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ルピック夫人はいう――
「ははあ……オノリイヌは、きっとまた鶏小舎の戸を閉めるのを忘れたね」
そのとおりだ。窓から見ればちゃんとわかるのである。向こうの、広い中庭のずっと奥のほうに、鶏小舎の小さな屋根が、暗闇の中に、戸の開いているところだけ、黒く、四角く、くぎっている。
「フェリックスや、お前ちょっと行って、閉めて来るかい」
と、ルピック夫人は、三人の子供のうち、一番上の男の子にいう。
「僕あ、鶏の世話をしにここにいるんじゃないよ」
蒼白い顔をした無精で、臆病なフェリックスがいう。
「じゃ、お前は、エルネスチイヌ?」
「あら、母さん、あたし、こわいわ」
兄貴のフェリックスも、姉のエルネスチイヌも、ろくろく顔さえ上げないで返事をする。二人ともテーブルに肱をついて、ほとんど額と額とをくっつけるようにしながら、夢中で本を読んでいる。
「そうそう、なんてあたしゃ馬鹿なんだろう」と、ルピック夫人はいう――「すっかり忘れていた。にんじん、お前いって鶏小舎を閉めておいで」
彼女は、こういう愛称で末っ子を呼んでいた。というのは、髪の毛が赤く、顔じゅうに雀斑があるからである。テーブルの下で、何もせずに遊んでいたにんじんは、突っ立ちあがる。そして、おどおどしながら、
「だって、母さん、僕だってこわいよ」
「なに?」と、ルピック夫人は答える――「大きななりをして……。嘘だろう。さ、早く行くんですよ」
「わかってるわ。そりゃ、強いったらないのよ。まるで牡羊みたい……」
姉のエルネスチイヌがいう。
「こわいものなしさ、こいつは……。こわい人だってないんだ」
と、これは兄貴のフェリックスである。
おだてられて、にんじんは反り返った。そういわれて、できなければ恥だ。彼は怯む心と闘う。最後に、元気をつけるために、母親は、痛いめに遭わすといい出した。そこで、とうとう――
「そんなら、明りを見せてよ」
ルピック夫人は、知らないよという恰好をする。フェリックスは、鼻で笑っている。エルネスチイヌが、それでも、可哀そうになって、蝋燭をとりあげる。そしてにんじんを廊下のとっぱなまで送って行く。
「ここで待っててあげるわ」
が、彼女は、怖じ気づいて、すぐ逃げ出す。風が、ぱっと来て、蝋燭の火をゆすぶり、消してしまったからである。にんじんは、尻っぺたに力を籠め、踵を地べたにめり込ませて、闇の中で、ぶるぶる顫え出す。暗いことといったら、それこそ、盲になったとしか思えない。おりおり、北風が、冷たい敷布のようにからだを包んで、どこかへ持って行こうとする。狐か、それともあるいは狼が、指の間や頬ぺたに息をふきかけるようなことはないか。いっそ、頭を前へ突き出し、鶏小舎めがけて、いいかげんに駈け出したほうがましだ。そこには、隠れるところがあるからだ。手探りで、戸の鉤をつかむ。と、その跫音に愕いた鶏どもは、宿木の上で、きゃあきゃあ騒ぐ。にんじんは怒鳴る――
「やかましいな。おれだよ」
戸を閉めて走り出す――手にも、足にも、羽根が生えたように。やがて、暖かな、明るいところへ帰って来ると、息をはずませ、内心得意だ。雨と泥で重くなった着物を、新しい軽いやつと着替えたようだ。そこで、反り身になり、突っ立ったまま、昂然と笑って見せる。みんなが褒めてくれるのを待っている。危険はもう過ぎた。両親の顔色のどこかに、心配をした跡が見えはせぬかと、それを捜している。
ところが、兄貴のフェリックスも、姉のエルネスチイヌも、平気で本を読みつづけている。ルピック夫人は落ちつきはらった声で、彼にいう――
「にんじん、これから、毎晩、お前が閉めに行きなさい」
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いつものように、ルピック氏は、テーブルの上で、猟の獲物を始末し、腸を抜くのである。獲物は、二羽の鷓鴣だ。兄貴のフェリックスは、壁にぶらさげてある石板に、そいつを書きつける。それが彼の役目である。子供たちは、めいめい仕事を割当てられている。姉のエルネスチイヌは、毛をむしり、羽根を抜くのである。ところで、にんじんは怪我をしたまま生きているやつの、最後の息の根をとめるのである。この特権は、冷たい心の持主であるというところからきている。彼の残忍性は、みんなの認めるところとなっているからである。
二羽の鷓鴣は、じたばたする。首を振る。
ルピック夫人――どうして、さっさと殺さないんだい。
にんじん――母さん、僕、石板に書くほうがいいなあ。
ルピック夫人――石板は、お前には、丈がとどかないよ。
にんじん――そいじゃ、羽根をむしるほうがいいや。
ルピック夫人――そんなことは、男のすることじゃない。
にんじんは、二羽の鷓鴣をとりあげる。そばから、親切にやり方を教えるものがある。「ぎゅっと締めるんだよ、そうさ、頭んところを、羽根を逆さまに持って……」
両手に、一羽ずつ、それをうしろへかくして、彼はやり出す。
ルピック氏――二羽一度にか。無茶しよる。
にんじん――早くやっちゃいたいからさ。
ルピック夫人――神経家ぶるのはよしとくれ。心ん中じゃ、うれしくってたまらないくせに……。
鷓鴣は痙攣したように、もがく。翼をばたばたさせる。羽根を飛ばす。金輪際くたばりそうにもない。彼は、友達の一人ぐらい、もっと楽に、それこそ片手で締め殺せるだろうに。――今度は両膝の間に挾んで、しっかり押え、赤くなったり、白くなったり、汗までかいて、なおも締めつづける。顔は、なんにも見ないように上を向いているのである。鷓鴣は、頑強だ。
どうしてもだめなので、癇癪をおこし、二羽とも、脚をもったまま、靴の先で、頭を踏みつける。
「やあ、冷血! 冷血!」
兄貴のフェリックスと、姉のエルネスチイヌが叫んだ。
「なに、あれで、うまくやったつもりなのさ」と、ルピック夫人はいう――「可哀そうに……。あたしがこんなめにあうんだったら、まっぴらだ。ああ怖い、怖い」
ルピック氏は、年功を経た猟人だが、さすがに、胸を悪くして、どっかへ出て行く。
「これでいいだろう」
にんじんは、死んだ鷓鴣をテーブルの上に投げ出す。
ルピック夫人は、それを、こっちへ引っくり返し、あっちへ引っくり返しして見る。小さな頭蓋骨が、砕けて、血と少しばかりの脳味噌が流れ出している。
「あんとき、取り上げちまえばよかったのさ。これじゃ、目もあてられやしない……」
ルピック夫人はいう。
すると、兄貴のフェリックスが――
「たしかに、いつもよりゃ、まずいや」
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ルピック氏と姉のエルネスチイヌは、ランプの下で、肱をついて、一人は新聞を一人は賞与の本を読んでいる。ルピック夫人は編物をし、兄貴のフェリックスは暖炉で両脚をあぶっている。それから、にんじんは、床の上に坐って、何か考え事をしている。
だしぬけに、靴拭いの下で眠っていたピラムが、ごろごろ喉を鳴らしだす。
「しいっ!」と、ルピック氏がいった。
ピラムは、一段と声を張り上げる。
「馬鹿」と、ルピック夫人はいう。
が、ピラムは、それこそ、みんなが飛びあがるほど猛烈な声で吠える。ルピック夫人は心臓へ手をあてる。ルピック氏は、歯を喰いしばって、横目で犬を睨む。兄貴のフェリックスは怒鳴りつける。もう、お互いのいうことすら耳にはいらない。
「黙らないかい、しょうがない犬だね。お黙りったら、畜生!」
ピラムはますます調子を上げる。ルピック夫人は手の平でぶつ。ルピック氏は新聞で擲る。それから、足で蹴る。ピラムは、殴られるのが怖さに、腹を床にすりつけ、鼻を下に向け、やたらに吠える。見ていると、まるで気が狂って、自分の口を靴拭いにぶつけ、声を微塵に叩き割っているとしか思えない。
ルピック一家はかんかんに怒る。みんな総立ちになり、いっぽう腹ばいになったまま、頑としていうことをきかない犬に業を煮やす。
窓ガラスが軋む。暖炉の煙突が音をたてる。姉のエルネスチイヌまでが金切声をしぼる。
にんじんは、いいつけられもしないのに、外の様子を見に行った。たぶん退けのおそい駅員が表を通るのだろう。それも、ゆっくり自分の家に帰って行く途中に違いない。まさか泥坊をしに庭の塀を攀じ登っているのではあるまい。
にんじんは、暗い、長い廊下を、両手を戸のほうにつき出して、歩いて行く。閂を探り、がたがた音を立てて、引っぱってみる。しかし、戸は開けようとしない。
昔なら、危険を冒してでも外に出て、口笛を吹いたり、歌を唱ったり、足を踏みならしたりして、さかんに相手を威かそうとしたものだ。
近頃は、要領がいい。
両親は、彼が勇敢に隅から隅を探り、忠実な番人として、屋敷のまわりを見廻っているものと思っている。ところが、それは大間違いである。彼は戸のうしろに身を寄せて、じっとしているのである。
いつかは思い知ることがあるだろう。しかし、もうよほど前から彼の計略が図にあたっている。
心配なのは、嚔と咳をすることだ。彼は息をころす。そして、目をあげると、戸の上の小さな窓から、星が三つ四つ見える。冴え渡った煌きに、彼は竦みあがる。
さて、戻ってもいい時間だ。お芝居に暇をかけ過ぎてはよくない。怪しいと思われたらそれまでだ。
再び、か細い手で、重い閂をゆすぶる。閂は錆びついた鎹の中で軋む。それから、そいつを溝の奥まで騒々しく押し込む。この物音で、みなの者は、彼が遠いところから帰って来たのだな、もう務めをすませたのだなと思う! 背中の真中が擽ったいような気持で、彼は、みんなを安心させにとんで行く。
ところで、やっとこさ、ピラムは、彼の留守の間に黙ってしまったので、安心したルピック一家は、また、めいめい、きまりの場所に着いていた。で、誰も尋ねもしないのに、にんじんは、ともかく、いつものとおりにいう――
「犬が寝とぼけたんだよ」
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にんじんは泊り客が嫌いである。部屋を追い出され、寝台を占領され、そして、母親と一緒に寝なければならないからである。ところで、もし彼が、昼間あらゆる欠点を備えているとすれば、夜は夜で、とりわけ、鼾をかくという欠点をもっている。わざと鼾をかくんだとしか思えない。
八月でさえ冷えびえする広い部屋に、寝台が二つ置いてある。一つはルピック氏ので、もう一つのほうへは、にんじんが母親と並んで、壁に近い奥のほうに寝ることになるのである。
眠る前に、彼は掛布団をかぶって、こんこん咳をする。喉を掃除するためである。しかし、鼾をかくのは、ことによると、鼻かもしれない。そこで、鼻の孔がつまっていないかどうか、そっと鼻から息を出してみる。それから、あんまり大きく呼吸をしない練習をする。
それにもかかわらず、彼は、眠ったかと思うと、もう鼾をかいている。こればかりはどうしても止められないとみえる。
すると、ルピック夫人は、彼の尻っぺたの一番肉附きのよさそうなところを、爪で、血の出るほどつねる。彼女は、この方法に限ると思っている。
にんじんの悲鳴で、ルピック氏はにわかに眼を覚ます。そして、こう訊ねる――
「奴、どうしたんだ?」
「夢でうなされているんですよ」
と、ルピック夫人は答える。
それから、彼女は、乳母がやるように、子守歌のひと節を口の中で唄う。これはインドの節らしい。
にんじんは壁に額と臑とを押しつける。壁を突き破らんばかりに押しつける。両手で尻っぺたを隠す。鳴動が始まると同時に襲来する爪の鋒先を防ぐためである。こうして、彼は、大きな寝台の中で、再び眠りに就くのである――母親と並んで奥のほうに寝る、その大きな寝台の中で。
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こんな話をしてもいいだろうか。しなければならないだろうか。ほかの者が、心もからだも真白になって、洗礼を受けようという年に、にんじんはまだ汚ないところがあった。ある晩は、いい出せずに我慢をしすぎたのである。
からだをだんだん大きく捻って、苦しい要求を抑えようと思った。
ちっとずうずうしい量見だ!
また、ある晩は、ちゃんと、適当の距りを置いて、塀の角に陣取っている夢を見た。その結果、なんにも知らずに、眠ったまま、敷布の中へしてしまったのである。彼は眼をさました。
自分のそばには、あるはずの塀がないので驚いた。
ルピック夫人は、怒るところを怒らない。穏かに、寛大に、母親らしく、始末をしてやる。そればかりか、翌朝は、甘ったれた小僧のように、にんじんは、寝床を離れる前に食事をする。
さよう、寝床へスープを持って来てくれるのである。それは、なかなか手のかかったスープで、ルピック夫人が、木の篦でもって、少しばかり例のものを溶かし込んだのである。なに、ほんの少しである。
枕もとには、兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌが、陰険な顔つきをしてにんじんを見張っている。今にも、合図さえあれば、大きな声を立てて笑う用意をしているのである。ルピック夫人は、匙で少しずつ、息子の口へ入れてやる。彼女は、横目で、兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌに、こういっているらしい――
「さ、いいかい! 用意はできたね!」
「ああ、いいよ!」
今からもう、二人は、そら、顰めっ面だと、面白がっている。近所の人たちを招待できるものなら招待するところだったに違いない。さて、ルピック夫人は、最後の眼くばせで、上の子供たちに問いかける――
「さ、いいね!」
ゆっくり、ゆっくり、最後のひと匙をあげる。それを、にんじんが大きく開けた口の中へ、喉の奥まで突っ込む。流し込む。押し込む。そして、嘲るように、顔をそむけながら、こういう――
「ああ、汚ない。食べた、食べた。自分のだよ、おまけに……。昨夜のだよ」
「そうだろうと思った」
こう、なんでもなく、にんじんは答える。みんなが当てにしていたような顔つきはしない。
彼は、そういうことに慣れている。あることに慣れると、そのことはもうおかしくもなんともない。
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もう何度も、寝床のことで不幸な出来事が起こったので、にんじんは、毎晩、警戒を怠らないようにしている。夏は、楽なもんだ。九時に、ルピック夫人が寝ておいでというと、にんじんは、自分から進んで、外をひとまわりして来る。それで、ひと晩中、安心である。
冬は、この散歩が、なかなか苦になる。日が暮れて、鶏小舎を閉めると、彼は、第一の用心をしておくのであるが、それも無駄で、明日の朝までは、とても持ちそうにない。晩飯を食い、ぐずぐずしていると、九時が鳴る。もうとっくに夜である。そして、その夜は、いつまでも続くのである。にんじんは、第二の用心をしておかなければならない。
で、その晩も、毎晩のように、自分で自分に尋ねてみる――
「したいか、したくないか?」
平生は、「したい」と答える。もっともそれは、いよいよ我慢ができないか、さもなければ、月が出ていて、その光で元気をつけられるような時である。時としては、ルピック氏や兄貴のフェリックスがお手本を示してくれる。それに、要求の程度からいって、いつもそんなに遠くへ行くには及ばない。ほんとうなら、通りの溝まで行くのである。それは、ほとんど野原の真中といっていい。たいていは、階段の下まで降りるだけである。その時々で違う。
ところが、その晩は、雨が窓ガラスを叩き、風が星を消してしまい、胡桃の木が牧場の中で暴れている。
「こういうこともあるんだ」――落ち着いて思案をしたあげく、にんじんは結論を与える――「したくない!」
彼はみんなに「お休みなさい」といい、蝋燭に火をつけ、それから、廊下の突き当りで右側の、がらんとして、人っ気のない自分の部屋にはいる。着物を脱ぐ。横になる。ルピック夫人の入来を待つ。彼女は、掛布団の縁をぎゅっとひと息に押し込んでくれる。それから蝋燭の火を消す。その蝋燭は置いて行くが、マッチなるものは残して行かない。戸を閉めて鍵をかける。彼が臆病だからである。にんじんは、その時まず、一人でいることの快楽を味わうのだ。彼は暗闇の中でいろんなことを考えるのが好きである。一日中のことを思い出してみる。幾度となく、危いところを助かってよかった。明日もやっぱり運がいいように。彼は、二日続けて、母親が自分のほうに注意を向けてくれなければいいがと思う。そういう空想をしながら、彼は眠りに就こうとする。
と、眼をつぶるかつぶらないうちに、彼はまた例の張りつめて来るような気持を感じ出す。
――やっぱり仕方がない。
心の中で、にんじんは呟く。
だれでも、普通なら起きるところだ。しかし、にんじんは、寝台の下に、小便壺が置いてないことを知っている。ルピック夫人が、どんなに、そんなはずはないと頑張っても、彼女は、いつも、それを持って来て置くのを忘れるのである。それに第一、壺があったって、なんの役にも立たないわけである。どうせ、にんじんは寝る前に用心をするんだから。
で、にんじんは、起きるかわりに、理窟をこねる。
――晩かれ早かれ、降参しなければなるまい。ところが、我慢をすればするほど、溜るわけだ。今すぐやっちまえば、ぽっちりしか出ないんだ。すると、敷布が濡れても、からだのぬくもりで、乾くのに手間はかからない。これまでの経験で、そうすりゃきっと、母さんに見つからずにすむだろう。
にんじんは、ほっとする。ゆうゆうと眼を閉じる。そして、ぐっすり眠り込んでしまうのである。
にわかに、彼は眼を覚ます。そして、下腹の加減はどうかと耳を澄ましてみる。
――やあ、こいつあ、怪しいぞ!
さっきは、大丈夫だと思った。話がうますぎた。昨晩、横着をしたのがわるかったのだ。天罰覿面である。
彼は寝床の上に坐り、思案してみる。戸には鍵がかかっている。窓には鉄格子がはまっている。外に出るわけにいかない。
それでも、彼は起き上がって、戸と、窓の鉄格子にさわってみる。それから床の上に腹這いになり、両手を寝台の下につっこんで櫂のように動かす。ないことがわかっている壺を捜してみるのである。
彼は寝床にはいる。そして、また起きる。眠るよりも、からだをゆすぶるか、歩き廻るか、地団太を踏むほうがいい。両方の握り拳で、つっぱってくる腹を抑える。
「母さん! 母さん!」
聞こえては困ると思うので、力の抜けたような声を出す。なぜなら、もし、ルピック夫人がここへ姿を現わそうものなら、にんじんは、けろりとなおってしまい、まるで彼女を馬鹿にしてるとしか思えないからである。明日になって、呼んだということが嘘をつくことにならなければ、それでいいのである。
それに、声を立てるといっても、声の立てようがないではないか。全身の力は、ことごとく、禍を延ばすために使い果している。
やがて、極度の苦痛が襲ってきて、にんじんは、踊りはじめる。壁にぶつかって行く。それから、跳ね上がる。寝台の鉄具にぶつかる。椅子にぶつかる。暖炉にぶつかる。そこで彼は、勢いよく焚口の仕切り戸を開ける。そして、からだを捻じ曲げ、兜を脱いで、絶対の幸福に浸りながら、暖炉の薪台の上へ、全身を、根こそぎ、叩きつける。
部屋の暗さが度を増してくる。
にんじんは、やっと朝がた、眠りに就いた。そして、寝坊をしている。ルピック夫人は戸を開けると、さも、どっちを向いていても鼻は利くというように、顔をしかめながらいう――
「なんて変な臭いだい」
「母さん、おはよう」
と、にんじんはいう。
ルピック夫人は、敷布を引きずり出す。部屋の隅々を嗅いで廻る。見つけるのに造作はない。
「僕、病気だったの。それに壺がないんだもの」
にんじんは、急いでこういう。それが一番都合のいい弁解だと思ったからである。
「嘘つき! 嘘つき!」
ルピック夫人はこういいながらどこかへ出て行く。やがて壺を匿して持ってくる。それを、手早く寝台の下に押し込む。立っているにんじんを突き倒す。家じゅうのものを呼ぶ。それから大声でいう――
「こんな子供をもつなんて、いったい、何の因果だろう……」
それから、今度は、雑巾とバケツとを持ってくる。火でも消すように暖炉へ水をかける。寝具をふるう。そして、忙しそうに、訴えるように――
「息がつまる、息がつまる」
というのである。
それから、また、にんじんの鼻先で、科たっぷりの文句を並べる――
「情ない子だね! まるで無神経だ。いよいよ当り前じゃなくなってきた! これじゃ、畜生とおんなじだ! 畜生だって、壺をやっとけば、その使い方ぐらいわかる。それにお前どうさ。するにも事をかいて、暖炉の中なんぞへ、だらしがない……。あたしゃ、もう、お前のおかげで頭が変になるよ。それこそ、気が狂って死んじまうから、気が狂って……」
にんじんは、シャツ一枚で、素足のまま、壺を見つめている。夜中には、この壺はなかった。それに、今になって、そこの、寝台の脚もとに壺がある。この空っぽの、白い壺を見ていると、彼は眼が眩む。それでもまだ、そんなものはなかったなんていい張ると、今度はずうずうしい奴だということになるのである。
家のものが、やれやれという顔をしている。口の悪い近所の奴らが列を作っている。郵便屋まで来ている。そういう連中が、うるさくいろんなことを問いかけるので、とうとう――
「嘘だったら首をやる」――こう、壺の上に眼を注ぎながら、にんじんは答える――
「僕あ、もう知らないよ。勝手にしろい」
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「メロンはもうないよ、お前の分は……」と、ルピック夫人はいう――「それに、お前はあたしとおんなじで、メロンは嫌いだね」
「そうだったかも知れない」
と、にんじんは考えるのである。
好き嫌いは、こうやって、人が勝手に決めてくれる。大体において、母親が好きなものだけを好きとしておかなければならない。チーズが来る。
「こりゃ、にんじんは食べないにきまってる」
と、こうルピック夫人がいうので、にんじんは――
「母さんが、きまってるというんだから、食べてみなくたっていい」と思うのである。
第一、うっかり食べると、あとが恐ろしいことを知っている。
それに、もうじき、誰も知らない場所で、この上もなく奇妙な欲望を満たす暇があるではないか。デザートになると、ルピック夫人が彼にいうのである――
「このメロンの皮を兎に持ってっておやり」
にんじんは、皿をひっくり返さないように、できるだけ水平に持って、小股で使いに出かける。
小舎にはいって行くと、兎どもは、腕白小僧式に、耳の帽子を深くかぶり、鼻を仰向け、太鼓でも叩くように前足を突き出し、がさがさ彼のまわりにたかって来る。
「こら、待て、待て」と、にんじんはいう――「ちょっと待ってくれ、半分ずつにしよう」
そこでまず、糞だとか、根だけ食い残したのぼろ菊だとか、玉菜の芯だとか、葵の葉だとかいうものの堆高く積まれた上に、彼は腰をおろす。それから、兎どもにはメロンの種をやり、自分は汁を飲む。それは、葡萄液のように甘い。
そこで今度は、みんなが残した甘味のある黄色いところ、口へ入れて溶けるところを残らず歯で齧り取る。そして、緑色のところだけを、尻の上で丸まっている兎にくれてやる。
小舎の戸は閉まっている。
午睡の時間を照らす太陽が、屋根の孔を透して、その光線の一端を冷えびえした蔭の中に浸している。
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兄貴のフェリックスとにんじんとが、一緒に並んで働いている。めいめい鶴嘴をもっている。兄貴のは、蹄鉄屋に注文して鉄で作らせたのである。にんじんは、木で自分のやつをひとりで作った。二人は庭作りをしている。仕事はぐんぐんはかどる。一所懸命の競争である。突然、それは実に思い設けない瞬間に――災難にぶつかるのは、常にそういう瞬間に限られている――にんじんは、額の真中に、鶴嘴の一撃を喰ったのである。
すると間もなく、兄貴のフェリックスを寝台の上に運んで行き、そっと寝させなければならない。弟の血を見て、ふらふらっとなったからである。家のものは、みんなそこへ来て、丈伸びをしている。それから、恐る恐る溜息をつく。
――塩はどこにある?
――冷たい水を少し……頭を冷やすんだから……。
にんじんは、椅子の上にあがっている。みんなの頭の間から、肩越しにのぞくためである。額は布片で鉢巻をし、その布片がもう赤くなっている。血が滲み出して、ひろがっているのである。
ルピック氏はにんじんにいった――
「ひどい目に遭やがった」
それから、姉のエルネスチイヌは、傷口に繃帯をしてやりながら――
「バタの中へ孔を開けたようだわ」
彼は声を立てなかった。なぜなら、それは、何の役にも立たないということを、あらかじめ警告されていたから。
ところが、そのうちに、兄貴のフェリックスが、片方の眼を開ける。それからもう一方の眼を開ける。怖かっただけで、無事にすんだのである。その顔色が、だんだん血の気を帯びてくるにつれて、不安と驚愕が、人々の心から消えて行く。
「いつでもこの通りだ」とルピック夫人はにんじんに向かっていう――「お前、気をつけることはできなかったのかい。しょうがないぽんつくだね」
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ルピック氏は、息子たちにいう。
「鉄砲は、二人で一挺あればたくさんさ。仲の善い兄弟は、なんでも催合いにするもんだ」
「ああ、それでいいよ」と兄貴のフェリックスは答える――「二人で代りばんこに持つから……。なあに、時々にんじんが貸してくれりゃ、僕、それでいいんだよ」
にんじんは、いいとも、わるいともいわない。どうせ油断はならないと思っている。
ルピック氏は、緑色の袋から鉄砲を出して、訊ねる――
「初めにどっちが持つんだ? そりゃ、兄さんだろうな」
兄貴のフェリックス――その光栄はにんじんに譲るよ。先へ持て。
ルピック氏――フェリックス、今日はなかなか感心だ。そうならそうで、父さんにも考えがあるぞ。
ルピック氏は、鉄砲をにんじんの肩にのっけてやる。ルピック氏――さ、行って遊んでこい。喧嘩をするんじゃないぞ。
にんじん――犬は連れてくの?
ルピック氏――連れて行かんでええ。お前たち、代りばんこに犬になれ。それに第一、お前たちほどの猟師が、獲物に傷だけ負わせるなんていうことはない。一発で仕留めるんだ。
にんじんと兄貴のフェリックスは出かけて行く。服装は簡単だ。不断のままである。長靴がないことは少し残念だが、ルピック氏は常々、ほんとうの猟師は、そんなものを眼中に置かないといっている。ほんとうの猟師は、ズボンを踵の上に引きずっている。決してまくり上げたりなんぞしない。それで、泥の中や、耕した土の上やを歩く。すると、長靴がひとりでに出来て、膝のところまでくる。この長靴は丈夫で、いや味がない。これは、女中が大事にするようにいいつかっている。「手ぶらで帰るようなことはないよ、お前は……」
と、兄貴のフェリックスがいう。
「そりゃ、大丈夫だよ」
と、にんじんもいう。
肩が殺げているので、なんだか窮屈だ。銃身がうまくのっかっていない。
「そらね、いくらだって持たしてやるから、飽きるほど……」
兄貴のフェリックスがいう。
「やっぱり、兄さんだよ」
と、にんじんはいう。
一群の雀が飛び立つと、彼は、兄貴のフェリックスに動くなという合図をする。雀の群れは生籬から生籬に飛びうつる。二人の猟師は、雀が眠ってでもいるかのように、背中を丸くして、そうっと近づいて行く。雀の群れはじっとしていない。ちゅうちゅう啼きながら、またほかへ行って止まる。二人の猟師は起ち上がる。兄貴のフェリックスは、それに悪口雑言を浴びせかける。にんじんは、心臓がどきどきしているにもかかわらず、それほどあせっている様子はない。自分の腕を見せなければならない瞬間を懼れているからである。
もしも失敗ったら! 延びるたびにほっとするのだ。
ところが、今度こそは、雀のほうで、彼を待っているらしい。
兄貴のフェリックス――まだ撃つなよ。遠すぎるぞ。
にんじん――そうかなあ……。
兄貴のフェリックス――当りキよ。からだを低くすると勝手が違ってくるんだぜ。すぐそばだと思っても、実際はかなり遠いんだ。
そこで、兄貴のフェリックスは、自分のいったとおりだということを示すために、いきなり顔を出す。雀は、驚いて飛んで行ってしまう。が、そのうち、一羽だけ、しなった枝の先に止まったまま、その枝に揺られている。尾をぴんと上げ、頭を左右にかしげ、腹をむき出している。
にんじん――しめたぞ、こいつなら撃てら、大丈夫……。
兄貴のフェリックス――どら、どいてみろ。うん、なるほど、素敵なやつだ。さ、早く、鉄砲を貸せ。
すると、もう、にんじんは、鉄砲を取り上げられ、両手を空っぽにして、口を開けているのである。その前で、兄貴のフェリックスが、彼の代りに、鉄砲を肩に当て、狙いを定め、引鉄を引く。そして、雀が落ちる。それは、まるで手品のようだ。にんじんは、さっきまで、この鉄砲を、それこそ、胸に抱き締めていた。突然、彼はそれを失った。ところが、今また、それが彼の手に戻ってきた。いうまでもなく、兄貴のフェリックスが返したのである。兄貴のフェリックスは、それから、自分で犬の代りもする。駈け出して行って雀を拾う。そうしていう――
「ぐずぐずしちゃだめだよ。もっと急がなくっちゃ……」
にんじん――ゆっくり急ぐよ。
兄貴のフェリックス――ようし、膨れっ面をするんだね。
にんじん――だって……。じゃ、歌を唱えばいいのかい。
兄貴のフェリックス――雀がとれたんだから、なんにもいうことはないじゃないか。もしか、中らなかったらどうする!
にんじん――ううん、僕あ、そんな……。
兄貴のフェリックス――お前だって、兄さんだって、おんなじことさ。今日は兄さんがとった、明日はお前がとる、それでいいだろう。
にんじん――明日ったって……。
兄貴のフェリックス――きっとだよ。
にんじん――わかるもんか。きっとなんて、明日になりゃ……。
兄貴のフェリックス――もし嘘だったら、なんでもやらあ。それでいいだろう。
にんじん――まあいいや……。それより、もっと獲ろうよ。僕が撃ってみら……。
兄貴のフェリックス――だめだよ、もう遅いから。さ、帰って、こいつを母さんに焼いてもらおう。そら、そっちへやるよ。カクシへ入れとけ。なんだい、馬鹿だなあ、おい、嘴を出しとけよ。
二人の猟師は家へ帰って行く。その途中でどこかの百姓に会うと、その百姓はお辞儀をしてこういいかける――「坊ちゃん、お前たちゃ、まさかお父つぁんを撃ったんじゃあるめえな」
にんじんは、いい気持になり、さっきからのことを忘れてしまう。彼らは、仲よく、大威張りで帰って来る。ルピック氏は二人の姿を見かけると、驚いてこういう――
「おや、にんじん、まだ鉄砲をもっているな。ずっとお前がもち通しか?」
「うん、たいてい……」
と、にんじんは答える。
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にんじんは道ばたで、煙突掃除のように黒い一匹の土竜を見つける。いいかげん玩具にしたあげく、そいつを殺そうと決心する。そこで、何べんも空中へ抛り上げるのであるが、それは石の上へ落ちるようにうまく投げるのである。
初めは、なかなか工合よく、すらすら行く。
土竜はもう脚が折れ、頭が割れ、背中が破れ、根っからしぶとくもなさそうだ。
すると、驚いた。にんじんは、土竜がどうしても死なないということに気がつく。家の高さよりも高く、天まで届くほど抛り上げても、さっぱり効き目がない。
「こね野郎! 死なねえや」
なるほど、血まみれになった石の上で、土竜はぴくぴく動く。脂肪だらけの腹がこごりのように顫え、その顫え方が、さも生命のある証拠のように見える。
「こね野郎!」と、にんじんは躍気になって怒鳴る――「まだ死なねえか」
彼はまたそれを拾い上げる。罵倒する。そして、方法を変える。
顔を真赤にし、眼に涙を溜め、彼は土竜に唾をひっかける。それから、すぐそばの石の上を目がけて、力まかせに叩きつける。
それでも、例の不恰好な腹は、相変わらず動いている。
こうして、にんじんが、死にもの狂いになって、叩きつければ叩きつけるほど、土竜は、よけい死なないように見えてくる。
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にんじんと兄貴のフェリックスは、夕方のお祈りから帰ると、急いで家へはいる。それは、四時のおやつだからである。
兄貴のフェリックスは、バタやジャムをつけたパンを貰うことになっている。それから、にんじんは、なんにもつけないパンである。なぜなら、彼は、あんまり早く大人のふりをしようと思って、みんなの前で、自分は食いしんぼうじゃないと宣言してしまったからである。彼はなんでも自然のままが好きだ。平生、好んで、パンを何もつけずに食うのである。で、その晩もやはり、兄貴のフェリックスより早く歩く――自分が先に貰いたいからである。
時として、なんにもつけないパンは固い。すると、にんじんは、敵に向かうようにそれにぶつかって行くのである。ぎゅっと掴む。齧りつく。頭をぶつける。粉ごなにする。そして、かけらを飛ばす。まわりに居並ぶ親同胞は、珍しそうにそれを見ている。
駝鳥のような彼の胃の腑は、石だろうが、青錆のついた古銅貨だろうが、わけなく消化するに違いない。
要するに、彼はちっとも食べ物の選り好みをしない。
彼は戸の
を引く。閉まっているのである。「父さんも母さんもいないんだよ、きっと……。足で蹴ってごらん、よう」
と、彼がいう。
兄貴のフェリックスは、「こん畜生」といいながら、釘の頭が並んでいる重い戸にぶつかって行く。戸はしばらく音を立てている。それから二人は、力を併せて、肩で押す。むだである。
にんじん――たしかに、いないよ。
兄貴のフェリックス――どこへ行ったんだろう。
にんじん――そこまではわからん。坐ろう。
階段の踏石が尻に冷たく、二人は近来稀な空腹を感じる。欠伸をしたり、心窩を握拳で叩いたりして、その激しさを訴える。兄貴のフェリックス――帰るまで待っていると思ったら間違いだぞ。
にんじん――そいじゃ、ほかにうまい工夫があるかい。
兄貴のフェリックス――待ってなんかいるもんか。飢え死をしたかないからなあ、おれは……。今すぐ食いたいんだ。なんでもいい、草でもいい。
にんじん――草……! そいつあ面白い。父さんや母さんも、それを聞いたらぎゃふんだ。
兄貴のフェリックス――だって、サラダを食べるじゃないか。ここだけの話だけど、苜蓿なんか、サラダとおんなじに軟かいよ。つまり、油と酢をつけないサラダさ。
にんじん――かきまわすこともいらないし……。
兄貴のフェリックス――賭けをしよう。僕も、苜蓿なら食べるよ。お前は食べられないぜ、きっと。
にんじん――どうして、兄さんに食べられて、僕に食べられないんだい?
兄貴のフェリックス――さ、いいから賭けをしよう。いやか?
にんじん――うん、だけど、その前に、お隣りへ行って、パンを一片ずつと、それへヨーグルトを少し貰ってきたら?
兄貴のフェリックス――僕あ苜蓿のほうがいい。
にんじん――行こう。
やがて苜蓿の畑が、美味そうな緑の葉を、彼らの眼の下にひろげる。その中にはいって行くと、二人は、面白がって靴を引きずる。軟かい茎を踏み切る。細い道をつける。――なんだろう、どんな獣だろう、ここを通ったのは……?
いつまでも、人は心配をして、こういうに違いない。
ぼつぼつ疲れかげんになってきた脛のあたりへ、ズボンを透して、ひやりとしたものが浸み込んでくる。
彼らは畑の真中で止まる。そして、べったり、腹這いになる。
「いい気持だね」と、兄貴のフェリックスがいう。
顔がくすぐったい。それで二人は、むかし同じ寝床の中で寝た時のようにふざけるのである。あの頃、すると、ルピック氏が、隣りの部屋から怒鳴ったものだ――
「もう眠ろよ、餓鬼ども!」
彼らは饑じさを忘れ、水夫の真似をして泳ぎを始める。それから犬の真似をし、蛙の真似をする。二つの頭だけが浮き出ている。彼らは、砕けやすい小さな緑の波を手でかきわけ、足で押しのける。波は、崩れたまま、もとの形を取らない。
「僕、頤までつくよ」
と、兄貴のフェリックスがいえば、
「こら、こんなに進むぜ」
と、にんじんがいう。
ひと息ついて、もっと静かに、自分たちの幸福を味わうべきである。
そこで、両肱をついて、土竜の掘った塚を見渡してみる。それは、老人の皮膚にもりあがる血管のように、電光形を描いて地面にもりあがっている。時に見失ったかと思うと、また空地へ行ってひょっこり顔を出している。その空地には、上等な苜蓿を喰い荒す性のよくない寄生虫、コレラのような菟糸子が、赤ちゃけた繊維の髭を伸ばしている。土竜の塚は、そこで、インドふうに建てられた小屋そのまま、ひと塊りになって小さな村を形づくっている。
「することはこれっきりじゃないぜ。おい、食べよう。はじめるよ。僕の領分にさわっちゃいけないよ」
兄貴のフェリックスはこういう。そして、片腕を半径に、彼は円弧を描く。
「僕あ、残ってるだけでたくさんだ」
と、にんじんがいう。
二つの頭がかくれる。もうどこにいるかわからない。
風が静かな吐息を送って、苜蓿の薄い葉をひるがえすと、蒼白いその裏が見える。そして、畑一面に身ぶるいが伝わる。
兄貴のフェリックスは、しこたま草を引き抜いて、そいつを頭の上に被り、さかんに口の中へ詰め込むふりをする。そして、乳を放れたばかりの犢が、草を食う時に歯を噛み合わせる、その音の真似までして見せる。彼は根でもなんでも食ってしまうように見せかける。世の中を識っているからである。ところが、にんじんは、それをほんとだと思う。ただ、もっと上品に、美しい葉のところだけを選るのである。
鼻の先でそいつを曲げ、口へもってきて、悠然と噛みしめる。
どうして急ぐ必要がある?
テーブルを時間で借りたわけでもなく、橋の上に市が立っているわけでもない。
歯を軋ませ、舌を苦くし、胸をむかむかさせながら、彼は呑み込む。なるほど御馳走である。
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にんじんは、これからもう、食事の時に、葡萄酒を飲まないことになった。彼はこの数日の間に葡萄酒を飲む習慣をなくしてしまったのだが、あんまり造作がないので、親同胞も、出入りの人たちも、これは意外に思った。そもそもの話はこうである。
ある日の朝、母親のルピック夫人が、いつものように、彼の湯呑みに葡萄酒を注ごうとすると、彼はこういった――
「僕いらないよ。喉渇いてないから」
夕飯の時、彼はまたいった――
「僕いらないよ。喉渇いてないから」
「なかなか経済だね、この子は」――ルピック夫人はいう――「みんな大助かりだ」
そういうふうで、彼は、はじめの一日、朝から晩まで、葡萄酒を飲まずにいた。陽気が穏かで、それに、ただ、なんということなしに、喉が渇かなかったからである。
翌日、ルピック夫人は、食器を並べながら、彼に訊ねた――
「今日は、葡萄酒を飲むかい、にんじん?」
「そうだなあ」と彼はいった――「まあ、どうだかわからない」
「じゃ、好きなようにおし」と、ルピック夫人はいった――「湯呑みが欲しかったら自分で戸棚から出しといで」
彼は、出しに行かない。億劫なのか、忘れたのか、それとも、自分で取りに行くのはいけないと思ってか?
みんなが、そろそろ意外な顔をし出す。
「えらくなったもんさ」と、ルピック夫人がいう――「お前には、そんな芸当もできるんだね」
「珍しい芸当だ」――ルピック氏はいう――「そいつは、と、なんかの役に立つさ。ことにおっつけ、一人きりで、駱駝にも乗らず、砂漠の中で道に迷いでもしたような時にはなおさらだ」
兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌは、断乎としていい放った。
姉のエルネスチイヌ――「きっと一週間ぐらい飲まないでいられてよ」
兄貴のフェリックス――「なあに、この日曜まで、三日もてば、大したもんだ」
「だって」と、にんじんは、薄笑いを浮かべながらいう――「だって、喉が渇かなかったら、僕、いつまでだって飲みやしないよ。兎や天竺鼠をみてごらん。あれのどこがえらいんだい」「天竺鼠とお前とは別だよ」
兄貴のフェリックスがいう。
にんじんは、癪にさわった。そこで彼らに、これでもかというところをみせることになるのである。ルピック夫人は、相変わらず、湯呑みを出し忘れている。彼は、決してそいつを催促しない。皮肉なお世辞をいわれても、真面目に感心したようなふうをされても、彼は、等しく我れ関せずで聞き流していた。
「病気でなけりゃ、気が狂ったんだ」
あるものは、こういった。また、あるものは、こうもいった――
「内証で飲んでるんだ」
だが、何事も、珍しいうちが花だ。舌がちっとも渇いてないという証拠をみせるために、にんじんが、舌を出して見せる回数は、だんだんに減ってくる。
両親も、近所の人たちも、根気負けがしてきた。ただ、なんでもない人が、どうかしてその話を聞くと、また両腕を高く挙げた――
「戯談いっちゃいけない。自然の要求というものは、こりゃ、誰一人おさえることはできないんだから……」
医者に相談すると、そういう例はどうも奇妙には奇妙だが、しかし、要するにあり得ないということは、なに一つないわけだと宣言した。
ところで、にんじんは、自分ながら不思議だった。そのうちに苦しくなりはせぬかと思っていたからである。彼は、規則正しく強情を張りさえすれば、どんなことでもできるという事実を確かめた。彼は、最初から、苦しい欠乏に堪え、一大難関を突破しなければならぬと覚悟した。それが、いっこう、痛くも痒くもないのである。以前よりも、からだの調子はいいくらいだ。これなら、喉の渇きばかりでなく、腹が空くのだって我慢できないはずはない! 飯なんか食わなくったってもいい。空気だけで生きてみせる。
彼は、もう、自分の湯呑みのことさえとっくに忘れている。湯呑みは、長い間使わずに放ってある。すると、女中のオノリイヌが、その中へ、ランプの金具を磨く赤い磨き砂を容れてしまった。
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ルピック氏は、それでも、機嫌のいい時には、自分から子供たちの相手になって遊ぶようなこともある。裏庭の小径でいろんな噺をして聞かせるのである。すると、兄貴のフェリックスとにんじんとが、しまいには地べたの上を転がりまわる。彼らはそんなにはしゃぐ。今朝も、そういうふうで、三人がへとへとになっていると、そこへ、姉のエルネスチイヌがやって来て、お昼の用意ができたという。やっと、それで鎮まった。家族が集まると、どの顔も、みんな苦虫を噛みつぶしたようだ。
いつものとおり、大急ぎで、口もきかずに飯を食う。もし、これが料理屋なら、そろそろ、テーブルを次のお客に明け渡しても差支えないのだが、その時分になってルピック夫人は――
「パンのかけらを一つ、こっちへちょうだい、砂糖煮を食べちまうんだから……」
誰にそういったのか?
たいがいの場合、ルピック夫人は、自分の食べるものは自分で取るのである。そして話をするといえば犬相手である。彼女は、犬に野菜の値段をいって聞かせる。そして、当節、わずかの金で、六人の人間と一匹の獣とを養って行くことが、どんなに困難かという説明をしたりする。
「馬鹿おいい」と、彼女は、お愛想に喉を鳴らし、靴拭いを尻尾で叩いているピラムに向かっていうのである――「お前にはわからないんだよ、この家を持って行くのに、あたしがどんなに苦労してるか……。お前も、男の人たちみたいに、台所で使うものは、みんなただで手にはいると思ってるんだろう。バタが高くなろうと、卵が法外な値になろうと、そんなことはいっこう平気なんだろう」
ところが、今日という今日、ルピック夫人は、大変なことをしでかした。慣例を破って、彼女は、じかにルピック氏に言葉をかけたのだ。相手もあろうに、彼女が砂糖煮を食べてしまうためにパンのかけらを請求したのは、正しく彼に向かってだ。もう、誰も、それを疑う余地はないのである。第一彼女はルピック氏の顔を見つめている。第二に、ルピック氏のそばに、パンがある。彼はおどろいて躊躇している。が、やがて、指の先で、自分の皿の底からパンのかけらを抓み上げ、真面目に、無愛想に、そいつをルピック夫人めがけて抛ったものである。
戯談か? 喧嘩か? それがわからない。
姉のエルネスチイヌは、母親のために侮辱を感じ、なんとなく胸騒ぎがしている。
「おやじは、あれで、今日は気分がいいんだ」
兄貴のフェリックスは、椅子の脚を傍若無人にがたがたいわせながら、こう考えている。
にんじんはどうかというと、ぴりっとも身動きをせず、唇を壁土のように固くさせ、耳の奥がごろごろ鳴り、頬ぺたを焼林檎で膨らませながら、じっとしている。もしもルピック夫人が、息子や娘の前で、人間の屑みたいに取り扱われながら、すぐに食卓を離れずにいたら、それこそ彼は、屁でもしてやりたかったのだ。
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ルピック氏は、今朝、パリから帰って来たところである。鞄をあける。お土産が出る。兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌへの素敵なお土産だ。それもちょうど――なんという不思議なことだろう――彼らがひと晩じゅう夢に見たというものばかりだ。それからあとで、ルピック氏は、両手を後ろへまわし、にんじんのほうをからかうように見ていう――「今度はお前だ、なにが一番欲しい。ラッパか、それともピストルか?」
事実、にんじんは、それほど向こう見ずではないのである。むしろ、用心深いほうである。そこで、彼は、どっちかというとラッパのほうがいい。手に持っていて飛び出す心配がない。しかし、ふだん聞くところによると、自分くらいの男の子は、飛び道具か剣か、戦争で使う道具でなければ、遊んだって本気になれないらしい。年からいっても、火薬の臭いを嗅ぎ、物という物を粉砕したい年になっているのだ。おやじは子供を識っている。誂え向きのものを持って来てくれたに違いない。
「僕あ、ピストルのほうがいいや」
と、彼は、大胆にいった。てっきり図星を指したつもりなのだ。
それだけならいいが、彼は少し調子に乗り過ぎた。そして、こう附け加えた――
「匿したってだめだよ。ちゃんと見えてるんだもの」
「へえ、そうか」と、ルピック氏は、当惑していった――「お前はピストルのほうがいいのか。じゃ、また変わったんだね」
にんじんは、たちどころに、応えた。
「ううん、そうじゃないよ、ふざけていってみたんだよ。心配しないだっていいよ。僕あ、大嫌いだ、ピストルなんか。さ、早く、ラッパをおくれよ。吹いてみせるからさ。僕、ラッパを吹くの大好きさ」
ルピック夫人――「そんなら、どうして嘘を吐くんだい。お父さんを困らせようと思ってだろう。ラッパが好きなら、ピストルが好きだなんていうもんじゃない。おまけに、なんにも見えないくせに、ピストルが見えているなんていうもんじゃない。だから、その罰に、ピストルもラッパも、お前にはあげないよ。よくこれを見とくといい。赤い総と、金の縁飾のある旗がついてる。よく見たね。じゃ、もういいから台所へ行って、もう一人母さんがいるかどうか見といで。さっさと走って! 指で口笛を吹いてるがいい」
戸棚のてっぺんの、白い下着類を重ねた上で、三つの赤い総と、金の縁飾のある旗にくるまって、にんじんのラッパは、手も届かず、見えもせず、音も立てず、最後の審判のそれのように、誰かに吹かれるのを待っている。[#改ページ]

日曜日には、子供たちがミサに行かないと、ルピック夫人は承知しなかった。そこで、子供たちを小ざっぱりとさせるのだが、姉のエルネスチイヌが、みんなのおめかしを監督することになっており、そのために、自分のが遅れてしまうのである。彼女はそれぞれネクタイを選んでやり、爪を磨いてやり、祈祷書を持たせる。一番大きなのをにんじんに渡すのである。だが、なんといっても、仕事は、兄弟たちの頭へポマードを塗ることだ。
これをやらないと、どうにも気がすまぬらしい。
にんじんは、それでも、おとなしくされるままになっている。しかし、兄貴のフェリックスは、あらかじめ姉に向かって、しまいに怒るぞと念を押すのである。が、姉は姉で、こういってごまかすのである。
「ああ、また今日も忘れちゃった。わざとやったんじゃないわよ。この次の日曜から、きっとつけない」
で、相変わらず、彼女は、その時になると、指の先でひと掬い、彼の頭へなすってしまうのである。
「覚えてろ」
と、兄貴はいう。
今朝も、タオルにくるまり、頭を下へ向けているところを、姉のエルネスチイヌは、またこっそりやったのだが、彼は、気がつかぬらしい。
「さ、いうことを聞いたげてよ。だから、ぶつぶついいっこなしよ。あのとおり、罎は蓋をしたまま暖炉の上に置いたるじゃないの。感心でしょう。だけど、あたし、自慢はできないわ。だって、にんじんの髪の毛なら、セメントでなくちゃだめだけど、あんたのなら、ポマードもいらないくらいだわ。ひとりで縮れて、ふっくらしてるわ。あんたの頭は、花キャベツみたいよ。この分けたとこだって、晩までそのまま持つわよ」
「ありがとう」
と、兄貴のフェリックスはいった。
彼は、別に疑う様子もなく起ち上がった。ふだんのように、頭へ手をやってほんとかどうか調べてもみない。
姉のエルネスチイヌは、彼に服を着せてしまう。飾るところは飾った。それから白い絹の手袋をはめさせる。
「もういいんだね」
と、兄貴のフェリックスはいう。
「素敵よ。まるでプリンスだわ」と、姉のエルネスチイヌはいう――「それで、帽子さえかぶればいいんだわ。開き箪笥の中にあるから取ってらっしゃい」
だが、兄貴のフェリックスは、間違えている。彼は、開き箪笥の前を通り過ぎてしまう。急いで食器戸棚のほうへ行く。戸を開ける。水のいっぱいはいった水差しを取り上げる。そして、これを、平然と、頭へぶっかけたのである。
「ちゃんとそういっといたろう、エルネスチイヌ」と、彼はいう――「僕あ、人から馬鹿にされるのは嫌いなんだ。そんな小っぽけなくせして、この古強者をちょろまかそうったって、そりゃ無理だよ。こんどやったら、ポマードの罎を川ん中へぶち込んじゃうから……」
髪の毛はぺしゃんこになり、日曜の晴着から滴がたれている。そこで、びしょ濡れの彼は、着物を着替えさせてくれるか、日に当たって乾くか、そのどっちかを待っているのである。彼は、どっちでもいい。
「ひでえ奴……」と、にんじんは、じっと感心している――「あいつあ、怖いものなしだ。おれがあの真似をしたら、みんなで大笑いをするだろう。ポマードが嫌いじゃないっていうふうに思わせとくほうが得だ」
しかし、にんじんが、いつもの調子であきらめていても、髪の毛は、いつの間にか、彼の讐を打っている。
ポマードで無理に寝かせつけられて、一時は死んだ真似をしているが、やがて、むくむくと起き上がる。どこがどう押されてか、てかてかの軽い鋳型に、ところどころ凸凹ができ、亀裂がはいり、ぱくりと口をあくのである。
藁葺尾根の氷が解けるようだ。
すると、間もなく、髪の毛の最初のひと束が、ぴんと空中に跳ね上がる、まっすぐに、自由に。
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やがて時計が四時を打とうとしているので、にんじんは、矢も楯もたまらず、ルピック氏と、兄貴のフェリックスを起こすのである。二人は、裏庭の榛の木の下で眠っていた。
「出かけるんだろう」と、彼はいう。
兄貴のフェリックス――行こう。猿股を持っといで。
ルピック氏――まだ暑いぞ、きっと。
兄貴のフェリックス――僕あ、日が照ってる時のほうがいいや。
にんじん――それに、父さんだって、ここより水っ縁のほうがいいよ。草の上へ寝転んどいでよ。
ルピック氏――さ、先へ歩け。ゆっくりだぞ。死んじまっちゃなんにもならん。
だが、にんじんは、早くなる足並みを、やっとのことで緩めているのである。足の中を蟻が這っているような気持だ。肩には、模様のない、厳しい自分の猿股と、それから、兄貴の、赤と青との縞の猿股をかついでいる。元気いっぱいという顔つきで、彼は喋る。自分だけのために歌を唱う。木の枝へぶらさがって跳ぶ。空中で泳ぐ真似をする。さて兄貴にいう――「ねえ、兄さん、水へはいると、きっといい気持だね。うんと泳いでやらあ」
「生意気いえ!」
と、兄貴のフェリックスは、馬鹿にしきった返事をする。
なるほど、にんじんは、ぴたりと鎮まる。
彼は、今、乾ききった低い石垣を、まっさきに、ひらりと飛び越えた。すると、たちまち、眼の前を小川が流れているのである。はしゃいでいる暇もなかった。
魔性の水は、その表面に、寒々とした影を反射させていた。
歯を噛み合わせるように、ひたひたと波の音を立て、臭いともつかぬ臭いが立ち昇っている。
この中へはいるわけである。ルピック氏が、時計を眺めて、決めただけの時間を計っている間、この中でじっとしてい、この中で動きまわらなければならない。にんじんは、顫えあがる。元気を出して、こんどこそはと思うのだが、いよいよとなると、またその元気がどっかへ行ってしまう。水を見ると、遠くのほうから引っ張られるようで、ついぐらぐらっとなるのである。
にんじんは、一人離れて、着物を脱ぎはじめる。瘠せているところや、足の恰好を見られるのがいやでもあるが、それより、ひとりで、誰れ憚らず顫えたいのだ。
彼は、一枚二枚脱いでいって、そいつを丁寧に草の上でたたむ。靴の紐を結び合わせ、それをまた、いつまでもかかってほどく。
猿股を穿く。短いシャツを脱ぐ。だが、もうしばらく待っているのである。彼は包み紙の中でべたべたになる林檎糖のように汗をかいているからだ。
そうこうするうちに、兄貴のフェリックスは、もう川を占領し、わがもの顔に荒しまわっている。腕で擲り、踵で叩き、泡を立てる。そして、流れのまん中で、猛烈果敢に、騒ぎ狂う波の群れを、岸めがけて追い散らすのである。
「お前はもう、やめか」
ルピック氏はにんじんにいった。
「からだを乾かしてたんだよ」
やっと、彼は決心する。地べたに坐る。そして、爪先を水に触れてみる。その足の趾は、靴が小さすぎて擦りむけていた。そうしながら、また胃の腑のあたりをさすってみた。恐らく、食ったものがまだこなれていないだろう。それから木の根に沿ってからだを滑らせる。
木の根で、脛、腿、それから臀をひっかかれる。水が腹まで来ると、もう上へあがろうとする。逃げ出そうとする。濡れた糸が、こまの紐を捲くように、だんだんからだへ捲きついて行くような気持だ。が、からだを支えていた土塊が崩れる。すると、にんじんは滑り落ちる。姿を消す。水の底を這う。やっと立ち上がる。咳き込み、唾を吐き、息をつまらせ、眼がかすみ、頭がぼうっとする。
「潜りはうまいじゃないか」
と、ルピック氏はいう。
にんじんは、すると、
「ああ、だけど、僕あ、きらいさ。耳ん中へ水が溜っちゃった。頭が痛くなるよ、きっと……」
彼は、そこで、泳ぎの練習ができる場所、つまり、膝で砂の上を歩きながら、両腕を前のほうへ動かせるところを捜す。
「あんまり急にやるからいけないんだ。手を握ったまま動かしちゃだめだよ。髪の毛を
るんじゃあるまいし。その足を使うんだ、足を……。どうもしてないじゃないか」こうルピック氏がいうと、
「足を使わないで泳ぐほうがむずかしいんだよ」
と、にんじんはいう。
が、一所懸命にやってみようとすると、兄貴のフェリックスがそれをさせない。しょっちゅう邪魔をするのである。
「こっちへおいでよ、にんじん。もっと深いところがあるぜ。こら、足がつかないや。沈むぜ。ごらんよ、ほら、僕が見えるだろう。そらこのとおり……見えなくなるよ。そいじゃ、こんだ、あの柳の木のほうへ行ってろよ。動いちゃいけないよ。そこまで十ぺんで行くからね」
「数えてるよ」
と、にんじんは、がたがた顫えながら、肩を水から出し、まるで捧杭のように動かずにいるのである。
さらに、彼は、泳ごうとしてからだを屈める。ところが、兄貴のフェリックスは、その背中へ攀じ登って、飛び込みをやる。
「こんだ、お前の番さ、ね、僕の背中へおあがりよ」
「僕あ、自分で練習してるんだから、ほっといておくれよ」
にんじんは、こういうのである。
「もう、よし。みんな出ろ。ラムをひと口ずつ飲みにこい」
と、ルピック氏は呼ぶ。
「もう出るの?」
と、にんじんがいう。
今になると、彼はまだ出るのが厭なのだ。水浴びに来たのに、これくらいでは物足りない。出なければならないと思うと、水がもう怖くはないのである。さっきは鉛、今は、羽根だ。獅子奮迅の勢いで暴れまくる。危険など眼中にない。人を救うために、自分の命を棄ててかかったようだ。おまけに、誰もしてみろといわないのに水の中へ頭を突っ込む。溺れた人間の苦しみを味わうためである。
「早くしろよ」と、ルピック氏は叫ぶ――「さもないと、兄さんがラムをみんな飲んじまうぞ」
ラムなら、あんまり好きじゃないのだが、にんじんは、いう――
「僕の分は、誰にもやらないよ」
そうして、彼は、それを老兵のごとく飲み干す。
ルピック氏――よく洗わなかったな。くるっぷしに、まだ垢がついてる。
にんじん――泥だよ、こりゃ。
ルピック氏――いいや、垢だ。
にんじん――もう一度水へはいってこようか。
ルピック氏――明日除ればいい。また来よう。
にんじん――うまい具合に天気ならね。
彼は、指の先へ、タオルの乾いたところを、つまり兄貴が濡らさずにおいてくれたところを捲きつけて、からだを拭く。頭が重く、喉はいがらっぽいのだが、彼は、大声を立てて笑うのである。というのは、兄貴とルピック氏が、彼の捻じくれた足の趾を見て、へんてこな戯談をいったからだ。[#改ページ]

ルピック夫人――お前さんは、もう幾歳だっけ、オノリイヌ?
オノリイヌ――この万聖節で、ちょうど六十七になりました、奥さん。
ルピック夫人――そいじゃ、もう、いい年だね。
オノリイヌ――だからって、別にどうもありませんよ、まだ働けるだもの。病気なんぞしたことなしね。巌丈なことときちゃ馬にだって負けやしませんからね。
ルピック夫人――そんなこというなら、あたしが考えてることをいってあげようか。お前さんは、ぽくりと死ぬよ。どうかした日の晩方、川から帰りがけに、背負ってる籠がいつもの晩より重く、押してる車が思うように動かないのさ。お前さんは、車の梶棒の間へ膝をついて倒れる。濡れた洗濯物の上へ顔を押しつけてね。それっきりさ。誰か行って起こしてみると、もうお前さんは死んでるんだよ。
オノリイヌ――笑わしちゃ困るよ、奥さん。心配しないでおくんなさい。脚だって、まだぴんぴんしてるんだもの。
ルピック夫人――そういや、少しばかり前こごみになってきたね。だけど背中が丸くなると、洗濯をする時に、腰が疲れなくっていい。ただどうにも困ることは、お前さんの眼が、そろそろ弱ってきたことだよ。そうじゃないとはいわせないよ。この頃、それがちゃんと、あたしにはわかるんだ。
オノリイヌ――そんなことはないね。嫁に行った頃とおんなじに、眼ははっきり見えるがね。
ルピック夫人――よし。それじゃ、袋戸棚を開けて、お皿を一枚持って来てごらん、どれでもいい。もしお前さんが、ちゃんと皿拭布をかけたというなら、この曇りかたはどうしたんだろう。
オノリイヌ――戸棚の中に、湿りっ気があるだね。
ルピック夫人――そんなら、戸棚の中に、指が幾本もあるのかねえ。そうして、お皿の上をあっちこっちうろつき廻っているのかねえ。この跡はなにさ。
オノリイヌ――あれま、どこにね、奥さん。なんにも見えませんよ。
ルピック夫人――そうだろう? そいつを、あたしが咎めてるんだよ。いいかい、婆や、あたしは、なにも、お前さんが骨惜しみをしてるっていいやしないよ。そんなことでもいったら、そりゃ、あたしが間違いだ。この土地で、お前さんぐらい精を出して働く女は一人だっていやしない。ただ、お前さんは、年を取ってきた。もっとも、あたしだって年は取る。誰だってみんな年を取るのさ。こうもしよう、ああもしようと思ったって、それだけじゃどうすることもできないようになる。だからさ、お前さんだって、時おりは、眼の中が、布を張ったように霞むこともあるだろうっていうのさ。いくらこすっても、なんにもならない。そうなってしまったんだから……。
オノリイヌ――それにしたって、わしゃ、ちゃんと眼は開けてるだよ。水桶の中へ顔をつっこんだ時みたいに、皆目方角もわからないなんてこたあないんだけどね。
ルピック夫人――いや、いや、あたしのいうことは間違いなし。昨日だってそうだよ、旦那さんに、よごれたコップを差し上げたろう。あたしはなんにもいやしなかった。なんだかんだっていうことになって、お前さんがまた気に病むといけないと思ってさ。旦那さんも、そうだ。なんにもおっしゃらなかった。これはまた、ふだんから、なんにもおっしゃらない方だからね。だけど、なに一つ見逃しはなさらない。世間では、無頓着な人だと思ってるけど、こりゃ間違いだ。そりゃ、気がつくんだからね。なんでも額の奥へ刻み込んどく。だから、そのコップだって、指で押しやって、ただそれだけさ。お昼には、辛抱して、とうとうなんにもお飲みにならなかった。あたしゃ、お前さんと、旦那さんと、二人分、辛い思いをしたよ。
オノリイヌ――そんな馬鹿な話ってあるもんじゃない。旦那さんが女中に気兼ねするなんて……。そういいなさればいいのに……。コップを代えるぐらいなんでもありゃしない。
ルピック夫人――それもそうだろう。だが、お前さんよりもっと抜け目のない女たちが、どうしたってあの人に口をきかせることはできないんだよ。旦那さんは、物を言うまいって決心してらっしゃるんだからね。あたしは、もう諦めてる、自分じゃ。ところで、今話してるのは、そんなことじゃない。ひと口にいってみれば、お前さんの眼は日一日に弱ってくる。これが、洗濯だとか、なんとか、そういう大きな仕事は、まあ、半分の粗相ですむにしたところで、細かな仕事になると、こりゃもう、お前さんの手にゃおえない。入費は殖えるけれど、しかたがない。あたしゃ、誰か、お前さんの手助けになる人をみつけようと思うんだよ……。
オノリイヌ――わしゃ、ほかの女に尻イくっついていられちゃ、一緒にやって行けませんや、奥さん。
ルピック夫人――それを、こっちでいおうと思ってるとこさ。だとすると、どうしよう。正直なところ、あたしゃどうすればいいかねえ。
オノリイヌ――わしが死ぬまで、こういうふうにして、結構やって行けますよ。
ルピック夫人――お前さんが死ぬって……? ほんとにそんなことを考えてるのかい。あたしたちをあいにくみんなお墓へ送りかねないお前さんじゃないか。そのお前さんが死ぬなんてことを、人が当てにしてるとでも思っているのかい。
オノリイヌ――奥さんは、だけど、布きんのあてようがちょっくら間違ってたぐらいで、わしに暇をくれようっていうつもりは多分おあんなさるまい。だいいち、わしゃ、奥さんが出て行けっていいなさらにゃ、この家から離れませんよ。いったん外へ出りゃ、けっく、野たれ死をするだけのこった。
ルピック夫人――誰が暇を出すなんていったい、オノリイヌ。なにさ、そんな真赤な顔をして……。あたしたちは、今、お互いに、心置きなく話をしてるんだ。すると、お前さんは腹を立てる。お寺の本堂よりとてつもない無茶をいい出す。
オノリイヌ――わしにそんなこといったって、しょうがないだよ。
ルピック夫人――じゃ、あたしはどうなのさ。お前さんの眼が見えなくなったのはお前さんの罪でもなく、あたしの罪でもない。お医者に治してもらうさ。治ることだってあるんだから。それはそうと、あたしと、お前さんと、一体、どっちが余計難儀をしてるだろう。お前さんは、自分で眼を患ってることもしらずにいる。家中のものが、そのために不自由をする。あたしゃ、お前さんが気の毒だから、万一の粗相がないように、そういってあげたまでだ。それに、言葉優しく何をこうしろっていう権利は、こりゃ、あたしにあると思うからさ。
オノリイヌ――いくらでもいっとくんなさい。どうにでも好きなようになさるがいいさ。わしゃ、さっき、ちっとの間、町の真中へおっぽり出されたような気がしただけれど、奥さんがそういいなさるなら安心しましたよ。わしのほうでも、これから皿のこたあ気をつけます。うけ合いました。
ルピック夫人――そうしてもらえりゃ、なんにもいうことはないさ。あたしゃ、これで、評判よりゃましな人間だからね。どうしてもいうことをきかない時は、こりゃ仕方がないが、さもなけりゃ、お前さんを手放すなんてことはしないよ。
オノリイヌ――そんなら、奥さん、もうなんにもいいなさるな。今という今、わしゃ、自分がまだ役にたつって気がしてきましたよ。もしも奥さんが出て行けっていいなすったら、わしゃ、そんな法はないって怒鳴るから……。だけども、そのうちに、自分で厄介者だっていうことがわかったら、そうして、水を容れた鍋を火へかけて沸かすこともできんようになったら、そん時ゃ、さっさと、ひとりで、追い出される前に出て行きますよ。
ルピック夫人――いつなんどきでも、この家へ来りゃ、スープの残りがとってあるってことを忘れずにね、オノリイヌ。
オノリイヌ――いいや、奥さん、スープはいらん、いらん。パンだけで結構。マイット婆さんは、パンだけしか食わんようになってから、てんで死にそうもないからね。
ルピック夫人――それがさ、あの婆さんは、もう百を越してるんだからね。ところで、お前さんは、まだこういうことを知ってるかい? 乞食っていうものは、あたしたちより仕合せなんだよ。あたしがそういうんだから、オノリイヌ。
オノリイヌ――奥さんがそういいなさるなら、わしもそういっとこう。
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家族のために何か役に立つという機会は、にんじんにとって、めったに来ないのである。どこかの隅に縮こまっていて、彼はそいつが通るのを待ち構えている。あらかじめこれという当てもなく、彼は耳を澄まし、いざという場合に、物蔭から現われ出ようというのだ。そして、いずれを見ても、煩悩に心を乱されている人々の中で、ただ一人、頭の働きを失っていない遠謀深慮ある人物のごとく、事件いっさいの始末を引き受けようというのだ。
ところで彼は、ルピック夫人が、利口で確かな助手を欲しがっているということを感づいた。どうせ彼女は、それを口に出していうはずはない。それほど負け惜しみが強いのだ。契約は暗黙のうちに結べばいい。それで、にんじんは、今後、督促を俟たず、しかも、報酬を当てにしないで働かなければならぬ。
決心がついた。
朝から晩まで、竈の自在鉤に鍋が一つ懸かっている。冬は、湯がたくさんいるので、この鍋が幾度となく、いっぱいになったり、空っぽになったりする。鍋は燃え盛る火の上で、ぐらぐら音を立てている。
夏は、食事の後で、皿を洗うためにその湯を使うだけである。ほかの時は絶えず小さな口笛を吹きながら、用もないのに沸いているのだが、その鍋の罅だらけの腹の下で、消えかかった二本の薪が燻っている。
どうかすると、オノリイヌは、その口笛が聞こえなくなるのである。彼女は、こごんで耳を押しつける。
「みんな湯気になってしまった」
彼女は、鍋の中へ、柄杓に一杯水を入れる。二本の薪をくっつけ、灰を掻きまわす。やがてまた、懐かしいしゃんしゃんいう音が聞こえ出す。すると、オノリイヌは安心して、ほかの用事をしに行くのである。
仮に誰かが彼女にこういったとする――
「オノリイヌ、もう使いもしない湯を、どうして沸かすんだい。鍋をおろしておしまい。火をお消し。お前さんは、ただみたいに薪を燃すんだね。寒くなると、がたがた顫えてる貧乏人がどれだけあるか知れないんだよ。お前さんは一体、締るところは締る女なんだのにね」
彼女は、返事に困って、頭をゆすぶるだろう。
自在鉤の先に、鍋が一つ懸かっているのを、彼女は年が年じゅう見て来たのだ。
彼女は、年が年じゅう、湯が沸るのを聞き、鍋が空っぽになれば、たとえ雨が降ろうが、風が吹こうが、また日が照ろうが、年が年じゅう、そいつをいっぱいにして来たのだ。
で、今ではもう、鍋に手を触れることはもちろん、それを眼で見る必要もない。彼女は、諳で覚えているのである。ただ耳を澄まして音を聴けばいい。それでもし、鍋が音を立てていなかったら、柄杓で一杯水を注ぎ込むのである。それはちょうど、彼女が南京玉へ糸を通すように、これこそ慣れっこになっていて、未だ嘗て見当を外したことはないのだ。
それが、今日はじめて、彼女は見当を外したのである。
水がことごとく火の上に落ち、灰の雲が、うるさいものに腹を立てた獣のように、オノリイヌ目がけて飛びかかり、からだを包み、呼吸をつまらせ、皮膚を焦がした。
彼女は、後すざりをしながら、叫び声を立てた。嚔をした。唾を吐いた。そしていう――
「地べたから鬼が飛び出したかと思った」
眼がくっつき、それがちくちくと痛む。だが彼女は、真黒になった手を伸ばして竈の闇を探った。
「ああ、わかった」と、彼女は、びっくりしていう――「鍋がなくなってる」
「いや、そんなはずはない。さっぱりわからん」と、またいう――「鍋は、さっきまでちゃんとあったんだ。たしかにあった。蘆笛のように、ぴいぴい音を立てていた」
してみると、オノリイヌが、野菜の切り屑でいっぱいになった前掛けを窓からふるうために、向こうをむいている間に、誰かがそれをはずして行ったに違いない。
だが、それは、一体、誰だ?
ルピック夫人は、厳しくそして落ち着きはらった様子で、寝室の靴拭いの上へ現われる――
「なにを大騒ぎしてるんだい、オノリイヌ」
「騒ぎも騒ぎも、大変なことが起こったから、騒いでるんですよ」と、彼女は叫ぶ――「もうちっとで、わしゃ丸焦げになるとこだ。まあ、この木履を見ておくんなさい。このスカアトを、この手を……。下着は跳ねだらけだし、カクシの中へは炭の塊りが飛び込んでるだし……。」
ルピック夫人――その水溜りはなにさ。竈がびしょびしょじゃないか。これで、綺麗になるこったろう。
オノリイヌ――わしの鍋を、どうして黙って持ってくだね。どうせ、あんたがはずしたに違いない。
ルピック夫人――鍋は、この家じゅうみんなのものなんだからね。それとも、あたしにしろ、旦那さまにしろ、また子供たちにしろ、その鍋を使うのに、いちいちお前さんの許しを受けなきゃならないのかい?
オノリイヌ――わしゃ、無茶をいうかも知れませんよ。腹が立ってしょうがないんだから。
ルピック夫人――あたしたちにかい、それともお前さん自身にかい? そうさ、どっちにだい? あたしゃ物好きじゃないが、それが知りたいもんだね。まったく呆れた女だよ、お前さんは、鍋がそこにないからって、火の中へ柄杓にいっぱい水をぶっかけるとは、ずいぶん思いきったことをするじゃないか。おまけに意地を張ってさ、自分の粗相は棚に上げて、他人に、あたしに、罪をなすくろうとする。こうなったら、あたしゃどこまでもお前さんをとっちめるよ。
オノリイヌ――にんじん坊ちゃん、わしの鍋は、どこへ行ったか知りなさらんか?
ルピック夫人――なにを知ってるもんか、あの子が。第一、子供には責任はない。お前さんの鍋はどうでもいいから、それより、昨日お前さんはなんといったか、それを思い出してごらん。――「そのうちに、自分で、湯ひとつ沸かすことができなくなったっていうことに気がついたら、追い出されなくっても、勝手にひとりで出て行く」――こういったろう。現に、あたしには、お前さんの眼のわるいことはわかってた。だが、それほどまでひどいとは思ってなかったよ。もう、これ以上なんにもいわない。あたしの身になって考えてごらん。お前さんも、あたし同様、さっきからの事情はわかってるんだからね。自分で始末をつけるがいい。ああ、ああ、遠慮はいらないから、いくらでも泣くさ。それだけのことはあるんだもの。
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「母さん! オノリイヌ!」
…………
にんじんは、また、なにをしようというのか? 彼は、せっかくの話を台なしにしそうだ。幸い、ルピック夫人の冷やかな視線の下で、彼は、ぴたりと口を噤んでしまう。
オノリイヌに、こういう必要があるだろうか――
「僕がしたんだよ」
どんなにしても、この婆さんを助けることはできないのだ。彼女はもう眼が見えない。もう眼が見えないのだ。気の毒だが、しかたがない。早晩、彼女は、我を折らねばならぬだろう。ここで、彼が自白をしても、それは彼女をいっそう悲しませるだけの話だ。出て行くなら出て行くがいい。そして、それがにんじんの仕業とは気づかず、運命の避け難き兇手が、わが身に降りかかったものと思っているがいい。
それからまた、母親にこういうと、どういうことになるのだ――
「母さん、僕がしたんだよ」
自分の手柄を吹聴し、褒美の一笑にありつこうとしたところで、さあ、それが何になる? おまけに、うっかりすると、ひどい目にあうかも知れない。なぜなら、こういう事件に、彼が喙を容れる資格はないなんていうことを、ルピック夫人は誰の前でもいいかねないからだ。彼はそれを知っているのである。むしろ、母親とオノリイヌが鍋をさがす、それを手伝うようなふうをしているに限る。
で、いよいよ、三人が一緒になって鍋をさがしはじめると、彼は誰よりも熱心らしく見えるのである。
ルピック夫人は、うわの空で、真っ先に断念する。
オノリイヌも、諦めて、なにかぶつぶついいながら向こうへ行ってしまう。するとやがて、にんじんは、心配のあまり気が遠くなりそうだったのを、やっと我れに返るのである。それはちょうど、正義の刃もちうるに要なく、再び鞘に納まった形だ。
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オノリイヌの代りには、その孫娘のアガアトが来ることになった。
物珍しそうに、にんじんは、この新来の客を観察した。この数日間、ルピック一家の注意は、彼から彼女のほうへ移るわけである。
「アガアトや」と、ルピック夫人はいう――「部屋へはいる前には、叩いて合図をするんだよ。だからって、なにも、馬みたいな力で戸を蹴破らなくったっていいんだからね」
「そろそろ始まった」と、にんじんは心の中でいった――「まあ、昼飯の時、どんなか見ててやろう」
食事は、広い台所でするのである。アガアトはナフキンを腕にかけ、竈から戸棚へ、戸棚から食卓へ、いつでも走る用意をしている。というのが、彼女はしずしずと歩くなんていうことがほとんどできないのである。頬ぺたを真赤にし、呼吸をきらしているほうがいいらしい。
そして、ものを言うときは、あんまり早口だし、笑うときは声が大きすぎ、それになんでも、あんまり一所懸命になりすぎるのである。
ルピック氏が一番先へ席に着き、ナフキンをほどき、自分の皿を正面にある大皿のほうへ押しやり、肉をよそい、ソースをかけ、またその皿を引き寄せる。飲みものも自分で注ぐ。それから、背中を丸くし、眼を伏せたまま、つつましく、今日もいつもと同じように、我れ関せずというふうで食事をするのである。
皿を更えるときは、彼は椅子のほうへからだをそらし、尻をちょっと動かす。
ルピック夫人は、自分手ずから、子供たちの皿につけてやる。第一番に兄貴のフェリックス。これは、もう我慢ができないほど腹を空かしているからだ。次は姉のエルネスチイヌ。年長の故にである。おしまいがにんじん。彼は食卓の一等隅っこにいるのである。
彼は固く禁じられてでもいるように、決してお代りをしない。一度よそった分だけで満足しているらしい。だが、もっとあげようといえば、それは貰うのである。飲みものなしで、彼は、嫌いな米を頬張る。ルピック夫人の御機嫌を取るつもりである。一家のうちで、たった一人、彼女だけは米が大好きなのである。
これに反して、誰に気兼ねもいらない兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌは、お代りが欲しければ、ルピック氏のやり方に倣って、自分の皿を大皿のほうへ押しやるのである。
ただ、誰もしゃべらない。
「この人たちは一体どうしたんだろう」
アガアトは、そう思っている。
彼らはどうもしないのである。そういうふうなのだ。ただそれだけである。
彼女は、誰の前でもかまわない、両腕を伸ばして欠伸をしないではいられない。
ルピック氏は、ガラスのかけらでも噛むように、ゆっくり食べている。
ルピック夫人は、これはまた、食事の時以外は鵲よりもおしゃべりなのだが、食卓につくと、手真似と顔つきでものをいいつけるのである。
姉のエルネスチイヌは、眼を天井に向けている。
兄貴のフェリックスはパンの屑で彫刻をこしらえ、にんじんは、湯呑みがもうないので、皿についたソースを拭き取るのに、あんまり早すぎては食いしんぼうみたいだし、あんまり遅すぎてもぐずぐずしていたようだし、そこをうまくやろうと、そのことばかりに心を遣っている。この目的から、彼は、複雑な計算に没頭する。
だしぬけに、ルピック氏が、水差しに水を入れに行く。
「わたしが行きますのに……」
と、アガアトがいう。
あるいは、むしろ、そういったのではなく、ただそう考えただけである。彼女は、それだけでもう、世の中のあらゆる不幸に見舞われたように、舌が硬ばり、口をきくことができない。だが、自分の越度として、注意を倍加するのである。
ルピック氏のところには、もうほとんどパンがない。アガアトは、今度こそ、先手を打たれないようにしなければならぬ。彼女は、ほかの者のことを忘れるくらいにまで、彼のほうに気をつけている。
そこで、ルピック夫人は、つっけんどんに、
「アガアトや、お前、そうしてると、からだから枝が生えやしないかい」
やっと、性根をつけられて、
「はい、なんでございます」
と、答える。
それでも、彼女は、ルピック氏から眼を離さずに、心を四方に配っているのである。彼女は、気がきくという点で、彼を感心させ、自分の値打ちを認めてもらおうというのだ。
時こそ来たれである。
ルピック氏がパンの最後のひと口を、今や口へ抛り込んだと思うと、彼女は戸棚のほうへ飛んで行き、まだ庖刀も入れてない五斤分の花輪形パンをもって来て、それをいそいそと彼のほうに差し出した。主人の欲しいものが、黙っていてもわかるといううれしさで、胸がいっぱいだ。
ところが、ルピック氏は、ナフキンを結び、食卓を離れ、帽子をかぶり、裏庭へ煙草を喫いに行くのである。
食事がすんでから、またはじめるなんていうことを、彼はしない。
釘づけみたいに、そこへ立ったまま、アガアトは、ぽかんとして、五斤かかる花輪形パンをお腹の上に抱え、浮袋会社の蝋細工看板そっくりである。
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「拍子抜けがしたろう」と、にんじんは、台所で、アガアトと二人きりになってから言った――「がっかりしちゃだめだよ。こんなことはしょっちゅうあるんだから……。だけど、そんな罎をもってどこへ行くの」
「穴倉へですよ、にんじん坊ちゃん」
にんじん――おっと待った。穴倉へは僕が行くんだ。梯子段があぶなくって、女の人は滑って首の骨をへし折っちまいそうなんだ。そいつを僕が平気で降りられたもんで、それから、この僕でなけりゃならないってことになったんだ。赤い封蝋と青い封蝋をちゃんと見分けられるしね。僕が空樽を売ると、そいつは僕の収入になるんだぜ。兎の皮だってそうだよ。お金はお母さんに預けとくんだ。
よく打合せをしとこう、いいかい、お互いに仕事の邪魔をしないようにね。
朝は、僕が犬の小屋を開ける。それから、スープも僕がやることになってる。晩は、これも僕が、口笛で呼んで寝かせつける。町へ出てなかなか帰ってこないような時は、待ってるんだ。それから、母さんとの約束で、鶏小舎は、僕がいつも閉めに行くことになってる。僕はまた草むしりもする。どんな草でもいいってわけにいかないからね。くっついてる土は、足ではらって、あとの穴を埋めとく。草は家畜にやるんだ。
運動のために、僕は、父さんの手伝いをして薪を切ることになっている。
父さんが生きたまま持って帰った猟の獲物は、僕が首をひねる。君とエルネスチイヌ姉さんが羽根をむしるんだぜ。
魚の腹は、僕が割く。腸も出す。それから、浮嚢は踵でぴちんと潰す。
そういう時、鱗を取るのは君だよ。それから、井戸から水を汲み上げるのもね。
糸巻の糸をほどく時は、僕が手伝うから。
コーヒーは、僕が挽く。
旦那さんが泥だらけの靴を脱いだら、僕がそいつを廊下へ持って出る。だが、エルネスチイヌ姉さんは、上履を持ってくる権利をだれにも譲らないんだ。自分で刺繍をしたからなんだ。
大事な使いは僕が引き受ける。遠道をするときだとか、薬屋や医者へ行く時もそうだ。
君のほうは、小さな買物やなんか、村ん中だけの走り使いをするわけだ。
しかし、君は、毎日二、三時間、それも年が年じゅう、川で洗濯をしなければならない。こいつが一等つらい仕事だろう。気の毒だがやってくれ。僕にゃ、それだけはどうすることもできないんだ。でも、時々は、暇があったら、僕も手をかしてあげるよ、洗濯物を生籬の上へひろげる時なんかにね。
ああ、そうそう、注意しとくけどね、洗濯物は、決して果物の樹の上へひろげちゃいけないよ。旦那さんは君に小言なんか言やしない。いきなりそいつを地べたの上へ弾き飛ばしちまうから。すると奥さんは、ちょっと泥がついただけで、もう一度川へ行ってこいというよ。
靴の手入れは君に頼むよ。猟に行く靴へは、うんと油を塗ってくれたまえ。ゴム靴には、ぽっちり靴墨をつけるんだ。でないと、あいつは、こちこちになるからね。
泥のついた半ズボンは、一所懸命に落とさなくったっていい。旦那さんは、泥がついてたほうがズボンの持ちがいいっていうんだ。なにしろ、掘り返した土ん中を、裾もまくらずに歩くんだからね。旦那さんは僕を連れてく時がある。獲物を僕が持つんだ。そういう時、僕は、ズボンの裾をまくったほうがいい。すると、旦那さんは僕にこういうんだ――
「にんじん、お前はろくな猟師になれんぞ」
しかし、奥さんは、僕にこういうんだ――
「ズボンを汚したら承知しないから……。耳がちぎれても知らないよ」
こいつは、趣味の問題だ。
要するに、君だってそんなに悲観することはないさ。僕の休暇中は、二人で用事を分担しよう。それから、姉さんと兄さんと僕が、また寄宿へ帰るようになったら、君の用事も少なくなる。つまり、おんなじわけだ。
それに、誰も君に対しちゃ、それほど辛く当りゃしないよ。うちに来る人たちに訊いてみたまえ、みんなそういうから。――姉さんのエルネスチイヌは優しきこと天使のごとしだし、兄貴のフェリックスは心ばえいとも気高く、旦那さんは、資性廉直、判断に狂いがない。奥さんは、こりゃ、まれに見る料理の名人だ。君の目からは、恐らく、家族じゅうで僕が一等むずかし屋に見えるだろう。なに、根を洗や、ほかのもんと違いはないのさ。ただ、扱い方を知ってりゃいいんだ。それに、僕のほうでも考えるし、悪いところは直しもする。謙遜ぶらずにいえば、僕、だんだん人間がましにはなって来たんだ。もし君のほうで、少しでもその気になってくれりゃ、僕たちは、非常にうまく調子を合わして行けると思うんだ。
ああ、だめだぜ、僕のことをこれから「にんじん坊ちゃん」なんて呼んじゃ。「にんじん」って呼びたまえ、みんなとおんなじように。「若旦那さん」ていうよりゃ短くっていい。ただ君のお祖母さんのオノリイヌみたいに、「こうだよ」とか、「こうしてやろう」なんていわないでくれたまえ。僕あ、それが嫌いさ。君のお祖母さんは、いつもそういうんだもの、僕あ癪にさわってね。
[#改ページ]朝は、僕が犬の小屋を開ける。それから、スープも僕がやることになってる。晩は、これも僕が、口笛で呼んで寝かせつける。町へ出てなかなか帰ってこないような時は、待ってるんだ。それから、母さんとの約束で、鶏小舎は、僕がいつも閉めに行くことになってる。僕はまた草むしりもする。どんな草でもいいってわけにいかないからね。くっついてる土は、足ではらって、あとの穴を埋めとく。草は家畜にやるんだ。
運動のために、僕は、父さんの手伝いをして薪を切ることになっている。
父さんが生きたまま持って帰った猟の獲物は、僕が首をひねる。君とエルネスチイヌ姉さんが羽根をむしるんだぜ。
魚の腹は、僕が割く。腸も出す。それから、浮嚢は踵でぴちんと潰す。
そういう時、鱗を取るのは君だよ。それから、井戸から水を汲み上げるのもね。
糸巻の糸をほどく時は、僕が手伝うから。
コーヒーは、僕が挽く。
旦那さんが泥だらけの靴を脱いだら、僕がそいつを廊下へ持って出る。だが、エルネスチイヌ姉さんは、上履を持ってくる権利をだれにも譲らないんだ。自分で刺繍をしたからなんだ。
大事な使いは僕が引き受ける。遠道をするときだとか、薬屋や医者へ行く時もそうだ。
君のほうは、小さな買物やなんか、村ん中だけの走り使いをするわけだ。
しかし、君は、毎日二、三時間、それも年が年じゅう、川で洗濯をしなければならない。こいつが一等つらい仕事だろう。気の毒だがやってくれ。僕にゃ、それだけはどうすることもできないんだ。でも、時々は、暇があったら、僕も手をかしてあげるよ、洗濯物を生籬の上へひろげる時なんかにね。
ああ、そうそう、注意しとくけどね、洗濯物は、決して果物の樹の上へひろげちゃいけないよ。旦那さんは君に小言なんか言やしない。いきなりそいつを地べたの上へ弾き飛ばしちまうから。すると奥さんは、ちょっと泥がついただけで、もう一度川へ行ってこいというよ。
靴の手入れは君に頼むよ。猟に行く靴へは、うんと油を塗ってくれたまえ。ゴム靴には、ぽっちり靴墨をつけるんだ。でないと、あいつは、こちこちになるからね。
泥のついた半ズボンは、一所懸命に落とさなくったっていい。旦那さんは、泥がついてたほうがズボンの持ちがいいっていうんだ。なにしろ、掘り返した土ん中を、裾もまくらずに歩くんだからね。旦那さんは僕を連れてく時がある。獲物を僕が持つんだ。そういう時、僕は、ズボンの裾をまくったほうがいい。すると、旦那さんは僕にこういうんだ――
「にんじん、お前はろくな猟師になれんぞ」
しかし、奥さんは、僕にこういうんだ――
「ズボンを汚したら承知しないから……。耳がちぎれても知らないよ」
こいつは、趣味の問題だ。
要するに、君だってそんなに悲観することはないさ。僕の休暇中は、二人で用事を分担しよう。それから、姉さんと兄さんと僕が、また寄宿へ帰るようになったら、君の用事も少なくなる。つまり、おんなじわけだ。
それに、誰も君に対しちゃ、それほど辛く当りゃしないよ。うちに来る人たちに訊いてみたまえ、みんなそういうから。――姉さんのエルネスチイヌは優しきこと天使のごとしだし、兄貴のフェリックスは心ばえいとも気高く、旦那さんは、資性廉直、判断に狂いがない。奥さんは、こりゃ、まれに見る料理の名人だ。君の目からは、恐らく、家族じゅうで僕が一等むずかし屋に見えるだろう。なに、根を洗や、ほかのもんと違いはないのさ。ただ、扱い方を知ってりゃいいんだ。それに、僕のほうでも考えるし、悪いところは直しもする。謙遜ぶらずにいえば、僕、だんだん人間がましにはなって来たんだ。もし君のほうで、少しでもその気になってくれりゃ、僕たちは、非常にうまく調子を合わして行けると思うんだ。
ああ、だめだぜ、僕のことをこれから「にんじん坊ちゃん」なんて呼んじゃ。「にんじん」って呼びたまえ、みんなとおんなじように。「若旦那さん」ていうよりゃ短くっていい。ただ君のお祖母さんのオノリイヌみたいに、「こうだよ」とか、「こうしてやろう」なんていわないでくれたまえ。僕あ、それが嫌いさ。君のお祖母さんは、いつもそういうんだもの、僕あ癪にさわってね。

杖の先で、彼は、そっと戸を叩く。
ルピック夫人――またやって来た。一体なんの用があるんだろう。
ルピック氏――それがわからんのか、お前は。いつもの十銭玉が欲しいからさ。一日の食い分だ。戸を開けてやれ。
ルピック夫人は、仏頂面をして、戸を開ける。盲人の腕をとって、あわただしく引きずりこむ。自分が寒いからだ。「こんにちは、そこにいるみなさん」
と盲人はいった。
彼は前に進む。短い杖が、鼠を逐うように、小刻みに床石の上を走る。そして、一つの、椅子にぶつかる。盲人は腰をおろす。かじかんだ手を暖炉のほうに伸ばす。
ルピック氏は、十銭の銀貨をつまんで、こういう――
「そら!」
彼は、それっきり相手にならない。新聞を読みつづける。
にんじんは、面白がっている。例の隅っこにしゃがんで、盲人の木履を眺めている。それがだんだん溶けて行くのである。そして、そのまわりには、もう、溝が描かれている。
ルピック夫人はそれに気がつく――
「その木履を貸してごらん、お爺さん」
彼女はそれを暖炉の下へ持って行く。もう遅い。あとには水溜りが残っている。盲人は不安気である。足が湿り気を感じ、片一方ずつ上へあがる。泥のまじった雪を押しのけ、そいつを遠くへ散らかす。
にんじんは、爪で地べたをこすり、汚れた水に、こっちへ流れてこいという合図をし、深い石の割目を教えてやる。
「十銭もらったんだから、それでもういいじゃないか」
聞こえよがしに、ルピック夫人は、こういうのである。
が、盲人は、政治の話をしだす。はじめは恐る恐る、しまいには誰はばからず。言葉につかえると、彼は杖を振りまわす。ストーヴの煙突へ握拳をぶつけ、あわてて引っ込める。それから、油断はならぬというふうに、涸ききらない涙の奥で、白眼をくるりと動かすのである。
時として、ルピック氏は、新聞を裏返しながら――
「なるほど、そりゃそうだろう。だが、爺さん、そりゃ、たしかなことかい?」
「たしかなことかって……?」と、盲人は叫ぶ――「そいつあ、あんまりだ。まあ、聴いておくんなさい、旦那。わしがどうして目をつぶしたかっていうと、そりゃこうだ」
「ちょっくら出て行きそうもない」
と、ルピック夫人はいう。
なるほど、盲人は、すっかりいい気持になり、自分の災難というのを話す。伸びをする。そして、全身飴のごとく、そのままそこへ、へばりついてしまう。今までは、血管の中を、氷の塊りが、溶けながらぐるぐる廻っていたのだ。それが、こうしていると、その着物や手足は油汗をかいているとしか思えない。地べたを見ると、水溜りがだんだん拡がり、にんじんのほうへ近づいて行く。いよいよやって来た。
目標は彼なのだ。
やがて、にんじんは、それで遊べるのである。
だが、そのうちに、ルピックス夫人は、巧妙な手段をめぐらし始める。彼女は、盲人のそばをすれすれに歩き、わざと肱をぶつけたり、足を踏んだりするのである。彼はしかたがなく、後退りする。で、とうとう、火の気の伝わってこない食器棚と袋戸棚の間へ押し込められてしまう。盲人は、途方に暮れ、手探りをし、手真似で何かいい、指の先が獣のように這いまわるのである。彼は、自分だけの闇を払いのけようとする。またぞろ、氷の塊りができてきた。なんのことはない、彼は、以前どおり、凍えつきそうだ。
そこで、盲人は涙声で彼の物語を終わるのである――
「そういうわけさ、ね、それでおしまいさ。眼玉もなくなるし、なにもかもなくなる。竈のなかの暗闇ばかり……」
彼の杖が手からすべり落ちる。ルピック夫人は、それを待っていたのだ。駈け寄って、杖を拾いあげる。そして、そいつを盲人に渡すのだが……実際は渡さない。
盲人は、受け取ったつもりだが、手にはなんにも持ってないのである。
彼女は、うまくだまして、また相手を引き寄せる。そして、木履をはかせ、戸口のほうへ連れて行く。
それから、彼女は、ちょっと意趣返しのつもりで、盲人の腕をつねり、通りへ押し出す。そこは、雪をふるい落とした灰色の絨毛の下である。締め出しを食った犬みたいに、鼻を鳴らしている風の真面である。
で、戸を閉める前に、ルピック夫人は、聾にでもいうように怒鳴る――
「またおいで。今のお金をおっことさないようにね。今度の日曜だよ、お天気がよかったら。それから、お前さんがまだこの世にいたらね。まったく、お前さんのいうとおりさ。誰が死んで誰が生きてるかわかるもんじゃない。誰でも苦労っていうものはあるし、神さまはみんなのものだからね!」
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雪が降っている。元日がおめでたいためには、雪が降らなければならぬ。
ルピック夫人は、用心深く、中庭の開き戸を締めたままにしておくのである。すると、もう子供たちがやって来て、
をゆすぶっている。下のほうをこじ開けようとする。はじめは遠慮がちに、だが、しまいには、いまいましそうに、木履で蹴り散らす。ルピック夫人は窓から、そっとようすを窺っているのである。いよいよだめと知ると、彼らは、それでもまだ眼だけは窓のほうを見上げたまま、後すざりをして遠ざかって行く。その跫音が雪の中に吸い込まれてしまう。にんじんは、寝台から飛びおり、裏庭の水槽へ顔を洗いに行く。石鹸は持って行かない。水槽は凍っている。氷を割らなければならない。この、しょっぱなの運動は、暖炉の熱よりも健康な熱を全身に伝えるのである。ところで、顔は濡らしたことにしておく。いつ見ても汚いといわれ、それが大々的にお化粧をした時でさえそうなのだから、彼は一番汚れたところだけ拭けばいいのである。
儀式らしく、朗らかに、さわやかに、彼は兄貴のフェリックスの後ろへ並んで立つ。兄貴のフェリックスは総領である姉のエルネスチイヌの後ろに控えている。三人は食堂になっている台所へはいって行く。ルピック夫妻はなんでもないような顔をして、そこへ列席しにやってくる。
姉のエルネスチイヌが、この二人に接吻をして、さていう――
「おはよう、父さん、おはよう、母さん。新年おめでとう。本年もお達者でお暮しになりますように。それから、来世は極楽へおいでになりますように……」
兄貴のフェリックスも、同じことを、きわめて早く、文句の終りへいちもくさんに駈け出して行く。そして、同様に接吻をする。
が、にんじんは、帽子の中から、一通の手紙を取り出す。封をした封筒の上に「我が親愛なる両親の君へ」とある。所番地は書いてない。種類稀なる鳥が、色彩華やかに、その一隅を掠めているのである。
にんじんは、そいつをルピック夫人のほうに差し出す。彼女は封を切る。紙一面、満開の花に飾られ、その上、レースの縁が取ってある。そして、レースの孔へは、しばしばにんじんのペンが落ち込んだらしく、隣りの字が霞んでしまっている。
ルピック氏――わしには、なんにもないんだね。
にんじん――それ、二人にあげるんだよ、母さんがすんでから見るといいや。
ルピック氏――よし、お前は、わしより母さんのほうが好きなんだね。それならそれで、この新しい十銭玉が、お前のポケットの中へはいるかどうか見ているがいい。
にんじん――ちょっと待ってったら……母さんがもうすむから。
ルピック夫人――文章はしゃれてるけれど、字がへたで、あたしにゃ読めないよ。
「さ、今度は父さんの番だ」と、にんじんは急き込んでいう。にんじんが、まっすぐに突っ立って、返事を待っている間、ルピック氏は、一度、それからもう一度、手紙を読む。じっと見ている。いつもの癖で、「ふむ、ふむ」という。そして、テーブルの上に、そいつを置く。
目的が完全に達せられると、手紙は、もう何の役にも立たない。それこそ、みんなのものである。見ようと、触ろうと、めいめいの勝手だ。姉のエルネスチイヌと兄貴のフェリックスが、順番に取り上げて、綴りの間違いを捜し出す。ここで、にんじんはペンを取り替えたとしか思えない。読めないという字がちゃんと読めるのである。手紙が彼の手にかえる。
それを、こっちへひっくり返し、あっちへひっくり返しして見る。薄穢い笑い方をする。
「これで気に入らんというのかい?」
そう問い返しているように見える。
やっと、彼は、手紙を帽子の中へ押し込む。
お年玉の分配がはじまる。姉のエルネスチイヌは自分の丈ほどの、いや、それよりも大きい人形である。兄貴のフェリックスは、箱入りの鉛の兵隊――今やまさに戦争をしようとしているところだ。
「お前には、取って置きのものがあるんだよ。なんだか当ててごらん」
ルピック夫人は、にんじんにこういう。
にんじん――ああ、そうか。
ルピック夫人――なにが「ああ、そうか」だい。もう知っているなら、見せる必要はないね。
にんじん――ううん、そうじゃないよ。もし知ってたら、僕、首だってあげらあ。
彼は、自らを信ずるもののごとく、おごそかに両手を上に差し上げる。ルピック夫人は食器棚を開ける。にんじんは呼吸をはずませる。彼女は、腕を肩のところまで突っ込み、ゆるゆると、霊妙不可思議な手つきで、黄色い紙にのせた赤い砂糖細工のパイプを引き出してくる。にんじんは、ためらわず、喜びに面を輝かす。彼は、この場合、自分のすべきことを知っている。即座に、両親の面前で、同時に、姉のエルネスチイヌと兄貴のフェリックスの羨ましそうな眼つき(だが、何人もすべてのものを得るわけには行かぬ)を後えに、一服喫おうと思う。赤い砂糖のパイプを、二本の指だけでつまみ、ぐっとからだを反らして、頭を左のほうへかしげる。彼は、口を丸め、頬をへこまし、力を入れ、音を立てて吸い込む。
それから、どえらい煙を天まで届くように吹きあげ、さて彼はいう――
「こいつは、具合がいい。よく通るぜ」
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ルピックさんの坊ちゃんたちとお嬢さんが、休暇で帰って来る。乗合馬車から降り、遠くのほうに両親の姿が見えると、にんじんは、「さてどうしたものか」と思う。
――この辺から走って行ってもいいだろうか?
彼は躊躇する。
――まだ早い。そんなことをすると息が切れちまう。それに、何事でも、程度を越えてはいかん。
そこで、もう少したってということにする。
――ここいらから走ってやろうかな……いや、あの辺からにしよう……。
彼は、自分自身に、いろんなことを問いかける。
――帽子は、いつ脱いだもんだろう? どっちへ前に接吻すべきだろう?
ところが、兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌとは、彼を置いてきぼりにする。そして、両親の愛撫を、二人っきりで半分ずつとってしまう。にんじんがやって来た時には、もうほとんど、彼の分は残っていないのである。
「なんだい、そりゃ」と、ルピック夫人はいう――「お前は、その年になって、まだ父さんなんていうのかい? お父さんっておいい。そうして、ちゃんと、握手をするんだ。そのほうが、男らしい」
そういっておいて、彼女は、たった一度、その額に接吻してやる。僻むといけないから。
にんじんは、いよいよ休暇だと思うと、うれしくってたまらない。あんまりうれしくって、涙が出るのである。もっともこういうことは、しばしばあるので、彼は、しばしば、心とあべこべの顔つきをする。
寮へもどるという日(それは十月二日、月曜の朝となっていて、授業の始まりは聖霊のミサである)――その日、ルピック夫人は、乗合の鈴が遠くから聞こえだすと、いきなり、子供たちのほうへのしかかり、彼らを、ひとまとめにして、両腕で抱き締める。にんじんは、ところが、その中にはいっていないのである。彼は根気よく、自分の順番を待っている。手だけは、もう、馬車の革具のほうへ伸ばし、別れの言葉もちゃんと用意している。彼は、まったく悲しいのである。だからこそ、唱いたくもない歌を、ふんふん唱っている。
「さよなら、お母さん……」
と、鷹揚に、彼はいった。
「おや、一体お前は、なんのつもりだい、そりゃ……。みんなとおんなじに、あたしを、母さんって呼んだらいいじゃないか。こんな子がどこかにいるだろうか。まだ乳臭い、鼻垂れ小僧のくせして、それで、人と違ったことがしたいなんて……」
だが、ルピック夫人は、彼の額に、一度だけ接吻してやるのである。僻むといけないから。
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ルピック氏が、兄貴のフェリックスと弟のにんじんとを入れたサン・マルク寮というのは、そこから、中学校へ通って、課業だけを受けに行くことになっている。で、毎日四度、寮生たちは同じ道を往き帰りするわけである。時候が好ければ、すこぶるせいせいするし、また、雨降りでも、ごく近くなのだから、濡れても大したことはなく、かえってからだのほてりを冷ますぐらいのもので、その点、この往復は寮生にとって、一年を通じての健康法なのである。
今日もお昼に、彼らは、足を引きずり、羊の群れのようにぞろぞろ中学校から帰ってくる。にんじんは、首を垂れて歩いていた。
「おい、にんじん、お前の親爺がいるじゃないか、見ろよ」
誰かがそういった。
ルピック氏は、こういうふうにして、息子たちに不意打ちを喰わすのが好きである。手紙もよこさずにおいて、やって来る。で、だしぬけに、街の角で向い側の歩道の上に突っ立ち、両手を後ろに組み、巻き煙草を口にくわえている彼の姿を見つけ出すのである。
にんじんと兄貴のフェリックスは、列から離れ、父親のほうへ駈け出して行く。
「やっぱりそうだ!」と、にんじんはいう――「僕、誰かと思った……。だって、父さんのことなんか、ちっとも考えてなかったんだもの」
「お前は、わしの顔を見なきゃ、わしのことは考えんのだ」
と、ルピック氏はいう。
にんじんは、そこで、なんとか愛情を籠めた返事をしたいと思った。が、何ひとつ頭に浮かばない。それほど、一方に気を取られている。彼は、爪先で伸びあがり、父親に接吻しようと、一所懸命なのだ。最初一度、唇の先が髭にさわった。ところが、ルピック氏は、逃げるように、つんと頭を持ち上げてしまったのである。それからもう一度、前へ屈みかけて、また後退りをした。にんじんは、その頬ぺたをと思ったのだが、それも、だめだった。鼻の頭をやっとかすったぐらいだ。彼は、空間に接吻をした。それ以上やろうとはしない。彼は、もう、気持がこじれ、一体なぜこんな待遇を受けるのか、そのわけを知りたいと思った。
――おやじは、もうおれを愛してはいないのかしら。と、心の中で呟いた――おやじは、兄貴のフェリックスにはちゃんと接吻をした。後退りなんかしないで、するままにさせていた。どういうわけで、このおれを避けるのだ。おれを僻ませようっていうのか。大体ふだんから、そういうところが見える。おれは三月も両親のそばを離れていると、もう会いたくってしょうがないんだ。こんど会ったら仔犬のように首っ玉へ飛びついてやろうと、そういつも思っている。愛撫と愛撫の貪り合いだ。ところが、いよいよ会ってみる。先生たちは、きっとおれの気持を腐らしちまうんだ。
頭が、この悲しい考えでいっぱいになる。すると、にんじんはギリシャ語がちっとは進むかというルピック氏の問いに対して、うまい返事ができないのである。
にんじん――それも科目によるさ。訳のほうは作文よりゃ楽だよ。だって、訳のほうは想像で行くもの。
ルピック氏――そんなら、ドイツ語は?
にんじん――こいつは、発音がとてもむつかしいや。
ルピック氏――こね野郎! それじゃお前、戦争が始まって、プロシャ人に勝てるかい、奴さんたちの言葉も話せないで……。
にんじん――ああ、そりゃ、そん時までには、ものにするさ。父さんはいつでも、戦争戦争って威かすけど、僕が学校を卒業するまで、戦争は起こりっこないよ。待っててくれるよ。
ルピック氏――この前の試験には、何番だった? まさか、びりっこけじゃあるまいな。
にんじん――びりっこけの奴も、一人はいなくっちゃ。
ルピック氏――こね野郎! わしは、お前たちに昼飯を御馳走してやろうと思ってたんだぜ。それがさ、今日は日曜だとまだってこともあるが――普通の日じゃ、お前たちの勉強の妨げになるといかんからな。
にんじん――僕自身としちゃ、別に大してすることもないんだけど……。兄さんは、どう……?
兄貴のフェリックス――それが、うまい工合に、今朝、先生が宿題を出すのを忘れたんだよ。
ルピック氏――それだけ余計復習ができるわけだ。
兄貴のフェリックス――もうとっくに覚えてるよ。昨日のところとおんなじだもの。
ルピック氏――なにはともあれ、今日は帰ったほうがよかろう。わしは、なるべく日曜までいることにする。そうしたら、今日の埋め合わせをしよう。
兄貴が口を尖らしても、にんじんが黙りこくっていても、それで、「さよなら」が延びるわけではない。別れなければならない時が来た。にんじんは、それを心配しながら待っていたのである。
――今度は前よりうまく行くかどうか、ひとつ、やってみよう。おやじは、おれが接吻するのを厭がっているのか、それが、今いよいよ、そうかそうでないかがわかるんだ。
そこで、意を決し、視線をまともに向け、口を上へ差し出して、彼は、近づいて行く。
が、ルピック氏は、また容赦なく、その手で彼をさえぎり、そしてこういった――
「お前は、その耳へ挾んでるペンで、しまいにわしの眼へ穴をあけるぜ。わしに接吻する時だけは、どこかほかへしまってくれることはできんか? わしを見てくれ、ちゃんと煙草は口からとってるじゃないか」
にんじん――ああ、ごめんよ、父さん……。ほんとだ。僕がうっかりしてると、いつ、どんな間違いをしでかすか知れないね。前にも、誰かにそういわれたんだよ。だけど、このペンは、僕の耳んとこへ、そりゃうまく挾まるもんだから、しょっちゅう、そのままにしとくのさ。で、つい忘れちゃうんだ。まったく、ペンだけでもはずさないって法はないね。
ああ、僕、ほんとうに、うれしいや、父さんは、このペンが怖かったんだっていうことがわかって……。
ルピック氏――こね野郎! 笑ってやがる。わしを眼っかちにし損って……。
にんじん――ううん、そうじゃないんだよ、父さん。僕、ほかのことで笑ってるんだよ。さっきから、また、僕流の馬鹿馬鹿しい考えを起こしたからさ、この頭ん中へ……。
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夜の点呼がすむと、サン・マルクの寮監先生は寝室から出て行く。すると生徒はめいめい、莢の中へ納まるように、できるだけ縮こまって毛布の中へすべり込む。外へはみ出ないようにだ。室長のヴィオロオヌは、くるりと左右を見廻し、みんなが床に就いたかどうかをたしかめる。それから爪先を立てて、そっと燈火を小さくする。そうすると、やがて、隣り同士で、おしゃべりが始まるのである。枕から枕へ、ひそひそと声が伝わり、動く唇からは、寝室いっぱいに、なんともつかぬざわめきが立ち昇って、時々、その中で、子音の短く擦れる響きが聞き分けられる。
これが、低く鈍く、絶え間なく、はては、じれったくなる。実際、この種の囁きは、まるで鼠のように、姿は見せず、ただそこここで、せっせと沈黙を齧っているのだとしか思えない。
ヴィオロオヌは、古靴をひっかけ、一時寝台の間をうろつき廻る。こっちでは一人の生徒の足をくすぐってみたり、あっちでは、もう一人の生徒の頭巾の総をひっぱったりする。そうした挙句、マルソオのそばで立ち停るのである。この生徒とは、毎晩、夜の更けるまで長っ話をし続けて、彼はそれこそ、みんなに模範を示すのだ。たいていの場合、生徒たちは、話をやめてしまっている――口の上へ、毛布をだんだん引っかぶせて、順ぐりに呼吸がつまったというふうだ。そこで、みんな眠ってしまうのだが、その間、室長は、まだマルソオの寝台の上へからだをこごめ、肱をしっかり鉄の棒の上に支え、前腕がしびれても気がつかず、指の先までむず痒くなっていても、それはいっこう平気なのである。
彼は子供らしい物語に自ら興じ、ざっくばらんな打明け話や、いわゆる「心の想い出」というやつで、相手の眼を冴え返らしてしまう。やがて、相手の顔は、ほのかに、透き通るほど色づきはじめる。内側から照らされたようだ。彼は、それが可愛くてたまらぬ。こうなるともう、皮膚ではない。髄のような組織だ。その後ろでは、透し紙をあてた地図のように、ちょっとした雰囲気の変化で、小静脈がみるみるうちに縺れ合うのである。マルソオは、それに、第一、なぜともわからず、不意に顔を赤らめるという魅惑的な手段をもっていて、それでまた、彼は、少女のように誰かれから好かれるわけなのだ。よく、仲間の一人が、片っ方の頬ぺたを指の先で押さえ、急にそれを放すと、そこへ白い跡が残り、やがて、そいつが、見事な赤い色でおおわれる。それは、清水の中へ葡萄酒をたらしたようにぱっと拡がるのだが、その色合いはしごく変化に富み、薔薇色の鼻先からライラック色の耳に至るまで、徐々にぼかされて行くのである。誰でも、めいめいが、それをやってみようと思えば、マルソオは機嫌よく実験の需めに応じるのだ。人はそこで彼に「行燈」とか、「提燈」とか、「赤頬ぺ」とかいう異名をつけた。が、この、自分勝手に顔色をほてらせ得るという性能に対して、彼を羨むものは寡くなかった。
にんじんは、ちょうど、彼と寝台を並べていたし、わけても、彼を妬ましく思った。自分は、淋巴質の、ひょろひょろの、顔に粉をふいたピエロ――むだとは知りながら、痛くなるほど、血の気のない自分の皮膚を抓りあげた。そんなことをして、どうしようというんだ! なに、それも毎度のことではないが、ちょっぴり、怪しげな褐色の跡をつけるためにである。彼は、マルソオの朱色の頬を、いやというほど引っ掻きむしり、蜜柑のように皮をひんむいてやりたいほどだ。
よほど前から、どうも気になっていたので、彼は、その晩、ヴィオロオヌが来ると、じっと聴き耳を立てていた。怪しいぞと思うのは、恐らく無理ではあるまい。室長のうさんくさい素振から、ほんとのことを嗅ぎ出そうと思ったのだ。彼は、彼独特の、あらゆる少年スパイ式術策をめぐらす。空鼾をかき、ことさら寝返りを打ち、そっちへちょうど背中を向けてしまうようにする。それから、うなされでもしたように、ひと声、けたたましい叫びを立てる。これで、室全体がびっくりして眼を覚まし、毛布という毛布は、激しく波形の運動を起こすのである。さて、ヴィオロオヌが向こうへ行ってしまうと、彼は、鼻息荒く、上半身を寝台から乗り出し、マルソオに向かっていう――
「あめちょこ! あめちょこ!」
返事がない。にんじんは膝で起ちあがってマルソオの腕をつかむ。そして、力まかせにゆすぶりながら、
「やい、あめちょこ!」
あめちょこは、聞こえないらしい。にんじんは、躍気となり、またやり出す――
「だらしがねえぞ! おれが見てなかったと思うのか! やい、こら、あいつにキスさせなかったか! え、どうだ。それでも、てめえ、あいつのあめちょこじゃないのか!」
彼は、人にからかわれた鵞鳥みたいに、首を前に突き出し、握り拳を寝台の縁にあてて伸び上がる。
が今度は、返事があった。
「だから、それがどうしたんだ」
腰を浮かしたと思うと、にんじんは、毛布を引っかぶった。
室長が、とっさの間に現われて、その場へ舞い戻っていたのだ。
「そうだ」と、ヴィオロオヌはいった――「そうだ、僕はお前にキスした。なあ、マルソオ、その通りいったっていいよ。お前はちっとも悪かないんだもの……。僕は、お前の額にキスしたんだ。それに、にんじんは、あの年で、もう邪気満々なもんだから、それが純粋な、清浄潔白な接吻で、父親が子供にする接吻みたいなものだってことがわからないんだ。僕は、お前を子供のように愛してるんだ。あるいは、弟のようにっていうほうがよけりゃ、それでもいい。それがあいつにゃわからないんだから、明日になったら、そこいらじゅうへ、なんのかんのっていい触らすがいいさ、あのちびころの間抜け野郎!」
この言葉を聞いて、にんじんは、まだヴィオロオヌの声がかすかに耳へ響いてくるのに、急に眠った振りをしはじめる。それでも、頭だけは持ちあげて、その先を聞こうとしていた。
マルソオは、呼吸をするかしないかで、室長の言葉に聴き入っている。それは、どこまでも当り前だとは思いながら、彼は、ある秘密の暴露をおそれるように、慄えているからだ。ヴィオロオヌは、できるだけ小声で続ける。何を言ってるのか、ほそぼそと、遙か遠くで、音節の区切りもわからないくらいだ。にんじんは、またそっちへ向き直るわけにもいかず、腰をずらしながら、目立たないようにからだを寄せていったが、もうなんにも聞こえない。彼の注意力はいやが上にもかき立てられ、耳がうつろになり、漏斗の口のように口を開くかと思われた。が、それでも、音らしい音は、はいってこないのである。
彼は、時たま部屋の戸口に立って、中のようすを窺ったことがある。片眼を錠前に押しつけ、できればこの孔をもっと拡げて、見たいものを鎹かなんかで手近へ引き寄せられたらと思う、あの努力感がこれに似たものだったことを覚えている。それにしても、ヴィオロオヌは、どうせ同じ文句を繰り返しているにきまっているのだ――
「そうだ、僕の愛情は純の純なるものだ。それがつまり、このちびころの間抜け野郎にゃわからないんだ!」
さて、室長は、影のごとく静かに、マルソオの額の上へこごんでこれにキスをし、ちょび髭の先をこすりつけ、それから、からだを起こして、そこを立ち去る。寝台の列の間をすべり抜けて行く間、にんじんはそいつを見送っている。ヴィオロオヌの手がどうかして誰かの枕の端に触れると、こいつは安眠妨害だ。その生徒は、大きく溜息をついて寝返りをうつのである。
にんじんは、しばらくようすを窺っている。ヴィオロオヌがまた突然引っ返してこないとも限らないからだ。すでにもうマルソオは、寝床の中で縮こまっている。毛布を眼までかぶり、その実、眠るどころではなく、どう考えていいかわからないさっきの出来事を、それからそれへと想い浮かべているのだ。あんなことはちっとも厭らしいことではない、だから、苦にするには及ばないと彼は思った。それにしても、掛布団の下の暗闇の中に、ヴィオロオヌの面影がちらちらと浮かびあがる。それは今まで数々の夢の中で、彼をぽっとさせた、あの、女たちの面影のように優しいものだ。
にんじんは待ちくたびれた。瞼が、磁気を帯びたように、両方から近づく。彼は、消えそうで消えないガスの燈をじっと見つめていようと思う。が、パッパッと音を立てて、火口から出渋る小さな焔の明滅を、やっと三つ数えたきりで、彼は眠入ってしまう。
あくる朝、洗面所で、みんながタオルの隅をちょいと水に浸し、頬骨の上を、さも冷たそうに、軽く撫でている間に、にんじんは、意地の悪い眼つきでマルソオのほうを視ていた。が、やがて、精いっぱい獰猛な調子で、一音一音を喰いしばった歯の間から吹き出すように、またぞろ、喰ってかかる――
「あめちょこ! あめちょこ!」
マルソオの頬は朱色に染まる。が、彼は怒らずに、ほとんど哀願せんばかりの眼つきで応える――
「だって、そりゃ嘘だっていってるじゃないか。君が勝手にそう思ってるんだ」
室長が手の検査をしにやって来た。生徒たちは、二列に並んで、機械的に最初は手の甲、次に掌と、すばやくひっくり返して見せるのである。それがすむと、その両手をなるべく温かいところへしまい込む。ポケットの中とか、あるいは、一番近くにある羽根布団のぬくもりの下とか。日頃、ヴィオロオヌは、手なんか見ないのが普通である。それが、今日に限って、あいにく、にんじんの手が綺麗でないという。もう一度水道で洗ってくるように――この注意が、にんじんの気に入らない。なるほど、青味がかった汚点のようなものが目につく。しかし、彼は、それが凍傷の始まりだといい張った。どうせ、睨まれているんだ。
ヴィオロオヌは、彼を寮監先生のところへやらねばならぬ。
寮監は、朝早くから起き、暗緑色の書斎で、歴史の講義を準備している。これは自分の暇々に、上級組の生徒にしてやろうというのだ。テーブル掛けの上へ、太い指先を平たく押しつけて、主要なところへ標柱を樹てたつもりになる。――ここはローマ帝国の没落、まん中はトルコ軍の君府攻略、その先は、近代史、これがどこから始まるかわからず、どこまで行っても終わらない代物だ。
彼は、だぶだぶの部屋着を着ている。繍いのはいった飾り紐が巌丈な胸を取り巻き、円柱のまわりに綱を取りつけたようだ。この男、ひと目見れば、物を喰いすぎるということがわかる。顔つきが、腫れぼったく、いつも、ややぎらぎらしている。彼は怒鳴るように話をする。婦人に向かってさえもそうだ。頸筋の皺が、カラアの上で、緩やかに韻律正しく波を打っている。彼はまた眼のくり玉の丸いことと、髭の濃いことが特徴である。
にんじんは、彼の前へ突っ立った。帽子を股ぐらに挾んでいる。動作の自由を保つためである。
恐ろしい声で、寮監は訊ねた。
「なんの用だ?」
「先生、室長が、僕の手はきたないから、そういいに行けっていったんです。だけど、そんなことないんです」
で、もう一度、俯仰天地に恥じずとばかり、にんじんは、両手をひっくり返して見せた――初めは裏、次は表と、なお念のため、彼は繰り返した――初めに表、次に裏。
「なに、そんなことはない
謹慎四日、わかったか」と、寮監はいった。
「先生、室長に、僕、にらまれてるんです」
にんじんがいった。
「なに? にらまれてる! 八日だ、わかったか」
にんじんは、相手の人物を識っていた。こんな生優しいことでは、びくともしない。なんでも来いと覚悟をしているからだ。彼は直立不動の姿勢を取り、両膝をぎゅっと締め合わせ、横面をぴしゃりと来るぐらい屁とも思わず、いよいよ図に乗ってきた。
というのは、この寮監先生、実は時折、手の甲のことで強情たりする生徒を、ぴしゃり! とやる罪のない癖があるのだ。そこで、来るなと思ったら、時を測って、ぴょこりと蹲む。うまく行けば、寮監は、すかを喰ってよろける。みんながどっと吹き出す。ところが、先生は、もう一度やり直そうとはしない。自分の番にずるい真似をするのは、彼の威厳に係わるからだ。この頬をと思ったら、一発で撃ち止めるか、さもなくば、手出しはしないことだ。
「先生……」と、にんじんは、ほんとにふてぶてしく、昂然といい放った――「室長とマルソオとが、変なんです」
すると寮監の眼は、不意に羽虫でも飛び込んだように、しばしぱっとする。テーブルの端を両方の拳で押さえ、腰を浮かし、にんじんの胸へぶつからんばかりに、顔を突き出し、そして、喉の奥から訊ねるのである――
「どう変なんだ?」
にんじんは、当てがはずれたらしい。彼が待ち設けていたのは――もっとも、その後はどうなるかわからないが――たとえば、アンリ・マルタン著すところの歴史大全が、覘い過たず飛んで来ることだった。ところが、これはまた、詳しいわけを聴こうというのだ。
寮監は、待っている。頸筋の皺がみんな集まって、ただ一つの円座をつくり、皮でできた太い環の上に、頭が斜かいに載っているのだ。
にんじんはためらっている。うまい言葉が見つかりそうもないとわかるまでの間である。すると、急にしょげた顔をし、背中をまるめ、見るからにぎごちなく、照れくさそうに、彼は膝の間へ手をやり、ぺしゃんこになった帽子を抜き出す。だんだん前こごみになる。肩をすぼめる。それから、その帽子をそっと頤のあたりまで持ち上げ、それからまたゆっくり、さりげなく、せいいっぱい神妙に、綿のはいった帽子の裏へ、黙って、その猿面を埋めてしまう。
その日、簡単に取調べがあって、ヴィオロオヌは暇を出された。出て行く時は悲痛だった。まず儀式というところだ。
「また還ってくるよ。ちっと休むだけだ」
ヴィオロオヌはそういった。
しかし、誰にもそうとは信じられなかった。寮では、よく職員の入れ替えをやる。まるで、黴が生えるとでも思ってるようだ。今度も多分、室長の更迭というわけだろう。彼が出て行くのは、他のものが出て行った、あれと変わりはない。ただ、好いのほど、早く出て行く。ほとんど全体が、彼を愛していた。ノートの表題を書く技術では、彼に匹敵するものはないと認めていた。たとえば、ギリシャ語の練習帳の表紙に「Cahiers d'exercices grecs appartenant
……」と、書くのだが、頭文字は看板の字のような恰好が取れていた。どの椅子も空っぽになる。彼の机の前に、みんなが円陣を作る。指環の緑の石が光っている彼の美しい手が、しなやかに紙の上を往き来する。ページの下に、即興的な署名をする。その署名たるや、水に石を投げ込んだように、正確で、しかも気紛れな線の、波と渦だ。そして、それが、ちゃんと花押になり、小さな傑作なのだ。花押の尻尾はくねりくねって花押そのものの中へ没し去っている。そいつを見つけ出すのには、ごくそばで眺め、よくよく捜さなければならぬ。いうまでもなく、全体はひと筆の続け書きだ。ある時のごとき、彼は「天井の中心飾り」と称する線のこんぐらかりを見事に描いてみせた。小さい連中は、感嘆これを久しゅうした。彼が暇を出されたというので、この連中は、ひどく悲しがった。
彼らは、最初の機会に、寮監をとっちめなけりゃならんと相談を決めた。つまり頬を膨らし、唇で山蜂の飛ぶ音を真似、かくて不満の意を表わすという次第だ。そのうちに、きっとやらずにはいないだろう。
さしあたり、彼らは、悲しみを分ち合った。ヴィオロオヌは、自分が慕われているのを知り、休みの時間に発つという思わせぶりをやったものだ。彼の姿が運動場に現われる。小使いが鞄をかついで後からついて来る。さあ、小さい連中は、ことごとく、駈けつけた。彼は、一人ひとり手を握り、顔を撫でる。そして、取り囲まれ、押しのめされ、微笑みながら、感動しつつ、自分のフロックの襞を、破れない程度に引き寄せる努力をしていた。鉄棒にぶらさがっていたものは、でんぐり返しを中途で止め、それから、口を開けたまま、額に汗をかき、シャツの袖をまくり上げ、粘土のついた指を拡げたまま、地べたへ飛びおりる。もっとおとなしいものは、運動場の中を千篇一律に廻っていたが、これは、「さようなら」のしるしに手を振ってみせる。小使いは、鞄の下で背中を曲げ、隔たりを保つために止まっている。ところが、それをいいことに、一番小さいのが、濡れた砂の中へつっこんだ五本の指を、その小使いの白い前掛けへべったりと押しつける。マルソオの頬は、絵に描いたように薔薇色に染まった。彼は、生まれてはじめて、真剣な心の苦しみを味わった。が、しかし、室長に対して、いくぶん、「従妹」のような気持で名残を惜しんでいることは、なんとしても自分にわかり、それが、またそら恐ろしく、彼は、ずっと離れて、不安げに、ほとんど顔もあげ得ずに立っている。ヴィオロオヌは、なんのこだわりもなく、彼のほうへ進んで行った。ちょうどその時、ガラスがどこかで、こっぱみじんに破れる音がした。
みんなの視線が、鉄格子のはまった、謹慎室の小さな窓のほうへ昇って行った。不細工な、野蛮な、にんじんの顔がのぞいている。彼はしかめっ面をしてみせた。眼が髪の毛の間から見え、白い歯を残らずむき出し、檻の中の蒼ざめた小悪獣そのままだ。彼は、右手を、喰い込むようなガラスの割れ目へ威勢よくつっこみ、そして、その血みどろな拳固でヴィオロオヌを威嚇した。
ヴィオロオヌはそれに応えた――
「ちびころの間抜け野郎! これで気がすんだか!」
「へん!」と、にんじんは、叫ぶがいなや、もう一枚のガラスを陽気にぶちこわし――「なんだって、そいつにキスするんだい。どうして俺にしないんだ、え?」
それから、彼は、切れた手から流れる血を、顔いちめんに塗りたくり、こう附け加えた――
「おれだって、赤い頬ぺたになれるんだ、いざっていや……」
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兄貴のフェリックスとにんじんとが、サン・マルク寮から帰って来ると、ルピック夫人は二人に足の行水をさせるのである。三月も前からその必要があるのに、寮では足を洗わないからである。もとより、規則書のどの箇条にもその場合はうたってない。
「お前のときたらさぞ黒いこったろう、にんじん」
ルピック夫人はいうのである。
彼女のいったとおりだ。にんじんのは、兄貴のより、いつも黒いのだ。どうしてだろう。二人は、すぐ側で、同じ制度のもとで、同じ空気の中で暮らしてきたのだ。なるほど、三月の後には、兄貴のフェリックスも、白い足を出してみせることはできない。が、にんじんは、自分でも告白するとおり、誰の足だかわからなくなっているのである。
恥ずかしいので、彼は、手品師の芸当よろしく、足を水の中へ突っ込む。いつのまに靴を脱いだか、彼は、兄貴のフェリックスがもうバケツの底へ沈めているその足の間へ、いきなり自分の足を割り込ませる。それまで誰も気がつかない。するとやがて、垢の層が布ぎれのように拡がって、この四つの化物を包むのだ。
ルピック氏は、いつもの癖で、窓から窓を往ったり来たりしている。彼は、息子たちの通信簿、ことに、校長先生自筆の注意書を読み返してみる。兄貴のフェリックスについては――
「不注意、然れども怜悧。及第の見込み」
それから、にんじんについては――
「その気になれば優秀なる成績を示す。但し、常にその気にならず」
にんじんが、これでたまには成績がいいのかと思うと、家族のものは、誰でも可笑しくなるのである。そういう今、彼は膝の上で両腕を組み合わせ、足を水の中で存分に膨らましている。彼はみんなから試験をされている気だ。赤黒く伸びすぎた髪の毛の下で、彼はむしろみっともなくなっていた。ルピック氏は、真情流露を逆に行く人物だから、久々で彼の顔を見た悦びを、揶揄の形でしか表わさない。向こうへ往きがけに彼の耳を弾く。こっちへ来がけには、肱で小突く。すると、にんじんは、待ってましたと笑いこけるのである。
それからさらに、ルピック氏は、彼のもじゃもじゃの頭髪へ手を通し、そして、虱でも潰すように爪をぱちんと鳴らす。これが、先生得意の戯談である。
ところが、狙い過たず、最初に、一匹、殺ったのである。
「やあ、うまいもんだ。仕留めたぞ」
と、彼はいう。さて、いくぶんげんなりして、そいつをにんじんの髪の毛へなすりつける。するとルピック夫人は、両腕を空に向けて差し伸べ、さも精がなさそうに――
「そんなこったろうと思った。やれやれ、とんだ御馳走だ。エルネスチイヌ、急いで金盥を持っといで。そら、お前の用事ができた」
姉のエルネスチイヌは、金盥を持って来る。それから、目の細かい櫛と、皿いっぱいの酢と……。虱退治が始まるのである。
「僕のを先へやってくれ」と、兄貴のフェリックスが叫ぶ――「僕にもよこしやがったに違いない」
彼は、がむしゃらに指で頭をかきむしる。そして、頭ごとつっこむんだからバケツに一杯水を持ってこいという。
「静かにおしよ」と、姉はいう。心づくしを見せることが好きなのだ――「痛くしやしないわ」
彼女は、彼の首のまわりへタオルを捲きつけ、母親の手際と丹念さとを示す。一方の手で髪の毛を押し分け、もう一方の手で軽く櫛を取り上げる。彼女は、捜す。口を曲げて馬鹿にするふうもなく、獲物がひっかかってもびくともしない。
彼女が、「また一匹いた」というごとに、兄貴のフェリックスはバケツの中で足をじたばたさせながら、にんじんを拳固で威かす。一方は静かに自分の番を待っている。
「あんたのほうは済んだ、フェリックス」と、姉のエルネスチイヌはいう――「七つか八つきりいなかったわ。勘定してごらん。にんじんのは幾ついるか、さあ」
最初のひと櫛で、にんじんは、それ以上の得点だ。姉のエルネスチイヌは、これこそ巣にぶつかったようなものだと思った。それもそのはず、蟻塚の中を手当り次第にかき寄せるのと違いはない。
一同がにんじんを取り囲む。姉のエルネスチイヌは腕に撚りをかける。ルピック氏は、両手を背中に組んで、物好きな他人みたいに、仕事の運びを見物している。ルピック夫人は、情ない声で嘆息の叫びを発する――
「これは、これは……。鋤と熊手を持って来なけりゃ……」
兄貴のフェリックスは、蹲まって、金盥をゆすぶり、獲物を受け取っている。彼らは、雲脂に混って落ちてくる。剪った睫毛のように細かな脚が、ぴくぴく動くのが見分けられる。彼らは金盥の揺れるのに従い、そして、酢のために、またたく間に死んでしまう。
ルピック夫人――にんじん! お前はどういう量見でいるんだか、あたしたちにゃもうわからないよ。その年になって、大きな男の子が、それで恥ずかしくはないかい? 足のことはまあいわないさ、ここで初めて見るんだろうから……。だが虱が食ってるのにさ、それを先生にいって取り締っても貰わず、家のものに始末をしてくれともいわず……。どうしたっていうんだい、一体……。どんなにいい気持なのさ、生きたまま齧られるっていうのは……。髪の毛ん中が、血だらけじゃないか。
にんじん――櫛でかきむしったんだよ。
ルピック夫人――どうだろう、櫛だとさ。それが姉さんへのお礼のしかたかい? 聞いたろうね、エルネスチイヌ? 旦那は、気むずかしくっていらっしゃるから、床屋の姐さんに苦情をおっしゃるよ。わるいことはいわない、好きで食われてるんだから、さっさと虫の餌にしておやり。
エルネスチイヌ――今日は、もうこれでおしまいよ、母さん。大きいのだけ落としといたわ。明日もうひと撫でしてみるの。オードコロオニュを振りかけるってやり方があるのよ。
ルピック夫人――さあ、にんじん、お前は、金盥を持ってって、裏庭の土塀の上へ出してお置き。村じゅうのものがぞろぞろ見て通れば、お前だってちったあ恥ずかしいだろう。
にんじんは金盥を取り上げ、出て行く。そして、そいつを太陽の下に晒して、その側で見張りをしている。最初に近寄って来たのが、マリイ・ナネット婆さんである。彼女はにんじんの顔さえ見れば立ち止まって、近視の、小さな狡そうな眼で彼をじろじろ見るのである。そして、黒い頭巾を動かしながら、何事かを捜し当てようとする。
「なんだね、そいつは……」
にんじんは返事をしない。彼女は金盥をのぞき込む。
「小豆かね。あいた、もう眼がはっきり見えないよ。息子のピエエルが眼鏡を買ってくれるといいんだけど……」
彼女は指でさわってみる。口へ入れそうな手つきだ。なんとしても、わからないらしい。
「そいで、お前さんはそこでなにしてるんだい。膨れっ面をして、眼をぼうっとさせて……? ははあ、怒られたな。罰にそうしてろってわけか。いいかい、わしゃ、お前さんのお祖母じゃないが、それでも、考えることだきゃ、考えてるよ。わしゃ、不便でならん。家のもんがみんなで、いじめるんだろう」
にんじんは、ちらりと眼を外らす。そして母親が聞いていないことを確かめる。すると、彼はマリイ・ナネット婆さんに言うのである――
「だからどうしたんだい? そんなこと、婆さんには関係ないだろう。自分のことだけ心配するがいいや。僕のことは、ほうっといてくれ」
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ルピック氏――おい、にんじん、お前は前学年には、わしの望みどおり勉強しなかった。通信簿に、もっとやれば出来るはずだと書いてある。お前はほかのことばかり考えている。禁じられた書物を読む。暗記力はなかなかあると見えて、試験の点は相当よろしい。ただ宿題を怠けるんだ。おい、にんじん、真面目にやろうという気になれ。
にんじん――大丈夫だよ、父さん。まったく、前学年はすこしいい加減にやったところがあるよ。今度は、せいいっぱい頑張ろうって気が起こってるんだ。ただし、全科目、級で一番っていうのは受合えないよ。
ルピック氏――ともかく、そのつもりになってみろ。
にんじん――いいや、父さん、僕に望むところが大きすぎるよ。僕あ、地理や、ドイツ語や、物理化学はだめなんだ。とても出来る奴が二、三人いるのさ。ほかのことときたら零なくせに、そればっかりやってるんだもの。こいつらを追い越すなんて不可能だよ。だけど、僕、ねえ、父さん、僕、フランス語の作文でなら、近いうち、だんぜん牛耳って見せるよ。そして、そいつを続けてみせるよ。それが、もし、僕の努力にもかかわらず不成功に終わったら、少なくとも僕はみずから悔ゆるところなしだ。僕は、かのブルタスのごとく誇らかに叫ぶことができる――「おお美徳よ、汝はただ一つの名に過ぎず!」
ルピック氏――うむ、そうだ。わしは、お前がやつらに負けないことを信じている。
フェリックス――父さんは、なんていったい?
エルネスチイヌ――あたし、聞いてなかったわ。
ルピック夫人――母さんも聞いてなかった。どう、もう一度いってごらん、にんじん。
にんじん――うん、なんでもないよ。
ルピック夫人――へえ? なんにもいわなかったのかい? でも、あんなに、赤い顔をして、拳を振り上げ、えらい勢いでぺらぺら喋ってたじゃないか? あの声ときたら村の端まで届くほどだった。その文句をもう一遍いってごらん、みんなが聴いとくと為になるからさ。
にんじん――それにゃ及ばないよ、母さん。
ルピック夫人――いいからさ。誰の話なの? なんていう名前の人だっけ?
にんじん――母さんの知らない人だよ。
ルピック夫人――なおのことじゃないか。さ、お願いだから、戯談はやめて、母さんのいうことをおきき。
にんじん――そんならいうけど、僕たち、今、二人で話をしてたの。父さんが僕に友だちとしての忠告をしてくれたもんで、そのお礼をいうつもりで、ふと、ある考えが浮かんだのさ。つまり、ブルタスっていうローマ人のように、誓いを立てる……つまり美徳のなんたるかを……。
ルピック夫人――つまりつまり、なんだい、そりゃ……。しどろもどろじゃないか。それより、さっきいった文句を、一字一句変えずに、おんなじ調子でいってごらん。母さんは、別にペルウの国をよこせっていってるわけじゃないだろう。だから、それくらい、母さんのためにしてくれたっていいじゃないか。
フェリックス――僕がいってみようか、母さん。
ルピック夫人――いいえ、にんじんがまずいってから、そのつぎ、お前がおいい。両方較べてみるから……さ、にんじん、早くさ。
にんじん(うるみ声で、呟くように)――おお、び、び、びとくよ……なん……なんじは……ただ、ひとつの……な、なにすぎず……。
ルピック夫人――なんともしょうがない。ひとすじ繩じゃ動かないや、この大将は……。母親の気にいることをするくらいなら、叩きのめされたほうがましだと思ってるんだ。
フェリックス――どら、母さん、奴はこういったんだよ――(彼は眼玉をぎょろりとさせ、挑むような視線を投げて)もしも僕がフランス語の作文で一番にならなかったら……(頬をふくらませ、足を踏み鳴らし)僕は、かのブルタスのごとく叫ぶだろう……(両腕を高く挙げ)おお、美徳よ……(その腕を膝の上にどさりと落とし)汝はただ一つの名に過ぎず! こういったんだよ。
ルピック夫人――ひやひや。大出来だ。にんじん、じゃまあ、おめでとう。それにしても、真似は実物だけの値打ちはないんだから、それだけに、お前が片意地なことは、母さん、残念だよ。
フェリックス――だけど、にんじん、そいつをいったのは、ほんとにブルタスだったかい? ケエトオじゃなかったかい?
にんじん――たしかにブルタスだ。「かくて彼は、友の一人が差し伸べし剣に、われとわが身を貫いて死せり」
エルネスチイヌ――にんじんのいう通りだわ。そして、ブルタスは、黄金を杖に忍ばせて、気違いの真似をしたのね。
にんじん――違うよ、姉さん、そんなことをいうと頭がこんぐらかるじゃないか。僕のいうブルタスと姉さんのとは別物だよ。
エルネスチヌ――そうかしら……。それにしてもさ、ソフィイ先生が筆記させる歴史のお講義は、あんたの学校の先生と、値打ちからいって違いはないわよ。
ルピック夫人――そりゃ、どうでもいい。喧嘩はおよし。肝腎なことは、家族の一人に、ブルタスがいるってこった。家には現にいるんだ。にんじんのお蔭で、あたしたちは肩身が広いわけだ。それに、だあれも、自分たちの名誉を知らずにいたんだ。新しいブルタスを崇めようじゃないか。このブルタスはラテン語を司教さんのようにしゃべる。そのくせ、聾者がいても、ミサを二度繰り返してくれない。ぐるっとまわらしてごらん。正面から見ると、今日おろしたばかりの上着にもう汚点をくっつけ、後ろから見ると、ズボンが破けてる。おお神様、どこへまたもぐり込んだんだろう。戯談じゃない、まあ、見てやっておくれ、あのブルタスにんじんの顔つきをさ。しょうがないブルドックだよ、ほんとに!
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サン・マルク寮にて
親愛なる父上
休暇中の魚捕りが祟って、目下気分に動揺を来たしています。腿に太い「釘」――つまり腫物ができたのです。僕は床に就いています。仰向けに寝たきりで、看護婦のおばさんが罨法をしてくれます。腫物は、潰れないうちは痛みますが、あとになると想い出しもしないくらいです。ただ、この腫物の「釘」は、ヒヨコのように殖えるんです。一つがなおると、また三つ飛び出すという具合です。いずれにしても、大したことはないだろうと思います。
休暇中の魚捕りが祟って、目下気分に動揺を来たしています。腿に太い「釘」――つまり腫物ができたのです。僕は床に就いています。仰向けに寝たきりで、看護婦のおばさんが罨法をしてくれます。腫物は、潰れないうちは痛みますが、あとになると想い出しもしないくらいです。ただ、この腫物の「釘」は、ヒヨコのように殖えるんです。一つがなおると、また三つ飛び出すという具合です。いずれにしても、大したことはないだろうと思います。
頓首
親愛なるにんじん殿
其許は目前に初の聖体拝受を控え、しかも教理問答にも通いおることなれば、人類が「釘」に悩まされた事実は其許に始まらざること承知の筈だ。イエス・キリストは、足にも手にもこれを受けた。彼は苦情をいわなんだ。しかも、その「釘」たるや、本物の釘だったのだ。
元気を出すべし。
其許は目前に初の聖体拝受を控え、しかも教理問答にも通いおることなれば、人類が「釘」に悩まされた事実は其許に始まらざること承知の筈だ。イエス・キリストは、足にも手にもこれを受けた。彼は苦情をいわなんだ。しかも、その「釘」たるや、本物の釘だったのだ。
元気を出すべし。
々
親愛なる父上
僕は今日、歯が一本生えたことをお知らせできるのは愉快です。年からいえばまだですが、これはたしかに、早生の智慧歯です。希くは、一本でおしまいにならないことを。そして、希くは、僕の善行と勉強によって、父上の御満足を得んことを。
僕は今日、歯が一本生えたことをお知らせできるのは愉快です。年からいえばまだですが、これはたしかに、早生の智慧歯です。希くは、一本でおしまいにならないことを。そして、希くは、僕の善行と勉強によって、父上の御満足を得んことを。
頓首
親愛なるにんじん殿
ちょうど其許の歯が生えようとしつつある時、余の歯は一本ぐらつきはじめた。そして、昨朝、ついに思い切って抜け落ちた。かように、其許の歯が一本殖えるごとに、其許の父は一本ずつ歯を失う次第だ。それゆえ、すべてもともとにして、家族一同の歯は、その数に於いて変りなし。
ちょうど其許の歯が生えようとしつつある時、余の歯は一本ぐらつきはじめた。そして、昨朝、ついに思い切って抜け落ちた。かように、其許の歯が一本殖えるごとに、其許の父は一本ずつ歯を失う次第だ。それゆえ、すべてもともとにして、家族一同の歯は、その数に於いて変りなし。
々
親愛なる父上
まあ聴いてください。昨日は、僕らのラテン語教師、ジャアク先生の聖名祭です。で、衆議一決、生徒たちは、クラス全体の祝意を表するために、僕を総代に選びました。僕は大いにこれを光栄とし、適宜にラテン語の引用をはさんで、長々と演説の準備をしました。正直なところ、満足な出来栄です。僕は、そいつを大型の罫紙に清書しました。いよいよ当日になり、同僚たちの「やれよ、やれよ」と囁く声に励まされ、ジャアク先生がこっちを向いていない時を見はからって、僕は教壇の前に進み出ました。が、やっと紙をひろげ、せいいっぱいの声で、
尊き師の君よ
と読み上げた瞬間、ジャアク先生は、憤然として起ち上がり、こう怒鳴りました――「早く席に着いて! なにぐずぐずしとる!」
しかたがありません。僕は逃げ出すと、そのまま腰をかけました。同僚たちは、本で顔をかくしています。すると、ジャアク先生は、すごい権幕で、僕にあてました――
「練習文を訳して!」
父上、以て如何んとなさいます。
まあ聴いてください。昨日は、僕らのラテン語教師、ジャアク先生の聖名祭です。で、衆議一決、生徒たちは、クラス全体の祝意を表するために、僕を総代に選びました。僕は大いにこれを光栄とし、適宜にラテン語の引用をはさんで、長々と演説の準備をしました。正直なところ、満足な出来栄です。僕は、そいつを大型の罫紙に清書しました。いよいよ当日になり、同僚たちの「やれよ、やれよ」と囁く声に励まされ、ジャアク先生がこっちを向いていない時を見はからって、僕は教壇の前に進み出ました。が、やっと紙をひろげ、せいいっぱいの声で、
尊き師の君よ
と読み上げた瞬間、ジャアク先生は、憤然として起ち上がり、こう怒鳴りました――「早く席に着いて! なにぐずぐずしとる!」
しかたがありません。僕は逃げ出すと、そのまま腰をかけました。同僚たちは、本で顔をかくしています。すると、ジャアク先生は、すごい権幕で、僕にあてました――
「練習文を訳して!」
父上、以て如何んとなさいます。
親愛なるにんじん殿
其許が他日代議士にでもなればわかることだ。その手の人物はいくらでもいるよ。人各々その畑あり、先生が教壇に立たるるのは、これ明らかに演説をなさるがためであって、其許の演説を聴かれるためではない。
*其許が他日代議士にでもなればわかることだ。その手の人物はいくらでもいるよ。人各々その畑あり、先生が教壇に立たるるのは、これ明らかに演説をなさるがためであって、其許の演説を聴かれるためではない。
親愛なる父上
例の兎はたしかに地歴教師ルグリ先生の処へお届けしておきました。むろん、この贈り物は先生を悦ばせたようです。厚くお礼を申してくれとのことでした。僕がちょうど濡れた雨傘を持って部屋へはいって行ったもんですから、先生は自分でそいつを僕の手から奪い取るようにして玄関に持って行かれました。それから、僕たちは、いろんな話をしました。先生は、僕がその気になれば、学年末には地歴の一等賞を獲得できるのだがといわれました。しかし、こんなことがあるでしょうか。僕は、この話の初めから終りまで、のべつ起ちどおしです。ルグリ先生は、その点以外実にお愛想がいいのですが、とうとう僕に椅子ひとつ薦めずじまいです。
忘却か、はたまた、非礼か?
僕はそれを知りません。ただし、できれば、父上の御意見を伺いたいものです。
例の兎はたしかに地歴教師ルグリ先生の処へお届けしておきました。むろん、この贈り物は先生を悦ばせたようです。厚くお礼を申してくれとのことでした。僕がちょうど濡れた雨傘を持って部屋へはいって行ったもんですから、先生は自分でそいつを僕の手から奪い取るようにして玄関に持って行かれました。それから、僕たちは、いろんな話をしました。先生は、僕がその気になれば、学年末には地歴の一等賞を獲得できるのだがといわれました。しかし、こんなことがあるでしょうか。僕は、この話の初めから終りまで、のべつ起ちどおしです。ルグリ先生は、その点以外実にお愛想がいいのですが、とうとう僕に椅子ひとつ薦めずじまいです。
忘却か、はたまた、非礼か?
僕はそれを知りません。ただし、できれば、父上の御意見を伺いたいものです。
親愛なるにんじん殿
よく不平を言う男じゃ。ジャアク先生が席に着けといえば、それが不平、ルグリ先生が起ったままでいさせれば、それがまた不平か。たぶん其許は、まだ一人前の扱いを受けるには、年が若すぎるのだよ。それに、ルグリ先生が椅子を薦められなんだことは、まあまあ恕すべきだ。其許の丈が低いため、先生はきっと、もう腰かけているものと勘違いされたのだよ。
*よく不平を言う男じゃ。ジャアク先生が席に着けといえば、それが不平、ルグリ先生が起ったままでいさせれば、それがまた不平か。たぶん其許は、まだ一人前の扱いを受けるには、年が若すぎるのだよ。それに、ルグリ先生が椅子を薦められなんだことは、まあまあ恕すべきだ。其許の丈が低いため、先生はきっと、もう腰かけているものと勘違いされたのだよ。
親愛なる父上
近々パリーへお出かけの由、ああ首府見物、僕も行きたいのですが、今度は心のみ父上のお伴をして、その愉しみを分つことにします。僕は学業のためにこの旅行を断念しなければならないことを知っています。しかし、この機会を利用して、父上にお願いがあるのです。本を一、二冊買って来ていただけませんか。今持っている本はみんな暗記してしまいました。どんな本でもかまいません。もとを洗えば、似たりよったりです。とはいいますが、僕、そのうちでも特別に、フランソア・マリ・アルウェ・ド・ヴォルテエルの「ラ・アンリヤアド」と、それから、ジャン・ジャック・ルウソオの「ラ・ヌウヴェル・エロイイズ」とが欲しいんです。もし父上がそれを持って来てくだされば(本はパリーではいくらもしません)、断じて、室長が取り上げるようなことはありません。
近々パリーへお出かけの由、ああ首府見物、僕も行きたいのですが、今度は心のみ父上のお伴をして、その愉しみを分つことにします。僕は学業のためにこの旅行を断念しなければならないことを知っています。しかし、この機会を利用して、父上にお願いがあるのです。本を一、二冊買って来ていただけませんか。今持っている本はみんな暗記してしまいました。どんな本でもかまいません。もとを洗えば、似たりよったりです。とはいいますが、僕、そのうちでも特別に、フランソア・マリ・アルウェ・ド・ヴォルテエルの「ラ・アンリヤアド」と、それから、ジャン・ジャック・ルウソオの「ラ・ヌウヴェル・エロイイズ」とが欲しいんです。もし父上がそれを持って来てくだされば(本はパリーではいくらもしません)、断じて、室長が取り上げるようなことはありません。
親愛なるにんじん殿
御申出の文士は、其許や余らとなんら異なるところなき人間だ。彼らが成したことは其許も成し得るわけだ。せいぜい本を書け。それを後で読むがよかろう。
*御申出の文士は、其許や余らとなんら異なるところなき人間だ。彼らが成したことは其許も成し得るわけだ。せいぜい本を書け。それを後で読むがよかろう。
親愛なるにんじん殿
今朝の手紙には驚き入った。読み返してみたが、やはり駄目だ。第一、文章も平生と違い、言うことも珍妙不可解で、およそ其許の柄でも、また余の柄でもないと思われることばかりだ。不断は、細々とした用事を語り、席順がどうなったとか、先生の特長または欠点がどうとか、新しい級友の名前、下着類の状態、さては、よく眠るとか、よく食うとか、書いてあることはそんなことだ。
余にとっても、実にそれが興味のあることで、今日はまったく何が何やらわからん。いかなる都合でか、目下、冬だというのに、時まさに暮春云々とある。一体なんのつもりなんだ? 襟巻でも欲しいというのか? 手紙に日附はなし、そもそも余に宛てたのか、それとも犬に宛てたのか、てんでわからん。字体もまた変えてあるようだし、行のくばりといい、頭文字の数といい、すべて意想外だ。要するに、其許は、誰かを馬鹿にしているらしいが、察するところ、相手は其許自身に相違ない。余はこれが罪に値するというのではないが、ただ一応の注意をしておくのだ。
今朝の手紙には驚き入った。読み返してみたが、やはり駄目だ。第一、文章も平生と違い、言うことも珍妙不可解で、およそ其許の柄でも、また余の柄でもないと思われることばかりだ。不断は、細々とした用事を語り、席順がどうなったとか、先生の特長または欠点がどうとか、新しい級友の名前、下着類の状態、さては、よく眠るとか、よく食うとか、書いてあることはそんなことだ。
余にとっても、実にそれが興味のあることで、今日はまったく何が何やらわからん。いかなる都合でか、目下、冬だというのに、時まさに暮春云々とある。一体なんのつもりなんだ? 襟巻でも欲しいというのか? 手紙に日附はなし、そもそも余に宛てたのか、それとも犬に宛てたのか、てんでわからん。字体もまた変えてあるようだし、行のくばりといい、頭文字の数といい、すべて意想外だ。要するに、其許は、誰かを馬鹿にしているらしいが、察するところ、相手は其許自身に相違ない。余はこれが罪に値するというのではないが、ただ一応の注意をしておくのだ。
親愛なる父上
前回の手紙につき、急ぎ釈明のため一言します。父上は、あの手紙が韻文になっていることをお気づきにならなかったのです。
[#改ページ]前回の手紙につき、急ぎ釈明のため一言します。父上は、あの手紙が韻文になっていることをお気づきにならなかったのです。

この小さい屋根の下には、これまで代る代る、
、兎、豚がすんでいたのだが、今はからっぽで、休暇中は、いっさいの所有権をにんじんが独占している。彼は易々とそこへはいり込むことができる。小屋にはもう戸がないからだ。ひと叢の蕁麻がひょろ長く伸びて、閾をかくしている。で、にんじんが腹這いになってそれを眺めると、まるで森のようだ。細かい埃が土を覆っている。壁の石が湿気を帯びて光っている。にんじんの髪の毛は、天井をこするのだ。彼はそこにいると自分の家にいる気がし、そこでは邪魔っけな玩具なんかいらない。自分の空想だけでけっこう気が紛れるのである。彼の主な遊びは、小屋の四隅へ、尻で、一つ一つ巣を掘ることだ。それから、手を鏝の代りにして、埃をかき寄せ、これで目塗りをして、からだを植えつけてしまうのだ。
背中をすべっこい壁にもたせかけ、脚を曲げ、両手を膝の上に組み、じっとしていると、まことに工合がよい。実際、これ以上場所を取らないというわけには行くまい。彼は世の中を忘れ、もう、そんなものを怖れない。大きな雷さえ落ちて来なければ、びくともしないだろう。
食器を洗う水が、すぐそばを、流しの口から流れ落ちる、ある時は滝のように、ある時は一滴一滴。そして、彼のほうへひやりとした風を送ってくる。
突然、非常警報だ。
呼び声が近づく。跫音だ。
「にんじん! にんじん!」
一つの顔がこごむ。にんじんは、団子のようになり、地べたと壁の間へめり込み、息を殺し、口を大きく開け、じっと視線を据える。二つの眼が闇を透しているのを感じる。
「にんじん! そこにいるかい?」
顳
がふくれ、喉がつまり、彼は断末魔の叫びをあげかける。「いないや、あの餓鬼……。どこへ行きくさったんだ?」
行ってしまうと、にんじんのからだは、ややのんびりし、元の楽な姿勢にかえる。
彼の考えは、また沈黙の長い路を走り続ける。
すると、騒々しい音が、耳いっぱいにひろがる。天井で、一匹の羽虫が蜘蛛の巣にひっかかり、じたばたしているのだ。蜘蛛は、糸を伝ってすべってくる。腹がパンくずのような白さだ。一時、不安げに、毬のようになってぶらさがっている。
にんじんは、なかば尻を浮かし、眼を放さず、大団円を待っている。そして、この悲劇的な蜘蛛が、身を躍らし、星形の脚をすぼめ、獲物を抱き締めて食おうとする時、にんじんは、分け前でも欲しいように、胸をふるわせ、がばと起ちあがった。
それだけのことだ。
蜘蛛は、上へ引っ返す。にんじんはまた坐った。我れにかえる。兎のような我れにかえる。心持は夜のように暗い。
やがて、彼の夢想は、砂を混えたか細い流れのように、勾配がなくなると、水溜りの形で、止まり、そして澱む。
[#改ページ]

にんじんは、こういう話を聞いた。――「
蛄を捕るのには、
の臓物や牛豚などの屑より、猫の肉が一番いい」ところで、彼は猫を一匹識っていた。年をとり、病みほうけ、そこここの毛が脱け落ちているので、誰も相手にしないのだ。にんじんは、牛乳を一杯御馳走するからといって、そいつを自分のところ、つまり彼の小屋へ招待した。主客二人きりなわけだ。もっとも鼠の一匹やそこら、壁の外で冒険を試みるかもわからない。が、にんじんとしては、牛乳一杯しか出さないことにしてある。彼は茶碗を一隅に置き、猫を押しやって、そしていった――
「たらふくつめ込め」
彼は猫の背筋をなで、数々の愛称で呼び、威勢のいい舌の運動を観察し、ついでほろりとする。
「可哀そうな奴だ。残りをたのしめ」
猫は茶碗をからにし、底をぬぐい、縁を掃除する。そして、もう、甘い唇を舐めずるよりほかはない。
「すんだか。綺麗にすんだか」
にんじんは、相変わらずなでながら、訊ねる。
「もちろん、もう一杯お代りが欲しいだろう。が、これだけしか盗み出せなかったんだ。それに、ちっと早いかちっと晩いかの違いだ……」
こういって、彼は、その額に猟銃の筒先を押しあてる。そして火蓋を切る。
爆音で、にんじんは、眼がくらむ。彼は、小屋まで飛んでしまったかと思う。煙が散った後で、見ると、足許に、猫がたった一つの眼で彼を見据えている。
頭の半分はどっかへ行ってしまった。そして、血が牛乳茶碗の中へ流れ込んでいる。
「死ななかったかな? 畜生、よく狙ったんだがなあ」
にんじんは、そういったまま、身動きもできない。片眼だけが、黄色く光り、それが不安なのだ。
猫は、からだを顫わし、生きていることを示す。が、そこを動こうという努力はいっこう試みない。血を外へこぼさないように、わざと茶碗の中へ流しているらしい。
にんじんは、これで初心ではない。幾多の野禽、家畜、それと一匹の犬を、自分の慰みに、または他人の手助けに殺したことがある。彼は、どんな時どうすればいいかということ――もしも、そいつが苦しみながら生きているなら、猶予をしてはならぬ。心を励まし、気を荒らげ、時と場合では、取っ組み合いの危険を犯さなければならぬということを知っている。さもないと、余計な糞人情がひょこり頭を持ち上げる。卑怯になる。暇つぶしだ。ふんぎりがつかない。
はじめ、彼は用心深くちょっかいを出してみる。それから、尻尾をつかみ、銃床で、首筋を、何度となく、これが最後、これが止めの一撃かと思われるほど、激しくどやしつけた。
瀕死の猫は、脚で、狂おしく虚空を掻き、丸く縮まるかと思うと、長々と反り返り、しかも、声は立てない。
「誰だい、一体、猫が死ぬ時は泣くなんていった奴は……」
にんじんは、焦れる。暇がかかりすぎる。彼は猟銃を投げ出す。両腕で猫を抱きかかえる。そして、爪の襲撃に応えながら、歯を喰いしばり、血を湧き立たせ、ぎゅっと首を締めつけた。
が、しかし、自分も、締めつけられる思いだ。よろめき、へとへとになり、地べたに倒れ、顔と顔とを押しつけ、両眼は猫の片眼に注いだまま、坐ってしまう。
にんじんは、今、鉄の寝台に横たわっている。
両親と、急報を受けたその知合いの連中が、小屋の低い天井の下を這うようにして、惨劇の行われた場所を検分した。
「どうでしょう、心臓の上で猫を揉みくしゃにしている、それを無理に引き放そうっていうんで、あたしゃ、汗をかきましたよ。それでいて、このあたしをそんなふうに抱き締めてくれたことなんか、ありゃしないんですからね」
この残虐の歴史は、やがて、家族の夜伽を通じ、昔噺さながらの興をそえることになるのだが、ルピック夫人が、ここでその説明をしている間、にんじんは眠り、そして夢を見ているのだ――
……彼は小川に沿うて往きつ戻りつしている。お定まりの月の光が、ちらちらと動いて、女の編針のように入り交る。
玉網の上には、猫の肉が、澄んだ水を透して燃えあがっている。
白い靄が草原をすれすれに這い、どうかすると、瓢々たる幽霊の姿を隠している。にんじんは、両手を背中に組み、幽霊などちっとも怖くないという証拠を見せる。
牛が一匹近寄って来る。立ち止まる。溜息を吐く。急に逃げ出す。四つの木履を空まで鳴り響かせ、やがて消え失せる。
何という静かさだ! もしこの饒舌な流れが、婆さんの会合みたいに、彼一人の耳へ、べちゃくちゃ、こそこそと、きりのないお喋りを聞かせさえしなければ……。
にんじんは、口を噤ませるために、それを打とうとでもするように、そっと玉網の棹を引き上げると、これはまた、蘆の繁みから、大きな図体をした
蛄がいくつとなく現われてくる。後から後から、まだ殖える。どれもこれも、まっすぐに突っ立ち、ぎらぎらと、水から上がる。
にんじんは苦悶に打ちひしがれ、逃げることすらできない。
蛄は、彼を取り囲む。喉をめがけて、伸び上がってくる。
ぱちぱち音を立てる。
もう、彼らは、鋏をいっぱいにひろげているのだ。
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にんじんは、最初、もやもやした丸いものが、飛んだり跳ねたりしているのしかわからなかった。それが、けたたましい、どれがどれやらわからない声を立てる。学校の子供が、雨天体操場で遊んでいる時のようだ。そのうちの一つが彼の脚の間へ飛び込む。ちょいと気味がわるい。もう一つが、天窓の明りの中を躍り上がった。仔羊だ。にんじんは、怖かったのがおかしく、微笑む。眼がだんだん暗闇に慣れると、細かな部分がはっきりしてくる。
分娩期が始まっている。百姓のパジョオルは、毎朝数えてみると、仔羊が二、三匹ふえている。それは、母親たちの間をうろつき、不器用なからだつきで、粗く彫った四本の棒切れのような脚を、ぶるぶる顫わせている。
にんじんは、まだ撫でてみる気がしない。そのうちで、ずうずうしいのが、そろそろ彼の靴をしゃぶりはじめる、あるいはひとすべの枯草を口に咬え、前足を彼のほうへのせかける。
年を取った、一週間目ぐらいのやつは、後半身にやたら力を入れすぎて、からだが伸びたようになり、宙に浮きながら電光形に歩く。一日たったやつは、瘠せていて、角ばった膝をがくりと突き、すぐ、元気いっぱいに起ち上がる。生れたての赤ん坊はねばねばだ。舐めてないのだ。その母親は、水気で膨らんだ財布が、ゆさゆさ揺れる。それが邪魔なので、子供を頭ではね飛ばす。
「不都合な母親だ」
と、にんじんはいう。
「畜生でも人間でも、そこはおんなじさ」
と、パジョオルはいう。
「きっと、乳母にでも預けたいんだろう、こやつ」
「まあ、そんなとこさ」と、パジョオルがいう――「一匹から上になると、哺乳器ってやつをあてがわにゃならん。薬屋で売ってる、ああいうやつさ。長くは続かねえ。母親が不便がるだよ。もっとも、艶消しにしとくだ」
彼は、親羊を抱き上げ、檻の中へ、そいつを別に入れる。頸へ藁のネクタイを結びつける。逃げた時にわかるようにだ。仔羊は、その後について行った。牝羊は鑢のような音を立てて食っている。すると、仔羊は、身顫いをし、軟らかな脚をふんばり、鼻先へべろべろのものをいっぱいくっつけ、哀れっぽい調子で、乳をしゃぶりたがる。
「この母親にでも、いまにまた、人情ってものがもっと出るのかねえ」
にんじんはいう。
「尻がもともと通りなおりゃ、むろんさね。お産が重かっただから……」
パジョオルがいう。
「僕は、やっぱり、さっきいったようにしたほうがいいと思うなあ。どうして、しばらくの間、子供の世話をほかの牝羊にさせないのさ」
「あっちで断らあね」
なるほど、小屋の隅々から、母親たちの啼き声が交錯し、授乳の時刻を告げている。それが、にんじんの耳には一律単調であるが、仔羊にとってはどこかに違いがあるのだ。なぜなら、めいめいが、まごつきもせず、一直線に母親の乳房へ飛びつくのである。
「ここじゃ、子供を盗んだりする女はいねえ」
パジョオルがいう。
「不思議だ、こんな毛糸の玉に、家族っていう本能があるのは……」にんじんはいう――「なんて説明するかだ。鼻が鋭敏なせいかも知れない」
彼は、試しに、どれか一つ、鼻を塞いでみようと思ったくらいだ。
彼はまた、それからそれへ、人間と羊とを比較した。そして、仔羊の名前が知りたくなった。
仔羊たちが、ごくごく乳を吸っている間、おっ母さん連は、脇腹を鼻の頭で激しく小突かれながら、安らかに、素知らぬ顔で、口を動かしている。にんじんは、秣槽の水の中に、鎖のちぎれたのとか、車の轍とか、すり切れたシャベルなどがはいっているのを見た。
「こいつは綺麗だ、この秣槽は……」と、にんじんは、小賢しい調子でいった――「なるほど。金物を入れて、血を殖やそうってわけだね」
「そのとおり。おめえだって、丸薬を飲まされるだろう」
彼は、にんじんに、その水を飲んでみろと勧める。もっと滋養分をつけるために、彼は、その中へなんでも抛り込むのである。
「ダニ公をやろうか、ダニ公を……」
と、パジョオルはいう。
「ああ、おくれ。ありがたいぞ」
にんじんは、何か知らずに、そういってみた。
パジョオルは、母羊の深い毛をかき分けて、爪先で、一匹の、黄色い、丸い、肥った、満腹らしい、すごく大きなダニをつかまえた。パジョオルに従えば、この手のダニが二匹もいれば、子供の頭ぐらい李のように食べてしまうというのだ。彼は、そいつをにんじんの掌へのせた。そして、もし戯談なり悪戯なりがしたければ、兄貴や姉さんの、頸筋か髪の毛の中を這わしてやれと勧める。
もう、ダニは仕事にかかり、皮膚を襲い出した。にんじんは指にちくちくと痛みを感じた。霙が降っているようだ。やがて、手頸、それから肱だ。ダニが無数に殖え、腕から肩へ食い上がって行く気持だ。
ええい、どうにでもなれ! にんじんは、そいつを握りしめた。潰してしまったのだ。で、その手をパジョオルが見てないうちに、牝羊の背中へこすりつけた。
失くなしたといえばいいのだ。
それから一時、にんじんは、じっと、羊の啼き声を聴いていた。それが、だんだん鎮まって行く。と、まもなく、乾草がのろい頤の間で噛み砕かれる鈍い音のほか、なんにも聞こえなくなる。
縞の消えた広袖マントが、飼棚の柵にひっかかって、それが、ただ一つ、羊の番をしているらしく見える。
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どうかすると、ルピック夫人は、にんじんにその名づけ親のところへ遊びに行き、泊まってくることを許すのである。この名づけ親というのは、無愛想な、孤独な爺さんで、生涯を、魚捕りと葡萄畑で過ごしている。彼は誰をも愛していない。我慢ができるのは、にんじん一人きりだ。
「やあ、来たな、坊主」
と、彼はいう。
「来たよ、おじさん……。釣竿の用意、しといてくれた?」
にんじんは、そういうが、接吻はしない。
「二人で一つありゃたくさんだ」
にんじんは納屋を開けてみる。別に一本、釣竿の用意ができている。こうして、彼は、にんじんをからかうのが常であるが、にんじんのほうでは、万時呑み込んで、もう腹を立てない。老人のこの癖も、二人の間柄をややっこしくするようなことはまずないのだ。彼が「そうだ」という時は、「そうでない」という意味、そのあべこべが、またそうなのである。それを間違えさえしなければいい。
「それが面白いなら、こっちはどうだっておんなじだ」
にんじんは、そう考えている。
で、二人は、相変わらず仲善しだ。
この爺さん、平生は一週に一度、一週間分の炊事をするだけだが、今日は、にんじんのために、隠元豆の大鍋を火にかけ、それに、ラードの見事な塊りを抛り込む。で、一日の予定行動をはじめる前に、生葡萄酒を一杯、無理に飲ますのである。
さて、彼らは、釣りに出かける。
爺さんは水の岸に腰をおろし、テグスを手順よくほどいてゆく。彼は、敏感な釣竿を重い石で押さえておく。そして、大きなやつしか釣り上げない。魚は、手拭にくるんで日蔭へ転がす。まるで赤ん坊のおむつだ。
「いいか、浮子が三度沈まなけりゃ、糸を揚げるじゃないぞ」
にんじん――どうして、三度さ?
おじさん――最初のは、なんでもない。魚がせせっただけだ。二度目が、ほんものだ。呑み込んだんだ。三度目は、もう大丈夫。離れっこない。いくらゆっくり揚げてもかまわんよ。
にんじんは河沙魚を釣るのが面白い。靴を脱ぎ、川にはいり、足で砂の底をかきまわし、水を濁らせてしまう。馬鹿な河沙魚は、すると、駈け寄ってくる。にんじんは糸を投げ込むごとに、一尾ずつ引き上げるのである。おじさんに、それを知らせる暇もない。「十六……十七……十八……」
おじさんは、頭の真上に太陽が来ると、昼飯に帰ろうという。彼は、にんじんに白隠元をつめ込ませる。
「こんな美味いものはないさ」と、おじさんはいう――「しかし、どろどろに煮たやつが、わしは好きだ。噛むとごりごりするやつ、まるで、鷓鴣の羽根肉にもぐってる鉛の弾丸みたいに、がちりと来るやつ、あれを食うくらいなら、鶴嘴の先を齧ったほうがましだ」
にんじん――こいつは、舌の上で溶けるね。いつも、母さんのこしらえるのは、そう不味かないけど……。でも、こんな具合にはいかないや。クリームを倹約するからだよ、きっと。
おじさん――やい、坊主、お前の食べるところを見てると、わしゃうれしいよ。おっ母さんの前じゃ、腹いっぱい食えないだろう。
にんじん――母さんの腹具合によってだよ。もし母さんがお腹をすかしてれば、僕も、母さんの腹いっぱい食うんだ。自分の皿へ取るだけ、僕の皿へも、うんとつけてくれるからね。しかし、母さんが、もうおしまいだっていう時は、僕もおしまいさ。
おじさん――もっとくれっていうんだ、そういう時は……阿呆!
にんじん――言うは易しさ、おじさん。それに、いつも饑いくらいでよしといたほうがいいんだよ。
おじさん――わしは子供がないんだが、猿の尻でも舐めてやるぜ、その猿が自分の子供なら……。なんとかしろよ。
彼らは、その日の日課を葡萄畑で終えるのである。にんじんは、そこで、ある時はおじさんが鶴嘴を使うのを眺め、一歩一歩その後をつけ、ある時は、葡萄蔓の束の上で寝ころび、空を見上げて柳の芽を吸うのである。[#改ページ]

彼はおじさんと一緒に寝はするが、それは、気持よく眠るためではない。部屋は寒いには寒い。しかし羽根の寝床では暑すぎるのだ。それに、羽根は、おじさんの年取ったからだには柔らかく当りもしようが、にんじんは汗びっしょりになってしまう。が、ともかく、彼は母親のそばを離れて寝られるわけだ。
「おっ母さんが、そんなに怖いのか」
と、おじさんはいう。
にんじん――というよりも、母さんには、僕がそれほど怖くないんだよ。母さんが兄貴を打とうとすると、兄貴は箒の柄へ飛びついて、母さんの前へ立ちふさがるんだ。母さんは、手が出せずに、それっきりさ。だもんで、兄貴に向かっちゃ、情味で行くよりしょうがないと思ってる。それでこういうのさ――フェリックスはとても感じやすい性質だから、打ったり叩いたりしてもなんにもならない。にんじんのほうは、まだそれでいいけれどって……。
おじさん――お前も箒を試してみりゃいいのに……。
にんじん――そいつがやれりゃ、なんでもないさ。兄貴と僕とは、よく擲り合いをするんだ。本気でやることもあるし、ふざけてやる時もあるけど……。どっちもおんなじぐらい強いんだぜ。だから僕だって、兄貴のように、打たれないですむわけなんだ。でも、母さんに向かって、箒を手に持つなんてことをしてごらん。母さんは、僕がそいつを取ってやるんだと思うよ。箒は僕の手から母さんの手に渡る。すると、母さんは、僕をひっぱたく前に、たぶん、「ご苦労」っていうだろう。
おじさん――眠ろよ、坊主、もう眠ろ!
両方とも、眠れない。にんじんは、寝返りを打つ。息がつまる。空気を捜す。爺さんは、それが可哀そうなのだ。突然、にんじんがうとうとしはじめた頃、爺さんは、彼の腕をつかまえる。
「そこにいたか、坊主……。ああ、夢を見た」と、爺さんはいう――「わしゃ、お前がまだ、泉の中にいるんだと思った。覚えてるかい、あの泉のことを?」
にんじん――覚えてるどころじゃないさ。ねえ、おじさん、小言を言うわけじゃないけど、幾度も聞くぜ、その話は……。
おじさん――なあ、坊主、わしゃ、あのことを考えると、からだじゃう、顫えあがるよ。わしは、草の上で眠ってた。お前は泉のへりで遊んでいた。お前はすべった。お前は落ち込んだ。お前は大きな声を立てた。お前はもがいた。それに、わしは、なんたるこっちゃ……なにひとつ、聞こえやせん。その水といったら、猫が溺れるほどもないのだ。だが、お前は、起き上がらなんだ。災難は、つまり、そこからさ。一体全体、起き上がることぐらい考えつかなかったかい?
にんじん――泉の中で、どんなことを考えてたか、僕が覚えてると思う、おじさん?
おじさん――それでも、お前が水をばちゃばちゃいわせる音で眼が覚めた。やっとこさで間に合ったんだ。この糞坊主! 可哀そうに、ポンプみたいに水を吐くじゃないか。それから、着物を着替えさせた。ベルナアルの日曜に着る服を着せてやったんだ。
にんじん――ああ。あいつは、ちかちかしたっけ。からだを掻きづめさ。馬の毛で作った服だよ、ありゃ。
おじさん――そうじゃないよ。だが、ベルナアルは、お前に貸してやる洗いたてのシャツがなかったんだ。わしは、今、こうして笑ってるが、あれでもう一、二分、うっちゃらかしといてみろ、起こした時は、お前は死んでるんだ。
にんじん――今頃は、はるか遠くにいるわけだね。
おじさん――よせ、こら! わしも、つまらんことをいい出した。で、それからっていうもの、夜、ぐっすり眠った例しがないのだ。一生安眠を封じられても、こりゃ、天罰だ。わしは文句をいうところはない。
にんじん――僕は、文句をいいたいよ、おじさん。眠くってしょうがないんだ。
おじさん――眠ろよ、坊主、眠ろよ!
にんじん――眠ろっていうなら、おじさん、僕の手を放してよ。眠っちまったら、また貸したげるから……。それから、この脚をそっちへ引っこめとくれよ。毛が生えてるんだもの。人が触ってると、僕、眠られないんだ。
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しばらく寝つかれないで、彼らは羽根布団の中でもぞもぞしている。おじさんがいう――
「坊主、眠ってるかい?」
にんじん――ううん。
おじさん――わしもだ。どら、起きてやろうかな。お前も、よかったら、蚯蚓捕りに行こう。
「よかろう」と、にんじんはいった。
二人は寝台から飛びおり、着物をひっかけ、カンテラに火を点け、そして、裏庭へ出る。
にんじんがカンテラを提げ、おじさんが半分泥のつまったブリキ罐を持って行く。この中へ、釣り用の蚯蚓を蓄えて置くのである。それから、その上へ湿った苔を載せる。これで、蚯蚓がなくなることはない。一日雨が降ったような時は、収獲は豊富である。
「踏みつけないように気をつけろ」と、彼は、にんじんにいう――「そっと歩けよ。わしも風邪を引きさえしなきゃ、布靴を穿くんだ。ちょっとした音でも、蚯蚓のやつ、穴へ引っ込んじまうから……。奴さん、家から這い出しすぎた時でなけりゃつかまらんのだ。急に押さえて、すべらないくらいに、そっとつまむんだぜ。半分頭をつっこんだら、放しちまえ。ちぎるといかん。切れた蚯蚓は、なんの役にも立たんのだ。第一、ほかのやつを腐らしちまう。それに、品のいい魚は、そんなものは見向きもしない。漁師の中には、蚯蚓をけちけちするのがいる。こりゃ、間違いだ。丸ごと、生きていて、水の底で縮こまる蚯蚓でなけりゃ、上等な魚は釣れんのだ。魚は、そいつが逃げるとみて、後を追っかけ、安心しきって、ぱくりとやる」
「どうも、失敗ってばかりいる」と、にんじんは眩く――「それに奴らのきたねえ涎で、こら、指がべたべたすらあ」
おじさん――蚯蚓はきたなかない。蚯蚓は世の中で一番きれいなもんだ。奴あ、土を食って生きてる。だから、潰してみろ、土を吐き出すだけだ。わしだったら、食ってみせる。
にんじん――僕だったら、おじさんに進呈すらあ。食べてごらん。
おじさん――こいつらは、ちっとでけえや。まず、火であぶらにゃ。それから、パンの上へなすりつけるんだ。だが、小さいのなら、生で食うぜ。そら、李についてる奴よ、いってみりゃ……。
にんじん――うん、そんなら知ってるよ。だから、家のもんがおじさんをいやだっていうんだ。母さんなんか、ことにそうだ。おじさんのことを考えると、胸が悪くなるってさ。僕あ、真似はしないけど、おじさんのすることは好いと思ってるよ。だって、おじさんは、文句をいわないもの。僕たちは、まったく意気投合してるんだ。
彼は、カンテラを挙げ、李の枝を引き寄せ、李をいくつかちぎる。そして、良いのを自分が取っておき、虫のついたやつをおじさんに渡す。すると、おじさんは、順々に、丸いのをそのまま、種ごと、ひと息に呑み込んで、そしていう。「こういうのが、一等うまいんだ」
にんじん――なに、僕だって、しまいに、それくらいのことはするさ。そんなのをおじさんみたいに食べてみせるよ。ただ、あとが臭いといやなんだ。母さんが、もしキスした時、気がつくもの。
「臭いもんか」と、おじさんはいう。そして、にんじんの顔へ息を吐きかける。
にんじん――ほんとだ。煙草の臭いがするっきりだ。こりゃひどい、鼻じゅういっぱい臭うぜ。……僕、おじさんは大好きだ、いいかい。だけど、もし煙管を吸わなかったら、もっと、それこそ、ほかの誰よりも好きなんだがなあ。
おじさん――いうなよ、坊主……。こいつは、人間の持ちをよくするんだ。
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「あのね、母さん……」と、姉のエルネスチイヌは息を切らしてルピック夫人にいいつけた――「にんじんがね、また原っぱで、マチルドと夫婦ごっこをしてるわよ。フェリックス兄さんが着物を着せてんの。だって、あんなことしちゃいけないんでしょう」
なるほど、原っぱでは、小娘マチルドが、白い花をつけた牡丹蔓の衣裳で、じっとしゃちこばっていた。おめかしは十分、これならまぎれもなく、オレンジの枝で粧われた花嫁そっくりだ。しかも、つけたわ、つけたわ、疝痛の薬だけに、世の中の疝痛が残らず止まるほどだ。
そこでこの牡丹蔓だが、まず頭の上で冠形に編まれ、それが波を打って頤から、背中、さては腕に沿って垂れさがり、絡み合い、胴に捲きつき、やがて地べたを這って尻尾となる。それをまたフェリックスが延ばすこと延ばすこと。
やがて、彼は、後すざりをしていう――
「もう動いちゃいけないよ。さ、お前の番だ、にんじん!」
今度は、にんじんが、新郎の衣裳をつける番だ。同じように牡丹蔓を捲きつける。が、ところどころへ、罌粟、山査子の実、黄色いたんぽぽをぱっとあしらう。マチルドと区別をするためだ。彼は、笑いたくない。で、三人とも、それぞれ大真面目である。彼らは、儀式儀式に応わしい空気というものを心得ている。葬式では、始めから終りまで悲痛な顔をしていなければならぬ。婚礼では、ミサがすむまで厳粛でなければならぬ。さもないと、何ごっこをしても面白くないのである。
「手をつないで!」と、フェリックスはいう――「前へ進め! 静かに!」
彼らは、足をそろえ、からだを離して歩き出す。マチルドは、お引摺りが足に纏わりつくと、自身でそれをまくり上げ、指の間に挾む。にんじんは、片足を上げたまま、優しく、彼女を待っている。
兄貴のフェリックスは、彼らを原っぱじゅうひっぱりまわす。彼は後向きになって歩くのである。両腕を振子のように振って、拍子を取る。彼は、自分が村長のつもりで彼らに会釈をし、それから、司教らしく祝福を与え、ついで、友だちとしてお祝いを述べ、お世辞をいう。それからまたヴァイオリン弾きになり、棒切れと棒切れとをこすり合わす。
彼は、二人を縦横に歩かせる。
「止まれっ!」と彼はいう――「ずれて来やがった」
が、マチルドの花冠を平手で押しつぶすだけの暇で、また、行列は動き出す。
「あ痛あ!」
マチルドは、顰め面をして叫ぶ。
牡丹蔓の節くれが髪の毛をひっぱるのだ。兄貴のフェリックスは、髪の毛ごとそいつを取り除ける。また続行だ。
「ようし……。さあ、婚礼がすんだ。キスし合って……」
二人が遠慮していると、
「おい、どうしたんだい。キスしないかよ。婚礼がすんだら、キスするんだよ。両方から寄っかかって行きな。なんとかいうんだぜ。まるで棒杭みたいだ、お前たちゃ」
自分が上手とみて、彼は、二人の不器用さを鼻で嗤う。多分もう、甘い言葉ぐらい口にしたことがあるのだろう。彼はそこでお手本を示す。まっ先にマチルドにキスをする。骨折り賃というところだ。
にんじんは勇気を奮い起こす。蔓草の隙間からマチルドの顔を捜し、その頬に唇をあてる。
「戯談だと思わないでね。僕、ほんとにお前と夫婦になってもいいや」
マチルドは、されたとおり、彼にキスを返す。たちまち二人ともぎごちなく、羞んで、真っ赤になる。
兄貴のフェリックスは、そろそろ敵意を示しだす。
「やあい、照れた、照れた……」
彼は二本の指をこすり合わせ、唇を中へ捲き込み、足をじたばたさせた。
「ずうずうしい奴! ほんとに、その気になってやがらあ」
「第一、照れてなんかいやしない」と、にんじんはいった――「それから、囃したけりゃ、囃したっていいよ。僕がマチルドと夫婦になるのを、兄さん、いけないっていえるかい。母さんがいいっていえばだよ」
しかし、折も折、その母さんが、自分で、「そいつはいかん」と返事をしに来た。彼女は原っぱの界の木戸を押し開ける。そして、告げ口をしたエルネスチイヌを従えて、はいって来た。生籬のそばを通る時、彼女は茨の枝をへし折り、棘だけ残して葉をもぎ取った。
彼女は、まっすぐにやって来る。嵐と同様、避けることはできない。
「ぴしゃっと来るぞ」
兄貴のフェリックスはいった。もう原っぱの端まで逃げて行き、からだを隠して眼だけ出している。
にんじんは決して逃げない。平生から、臆病ではあるが、早く始末をつけたほうがいいのだ。それに、今日は、なんとなく勇猛心が起こっている。
マチルドは、慄えながら、寡婦のようにしゃくり泣きをしている。
にんじん――心配しないでいいよ。母さんって人、僕を識ってるんだ。僕だけとっちめようてんだ。万事引き受けるよ。
マチルド――そりゃいいのよ。だけど、あんたの母さん、なんでもうちの母さんにいいつけるわ。うちの母さん、あたしを打つわ。
にんじん――折檻する。セッカンするっていうんだよ、親が子供をぶつ時は……。お前の母さん、折檻するかい?
マチルド――ええ、時々……。事柄によるわ。
にんじん――僕なんか、もうきまってるんだ。
マチルド――だけど、あたし、なんにもしやしないわ。
にんじん――いいったら……。そら、エヘン。
ルピック夫人は近づいた。もう逃げようったって逃がさない。暇は十分にある。彼女は歩を緩める。側へ寄れるだけ寄る。姉のエルネスチイヌは、これ以上近寄ると、棒がはね返って来た時に危いと思い、行動の中心地帯を境として、その線上に立ち止まる。にんじんは、「お嫁さん」の前に立ちふさがる。「お嫁さん」は、ひときわ激しく泣き出す。牡丹蔓の白い花が入り乱れる。ルピック夫人は茨の枝を振り上げる。まさに打ち降ろそうという時だ。にんじんは、蒼ざめ、腕を組み、そして首を縮め、もう腰のへんが熱く、脹脛があらかじめひりひり痛い。が、彼は、傲然といい放つ――「いいじゃないか、そんなこと……戯談なんだもの……」
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翌日、にんじんはマチルドに会う。彼女は彼にいう――
「あんたんちの母さん、うちの母さんにあのことをいいつけに来たわよ。あたし、うんとお尻をぶたれちゃった。あんたは?」
にんじん――僕、どうだったっけ、忘れちゃった。だけど、お前、ぶたれるわけはないよ。僕たちなんにも悪いことしやしないんだもの。
マチルド――ええ、そうよ。
にんじん――僕、お前と夫婦になってもいいっていったろう、あれ、真面目にそういったんだよ、ほんとだよ。
マチルド――あたしだって、あんたと夫婦になってもいいわ。
にんじん――お前は貧乏で、僕は金持ちだから、ほんとなら、お前を軽蔑しちゃうんだけど、心配しないだっていいよ。僕、お前を尊敬してるから……。
マチルド――お金持ちって、いくらもってんの。
にんじん――僕んちには、百万円あるよ。
マチルド――百万円って、どれくらい?
にんじん――とてもたくさんさ。百万長者っていや、いくらお金を使ったって使いきれないんだから……。
マチルド――うちの父さんや母さんは、お金がちっともないって、よくこぼしてるわ。
にんじん――ああ、うちの父さんや母さんだってそうだ。誰でも、人に同情されようと思ってこぼすんだ。それと、妬んでる奴にお世辞を使うのさ。だけど、僕たちは、金持ちだってことは、ちゃんとわかってるんだ。毎月一日には、父さんが一人っきりでしばらく自分の部屋へひっこんでる。金庫の錠前がギイギイって音を立てるのが聞こえるんだ。夕方だろう、それが……。まるで青蛙が鳴くみたいさ。父さんは誰あれも知らない――母さんも、兄貴も、姉さんも誰あれも知らない文句をひと言いうんだ。それを知っているのは、父さんと僕とだけさ。すると、金庫の扉が開く。父さんは、そん中からお金を出して、お勝手のテーブルの上へ置きに行く。なんにもいわずにさ。ただ、お金をがちゃがちゃっていわせるだけだ。それで、竈の前で用をしてる母さんに、ちゃんとわかるんだ。父さんが出て行く。母さんは後ろを振り向く。お金をかき集める。毎月毎月、そのとおりのことをするんだ。それが、もうずいぶん長く続いてるもんだもの、金庫の中に、百万円の上はいっている証拠だろう。
マチルド――で、開ける時に、父さんがいう文句って、そりゃ、どんな文句?
にんじん――どんなって、訊くだけむだだ。僕たちが夫婦になったら教えてあげるよ。ただ、どんなことがあっても人にしゃべらないって約束しなきゃ……。
マチルド――今、すぐ教えて……。そしたら、今すぐ、人にしゃべらないって約束するわ。
にんじん――だめだよ。父さんと僕との秘密だもの。
マチルド――あんなこといって、自分でも知らないくせに……。知ってるなら、あたしにいえるわけだわ。
にんじん――おあいにくさま、知ってますよだ。
マチルド――知らないよだ。知らないよだ。やあい、やあい、いい気味だ。
「よし、知っていたら、何よこす」と、にんじんは、厳かにいった。
「なんでもいいわ。なに?」
マチルドは、ためらい気味だ。
「僕がさわりたいところへさわらせろよ。そしたら、文句を教えてやら」
にんじんが、こういうと、マチルドは、相手の顔を見つめた。よくわからないのだ。彼女は、狡そうな灰色の眼を、思い切り細くした。さあ、こうなると、知りたいことが、一つでなく、二つになったわけだ。
「先へ文句を教えてよ、にんじん」
にんじん――じゃ、指切りだよ。教えたら、僕がさわりたいところへさわらせるね。
マチルド――母さんが、指切りなんかしちゃいけないって。
にんじん――じゃ、教えてやらないから。
マチルド――いいわよ、そんな文句なんか……。あたし、もうわかっちゃった。そうよ、もうわかっちゃったわ。
にんじんは、しびれを切らし、手っ取り早く事を運ぶ。「ねえ、マチルド、わかってるもんか。ちっともわかってやしないや。だけど、君がしゃべらないっていうなら、それでいいよ。父さんが金庫を開ける前にいう文句はね、いいかい、オペレケニュウ。さあ、もうさわってもいいね」
「オペレケニュウ! オペレケニュウ!」――一つの秘密を知った悦びと、それがいいかげんじゃないかという心配とで、マチルドは、後すざりをする――「ほんと? あたしをだましてんじゃないの?」
で、にんじんが、返事もせずに、いきなり片手を伸ばして向かって来るので、彼女は逃げ出す。彼女のケケケケという笑い声がにんじんの耳にはいる。
彼女の姿が消えると、後ろで、誰かが嘲笑う声がする。
後ろを振り向く。廏の天窓から、お屋敷の下男が頭を出し、歯を剥いている――
「見たぞ、にんじん。おっ母さんにいいつけちゃろう」
にんじん――ふざけてたんだよ、ピエエルおじさん。あの娘をつかまえようと思ったんじゃないか。オペレケニュウってのは、僕がいいかげんに作った名前だよ。第一、ほんとのことは、僕だって知りゃしないよ。
ピエエル――安心しな、にんじん、オペレケニュウはどうだっていいんだ。おめえのおっ母さんにそんなこたあいやしねえ。それより、もう一つのことをいわあ。
にんじん――もう一つのことって?
ピエエル――そうよ、もう一つのことよ。おらあ、見たぞ、見たぞ、にんじん。そうじゃねえっていってみな。へえ、年にしちゃ、やるぞ、おめえ。いいから、みてろ、今夜、耳がどうなるか。いやってほどひっぱられるぞ、やい!
にんじんは、別にいうべきことはない。髪の毛の自然な色が消えたかと思うほど顔を赤くし、両手をポケットにつっこみ、鼻をすすりながら、蟇のように遠ざかって行く。[#改ページ]

にんじんは、ひとり、中庭で遊んでいる。それも、ルピック夫人が窓から見張りのできるように、まん中にいるのである。で、彼は、神妙に遊ぶ稽古をする。そこへちょうど、友だちのレミイが現われた。同い年の男の子で、跛足をひき、しかも、しょっちゅう走ろうとばかりする。自然わるい方の左の脚は、もう一方の脚に引きずられ、決してそれに追いつかない。彼は、笊をもっている。そしていう――
「来ない、にんじん? うちのお父つぁんが川へ網をかけてるんだ。手伝いに行こう。そいで、僕たちは笊でオタマジャクシをしゃくおうよ」
「母さんに訊けよ」
と、にんじんは答える。
レミイ――どうして? 僕がかい。
にんじん――だって、僕だと許しちゃくれないからさ。
ちょうど、ルピック夫人が、窓ぎわに姿を現わす。レミイはいう――「おばさん、あのねえ、すみませんけど、僕、オタマジャクシ捕りに、にんじんを連れていっていいですか」
ルピック夫人は、窓ガラスに耳を押しつける。レミイは、声を張り上げて、もう一度いい直す。ルピック夫人は、わかった。口を動かしているのが見える。こっちの二人には、なんにも聞こえない。で、顔を見合わせて、もじもじする。しかし、ルピック夫人は、頭を振っているではないか。明らかに、不承知の合図をしているのだ。
「いけないってさ」――にんじんはいう――「きっと、後で、僕に用事があるんだろう」
レミイ――じゃあ、しょうがないや。とっても面白いんだけどなあ。なあんだい、いけないのか。
にんじん――いろよ。ここで遊ぼう。
レミイ――いやなこった。オタマジャクシ捕りに行ったほうが、ずっといいや。暖かいんだもん、今日は……。僕、笊に何杯も捕ってみせるぜ。
にんじん――もう少し待ってろよ。母さんは、いつでも、はじめいけないっていうんだ。後になって、どうかすると、また意見が変わるんだ。
レミイ――じゃ、十五分かそこらだよ。それより長くはいやだぜ。
二人とも、そこに突っ立ったまま、両手をポケットに入れ、素知らぬ顔で、踏段のほうに気を配っている。と、やがて、にんじんは、レミイを肱で小突く。「どうだ、いったとおりだろう」
なるほど、戸が開いて、ルピック夫人が、片手ににんじんのための笊を持ち、踏段を一段おりた。が、彼女は、不審げに、立ち止まる。
「おや、お前さんまだいたの、レミイ? もう行っちまったのかと思った。お父つぁんにいいつけるよ、そんなとこで無駄遊びをしてると……」
レミイ――おばさん、だって、にんじんが待ってろっていうんだもの……。
ルピック夫人――なに、そりゃほんとかい、にんじん?
にんじんは、そうだともそうでないともいわない。自分ながら、もうわからないのだ。彼はルピック夫人のどこからどこまでを識り抜いている。だからこそ、今もまた、彼女の腹の中を見抜いたわけだ。ところが、このレミイの間抜野郎が、事を面倒にし、なにもかもぶち毀してしまった。にんじんは、もう結末がどうであろうとかまわないのである。彼は、足で草を踏みにじり、そっぽを向いている。「そんなこというけど、考えてごらん」と、ルピック夫人はいう――「母さんは平生でも、一度いったことを取り消したりなんかしないだろう」
その後へは、ひと言も附け加えない。
彼女は、また踏段を登って行く。ついでに笊も持ってはいってしまう。にんじんがオタマジャクシをしゃくうために持って行く笊だ。そして、そいつは、彼女がわざわざ生の胡桃をあけて来たのである。
レミイは、もう、はるか彼方にいる。
ルピック夫人は、ほとんど戯談口をきかない。それでよその子供たちは、彼女のそばへ来ると用心をする。まず学校の先生程度に怖ろしいのである。
レミイは、向こうのほうを、川を目がけて、一目散に走っている。その駈けっぷりの早さときたら……相変わらず遅れる左の足が、道の埃へ筋をつけ、踊り上がり、そして鍋のような音を立てている。
せっかくの一日を棒に振って、にんじんは、もう、何をして遊ぶ気にもならない。
彼は、すばらしい慰みを取り逃がした。
これから、そろそろ口惜しくなるのだ。
彼は、それを待つばかりである。
佗しく、頼りなく、にんじんはじっとしている――退屈が来るなら来い! 罰が当たるなら当たれ! だ。
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ルピック夫人――どこへ行くんだい?
にんじん(彼は新しいネクタイをつけ、靴へはびしょびしょに唾をひっかけた)――父さんと散歩に行くの。
ルピック夫人――行くことはならない。わかったかい? さもなきゃ――(彼女の右手が、勢いをつけるために、後ろへさがる)
にんじん(低く)――わかったよ。
にんじん(柱時計の下で考え込みながら)――おれは、どうしたいっていうんだ? 痛い目にあわなきゃ、それでいいんだ。父さんは、母さんより、そいつが少ない。おれは勘定したんだ。父さんには気の毒だが、まあしょうがない。
ルピック氏――(彼はにんじんを可愛がっている。しかし、いっこう、かまいつけない。絶えず、商用のため、東奔西走しているからだ)――さあ、出かけよう。
にんじん――ううん、僕、行かないよ。
ルピック氏――行かないたあ、なんだ? 行きたくないのか?
にんじん――行きたいんだよ。だけど、だめなんだ。
ルピック氏――わけをいえ、どうしたんだ。
にんじん――なんでもないの。だけど、家にいるんだ。
ルピック氏――ああ、そうか、また例の気紛れだな。うるさい真似はよせ。一体、どうすりゃいいんだ! 行きたいっていうかと思うと、もう行きたくない。じゃ、いいから家にいろ。そして、勝手に泣き面かくがいい。
ルピック夫人――(彼女はいつでも、人の話がよく聞こえるように、用心深く、戸の蔭で聴き耳を立てているのである)――よしよし、可哀そうに! (猫撫声で、彼女は、彼の髪の毛の中に手を通し、それをひっぱる)――涙をいっぱい溜めてるよ、この子は……。そうだろうとも、父さんが……、(そこで彼女は、ルピック氏のほうをそっと見る)――いやだっていうもんを無理に連れて行こうとするからだね。母さんはそんなことしないよ、そんな残酷ないじめかたは……。(ルピック夫婦は、背中を向き合わせる)
にんじん(押入れの奥である。二本の指を口の中へ、一本を鼻の孔へつっこみ)――誰れもかれも、孤児になるってわけにゃいかないや。
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ルピック氏は、息子たちを交る交る猟に連れて行く。彼らは、父親の後ろを、鉄砲の先を除けて、すこし右のほうを歩く。そして、獲物を担ぐのである。ルピック氏は疲れを知らぬ歩き手だ。にんじんは、苦情もいわず、遮二無二がんばって後をついて行く。靴で怪我をする。そんなことは
気にも出さない。手の指が捻じ切れそうだ。足の爪先が膨れて、小槌の形になる。ルピック氏が、猟の初めに、兎を一匹殺すと、
「こいつは、そのへんの百姓家へ預けるか、さもなけりゃ、生籬の中へでも匿しといて、夕方持って帰るとしようや」
こういう。にんじんは、
「ううん、僕、持ってるほうがいいんだよ」
そこで、一日じゅう、二匹の兎と、五羽の鷓鴣とを担いで廻るようなことがある。彼は獲物嚢の負い革の下へ、あるいは手を、あるいはハンケチを差し込んで肩の痛みを休める。誰かに遇うと、大仰に背中を見せる。すると、一瞬間、重いのを忘れるのである。
が、彼は飽きあきしてくる。ことに、何ひとつ仕止めず、見栄という支えがなくなると、もうだめだ。
「ここで待ってろ。わしは、その畑をひと漁りしてくる」
時として、ルピック氏はこういう。
にんじんは焦れて、日の照りつける真下に、突っ立ったまま、じっとしている。彼は、親爺のすることをみている。畑の中を、畦から畦へ、土くれから土くれへと、踏みつけ踏みつけ、耙のように、固め、平らして行く。鉄砲で、生籬や灌木の茂みや、薊の叢をひっぱたく。その間、ピラムはピラムで、もうどうする力もなく、日蔭をさがし、ちょっと寝転んでは、舌をいっぱいに垂れ、呼吸をはずませている。
「そんなとこに、なにがいるもんか」と、にんじんは心の中でいう――「そうそう、ひっぱたけ! 蕁麻でもへし折るがいい。秣掻きの真似でもしろ! もしおれが兎で、溝のくぼみか、葉の蔭に棲んでいるんだったら、この暑さに、ひょこひょこ出かけることはまず見合わせだ!」
で、彼は、ひそかにルピック氏を呪い、小さな悪口を投げかける。
すると、ルピック氏は、またひとつの柵を飛び越えた。傍らの苜蓿畑を狩り立てるためだ。今度こそ、兎の小僧が二匹や三匹、どんなことがあったっていないはずはないときめていたのだ。
にんじんは、そこで呟く――
「待ってろっていったけど、こうなると、くっついて行かなきゃなるまい。初めの調子の悪い日は、終いまで悪いんだ。親爺! いいから走れ! 汗をかけ! 犬がへとへとになろうと、おれが腰を抜かそうと、かまうこたあない! どうせ坐ってるのと、結果はおんなじさ。手ぶらで還るんだ、今夜は」
そういえば、にんじんは、他愛のない迷信家である。
(彼が帽子の縁へ手をかける度ごとに)ピラムが、毛を逆立て、尻尾をぴんとさせて、立ち止まるのである。すると、ルピック氏は、銃尾を肩に押しあて、ぬき足さし足で、できるだけその側へ近づいて行く。にんじんはもう動かずにいる。そして、感動の最初の火花が、彼を息づまらせる。
(彼は帽子を脱ぐ)
鷓鴣が舞い立つ。さもなければ、兎が飛び出す。そこで、にんじんが、(帽子を下へおろすか、または、最敬礼の真似をするかで)、ルピック氏は、失敗るか、仕止めるか、どっちかなのである。
にんじんの告白によれば、この方法も百発百中というわけにはいかぬ。あまりしばしば繰り返してやると、効き目がないのである。好運も同じ合図にいちいち応えることは面倒なのであろう。で、にんじんは、控え目に間を置くのである。そうすればまず大概は当るというわけだ。
「どうだい、撃つとこを見たかい?」と、ルピック氏は、まだ温かい兎をつるし上げ、それから、そのブロンドの腹を押さえつけて、最後の大便をさせる――「どうして笑うんだい」
「だって、父さんがこいつを仕止めたのは、僕のお蔭なんだもの」
にんじんは答える。
また今度も成功だというので、彼は得意なのだ。そこで、例の方法を、ぬけぬけと説明したものである。
「お前、そりゃ、本気か?」
と、ルピック氏はいった。
にんじん――いいや、そりゃ、僕だって、決して間違いはないとはいわないさ。
ルピック氏――もういいから、黙っとれ、阿呆! わしから注意しといてやるが、もし、頭のいい児っていう評判を失くしたくなけりゃ、そんなでたらめはよその人の前でいわんこった。こっぴどく嗤われるぞ。それとも、万が一、わしをからかおうとでもいうのか?
にんじん――ううん、そんなことないよ、父さん。だけど、そういわれてみると、ほんとだね。ごめんよ。僕あ、やっぱりお人好しなんだ。
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猟はまだ続くのである。にんじんは、自分が馬鹿に思えてしかたがなく、後悔のしるしに、肩をぴんと上げる。それから、新しく元気を出して、父親の足跡を拾って行く。つまり、ルピック氏が左の足を置いたところへ、自分も左の足を置くというふうにである。いきおい大股になる。人喰鬼にでも追っかけられてるようだ。休む暇といったら桑の実とか野生の梨とか、または、口がしびれ、唇が白くなり、そして喉の渇きをとめるうつぼ草の実とかをちぎる時だけである。それに、彼は獲物嚢のカクシの中に、焼酎の罎をもっている。それを、ごくりごくり、彼ひとりで、あらまし飲んでしまう。ルピック氏は、猟に夢中で、請求するのを忘れているからだ。
「ひと口どう、父さん」
風は「いらん」という音しか運んでこない。にんじんは、今薦めたそのひと口を自分で飲み干し、罎をからっぽにする。頭がふらふらになる。が、父親の後を追いかけはじめる。突然、彼は立ち止まる。耳の孔へ指をつっこむ。乱暴に廻す。引き出す。それから、耳を澄ます恰好をして、ルピック氏に叫びかける――
「あのね、父さん、僕の耳ん中へ、蠅が一匹はいったらしいよ」
ルピック氏――除ったらいいだろう。
にんじん――奥の方へ行っちゃったんだよ。届かないんだもの。ブーンっていってんのが聞こえるよ。
ルピック氏――放っとけ。ひとりでに死ぬよ。
にんじん――でも、もしかして、卵を生んだら? 巣をこさえたら? え、父さん?
ルピック氏――ハンケチの角で潰してみろ。
にんじん――焼酎をすこし流し込んで、溺れさしちまったらどう? そうしてもいい?
「なんでも流し込め!」と、ルピック氏はどなる――「だが、早くしろ」にんじんは罎の口を耳にあてがい、もう一度そいつをからっぽにする。ルピック氏が、わしにも飲ませろといい出した時の用心にである。
で、やがて、にんじんは、駈け出しながら、うきうきと叫ぶ――
「そらね、父さん、僕、もう蠅の音が聞こえなくなったよ。きっと死んだんだろう。ただ、やつめ、これみんな飲んじまやがった」
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「そこにいろ、一番いい場所だ。わしは犬を連れて林をひと廻りしてくる。鴫を追い立てるんだ。いいか、ピイピイって声がしたら、耳を立てろ。それから眼をいっぱいに開けろ。鴫が頭の上を通るからな」
ルピック氏は、こういった。
にんじんは、両腕で鉄砲を横倒しに抱いた。鴫を撃つのはこれが初めてだ。彼は以前に、父の猟銃で、鶉を一羽殺し、鷓鴣の羽根をふっとばし、兎を一匹捕り損った。
鶉は、地べたの上で、犬が立ち止まっているその鼻先で、仕止めたのである。はじめ、彼は、土の色をした丸い小さな球のようなものを、見るともなしに見据えていた。
「後へさがって――。それじゃあんまり近すぎる」
ルピック氏は彼にそういった。
が、にんじんは、本能的に、もう一歩前へ踏み出し、銃を肩につけ、筒先を押しつけるようにして、ぶっ放した。灰色の毬は、地べたへめり込んだ。鶉はというと木っ葉微塵、姿は消えて、ただ、羽根のいくらかと血まみれの嘴が残っていただけだ。
それはそうと、若い狩猟家の名声が決まるのは、鴫を一羽撃ち止めるということだ。今日という日こそ、にんじんの生涯を通じて、記念すべき日でなければならぬ。
黄昏は、誰も知るとおり、曲者である。物みなが煙のように輪郭を波打たせ、蚊が飛んでも、雷が近づくほどにざわめき立つのである。それゆえ、にんじんは、胸をわくわくさせ、早くその時になればいいと思う。
鶫の群れが、牧場から還りに、柏の木立の中で、ぱっとはじけるように散ると、彼は、眼を慣らすために、それを狙ってみる。銃身が水気で曇ると、袖でこする。乾いた葉が、そこここで、小刻みな跫音をたてる。
すると、やがて、二羽の鴫が、舞い上がった。例の長い嘴で、そのために、飛びかたが重い。それでも、情愛こまやかに、追いつ追われつ、身顫いする林の上に大きな輪を画くのである。
ルピック氏が、あらかじめいったように、彼らは、ピッピッピイと啼いてはいるが、あんまりかすかなので、こっちへやって来るかどうか、にんじんは心配になりだした。彼は、しきりに眼を動かしている。見ると、頭の上を、二つの影が通り過ぎようとしている。銃尾を腹にあて、空へ向けて、いいかげんに引鉄を引いた。
二羽のうち一羽が、嘴を下にして落ちてくる。反響が林の隅々へ恐ろしい爆音を撒き散らす。
にんじんは、羽根の折れたその鴫を拾い、意気揚々とそれを打ち振り、そして、火薬の臭いを吸い込む。
ピラムがルピック氏より先に駈けつけてくる。ルピック氏は、平常よりゆっくりしているわけでもなく、また急ぐわけでもない。
「来ないつもりなんだ」
にんじんは、褒められるのを待ちながら、そう考える。
が、ルピック氏は、枝をかき分け、姿を現わす。そして、まだ煙を立てている息子に向かい、落ちつき払った声でいう――
「どうして二羽ともやっつけなかったんだ」
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にんじんは、釣ってきた魚の鱗を、今、はがしている最中だ。河沙魚、鮒、それに鱸の子までいる。彼は、小刀でこそげ、腹を裂く。そして、二重に透きとおった気胞を踵でつぶす。腸はまとめて、これは猫にやるのだ。彼は働いているつもりだ。忙しい。泡で白くなった桶の上へのしかかり、一心不乱である。が、着物を濡らさないようにしている。
ルピック夫人が、ちょっと様子を見に来る。
「よしよし、こりゃいい。今日は、素敵なフライを釣ってきてくれたね。どうして、お前も、やる時はやるじゃないか」
そういって、彼女は、息子の頸と肩を撫でる。が、その手をひっこめるとたん、彼女は苦痛の叫びをあげる。
指の先へ釣針が刺さっているのだ。
姉のエルネスチイヌが駈けつける。兄貴のフェリックスもこれに続く。それから間もなく、ルピック氏自身やってくる。
「どら、見せてごらん」
と、彼らはいう。
ところが、彼女は、その指をスカートで包み、膝の間へ挾んでいる。で、針はますます深く喰い込むのである。兄貴のフェリックスと姉のエルネスチイヌが、母親を支えていると、一方でルピック氏は、彼女の腕をつかみ、そいつをひっぱりあげる。すると、指がみんなに見えるようになる。釣針は表から裏へ突き通っていた。
ルピック氏は、それを抜こうとしてみる。
「いや、いや、そんなふうにしちゃ……」
ルピック夫人は、尖った声で叫ぶ。なるほど、釣針は、一方にかえりがあり、一方にとめがあって、ひっかかるのである。
ルピック氏は、眼鏡をかける。
「弱ったなあ。針を折らなけりゃ」
どうして、それを折るかだ。ご亭主も、こうなると手のくだしようがなく、ちょっと力を入れただけで、ルピック夫人は、飛び上がり、泣き喚くのである。何を抜き取られるというのだ。心臓か、命か? もっとも、釣針は、良く鍛えた鋼でできている。
「じゃ、肉を切らなけりゃ……」
ルピック氏はいう。
彼は眼鏡をかけなおす。ナイフを出す。そして、指の上を、よくも磨いでない刃でやわらかくこする。むろん、刃は通りっこない。彼は押さえつける。汗をかく。やっと血が滲み出す。
「あいた、た、あいっ」
ルピック夫人は叫ぶ。一同は慄えあがる。
「もっと、早く、父さん」
と、姉のエルネスチイヌがいう。
「そんなふうに、ぐったりしてちゃだめだよ」
兄貴のフェリックスが母親にいう。
ルピック氏は、癇癪が起こってきた。ナイフは、盲滅法に、引き裂き、鋸引きだ。ルピック夫人は、「牛殺し、牛殺し」と喚いているが、はては、気が遠くなる、幸いなことに。
ルピック氏は、それを利用する。顔は蒼ざめ、躍気となり、肉を刻み、掘る。指は、それ自身、血にまみれた傷口だ。そして、そこから、釣針が落ちる。
やれやれ!
その間、にんじんは、なんの手助けもしない。母親の最初の悲鳴といっしょに、彼は逃げ出した。踏段に腰をおろし、両手で頭を抱え、そもそも事の起こりは……と、考えてみた。たぶん、糸を遠くへ投げたつもりでいたのが、針だけ背中へひっかかっていたんだろう。で、彼はいう――
「どうも食わなかったと思ったら、じゃ、別に不思議はないわけだ」
彼は、そこで、母親の痛がる声を聴いている。第一、それが聞こえても、別に悲しい気持にもならない。もう少したって、今度は自分が、彼女よりも大きな声で、できるだけ大きな声で、喉がつぶれるほど喚いてやろうと思っている。そうすれば、彼女は、さっそく意趣返しができたつもりになり、彼を放っておくに違いないからだ。
近所の人たちが、何事かと思い、彼に訊ねる――
「どうしたんだい、にんじん?」
彼は答えない。耳を塞いでしまう。彼の赤ちゃけた頭がひっこむ。近所の人たちは踏段の下へ列をつくり、便りを待っている。
そうこうするうちに、ルピック夫人が乗り出してくる。彼女は、産婦のように血の気が薄らいでいる。しかも一大危険を冒したという得意さがつつみきれず、ていねいに繃帯を巻いた指を前のほうへ差し出している。痛みの残りをじっと堪えて、彼女は、その場の人々に笑いかけ、短い言葉で安心させ、それから、優しく、にんじんにいう――
「母さんをあんな痛い目に遭わして、こいつめ……。だけど、母さんは怒ってやしないよ、ね、お前が悪いんじゃないもの」
未だ嘗て、彼女はこういう調子でにんじんに話しかけたことはないのである。面喰って、彼は顔をあげる。見ると、彼女の指は、布片と糸で、さっぱりと、大きくがんじょうに包まれている。貧乏な子供のお人形さんそっくりだ。彼の干からびた眼が、涙でいっぱいになる。
ルピック夫人は前へこごむ。彼は、肱を上げて防ぐ身構えをする。癖になっているからだ。しかし、彼女は、鷹揚に、みなの前で、彼に接吻をする。
彼は、もう、何がなんだかわからない。泣けるだけ泣く。
「もういいんだっていうのにさ。赦してあげるっていってるじゃないか。母さんは、そんなに意地悪だと思ってるのかい?」
にんじんの咽び泣きは、いちだんと激しくなる。
「馬鹿だよ、この子は。首でも締められてるみたいにさ」
母親の慈愛に、しんみりさせられた近所の人たちに向かい、彼女はそういうのである。
彼女は、一同の手に釣針を渡す。彼らは、もの珍しげに、それを検める。そのうちの一人は、こいつは八号だと断定する。そろそろ彼女は口が自由に利け出す。すると、からみつくような舌で、大方の衆に惨劇のしだいを物語るのである――
「ほんとに、あん時ばかりは、どんなはずみで、この子を殺しちまったかも知れません。可愛くなけりゃですよ、むろん。うっかりできないもんですね。こんな小っぽけな針でも……。あたしゃ、天まで釣り上げられるかと思いましたよ」
姉のエルネスチイヌは、そいつを遠くのほうへ、庭の隅かなんか、穴があれば穴の中へでもうっちゃってしまい、その上へ土をかぶせて踏み固めておくように提議する。
「おい、戯談いうない」と、兄貴のフェリックスはいう――「おれが、とっとくよ。そいつで釣りに行かあ。とんでもねえ、母さんの血んなかへ漬かってた針なんてなあ、申し分、この上なしだ。捕れるっちゃねえぞ、魚が! 股みたいなでっけえやつ、気の毒だが、用心しろ!」
そこで、彼は、にんじんをゆすぶる。こっちは、罰を免れたので、相変わらずきょとんとしている。それでも、自ら責めているふうをまだ誇張して見せ、かすれたしゃくり泣きを喉から押し戻し、ひっぱたき甲斐のある、その醜い顔の、糠みたいな斑点を、大水で洗い落としている。
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ルピック夫人――お前、なんにも失くしたもんはないかい、にんじん?
にんじん――ないよ。
ルピック夫人――すぐに「ない」なんて、どうしていうのさ、知りもしないくせに。まずカクシをひっくり返してごらん。
にんじん――(カクシの裏を引き出し、驢馬の耳みたいに垂れた袋を見つめている)――ああ、そうか。返してよ、母さん。
ルピック夫人――返すって、何をさ? 失くなったもんがあるのかい。母さんは、いいかげんに訊いてみたんだ。そうしたら、やっぱりそうだ。何を失くしたのさ。
にんじん――知らない。
ルピック夫人――そらそら! 嘘を吐こうと思って、もう、うろうろしてるじゃないか、あわ喰った鮒みたいに……。ゆっくり返事をおし。何を失くした? こまかい?
にんじん――そうそう、うっかりしてた。こまだった。そうだよ、母さん。
ルピック夫人――そうじゃないよ、母さん。こまなもんか。こまは先週、あたしが取り上げたんだ。
にんじん――そいじゃ、小刀だ。
ルピック夫人――どの小刀? 誰だい、小刀をくれたのは?
にんじん――だれでもない。
ルピック夫人――情けない子だよ、お前は……。こんなこといってたら、きりがありゃしない。まるで、母さんの前じゃ口がきけないみたいじゃないか。だけどね、今は二人っきりだ。母さんは優しく訊いてるんだよ。母親を愛してる息子は、なんでも母親にほんとのことをいわなけりゃ。どうだろう、母さんは、お前が、お金を失くしたんだと思うがね。銀貨さ。母さんはなんにも知らないよ。でも、ちゃんと見当がつくんだ。そうじゃないとはいわせないよ。そら、鼻が動いている。
にんじん――母さん、そのお金は僕んでした。おじさんが、日曜にくれたんです。そいつを失くしちゃったんだ。僕が損しただけさ。惜しいけど、僕、あきらめるよ。それに、そんなもん、大して欲しかないんだもの。銀貨の一つやそこら、あったって無くったって!
ルピック夫人――それだ。減らず口は好いかげんにおし。それをまた、あたしが聴いてるからだ、お人好しみたいに。じゃ、なにかい、おじさんの志を無にしようっていうんだね。そんなにお前を甘やかしてくれるのに……。どんなに怒ることか。
にんじん――だって、もしか僕が、そのお金を好きなことに使ったとしたらどうなの? それでも、一生そのお金の見張りをしてなけりゃいけないかしら?
ルピック夫人――うるさいっ! 偉そうに! このお金はね、失くしてもいけないし、ことわらない前に使ってもいけません。こりゃもうお前に渡さないよ。代りがあるなら持っといで。捜しといで。造れるなら造ってごらん。まあ、そこはいいようにするさ。あっちへおいで。つべこべいわずに!
にんじん――はあ。
ルピック夫人――その「はあ」は、これからやめてもらおうかね。一風変わったつもりか知らないけど……。それから、すぐに鼻唄を歌ったり、歯と歯の間で口笛を吹いたり、気楽な馬方の真似をしたら、今度は承知しないよ。母さんにゃ、そんなことしたって、なんにもなりゃしないんだ。
にんじんは、小刻みに、裏庭の小径を往きつ戻りつしている。彼は呻き声を立てる。少し捜しては、時々鼻をすする。母親が観ているような気がする時は、動かずにいる。さもなければ、しゃがんで、酸模を、また細かな砂を指の先でほじくっている。ルピック夫人の姿が見えないと思うと、もう捜すのを止して、頤を前に突き出し、しゃなりしゃなりと歩き続ける。一体全体、例の銀貨はどこに落ちてるんだろう? はるか上の、木の枝か、その辺の古巣の奥か?
時として、何も捜していない、何も考えていない人たちが、金貨を拾うということもある。現にあったことなのだ。しかし、にんじんは、地べたを這い廻り、膝と爪とを擦り切らし、しかも、ピン一本拾わずにしまうだろう。
さまよい疲れ、当てのない望みに疲れ、にんじんは、とてもだめだと諦めた。で、母親のようすを見に家へ帰ってみる決心をした。たぶん彼女はもう落ちついているだろう。銀貨がみつからなければ、もう仕方がない。
ルピック夫人は、影も姿も見えない。彼は、おそるおそる呼んでみる――
「母さん……ねえ……母さん……」
返事がない。彼女はたった今出かけたばかりだ。そして、仕事机の抽斗を開けたままにしている。毛糸、針、白、赤、黒の糸巻の間に、にんじんは、いくつかの銀貨を発見した。
それらの銀貨は、そこで、歳月を経ているらしかった。どれもこれも眠っているようだ。稀に眼を覚ましているのもある。隅から隅へ押し合い、入り混じり、そして数は無数だ。
つまり三つかと思えば四つ、そうかと思えばまた八つなのだ。数えようにも数えようがない。抽斗をさかさまにし、毛糸の毬をひっかき廻せばいいのだ。あとは証拠といえば何がある?
とっさの思いつき、これが、こと重大な場合でないと彼を見放さないのである。このとっさの思いつきで、彼は今、意を決し、腕を差し伸べ、銀貨を一つ盗んだ。そして逃げ出した。
見つかったらという心配で、彼は、ためらうことも、後悔することも、またもう一度仕事机のほうへ引っ返すこともできないのである。
彼はまっすぐに飛び出した。あんまり先へのめって、止まることすらむずかしい。小径をぐるぐる廻り、ここという場所を探し、そこで銀貨を「失く」し、踵で押し込み、腹這いに寝転がる。そして、草に鼻をくすぐらせながら、めったやたらに這いずって、不規則な円をそこここに描く。一人が眼隠しをして匿された品物のまわりを廻ると、一人の音頭取りがはらはらしながら、脚を叩いて、
「もう少し、お蔵に火が点きそう、もう少し、お蔵に火が点きそう……」
こう叫ぶあの無邪気な遊びそのままだ。
にんじん――母さん、母さん、あれ、あったよ。
ルピック夫人――母さんだって、あるよ。
にんじん――だって……。そらね。
ルピック夫人――母さんだって、こら……。
にんじん――どら、見せてごらん。
ルピック夫人――お前、見せてごらん。
にんじん――(彼は銀貨を見せる。ルピック夫人は、自分のを見せる。にんじんは二つを手に取り、較べてみ、いうべき文句を考える)――おかしいなあ。どこで拾ったの、母さんは? 僕は、この小径の梨の木の下で拾ったんだ。見つける前に二十度もその上を歩いてるのさ。光ってるんだろう。僕、はじめ、紙ぎれか、それとも、白い菫だろうと思ってたんだもの。だから、手を出す気にならなかったの。きっと僕のポケットから落っこったんだろう、いつか草ん中を転がり廻った時……気違いの真似をして……。しゃがんでみてごらん、母さん、この野郎がうまく隠れたとこをさ、隠れ家をさ。人に苦労させやがって、こいつ得意だろう。
ルピック夫人――そうじゃないとはいわない。母さんは、お前の上着の中にあったのをみつけたんだ。あんなにいってあるのに、お前はまた、着物を着替える時にカクシのものを出しとくのを忘れてる。母さんは、ものを几帳面にすることを教えようと思ったんだ。自分で懲りるように自分で捜しなさいといったんだ。ところが、捜せばきっと見つかるっていうことが、やっぱりほんとだった。そうだろう、お前の銀貨は、一つが二つになった。えらい金満家だ。終りよければ総てよしだがね、いっといてあげるが、お金はしあわせの元手じゃないよ。
にんじん――じゃ、僕、遊びに行っていい、母さん?
ルピック夫人――いいとも、遊んでらっしゃい。子供くさい遊びはもう決してするんじゃないよ。さ、二つとも持ってお行き。
にんじん――ううん、僕、一つでたくさんだよ。母さん、それしまっといて、またいる時まで……ね、そうしてね。
ルピック夫人――いやいや、勘定は勘定だ。お前のものはお前が持っていなさい。両方とも、これはお前のもんだ。おじさんのと、梨の木のと……。梨の木のほうは、持主が出れば、こりゃ別だ。誰だろう? いくら考えてもわからない。お前、心当りはないかい?
にんじん――さあ、ないなあ。それに、どうだっていいや、そんなこと……。明日考えるよ。じゃ、行ってくるよ、母さん、ありがとう。
ルピック夫人――お待ち。園丁のだったら?
にんじん――今すぐ、訊いて来てみようか?
ルピック夫人――ちょっと、ぼうや、助けておくれ。考えてみておくれ。父さんは、あの年で、そんなうっかりしたことをなさるはずはないね。姉さんは、貯金はみんな貯金箱に入れておくんだからね。兄さんはお金を失くす暇なんかない。握るといっしょに消えちまうんだから……。そうしてみると、どうもこりゃ、あたしだよ。
にんじん――母さんだって? そいつあ、変だなあ。母さんは、あんなにきちんと、なんでもしまっとくくせに……。
ルピック夫人――大人だって、どうかすると、子供みたいな間違いをするもんだよ。なに、検べてみればすぐわかる。とにかく、こりゃ、あたしの問題だ。もう話はわかった。心配しないでいいよ。遊んどいで。あんまり遠くへ行かずに……。その暇に母さんは、仕事机の抽斗の中をちょっとのぞいて来るから……。
にんじんは、もう走り出していたが、振り向いて、一時、遠ざかって行く母親の後を見送っている。やがて、突然、彼は彼女を追い抜く。その前に立ちふさがる。そして、黙って、片一方の頬を差し出す。ルピック夫人(右手を振り上げ、崩れかかる)――お前の嘘吐きなことは百も承知だ。しかし、これほどまでとは思ってなかった。嘘の上へまた嘘だ。どこまででも行くさ。初めに卵一つ盗めば、その次ぎは牛一匹だ。そして、しまいに、母親を締め殺すんだ。
最初の一撃が襲いかかる。[#改ページ]

ルピック氏、兄貴のフェリックス、姉のエルネスチイヌ、それと、にんじん、この四人は、根のついた切株が燃えている暖炉の傍らで、寝るまでの時間を過ごす。四つの椅子が、それぞれ前脚を中心にして前後に揺れる。議論をしているのだ。で、にんじんは、ルピック夫人がそこにいない間に、自分一個の意見を陳べるのである。
「僕としちゃあ、家族っていう名義は、およそ意味のないもんだと思うんだ。だからさ、父さん、僕は、父さんを愛してるね。ところが、父さんを愛してるっていうのは、僕の父さんだからというわけじゃないんだ。僕の友だちだからさ。実際、父さんにゃ、父親としての資格なんか、まるでないんだもの。しかし、僕あ、父さんの友情を、深い恩恵として眺めている。それは決して報酬というようなもんじゃない。しかも、寛大にそれを与え得るんだ」
「ふむ」
と、ルピック氏は応える。
「おれはどうだい?」
「あたしは?」
と、兄貴のフェリックスに、姉のエルネスチイヌである。
「おんなじことさ」と、にんじんはいう――「偶然が、ただ君たちを、僕の兄、僕の姉と決めただけだ。それを僕が君たちに感謝するわけはないだろう。僕たち三人が同時にルピックの姓を名乗ってるからって、それは誰の罪だ? 君たちは、それを拒むことはできなかったんだ。望んでもいない血縁に繋がれることが、君たち、満足かどうか、僕あ、それを知る必要もない。ただ、兄さん、僕あ、君の庇護に対して、それから、姉さん、君の手厚い心尽しに対して、僕あお礼をいうよ」
「はなはだ行き届きません」
と、兄貴のフェリックスはいう。
「どこから考えついたの、そんな夢みたいなこと?」
姉のエルネスチイヌはいう。
「それに、僕のいってることは……」と、にんじんは附け加える――「一般的には、たしかにそういえるんだ。個人的の問題は避けよう。だから、母さんがもしここにいれば、母さんの前で、僕あ、おんなじことをいうよ」
「二度はいえないだろう」
と、兄貴のフェリックスがいう。
「僕の話の、どういうところが悪いの?」と、にんじんは答える――「僕の考えを変に取らないでおくれよ。僕に愛情が欠けていると思ったら間違いだ。僕あ、これで、見かけよりゃ、兄さんを愛しているんだぜ。しかし、この愛情たるや、月並な、本能的な、紋切型のようなもんじゃない。意志が働いている。理性に導かれている。いわば論理的なものだ。そうだ、論理的、僕の捜していた言葉はこれだ」
「おいおい、その癖はいつやめるんだい、自分で意味のわからんような言葉をやたらつかう癖は……?」
ルピック氏は、そういって起ち上がった。寝に行くのである。が、それでもなお言葉をついだ――
「ことに、そいつを、お前の年で、ほかのものに言って聞かせるなんて……。もし亡くなったお前のお祖父さんに、そんな軽口をわしがこれっぱかりでも言ってみろ。さっそく、蹴っ飛ばされるか、ひっぱたかれるかして、わしがどこまでもお祖父さんの息子だってことを知らされるだけだ」
「暇つぶしに話してるんだからいいじゃないの」
と、にんじんは、そろそろ不安である。
「黙ってるほうがなおいい」
ルピック氏は、蝋燭を取り上げた。
父親の姿は消える。兄貴のフェリックスが、その後にくっついて行く。
「じゃ、失敬、昔のお灸友だち!」
と、彼はにんじんにいう。
それから、姉のエルネスチイヌが座を起つ。そして、厳かに――
「おやすみなさい」
と、いった。
にんじんは、ひとり取り残されて、途方に暮れる。
昨日、ルピック氏は、物の考え方について、もっと修行をしろと、彼に注意したのである――
「我々って、いったいなんだ? 我々なんて、ありゃせん。総ての人っていうのは、誰でもないんだ。お前は、聞いてきたことをぺらぺら言いすぎる。ちっとは自分で考えるようにしろ。自分一個の意見をいえ。初めは、一つきりでもかまわん」
最初に試みたその意見が、さんざんなあしらいを受けたので、にんじんは、暖炉の火に灰をかぶせ、椅子を壁に沿って並べ、柱時計におじぎをして、部屋へ引き退る。その部屋というのは、穴倉へ降りる階段に通じていて、みなが穴倉の間と呼んでいるのである。夏は涼しくて気持のいい部屋だ。猟の獲物は、そこへ置くと裕に一週間はもつのである。最近殺した兎が、皿の中で鼻から血を出している。いくつもの籠は、牝鶏にやる粒餌でいっぱいだ。にんじんは、両腕をまくりあげ、臂までつっこんで、そいつをかき廻す。いつまでやっても飽きない。
平生なら、外套掛けにひっかけてある家じゅうのものの着物が、彼の眼を惹くのである。それはまるで、めいめいの長靴を、きちんと上の棚にのせておいて、さてゆうゆうと首を縊った自殺者のようだ。
しかし、今夜は、にんじんは怖くないのである。寝台の下をのぞいて見ることもしない。月の光も、木の影も、庭の井戸さえも、気味が悪くない。井戸といえば、こいつは、窓から飛び込みたいもののために、わざわざ掘ってあるように見えるのだ。
怖いと思えば怖いのだろう。が、彼は、もう怖いなんていうことは考えない。シャツ一枚で、赤い敷石の上を、なるたけ冷たくないように踵だけで歩くことも忘れている。
それから、寝床へはいり、湿った漆喰のところどころにできた水脹れを見つめながら、彼は、自分の意見を推し進める。なるほど、自分のために納っておかねばならぬから、これを自分の意見というのであろう。
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もうよほど前から、にんじんは、ぼんやり、大きなポプラの、一番てっぺんを見つめている。
彼は、空ろな考えを追う。そして、その葉の揺れるのを待つ。
その葉は、樹から離れ、それだけで、軸もなく、のんびりと、別個の生活をしているように見える。
毎日、その葉は、太陽の初めと終りの光線を浴び、黄金色に輝く。
正午からこっち、死んだように動かない。葉というよりも点だ。にんじんは我慢がしきれなくなる。落ちついていられない。すると、ようやく、その葉が合図をする。
その下の、すぐ側の葉が一つ、同じ合図をする。ほかの葉が、また、それを繰り返し、隣り近所の葉に伝える。それが、急いで、次へ送る。
そして、これが、危急を告げる合図なのである。なぜなら、地平線の上には、褐色の球帽が、その繍縁を現わしているからだ。
ポプラは、もう、顫えているのだ! 彼は動こうとする。邪魔になる重い空気の層を押し退けようとする。
彼の不安は、山毛欅へ、柏へ、マロニエへと移って行き、やがて、庭じゅうの樹という樹が、互いに、手まね身ぶりで囁き合う。空には例の球帽が、みるみるうちに拡がり、そのくっきりと暗い縁飾りを、前へぐんぐん押し出していることを報せ合うのである。
最初、彼らは、細い枝を震わせて、鳥どものおしゃべりを止めさせるのである。生豌豆を一つ抛るように、気紛れにぽいと啼いていた鶫、ペンキ塗りの喉から、やたらにごろごろという声を絞り出すところを、にんじんもさっきから見ていた山鳩、それから例の鵲の尾の、それだけで、なんとも困りものの鵲……。
その次は、彼らは、敵を威嚇するために、その太い触角を振り廻しはじめる。
鉛色の球帽は、徐々に侵略を続けている。
しだいに天を覆う。青空を押し退け、空気の抜け孔をふさぎ、にんじんの呼吸をつまらせにかかる。時として、それは、自分の重みのために力が弱り、村の上へ墜ちて来るかと思われることがある。しかし、鐘楼の尖端で、ぴたりと止まる、ここで破られてはならぬというふうに。
いよいよすぐそこへ来た。ほかから挑みかける必要はない。恐慌が始まる。ざわめきが起こる。
総ての樹木は、荒れ狂い、取り乱した図体を折り重ねる。その奥には、つぶらな眼と、白い嘴に満たされた幾多の巣があるであろうと、にんじんは想像する。梢が沈む。と、急に眼を覚ましたように、起き上がる。葉の茂みが、組を作って駈け出す。が、間もなく、こわごわ、素直に、戻って来る。そして、一所懸命に縋りつく。アカシヤの葉は、華車で、溜息をつく。皮を剥がれた白樺の葉は、哀れっぽい声を出し、マロニエの葉は口笛を吹く。そして、蔓のある馬兜鈴は、壁の上へ重なり合って波のような音をたてている。
下のほうでは、ずんぐりむっくり、林檎の木が、枝の林檎をゆすぶり、鈍い力で地べたを叩く。
その下では、スグリの木が赤い滴を、黒すぐりがインク色の滴を垂らしている。
さらに下のほうでは、酔っ払ったキャベツが、驢馬の耳を打ち振り、上気せた葱が、互いに鉢合せをして、種で膨らんだ丸い実を砕く。
どうしてだ? 何事だ、これは? そして、一体、どんなわけがあるのだ? 雷が鳴るのでもない。雹が降るわけでもない。稲光ひとつせず、雨一滴落ちて来ず……。とはいえ、あの混沌たる天上の闇、昼の日なかに忍び寄るこの真夜中が、彼らを逆上させ、にんじんを縮み上がらせたのだ。
今や、件の球帽は、覆面した太陽の真下で、拡がれるだけ拡がった。
動いている。にんじんはちゃんと知っている。すべって行く。正体はばらばらの浮雲だ。さあ、もうおしまいだ。お日様が見られるわけである。だが、そのうちに、空いっぱいに天井を張ってしまっても、にんじんの頭は、かえってそのために締めつけられ、額のへんへ喰い込むように思われる。彼は眼をつぶる。すると、例の球帽は、情容赦もなく、瞼の上へ眼かくしをしてしまう。
彼は彼で、両方の耳へ指をつっこむ。ところが、嵐は、叫びと旋風に乗って、外から、家の中へ侵入する。
そして、街で紙片を拾うように、彼の心臓をつかむ。
揉む。皺くちゃにする。丸める。握り潰す。
やがて、にんじんは、これが自分の心臓かと思う。わずかに、飴玉の大きさだ。
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ルピック夫人――にんじんや、あのね、いい子だから水車へ行って、バタを一斤もらって来ておくれな。大急ぎだよ。お前が帰るまでに食事をはじめずに待っててあげるからね。
にんじん――いやだよ。
ルピック夫人――「いや」っていう返事はどういうの? さ、待っててあげるから……。
にんじん――いやだよ。僕は、水車へなんか行かないよ。
ルピック夫人――なんだって? 水車へなんか行かない? なにをいうの、お前は? 誰なのさ、用を頼んでるのは? ……なんの夢を見てるんだい?
にんじん――いやだよ。
ルピック夫人――これこれ、にんじん、どうしたというのさ、一体? 水車へ行って、バタを一斤もらっておいでって、母さんのいいつけだよ。
にんじん――聞こえたよ。僕は行かないよ。
ルピック夫人――母さんが、夢でも見てるのかしら……? 何事だろう、こりゃ……? お前は、生れて初めて、母さんのいうことを聴かないつもりだね?
にんじん――そうだよ。
ルピック夫人――母さんのいうことを聴かないつもりなんだね?
にんじん――母さんのね、そうだよ。
ルピック夫人――そいつは面白い。どら、ほんとかどうか、……走って行って来るかい?
にんじん――いやだよ。
ルピック夫人――お黙り! そうして行っといで!
にんじん――黙るよ。そうして行かないよ。
ルピック夫人――さ、このお皿を持って駈け出しなさい!
にんじんは黙る。そして、動かない。「さあ、革命だ」
と、ルピック夫人は、踏段の上で、両腕を挙げて叫んだ。
なるほど、にんじんが彼女に向かって「いやだ」といったのは、これが初めてだ。これがもし、何かの邪魔でもされたとか、また、遊んでいる最中ででもあったのならまだしもだ。ところが、今、彼は、地べたに坐り、鼻を風に曝し、二本の親指をあっちへ向けこっちへ向け、そして、眼をつぶり、眼が冷えないようにしていたのだ。が、いよいよ、彼は、昂然として、母親の顔を直視する。母親はなにがなんだかわからない。彼女は、救いを求めるように、人を呼ぶ――
「エルネスチイヌ、フェリックス、面白いことがあるよ。父さんも一緒に来てごらんって……。アガアトもだよ。さあ、誰でも見たいものは、来た、来た!」
そこで、通りをたまに通る人々でも、立ち止まって見られるわけだ。
にんじんは中庭の真中に、隔たりを取って、じっとしている。危険に面して、自分ながら泰然自若たることに感心し、またそれ以上、ルピック夫人が打つことを忘れているのは不思議でならぬ。この一瞬は、それほど由々しき一瞬であり、彼女はために策の施しようがないのだ。平生用いる脅しの手真似さえ、赤い切先のように鋭く燃えるあの眼つきに遇っては、もう役に立ちそうもない。とはいえ、いかに努めても、内心の憤りは、たちまち唇を押し開け、笛のような息と共に外に溢れ出た。
「みんな、いいかね、あたしゃ、丁寧に頼んだんだ、にんじんにさ、ちょっとした用事だよ、散歩がてら、水車まで行きゃいいんだ。ところが、どんな返事をした。訊いてみておくんなさい。あたしがいいかげんなことをいうみたいだから……」
めいめい、察しがついた。彼の様子を見ただけで、訊くまでもないと思う。
優しいエルネスチイヌは、側へ寄って、耳のところでそっという――
「気をつけなさい。ひどい目に遭うわよ。あんたを可愛がってる姉さんのいうことだから聴きなさい。『はい』っていうもんよ」
兄貴のフェリックスは、見物席に納まっている。誰が来たって席は譲るまい。もし、にんじんがこれから走り使いをしなくなると、その一部が当然自分のところへまわってくるのだということまでは考えていない。彼は弟を声援したいくらいだ。昨日までは軽蔑していた。濡れた牝鶏程度に扱っていた。今日は、対等だ。見上げたもんだ。彼は雀躍りする。なかなか面白くなってきた。
「世の中がひっくり返った。世の終りだ。さあ、あたしゃ、もう知らない」と、へこたれて、ルピック夫人はいった――「あたしゃ、引き上げるよ。誰か口を利いてみるさ。そして、あの猛獣を手馴ずけてもらいましょう。息子と父親と対い合って、あたしのいないところで、なんとか話をつけてごらん」
「父さん」と、にんじんは、こみあげてくる感情の発作のなかで、締めつけられるような声を出した。ものを言うのにまだ調子が出ないのである――「もし、父さんが、水車へバタを取りに行けっていうんなら、僕、父さんのためなら……父さんだけのためなら、僕、行くよ。母さんのためなら、僕、絶対、行くのいやだ」
ルピック氏は、この選り好みで、気をよくするどころか、むしろ、当惑の体である。たかがバタの一斤ぐらいで、そばから家じゅうのものにけしかけられ、そのため自分の威光にものをいわせるというのは、なんとしても具合が悪いのだ。
そこで彼は、ぎごちなく、草の中を二、三歩あるいて、肩をぴくんとあげ、くるりと背を向けて、家の中にはいってしまう。
当分、事件は、そのままというわけだ。
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夕方、食事がすむ。ルピック夫人は、病気で寝ているので、いっこう姿を見せない。みんな黙りこくっている。習慣からでもあり、また、遠慮からでもある。ルピック氏は、ナフキンを結び、そいつを食卓の上へ投げ出し、そしていう――
「旧道の羊飼い場まで散歩に行くが、一緒に来ないか、誰も?」
にんじんは、ルピック氏がこういう方法で彼を誘い出すのだと気がつく。彼は同じく起ち上がり、椅子をいつものとおり壁のほうへ運び、おとなしく父親の後に従う。
初めのうち、彼らは黙って歩く。訊問はすぐには開かれない。ただ、避けることは不可能だ。にんじんは、頭の中で、およその見当をつけてみる。そして、返答のしかたを稽古してみる。用意ができた。激しくゆすぶられた挙句の彼は、いまいささかも後悔するところはない。昼間あれほどの大事件にぶつかったのだ。それ以上の何を怖れるものか。ところで、ルピック氏は、決心をする。その声がまた、にんじんを安堵させた。
ルピック氏――何を待ってるんだ? 今日、お前がやったことは、どういうんだ、ありゃ? わけをいってみろ。母さんはあんなに口惜しがってるじゃないか。
にんじん――父さん、僕、今まで永い間、いいだせずにいたんだけど、いいかげんに形をつけちゃおう。僕、ほんとをいうと、もう、母さんが嫌いになったよ。
ルピック氏――ふむ。どういうところが? いつから?
にんじん――どういうところって、どこもかしこも……。母さんの顔を覚えてからだよ。
ルピック氏――ふむ。そいつは嘆かわしいこった。せめて、母さんがお前にどんなことをしたか、話してごらん。
にんじん――長くなるよ、そいつは。それに、父さん、気がつかない、なんにも?
ルピック氏――つかんこともない。お前がよく膨れっ面をしてるのを見たよ。
にんじん――僕、膨れるっていわれると、なお癪に障るんだ。そりゃむろん、にんじんは、真剣に人を恨むなんてこと、できないんだよ。奴さん、膨れっ面をするだろう。ほっとけばいいのさ。するだけしたら、落ちつくんだ。機嫌を直して、隅っこから出て来るよ。ことに、奴さんにかまってる風をしちゃいけない。どうせ、大したことじゃないんだから。ごめんよ、父さん。大したことじゃないっていうのは、父さんや母さんや、それから、ほかのものにとってはさ。僕あ、ときどき膨れっ面をするよ。そりゃそれに違いないけど、ただ形の上さ。しかし、どうかすると、まったくの話、心の底から、何をっていう風に、腹を立てることもあるの。で、その侮辱は、もう、どうしたって忘れやしないさ。
ルピック氏――まあ、まあ、そういわずに、忘れちまえ。からかわれて怒る奴があるか。
にんじん――ううん、ううん、そうじゃないよ。父さんはすっかり知らないからさ。家にいることは、そうないんだもの。
ルピック氏――出歩かにゃならんのだ。しょうがない。
にんじん(我が意を得たりという風に)――仕事は仕事だよ、父さん。父さんは、いろんなことに頭を使ってるから、それで気が紛れるんだけど、母さんときたら、今だからいうけど、僕をひっぱたくよりほかに、憂さばらしのしようがないんだよ。それが、父さんの責任だとはいわないぜ。なに、僕がそっといいつけりゃよかったのさ。父さんは、僕の身方になってくれたんだ。これから、ぼつぼつ、もう以前からのことを話してみるよ。僕のいうことが大袈裟かどうか、僕の記憶がどんなもんだか、みんなわかるさ。だけどね、父さん、さっそく、相談したいことがあるの。僕、母さんと別れちゃいたいんだけど……。どう、父さんの考えで、一番簡単な方法は?
ルピック氏――一年にふた月、休暇に会うだけじゃないか?
にんじん――その休暇中も、寮に残っちゃいけない? そうすりゃ、勉強のほうも進むだろう?
ルピック氏――そういう特典があるのは、貧乏な生徒だけだ。そんなことでもしてみろ。世間じゃ、わしがお前を捨てたんだっていわあ。それに第一、自分のことばかり考えちゃいかんよ。わしにしてみてからが、お前と一緒におられんようになるじゃないか。
にんじん――面会に来てくれればいいんだよ、父さん。
ルピック氏――慰みの旅行は、高くつかあ、にんじん。
にんじん――是非っていう旅行を利用したら……? ちょっと廻り路をしてさ。
ルピック氏――いや、わしは、今まで、お前を兄貴や姉さんとおんなじに取り扱ってきた。誰を特別にどうするっていうことは、決してしなかった。そいつは変えるわけにいかん。
にんじん――じゃ、学校のほうを止そう。寮を出しておくれよ。お金がかかりすぎるとでもいってさ。そうすりゃ、僕、何か職業を選ぶよ。
ルピック氏――どんな? 早い話が、靴屋へでも丁稚奉公にやって欲しいっていうのか?
にんじん――そうでもいいし、どこだっていいよ。僕、自分の食べるだけ稼ぐんだ、そうすりゃ、自由だもの。
ルピック氏――もう遅い、にんじん。靴の底へ釘を打つために、わしはお前の教育に大きな犠牲を払ったんじゃない。
にんじん――そんなら、もし僕が、自殺しようとしたことがあるっていったら、どうなの?
ルピック氏――おどかすな、やい。
にんじん――嘘じゃないよ。父さん、昨日だって、また、僕あ、首を吊ろうと思ったんだぜ。
ルピック氏――ところで、お前はそこにいるじゃないか。だから、まあまあ、そんなことはしたくなかったんだ。しかも、お前は、自殺をしそこなったという話をしながら、得意そうに、頤を突き出している。今までに、死にたいと思ったのは、お前だけのように考えているんだ。やい、にんじん、我身勝手の末は恐ろしいぞ。お前はそっちへ布団をみんなひっぱって行くんだ。世の中は自分一人のもんだと思ってる。
にんじん――父さん、だけど、僕の兄貴は幸福だぜ。姉さんも幸福だぜ。それからもし母さんが、父さんのいうように、僕をからかって、それがちっとも楽しみじゃないっていうんなら、僕あ、なにがなんだかわからないよ。その次ぎは、父さんさ。父さんは威張ってる。みんな怖がっているよ。母さんだって怖がってるさ。母さんは、父さんの幸福に対して、どうすることもできないんだ。これはつまり、人類の中に、幸福なものもいるっていう証拠じゃないか。
ルピック氏――融通のきかないちっぽけな人類だよ、お前は。その理窟は、屁みたいだ、そりゃ。人の心が、いちいち奥底まで、お前にはっきり見えるかい?
ありとあらゆることが、もう、ちゃんとわかるのか、お前に……?
にんじん――僕だけのことならだよ、ああ、わかるよ、父さん。少なくとも、わかろうと努めてるよ。
ルピック氏――そんならだ。いいか、にんじん、幸福なんていうもんは思い切れ! ちゃんといっといてやる。お前は、今より幸福になることなんぞ、決してありゃせん。決して、決して、ありゃせんぞ。
にんじん――いやに請合うんだなあ。
ルピック氏――あきらめろ。鎧兜で身を固めろ。それも、年なら二十になるまでだ。自分で自分のことができるようになれば、お前は自由になるんだ。性質や気分は変わらんでも、家は変えられる。われわれ親同胞と縁を切ることもできるんだ。それまでは、上から下を見おろす気でいろ。神経を殺せ。そして、他の者を観察しろ。お前の一番近くにいる者たちも同様にだ。こいつは面白いぞ。わしは保証しとく、お前の気安めになるような、意外千万なことが目につくから。
にんじん――そりゃそうさ。他の者は他の者で苦労はあるだろうさ。でも、僕あ、明日、そういう人間に同情してやるよ。今日は、僕自身のために正義を叫ぶんだ。どんな運命でも、僕のよりゃましだよ。僕には、一人の母親がある。この母親が僕を愛してくれないんだ。そして、僕がまたその母親を愛していないんじゃないか。
「そんなら、わしが、そいつを愛してると思うのか」我慢ができず、ルピック氏は、ぶつけるようにいった。
これを聞いて、にんじんは、父親のほうに眼をあげる。彼は、しばらく、そのむつかしい顔を見つめる。濃い髭がある。あまりしゃべり過ぎたことを恥じるように、口がその中へ隠れてしまっている。深い襞のある額、眼尻の皺、それから、伏せた瞼……歩きながら眠っている恰好だ。
一時、にんじんは、口をきくことができない。この秘かな悦び、握っているこの手、ほとんど力まかせに縋っているこの手、それがすべてどこかへ飛んで行ってしまうような気がするのだ。
やがて、彼は、拳を握り固め、闇の彼方に、うとうとと眠りかけた村のほうへ、それを振ってみせる。そして、大袈裟な調子で叫ぶ――
「やい、因業婆! いよいよ、これで申し分なしだ! おれはお前が大嫌いなんだ!」
「こら、止せ! なにはともあれ、お前の母さんだ」
と、ルピック氏はいう。
「ああ」と、にんじんは、再び、単純でしかも用心深い子供になり――「僕の母さんだと思ってこういうんじゃないんだよ」
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たまたまどこかの人が、ルピック一家の写真帖をめくってみると、きまって意外な顔をする。姉のエルネスチイヌと兄貴のフェリックスは、立ったり、腰かけたり、他処行きの着物を着たり、半分裸だったり、笑ったり、額に八の字を寄せたり、種々様々な姿で、立派な背景の中に納まっている。
「で、にんじんは?」
「これのはね、ごく小さな時のがあったんですけれど……」と、ルピック夫人は答えるのである――「そりゃ可愛く撮れてるもんですから、みんな持ってかれてしまったんですよ。だから、一つも手許には残ってないんです」
ほんとのところは、未だ嘗て、にんじんのは撮った例しがないのだ。
彼はにんじんで通っているが、その通り方は、ひと通りではない。家のものが彼のほんとの名をいおうとしても、すぐにはちょっと浮かんでこないのである。
「どうしてにんじんなんてお呼びになるんです? 髪の毛が黄色いからですか」
「性根ときたら、もっと黄色いですよ」
と、ルピック夫人はいう。
その他の特徴を挙げれば――
にんじんの面相は、まずまず、人に好感をもたせるようにできていない。
にんじんの鼻は、土竜の塚のように掘れている。
にんじんは、いくら掃除をしてやっても、耳の孔に、しょっちゅうパン屑を溜めている。
にんじんは、舌の上へ雪をのせ、乳を吸うようにそれを吸って、溶かしてしまう。
にんじんは燧をおもちゃにする。そして、歩きかたが下手で、佝僂かしらと思うくらいだ。
にんじんの頸は、青い垢で染まり、まるでカラアを着けているようだ。
要するに、にんじんの好みは一風変わっている。しかも、彼自身、麝香の香いはしないのである。
彼は一番に起きる。女中と同時だ。で、冬の朝など、日が出る前に寝台から飛び降り、手で時間を見る。指の先を時計の針に触れてみるのである。
コーヒーとココアの用意ができる。すると、彼は、何のひと片でもかまわない、大急ぎでつめ込んでしまう。
誰かに彼を紹介すると、彼は顔をそむけ、手を後ろから差し伸べ、だんだん縮こまり、脚をくねらせ、そして、壁をひっかく。
そこで、人が彼に、
「キスしてくれないのかい、にんじん」
と、頼みでもすると、彼は答える――
「なに、それにゃ及ばないよ」
ルピック夫人――にんじん、返事をおし、人が話しかけた時には……。
にんじん――アギア、ゴコン。
ルピック夫人――ほらね、そういってあるだろう、子供はなんか頬ばったまま、ものを言うんじゃないって……。
彼は、どうしても、ポケットへ手をつっこまずにはいられない。ルピック夫人がそばへ来ると、急いで引き出すのだが、いくら早くやったつもりでも、遅すぎるのである。彼女はとうとうポケットを縫いつけてしまった――両手をつっこんだまま。「たとえ、どんな目に遭おうと、嘘を吐くのはよくない」と、懇ろに、名づけ親のピエエル爺さんはいう――「こいつは卑しい欠点だ。それに、なんの役にも立たんだろう。だって、どんなこっても、ひとりでに知れるもんだ」
「そうさ」と、にんじんは答える――「ただ、時間がもうからあ」
怠け者の兄貴、フェリックスは、辛うじて学校を卒業した。
彼は、のうのうとし、ほっとする。
「お前の趣味は、一体なんだ」と、ルピック氏は尋ねる――「もうそろそろ食って行く道を決めにゃならん年だ、お前も……。なにをやるつもりだい?」
「えっ! まだやるのかい?」
と、彼はいう。
みんなで罪のない遊戯をしている。
ベルト嬢が、いろんなことを訊ねる番に当たっていた。
にんじんが答える――
「そりゃ、ベルトさんの眼は空色だから……」
みんなが叫んだ――
「すてき! 優しい詩人だわ」
「ううん、僕あ、眼なんか見ないでいったんだよ」と、にんじんはいう――「なんていうことなしにいってみたまでさ。今のは、慣用句だよ。修辞学の例にあるんだよ」
雪合戦をすると、にんじんはたった一人で一方の陣を承わる。彼は猛烈だ。で、その評判は遠くまで及んでいるが、それは彼が雪の中へ石ころを入れるからである。
彼は、頭を狙う。これなら、勝負は早い。
氷が張って、ほかのものが氷滑りをしていると、彼は彼で、氷の張ってない草の上へ、別に小さな滑り場をこしらえる。
天狗跳びをすると、彼は、徹頭徹尾、台になっているほうがいいという。
人捕りの時は、自由などに未練はなく、いくらでも捕まえさせる。
そして、隠れんぼでは、あんまり巧く隠れて、みんなが彼のことを忘れてしまう。
子供たちは丈くらべをしている。
ひと目見ただけで、兄貴のフェリックスが文句なしに首から上ほかのものより大きい。しかし、にんじんと姉のエルネスチイヌとは、一方がたかの知れた女の子だのに、これは肩と肩とを並べてみないとわからない。そこで、姉のエルネスチイヌは、爪先で背伸びをする。ところが、にんじんは、狡いことをやる。誰にも逆らうまいとして、軽く腰をかがめるのである。これで、心もち高低のあるところへ、ちょっぴり、差が加わるのである。
にんじんは、女中のアガアトに、次のように忠告をする――
「奥さんとうまく調子を合わせようと思うなら、僕の悪口をいってやりたまえ」
これにも限度がある。
というのは、ルピック夫人は、自分以外の女が、にんじんに手を触れようものなら、承知しないのである。
近所の女が、たまたま、彼を打つといって脅したことがある。ルピック夫人が駈けつける。えらい権幕だ。息子は、恩を感じ、もう、顔を輝かしている。やっと連れ戻される。
「さあ、今度は、母さんと二人きりだよ」
と、彼女はいう。
「猫撫声! そりゃ、どんな声をいうんだい?」
にんじんは小さなピエエルに訊ねる。このピエエルは、おっ母さんに甘やかされているのである。
おおよそ合点がいったところで、彼は叫ぶ――
「僕あ、そんなことより、一度でいいから、馬鈴薯の揚げたのを、皿から、手づかみで食ってみたい。それから、桃を半分、種のあるほうだぜ、あいつをしゃぶってみたいよ」
彼は考える――
「もし母さんが、僕を可愛くって食べちまうっていうんだったら、きっと真っ先に、鼻っ柱へ齧りつくだろう」
時々は、姉のエルネスチイヌも兄貴のフェリックスも、遊び倦きると、自分たちの玩具を気前よくにんじんに貸してやる。にんじんはこうして、めいめいの幸福を一部分ずつ取って、慎ましく自分の幸福を組み立てるのである。
で、彼は、決して、あまり面白く遊んでいるような風は見せない。玩具を取り返されるのが怖いからだ。
にんじん――じゃ、僕の耳、そんなに長すぎるなんて思わない?
マチルド――変な恰好だと思うわ。どら、貸してごらんなさい。こんなかへ泥を入れて、お菓子を作りたくなるわ。
にんじん――母さんがこいつをひっぱって、熱くしときさえすりゃ、ちゃんとお菓子が焼けるよ。
「文句をいうのはおよし! いつまでもうるさいね。じゃ、お前は、あたしより父さんのほうが好きなんだね」と、ルピック夫人は、折にふれ、いうのである。
「僕は現在のままさ。なんにもいわないよ。ただ、どっちがどっちより好きだなんてことは、絶対にない」
と、にんじんの心の声が応える。
ルピック夫人――なにしてるんだい、にんじん?
にんじん――なにって、知らないよ。
ルピック夫人――そういうのは、つまり、また、ろくでもないことをしてるってこった。お前は、一体、いつでも、知っててするのかい、そんなことを?
にんじん――こうしてないと、なんだか淋しいんだもの。
母親が自分のほうを向いて笑っていると思い、にんじんは、うれしくなり、こっちからも笑ってみせる。が、ルピック夫人は、漠然と、自分自身に笑いかけていたのだ。それで、急に、彼女の顔は、黒すぐりの眼を並べた暗い林になる。
にんじんは、どぎまぎして、隠れる場所さえわからずにいる。
「にんじん、笑う時には、行儀よく、音を立てないで笑っておくれ」
と、ルピック夫人はいう。
「泣くなら泣くで、どうしてだか、それがいえないって法はない」
と、彼女はいう。
彼女は、また、こうもいう――
「あたしの身にもなってくださいよ。あの子ときたら、ひっぱたいたって、もうきゅうとも泣きゃしませんよ」
なお、彼女はこういうのである――
――空に汚点ができたり、道の上に糞でも落ちてると、あの子は、こりゃ自分のものだと思ってるんです。
――あの子は、頭の中で何か考えてると、お尻のほうは、お留守ですよ。
――高慢なことといったら、人が面白いっていってくれれば、自殺でもし兼ねませんからね。
事実、にんじんは、水をいれたバケツで自殺を企てる。彼は、勇敢に、鼻と口とを、その中へじっと突っ込んでいるのである。その時、ぴしゃりと、どこからか手が飛んできて、バケツが靴の上へひっくり返る。それで、にんじんは、命を取り止めた。
時として、ルピック夫人は、にんじんのことを、こういうふうにいう――
「ありゃ、あたしそっくりでね、毒はないんですよ。意地が悪いっていうよりゃ、気が利かないってほうですし、それに、大事をしでかそうったって、ああ尻が重くっちゃ」
時として、彼女は、あっさり承認する――
もし彼に、けちな虫さえつかなければ、やがては、羽振りを利かす人間になるだろうと。
「もし、いつか、兄貴のフェリックスみたいに、誰かがお年玉に木馬をくれたら、おれは、それへ飛び乗って、さっさと逃げちまう」
これが、にんじんの空想である。
彼にとっていっさいが屁の河童だということを示すために、にんじんは、外へ出ると口笛を吹く。が、後をつけて来たルピック夫人の姿が、ちらりと見える。口笛は、ぱったり止まる。あたかも彼女が、一銭の竹笛を歯で噛み破ったかのごとく、そいつは痛ましい。
それはそうと、嚔が出る時、彼女がひょっこり現われただけで、それが止まってしまうことも事実だ。
彼は、父親と母親の間で、橋渡しを勤める。
ルピック氏はいう――
「にんじん、このシャツ、ボタンが一つとれてる」
にんじんは、そのシャツをルピック夫人のところへ持って行く。すると、彼女はいう――
「お前から、指図なんかされなくったっていいよ」
しかし、彼女は、針箱を引き寄せ、ボタンを縫いつける。
「これで、父さんがいなかったら、とっくの昔、お前は、母さんをひどい目に遭わしてるとこだ。この小刀を心臓へ突き刺して、藁の上へ転がしといたにきまってる」
と、ルピック夫人は叫ぶ。
「洟をかみなさい!」
ルピック夫人は、ひっきりなしにいう。
にんじんは、根気よく、ハンケチの表側へかみ出す。間違って裏側へやると、そこをなんとかごまかす。
なるほど、彼が風邪を引くと、ルピック夫人は、彼の顔へ蝋燭の脂を塗り、姉のエルネスチイヌや兄貴のフェリックスが、しまいに妬けるほど、べたべたな顔にしてしまう。それでも、母親は、にんじんのために、特にこう附け加える――
「こりゃ、どっちかっていえば、悪いことじゃなくって、善いことなんだよ。頭ん中の脳がせいせいするからね」
ルピック氏が、今朝から彼をからかいどおしなので、つい、にんじんは、どえらいことをいってしまった。
「もう、うるさいったら、馬鹿野郎!」
にわかに、周囲の空気が凍りつき、眼の中に、火の塊りができたように思われる。
彼は口の中でぶつぶついう。危ないと見たら、地べたへ潜り込む用意をしている。
が、ルピック氏は、いつまでも、いつまでも、彼を見据えている。しかも、危ない気配は見えない。
姉のエルネスチイヌは、間もなくお嫁に行くのである。で、ルピック夫人は、彼女に、許婚と散歩することを許す。ただし、にんじんの監視の下にである。
「先へ行きなさいよ。駈け出したっていいわ」
彼女は、こういう。
にんじんは先へ歩く。一所懸命に駈け出しては見る。犬がよくやるあの走りかただ。が、うっかり、速度を緩めようものなら、彼の耳に慌しいキスの音が聞こえてくるのである。
彼は咳払いをする。
神経が昂ぶってくる。ちょうど、村の十字架像の前で、彼は帽子を脱いだついでに、そいつを地べたに叩きつけ、足で踏みにじり、そして叫ぶ――
「おれなんか、絶対に、誰も愛してくれやしない!」
それと同時に、ルピック夫人が、しかもあのすばやい耳で、唇のへんに微笑を浮かべながら、塀の後ろから、物凄い顔を出した。
すると、にんじんは、無我夢中で附けたす――
「そりゃ、母さんは別さ」