あらすじ
大利根の大物釣は、釣聖と呼ばれるお茶屋のお主人が、腕自慢の漁師を伴い、利根川で巨大な鯉を狙う物語です。釣りは、単なる娯楽ではなく、生命と生命のぶつかり合い、まさに戦争であると語る漁師と、日ごろの釣果を語り合う中で、お茶屋お主人の釣りに対する並々ならぬ情熱が伝わってきます。待ち焦がれる大物の出現、そして、それを逃してしまった後の深い悔恨。雄大な自然と、そこに生きる人々の熱きドラマが展開されます。
 数日前、船頭の許(もと)に、船を用意せしめおきしが、恰も天気好かりければ、大生担(いけたご)、餌入れ岡持(おかもち)など提(ひっさ)げ、日暮里停車場(にっぽりステイチョン)より出て立つ。時は、八月の二十八日午后二時という、炎暑真中の時刻なりし。
 前回の出遊には、天気思わしからず、餌も、糸女(いとめ)のみなりしに、尚二本を獲たりし。今日の空模様は、前遊に比べて、好くとも悪しき方(かた)には非ず。殊に袋餌の用意有り、好結果必ず疑い無し。料理界にてこそ、鯉は川魚中の王なれ、懸りて後ちの力は鱸(すずき)の比に非ず。其の姿よりして軽快に、躍力強健に、綸(いと)に狂ひ、波を打ち、一進一退、牽けども痿えず、縦(はな)てども弛まず、釣客をして、危懼(きく)しながらも、ぞくぞく狂喜せしむるものは只鱸のみにて、釣界中、川魚の王は、これを除きてまた他に求むべからず、今日品川沖に赤目魚(めなた)釣に往きし忘筌子(ぼうぜんし)、利根川(江戸川)に鯉釣に出でし江東子(こうとうし)に、獲物を見せて愕かし呉(く)るるも一興なり。など空想を描きつつ窓によりて進む。
 田の面(おも)一般に白く、今を盛りと咲き競うは、中稲にて、己に薄黒く色つき、穂の形を成せるは早稲にやあらん、田家(でんか)の垣には、萩の花の打ち乱れて、人まち顔なるも有り、青無花果(いちじく)の、枝も撓わわに生(は)りたる、糸瓜(へちま)の蔓の日も漏さぬまでに這い広がり、蔭涼しそうなるも有り、車行(しゃこう)早きだけ、送迎に忙(いそが)わし。
 成田線なる木下駅にて下車す。船頭待ち居て、支度は既に整えりという。喜びて共に河辺(かへん)に至る。洋々たる水は宛(さな)がら一大湖水を湛(ただよ)わし、前岸有れども無きが如くにして、遠く碧天に接し、上り下りの帆影、真艫(まとも)に光を射(い)りて、眩きまでに白し。其の闊大(かつだい)荘重(そうじゅう)の景象、自ら衆川(しゅうせん)の碌々(ろくろく)に異れり。
 乗り移るや否(いな)、船頭直に櫓を執り、熟地に向う、漁史膝を抱きて、四辺(しへん)を眺めながら、昨日一昨日の漁況は如何(いかが)なりしと問えば、『一昨夜は、例の浅草の旦那と出でたりしが、思わざる事件持ち上りたり』という。『事件とは何ぞ』と問えば、『近来の椿事(ちんじ)なり』とて、語る。
『旦那がお出(いで)になって、例の処で始めますと、昼の雨が利いたのでしょう、打ち込むや否懸り始めて、三年四年以上の計(はか)り、二十一本挙げました。只の一本でも、無雑作に挙るのが有りませんでしたから、近くに繋ってた船にも、能く知れますのです。土地の漁師の船も、近くで行ってましたが、奴等は、赤っ腹位捕って喜んでる手合計しで、本物は、何時も江戸の方に抜いてかれてますので、内心縄張内を荒らされてる様な気が仕てます、矢先へ二十一本というものを、続けざまに拝見させられましたから、焼餅が焼けて堪らなかったと見え、何でも一時ごろでしたろう、十杯許(ばかり)の船が一緒になって、文句を言いに来たです。』
漁『それは、怖いこったね。』
船『全く怖かったです。此地の船を取り巻いて、「おい、お前は何処の漁師だ」と、斯ういう切っかけです。「何処の漁師でもない、素人だ」と言いますと、「其様(そん)なに隠さずとも好いだろう、相見互だもの、己等(おいら)の付合も為てくれたって、好さそうなもんだ」など、嫌味を言って、強請(ゆすり)がましいことを、愚図々々言ってますのです。私も顔を知らない中では無し、黙っても居られませんから、宥めてやりましたので、何事も無くて済みましたが、お客を預かってて、若しもの事でも有れば、此の松吉の顔が立ちませんから、ちと心配しましたよ。ただ、何の事は無い、「素人で左様(そう)釣っては、商売人の顔を踏み付けた仕打ちだ、大抵好い加減に釣ってれば好いに」という、強談(ごうだん)なのです。』
漁『上手な釣師も険呑(けんのん)だね、僕等では、其様な談判を持ち込まるる心配も無いが。アハハ……。』
船『私も随分永く此川に、釣を商売にしてますが、ああいう大釣は、これまでに無いですよ。何だって、一本五貫ずつにしましても十二両、十貫にすりゃ二十一両の仕事ですもの。どうも、お茶屋さんは、えらいですよ。』
漁『そう当っては、素人釣とは言われないね。立派な本職だ。』
船『本職が何時も敵(かな)はないんですもの。』
 お茶屋主人の好く釣ること、聴く毎に嘆賞すべきことのみにて、釣聖の名あるも空しからざるを知りぬ。
船『私どもを連れて来ましても、船を扱わせるだけで、場所の見立ては、何時も御自身なのです。も一尺岡によれとか、三尺前に進めろとか、鈎先はそりゃ喧ましいです。それだから又釣れますので、幾ら名人でも、地が分らなくては釣れっこ無しです。時によると、遙々お出になっても、水色が気に入りませんと、鈎をおろさずにふいとお帰りになります。こればかりでも並のお方の出来ないことですよ。』
『左様だて、来た以上は、少し位水色が悪かろうが、天気が悪かろうが、鈎おろさずに帰るということは出来ないさ。聴けば聴く程感心な、奇麗な釣だね。』
 釣り場は、僅数町の上流なるにぞ、間も無く漕ぎ着きぬ。漁史は、錨綱を繰り放つ役、船頭は※(「爿+戈」、第4水準2-12-83)※(かし)[#「爿+可」、U+7241、237-7]突(つつ)く役にて、前々夜、夫(か)のお茶屋釣聖(ちょうせい)のかかりという、切(きり)っぷの大巻きに鈎尖(はりさき)の漂う加減に舟を停めぬ。日光水面を射て、まぶしさ堪えがたかりしも、川風そよそよと衣袂(いべい)を吹き、また汗を拭(ぬぐ)う要無し。
 仕掛、座蒲団などを舳(おもて)の間に持ち往きて、座を定め、水色を見ながら、錐打ち鈴刺す快心、得も言われず。
漁『ランプの油やマッチは、受合(うけあい)だろうね。』
船『出る前に、すっかり見て置きました。』
漁『それなら好いが……。松さんの前で、そう言っちゃ何だが、でも船頭に限って吃度(きっと)忘れ物をするのでね。水を忘れた、餌入を忘れた、焚付(たきつけ)を忘れたなんて、忘れ物をされると、折角(せっかく)楽みに来ても、却って腹立てる様になるからね。此の前、鱚(きす)の時に、僕の品匡(しなばこ)を忘れられて、腹が立って立って堪らんから、そのまま漕ぎ戻らせて仕舞ったこと有ったが。』
船『何一つ不足でも、思う様な戦争出来ませんよ。釣だと思うからですが、生命のやり取りをする戦争だと思えば、淦取(あかとり)一つでも忘れられる筈無いですが。』
漁『ほんに、其の心がけでやってくれるから、嬉しいね。ア、餌入れ、日に当てない様にして下さい。』
船『半天(はんてん)かけておきましたから、大丈夫です』
漁『それなら好いが……。今日は、袋持って来たよ。』
船『袋は結構です。どうしても、えら物が来るようです。お茶屋さんも、袋でした。』
 小桶の水に漬(つ)け置ける綸巻(いとまき)取り出し、そろそろ用意を始む。鈎は、四分(ぶん)なれば、其の太さ燐寸(マッチ)の軸木ほどにて、丈け一寸に近く、屈曲の度は並の型より、懐狭く、寧(むし)ろひょっとこに近く、怪異なり。漁史自ら「鈎政(はりまさ)」に型を授けて、特(こと)に造らせしものに係る。これを結びたる天糸は、本磨き細手の八本撚(よ)りにて、玲瓏たる玉質、水晶の縄かとも見るを得べく、結び目の切り端の、処々(しょしょ)に放射状を為すは、野蚕(やさん)の背毛(はいもう)の一叢(むら)の如し。十五匁程の鉛錘(おもり)は進退(しんたい)環(かん)によりて、菅絲(すがいと)に懸る。綸は太さ三匁其の黒き事漆の如く、手さわりは好くして柔かなるは、春風に靡(なび)く青柳の糸の如し。されども之を夫の鮒※(「魚+與」、第4水準2-93-90)(ふなたなご)を釣る織細の釣具に比する時は、都人士(とじんし)の夢想にも及ばざる粗大頑強のものたるは言うまでもなし。
 さて、小出し桶に受取りし餌を摘み取り、糸女、沙蚕(ごかい)三十筋ばかりと、袋餌数筋を刺す。其の状、恰(あたか)も緋色の房の如く、之を水に投ずれば、一層の艶を増して鮮(あだや)かに活動し、如何なる魚類にても、一度び之を見れば、必ず嚥下(えんか)せずには已むまじと思われ、愈(いよいよ)必勝を期して疑わず。
 二仕掛を左右(さゆう)舷(げん)に下し終り手を拭いて烟(えん)を吹く時。後の方には、船頭の鈴を弄する声す。亦投綸(とうりん)に取りかかりたるを知る。
 彼是(かれこれ)する間に、水光天色次第に金色に変じ、美しさ言うばかり無し。常の釣には暮色に促されて竿を収め、日の短きを恨みて、眷々(けんけん)の情に堪えざるを、今日のみは、これより夜を徹せん覚悟なれば、悠々として帰心の清興を乱す無く、殊に愈本時刻に入るを喜ぶは、夜行して暁天に近づくを喜ぶに同じく、得意の興趣、水上に投射せる己が影の長きより長し。
 舷(ふなばた)に倚り手を伸べて右の示指(ひとさしゆび)に綸を懸け、緩く進退しながら、
漁『松さん、鈴よりか、指の方が、脈を見るに確だね。』
船『左様です。始終、指だけで済みますなら、それに越したこと有りませんよ。鈴の方は、先ず不精釣ですもの……。』
船『どうも、そうの様だて。鈴では、合せる呼吸を取り損ねる気がして……。』
船『此間(このあいだ)、根岸の旦那と、植木やの親方の来ました時、後で大笑いなのです。』
漁『お二人一緒に釣ってまして、植木やさんが水押(みよし)に出てお小用してますと、「チリン」、と一つ来ましたので、旦那が、「おい、お前のに来てるよ」と、仰有る内に、綸をするするするする持ってきますが、植木やさんは、少し痲(りん)の気(け)でお小用が永いですから、急に止める訳にもいかず、此方を振り反って見て、「おいおい、そう引くな、少し待って呉れ」と言ってたというのです。』
船『旦那は、余程、合せてやろうかと、一旦は手を伸べたそうですが、若しも逸(ば)らして、後で恨まれてはと、思いなすって、「おいおい引いてくよ、引いてくよ」と、仰有るだけなもんでしたから、植木屋さんは、猶々気が気で無く、やっとの事で降りて来ましたが、綸は、ずっと延びてますので、引いて好いのか、出さなければ悪いのか、一寸は迷って仕舞って、綸に手をかけて見たものの、仕様無かったと、言ってました。』
漁『水押の上では、随分、気を揉んだろう。見てやりたかったね。どうしたろ。挙ったか知ら。』
船『挙ったそうでした。三歳が……。』
漁『運の好い時には、そういうことも有るんだね。』
船『全く運ものですよ。此間(こないだ)、お茶屋の旦那の引懸けたのなどは、引いては縦ち、引いては縦ち、幾ら痿やそうとしても、痿えないでしよう。やや暫くかかって漸く抄(すく)い上げて見ると、大きな塩鮭程なのでしょう。私が急いで雑巾を取るか取らないに、(顎の骨にて手を傷つけらるるを恐れ、鱸をおさえるには、皆雑巾を被せておさえる習いなり)ずとんと、風を切って一つ跳ねるが最後、苫(とま)を突きぬいて、川中へ飛び込んで仕舞ったです。全(まる)で落語家(はなしか)の咄(はな)しっても無いです。が、綸はまだ着いてましたので、旦那は急いで綸を執る、私は苫を解(ほぐ)すで、又二度めの戦争が始まりましたが、どうかこうか抄い上げました。其時私は、思はず鱸の上に四ん這いになって、「今度は逃がすものか、跳ねるなら跳ねて見ろ」って、威張りましたよ。旦那が、後で、「お前が腹這いになった時の様子っては無かった。鱸と心中する積りだったのだろう」って、お笑いでしたが、あれらは、能くよく運の尽きた鱸でしたろう、不思議に鈎が外れないでましたもの。』
漁『それは、珍らしい取組みだったね。三尺といっちゃ、聴いただけでも、ぞくぞくするね。其様な化物が出るから、此地で行(や)りつけると、中川や新利根のは、鱸とは思われないのだね。』
 斯(かか)ること相話しながら、神(しん)を二本の綸に注ぎ、来るか来るかと、待ちわびしが、僅に、当歳(でき)魚五六尾挙げしのみにて、終(つい)に一刻千金と当てにしたりし日も暮れぬ。
 薄暗き小ランプを友として、夕飯を喫す。西天を彩れる夕映の名残も、全く消え果て、星の光は有りとは言へ、水面は、空闊にして、暗色四面を鎖(とざ)し、いよいよ我が船の小なるを想うのみ。眼に入るものは、二三の漁火(ぎょか)の星の如く、遠くちらつくと、稀に、銚子行汽船の過ぐるに当り、船燈長く波面に揺(ゆる)き、金蛇(だ)の隠現(いんけん)する如きを見るのみにして、樹林無く、屋舎(おくしゃ)無く、人語馬声無く、一刻一刻、人間界より遠ざかる。唯、蚊の襲来の多からざると、涼風衣袂に満ちて、日中の炎塵を忘るるとは、最も快適の至りにして、殊に、ここ暫くの勝負と思えば、神新に気更に張る。
 されば、更るがわる鈎を挙げて、餌(え)を更め、無心にして唯中(あた)りを待ちけるに、一時間許り経(へ)ける時、果して鈴に響く。直ちに、綸を指(ゆび)して試むれば、尚放れざるものの如く、むずむずと二つ三つ感じたり、即ちそと引きて合せたるに、正に手応えありて懸りたるを知る。
『来たよ。』と叫びながら、両手にて手繰(たく)り始むれば、船頭直ちに、他の一仕掛を挙げ尽し、鈴をも併せ去りて、搦まるを予防しつつ、
『大きがすか。』という。身を少し前に屈め、両手を、船の外に伸べて、綸を手繰れる漁史は、喜ぶ如く、悲む如く、
『幾ら大きいか知れないよ。船でも引き寄せるようだ』と答えれば、船頭已に玉網(たま)を手にして起ち、『急(せ)いではいけません、十分で弱りきるまで痿やして。』と言いつつ例の如く、直ちに水押の上に俯して、半身殆ど船外に出し、左手(ゆんで)を伸べて、綸を拇指と示指の間に受け、船底にかき込まるるを防ぎ、右手(めて)に玉網の柄を執りて、介錯(かいしゃく)の用意全く成れり。
 漁史は、手応の案外強きに呆れ、多少危懼せざるに非ざれども、手繰るに従いて、徐々(しずしず)相近づくにぞ、手を濡らしつつ、風強き日の、十枚紙鳶(だこ)など手繰る如く、漸く引き寄す。
 思の外、容易に近づくか知らと、喜ぶ時、船前五間許の処にて、がばがばと水を撥ねたるは、十貫目錨を投じたる程の水音にて、船は為めに揺られて上下せり。
 これと同時に、敵は全力を振いて、延(の)し始めたれば、素(もと)より覚悟のこととて、左右三指ずつにて、圧(おし)を加えながら繰り出す、その引力の強き、指さきの皮剥けんかと思うばかりなり。
 彼是二十尋(ひろ)ばかり引き去りて、止まりたれば、即ち又手繰れるに、ごつごつと、綸に従きて近づく様明に知れ、近づきては又急に延し、其の勢いの暴(あら)き、綸はびんびん鳴りて、切るるか切るるかと、胸を冷せしことを一再のみならず。漁史綸を出しながら小声に、『何だって、馬鹿に強いよ。』と言えば、死したる如く、水押に俯伏して動かざる船頭、
『左様でしょう。六年ですよ。此の調子では、また一寸には痿えますまい。』と声を低めて言う。
漁『切られるかと思って、何だか怖くなって来た。』
船『なアに大丈夫です。気永くおやりなさい。』
 漁史の動悸は、一秒毎に高まり来り、嬉しいには相違なきも、危惧の念亦一層強く、たとえ十分信頼せる釣具(しかけ)にせよ、首尾よく挙げ得るや否やを、気遣うことも頻りなり。
 引き寄せては引かれ、寄せては引かれ、数回くり返せども、敵の力は、少しも衰えず。其の引き去るに当りては、一気直に海洋まで逸し去らんとするものの如く、綸の弾力部を全く引き尽して、また余力を存せず、屡、奇声を発す。されども、暗中(あんちゅう)ながら、綸を紊(みだ)すことも無く、力に従いて相闘いしかば、三十分許りの後には、船頭の助けを得て、沈を手元に引き留むるを得たり。
 既に沈を上げし上は一安心なり、早く挙げ終りて、船頭の苦みを除きたしと、引く時は、敵を怒らしめざるように処女の如く引き、引かるる時は、船まで引き去られん勢に逢い、鰓洗う声の、暗中に発する毎に、胸を刺さるる如き思いを為し、口食ひしめ、眼見張りて、両手は殆んど水に漬け続けなり。
 ただ、根競べにて、勝を制せんと思うものから、急(あせ)らず逼(せま)らず、擒縦(きんしょう)の術を尽せしが、敵の力や多少弱りけん、四五間近く寄る毎に、翻然延し返したる彼も、今回は、やや静かに寄る如く、鈎※(はりす)[#「虫+系」、U+272EC、243-13]の結び目さえ、既に手元に入りたれば、船頭も心得て、玉網(たま)を擬し、暗流を見つめて、浮かば抄(すく)わんと相待つ。此方は、成るべく、彼を愕かさじと、徐々と、一尺引き五寸引き、次第に引き寄せしが、船前六尺ばかりにて、がばと水を扇(あお)りて躍り、綸の張り卒然失せぬ。逸し去りしなり。
『ちェッ』と舌打ちして、二三秒間、綸を手にせるまま、船前を見つめしが、次で船内にどっと打ち伏して無言なり。今まで、一時間近く、水押に水を漬(ひた)せる船頭は、玉網片手にすごすご身を起し来りて。
『どうなさりました。』と、漁史の肩に手かけ、少し揺りつつ問えども、答えず。実は、泣き居しなりき。拳を振りしめたるに顔を当て、思えば思う程、腸(はらわた)は煮返る如くにて、熱涙は自ら禁ぜず。
 船頭は、悄然として再び、『お気の毒でしたね。』と慰む。伏したる漁史の口よりは、微かに、『どうも、お前にも気の毒で。』
船『なアに、私などに、其様な御遠慮はいりませんよ。水ものですもの、何方だって……。』
 漁史は、これには、返辞無かりし。船頭は急病人の看護者の如く、暫く其の側を離れざりしが、『また幾らも来ますから……』とて、静に坐に直り、綸を埋(おさ)めて、更め投下しぬ。
 漁史は、徐(しずか)に身を起し、両腕拱(こまね)きて首(かうべ)を垂れしまま、前に輪を為せる綸を埋めんともせず、小ランプに半面を照されて、唯深く思いに沈むのみなり。
 茶屋の主人なる人常に言えり。世人、釣り落せし魚は、大きなるものなりと、嘲り笑えども、釣師の掛直のみならず、釣り落せしは実に大きなり。一尺のものを目当てに釣るに、三尺なるが懸る故に逸(ば)らすなり。されども、この三尺なるは、頻々(ぴんぴん)懸るものに非ざれば、之を挙げ得て、真の釣の楽みあるなり。故に、釣具にも、術にも、十分の注意を要するなりと言えり。
 彼の人又言えり。釣に適したる水加減、天気工合の、申し分無き日とては、一年に僅三日か五日なり、此の、僅の日に釣りたるだけにて、一年の釣楽(ちょうらく)は十分なりと。実に、彼の人は、夏の土用より、彼岸までに、出遊する日は、僅に指を屈するに過ぎず。彼岸となれば、釣具を深く蔵めて、釣の話しだにせず、世の紛々たる、釣師の、数でこなす派のものを、冷眼に見て、笑えり。其の代り、彼の人の出遊する毎に、必ず満籃の喜び有り、一たび鈎を投ずるを惜むこと金の如く、投ずれば、必ず好結果を期待して誤らず。恰も、台湾生蕃(せいばん)の、銃丸を惜むこと生命の如く、一丸空しく発せず、発せば必ず一人を殪(たお)すに似たり。実に、思えば思う程、男らしき釣なり。
 その代り、釣具其の他に対する注意も、極めて周到緻密にして、常人に同じからず。たとえば、鈎は自ら新型を工夫して、製作せしめたるを、一本ずつ、其の力を試験したる上ならざれば用いず、それすら、一尾釣り挙げし毎に、新物に改めて再び用いしことなし、綸の如きも、出遊毎に、数寸ずつ切り棄(す)てて、※(す)[#「虫+系」、U+272EC、245-9]との結びめを新にし、疲れたる綸※(いとす)[#「虫+系」、U+272EC、245-9]を用いず、言わば、一尾を釣る毎に、釣具を全く新にするなり。鈎をおろすに方(あ)りて、大事とること総て此の如くなれば、一旦懸りたる魚は、必ず挙げざる無く、大利根の王と推称せらるるも理(ことわ)りなり。
 よし、三つ児のおろせし餌にせよ、魚の呑むには変り無し、ただ之を拳ぐるが六ヶしきにて、釣師の腕の巧拙は、多くここに在り。然るに、予が今の失敗は何事ぞ、鈎折れしか、※[#「虫+系」、U+272EC、245-13]切れしか、結び目解けしか、或は懸りの浅かりしにや、原因の何れにあるを問わず、一旦懸りしものを逸らせしは、返す返すも遺憾なり。ああ口惜しきことしたり、此の取り返しは、一生の中に、又と望むべからず、思えば思うほど残念なり。其の癖、綸は、今年おろして間も無く、腐蒸(むれ)居るべしとも思われず、綸の長く延び居る際は、思いの外安全なれども、近く寄せて格闘する際に、不覚を取ること多きは、予も知らざるに非ず。されば、沈より先きなる※[#「虫+系」、U+272EC、246-1]は、大事の上にも大事を取り、上○の八本よりを用いたれば、容易に切るるべしとは思わず。水にふやけて弛みし節の解けたるにや。一回毎に切り棄てることを敢てせざりし為めに、鈎近くの※[#「虫+系」、U+272EC、246-3]の疲れ居て、脆く切れたるにや、何れにしても、偶に来れる逸物(いちもつ)を挙げ損ねたるは、釣道の大恥辱なり。ただ一尾の魚を惜むに非ず。釣道の極意を得ざりしを惜むなり。と、兎(と)さま角(こう)さまに、苦悶し、懊悩し、少時は石像木仏の如し。船頭、余り気を落せるを見て、
『旦那如何(どう)です。此の潮の好い処を、早くお行(や)りになりませんか。』と励ませども身体は尚少しも動かず、『そうだね』と力無き返事せるのみにて、気乗りせず、尚悔恨の淵に沈む。
 やがて、豁然として我に返り、二タ仕掛の綸を、餌入の上に致し、一箱のマッチを傾けて火を点ずれば、濡れたるものながら、火※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)を高めてぱっと燃え、奇臭鼻をつく。船頭見て愕き、走り来りて、
『どうなさいますのです。何かお腹立ちなのですか。』と、燃え残りの綸屑※[#「虫+系」、U+272EC、246-12]屑を掻き集めて、再び燃さんとせし漁史の手をおさえて言う。
漁『其様(そん)なわけでないのだから、決して悪く思って呉れては困るよ。僕は、今夜はよす。』
船『其様な気の弱いことっては有りますか。お行(や)りなさい、私の仕掛も有りますし。』
漁『仕掛は、僕の方にも有るが、もう行らない。彼是一時間かかって痿やしたものを、逸(ば)らすなんて、余り気の利かない話しだから、記念の為めに、今夜は帰るよ。』
漁『どんなのでも、懸ったら最後、逃しっこ無しというが、真(ほん)の釣だろう。それを、中途で逸らすようでは、岡っ張で、だぼ沙魚(はぜ)を対手(あいて)にしてる連中と、違い無いさ。随分永らく釣を行った癖に、今夜の不首尾は、自分ながら呆れるよ。それやこれやに就て、思えば思う程、浅草の方は感心で堪らぬ。彼(あ)の人の様に、僅五日三日きり出ずとも、他人(ひと)の一年間釣る量よりも多い程釣り挙げて、十分楽むのが本当だろう。僕も、今日以後は、念には念を入れて、苟(いやしく)もしないと言う方針を取り、粗相だの、不注意だのということは、薬にしたくも無い様にしよう、折角出て貰って、ここで帰るのは残念だが、跡の薬になるから、今夜は戻ろう。』
 と、理を説きて帰航を促したれば、船頭も、意解(と)けて、釣具を納め、錨を挙げ、暗流を下りけるが、更に再遊を約して、相分れき。
 再び汽車に乗り、家に帰りしは、十時近にして、廊下に涼を納(い)れ居たる家族は、其の思いがけ無き早帰りを訝りぬ。されども、漁史は、発刺たる鮮鱗以外、大なる獲物を挙げしを喜び、此の夜は、快き夢を結びき。
了

底本:「日本の名随筆4 釣」作品社
   1982(昭和57)年10月25日第1刷発行
   1990(平成2)年10月31日第16刷発行
底本の親本:「釣師気質」博文館
   1906(明治39)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:冬木立
校正:noriko saito
2010年7月14日作成
2011年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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