あらすじ
夏の日のこと、汽車の運転手は、広い野原で線路を歩く白い着物を着た男を見ます。汽車は全速力で走っていたため、運転手は慌てて警笛を鳴らしますが、男は平然と線路を歩き続けました。運転手は急ブレーキをかけますが、その反動で列車は脱線。大きな事故が起きてしまいます。しかし、男の姿はどこにもありませんでした。その後も白い男はたびたび目撃され、町の人々に不安を与えていきます。白い影は一体何者なのでしょうか。そして、なぜ人々の前に姿を現すのでしょうか。
 夏(なつ)の日(ひ)のことでありました。汽車(きしゃ)の運転手(うんてんしゅ)は、広(ひろ)い野原(のはら)の中(なか)にさしかかりますと、白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た男(おとこ)が、のそりのそりと線路(せんろ)の中(なか)を歩(ある)いているのを認(みと)めました。
 このあたりには人家(じんか)もまれであって、右(みぎ)を見(み)ても左(ひだり)を見(み)ても、草(くさ)の葉(は)がきらきらと、さながらぬれてでもいるように、日(ひ)の光(ひかり)に照(て)らされて光(ひか)っていました。また、遠近(おちこち)にこんもりとした林(はやし)や森(もり)などが、緑色(みどりいろ)のまりを転(ころ)がしたようにおちついていて、せみの声(こえ)が聞(き)こえていました。
 白(しろ)い男(おとこ)を見(み)ると、運転手(うんてんしゅ)は、ハッと思(おも)って、あわただしく警笛(けいてき)を鳴(な)らしました。なぜなら、汽車(きしゃ)がちょうど全速力(ぜんそくりょく)を出(だ)して走(はし)っていたからであります。
 しかし、白(しろ)い男(おとこ)は平気(へいき)で、やはり線路(せんろ)の内側(うちがわ)を歩(ある)いていました。もうすこし早(はや)く、これを見(み)つけたら、こんなに運転手(うんてんしゅ)は、あわてることもなかったのでしょうけれど、このあたりはめったに人(ひと)の通(とお)るところでなし、安心(あんしん)をして、彼(かれ)は前方(ぜんぽう)に見(み)える遠(とお)い国境(こっきょう)の山影(やまかげ)などをながめて、その山(やま)の頂(いただき)に飛(と)んでいる雲(くも)のあたりに空想(くうそう)を走(はし)らせていたのであります。
 白(しろ)い影(かげ)は、もう、二十間(けん)……十間(けん)……すぐ目(め)の前(まえ)に迫(せま)りました。運転手(うんてんしゅ)は大急(おおいそ)ぎで進行(しんこう)をしている汽車(きしゃ)を止(と)めました。その反動(はんどう)で、どうしたはずみにか、列車(れっしゃ)は大脱線(だいだっせん)をしてしまいました。おりよく、それが貨車(かしゃ)であったからたいした負傷者(ふしょうしゃ)はなかったけれど、貨車(かしゃ)は幾台(いくだい)となく壊(こわ)れて、田(た)の中(なか)に埋(う)まったり、堤防(ていぼう)の上(うえ)に転覆(てんぷく)したりして、たいへんな騒(さわ)ぎになりました。
 運転手(うんてんしゅ)は、負傷(ふしょう)をしました。そして、うめきながら、白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た大男(おおおとこ)をひき殺(ころ)したと告(つ)げました。
 それで、みんなは、汽車(きしゃ)の転覆(てんぷく)の原因(げんいん)が、人(ひと)をひき殺(ころ)そうとしたため、急(いそ)いで汽車(きしゃ)を止(と)めたのにあったことを知(し)りました。それにしても、こんな大事件(だいじけん)をひき起(お)こした男(おとこ)は、どうなったかといって、みんなは、汽罐車(きかんしゃ)の下(した)をのぞいてみました。そこには白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た男(おとこ)がひき砕(くだ)かれて血(ち)みどろになっているだろうと思(おも)いましたのに、なんの姿(すがた)もありませんでした。
「白(しろ)い男(おとこ)なんて、いないじゃないか?」
「どこにも人間(にんげん)はおろか、ねこ一ぴきだってひかれていはしないじゃないか。」
 みんなは、こう口々(くちぐち)にいいました。そして、これはまさしく運転手(うんてんしゅ)が、むだ目(め)を見(み)たのだといいました。
 あくる日(ひ)の町(まち)の新聞(しんぶん)には、運転手(うんてんしゅ)がむだ目(め)を見(み)たために、貨物列車(かもつれっしゃ)を脱線(だっせん)さしてしまったことを大(おお)きく書(か)いていました。そして、運転手(うんてんしゅ)は、このごろ、神経衰弱(しんけいすいじゃく)にかかっていたということもつけくわえて報道(ほうどう)しました。
 すると、ここに、白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た大男(おおおとこ)が、その後(ご)も真昼(まひる)ごろ、のそりのそりと線路(せんろ)の上(うえ)を歩(ある)いているのを見(み)たというものがありました。なんでも、その人(ひと)の話(はなし)によると、雲(くも)をつくばかりの大男(おおおとこ)であったというのでした。
 こうした奇怪(きかい)な話(はなし)は、これまでに、二度(ど)めであります。この鉄道線路(てつどうせんろ)は、西南(せいなん)から走(はし)って、この野原(のはら)の中(なか)でひとうねりして、それからまっすぐに北方(ほっぽう)へと無限(むげん)に連(つら)なっているのでした。
 この前(まえ)この地方(ちほう)に、稀有(けう)な暴風(ぼうふう)が襲(おそ)ったことがあります。そのときは、電信柱(でんしんばしら)をかたっぱしから吹(ふ)き倒(たお)してしまいました。高(たか)い木(き)は折(お)れ、家(いえ)は倒(たお)れ、橋(はし)は流(なが)れてしまったので、じつに、天地(てんち)は真(ま)っ暗(くら)になったのであります。人々(ひとびと)は、そのときの恐(おそ)ろしかったことをいまでも記憶(きおく)しています。やはり、その当座(とうざ)、一つのうわさがたちました。
 なんでも、暴風(ぼうふう)は、黒(くろ)い太(ふと)い棒(ぼう)になってうずを巻(ま)いて過(す)ぎていった。あの暴風(ぼうふう)がくる前(まえ)、灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)た、見上(みあ)げるばかりの大男(おおおとこ)が、この鉄道線路(てつどうせんろ)の上(うえ)をのそりのそりと歩(ある)いていたのを、見(み)たものがあったというのであります。
 それで、このたびも運転手(うんてんしゅ)が、白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た大男(おおおとこ)が、線路内(せんろない)を歩(ある)いているのを見(み)たといったことが、かならずしも、むだ目(め)ばかりでないといって、みんなに不安(ふあん)を抱(いだ)かせたのです。
 線路(せんろ)は修繕(しゅうぜん)されて、やがて列車(れっしゃ)は、いままでのように往復(おうふく)するようになりました。その後(ご)になって、ふたたび同(おな)じような事件(じけん)が繰(く)り返(かえ)されました。
 もとより、これは、別(べつ)な運転手(うんてんしゅ)で、もっと年(とし)をとった熟練(じゅくれん)な男(おとこ)でありました。その汽車(きしゃ)には、大臣(だいじん)とたくさんな高等官(こうとうかん)が乗(の)っていました。この野原(のはら)にさしかかると、汽車(きしゃ)はしきりに警笛(けいてき)を鳴(な)らしつづけましたが、不意(ふい)に、停車場(ていしゃば)でもないのに止(と)まってしまったのです。
「どうしたのだ?」といって、みんなは、客車(きゃくしゃ)の窓(まど)から頭(あたま)を出(だ)して、外(そと)をのぞきました。運転手(うんてんしゅ)や、その他(た)、汽車(きしゃ)の勤務員(きんむいん)は、車内(しゃない)から飛(と)び降(お)りて、前方(ぜんぽう)の汽罐車(きかんしゃ)の方(ほう)に向(む)かって駆(か)けていきました。
「ひいたな?」と、客車(きゃくしゃ)に乗(の)っている人々(ひとびと)は、頭(あたま)を出(だ)して、その方(ほう)を見(み)ながらいいました。
 また、一等(とう)室(しつ)からも、大臣(だいじん)や、高等官(こうとうかん)の顔(かお)がちょっとばかり現(あらわ)れました。しかしその人(ひと)たちの顔(かお)は、じきに引(ひ)っ込(こ)んでしまいました。けれど、内部(ないぶ)では、やはり他(た)の客車(きゃくしゃ)に乗(の)っている人(ひと)たちと同(おな)じようなことをいって、うわさをしていたにちがいありません。
「不思議(ふしぎ)だ!」という声(こえ)が、あちらにも、こちらにも起(お)こりはじめました。
「いったい、どうしたことかな?」と、大臣(だいじん)は眉(まゆ)のあたりをしかめて、おそばのものにたずねました。おそばのものは、さっそく、汽車(きしゃ)の監督(かんとく)を呼(よ)んで、子細(しさい)をさらにたずねたのであります。
 監督(かんとく)は恐縮(きょうしゅく)して、いまあった事実(じじつ)を答(こた)えました。
「線路内(せんろない)を歩(ある)いていくものがありますから、笛(ふえ)を鳴(な)らしたのです。」
「その笛(ふえ)の音(おと)は私(わたし)も聞(き)いた。」と、シルクハットをかぶった高等官(こうとうかん)はうなずきました。
「歩(ある)いている人間(にんげん)は、耳(みみ)が聞(き)こえないとみえて、いっこう平気(へいき)で、汽車(きしゃ)が後(あと)からくるのを気(き)づかなかったのです。しかたがないものですから汽車(きしゃ)を止(と)めました。しかし、そのときは、もう遅(おそ)かったか、歩(ある)いている人間(にんげん)のそばまで汽車(きしゃ)が走(はし)っていきました。」
「ひいてしまったのか? しかし、前後(ぜんご)の事情(じじょう)を聞(き)けばしかたがないことだ。」と、高等官(こうとうかん)はいいました。
「いえ、ところが、線路(せんろ)の上(うえ)にも血(ち)が流(なが)れていず、またあたりにも、その人間(にんげん)の影(かげ)が見(み)えないのです。」
「どんなようすをしていたのか?」
「やはり、白(しろ)い着物(きもの)を着(き)ていたといいます。」
 こう答(こた)えて、監督(かんとく)は、高等官(こうとうかん)の顔(かお)を仰(あお)ぎました。
「最近(さいきん)、汽車(きしゃ)が脱線(だっせん)したときも、それだったじゃないか。また、運転手(うんてんしゅ)がむだ目(め)を見(み)たのではないか。」と、高等官(こうとうかん)はいいました。
「今度(こんど)は、二人(ふたり)も、三人(にん)も、白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た男(おとこ)を見(み)たものがあるのです。」と、監督(かんとく)は頭(あたま)をかしげながら答(こた)えました。
 おそばの者(もの)は、このことを大臣(だいじん)に申(もう)しあげました。すると、大臣(だいじん)は、大(おお)きな体(からだ)をゆすって、
「このたびは、脱線(だっせん)をしなくて、命拾(いのちびろ)いをしたというものじゃ。」と、驚(おどろ)いたような、喜(よろこ)んだような顔(かお)つきをしていいました。
 大臣(だいじん)の乗(の)っていた列車(れっしゃ)が、途中(とちゅう)不時(ふじ)の停車(ていしゃ)をしたというので、また問題(もんだい)になりました。そして、あくる日(ひ)の町(まち)から出(で)る新聞(しんぶん)には、運転手(うんてんしゅ)が、どうしてこのごろ、こうむだ目(め)を見(み)るのか? 気候(きこう)の変化(へんか)で、もしくは、過度(かど)の労働(ろうどう)でみんな神経衰弱(しんけいすいじゃく)にかかっているのではないかという疑(うたが)いを起(お)こしていました。
 その後(ご)は、汽車(きしゃ)が進行(しんこう)してくる際(さい)に、たとえ線路内(せんろない)に、子供(こども)や老人(ろうじん)の影(かげ)を見(み)ましても、運転手(うんてんしゅ)は警笛(けいてき)を鳴(な)らさずに進行(しんこう)をつづけることがありました。
「これも、きっとむだ目(め)であろう。」と、彼(かれ)らは思(おも)ったからであります。
 たちまち、責任問題(せきにんもんだい)が起(お)こりました。轢死者(れきししゃ)の数(すう)が著(いちじる)しく増(ま)したからです。なぜ、警笛(けいてき)を鳴(な)らさなかったか? 被害者(ひがいしゃ)の側(がわ)では、こういって、鉄道側(てつどうがわ)を非難(ひなん)いたしました。
 白(しろ)い影(かげ)は、鉄道線路(てつどうせんろ)を伝(つた)って、ついに街(まち)の方(ほう)へやってきました。こんどは、街(まち)のあちらこちらで、白(しろ)い影(かげ)のうわさが盛(さか)んになりました。
「今日(きょう)、向(む)かいのご隠居(いんきょ)が、取引所(とりひきじょ)で、白(しろ)い男(おとこ)がみんなの中(なか)に混(ま)じって見物(けんぶつ)していたといわれました。それで、昼過(ひるす)ぎからの株(かぶ)がたいへんに下(さ)がって、大騒(おおさわ)ぎだったそうですよ。」と、あるところでは、おかみさんが近所(きんじょ)の人(ひと)に話(はなし)をしていました。
「白(しろ)い男(おとこ)ってなんでございますか?」
「白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た、気味(きみ)の悪(わる)い男(おとこ)だそうですよ。」と、おかみさんは答(こた)えました。
 そこへ、ちょうど隠居(いんきょ)が通(とお)りかかりました。二人(ふたり)の女(おんな)は、おじいさんを呼(よ)び止(と)めました。
「おじいさん、あんたは、白(しろ)い男(おとこ)をごらんなさったのですか。」と、一人(ひとり)の女(おんな)はたずねました。
「めっそうな、私(わたし)が見(み)たら、いまごろは破産(はさん)せんけりゃならん。白(しろ)い、気味(きみ)の悪(わる)い目(め)つきをした男(おとこ)が見物人(けんぶつにん)の中(なか)に混(ま)じって、じっとしていたということでな。なんでもその男(おとこ)を見(み)たものは、みんな株(かぶ)に損(そん)をしたという話(はなし)じゃ。」と、おじいさんはいいました。
 ある日(ひ)、街(まち)の四(よ)つ角(かど)のところで、電車(でんしゃ)と自動車(じどうしゃ)とが衝突(しょうとつ)しました。自動車(じどうしゃ)はもはや使用(しよう)されないまでに壊(こわ)され、電車(でんしゃ)もまた脱線(だっせん)して、しばらくは、そのあたりは雑踏(ざっとう)をきわめたのであります。そして、怪我人(けがにん)もできましたので、電車(でんしゃ)と自動車(じどうしゃ)の運転手(うんてんしゅ)は、警察(けいさつ)へいってしらべられることになりました。
「どうして、衝突(しょうとつ)をしたのだ?」といって、警官(けいかん)がききますと、自動車(じどうしゃ)の運転手(うんてんしゅ)は、そのときのことを思(おも)い浮(う)かべるような目(め)つきをして、
「晩方(ばんがた)でありました。両側(りょうがわ)には、燈火(ともしび)のついたころあいです。電車(でんしゃ)の停留場(ていりゅうじょう)には、たくさん人(ひと)が立(た)っていました。私(わたし)は注意(ちゅうい)をして、それらの人(ひと)たちを避(さ)けながら走(はし)っていますと、目(め)の先(さき)へ、小(ちい)さな白(しろ)い着物(きもの)を着(き)たおじいさんが、ちょこちょこと出(で)てきたから、私(わたし)はとっさのことですし、たいそう狼狽(ろうばい)しました。その前(まえ)まで、そんな老人(ろうじん)が歩(ある)いていることに気(き)づかなかったのです。私(わたし)はひくまいと思(おも)って、全速力(ぜんそくりょく)で脇(わき)の方(ほう)へそれますと、そのとたんにやってきた電車(でんしゃ)と衝突(しょうとつ)したのでした。」と申(もう)しました。
「その着物(きもの)を着(き)た老人(ろうじん)はどうしたか?」と、警官(けいかん)はききました。
「不思議(ふしぎ)にも、その間(あいだ)に老人(ろうじん)の姿(すがた)は消(き)えたように、どこへいってしまったものか見(み)えなくなりました。」と、運転手(うんてんしゅ)は答(こた)えました。
「おまえの見(み)た、白(しろ)い着物(きもの)を着(き)た老人(ろうじん)というのは、大男(おおおとこ)ではなく小(ちい)さかったのか?」
 警官(けいかん)は、これまで、大(おお)きな白(しろ)い男(おとこ)が、影(かげ)のように線路(せんろ)の上(うえ)に立(た)って、幾(いく)たびか汽車(きしゃ)を脱線(だっせん)さしたり、また止(と)めたりしたといううわさを聞(き)いていましたから、いま小(ちい)さな白(しろ)い男(おとこ)だと聞(き)いて、異様(いよう)に感(かん)じたからであります。
「私(わたし)たちの見(み)たのは、白(しろ)い小(ちい)さなおじいさんでした。」と、両方(りょうほう)の運転手(うんてんしゅ)は、はっきりと答(こた)えました。
「いつ、そんなに小(ちい)さくなったのか?」と、警官(けいかん)は、くびをかしげました。
「そのことは、私(わたし)たちに、わかりません。」と、運転手(うんてんしゅ)は、おそるおそる答(こた)えました。
 この白(しろ)い影(かげ)が、この町(まち)に入(はい)ってきたことは、どんなにみんなの生活(せいかつ)の上(うえ)に不安(ふあん)を与(あた)えたでありましょう。ほんとうに、ペストや、コレラが入(はい)ってきたよりもおそろしい、防禦(ぼうぎょ)のできない事実(じじつ)であったからであります。
 しかし、白(しろ)い影(かげ)が、ある人(ひと)の目(め)に見(み)えて、ある人(ひと)の目(め)に見(み)えないという理由(りゆう)はない。それを見(み)る人(ひと)は、気候(きこう)の関係(かんけい)で、また神経衰弱(しんけいすいじゃく)にかかったからではなかろうかというような解釈(かいしゃく)をした人(ひと)がありましたが、実際(じっさい)において、気(き)づく人(ひと)と気(き)づかない人(ひと)との相違(そうい)があるということに、ほぼ輿論(よろん)はきまったのであります。
 そして、いちばん困(こま)ったことには、なにか自分(じぶん)の不注意(ふちゅうい)で、失敗(しっぱい)をしたものが、白(しろ)い影(かげ)を見(み)たからといって、ほんとうは、見(み)もしないのに、すべての過失(かしつ)を白(しろ)い影(かげ)に帰(き)してしまったことでありました。
「白(しろ)い影(かげ)をつかまえることにしよう。」
 町(まち)の人々(ひとびと)は、こう話(はなし)をきめたのであります。そして、その正体(しょうたい)を見(み)とどけようと思(おも)いました。
 まだ暑(あつ)い、夏(なつ)の時分(じぶん)、野原(のはら)を白(しろ)い男(おとこ)がさまよっているときは、大(おお)きな雲(くも)つくばかりの体(からだ)でのそりのそりと、真昼(まひる)の線路(せんろ)を歩(ある)いたものであるが、街(まち)に入(はい)ってからは、小男(こおとこ)となって、晩方(ばんがた)から夜(よる)にかけて、多(おお)く人混(ひとご)みの中(なか)に出(で)かけるようになりました。それで、捕(と)らえることは困難(こんなん)であったのです。しかし、だんだん白地(しろじ)の浴衣(ゆかた)を着(き)る人(ひと)が少(すく)なくなって、みんな人々(ひとびと)が黒(くろ)っぽい着物(きもの)を着(き)るようになってから、一方(ぽう)では、やっと白(しろ)い影(かげ)を捜(さが)すのに都合(つごう)がよくなりました。
 幾日(いくにち)かたちましたけれど、まだ、白(しろ)い男(おとこ)を捕(と)らえたものはありませんでした。なんでも、このごろは、白(しろ)い男(おとこ)は、月(つき)のいい寒(さむ)い晩(ばん)に、町(まち)の屋根(やね)から、屋根(やね)を伝(つた)わって、星(ほし)のように飛(と)んでいるのを見(み)たというものが、あちらこちらにありました。
「地震(じしん)があるのではなかろうか?」と、一時(じ)は、こんなうわささえしたものがあった。また夜(よる)はなるべく外(そと)に出(で)ずに、白(しろ)い影(かげ)を見(み)ないものと、早(はや)くから戸(と)を閉(し)めてしまうような臆病者(おくびょうもの)も少(すく)なくはなかったのであります。
 すると、こんどは、いままでとはまったく違(ちが)ったうわさがひろまりはじめました。
「今年(ことし)は、いままでにないことだ。暴風(ぼうふう)もこず、米(こめ)はよくできて豊年(ほうねん)だ。昔(むかし)の人(ひと)の話(はなし)に、白(しろ)い影(かげ)が入(はい)ってきた年(とし)は豊年(ほうねん)だということだ。」というようなうわさがたちはじめると、
「大河(おおかわ)にかかっている鉄橋(てっきょう)の根(ね)もとが腐(くさ)れていたのをこのごろ発見(はっけん)した。白(しろ)い影(かげ)が線路(せんろ)の上(うえ)を歩(ある)いていたのは、それを注意(ちゅうい)するためだった。」と、いうような説(せつ)が、後(あと)から後(あと)からつづいて起(お)こったのであります。
 町(まち)の新聞(しんぶん)は、また白(しろ)い影(かげ)を科学的(かがくてき)に批評(ひひょう)をしていました。ある理学士(りがくし)は、白(しろ)い男(おとこ)のように見(み)えたのは、水蒸気(すいじょうき)のどうかした具合(ぐあい)で、人間(にんげん)の形(かたち)に見(み)えたのであろう。秋(あき)から冬(ふゆ)にかけては、毎夜(まいよ)のごとく、月(つき)のいい晩(ばん)には、白(しろ)いもやがいろいろの形(かたち)で立(た)ち上(のぼ)るものだ。また、夏(なつ)の日(ひ)、野原(のはら)で見(み)た、白(しろ)い大男(おおおとこ)というのも、おそらく同(どう)一の現象(げんしょう)で、雲(くも)のようなものではなかろうかといって、なんでもなく、それを解決(かいけつ)していました。
 最初(さいしょ)、白(しろ)い男(おとこ)を見(み)て、汽車(きしゃ)を脱線(だっせん)さしたばかりでなく、自分(じぶん)も負傷(ふしょう)した運転手(うんてんしゅ)は、神経衰弱(しんけいすいじゃく)から、むだ目(め)が見(み)えたのだと判断(はんだん)されたものの、とにかく汽車(きしゃ)を脱線(だっせん)さした責任(せきにん)から退職(たいしょく)させられて、いまでは、町(まち)に近(ちか)い港(みなと)の汽船問屋(きせんどんや)に勤(つと)めていたのであります。
 もう秋(あき)も末(すえ)のことでありました。今夜(こんや)にも、冬(ふゆ)がやってきそうに、空(そら)の色(いろ)は澄(す)んで海(うみ)の色(いろ)はさえていました。野原(のはら)の中(なか)の林(はやし)も色(いろ)づいて、こずえからは、黄色(きいろ)い葉(は)がひとりでにこぼれるように、ほろほろと落(お)ちていました。また、街(まち)の並木(なみき)の葉(は)は、たいてい落(お)ちつくしてしまって、黒(くろ)い小枝(こえだ)の先(さき)が青(あお)い空(そら)の下(した)に細(こま)かく、網(あみ)の目(め)のように透(す)いて見(み)えていました。
 この港(みなと)から、南洋(なんよう)の方(ほう)へゆく船(ふね)は、今夜(こんや)出(で)てゆくのが今年(ことし)じゅうの最終(さいしゅう)でありましたが、あまりそれには乗(の)ってゆく客(きゃく)もなかったのです。
 夕陽(ゆうひ)は、岡(おか)を染(そ)め街(まち)に沈(しず)みかかっています。そのとき、汽船(きせん)の待合室(まちあいしつ)に、いつかの運転手(うんてんしゅ)は、一人(ひとり)の不思議(ふしぎ)な女(おんな)をみとめました。
 目(め)の美(うつく)しい、髪(かみ)のちぢれた娘(むすめ)が、燃(も)えるような赤(あか)マントを着(き)て、たった一人(ひとり)ベンチに腰(こし)をかけて、悲(かな)しそうな目(め)つきで、海(うみ)の上(うえ)をながめていたのです。そして、娘(むすめ)は、手(て)の中(なか)に、小(ちい)さい真(ま)っ白(しろ)なねこを抱(だ)いていました。人(ひと)が近(ちか)づくと、その白(しろ)いねこは消(き)えたように、マントの下(した)に隠(かく)れてしまいました。そして、だれもそばにいなくなると、また、真(ま)っ白(しろ)なねこは、娘(むすめ)の手(て)の中(なか)に入(はい)って遊(あそ)んでいたのでした。
「この町(まち)を騒(さわ)がした白(しろ)い悪魔(あくま)は、こいつでなかったか?」と、いつか負傷(ふしょう)した運転手(うんてんしゅ)は、ふと心(こころ)に思(おも)いました。そして、今日(きょう)、船(ふね)に乗(の)って沖(おき)へ出(で)ていってしまったら、もうこの町(まち)に不安(ふあん)はなくなるだろうと思(おも)いました……。はたして、それからは、もう白(しろ)い影(かげ)を見(み)たものはありませんでした。
了

底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
   1976(昭和51)年12月10日第1刷
   1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「婦人公論」
   1923(大正12)年1月
※表題は底本では、「白(しろ)い影(かげ)」となっています。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2013年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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