あらすじ
宮沢賢治の「台川」は、生徒たちを連れて、釜淵へと向かう教師の姿を描いた作品です。教師は道中、生徒たちに地質や植物について解説をしながらも、彼らの反応は薄く、教師は寂しさを感じます。しかし、教師は生徒たちの無関心にめげずに、熱心に教え続け、生徒たちは教師の言葉に耳を傾け始めます。やがて、生徒たちは教師と共に釜淵へとたどり着き、そこで壮大な自然を目の当たりにします。
〔もうでかけましょう。〕たしかに光がうごいてみんな立ちあがる。腰(こし)をおろしたみじかい草。かげろうか何かゆれている。かげろうじゃない。網膜(もうまく)が感(かん)じただけのその光だ。
〔さあでかけましょう。行きたい人だけ。〕まだ来ないものは仕方(しかた)ない。さっきからもう二十分も待(ま)ったんだ。もっともこのみちばたの青いいろの寄宿舎(きしゅくしゃ)はゆっくりして爽(さわや)かでよかったが。
これからまたここへ一遍(いっぺん)帰って十一時には向(むこ)うの宿(やど)へつかなければいけないんだ。「何処(どご)さ行ぐのす。」そうだ、釜淵(かまぶち)まで行くというのを知らないものもあるんだな。〔釜淵まで、一寸(ちょっと)三十分ばかり。〕
おとなしい新らしい白、緑(みどり)の中だから、そして外光の中だから大へんいいんだ。天竺木綿(てんじくもめん)、その菓子(かし)の包(つつ)みは置(お)いて行ってもいい。雑嚢(ざつのう)や何かもここの芝(しば)へおろしておいていい行かないものもあるだろうから。
「私はここで待ってますから。」校長だ。校長は肥(ふと)ってまっ黒にいで立ちたしかにゆっくりみちばたの草、林の前に足を開(ひら)いて投(な)げ出している。
〔はあ、では一寸行って参(まい)ります。〕木の青、木の青、空の雲は今日も甘酸(あまず)っぱく、足なみのゆれと光の波(なみ)。足なみのゆれと光の波。
粘土(ねんど)のみちだ。乾(かわ)いている。黄色だ。みち。粘土。
小松(こまつ)と林。林の明暗(めいあん)いろいろの緑。それに生徒(せいと)はみんな新鮮(しんせん)だ。
そしてそうだ、向うの崖(がけ)の黒いのはあれだ、明らかにあの黒曜石(こくようせき)の dyke だ。ここからこんなにはっきり見えるとは思わなかったぞ。
よしうまい。
〔向(むこ)うの崖(がけ)をごらんなさい。黒くて少し浮(う)き出した柱(はしら)のような岩があるでしょう。あれは水成岩(すいせいがん)の割(わ)れ目に押(お)し込(こ)んで来た火山岩です。黒曜石です。〕ダイクと云(い)おうかな。いいや岩脈(がんみゃく)がいい。〔ああいうのを岩脈といいます。〕わかったかな。
〔わかりましたか。向うの崖に黒い岩が縦(たて)に突(つ)き出ているでしょう。
あれは水成岩のなかにふき出した火成岩ですよ。岩脈ですよ。あれは。〕
ゆれてるゆれてる。光の網(あみ)。
〔この山は流紋凝灰岩(りゅうもんぎょうかいがん)でできています。石英粗面岩(せきえいそめんがん)の凝灰岩、大へん地味(ちみ)が悪(わる)いのです。赤松(あかまつ)とちいさな雑木(ぞうき)しか生(は)えていないでしょう。ところがそのへん、麓(ふもと)の緩(ゆる)い傾斜(けいしゃ)のところには青い立派(りっぱ)な闊葉樹(かつようじゅ)が一杯(いっぱい)生(は)えているでしょう。あすこは古い沖積扇(ちゅうせきせん)です。運(はこ)ばれてきたのです。割合(わりあい)肥沃(ひよく)な土壌(どじょう)を作っています。木の生え工合(ぐあい)がちがって見えましょう。わかりましょう。〕わかるだろうさ。けれどもみんな黙(だま)って歩いている。これがいつでもこうなんだ。さびしいんだ。けれども何でもないんだ。
後(うし)ろで誰(だれ)かこごんで石ころを拾(ひろ)っているものもある。小松ばやしだ。混(こ)んでいる。このみちはずうっと上流(じょうりゅう)まで通っているんだ。造林(ぞうりん)のときは苗(なえ)や何かを一杯つけた馬がぞろぞろここを行くんだぞ。
〔志戸平(しどたいら)のちかく豊沢(とよさわ)川の南の方に杉(すぎ)のよくついた奇麗(きれい)な山があるでしょう。あすことこことはとても木の生え工合や較(くら)べにも何にもならないでしょう。向(むこ)うは安山岩(あんざんがん)の集塊岩(しゅうかいがん)、こっちは流紋凝灰岩です。石灰(せっかい)や加里(カリ)や植物養料(しょくぶつようりょう)がずうっと少いのです。ここにはとても杉なんか育(そだ)たないのです。〕うしろでふんふんうなずいているのは藤原清作(ふじわらせいさく)だ。あいつは太田(おおた)だからよくわかっているのだ。
〔尤(もっと)も向うの杉(すぎ)のついているところは北側(きたがわ)でこっちは南と東です。その関係(かんけい)もありますがそうでなくてもこっちは北側でも杉やひのきは生(は)えません。あすこの崖(がけ)で見てもわかります。この山と地質(ちしつ)は同じです。ただ北側なため雑木(ぞうき)が少しはよく育(そだ)ってます。〕いいや駄目(だめ)だ。おしまいのことを云(い)ったのは結局(けっきょく)混雑(こんざつ)させただけだ。云わないでおけばよかった。それでもあの崖はほんとうの嫩(わか)い緑(みどり)や、灰(はい)いろの芽(め)や、樺(かば)の木の青やずいぶん立派(りっぱ)だ。佐藤箴(さとうかん)がとなりに並(なら)んで歩いてるな。桜羽場(さくらはば)がまた凝灰岩(ぎょうかいがん)を拾(ひろ)ったな。頬(ほお)がまっ赤(か)で髪(かみ)も赭(あか)いその小さな子供(こども)。
雲がきれて陽(ひ)が照(て)るしもう雨は大丈夫(だいじょうぶ)だ。さっきも一遍(いっぺん)云ったのだがもう一度(いちど)あの禿(はげ)の所(ところ)の平(ひら)べったい松(まつ)を説明(せつめい)しようかな。平ったくて黒い。影(かげ)も落(お)ちている。どこかであんなコロタイプを見た。及川(おいかわ)やなんか知ってるんだ。よすかな。いいや。やろう。
〔さあ、いいですか。あすこに大きな黄色の禿(は)げがあるでしょう。あすこの割合(わりあい)上のあたりに松が一本生えてましょう。平ったくてまるで潰(つぶ)れた蕈(きのこ)のようです。どうしてあんなになったんですか。土壌(どじょう)が浅(あさ)くて少し根(ね)をのばすとすぐ岩石でしょう。下へ延(の)びようとしても出来ないでしょう。横(よこ)に広がるだけでしょう。ところが根と枝(えだ)は相関現象(そうかんげんしょう)で似(に)たような形になるんです。枝も根のように横にひろがります。桜(さくら)の木なんか植(う)えるとき根を束(たば)ねるようにしてまっすぐに下げて植えると土から上の方も箒(ほうき)のように立ちましょう。広げれば広がります。〕
「そんだ。林学でおら習(なら)った。」何と云(い)ったかな。このせいの高い眼(め)の大きな生徒(せいと)。
坂(さか)になったな。ごろごろ石が落(お)ちている。
「先生この石何て云うのす。」どうせきまってる。
〔凝灰岩。流紋(りゅうもん)凝灰岩だ。凝灰岩の温泉(おんせん)の為(ため)に硅化(けいか)を受(う)けたのだ。〕
光が網(あみ)になってゆらゆらする。みんなの足並(あしなみ)。小松の密林(みつりん)。
「釜淵(かまぶち)だら俺(おら)ぁ前になんぼがえりも見だ。それでも今日も来た。」
うしろで云っている。あの顔の赤い、そしていつでも少し眼が血走ってどうかすると泣(な)いているように見える、あの生徒(せいと)だ。五内川(ごないかわ)でもないし、何と云ったかな。
けれどもその語(ことば)はよく分っているぞ。よくわかっているとも。
巨礫(きょれき)がごろごろしている。一つ欠(か)いて見せるかな。うまくいった。パチンといった。〔これは安山岩(あんざんがん)です。上流(かみ)の方から流(なが)れてきたのです。〕
すっと歩き出せ。関(せき)さんだ。「この石は安山岩であります。上流から流れてきたのです。」まねをしている。堀田(ほった)だな。堀田は赤い毛糸のジャケツを着(き)ているんだ。物(もの)を言う口付(くちつ)きが覚束(おぼつか)なくて眼(め)はどこを見ているかはっきりしないで黒くてうるんでいる。今はそれがうしろの横(よこ)でちらっと光る。
そこの松林(まつばやし)の中から黒い畑(はたけ)が一枚(まい)出てきます。
(ああ畑も入ります入ります。遊園地(ゆうえんち)には畑もちゃんと入ります)なんて誰(だれ)だったかな、云(い)っていた、あてにならない。こんな畑を云うんだろう。おれのはもっとずっと上流の北上(きたかみ)川から遠くの東の山地まで見はらせるようにあの小桜(こざくら)山の下の新らしく墾(ひら)いた広い畑を云ったんだ。
「全体(ぜんたい)どごさ行ぐのだべ。」
「なあに先生さ従(つ)いでさぃ行げばいいんだじゃ。」また堀田だな。前の通りだ。うしろで黄いろに光っている。みんな躊躇(ちゅうちょ)してみちをあけた。おれが一番さきになる。こっちもみちはよく知らないがなあにすぐそこなんだ。路(みち)から見えたら下りるだけだ。防火線(ぼうかせん)もずうっとうしろになった。
〔あれが小桜山だろう。〕けわしい二つの稜(りょう)を持(も)ち、暗(くら)くて雲かげにいる。少し名前に合わない。けれどもどこかしんとして春の底(そこ)の樺(かば)の木の気分はあるけれどもそれは偶然性(ぐうぜんせい)だ。よくわからない。みちが二つに岐(わか)れている。この下のみちがきっと釜淵(かまぶち)に行くんだ。もうきっと間違(まちが)いない。
小松(こまつ)だ。密(みつ)だ。混(こ)んでいる。それから巨礫(きょれき)がごろごろしている。うすぐろくて安山岩だ。地質調査(ちしつちょうさ)をするときはこんなどこから来たかわからないあいまいな岩石(もの)に鉄槌(かなづち)を加えてはいけないと教えようかな。すぐ眼(め)の前を及川(おいかわ)が手拭(てぬぐい)を首(くび)に巻(ま)いて黄色の服(ふく)で急(いそ)いでいるし、云(い)おうかな。けれどもこれは必要(ひつよう)がない。却(かえ)って混雑(こんざつ)するだけだ。とにかくひどく坂(さか)になった。こんな工合(ぐあい)で丁度(ちょうど)よく釜淵(かまぶち)に下りるんだ。遠くで鳥も鳴いているし。下の方で渓(たに)がひどく鳴っている。ことによるとここらの下が釜淵だ。一寸(ちょっと)のぞいてみよう。
黒い松(まつ)の幹(みき)とかれくさ。みんなぞろぞろ従(つ)いてくる。渓が見える。水が見える。波(なみ)や白い泡(あわ)も見える。ああまだ下だ。ずうっと下だ。釜淵は。ふちの上の滝(たき)へ平(たい)らになって水がするする急いで行く。それさえずうっと下なのだ。
この崖(がけ)は急でとても下りられない。下に降(お)りよう。松林だ。みちらしく踏(ふ)まれたところもある。下りて行こう。藪(やぶ)だ。日陰(ひかげ)だ。山吹(やまぶき)の青いえだや何かもじゃもじゃしている。さきに行くのは大内(おおうち)だ。大内は夏服の上に黄色な実習服(じっしゅうふく)を着(き)て結(むす)びを腰(こし)にさげてずんずん藪をこいで行く。よくこいで行く。
急にけわしい段(だん)がある。木につかまれ木は光る。雑木(ぞうき)は二本雑木が光る。
「じゃ木さば保(た)ご附(つ)くこなしだじゃぃ。」誰(だれ)かがうしろで叫(さけ)んでいる。どういう意味(いみ)かな。木にとりつくと弾(は)ね返(かえ)ってうしろのものを叩(たた)くというのだろうか。
光って木がはねかえる。おれはそんなことをしたかな。いやそれはもうよく気をつけたんだ。藪だ。もじゃもじゃしている。大内はよくあるく。
崖(がけ)だ。滝(たき)はすぐそこだし、ここを下りるより仕方(しかた)ない。さあ降りよう。大内はよく降りて行く。急だぞ。この木は少し太すぎる。灰(はい)いろだ。急だぞ、草、この木は細いぞ、青いぞあぶないぞ。なかなか急だ。大丈夫(だいじょうぶ)だ。この木は切ってあるぞ。〔ほう、〕そこはあんまり急だ。
おりるのか。仕方ない。木がめまぐるしいぞ。「一人落(お)ぢればみんな落ぢるぞ。」誰かうしろで叫んでいる。落ちてきたら全(まった)くみんな落ちる。大内がずうっと落ちた。
河原(かわら)まで行ってやっととまった。
おれはとにかく首尾(しゅび)よく降(お)りた。

少し下へさがり過(す)ぎた。瀑(たき)まで行くみちはない。
凝灰岩(ぎょうかいがん)が青じろく崖と波(なみ)との間に四、五寸(すん)続(つづ)いてはいるけれどもとてもあすこは伝(つた)って行けない。それよりはやっぱり水を渉(わた)って向(むこ)うへ行くんだ。向うの河原は可成(かなり)広いし滝(たき)までずうっと続いている。
けれども脚(あし)はやっぱりぬれる。折角(せっかく)ぬらさないためにまわり道して上から来たのだ、飛石(とびいし)を一つこさえてやるかな。二つはそのまま使(つか)えるしもう四つだけころがせばいい、まずおれは靴(くつ)をぬごう。ゴム靴によごれた青の靴下か。〔一寸(ちょっと)待(ま)って、今渡(わた)るようにしますから。〕
この石は動(うご)かせるかな。流紋岩(りゅうもんがん)だかなりの比重(ひじゅう)だ。動くだろう。水の中だし、アルキメデス、水の中だし、動く動く。うまくいった。波(なみ)、これも大丈夫(だいじょうぶ)だ。大丈夫。引率(いんそつ)の教師が飛石をつくるのもおかしいがまたえらい。やっぱりおかしい。ありがたい。うまくいった。
ひとりが渡る。ぐらぐらする。あぶなく渡る、二人がわたる。
もう一つはどれにするかな もう四人だけ渡っている。飛石の上に両(りょう)あしを揃(そろ)えてきちんと立って四人つづいて待(ま)っているのは面白(おもしろ)い。向うの河原のを動かそう。影(かげ)のある石だ。
持(も)てるかな。持てる。けれども一番(いちばん)波の強いところだ。恐(おそ)らく少し小さいぞ。小さい。波が昆布(こんぶ)だ、越(こ)して行く。もう一つ持って来よう。こいつは苔(こけ)でぬるぬるしている。これで二つだ。まだぐらぐらだ。も一つ要(い)る。小さいけれども台にはなる。大丈夫だ。おれははだしで行こうかな。いいややっぱり靴ははこう。面倒(めんどう)くさい靴下はポケットへ押(お)し込(こ)め、ポケットがふくれて気持(きも)ちがいいぞ。
素(す)あしにゴム靴(ぐつ)でぴちゃぴちゃ水をわたる。これはよっぽどいいことになっている。前にも一ぺんどこかでこんなことがあった。去年(きょねん)の秋だ。腐植質(フィウマス)の野原のたまり水だったかもしれない。向(むこ)うに黒いみちがある。崖(がけ)の茂(しげ)みにはいって行く。これが羽山(はやま)を越(こ)えて台に出(で)るのかもわからない。帰りに登(のぼ)るとしようかな。いいや。だめだ。曖昧(あいまい)だしそれにみんなも越えれまい。
「先生、この石何す。」一かけひろって持(も)っている。〔ふん。何だと思います。〕「何だべな。」〔凝灰岩(ぎょうかいがん)です。ここらはみんなそうですよ。浮岩質(ふがんしつ)の凝灰岩。〕
みんなさっきはあしをぬらすまいとしたんだが日が照(て)るし水はきれいだし自分でも気がつかず川にはいったんだ。
もうずんずん瀑(たき)をのぼって行く。cascade だ。こんな広い平(たい)らな明るい瀑はありがたい。上へ行ったらもっと平らで明るいだろう。けれども壺穴(つぼあな)の標本(ひょうほん)を見せるつもりだったが思ったくらいはっきりはしていないな。多少失望(しつぼう)だ。岩は何という円くなめらかに削(けず)られたもんだろう。水苔(みずごけ)も生(は)えている。滑(すべ)るだろうか。滑らない。ゴム靴の底(そこ)のざりざりの摩擦(まさつ)がはっきり知れる。滑らない。大丈夫(だいじょうぶ)だ。さらさら水が落(お)ちている。靴はビチャビチャ云(い)っている。みんないい。それにみんなは後からついて来る。
苔がきれいにはえている。実(じつ)に円く柔(やわ)らかに水がこの瀑のところを削(けず)ったもんだ。この浸蝕(しんしょく)の柔らかさ。

もう平らだ。そうだ。いつかもここを溯(のぼ)って行った。いいや、此処(ここ)じゃない。けれどもずいぶんよく似(に)ているぞ。川の広さも両岸(りょうがん)の崖、ところどころの洲(す)の青草。もう平らだ。みんな大分溯ったな。
〔ここをごらんなさい。岩石の裂(さ)け目に沿(そ)って赤く色が変(かわ)っているでしょう。裂け目のないところにも赤い条(すじ)の通っているところがあるでしょう。この裂け目を温泉(おんせん)が通ったのです。温泉の作用で岩が赤くなったのです。ここがずうっとつちの底(そこ)だったときですよ。わかりますか。〕
だまっている。波(なみ)がうごき波が足をたたく。日光が降(ふ)る。この水を渉(わた)ることの快(こころよ)さ。菅木(すがき)がいるな。いつものようにじっとひとの目を見つめている。
〔ここをごらんなさい。岩に裂(さ)け目があるでしょう。ここを温泉(おんせん)が通って岩を変質(へんしつ)させたのです。風化(ふうか)のためにもこう云(い)う赤い縞(しま)はできます。けれどもここではほかのことから温泉の作用ということがわかるのです。〕
ずいぶん上流(じょうりゅう)まで行った。実際(じっさい)こんなに川床(かわどこ)が平(たい)らで水もきれいだし山の中の第一流(だいいちりゅう)の道路(どうろ)だ。どこまでものぼりたいのはあたりまえだ。
向(むこ)うの岸(きし)の方にうつろう。
「先生この岩何す。」千葉(ちば)だな。お父さんによく似(に)ている。〔何に似てます。何でできてますか。〕だまっている。〔わかりませんか。礫岩(れきがん)です。礫岩です。凝灰質礫岩(ぎょうかいしつれきがん)。〕及川(おいかわ)だな。〔いいですか。これは温泉(おんせん)の作用ですよ。この裂け目を通った温泉のために凝灰岩が変質(へんしつ)を受(う)けたんです。〕
みんなわかるんだな。これは。向うにも一つ滝(たき)があるらしい。うすぐろい岩の。みんなそこまで行こうと云うのか。草原があって春木も積(つ)んである。ずいぶん溯(のぼ)ったぞ。ここは小さな段(だん)だ。
「ああ云う岩のすき間のごと何て云うのだたべな。習(なら)ったたんとも。」
〔やっぱり裂け目です。裂け目でいいんです。〕習ったというのは節理(せつり)だな。節理なら多面(ためん)節理、これを節理と云うわけにはいかない。裂罅(れっか)だ。やっぱり裂け目でいいんだ。壺穴(つぼあな)のいいのがなくて困(こま)るな。少し細長いけれどもこれで説明(せつめい)しようか。elongatedpot-hole〔ここがどうしてこう掘(ほ)れるかわかりますか。石ころ、礫がこれを掘るのです。そら水のために礫がごろごろするでしょう。だんだん岩を掘るでしょう。深(ふか)いところが一層(いっそう)深くなるはずです。もっと大きなのもあります。〕
日光の波、日光の波、光の網(あみ)と、水の網。
「ほこの穴(あな)こまん円けじゃ。先生。」
ああいい、これはいい標本(ひょうほん)だ。こいつなら持(も)ってこいだ。
〔さあ、見て下さい。これはいい標本です。そら。この中に石ころが入ってましょう。みんな円くなってるでしょう。水ががりがり擦(こす)ったんです。そら。〕
実(じつ)にいい礫(れき)だ。まっ白だ。まん円だ水でぬれている。取(と)ってしまった。誰(だれ)かがまた掻(か)き廻(まわ)す。もうない。あとは茶色だし少し角もある。ああいいな。こんなありがたい。あんまり溯(のぼ)る。もう帰ろう。校長もあの路(みち)の岐(わか)れ目で待(ま)っている。
〔ほう。戻(もど)れ。ほう。〕向(むこ)うの崖(がけ)は明るいし声はよく出ない。聞えないようだ。市野川(いちのかわ)やぐんぐんのぼって行く。〔ほう、〕「戻れど。お。」「戻れ。」
向いた向いた。一人向けばもういい。川を戻るよりはここからさっきの道へのぼったほうがいい、傾斜(けいしゃ)もゆるく丁度(ちょうど)のぼれそうだ。〔みんなそこからあの道へ出ろ。〕
手を振(ふ)ったほうがわかるな。わかったわかったわかったようだ。市野川が崖の上のみちを見ている。
うしろの滝(たき)の上で誰(だれ)か叫(さけ)んでいる。大竹(おおたけ)だ。「おら荷物(にもつ)置(お)いてきたがらこっちがら行ぐ。」よかろう。〔よおし。〕もう大竹が滝をおりて行く。すばやいやつだ。二、三人またついて行く。それからも一人おくれてひどく心配(しんぱい)そうに背中(せなか)をかがめて下りていく。斉藤貞一(さいとうていいち)かな。一寸(ちょっと)こっちを見たところには栗鼠(りす)の軽(かる)さもある。ほんとうに心配なんだ。かあいそう。
市野川やみんながぞろぞろ崖をみちの方へ上って行くらしい。
そうすればおれはやっぱり川を下ったほうがいいんだ。もしも誰か途中(とちゅう)で止っていてはわるい。尤(もっと)も靴下(くつした)もポケットに入っているし必(かなら)ず下らなければならないということはない、けれどもやっぱりこっちを行こう。ああいい気持(きもち)だ。鉄槌(かなづち)をこんなに大きく振って川をあるくことはもう何年ぶりだろう。波(なみ)が足をあらい水はつめたく陽(ひ)は射(さ)している。
「先生ぁ、ずいぶん足ぁ早ぃな。」富手(とみて)かな、菅木(すがき)かな、あんなことを云(い)っている。足が早いというのは道をあるくときの話だ。ここも平(たい)らで上等(じょうとう)の歩道なのだ。ただ水があるばかり。
「先生、あの崖(がけ)のどご色変(かわ)ってるのぁ何してす。」簡(かん)だ。崖の色か。
〔あれは向(むこ)うだけは土が落(お)ちたんです。滑(すべ)って。〕
うん。あるある。これが裂罅(れっか)を温泉(おんせん)の通った証拠(しょうこ)だ。玻璃蛋白石(はりたんぱくせき)の脈(みゃく)だ。
〔ここをごらんなさい。岩のさけ目に白いものがつまっているでしょう。これは温泉から沈澱(ちんでん)したのです。石英(せきえい)です。岩のさけ目を白いものが埋(う)めているでしょう。いい標本(ひょうほん)です。〕みんなが囲(かこ)む。水の中だ。
「取(と)らえなぃがべが。」「いいや、此処(ここ)このまんまの標本だ。」
「それでも取らえなぃがべが。」〔取ってみますか。取れます。〕
中々面倒(めんどう)だ。
「先生こっちにもっと大きなのあるんす。」あるある。これならネストと云(い)ってもいい。これなら取れる。ハムマアの尖(とが)った方ではだめだ。平(ひら)たい方は……。
水がぴちゃぴちゃはねる。そっちの方のものが逃(に)げる、ふん。
〔水がはねますか。やっぱりこっちでやるかな。〕
白く岩に傷(きず)がついた。二所(ふたところ)ついた。
とれる。とれた。うまい。新鮮(しんせん)だ。青白い。
緑簾石(りょくれんせき)もついている。そうじゃないこれは苔(こけ)だ。〔いいですか。これは玻璃蛋白石です。温泉から沈澱したのです。晶洞(しょうどう)もあります。小さな石英の結晶(けっしょう)です。持(も)っておいでなさい。〕
誰(だれ)だ崖(がけ)の上で叫(さけ)んでいるのは。
「先生。おら河童捕(かっぱど)りしたもや。河童捕り。」藤原健太郎(ふじわらけんたろう)だ。黒の制服(せいふく)を着(き)て雑嚢(ざつのう)をさげ、ひどくはしゃいで笑(わら)っている。どうしていまごろあんな崖の上などに顔を出したのだ。
「先生。下りで行ぐべがな。先生。よし、下りで行ぐぞ。」
〔うん。大丈夫(だいじょうぶ)。大丈夫だ。〕おりるおりる。がりがりやって来るんだな。ただそのおしまいの一足だけがあぶないぞ。裸(はだか)の青い岩だし急(きゅう)だ。
〔おおい。もう少し斜(ななめ)におりろ。〕おりるおりる。どんどん下りる。もう水へ入った。〔どうしたのです。〕「先生。河童捕りあ※[#小書き平仮名ん、135-11]すた。ガバンも何も、すっかりぬらすたも。」〔どこで。……〕
もう下ろう。滝(たき)に来た。下りているものもある。水の流(なが)れる所(ところ)は苔(こけ)は青く流れない所は褐色(かっしょく)だ。みんなこわごわ下りて来る。水の流れる所は大丈夫滑(すべ)らないんだ。〔水の流れるところをあるきなさい。水の流れるところがいいんです。〕
あれは葛丸(くずまる)川だ。足をさらわれて淵(ふち)に入ったのは。いいや葛丸川じゃない。空想(くうそう)のときの暗(くら)い谷だ。どっちでもいい。水がさあさあ云(い)っている。「いいな。あそごの水の跳(は)ね返(かえ)る処(ところ)よ。」
うん、いい早池峯山(はやちねさん)の七折(ななおり)の滝(たき)だってこんなのの大きなだけだろう。
もうみんなおりる。おれもおりる。たった一人あとからやって来る人がある。こわそうだ。
〔水の流れるところをあるくんです。水の流れる所を歩くんですよ。〕
そうだ。そうだ。いい気持(きも)ちだ。
了

底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
   1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
   1995(平成7)年5月
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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