あらすじ
季節が移ろい、風景も移り変わる様子が、繊細な筆致で描かれます。春の息吹から夏の熱気、秋の静寂、そして冬の寒さへと、一年が美しく表現され、そこに生きる人々の心情が、自然と共鳴し、深い余韻を残します。静けさの中に生命の力強さを感じ、移り行く時の中で、新たな始まりの兆しを感じさせる、珠玉の短篇です。
 卯(う)の花(はな)くだし新(あらた)に霽(は)れて、池(いけ)の面(おも)の小濁(さゝにご)り、尚(な)ほ遲櫻(おそざくら)の影(かげ)を宿(やど)し、椿(つばき)の紅(くれなゐ)を流(なが)す。日(ひ)闌(た)けて眠(ねむ)き合歡(ねむ)の花(はな)の、其(そ)の面影(おもかげ)も澄(す)み行(ゆ)けば、庭(には)の石燈籠(いしどうろう)に苔(こけ)やゝ青(あを)うして、野茨(のばら)に白(しろ)き宵(よひ)の月(つき)、カタ/\と音信(おとづ)るゝ鼻唄(はなうた)の蛙(かへる)もをかし。鄙(ひな)はさて都(みやこ)はもとより、衣(きぬ)輕(かろ)く戀(こひ)は重(おも)く、褄(つま)淺(あさ)く、袖(そで)輝(かゞや)き風(かぜ)薫(かを)つて、緑(みどり)の中(なか)の涼傘(ひがさ)の影(かげ)、水(みづ)にうつくしき翡翠(ひすゐ)の色(いろ)かな。浮草(うきくさ)、藻(も)の花(はな)。雲(くも)の行方(ゆくへ)は山(やま)なりや、海(うみ)なりや、曇(くも)るかとすれば又(また)眩(まばゆ)き太陽(たいやう)。

 遠近(をちこち)の山(やま)の影(かげ)、森(もり)の色(いろ)、軒(のき)に沈(しづ)み、棟(むね)に浮(う)きて、稚子(をさなご)の船(ふね)小溝(こみぞ)を飛(と)ぶ時(とき)、海豚(いるか)は群(む)れて沖(おき)を渡(わた)る、凄(すご)きは鰻(うなぎ)掻(か)く灯(ともし)ぞかし。降(ふ)り暮(くら)す昨日(きのふ)今日(けふ)、千騎(せんき)の雨(あめ)は襲(おそ)ふが如(ごと)く、伏屋(ふせや)も、館(たち)も、籠(こも)れる砦(とりで)、圍(かこ)まるゝ城(しろ)に似(に)たり。時鳥(ほとゝぎす)の矢信(やぶみ)、さゝ蟹(がに)の緋縅(ひをどし)こそ、血(ち)と紅(くれなゐ)の色(いろ)には出(い)づれ、世(よ)は只(たゞ)暗夜(やみ)と侘(わび)しきに、烈日(れつじつ)忽(たちま)ち火(ひ)の如(ごと)く、窓(まど)を放(はな)ち襖(ふすま)を排(ひら)ける夕(ゆふべ)、紫陽花(あぢさゐ)の花(はな)の花片(はなびら)一枚(ひとつ)づゝ、雲(くも)に星(ほし)に映(うつ)る折(をり)よ。うつくしき人(ひと)の、葉柳(はやなぎ)の蓑(みの)着(き)たる忍姿(しのびすがた)を、落人(おちうど)かと見(み)れば、豈(あに)知(し)らんや、熱(あつ)き情思(おもひ)を隱顯(ちら/\)と螢(ほたる)に涼(すゞ)む。君(きみ)が影(かげ)を迎(むか)ふるものは、たはれ男(を)の獺(をそ)か、あらず、大沼(おほぬま)の鯉(こひ)金鱗(きんりん)にして鰭(ひれ)の紫(むらさき)なる也(なり)。

 山(やま)に、浦(うら)に、かくれ家(が)も、世(よ)の状(さま)の露呈(あらは)なる、朝(あさ)の戸(と)を開(ひら)くより、襖(ふすま)障子(しやうじ)の遮(さへぎ)るさへなく、包(つゝ)むは胸(むね)の羅(うすもの)のみ。消(け)さじと圍(かこ)ふ魂棚(たまだな)の可懷(なつか)しき面影(おもかげ)に、はら/\と小雨(こさめ)降添(ふりそ)ふ袖(そで)のあはれも、やがて堪(た)へ難(がた)き日盛(ひざかり)や、人間(にんげん)は汗(あせ)に成(な)り、蒟蒻(こんにやく)は砂(すな)に成(な)り、蠅(はへ)の音(おと)は礫(つぶて)と成(な)る。二時(やつ)さがりに松葉(まつば)こぼれて、夢(ゆめ)覺(さ)めて蜻蛉(とんぼ)の羽(はね)の輝(かゞや)く時(とき)、心太(ところてん)賣(う)る翁(おきな)の聲(こゑ)は、市(いち)に名劍(めいけん)を鬻(ひさ)ぐに似(に)て、打水(うちみづ)に胡蝶(てふ/\)驚(おどろ)く。行水(ぎやうずゐ)の花(はな)の夕顏(ゆふがほ)、納涼臺(すゞみだい)、縁臺(えんだい)の月見草(つきみさう)。買(か)はん哉(かな)、甘(あま)い/\甘酒(あまざけ)の赤行燈(あかあんどう)、辻(つじ)に消(き)ゆれば、誰(た)そ、青簾(あをすだれ)に氣勢(けはひ)あり。閨(ねや)の紅麻(こうま)艷(えん)にして、繪團扇(ゑうちは)の仲立(なかだち)に、蚊帳(かや)を厭(いと)ふ黒髮(くろかみ)と、峻嶺(しゆんれい)の白雪(しらゆき)と、人(ひと)の思(おもひ)は孰(いづれ)ぞや。

 月(つき)のはじめに秋(あき)立(た)てば、あさ朝顏(あさがほ)の露(つゆ)はあれど、濡(ぬ)るゝともなき薄煙(うすけむり)、軒(のき)を繞(めぐ)るも旱(ひでり)の影(かげ)、炎(ほのほ)の山(やま)黒(くろ)く聳(そび)えて、頓(やが)て暑(あつ)さに崩(くづ)るゝにも、熱砂(ねつさ)漲(みなぎ)つて大路(おほぢ)を走(はし)る。なやましき柳(やなぎ)を吹(ふ)く風(かぜ)さへ、赤(あか)き蟻(あり)の群(むらが)る如(ごと)し。あれ、聞(き)け、雨乞(あまごひ)の聲(こゑ)を消(け)して、凄(すさま)じく鳴(な)く蝉(せみ)の、油(あぶら)のみ汗(あせ)に滴(したゝ)るや、ひとへに思(おも)ふ、河海(かかい)と山岳(さんがく)と。峰(みね)と言(い)ひ、水(みづ)と呼(よ)ぶ、實(げ)に戀人(こひびと)の名(な)なるかな。神(しん)ならず、仙(せん)ならずして、然(しか)も其(そ)の人(ひと)、彼處(かしこ)に蝶鳥(てふとり)の遊(あそ)ぶに似(に)たり、岨(そば)がくれなる尾(を)の姫百合(ひめゆり)、渚(なぎさ)づたひの翼(つばさ)の常夏(とこなつ)。

 宵々(よひ/\)の稻妻(いなづま)は、火(ひ)の雲(くも)の薄(うす)れ行(ゆ)く餘波(なごり)にや、初汐(はつしほ)の渡(わた)るなる、海(うみ)の音(おと)は、夏(なつ)の車(くるま)の歸(かへ)る波(なみ)の、鼓(つゞみ)の冴(さえ)に秋(あき)は來(き)て、松蟲(まつむし)鈴蟲(すゞむし)の容(かたち)も影(かげ)も、刈萱(かるかや)に萩(はぎ)に歌(うた)を描(ゑが)く。野人(やじん)に蟷螂(たうらう)あり、斧(をの)を上(あ)げて茄子(なす)の堅(かた)きを打(う)つ、響(ひゞき)は里(さと)の砧(きぬた)にこそ。朝夕(あさゆふ)の空(そら)澄(す)み、水(みづ)清(きよ)く、霧(きり)は薄(うす)く胡粉(ごふん)を染(そ)め、露(つゆ)は濃(こ)く藍(あゐ)を溶(と)く、白群青(びやくぐんじやう)の絹(きぬ)の花野原(はなのばら)に、小(ちひ)さき天女(てんによ)遊(あそ)べり。纖(ほそ)きこと縷(る)の如(ごと)し玉蜻(かげろふ)と言(い)ふ。彼(か)の女(をんな)、幽(かすか)に青(あを)き瓔珞(やうらく)を輝(かゞや)かして舞(ま)へば、山(やま)の端(は)の薄(すゝき)を差覗(さしのぞ)きつゝ、やがて月(つき)明(あきら)かに出(い)づ。

 君(きみ)知(し)るや、夜寒(よさむ)の衾(ふすま)薄(うす)ければ、怨(うらみ)は深(ふか)き後朝(きぬ/″\)も、袖(そで)に包(つゝ)まば忍(しの)ぶべし。堪(た)へやらぬまで身(み)に沁(し)むは、吹(ふ)く風(かぜ)の荻(をぎ)、尾花(をばな)、軒(のき)、廂(ひさし)を渡(わた)る其(それ)ならで、蘆(あし)の白(しろ)き穗(ほ)の、ちら/\と、あこがれ迷(まよ)ふ夢(ゆめ)に似(に)て、枕(まくら)に通(かよ)ふ寢覺(ねざめ)なり。よし其(それ)とても風情(ふぜい)かな。折々(をり/\)の空(そら)の瑠璃色(るりいろ)は、玲瓏(れいろう)たる影(かげ)と成(な)りて、玉章(たまづさ)の手函(てばこ)の裡(うち)、櫛笥(くしげ)の奧(おく)、紅猪口(べにちよこ)の底(そこ)にも宿(やど)る。龍膽(りんだう)の色(いろ)爽(さわやか)ならん。黄菊(きぎく)、白菊(しらぎく)咲出(さきい)でぬ。可懷(なつかし)きは嫁菜(よめな)の花(はな)の籬(まがき)に細(ほそ)き姿(すがた)ぞかし。山家(やまが)、村里(むらざと)は薄紅(うすくれなゐ)の蕎麥(そば)の霧(きり)、粟(あは)の實(み)の茂(しげ)れる中(なか)に、鶉(うづら)が鳴(な)けば山鳩(やまばと)の谺(こだま)する。掛稻(かけいね)の香(か)暖(あたゝ)かう、蕪(かぶら)に早(はや)き初霜(はつしも)溶(と)けて、細流(せゝらぎ)に又(また)咲(さ)く杜若(かきつばた)。晝(ひる)の月(つき)を渡(わた)る雁(かり)は、また戀衣(こひぎぬ)の縫目(ぬひめ)にこそ。

 傳(つた)へ言(い)ふ、昔(むかし)越山(ゑつざん)の蜥蜴(とかげ)は水(みづ)を吸(す)つて雹(へう)を噴(ふ)く。時(とき)、冬(ふゆ)の初(はじめ)にして、槐(ゑんじゆ)の鵙(もず)は星(ほし)に叫(さけ)んで霰(あられ)を召(よ)ぶ。雲(くも)暗(くら)し、雲(くも)暗(くら)し、曠野(あらの)を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)(さまよ)ふ狩(かり)の公子(こうし)が、獸(けもの)を照(てら)す炬火(たいまつ)は、末枯(うらがれ)の尾花(をばな)に落葉(おちば)の紅(べに)の燃(も)ゆるにこそ。行暮(ゆきく)れて一夜(ひとよ)の宿(やど)の嬉(うれ)しさや、粟(あは)炊(かし)ぐ手(て)さへ玉(たま)に似(に)て、天井(てんじやう)の煤(すゝ)は龍(りう)の如(ごと)く、破衾(やれぶすま)も鳳凰(ほうわう)の翼(つばさ)なるべし。夢(ゆめ)覺(さ)めて絳欄碧軒(かうらんへきけん)なし。芭蕉(ばせを)の骨(ほね)巖(いはほ)の如(ごと)く、朝霜(あさしも)敷(し)ける池(いけ)の面(おも)に、鴛鴦(ゑんあう)の眠(ねむり)尚(な)ほ濃(こまやか)なるのみ。戀々(れん/\)として、※(「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31)徊(ていくわい)し、漸(やうや)くにして里(さと)に下(くだ)れば、屋根(やね)、廂(ひさし)、時雨(しぐれ)の晴間(はれま)を、ちら/\と晝(ひる)灯(ひとも)す小(ちひさ)き蟲(むし)あり、小橋(こばし)の稚子等(うなゐら)の唄(うた)ふを聞(き)け。(おほわた)來(こ)い、來(こ)い、まゝ食(く)はしよ。

 それ、おほみそかは大薩摩(おほざつま)の、もの凄(すご)くも又(また)可恐(おそろ)しき、荒海(あらうみ)の暗闇(やみ)のあやかしより、山寺(やまでら)の額(がく)の魍魎(まうりやう)に至(いた)るまで、霙(みぞれ)を錬(ね)つて氷(こほり)を鑄(い)つゝ、年(とし)の瀬(せ)に楯(たて)を支(つ)くと雖(いへど)も、巖間(いはま)の水(みづ)は囁(さゝや)きて、川端(かはばた)の辻占(つじうら)に、春衣(はるぎ)の梅(うめ)を告(つ)ぐるぞかし。水仙(すゐせん)薫(かを)る浮世小路(うきよこうぢ)に、やけ酒(ざけ)の寸法(すんぱふ)は、鮟鱇(あんかう)の肝(きも)を解(と)き、懷手(ふところで)の方寸(はうすん)は、輪柳(わやなぎ)の絲(いと)を結(むす)ぶ。結(むす)ぶも解(と)くも女帶(をんなおび)や、いつも鶯(うぐひす)の初音(はつね)に通(かよ)ひて、春待月(はるまちつき)こそ面白(おもしろ)けれ。
大正八年五月―十二月
了

底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
   1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
   1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「五月(ごぐわつ)より」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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