あらすじ
ある百姓が、老いた牛を若い牛と交換しようと、馬の市へ向かいます。しかし、老いた牛はなかなか買い手が見つからず、結局、持ち帰ることに。雪の降る中、道に迷った百姓は、老いた牛に助けを求め、無事に家にたどり着きます。翌朝、百姓は、老いた牛を町へ売りに行くことを決意し、再び牛を引き連れて町へ向かうのでした。
 あるところに、牛(うし)を持(も)っている百姓(しょう)がありました。その牛(うし)は、もう年(とし)をとっていました。長(なが)い年(とし)の間(あいだ)、その百姓(しょう)のために重(おも)い荷(に)をつけて働(はたら)いたのであります。そして、いまでも、なお働(はたら)いていたのであったけれど、なんにしても、年(とし)をとってしまっては、ちょうど人間(にんげん)と同(おな)じように、若(わか)い時分(じぶん)ほど働(はたら)くことはできなかったのです。
 この無理(むり)もないことを、百姓(しょう)はあわれとは思(おも)いませんでした。そして、いままで自分(じぶん)たちのために働(はたら)いてくれた牛(うし)を、大事(だいじ)にしてやろうとは思(おも)わなかったのであります。
「こんな役(やく)にたたないやつは、早(はや)く、どこかへやってしまって、若(わか)いじょうぶな牛(うし)と換(か)えよう。」と思(おも)いました。
 秋(あき)の収穫(しゅうかく)もすんでしまうと、来年(らいねん)の春(はる)まで、地面(じめん)は、雪(ゆき)や、霜(しも)のために堅(かた)く凍(こお)ってしまいますので、牛(うし)を小舎(こや)の中(なか)に入(い)れておいて、休(やす)ましてやらなければなりません。この百姓(しょう)は、せめて牛(うし)をそうして、春(はる)まで休(やす)ませてやろうともせずに、
「冬(ふゆ)の間(あいだ)こんな役(やく)にたたないやつを、食(た)べさしておくのはむだな話(はなし)だ。」といって、たとえ、ものこそいわないけれど、なんでもよく人間(にんげん)の感情(かんじょう)はわかるものを、このおとなしい牛(うし)をひどいめにあわせたのであります。
 ある、うす寒(さむ)い日(ひ)のこと、百姓(しょう)は、話(はなし)に、馬(うま)の市(いち)が四里(り)ばかり離(はな)れた、小(ちい)さな町(まち)で開(ひら)かれたということを聞(き)いたので、喜(よろこ)んで、小舎(こや)の中(なか)から、年(とし)とった牛(うし)を引(ひ)き出(だ)して、若(わか)い牛(うし)と交換(こうかん)してくるために町(まち)へと出(で)かけたのでした。
 百姓(しょう)は、自分(じぶん)たちといっしょに苦労(くろう)をした、この年(とし)をとった牛(うし)に分(わか)かれるのを、格別(かくべつ)悲(かな)しいとも感(かん)じなかったのであるが、牛(うし)は、さもこの家(うち)から離(はな)れてゆくのが悲(かな)しそうに見(み)えて、なんとなく、歩(ある)く足(あし)つきも鈍(にぶ)かったのでありました。
 昼過(ひるす)ぎごろ、百姓(しょう)はその町(まち)に着(つ)きました。そして、すぐにその市(いち)の立(た)っているところへ、牛(うし)を引(ひ)いていきました。すると、そこには、自分(じぶん)の欲(ほ)しいと思(おも)う若(わか)い馬(うま)や、強(つよ)そうな牛(うし)が幾種類(いくしゅるい)となくたくさんにつながれていました。方々(ほうぼう)から百姓(しょう)たちが、ここへ押(お)し寄(よ)せてきていました。中(なか)には、脊(せ)の高(たか)いりっぱな馬(うま)を買(か)って、喜(よろこ)んで引(ひ)いてゆく男(おとこ)もありました。彼(かれ)は、うらやましそうに、その男(おとこ)の後(うし)ろ姿(すがた)を見送(みおく)ったのです。
 自分(じぶん)は、馬(うま)にしようか、牛(うし)にしようかとまどいましたが、しまいには、この連(つ)れてきた年(とし)とった牛(うし)に、あまりたくさんの金(かね)を打(う)たなくて交換(こうかん)できるなら、牛(うし)でも、馬(うま)でも、どちらでもいいと思(おも)ったのでした。
 あちらにいったり、こちらにきたりして、自分(じぶん)の気(き)にいった馬(うま)や、牛(うし)があると、その値段(ねだん)を百姓(しょう)は聞(き)いていました。そして、
「高(たか)いなあ、とても俺(おれ)には買(か)われねえ。」と、彼(かれ)は、頭(あたま)をかしげていったりしました。
「おまえさん、よくいままで、こんな年(とし)をとった牛(うし)を持(も)っていなさったものだ。だれも、こんな牛(うし)に、いくらおまえさんが金(かね)をつけたって喜(よろこ)んで交換(こうかん)するものはあるめえ。」と、黄銅(しんちゅう)のきせるをくわえて、すぱすぱたばこをすいながら、さげすむようにいった博労(ばくろう)もありました。
 そんなときは、百姓(しょう)は、振(ふ)り向(む)いて後(うし)ろに首垂(うなだ)れている、自分(じぶん)の牛(うし)をにくにくしげににらみました。
「そんなざまをしているから、俺(おれ)まで、こうしてばかにされるでねえか。」と、百姓(しょう)は怒(おこ)っていいました。
 また、彼(かれ)は、ほかの場所(ばしょ)へいって、一頭(とう)の若(わか)い牛(うし)を指(ゆび)さしながら、いくらお金(かね)を自分(じぶん)のつれてきた牛(うし)につけたら、換(か)えてくれるかと聞(き)いていました。
 その博労(ばくろう)は、もっと、前(まえ)の男(おとこ)よりも冷淡(れいたん)でありました。
「おまえさん、ここにたくさん牛(うし)もいるけれど、こんなにおいぼれている牛(うし)はなかろうぜ。」と答(こた)えたぎりで、てんで取(と)り合(あ)いませんでした。
 しかたなく、百姓(しょう)は、年(とし)とった牛(うし)を引(ひ)きながら、あちらこちらと迷(まよ)っていました。しまいには、もうどんな牛(うし)でも、馬(うま)でもいいから、この牛(うし)と交換(こうかん)したいものだ。自分(じぶん)の牛(うし)より、よくない牛(うし)や、馬(うま)は、一頭(とう)だって、ここにはいないだろうと思(おも)ったほど、自分(じぶん)の牛(うし)がつまらなく思(おも)われたのであります。
 日(ひ)が暮(く)れかかると、いつのまにか、市場(いちば)に集(あつ)まっていた百姓(しょう)たちの影(かげ)は散(ち)ってしまいました。その人(ひと)たちの中(なか)には、持(も)ってきた金(かね)より、牛(うし)や、馬(うま)の値(ね)が高(たか)いので買(か)わなくて帰(かえ)ったものもあったが、たいていは、欲(ほ)しいと思(おも)った牛(うし)や、馬(うま)を買(か)って、引(ひ)いていったのであります。
 独(ひと)り、この百姓(しょう)だけは、まだ、まごまごしていました。そして、最後(さいご)に、もう一人(ひとり)の博労(ばくろう)に掛(か)け合(あ)っていました。
「俺(おれ)は、この若(わか)い馬(うま)が欲(ほ)しいのだが、この牛(うし)に、いくら金(かね)を打(う)ったら換(か)えてくれるか?」と、百姓(しょう)はいいました。
 その博労(ばくろう)は、百姓(しょう)よりも年(とし)をとっていました。そして、おとなしそうな人(ひと)でありました。しみじみと、百姓(しょう)と、うしろに引(ひ)かれてきた牛(うし)とをながめていましたが、
「いま換(か)えたのでは、両方(りょうほう)で損(そん)がゆく。金(かね)さえたくさんつけてもらえば、換(か)えないこともないが、この冬(ふゆ)、うんとまぐさを食(く)わして休(やす)ませておやんなさい。そうすれば、まだ来年(らいねん)も働(はたら)かされる。だいいち、これまで使(つか)って、この冬(ふゆ)にかかって、知(し)らねえ人(ひと)の手(て)に渡(わた)すのはかわいそうだ。」といいました。やむを得(え)ず、百姓(しょう)は、また牛(うし)を引(ひ)いて我(わ)が家(や)に帰(かえ)らなければならなかったのです。
「ほんとうに、ばかばかしいことだ。」
 百姓(しょう)は、ぶつぶつ口(くち)の中(なか)でこごとをいいながら、牛(うし)を引(ひ)いてゆきました。
 朝(あさ)のうちから曇(くも)った、寒(さむ)い日(ひ)であったが、晩方(ばんがた)からかけて、雪(ゆき)がちらちらと降(ふ)りだしました。百姓(しょう)は、日(ひ)は暮(く)れかかるし、路(みち)は遠(とお)いのに、雪(ゆき)が降(ふ)っては、歩(ある)けなくなってしまう心配(しんぱい)から、気持(きも)ちがいらいらしていました。
「さあ早(はや)く歩(ある)け、この役(やく)たたずめが!」とどなって、牛(うし)のしりを綱(つな)の端(はし)で、ピシリピシリとなぐりました。牛(うし)はいっしょうけんめいに精(せい)を出(だ)して歩(ある)いているのですけれど、そう早(はや)くは歩(ある)けませんでした。雪(ゆき)はますます降(ふ)ってきました。そして、道(みち)の上(うえ)がもうわからなくなってしまい、一方(ぽう)には日(ひ)がまったく暮(く)れてしまったのであります。
「こんなばかなめを見(み)るくらいなら、こんな日(ひ)に出(で)てくるのでなかった。」と、百姓(しょう)は、気持(きも)ちが急(いそ)ぐにつけて、罪(つみ)もない牛(うし)をしかったり、綱(つな)で打(う)ったりしたのであります。
 この町(まち)から、自分(じぶん)の村(むら)へゆく道(みち)は、たびたび歩(ある)いた道(みち)であって、よくわかっているはずでありましたが、雪(ゆき)が降(ふ)ると、まったく、あたりの景色(けしき)は変(か)わってしまいました。どこが、田(た)やら、圃(はたけ)やら、見当(けんとう)がつかなくなりました。そして、暗(くら)くなると、もう一足(ひとあし)も歩(ある)けなかったのです。
 百姓(しょう)は、こうなると、牛(うし)をしかる元気(げんき)も出(で)なくなりました。たとえ、いくら牛(うし)をしかってもなぐっても、どうすることもできなかったからであります。
「さ、困(こま)ってしまった。」といって、ぼんやり手綱(たづな)を握(にぎ)ったまま、百姓(しょう)は道(みち)の上(うえ)にたたずんでいました。いまごろ、だれもこの道(みち)を通(とお)るものはありませんでした。
 天気(てんき)が悪(わる)くなると、帰(かえ)る人(ひと)たちは急(いそ)いで、とっくに帰(かえ)ってしまいました。また、朝(あさ)のうちから天気(てんき)の変(か)わりそうなのを気遣(きづか)って、出(で)る人(ひと)も見合(みあ)わせていたので、日(ひ)の暮(く)れた原中(はらなか)では、一人(ひとり)の影(かげ)も見(み)えなかったのであります。
 百姓(しょう)は腹(はら)がすいてくるし、体(からだ)は寒(さむ)くなって、目(め)をいくら大(おお)きく開(あ)けても、だんだんあたりは暗(くら)く、見(み)えなくなってくるばかりでした。
 彼(かれ)は、どうなるかと思(おも)いました。道(みち)を迷(まよ)って、小川(おがわ)の中(なか)にでも落(お)ち込(こ)んだなら、牛(うし)といっしょに凍(こご)え死(し)んでしまわなければならぬと思(おも)いました。
 百姓(しょう)は、まったく泣(な)きたくなりました。ことに、
「ほんとうに、今日(きょう)こなければよかった。来年(らいねん)の春(はる)まで、この牛(うし)を飼(か)っておくことに、最初(さいしょ)からきめてしまえばよかった。あの年(とし)とった博労(ばくろう)のいったのはほんとうのことだ。いま、この寒(さむ)さに向(む)かって、他人(たにん)の手(て)に渡(わた)すのはかわいそうだ。」
 こう思(おも)うと、百姓(しょう)は、振(ふ)り向(む)いて、後(うし)ろから黙(だま)ってついてくる黒(くろ)い牛(うし)を見(み)て、かわいそうに思(おも)いました。牛(うし)の脊中(せなか)にも、冷(つめ)たい白(しろ)い雪(ゆき)がかかっていました。
「来年(らいねん)の春(はる)までは置(お)いてやるぞ。だが、今夜(こんや)この野原(のはら)でふたりが凍(こご)え死(じ)にをしてしまえば、それまでだ。俺(おれ)は、もう、もう一足(ひとあし)も歩(ある)けない。おまえは道(みち)がわかっているのか? たびたびこの道(みち)を通(とお)ったこともあるから、もしおまえにわかったなら、どうか俺(おれ)を乗(の)せて、家(うち)までつれていってくれないか?」
 百姓(しょう)は、牛(うし)に頼(たの)みました。
 彼(かれ)は、最後(さいご)に牛(うし)の助(たす)けを借(か)りるよりほかに、どうすることもできなかったのであります。
 牛(うし)は、百姓(しょう)を乗(の)せて、暗(くら)い道(みち)をはうように雪(ゆき)の降(ふ)る中(なか)を歩(ある)いていきました。夜(よ)が更(ふ)けてから、牛(うし)は、我(わ)が家(や)の門口(かどぐち)にきて止(と)まりました。百姓(しょう)は、はじめて生(い)きた心地(ここち)がして、明(あか)るい暖(あたた)かな家(いえ)の内(うち)に入(はい)ることができたのでした。
 百姓(しょう)は、その晩(ばん)、牛(うし)にはいつもよりかたくさんにまぐさをやりました。自分(じぶん)も酒(さけ)を飲(の)んで、床(とこ)の中(なか)に入(はい)って眠(ねむ)りました。
 明(あ)くる日(ひ)になると、もう、百姓(しょう)は、昨夜(さくや)の苦(くる)しかったことなどは忘(わす)れてしまいました。そして、これからもあることだが、ああして道(みち)に迷(まよ)ったときは、なまなか自分(じぶん)で手綱(たづな)を引(ひ)かずに、牛(うし)や馬(うま)の脊(せ)にまたがって、つれてきてもらうのがなによりりこうなやり方(かた)だと思(おも)いました。
 彼(かれ)は、あのとき、心(こころ)で牛(うし)に誓(ちか)ったことも、忘(わす)れてしまいました。そして、どうかして、早(はや)く年若(としわか)い牛(うし)を手(て)に入(い)れたいと思(おも)っていました。
 ちょうどその時分(じぶん)、同(おな)じ村(むら)に住(す)んでいる百姓(しょう)で、牛(うし)をいい値(ね)で売(う)ったという話(はなし)をききました。町(まち)へどんどん牛(うし)が送(おく)られるので、町(まち)へきている博労(ばくろう)が、いい値(ね)で手当(てあ)たりしだいに買(か)っているという話(はなし)を聞(き)いたのであります。
 彼(かれ)は、さっそく、その百姓(しょう)のところへ出(で)かけていきました。
「おまえさんの家(うし)の牛(うし)は、いくらで売(う)れたか。」とききました。すると、その百姓(しょう)は、
「なんでも、大(おお)きな牛(うし)ほど値(ね)になるようだから、おまえさんの家(うち)の牛(うし)は年(とし)をとっているが、体(からだ)が大(おお)きいからいい値(ね)になるだろう。」といいました。
 彼(かれ)は、もし自分(じぶん)の牛(うし)が売(う)られていったら、どうなるだろうという牛(うし)の運命(うんめい)などは考(かんが)えませんでした。ただ、思(おも)っているよりはいい値(ね)になりさえすれば、いまのうちに牛(うし)を売(う)ってしまって、金(かね)にしておくほうがいいと思(おも)いました。そして、来年(らいねん)の春(はる)になったら、若(わか)い、いい牛(うし)を買(か)えば自分(じぶん)はもっとしあわせになると思(おも)いました。
 さっそく、彼(かれ)は、町(まち)へ牛(うし)を引(ひ)いていって売(う)ることにいたしました。
 こうして百姓(しょう)は、ふたたびぬかるみの道(みち)を牛(うし)を引(ひ)いて、町(まち)の方(ほう)へといったのです。おそらく、今度(こんど)ばかりは、ふたたび、牛(うし)はこの家(うち)に帰(かえ)ってくるとは思(おも)われませんでした。
 百姓(しょう)は、道(みち)を歩(ある)きながら、「あの家(うち)の牛(うし)でさえ、それほどに売(う)れたのだから、あの牛(うし)よりはずっと大(おお)きい俺(おれ)の牛(うし)は、もっといい値(ね)で売(う)れるだろう。」と考(かんが)えていました。
 そのとき、牛(うし)は、何事(なにごと)も知(し)らぬふうに、ただ黙(だま)って、百姓(しょう)の後(うし)ろから、ついて歩(ある)いていきました。
 町(まち)へ着(つ)きました。そして、百姓(しょう)は、博労(ばくろう)にあって、自分(じぶん)の牛(うし)を売(う)りました。ほんとうに、彼(かれ)が思(おも)ったよりは、もっといい値(ね)で売(う)れたのであります。百姓(しょう)は、金(かね)を受(う)け取(と)ると、長年(ながねん)苦労(くろう)を一つにしてきた牛(うし)が、さびしそうに後(あと)に残(のこ)されているのを見向(みむ)きもせずに、さっさと出(で)ていってしまいました。
「大(おお)もうけをしたぞ。」と、彼(かれ)は、こおどりをしました。
 百姓(しょう)は、これが牛(うし)と一生(しょう)のお別(わか)れであることも忘(わす)れてしまって、なにか子供(こども)らに土産(みやげ)を買(か)っていってやろうと思(おも)いました。それで、小間物屋(こまものや)に入(はい)って、らっぱに、笛(ふえ)にお馬(うま)に、太鼓(たいこ)を買(か)いました。二人(ふたり)の子供(こども)らに、二つずつ分(わ)けてやろうと思(おも)ったのであえいます。
 この日(ひ)も、また寒(さむ)い日(ひ)でありました。百姓(しょう)は、たびたび入(はい)った居酒屋(いざかや)の前(まえ)を通(とお)りかかると、つい金(かね)を持(も)っているので、一杯(ぱい)やろうという気持(きも)ちになりました。
 彼(かれ)は、居酒屋(いざかや)ののれんをくぐって、ベンチに腰(こし)をかけました。そして、そこにきあわしている人(ひと)たちを相手(あいて)にしながら酒(さけ)を飲(の)みました。しまいには、舌(した)が自由(じゆう)にまわらないほど、酔(よ)ってしまいました。
 戸(と)の外(そと)を寒(さむ)い風(かぜ)が吹(ふ)いていました。いつのまにか日(ひ)は暮(く)れてしまったのであります。
「今日(きょう)は、牛(うし)を引(ひ)いていないから世話(せわ)がない。俺(おれ)一人(ひとり)だから、のろのろ歩(ある)く必要(ひつよう)はない。いくらでも早(はや)く歩(ある)いてみせる。三里(り)や四里(り)の道(みち)は、一走(ひとはし)りに走(はし)ってみせる。」と、自分(じぶん)で元気(げんき)をつけては、早(はや)く帰(かえ)らなければならぬことも忘(わす)れて、酒(さけ)を飲(の)んでいました。
 彼(かれ)は、燈火(あかり)がついたのでびっくりしました。しかし酔(よ)っているので、あくまでおちついて、すこしもあわてませんでした。
 やっと、彼(かれ)は、その居酒屋(いざかや)から外(そと)に出(で)ました。ふらふらと歩(ある)いて、町(まち)を出(で)はずれてから、さみしい田舎道(いなかみち)の方(ほう)へと歩(ある)いていきました。
 牛(うし)を売(う)ってしまって、百姓(しょう)は、まったく身軽(みがる)でありました。しかし、いままでは、たとえ彼(かれ)が道(みち)でないところをいこうとしても、牛(うし)は怪(あや)しんで、立(た)ち止(ど)まったまま歩(ある)きませんでした。いまは、彼(かれ)が道(みち)を迷(まよ)っても、それを教(おし)えてくれるものはなかったのであります。
 百姓(しょう)は、あちらへふらふら、こちらへふらふらと歩(ある)いているうちに、ちがった道(みち)の方(ほう)へいってしまいました。そのうちに、一本(ぽん)の大(おお)きな木(き)の根(ね)もとにつまずきました。
「やあ、なんだい?」といって、百姓(しょう)はほおかぶりをした顔(かお)で仰(あお)ぎますと、大(おお)きな黒(くろ)い木(き)が星晴(ほしば)れのした空(そら)に突(つ)っ立(た)っていました。懐(ふところ)に入(はい)っている財布(さいふ)や、腰(こし)につけている子供(こども)らへの土産(みやげ)を落(お)としてはならないと、酔(よ)っていながら、彼(かれ)は幾(いく)たびも心(こころ)の中(なか)で思(おも)いました。そして、たしかに落(お)とした気遣(きづか)いはないと思(おも)うと、安心(あんしん)して、そのまま木(き)の根(ね)に腰(こし)をかけてしまいました。
 彼(かれ)は、ほんとうにいい気持(きも)ちでありました。
 ほおを吹(ふ)く風(かぜ)も、寒(さむ)くはなかったのであります。あたりを見(み)まわすと、いつのまにか、晩春(ばんしゅん)になっていました。
 まだ、野原(のはら)には咲(さ)き残(のこ)った花(はな)もあるけれど、一面(めん)にこの世(よ)の中(なか)は緑(みどり)の色(いろ)に包(つつ)まれています。田(た)の中(なか)では、かえるの声(こえ)が夢(ゆめ)のようにきこえて、圃(はたけ)はすっかり耕(たがや)されてしまい、麦(むぎ)はぐんぐん伸(の)びていました。
 彼(かれ)は、このごろ手(て)に入(い)れた若(わか)い牛(うし)のことを考(かんが)えながら、土手(どて)によりかかって空(そら)をながめていますと、野(の)のはての方(ほう)から、大(おお)きな月(つき)が上(あ)がりかけました。空(そら)は、よく晴(は)れていて、月(つき)はまんまるくて、昼間(ひるま)のように、あたりを照(て)らしています。
「まあ、あんなに若(わか)い、いい牛(うし)は、この村(むら)でも持(も)っているものはたくさんない。みんな俺(おれ)の牛(うし)を見(み)ては、うらやまないものは一人(ひとり)もない……。」と、彼(かれ)は、いい機嫌(きげん)で独(ひと)り言(ごと)をしていました。
 すると、たちまち、あちらの方(ほう)から太鼓(たいこ)の音(おと)がきこえ、笛(ふえ)の音(ね)がして、なんだか、一時(じ)ににぎやかになりました。
「不思議(ふしぎ)だ、もう日(ひ)が暮(く)れたのに、なにがあるのだろう?」と、彼(かれ)は思(おも)って、その方(ほう)を見守(みまも)っていました。
 村(むら)じゅうの人(ひと)が総出(そうで)で、なにかはやしたてています。そのうち、こちらへ黒(くろ)いものが、あちらの森(もり)の中(なか)から逃(に)げるようにやってきました。見(み)ると、自分(じぶん)の家(うち)の牛(うし)であります。牛(うし)は、いつのまに小舎(こや)の中(なか)から森(もり)に出(で)たものか、その脊中(せなか)には二人(ふたり)の子供(こども)たちが乗(の)って、一人(ひとり)は太鼓(たいこ)をたたき、一人(ひとり)は笛(ふえ)を吹(ふ)いていました。
「いつのまに、子供(こども)たちは、あんなに上手(じょうず)になったろう?」と、彼(かれ)は感心(かんしん)して、耳(みみ)を傾(かたむ)けました。
「きっと、子供(こども)らは、俺(おれ)を探(さが)しにやってきたのだろう。いまじきに俺(おれ)を見(み)つけるにちがいない。そして、ここへきて、俺(おれ)の前(まえ)で、太鼓(たいこ)を打(う)ち、笛(ふえ)を吹(ふ)いてみせるにちがいない。俺(おれ)は、子供(こども)らが見(み)つけるまで、黙(だま)って眠(ねむ)ったふりをしていよう……。」と思(おも)いました。
 太鼓(たいこ)をたたいたり、笛(ふえ)を吹(ふ)いたりしている、二人(ふたり)の子供(こども)たちの姿(すがた)は、月(つき)がいいので、はっきりとわかりました。
 やがて、牛(うし)は、彼(かれ)のいる前(まえ)へやってきました。子供(こども)たちが、自分(じぶん)を見(み)つけて、いまにも飛(と)び降(お)りるだろうと思(おも)っていましたのに、牛(うし)は子供(こども)たちを乗(の)せたまま、さっさと自分(じぶん)の前(まえ)を通(とお)りすぎて、あちらへいってしまいました。
 遠(とお)くに、池(いけ)が見(み)えていました。池(いけ)の水(みず)は、なみなみとしていて、その上(うえ)に、月(つき)の光(ひかり)が明(あか)るく輝(かがや)いていました。若(わか)い牛(うし)は、ずんずん、その方(ほう)に向(む)かって歩(ある)いてゆきました。
 彼(かれ)は、驚(おどろ)いて起(お)き上(あ)がりました。なに用(よう)があって、子供(こども)たちは、池(いけ)の方(ほう)に歩(ある)いて行(い)くのか? 自分(じぶん)はここにいるのに!
「おうい、おうい。」
 彼(かれ)は、牛(うし)を呼(よ)び止(と)めようとしました。しかし、二人(ふたり)の子供(こども)たちが笛(ふえ)を吹(ふ)いたり、太鼓(たいこ)をたたいたりしているので、彼(かれ)の呼(よ)び声(ごえ)は、子供(こども)たちにはわからなかったのです。
 百姓(しょう)がこのごろ手(て)に入(い)れたばかりの、若(わか)い黒(くろ)い牛(うし)は、水(みず)を臆(おく)せずにずんずんと池(いけ)の中(なか)に向(む)かって走(はし)るように歩(ある)いていきました。
 このとき、百姓(しょう)は、後悔(こうかい)しました。これが前(まえ)の年(とし)とった牛(うし)であったら、こんな乱暴(らんぼう)はしなかろう。そして、自分(じぶん)がこんなに心配(しんぱい)することはなかったろう。あの年(とし)とった牛(うし)は、一度(ど)、暗(くら)い雪(ゆき)の降(ふ)る夜(よ)、自分(じぶん)を助(たす)けたことがあった――あの牛(うし)なら、子供(こども)を乗(の)せておいても安心(あんしん)されていたのに――と思(おも)いながら。彼(かれ)は、大(おお)いに気(き)をもんでいました。
 彼(かれ)は、もはや、じっとして見(み)ていることができずに、その後(あと)を追(お)っていきました。すると、すでに、牛(うし)は、自分(じぶん)の子供(こども)を乗(の)せたまま池(いけ)の中(なか)へどんどんと入(はい)っていきました。
「どうする気(き)だろう。」
 百姓(しょう)は、たまげてしまって、さっそく裸(はだか)になりました。そして、自分(じぶん)も池(いけ)のふちまで走(はし)っていったときは、もうどこにも牛(うし)の影(かげ)は見(み)えなかったのであります。
 彼(かれ)は、のどが渇(かわ)いて、しかたがありませんでした。草(くさ)を分(わ)けて池(いけ)の水(みず)を手(て)にすくって、幾(いく)たびとなく飲(の)みました。
 このとき、太鼓(たいこ)の音(おと)と、笛(ふえ)の音(ね)は、遠(とお)く、池(いけ)を越(こ)して、あちらの月(つき)の下(した)の白(しろ)いもやの中(なか)から聞(き)こえてきました。
 あの牛(うし)は、どうして水音(みずおと)もたてずに、この池(いけ)を泳(およ)いでいったろう? 百姓(しょう)は、とにかく子供(こども)たちが無事(ぶじ)なので、安心(あんしん)しました。
 彼(かれ)は、また、そこにうずくまりました。すると、心地(こころち)よい春(はる)の風(かぜ)は、顔(かお)に当(あ)たって、月(つき)の光(ひかり)が、ますますあたりを明(あか)るく照(て)らしたのであります。
 やっと夜(よ)が明(あ)けました。百姓(しょう)は驚(おどろ)きました。小(ちい)さな、川(かわ)の中(なか)に体(からだ)が半分(はんぶん)落(お)ちて、自分(じぶん)は道(みち)でもないところに倒(たお)れていたからです。帯(おび)は解(と)けて、財布(さいふ)はどこへかなくなり、子供(こども)たちの土産(みやげ)に買(か)ってきた笛(ふえ)や太鼓(たいこ)は、田(た)の中(なか)に埋(う)まっていました。
 少々(しょうしょう)隔(へだ)たったところには、高(たか)い大(おお)きな松(まつ)の木(き)がありました。木(き)の上(うえ)の冬空(ふゆぞら)は、雲(ゆき)ゆきが早(はや)くて、じっと下界(げかい)を見(み)おろしていました。百姓(しょう)の家(いえ)は、ここからまだ遠(とお)かったのです。
了

底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
   1976(昭和51)年12月10日第1刷
   1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「女性日本人 4巻1号」
   1923(大正12)年1月
※表題は底本では、「百姓(しょう)の夢(ゆめ)」となっています。
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校正:江村秀之
2013年11月5日作成
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