あらすじ
浜辺で口笛を吹く若者は、内気な娘に愛を告白し、彼女の大切な指輪をもらいます。しかし、彼は遠い船出を約束し、もう一人の娘と結婚を誓います。若者は帰らず、内気な娘は悲しみを一人で抱え込みます。やがて彼女は別の青年と恋に落ちますが、若者からもらった指輪に気まずさを感じ、海へ捨ててしまいます。それから長い年月が流れ、娘は兄が漁から持ち帰った魚の腹から、かつて捨てたはずの指輪を見つけるのです。
 浜辺(はまべ)に立(た)って、沖(おき)の方(ほう)を見(み)ながら、いつも口笛(くちぶえ)を吹(ふ)いている若者(わかもの)がありました。風(かぜ)は、その音(ね)を消(け)し、青(あお)い、青(あお)い、ガラスのような空(そら)には、白(しろ)いかもめが飛(と)んでいました。
 ここに、また二人(ふたり)の娘(むすめ)があって、一人(ひとり)の娘(むすめ)は、内気(うちき)で思(おも)ったことも、口(くち)に出(だ)していわず、悲(かな)しいときも、目(め)にいっぱい涙(なみだ)をためて、うつむいているというふうでありましたから、心(こころ)で慕(した)っていた若者(わかもの)のいうことは、なんでもきいたのであります。
「その指(ゆび)にはめている、指輪(ゆびわ)をくれない?」と、あるとき、若者(わかもの)がいいました。
 彼女(かのじょ)は、ほんとうに、若者(わかもの)が、自分(じぶん)を愛(あい)しているので、そういったのだろうと思(おも)って、指(ゆび)にはめている指輪(ゆびわ)をぬいてやりました。それは、死(し)んだお母(かあ)さんからもらった、だいじにしていたものです。
 その後(ご)のこと、あるうららかな日(ひ)でした。
「こんど、遠(とお)い船出(ふなで)をして、帰(かえ)ってきたら、結婚(けっこん)をしようと思(おも)っているが、だれか、約束(やくそく)をしてくれる女(おんな)はないだろうか。」と、若者(わかもの)がいいました。彼女(かのじょ)は、もとより驚(おどろ)きました。そして、恥(は)ずかしさのために、ほおを赤(あか)くして、うつむいていたのであります。
 彼女(かのじょ)にくらべて、友(とも)だちの娘(むすめ)は、平常(へいぜい)、はすっぱといわれるほどの、快活(かいかつ)の性質(せいしつ)でありましたから、これをきくと、すぐに、
「私(わたし)が、お約束(やくそく)をいたします。勇(いさ)ましい、遠(とお)い船出(ふなで)から、あなたのお帰(かえ)りなさる日(ひ)を、氏神(かみさま)にご無事(ぶじ)を祈(いの)って、お待(ま)ちしています。」といいました。
 こう女(おんな)にいわれて、喜(よろこ)ばぬ男(おとこ)はなかったでありましょう。若者(わかもの)は、大(おお)いにはしゃいで、このあいだもらって、秘蔵(ひぞう)していた指輪(ゆびわ)を、その娘(むすめ)に与(あた)え、指(ゆび)にはめてやりました。そばでこれを見(み)たときは、いかに、おとなしい娘(むすめ)でも、さすがにそこにいたたまらず、胸(むね)を裂(さ)かれるような気持(きも)ちがしたのです。
 遠(とお)い水平線(すいへいせん)は、黒(くろ)く、黒(くろ)く、うねりうねって、見(み)られました。空(そら)を血潮(ちしお)のように染(そ)めて、赤(あか)い夕日(ゆうひ)は、幾(いく)たびか、波(なみ)の間(あいだ)に沈(しず)んだけれど、若者(わかもの)の船(ふね)は、もどってきませんでした。はすっぱの娘(むすめ)は、はじめのうちこそ、その帰(かえ)りを待(ま)ったけれど、生死(せいし)がわからなくなると、はやくも、あきらめてしまいました。なぜなら、秋(あき)から、冬(ふゆ)にかけて、すさまじい風(かぜ)が吹(ふ)きつのって、沖(おき)が暴(あ)れ狂(くる)ったからでした。彼女(かのじょ)は、いつしか、他(た)の青年(せいねん)を恋(こい)するようになりました。
「その指輪(ゆびわ)は、だれからもらったのか。」と、その青年(せいねん)は、問(と)うたのであります。いつか、約束(やくそく)にもらった指輪(ゆびわ)は、いまはかえって、邪魔(じゃま)となったのでした。彼女(かのじょ)は、顔(かお)を赤(あか)くして、指輪(ゆびわ)をぬくと、海(うみ)の中(なか)へ投(な)げてしまいました。
「これで、いいのですか。」
 かれらは朗(ほが)らかに笑(わら)いました。内気(うちき)の娘(むすめ)は、その後(ご)も、浜辺(はまべ)にきて、じっと沖(おき)の方(ほう)をながめて、いまだに帰(かえ)ってこない、若者(わかもの)の身(み)の上(うえ)を案(あん)じていました。しかし、何人(なんぴと)も、彼女(かのじょ)の苦(くる)しい胸(むね)のうちを知(し)るものがなかったのです。北国(ほっこく)の三月(がつ)は、まだ雪(ゆき)や、あられが降(ふ)って、雲行(くもゆ)きが険(けわ)しかったのであります。あわれな娘(むすめ)の兄(あに)は、こうした寒(さむ)い日(ひ)にも、生活(せいかつ)のために、沖(おき)へ出(で)て漁(りょう)をしていました。ちらちらと、横(よこ)なぐりに、雪(ゆき)は、波(なみ)の上(うえ)に落(お)ちると、たちまち消(き)えてしまいました。ふとそのとき、水(みず)の底(そこ)に、茫(ぼう)として、怪(あや)しい影(かげ)のようなものが見(み)えたのであります。
「なんだろう?」と、彼(かれ)が、瞳(ひとみ)をこらすと、破(やぶ)れた帆(ほ)を傾(かたむ)けて、一そうの、難破船(なんぱせん)が、水(みず)の中(なか)を走(はし)っていたのです。
「あ、船幽霊(ふなゆうれい)だ!」と、叫(さけ)ぶと、ぎょっとしました。
「なんだか、気味(きみ)が悪(わる)いし、もう引(ひ)き上(あ)げよう。」といって、わずか二、三びきしか釣(つ)れなかったたらをかごにいれて、兄(あに)は、家(うち)へもどってきました。
 たらの色(いろ)は、黒々(くろぐろ)として、大(おお)きな目玉(めだま)が光(ひか)っていました。娘(むすめ)は、その一ぴきを晩(ばん)のさかなにしようと庖丁(ほうちょう)をいれました。魚(さかな)の肉(にく)は、雪(ゆき)よりも白(しろ)く、冷(つめ)たかったのです。そして、腹(はら)を割(わ)ると、真(ま)っ赤(か)な、桃(もも)のつぼみが出(で)たと思(おも)いました。
「どこで、桃(もも)のつぼみを、のんだのだろう。」といって、娘(むすめ)は、つまみ上(あ)げてから、「まあ!」と、目(め)をみはったまま、ふるえ出(だ)したのでした。それは、永久(えいきゅう)になくしてしまったと思(おも)っていた、お母(かあ)さんの形見(かたみ)の指輪(ゆびわ)でありました。
了

底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社
   1977(昭和52)年8月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第6刷発行
※表題は底本では、「海(うみ)のまぼろし」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:仙酔ゑびす
2012年2月19日作成
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