あらすじ
ある場所に、真っ黒な河が流れ、砂も真っ黒で、生き物もいない静かな世界がありました。そこには、真っ黒な髪と灰色《はいいろ》の着物を着た女が住んでおり、彼女は下界にわざわいの砂と死の水をまき、人々を不幸にしようとしていました。一方、別の場所には、水晶のように澄んだ河が流れ、砂は黄金色に輝き、花が咲き乱れる楽園がありました。そこに住む美しい少女は、黄金色の砂を河に投げ、幸福《こうふく》を下界に送っていました。しかし、姉の悪意は容赦なく続き、妹は自分が送った幸福《こうふく》が、下界のすべての人々に届いていないことに気づき、深い悲しみを感じます。そして、ついに下界を訪れた妹は、想像を絶する現実を目の当たりにするのです。
 それは、ここからは見(み)えないところです。
 そこには黒(くろ)い、黒(くろ)い河(かわ)が流(なが)れています。どうしたことか、その河(かわ)の水(みず)は真(ま)っ黒(くろ)でありました。河(かわ)が真(ま)っ黒(くろ)であったばかりでなく、河原(かわら)の砂(すな)もまた真(ま)っ黒(くろ)でありました。そして、その河(かわ)は音(おと)もたてずに、また真(ま)っ黒(くろ)な大(おお)きな森(もり)の中(なか)をくぐって、いずこともなく流(なが)れているのでありました。
 空(そら)の色(いろ)は、夜(よる)ともつかず、また昼(ひる)ともつかずに、うす暗(ぐら)くぼんやりとしていました。ただ、ため息(いき)のように、風(かぜ)が吹(ふ)いて、忍(しの)び足(あし)にどこへかいくのでありました。そして、そのところには、生(い)き物(もの)というものは、なにひとつ動(うご)いている姿(すがた)を見(み)ることができませんでした。ただ河原(かわら)を怪(あや)しげな女(おんな)が歩(ある)いているばかりでありました。
 いったい、この怪(あや)しげな女(おんな)はなにものでありましょうか。年(とし)をとっているのか、また、そんなに年(とし)をとっていないのか、見(み)ただけではわかりませんでした。顔(かお)も肩(かた)さきも、その長(なが)い真(ま)っ黒(くろ)な髪(かみ)の毛(け)に隠(かく)れていてよく見(み)ることができませんでした。
 たまたま髪(かみ)の毛(け)の間(あいだ)から血(ち)の気(き)のない顔(かお)が現(あらわ)れたかと思(おも)うと、ガラス球(だま)のように光(ひか)った目(め)が、氷(こおり)のように冷(つめ)たくあたりを見(み)まわしていたのであります。
 この怪(あや)しげな女(おんな)は、灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)ていました。そして、めったに笑(わら)うこともありませんでした。女(おんな)は、やせて骨(ほね)ばかりになった手(て)をのばして足(あし)もとの真(ま)っ黒(くろ)な砂(すな)をすくいました。そして、なにか口(くち)の中(なか)で唱(とな)えながら、それを空(そら)に向(む)かって投(な)げていました。また、あるときは、その河(かわ)の真(ま)っ黒(くろ)な水(みず)を柄(え)の長(なが)い杓子(しゃくし)ですくっては、やはりなにやら口(くち)の中(なか)で唱(とな)えながら、それを空(そら)に向(む)かってまいていました。そして、その後(あと)でさも心地(ここち)よさそうに、げらげらと笑(わら)っていたのです。
 この怪(あや)しげな女(おんな)は姉(あね)のほうでありました。
「こうして、わたしは、わざわいの砂(すな)や、水(みず)をまいてやる。これはみんな下界(げかい)に落(お)ちていって人間(にんげん)どもの頭(あたま)にふりかかる。この砂(すな)のかかったものには不平(ふへい)がつづき、この水(みず)のかかったものは死(し)んでしまうだろう。わたしは、みんなが不平(ふへい)に苦(くる)しみ、そして死(し)んでしまうことを望(のぞ)んでいる。わたしはこんな醜(みにく)い姿(すがた)に生(う)まれてきた。この宇宙(うちゅう)の、ありとあらゆる生(い)き物(もの)の命(いのち)をのろってやる。そうだ、みんな滅(ほろ)ぼしてしまうまでは、こうして、わざわいの砂(すな)と死(し)の水(みず)をふりまくことをやめはしない。」と、灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)た姉(あね)のほうがいいました。そして、彼女(かのじょ)は砂(すな)をまき、水(みず)をまいていました。
 ここは、また別(べつ)のところであります。
 そこには水晶(すいしょう)のように清(きよ)らかな流(なが)れがありました。そして、その河原(かわら)の砂(すな)は黄金(こがね)のごとく光(ひか)っていました。大空(おおぞら)はいつもうららかに晴(は)れて、いい香(にお)いのする紫(むらさき)や、赤(あか)や、青(あお)や、白(しろ)の花(はな)が一面(めん)に咲(さ)いていました。太陽(たいよう)の光(ひかり)は、その河水(かわみず)の上(うえ)にも、花(はな)の上(うえ)にも、また砂(すな)の上(うえ)にもいつもあふれていました。
 東雲(しののめ)の空色(そらいろ)のような、また平和(へいわ)な入(い)り日(ひ)の空色(そらいろ)のような、うす紅(あか)い色(いろ)の着物(きもの)をきた少女(しょうじょ)が、この楽園(らくえん)を歩(ある)いていたのです。その少女(しょうじょ)は妹(いもうと)のほうでありましたけれど、ようすも心(こころ)も、まったく姉(あね)とは反対(はんたい)でありました。妹(いもうと)はこのうえなく美(うつく)しく、また快活(かいかつ)でありましたから、すべての命(いのち)あるものにはかわいがられていたのです。
 彼女(かのじょ)がその星(ほし)のような瞳(ひとみ)をじっと落(お)とすと、花(はな)は生(い)き生(い)きとして香(かお)りました。河水(かわみず)は声(こえ)をたてて笑(わら)いました。そして光(ひか)る砂(すな)は、いっそうきらきらと輝(かがや)いて見(み)えたのでありました。少女(しょうじょ)は、白(しろ)い柔(やわ)らかな手(て)で金色(こんじき)の砂(すな)をすくいました。そして、それを清(きよ)らかな水(みず)の中(なか)に投(な)げています。
「どうかこの幸福(こうふく)がめぐりめぐって、すべての命(いのち)あるものの上(うえ)に宿(やど)るように。みんなが幸福(こうふく)で、平和(へいわ)で仲(なか)よく暮(く)らすように。」といっては、その黄金色(こがねいろ)に光(ひか)る砂(すな)を河(かわ)の流(なが)れに投(な)げていました。清(きよ)らかな水(みず)の中(なか)が、たちまち炎(ほのお)の燃(も)えたつように明(あか)るく輝(かがや)いて見(み)えました。そして幸福(こうふく)のにじは、遠(とお)く河(かわ)の中(なか)からわきあがって、下界(げかい)にまで、長(なが)い橋(はし)を懸(か)けていたのでありました。
 このにじが空(そら)にかかると、下界(げかい)に幸福(こうふく)が降(ふ)ったのであります。
 ある日(ひ)、暗(くら)い空(そら)のかなたに、美(うつく)しいにじのたつのを怪(あや)しげなふうをした姉(あね)が見(み)ました。そしてガラス球(だま)のような、冷(ひ)ややかに光(ひか)る目(め)でじっとそれを見(み)ていましたが、やがて舌打(したう)ちをして、いまいましそうにいいました。
「ほんとうに憎(にく)い妹(いもうと)めだ。わたしが、こうして下界(げかい)のものを苦(くる)しめ困(こま)らしてやろうといっしょうけんめいに、黒(くろ)い砂(すな)をまいたり、河水(かわみず)をまいたりしているのに、あちらではその邪魔(じゃま)をしている。あんなに幸福(こうふく)のにじがかかった。またそれだけ下界(げかい)の滅(ほろ)びるのが長引(ながび)くわけだ。よし、妹(いもうと)がそういうようにみんなを守(まも)る気(き)なら、わたしはいっそう根気(こんき)よくみんなをのろってやろう。」と、姉(あね)はいいました。そして、夜(よる)も、昼(ひる)も、小止(おや)みなく砂(すな)をまき、水(みず)をまいていました。
「もう、ずいぶんわたしは、こうしてわざわいの砂(すな)をまいたり、水(みず)をまいたりした。たいてい下界(げかい)のものどもは滅(ほろ)びる時分(じぶん)であろうと思(おも)うが、どうであろうか。あのりこうなからすは、どうしたかやってこない。また、あの智慧(ちえ)のあるふくろうはどうしたか、とんと姿(すがた)を見(み)せない。あの二人(ふたり)がやってきたなら、そのようすは知(し)れるだろう。」と、姉(あね)は独(ひと)り言(ごと)をしていました。
 するとある日(ひ)のこと、黒(くろ)い森(もり)のかなたで、からすのなき声(ごえ)がしました。
「あのからすめがやってきたな。」と、姉(あね)は耳(みみ)をそばだて、口(くち)もとに気味(きみ)の悪(わる)い笑(わら)いを見(み)せました。すると翼(つばさ)の音(おと)がして、大(おお)きな一羽(わ)のからすが降(お)りてきました。
「よくやってきた。おまえのくるのを待(ま)っていた。下界(げかい)のようすはどうだ。」と、姉(あね)はからすに向(む)かってたずねました。
「私(わたし)はちょうど三百歳(さい)になります。だいぶん年(とし)をとりました。前(まえ)は百五十日(にち)めでここまできましたのが、二百十日(とおか)もかかります。下界(げかい)は、戦争(せんそう)があったり、地震(じしん)があったり、海嘯(つなみ)があったり、また饑饉(ききん)がありまして、人間(にんげん)は幾(いく)百万人(まんにん)となく死(し)んでいます。けれど、まだなかなか滅(ほろ)びるようなことはありません。」と、からすは答(こた)えました。
 髪(かみ)の毛(け)の長(なが)い、灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)た姉(あね)は黙(だま)って聞(き)いていましたが、
「おまえは下界(げかい)を立(た)ったのは、二百十日(とおか)前(まえ)だ。それまでにわたしは、どれほど砂(すな)や水(みず)をまいたかしれない。いまごろはもっとたくさんな人間(にんげん)や生(い)き物(もの)が死(し)んでいるだろう。その後(ご)のようすが知(し)りたいものだ。」と、姉(あね)はいいました。
 年(とし)とったからすは、長(なが)い旅(たび)に疲(つか)れて、杭(くい)に止(と)まって居眠(いねむ)りをしていました。姉(あね)は、黒(くろ)い河(かわ)からへびのような長(なが)い魚(さかな)をとって、からすに食(く)わせました。からすはまた下界(げかい)に向(む)かって旅立(たびだ)ちをしたのであります。
 からすが去(さ)ってから、約(やく)十日(とおか)めにふくろうが帰(かえ)ってきました。
「その後(ご)の下界(げかい)のようすはどんなであるか。」と、姉(あね)はききました。
「悪病(あくびょう)が流行(りゅうこう)しています。その伝染(でんせん)の速(はや)さといったら風(かぜ)のようであります。この分(ぶん)なら人間(にんげん)がみんな死(し)に絶(た)えてしまうであろうと思(おも)います。」と、ふくろうはいいました。
 姉(あね)はこれをきくと、たいそう喜(よろこ)びました。
「きっと、そのことは、あのおいぼれたからすめの立(た)った後(のち)のできごとであろう。」といって、姉(あね)は河(かわ)の中(なか)から、長(なが)いへびのような黒(くろ)い魚(さかな)をいくつもとって、ふくろうにやっていたわりました。
 ふくろうは、黒(くろ)い森(もり)の王(おう)さまにされました。
 幸福(こうふく)を下界(げかい)に贈(おく)ろうと思(おも)って、いっしょうけんめいに黄金色(こがねいろ)に輝(かがや)く砂(すな)を河(かわ)の中(なか)に投(な)げていました妹(いもうと)は、もうこれほどまでに幸福(こうふく)を送(おく)ったことだから、きっと下界(げかい)はどんなにか幸福(こうふく)がゆきわたっていることだろうと思(おも)いました。
「あの元気(げんき)のいいはとはまだ帰(かえ)ってこないだろうか。あれがきたら、すべてのようすがわかるのだが。」と、妹(いもうと)はよく晴(は)れわたった空(そら)をながめていいました。
 ある日(ひ)のこと、まだ太陽(たいよう)が出(で)ない前(まえ)でありました。頭(あたま)の上(うえ)に翼(つばさ)の音(おと)が聞(き)こえたかと思(おも)うと、美(うつく)しい白(しろ)ばとが大空(おおぞら)をまわりながら地(ち)の上(うえ)に降(お)りてきました。
「お早(はよ)う。おまえの元気(げんき)のいい顔(かお)を見(み)ると、わたしの心(こころ)までせいせいします。なにかいい報知(しらせ)を持(も)ってきたことと思(おも)うが、きかせておくれ。」と、妹(いもうと)は、はとに向(む)かっていいました。
 白(しろ)ばとは、円(まる)い目(め)をみはりながら、若(わか)い女神(めがみ)の顔(かお)を見(み)ていましたが、
「それは下界(げかい)はにぎやかなものでございます。毎日毎日(まいにちまいにち)、たくさんな婚礼(こんれい)があって、祝(いわ)いの鐘(かね)が鳴(な)り響(ひび)いています。また、なにかのお祭(まつ)りがあって、そのたびに花火(はなび)の音(おと)が、あちらでも、こちらでもしています。また、後(あと)から後(あと)からと人間(にんげん)の家(うち)では子供(こども)が産(う)まれています。この分(ぶん)でゆきましたら、下界(げかい)はやがて幸福(こうふく)でいっぱいになって、人間(にんげん)はみんな命(いのち)の短(みじか)いのを恨(うら)むばかりであります。」と申(もう)しました。
 妹(いもうと)は笑(わら)って、はとのいうことを聞(き)いていましたが、
「それでは、わたしの思(おも)いがついにかなったというものだ。ああ、こんなうれしいことはない。あのいじ悪(わる)の姉(あね)がいくら、みんなを不幸(ふこう)に陥(おとしい)れようとしても、ついに愛(あい)の力(ちから)には勝(か)てなかった。それでこの宇宙(うちゅう)は正(ただ)しい目的(もくてき)を果(は)たしたというものです。」と、妹(いもうと)は、喜(よろこ)んでいいました。
 そのうちに、また、ある日(ひ)のこと、かわいらしいひばりが帰(かえ)ってきました。妹(いもうと)は、ひばりの長(なが)い旅(たび)をいたわりました。そして、ひばりに下界(げかい)の有(あ)り様(さま)をたずねました。
「ご安心(あんしん)遊(あそ)ばしてください、下界(げかい)は穀物(こくもつ)がすきまもなく、野(の)に、山(やま)に、圃(はた)にしげっています。また樹々(きぎ)には果物(くだもの)が重(かさ)なり合(あ)って実(みの)っています。みんなは自分(じぶん)たちが食(く)いきれぬほど収穫(しゅうかく)のあるのを喜(よろこ)んでいます。その有(あ)り様(さま)は、とてもこの天国(てんごく)の楽園(らくえん)の有(あ)り様(さま)どころではありません。」と、ひばりは、驚(おどろ)いたふうをしていいました。
「なに、この楽園(らくえん)よりも、もっと下界(げかい)は美(うつく)しいというのか?」と、妹(いもうと)は、美(うつく)しい目(め)を大(おお)きくしてたずねられました。
「人間(にんげん)は、このごろいろいろの花(はな)を、自分(じぶん)たちで変化(へんか)をさせる術(じゅつ)を覚(おぼ)えたので、みごとに咲(さ)かしています。あんな美(うつく)しい花(はな)は、この天国(てんごく)にきましても容易(ようい)に見(み)ることはできません。」と、ひばりは申(もう)しました。
 妹(いもうと)の女神(めがみ)は、黙(だま)ってひばりのいうことを聞(き)いていました。そのうちに、自分(じぶん)も一度(ど)下界(げかい)へいって、その有(あ)り様(さま)を一目(ひとめ)見(み)てきたいものだと思(おも)われたのであります。
 ついに妹(いもうと)は、下界(げかい)へゆく決心(けっしん)をしました。けれど、そのようすでは途中(とちゅう)、風(かぜ)や、雲(くも)や、雨(あめ)や、また多(おお)くの星(ほし)などに、どこへゆくかと目(め)についてたずねられることをうるさく思(おも)いましたから、はとに姿(すがた)を変(か)えてゆくことにしました。
 ある日(ひ)のこと、彼女(かのじょ)はまっすぐに下界(げかい)を目(め)がけて飛(と)んできました。
 高(たか)い山(やま)が目(め)に入(はい)り、ついで、いろいろの建物(たてもの)が目(め)に入(はい)るように近(ちか)づきました。すると、円(まる)い屋根(やね)もあれば、またとがったのもありました。赤(あか)い色(いろ)で塗(ぬ)った建物(たてもの)もあれば、白(しろ)い色(いろ)で塗(ぬ)った建物(たてもの)もあれば、青(あお)い色(いろ)で塗(ぬ)られた建物(たてもの)もあります。五階(かい)も十階(かい)もある大(おお)きな家(いえ)もあれば、またこぢんまりとしたきれいな家(いえ)もありました。はとのいったように、いい音楽(おんがく)の音色(ねいろ)が街(まち)の中(なか)から流(なが)れていました。そして夜(よる)になると、街(まち)は一面(めん)に美(うつく)しい燈火(ともしび)の海(うみ)となったのであります。
「こんなに美(うつく)しいとは思(おも)わなかった。」と、妹(いもうと)は驚(おどろ)きました。
 夜(よ)が明(あ)けると、人々(ひとびと)は、きれいなふうをして自動車(じどうしゃ)に乗(の)ったり、馬車(ばしゃ)に乗(の)ったり、また電車(でんしゃ)に乗(の)ったりして往来(おうらい)していました。
「なるほど、みんなはしあわせであるらしい。」と、妹(いもうと)は喜(よろこ)びました。
 そのとき、ふとしたきたないふうをした人間(にんげん)が、はだしでみんなの通(とお)る間(あいだ)を、とぼとぼと歩(ある)いていました。
「あの人間(にんげん)は、どうしたのだろう。」と、妹(いもうと)は思(おも)いました。自分(じぶん)の投(な)げた幸福(こうふく)の砂(すな)が独(ひと)りこの人間(にんげん)にだけかからないはずはない。それにしても、この貧(まず)しげな有(あ)り様(さま)はどうしたのだろうと不思議(ふしぎ)に思(おも)われて、なおもその人間(にんげん)のゆく先(さき)を見(み)つづけていました。
 そのきたならしいふうをした人間(にんげん)は、にぎやかな街(まち)の中(なか)を通(とお)って、さびしい町(まち)はずれの方(ほう)にやってきました。するとそこには、いままでと反対(はんたい)に、みすぼらしい破(やぶ)れた小舎(こや)が幾棟(いくむね)もつづいていました。そして、その中(なか)には、みんなこの人間(にんげん)のようなきたないふうをした、青(あお)い顔(かお)の人間(にんげん)がうようよとして住(す)んでいるのでありました。そこでは、子供(こども)が泣(な)いています。病人(びょうにん)が苦(くる)しんでいます。けれどそれをいたわることも、また救(すく)うこともできないほどに、みんながなにか仕事(しごと)をしたり、働(はたら)いています。そして貧乏(びんぼう)をしています。
「これは、いったいどうしたことだ?」と、妹(いもうと)の顔(かお)は、驚(おどろ)きと怪(あや)しみのために血(ち)の気(け)がだんだん失(う)せてゆくのでした。自分(じぶん)の投(な)げた幸福(こうふく)が、この人(ひと)たちだけゆきわたらないはずがないのに、これはいったいどうしたことだろうと判断(はんだん)に苦(くる)しんだのであります。彼女(かのじょ)は、はとや、ひばりのいうことを聞(き)いて、もしそれだけを信(しん)じていれば、なにも知(し)らずにしまったのだと思(おも)いました。
 それから妹(いもうと)は、もっと道(みち)を歩(ある)いていきますと、ある大(おお)きな木(き)の下(した)に、十(とお)ばかりと七つ八つになった、兄弟(きょうだい)二人(ふたり)の子供(こども)がうずくまっているのを見(み)つけました。
「どうしておまえたちはこんなところに、こうしているのか。」といって、彼女(かのじょ)はききました。
 二人(ふたり)の子供(こども)は、美(うつく)しい妹(いもうと)の女神(めがみ)をながめました。
「私(わたし)たちには家(いえ)というものがありません。毎晩(まいばん)この木(き)の下(した)で寝(ね)るのです。お父(とう)さんは死(し)んでおりません。お母(かあ)さんは、ほうぼうを歩(ある)いて、ものをもらって帰(かえ)ってきます。私(わたし)たちはここにお母(かあ)さんの帰(かえ)るのを待(ま)っているのです。」と答(こた)えました。
 これをきくと、やさしい妹(いもうと)はびっくりしました。そして、
「もうこんな惨(みじ)めな下界(げかい)には一刻(こく)もいたくない。」といって、妹(いもうと)はふたたびはとの姿(すがた)となって、天上(てんじょう)の楽園(らくえん)に帰(かえ)ってしまったのです。
 妹(いもうと)は、楽園(らくえん)に帰(かえ)ると、さっそく、風(かぜ)と雨(あめ)とを自分(じぶん)の前(まえ)へ呼(よ)び寄(よ)せました。そして、風(かぜ)や、雨(あめ)に向(む)かって、
「おまえたちは、毎晩(まいばん)のように、あの不幸(ふこう)な子供(こども)たちを吹(ふ)いたり、ぬらしたりして、かわいそうだとは思(おも)わなかったか。」と、やさしい妹(いもうと)はたずねました。
 すると、風(かぜ)も、雨(あめ)も、声(こえ)をそろえて、
「私(わたし)どもは、かわいそうに思(おも)っていました。それであの二人(ふたり)の子(こ)たちを吹(ふ)いたり、またぬらしたりしたときも、強(つよ)くなれ、強(つよ)くなれ、そして、大(おお)きくなれ! といって、なるだけひどく苦(くる)しめないようにしました。しかし、不幸(ふこう)な子供(こども)は、けっしてあの二人(ふたり)だけではありません。まだたくさんな、たくさんな、子供(こども)があります。」と答(こた)えました。
 妹(いもうと)は、風(かぜ)や、雨(あめ)に、もう帰(かえ)ってもいいといいました。そして、独(ひと)りとなったとき、妹(いもうと)は考(かんが)えました。
「わたしは、これまで、幸福(こうふく)の砂(すな)を河(かわ)の中(なか)に投(な)げていろいろの喜(よろこ)びを下界(げかい)に送(おく)ったのも、けっしてある人々(ひとびと)だけを楽(たの)しませるためではなかった。みんなのものを喜(よろこ)ばせるためであった。それが、ある人々(ひとびと)だけをあんなに幸福(こうふく)にさせ、ある人々(ひとびと)をあんなに不(ふ)しあわせにしようとは、思(おも)いもよらないことであった。もうこのうえ幸福(こうふく)の砂(すな)を骨(おね)をおって、河(かわ)に投(な)げることもあるまい。こうして見(み)ると、やはり姉(ねえ)さんが、わたしよりもりこうであるかもしれない。冷酷(れいこく)な姉(ねえ)さんは、よくわたしをわらったものだ。」と、妹(いもうと)は思(おも)いました。それから妹(いもうと)は、もう黄金(こがね)の砂(すな)を河(かわ)の中(なか)に投(な)げることを止(や)めてしまいました。下界(げかい)から遠(とお)く空(そら)を仰(あお)ぐと、天(あま)の河(がわ)の色(いろ)がだんだんと白(しろ)くなって、そのときから黄金(こがね)に輝(かがや)いて見(み)えなくなったのであります。
 一方(ぽう)、灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)た姉(あね)は、ふくろうや、からすのいうことを信(しん)じて、自分(じぶん)も下界(げかい)へいって、その困(こま)ったり、苦(くる)しんだりしている人間(にんげん)のようすを、つくづくと見(み)てきたいものだと思(おも)いました。
 灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)た姉(あね)は、べつに姿(すがた)を変(か)える必要(ひつよう)もなかったので、ある星(ほし)の光(ひかり)ももれない真(ま)っ暗(くら)な真夜中(まよなか)に下界(げかい)へ降(お)りてきたのです。
 そこは広(ひろ)い野原(のはら)の中(なか)でありました。けれどわざわいを下界(げかい)にまいた姉(あね)は、どんなさびしいところを歩(ある)いても平気(へいき)でありました。野原(のはら)の中(なか)には林(はやし)がありました。林(はやし)をぬけると大(おお)きな墓地(ぼち)があります。そこにはたくさんの墓(はか)がありました。古(ふる)いのや、まだ新(あたら)しいのや、丈(たけ)の高(たか)いのや、低(ひく)いのがありました。それをば、闇(やみ)をすかして見(み)まわしながら、姉(あね)はさも心地(ここち)よさそうに笑(わら)いました。そして墓地(ぼち)を過(す)ぎて、丘(おか)にさしかかりますと、そこには大(おお)きな病院(びょういん)があります。髪(かみ)の毛(け)を長(なが)くうしろに垂(た)らした姉(あね)は、病院(びょういん)の内部(ないぶ)に忍(しの)び込(こ)んで、病人(びょうにん)のいるへやを、一つ一つのぞいて歩(ある)きました。中(なか)には青(あお)い顔(かお)をして、うめいて、眠(ねむ)られずにいるのもあります。また、中(なか)には苦痛(くつう)にたえられないで、泣(な)いているのもあります。中(なか)には片腕(かたうで)を切(き)られ、また両脚(りょうあし)を切断(せつだん)されて不具者(ふぐしゃ)になっているのもあります。そして今夜(こんや)にも死(し)にそうな重(おも)い病人(びょうにん)もありました。
 姉(あね)は、これらの人々(ひとびと)を見(み)ると、さも心(こころ)からうれしそうにほほえみました。
「わたしの顔(かお)がいくら醜(みにく)いといったとて、よもやこれほどではあるまい。」といって、なおあたりをさまよっていました。すると、すぐ隣(となり)には狂人(きょうじん)を容(い)れた病院(びょういん)があったのです。
 その精神病院(せいしんびょういん)には、女(おんな)や、男(おとこ)の白痴(はくち)がうようよしていました。昼(ひる)も夜(よる)も見分(みわ)けがつかずに、彼(かれ)らは泣(な)いたり、わめいたり、悲(かな)しんだり、また声(こえ)をたてて笑(わら)ったりしていました。そしてじっとしているものもあれば、また、たえず歩(ある)きまわっているものもありました。
 これを見(み)ると、残忍(ざんにん)な姉(あね)は、あまりのうれしさに身震(みぶる)いがしたのです。
「ああ、これでいい。下界(げかい)の破滅(はめつ)も近(ちか)づいた。」といいながら、歩(ある)いていますうちに、いつしか街(まち)へ出(で)てしまいました。
 そこには、大(おお)きな建物(たてもの)が、ひっそりとして死(し)んだもののように横(よこ)たわっていました。姉(あね)は、右(みぎ)を見(み)、左(ひだり)を見(み)ていますうちに、一軒(けん)燈火(ともしび)のついた明(あか)るい店(みせ)を見(み)つけました。彼女(かのじょ)は、忍(しの)び足(あし)をして、その家(いえ)に近(ちか)づいてのぞいてみますと、中(なか)では美(うつく)しい女(おんな)や、男(おとこ)がたくさんに集(あつ)まっていて楽器(がっき)を鳴(な)らし、唄(うた)をうたい、酒(さけ)を飲(の)んだり、また、たがいに手(て)をとりあって、踊(おど)ったりして遊(あそ)んでいたのであります。
「これは、また、なんということだ。」と、姉(あね)はいまいましそうに、ガラス球(だま)のような冷(つめ)たい目(め)を光(ひか)らして闇(やみ)の中(なか)から、それらのおもしろそうに遊(あそ)んでいる人(ひと)たちをにらみました。ここばかりは、自分(じぶん)のまいたわざわいの砂(すな)や河(かわ)の水(みず)がかからなかったのかと疑(うたが)いながら、その家(いえ)の前(まえ)をおそろしい顔(かお)をして通(とお)りました。
 すると、また一軒(けん)燈火(ともしび)のついた家(いえ)がありました。のぞいてみますと、そこにもまた、たくさんの人々(ひとびと)が集(あつ)まっておもしろそうに笑(わら)ったり、唄(うた)をうたったりして酒(さけ)を飲(の)んでいました。
「いよいよ不思議(ふしぎ)なことだ。どうしてこれらの人(ひと)たちには、わたしのまいた砂(すな)や、水(みず)はかからなかったろう。」と、疑(うたが)いながら、姉(あね)はその家(いえ)の前(まえ)を怒(いか)りながら通(とお)りすぎました。
 この分(ぶん)なら、まだ世間(せけん)には、どんな幸福(こうふく)な人(ひと)たちが住(す)んでいまいものでもないと、彼女(かのじょ)は不安(ふあん)に感(かん)じてきました。そしてもう一軒(けん)、念(ねん)のために、かすかに燈火(ともしび)のもれる大(おお)きな家(いえ)の窓(まど)さきに近寄(ちかよ)って、戸(と)のすきまからのぞいてみますと、へやのうちでは、美(うつく)しい姉(あね)と妹(いもうと)が、真珠(しんじゅ)や、ルビーのはいった指輪(ゆびわ)や、腕輪(うでわ)を、いくつも取(と)り出(だ)して見(み)くらべているのでした。そしてまたそのへやの中(なか)には、ピアノがあったり、ぜいたくな飾(かざ)りのついた鏡(かがみ)が置(お)いてあったり、ほかにも大(おお)きな額(がく)などがかかっていました。
「わたしは、みんなの幸福(こうふく)をのろったけれど、こういうように、ある一部(ぶ)の人々(ひとびと)が不(ふ)しあわせで、ある一部(ぶ)の人々(ひとびと)がしあわせであることを望(のぞ)まなかった。わたしは、なにもある一部(ぶ)の人(ひと)たちにかぎって憎(にく)しみがあるのではない。平等(びょうどう)にみんなをのろったのであった。それだのに、この有(あ)り様(さま)はどうしたことであろう。」と、灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)た姉(あね)は思(おも)いました。
 彼女(かのじょ)は、その夜(よ)の中(うち)に、黒(くろ)い流(なが)れのほとりに帰(かえ)ってきました。そして、黒(くろ)い森(もり)の王(おう)さまにしたふくろうを呼(よ)び出(だ)して、なぜうそをいったかとしかって、森(もり)の中(なか)から追(お)い出(だ)してしまいました。
 うす紅色(あかいろ)の着物(きもの)を着(き)た妹(いもうと)は、このうえ黄金(こがね)の砂(すな)を河(かわ)に投(な)げることは、かえって不幸(ふこう)の人々(ひとびと)を増(ま)すばかりだといって、ついに幸福(こうふく)を下界(げかい)に送(おく)ることを見合(みあ)わせてしまいました。独(ひと)り灰色(はいいろ)の着物(きもの)を着(き)た姉(あね)は、どうかしてみんなを、一度(ど)はわざわいの砂(すな)と水(みず)に浴(あ)びさせて、苦(くる)しめてやらなければならないといって、執念深(しゅうねんぶか)く、いまだに夜(よる)も昼(ひる)も黒(くろ)い砂(すな)をまき、黒(くろ)い河水(かわみず)をすくって下界(げかい)に向(む)かってまいているということであります。
了

底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社
   1976(昭和51)年12月10日第1刷
   1982(昭和57)年9月10日第7刷
初出:「童話」
   1921(大正10)年8月
※表題は底本では、「消(き)えた美(うつく)しい不思議(ふしぎ)なにじ」となっています。
※初出時の表題は「消えた美しい不思議な虹」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:江村秀之
2013年10月24日作成
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