あらすじ
故郷を離れ、都会で働き始めた少年・秀吉は、さか立ちの腕前が評判となり、近所の子どもたちと楽しい日々を送っていました。しかし、秀吉の心には、貧しいながらも愛情深い母親への切ない思いが隠されていました。ある日、母親から届いた手紙によって、秀吉は再び笑顔を取り戻し、故郷への想いはより一層深くなっていくのでした。
 こい紫(むらさき)の、ちょうどなす色(いろ)をした海(うみ)の上(うえ)を、赤(あか)い帯(おび)をたらし、髪(かみ)の毛(け)をふりみだしながら、気(き)のくるった女(おんな)が駈(か)けていくような、夏(なつ)の雲(くも)を、こちらへきてからは、見(み)られなくなったけれど、そのかわり、もっとやさしい女神(めがみ)が、もも色(いろ)の長(なが)いたもとをうちふり、うちふり、子(こ)どもたちといっしょに鬼(おに)ごっこをしているような、なごやかな夕雲(ゆうぐも)の姿(すがた)を、このごろ毎日(まいにち)のごとく、街(まち)の上(うえ)の空(そら)に、ながめるのであります。
 こんど、煉炭屋(れんたんや)へやとわれてきた少年(しょうねん)の秀吉(ひできち)は、仕事(しごと)がすむと、工場裏(こうじょううら)の空(あ)き地(ち)で、近所(きんじょ)の子(こ)どもたちといっしょにすごす時分(じぶん)、こうして、ひとり空(そら)をながめながら、いろいろ空想(くうそう)にふけるのでした。
「小僧(こぞう)さん、さか立(だ)ちしてごらんよ。」と、子(こ)どもの一人(ひとり)が、彼(かれ)のそばへよると、ふいにいいました。なぜなら、彼(かれ)が、ここへきてから、さか立(だ)ちのうまいということが、じき子(こ)どもたちの間(あいだ)で評判(ひょうばん)になったからです。それというのも、秀吉(ひできち)が、故郷(こきょう)にいる時分(じぶん)から、さか立(だ)ちだけは、だれにも負(ま)けまいとけいこをしたからでした。で、いつでも、きげんのいいときには、こういわれれば、
「よし、きた。」と、かけ声(ごえ)をして、うしろへ二、三歩(ぽ)さがり、前(まえ)へのめるかと思(おも)うと、たくみにさか立(だ)ちをして、さながら、足(あし)で立(た)つように平気(へいき)で、あちらこちらと、歩(ある)きまわりながら、見(み)ているものに、話(はな)しかけるのでした。
「ああ、きれいだな。あの高(たか)いえんとつの煙(けむり)が、雲(くも)の中(なか)へ流(なが)れこんでいる。それが、おししの毛(け)のように金色(きんいろ)に光(ひか)って見(み)える。君(きみ)たちにはそう見(み)えない?」と、さか立(だ)ちしながら、秀吉(ひできち)は、いいました。
「金色(きんいろ)になんか、見(み)えないよ。」
「正(しょう)ちゃんも健(けん)ちゃんも、さか立(だ)ちしてごらんよ。」
 こんなに長(なが)い間(あいだ)、さか立(だ)ちをしていたら、さぞ頭(あたま)が重(おも)くなって、目(め)がまわるだろうと、かえって、はたで見(み)ているものが、心配(しんぱい)するのでした。
「もう小僧(こぞう)さん、いいからおやめよ。そんなに長(なが)くさか立(だ)ちしていて、なんともないの。」と、さっき、さか立(だ)ちをすすめた子(こ)どもが、やっきになっていいました。
 やっと、秀吉(ひできち)は立(た)ちなおると、両手(りょうて)についた土(つち)をはらいおとして、
「ああ、なんともないさ。」と、笑(わら)いながら、答(こた)えました。
「おどろいたな、ぼくたちには、できっこない。それに、こんなことをすれば、血(ち)が下(さ)がって体(からだ)に大(おお)どくだろう。」と、正(しょう)ちゃんがいいました。
「は、は、は、なんでも、ひとのできないことを、するのでなくちゃ、だめなのさ。」と、秀吉(ひできち)は、自信(じしん)ありげに、いいました。
「それじゃ、小僧(こぞう)さんは、子(こ)どものときから、ひとのできない、さか立(だ)ちをしようと勉強(べんきょう)したんだね。」と、武(たけ)ちゃんが、ききました。
「おれは、貧乏(びんぼう)の家(いえ)に生(う)まれたのだ。とうちゃんは、おれが生(う)まれると、じき死(し)んだので、お顔(かお)をおぼえていない。おれは、まったく、おふくろの手(て)一つでそだてられた。母親(ははおや)は、手内職(てないしょく)をしたり、よそへやとわれていったりして親子(おやこ)は暮(く)らしていた。おれは、小学校(しょうがっこう)をおえると、町(まち)の乾物屋(かんぶつや)へ奉公(ほうこう)に出(だ)された。そして、たまに家(うち)へ帰(かえ)ると、母(はは)は、いつも、おれに向(む)かって、主人(しゅじん)のいうことを守(まも)り、精(せい)を出(だ)して働(はたら)けといった。もし、このうえ、私(わたし)どもが貧乏(びんぼう)しなければならぬようなら、おまえを角兵衛獅子(かくべえじし)にでもくれなければならぬと、半分(はんぶん)は本気(ほんき)で、半分(はんぶん)はおどかしのつもりだろうが、いったものだ。」
 秀吉(ひできち)は、そのときのことを思(おも)い出(だ)すように、いつしかしずんで、だまってしまいました。
「小僧(こぞう)さん、角兵衛獅子(かくべえじし)って、なになの?」と、武(たけ)ちゃんがききました。
「まだ、知(し)らないの。角兵衛獅子(かくべえじし)って、私(わたし)のくにでは、冬(ふゆ)になると、よく村(むら)から村(むら)へわたってきて、おししの面(めん)をかぶったかわいそうな子(こ)どもが、さか立(だ)ちしたり、でんぐりがえしをしたりして見(み)せるのだ。その間(あいだ)、おそろしい顔(かお)つきの親分(おやぶん)が笛(ふえ)を吹(ふ)いたり太鼓(たいこ)をたたいたりしてはやすのだ。そして、もし、しそこないをすると、子(こ)どもをしかるのだ。それらの子(こ)どもは、なんでも親(おや)のない子(こ)どもや、貧乏(びんぼう)の家(いえ)から子(こ)どもを買(か)い取(と)って、こんなふうに芸(げい)をしこみ、銭(ぜに)をもらって歩(ある)くのだが、子(こ)どものもらいが少(すく)ないと、子(こ)どもをいじめたり、また、めしをろくろく食(た)べさせないと聞(き)いていた。それで、もし、おれがおししに売(う)られたら、しかられなくてもすむように、人(ひと)の見(み)ていないところで、ひまがあればさか立(だ)ちのけいこをしたのさ。それでこんなにうまくなったんだ。はじめのうちは、からだの血(ち)が頭(あたま)へ下(さ)がって、いくどめまいがして、たおれたかしれないが、がまんをして、しまいにはなんでもなくなったのさ。いまとなれば、だれが、おししなんかになるものか。もう、自分(じぶん)の力(ちから)で、生(い)きられる自信(じしん)がついたからな。
 こんど、乾物屋(かんぶつや)を出(で)るときだって、ちっともおれが悪(わる)かったと思(おも)っていない。すこしばかりのいわしのにぼしを犬(いぬ)にやったとて、そんなに悪(わる)いことでないだろう。なぜって、おれの給金(きゅうきん)をこれといって、きめてくれないのだから、それぐらいのことをしたって、なんでもないはずなのだ。」と、秀吉(ひできち)の話(はなし)はだんだん、熱(ねつ)をおびてきました。
 空(あ)き地(ち)にいた、多(おお)くの子(こ)どもたちにも、その話(はなし)がわかるので、みんな目(め)を輝(かがや)かしながら、秀吉(ひできち)の顔(かお)を見(み)つめて、聞(き)いていました。
「おれはずいぶん遠(とお)い村(むら)まで、ご用(よう)を聞(き)きにやらされたものだ。ちょうど、二里(り)ばかりはなれた居酒屋(いざかや)に黒(くろ)という犬(いぬ)がいて、おれが帰(かえ)るときに、追(お)っても、追(お)っても、ついてくるのだ。とちゅう、ほかの犬(いぬ)がたかってきて、ほえたり、追(お)いかけたりしても、やはりついてくる。黒(くろ)はだまって、けっしてあいてにならないが、たまに大(おお)きい強(つよ)そうな犬(いぬ)が出(で)てきて、いじめられそうになると、どこをどうまわって逃(に)げるものか、ちゃんと、先(さき)へいって、おれを待(ま)っている。ほんとうに、りこうなかわいい犬(いぬ)だったよ。おれたちが、店(みせ)へつく時分(じぶん)には、もうとっくに日(ひ)が暮(く)れていて、外(そと)は真(ま)っ暗(くら)だった。そして、おれが、戸(と)をあけて、店(みせ)へ足(あし)を入(い)れると、さびしそうに、それまで立(た)ちどまって見(み)ていた黒(くろ)は、呼(よ)びとめても、後(あと)もふり向(む)かずとっとと、もとの道(みち)をもどっていくのだ。おれは、かわいそうで、どうしようもなかった。床(とこ)へ入(はい)っても、黒(くろ)のことばかり考(かんが)えて、その姿(すがた)が目(め)にうかんで眠(ねむ)られなかった。いまごろ黒(くろ)は、まだあのさびしい松並木(まつなみき)のあるあたりを歩(ある)いているだろう。もう、どのへんへいったろうかと。ある晩(ばん)のこと、また黒(くろ)がついてきたので、なにもやるものがないから、店(みせ)さきのおけにはいっていた、にぼしをすこしばかりつまんで、投(な)げてやった。それが運(うん)わるく主人(しゅじん)に見(み)つかって、ひどくしかられた。おまえはきょうばかりでない、へいぜい店(みせ)の品物(しなもの)をそまつにするのだろう、そんなものは、この家(いえ)におけないと主人(しゅじん)はいうのだ。おれは、悲(かな)しかったよ。おふくろが、どんなに泣(な)くだろうと思(おも)うと、おれは、身(み)を切(き)られるような思(おも)いがして、主人(しゅじん)にわびたのだ。しかし、がんこな主人(しゅじん)は、どうしても、出(で)ていけというのだ。さいわい、近所(きんじょ)で、日(ひ)ごろから顔見知(かおみし)りの人(ひと)で、そんなら、東京(とうきょう)にいい口(くち)があるが、いってみないかと、せわしてくれたので、おふくろとわかれるのは、つらかったけれど、ここへきたのさ。
 こんどの主人(しゅじん)は、いくらいいかしれない。しんぼうして、早(はや)く大(おお)きくなって、ひとりだちをして、かわいそうなおふくろを安心(あんしん)さしてやらなけりゃ……。」と、秀吉(ひできち)はいって、なみだぐむのでありました。
 このときから、武(たけ)ちゃんも、正(しょう)ちゃんも、この遠(とお)くからきている小僧(こぞう)さんに、なにかにつけて、同情(どうじょう)したのであります。
 ある日(ひ)の、午後(ごご)のことでした。
 武(たけ)ちゃんと健(けん)ちゃんがペスをつれて、草(くさ)いきれのする細道(ほそみち)を、川(かわ)の方(ほう)からきかかると、からのリヤカーを走(はし)らせて、通(とお)り過(す)ぎようとする、秀吉(ひできち)に出(で)あいました。
「おや、どこへいったの?」と、秀吉(ひできち)は、車(くるま)をとめて、聞(き)きました。
「ぼくたち、川(かわ)の方(ほう)まで、散歩(さんぽ)したんだよ。」と、二人(ふたり)が答(こた)えました。
「もう、帰(かえ)るのかい。そんなら、これに乗(の)せてあげるよ。」と、秀吉(ひできち)は、すすめました。
「ペスも乗(の)せていい。」と、健(けん)ちゃんが、いいました。
「みんなお乗(の)りよ。」
「ペスもおいで、いっしょに乗(の)ろうよ。」と、武(たけ)ちゃんが、うずくまりました。
 このとき、秀吉(ひできち)は、ふり向(む)いて、いつも見(み)ているペスだけれど、はじめて気(き)がついたように、
「いい犬(いぬ)だね。」と、ほめました。
「ああ、これでもテリヤなんだ、純粋(じゅんすい)じゃないけど。」と、武(たけ)ちゃんは、ペスの頭(あたま)をなでていいました。
「おとなしくて、りこうな犬(いぬ)だよ。」と、健(けん)ちゃんは、小僧(こぞう)さんに説明(せつめい)して、さらに、武(たけ)ちゃんに向(む)かい、
「こうして見(み)ると、小(ちい)さくないね。ぼく、いつ見(み)ても、小犬(こいぬ)のような気(き)がしたが、なかなかりっぱじゃないか。」といいました。
「小僧(こぞう)さんが、いなかにいたとき、かわいがった黒(くろ)という犬(いぬ)は、どんな犬(いぬ)なの?」と、武(たけ)ちゃんが聞(き)きました。
 秀吉(ひできち)は、リヤカーを走(はし)らせながら、
「黒(くろ)かね、りこうな犬(いぬ)だった。そんな、なになに種(しゅ)って、名(な)のつく犬(いぬ)でなかったけれど、おれは、どの犬(いぬ)よりも、黒(くろ)が好(す)きなんだよ。」と、彼(かれ)は、髪(かみ)の毛(け)を、風(かぜ)に吹(ふ)かせながら、さもなつかしそうに答(こた)えました。そして、なにを思(おも)ったか、急(きゅう)に速力(そくりょく)をゆるめ、ふり向(む)いて、ペスを見(み)ながら、
「この犬(いぬ)も、いい犬(いぬ)らしいな。」と、じっと、目(め)の中(なか)を、のぞくようにしました。そこには、黒(くろ)と共通(きょうつう)のものがありました。なんと、その目(め)は、すみきって、おとなしそうで、すばしっこそうで、なんでも人間(にんげん)のいうことが、わかるような、かしこそうにみえるではないか。
「犬(いぬ)って、みんなりこうなんだな。だから黒(くろ)もペスも、同(おな)じくらいかもしれない。」と、秀吉(ひできち)は、いいました。
「犬(いぬ)って、みんなりこうなんだね。」
「どの犬(いぬ)も、人間(にんげん)なんかよりは、りこうだと思(おも)うよ。」
「人間(にんげん)よりも……。」
「そう、人間(にんげん)のように欲深(よくふか)でもないし、いちど信(しん)じれば、気変(きが)わりなんかしないからね。」と、秀吉(ひできち)は答(こた)えたのです。
 二人(ふたり)は、そう聞(き)くと、深(ふか)くうなずかずにはいられませんでした。
「こんど、いつ国(くに)へ帰(かえ)るか知(し)らないが、どうか、それまで、黒(くろ)がたっしゃでいてくれればいいが。」
 秀吉(ひできち)は、ひとりごとをいって、また、いっしょうけんめいに、リヤカーを、自分(じぶん)たちの町(まち)の方(ほう)へ走(はし)らせたのです。その後(うし)ろ姿(すがた)が、二人(ふたり)の少年(しょうねん)の目(め)には、なんとなく悲(かな)しくうつりました。
 あちらに、親(した)しみのある、湯屋(ゆや)の高(たか)い煙突(えんとつ)が見(み)えたころです。
「晩(ばん)に、ぼくたち、双眼鏡(そうがんきょう)で、空(そら)の星(ほし)を見(み)るから、秀吉(ひできち)くんも遊(あそ)びにきたまえね。」と、武(たけ)ちゃんがいいました。
「ほんとうに、おいでよ。」と、健(けん)ちゃんも、いいました。
「大(おお)ぐま座(ざ)、小(こ)ぐま座(ざ)、北斗星(ほくとせい)などを見(み)るのだよ。それに、もっと遠(とお)い海王星(かいおうせい)が、雲(くも)がなくて見(み)えるといいね。」と、健(けん)ちゃんが、さも楽(たの)しそうに、いいました。
「ご飯(はん)を食(た)べてからですね。そうすれば、おれも用事(ようじ)が終(お)わるから、いかれますよ。」と、秀吉(ひできち)は、答(こた)えました。やがて、リヤカーは、坂(さか)を下(くだ)ると、道(みち)をまがって、二人(ふたり)の少年(しょうねん)と犬(いぬ)を乗(の)せながら、自分(じぶん)たちの家(いえ)のある町(まち)の中(なか)へ入(はい)ったのでした。
 その夜(よ)、空(あ)き地(ち)では、かたすみの方(ほう)に、わずかばかりしげる草(くさ)むらの中(なか)から、いろいろの虫(むし)の声(こえ)が聞(き)かれました。しかし、秀吉(ひできち)には故郷(こきょう)の、あのかぎりもなく広(ひろ)い田(た)んぼから、さながら雨(あめ)の降(ふ)る音(おと)のように流(なが)れてくる、ひびきの高(たか)い虫(むし)の声(こえ)とは、おのずから感(かん)じがちがって、もう秋(あき)の近(ちか)づいたという、心(こころ)のひきしまる、さびしさは味(あじ)わわれませんでした。
 空(あ)き地(ち)へ集(あつ)まった、子(こ)どもの群(む)れには、昼間(ひるま)道(みち)づれとなった武(たけ)ちゃんや健(けん)ちゃんのほかに、きみ子(こ)さん、みっちゃんなどの、同(おな)じ年(とし)ごろの学友(がくゆう)たちが加(くわ)わっていました。
「よく星(ほし)が見(み)えるかい。こんど、ぼくにかしてね。」
「そのつぎは、わたしにね。」
 みんなが、先(さき)を争(あらそ)って、双眼鏡(そうがんきょう)をのぞこうとしているのでした。
「こんどは、小僧(こぞう)さんの番(ばん)だよ。」と、健(けん)ちゃんが、大(おお)きな声(こえ)で秀吉(ひできち)を呼(よ)びました。
 秀吉(ひできち)は、双眼鏡(そうがんきょう)というものを、はじめて、のぞいたのでした。しかし月(つき)の世界(せかい)の秘密(ひみつ)は肉眼(にくがん)で見(み)る以上(いじょう)に、わからなかったのでした。いくらか、はっきりするぐらいなものです。
「どう、よく見(み)えるだろう。」と、武(たけ)ちゃんはさも、精巧(せいこう)なレンズをほこらしげに、いうのでした。秀吉(ひできち)はこれに対(たい)して、なんともいわず、見(み)れば見(み)るほど宇宙(うちゅう)が広(ひろ)いので、ただため息(いき)をもらしながら、双眼鏡(そうがんきょう)を武(たけ)ちゃんにかえして、
「故郷(こきょう)では、いまごろ空(そら)をあおぐと、手(て)がとどきそうに、空(そら)が近(ちか)く、星(ほし)が大(おお)きく、きらきら光(ひか)って見(み)えるのだから。」といいました。
「まあ、そんなによく見(み)えるの。」と、みつ子(こ)さんが、おどろきました。すると、そばに立(た)っていた健(けん)ちゃんまでが、
「そうかなあ、空気(くうき)が澄(す)んでいるんだね。」と、まだ知(し)らない北国(ほっこく)をふしぎなところのように思(おも)うのでした。
 秀吉(ひできち)は、自分(じぶん)の故郷(こきょう)について、みんながめずらしがると、とくいになって、
「ちょうど、大雨(おおあめ)のあと、小石(こいし)がたくさん、頭(あたま)を地面(じめん)へ出(だ)すだろう。あれと同(おな)じように、夜(よ)がふけると、青(あお)、赤(あか)、緑(みどり)と、一つ一つ空(そら)に星(ほし)の光(ひかり)が、とぎ出(だ)されるのさ。」と、秀吉(ひできち)はいって、さながら、わが家(や)の前(まえ)に立(た)って、まのあたり空(そら)を見(み)ているように、なつかしそうでありました。
 やがて、みんなと別(わか)れて、彼(かれ)は工場(こうば)の二階(かい)の一室(しつ)へもどりました。しかし、床(とこ)についてからも、すぐに眠(ねむ)れませんでした。まくらに頭(あたま)をつけながら、居酒屋(いざかや)の前(まえ)に立(た)つ、高(たか)いかしの木(き)を目(め)に浮(う)かべていました。その木(き)の下(した)には、黒(くろ)がすわっています。そして、黒(くろ)は、毎日(まいにち)のように、ゆき来(き)の旅人(たびびと)を見送(みおく)っています。黒(くろ)は、おれが、どうして、やってこないのだろうと思(おも)っている。秀吉(ひできち)は、いつのまにか泣(な)いているのでした。目(め)から落(お)ちる涙(なみだ)が、まくらをぬらすのでした。
 だんだん、日(ひ)が短(みじか)くなりました。いつしかひぐらしの声(こえ)もきこえなくなりました。しかし、子(こ)どもたちも、あまり、それを気(き)にとめるものがなかったほど、自然(しぜん)のうつり変(か)わりは自然(しぜん)でした。
「このごろ、小僧(こぞう)さんは、病気(びょうき)でないのかな。」
「どうして?」
「歌(うた)もうたわないし、遊(あそ)んでいるときも、だまって、さか立(だ)ちもしないだろう。」
 学校(がっこう)へのとちゅう、健(けん)ちゃんと、武(たけ)ちゃんは話(はな)しました。
「そういえば、元気(げんき)がないね。いつもほがらかなんだがな。遠(とお)くからきているので、かわいそうだね。」と、武(たけ)ちゃんが、いうと、
「帰(かえ)ったら、どうしたんだか、きいてみようか。」と、健(けん)ちゃんが答(こた)えました。こうして、二人(ふたり)は秀吉(ひできち)の身(み)の上(うえ)に同情(どうじょう)したのでした。
 あちらの庭(にわ)に咲(さ)いた、さるすべりの花(はな)も、一時(じ)は、紅(あか)くきれいだったが、その盛(さか)りをすぎてしまいました。夕日(ゆうひ)が、西空(にしぞら)にしずむと、北風(きたかぜ)の冷(つめ)たさを感(かん)じるようになりました。
 秀吉(ひできち)は、両手(りょうて)を頭(あたま)の上(うえ)で組(く)んで、ぼんやりと、遠方(えんぽう)をながめながら、物思(ものおも)いにしずんでいました。
 この姿(すがた)を見(み)た子(こ)どもたちは、
「きっと、自分(じぶん)の家(いえ)を思(おも)い出(だ)したのだろう。」と、そばへいって声(こえ)をかけるのをひかえたけれど、なにか知(し)らず、胸(むね)を細(ほそ)い針(はり)でさされたように、悲(かな)しみを感(かん)じたのでした。
 その日(ひ)は、日曜(にちよう)で、しかも空(そら)はよく晴(は)れていました。もう太陽(たいよう)の光(ひかり)が、慕(した)わしくなる季節(きせつ)だったので、赤(あか)とんぼが、羽(はね)をかがやかして飛(と)びかうばかりでなしに、子(こ)どもたちが、空(あ)き地(ち)へきて、うれしそうに、遊(あそ)んでいました。ボールを投(な)げるもの、まりをつくもの、おにごっこをするもの、たがいに楽(たの)しく遊(あそ)んでいました。工場(こうば)の裏(うら)では、秀吉(ひできち)が、目(め)の前(まえ)にせまった冬(ふゆ)のしたくのため、精(せい)を出(だ)して、たどんをならべて乾(かわ)かしていました。
 このとき、あちらから、きみ子(こ)さんが、一枚(まい)のはがきを手(て)に持(も)って、表(おもて)の方(ほう)から、かけてきました。
「小僧(こぞう)さん、おはがきよ。」
 そういいながら、きみ子(こ)さんは秀吉(ひできち)の前(まえ)までくると、それを彼(かれ)に渡(わた)したのです。
「ありがとう。」と、秀吉(ひできち)は、なにげなく受(う)け取(と)って、ながめると、
「あっ! おかあさんからだ!」と、さけびをあげました。よほど、うれしかったのでしょう。暗(くら)い元気(げんき)のなかった顔(かお)がたちまち、ぱっと燈火(ともしび)のついたように、あかるくなりました。
 これを見(み)たきみ子(こ)さんは、
「おかあさんからなの?」といって、彼(かれ)の胸(むね)の中(なか)の喜(よろこ)びを察(さっ)するごとく、自分(じぶん)までうれしそうにはしゃぎました。
「おれから、たびたび手紙(てがみ)を出(だ)しても、ちっとも、たよりがないので、おふくろが病気(びょうき)でないかと心配(しんぱい)していたんだ。いそがしくて書(か)けなかったが、たっしゃでいると、ごらん、ここに書(か)いてある。ああ、よかったなあ。」と、秀吉(ひできち)は、はがきをにぎって、こおどりしました。
「よかったわね。」と、きみ子(こ)さんが、心(こころ)から思(おも)いやりのこもった調子(ちょうし)で、いいました。
「こんなうれしいことはないよ。」と、秀吉(ひできち)は泣(な)いたのでした。
 この日(ひ)から、彼(かれ)はまた、さか立(だ)ちもすれば、歌(うた)もうたう、いつもの、ほがらかな小僧(こぞう)さんになったのであります。
 武(たけ)ちゃんと、健(けん)ちゃんは、この話(はなし)をきみ子(こ)さんからきいたとき、ちょうど、ボール投(な)げをしていたが、すぐやめて、きみ子(こ)さんのところへきて、耳(みみ)をかたむけたのでした。
「小僧(こぞう)さんは、おかあさんからの、はがきを見(み)ると、すっかり元気(げんき)になったのよ。」と、きみ子(こ)さんは、いいました。
 二人(ふたり)の少年(しょうねん)は、顔(かお)を見合(みあ)って、
「ああ、おかあさんのことか……。」
「おかあさんのことだったのか……。」と、たがいに、ため息(いき)をもらしました。
 健(けん)ちゃんは、手(て)ににぎっていた、ボールを地上(ちじょう)に落(お)とし、武(たけ)ちゃんは、しばらくだまって、うなずいていました。
了

底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社
   1977(昭和52)年12月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「太陽と星の下」あかね書房
   1952(昭和27)年1月
初出:「少年朝日 別冊冬の読み物集」
   1949(昭和24)年11月
※表題は底本では、「さか立(だ)ち小僧(こぞう)さん」となっています。
※初出時の表題は「逆立小僧さん」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年12月26日作成
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