あらすじ
田舎の少年、光治は学校で乱暴な生徒にいじめられ、仲間外れにされてしまいます。ある日、光治は旅の途中のじいさんから不思議な笛をプレゼントされ、その笛を吹くことで心を慰めるようになります。やがて、光治は笛の音色で小鳥とも仲良くなり、一人遊びに寂しさを感じなくなりました。しかし、光治は森で出会った少年の美しい絵に心を奪われ、自分も絵を描きたいと強く願うようになります。少年から絵の具や筆をもらった光治は絵を描こうとしますが、うまく描けず、大切な笛を失ったことを後悔します。再び現れたじいさんから、光治はさらに素晴らしい笛をもらえることを約束されますが、それは少年から笛を取り戻すことが条件でした。光治は少年を探し続け、笛を取り戻すことができるのでしょうか。
 ある田舎(いなか)に光治(こうじ)という十二歳(さい)になる男(おとこ)の子(こ)がありました。光治(こうじ)は毎日(まいにち)村(むら)の小学校(しょうがっこう)へいっていました。彼(かれ)は、いたっておとなしい性質(せいしつ)で、自分(じぶん)のほうからほかのものに手出(てだ)しをしてけんかをしたり、悪口(わるくち)をいったりしたことがありません。けれど、どこの学校(がっこう)のどの級(きゅう)にでも、たいてい二、三人(にん)は、いじの悪(わる)い乱暴者(らんぼうもの)がいるものです。
 光治(こうじ)の級(きゅう)にも、やはり木島(きじま)とか梅沢(うめざわ)とか小山(こやま)とかいう乱暴(らんぼう)のいじ悪者(わるもの)がいて、いつも彼(かれ)らはいっしょになって、自分(じぶん)らのいうことに従(したが)わないものをいじめたり、泣(な)かせたりするのでありました。光治(こうじ)は日(ひ)ごろから、遊(あそ)びの時間(じかん)にも、なるたけこれらの三人(にん)と顔(かお)を合(あ)わせないようにしていました。
 学校(がっこう)の運動場(うんどうば)には大(おお)きなさくらの木(き)があって、きれいに花(はな)が咲(さ)きました。そして花(はな)の盛(さか)りには、教師(きょうし)も生徒(せいと)も、その木(き)の下(した)にきて、遊(あそ)び時間(じかん)には遊(あそ)びましたが、それもわずか四、五日(にち)の間(あいだ)で、風(かぜ)が吹(ふ)いて、雨(あめ)が降(ふ)ると、花(はな)は洗(あら)い去(さ)られたように、こずえから散(ち)ってしまい、世(よ)はいつか夏(なつ)になりました。そうなると、もはやこの木(き)の下(した)にきて遊(あそ)ぶものがありません。
 光治(こうじ)は、その木(き)の下(した)にきたのでありました。そこは運動場(うんどうば)の片(かた)すみであって、かなたには青々(あおあお)としていねの葉(は)がしげっている田(た)が見(み)え、その間(あいだ)を馬(うま)を引(ひ)いてゆく百姓(しょう)の姿(すがた)なども見(み)えたりするのでした。
 そのとき思(おも)いがけなく、例(れい)の木島(きじま)・梅沢(うめざわ)・小山(こやま)の乱暴者(らんぼうもの)が三人(にん)でやってきて、
「やい、こんなところでなにしているんだい、弱虫(よわむし)め、あっちへいって兵隊(へいたい)になれよ。」
と、三人(にん)は口々(くちぐち)にいって、無理(むり)に光治(こうじ)を引(ひ)きたてて連(つ)れてゆこうといたしました。
「僕(ぼく)は腹(はら)が痛(いた)いから、駆(か)けることができない。」
と、光治(こうじ)はいいました。
「うそをつけ、腹(はら)なんか痛(いた)くないんだが、兵隊(へいたい)になるのがいやだから、そんなことをいうんだろう。よし、いやだなんかというなら、みんなでいじめるからそう思(おも)え。」
「僕(ぼく)は、いやだからいやだというんだ。僕(ぼく)のかってじゃないか、君(きみ)らは君(きみ)らで遊(あそ)びたまえ。」
と、光治(こうじ)はいいました。
「なまいきなことをいうない、よし覚(おぼ)えていろ、帰(かえ)りにいじめてやるから。」
と、三人(にん)は口々(くちぐち)に光治(こうじ)をののしりながら、木(き)の下(した)を見返(みかえ)ってあっちへいってしまいました。
 三人(にん)はあっちへゆくと、みんなに向(む)かって、光治(こうじ)と遊(あそ)んではならない、もしだれでも光治(こうじ)と遊(あそ)ぶものがあれば、そのものも光治(こうじ)といっしょにいじめるからそう思(おも)えといったのでありました。ほかのものはだれひとりとして心(こころ)の中(うち)で光治(こうじ)をにくんでいるものはありませんけれど、みんな三人(にん)にいじめられるのをおそれて、光治(こうじ)といっしょに遊(あそ)ばなかったのでありました。

 その日(ひ)、光治(こうじ)は学校(がっこう)の帰(かえ)りに、しくしくと泣(な)いて、我(わ)が家(や)の方(ほう)をさして路(みち)を歩(ある)いてきました。それは三人(にん)にいじめられたばかりでなく、みんなからのけ者(もの)になったというさびしさのためでありました。真夏(まなつ)の午後(ごご)の日(ひ)の光(ひかり)は田舎道(いなかみち)の上(うえ)を暑(あつ)く照(て)らしていました。あまり通(とお)っている人影(ひとかげ)も見(み)えなかったのであります。このときあちらから、箱(はこ)を背中(せなか)にしょって、つえをついた一人(ひとり)のじいさんが歩(ある)いてきました。光治(こうじ)は、このおじいさんを泣(な)きはらした目(め)で見(み)て、旅(たび)から旅(たび)へとこうして歩(ある)く人(ひと)のように思(おも)ったのでありました。じいさんも、また光治(こうじ)の顔(かお)をじっと見(み)ましたが、路(みち)の上(うえ)に立(た)ち止(ど)まって、
「坊(ぼう)はなんで泣(な)いているのだ。」
と、やさしくじいさんは問(と)うたのであります。
 光治(こうじ)ははじめのうちは黙(だま)っていましたが、そのおじいさんは、なんとなく普通(ふつう)のあめ売(う)りじいさんやなんかのように思(おも)われず、どこかに懐(なつ)かしみを覚(おぼ)えましたから、彼(かれ)はついに、その日(ひ)学校(がっこう)でみんなからのけ者(もの)になったことや、三人(にん)からいじめられたことなどを話(はな)しまして、また急(きゅう)に悲(かな)しくなって話(はなし)をしながら泣(な)きだしたのでありました。
「ああ、わかった、わかった、坊(ぼう)はいい子(こ)だ。もう泣(な)くでない、その三人(にん)は悪(わる)い奴(やつ)じゃ。そして、みんなはいくじなしだ。そんなものにかまわんでおくだ。また、いい友(とも)だちができる、きっとできる。おまえに笛(ふえ)をやる、この笛(ふえ)を吹(ふ)いて、一人(ひとり)で遊(あそ)んでいると、すこしもさびしいことはない。さあ、この笛(ふえ)をやるから、一人(ひとり)でおとなしく遊(あそ)んで、勉強(べんきょう)をして大(おお)きくなるんだ。」
といって、じいさんは腰(こし)に下(さ)げていた、小(ちい)さな笛(ふえ)を光治(こうじ)にあたえたのであります。
 光治(こうじ)は、その笛(ふえ)をもらって手(て)に取(と)ってみますと、竹(たけ)に真鍮(しんちゅう)の環(わ)がはまっている粗末(そまつ)な笛(ふえ)に思(おも)われました。けれど、それをいただいて、なおもこの不思議(ふしぎ)なじいさんを見上(みあ)げていますと、
「さあ、私(わたし)はゆく……またいつか、おまえにあうことがあるだろう。」
といって、光治(こうじ)の頭(あたま)をじいさんはなでて、やがてその路(みち)を歩(ある)いていってしまいました。光治(こうじ)は、しばらくそこに立(た)って、じいさんを見送(みおく)っていますと、その姿(すがた)は日影(ひかげ)の彩(いろど)るあちらの森(もり)の方(ほう)に消(き)えてしまったのでありました。
 その日(ひ)から光治(こうじ)は野(の)に出(で)て、一人(ひとり)でその笛(ふえ)を吹(ふ)くことをけいこしたのであります。その笛(ふえ)はじつに不思議(ふしぎ)な笛(ふえ)で、いろいろないい音色(ねいろ)が出(で)ました。彼(かれ)はじきにその笛(ふえ)を上手(じょうず)に、また自由(じゆう)に吹(ふ)き得(う)るようになりました。彼(かれ)が風(かぜ)の音(おと)を出(だ)そうと思(おも)えば、その笛(ふえ)は、さながら風(かぜ)が木々(きぎ)の葉(は)の上(うえ)を渡(わた)るときのさわやかな涼(すず)しげな、葉(は)ずれの音(おと)が聞(き)こえるように鳴(な)り渡(わた)りました。また雨(あめ)の降(ふ)る音(おと)を出(だ)そうと思(おも)えば、ちょうど雨(あめ)が降(ふ)りだしてきて軒端(のきば)を打(う)つような音(おと)を吹(ふ)き鳴(な)らしました。また小鳥(ことり)のなく音(ね)をたてようと思(おも)えば、こずえにきて節(ふし)おもしろそうに鳴(な)く小鳥(ことり)の音(ね)を出(だ)すことができたのであります。
 光治(こうじ)は学校(がっこう)から家(うち)に帰(かえ)ると、じいさんからもらった笛(ふえ)を持(も)って野原(のはら)へ出(で)たり、また麓(ふもと)の森(もり)に入(はい)って、あるいは草(くさ)の上(うえ)に腰(こし)を下(お)ろしたり、あるいは木(き)の根(ね)に腰(こし)をかけたりし、その笛(ふえ)を吹(ふ)くのをなによりの楽(たの)しみとしたのでありました。彼(かれ)はこうして笛(ふえ)を吹(ふ)いていますと、あるときは、くびのまわりの赤(あか)い、翼(はね)の色(いろ)の美(うつく)しい小鳥(ことり)がどこからか飛(と)んできて、すぐ光治(こうじ)が笛(ふえ)を吹(ふ)いている頭(あたま)の上(うえ)の木(き)の枝(えだ)に止(と)まって、はじめのうちは、こくびをかしげて熱心(ねっしん)に下(した)の方(ほう)を向(む)いて、笛(ふえ)の音(ね)に聞(き)きとれていましたが、しまいには小鳥(ことり)も、その笛(ふえ)の音(ね)につられてさえずりはじめたのでありました。こんなふうに光治(こうじ)は、小鳥(ことり)まで自分(じぶん)の友(とも)だちとすることができたので、もはや一人(ひとり)で遊(あそ)ぶことをすこしもさびしくは思(おも)わなかったのであります。

 光治(こうじ)が笛(ふえ)を吹(ふ)くのを聞(き)くと、だれでもそれに耳(みみ)を傾(かたむ)けて、感心(かんしん)しないものはなかったのです。光治(こうじ)ははじめのうちは、その笛(ふえ)を大事(だいじ)にして、夜(よる)眠(ねむ)るときでもまくらもとに置(お)いて、すこしも自分(じぶん)の体(からだ)から離(はな)したことはなかったのです。彼(かれ)はだんだん笛(ふえ)が上手(じょうず)になって、なんでも笛(ふえ)で吹(ふ)けぬものはないようになりました。そして、自分(じぶん)を慰(なぐさ)める、もっとも楽(たの)しいものは、まったくこの世界(せかい)に笛(ふえ)よりほかにないと思(おも)ったのであります。
 夏休(なつやす)みになったある日(ひ)のことでありました。彼(かれ)は麓(ふもと)の森(もり)の中(なか)に入(はい)って、またいつもの木(き)の根(ね)に腰(こし)をかけて心(こころ)ゆくばかり笛(ふえ)を吹(ふ)き鳴(な)らそうと思(おも)い、家(いえ)を出(で)かけました。緑(みどり)の森(もり)の中(なか)に入(はい)ると、ちょうど緑色(みどりいろ)の世界(せかい)に入(はい)ったような気持(きも)ちがいたしました。足(あし)もとには、いろいろの小(ちい)さな草(くさ)の花(はな)が咲(さ)いていて、いい香気(こうき)を放(はな)っていました。ところどころ木々(きぎ)のすきまからは、黄金色(こがねいろ)の日(ひ)の光(ひかり)がもれて、下(した)の草(くさ)の上(うえ)に光(ひかり)が燃(も)えるように映(うつ)っています。
 光治(こうじ)はしばらく夢(ゆめ)を見(み)るような気持(きも)ちで、うっとりとして一本(ぽん)の木(き)の根(ね)に腰(こし)をかけて、笛(ふえ)も吹(ふ)かずに、おだやかな夏(なつ)の日(ひ)の自然(しぜん)に見(み)とれていました。
「どうしてこう青葉(あおば)の色(いろ)はきれいなのだろう。どうしてこう、この森(もり)や、日(ひ)の光(ひかり)や、雲(くも)の色(いろ)などが美(うつく)しいのだろう。」
と、彼(かれ)はしみじみと思(おも)っていたのであります。そして、彼(かれ)がやがて笛(ふえ)を吹(ふ)きますと、その音色(ねいろ)は平常(へいぜい)の愉快(ゆかい)な調子(ちょうし)に似(に)ず、なんとなく、しんみりとした哀(かな)しみが、その音色(ねいろ)に漂(ただよ)って聞(き)かれました。小鳥(ことり)もまったく声(こえ)を潜(ひそ)めているようでありました。光治(こうじ)は、その木(き)の根(ね)からたち上(あ)がって、森(もり)の中(なか)をもっと奥深(おくふか)く歩(ある)いてゆきますと、ふとあちらに、ちょうど自分(じぶん)と同(おな)じ年(とし)ごろの少年(しょうねん)があちら向(む)きになって、絵(え)を描(か)いている姿(すがた)が目(め)に止(と)まったのでありました。
 光治(こうじ)は、いままでこの森(もり)の中(なか)には、ただ自分(じぶん)一人(ひとり)しかいないものと思(おも)っていましたのに、ほかにも少年(しょうねん)がきているのを知(し)って意外(いがい)に驚(おどろ)きましたが、いったいあの少年(しょうねん)は自分(じぶん)の知(し)っているものだかだれだかと思(おも)って近(ちか)づいてみますと、かつて見覚(みおぼ)えのない、色(いろ)の白(しろ)い、目(め)つきのやさしそうな、なんとなく気高(けだか)いところのある少年(しょうねん)でありました。その少年(しょうねん)は他人(ひと)がそばに寄(よ)ってきたのを知(し)ると、こちらを向(む)いて光治(こうじ)の顔(かお)をちょっと見(み)て笑(わら)いましたが、すぐにまた絵(え)のほうに向(む)きなおって筆(ふで)を働(はたら)かしていました。
 光治(こうじ)は心(こころ)のうちで懐(なつ)かしい少年(しょうねん)だと思(おも)いながら、静(しず)かに少年(しょうねん)の背後(うしろ)に立(た)って、少年の描(か)いている絵(え)に目(め)を落(お)としますと、それは前方(ぜんぽう)の木立(こだち)を写生(しゃせい)しているのでありましたが、びっくりするほど、いきいきと描(か)けていて、その木(き)の色(いろ)といい、土(つち)の色(いろ)といい、空(そら)の感(かん)じといい、それはいまにも動(うご)きそうに描(か)けていたのでありました。少年(しょうねん)は熱心(ねっしん)に美(うつく)しい絵(え)の具(ぐ)箱(ばこ)の中(なか)に収(おさ)めてあるいろいろの絵(え)の具(ぐ)を一つ一つ使(つか)い分(わ)けて草(くさ)を描(か)いたり、また鳥(とり)などを描(か)いたり、花(はな)などを描(か)いたりしていました。
 光治(こうじ)は自分(じぶん)の吹(ふ)く笛(ふえ)の音(ね)につれて、小鳥(ことり)がいっしょになってさえずるのを自慢(じまん)にしていました。いま、少年(しょうねん)の描(か)いた小鳥(ことり)は、紙(かみ)の上(うえ)から翼(は)ばたきをして飛(と)び立(た)つのではないかと思(おも)われました。そして、たったすこし前(まえ)まで、自分(じぶん)はこの美(うつく)しい自然(しぜん)に見(み)とれていたのであるが、このきれいな緑色(みどりいろ)の木立(こだち)も日(ひ)の光(ひかり)も、山(やま)も、草(くさ)も、みんなそのままに絵(え)の具(ぐ)の色(いろ)ですこしも変(か)わらず、かえってそれよりもいきいきとした姿(すがた)で紙(かみ)の上(うえ)に描(か)かれているのを見(み)ますと、光治(こうじ)は、もはや笛(ふえ)を吹(ふ)くことよりは、自分(じぶん)も絵(え)を上手(じょうず)に描(か)いたほうがいいように考(かんが)えました。
「君(きみ)かい、さっき笛(ふえ)を吹(ふ)いていたのは。」
と、その少年(しょうねん)はふり向(む)いて光治(こうじ)の顔(かお)を見(み)て、ちょっと笑(わら)っていいました。
「ああ、僕(ぼく)だ。」
と、光治(こうじ)は簡単(かんたん)に答(こた)えた。
「君(きみ)はよくこの森(もり)へ遊(あそ)びにきて、笛(ふえ)を吹(ふ)くのかい。」
と、また少年(しょうねん)は問(と)いました。
「ああ、よくくる。」
と、光治(こうじ)は答(こた)えた。
「僕(ぼく)は、もう絵(え)を描(か)いたから帰(かえ)るんだよ。」
と、その少年(しょうねん)はいって、さっさと道具(どうぐ)をかたづけてしまうと、
「じゃ君(きみ)、失敬(しっけい)!」
と、少年(しょうねん)はさも懐(なつ)かしそうに光治(こうじ)の方(ほう)を見(み)ていって、いずこへともなく森(もり)の中(なか)を歩(ある)いて姿(すがた)を隠(かく)してしまいました。光治(こうじ)はその少年(しょうねん)を見送(みおく)りながら、どこへ帰(かえ)るのだろうと思(おも)いました。また光治(こうじ)には、あの少年(しょうねん)が自分(じぶん)に向(む)かって笛(ふえ)を吹(ふ)いたのは君(きみ)かと問(と)いながら、すこしもうまく吹(ふ)いたとはいわなかったのが、なんとなく物足(ものた)らなく心(こころ)に感(かん)じられたのであります。

 光治(こうじ)は家(うち)へ帰(かえ)ると絵(え)の具(ぐ)箱(ばこ)を取(と)り出(だ)して、自分(じぶん)もいっしょうけんめいになって木(き)や空(そら)や、鳥(とり)などを描(か)いてみましたけれど、どうしてもあの少年(しょうねん)の描(か)いたような美(うつく)しい、いきいきとした色(いろ)も、姿(すがた)も出(で)なかったのであります。光治(こうじ)は、まったくこれは、絵(え)の具(ぐ)や筆(ふで)がよくないからだと思(おも)いました。そしてあの少年(しょうねん)の持(も)っていたような絵(え)の具(ぐ)や筆(ふで)があったら、自分(じぶん)にもきっと、あのようにいきいきと描(か)けるのであろうと思(おも)いました。彼(かれ)はどこへいったら、あれと同(おな)じい絵(え)の具(ぐ)や、筆(ふで)を売(う)っているだろうかと、そればかり思(おも)っていたのでありました。
 ある日(ひ)、光治(こうじ)は森(もり)の奥(おく)にある大(おお)きな池(いけ)のほとりへいって笛(ふえ)を吹(ふ)こうと思(おも)ってきかかりますと、先日(こないだ)の少年(しょうねん)がまた池(いけ)のほとりで絵(え)を描(か)いていました。少年(しょうねん)は光治(こうじ)を見(み)ると、やはり懐(なつ)かしそうに微笑(ほほえ)みました。光治(こうじ)も打(う)ち解(と)けて少年(しょうねん)のそばに寄(よ)って絵(え)を見(み)ますと、青々(あおあお)とした水(みず)の色(いろ)や、その水(みず)の上(うえ)に映(うつ)っている木立(こだち)の影(かげ)などが、どうしてこうよく色(いろ)が出(で)ているかと驚(おどろ)かれるほど美(うつく)しく写(うつ)されていたのであります。光治(こうじ)はもはや笛(ふえ)を吹(ふ)くことなど忘(わす)れてしまって、ただ自分(じぶん)も、このように上手(じょうず)に絵(え)を描(か)きたいものだ。それにしても、この少年(しょうねん)の持(も)っているこんな絵(え)の具(ぐ)と筆(ふで)とがほしいものだと思(おも)いましたから、
「君(きみ)、この笛(ふえ)をあげるから、僕(ぼく)にその絵(え)の具(ぐ)箱(ばこ)も筆(ふで)もみんなくれないかね。」
と、光治(こうじ)は熱心(ねっしん)に少年(しょうねん)の顔(かお)を見(み)ていいました。すると少年(しょうねん)は、意外(いがい)にも快(こころよ)く承諾(しょうだく)をして、
「ああ僕(ぼく)にその笛(ふえ)をくれるなら、君(きみ)にみなあげよう。」
といって、絵(え)の具(ぐ)箱(ばこ)も、筆(ふで)もみんな光治(こうじ)にくれたのであります。
 光治(こうじ)は喜(よろこ)んで家(うち)へ帰(かえ)りました。そして、すぐに紙(かみ)を出(だ)して、花(はな)や草(くさ)を描(か)いてみましたが、やはりすこしもいい色(いろ)が出(で)なくて、まったく少年(しょうねん)の描(か)いたのとは別物(べつもの)であって、まずく汚(きた)なく自分(じぶん)ながら見(み)られないものでありました。光治(こうじ)は、まもなく自分(じぶん)の心(こころ)をなぐさめた唯(ゆい)一の笛(ふえ)をなくしてしまったことを後悔(こうかい)いたしました。
 ある日(ひ)の晩方(ばんがた)、彼(かれ)はさびしく思(おも)いながら田舎路(いなかみち)を歩(ある)いていますと、不思議(ふしぎ)なことには、このまえじいさんにあったと同(おな)じところで、またあちらから箱(はこ)をしょってとぼとぼと夕日(ゆうひ)の光(ひかり)を浴(あ)びながら歩(ある)いてくるじいさんに出(で)あいました。じいさんは光治(こうじ)の顔(かお)を見(み)ると、忘(わす)れずにいたものとみえて、にこにこ笑(わら)いながら、近寄(ちかよ)ってきまして、
「坊(ぼう)はさだめし笛(ふえ)が上手(じょうず)に吹(ふ)けるようになったろう、さあ、あの笛(ふえ)を私(わたし)にお返(かえ)しなさい。そのかわり、もっとおもしろい、いろいろな音色(ねいろ)の出(で)るいい笛(ふえ)をおまえにあげるから。」
と、優(やさ)しくいいました。光治(こうじ)はこれを聞(き)くと、なんとももうしわけのないことをしたと思(おも)いました。けれど、どうすることもできませんでした。彼(かれ)はついに、一部(ぶ)始終(しじゅう)のことをじいさんに打(う)ち明(あ)けて、どうか許(ゆる)してくださいともうしました。
 すると、じいさんの優(やさ)しい顔(かお)は急(きゅう)にむずかしそうな顔(かお)つきに変(か)わって、
「なんでも人(ひと)まねをしようとすると、そういう損(そん)をするもんだ。おまえの力(ちから)を、おまえは知(し)らんけりゃならん。そして、人間(にんげん)というものは、なんでもできるもんじゃない。自分(じぶん)が他(ひと)より勝(すぐ)れた働(はたら)きがあったら、ますますそれを発達(はったつ)させるのだ。私(わたし)は、おまえにもっといい笛(ふえ)をやろうと思(おも)って持(も)ってきたが、あの笛(ふえ)を私(わたし)に返(かえ)さなけりゃこの笛(ふえ)は渡(わた)されない。あの笛(ふえ)は、またほかにやる子供(こども)があるのだから、早(はや)くあの笛(ふえ)をおまえが取(と)りもどしてくれば、そのときはこの笛(ふえ)を渡(わた)してやる。」
といって、じいさんはいってしまいました。
 それから光治(こうじ)は、笛(ふえ)をあの少年(しょうねん)から取(と)りもどそうと思(おも)って毎日(まいにち)森(もり)にゆき、山(やま)へ入(はい)って少年(しょうねん)の姿(すがた)を探(さが)しました。
 おりおりいい音色(ねいろ)が遠(とお)くの方(ほう)で聞(き)こえることがありましたけれど、どこで吹(ふ)く笛(ふえ)だろう。ついぞふたたび、その少年(しょうねん)の姿(すがた)を見(み)ることができなかったのであります。
了

底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
   1982(昭和57)年9月10日第7刷発行
初出:「少年倶楽部」
   1916(大正5)年8月
※表題は底本では、「どこで笛(ふえ)吹(ふ)く」となっています。
※初出時の表題は「何処で笛吹く」です。
入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班
校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班
2011年11月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。