あらすじ
「婦人十一題」は、一年を通じて、様々な女性の姿を、鮮やかに、そして繊細に描いた作品です。それぞれの月に、それぞれ異なる女性の物語が紡ぎ出され、それぞれの生き様、心情、そして美しさが、まるで絵画のように目に浮かびます。月の移ろいとともに変化する風景と、そこに生きる女性の姿が織りなす、美しくも切ない物語を、ぜひご堪能ください。
 うまし、かるた會(くわい)に急(いそ)ぐ若(わか)き胸(むね)は、駒下駄(こまげた)も撒水(まきみづ)に辷(すべ)る。戀(こひ)の歌(うた)を想(おも)ふにつけ、夕暮(ゆふぐれ)の線路(せんろ)さへ丸木橋(まるきばし)の心地(こゝち)やすらむ。松(まつ)を鳴(な)らす電車(でんしや)の風(かぜ)に、春着(はるぎ)の袖(そで)を引合(ひきあは)す急(せ)き心(ごころ)も風情(ふぜい)なり。やがてぞ、内賑(うちにぎやか)に門(もん)のひそめく輪飾(わかざり)の大玄關(おほげんくわん)より、絹足袋(きぬたび)を輕(かる)く高廊下(たからうか)を行(ゆ)く。館(やかた)の奧(おく)なる夫人(ふじん)の、常(つね)さへ白鼈甲(しろべつかふ)に眞珠(しんじゆ)を鏤(ちりば)めたる毛留(ブローチ)して、鶴(つる)の膚(はだ)に、孔雀(くじやく)の裝(よそほひ)にのみ馴(な)れたるが、この玉(たま)の春(はる)を、分(わ)けて、と思(おも)ふに、いかに、端近(はしぢか)の茶(ちや)の室(ま)に居迎(ゐむか)ふる姿(すがた)を見(み)れば、櫛卷(くしまき)の薄化粧(うすげしやう)、縞銘仙(しまめいせん)の半襟(はんえり)つきに、引掛帶(ひつかけおび)して、入(い)らつしやい。眞鍮(しんちう)の茶釜(ちやがま)の白鳥(はくてう)、出居(いでゐ)の柱(はしら)に行燈(あんどう)掛(か)けて、燈(ともしび)紅(あか)く、おでん燗酒(かんざけ)、甘酒(あまざけ)もあり。
――どツちが好(よ)いと言(い)ふんですか――
――知(し)らない――

 都(みやこ)なる父母(ふぼ)は歸(かへ)り給(たま)ひぬ。舅(しうと)姑(しうとめ)、知(し)らぬ客(きやく)許多(あまた)あり。附添(つきそ)ふ侍女(じぢよ)を羞(はぢ)らひに辭(じ)しつゝ、新婦(よめぎみ)の衣(きぬ)を解(と)くにつれ、浴室(ゆどの)颯(さつ)と白妙(しろたへ)なす、麗(うるは)しき身(み)とともに、山(やま)に、町(まち)に、廂(ひさし)に、積(つも)れる雪(ゆき)の影(かげ)も映(さ)すなり。此時(このとき)、われに返(かへ)る心(こゝろ)、しかも湯氣(ゆげ)の裡(うち)に恍惚(くわうこつ)として、彼處(かしこ)に鼈甲(べつかふ)の櫛(くし)笄(かうがい)の行方(ゆくへ)も覺(おぼ)えず、此處(こゝ)に亂箱(みだればこ)の緋縮緬(ひぢりめん)、我(わ)が手(て)にさへ袖(そで)をこぼれて亂(みだ)れたり。面(おもて)、色(いろ)染(そま)んぬ。姿見(すがたみ)の俤(おもかげ)は一重(ひとへ)の花瓣(はなびら)薄紅(うすくれなゐ)に、乳(ち)を押(おさ)へたる手(て)は白(しろ)くかさなり咲(さ)く、蘭湯(らんたう)に開(ひら)きたる此(こ)の冬牡丹(ふゆぼたん)。蕊(しべ)に刻(きざ)めるは誰(た)が名(な)ぞ。其(そ)の文字(もじ)金色(こんじき)に輝(かゞや)くまゝに、口(くち)渇(かわ)き又(また)耳(みゝ)熱(ねつ)す。高島田(たかしまだ)の前髮(まへがみ)に冷(つめた)き刃(やいば)あり、窓(まど)を貫(つらぬ)くは簾(すだれ)なす氷柱(つらゝ)にこそ。カチリと音(おと)して折(を)つて透(す)かしぬ。人(ひと)のもし窺(うかゞ)はば、いと切(せ)めて血(ち)を迸(ほとばし)らす匕首(あひくち)とや驚(おどろ)かん。新婦(よめぎみ)は唇(くちびる)に含(ふく)みて微笑(ほゝゑ)みぬ。思(おも)へ君(きみ)……式(しき)九獻(くこん)の盞(さかづき)よりして以來(このかた)、初(はじ)めて胸(むね)に通(とほ)りたる甘(あま)く清(すゞし)き露(つゆ)なりしを。――見(み)たのかい――いや、われ聞(き)く。

 淺蜊(あさり)やア淺蜊(あさり)の剥身(むきみ)――高臺(たかだい)の屋敷町(やしきまち)に春(はる)寒(さむ)き午後(ごご)、園生(そのふ)に一人(ひとり)庭下駄(にはげた)を爪立(つまだ)つまで、手(て)を空(そら)ざまなる美(よ)き女(むすめ)あり。樹々(きゞ)の枝(えだ)に殘(のこ)ンの雪(ゆき)も、ちら/\と指(ゆび)の影(かげ)して、大(おほい)なる紅日(こうじつ)に、雪(ゆき)は薄(うす)く紫(むらさき)の袂(たもと)を曳(ひ)く。何(なん)に憧憬(あこが)るゝ人(ひと)ぞ。歌(うた)をよみて其(そ)の枝(えだ)の紅梅(こうばい)の莟(つぼみ)を解(と)かんとするにあらず。手鍋(てなべ)提(さ)ぐる意氣(いき)に激(げき)して、所帶(しよたい)の稽古(けいこ)に白魚(しらうを)の※(「魚+(岌−山)」、第4水準2-93-34)(めざし)造(つく)る也(なり)。然(しか)も目(め)を刺(さ)すがいぢらしとて、ぬきとむるは尾(を)なるを見(み)よ。絲(いと)の色(いろ)も、こぼれかゝる袖口(そでくち)も、繪(ゑ)の篝火(かゞりび)に似(に)たるかな。希(ねがは)くは針(はり)に傷(きず)つくことなかれ。お孃樣(ぢやうさま)これめせと、乳母(うば)ならむ走(はし)り來(き)て捧(さゝ)ぐるを、曰(いは)く、ヱプロン掛(か)けて白魚(しらうを)の料理(れうり)が出來(でき)ますかと。魚(うを)も活(い)くべし。手首(てくび)の白(しろ)さ更(さら)に可三寸(さんずんばかり)。

 舳(みよし)に肌(はだ)ぬぎの亂(みだ)れ姿(すがた)、歌妓(うたひめ)がさす手(て)ひく手(て)に、おくりの絃(いと)の流(なが)れつゝ、花見船(はなみぶね)漕(こ)ぎつるゝ。土手(どて)の霞(かすみ)暮(く)れんとして、櫻(さくら)あかるき三(み)めぐりあたり、新(あたら)しき五大力(ごだいりき)の舷(ふなばた)の高(たか)くすぐれたるに、衣紋(えもん)も帶(おび)も差向(さしむか)へる、二人(ふたり)の婦(をんな)ありけり、一人(ひとり)は高尚(かうしやう)に圓髷(まげ)ゆひ、一人(ひとり)は島田(しまだ)艷(つやゝか)也(なり)。眉(まゆ)白(しろ)き船頭(せんどう)の漕(こ)ぐにまかせ、蒔繪(まきゑ)の調度(てうど)に、待乳山(まつちやま)の影(かげ)を籠(こ)めて、三日月(みかづき)を載(の)せたる風情(ふぜい)、敷波(しきなみ)の花(はな)の色(いろ)、龍(たつ)の都(みやこ)に行(ゆ)く如(ごと)し。人(ひと)も酒(さけ)も狂(くる)へる折(をり)から、ふと打(う)ちすましたる鼓(つゞみ)ぞ冴(さ)ゆる。いざ、金銀(きんぎん)の扇(あふぎ)、立(た)つて舞(ま)ふよと見(み)れば、圓髷(まげ)の婦(をんな)、なよやかにすらりと浮(う)きて、年下(としした)の島田(しまだ)の鬢(びん)のほつれを、透彫(すかしぼり)の櫛(くし)に、掻撫(かいな)でつ。心憎(こゝろにく)し。鐘(かね)の音(ね)の傳(つた)ふらく、此(こ)の船(ふね)、深川(ふかがは)の木場(きば)に歸(かへ)る。

 五月雨(さみだれ)の茅屋(かやや)雫(しづく)して、じと/\と沙汰(さた)するは、山(やま)の上(うへ)の古社(ふるやしろ)、杉(すぎ)の森(もり)の下闇(したやみ)に、夜(よ)な/\黒髮(くろかみ)の影(かげ)あり。呪詛(のろひ)の女(をんな)と言(い)ふ。かたの如(ごと)き惡少年(あくせうねん)、化鳥(けてう)を狙(ねら)ふ犬(いぬ)となりて、野茨(のばら)亂(みだ)れし岨道(そばみち)を要(えう)して待(ま)つ。夢(ゆめ)か、青葉(あをば)の衣(きぬ)、つゝじの帶(おび)の若(わか)き姿(すがた)。雲(くも)暗(くら)き山(やま)の端(は)より月(つき)かすかに近(ちか)づくを、獲(え)ものよ、虐(しひた)げんとすれば、其(そ)の首(くび)の長(なが)きよ、口(くち)は耳(みゝ)まで裂(さ)けて、白(しろ)き蛇(へび)の紅(べに)さしたる面(おもて)ぞ。キヤツと叫(さけ)びて倒(たふ)るゝを、見向(みむ)きもやらず通(とほ)りしは、優(いう)にやさしき人(ひと)の、黄楊(つげ)の櫛(くし)を唇(くちびる)に銜(くは)へしなり。うらぶれし良家(りやうか)の女(むすめ)の、父(ちゝ)の病氣(いたつき)なるに、夜半(よは)に醫(い)を乞(こ)へる道(みち)なりけり。此(こ)の護身(ごしん)の術(じゆつ)や、魔法(まはふ)つかひの教(をしへ)にあらず、なき母(はゝ)の記念(かたみ)なりきとぞ。卯(う)の花(はな)の里(さと)の温泉(いでゆ)の夜語(よがたり)。

 裾野(すその)の煙(けむり)長(なが)く靡(なび)き、小松原(こまつばら)の靄(もや)廣(ひろ)く流(なが)れて、夕暮(ゆふぐれ)の幕(まく)更(さら)に富士山(ふじさん)に開(ひら)く時(とき)、其(そ)の白妙(しろたへ)を仰(あふ)ぐなる前髮(まへがみ)清(きよ)き夫人(ふじん)あり。肘(ひぢ)を輕(かる)く窓(まど)に凭(よ)る。螢(ほたる)一(ひと)つ、すらりと反對(はんたい)の窓(まど)より入(い)りて、細(ほそ)き影(かげ)を捲(ま)くと見(み)る間(ま)に、汗(あせ)埃(ほこり)の中(なか)にして、忽(たちま)ち水(みづ)に玉敷(たまし)ける、淺葱(あさぎ)、藍(あゐ)、白群(びやくぐん)の涼(すゞ)しき草(くさ)の影(かげ)、床(ゆか)かけてクシヨンに描(ゑが)かれしは、螢(ほたる)の衝(つ)と其(そ)の裳(もすそ)に忍(しの)び褄(つま)に入(い)りて、上(うへ)の薄衣(うすぎぬ)と、長襦袢(ながじゆばん)の間(あひだ)を照(てら)して、模樣(もやう)の花(はな)に、葉(は)に、莖(くき)に、裏(うら)透(す)きてすら/\と移(うつ)るにこそあれ。あゝ、下(した)じめよ、帶(おび)よ、消(き)えて又(また)光(ひか)る影(かげ)、乳(ち)に沁(し)むなり。此(こ)の君(きみ)、其(そ)の肌(はだ)、確(たしか)に雪(ゆき)。ソロモンと榮華(えいぐわ)を競(きそ)へりとか、白百合(しらゆり)の花(はな)も恥(は)づべき哉(かな)。否(いな)、恥(はぢ)らへるは夫人(ふじん)なり。衣絞(えもん)明(あか)るく心着(こゝろづ)きけむ、銀(ぎん)に青海波(せいかいは)の扇子(あふぎ)を半(なかば)、螢(ほたる)より先(ま)づハツと面(おもて)を蔽(おほ)へるに、風(かぜ)さら/\と戰(そよ)ぎつゝ、光(ひかり)は袖口(そでくち)よりはらりとこぼれて、窓外(さうぐわい)の森(もり)に尚(なほ)美(うつく)しき影(かげ)をぞ曳(ひ)きたる。もし魂(たましひ)の拔出(ぬけい)でたらんか、これ一顆(いつくわ)の碧眞珠(へきしんじゆ)に、露草(つゆくさ)を鐫(ゑ)れるなるべし。此(こ)の人(ひと)もし仇(あだ)あらば、皆(みな)刃(やいば)を取(と)つて敵(かたき)を討(う)たん。靈山(れいざん)の氣(き)、汽車(きしや)に迫(せま)れり。――山北(やまきた)――山北(やまきた)――

 其(そ)の邊(あたり)の公園(こうゑん)に廣(ひろ)き池(いけ)あり。時(とき)よし、風(かぜ)よしとて、町々(まち/\)より納涼(すゞみ)の人(ひと)出(い)で集(つど)ふ。童(わらべ)たち酸漿提灯(ほゝづきぢやうちん)かざしもしつ。水(みづ)の灯(ともしび)美(うつく)しき夜(よる)ありき。汀(みぎは)に小(ちひさ)き船(ふね)を浮(うか)べて、水茶屋(みづぢやや)の小奴(こやつこ)莞爾(にこ)やかに竹棹(たけざを)を構(かま)へたり。うら若(わか)き母(はゝ)に伴(ともな)はれし幼兒(をさなご)の、他(ひと)の乘(の)るに、われもとて肯(き)かざりしに、私(わらは)は身(み)弱(よわ)くて、恁(か)ばかりの船(ふね)にも眩暈(めまひ)するに、荒波(あらなみ)の海(うみ)としならばとにかくも、池(いけ)の水(みづ)に伏(ふ)さんこと、人目(ひとめ)恥(はづ)かしければ得乘(えの)らじとよ。強(し)ひてとならば一人(ひとり)行(ゆ)け、心(こゝろ)は船(ふね)を守(まも)るべし。舳(みよし)にな立(た)ちそ、舷(ふなべり)にな片寄(かたよ)りそ。頼(たの)むは少(わか)き船頭衆(せんどうしう)とて、さみしく手(て)をはなち給(たま)ひしが、早(は)や其(そ)の姿(すがた)へだたりて、殘(のこん)の杜若(かきつばた)裳(もすそ)に白(しろ)く、蘆(あし)のそよぎ羅(うすもの)の胸(むね)に通(かよ)ふと、星(ほし)の影(かげ)に見(み)るまゝに、兒(こ)は池(いけ)のたゞ中(なか)に、母(はゝ)を呼(よ)びて、わツと泣(な)きぬ。――盂蘭盆(うらぼん)の墓詣(はかまうで)に、其(そ)のなき母(はゝ)を偲(しの)びつゝ、涙(なみだ)ぐみたる娘(むすめ)あり。あかの水(みづ)の雫(しづく)ならで、桔梗(ききやう)に露(つゆ)を置添(おきそ)へつ、うき世(よ)の波(なみ)を思(おも)ふならずや。

 若(わか)きものの、山(やま)深(ふか)く暑(あつさ)を避(さ)けたるが、雲(くも)の峰(みね)高(たか)き巖(いは)の根(ね)に、嘉魚(いはな)釣(つ)りて一人(ひとり)居(ゐ)たりけり。碧潭(へきたん)の氣(き)一脈(いちみやく)、蘭(らん)の香(か)を吹(ふ)きて、床(ゆか)しき羅(うすもの)の影(かげ)の身(み)に沁(し)むと覺(おぼ)えしは、年(とし)經(ふ)る庄屋(しやうや)の森(もり)を出(い)でて、背後(うしろ)なる岨道(そばみち)を通(とほ)る人(ひと)の、ふと彳(たゝず)みて見越(みこ)したんなる。無地(むぢ)かと思(おも)ふ紺(こん)の透綾(すきや)に、緋縮緬(ひぢりめん)の長襦袢(ながじゆばん)、小柳繻子(こやなぎじゆす)の帶(おび)しめて、褄(つま)の堅(かた)きまで愼(つゝ)ましきにも、姿(すがた)のなよやかさ立(た)ちまさり、打微笑(うちほゝゑ)みたる口紅(くちべに)さへ、常夏(とこなつ)の花(はな)の化身(けしん)に似(に)たるかな。斷崖(がけ)の清水(しみづ)に龍女(りうぢよ)の廟(べう)あり。われは浦島(うらしま)の子(こ)か、姫(ひめ)の靈(れい)ぞと見(み)しが、やがて知(し)んぬ。なか/\に時(とき)のはやりに染(そ)まぬ服裝(ふくさう)の、却(かへ)つて鶯帶(あうたい)蝉羅(せんら)にして、霓裳(げいしやう)羽衣(うい)の風情(ふぜい)をなせる、そこの農家(のうか)の姉娘(あねむすめ)の、里(さと)の伯母前(をばぜ)を訪(と)ふなりしを。

 洪水(でみづ)は急(きふ)なりけり。背戸續(せどつゞ)きの寮屋(はなれや)に、茅屋(かやや)に侘(わ)ぶる風情(ふぜい)とて、家(いへ)の娘(むすめ)一人(ひとり)居(ゐ)たる午(ひる)すぎよ。驚破(すはや)と、母屋(おもや)より許嫁(いひなづけ)の兄(あに)ぶんの駈(か)けつくるに、讀(よ)みさしたる書(ふみ)伏(ふ)せもあへず抱(だ)きて立(た)てる、栞(しをり)の萩(はぎ)も濡縁(ぬれえん)に枝(えだ)を浪打(なみう)ちて、早(は)や徒渉(かちわたり)すべからず、あり合(あ)はす盥(たらひ)の中(なか)に扶(たす)けのせつゝ、盪(お)して逃(のが)るゝ。庭(には)はさながら花野(はなの)也(なり)。桔梗(ききやう)、刈萱(かるかや)、女郎花(をみなへし)、我亦紅(われもこう)、瑠璃(るり)に咲(さ)ける朝顏(あさがほ)も、弱竹(なよたけ)のまゝ漕惱(こぎなや)めば、紫(むらさき)と、黄(き)と、薄藍(うすあゐ)と、浮(う)きまどひ、沈(しづ)み靡(なび)く。濁(にご)れる水(みづ)も色(いろ)を添(そ)へて極彩色(ごくさいしき)の金屏風(きんびやうぶ)を渡(わた)るが如(ごと)く、秋草模樣(あきくさもやう)に露(つゆ)敷(し)く袖(そで)は、丈(せ)高(たか)き紫苑(しをん)の梢(こずゑ)を乘(の)りて、驚(おどろ)き飛(と)ぶ蝶(てふ)とともに漾(たゞよ)へり。山影(やまかげ)ながら颯(さつ)と野分(のわき)して、芙蓉(ふよう)に咽(むせ)ぶ浪(なみ)の繁吹(しぶき)に、小(ちひさ)き輪(りん)の虹(にじ)が立(た)つ――あら、綺麗(きれい)だこと――それどころかい、馬鹿(ばか)を言(い)へ――男(をとこ)の胸(むね)は盥(たらひ)に引添(ひきそ)ひて泳(およ)ぐにこそ。おゝい、おゝい、母屋(おもや)に集(つど)へる人數(にんず)の目(め)には、其(そ)の盥(たらひ)たゞ一枚(いちまい)大(おほい)なる睡蓮(れんげ)の白(しろ)き花(はな)に、うつくしき瞳(ひとみ)ありて、すら/\と流(なが)れ寄(よ)りきとか。

 藍(あゐ)あさき宵(よひ)の空(そら)、薄月(うすづき)の夜(よ)に入(い)りて、雲(くも)は胡粉(ごふん)を流(なが)し、一(ひと)むら雨(さめ)廂(ひさし)を斜(なゝめ)に、野路(のぢ)の刈萱(かるかや)に靡(なび)きつゝ、背戸(せど)の女郎花(をみなへし)は露(つゆ)まさる色(いろ)に出(い)で、茂(しげ)れる萩(はぎ)は月影(つきかげ)を抱(いだ)けり。此(こ)の時(とき)、草(くさ)の家(や)の窓(まど)に立(た)ちて、秋(あき)深(ふか)くものを思(おも)ふ女(をんな)。世(よ)にやくねれる、戀(こひ)にや惱(なや)める、避暑(ひしよ)の頃(ころ)よりして未(いま)だ都(みやこ)に歸(かへ)らざる、あこがれの瞳(ひとみ)をなぶりて、風(かぜ)の音信(おとづ)るともあらず、はら/\と、櫨(はじ)の葉(は)、柿(かき)の葉(は)、銀杏(いてふ)の葉(は)、見(み)つゝ指(ゆび)の撓(しな)へるは、待人(まちびと)の日(ひ)を算(かぞ)ふるや。爪紅(つまべに)を其(そ)のまゝに、其(そ)の木(き)の葉(は)一枚(いちまい)づゝ、君(きみ)來(こ)よ、と染(そ)むるにや。豈(あに)ひとり居(きよ)に堪(た)ふべけんや。袖笠(そでがさ)かつぎもやらず、杖折戸(しをりど)を立出(たちい)づる。山(やま)の根(ね)の野菊(のぎく)、水(みづ)に似(に)て、渡(わた)る褄(つま)さき亂(みだ)れたり。曼珠沙華(まんじゆしやげ)ひら/\と、其(そ)の左右(さいう)に燃(も)えたるを、あれは狐(きつね)か、と見(み)し夜戻(よもど)りの山法師(やまぼふし)。稻束(いなづか)を盾(たて)に、や、御寮(ごれう)、いづくへぞ、とそゞろに問(と)へば、莞爾(につこり)して、さみしいから、田圃(たんぼ)の案山子(かゝし)に、杯(さかづき)をさしに行(ゆ)くんですよ。

 朝(あさ)の雲(くも)吹散(ふきち)りたり。風(かぜ)凪(な)ぎぬ。藪垣(やぶがき)なる藤豆(ふぢまめ)の、莢(さや)も實(み)も、午(まひる)の影(かげ)紫(むらさき)にして、谷(たに)を繞(めぐ)る流(ながれ)あり。穗(ほ)たで露草(つゆくさ)みだれ伏(ふ)す。此(こ)の水(みづ)やがて里(さと)の廓(くるわ)の白粉(おしろい)に淀(よど)むと雖(いへど)も、此(こ)のあたり、寺々(てら/″\)の松(まつ)の音(おと)にせゝらぎて、殘菊(ざんぎく)の雫(しづく)潔(いさぎよ)し。十七ばかりのもの洗(あら)ふ女(をんな)、帶(おび)細(ほそ)く腰(こし)弱(よわ)く、盥(たらひ)を抱(かゝ)へて來(き)つ。汀(なぎさ)に裂(さ)けし芭蕉(ばせを)の葉(は)、日(ひ)ざしに翳(かざ)す扇(あふぎ)と成(な)らずや。頬(ほゝ)も腕(かひな)も汗(あせ)ばみたる、袖(そで)引(ひ)き結(ゆ)へる古襷(ふるだすき)は、枯野(かれの)の草(くさ)に褪(あ)せたれども、うら若(わか)き血(ち)は燃(も)えんとす。折(をり)から櫨(はじ)の眞紅(しんく)なるが、其(そ)のまゝの肌着(はだぎ)に映(うつ)りて、竹堰(たけせき)の脛(はぎ)は霜(しも)を敷(し)く、あゝ、冷(つめ)たからん。筧(かけひ)の水(みづ)を受(う)くるとて、嫁菜(よめな)の莖(くき)一(ひと)つ摘(つ)みつゝ、優(やさ)しき人(ひと)の心(こゝろ)かな、何(なん)のすさみにもあらで、其(そ)の盥(たらひ)にさしけるが、引(ひき)とき衣(ぎぬ)の藍(あゐ)に榮(は)えて、嫁菜(よめな)の淺葱色(あさぎいろ)冴(さ)えしを、菜畠(なばたけ)の日南(ひなた)に憩(いこ)ひて、恍惚(くわうこつ)と見(み)たる旅(たび)の男(をとこ)。うかと聲(こゑ)を掛(か)けて、棟(むね)あちこち、伽藍(がらん)の中(なか)に、鬼子母神(きしぼじん)の御寺(みてら)はと聞(き)けば、えゝ、紅(あか)い石榴(ざくろ)の御堂(おだう)でせうと、瞼(まぶた)に色(いろ)を染(そ)めながら。
大正十二年一月―十一月
了

底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
   1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
   1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「婦人十一題(ふじんじふいちだい)」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。