蔵はふと、別れている城太郎を思い出した。
城太郎を従れていると、城太郎はよく甘える。ねだったり、だだをこねたり、わがままをいって手古ずらせたり――
だが、伊織には、滅多にそんなことがない。――時にはふと武蔵の方で、そのよそよそしさが淋しくなるほど、伊織にはその子供ッぽさがない。
城太郎とは、生い立ちや、性格の相違もあろうが、多くは、それは武蔵が躾けたものであった。弟子と師とのけじめを、伊織には、厳然とつけてきたからである。――放ったらかしにただ連れていた城太郎の結果に鑑みて、伊織には意識的に、師であろうとしているためだった。
その伊織が、めずらしく、甘えてねだると、武蔵は、
「……ウム」
生返辞して、考えてはいたが、
「よし、連れて行ってつかわそう」
伊織は雀躍りして、
「天気もいいし」
と、もうおとといの晩の空への怨みも忘れ果てて、俄かに、この家の老百姓に告げて、弁当を乞い草鞋をもらい、
「さあ、参りましょう」
と、武蔵を促す。
老百姓は、お帰りの頃までに、草庵を建て直しておきます――といって送り出すし、野分の後の水たまりは、まだ所々小さい湖水を作っているが、おとといの暴れは嘘のように、鵙は低く飛び、空の碧さは、高く澄みきっている。
三峰の例祭は、三日間とある。こう決まって出て来ればもう、伊織とてそう急ぎもしない。間に合わぬ心配はないからである。
田無の宿の草旅籠に、その日は早く泊り、翌日の道も、まだ武蔵野の原だった。
入間川の水は三倍にもなっていた。平常の土橋は川の中に取残され、何の用もなさなくなっている。附近の住民達は、田舟を出したり、杭を打ち込んだりして、両岸から橋を継ぎ足していた。
そこの通れるようになるのを待っている間に、伊織は、
「あらあら、鏃がたくさん落ちていら。兜の鉢金もあるし。――先生、この辺は、戦場の跡ですね、屹度」
出水に洗われた川砂を掘りちらして、伊織は、錆刀の折れだの、性の分らぬ古金など拾って興がっていたが、そのうちに、
「あ……? 人間の骨」
と、手をすくめた。
武蔵は、それを見て、
「伊織。その白骨を、ここへ持って来い」
いちど、知らずに手には触れたが、伊織は、もう手を出す気になれない顔して、
「先生、どうするんです」
「人の踏まない所へ埋けてあげるのだ」
「だって、一つや二つじゃありませんよ」
「橋の修繕いが出来る間の仕事にはちょうどよい。あるだけ拾い集めて――」
と、河原の背を見まわし、
「あの龍胆の花のあたりへ埋けておきなさい」
「鍬がないのに」
「その折れ刀で掘れ」
「はい」
伊織はまず穴を掘った。
そして、拾い集めた鏃も兜の古金も、白骨と一緒に、みな埋け終って、
「これでようございますか」
「ム。石をのせておけ。それでよい。――よい供養になった」
「先生、この辺に合戦のあったのは、何日頃のことなんでしょ」
「忘れたか。おまえは書で読んでいるはずだがな」
「忘れました」
「太平記の中にある、元弘三年と正平七年の両度の合戦――新田義貞、義宗、義興などの一族と、足利尊氏の大軍とが、しのぎを削り合うた小手指ヶ原というのは、この辺りだ」
「あ、小手指ヶ原の合戦のあった所か、そんなら何度も、先生の話を聞いているから知っています」
「では」
と、日頃の伊織の勉学力を試すように、武蔵は、
「その折、宗良親王が。――東の方に久しく侍りて、ひたすら武士の道にたずさわりつつ、征東将軍の宣旨など下されしも、思いのほかなるように覚えて詠み侍りし――と仰せられて、お詠みになった歌、伊織は憶えておるかな」
「います」
伊織はすぐいって、空の碧さに、一羽の鳥影が、漂ってゆくのを仰ぎながら、
「――思いきや、手も触れざりしあずさ弓、起き臥し我が身馴れむものとは」
武蔵は、ニコとして、
「そうだ、では。――同じ頃、武蔵の国に打ち越えて、小手指ヶ原という所に――という詞書の条にある、同じ親王のお歌は?」
「……?」
「忘れたな」
伊織は負けん気に、
「待って、待って」
と、首を振った。
そして思い出すと、こんどはひとり勝手なふしをつけて朗詠した。
君のため
世のため
なにか惜しからむ
すててかひある
いのちなりせば
「……でしょう。先生」世のため
なにか惜しからむ
すててかひある
いのちなりせば
「意味は」
「わかってます」
「どう? わかってるか」
「いわなくたって、このお歌がわからなかったら、武士でも日本人でもないでしょ」
「ウム。……だが伊織。それならお前はなぜ、白骨を持ったその手を、さも汚いように、先刻から忌っているのか」
「だって白骨は、先生だっていい気持じゃないでしょ」
「この古戦場の白骨は皆、宗良親王のお歌に泣いて、親王のお歌どおりに奮戦して死んだ人々だった。――そうした武士たちの――土中の白骨が、眼には見えぬが、今もなお、礎となっていればこそ、この国はこんなにも平和に、何千年の豊秋が護られているのではないか」
「ア、そうですね」
「たまたまの戦乱があっても、それはおとといの暴風雨のようなもので、国土そのものにはびくとも変化がない。それには、今生きている人々の力も大いにあるが、土中の白骨たちの恩も忘れては済むまいぞ」
武蔵の一語一語に、伊織は、何度もこっくりした。
「わかりました。じゃあ、今埋けた白骨に、お花を供げて、お辞儀して来ましょうか」
武蔵は、笑って、
「何も、お辞儀はせんでもよい。心のうちに、今申したことさえ刻んでおれば」
「……だけど」
伊織はやはり気が済まなくなったらしい。秋草の花を折り集めて石の前に捧げた。そして掌を合せかけたが、ふと振り顧って、
「先生」
と呼び、何か、ためらい顔にいい出した。
「――この土の中の白骨が、ほんとに、先生が今いったような、忠臣ならいいけれど、もし足利尊氏の方の兵だったら、つまらないなあ。掌なんか合せてやるのは癪にさわる――」
この返辞には、武蔵も窮した。伊織は、武蔵の明答がない限りは、滅多に掌をあわせない様子を示して、彼の顔をながめながら、その答えを待っていた。
――ふと、きりぎりすの声が耳につく。仰ぐと昼間の薄い月が目にとまった。しかし、伊織に与える返辞はなかなか見つからない。
やがて、武蔵はいった。
「十悪五逆の徒にも、仏の道では救いがある。即心即菩提――菩提に眼をひらけば、悪逆の徒も仏もこれを許し給うとある。――まして白骨となってしまえばもう」
「じゃあ、忠臣も逆賊も、死ねば同じものになるんですか」
「ちがう」
と、厳しく、そこに句点を打って、
「そう早合点してはならぬ。武士は名を尊ぶ。名を汚した武士には、末世末代、救いはない」
「そんならなぜ仏様は、悪人も忠臣も、同じみたいなことをいうんですか」
「人間の本性そのものは皆、もともと、同じ物なのだ。けれど、名利や慾望に眼がくらんで、逆徒となり、乱賊となるもある。――それも憎まず、仏が即心即仏をすすめ、菩提の眼をひらけよかしと、千万の経をもって説かれているが、それもこれも、生きているうちのこと。――死んでは救いの手にすがれぬ。死してはすべて空しかない」
「ああそうか」
分ったような顔して、伊織は、急に声に弾みを出していった。
「――だけど、武士は、そうじゃないでしょ。死んでも、空ではないでしょう」
「どうして」
「名が残るもの」
「うむ!」
「悪い名を残せば悪い名が、――いい名を残せばいい名が」
「むむ」
「白骨になってもね」
「……けれど」
と武蔵は、彼の純真な知識慾が、一途に呑みこんでしまうことを惧れて、それにまたいい足した。
「だが、その武士にはまた、もののあわれというものがある。もののあわれを知らぬ武士は、月も花もない荒野に似ている。ただ強いのみでは、おとといの晩の暴風雨も同じだ。――剣、剣、剣、と明け暮れそれを道とする身はなおさらのこと、もののあわれ――慈悲の心がなくてはならぬ」
伊織はもう黙っている。
黙って――土中の白骨に花を供え、素直に掌をあわせていた。
秩父の麓から、蟻のように絶えまなく、山道を登って行く小さい人影は、いちど、山を繞る密雲の中へ皆、隠れてしまう。
その人々はやがて、山頂の三峰権現へ出て来た。そしてそこから空を仰ぐと、空には一朶の雲もなかった。
ここは坂東四箇国に跨がって、雲取、白石、妙法ヶ岳の三山に通う天上の町だった。神社仏閣の堂塔門屋の一郭につづいて、その別当だの社家だの、土産物屋だの、参詣茶屋だの、門前町があるし――まばらに散ってはいるが、神領百姓の家数も七十戸からあるという。
「ア。大太鼓が鳴った」
ゆうべから、武蔵と共に、別当の観音院に泊っていた伊織は――食べかけていた赤飯をあわてて掻っ込んで、
「先生、もう始まりましたよ」
と、捨てるように箸を置く。
「神楽か」
「見に行きましょう」
「ゆうべ見たから、わしはもういい。一人で行って来い」
「だって、ゆうべは、二座しかやらなかったでしょ」
「まあ、急がんでもいい。今夜は夜徹しあるというから」
なるほど、武蔵の木皿には、まだ赤飯が食べ残っていた。それがなくなったら行くというに違いない。伊織は、そう思い直して神妙に、
「今夜も、星が出てますよ」
「そうか」
「このお山の上に、何千人という人がきのうから登ってるから、雨が降っちゃあ可哀そうだ」
武蔵は、可憐しくなって、
「じゃ、行って見るかな」
「ええ、行きましょう」
飛び上がって、伊織は先に玄関へ駈け出し、そこの藁草履を借りて、揃えておく。
別当所の前も、山門の両わきにも、大篝火をどかどかと焚いていた。門前町の家ごとには、門々に松明をつけて、何千尺の山の上も、昼をあざむくばかりだった。
湖水のように深い色をした夜空には、銀河がキラキラ煙っていた。その麗しい星明りと火光に煙ってうごく群衆は、神楽殿を繞って、この山上の寒さを知らぬ人いきれにしていた。
「……あら?」
伊織は、その人混みに揉まれながら、きょろきょろして、
「先生はどこへ行っちまったんだろう。たった今、いたのに」
笛や太鼓が、山風に谺を呼んで人足もいよいよここへ流れ集まっては来るが、神楽殿にはまだ、静かに、灯影と帳が揺れているのみで舞人はあらわれていなかった。
「先生――」
伊織は、人のあいだを潜り歩いた。そしてやっと、武蔵の姿を見出した。
武蔵は、そこから少し先の御堂の棟に打ち並べてある、沢山な寄進札を仰いでいたのである。伊織が駈け寄って、
「先生」
と、袖を引いても、黙ったまま、仰向いて、見つめていた。
無数の寄進者からかけ離れて、金額も大きく、札も一倍と大きな板にこう書いてあったのが、彼の眼をはたと引きつけたものだった。
武州芝浦村
奈良井屋大蔵
「……?」奈良井屋大蔵
奈良井の大蔵といえば、かつて数年前、木曾から諏訪のあたりへかけて、どれほど尋ねたか知れない名である。
その大蔵が、迷れた城太郎を伴れて、他国へ旅立ったというのを聞いて――。
「武州の芝浦といえば?」
所もつい先頃まで、自分もいた江戸ではないか。ゆくりなくも今、大蔵の名を見出して、武蔵は茫然――別れた者たちを、思い出しているのだった。
常でも、忘れているわけではないが。
伊織が、日に日に、成長してゆくにつけても、何かにつけ、思い出されていたのだが――
「もう、夢のように、三年余りになる」
武蔵は、城太郎の年を、心のなかで数えてみた。
神楽殿の大鼓が、その時、急に高く鳴り出した。武蔵が、われにかえると、
「ア。もう舞ってる」
と、伊織は、心をもうそこへ飛ばして、
「先生、何を見てるんです」
「べつに、さしたることではないが――伊織、おまえは一人で神楽を見ておれ、ちと、用事を思い出したゆえ、わしは後から行く」
そういって、彼を追い遣り、武蔵はひとり、社家の方へ歩いて行った。
「寄進者のことについて、ちとお伺いいたしたいが」
と、いうと、
「ここでは、扱いませぬが、別当総役所へ、ご案内いたしましょう」
と、少し耳の遠い老禰宜が、先に立って、導いてゆく。
総別当高雲寺平等坊という大きな文字が入口に厳しい。宝蔵らしい白壁も奥に見える。神仏混淆で、一切ここを総務所としているらしかった。
老禰宜が、玄関で長々と何か告げている。
程なく非常に鄭重に、
「どうぞ」
と、役僧が、奥へ案内した。
茶が出る。見事な菓子が運ばれてくる。やがて、二の膳であった。また、美しい稚児が銚子を持って来て、給仕についた。
しばらくすると、権僧正の某というのが現れて、
「ようこそご登山下されました。山菜のみで、なにもお構いできませぬが、どうぞお寛ぎあって――」
と、いんぎんにいう。
はてな?
武蔵は少し、勝手のちがう気持だった。
で、杯も手に取らず、
「実は、寄進者のことについて、ちとお調べ願わしく、参った者でござるが」
と、いい直すと、五十恰好肥り肉なその権僧正は、
「え?」
と、眼を革めて、
「調べとは」
と、さも怪訝らしく、急に眼いろまで無遠慮にして、じろじろ武蔵のすがたを見廻した。
武蔵が、寄進札の中にある武州芝浦村の奈良井の大蔵というのは何日ここへ登山したのか、また、たびたび来る者か、その折は一名か、供を連れていればどんな者を連れているか? ――などと次々に訊ね出すと、僧正どのは怖ろしく不きげんになって、
「では、なんじゃな。其許が寄進をなさろうというのではなく、寄進者の身元を洗い立てにござったのか」
老禰宜が聞き違えたのか、この僧正どのが早のみ込みしたのか――これはしたり、といわんばかりな顔をしてみせる。
「お聞き違えでござりましょう。拙者が寄進したいと申すのではなく、奈良井の大蔵という仁のことについて」
いいかけると、
「それならそれと、玄関ではっきりいわっしゃればよいに。――見れば、御牢人らしいが、素姓もよう知れぬ者に、寄進者のお身元など、滅多にいうて、ご迷惑がかかっては困る」
「決して、左様なことは」
「まあ、役僧がどういうか、聞いてみなされ」
何か損でもしたように、僧正どのは、袖を払って、立ってしまった。
寄進者の台帳なるものを役僧が引っ張り出して、おざなりに調べてはくれたが、
「べつに、こちらにも、詳しいことは何も書いてない。お山には、度々参籠してござるようじゃ。供の者が、幾歳ぐらいか、そんなことまで分らんよ」
と、膠もない。
それでも武蔵は、
「お手数をかけました」
と礼をのべて外へ出た。そして神楽殿の前へ来て、伊織の姿を探すと、伊織は群衆の後ろにいた。背が低いので、樹の上にのぼり、梢に腰をかけて、神楽を見ているのだった。
彼は、武蔵がその樹の下へ来たことも知らない。全く放心して、神楽殿の舞に見恍れている。
黒い檜の舞台に、五色の帳が垂れていた。棟の四方に、張り繞らしてある注連に、山風がそよとうごいて、庭燎の火の粉がチラチラ燃えつきそうに時折掠める。
「…………」
武蔵もいつか、伊織と共に、舞台へ眼を向けていた。
彼にも、伊織とおなじ日があった。故郷の讃甘神社の夜祭が、此処のような気がしてくる。群衆の人いきれの中には、お通の白い顔があったり、又八が何か喰っていたり、権叔父が歩いていたり――そして自分の帰りの遅いのを案じて、子を探す母の姿が彷徨っていたり――など、その頃の幼い幻影に、さながら、今、身をつつまれているのだった。
舞台に坐って、笛を構え、撥を把っている、古雅な近衛舎人たちの風俗を写した山神楽師の、怪しげな衣裳も、金襴のつづれも、庭燎の光は、それを遠い神代の物に見せるのである。
ゆるい大鼓の撥音が、あたりの杉木立にたかく谺する。それに縺れて、笛や太鼓の前拍子がながれ、舞台には今、神楽司の人長が、神代人の仮面つけて――頬や顎の塗りの剥げているその貌を、おおらかに舞いうごかして――「神あそび」の歌詞を謡っていた。
神がきの、みむろの山の
さか木葉は
神のみまえに、しげりあいにけり
しげりあいにけり
人長が、一つの詞を謡い終ると舎人らは、段拍子を入れ、畳み拍子と、楽器をあわせて、舞と楽と歌とが、ようやく一つの早い旋律を描き出して、さか木葉は
神のみまえに、しげりあいにけり
しげりあいにけり
すめ神の、みやまの杖と、
やま人の、ちとせを祈り
きれるみ杖ぞ
きれるみつえぞ
また――やま人の、ちとせを祈り
きれるみ杖ぞ
きれるみつえぞ
この鉾は、いずこの鉾ぞ
天にます
豊おか姫の、宮の鉾なり
みやのほこなり
神楽歌の幾つかは、武蔵も幼い頃には覚えていたものである。自分が仮面をつけて、故郷の讃甘神社の神楽堂で、舞ったりしたことなども、思い出された。天にます
豊おか姫の、宮の鉾なり
みやのほこなり
よもやまの
人のまもりにする太刀を
神の御前に祝いつるかな
いわいつるかな
その歌詞を耳に聞いていた時である、武蔵の眼は、太鼓の座に、太鼓をたたいている舎人の手をじっと見ていたが、人のまもりにする太刀を
神の御前に祝いつるかな
いわいつるかな
「あっ、あれだ! ……二刀は」
と、突然、辺りをわすれて大きく呻いた。
樹の股の上から、
「おや、先生、いたんですか」
伊織は、武蔵の呻いた声に、びっくりして覗き下ろした。
「…………」
武蔵は、彼を、見上げもしなかった。神楽殿の床を見ているのであるが、周りの人々のように舞楽に陶酔している眼ではない。むしろ怖いといえばいえもする眼ざしなのだ。
「……ウウム、二刀、二刀、あれも二刀も同じ理だ、撥は二つ、音はひとつ」
凝然として腕拱みを解かないのである。しかし彼の眉には、年来、胸にわだかまっていたものが解けていた。
それは、二刀の工夫であった。
生れながら、人間には、二つの手がある。けれど剣をとる場合には、人間はそれを一つにしか使っていない。
敵がそうだし、衆が皆、それを習性としているからいいが、もし、二つの手を、完全に二つの剣として働かして来た場合は一つの者はどうなるか。
実例はすでに武蔵の体験の中にある。それは一乗寺下り松の闘いに、吉岡方の大勢に対して、身一つで当って行った時である。あの時、戦いが終ってから気づいてみると、自分は両手に剣を持っていた。――右に大剣と、左の手に小刀を。
それは、本能がしたのである。無自覚のうちに二本の手が、各

大軍と大軍との合戦でも、両翼の兵を完全に駆使しないで、敵に当るという兵法はあり得ない。まして一箇の体にはなおのことである。
日常生活の習性は、しらずしらず不自然を自然に思わせて、不思議ともしなくなるものである。
(二刀がほんとだ。むしろ、二刀が自然なのだ)
武蔵は、あの時以来、そう信じていた。
けれど、日常生活は日常の所作であり、生死の境は、生涯にそう何度もあるものではない。――しかも剣の極意は、その生死の要意を日常化するにある。
無意識でなく、意識あっての働き――
しかも、その意識が、無意識のように自由な働き――
二刀は、そうしたものでなければならぬ。武蔵は常にその工夫を胸に抱いていた。彼は自己の信念に、理念を加えて、動かない二刀の原理をつかもうとしていた。
それを、彼は今、はっと受け取ったのである。神楽殿の上で、太鼓をたたいている舎人の二本の撥の手――二刀の真理をその音に聞いたのだった。
太鼓を打つ二つの撥は、二つであるが発する音は一つである。そして左と右――右と左――意識があって、意識がない。いわゆる無礙自由の境である。武蔵は、胸の開けた心地がした。
五座の神楽は、人長の歌詞から始まって、いつのまにか舞人も入れ代っている。大まかな岩戸神楽もすすみ、荒尊の鉾の舞につれて、早拍子の笛がさけび、鈴がりんりんと振り鳴らされた。
「伊織、まだ見ておるか」
武蔵が、梢を仰いでいうと、
「ええ、まだ」
と、伊織は、返辞もうわの空だった。神楽舞に魂を飛ばして、自分も舞い人になったような心地でいた。
「明日はまた、奥の院まで、大岳を登らねばなるまいが、余り晩くならぬうちに戻って眠れよ」
いい置いて、武蔵は、別当の観音院の方へ、ひとりで歩き出した。
――すると彼の後ろから、大きな黒犬に手綱をつけて、のそのそ尾いて行く男があった。武蔵が、観音院の内へ入ると黒犬を連れたその男は後ろを見て、
「おい。おい」
と小声に、闇へ手招きした。
犬は、三峰のお使いであるというので、山では、権現様の御眷属とよんでいる。
山犬のお札だの、山犬の木彫だの、山犬の陶器だの――を参籠者が下山の折、買ってゆくのもそのためである。
また、ほんもののお犬もこの山には沢山いた。
人に飼われ、崇められてもいるが、この山中にいるので、自然生物を喰い、まだ山犬の本質が脱けきれていないような、鋭い牙を持った犬ばかりである。
それらの眷属の祖先は、千余年前、大集団で、海の彼方から武蔵野へ移住して来た高麗民族の家族と共に、移って来たものと、それより以前から、秩父の山にいた純坂東種の山犬と、そう二種類の結合された血をもっている猛犬だということであった。
それはとにかく。
――武蔵の姿を別当の観音院の前まで尾行てきた男の手にも、一匹の犬が麻縄で曳かれている。今、男が闇へ手招きすると、犢のような黒犬も共に、闇の方を見てくんくんと鼻を鳴らし始めた。
彼が常に嗅ぎ馴れている人間のにおいが、近づいて来たせいであろう。
「しッ」
と、飼主は、手綱をちぢめて、尾を振る尻を一つ打った。
その飼主の顔も、狛犬に劣らない獰猛な容貌をそなえていた。顔に、皺の彫りが深く、五十歳がらみに見えるが、骨太な体は、もっと若い、いや若い者にもめずらしいほど精悍である。背は五尺そこそこだが、四肢の節々には、何処となく、当り難い弾力と闘志がこもっていて――いわば、この飼主も、連れている犬と同じように、まだ山犬の性が多分に脱化しきれない――野獣から家畜への過渡期にあるのと同様な――山侍の一人だった。
だが、寺に勤めている身なので、服装はきちんとしていた。胴服ともみえ、裃ともみえ、羽織ともみえる物の上に、腰締をむすび、麻袴をはき、足には、祭礼穿きの、新しい紙緒のわら草履をはいている。
「梅軒さま」
そっと、闇の中から寄って来た女はいった。
犬は、その裾へ、じゃれかかろうとするし――女は、そのために、或る距離しか近づきかねていた。
「こいつ」
梅軒は、縄の端で、こんどはやや強く、犬の頭を打って、
「お甲。……よく見つけたな」
「やはり、あいつでしょう」
「うむ。武蔵だ」
「…………」
「…………」
二人は、それきり口を噤む。雲の断れ目の星を見ている。神楽殿の早拍子が、黒い杉木立の奥に今、旺んだった。
「どうします」
「どうかせねば」
「折角、山へ上って来たのに」
「そうだ、無事に帰しては、勿体ない」
お甲はしきりに眼をもって梅軒の決心をけしかける。梅軒はだが容易に肚がきまらないらしい。眸の奥でぎらぎらと何か思慮を焦いている。
恐い眼である。
しばらくして、
「藤次はいるか」
「え。祭の酒に酔って、宵から店で寝ておりますが」
「じゃあ、起しておけ」
「あなたは」
「何せい、おれは勤務のある体だ。――御宝蔵の見廻りや用事を済まして、後から行くとしよう」
「じゃあ、宅の方へ」
「む。おぬしの店へ」
赤い庭燎のゆらぐ闇へ、二人の影はまた、別れ別れに消えて行った。
山門を出ると、お甲の足は、小走りになった。
門前町は二、三十戸ある。
多くは、土産物屋と、休み茶屋であった。
たまたま、煮物や酒のにおいの中に人声の賑やかな小屋もある。
彼女のはいった家も、そうしたふうの一軒で、土間には腰掛が並べてあり、軒先には「御休処」としてある。
「うちの人は」
帰るとすぐ、彼女は、床几に居眠っていた雇人の小女へ訊いた。
「寝てるのかい」
叱られたと思って、小女はあわてて、何度もかぶりを振った。
「おまえじゃないよ。うちの人のことを訊くのだよ」
「あ。お旦那なら、眠ってござらっしゃります」
「それ、ごらんな」
舌打ちして、
「祭だっていうのに、こんな薄ぼんやりしているのは、うちだけだよ、ほんとに」
お甲は、そういいながら、暗い土間を見まわした。
表口で、雇い男と老婆が、明日の赤飯を泥竈にかけて蒸していた。そこから赤い薪の火がゆらいで来る。
「もし、おまえさん」
お甲は、一つの床几の上に、長々と寝こんでいる姿を見かけて、側へ寄った。
「ちょっと、眼を醒ましておくれよ。――もしおまえさんたら」
軽く肩を持って、揺すぶると、
「なに」
むくりと、寝ていた男は、起き上がった。
お甲は、
「おや……?」
と、退いて、男の顔を見まもった。
それは、彼女の亭主の藤次ではなかった。丸っこい顔に、大きな眼をもった在郷の若者である。ふいに、見知らぬ女にゆり起されたので、きょろッと、その丸い眼でお甲を見つめた。
「ホ、ホ、ホ」
彼女は、自分のそそッかしさを笑いに紛らして、
「お客様でしたか。どうも、相すみませんでした」
在郷の若者は、床几の下にすべり落ちている菰を拾って、それを顔にかぶると、だまってまた、眠ってしまった。
木枕の前に、何か食べかけた盆と、茶碗がおいてある。菰の裾からにゅッと出ている二本の足には、土だらけな草鞋が結いつけてあり、壁へ寄せて、この若者の持物らしい旅包みと、笠と、一本の丸杖とが、置いてあった。
「お客かえ、あの若い衆は」
小女に訊くと、
「はい。一眠りしたら、奥の院へ登りに行くだから、眠らせてくれといいなさるで、木枕を貸してあげましただ」
と、いう。
「そうならそうとなぜいわないのさ。うちの人と間違えてしまったじゃないか。一体、うちの人はどこに――」
といいかけると、かたわらの破れ障子の内から、片脚を土間におろして、体は莚床へ横たえていた藤次が、
「べら棒な。ここにいる俺がわからねえのか。――てめえこそ、店を空けて、どこをうろついているのだ」
と、寝起きの悪い声をして、起き上がった。
勿論この男は、かつての祇園藤次。彼も変り果てたものだが、まだ悪縁も切れずに連れ添っているお甲のほうも、さすがに、元の色香はなかった。男のような女になっていた。
藤次が怠け者なので、自然、女がそうならなければ、生活してゆかれないせいでもあろう。和田峠に薬草採りの小屋を懸けて、中山道を往来する旅の者を殺めては、慾を満たしていた頃はまだよかったが――
その山小屋の巣も焼き払われてしまったので、手足にしていた手下も散ってしまい、今では、藤次は冬場だけ猟を稼ぎ、彼女は、お犬茶屋の内儀さんだった。
寝起きのせいもあろうが、藤次の眼は、まだ赤く濁っていた。
その眼が土間の水瓶を見ると、立って行って、柄杓からがぶがぶと、酔醒めを飲んでいる。
お甲は、床几へ、片手をついて、体を斜にして振向きながら、
「いくら祭だって、お酒も程々にしたがいい。――生命が危ないのも知らず、よく外で、刃物につまずかなかったね」
「何」
「油断をおしでないということさ」
「何かあったのか」
「武蔵が、この祭に来ているのを、おまえ、知っておいでかえ」
「え。武蔵が」
「ああ」
「武蔵とは、あの宮本武蔵か」
「そうさ。きのうから、別当の観音院へ来て泊っているんだよ」
「ほ、ほんとか?」
水瓶いっぱいの水を酔醒めに浴びたよりも、武蔵の二字は、藤次の顔をいちどに醒ましていた。
「そいつあ大変だ。お甲、てめえも店へ出ていないがいいぞ。野郎が、山を下りるまでは」
「じゃあおまえは、武蔵と聞いて、隠れている気かえ」
「また、和田峠の二の舞を、やるまでもねえだろう」
「卑怯だね」
お甲は、せせら笑って、
「和田峠でもそうだが、武蔵とおまえは、京都で、吉岡とのいきさつ以来、恨みのかさなっている相手じゃないか。女のわたしでさえ、あいつのために、後ろ手に縛られて、住み馴れた小屋を焼き払われた時の口惜しさは、忘れてはいないよ」
「だが……あの時は、手下も大勢いたが」
藤次は、自分を知っていた。彼は、一乗寺下り松の人数のうちには加わらなかったが、その後、武蔵の手なみは、吉岡の残党の者からも聞いてもいたし――和田峠では、直接、体験もしていたし――到底、彼に対して、勝目は考えられなかった。
「だからさ」
お甲は、摺り寄った。
「――おまえ一人では無理だろうが、この山には、武蔵にふかい遺恨のある人が、もう一人いるだろうじゃないか」
「……?」
そういわれて、藤次も思い出したのである。彼女のいうその人というのは、山の総務所、高雲寺平等坊の寺侍――総務所の宝蔵番を勤めている宍戸梅軒のことをいったものに違いない。
ここに、茶店を持たせてもらったのも、その梅軒の世話からであった。
和田峠を追われて、旅へ出た末、ここの秩父で、梅軒と知り合ったのが縁であった。
後になってだんだん話しあってみると、その梅軒は、以前、伊勢鈴鹿山の安濃郷に住んでいて、ひところは多くの野武士を配下にもち、戦国のみだれに乗じて野稼ぎを働いていたが、その戦もなくなったので、伊賀の山奥で、鎌鍛冶となったり、百姓に化けたりしていたが、領主の藤堂家の藩政が統一されてくるにつれ、そういう存在もゆるされなくなったので、遂に時代の遺物たる野武士の集団を解散して、ひとり江戸へと志して来たが――その江戸にもない真向きな口があるが――と三峰に縁故のある者の紹介で、数年前から、総務所の宝蔵番に雇われたものだった。
ここよりもっと奥の武甲の深山には、まだまだ、野武士以上、殺伐で未開な人間が、武器をもって棲息しているというので――要するに彼は、毒をもって毒を制するため――宝蔵番には真向きな人物として、抱えられたのである。
宝蔵には、社寺の宝物ばかりでなく、寄附者の浄財が、現金である。
この山中、それは常に、山の者の襲撃に、脅かされていた。
その宝蔵の番犬として、宍戸梅軒は、実に打ってつけな人物に違いなかった。
野武士、山の者などの、習性とか、襲撃法とか、そういうことにも通じているし、もっと重大な資格としては、彼は、宍戸八重垣流の鎖鎌の工夫者であり、鎖鎌を使わせては、天下無敵の達人といわれている。
前身が前身でなかったら、しかるべき主君もとれる人間だった。けれど、彼の血統は余りにどす黒い。彼の血をわけた兄も、辻風典馬といって、伊吹山から野洲川地方へわたって、生涯、血なまぐさい中に跳梁した野盗の頭目であった。
その辻風典馬の死は、もう十年も以前になるが、武蔵がまだ「たけぞう」といっていた頃――ちょうど関ヶ原の乱後――伊吹山の裾野で、武蔵の木剣のために血へどを吐いて終ったものであった。
宍戸梅軒は、自分たちの没落の原因が、時代の推移と考えるよりも、その兄の死が、ケチのつき初めと考えていた。
で、武蔵の名を、彼は、恨みの胸へ、彫りつけていた。
その後。
梅軒と武蔵とは、伊勢路の旅の途中、安濃の山家で計らずも出会った。彼は、武蔵を必殺の罠にかけたつもりで、寝首を狙った。
だが、武蔵は、死地をのがれて、姿を晦ましてしまった。――それ以来、梅軒は、武蔵の姿を、見る時がなかったのである。
――お甲は、彼から幾度となくその話を聞いていた。同時に、自分たちの身の上も彼に洩らした。そうして梅軒との親密を濃くするために、武蔵への怨みを、よけいに強く語った。そんな時、
(今に。――永い生涯のうちには、きっと)
と梅軒は、あの眼を、皺のなかに凄く潜めて、呟くのが常だった。
そうした人間のいるこの山。――武蔵にとっては、恐らく、これ以上、危ない地上はない呪咀の山へ、きのう伊織を連れて、上って来たのであった。
お甲は、店の中から、その姿をチラと見て、おやと見送ったが、祭の雑沓に見失ってしまった。
で、藤次に計ろうとしたが、藤次は飲んで歩いてばかりいる。けれど、気懸りでならないので、宵の手すきに、別当の玄関を窺っていると、ちょうど、武蔵と伊織が、神楽殿の方へ出て行った。
いよいよ、武蔵にちがいない。
彼女は、総務所へ行って、梅軒を呼び出した。――梅軒は、犬を引っ張って出て来た。そして、武蔵が、観音院へ帰って行くまで、背後に尾いて見届けていたわけであった。
「……ムム。そうか」
藤次は、それを聞いて、ようやく力を得た心地がした。梅軒がぶつかる気なら――と、やや勝目が考えられて来た。三峰の奉納試合に、梅軒が八重垣流の鎖鎌の秘を尽して坂東の剣術者をほとんど総薙ぎに葬ったおととしの記憶などを思いうかべていた。
「……そうか。じゃあ、梅軒さまの耳へもそのことは入れてあるのだな」
「後で、御用がすんだら、ここへ来るといっていましたが」
「諜し合せにか」
「元よりでしょうね」
「だが、相手が武蔵だ。こんどこそ、よほど巧くやらねえと……」
胴ぶるいと共に、思わず大きな声が出たのである。お甲は、気がついて、薄ぐらい土間の片隅を振り顧った。そこの床几には菰をかぶった在郷の若者が、さっきから鼾をかいてよく眠っていた。
「叱っ……」
お甲に、いわれて、
「ア。誰かいたのか……?」
藤次は、自分の口を抑えた。
「……誰だ?」
「お客だとさ」
お甲は、気にかけなかった。
だが、藤次は、顔をしかめて、
「起して、出しちまえ。――それにもう、宍戸様が来る頃だろう」
と、いった。
それに越したことはない。お甲は小女にいいふくめた。
小女は、隅の床几へ行って、若者の鼾をゆり起した。そして、もう店を閉めるのだから出て行ってくれと、無愛想にいった。
「わあ、よく眠った!」
伸びをして、若者は土間に立った。旅ごしらえや、訛りから見て、近郷の百姓とは思われない。何しろ、起きるなり、独りでにこにこして、丸っこい眼をしばたたき、はち切れそうな若い肉体をくるくる動かし、またたくまに、菰を着、笠を持ち、杖をかかえ、旅ぶろしきを首に巻いて、
「どうも、お邪魔さん」
と、お辞儀して、外へ飛び出して行った。
「お茶代は置いて行ったのかい。変なやつだね」
お甲は、小女を振向いて、
「床几を、畳んでおしまい」
と、いいつけた。
そして彼女も、藤次も、葭簀を巻いたり、店の物を片づけ始めた。
そこへ、のっそりと、犢のような黒犬がはいって来た。梅軒の姿は、その後からであった。
「お、お越しで」
「どうぞ、奥へ」
梅軒は黙って、草履を脱ぐ。
黒犬は、そこらに落ちている喰い物を、漁り歩くのに忙しない。
荒壁の破れ廂だが、板縁を架けて、離れている。そこの一間に燈火がつく。梅軒は坐るとすぐ、
「……先ほど、神楽堂の前で、武蔵が連れの子供に洩らした言葉に依れば、明日は、奥の院へ登るつもりらしい。それから先に、慥かめておこうと、そっと観音院へ寄って探って来たので遅くなった」
と、いった。
「じゃあ、武蔵はあしたの朝、奥の院へ……」
とお甲も藤次も息をのんで、廂ごしに、大岳の黒い影を、星空に見た。
尋常一様なことで、武蔵を打てないことは、藤次以上、梅軒は弁えていた。
宝蔵番のうちには、彼のほかに屈強な番僧が二人いる。同じく、吉岡の残党で、この神領に小さな道場を建て、部落の若い者に稽古などをつけている男もある。なお糾合すれば、伊賀から随身して来た野武士で、今は転業している者など、十名以上はすぐ狩りあつめられよう。
藤次は、手馴れの鉄砲を持つがよいし、自分は、いつもの鎖鎌を用意して来ている。――ほか二人の番僧は槍を持ってもう先へ出たはずである。なお、出来るだけ味方を狩りあつめ、夜明け前に、大岳へゆく途中の小猿沢の谷川橋で――われわれを待ち合す手筈になっているから、万々、これで遺漏はあるまいと、宍戸梅軒はいうのだった。
藤次は、驚いて、
「へえ、もうそんな手廻しがついているので?」
と、疑わしい眼をした。
梅軒は、苦笑した。
梅軒をただの寺僧と見馴れているから意外とするのであろうが、前身の辻風典馬の弟黄平としてみれば、これくらいな早仕事は、眠りをさました野猪が、山萩の一叢に、風を起したほどにも足りないことだった。
まだ、霧が深い――。
小さい残月も、谷から高く離れている。
大岳は眠っていた。
淙々、どうどう、ただ躁がしいのは、小猿沢の底を行く水である。
そこの谷川橋に、黒々と、霧につつまれた人影がかたまっていた。
「藤次」
と、低声に呼ぶ。
梅軒の声である。
同じ低声で、群れの中から、藤次が答える。
「火縄を濡らすな」
と、いう注意を梅軒がする。
法衣をからげた山法師そのままな僧が、手槍を持って二人もこの殺伐な群れの中に交じっている。
あとは地侍や、ならず者の徒であろう。服装は雑多だが、足拵えは、どれを見ても、軽捷に馴れた装いである。
「これだけか」
「そうです」
「何名?」
お互いに、頭数を読み合う。誰が数えても、自分を加えて、十三名と読む。
「よしっ……」
梅軒はいって、行動する手筈をもういちどそこで銘々に、繰返した。銘々は、黙って頷いた。――そして、では行けとばかり、谷川橋から一筋道の辺りを指して、雲の中へ、掻き消えてしまった。
是ヨリ三十一町
奥之院道
谷川橋の断崖の際にある道しるべ石の文字が、白い残月に、微かに読まれて、その後はただ、渓の水音と風だった。奥之院道
人が去ると、その間、潜んでいたものが、やがて樹々の梢を渡って躁ぎだした。
これから奥の院まで、無数に見かける猿の群れだった。
猿は、崖の上から、小石を転がし、蔓ぐさに縋り、道まで出て来た。
橋を駈けまわる。橋の裏へかくれ込む。谷間へ飛ぶ。
霧は、その影を、追い廻すように、猿と戯れた。――もしここに一人の神仙が降りて、彼らに、仙語をもって、
(汝ら、生をうけて、何ぞこの狭隘の山谷に、雲と児戯するや。雲すでに起つ、雲に駕せよ。行くこと西方三千里、廬山に臥し峨眉峰を指さし、足を長江に濯ぎ、気を大世界に吸う。生命真に伸ぶべし。われらと共に来らずや)
とでも呼びかけたら、雲はみな猿となり、猿はみな雲と化って、漠々、昇天し去って行くかもしれない。
――そんな幻想さえ催すほど、猿は、遊んでいた。残月の光に、その猿の形は霧へ映って、二つずつに見えた。
わんッ!
わん、わん、わんッ!
突――犬の声だった。
犬の声は、谺して、谷へ遠くひびいた。
とたんに、さながら秋の末の黄櫨の葉が風に見舞われたように、猿は、一瞬に影をひそめてしまった。――そしてそこへ、かなり高い跫音をひびかせて、宝蔵番のために梅軒が飼っている黒犬が縄を切って素っ飛んで来た。
「くろっ、くろ奴!」
後から追って来たのは、お甲であった。
梅軒たちが、大岳へ行ったのでそれを知って、縄を噛み切ったものとみえる。
彼女はやっと、黒犬の引きずって行く縄の端をつかまえた。黒犬はつかまると、彼女に巨きな体を押しつけて絡みついた。
「畜生」
彼女は、犬が好きでない。振り退けながら、縄で打った。
そして、
「お帰り!」
と、元来た方へ曳き戻そうとすると、黒犬はまた、耳まで口を裂いて、
――うわんッ
と、吠え始めた。
縄はつかまえたが、彼女の力では動かなかった。無理に引っ張れば、狼のような甲高い声を発して、吠えつづける。
「なぜこんな物を、連れて来たんだろう。宝蔵の犬小屋へ繋いでおけばいいに」
と、彼女も癇が起った。
こんなことをしている間に、もし別当の観音院を今朝立つ筈の――武蔵が早くも来かかったら、不審に思われるにちがいない。この犬が、この道に、うろうろしているだけでも、機敏な彼に気遣われる惧れは十分にある。
「ちいッ、しようがないね」
お甲は、持て余した。
黒犬は吠えやまないのである。
「仕方がない――お出で。その代り、奥の院へ行ったら、吠えるんじゃないよ」
やむなく彼女は犬を曳いて、いや犬に曳かれて――先へ登った人々の道を後から喘いで行った。
それきり黒犬の吠える谺はして来なかった。黒犬は嬉々と、飼主の匂いを追って行ったのだろう。
一夜中、うごきやまずに動いていた霧が、谷間へ、厚ぼったい雪のように落着いて、武甲の山々や、妙法や、白石や、雲取の相が澄んで来ると、奥の院道も白み渡って、チチ、チチ、チチ……と小鳥の声が耳を洗う。
「先生、どうしてだろ?」
「何が」
「明るくなったのに、お日様が見えないもの」
「おまえの見ている方角は、西ではないか」
「あ、そうか」
伊織は、その代りに、月を見つけた。峰の彼方に落ちかけている淡い月を。
「伊織」
「はい」
「この山には、おまえの親友がたくさんいるな」
「どこにですか」
「それ。あそこにも――」
武蔵が、指さした谷間の樹をのぞくと、親猿を真ん中にして、子猿が、かたまっていた。
「いたろう。はははは」
「何だあ……。だけど先生……猿は羨ましいなあ」
「なぜ」
「親がいるもの」
「…………」
道は胸突である。武蔵は黙って先へ攀じ登って行く。――少し登るとまたやや平地になって来た。
「あの、いつか、先生に預けといた、革の巾着――お父っさんのお遺物の――あれを先生はまだ持っていてくれますか」
「落しはせぬ」
「中を、見て下さいましたか」
「見ない」
「あの中に、お神札の他に、書いた物もはいっているんですから、こん度、見てください」
「ウむ」
「あれを持っていた時分は、私にはまだ、難しい字は読めなかったけれど、今ならもう読めるかもしれません」
「何かの時、おまえ自身で、開けてみるとよい」
一歩一歩に夜は白んで来る。
武蔵は、道の草を見ながら踏んだ。自分の踏んで行く先に何者の足痕か、その草露はおびただしく汚れていた。
蜿々と、道は山を旋り巡って、やがて、東を望む平地へかかって来た。
とたんに、伊織は、
「あっ、日の出!」
指さして武蔵を振り顧った。
「オオ」
武蔵の顔も、紅に染まった。
見る限りが、雲の海である。坂東の平野も、甲州、上州の山々も雲の怒濤の中にうかぶ蓬莱の島々であった。
「…………」
伊織は、口をむすんで、姿勢を正して凝然と日輪を見ていた。
余りに大きな感動は、少年を唖にさせてしまう。伊織は、何といっていいのか、分らなかった。
自分の体じゅうを旋っている血液と、その太陽の赤いものとが、ひとつみたいな気がして来た。
だから伊織は、
(太陽の子だ)
と、自分を思ったが、それではまだ、彼の感動と、人間精神とが、ぴったりしなかった。
で、彼はなお黙って、恍惚としていたが、突然、大きな声でどなった。
「天照皇大神さまだ!」
振向いて、武蔵へ、
「ね、先生。そうでしょう」
「そうだ」
伊織は、両手を高く翳して、十本の指を透かしてみた。そして、またどなった。
「お日様の血も、おれの血も、同じ色だ」
その手で、伊織は、拍手を打った。そして俯し拝みながら、心のなかで、じっと、
――猿には親がある。
――おれにはない
――猿には大神祖がない
――おれにはある!
と、思って、歓びに盈ちあふれて来た。涙がながれかけて来た。
その涙の疼きが、唐突に、伊織の手や足を動かし始めた。伊織の耳には、ゆうべの岩戸神楽が、雲の彼方で聞えているのである。
「――タラン、タン、タン、タン。――どどん、どん……」
笹を拾って、舞い出した。
神楽拍子に足を踏み、手を流し、そして、きのう覚えたばかりの神楽歌を謡った。
あずさ弓
はる来るごとに
すめ神の
豊のあそびに
あわんとぞおもう
あわんとぞ思う――
気がつくと、武蔵はもう彼方を歩いている。伊織は、あわてて駆け出した。はる来るごとに
すめ神の
豊のあそびに
あわんとぞおもう
あわんとぞ思う――
道はまた、樹林のあいだへはいって行く、――もう参道が近いのではあるまいか。樹々の姿におのずから統一がある。
巨きな樹はみな、厚ぼったい苔をかぶっていた。苔には、白い花がたかっている。五百年も千年も生きて来たかと思うと、伊織は、樹にもお辞儀をしたくなった。
足許はだんだん熊笹に狭められて来る。真っ赤な蔦もみじが、眸を吸いつけた。樹の深い中はまだ暁闇であった。仰向いても、朝の光は、少ししか見られなかった。
――と、ふいに二人の踏んでいる大地が揺れたような気がした。そう思った瞬間、ずどんッ! 烈しい音響だった。
「あっ」
伊織は、耳を抑えて、熊笹の中へ俯ッ伏した。とたんに、うすい弾煙のながれた樹陰で、ぎゃッ――と、生き物が断末を告げる刹那の――あの不気味なさけび声が聞えた。
「伊織。立つな」
熊笹の中へ首を突っ込んでいる伊織へ、武蔵は、杉の樹陰から、そういった。
「――踏まれても、立つではないぞ」
「…………」
伊織は、返事もしなかった。
煙硝くさい煙は、うすい霧のように、伊織の背を越えて行った。――その彼方の樹、武蔵の横にある樹、また、道の行くて、道の後方――すべての物の陰には、槍の穂か、刃かが、潜んでいた。
「……?」
物陰から窺っている者たちから見ると、瞬間に、武蔵のすがたが、何処へ行ったかと、戸惑いを覚えているらしかった。――そして、鉄砲の効果をも、確かめているのであろう。ガサともさせず、しばらく窺い合っていた。
今――ぎゃッといった凄いうめき声が、武蔵に与えた手応えかとも思ったが、その武蔵のいた辺りに、武蔵の姿は仆れていないし、それも彼らの出足をためらわせていたに違いない。
鉄砲の音と共に、熊笹の中に、熊の子みたいに、尻だけ出してじっとしている伊織の姿は、誰の眼にも見えた。――伊織はちょうど、八方の眼と、刃との、真ん中に置かれていた。
「…………」
起つでないぞ――と何処からかいわれたような気がしたが、毛の根に迫ってくるような恐さと、鼓膜がガンとした後の一瞬の、余りにもひそとした静かさに、つい、そうっと首を擡げてみると、すぐ側の巨きな杉の樹陰に、大蛇にも似た太刀が、ギラと見えた。
われを忘れて、
「せッ、先生っ。――たれかそこに、隠れてるぞ!」
と、伊織は絶叫してしまった。
そして、跳ね起きるなり、ぱっと無性に駈け出そうとすると、
「この餓鬼っ」
と、彼の見た刃が、そこの陰から躍って来て、悪鬼のように伊織の上へ、振りかぶった。
その横顔へ、ぐさっと、一本の小柄が突き立った。武蔵が、身を運んで救うに遑がなく、投げたものであることはいうまでもない。
「――うっ、く、くそっ」
槍を繰り出した法師である。武蔵はその槍を一方の手に引っつかんでいた。しかし、右の片手はなお、今小柄を放っただけで、完全に空けて、次に備えていた。
およそどれ程の敵の数か、亭々たる木の幹に遮られて、それの明瞭でないのが、彼をして、軽々しく動かせない原因だった。
――するとまたも、どこかで、
「ぐわっ」
と、石でも頬張ったような呻きがした。
同時に思いがけない方で、武蔵とは関係なく、相手の中から裏切でも起ったのか、凄まじい格闘が始まった様子なのである。
「はて?」
武蔵が、それへ眸を反らした咄嗟、狙い澄ましていたもう一名の法師は、槍もろとも勢いよく彼へ向って、驀進して来た。
「――おっ」
武蔵は、両脇へ槍をつかんだ。互い交いに、槍と槍をもって、彼の体を挟んだ二人の法師は、喚き合って、味方へ、
「かかれッ」
「何してる!」
と、叱咤した。
その呶号より高く、
「何者だっ。何者がこの武蔵を討たんとはするのか。名乗れ。――名乗らずば、皆、敵と見るぞっ。この神域、血に汚すは畏れあるが、屍を積むぞ」
と、いった。
つかんでいた二本の槍を振り廻すと、法師は二人とも跳ね飛ばされた。武蔵は飛びかかって、抜き打ちにその一人を斬り伏せ、身を翻して、さらに、抜きつれてくる三名の白刃を迎えた。
道はせまい。
武蔵は、その道をいっぱいに、じりじり押した。
白刃をならべた三名に、横からまた二名ほど加わって、相手は、肩をすぼめ合いながら、踵摺りに後へ後へと退がって行った。
心もとないことには、伊織の姿が見えない。武蔵は、当面の敵へは単に、備えておくに止めて、
「伊織っ……」
と、呼んでみた。
ふと見ると、杉林の中に、追い廻されている者がある。それが伊織だった。今討ち洩らした一名の法師が、槍を拾って、伊織を追い駈け廻しているのだった。
「ア、おのれ」
彼の救いに――その方へ武蔵が身を外そうとすると、
「やるなッ」
どっと、前の五名は、刃をつらねて、間近へ斬り込んで来た。
疾風を起して、武蔵は、対って来た刃へ、自身からも対って行った。怒濤へ怒濤をぶつけたのである。飛沫となって血は刎ね飛んだ。武蔵の体は、敵よりも低目に、そして彼の背はまるで渦に見えた。
血の音、肉の音、骨の音までがした。ふた声三声、つづけざまに絶鳴がその中に交じった。右へ左へ、朽木仆れに斃れた者のすべてが、胴から下を薙ぎられていた――そして武蔵の手には、右に大剣と、左に小剣が握られていた。
「――わっ」
二人ほどが、のめるように、逃げ出した。追いかけざま、
「何処へ」
ひとりの後頭部へ、左剣を浴びせた。
びゅっ――と黒い返り血が、武蔵自身の眼へ刎ねた。
武蔵は、左剣の手を顔へ――思わず眼へ当てた。とたんに、異様な金属の音が、後ろから、風を裂いて、その顔へ飛んできた。
――あっ、と無意識のまに彼の右剣が、それを払った。
いや、払ったと意識したのは、単なる意識でしかない。鍔のあたりへぶんと噛みついた分銅に、彼が、
(しまった!)
と、心にさけんだ時はすでに、ガリガリガリッと、刀身と細い鎖とは、縄を綯うように、縒られていたのである。
「武蔵っ」
鎌を、手元に持って、分銅鎖に相手の刀を巻きつけた宍戸梅軒は、その鎖を張りながらいった。
「――忘れたか、おれを」
「おおっ?」
武蔵は、くわっと見て、
「――鈴鹿山の梅軒だな」
「辻風典馬の弟よ」
「あ。さては」
「知らずに登ったのがてめえの運のつきだ。針の山、地獄の谷、亡兄の典馬が呼んでるから早く行け」
絡みついた分銅鎖は、武蔵の刀から離れなかった。
梅軒は、徐々に、その鎖を手元に手繰り溜めた。――それは手元にある鋭い利鎌を、次に抛ってくる用意であることはいうまでもない。
その鎌に対しては、武蔵は、左の小剣を持って備えていたが、今にして思えば、もし、右の大刀のみだったら、すでに身を防ぐ何物もなかったのである。
「ええいッ!」
梅軒の喉は膨れて、顔と同じくらいな太さになった。こう満身から一声しぼり出したと思うと、鎖は、武蔵の右剣を――体ぐるみ、だッと前へ引き寄せた。
同時に、梅軒の体も、一手繰り鎖を寄せて、踏みこんで来た。
はからずも、武蔵は今日という今日、一代の不覚を取ったものではあるまいか。
鎖鎌という特殊な武器。それに対する予備知識がないではないのに。
かつて。
この宍戸梅軒の妻が、安濃の鍛冶小屋で、その実物を持って、宍戸八重垣流の形をして、武蔵に見せたこともある。
その折、武蔵は、
(――ああ見事)
と、見恍れたものである。
妻ですらこのくらいにつかうとしたら良人の梅軒の技はどれ程か、と思ったものである。
同時に、この滅多に出合わない――天下に使い手も少ない、特殊な武器の性能の怖るべきものだということも、十分に、弁えたはずであった。
鎖鎌についての知識は、自分でも今日まで、知り得たものとしていた。
だが、知識というものが、いかに生死の大事などにぶつかった咄嗟には、役立たないものか。――そう気づいた時すでに武蔵は、鎖鎌の持つ恐るべき性能に、完全に囚われていた。
しかも、梅軒だけに、彼は全力を向けていられなかった。――背後からも、這い寄る敵を感じていた。
梅軒は、誇った。
鎖をしぼりながら、にゅっと歯で笑ったようだった。武蔵は、その鎖に絡まれている自分の大刀を離すことは知っていたが、機を計っていた。
二度目の、えおほッ、と喚いた声が梅軒の口から走った。彼の左の手にあった鎌は、それと共に武蔵の顔へ飛んで来た。
「オッ!」
武蔵は、右手の剣を離した。
鎌は、彼の頭上をかすめ、鎌が消えると、分銅が飛んできた。――分銅が外れると、鎌が飛んできた。
鎌か、分銅か。
そのどっちに対しても、身を交わすことは甚だしい危険だった。なぜならば、鎌を交わした位置へ、ちょうど、分銅の速度が間にあうようになるからだった。
体ぐるみ、武蔵は、絶えまなく位置を移した。それも、目にとまらないほどな迅さをもってしなければならない。――また、後ろへ後ろへと、狙け廻っている他の敵に対しても、身構えを必要とする。
(われ、遂に、敗れるか)
彼の五体は、漸次硬ばってくる。意識ではない、それは生理的にである。あぶら汗も流れないほど皮膚と筋肉とは、本能的に死闘するのだ。そして髪の毛も総身の毛穴も、そそけ立つのだった。
鎌と分銅に対して何よりの戦法は、樹を楯とすることだったが、その樹へ近づく遑がなかった。――また、その樹の陰には、敵がいた。
――すると何処かで、きゃっ、と澄んだ悲鳴がながれた。
「あ。伊織?」
武蔵は、振り向けなかった。肚の底で、葬った。――その間にも、眸の前に、鎌が光り、分銅はおどって跳ぶ。
「くたばれ!」
梅軒の喚きではない。
武蔵がいったのでも勿論ない。――武蔵のうしろで何者かが、こう呶鳴ったのであった。
「武蔵どの、武蔵どの。何でそれしきの敵に、手間どりなさる。――後ろ巻は某が引受けました」
そしてまた、同じ声で、
「くたばれっ、獣」
地ひびき――絶叫――熊笹を蹴荒す跫音――。何者か、先刻から彼方にかけ離れて、武蔵に助太刀していた者が、ようやく、隔てる相手を踏み破って、武蔵のうしろへその働きを移して来たらしいのであった。
(――誰か?)
と、疑った。思わざる後ろの味方であった。だが慥かめている遑など元よりない。
武蔵は、背を、安心した。
梅軒へ向って、一方に、心をあつめることができた。
だが、彼の手には、すでに小刀一本しかなかった。大剣は、梅軒の鎖に、噛み奪られていた。
迫ろうとすれば、梅軒は、すぐ感じて、後ろへ跳ぶ。
梅軒にとって、何よりも大切なのは、敵と自己との距離だった。鎌と分銅と、二分された鎖の長さが、彼の武器の長さである。
武蔵にすれば、その距離より一尺遠くてもよい。或は、一尺近くはいってもよいのである。――だが、梅軒はそうさせない。
武蔵は、彼の秘術に、まったく舌を巻いた。難攻不落の城に当って、攻めあぐねたような疲れを感じるのである。――だが、武蔵は彼の秘妙な技が、何に依って起るかを、戦いのあいだに観破った。それは二刀流の原理と同じだからであった。
鎖は一本であるが、分銅は右剣であり、鎌は左剣である。そしてその二つの物を、彼は一如に使いこなしているのだった。
「観た! 八重垣流っ」
武蔵は、そう叫んだ。その声はもう、自分の勝利を信念していた。――飛んで来た分銅から五尺も後ろへ跳び退がりながら、右手に持ちかえていた小剣を、敵へ抛りつけたのである。
梅軒の体は、彼を追って、前へ躍って来る姿勢にあった。――飛んで来た小剣に対して、梅軒はそれを払う何物もなかった。
思わず――あッと、身を捻じったのである。
小剣は、反れて彼方の木の根に突き立った。――しかし、梅軒の分銅鎖は、彼が、急角度に身を捻じかわしたため、彼自身の体に、ぶんと一巻き絡みついた。
「ちっ」
悲壮なさけびが、梅軒の口から洩れたか否かの咄嗟に、武蔵は、
「おうっ」
と、鉄球のように、梅軒の体に向って、自分の五体をぶつけていた。
梅軒の手は、刀のつかをつかみかけたが、武蔵の手が、その小手を撲った。彼が離した刀のつかはもう武蔵の手に握られていた。
(――惜しいっ)
心のうちにそう念じながら、武蔵は、梅軒の大刀をもって、梅軒を真二つに斬り下げていた。鍔から七、八分どころから引き気味に深く割りつけたので、生木を裂く雷のように、刀の刃は脳から肋骨の何枚かまで徹って行った。
「……ああ」
誰か後ろで、武蔵のその呼吸を、うけ継ぐように嘆声でいった者がある。
「からたけ割り。――初めて見ました」
「……?」
武蔵は、振り顧った。
四尺ほどな丸棒の杖をついて、一人の若い田舎者が立っている。むっくり肥えた肩を張り、丸々とした顔に、上気した汗をたたえ、白い歯を見せながら笑っているのである。
「やっ……?」
「わたくしです。――しばらくでござりました」
「木曾の、夢想権之助どのではないか」
「意外でございましょう」
「意外だ」
「三峰権現のおひきあわせだと私は思います。また、わたくしに導母の杖を授けてくれた亡き母の導きもあるでしょう」
「……では、母御は」
「亡くなりました」
茫然たるまま、とりとめもなく、語りかけたが、
「そうだ。伊織が?」
と、武蔵の眼はすぐ、彼の姿を探した。すると、権之助は、
「お案じなさいますな。てまえが救って、あそこへ登らせておきました」
と、空を指さした。
伊織は、樹の上から、不審そうに二人をじっと見まもっていたが、その時、杉林の奥で、ワン、ワン! と猛犬の吠えたけびが、谺して来たので、
「おや?」
と、眼を反らした。
手をかざして、伊織が、樹の上から、猛犬の吠えている方角をさがすと、ずっと奥の――杉林の断れ目から沢へかかる途中に、わずかな平地があって、そこに一匹の黒犬の影が眼にとまる。
黒犬は、樹に繋がれていた。
そして側にいる、女の袂に噛みついている。
女は必死で、逃げようとしているが黒犬が離さない。
しかし、袂を断って、女は転ぶように草原を駈け出した。
梅軒の加勢に来て、さっき伊織を杉林の中で追い廻した法師が、頭から血を出して、槍を杖に、よろめきながら、女の先に歩いていたが、女は忽ち、傷負坊主を追いこして、麓の方へ、駈け下りて行った。
――わ、わ、わんッ
先刻から血腥い風が、黒犬を発狂に近い昂ぶりにさせたのかもしれない。谺が声をよび、声が谺をよび、陰々と、その吠えたけびは、止まなかった。
――と思ううち、遂に、猛犬はその縄を切って、黒い鞠みたいに、女の逃げた方へ素ッ飛んで行ったが、その途中に、よろめきよろめき歩いていた傷負法師は、自分へ噛みついて来たと思ったか、いきなり槍を振りあげて、犬の顔をぶん撲った。
穂先で撲られたので、黒犬の顔が少し切れた。
――きゃんッ!
犬は横へ反れて杉林へ駈けこんだ。それきり、吠える声もせず、影も見えなくなってしまった。
「先生」
伊織は、上から告げた。
「女が逃げてったよ。――女が」
「降りて来い、伊織」
「杉林の向うを、まだもう一人、傷負の坊主が逃げて行く。追いかけないでもいいんですか」
「もうよい」
――伊織がそこを降りて行った頃には、武蔵は、夢想権之助の口から、あらましの次第を聞いていた。
「女が逃げて行ったといいますから――きっと今申した、お甲にちがいありません」
権之助はゆうべ、彼女の茶店の腰掛に眠っており、天佑といおうか、端なくも、彼らのきょうの企み事を、すっかり聞いてしまったので、すぐ、そう察したのであった。
武蔵は深く謝して、
「――では、最初に物陰から鉄砲を撃った者を、打ち殺したのも、其許でござったか」
「いや、私ではありません。――この杖です」
権之助は、諧謔を交じえて、笑いながら、
「彼らが討とうと計っても、余人ならぬ貴方のこと、たいがいのことは拝見しておるところですが、鉄砲を持ち出す者があったので、夜明け前に、ここへ先廻りしていて、鉄砲を持った男の後ろにひそみ、狙いすましたところを後ろから、この杖で打ち殺しました」
――それから二人して、一応そこらの死骸を検めてみると、杖で打ち殺されている者が七名、武蔵が斬った者が五名、杖のほうが多かった。
「非は、こちらにないにせよ、ここは神域、不問ではすまされまい。神領の代官へ、自訴いたそうと思う。――その後のことも問いたし、こちらのことも語りたし、ではあるが、落着いた上として、一先ず観音院まで戻ろう」
だが。――その観音院まで戻らぬうちに、神領代官の役人たちが、谷川橋に屯していたので、武蔵一人、それへ自訴した。役人たちは多少、意外な体だったが、即座に、
「縄を打て」
と部下へ命じた。
(――縄を?)
武蔵は、予期しなかったことに驚いた。自訴した者に、無法だと思う。神妙な仕方を、暴で酬われた気がした。
「歩けッ」
すでに、囚人の扱いである。武蔵は怒ったが、間に合わなかった。役人たちの身支度からして物々しかったが、行くほどに途々屯していた捕手の夥しさに驚いた。
門前町まで来るうちに、百人以上にもなって、縄付きの武蔵ひとりを十重二十重に警固して行くのだった。
「泣くな、泣くな」
権之助は、その泣き声を、抑えつけるように、伊織の顔を、懐中へ抱きしめた。
「泣かいでもいい。――男じゃないか、男のくせに」
なだめ賺すと、
「男だから……男だから、泣くんだい。……先生が捕まって行った。――先生が縛られて行った」
と、権之助の懐中を抜け、なお大きな口をあいて、空へ向って泣いた。
「捕まったのじゃない。武蔵どのから、自訴なされたのだ」
と、いってみたが、権之助も心のうちでは不安だった。
谷川橋まで出向いていた役人の群れが、なにしろ、物々しく殺気立っていたし、その他、十名、二十名ずつの捕手が、幾組屯していたろうか。
(神妙に、自訴して出た者を、あんなにしないでも)
と、思うしまた、疑われもする。
「さ、行こう」
伊織の手を引っ張ると、
「嫌っ」
伊織は、首を振って、まだ泣いていたいように、谷川橋から動かないのである。
「はやく来い」
「嫌だ。嫌だ。――先生を、呼んで来てくれなければいやだ」
「武蔵どのは、すぐお帰りになるにきまっている。――来なければ、置いて行ってしまうぞ」
――でもなお、伊織は動かなかったが、その時、先刻見た猛犬の黒犬が、あの杉林のあたりの生血を啜り飽いたような顔して、勢いよくそこを駈け抜けて行ったので、
「あっ、おじさん!」
と、権之助のそばへ飛んで行った。
権之助は、この小がらな少年が、かつては、曠野の一軒屋にただ独りで住み、父の死骸を葬るのに、ひとりで持てないため、その亡骸を自分で刀を研いで二つに斬ろうとしたくらい、不敵なたましいの持主とは知らないので、
「くたびれたのだろ」
と、慰めた。
そして、
「怖かったろう。むりもない。――負ぶってやろうか」
と、背中を向けた。
伊織は、泣きやんで、
「ああ」
と、甘えながら、彼の背中へ抱きついた。
祭は、ゆうべで仕舞だった。あれほどな人出が、木の葉を掃いたように下山して、三峰権現の境内も、門前町のあたりも、ひっそりしていた。
群衆の残して行った竹の皮や紙屑が、ただ小さい旋風に吹かれていた。権之助は、ゆうべ床几を借りて寝た犬茶屋の土間の中を、そっと覗きながら通った。
すると、背中の伊織が、
「おじさん。――さっき山にいた女のひとが、この家にいたぜ」
「いる筈だ」
権之助は、立ちどまって、
「武蔵どのが縛られるくらいなら、あの女が先に捕まって行かなければ嘘だ」
といった。
たった今、家へ逃げ帰って来たお甲は、帰るとすぐ、有合う金や持物を身につけ、旅へ走る身拵えに慌ただしかったが、ふと、門に立った権之助の影に、
「畜生」
と、家の中から振り向いてつぶやいた。
伊織を負ぶったまま、軒下に立った権之助は、お甲の憎怨にみちた眼へ、
「逃げ支度かね」
と、笑い返した。
奥にいたお甲は、憤っと、立って来て、
「大きなお世話というものだよ。――それよりも、おい、若蔵」
「ホ。何だ」
「よくも今朝は、わたし達の裏を掻いて、武蔵へよけいな助太刀をおしだね。そして、わたしの亭主の藤次を打ち殺したね」
「自業自得。しかたがないというものだろう」
「覚えておいで」
「どうする」
権之助が、いうと、背中から伊織までが、
「悪者っ」
と、罵った。
「…………」
お甲はついと奥へはいってしまって、そこからせせら笑った。
「わたしが悪者なら、おまえたちは、平等坊の宝蔵破りをした大盗ッ人じゃないか。いえ、その大盗ッ人の手下じゃないか」
「何」
背中の伊織を下ろして、権之助は土間へはいって来た。
「盗賊だと」
「白々しい」
「もう一度、申してみろ」
「わかるよ、今に」
「いえっ」
むずと彼女の腕をつかむと、お甲はいきなり隠していた匕首を抜いて、権之助へ突きかけて来た。
例の杖は左に持っていたが、それも使うに及ばず、匕首を

「山の衆っ、来てくださいっ。宝蔵破りの仲間がっ――」
何で先刻からそういうのか、とにかくそう叫びながら、お甲は往来へ転び出した。
権之助は、くわっとして、

――すると、何処に潜っていたのか、猛犬の黒は、一声、大きく吠えながら、彼女の体へとびかかった。そして傷口から流れる血をすすっては、陰々と、雲に向って吠えた。
「あっ、あの犬の眼」
伊織はおどろいた。それは、発狂の相をあらわしていたからである。
だが、犬の眼どころではない。この山上の人間は、今朝から皆、それに近い眼いろをもって、何事か、騒いでいたのである。
夜も昼も、人と燈と神楽ばやしに熱鬧していた祭の混雑に乗じて、ゆうべの深夜から今朝までの間に、総務所の平等坊の宝蔵が、何者かのために、破られていたというのである。
勿論、外部の仕業であることは明瞭で、宝蔵のうちの古刀とか鏡とかには異状はなかったが、多年蓄えられてあった砂金だの海鼠形の物だの、貨幣となっているものだのを合せておよそ何貫目というかねが一度に失われてしまったのだという。
単なる噂ではないらしい。この山上に、さっきも、あれ程な役人や捕吏が来合せていたということも、思い合せば、原因はその方にあったかもしれないのである。
いや、もっと顕然たる証拠には、お甲が、往来で揚げたわずか一声で、もうわらわらと駈け寄った附近の住民が、
「ここだ。この中だ」
「宝蔵破りの徒党が逃げこんでいる」
と、遠巻きにして、得物を持ったり、石を拾って、家のうちへ投げこんだりし始めた。それを見ても、山上の住民の興奮が、ただならぬものであることがわかる。
山づたいに二人はようやく逃げのびて来たのであった。そこは秩父から入間川の方へ降る正丸峠の上だった。ここまで来るとやっと、自分たちを、
(宝蔵破りの盗賊の一類)
と、竹槍や猪鉄砲で追う住民も後に見えなくなった。
権之助と伊織とは、そうして自分らの安全は得たが、武蔵の安否はわからなかった。いや、よけい不安が濃くなった。今になって考えると、武蔵は、宝蔵破りの巨魁と間違われて、縄をかけられたものであろう。そして彼が、べつなことで、自首した行為をも穿きちがえられて、秩父の獄へ曳かれて行ったに相違ないと思われた。
「おじさん、武蔵野が遠くに見えて来たよ。だけど、先生はどうしたろうな。まだ役人に捕まっているかしら?」
「ウむ……。秩父の獄舎に送られて、今頃はさぞ難儀な目に遭っておいでだろう」
「権之助さん。先生を助けてあげることはできないの」
「できるとも。むじつの罪だ」
「どうか、先生を助けてあげてください。この通りおねがいします」
「この権之助にとっても、武蔵様は、師と同様なお方。頼まれなくても、きっとお助けする考えでいるが――伊織さん」
「え」
「小さいおまえがいては足手まといだ、もうここまで来れば、武蔵野の草庵とやらへ、一人でも帰れるだろう」
「あ。帰れることは帰れるけれど……」
「じゃあ。一人で先に戻っておれ」
「権之助さんは?」
「おれは秩父の町へもどって、武蔵様のご様子をさぐり、もし、役人どもが理不尽にいつまでも先生を獄につないだまま、むじつの罪に墜し入れようとするならば、獄を破っても、お救いして来なければならない」
そういいながら、権之助が抱いていた例の杖を、大地について見せると、伊織は疾くからその杖の威力を知っているので、一も二もなくうなずいて、ここから別れて一人武蔵野の草庵へ帰っていることを承知した。
「賢い、賢い」
と、権之助は賞めて、
「無事に先生を救い出して、一緒に帰る日まで、おとなしく、草庵に留守をして待っているのだ」
そう諭すと、彼は、杖を小脇に持ち直し、再び秩父の方角へ向って行ったのであった。
で、伊織は、独りぼっちになった。けれど寂しいなどとは思わない。元々、曠野で育った自然児である。それに三峰へ来る時と同じ道を戻って行くのであるから、道に迷う心配もなかった。
ただ、彼はやたらに眠かった。三峰から山づたいに逃げ廻って来るあいだ、ゆうべは一睡もしていなかった。栗だの菌だの小鳥の肉だの、喰べ物は喰べているが、峠の上へ出るまでは、まったく眠りをわすれていたのである。
秋の陽をほかほか浴びて、黙って歩いてゆくうちに、彼は慾も得もなく眠くなってしまい、ついに、坂本まで来ると、道わきへはいって、草の中へごろんと横になってしまった。
伊織の体は、何か、仏様の彫ってある石の陰にかくれていた。やがてその石の面に西陽のうすれて来る頃、石の前で、誰かひそひそ話している声が聞えた。伊織は、その気配にふと目をさましたが、ふいに飛び出すとその人が驚くにちがいないと思って、寝たふりをつづけていた。
一人は石に、一人は木の切株に腰かけて、しばし休んでいる体なのである。
そのふたりの乗用とみえ、少し離れたところの樹に、二頭の荷駄が繋いであった。鞍には、二箇の漆桶が両脇に積んであって、一方の桶には、
西丸御普請御用
野州御漆方
と、札に書いてある。野州御漆方
その打札から考えをすすめれば、両名の侍は、江戸城の改築に関係のある棟梁の組下か、漆奉行の手の者かと思われる。
だが、伊織が草の陰からそっと覗いてみたところでは、その二人とも険しい眼相を備えていて、なかなか悠長な役人面などとは、骨がらもちがう。
一方はもう五十を越えている老武士で、これは体つきも肉づきも、壮い者をしのぐばかり頑健なのだ。菅の一文字笠に夕陽がつよく反射しているため、その紐下の顔は、暗くてよく見えない。
また、それに向いあっている侍の方は、十七、八歳の痩せぎすな青年で、前髪立ちのよく似あう顔に、蘇芳染めの手拭を頬かぶりにして顎で結び、何か、うなずいては、にこにこ笑って見せているのである。
「どうです、おやじ様、漆桶の考えは、うまく行ったでございましょうが」
その前髪がいうと、おやじ様とよばれた一文字笠は、
「いや、貴さまもだいぶ、巧者になったな。さすがの大蔵も、漆桶までは気がつかなかった」
「だんだんのお仕込みでございますから」
「こいつ、皮肉なことをいう。もう四、五年も経ったら、今にこの大蔵のほうが、お前に顎で使われるようになるかもしれぬ」
「それは当然そうなりましょうな。若い者は抑えても伸び、老いゆく者は、焦心っても焦心っても老いてゆくばかりで」
「焦心っているとみえるかの。貴さまの眼から見ても」
「お気のどくですが、老先を知って、やろうとなさっているお気もちが、傷ましく見えまする」
「わしの心を観抜抜くほど[#「観抜抜くほど」はママ]、貴さまもいつの間にか、いい若い者になったものよな」
「どれ、参りましょうか」
「そうだ、足もとの暮れぬうちに」
「縁起でもない。足もとはまだ十分に明るうございます」
「はははは、貴さまは血気に似あわず、よく御幣をかつぐの」
「そこはまだ、この道に日が浅いので、十分、舞台度胸がついていないせいでしょう。風の音にも、何となく、そわそわされてなりません」
「自分の行為を、ただの盗賊と同じように考えるからだ。天下のためと思えば、怯む気などは起らぬものじゃ」
「いつもいわれるお言葉なので、そう思ってみますものの、やはり盗みは盗みに相違ございません。どこやら後ろめたいものに襲われまする」
「何の、意気地のない」
年老った方の一文字笠は、多少自分の心にも、そうした怯えがあるらしく、忌々しげに、自分へいうとも連れの者へいうともなくつぶやいて、漆桶のくくり付けてある荷鞍へ乗り移った。
頬かぶりの前髪も、身がるく鞍へとび乗った。そして、先に出ようとする馬の前を追い越し、
「露はらいは、先に出ましょう。何か見えたら、すぐ合図いたしますから、ご油断なく」
と、後の荷駄を警めた。
道は、武蔵野の方へ向って、南へと、降るばかりで、馬の頭も、笠も頬かぶりも、夕陽の陰へ、沈んで行った。
石のうしろに寝ていた伊織は、はからずも二人の話をそのまま聞いていたのであるが、ただ怪しげなと不審を起しただけで、話の内容を解くことはできなかった。
だが、荷駄に乗った二人がそこを立つと、伊織もすぐ後から歩き出した。
「……?」
一、二度、怪しむように、先の二人は馬の背から彼を振向いたが、年齢や姿を見極めて、警戒するに足る程な者でないと考えたか、それから後には、少しも意に介していない様子であった。
それと間もなく夜になって、後も前も見えなくなって来た。そして道は、武蔵野の一端に出るまでは、ほとんど、降りどおしであった。
「オ、おやじ様。あれに、扇町屋の灯が見えはじめて来ましたぞ」
と一方の、若い頬かぶりをした前髪の影が、鞍の上から指さした頃――ようやく道もやや平坦になり、行く先の平野には、入間川の水が、闇の中に解いた帯のように蜿っていた。
先へ行く二人には何の警戒心もなかったようだが、後からついてゆく伊織は、子ども心にも、細心な気をくばって、二人に怪しまれないように注意していた。
(あの二人は泥棒にちがいない)
と――それだけは彼にも分っていたからである。
盗賊というものが、どんなに怖いか――これは彼の生れた法典村が一年おきに匪賊に襲われて、その後は一箇の鶏の卵も、一升の小豆もなくなってしまう惨状なので、よく知りつくしていたし、また、平気で人間を殺すものだというような漠とした観念が幼少から沁みついているので、見つかったら殺されるような気がするのであった。
それほど怖いものならば、なぜ伊織は、はやく横道へでも曲がってしまわないか――と疑われるが、その彼は、却って反対に、二つの荷駄の影にくッついて、何処までも尾いてゆくのであった。その理由はごく簡単であって、
(三峰の権現さまの宝蔵をやぶって、たくさんなおかねを盗み出した盗賊は、きっとこの二人にちがいない)
と、心のうちで、決めてしまっているからである。
さっき石の後ろで、怪しいと思ったとたんに、伊織の頭にひらめいたのはそういう考えであった。少年の直感には、それをまた、反覆してみたり他を顧みたりしている迷いがない。てっきりこいつだと思いこんだらもう一途に、この二人こそ、三峰の怪盗でなければならなかったのである。
やがて彼も、荷駄の影も、扇町屋の宿場の中を歩いていた。後ろの荷駄に乗っている一文字笠は、先へゆく頬かぶりの前髪男へ手をあげて、
「城太、城太。この辺で腹を拵えて行こうではないか。馬にも飼糧をくれねばならぬし、わしも、一ぷく煙草がつけたい」
と、鞍の上でいった。
うす暗い燈のもれている飯屋の外に、荷駄を繋いで、二人は中へはいった。若い方の前髪男は、入口の端に腰かけて、飯をたべながらも、たえず荷駄の背を見張っているようであった。そして、自分が喰べ終るとすぐ外へ出て来て、こんどは二頭の馬に、干糧を飼っていた。
その間、伊織もよそで買喰いをしていた。そして荷駄の二人がまた、宿場の先へ進んで行くのを見ると、口をうごかしながら、後ろから追いかけて行った。
道はまた、暗くなった。しかし武蔵野の草から草の平地である。
鞍の上から、鞍の上を顧み合って、荷駄のふたりは、時々話しかけてゆく。
「城太」
「はい」
「木曾の方へ、前ぶれの飛脚は出しておいたろうな」
「手筈しておきました」
「では、首塚の松へ、木曾の衆が来て、こよい待ち合せているわけだの」
「そうです」
「時刻は」
「夜半といっておきましたから、これから参れば、ちょうどよい頃になりましょう」
老いたるほうは連れの者を城太とよび、若い方は一方を、おやじ様とよんでいる。
(この盗賊は親子だろうか)
伊織はそう考えて、なおさら怖ろしく思った。そしてもとより、自分の力では到底捕まえることはむずかしいが、二人の帰ってゆく住家をつきとめて、後から官へ訴えて出れば、自然、武蔵のむじつの罪もはれて、牢から解かれて来るにちがいない――と信じるのであった。
彼の考えているように、そううまく行くかどうかは疑問だが、三峰の怪盗と直感した彼の童心のひらめきは、そう見当違いなものでもないらしい。
あたりに人もなしと思って、大声で語り合ってゆく話しぶりといい、また、あれからのこの両名の行動といい、いよいよ怪しい節ばかりなのである。
川越の町はもう沼みたいにしいんと眠りに落ちていた。灯のない屋なみを横に見て、二頭の荷駄は首塚の丘へのぼって行った。登り口の道ばたに、
首塚の松
このうえ
と、標した石があった。伊織はその辺から崖の中へ紛れ込んだ。このうえ
丘の上には、巨きな一本松がみえる。その松に一頭の馬が繋いであった。そして松の根かたに三人の男が――旅支度をした牢人ていの者どもが――膝を抱えて待ちあぐねていたが、ふと立ち上がって、
「おう、大蔵様だ」
と、登って来た二頭の荷駄を迎えて、凡ならぬ親しみで久闊の情を叙べたり、無事を歓び合ったりしているのであった。
やがて、夜の明けぬうちにと、何事かいそぎ始めて、大蔵のさしずのもとに、一本松の下の巨石をとりのけると、一人は鍬をもってそこを掘り始めた。
埋めておいた金銀が、土と共に掘り出された。盗むたびに、ここへ隠匿しておいたものとみえ、それは夥しい額であった。
前髪に頬かぶりの――城太とよばれた若者もまた――ここまで乗って来た荷駄の背から、漆桶をみな降ろし、蓋を破って、土のうえに中の物をぶちまけた。
漆桶の中から出たものは漆ではなかった。三峰権現の宝蔵から影を隠した砂金やなまこである。穴の中から掘り出したものと、それとを合せれば何万両という額にのぼる金銀がそこに積まれたのであった。
さて、それをまた、幾つものかますに分けて詰込むと、三頭の馬の背に縛しつけて、空になった漆桶や、不用の物を、すべて坑の中へ蹴込み、きれいに土をかぶせてしまった。
「これでよし、これでよし。――まだ夜明けにはだいぶ間がある。まあ、一ぷくつけようか」
大蔵は、そういって、松の根かたに坐りこみ、ほかの四名も、土を払って車座になった。
信心の遍歴にといって、木曾のお百草問屋の大蔵が、奈良井の本家を出かけてから、ことしで足かけ四年目になる。
彼の足跡は関東にあまねく、神社仏閣のある所で、奈良井の大蔵の寄進札を見かけない霊場はないくらいだが、この奇特人が、その金をどこから運んできているかは、誰も詮議をしてみた者はない。
のみならず、去年あたりからは江戸城下の芝あたりに居宅をもち、質店を構え、町の五人組衆の一人にまでなりすまして、町内の信望もあつい彼である。
その大蔵が、先には、本位田又八を芝浦の沖へ誘って、新将軍の秀忠を狙撃しないかと、金で惑わして喚いたり、今はまた、三峰権現の祭に乗じて、宝蔵の金銀を盗み出し、首塚の松の根に埋けておいた数年間の稼ぎをも併せて、かますに詰めこんで三頭の馬の背へぎっしり背負い込ませているのである。
世の中はおそろしい。およそ分らぬものは人間の表裏である。とはいえ、すべてをそう疑ぐっていたら限りもなくなって、遂には、自分というものまで懐疑しなければならなくなってしまう。
そこで、聡明であろうと、誰も心がけるが、たまたま、その聡明を欠いている又八などが、敢なくも大蔵の巧言にのせられて、金のために、おそろしい冒険へみずから向って行ってしまった。
恐らく、又八は今頃は、もう江戸城の中にいるだろう。そして大蔵と約束したとおり、槐の木の下に埋けてある鉄砲を持ちだして、秀忠将軍を一発の下に撃つ日を待っているにちがいない。
それが自己の破滅の日とも知らずに。
何にしても、大蔵は怪人物である。又八の如きが他愛なく囮になったのは当然でさえある。朱実も今は、彼に奉じる特殊な側女となっているし――もっと驚くべきことには、武蔵が、手しおにかけて数年も愛育して来た少年城太郎までが、いつのまにか、年ばえも十八の前髪振りのいい青年になって、しかも大蔵のことを、
――おやじ様
と、敬称するような境遇になり果てている事実である。
いかにとはいえ、盗賊の彼につかえて、おやじ様と呼ぶほどな人間になったと――その城太郎の変りようを知ったら、武蔵よりは、あのお通がどんなに嘆くことだろうか。
それはとにかく。
くるま座になった五名は、半刻近くもそこでいろいろな評議をこらしていた。その結果、奈良井の大蔵はもうこの辺で木曾へ姿をかくし、江戸へは戻らぬほうが安全だろうということになった。
しかし芝の質店の方には、家財などはともかく、焼いて捨ててしまわなければならない書類などもあるし、朱実も残して来たことだから、誰かその始末に一人はやらなければならないがというと、
「城太がよい。それには、城太をやるがいちばんです」
と、異口同音に決まってしまったのである。
で、やがて。
かますを積んだ三頭の馬に、大蔵を加えた四名の木曾の衆は、まだ夜明け前の暗いうちに、そこから甲州路のほうへ反れて立ち去ってしまい、城太郎はただひとりで、江戸のほうへ向って行ったのであった。
丘のうえには暁の明星が、まだはっきり光っていた。すべての人影が去った後で、そこへ飛び出した伊織は、
「さあ、どっちへ尾いて行ったらいいだろ?」
と迷った目をして、まだまだどっちを眺めても真暗な、漆桶の中みたいな天地を見廻していた。
きょうも秋の空は澄みきっている。つよい陽が皮膚の下まで沁みこむように思える。夜盗などの仲間の者は、およそこうした清澄な白日の下では、大手を振って歩けるものでないが、城太郎には、そんな暗い陰がすこしもない。
彼はあだかも、これからの時代に、大いに意志を展べようとする理想にみちた青年のごとく、武蔵野の昼をわがもの顔して歩いて行くのだった。
ただ時々、城太郎の目が、何か気にするように後ろをふり向いた。それとて、決して、うしろ暗い自分の陰に脅えている目ではなく、妙な少年が、今朝、川越を出た時から、のべつ自分の後からちょこちょこ尾いて来るからで、
(迷子かしら)
と考えたが、なかなか迷子になるような薄ぼんやりな顔つきではないし、
(何か用でもあるのか)
と待っていれば、どこかに影を潜めてしまって、後から近づいて来る様子がない。
そこで城太郎も、これは油断がならないと思いだし、わざと道のない尾花の叢へかくれて、少年の挙動を窺っていると、ふいに先の姿を見失った伊織は、
「……おやっ?」
と、そこへ来るなり狼狽の眼をせわしなくうごかし、頻りと、城太郎の影をさがしている様子なのである。
城太郎はきのうのように、例の蘇芳染の手拭を頬かむりに顎でしばっていたが、尾花の中からその時すっくと立って、
「小僧」
と、ふいに呼びかけた。
小僧小僧とよく呼ばれたのは、つい四、五年前までの城太郎自身であったが、今は、ひとをそう呼ぶような背丈に彼もなっていた。
「……あっ」
伊織はおどろいて、無意識に逃げかけたが、所詮、逃げ了おせないことを知ったとみえて、
「なんだい?」
平気な顔して――わざと先の方へとことこ歩き出して行った。
「おいおい、何処まで行くんだ。おいチビ、待たないか」
「何か用?」
「用は、そっちにあるんじゃないか。かくしてもだめだ。川越からおれを尾行て来たのだろう」
「ううん」
――首を振って、
「おら、十二社の中野村まで帰るんだよ」
「いいや、そうじゃない。たしかにおれを尾行て来たに違いない。いったい、誰に頼まれたかいえ」
「知らないよ」
逃げッ尻になるのを、城太郎は手をのばして、その襟もとをつかみよせ、
「いわないか」
「だって……だっておら……何も知らないんだもの」
「こいつめ」
と、すこし締めて、
「おのれは、役所の手先か誰かに頼まれたに違いあるまい、密偵だろう、いや密偵の子だろう」
「じゃあ……おらが密偵の子に見えるなら……おまえは盗ッ人かい?」
「何」
ぎょっとして、城太郎が、その顔を睨めつけると、伊織は、彼の手を外して、首と体を地へすくめたかと思うと、ぱっと風を起して、彼方へ逃げ出して行った。
「――あっ、こいつ」
城太郎もすぐそれを追う。
草の彼方に、土蜂の巣をならべたような藁屋根が幾つか見える。野火止の部落であった。
この部落には、鍬鍛冶が住んでいるとみえて、どこかで鎚の音が、かあーん、てえーん、長閑に聞える。赤い秋草の根には、土龍の掘りちらした土が乾き、民家の軒に干してある洗濯物のしずくがぽとぽと落ちていた。
「泥棒っ、泥棒っ」
道ばたにふいに、呶鳴っている子があった。
干柿の吊るしてある軒下だの、暗い馬小屋の横からだの、わらわらと人が駈けて出た。
伊織はその人々へ、手をふり廻して、
「彼方から今、おらを追いかけて来る頬かぶりの男は、秩父で権現様の宝蔵破りをした泥棒のひとりだから、みんなして捕まえてください。――あら、あら、来たよ来たよこっちへ」
と、大きな声して告げた。
部落の人たちは、余りに唐突な彼のわめきに、最初はあっ気にとられていたが、伊織の指さす方を見ると、なるほど、蘇芳染の手拭を顎で結んだ若い侍が、此方へ向って宙を飛んでくる。
けれども百姓達は、依然として、その近づいてくるのをただ見ているだけの様子なので、伊織はまた、
「宝蔵破り、宝蔵破り。嘘じゃない。ほんとにあれは、秩父の大泥棒の片割れだよ。はやく捕まえないと逃げちまう!」
と、さけんだ。
そうして伊織は、勇気のない兵を指揮する将みたいに、声をからしたが、部落の穏やかな空気はなかなか震動しない。暢んびりした顔をならべた百姓たちは、ただ彼の叫びに、うろたえの眼と、怖々した挙動をすこし見せたばかりで、手を拱いているのだった。
そのうちにもう城太郎のすがたは、すぐ眼の前へ来てしまったので、伊織はいかんともする術がなく、栗鼠のようにすばやくどこかへ隠れこんでしまったらしかった。――それを城太郎は知っていたか知らないか分らないが、じろりと、道の両わきに居並ぶ部落の者を眺めながら、ここでは足もゆるやかに、
(手出しをする者があるなら出て来い――)
と、いわんばかりに落着きすまして、悠々と通り抜けて行ったのである。
その間、部落の者は、息もしないで、彼の姿を見送っていた。宝蔵破りの泥棒とどなった声を聞いているので、どんな兇猛な野武士かと思っていたらしいが、案に相違して、まだ十七、八の目鼻だちもよく、凛々しい青年なので、何かのこれは間違いにちがいないと、先にどなった少年の悪戯をむしろ憎んだほどであった。
一方の伊織は、あんなに声をからしても、誰も、泥棒に向おうとする正義の人がいないので、大人の卑劣さに愛想をつかしたが、さりとて、自分の力ではどうにもならないことも知っているので、これは早く中野村の草庵に帰ってあの近所の懇意な人々にも告げ、官へも訴えて、捕まえてやろうと考えた。
で、野火止の部落の裏から、しばらくは畑や道のない草むらを急いだ。そして程なく、覚えのある杉ばやしを彼方に見、もう十町も行けば、いつぞやの暴風雨にこわれた草庵の跡――と、心をおどらして駈けだしたのである。
すると彼の前に、横手をひろげた者がある。横道からふいに出て来た城太郎であった。伊織はとたんに、頭から水を浴びたような気がしたが、ここまで来ればもう自分の国のように気が強かったし、逃げてもだめだと思ったので、跳び退きながら、腰に帯びている野差刀を抜きはらい、
「ア、畜生」
と、獣が出て来たように、空を切って、罵った。
刃物を抜いたにしろ、多寡の知れたチビと見くびって、城太郎は無手でいきなり跳びかかった。
襟がみをつかんでしまうつもりであったが、伊織は、
「――ちイ!」
と、さけびながら、城太郎の小手をすりぬけて、横へ十尺も跳びのいてしまった。
「いぬの子!」
城太郎は、忌々しい顔をして、迫って行ったが、ふと、自分の右手の指先から、たらたらと温いものが垂れるので、何気なく肱を上げてみると、二の腕あたりに二寸ばかりの太刀傷をいつのまにか受けていたのであった。
「ヤ。やったな」
城太郎は伊織を睨む目を新たにした。伊織は、いつも武蔵から教えられた通りに刀を構えた。
眼。
眼。
眼。
いつも師からやかましくいわれている力が、伊織のひとみへ無意識にぐっと上がった。顔じゅうを眼にしたような伊織の顔だった。
「生かしておけない」
睨み負けしたように城太郎が呟いて、かなり長い腰の刀を抜いて見せた時である。まさかと、そうなってもまだ、幾分多寡をくくっていた伊織が、最初に敵の小手を切ったことに、すっかり自信をもったらしく、ぱっと野差刀を振りかぶって、斬りつけて来た。
その跳びつき方も、常々、武蔵へかかってゆく仕方と同様であるから、それは受けはしたものの城太郎には、意外な圧倒感を、腕にも精神的にも、受けたことに間違いない。
「生意気なっ」
もう城太郎も全力だった。殊にどうしてか、宝蔵破りの件を知っているこのチビは、自分たち一類のためにも生かしておけないと思った。
躍起になって、斬りつけてくる伊織の攻勢を無視して、城太郎は、まっ向に一太刀あびせてやろうと押して行った。けれど、伊織の敏捷は、はるかに城太郎に勝るものがある。
「蚤みたいな小僧だ」
と、城太郎は思った。
そのうちに、伊織はふいに駈け出した。逃げるのかと思うと、踏み止まってまたかかってくる。こんどは城太郎が意気ごむと、巧みに外して、また逃げるのだった。
賢しくも伊織はそうして、徐々に敵を村のほうへ誘って行こうとするらしいのである。そして遂に、草庵の跡に近い雑木林の中へまで連れこんだ。
西陽はとうに薄れかけていたので、林の中はもうじっとりと夕闇がこめていた。先へ走りこんだ伊織を追って、城太郎はするどい血相をもって追いかけて来たが、彼のすがたが見当らないので、一息つきながら、
「チビめ、どこへ潜ったか」と、見まわしていた。
すると、側の大きな樹のこずえから、樹皮の塵がはらはらとこぼれて、彼の襟くびに触った。
「そこだな」
と、城太郎は、宙を見あげてどなった。こずえの空はこんもりと暗く、白い星が一つ二つ見えるだけだった。
梢の上からは何の答えもない。雫が降って来るだけだった。城太郎は思案していたが、伊織が逃げ上がっていることは確かと見極めたらしく、巨きな幹へ抱きついたと思うと、注意ぶかく攀じ登って行った。
果たして、がさっと樹の空で何か動いた。
追い上げられた伊織は梢の頂へ向いて猿みたいに這ったが、もうそれから先は、伝ってゆく枝もなかった。
「小僧っ」
「…………」
「翼がなければもう逃げられぬぞ。生命を助けてくれといえ。そしたら、助けてやらぬこともない」
「…………」
梢の股に、伊織の影は、小猿みたいに縮まっていた。
そろ、そろ、と下から城太郎は登り詰めて行った。だが、飽くまで伊織が黙っているので、その足のあたりへ手を伸ばし、踵をつかもうとしたのである。
「…………」
伊織はなお、黙ったまま、もう一つ上の枝へ足を移した。で、城太郎は、彼が足を退けた枝へ両手をかけ、
「うぬ」
と、身を伸ばしかけると、伊織は待っていたように、右手に隠していた刀で、その横枝の股を発矢と上から撲った。
生木の枝は、刃を当てられると共に、城太郎の重量を加えて、めりッと大きな響きを発し、あッと彼の影が、木の葉の中でよろめいたと思うと、幹を離れた枝と城太郎の体は、一つになってどさッと大地へ落ちて行った。
「どうだ、泥棒」
伊織は、宙からいった。
傘をひらいて落ちたように、木の枝が、木の枝に障られつつ墜ちて行ったので、城太郎はどこも大地に打ちはしなかったが、
「やったな、よくも!」
と、ふたたび宙を睨むと、今度は豹が木を攀じてゆくような勢いで、伊織の足の下に迫った。
伊織は、刀を下へ向けて、滅茶滅茶に枝の間をふり廻していた。双手が使えないだけに、城太郎も無碍にはそれへ近づけなかった。
体は小さいが、伊織には智がある。年齢が上だけに、城太郎は相手を呑んでいる。といって、こんな樹の上では、いつまで埒はつかなかった。いや、体の小さい伊織のほうが、位置からいってもかえって利があった。
そうしているうちに、この林の杉木立の彼方で、尺八をふく人間があった。もちろんその人間が見えるわけでもないし、何処と定かにも分らないが、とにかくその音が二人の耳にとどく距離のうちで、その夜、尺八をふいている者があることに間違いはなかった。
伊織も城太郎も、その音を聞くと一瞬、争いをやめて、真っ暗な木の葉の宇宙で、毛穴から呼吸をし合っていた。
「……チビ」
城太郎は、沈黙から回ると、ふたたび伊織の影へ向って、こんどは少し諭すようにいった。
「見かけによらない強情なところは、感心なものだといっておこう。誰にたのまれて、おれの後を尾行たのか、それさえ白状したら生命は助けてやるがどうだ」
「あかといえ」
「何」
「こう見えても、宮本武蔵の一の弟子、三沢伊織とはおいらの名だ。泥棒に生命乞いなどしたら、先生の名をよごすじゃないか。あかといえ。ばか」
城太郎はびっくりした。その大木から大地へ抛り出されたさっきよりも驚いた。余り意外だったので、自分の耳を疑ったくらいだった。
「な、なんだって。もう一ぺんいってみろ、もう一ぺん」
そう訊き直す彼の言葉が、度を外してふるえていたので、伊織は、自分の名乗に誇りすら持って、
「よく聞け、宮本武蔵の一の弟子三沢伊織といったのだ。おどろいたか」
「おどろいた」
城太郎は、神妙に兜をぬいだ。そして、なかば疑いと親しみとを持って、
「おいっ、お師匠さまは、ご丈夫か。そして今は、どこにいらっしゃるのだ」
「なんだと」
こんどは伊織が気味わるがって、じりじりと寄って来る彼を、避けながら、
「――お師匠さまだと。武蔵さまは、泥棒の弟子など持っていやしないぞ」
「泥棒とは人聞きが悪い。この城太郎は、そんな悪心は持っていない」
「エ。城太郎」
「ほんとに、おまえが武蔵様の弟子なら、何かの折、噂に出たこともあるだろう。おれがまだ、おまえみたいに小さい頃、何年もおれは武蔵さまの側に侍いていたのだ」
「嘘っ、嘘をいえ」
「いや、ほんとだ」
「そんなてにのるものか」
「ほんとだというのに」
師の武蔵に抱いている日頃の情熱をそのまま示して、城太郎はいきなり伊織の側へ寄り、伊織の肩を抱きよせようとした。
伊織には、信じられない。城太郎が自分の体へ手を廻して、おまえとおれとは兄弟弟子であるといったことばを、すぐ智恵に訴えた伊織は、わるく受け取ってしまって、まだ鞘に納めずにいた刀で、城太郎のわき腹を一突きに突いてしまおうとした。
「あっ、待てったら!」
城太郎は、窮屈な梢のあいだで、危うくその手元をつかんだが、とたんに、樹から手を離して、体の全部で伊織がかかって来たため、伊織の襟くびにしがみついたまま、梢に踏ンばって起ちあがってしまった。
当然、ふたつの体は、双仆れになって、宙から無数の木の葉と梢とを折りちらして、大地へどさッと墜ちて来た。
この場合は、先に城太郎が墜ちた時と違って、ひどく重量と速度をかけて墜落したため、二羽の若鳥は、うーむと、胸を反りあったまま、ふたりとも其処にいつまでも気を失っていた。
ここの雑木林は杉林につづいている。その杉林の断れ目に、いつぞやの暴風雨で壊れたままの、武蔵の草庵はあった。
だが、武蔵が秩父へ立つ朝、村人が言葉をつがえたとおり、その日から、壊れた草庵は、大勢して建て直しにかかっていた。
――で、もう屋根と柱だけは新しくなっていた。
武蔵はまだ帰らないのに、その壁も戸もない屋根の下に、今夜は燈火がついている。きのう江戸表から水見舞だといって来た沢庵が、武蔵の帰るまで待とうといって、独り泊っているのである。
独りということはしかしこの世の中ではあり得ないこととみえる。沢庵がここにぽつねんと灯を点していると、ゆうべはまったく独りで過ぎたが、こよいはもうその灯影を見かけて、一名の旅の薦僧が、夕飯を食べますので、湯をいただかせてくれといって立ち寄った。
さっき雑木林のほうまで聞えた尺八は、この老いたる薦僧が沢庵へ聞かせたものであろう。時刻もちょうど、彼が柏の葉につつんだ弁当の飯粒を嘗め終った頃であったから。
眼病なのか、老眼で衰えきっているのか、薦僧は、何をするにも手さぐりであった。
べつに沢庵から望んだわけでもないのに、一曲ふきましょうといって吹いた尺八も、素人の手すさびのように下手だった。
けれど沢庵は、こういうことをその間に感じた。彼の吹いている尺八には、非詩人の詩のように、無技巧な真情がある。平仄には合っていないが、どういう気もちで吹いているか、その心のほどは十分に汲みとれるのであった。
ではこの老い朽ちたる世捨人の薦僧は、いったいどういうものをその破れ竹から訴えようとしているのかというと、それはただ懺悔の二字に尽きるものであった。序の歌口から吹き終るまで、ほとんど、懺悔して泣いてばかりいるかのような竹の音なのである。
じっと、沢庵は、それを聞いているうちに、この薦僧の通って来た生涯がどんなものであったかが分るような心地がした。偉い人間といっても凡人といっても、人間の内的な生涯などというものはそう変りのあるものではない。偉人と凡物の相違は、その等しい人間的な内容や煩悩を超えて現れた表示のすがたであって、この薦僧と沢庵とでも、一管の竹をとおして、形なく心と心を触れてみれば、いずれも過去は同じように、煩悩に皮をかぶせた人間でしかなかったのである。
「はてな、どこかでお見かけしたようだが……」
その後で沢庵が呟いたのである。すると薦僧も、眼をしばたたいて、
「そう仰せられますなら、わたくしも申しまするが、最前からてまえも何だか、聞いたようなお声に思われてなりませんのです。もしやあなたは、但馬の宗彭沢庵どのではありませぬか。美作の吉野郷では七宝寺に長らく逗留してお在でた……」
といいかける言葉の途中から、沢庵もはっと思い出したらしく、隅にあったほの暗い灯皿の芯をかきたてて、じっと、薦僧のまばらに光る白い髯や、削げた頬を見つめていたが、
「あ。……青木丹左衛門どのじゃないか」
「おう、ではやはり、沢庵どのでございましたか。おお穴でもあればはいりたや。変り果てたこの身のすがた。宗彭どの、むかしの青木丹左と思って見てくださるな」
「意外や、ここでお目にかかろうとは。――もう十年の前になるのう、あの七宝寺の頃からは」
「それをいわれると、氷雨を浴びるように辛うござる。もう野末の白骨にひとしい丹左なれど、ただ子を思う闇にさまようて、生きながらえておりまする」
「子ゆえにと? その子とは、そも何処にいて、どう暮しておるのか」
「うわさに聞けば、そのむかしこの青木丹左が、讃甘の山に狩り立てた上、千年杉の梢に縛し上げて苦しめた――当時のたけぞう――その後宮本武蔵とよぶ人の弟子となって、この関東へ来ておるということなので」
「なに、武蔵の弟子」
「されば――そう聞いた時の慚愧――面目なさ――。どの面さげてその人の前にと、一時はもう子も忘れ、武蔵にもこの姿を見せまいと、深く怖じ恐れておりましたが、やはり会いとうて会いとうて……もう指折りかぞえれば城太郎もことし十八。その成人ぶりさえ一目見れば、死んでも心残りはないと、恥も意地も打ち捨てて、先頃からこの東路をさがし歩いているわけでございまする」
「では、城太郎というあの童弟子は、お許の子でおざったか」
このことは、沢庵にはまったく初耳であった。どうしてか、あんな知合いでいながら、ついぞお通からも武蔵からも、その生立ちについては、何も聞いていなかった。
薦僧の青木丹左は、黙ってうなずいた。その枯渇したすがたには、往年のどじょう髭を生やした侍大将の威風も旺盛な慾望の影も思い出せないほどだった。沢庵は、ただ憮然として見るほか、慰める言葉もなかった。すでに人間の脂ぎった殻から脱けて、蕭条の野へかかっている晩鐘の人生に、お座なりな慰めはいえるものではないからである。
――といって、過去の懺悔にのみ心を傷めて、これから先の道はないように、骨と皮の身を持ち扱っている相も、見ていられない心地がする。この人間は、自己の社会的な地位から転落して、すべてに滅失した時に、仏陀の救いとか、法悦の境というものがあることまで、見失ってしまったに違いない。勢いのよい時、羽振に乗って、人いちばい権をふるったり意慾を恣にしたけれど、こういう人間ほど、半面には、頑なくらいな道徳的良心をもっているので、失脚すると共に自己の良心で、自己の余生を全く自身で縊め殺しているような心理になってしまったものらしいのである。
だから悪くすれば、彼は今、生涯の望みとしている――武蔵に会って一言の詫びをいうことと、わが子の成人ぶりを見て、その将来に安心を抱くことをしてしまえば――すぐそこらの雑木林へ行って、明日の朝は、首を縊って死んでいたというようなことにならないとも限らない。
沢庵は、そう思った。この男には、子に会わせるよりも先にまず、仏陀に会わせてやらなければいけない。十悪の徒、五逆の悪人でも、救いを求めれば救うてくれる慈悲光の弥陀尊仏に対面させてから後、城太郎に会わせてやって晩くはない。武蔵との邂逅は、なおさらそのうえである方が、この男にもよいし、武蔵にとっても心地がよかろう。
こう考えたので沢庵は、とりあえず丹左に向って、御府内の一禅寺を教えてやった。わしの名をつげてそこに幾日でも逗留しておるがよいというのである。そのうち自分が暇の時に出向いてゆるゆる話もしようし聞きもしよう。子息の城太郎については、心当りがないでもないから、他日必ずわしが尽力して会わせてやる。余りくよくよせず、五十歳、六十歳から先でも、長命を考える楽土もあれば、する仕事のある人生もある。わしが行くまで禅寺でちとそんなことでも和尚から聞いておかれるがよろしかろう。
――こんなふうに諭して、沢庵は態とすげなく青木丹左をそこからほどなく立たせてやったのであった。その気もちが丹左の心にも映ったとみえ、丹左は何度も礼をのべ、薦と尺八を背に負って不自由らしい眼を竹杖に頼りながら、壁のない家の廂を離れて行った。
そこは丘なので、下へ降りる道の、辷りやすいことを惧れ、丹左は林のほうへはいって行った。杉林の細道から、雑木林の細道へ、足は自然に導かれて行った。
「……?」
そのうちにふと、丹左の杖の先になにかつかえたものがあった。まったくの盲人ではないので、丹左は身を屈めて見まわした。しばらくは何も見えなかったが、そのうちに樹の間を洩れる青い星の光に、二つの人間の体が、露にぬれたまま大地に横たわっているのが、薄っすらと分った。
どう思ったのか、丹左は、道をもどり出した。そして、元の草庵の燈をのぞいて、
「沢庵どの。……今お暇した丹左でござるが、この先の林の中に、若い者がふたり、樹から落ちて気を失ったまま仆れておりますが」
――こう告げると、沢庵は、燈影から身を起して来て外へ顔を出した。丹左は言葉を続けて、
「生憎、薬は持たず、この通り眼も不自由なため、水を与えることもできませぬ。近くの郷士の息子どもか、野遊びに来た武家衆の兄弟かとも思われる少年達です。憚りですが一つお救いに行って戴きとうござりますが」
といった。
沢庵は承知して、すぐ草履を穿いた。そして、丘の下に見える茅屋根へ向って、大きな声で誰か呼んだ。
屋根の下から人影が出て、丘の草庵を仰いでいる。そこに住んでいる百姓のおやじであった。沢庵はその影へ向って松明と竹筒の水を用意してすぐ来いと吩咐けた。
その松明の光がここへ上ってくる頃、丹左は、沢庵から道を教えられて――今度は丘の道を下へ降りて行った。で、降りて行く丹左と、上って来る松明とは、坂の途中ですれ交いになった。
もし丹左が、最初に迷って行った道のとおり歩いて行けば、松明の下にわが子の城太郎を見出すことができたに違いなかったのに、江戸へ出る道を訊き直したために、かえって薄縁から薄縁の闇へわれから辿って行ってしまった。
だが、それが不幸か僥倖かは、後になってのみ分ることで、人生の事々はすべて、回顧される時にならなければ、ほんとの薄縁とも不幸ともいわれないものであろう。
竹筒の水と松明とを持って早速やって来た百姓は、きのうも今日も、この草庵の修繕に手伝った村の者の一人で、何事があったのかと不審り顔に、沢庵の後について、林の中へはいって行った。
やがてすぐ、その松明の赤い明りは、先に薦僧の丹左が見出したものを同じ所に見出した。――けれどつい先刻と今とは、その状態においては少し相違があって、丹左が発見した時は、城太郎も伊織も、打重なって仆れていたが、今見ると、城太郎は蘇生してそこに呆然と坐っており、そして側に仆れている伊織を手当てして訊きたいことを訊いたものか、このまま逃亡してしまったほうがよかろうか――と、迷ってでもいたらしく伊織の体へ片手をかけながら、じっと考えこんでいたのであった。
――そこへ松明の光と人の跫音を感じたので、城太郎は忽ち夜の獣のような鋭くて迅い姿勢のもとに、いつでもぱっと起てるような身構えをしかけた。
「……おや?」
沢庵の立った側から、ぷすぷすと燃える松明を、百姓のおやじが突き出していた。城太郎は咄嗟に、相手がさして警戒するほどな者でないと思って安心したらしく、身を落着けて、ただ、その人影を見上げた。
――おや? と沢庵がいったのは、気を失っているはずの者が、そこに坐っていたからであったが、双方からじっと姿を眺め合っているうちに、その「おや?」という一語は、そのまま重大な愕きを両方に持つ言葉となっていた。
沢庵から見た城太郎は、余りに体も大きくなっていたし、顔も姿もちがっていたからややしばらくは分らなかったが、城太郎から見た沢庵は一目で沢庵とすぐ知れた筈であった。
「城太郎ではないか」
沢庵はやがて、眼をみはっていった。
自分を仰いだと思うと、その城太郎が、はっと、手をつかえてしまった容子に、沢庵も眼を注いで、初めてそれと気づいたのであった。
「はい。……はい、さようでございまする」
沢庵の姿を仰ぐと、以前の洟垂れ小僧に返って、彼はただ恐れ入るばかりな容子だった。
「ふうむ、そちがあの城太郎か。いつの間にやら大人びて、たいそう鋭い若者になったものよの」
彼の成人ぶりに愕いて、沢庵は眺め入っていたが、何はともあれ、伊織を手当てしてやらなければならない。
抱いてみると体温はたしかである。竹筒の水を与えると、すぐ意識はよび戻した。伊織はあたりを見て、きょろきょろしていたが、突然大声を出して泣き出した。
「痛いのか。どこか、痛いのか」
沢庵がたずねると、伊織はかぶりを振って、どこも痛くはないが先生がいない、先生が秩父の牢屋に連れて行かれてしまった。それが恐ろしいと、なお泣きじゃくって訴えるのだった。
彼の泣き方も訴え方も、余りに唐突であったから、沢庵も容易にその意味を汲むことができなかったが、だんだんと仔細を聞いて、なるほどそれは容易ならぬことが起ったものと、ようやく伊織と同じ憂いを抱くことができた。
するとそれを傍らで聞いていた城太郎は、身の毛をよだてたように、卒然と、愕きを顔にみなぎらして、
「沢庵さま。申しあげたいことがあります。どこか人のいない所で……」
と、少し声をふるわせていい出した。
伊織は、泣きやんで、疑いの眼を光らしながら、沢庵へ寄り添うと、
「そいつは、泥棒の一類だよ。そいつのいうことは、嘘に決まってる。油断しちゃだめだよ、沢庵さん」
と指をさした。
城太郎が睨むと、伊織はなお、いつでもまた、戦ってやるぞという眼をもって、それに酬いた。
「ふたりとも、喧嘩するな。おまえ達は、元々、兄弟弟子ではないか。わしの裁きにまかせて尾いて来い」
道を引っ返して来ると、沢庵はふたりに命じて、草庵の前に焚火を焚かせた。百姓のおやじは、用がすむと下の藁屋根へもどって行った。沢庵は火のそばに腰かけて、お前たちも仲よく焚火をかこめといったが、伊織はなかなかそこへ寄らないのである。泥棒の城太郎と兄弟弟子となることを敢て拒否するような顔つきなのだ。
だが沢庵と城太郎とが、睦まじく以前の話などしているのを見ると、伊織は軽いそねみを覚え、いつのまにか彼もまた、焚火のそばへ来てあたっていた。
そして沢庵と城太郎とが低声になって話しているのを黙って聞いていると、城太郎は、弥陀の前で懺悔する女人のように、睫毛に涙さえ見せて、聞かれない先まで、素直にすらすらと自白しているのであった。
「……ええそうです。お師匠さまの側を離れてから足掛け四年にもなります。その間わたくしは、奈良井の大蔵という者の手に育てられ、その人の教えをうけ、またその人の大きな望みや世の中の行くてを常に聞くにつけ、この人のためなら生命を投げ出しても惜しくないという気持になりました。それから今日まで、大蔵どのの仕事を助けて参りましたが――でも泥棒呼ばわりなどは心外の極みです。わたくしも武蔵先生の弟子、おそばを離れてからでも、お師匠さまの精神とは、一日も別れてはいないつもりですから」
城太郎は、いいつづけた。
「――大蔵どのと私とは、天地の神祇に誓って、自分らの目的は、他人にもらすまいと約していますので、それが何かは、たとえ沢庵様であろうと、語るわけに参りませんが、お師匠さまの武蔵様が、宝蔵破りの冤罪をきて、秩父の牢へお曳かれになったとあっては、知らぬ顔はしておられません。明日にでもすぐ秩父へ行って、下手人はこの身であると、自首いたして、お師匠さまを獄舎から解いておもどし致します」
彼の語るのを、沢庵はだまったまま、ただ頷き頷き聞いていたが、その時ふと顔を上げ、
「では、宝蔵破りの仕事は、おまえと大蔵の仕業には相違ないのじゃな」
「はい」
城太郎のその答えは俯仰天地に恥じないといったような語気を持っていた。
ぎらっと、沢庵は、その眼を見つめた。城太郎は、前の言葉に似ず、つい眼を伏せてしまった。
「じゃあ、やはり泥棒じゃないか」
「いえ。……いえ、決して、ただの盗賊ではありません」
「泥棒にふたいろも三いろもあるかの」
「でも、われわれは、私慾を持ちませぬ。公民のために、ただ公財を動かすだけです」
「わからんな」
沢庵は、ぽいと抛るようにいって、
「然らば、おまえのやっている盗みの種類は、義賊というようなものなのか。支那の小説などによくあるな。剣侠とか、侠盗とかいう怪物が。つまりあれの亜流だろう」
「その弁解をいたしますと、自然大蔵どのの秘密を喋舌ってしまうことになりますから、何といわれても、今は隠忍しておりまする」
「はははは。かまにはかからんというわけだな」
「ともあれ、お師匠さまを救うために、私は自首いたします。どうぞ、後で武蔵様へも、御坊からよろしくお取做しをねがいまする」
「そんな取做しは沢庵にはできぬ。武蔵どのの身は元より冤罪の禍い、おぬしが行かいでも、解かれるにきまっておる。――それよりも、おぬしはもっと仏陀に直参して、倖い、この沢庵をお取次に、真心の底を御仏に自首してみる心にはなれぬか」
「仏に?」
と、彼は考えてもみないことをいわれたように問い返した。
「さればよ」
と、沢庵は当然なことを諭すように、
「おぬしの口吻を聞いておれば、世のためとか、人のためとか、偉そうじゃが、さし当って、他人事よりはわが事じゃろ、おぬしの周りに、誰も不倖せな者は残っておらぬかの」
「自己の一身など考えていては天下の大事はできませぬ」
「青二才」
沢庵は、一喝して、城太郎の頬をぐわんと撲った。城太郎はふいを打たれて、頬をかかえたが、気をのまれたように為すことを知らなかった。
「自己が基礎ではないか。いかなる業も自己の発顕じゃ。自己すら考えぬなどという人間が、他のために何ができる」
「いや、わたくしは、自己の慾望などは考えないといったのです」
「だまれ、おまえはおまえ自身が、人間としてまだ酢っぱい未熟者だということを弁えんか。世の中の端ものぞかぬやつが、世の中を分った顔して大それた大望などにうつつを抜かしているほど怖ろしいものはない。城太郎、おまえや大蔵のやっている仕事はたいがい読めた。もう訊かいでもいい――。阿呆な餓鬼じゃ、なりばかり大きくなっても心の育ちはさらに見えん。何を泣く、何がくやしい、洟でもちんとかむがよい」
寝ろといわれたのである。寝るしかなくなって、城太郎はそこらにある莚などかぶって横になった。
沢庵も寝た。伊織も眠った。
だが城太郎は寝つかれなかった、獄窓にある師の武蔵のことが夜もすがら考えられて、すみません――と胸の上に掌をあわせて詫びた。
仰向いていると、眦からつたう涙が耳の穴へながれこむ。横に寝返ってまた思う。お通さんはどうしたろうか。お通さんがいたらよけい合せる顔がない。沢庵の拳は痛かったが、お通さんであったら打たない代りに、自分の胸ぐらを持って泣いて責めるにちがいない。
さはいえ、人には洩らさぬと、大蔵と誓った秘密は誰にも明かしようはない。夜が明けたらまた、沢庵から折檻されるかもしれない。そうだ今のうちに抜け出そう。
「…………」
城太郎はそう考えてそっと身を起した。壁も天井もない草庵は抜けるには都合がよい。彼はすぐ戸外へ出た。星を仰ぐ。急がないともう朝は近いらしい。
「――こら。待て」
歩みかけた城太郎は、後ろの声にぎょっとした。自分の影みたいに沢庵が立っているのだ。沢庵はそばへ来て、城太郎の肩へ手をかけた。
「どうしても、自首して出る気かの」
「…………」
城太郎はだまって頷いた。沢庵はあわれむようにいった。
「そんなに、犬死がしたいか。浅慮なやつだ」
「犬死」
「そうだ、おまえは、自分という下手人さえ名乗って出たら、武蔵どのを免してもらえると考えているじゃろうが、世の中はそんなに甘くはない。おまえがわしにいわなかったことも、役所へ出れば残らず泥を吐かねば役人は納得せぬ。武蔵は武蔵として、獄舎に置いたまま、おまえの身は一年でも二年でも、生かしておいて拷問にかける。――きまっていることだ!」
「…………」
「それでも、犬死でないと思うか。真に、師の冤罪を雪ごうと思うならば、まずおまえ自身から身を雪いで見せねばなるまい。――それを役所で拷問にかけられてしたがよいか、それとも、この沢庵に向ってしたがよいか」
「…………」
「沢庵は仏陀の一弟子、わしが訊いたとて、わしが裁くわけでも何でもない。弥陀のお胸に問うてみる、取次ぎをして進ぜるのみだ」
「…………」
「それも嫌ならもう一つ方法がある。計らずもわしはゆうべ、おまえの父、青木丹左衛門にここで出会うたのじゃ。いかなる仏縁やら、すぐその後で子のおぬしにまた会おうとは。……丹左の行く先はわしが知辺の江戸の寺、どうせ死ぬならその父に一目会ってから行くがよかろう。そしてわしの言葉の是か非かも、父に訊ねてみたがよい」
「…………」
「城太郎。おまえの前に、三つの道がある。わしが今いうた三つの方法じゃ。そのどれなと選ぶがよい」
沢庵はいいすてて元の塒へはいりかけた。きのう伊織と樹の上で闘っていた時、遠く聞えた尺八の音を城太郎は耳に呼び返していた。それが父だったと聞いただけで、彼は父がその後どんな姿で、どんな気持で世の中を彷徨っていたか、訊かなくても胸がこみあげてくるほど分っていた。
「お、まって下さいっ。……沢庵さん、いいます! いいます! 人にはいわぬと大蔵様とは誓ったことですが、御仏に……ほとけ様に一切を」
ふいにそう叫ぶと、彼は、沢庵の袂を持って、林の中へ引きもどしていた。
城太郎は自白した。暗闇の中で長い独りごとをいいつづけているように、一切を声にして、胸の奥から吐いてしまった。
沢庵はそれを、最初から終りまで、一口も挟まず聞いていた。
「もういうことは何もありません――」
と、城太郎が沈黙すると、初めて、
「それだけか」
と、いった。
「はい、これ限りです」
「よし」
沢庵もそれでまた黙ってしまった。半刻も黙っていた。杉林の上が水色に暁けてきた。
鴉の群れが噪がしい。四辺は白々と露ッぽく見えて来た。沢庵はと見ると、くたびれたかの如く杉の根に腰かけている。城太郎は彼の折檻でも待つもののように、半身木に凭れてうつむいていた。
「……えらい者の仲間に引きこまれたものじゃな。この大きな天下の歩みが、どう動いてゆくかも見えぬとは、不愍な者の集まりよの。だが、事を起さぬ前でまだよかった」
そう呟いた時の沢庵は、もうなにも屈託した顔つきではなかった。彼はそんな物はありそうもない懐中から二枚の黄金を取り出した。そして城太郎にここからすぐ旅路へ立てというのである。
「一刻もはやくせぬと、そちの身ばかりか、親にも師にも、災難をかけることに相成ろうぞ。遠国へ奔れ、思いきって遠国へ。――それも甲州路から木曾路は避けて行くことじゃ。なぜならば、きょうの午下がりから先は、もうどの関所も厳しゅうなる」
「お師匠様のお身はどうなりましょうか。わたくしのためにああなったと思うと、このまま他国へも」
「その段は、沢庵がひきうけておく。二年なり三年なり余燼のさめた頃に、改めて、武蔵どのを訪ね、お詫びいたしたがよかろう。沢庵もその時にはとりなして進ぜる」
「……では」
「待て」
「はい」
「立ちがけに江戸に廻れ。麻布村の正受庵という禅刹に行けば、そちの父青木丹左が、ゆうべ先に行き着いておる」
「はい」
「これに大徳寺衆の印可がある。正受庵で笠や袈裟をもらいうけ、一時、そちも丹左も、僧体になって共に道中をいそぐがよい」
「どうして、僧体にならなければいけませんか」
「あきれたやつ。自身犯している罪をすら知らぬのか。徳川家の新将軍を狙撃し、その噪ぎに乗じて、大御所の在わす駿府にも火を放ち、一挙にこの関東を混乱に墜し入れて、事を為そうという浅慮者のお前は手先のひとりではないか。大きくいえば治安を乱す謀叛人のひとり。捕まれば縛り首は当りまえじゃろが」
「…………」
「行け、陽の高くならないうちに」
「沢庵さま。もう一言うかがいます。徳川家を仆そうとする者はどうして謀叛人でしょうか。豊臣家を仆して天下を横奪する者は、なぜ謀叛人ではないでしょうか」
「……知らん」
沢庵は怖い眼で彼の理窟をただ睨みつけた。その説明は誰にもできないのである。城太郎を承服させるぐらいな理論を立てることは、沢庵にできないはずはなかったが、彼自身の得心できる理由がまず確然とつかめていないのだ。しかし一日一日と、徳川家に弓をひく者を謀叛人と呼んでもふしぎでない社会に変りつつあることは見遁せない。そしてその大きな推移に逆らう者は、必ず汚名と悲運を被って、時代の外へ影を没して亡んでしまうことも顕然とした事実であった。
その日、沢庵は伊織をしりに従れていた。赤城坂の北条安房守の門へはいって行く。玄関わきの楓がいつぞやとは見まごうほど紅葉している。
「お在すか」
小僧へ問うと、
「は。お待ちを」と、奥へ駈けこむ。
出て来たのは子息の新蔵だった。父は登城して不在ですがまずお上がり下さいと招じるのであった。
「御城中とな。ちょうどよい」
沢庵はそういって、すぐ自分もこれから御城内へ参るが、この伊織を、当分ここに留めておいてくれまいかと頼んだ。
「お易いこと」
と、新蔵はちらと見てわらう。伊織とは知らない仲でもないからである。――そして御坊は御登城とあるならば、駕籠を命じましょうと気をくばる。
「頼みたいの」
駕籠の用意のできるあいだ、沢庵は紅葉の下に立って、梢を仰いでいたが、思い出したように、
「そう、江戸の奉行職は、何といわれたの」
「町のですか」
「されば、町奉行という職制が、新たに設けられておるが」
「堀式部少輔様でした」
駕籠が来る。輿に似た塗かごであった。いたずらをするなよと、伊織へいって、沢庵はそれへ身をまかせる。ゆらゆらと紅葉の陰を、それはのどかに門外へ出て行った。
伊織はもうそこにいない。厩をのぞき込んでいる。厩は二棟あった。栗毛、白眉、月毛、いい馬がたくさんいてどれもよく肥えている。伊織は、田へ出して働かせもしない馬を、どうしてこんなに多く飼っておくのかと、武士の家の経済がふしぎに思われた。
「そうだ、戦の時、使うんだな」
ようやくひとり解釈して、よくよく馬の顔を見ていると、馬の顔でも、武家の飼馬と野放しの野馬とは顔が違っていた。
馬は小さい時からの友だちだった。伊織は馬が好きだった。見ていても飽きないのである。
――すると玄関の方で、新蔵の大きな声がした。伊織は、自分が叱られたのかと思ってふり顧ったが、見ると玄関の前に、今門からはいって来たらしい細っこい老婆が、杖をたてて、きかない顔を、じっと、式台に立ちはだかっている北条新蔵へ向け合っているのだった。
「居留守をつかうとは何事をほざくか。そちのような見知らぬ老いぼれに、父が居留守をつかう要はない。いないからいないというたのだ」
老婆の態度が新蔵をむっとさせたらしかった。その語気にまた、老婆は年がいもない怒りを駆りたてて、
「お気に障ったか。安房どのを父といわれたところを見れば、おぬしが当家の御子息じゃろが、先頃からこのばばが、いったい何度この門をくぐっておるかご存じかの。――五度や六度ではおざらぬぞよ。そのたびごとに留守じゃ。居留守と思うもむりではあるまいが」
「何度、訪ねたかしらぬが、父はひとに会うのを好まぬほうだ。会わぬというのに、無理に来るほうがわるい」
「ひとに会うのは好まぬと。片腹いたい仰せ言じゃの。ではなぜ、おぬしの父は人中に住んでおざるのじゃ」
お杉ばばはまた、いつもの歯を剥きはじめて、きょうこそは会わぬうちは帰りそうもない顔つきなのであった。
てこでも動かないという俗言がある。ばばの面構えはそれであった。
老婆と思って見くびる――という共通のひがみが、お杉にもある。いや人いちばい強いほうだ。それゆえに、見くびられまいとする緊張が、てこでも動かない顔を拵えてしまうのである。
若い新蔵には、およそ苦手な応対であった。ヘタをいえば揚足を取る。一喝や二喝ではおどろかない。時々、皮肉な歯を見せてせせらわらう。
無礼者っ。
と、柄の音でも聞かせてやりたくなるが、短気は負けだと思うし、またそんなことをしても効果があるかどうかも、このばばには疑わしいと思われた。
「――父は留守だが、まあ、それへ腰かけてはどうだな。わしで分る話なら、わしが聞いておこうではないか」
虫を抑えていってみると、これは新蔵が予期していた以上、効き目があって、
「大川の畔から、牛込まで歩いて来るのも、容易ではないがの。実は足もくたびれているところ、おことばに甘えて掛けようか」
すぐ式台の端へ腰をおろして、脚をさすり出したが、舌の根はくたびれる気色もなく、
「これ、お息子よ。――今のように、物柔らかにいわれると、このばばも、つい大声したことが、面目のうなるが、それでは用向きを話すほどに、安房どのがお帰りなされたら、よう伝えてたもれよ」
「承知した。して、父の耳へ入れたいとか、注意したいとかいうた用件とは」
「ほかでもない。作州牢人の宮本武蔵がことじゃ」
「ム。武蔵がどうしたか」
「あれは十七歳の折、関ヶ原の戦に出て、徳川家に弓を引いた人間じゃ。しかも郷里には、数々の悪業をのこし、村では一人として、武蔵をよういう者はない。それに幾多の人を殺して、このばばにも仇と狙われて、諸国を逃げ廻っている悪い素姓の浮浪人」
「ま、待て、婆」
「いいえいの、まあ、聞いて賜も。そればかりではない。わしが伜の許嫁のお通、それをまあ手なずけたりしての、友だちの女房ともきまった女子をば誘拐して……」
「ちょっと、ちょっと」
新蔵は、手で抑えて、
「いったい、ばばの目的は何じゃ。武蔵の悪口をそうしていい歩くことか」
「あほらしい。天下のお為を思うてじゃ」
「武蔵を讒訴することが、なんで天下のお為になるか」
「ならいでか」
ばばは開き直って、
「――聞けば、当家の北条安房どのと、沢庵坊の推挙で、どうあの口巧い武蔵が取入ったやら、近いうちに、将軍家の御指南役のひとりに加えられるという噂じゃが」
「誰に聞いたか、まだ御内定のことを」
「小野の道場へ行った者から、確かに洩れ聞いておる」
「だから、どうだと申すのか」
「――武蔵という人間は、今もいうた通りな札つき者、そのような侍を、将軍家のお側へ出すさえ忌わしいのに、御指南役などとは、もってのほかとこの婆は申すのじゃ。将軍家の師範といえば、天下の師。おおまあ、武蔵などとは思うてもけがらわしい。身ぶるいが出ますわいの。……この身は、それを安房どのへ、お諫めに来たわけじゃ。分ったかの、お息子どの」
新蔵は信じている。武蔵をである。父や沢庵が将軍の師範へ推薦したことも、もちろんいい事をなされたと欣んでいる。
で――ばばのいいぐさを、虫をこらえて聞いていても、おのずから顔いろが変っていた筈であるが、口ばたに唾をこしらえて喋舌りだすと、お杉は相手の顔いろなどは眼に入らず、
「じゃに依って、安房どのに、お諫めしてお沙汰止みを計るのは、天下の為だと思いまする。そなた様もの、くれぐれ武蔵の巧い口にはのせられぬがようござるぞよ」
と、なお饒舌のとめどがない。
新蔵は、もう聞いているのが、不快になって、うるさいっ、と大喝してやろうと思ったが、それではまた、かえって粘り出すかも知れないと惧れて、
「わかった」
と、不快な唾をのみころして追いたてた。
「話の趣、よく分った。父へもその由、伝えておくであろう」
「くれぐれもの」
と、念を押して、ばばはようやく目的を達したように、藁草履のしりを摺って、ひたひたと門の外へ出て行きかけた。
すると、どこかで、
「くそばば」
と、いった者がある。
足を止めて、
「なんじゃと」
ねめ廻して、そこらを探すと、樹陰に見えた伊織の顔が、ヒーンと、馬の真似して歯を剥いて見せながら、
「これでも喰らえ」
と、固い物を抛りつけた。
「ア痛」
ばばは、胸を抑えながら、地に落ちた物を見た。そこらに幾つも落ちている柘榴の実の一つが砕けていた。
「こいつ」
ばばは、べつに実を一つ拾って、手をふり上げた。伊織は、悪たれをたたきながら逃げこんだ。厩のある角まで、ばばは追いかけて行ったが、そこから横をのぞいたとたんに、今度はやわらかい物が顔へいっぱいに打つかってつぶれた。
馬の糞だった。ばばは、ベッベッと唾をした。顔についているものを指で掻き落すと、ぼろぼろと涙が共にながれて来た。かかる憂き目にあうというのも、旅の空なればこそ、わが子のためなればこそ。――そう思うと老いの身をふるわせて口惜しく思うのであった。
「…………」
伊織は、遠くに逃げて、物陰から顔を出していた。悄然とばばが泣いている姿を見ると、彼も急にしょんぼりして、大きな罪を犯したように恐くなった。
ばばの前へ行って、謝りたくなった。けれど伊織の胸には、師の武蔵の悪口をさんざんいわれた憤りがまだそれくらいで消えていなかった。けれどやはり老婆の泣いている姿は彼に悲しかった。伊織は、複雑な気もちに囚われて、指の爪を噛んでいた。
高い崖のうえの部屋で、新蔵が呼んでいる。伊織は救われたように、崖づたいに駈けて行った。
「おい、夕方の赤い富士山が見えるから来てみい」
「あ。富士山」
それで何もかも伊織は忘れてしまった。新蔵もまた、忘れ果てた顔していた。元よりきょうのことを父の耳へ伝えようなどとは、聞いているうちから思いもしないことではあった。
秀忠将軍はまだ三十をすこし出たばかりであった。父の大御所は一代の覇業をまず九分どおりまでは仕上げたというすがたで今は老いを駿府城に養っている。ここまでは父がした、後はおまえがやるのだと、将軍の職を秀忠は三十そこそこで父から任せられたのである。
父の業績は一代を通じての戦争であった。学問も修養も家庭生活も婚姻も、戦争の中でなかったことはない。その戦争はさらに乾坤一擲な次の大戦争を大坂方とのあいだに孕んではいるが、しかしそれはもう長い戦争の終局的なもので、その一戦で長い長い日本の春秋時代も、ほんとの平和に回るだろうと、一般の人心は観ているのである。
応仁の乱以後の長期な戦乱つづきである。世人は平和の招来に渇きぬいている。武家はとにかく庶民百姓は、豊臣でも徳川でもよい、ほんとの平和が建設されるものならば、というのが偽らない多くの気持であったにちがいない。
家康は秀忠に職をゆずる時、
(そちのなすことは何か)
と、諮問したそうである。
秀忠はすぐ、
(建設にあると思います)
と、答えたので、家康は大いに安んじたということが側近から伝えられていた。
秀忠の信条は、そのまま今の江戸にあらわれている。大御所の認めていることでもあるし、彼の江戸建設は思いきって大規模で急速だった。
それに反して、太閤の遺孤秀頼を擁する大坂城では、戦争に次ぐ戦争の再軍備にせわしかった。将星はみな謀議の黒幕にひそみ、教書は密使の手から諸州に奔り、際限もなく牢人や游将を抱え入れて、硝弾を積み槍をみがき、濠を深めて備えに怠りないのであった。
(今にも、また、合戦が)
と、恟々たるものは、大坂城を中心とする五畿内の住民を通じての空気であり、また、
(これからは、ほっとできよう)
と、いうのが江戸城を繞る一般市民の心理であった。
必然――
庶民のながれは続々と、不安な上方から建設の江戸へ移り出した。
それはまた一般が、豊臣中心を見すてて、徳川の治下を慕ってくるような人気のようにも見えた。
事実、乱国につかれた庶民は、豊臣方が勝って、なお戦乱がつづくよりも、ここで徳川家が終局を収めてくれたほうがよいと祈るようにもなっていた。
そういう世相は、関東上方のいずれに子孫を託すかと今、去就の半ばにある各藩の大名やその臣下の眼にも移って、日一日と、江戸城を中心とする町割や河川の土木や城普請には、新しい時代の力が味方した。
きょうも秀忠は、野支度で、旧城の本丸から新城の工事場のほうへ吹上の丘づたいに出て、作事場を一巡し、眼に耳に胸にひびいて高鳴る建設の騒音の中で時をわすれていた。
侍側には、土井、本多、酒井などの閣臣や近習衆をはじめ、僧侶などの姿も見え、秀忠はやや小高い所に床几を呼び、そこに一休みしていた。
すると大工たちの働いていた紅葉山下のあたりで、
「野郎っ」
「野郎っ」
「野郎っ、待てっ」
と、迅い跫音がみだれた。逃げ廻るひとりの井戸掘り人足を追って、七、八人の大工たちが、喧騒の中を喧騒して突き抜けて行った。
脱兎のように、一人の井戸掘り人足が逃げ廻って行く。材木の間にかくれ左官小屋の裏へ走り、またそこから飛び出して、土塀足場の丸太へ攀じ付いて、外側へ跳ね飛ぼうとした。
「ふてえ奴」
追い詰めて来た土工のうちの二、三名はすぐ、丸太の上の人間の足をつかまえた。井戸掘り人足男は、手斧屑の中へもんどり打ってころげ落ちた。
「こいつめ」
「胸くそのわるい」
「叩きのめせ」
胸いたを踏みつける。顔を蹴とばす。襟がみをつかんで引き摺り出す。ふくろ叩きなのである。
「…………」
井戸掘りは、痛いとも何ともいわなかった。ただ大地が唯一の頼みのように、地面にへばりついている。蹴転がされても、襟がみをつかまれても、すぐへばりついて必死に地を抱きしめた。
「どうしたのだ」
すぐ頭梁の侍が来た。職方目付も駈けつけて来た。そして、
「しずまれ」
と、押し分けた。
大工のひとりは、昂ぶったことばで、職方目付に訴えた。
「曲尺を踏みつけやがったんです。曲尺はわっしどものたましいだ。お侍の腰の刀と同じでさ。そいつをこの野郎が」
「ま。しずかに申せ」
「これが、静かにできるものか。お武家が刀を土足でふまれたら、何となさいますえ」
「わかった。――じゃが、将軍様には今し方作事場を一巡遊ばして、あれなるお休み所の丘に、只今床几をおすえ遊ばしておられるところだ。お目障りだ、ひかえろ」
「……へい」
一度は鳴りをしずめたが、
「じゃあ、この野郎を、彼方へしょッ引いて行こう。こいつに水垢離とらせて、踏まれた曲尺に手をつかせて謝らせなくっちゃならねえ」
「成敗は、此方らがする。おまえ達は、持場へ行って仕事にかかれ」
「ひとの曲尺を踏みつけておきながら、気をつけろといえば、謝りもせず、口答えをしやがったんです。このままじゃ、仕事にかかれません」
「分った、分った。きっと処分いたしてくれる」
と職方目付は、俯っ伏している井戸掘り人足の襟がみをつかんで、
「顔をあげい」
「……はい」
「や。そちは、井戸掘りの者じゃないか」
「……へ。そうです」
「紅葉山下の作事場では、お書物蔵の工事と、西裏御門の壁塗りとで、左官、植木職、土工、大工などははいっておるが、井戸掘りは一名もいないはずだぞ」
「そうでさ」
と、大工たちは、職方目付の不審に、いい足して、
「この井戸掘りめ、他人の仕事場へ、きのうも今日もうろつきに来やがって、あげくの果て、大事な曲尺を泥足で踏ンづけたりなどしやがったから、いきなり頬げたを一つくらわしてやったんです。すると、小生意気な口答えをしやがったので、仲間の者が、叩きのめせと、騒ぎ出したんで」
「そんなことはどうでもよいが。……これ、井戸掘り、何の用があって、そちは用もない西丸裏御門のお作事場などをうろついておったのか」
職方目付は、井戸掘りのまっ蒼な顔を見つめた。井戸掘りにしては男ぶりのよい又八の容貌や、総じて蒲柳な体つきも、そう気をつけて見られると、彼に不審を抱かせた。
侍側の士や閣臣たちや、僧侶や茶道衆や、秀忠の床几のまわりには勿論多くの警固がついているが、さらにその小高い場所を中心にして、遠巻きに要々には、見張りの警戒が二重にそこを隔てている。
その見張役の者は、作事場の中の些細な事故にも、すぐ眼をひからせているので、何事かと、又八がふくろ叩きになった現場へ駈けて来た。
そして職方目付の者から説明を訊きとると、
「上様のお目ざわりになるから、お目に触れぬ方へ立ち去られたがよかろう」
と、注意した。
尤もな言葉であるから、職方目付は、大工頭梁の侍に計って一同をめいめいの仕事の持場へ追い遣り、
「この井戸掘り人足の男は、ほかにちと調べることもあるから」
と、又八の身は、目付方で処置を取ることとして拉して行った。
御作事奉行配下職方目付詰所というのは、工事場に幾つもある。現場監督の役人たちが休んだり交替で起居をしているほんの仮小屋だった。土間炉に大薬罐を掛けて、手すきの役人たちが、湯をのみに来たり、わらじを穿き代えにもどって来たりしている。
又八はその小屋の裏にくっ付いている、薪小屋の内へ抛りこまれた。薪ばかりでなく物置として沢庵樽だの漬物樽だの、炭俵だのが、積んである。そこへ出這入りするのは、炊事をする小者だった。その小者たちは、小屋仲間と称ばれていた。
「この井戸掘り人足は、不審のかどがある者だから、取調べのすむまで押込めて注意しておれよ」
小屋仲間は、又八の監視をいいつけられたが、そう厳重に縄目などはかけなかった。罪人と決まっている者ならば、すぐその方の手へ渡すだろうし、またこの工事場そのものが、すでに江戸城の厳重な濠や城門のうちにあるので、その必要を感じないからであった。
職方目付はその間に、井戸掘り親方やまたその方の監督者に交渉して、又八の身元とか平常の素行など洗ってみるつもりらしかったが、それも彼の容貌が根からの井戸掘り人足らしくないというだけの不審で、べつにどういうことをしたというわけでもないから、小屋に抛りこまれた又八に対しては、そのまま幾日も調べがなかった。
――がしかし、又八自身は、その一刻一刻が死へ歩み寄っているような恐怖だった。
彼は、彼ひとりで、
「あのことが、露顕したに違いない」
と、決めていた。
あのこととは、いうまでもなく、彼が奈良井の大蔵に使嗾されて機をうかがっていた「新将軍狙撃」の企み事であった。
大蔵にその決行を迫られて、井戸掘り親方の運平らの口入れで城内へはいったからには、すでに又八の胸にはいちかばちかの覚悟がついている筈であるが、又八はあれから今日に至るまで、幾度も、秀忠将軍の工事場御巡視の機会には出会っていながら、槐の木の下に埋けてあるという鉄砲を掘り出して、将軍を狙撃するなどという大それたことは、彼には出来なかったのである。
大蔵に脅迫された時は、いやといえば即座に、殺されそうだったのと、金も欲しかったので、
(やる)
と、誓ってしまったが、江戸城の中へはいってみると、たとえこのまま一生涯、井戸掘り人足で終ろうとも、将軍家を狙うなどという怖ろしいことは、自分にはできないと思い直して、大蔵との約束も努めて忘れるように、土まみれになって、他の人足たちの間に働いていたのである。
――ところが彼にとって、そうしていられない椿事がわき上がって来たのだった。
それというのは、西裏御門の内にある大きな槐の木が、紅葉山御文庫の書庫を建てる都合で、ほかへ移し植えられることになったことである。
井戸掘り人足のたくさんはいっている吹上の作事場とそことは、だいぶ離れているが、槐の木の下には、かねて奈良井の大蔵が手をまわして、鉄砲を地下に埋けてあるということを又八は承知していたので、始終、そこには、人知れず注意を払っていたのだった。
で――彼は、飯休みの暇とか、朝晩の仕事の暇には、西裏御門のそばへ来て、槐の木がまだ掘り返されていないのを見ると、ほっとしていた。
そして、いつか人目のない隙に、その木の下を掘って、鉄砲を他へ捨ててしまおうと考え、ひとり苦慮していたのである。
だから彼が、そこで過って大工の曲尺を踏んづけ、大工らの怒りに会って追いまわされた時も、ふくろ叩きよりは、事の発覚がすぐ恐ろしかった。
その恐怖は、その後も去らず、暗い小屋の中で毎日つづいた。
槐の木はもう移し植えられたかもしれない。根を掘れば地下から鉄砲が発見される。当然、取調べが始まる――
(こんど曳き出される時には生命がない)
又八は毎晩、夢うつつに、あぶら汗をかいた。冥途の夢を幾度も見た。冥途には、槐の木ばかり生えていた。
或る夜、彼はまた、母親の夢をありありみた。おばばは、今の自分の境遇をあわれともいってくれず、飼蚕笊をぶつけて何か怒りわめいている。笊の中にいっぱいあった白い繭を頭から浴びて、又八は逃げまわった。するとその繭のお化けのように白い髪をさかだてたおばばが、どこまでもどこまでも追いかけてくる。夢の中の又八はびっしょり汗をかいて崖から飛びおりたが――体はいつまでも下へつかないで奈落の闇にふわふわしていた。
――ごめんなさいっ。
――おっ母さん。
子どものような悲鳴をあげたと思うと、彼は眼をさましていたのである。眼がさめるとまた、かえって夢よりも切実に恐い現身に回って、惻々と責め虐まれた。
(そうだ……)
又八はこの恐怖から自分を救うために、ひとつの冒険へ奮って起った。それは、槐の木がまだ無事でいるか、移植されたか、見届けてくることだった。
江戸城の要害は、小屋そのものにもあるわけではない。江戸城の外へ出ることはとてもできないが、この小屋から槐の木の側まで行ってみることは、さして困難ではあるまいと思いついたのだ。
もちろん小屋にも鍵はかかっていた。けれど不寝番が付きッきりでいるわけではない。彼は漬物樽を踏み台にして、明り窓を破って外へ出た。
材木置場だの、石置場だの、掘り返してある土の山陰などを這って、又八は、西裏御門の辺りまで来た。そして、見まわすと、巨きな槐の木は、まだ元の所に、そのまま立っていた。
「……ああ」
又八は、ほっと胸をなでた。まだこの木が根移しされていないために、自分の生命もつながっていたのだと思った。
「今だ……」
彼は、どこかへ行って、やがて鍬を拾って来た。そして槐の木の下を掘り始めた。自分の生命がそこから拾い出せるように。
「…………」
一鍬掘っては、その音のひびきに胸を騒がせて、鋭い眼が四辺を見まわすのだった。
いいあんばいに見廻りも来ない。鍬は次第に大胆に振りつづけられた。そして穴のまわりに新しい土の山ができた。
土を掻く犬のように、彼は夢中でその辺りを掘り起した。だが、いくら掘っても、土中からは土と石しか出なかった。
(誰か先に掘り出してしまったのではあるまいか)
又八は懸念しだした。
そしてよけい、徒労の鍬を揮うことを、止められなかった。
顔も腕も、汗にぬれて、その汗に土が刎ねかかって、泥水を浴びたように、全身はくわっくわっと喘ぎぬいている。
戛――
戛――
つかれた鍬と、つかれた呼吸とが、次第に縺れ合って、眩いがしそうになって来ても、又八の手は止まらなかった。
そのうちに、何か、どすっと鍬の刃にぶつかった。細長い物が穴の底に横たわっている。彼は鍬を抛って、
「あった」
と、坑へ手を突っこんだ。
だが、鉄砲ならば、錆びぬように、油紙につつみこんで置くとか、箱に密閉してありそうなものだが、指先に触った物は、ちと変な感じのするものだった。
でも、幾分の期待をかけて、牛蒡を抜くように引っぱり出してみると、それは人間の脛か腕らしい一本の白骨だった。
「…………」
又八は、もう鍬を拾う気力もなかった。何かまた、夢をみているのではないかと自分を疑った。
槐の木を仰ぐと、夜露と星が燦めいている。夢ではない。槐の一葉一葉だって数えられる意識がある。――確かにあの奈良井の大蔵は、この木の下に鉄砲を埋けておくといった。それを以て秀忠を撃てといった。嘘であろう筈はない。そんな嘘をいったって彼に何の得もないことだから。――しかし、鉄砲はおろか古鉄のかけらも出て来ないというのはどうしたわけだろうか。
「…………」
なければないで、又八の不安は去らない。掘りちらした槐のまわりを歩きだした。そして足で土を蹴ちらしてまだ探していた。
――すると誰か、彼のうしろへ歩き寄って来た者がある。今来た様子でなく、意地わるくさっきから物陰で彼のなすことを眺めていたらしかった。又八の背をふいに打って、
「あるものか」
と耳元で笑った。
軽く打たれたのではあるが、又八は背中から五体がしびれて、自分の掘った坑の中へのめりそうになった。
「……?」
振向いて、じっと、しばらく空虚な眼をすえていたが――あっ、とそれから初めて常態の神経に回って、愕きを口から洩らした。
「――お出で」
沢庵は、彼の手を引いた。
「…………」
又八の体は硬直したまま動かなかった。沢庵の手をすら、冷たい爪の先で

「来ないか」
「…………」
「お出でというに?」
きっと沢庵が眼をもって叱るようにいうと、又八は唖のように、
「そ、そこを。……そこの、後を……」
と、縺れた舌でいいながら足の先で土を坑へ落し、自分の行為を埋め隠してしまおうとするらしかった。
沢庵は、あわれむように、
「よせ。むだのことを。人間が地上に描いた諸行は、善業悪業ともに、白紙へ墨を落したように、千載までも消えはしない。――今したことも足の先で、土をかければすぐ消えると――そんな考え方だから、おまえはぞんさいな人生をするのじゃろ。――さ! 来いっ。おまえは大それた罪を犯そうとした大罪人。沢庵が鋸引きにして血の池へ蹴こんでくれる」
動かないので、彼は又八の耳たぶを持って引っ立てて行った。
彼が脱出して来た小屋を沢庵は知っていた。又八の耳たぶを持ちながら、沢庵は小者たちの寝ている所を覗き、
「起きんか。誰か起きんか」
と、戸をたたいた。
小屋仲間は起き出して来て、不審げに沢庵のすがたを見ていたが、いつも秀忠将軍の側について、将軍家とも閣老とも、臆面なくことばを交わしている坊さんかと、やがて腑に落ちた顔つきで、
「へい、何か」
「何かじゃないよ」
「へ……?」
「味噌小屋か漬物小屋かしらないが、そこをお開け」
「その小屋には今、御不審の井戸掘りを押込めてございますが、何ぞお出しになる物でも」
「寝ぼけていてはいけない。その押し込め人は、窓を破って脱出しているではないか。わしが捕まえて来てあげたのだ。虫籠へきりぎりすを入れるような訳には参らぬから、戸をお開けというのだよ」
「あ。そいつが」
小屋仲間は愕いて、泊り番の職方目付を起しに行った。
目付の侍はあわてて出て来て、怠慢のかどを謝りぬいた。閣老などのお耳に入らぬようにと、それも、沢庵へ繰返して頼むのだった。
沢庵はただ頷いてみせ、開けられた小屋の中へ又八を突きとばした。そして自分も共にはいり、中から戸を閉めてしまったので、目付も小屋仲間も、
(どうしたものか?)
と顔を見あわせ、去りも出来ず、外に佇んでいた。
すると沢庵がまた、戸の間から顔だけ出して、
「おぬしらのつかう剃刀があるじゃろう。すまんがよく磨いで、剃刀を一挺、ここへ貸しておくれんか」
と、いう。
何にするのかと疑ったが、この坊さんにそんなことを訊ねていいものか悪いものかの判断もつきかねるのである。ともあれ剃刀を磨いで持って来て渡すと、
「よしよし」
と、それを受取って、沢庵は中から、もう用事はないから寝めという。命じるような言葉であるから、それに反いてはよくあるまいと、目付も小屋仲間も、めいめいの寝小屋へ引き退がった。
中は暗い。
だが、破れた窓から星明りはかすかに射す。沢庵は、薪の束に腰をおろし、又八は莚のうえに首を垂れている。いつまでも無言であった。剃刀は、沢庵の手にあるのか、そこらの上に置いてあるのか、気になりながらも、又八の目には見あたらない。
「又八」
「…………」
「槐の下を掘ったら何が出たか?」
「…………」
「わしなら掘り出してみせる所じゃがのう。だが鉄砲ではないぞ。無から有をだ。空なる夢土から世の中の実相をだ」
「……はい」
「はい、というたところで、おぬしにはその実相も何も分っておるまいが。――まだ夢ごこちに違いない。どうせおぬしは嬰児のようなお人よし。噛んでふくめるように教えてやるほかはあるまいなあ。……これ、おぬしは今年幾歳になる」
「二十八になりました」
「武蔵と同年じゃなあ」
そういわれると又八は、両手を顔にやって、しゅくしゅくと哭き出した。
泣きたいだけ泣かしておけといわぬばかりに、沢庵は黙ってしまった。そして又八の嗚咽がようやくしずまるとまた口を開いた。
「怖ろしいとは思わぬか。槐の木はおろか者の墓標になるところじゃった。おぬしは自分で自分の墓穴を掘っていた。もう首まで突っ込んでいたのだぞよ」
「――たっ、たすけて下さい。沢庵さまっ」
又八は、いきなり沢庵の脛に、しがみついて叫んだ。
「眼、眼が……やっと醒めました。わたしは、奈良井の大蔵に騙されたんです」
「いや、まだほんとに、眼がさめてはおるまい。奈良井の大蔵は、おぬしを騙したわけではない。慾張りで、お人よしで、気が小さくて、そのくせ並の者ではできぬ大胆なこともしかねない、天下一の愚か者を見つけたので、上手にそれを使おうとしたのだ」
「わ、わかりました。自分の馬鹿が」
「いったいおぬしは、あの奈良井の大蔵を、何者と思うて頼まれたか」
「分りません。それは今になっても、分らない謎です」
「あれも関ヶ原の敗北者の一人、石田治部とは刎頸の友だった大谷刑部の家中で、溝口信濃という人間じゃ」
「げっ、では、お尋ね者の残党でしたか」
「さもなくて、秀忠将軍の御寿命を窺うわけはあるまいが。今さら、驚くおぬしの頭脳がわしには分らんのう」
「いえ、わたしにいったのは、ただ徳川家に怨みがある。徳川家の世になるより、豊臣の世になったほうが、万民のためになる。だから自分の怨みばかりでなく、世上のためだというような話で……」
「そういう折、なぜおぬしは、その人間の底の底まで、じっと考えてみないのか。漠と聞いて、漠とのみこんでしまう。そして自分の墓穴でも掘る勇気をふるい出す。怖いのう。おぬしの勇気は」
「ああ、どうしよう」
「どうしようとは」
「沢庵さま」
「離せ。――いくらわしにしがみついてももう間にあわぬ」
「で、でも、まだ将軍様へ、鉄砲を向けたわけではありませんからどうか、助けてください。生れ変って、きっと、きっと……」
「いいや、鉄砲を埋けに来る者に途中で故障が起ったため、間に合わなかったというまでのことだ。大蔵の手にまるめられ、彼奴の怖ろしい策をうけて、あの城太郎が、秩父から無事に江戸へもどっていたら、その夜のうちにも槐の木の下に、鉄砲が埋け込まれてあったかも知れぬのだ」
「え? 城太郎というのは。……もしや」
「いいや、そんなことは、どうでもよい。ともあれおぬしが抱いた大逆の罪科は、法は勿論、神仏もゆるし給わぬところだ。助かろうなどとは考えるなよ」
「では、では、どうしても」
「あたりまえだ」
「お慈悲ですッ」
しがみついて泣き吠える又八を、沢庵は立ち上がりざま蹴放して、
「ばかっ」
と小屋の屋根も吹き飛ぶような大喝を吐いて睨めつけた。
縋れない仏。慚愧しても救いの手を出してくれない恐い仏。
うらめしげに又八はその眼を見ていたが、がくと、観念の首を垂れて、さらにさめざめと死を恐れて泣いた。
沢庵は、薪のうえの剃刀を手に取って、その頭へそっと触れた。
「又八……。どうせ死ぬなら、容相だけでも、釈尊の御弟子になって逝け。せめてもの誼み、引導だけは授けて進ぜる。眼をふさいで、静かに膝をくむがよい。死も生も、その瞼一皮、そう泣くほど恐いものではない筈じゃ。――善童子、善童子。嘆くまい。死によいようにわしがしてやる」
閣老部屋はひとつの密室でもある。ここの政議が洩れないために、幾側にも隔ての間や縁が繞っている。
先頃から、沢庵と北条安房守とは、度々、その席へ加わって、終日、何事か議を凝らしていることが多かった。秀忠の裁可を得るために一同が秀忠の前に出たり、また、奥とそこの間を、状筥の通う数も頻りであった。
「木曾からの使者がもどりました」
と、その日、表から閣老部屋へ報告がはいった。
閣老たちは、
「直かに訊こう」
と、待ちかねていた気ぶりでその使者を、べつな部屋に通した。
使者は信州の松本藩の家来なのである。数日前に閣老部屋から早打が立って、木曾奈良井宿の百草問屋で大蔵というものを召捕れという命が飛んでいた。――で、すぐ手を廻してみたところ、奈良井の大蔵一家は、とうに宿場の老舗をたたんで、上方の方へ引移り、その行き先は知る者がない。
家宅捜索をした結果、町家にあるまじき武器弾薬や、大坂方ととり交わした書状などの始末し残った物が多少あったので、それは後から証拠品として小荷駄に積み、やがて御城中へ齎すことになっているが、取りあえず右のお報らせまでを早馬をもってお答えに参りました――というのであった。
「遅かったか」
閣老たちは、舌打ちした。打った大網に雑魚もかからなかった時の感じとひとつである。
次の日。
これは閣老の中の酒井侯へ、酒井家の臣が、川越から来ての報告である。
「おいいつけに依りまして、即日宮本武蔵なる牢人の身は、秩父の牢舎より放ちました。折から、迎えに見えた夢想権之助なる者に、懇ろに、誤解の由を申して、引渡しましてござります」
このことはすぐ、酒井忠勝から、沢庵の耳に伝えられた。
沢庵は、
「御念入りに」
と、かろく謝した。
自分の領地内のまちがい事なので、忠勝はかえって、
「武蔵とやらにも、悪しゅう思わぬように」
と、詫び返した。
沢庵が胸に持って来たことは、こうして江戸城逗留中に、一つ一つ片がついて行った。極く手近な、芝口の質屋――大蔵が住んでいた奈良井屋の跡にはもちろん町奉行がすぐ行って、家財秘密書類など残らず没収し、何も知らずに留守居をしていた朱実の身は奉行所の手に今、保護されている。
一夜、沢庵は、秀忠の室へ近づいて、秀忠に、
「こうなりました」
と、一切の始末を告げた。
そして、
「天下にはまだ無数の奈良井の大蔵がいることを、夢おわすれあってはなりません」
といった。
秀忠は、うむ、と強くうなずいた。この人にはものが分ると思うので沢庵はなお言葉をついで、
「その無数のものを、いちいち捕えて詮議立ていたしていたら、詮議に暮れて、大御所の跡目をうけて二代将軍たるの御事業は遂になすいとまもございませぬぞ」
秀忠は、そう小心ではない。沢庵の一言は百言に噛みくだいて、自己の反省としているので、
「手軽に、処置しておけ。この度は、御坊の進言に依ること、御坊の処置にまかすであろう」
と、いった。
沢庵は、それについて、親しく礼の旨を述べた。
その後で、
「野僧も、思わず月余を、御府内に逗留いたしましたが、近いうちに錫を巡らし、大和の柳生へ立ち寄って、石舟斎どのを病床に見まい、泉南から大徳寺へもどるつもりにござります」
と、併せて、別れの辞も、いっておいた。
秀忠は、ふと、石舟斎と聞いて、思い出を呼んだらしく、
「柳生の爺は、その後、どんな容態かの」
と、訊ねた。
「このたびは、但馬どのも、おわかれぞと、覚悟のていに伺いました」
「では、むずかしいのか」
秀忠は、幼い頃、相国寺の陣中で、父の家康のそばに坐って謁見した、石舟斎宗厳のすがたと、自分の幼時とを、思い泛かべていた。
「次に」
と、その沈黙の裡から、沢庵がもう一言いった。
「かねて閣老衆にも計り、おゆるしも得ている儀にござりますが、安房どのからも野僧からも、御推挙申し上げておきました宮本武蔵、御師範へお取立てのことも伏してお願い申しておきまする」
「うむ。そのことも聴きおいてある。かねて、細川家でも嘱目いたしていた人物とやら、柳生、小野もあるが、もう一家ぐらいは取立ておいてもよかろう」
これで何もかも、沢庵は用事がすんだ心地だった。間もなく彼は秀忠の前を退がった。秀忠からは、いろいろな心入れの賜物があった。しかし沢庵は、その全部を城下の禅寺へ寄託して、いつもの一杖一笠のすがたで帰った。
けれど、それでもとかく、人の口はさがないものであった。沢庵は政治に嘴を入れるから、あれは野心を抱いているとか、或は、徳川家に籠絡されて、大坂方の情報を時折齎す黒衣の隠密であるとか、いろいろな沙汰が陰ではあった。けれど沢庵自身には、土に働いている庶民の幸不幸はいつも心にあったが、一江戸城や一大坂城の盛衰などは、眼前の花が、開いたり散ったりするほどにしか、観じられていないのである。
ところで、将軍家にまた当分の別辞を述べ、江戸城から出て来る前に、沢庵は、ひとりの男を、弟子として連れて来た。
彼は、秀忠から任せられた権限で、退出する間際の足を、工事場の職方目付の小屋へ向けたのであった。そして、そこの裏手の小屋を開けさせた。
闇の中に、きれいに頭を丸めた若い坊さんが、ぽつねんと俯向いて坐っていた。その法衣はこの間、沢庵がここを訪れた翌日、人に持たして来て与えた物である。
「……あ」
若い今道心は、戸口の光に射られると、眩しげに顔をあげた。それは、本位田又八なのである。
「おいで」
沢庵は、外から手招きした。
「…………」
今道心は、立ち上がったが、脚が腐りかけてしまったように蹌めいた。
沢庵は、その手を、掻い抱いてやった。
「…………」
いよいよ刑罰に処される日が来た――と又八は観念しきった眼をふさいでいた。脚の節はがくがく顫えた。断刀の莚が目のさきにちらついていた。削げた青い頬に、ほろほろと涙がながれた。
「歩けるか」
「…………」
何かいったつもりだが、声は出なかった。沢庵に支えられている腕の上で、又八は力なく頷いたのみであった。
中門を出る、多門を通る、平河門をくぐる。幾つかの門や濠の橋を又八道心はうつつで越えた。
沢庵の後に尾いて悄々と歩く彼の足つきは、屠所の羊という形容をそのまま思わせる姿だった。
――なむあみだぶつ
――なむあみだ、なむあみだ
――なんまいだぶ……
又八道心は、一歩一歩が、死の刑場へ近づいているのだと思って口のうちで唱えていた。
それを唱えていると、死の恐さが少し忘れられて来るからだった。
愈

山の手の屋敷町が見える。日比谷村あたりの畑や河すじの船が見える。下町の人通りが見える。
(ああ、この世だ)
又八は、改めて、そう観じずにいられなかった。そしてもいちど、あの浮世の中へ漂ってみたいと思う執着に、涙がぼろぼろながれて来た。
――なんまいだ
――なんまいだ
彼は眼をふさいだ。唱名の声がだんだん唇を破って大きくなって来た。果ては夢中だった。
沢庵はふり顧って、
「これ、はやく歩け」
濠にそって、沢庵は大手のほうへ繞って行った。そして、原を斜めに横ぎって歩いた。又八は、千里もある心地がしていた。このまま道は地獄に続いているように、昼間も真っ暗な心地がした。
「ここで、待っておれ」
沢庵にいわれて、彼は原の中に佇んだ。原のそばには常盤橋御門からつづいている掘割の水が土の色を溶かして流れていた。
「はい」
「逃げてもだめだぞ」
「…………」
もう半分死んでいるような顔を悲しげに顰めて、又八道心は、うなずいた。
沢庵は原を出て、往来の向うへ渡って行った。すぐ前に、まだ職人が白土を塗りかけている土塀があった。土塀につづいて高い柵があり、柵のうちには、凡の町家や屋敷構えとちがう黒い建物の棟が重なっていた。
「……あ。ここは」
又八道心は慄然とした。新しく建った江戸町奉行所の牢獄と役宅である。沢庵はそのどっちか分らないが一つの門の中へはいって行った。
「……?」
また、急にがくがく慄え出して来た脚は、彼のからだすら支えられなくなって、ぺたんとそれへ坐ってしまった。
どこかで、鶉が啼いている。ホロホロと昼の草むらに啼く鶉の声までが、もう冥途の道の辺のもののように聞えた。
「……今のうちに」
と、彼は逃げようかと考えてみた。自分の身体には、縄も手錠もかけてはない。逃げれば逃げられないこともない気がする。
いや、いや、もうだめだ。この原の鶉のように潜んだところで、将軍家の威令で捜されたら隠れる草の根もあるわけはない。それに頭も剃り、法衣も着せられて、この姿ではどうしようもない。
――お老母っ。
彼は、胸のうちで、絶叫した。今さらながら、母の懐中がなつかしい。母の手から離れさえしなかったら、こんな所で、首を刎ねられる落ち目にはならなかったであろうにとひしと思う。
お甲、朱実、お通、誰、誰、誰と彼が青春の相手に、想ったり狎れ遊んだりした女子の数々も、今、死を前にして、思わぬではなかったが、胸のそこから呼んでいる名は、ただひとつだった。
「お老母っ、お老母っ……」
もう一度生きのびられるものだったら、今度こそはお老母にも叛くまい、どんな孝行でもしてみせる。
又八道心は、誓ってそう思ったが、それもよしない後悔にすぎない。
今にも、飛ぶ首――
襟の寒さに又八道心は雲を見あげた。時雨もようの陽であった。雁が二、三羽、翼の裏を見せてそこらの近い洲へ下りた。
(雁が羨ましい!)
逃げたい気もちがうずうずと体を衝いて来た。そうだ、また捕まっても元々だと思う。彼はすごい眼で往来の向うの門を見た。沢庵はまだ出て来ない――
「今だ」
起ち上がった。
そして、駈け出した。
すると、どこかで、
「こらっ!」
と、呶鳴った者がある。
それだけで又八道心はもう必死の気を折られてしまった。思いがけない所に、棒を持って立っていた男がある。奉行所の刑吏だった。飛んで来るなりいきなり又八道心の肩さきを打ちすえて、
「どこへ逃げる!」
と、棒の先で、蛙の背なかを抑えるように突き立てた。
そこへ沢庵が見えた。沢庵のほかに、奉行所の刑吏が――頭立ったのから小者までぞろぞろ出て来たのである。
その一かたまりが又八の側へ寄って来た頃、さらにまたもう一名の縄付を曳いて四、五名の牢舎臭い人々が現れた。
頭立った役人は、処刑の場所を選定して、そこに二枚の荒莚を敷かせ、
「では、お立会いを」
と、沢庵を促した。
刑の執行人たちは、ぞろぞろと莚のまわりに立ち囲む。主な役人と沢庵には床几が与えられた。
棒の先に抑えつけられていた又八道心は、
「起てっ」
と、どなられて体を擡げた。だが、歩く力はもうなかった。それを焦れったがって刑吏は、彼の法衣の襟がみをつかんでずるずる莚の上まで引き摺って来た。
新しい素莚のうえに、又八道心は寒々した首を垂れた。もう鶉の啼き声も耳になかった。ただまわりの人々ががやがやいっているのを、壁を隔てて聞くように、遠い気持で意識するだけだった。
「……あ。又八さん?」
その時、誰か側でいった。又八はぎょろりと横を見た。――見ると自分と並んで荒莚の上にひき据えられている女の囚人がある。
「ヤッ。……ああ朱実じゃないか」
いった途端に、
「口をきいてはならん」
と、二人の刑吏が間にはいって長い麺棒みたいな樫の棒で、男女を隔てた。
沢庵のそばにいた頭立った役人は、その時、床几から立って、何か厳かな口調で、ふたりの罪状をいい渡した。
朱実は泣いていなかったが、又八は人前もなく涙をこぼした。で役人からいい渡された罪状もよく耳には通らないのであった。
「打てっ」
床几へつくと、すぐその役人は厳しい声でいった。すると、先刻から割竹を持って後ろに屈んでいた二人の小者が、躍り出して、
「一イっ、二ウ……。三イ!」
数えながら又八と朱実の背を撲り出した。又八は、悲鳴をあげた。朱実はまっ蒼な顔を俯伏せたまま、歯の根で怺えている容子だった。
「七ア! 八ア! 九ツ!」
割竹は割れて、竹の先から煙が立つように見えた。
原の外の往来に、ぼつぼつ人が立ち止まって、遠くから眺めていた。
「なんでしょう」
「お処刑さ」
「ア。百叩きですか」
「痛いだろうな」
「痛いでしょうね」
「まだ百には、半分もあるよ」
「勘定していたんですか」
「……ア。もう悲鳴も揚げなくなってしまった」
棒をかかえて、刑吏がやって来た。その棒で草を叩いて、
「立っちゃいかんっ」
往来の者は、歩き出した。振顧ってみると、百叩きも終ったらしく、撲り役の小者は、ささらのようになった割竹を抛りだして、肱で汗をこすっていた。
「ご苦労でござった」
「御大儀で」
沢庵と、主なる役人とは、正しく礼儀を交わし合って、立ち別れた。
役人小者たちは、どやどやと奉行所の門内にはいり、沢庵はなおしばらく、男女の俯伏している莚のそばに佇んでいたが、黙然と――何もいわずに、原をよぎって、彼方へ行ってしまった。
「…………」
「…………」
時雨雲の裂け目から、うすい陽が草にこぼれた。
人が去ると、鶉がまた啼く。
「…………」
「…………」
朱実も、又八道心も、いつまでもじっとうごかなかった。けれどまったく気絶してしまったわけではない。体じゅうは火みたいに痛んでいるし、また、天地に恥かしくて顔が上がらないのであった。
「……オ。水が」
朱実が先に呟いた。
自分たちの莚の前に、小さい手桶に竹柄杓が添えてある。この手桶は、笞で打ちすえる奉行所にも、一掬の情けはあるのだぞというように、無言の相を持ってそこにあった。
がぶっ……
かぶりつくように朱実は先にそれをのんだ。又八へすすめたのはその後からであった。
「……飲みませんか」
又八道心は、やっと手を伸ばした。ごくごくと水が喉を通ってゆく――。役人もいない、沢庵もいない、彼はまだわれに返りきらない面持だった。
「又八さん……おまえ坊さんになったのかえ」
「……いいのかしら?」
「何が」
「お処刑はこれでいいんだろうか。わたしたちはまだ斬られていない」
「首なんか斬られてたまるものかね。床几に掛けたお役人が、ふたりへ言い渡したじゃないか」
「何といって?」
「江戸表から追放を申しつけると。冥途へ追放でなくってよかったね」
「あっ。……じゃあ生命は」
頓狂な声を出した。よほど欣しかったにちがいない。又八道心は起って歩き出した。朱実のほうを見もしなかった。
朱実は、手を髪へやって、乱れ毛を掻きあげていた。襟を直し、帯をしめ直した。そうしている間に、又八道心の姿はもう草の彼方に小さくなっていた。
「……意気地なし」
彼女は唇を曲げてつぶやいた。割竹の傷みが疼くたびに、彼女はよけい世の中に強くなろうとした。その底には、数奇な運命にねじけて来た性格が、ようやく年を経て、妖冶な花をもちかけていた。
もうこの屋敷へ預けられてから数日。
伊織は、悪戯に飽きた。
「沢庵さんはどうしたのだろ?」
そう訊ねる彼のことばの裏には、沢庵の帰りよりは、師の武蔵を案じる憂いがこもっていた。
北条新蔵は、その気持を、いじらしく思って、
「父上もまだお退城りにならぬから、ずっと、御城内にお泊りとみえる。――そのうちにお帰りはきまっておるから、また、厩の馬とでも遊んでいるがよい」
「じゃあ、あの馬、借りてもいい?」
「いいとも」
伊織は、厩へ飛んで行った。彼は、良い馬を選んで引っぱり出す。きのうも、おとといも、その馬には乗っていたが、新蔵には黙って乗って行ったのである。――けれど今日は許されたので大威張りであった。
馬に跨がると、伊織は疾風みたいに裏門から駈け出した。きのうもおとといも、彼の行く先はきまっていた。
屋敷町――畑道――丘――田や野や森や、晩秋の風物が見るまに駒のうしろになって行く。――そしてやがて、銀いろに光る武蔵野の薄の海が眼の前に展がってくる。
伊織は駒を立てて、
「あの山の彼方に――」
と、師のすがたを思う。
秩父の連峰が、野の果てに横たわっていた。牢舎の中に囚われている師の身を思うと、伊織の頬は濡れてくる。
涙の頬を、野の風が冷たく撫でる。秋の更けたことは、あたりの草陰に真っ赤な烏瓜だの草紅葉をみても知れる――。やがて、山の彼方は、霜にもなろうに――と考えられたりする。
「そうだ! 会って来よう」
伊織は、思うとすぐ、馬のしりへ鞭を加えた。
駒は、尾花の波を跳んで、またたくまに半里も駈けた。
「いや、待てよ。ひょっとしたら草庵にお帰りになってるかもしれないぞ」
その日に限って、何となくそんな気がしたのである。伊織は、草庵へ行ってみた。屋根も壁も、壊れた所はみな繕っていた。けれど中に住む人はなかった。
「おいらの先生を知らないかあっ……」
刈入れをしている田の人影へどなってみた。附近の百姓たちは皆、彼のすがたを見ると、悲しげに首を振った。
「馬なら一日で行けるだろう」
どうしても彼は、秩父までの遠乗りを決心しなければならなかった。行きさえすれば、武蔵に会えると思い、一途にまた、野を駈け飛ばした。
いつぞや城太郎に追いつめられて覚えのある野火止の立場まで来た。ところが部落の入口には、乗馬や荷駄や、長持や駕籠でいっぱいだった。道を塞いで四、五十名の侍が、昼食をしている様子なのである。
「ア。通れないや」
往来止めではないが、通るには鞍から下りて、駒を曳かなければならないのである。伊織は、面倒と思って道を引っ返した。道に不便はない武蔵野の原であるし――
すると、飯を喰べかけていた仲間どもが、彼の駒を追いかけて来て、
「オイ、どん栗坊主。待て」
と、呼んだ。
三、四名つづいて駈け寄って来るのであった。伊織は、駒の首をめぐらして、
「なんだと?」
と、怒ってみせた。
なりは小粒であるが、乗っている駒も鞍も、堂々たるものだった。
「降りろ」
仲間どもは、鞍の両側へ寄って来て、伊織を見あげた。
伊織は、何のわけか分らなかったが、仲間どもの小面が癪にさわって、
「何さ。何も、降りなくたっていいだろう。――後へ戻るとこだもの」
「何でもいいから降りろ。つべこべいわずと」
「嫌だっ」
「いやだと」
いうより早く、ひとりの仲間が、彼の足を抄いあげた。鐙に足の届いていない伊織の体は、苦もなく、馬の向う側へ転げ落ちた。
「御用のあるお方があちらで待っているのだ。ベソを掻かずに、早う来いっ」
襟がみをつかまれて、立場の方へずるずる引戻されて行った。――と、彼方から杖を立てて歩いて来た老婆がある。手をあげて、仲間どもを制しながら、
「ホホホホ。捕まったの」
と快げに笑った。
「あ」
伊織は、真向きに、老婆のまえに立った。いつぞや北条家の邸内へ来た時、柘榴の実をぶつけてやったおばばではないか。見たところ、その折とは違って、旅装いも改まっているのだ。こんな沢山な侍たちの中に交じって、一体どこへ行く所なのだろうか。
いや、そんなことは、伊織に考えている遑はない。彼はただ、ぎょっとして、ばばが自分をどうする気かと恐れていた。
「童よ。おぬし、伊織とかいうたの。――いつぞやはこの婆に、ようも酷しいまねをしやったな」
「…………」
「これ」
杖の先で、ばばは、彼の肩をとんと突いた。伊織は戦闘的に身を直したが、部落の中にはいっぱいな侍がいる。それが皆このばばの味方になったら敵うはずはないと思って、眼に涙をたたえて怺えていた。
「武蔵は、よい弟子ばかり持つことわいな。おぬしも、その一人かよ。ホホホホホ」
「な、なんだと……」
「よいわ。武蔵のことは、このあいだ北条どのの息子にも、口の酢くなるほどいうたあげくじゃ」
「お、おいらは、おまえなんかに用はないや。帰るんだ。帰るんだっ」
「いいや、まだ用はすまぬ。――いったい今日は、誰の言附でわし達の後を尾行て来やったか」
「だれが、てめえなどの、後に尾いてくるものか」
「口ぎたない餓鬼よ、汝れの師匠は、そういう行儀を教えてか」
「よけいなお世話だい」
「その口から、泣きほざかぬがよいぞ、さあ来やい」
「ど、どこへさ」
「どこへでもよい」
「帰るんだ、おらあ、帰るっ」
「誰が――」
と、ばばの杖は咄嗟、風を呼んでいきなり伊織の脛を蹴った。
伊織は思わず、
「痛いっ」
と、いって坐った。
ばばの眼くばせのもとに、仲間たちは、ふたたび伊織の襟がみを持って、部落の入口の粉挽小屋の横へ連れこんだ。
そこにいたのは、正しくどこかの藩士に違いない。野袴を穿いて、見事な大小をさし、乗換馬を傍らの木につないで、今、弁当を食べ終えたらしく、小者の汲んで来た白湯を木陰で飲んでいた。
捕まって来た伊織を見ると、その侍はにやりと笑った。気味のわるい人である。伊織は竦んで眼をみはった。――佐々木小次郎であったからである。
その小次郎へ、おばばは、得意そうに、
「見なされ、やはり伊織めであったがな。武蔵奴が、なんぞ肚に一物あって、わしらが後を尾けさせたに違いはない」
と、顎つき出して告げた。
「……ウむ」
小次郎も、そう考えているように、頷き合った。そして、周りにいる仲間たちを、ようやく退けた。
「逃げるといかぬ。逃げぬように、小次郎どの、縛っておきなされ」
小次郎はまた、薄笑いをうかべて、顔を横に振った。――その笑い顔の前では、逃げることはおろか、起つこともできないと、伊織はあきらめていた。
「小僧」
小次郎は、当りまえな言葉で話しかけた。
「――今、ばば殿が、ああいうたが、その通りか。それに違いないか」
「ううん、ち、ちがう」
「どう違う?」
「おらはただ、馬に乗って、野駆けに来たんだ。――後なんか尾けに来たんじゃないや」
「そうだろう」
と、小次郎は一応、得心して見せたが、
「武蔵も武士の端くれならば、よもそのような卑劣はすまい。……だが、突然わしとばば殿とが、打揃うて、細川家の家士のうちに交じり、旅立つのを知ったとしたら、さだめし、何事かと武蔵も不審を起して……解けぬ疑いから……後を尾けさせてみとうなるのも人情だ。むりはない」
と、独りぎめして、伊織のいいわけなど、耳に入れない。
伊織もまた、そういわれてから初めて、彼やおばばの境遇に、改めて不審を持った。二人の身に、何か最近、変ったことが起ったに違いない。
なぜならば、小次郎の特徴であった髪や服装も、前とは、人違いするほど変っていて、あの前髪も刈り込み、これ見よがしな派手な伊達羽織も、地味な蝙蝠羽織と野袴とに変っているのである。
ただ、変らないのは、愛刀物干竿だけで、これは太刀作りを、ふつうの拵えに直して横に手挟んでいた。
ばばも旅支度だし、小次郎も旅拵えなのだ。そしてこの野火止の立場には、細川家の重臣岩間角兵衛以下、十名ぐらいな藩士とその家来や荷駄の者が今、昼食の休息を取っているのである。そういう道中の群れのうちに小次郎が、やはり一箇の藩士としているところを見ると、彼が前から志していた仕官の宿望が遂にかなって――望みの千石とはゆかないまでも――四百石とか五百石とか相応のところで折れ合い、推挙した岩間角兵衛の顔も立てて、細川家に召抱えられたものと推定しても過りはないであろう。
そう考えてくると、細川忠利もまた、近く豊前の小倉に帰国の噂がある。三斎公が老年なので、忠利の帰国願いは、かなり前から幕府へ提出されていた。その許しが出たことは、いいかえれば、幕府が細川家を二心なきものと見極めた信頼の証拠であるとも、一般から思われていた。
岩間角兵衛だの、新参の小次郎だのの一行は、その先発として、本国豊前の小倉へ向う途中であった。
同時にまた、おばばの身にも、どうしても一度、郷里に帰らなければならない事情が起っていた。
跡取りの又八は家出し、大黒柱ともいうべき彼女は、ここ幾年も帰ったことはなく、親類中でも頼りとする河原の権叔父までが、旅先で落命しているので、郷里にある本位田家にも、その間、いろいろな問題が溜っているには違いないのである。
で、おばばは、なお武蔵にもお通にも依然として他日の報復は期しているが、小次郎が豊前小倉まで下るのをよい道連れと頼んで、途中、大坂表に預けてある権叔父の遺骨を受け取り、郷里の宿題をひと片づけつけて、かたがた、年久しく怠っていた祖先の年忌やら、権叔父忌も一度やって、ふたたび目的の旅へ出直そうと決めたわけであった。
――だが、このばばのことであるから、武蔵に対しては、一時でもただ見遁しては去らなかった。
小野家から小次郎に洩れ、小次郎から彼女の耳へはいった噂によると、武蔵は近く、北条安房や沢庵の推挙によって、柳生、小野の二家に加わって、将軍家師範の一員となるということだった。
それを小次郎から聞かされた時の、ばばの不快そうな顔色といったらなかった。そうなっては将来、手出しのし難いものになるしまた、彼女の信念を訴えても、これを阻むのは将軍家のためであり、そういう人間の出世を覆してやるのは、世道の見せしめであると思った。
で、彼女は、沢庵にだけは会えなかったが、北条安房守の玄関に立ったり、柳生家へわざわざ出向いたりして、極力、武蔵が取立てられることの非を鳴らした。推薦者の二家ばかりでなく、手蔓のある限り、閣老たちの屋敷へも行った。そして武蔵の讒訴をあの調子で撒いて歩いたのである。
もちろん小次郎は、それを止めもしないしまた、煽動もしなかった。――けれど、おばばが一たんそういう目的に躍起を賭けると、貫かねば熄まなかった。町奉行や評定所へも、年来の武蔵の生立ちや行状など悪しざまに書いて、それを投げ文にして抛りこんだくらいである。小次郎すら、余りいい気持がしないほど、その妨害運動は徹底していた。
(――わしが小倉へ参っても、いつか一度は、武蔵とまみえる日がきっと来る。また、いろいろな関係が、宿命的にもそうなっている気がする。ここはしばらくほっておいて彼が出世の階を踏み外した後――どう落ちて来るか、見ていたがよいだろう)
小次郎からも、今度の小倉下向に、行を共にするようにすすめた訳であった。ばばの心にはまだ又八への未練もあったが、
(あれも、今に眼がさめて、後を追うて来るじゃろう)
と、武蔵野の秋も暮れるこの頃を――一先ずすべての迷妄から離れて、ここまで旅立って来たところだった。
だが。
そういう二人の一身上の変化などは、もとより伊織の知るところでもなし、いくら考えても、分ることではなかった。
逃げるにも逃げられないし、涙など見せては、師の恥になると思って彼は、恐ろしい中にも、じっと我慢して、小次郎の面を見つめていた。
小次郎も意識的に、その眼をにらみつけた。だが伊織は眼を反らさないのである。いつか、草庵で独り留守していた折、むささびと睨めくらをしたように、鼻腔でかすかな息をしながら、飽くまで小次郎の面を正視していた。
どんな目に遭わされるかと思っているらしい伊織の戦慄は、子ども心の憂いに過ぎなかった。
小次郎には、おばばのように、子どもと対等になる気など毛頭ない、まして今日の彼には地位もできていた。
「ばば殿」
と、ふと呼ぶ。
「おいの。なんじゃ」
「矢立をお持ちか」
「矢立はあるが、墨つぼが乾いておる。なんぞ筆が要用かの」
「武蔵へ、手紙を認めようと思って」
「武蔵へと」
「されば。辻々へ札を立てても、いっかと姿を見せぬし、また、住居もとんと知れぬ武蔵へ――折からこの伊織は、打ってつけな使いではあるまいか。江戸を去るにあたって、一書、彼の手に届けておくのだ」
「何と書きなさる?」
「文飾などはいらぬ。また、わしが豊前へ下ることも、人伝てに聞きおろう。要は、腕をみがいて汝も豊前へ下れというまでのことだ。生涯でもこちらは待つ。自信を得た日に来れ、というだけで意志は届こう」
「そのような……」
と、ばばは手を振って、
「――気の永いことは困る。作州の家へ帰っても、わしはまたすぐ旅に出るつもりじゃ。そしてこの両三年がうちには、きっと武蔵を討たねばならぬ」
「わしにまかせておけ。おばばの望みも、わしと武蔵との事の序に仕果して進ぜるからそれでよかろう」
「じゃが、なんせい、老る年齢じゃ。生きているうちに、間に合わねば……」
「養生をなされ。長生きをして、わしが畢生の剣を持って、武蔵に誅を加える日を見るように」
受取った矢立を持って、小次郎は近くの流れに手を浸し、指のしずくを墨つぼにたらしていた。
佇ったまま、懐紙にさらさらと筆を走らせる。彼の文字は流達で、文辞には才気があった。
「これに飯粒が」
と、ばばは弁当殻のそれを木の葉の上に付けて出した。小次郎は封をして、表に宛名、裏に、
細川家家中佐々木巌流
と、書いた。「小僧」
「…………」
「恐がらないでもよい。これを持って帰れ。そして中には大事な用向きが書いてあるから、きっと、師の武蔵へ手渡すのだぞ」
「……?」
伊織は、持って行ったものか、きっぱり断ったほうがいいものか、考えているふうだったが、
「……うん」
頷いて、小次郎の手から、それを引ッ奪くった。
そして、屹と、立ち上がって、
「こん中に、何と書いてあるんだい、おじさん」
「今、おばばへ話したような意味だ」
「見てもいいかい」
「封を切ってはならん」
「でも、もしか先生に無礼なことでも書いてある手紙なら、おいらは、持って行かないぜ」
「安心せい。無礼なことばなどは書いてない。かつての約束は忘れておるまいなということと、たとえ豊前に下るとも、必ず再会の日を期しておるということが書いてあるだけだ」
「再会というのは、おじさんと先生と、会うことかい」
「そうだ、生死の境に」
と、うなずく小次郎の頬に、薄っすらと血が冴えた。
「きっと届けるよ」
伊織は、手紙を、懐中へしまいこんだ。
そしてすばやく、
「あばよ!」
おばばと小次郎の間から六、七間も跳び離れて、
「ばかっ」
と、いい放った。
「な、なんじゃと」
ばばは、追おうとした。
だが、小次郎が手を抑えて離さなかったのである。小次郎は苦笑して、
「いわしておけ。子どものことだ……」
伊織は、もっと何か、胸につかえていたものをいおうとして、踏み止まったのであるが、眼は口惜し涙にかすんで、急に唇もうごかないのであった。
「なんだ小僧。――ばかといったようだが、それきりか」
「そ、それきりだいッ」
「あはははは。おかしな奴だ。はやく行け」
「大きなお世話だよ。見ていろ、きっと、この手紙は、先生に渡してやるから」
「おお届けるのだ」
「後で後悔するんだろ。おまえたちが、歯ぎしりしたって、先生が、負けるものか」
「武蔵に似て、負けない口をきく小僧弟子だ。だが、涙をためて、師の肩持ちをするところは可憐しい。武蔵が死んだら、わしを頼って来い、庭掃きにつかってやる」
揶揄ったのである。しかし伊織は骨の髄まで恥辱を覚えた。いきなり足もとの石を拾って、投げつけようとしたのである。その手を、無自覚に振りあげたせつな、
「餓鬼っ」
小次郎の眼が、はったと、自分のほうを見た。見たというよりは、眼の球がとびかかって来たような衝動だった。いつかの晩のむささびの眼などまだまだ弱いくらいだった。
「…………」
敢なく石を横へ捨てて、伊織は無性に逃げ出していた。いくら逃げても逃げても恐さが振り捨てられなかった。
「…………」
武蔵野のまん中に、彼は息をきって坐りこんでいた。
二刻もそうしていた。
そのあいだに、伊織はおぼろげながら、わが師と頼む人の境遇を、初めて考えてみたのだった。敵の多い人だということが子供ごころにも分った。
(おいらも偉くなろう)
いつまで、師の身を無事に、そして永く師を奉じるためには、自分も一緒に偉くなって、師を護る力をはやく持たなければならないと思った。
「……偉くなれるかしら、おいらなんか」
正直に、彼は、自分を考えてみる。さっきの小次郎の眼光が思い出されてまた、ぞっと身の毛がよだったのである。
ひょっとしたら、自分の先生でも、あの人には敵わないのじゃないかしら? ――そんな不安さえ抱きはじめた。そしたら、もっと自分の先生も勉強しなければ――と彼らしい取越し苦労を持った。
「…………」
草の中に、膝をかかえているまに、野火止の宿も、秩父の連峰も、白い夕霧につつまれている。
そうだ。新蔵様は心配するかも知れないが、秩父まで行ってしまおう。牢舎にいる先生にこの手紙を届けよう。陽は暮れても、あの正丸峠を越えさえすれば――。
伊織は立って、野を見まわした。俄に、捨てた馬を思い出したのである。
「どこへ行ったろ? おいらの馬は?」
北条家の厩から曳き出して来た駒である。螺鈿の鞍がついている。野盗が見つけたら見逃しっこない逸物なのだ。――伊織は捜しあぐねた果て、口笛をふきならして、しばらく草枯れの野末を見まわしていた。
水か霧か、うすい煙のようなものが、草の間を、低くうごいてゆく。――そこらに、駒の跫音がするような気がして駈けて行けば、駒の影もなく、水の流れもない。
「おや? 彼方に」
と、何やら黒いものの動くのを見て、また駈けてゆくと、それは餌を拾っていた野猪だった。
野猪は、伊織のそばをかすめて、萩むらの中へ、旋風みたいに逃げ去った。――振向くと、猪の通った後には、幻術師の杖が線を引いたように、漠として一すじの夜霧が白く地を這っている――
「……?」
だが、霧かと眺めているうちに、霧はせんかんと水音を立て、やがて、小川のせせらぎの上に鮮やかな月の影を浮かべてくる。
「…………」
伊織は怖くなって来た。彼は幼時からいろいろな野の神秘を知っている。胡麻粒ほどな天道虫にでも、神の意志があると信じている。うごく枯葉も、呼ぶ水も、追う風も、伊織の眼には、無心なものである物は一つもなかった。そうして有情の天地に触れると、彼の幼い心も、行く秋の草や虫や水と共に蕭々とうら寂しい顫えを鳴り立ててくる。
彼はふいに、大きく声をしゃくって、泣きはじめた。
馬が見つからないので、泣きたくなったわけでもない、急に父母のない身が悲しくなったとも見えない。肱を曲げて顔に当て、その顔と肩をしゃくっては、歩き歩き泣いて行くのである。
こういう時、少年の涙は、彼自身にも甘かった。
人間以外の、星か、野の精が、もし彼に向って、
――何で泣くか。
と訊ねたら、彼は泣きやみもせずいうにちがいない。
――わからないや。分ることなら泣きなんかしないや。
それをもっと宥めすかして問いつめれば、彼は遂にこういうだろう。
――おいらは、曠い野に出るとふいに泣きたくなることがよくあるんだ。そしていつも法典ヶ原の一軒家がそこらにあるような気がしてならないんだよ。
独り泣く病のある少年には、独り泣くたましいの楽しみが同時にあった。泣いて泣いて泣きぬいていると、天地があわれと労り慰めてくれるのである。そして涙が乾きかけてくると、雲の中を出たように心が晴々と冴え返ってくる。
「伊織。伊織ではないか」
「おお、伊織だ」
彼のうしろで突然そういう人声がした。伊織は泣き腫らした眼のまま道を振り向いた。ふたりの人影が夜空に濃く見えた。ひとりは馬の上なので、連れの者よりずっと姿が高く見えた。
「――ア。先生」
伊織は馬上の人の足元まで、のめるように駈け転んで行き、そしてもう一度、
「先生っ。先……先生」
あぶみへ、しがみつきながら叫んだのであった。――だがふと、夢ではないかと疑うような眼をして、武蔵の顔を見上げ――また、馬のわきに杖をついて立っている夢想権之助の姿を見まわした。
「どうした?」
と、馬上から見おろしていう武蔵の顔は、月のせいか、いたく窶れて見える。だがその声は、彼がこの日頃、心に渇きぬいていた師のやさしい声に間違いなかった。
「――こんな所を、どうして独りで歩いていたのだい」
それは次にいった権之助のことばである。権之助の手は、すぐ伊織の頭の上へ来て、自分の胸へかかえ寄せた。
もし前に泣いていなかったら、伊織はここで泣いたかも知れなかったが、彼の頬は月にてらてら乾いていた。
「先生のいる秩父へ行こうと思って……」
いいかけてふと、伊織は、武蔵の乗っている駒の鞍や毛並を見つめ、
「オヤ。この馬は……おいらの乗って来た馬だ」
権之助は、笑って、
「おまえのか」
「ああ」
「誰のか知らぬが、入間川の近くに、うろついていたので、お体のつかれている武蔵様へ、天の与えと、拾っておすすめ申したのだ」
「アア、野の神さまが、先生の迎えに、わざとそっちへ逃がしたんだね」
「だが、おまえの馬というのもおかしいではないか。この鞍は、千石以上の侍のものだが」
「北条様の厩の馬だもの」
武蔵は降りて、
「伊織、ではそちは今日まで、安房どののおやしきにお世話になっていたのか」
「はい。沢庵さまに連れられて――沢庵さまがいろといったんです」
「草庵はどうなっている」
「村の人たちがすっかり繕してくれました」
「では、これから戻っても、雨露だけはしのげるな」
「……先生」
「うむ。なんじゃな」
「瘠せた……どうしてそんなに瘠せたんですか」
「牢舎の中で、坐禅をしていたからの」
「その牢舎を、どうして出て来たんですか」
「後で、権之助から、ゆるゆる聞くがよい。ひと口にいえば、天の御加護があったか、遽かにきのう無罪をいい渡されて、秩父の獄舎から放されたのじゃ」
権之助が、すぐいい足した。
「伊織、もう心配すな。きのう川越の酒井家から、急使が来て、平あやまりに謝り、むじつのお疑いが晴れたわけだ」
「じゃあきっと、沢庵さまが、将軍様に頼んだのかも知れないよ。沢庵さまはお城へ上がったきり、まだ北条様のおやしきへ帰らないから」
伊織は遽かにお喋舌りになった。
それから、城太郎と出会ったことや、その城太郎が、実の父の薦僧と落ちて行ったことや、また、北条家の玄関さきへ、度々お杉ばばが訪れて、悪たいを並べたことなどを――歩き歩き話しつづけていたが、そのおばばで思い出したらしく、
「あ。それからね、先生、まだたいへんなことがあるよ」
と、懐中を掻い探って、佐々木小次郎の手紙を取り出した。
「なに、小次郎からの書状? ……」
仇と呼び合う者とはいえ、絶えたる者はなつかしい。まして、互いに砥石となって研き合っている仇である。
武蔵はむしろ、心待ちしていた消息でも手にしたように、
「どこで会ったか」
と、その宛名書を見ながら伊織に訊ねた。
「野火止の宿で」
と、伊織は答え、
「――あの、恐いおばばも、一緒にいましたよ」
「おばばとは、本位田家のあの年よりか」
「豊前へ行くんだって」
「ほ……?」
「細川家のお侍たちと一緒でね……詳しいことはその中に書いてあるでしょう。――先生も、油断しちゃだめですよ。しっかりして下さい」
武蔵は書面を懐中に仕舞う。そして伊織に黙って頷いてやる。だが、伊織はそれに安んぜず、
「小次郎って人も、強いんでしょ。先生は何か怨みをうけているの? ……」
と、それからそれへと問わず語りに、きょうの始末を、喋舌りつづけた。
やがて何十日ぶりで、草庵にたどり着いた。早速に欲しいのが、火と食物。――夜は更けていたが、権之助が薪や水をあつめる間に、伊織は、村の百姓家へ走ってゆく。
火ができる。炉を囲む。
あかあかと燃える一炉をかこんで、久しぶりに互いの無事を見合う楽しさは、波瀾に揉まれてみなければ汲めない人生の悦楽だった。
「あら?」
伊織は、袖口にかくれている師の腕だの、襟元などに、まだ傷口の割れている痣が幾つもあるのを見つけて、
「先生、どうしたんです。身体じゅうに……そんなに」
傷々しげに、眉をしかめて、武蔵の肌の奥を覗こうとすると、
「何でもない」
武蔵は、話を反らして、
「馬にも、何かやったか」
「ええ、飼糧をやりました」
「あの駒を、明日は北条どののお邸へ、かえして来なければいけないぞ」
「はい。夜が明けたら、行って参ります」
伊織は寝坊しなかった。赤城下の邸で、新蔵が心配しているに違いないと、翌る朝は、真っ先に起きて戸外へとび出した。
そして、朝飯前に一鞭と――駒の背にまたがるなり駈け出すと、ちょうど武蔵野の真東から、のっと大きな日輪が草の海を離れかけていた。
「ああ!」
伊織は、駒を止めて、驚きの眼をすえていたが、急に駒を返して、草庵の外から、
「先生、先生。早く起きてごらんなさい。いつかみたいな――秩父の峰から拝んだ時みたいな――それはそれは大きなお陽さまが、きょうは、草の中から、地面を転がって来るように昇っていますよ。権之助さんも、起きて来て拝んだがいいよ」
「おう」
と、武蔵がどこかでいう。武蔵はもう起きて、小鳥の声の中をあるいていた。行って来ます、と元気よく駈けてゆく馬蹄の音に、武蔵が森から出て、眩ゆい草の海を見送っていると、伊織の影は、一羽の鴉が、太陽の火焔の真っただ中へ翔け入って行くように、またたく間に、小さくなり、黒い点になり、やがて燃えきって溶けてしまった。
一夜ごとに落葉がたまる。邸内を掃き、門を開け、落葉の山に火をつけて、門番が朝飯を食べているころ、北条新蔵は、朝の素読と、家臣相手の撃剣の稽古をおえ、汗の体を井戸端で拭いて、ついでに厩の馬たちの機嫌を覗きに来る。
「仲間」
「へい」
「栗毛はゆうべ帰らなかったな」
「馬よりは、あの子はいったい、何処へ行っちまったんでしょう」
「伊織か」
「いくら子供は風の子だって、まさか夜どおし、駆け歩いているわけでもないでしょうに」
「心配はない。あれは、風の子というよりは、野の子だからな。ときどき、野原へ出てみたくなるに違いない」
門番の爺がそこへ走って来て、彼に告げた。
「若旦那さま。お友達の方が大勢して、あれへお越しなさいましたが」
「友達が」
新蔵は歩き出して、玄関前にかたまっている五、六名の青年たちへ声をかけた。
「やあ」
すると、青年たちも、
「ようっ」
と朝寒顔を揃えて、彼の方へ近づいて来ながら、
「しばらく」
「お揃いで」
「ご健勝か」
「この通りだ」
「お怪我をなされたとうわさに聞いていたが」
「何。さしたるほどではない。――早朝から諸兄おそろいで、何事か御用でも」
「む、ちと」
五、六名は顔を見合わせた。この青年たちは皆、旗本の子弟とか、儒官の子息とか、それぞれ然るべき家の子であった。
また先頃までは、小幡勘兵衛の軍学所の生徒でもあったから、そこの教頭だった新蔵からすれば軍学のおとうと弟子にあたる者達である。
「あれへ行こうか」
新蔵は、平庭の一隅に燃えている落葉の山を指さした。その焚火を囲み合って、
「寒くなると、まだここの傷口が痛んでな……」
と頸首へ手を当てた。
新蔵のその刀傷を、青年たちはこもごも覗いて、
「相手はやはり、佐々木小次郎と聞きましたが」
「そうだ」
新蔵は、目にいぶる煙に、顔を反向けて、沈黙していた。
「きょうご相談に参ったのは、その佐々木小次郎についてでござるが……。亡師勘兵衛先生の御子息、余五郎どのを討ったのも、小次郎の仕業と、やっと昨日、知れましたぞ」
「多分……とは思っていたが、何か、証拠があがりましたか」
「余五郎どのの死骸が発見されたのは、例の芝伊皿子の寺の裏山でした。あれから吾々が、手を分けて詮議してみると、伊皿子坂の上には、細川家の重臣で岩間角兵衛という者が住まっており、その角兵衛の宅の離室に、佐々木小次郎が起居していたことが知れたのです」
「……ム。では余五郎どのは、単身でその小次郎の所へ」
「返り討ちにおなりなされたのです。死骸として、裏山の崖から発見された前日の夕方、花屋のおやじが、それらしいお姿を、附近で見かけたということで……かたがた、小次郎が手にかけて、崖へ死骸を蹴込んでおいたことは、もはや疑う余地もございません」
「…………」
話はそこで断れて、幾人もの若い眸は、断絶した師家の怨みを、落葉の煙の中に悲痛に見つめ合っていた。
「で? ……」
新蔵は火にほてった顔を上げ、
「それがしに相談とは」
青年の一人が、
「師家の今後です。それと、小次郎に対するわれわれの覚悟のほどを」
他の者がまた、
「あなたを中心に決めておきたいというわけで」
と、いい足した。
新蔵は考えこんでしまう。――青年たちは、なお口をきわめて、
「お聞き及びかも知れぬが、佐々木小次郎は、折も折、細川忠利公に抱えられ、すでに藩地へ向け旅立ったということだ。――遂に、吾々の師は憤死せられ、御子息は返り討ちにあい、しかも同門の多数も彼に蹂躙されたまま、彼が栄達の晴れの退府を、空しく見ていなければならないのか……」
「新蔵どの、残念ではないか。小幡門下として、このままでは」
誰かが、煙に咽せる。落葉の火から白い灰が舞う。
新蔵は依然、黙りこくっていたが――果てしない同門たちの悲憤の遣り取りに、
「何せい拙者は、小次郎から受けた刀の傷痕が、この寒さに、まだしんしんと痛んでおる身。いわば恥多き敗者の一名だ。……さし当って、策もないが、各

「細川家へ談じ込もうと思うのです」
「何と」
「逐一、経緯を述べて、小次郎の身がらを吾々の手に渡してもらいたいと」
「受け取って、どう召さる」
「亡師と御子息の墓前に、彼奴の首を手向けます」
「縄付で下さればよいが、細川家でもそうはいたすまい。われわれの手で討てる相手なら、今日までにも疾うに討てている。――また、細川家としても、武芸に長けたところを買って召抱えた佐々木小次郎。各

「さすれば、やむを得ぬ。最後の手段をとるばかりだ」
「まだほかに手段があるのですか」
「岩間角兵衛や小次郎の一行が立ったのはつい昨日のこと。追いかければ道中で行き着く。貴公を先頭にして、ここにいる六名、そのほか小幡門下の義心ある者を糾合して……」
「旅先で討つといわれるのか」
「そうです。新蔵どの、あなたも起ってください」
「わしは嫌だ」
「嫌だと」
「嫌だ」
「な、なぜです。聞けば貴公は、小幡家の名跡をついで、亡師の家名を再興すると、伝えられておる身なのに」
「自分の敵とする人間のことは、誰しも、自分より優れていると思いたくないものだが、公平に、われと彼とを較べれば、剣に依っては、所詮われわれの手に仆せる敵ではない。たとえ同門を糾合して、何十人で襲おうとも、いよいよ恥の上塗りをするばかり」
「では、指を咥えて」
「いやこの新蔵にせよ、無念は一つだ。ただわしは、時期を待とうと思う」
「気の永い」
一人が舌打ちすると、
「逃げ口上だ」
と罵る者もあって、もう相談は無用と、落葉の灰と新蔵をそこにのこして、血気な早朝の客は、わらわら帰ってしまった。
入れ違いに、門前で鞍から下りた伊織は、馬の口輪を引ッぱって、戛々と、邸内へ入って来た。
厩に駒を繋いで、
「新蔵おじさん。こんな所にいたの」
焚火のそばへ、伊織は駈けて来た。
「おお帰ったか」
「何を考えているの。え、喧嘩したのかい、おじさん」
「なぜ」
「だって今、おいらが帰って来ると、若い侍たちが、ぷんぷん怒って出て行ったもの。見損なったの、腰抜けだのって、門を振り顧って、悪口を叩いて行ったよ」
「はははは。そのことか」
新蔵は笑い消して、
「それよりは、まあ焚火にでもあたれ」
「焚火なんかにあたれるものか。武蔵野から一息に飛ばして来たので、おいらの体は、この通り湯気が立っているよ」
「元気だな。ゆうべは何処に寝たか」
「ア。新蔵おじさん。――武蔵さまが戻って来たよ」
「そうだそうだな」
「なんだ。知ってるの」
「沢庵どのがいわれた。多分もう秩父から放されて、戻っている頃だろうと」
「沢庵さんは?」
「奥に」
と、眼でさして、
「伊織」
「え」
「聞いたか」
「なにを」
「おまえの先生が出世なさる吉事だ。途方もない歓び事だ。まだ知るまいが」
「何。何。教えてよ。先生が出世するって、どんなことさ」
「将軍家御師範役の列に加わって一方の剣宗と仰がれる日が来たのだ」
「えっ、ほんと」
「欣しいか」
「うれしいとも。じゃあもう一ぺん、馬を貸してくれないか」
「どうするのだ」
「先生の所へ報らせに行って来る」
「それには及ばぬ。今日のうち正式に、閣老から武蔵先生へお召状がさがるはず。それを持って明日は、辰の口のお控え所まで参り、登城のおゆるしが出れば、即日、将軍家に拝謁することになろう。――だから、老中のお使いが見え次第に、わしがお迎えに行かねばならぬ」
「じゃあ、先生が、こっちへ来るの」
「うむ」
うなずいて、新蔵は、そこを離れて歩き出しながら、
「朝飯は食べたか」
「ううん」
「まだか。はやく食べて来い!」
彼と話しているうちに、新蔵はいくらか憂悶が軽くなった。憤怒して去った友達の行く先に、まだ幾分かの気懸りは残していたが。
それから一刻ほど後、閣老からの使いが見えた。沢庵へ宛てた書簡と共に、明日、辰の口伝奏屋敷の控え所まで、武蔵を召連れて、出頭あるようにという達しであった。
新蔵は、その旨をうけて、騎馬となり、べつに一頭の美々しい乗換馬を仲間に曳かせて、武蔵の草庵へ使者として出向いた。
「お迎えに」
と、訪れると、武蔵はちょうど、権之助を相手に、陽なたで小猫を膝にのせて、何か話していた折だったが、
「いやこちらから、お礼に出るつもりでいたところ」
と、そのまま、すぐ迎えの駒に乗った。
獄から解かれた武蔵にはまた、将軍家師範という栄達が待っていた。
だが武蔵は、それよりも沢庵という友、安房守という知己、新蔵という好ましい青年などが、自分のような、一介の旅人に、席を温めて待ってくれる志のほうに、遥かなありがたさと、人間の世の限りなき隣の恩を思わせられた。
翌る日。
すでに北条父子は、彼のために一襲の衣服と、扇子、懐紙などまで整えて、
「めでたい日、おこころ爽やかに行って参られい」
と、朝の膳は、赤い御飯、魚頭つき、あだかもわが家の元服でも祝うかの如き心入れであった。
この温情に対して、また、沢庵の好意を酌んでも、武蔵は、自分の望みばかり固持していられなかった。
秩父の獄中でも、ふかく考えてみたことである。
法典ヶ原の開墾に従事して、およそ二ヵ年足らずのあいだ、土に親しみ、農田の人々と一緒に働いてみて、自己の兵法を、大きな治国や経綸の政治に活かしてみたいという野心はかつて本気で抱いてみたことであるが――江戸の実情と、天下の風潮、まだまだ決して、彼が理想するような所までには、実際において来ていない。
豊臣と徳川と、これは宿命的にも、大きな戦争をまだ敢てやるだろう。思想も人心も、為に、なお混沌たる暴風期を衝き抜けなければならない。そして関東か、上方か、いずれかに統一を見るまでは、聖賢の道も、治国の兵法も、いうべくして行われるわけはない。
明日にも、そうした大乱があるとする――その場合に、自分はいずれの軍へつくべきだろうか。
関東に加担するか。上方に走って味方するべきか。
それとも、世をよそに、山へ分け入って、天下の鎮まるのを、草を喰って待っているべきだろうか。
(いずれにせよ、今、将軍の一師範になって、それを以て、甘んじてしまったら、自分の道業もまずは知れたものといえよう)
朝の陽のかがやく道を、彼は式服を着、見事な鞍の駒にまたがり、栄達の門へと、そうして一歩一歩近づいておりながら、なお、心のどこかでは、満足しきれないものがあるのだった。
「下馬」
と、高札が見える。
伝奏屋敷の門だった。
玉砂利をしきつめた門前に、駒つなぎがある。武蔵がそこで降りていると、すぐ一名の役人と、馬預りの小者が飛んでくる。
「昨日、御老中よりの御飛札により、お召しを承って罷りこした宮本武蔵と申すものでござる。控え所詰お役人方までお申し入れ願わしゅうございます」
この日、武蔵はもとよりただ一名であった。しばらく待つ間に、此方へとべつな案内が先に立つ。
「お沙汰あるまでこれにお控えください」
蘭の間とでもいうか、絵襖いちめんに春蘭と小禽が描いてある。長さ二十畳の広い部屋である。
茶菓が出る。
人の顔を見たのはそれだけで、後はおよそ小半日も待たされた。
襖の小禽は啼かず、描いた蘭は香いもせぬ。武蔵は、欠伸を催して来た。
やがて、閣老の一名であろう、赭顔白髪の見るからに凡庸でない老武士が、
「武蔵どので在わすか。長々お待たせして、無礼おゆるしを」
と、あっさりそれへ出て来て坐った。ふと仰ぐと、川越の城主である酒井忠勝であった。けれどここでは江戸城の一吏事に過ぎないので、侍者一名を側につれただけで、至極格式に囚われていないふうである。
「お召しに依って」
と、武蔵が――これは先方が威儀作ろうと否とにかかわらず――長者に対するいんぎんな礼を執って、ひたと、平伏しながら、
「作州牢人、新免氏の族、宮本無二斎がせがれ武蔵と申しまする者、将軍家御内意の趣に、御城門先までまかり出でましてござります」
忠勝は、肥えたふたえ顎を、小さく何度も頷かせて、
「大儀、大儀でおざった」
と、受けた。
そしてややいい渋った面持に、気の毒そうな眼を持ちながら、
「時に――かねて沢庵和尚や安房殿などから、御推挙あった其許の仕官の儀……。昨夜に至って、いかなる御都合変りにや、遽かにお見合せというお沙汰じゃ。――われらにもちと解しかねるので、御事情のほど、また御再考もあらばと――実は今の今まで、御前において再評議もあったのじゃ。しかし折角のことではあったが、この度の儀は、やはり御縁のないこととなり終った」
といって、忠勝は慰めることばもないように――また、
「毀誉褒貶――浮世のありふれ事、前途のお気にさえられなよ。人事すべて、眼前を観ただけでは、何が幸不幸とも申されぬで」
――武蔵は、平伏のまま、
「……はっ」
と、なおひれ伏していた。
忠勝の言葉は、むしろ耳に温く聞えた。同時に胸の底から、わき出ずる感激が身をひたした。
反省はあっても、彼とて人間である。もし無事に任命があったら、このまま幕府の一吏事となって、かえって大禄や栄衣が、剣の道業を、若木で枯らしてしまうかもしれない。
「お沙汰の趣、相分りました。ありがたく存じまする」
自然そういったのである。不面目などという気は毛頭なかった。皮肉もない。彼としては、将軍以上のものから、一師範役以上のもっと大きな任を――その時、神のことばをもって、胸に授けられていた。
神妙な――と忠勝はその体をながめ入って、
「余事であるが、聞けば、其許には武辺に似あわぬ風雅のたしなみもあるそうな。何ぞ、将軍家へお目にかけたいと思う。……俗人どもの中傷や陰口には、答える要もないが、かかる折、毀誉褒貶を超えて、たしなむ芸術に、己れの心操を無言に残しておくことは、少しも差しつかえなかろうし、高士の答えとわしは思うが」
「…………」
武蔵が、彼のことばを心に解いているうちに、忠勝は、
「後刻までに」
と、席を立った。
忠勝の言葉のうちには、毀誉褒貶とか、俗人たちの中傷とか陰口とかいうことが、幾度か、意味ありげに繰返されていた。――それに答える要はないが、潔白な武士の心操は示しておけ! 暗にそういったように武蔵には解かれた。
「そうだ、自分の面目は、泥に委そうと、自分を推挙し給わった人たちの面目をけがしては……」
武蔵は、広間の一隅にある純白な六曲屏風に眼をとめた。やがてこの伝奏屋敷の溜りの小侍を呼び、酒井どのの仰せにまかせて一筆余技をのこして参りたいゆえ、もっとも佳い墨と、古い朱と、少量の青い顔料とをお貸し下げねがいたいといった。
子どもの頃は誰でも画を描く。画を描くのは、歌をうたうも同じだ。それが大人になるときまってみな描けなくなる。生半可な智恵や目が邪げるからである。
武蔵も、幼少の時は、よく画を描いた。環境の淋しかった彼は、特に画が好きだった。
だがその画も、十三、四から二十歳過ぎまでの間は、ほとんど忘れていた。――その後、諸国を修行中、多くは宿泊する寺院で、或る時は貴顕の邸宅で――しばしば、床の間の軸や壁画に接する機会が多くなり、描かないまでも、また、興味を持つようになった。
いつだったか。
本阿弥光悦の家で見た梁楷の栗鼠に落栗の図を観――その粗朴なうちに持つ王者の気品と、墨の深さを、いつまでも忘れなかったりしたこともある。
多分、あの頃からであったろう。彼がふたたび画に眼をひらき出したのは。
北宋、南宋の稀品。また、東山殿あたりからの名匠の邦画。それから現代画として行われている山楽だの友松だの狩野家の人々の作品など、折あるごとに、武蔵は観てきた。
自然、その中に彼の好き不好があった。梁楷の豪健な筆触は、剣の眼から観ても巨人の力をうけるし、海北友松は根が武人であるだけに、晩年の節操も、画そのものも師とするに足ると思った。
また、洛外の滝の本坊にいるという隠操の雅人、松花堂昭乗の淡味な即興風のものにも心をひかれた。沢庵とも深い友達であると聞いて、さらに慕わしい気もちをその画に持っていた。――けれど自分の歩まんとする道とは――行く末は一つ月を見る所に落ち合うまでも、遠いべつな世に住む人のような気がするのでもあった。
で、時には。
人には示さぬものとして、密かに自分でも描いてみたりした。だが彼も、いつの間にかやはり描けない大人になっていた。智が働いて、性が働かないのだ。巧く描こうとばかりして、真の流露というものが現せない。
厭になって、もう止した。――だがまたふと、何かに感興をよび起されて、人知れず描いてみる。
梁楷を模し、友松を倣い、時には松花堂の風をまねたりして――。しかし、彫刻は二、三人にも示したが、画はまだかつて、人に見せた例しはない。
「……よし!」
それを今、彼は、描いてしまった。しかも六曲半双へ、一気に。
試合の後――ほっと息づくように胸をあげて、静かに、筆洗へ筆の先を沈めると、描きあげたわが画に一顧もせず、伝奏屋敷の控えの広間から、さっさと退出してしまった。
「――門」
武蔵は、そこの豪壮な門を跨いで、ふと振り顧った。
入るが栄達の門か。
出るが栄光の門かと。
人はなく、まだ濡れている屏風のみが残されてあった。
いちめんに武蔵野之図が描いてあった。大きな旭日だけを、わが丹心と誇示するように、それだけに朱が塗ってあって、後は墨一色の秋の野だった。
酒井忠勝は、その前に坐ったまま、黙然と腕を拱んでいることしばし、
「ああ、野に虎を逸した」
と、独り呻いた。
武蔵は、何か思うところあったのか、その日、辰の口御門を去ると、牛込の北条家には戻らず、武蔵野の草庵へ帰ってしまった。
留守をしていた権之助は、
「オオ、お戻り」
と、すぐ駒の口輪を取りに外へ飛び出して来る。
いつになく糊目のついた式服すがたの武蔵。美々しい螺鈿の鞍など――さては今日のうち登城もすみ、首尾も上々に、就任の沙汰はきまったものと、権之助は早のみこみして、
「おめでとうござりました。……はや明日からでも、御出仕でござりますか」
武蔵が坐ると、藺席のすそに彼も坐って手をつかえながら、欣びを述べるつもりで直ぐいった。
武蔵は笑って、
「いや、沙汰止みになった」
「えっ……?」
「よろこべ、権之助。今日になって、遽かにお取消しという沙汰」
「はて。腑に落ちぬことで。一体どういうわけでございましょう」
「問うに及ばん。理由など糺して何になろう。むしろ天意に謝していい」
「でも」
「其方まで、わしの栄達が、江戸城の門にばかりあると思うか」
「…………」
「――とはいえ、自分も一時は野心を抱いた。しかしわしの野望は、地位や禄ではない。烏滸がましいが、剣の心をもって、政道はならぬものか、剣の悟りを以て、安民の策は立たぬものか。――剣と人倫、剣と仏道、剣と芸術――あらゆるものを、一道と観じ来れば――剣の真髄は、政治の精神にも合致する。……それを信じた。それをやってみたかったゆえに、幕士となってやろうと思った」
「何者かの、讒訴があったのか、残念でござりまする」
「まだいうか。穿きちがえてくれるな。一時は、そんな考えも抱いたことは確かだが、その後になって――殊に今日は、豁然と、教えられた。わしの考えは、夢に近い」
「いえ、そんなことはござりませぬ。よい政治は、高い剣の道と、その精神は一つとてまえも考えまする」
「それは誤りはないが、それは理論で、実際でない。学者の部屋の真理は、世俗の中の真理とは必ずしも同一でない」
「では、われわれが究めて行こうとする真理は、実際の世のためには役立ちませんか」
「ばかな」
と、武蔵は憤るが如く、
「この国のあらん限り、世の相はどう変ろうと、剣の道――ますらおの精神の道が――無用な技事になり終ろうか」
「……は」
「だが深く思うと、政治の道は武のみが本ではない。文武二道の大円明の境こそ、無欠の政治があり、世を活かす大道の剣の極致があった。――だから、まだ乳くさいわしなどの夢は夢に過ぎず、もっと自身を、文武二天へ謙譲に仕えて研きをかけねばならぬ。――世を政治する前に、もっともっと、世から教えられて来ねば……」
そういった後で、武蔵はにやにやと笑った。抑えきれない自嘲を洩らすように。
「……そうだ。権之助。硯はないか。硯がなくば、矢立を貸してくれい」
何か書面を認めて、
「権之助。大儀ながら、使いに行ってもらいたいが」
「牛込の北条どののお邸へでございますか」
「そうだ。委細、武蔵のこころは書中にある。沢庵どの、安房どのへ、そちからも宜しゅうお伝え申しあげてくれい」
武蔵は、そう告げて、
「そうそう、ついでに伊織より預かりおる品、そちの手から彼へ、戻しておいてほしい」
取出して、書面と共に、権之助の前へさし出した物を見ると、それはいつか伊織から武蔵へ預けた――父の遺物という古い巾着であった。
「先生」
権之助は、不審顔に、膝をすすめ――
「いかなる理でございますか。改まって、伊織からお預かりの品までを、遽かにお返しあるとは」
「誰とも離れて、武蔵はまた、しばらく山へ分け入りたい」
「山ならば山へ、町ならば町の中へ、何処までも、弟子として、伊織も手前もお供いたす所存にござりますが」
「永くとはいわぬ、両三年が間、伊織の身は、そちの手に頼む」
「えっ。……ではまったく、隠遁の御意思で」
「まさか――」
武蔵は笑いながら、膝を解いて、うしろに手をつかえ、
「乳臭いわしが、今から何で――。先にいった大望もある。あれやこれ、慾もこれから。迷いもこれから。――誰が歌か、こういうのがあった」
なかなかに
人里近くなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
武蔵が口誦さむのを、権之助は頭を垂れて聞いたが、そのまま、使いの二品を懐中に、人里近くなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
「ともあれ、夜にかかりますゆえ急いで参ります」
「ウム。拝借の駒、お厩へお返し申しておいてくれい。衣服は、武蔵が垢をつけたものゆえ、このまま頂戴いたしおくとな」
「はい」
「本来、辰の口より今日すぐに、安房どののお邸の方へ戻るべきなれど、この度のこと、お取止めの御諚あるからには、武蔵の身に、将軍家御不審あればこそである。将軍家に直仕召さるる安房どのへ、これ以上の御昵懇は、おためにもならぬことと思うて――わざと草庵へ帰って来た。……この儀は、書中には認めてないから、其方の口上にて、悪しからず伝えておいてくれるよう」
「承知いたしました。……とにかく手前も、今宵のうちに、直ぐ戻って参りますから」
もう赤々と野末に夕陽は沈みかけている。権之助は、駒の口輪を把って、道を急いだ。師のために貸し与えられた他家の鞍なので、返しにゆくには、勿論、その駒には乗らない。――誰も見てはいないし、空いている駒だが、曳いて歩くのであった。
赤城下に行き着いたのは、夜も八刻頃であった。
――どうしてまだ帰って来ないのか?
と、北条家では案じていたところなので、権之助はすぐ奥へ通され、書面も沢庵の手で、即座に封を切られた。
使いとして、権之助がここに見える前に、この席の人々は、武蔵の就任取止めの沙汰を、或る方面から洩れ聞いていた。
或る方面というのは、やはり幕閣の一員で、その者がいうには、遽かに、武蔵の登用が中止になった原因は、閣老のうちからも、また、奉行所方面からも、武蔵の素姓や行状について、種々、おもしろくない材料が、将軍家へ提出されたためだとある。
不合格となった、何よりもいけない点は、
――彼は仇持ちだ。
という風評が専らにあることだった。しかも非は彼にあって、彼を仇と狙って永年辛苦している者は、もう六十路をこえた老婆だと聞えたので――同情は翕然としてその年寄にあつまり、武蔵には反対なものが、御採用という機会に、一時に現れたものらしいとの話であった。
どうして、そんな誤解が生じたのかについては北条新蔵が、
(いや、そのことなら、その策で、当家の玄関へ、執こくやって参りましたよ)
と、留守中、本位田家のばばが、武蔵の悪たいを並べて立ち去ったことを、初めて、父と沢庵の耳に入れたのだった。
それで分った、原因が。
しかし、わからないのは、あんな婆の触れ言をそのまま信じる世間の輩であった。それも居酒屋や井戸端の集合者なら知らぬこと、分別ぶった相当な人間が――しかも為政者ともある連中が――と、きょう半日は、唖然としていた折なのである。
所へ、武蔵の使いとして、権之助が書面を齎したので、さては、不平の辞かと披いてみると、
委細、権之助よりお聞え上げ賜わるべし。さる人の歌に
なかなかに
人里ちかくなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
人里ちかくなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
近頃おもしろく覚え候うて、又いつもの持病かや、旅にさまよい出で候
左の一首は、又の旅出に即興の腰折れ、おわらい賜わるべく候
左の一首は、又の旅出に即興の腰折れ、おわらい賜わるべく候
乾坤を
そのまま庭と
見るときは
われは浮世の
家の戸ざかひ
なお、権之助が口上で、そのまま庭と
見るときは
われは浮世の
家の戸ざかひ
「辰の口から一応は御当家へ帰って、委細、申しあげるのが順でございますが、すでに幕閣より、御不審の目をもって見られたる身が、心易げに、御邸内に出入りする儀はいかがかと――わざと差控えて草庵へ戻りました由。これも師武蔵からの伝言でござりました」
そう聞くと、一しお、北条新蔵も、安房守も、名残が惜しまれて遽かに、
「何のご遠慮ぶかい。――このままでは、こちらの心も何となくすまぬ。沢庵どの、呼び迎えても来ぬかも知れぬ。これより駒をつらねて、武蔵野まで訪れようか」
起ちかけると、
「あ。お待ちください。手前もお供仕りますが、伊織へ返せと、師から申しつかって来た品があるので。――恐れ入りますが、伊織をこれへ、お呼びくださいませぬか」
と、彼へ手渡す例の古びた革の巾着を、懐中から出して、それへおいた。
伊織はすぐ呼ばれて来て、
「はい。何ですか」
目ばやく、眼はもうそこに置いてある自分の革巾着を見つけている。
「これを、先生からお前にお返しになった。お前の父の遺物だから、大事に持てと仰っしゃった」
権之助は、それと共に、師の武蔵がしばらくわれわれと別れて御修行の途に上るから、おまえは今日以後、当分はわしと共に暮すことになろうということをもいい渡した。
伊織はすこし不服顔。
だが、沢庵がいるし、安房守もいるので、
「はい」
と不承不承うなずく。
沢庵は、その革巾着が、彼の父親の遺物と聞いて、伊織の素姓についていろいろ糺してみると、祖先は最上家の旧臣で代々三沢伊織と名乗る家柄だという。
何代前かに、主家の没落にあい、戦乱の中で一族は離散してしまい、その後は諸国を漂泊って、父の三右衛門の代になってやっと下総の法典ヶ原に畑をもち、農夫となって住みついていたのだとも――伊織は問いに答えていう。
「ただ、よく分んないのは、おらに姉さんがあるっていったけれど、お父つぁんも、詳しいことをいわないし、お母さんは、早く死んじまったから、何処の国にいるのか、生きているのか死んだのか、分んない」
率直な伊織の答えを聞きながら、沢庵はその由緒ありげな革巾着を膝に取って、先刻からその中の蝕んだ書付や守り袋など、丹念に見ていたが、そのうちに、愕きの眼をみはって、一紙片の文字と、伊織の顔とを、まじまじ穴のあくほど見較べた末に、
「伊織。その姉なら、父三右衛門の筆らしいこの書付に書いてあるが」
「書いてあっても、何のことか、おらにも、徳願寺のお住持でも分らないんです」
「よく分っておる。この沢庵には……」
と、その一紙片を人々の眼の前に拡げて沢庵が読んだ。文章は数十行に亘るが前の方は略して、
――飢エ仆ルル共、二君ヲ求ムル心無ク、夫婦シテ流転年久シク、賤シキ業シテ歩クウチ、一年中国ノ一寺ニ、一女ヲ捨テ、伝来ノ天音一管ヲ襁褓ニ添エテ、慈悲ノ御廂ニ、子ノ末ヲ祈願シ奉リテ又他国ニ漂泊ウ。
後、コノ下総原ニ一茅ノ屋ト田ヲ獲、年経ルママ思エドモ、山河ヲ隔テ、又消息ヲ絶ツノ今、カエッテ子ノ幸ニ如何アルベシナド思イ、イツシカ歳月ノ流レニマカセ了ンヌ。
浅マシキ哉、人ノ親。鎌倉右大臣モ歌イケル
ものいはぬ
四方の獣すらだにも
あはれなるかなや
親の子をおもふ
サアレ二君ニマミエ、私ヲ負イ名ヲ争ウテ、武門ノ果ヲ汚サンヨリハ祖先モアワレト見ソナワシ給ウベシ。ワガ子モ亦、コノ父ノ子ゾカシ。名ヲ惜ムトモ、サモシキ粟食ベルナ。
「会うことができるぞ。この姉なら、わしも若年からよう知っておる。武蔵も存じておる。伊織、さあおまえも行け」後、コノ下総原ニ一茅ノ屋ト田ヲ獲、年経ルママ思エドモ、山河ヲ隔テ、又消息ヲ絶ツノ今、カエッテ子ノ幸ニ如何アルベシナド思イ、イツシカ歳月ノ流レニマカセ了ンヌ。
浅マシキ哉、人ノ親。鎌倉右大臣モ歌イケル
ものいはぬ
四方の獣すらだにも
あはれなるかなや
親の子をおもふ
サアレ二君ニマミエ、私ヲ負イ名ヲ争ウテ、武門ノ果ヲ汚サンヨリハ祖先モアワレト見ソナワシ給ウベシ。ワガ子モ亦、コノ父ノ子ゾカシ。名ヲ惜ムトモ、サモシキ粟食ベルナ。
沢庵は、席を立った。
だが、その夜、武蔵野の草庵へ急いだ人々も、遂に武蔵とは会えなかった。
夜の明けかけた野末の果てに、一朶の白雲を見たのみである。