あらすじ
浪花の岸辺を彷徨う男・六蔵は、宿を求め、二見ヶ浦の海に面した別荘へと辿り着きます。そこには、俳優の巽辰吉が滞在しており、六蔵は辰吉の計らいで別荘に泊まることになります。しかし、その夜、六蔵は奇妙な幻影に遭遇し、不思議な出来事を経験するのです。果たして、六蔵は無事に別荘から脱出できるのでしょうか。
「浪花江(なにわえ)の片葉(かたは)の蘆(あし)の結ぼれかかり――よいやさ。」
 と蹌踉(よろり)として、
「これわいな。……いや、どっこいしょ。」
 脱いで提げたる道中笠、一寸(ちょっと)左手に持換えて、紺の風呂敷、桐油包(とうゆづつみ)、振分けの荷を両方、蝙蝠(こうもり)の憑物めかいて、振落しそうに掛けた肩を、自棄(やけ)に前に突いて最一(もひと)つ蹌踉(よろ)ける。
「……解けてほぐれて逢う事もか。何を言(い)やがる。……此方(こっち)あ可(い)い加減に溶(とろ)けそうだ。……まつにかいあるヤンレ夏の雨、かい……とおいでなすったかい。」
 さっと沈めた浪の音。磯馴松(そなれまつ)は一樹(ひとき)、一本(ひともと)、薄い枝に、濃い梢に、一ツずつ、翠(みどり)、淡紅色(ときいろ)、絵のような、旅館、別荘の窓灯を掛連ね、松露(しょうろ)が恋に身を焦す、紅提灯ちらほらと、家と家との間を透く、白砂に影を落して、日暮の打水(うちみず)のまだ乾かぬ茶屋の葭簀(よしず)も青薄(あおすすき)、婦(おんな)の姿もほのめいて、穂に出て招く風情あり。此処(ここ)は二見(ふたみ)の浦づたい。
 真夏の夜の暗闇(やみ)である。この四五日、引続く暑さと云うは、日中(ひなか)は硝子(ビイドロ)を焼くが如く、嚇(かっ)と晴れて照着(てりつ)ける、が、夕凪(ゆうなぎ)とともに曇(どん)よりと、水も空も疲れたように、ぐったりと雲がだらけて、煤色(すすいろ)の飴の如く粘々(ねばねば)と掻曇(かきくも)って、日が暮れると墨を流し、海の波は漆を畝(うね)らす。これでいて今夜も降るまい。癖に成(な)って、一雫(ひとしずく)の風を誘(いざな)う潮の香(か)もないのであった。
 男は草鞋穿(わらじばき)、脚絆(きゃはん)の両脚(もろずね)、しゃんとして、恰(あたか)も一本の杭の如く、松を仰いで、立停(たちどま)って、……眦(まなじり)を返して波を視(み)た。
「ああ、唄じゃねえが、一雨(ひとあめ)欲(ほ)しいぜ……」
 俄然(がぜん)として額を叩いて、
「慌てまい。六ちゃん、いや、ちゃんと云う柄じゃねえ。六公(ろくこう)、六(ろく)でなし、六印(ろくじるし)、月六斎(つきろくさい)でいやあがら。はははは。」
 肩を刻んで苦笑いして、またふらふらと砂を踏み、
「野宿に雨は禁物でえ。」
 その時躓(つまず)く。……
「これわいな! 慌てまいとはこの事だ。はあ、松の根ッ子か。この、何でもせい。」
 岸辺の茶屋の、それならぬ、渚の松の舫船(もやいぶね)。――六蔵は投遣(なげや)りに振った笠を手許(てもと)に引いて、屈腰(かがみごし)に前を透かすと、つい目の前に船首(みよし)が見える。
 船は、櫂(かい)もなく艪(ろ)もなしに、浜松の幹に繋いで、一棟、三階立は淡路屋と云う宏壮な大旅館、一軒は当国松坂の富豪、池川の別荘、清洒(せいしゃ)なる二階造、二見の浦の海に面した裏木戸の両(りょう)の間(あわい)、表通りへ抜路(ぬけみち)の浜口に、波打際に引上げてあった。
 夫女巌(めおといわ)へ行くものの、通りがかりの街道から、この模様を視(なが)めたら、それも名所の数には洩れまい。舷(ふなばた)に鯔(ぼら)は飛ばないでも、舳(へさき)に蒼い潮の鱗。船は波に、海に浮べたかと思われる。……が藍(あい)を流した池のような浦の波は、風の時も、渚に近いこの船底を洗いはせぬ。戯(たわむれ)にともづなの舫(もやい)を解いて、木馬のかわりにぐらぐらと動かしても、縦横に揺れこそすれ、洲走(すばし)りに砂を辷(すべ)って、水に攫(さら)われるような憂(うれい)はない。
 気の軽い、のん気な船は、件(くだん)の別荘の、世に隔てを置かぬ、ただ夕顔の杖ばかり、四ツ目に結った竹垣の一重を隔てた。濡縁越(ぬれえんごし)の座敷から聞え来る三味線の節の小唄の、二葉(ふたは)三葉(みは)、松の葉に軽く支えられて、流れもあえず、絹のような砂の上に漂っているのである。

「この何でもせい。……住吉の岸辺の茶屋に、よいやさ。」
 と風体(ふう)、恰好、役雑(やくざ)なものに名まで似た、因果小僧とも言いそうな這奴(しゃつ)六蔵は、その舷(ふなばた)に腰を掛けた、が、舌打して、
「ちょッ面倒だ。宿銭(とまり)は鐚(びた)でお定(さだま)り、それ、」
 と笠を、すぽりと落し、次手(ついで)に振分の荷を取って、笠の中へ投げ込んで、
「いや、お泊りならばァ泊らんせ、お風呂もどんどん湧いている、障子もこの頃はりかえて、畳もこの頃かえてある。――嘘を吐きゃあがれ。」
 空手(からて)を組んで、四辺(あたり)を見たが、がッくりと首を振って、
「待てよ……青天井が黒光りだ。電(いなびかり)は些(ちっ)と気が無(ね)えがね、二見ヶ浦は千畳敷、浜の砂(いさご)は金銀……だろう、そうだろそうだろ然(そ)うであろ。成程どんどん湧いていら、伊良子(いらこ)ヶ崎までたっぷりだ。ああ、しかし暑いぜ。」
 腕まくりを肩までして、
「よく皆、瓦(かわら)の下の、壁の裡(なか)へ入(へえ)ってやがる。」
 瓦の下、壁の裡、別荘でも旅館でも、階下(した)も二階もこの温気(うんき)に、夕凪の潮(うしお)を避け、南うけに座を移して、伊勢三郎(いせのさぶろう)が物見松(ものみのまつ)に、月もあらば盗むべく、神路山(かみじやま)、朝熊嶽(あさまがたけ)、五十鈴川、宮川の風にこがれているらしい。ものの気勢(けはい)も人声も、街道向(むき)は賑(にぎや)かに、裏手には湯殿の電燈の小暗(おぐら)きさえ、燈(あかり)は海に遠かった。
 六蔵ニヤニヤと独笑(ひとりえみ)して、
「お寝間のお伽(とぎ)もまけにしてと――姉さん、真個(ほんと)かい、洒落(しゃれ)だぜ洒落だぜ洒落じゃねえ。入(い)らっしゃい、お一方(ひとかた)、お泊でございますよ。へい、お早いお着様(つきさま)で、難有(ありがと)う存じます。これ、御濯足(おすすぎ)の水を早くよ。あいあい、とおいでなさる。白地の手拭(てぬぐい)、紅い襷(たすき)よ……柔(やわらか)な指で水と来りゃ、俺あ盥(たらい)で金魚に化けるぜ。金魚うや、金魚う。」
 と可(い)い気な売声。
「はてな、紺がすりに、紺の脚絆、おかしな色の金魚だぜ。畜生め、鯰(なまず)じゃねえか。刎(は)ねる処は鮒だ奴(やつ)さ。鮒だ、鮒だ、鮒侍(ふなざむれえ)だ。」
 と胸を揺(ゆす)って、ぐっと反ったが、忽(たちま)ち肩ぐるみ頭をすくめて、
「何を言やあがる。」
 で、揚(あげ)あしを左の股、遣違(やりちが)いにまた右て。燈は遠し、手探りを、何の気もなく草鞋を解いて、びたりと揃えて、トンと船底へ突込(つきこ)むと、殊勝な事には、手拭の畳んで持ったをスイと解き、足の埃をはたはたと払って、臀(いしき)で楫(かじ)を取って、ぐるりと船の胴の間にのめり込む。
「御案内引あいあい……」
 と自分で喚(わめ)き、
「奥の離座敷(はなれざしき)だよ、……船の間――とおいでなすった。ああ、佳(い)い見晴(みはらし)、と言いてえが、暗くッて薩張(さっぱり)分らねえ。」
 勝手な事を吐(ほざ)くうちに、船の中で胡坐(あぐら)に成った。が兎が櫂(かい)を押さないばかり、狸が乗った形である。
「何、お風呂だえ、風呂は留(や)めだ。こう見えても余り水心のある方じゃねえ。はははは、湯に水心も可笑(おかし)いが、どんどん湧いてるは海だろう。――すぐに御膳だ。膳の上で一銚子よ。分ったか。脱落(ぬかり)もあるめえが、何ぞ一品(ひとしな)、別の肴を見繕ってよ、と仰せられる。」
 と仰せられ、
「ああ、いい酒だぜ、忠兵衛のおふくろかい、古い所で……妙燗(みょうかん)妙燗。」
 と二つばかり額を叩く。……暢気(のんき)さも傍若無人(ぼうじゃくぶじん)で、いずれ野宿の、ここに寝てしまうつもりでいよう。舫船を旅籠とより、名所を座敷にしたようなことを吐(ぬか)す。が。僅(わず)か一時(ひととき)ばかり前、この町通り、両側の旅籠の前を、うろついて歩行(ある)いた折は、早や日も落ちて、脚にも背にも、放浪の陰の漾(ただよ)った、見るからみじめな様子であった。

 黄昏(たそがれ)に、御泊(おとまり)を待つ宿引女(やどひきおんな)の、廂(ひさし)はずれの床几(しょうぎ)に掛けて、島田、円髷(まるまげ)、銀杏返(いちょうがえし)、撫(なで)つけ髪の夕化粧、姿を斜(ななめ)に腰を掛けて、浅葱(あさぎ)に、白に、紅に、ちらちら手絡(てがら)の色に通う、団扇(うちわ)の絵を動かす状(さま)、もの言う声も媚(なまめ)かしく傾城町(けいせいまち)の風情がある。
 浦づたいなる掃いたような白い道は、両側に軒を並べた、家居(いえい)の中を、あの注連(しめ)を張った岩に続く……、松の蒔絵(まきえ)の貝の一筋道。
 氷店(こおりみせ)、休茶屋(やすみぢゃや)、赤福売る店、一膳めし、就中(なかんずく)、鵯(ひよどり)の鳴くように、けたたましく往来(ゆきき)を呼ぶ、貝細工、寄木細工の小女どもも、昼から夜へ日脚(ひあし)の淀みに商売(あきない)の逢魔(おうま)ヶ時(どき)、一時(ひとしきり)鳴(なり)を鎮めると、出女の髪が黒く、白粉(おしろい)が白く成る。
 優い声で、
「もし、お泊りかな。」
「お泊りやすえ。」
 彼方(あっち)でも、お泊りやす、此方(こっち)でも、お泊りやす、と愛嬌声の口許は、松葉牡丹の紅である。
「泊るよ。」
 其処(そこ)へ、突掛(つッか)けに 紺がすりの汗ばんだ道中(どうちゅう)を持って行(ゆ)くと、
「はい、お旅籠は上中下と三段にございますがな、最下等にいたしましても……」
 何(ど)うして、こんな旅籠へ一宿出来よう、服装(みなり)を見ての口上に違いないから。
「何だ。無価(ただ)泊めようと云うのじゃねえのか。」
「外(ほか)を聞いておくんなはれ。」
「指揮(さしず)は受けねえ。」と肩を揺って、のっさり通る。
「お泊りやす。」
「俺か。」とまたずっと寄る。
「否(いいえ)、違いまんの。」
「状(ざま)あ見ろ、へへん。」
 と、半分白い目で天を仰いで、拗ねたようにそのまま素通(すどおり)。
 この辺(あたり)とて、道者宿、木賃泊りが無いではない。要するに、容子(ようす)の好(よ)い婦人(たぼ)が居て、夕(ゆうべ)をほの白く道中を招く旅籠では、風体の恁(かく)の如き、君を客にはしないのである。
 荷(に)も石瓦(いしがわら)、古新聞、乃至(ないし)、懐中(ふところ)は空(から)っぽでも、一度目指した軒を潜って、座敷に足さえ踏掛(ふんが)くれば、銚子を倒し、椀を替え、比目魚(ひらめ)だ、鯛だ、と贅(ぜい)を言って、按摩(あんま)まで取って、ぐっすり寝て、いざ出発の勘定に、五銭の白銅一個(ひとつ)持たないでも、彼はびくとも為(す)るのではなかった。
 針が一本――魔法でない。
 この六(ろく)でなしの六蔵は、元来腕利きの仕立屋で、女房と世帯(しょたい)を持ち、弟子小僧も使った奴。酒で崩して、賭博(ばくち)を積み、いかさまの目ばかり装(も)った、己(おの)の名の旅双六(たびすごろく)、花の東都(あずま)を夜遁(よに)げして、神奈川宿のはずれから、早や旅銭なしの食いつめもの、旅から旅をうろつくこと既にして三年越(ごし)。
 右様(みぎよう)の勘定書に対すれば、洗った面で、けろりとして、
「おう、仕立ものの用はねえか。羽織(はおり)でも、袴(はかま)でも。何にもなきゃ経帷子(きょうかたびら)を縫って遣(や)ら。勘定は差引だ。」
 女郎屋の朝の居残りに遊女(おんな)どもの顔を剃(あた)って、虎口(ここう)を遁(のが)れた床屋がある。――それから見れば、旅籠屋や、温泉宿で、上手な仕立は重宝(ちょうほう)で、六の名は七(しち)同然、融通(ゆうずう)は利き過ぎる。
 尤(もっと)も仕事を稼ぎためて、小遣(こづかい)のたしにするほどなら、女房を棄てて流浪なんかしない筈。
 からっけつの尻端折(しりっぱしょり)、笠(かさ)一蓋(いちがい)の着(き)たッ切(きり)雀(すずめ)と云うも恥かしい阿房鳥(あほうどり)の黒扮装(くろいでたち)で、二見ヶ浦に塒(ねぐら)を捜して、
「お泊りだ、お一人さん――旅籠は鐚(びた)でお定(きま)り、そりゃ。」と指二本、出女(でおんな)の目前(めさき)へぬいと出す。
 誰が対手(あいて)に成るものか、黙って動かす団扇の手は、浦風を軒に誘って、背後(うしろ)から……塩花(しおばな)塩花。

 六は門並(かどなみ)六七軒。
 風体と面構(つらがまえ)で、その指二本突出して、二両を二百に値切っても、怒って喧嘩はしないけれど、誰(たれ)も取合うものはなし。
 いざ、と成れば、法もかく、手心は心得たが、さて指当(さしあた)って、腹は空く、汗は流れる、咽喉(のど)は乾く、氷屋へ入る仕覚(しがく)も無かった。
 すねた顔色(つらつき)、ふてた図体(ずうたい)、そして、身軽な旅人の笠捌(かささば)きで、出女の中を伸歩行(のしある)く、白徒(しれもの)の不敵らしさ。梁山泊(りょうざんぱく)の割符(わりふ)でも襟に縫込んでいそうだったが、晩の旅籠にさしかかった飢(うえ)と疲労(つかれ)は、……六よ、怒るなよ……実際余所目(よそめ)には、ひょろついて、途方に暮れたらしく可哀(あわれ)に見えた。
 この後を、道の小半町(こはんちょう)、嬉しそうに、おかしそうに、視(なが)め視め、片頬笑みをしながら跟(つ)いて歩行(ある)いたのは、糊のきいた白地の浴衣(ゆかた)に、絞りの兵児(へこ)帯無雑作にぐるりと捲いた、耳許(みみもと)の青澄んで見えるまで、頭髪(かみのけ)の艶のいい、鼻筋の通った、色の浅黒い、三十四五の、すっきりとした男で。何処(どこ)にも白粉の影は見えず、下宿屋の二階から放出(ほうりだ)した書生らしいが、京阪地(かみがた)にも東京にも人の知った、巽辰吉(たつみたつきち)と云う名題(なだい)の俳優(やくしゃ)。
 で、六が砂まぶれの脚絆をすじりもじって、別荘の門を通ったのと、一足違いに、彼は庭下駄で、小石を綺麗に敷詰めた、間々(あいあい)に、濃いと薄いと、すぐって緋色なのが、やや曇って咲く、松葉牡丹(まつばぼたん)の花を拾って、その別荘の表の木戸を街道へぶらりと出た。
 巽は時に、酔ざましの薬を買いに出たのであった。
 客筋と云うのではない、松坂の富豪池川とは、近い血筋ほどに別懇(べっこん)な親類交際(づきあい)。東に西に興行の都度(つど)、日取の都合が付きさえすれば、伊勢路に廻って遊ぶのが習いで、別(わ)けて夏は、三日なり二日なり此処に来ない事はないのであった。
 今度も、別荘の主人が一所(いっしょ)で、新道の芸妓お美津(みつ)、踊りの上手なかるたなど、取巻(とりまき)大勢と、他に土地の友だちが二三人で、昨日から夜昼なし。
 向う側の官営煙草、兼ねたり薬屋へ、ずっと入って巽が、
「御免よ。」
「はい、お出でなさいまし。」
 唯(と)、側対(かわむか)いの淡路屋の軒前(のきさき)に、客待(きゃくまち)うけの円髷に突掛(つッかか)って、六でなしの六蔵が、(おい、泊るぜえ)を遣らかす処。――考えても――上(あが)り端(ばな)には萌黄と赤と上草履をずらりと揃えて、廊下の奥の大広間には洋琴(ピアノ)を備えつけた館と思え――彼奴(きゃつ)が風体。
 傍見(わきみ)をしながら、
「宝丹(ほうたん)はありますかい。」
「一寸(ちゃと)、ござりまへんで。」
「無い。」
「左様(さい)で、ござりません。仁丹が可(よ)うござりますやろ。」と夕間暮(ゆうまぐれ)の薬箪笥(くすりだんす)に手を掛ける、とカチカチと鳴る環(かん)とともに、額の抜上った首を振りつつ大(おおき)な眼鏡越にじろりと見(や)る。
「宝丹が欲しいんだがね。」
「強(えら)い、お生憎様(あいにくさま)で。」
「お邪魔を。」
「何うだ、姉(あんね)え、これだけじゃ。」
 六は再(また)指二本。
 この、笠ぐるみ振分けを捲(まく)り手(で)の一方へ、褌(ふどし)も見える高端折(たかばしょり)、脚絆ばかりの切草鞋で、片腕を揮ったり、挙げたり、鼻の下を擦ったり、べかこと赤い目を剥いたり、勝手に軒をひやかして、ふらふらと街道を伸(の)して行くのが、如何にも舞台馴れた演種(しぐさ)に見えて、巽はうかうか独笑(ひとりえみ)してその後(あと)に続いたのである。

 やがて一町(ひとまち)出はずれて、小松原に、紫陽花(あじさい)の海の見える処であった。
「君、君。」
 何と思ったか、巽がその六でなしを呼んだのである。
「ええ、手前で、へい。」と云うと、ぎっくり腰を折って、膝の処へ一文字(いちもんじ)に、つん、と伏せた笠の上、額を着けそうにして一ツおじぎをした工合が、丁寧と言えば丁寧だが、何とも人を食った形に見える。
 辰吉は片頬笑(かたほほえみ)して、
「突然で失礼ですがね、何処(どこ)此処(どこここ)と云ってるよりか、私の許(とこ)へ泊っちゃ何うです。」
「へい、貴方(あなた)へ。」と、俯向(うつむ)けていた地薄な角刈(かくがり)の頭を擡(もた)げて、はぐらかす気か、汗ばんだか、手の甲で目を擦って、ぎろりと巽の顔を見た。
「何うです、泊りませんか……ッたってね、私も実は、余所(よそ)の別荘に食客(いそうろう)と云うわけだが、大腹(たいふく)な主人でね、戸締りもしない内(うち)なんだから、一晩、君一人ぐらい、私が引受けて何うにもしますよ。」
「へええ、御串戯(ごじょうだん)を。」と道の前後を※(「目+句」、第4水準2-81-91)(みまわ)して、苦笑いをしつつ、一寸(ちょっと)頭を掻いたは、扨(さて)は、我が挙動(ふるまい)を、と思ったろう。
「串戯なもんですか。」
 其処が水菓子屋の店前で――巽は、別に他に見当らなかったので、――居合す小僧に振向いて、最(も)う一軒薬屋はないか、と聞いて、心得て出て、更めて言った。
「真個(ほんとう)だよ、君。」
 と笑いながら、……もう向うむいて行きかける六蔵を再(また)呼んで、
「……今君が通って来た、あの、旭館と淡路屋と云う大(おおき)な旅館の間にある、別荘に居るんだからね。」
「何とも難有(ありがて)え思召(おぼしめし)で、へい。」
 と、も一度笠を出して面(つら)を伏せて、
「いずれまた……」
「ではさようなら。」
「御機嫌よろしゅう。」
 二見ヶ浦を西、東。
 思いも掛けない親船に、六はゆすぶった身体を鎮めて、足腰をしゃんと行(ゆ)く。
「兄さん、兄さん。」
「親方。」
 と若い女が諸声で、やや色染めた紅提灯、松原の茶店から、夕顔別当、白い顔、絞の浴衣が、飜然(ひらり)と出て、六でなしを左右から。
「親方。」
「兄さん。」
「ええ、俺(おら)が事か。兄さん、とけつかったな。聞馴(ききな)れねえ口を利きやあがる。幾干(いくら)で泊める。こう、旅籠は幾干だ。」
「否(いいえ)、宿屋じゃありません。まあ、お掛けなさいな。」
「よう一寸。」
「何にも持たねえ、茶代が無えぜ。」
「何んですよ、そんな事は。」
「はてな、聞馴れねえ口を利きやあがる。」
「その代りね、今、親方、其処で口を利いたでしょう。」
「一寸、あの方は何と云って。矢張(やっぱ)り普通(ただ)の人間とおんなじ口の利き方をなさる事? 一寸さあ……」
 と衣紋(えもん)を抜く。
 六蔵解(よ)めぬ面の眉を顰(しか)め、
「何だ、人間の口の利方(ききかた)だ?……ほい、じゃ、ありゃ此処等(ここら)の稲荷様か。」
「まあ!」
「何だい?」
「あら、名題の方じゃありませんか、巽さんと云う俳優(やくしゃ)だわよ。」
「畜生め、此奴等(こいつら)、道理で騒ぐぜ。むむ、素顔にゃはじめてだ。」
 と、遠くを行く辰吉のすらりとした、後姿に伸上る。
「可いわねえ。」と、可厭(いや)な目色(めつき)。
「黙ってろ。俺もこう見えて江戸児(えどっこ)だ。巽の仮声(こわいろ)がうめえんだ。……」
「あら、嬉しい。ひい!」と泣声を放ったり。
「馳走をしねえ、聞かして遣(や)ら。二見中の鮑(あわび)と鯛を背負(しょ)って来や。熱燗熱燗。」と大手をふった。
 これじゃ頓(やが)て、鼻唄も出そうである。

「もしもし、貴方。」
 と媚(なまめ)かしい声。
 溝端(みぞばた)の片陰(かたかげ)に、封袋(ふうたい)を切って晃乎(きらり)とする、薬の錫(すず)を捻(ひね)くって、伏目に辰吉の彳(たたず)んだ容子(ようす)は、片頬(かたほ)に微笑(ほほえみ)さえ見える。四辺(あたり)に人の居ない時、こうした形は、子供が鉄砲玉でも買って来たように、邪気無(あどけな)いものである。
 水菓子屋で聞いた薬屋へ行くには、彼は、引返(ひっかえ)して別荘の前をまた通らねば成(な)らなかった。それから路(みち)を折曲って、草生(くさはえ)の空地を抜けて、まばら垣について廻って、停車場(ステエション)方角の、新開と云った場末らしい、青田も見えて藁屋(わらや)のある。その中に、廂(ひさし)に唐辛子、軒に橙(だいだい)の皮を干した、……百姓家の片商売。白髪の婆が目を光らして、見るなよ、見るなよ、と言いそうな古納戸めいた裡(なか)に、字も絵も解らぬ大衝立(おおついたて)を置いた。
 宝丹は其処にあったが、不思議に故郷に遠い、旅にある心地がして、巽はふと薄い疲労(つかれ)さえ覚えた。道もやがて別荘の門から十町ばかり離れたろう。
 右から左に弁ずる筈を、こうして手に入れた宝丹は、心嬉しく、珍らしい。
「あの、お薬をめしあがりますなら、お湯か何ぞ差上げますわ。」
 唯(ふと)、片側の一軒立(いっけんだち)、平屋の白い格子の裡に、薄彩色の裙(すそ)をぼかした、艶なのが、絵のように覗いて立つ。
 黒髪は水が垂りそう、櫛巻の房(ふッさ)りとした、瓜核顔(うりざねがお)の鼻筋が通って、眉の恍惚(うっとり)した、優しいのが、中形の浴衣に黒繻子(くろじゅす)の帯をして、片手、その格子に掛けた、二の腕透いて雪を欺(あざむ)く、下緊(したじめ)の浅葱に挟んで、――玉の荵(しのぶ)の茶室(かこい)を起(た)った。――緋の袱紗(ふくさ)、と見えたのは鹿子絞(かのこしぼり)の撥袋(ばちぶくろ)。
 片手に象牙の撥を持ったままで、巽に声を掛けたのである。
 薬の錫を持ったなり、浴衣の胸に掌(て)を当てて、その姿を見たが、通りがかりの旅人に、一夜を貸そうと云った矢先、巽は怪む気もしないで、
「恐入りますな。」
「さあ何うぞ。」
 と云って莞爾(にっこり)した。が、撥を挙げて靨(えくぼ)を隠すと、向うむきに格子を離れ、細(ほっそ)りした襟の白さ、撫肩(なでがた)の媚(なまめ)かしさ。浴衣の千鳥が宙に浮いて、ふっと消える、とカチリと鳴る……何処かに撥を置いた音。
 すぐに、上框(あがりがまち)へすっと出て、柱がくれの半身で、爪尖(つまさき)がほんのりと、常夏(とこなつ)淡く人を誘う。
 巽は猶(なお)関(かま)わず格子を開けた。
「じゃあ御免なさいよ。」
 と、土間に釣った未だ灯を入れない御神燈に蔦の紋、鶴沢宮歳(つるさわみやとし)とあるのを読んで、ああ、お師匠さん、と思う時、名の主は……早や次の室(ま)の葭戸越(よしどごし)、背姿(うしろすがた)に、薄(うっす)りと鉄瓶の湯気をかけて、一処(ひとところ)浦の波が月に霞んだようであった。
「恐入ります。」
 婦(おんな)は声を受けて、何となく、なよやかな袖を揺がしながら、黙って白湯を注いでいる。
「拝借します。」
 と巽は其処の上框へ。
 二つ三つ、すらすらと畳触り。で、遠慮したか、葭戸の開いた敷居越に、撓(しな)うような膝を支(つ)いて、框の隅の柱を楯に、少し前屈みに身を寄せる、と繻子(しゅす)の帯がキクと鳴る、心の通う音である。
「温湯(ぬるまゆ)にいたしましたよ、水が悪うございますから。」
「……御深切(ごしんせつ)に。」
 取った湯呑は定紋着(じょうもんつき)、蔦を染めたが、黄昏に、薄りと蒼(あお)ずむと、宮歳の白魚(しらお)の指に、撥袋の緋が残る。
「ああ、私。」と、ばらりと落すと、下褄の端にちらめいて、瞼(まぶた)に颯(さっ)と色を染めた、二十三四が艶(えん)なる哉(かな)。

「私、何うしたら可(い)いでしょう。極(きま)りが悪うござんすわ。」
 と婦(おんな)は軽く呼吸(いき)を継いで、三味線(みすじ)の糸を弾くが如く、指を柱に刻みながら、
「私、お知己(ちかづき)でもないお方をお呼び申して、極りが悪いものですから、何ですか、ひとりで慌てしまって、御茶台にも気が付きません。……そんな自分の湯呑でなんか。……失礼な、……まあ、何うしたら可(よ)うございましょうね。」
 と襟を圧えて俯向(うつむ)いて、撥袋を取って背後(うしろ)に投げたが、留南奇(とめぎ)の薫が颯(さっ)として、夕暮の奇(く)しき花、散らすに惜しき風情あり。辰吉は湯呑を片手に、
「何うしまして、結構です。難有(ありがと)う。そしてお師匠さん。貴女の芸にあやかりましょう。」
「存じません。」
 と、また一刷毛瞼を染めつつ、
「人様(ひとさま)御迷惑。蚊柱のように唸るんでございますもの、そんな湯呑には孑孑(ぼうふら)が居ると不可(いけ)ません。お打棄(うっちゃ)りなさいましよ。唯今、別のを汲替(とりか)えて差上げますから。」と片手をついて立構(たちがまえ)す。
 辰吉は圧(おさ)えるように、
「ああ、しばらく。貴女(あなた)がそんな事をお言いなすっちゃ私は薬が服(の)めなく成ります。この図体(ずうたい)で、第一、宝丹を舐めようと云う柄じゃないんですもの。鯱(しゃち)や鯨と掴合って、一角丸(ウニコオル)を棒で噛ろうと云うまどろすじゃありませんか。」
 婦(おんな)が清(すずし)い目で、口許に嬉しそうな笑を浮べ、流眄(ながしめ)に一寸(ちょっと)見て、
「まあ、そうしてお商売は、貴方。」
「船頭でさあね。」
「一寸! 池川さんのお遊び道具の、あの釣船ばかりお漕ぎ遊ばす……」
 お師匠さんは御存じだ。
「雑(ざっ)と、人違いですよ。」と眦(まなじり)を伏せてぐっと呑んで、
「申兼(もうしか)ねましたが、もう一杯。丁(ちょう)ど咽喉が渇いて困っていた、と云う処です。」
 艶なお師匠さんは、いそいそして、
「お出ばなにいたしましょうね。」
「薬を服(の)みました後ですから、お湯の方が結構です――何ですか、お稽古は日が暮れてからですか。ああ、いや、それで結構。」
 辰吉は錆のある粋な笑(わらい)で、
「ははは、些(ち)と厚かましいようですな。」
「沢山(たんと)おっしゃいまし。――否(いいえ)、最(も)う片手間の、あの、些少(ほん)の真似事でございます。」
「お呼び申せば座敷へも……?」
「可厭(いや)でございますねえ、貴方。」
 と片手おがみの指が撓(しな)って、
「そんな御義理を遊ばしちゃ、それじゃ私申訳がありません。それで無くってさえ、お通りがかりをお呼び申して、真個(ほんとう)に不躾(ぶしつけ)だ、と極りが悪うございましてね、赫々(かっかっ)逆上(のぼせ)ますほどなんですもの。」
 身を恥じるように言訳がましく、
「実は、あの、小婢(こども)を買ものに出しまして、自分でお温習(さらい)でもしましょうか、と存じました処が、窓の貴方、荵(しのぶ)の露の、大きな雫が落ちますように、螢が一つ、飛ぶのが見えたんでございますよ……」
「螢。」
 と巽は、声に応じて言返した。
「はあ、時節は過ぎましたのを、つい、珍しい。それとも一ツ星の光るお姿か知ら、とそう思って立ったんですが、うっかり私、撥なんか持って、螢だったら、それで叩きますつもりだったんでしょうかねえ。そんな了簡で、螢なんて、蜻蛉(とんぼ)か蝙蝠(こうもり)で沢山でございます。」
 蜻蛉は寝たから御存じあるまい、軒前を飛ぶ蝙蝠が、べかこ、と赤い舌を出して、
「これは御挨拶だ。」
 と飜然(ひらり)と行(や)る。

「それですから、ふっと、その格子を覗きました時は、貴方の御手(おて)の御薬の錫をば、あの、螢をおつかまえなすった、と見ましたんですよ。」
 器は巽の手に光る。
 彼は掌(たなそこ)に据えて熟(じっ)と視(み)た。
「まあ、お塩梅が沢山(たんと)悪いんじゃありませんか、何しろお上りなすって、お休みなさいましたら何うでしょう。貴方、御気分は如何です。」と、摺寄って案じ顔。
 巽は眉の凜とした顔を上げて、
「否(いいえ)、気分は初めから然(さ)したる事も無いのです。宝丹は道楽に買った、と云って可いくらいなんですが。」
 爾時(そのとき)、袂へ突込(つッこ)んで、
「今の、螢には、何だか少し今度は係合(かかりあい)がありそうですよ――然うですか、螢を慕ってお師匠さん、貴女格子際へ出なすったんだ。」
「貴方のお口から、そんな事、お人の悪い、慕って、と云う柄じゃありません。」
「まあまあ……ですがね、私が宝丹を買いに出たはじまりが、矢張り螢ゆえに、と云ったような訳なんですよ。ふっと、今思出したんです……」
「へええ。」と沈んだような声で言う、宮歳は襟を合せた。
「今度、当地(こちら)へ来ます時に、然うです。興津(おきつ)……東海道の興津に、夏場遊んでる友だちが居て、其処へ一日寄ったもんです。夜汽車が涼しいから、十一時過ぎでした、あの駅から上りに乗ったんですよ、右の船頭が。」
「……はあ、可(よ)うございます。ほほほ。」と笑(わらい)が散らぬまで、そよそよ、と浅葱の団扇の風を送る。指環の真珠が且(か)つ涼しい。
「頂戴しますよ。」
 と出してあった薄お納戸の麻の座蒲団をここで敷いて、
「小さな革鞄一つぶら下げて、プラットホームから汽車の踏段を踏んで、客室の扉を開けようとすると、ほたりと。」
 巽は口許の片頬を圧(おさ)えて言ったのである。
「虫が来て此処へ留ったんです、すっと消(き)え際(しな)の弱い稲妻か、と思いました。目前に光ったんですから吃驚(びっくり)して、邪険に引払うと、最(も)う汽車が動出す。
 妙にあとが冷つくのです、濡れてるようにね、擦って見ても何ともないので。
 忘れていると、時々冷い。何か、かぶれでもしやしないかしら、螢だと思ったものの、それとも出合頭(であいがしら)に、別の他の毒虫ででもありはしないかと、一度洗面台へ行って洗いましたよ。彼処(あすこ)で顔を映して見ても別に何事もないのです、そのうちに紛れてしまう。それでも汽車で、うとうとと寝た時には、清水だの、川だの、大な湖だの、何でも水の夢ばかり切々(きれぎれ)に見ましてね、繋ぎに目が覚める、と丁ど天龍川の上だったり、何処かの野原で、水が流れるように虫の鳴いてた事もありましたがね。最う別に思出しもしないで、つい先刻(さっき)までそれ切りで済んでいました。
 今しがたです……
 池川さんの、二階で、」
 と顔を見合せた時、両方で思わず頷く様な瞳を通わす、ト圧えた手を膝にして巽はまた笑を含んで、
「……釣舟にしておきましょう、その舟のね、表二階の方へ餉台(ちゃぶだい)を繋いで、大勢で飲酒(のみ)ながら遊んでいたんですが、景色は何とも言えないけれど、暑いでしょう。この暑さと云ったら暑さが重石(おもし)に成って、人間を、ずんと上から圧付(おしつ)けるようです。窓から見る松原の葭簀(よしず)茶屋と酸漿提灯(ほおずきぢょうちん)と、その影がちらちら砂に溢(こぼ)れるような緋色の松葉牡丹ばかりが、却って目に涼しい。海が焼原に成って、仕方がない、それじゃ生命も続くまいから、陸(おか)の方の青い草木を水にしておけ、と天道(てんとう)の御情けで、融通をつけて下さる、と云った陽気ですからね。」
「まあ、随分、ほほほ、もう自棄(やけ)でございますわね、こんなに暑くっちゃ。」
 その癖、見る目も涼しい黒髪。

「些(ちっ)とでも涼しい心持に成りたくッて、其処等の木の葉の青いのを熟(じっ)と視ていて、その目で海を見ると、漸(やっ)と何うやら水らしい色に成ります。
 でないと真赤ですぜ。日盛(ひざかり)なんざ火が波を打っているようでしょう。――さあ、然うなると不思議なもので今も言った通りです。潮煮(うしお)の鯛の目、鮑の蒸したのが涼しそうで、熱燗の酒がヒヤリと舌に冷いくらい――貴女が云った自棄(やけ)ですか――
 夕方、今しがた一時(ひとしきり)は、凪の絶頂で口も利けない。餉台を囲んだ人の話声を、じりじりと響くように思って、傍目も触らないで松原の松を見ていて、その目をやがて海の上にこう返すと、」
 巽は目を離して指(ゆびさ)したが、宮歳の顔を見て、※(「金+肅」、第3水準1-93-39)(さ)びた声して低く笑った。
「はははは、べッかっこをするんじゃありませんよ――。然うすると、海の色が朝からはじめて、颯(さっ)と一面に青く澄んで、それが裏座敷の廻縁(まわりえん)の総欄干へ、ひたひたと簾(すだれ)を流すように見えましてね、縁側へ雪のような波の裾が、すっと柔かに、月もないのに光を誘って、遥かの沖から、一よせ、寄せるような景色でした。
 悚(ぞっ)と涼しく成ると、例の頬辺(ほっぺた)が冷(ひや)りとしました、螢の留った処です。――裏を透して、口の裡(うち)へ、真珠でも含んだかと思う、光るように胸へ映りました。」
 敷居に凭(もた)れかかり、団扇を落して聞いていた婦(おんな)は、膝の手を胸へ引いて、肩を細く袖を合せた。
「可厭(いや)な心持じゃなかったんです――それが、しかし確に、氷を一片(ひときれ)、何処かへ抱いたように急に身を冷して、つるつると融るらしく、脊筋から冷い汗が流れました。香(におい)がします、水のような、あの、螢の。」
 月の柳の雫でも夜露となれば身に染みる。
「私は何かに打たれたように、フイと席を立って戸外(そと)へ出ました。まだ明い。内の二階で、波ばかり、青く欄干にかかったようには、暮れてはいません。
 名所図絵にありそうな人通りを見ていると、最(も)う何もかも忘れました。が、宝丹は用心のために、柄にもない船頭が買ったんですが。
 今の螢のお話で、無遠慮に御厄介に成りました。申訳にもと、思いますから、――私も、無理に附着(くッつ)けたらしいかも知れませんが、螢の留ったお話をしたんです。」
 と半ば湯呑のあとを飲むと、俯目(ふしめ)に紋を見て下に置いた。彼は帰りがけの片膝を浮かしたのである。
 唯(と)、呼吸(いき)を詰めて、
「貴方。」
「え。」
 余り更まった婦(おんな)の気に引入れられて驚いた体(てい)に沈んで云った。
 婦(おんな)は肩を絞るように、身をしめた手を胸に、片手を肱に掛けながら、
「螢じゃありませんわ。螢じゃありませんわ。」
「何がですえ。」
「そりゃ、あの……何ですよ、屹(きっ)と……そして、その別荘のお二階へ、沖の方から来ましたって、……蒼い、蒼い、蒼い波は。」
 柱の姿も蒼白く、顔の色も俤立(おもかげだ)って、
「お話を伺いますうちにも、私は目に見えますようで。そして、跡を、貴方の跡を追って浪打際が、其処へ門まで参っているようですよ。」
 と、黒繻子の帯の色艶やかに、夜を招いて伸上(のびあが)る。
 白い犬が門を駈けた。
 辰吉は腰を掛けつつ、思わず足を爪立てた。

「貴方、その欄干にかかりました真蒼(まっさお)な波の中に、あの撫子(とこなつ)の花が一束流れますような、薄い紅色の影の映ったのを、もしか、御覧なさりはしませんか。」
 ……と云う、瞳の色の美しさ、露を誘って明(あかる)いまで。その色に誘われて、婦(おんな)が棄てた撥袋の鏡台の端に掛ったのを見た。
 我にもあらず茫(ぼう)と成って、
「彼処(あすこ)に見える……あれですか。」
「否(いいえ)、あんなものじゃありません。」とやや気組(きぐ)んで言う。
「それでは?……」
「否(いいえ)、絽(ろ)の色なんです。――あの時あの妓(ひと)――は緋の長襦袢を着ていました。月夜のような群青に、秋草を銀で刺繍(ぬいとり)して、ちらちらと黄金(きん)の露を置いた、薄いお太鼓をがっくりとゆるくして、羅(うすもの)の裾を敷いて、乱次(しどけ)なさったら無い風で、美しい足袋跣足(たびはだし)で、そのままスッと、あの別荘の縁を下りて、真直(まっすぐ)に小石の裏庭を突切(つッき)ると、葉のまばらな、花の大きなのが薄化粧して咲きました、」と言う……
 大輪の雪は、その褄を載せる翼であった。
「あの、夕顔の竹の木戸に、長い袂も触れないで、細(ほっそ)りと出たでしょう。……松の樹の下を通る時は、遠い路を行くようでした。舟の縁(へり)を伝わると、あれ、船首(みよし)に紅い扱帯(しごき)が懸る、ふらふらと蹌踉(よろけ)たんです……酷く酔っていましたわね。
 立直った時、すっきりした横顔に、縺(もつ)れながら、島田髷(しまだ)も姿も据(すわ)りました。
 私はその時、隣家の淡路館の裏にあります、ぶらんこを掛けました、柱の処で見ていたんですよ、一昨年ですわね、――巽さん。」
 と、然(しか)も震(ふるえ)を帯びた声で、更めて名を呼んで、
「貴方に焦(こが)れて亡く成りました、あの、――小雪さん――の事ですよ。」
 実(げ)に、それは、小雪は伊勢の名妓であった。
 辰吉は、ハッと気を打って胸を退(ひ)いた。片膝揚げつつ框(かまち)を背後(うしろ)へ、それが一浪乗って揺れた風情である。
 褄に曳いたも水浅葱、団扇の名の深草ならず、宮歳の姿も波に乗ってぞ語りける。
「不思議ですわね、あの時、海が迎いに来て、渚が、小雪さんに近く成ると、もう白足袋が隠れました。蹴出(けだ)しの褄に、藍がかかって、見渡す限り渚が白く、海も空も、薄い萌黄でござんした。
 其処に唯一人、あの妓(ひと)が立ったんです。笄(こうがい)がキラキラすると、脊の嫋娜(すらり)とした、裾の色の紅(くれない)を、潮が見る見る消して青くします。浪におされて、羅(うすもの)は、その、あの蹴出しにしっとり離れて、取乱したようですが、ああした品の可い人ですから、須磨の浦、明石の浜に、緋の袴で居るようでした。」
 ――驚破(すわ)泳ぐ、とその時、池川の縁側では大勢が喝采した。――
「あれあれ渚を離れる、と浪の力に裾を取られて、羅のそのまんま、一度肩まで浸りましたね。衝(つ)と立つ時、遠浅の青畳、真中とも思うのに、錦の帯の結目が颯(さっ)と落ちて、夢のような秋草に、濡れた銀(ぎん)の、蒼い露が、雫のように散ったんです。
 まあ、顔が真蒼(まっさお)、と思うと、小雪さんは熟(じっ)と沖を凝視(みつ)めました、――其処に――貴方のお頭(つむり)と、真白な肩のあたりが視えましたよ。
 近所を漕いだ屋根舟の揺れた事!
 貴方は泳いで在(い)らしったんです。
 真裸の男まじりに、三四人、私の知った芸者たちも五六人、ばらばらと浜へ駈けて出る。中には舫(もや)った船に乗って、両手を挙げて、呼んだ方もござんした、が、最(も)うその時は波の下で、小雪さんの髪が乱れる、と思う。海の空に、珠の簪(かんざし)の影かしら、晃々(きらきら)一ツ星が見えました。」

「その裸体(はだか)なのは別荘の爺やさんでございましたってね。」
「さよう治平と云う風呂番です。」と言いながら、巽の面(おもて)は面(めん)の如く瞳が据った。
 灯(ともし)なき御神燈は、暮迫る土間の上に、無紋の白張(しらはり)に髣髴(ほうふつ)する。
「爺さんが海へ飛込んで、鉛の水を掻くように、足掻(あが)いて、波を分けて追掛けましたわね。
 丁ど沖から一波立てて、貴方が泳返しておいでなさいます――
 あとで、貴方がお話しなすッたって……あの、承りましたには、仰向けに成って、浪の下の小雪さんが、……嘸(さ)ぞ苦しかったでしょう、乳を透して絽の紅い、其処の水が桃色に薄(うっす)りと搦(から)んでいる、胸を細く、両手で軽く襟を取って、披(はだ)けそうにしていたのが、貴方がその傍にお寄りなさいました煽りに、すっと立って、髷に水をかぶっていて、貴方の胸へ前髪をぐっちょり、着(つ)けました時、あの、うつくしい白足袋が、――丁ど咽喉(のど)の処へ潮を受けてお起ちなすった、――貴方の爪先へ、ぴたりと揃った、と申すじゃありませんか。」
 巽は框をすっくと立った!
「……吃驚(びっくり)なすって、貴方は、小雪さんの胸を敷いて、前へお流れなさいましたってね。」
「そして驚いて水を飲んだ、今も一斉(いっとき)に飲むような気がします。」と云う顔も白澄むのである。
「其処を爺さんが抜切って、小雪さんを抱きました。ですけれども、最(も)うその時、あの妓(ひと)の呼吸(いき)は絶えていたのです――あの日は、小雪さんは、大変にお酒を飲んでいたんですってね、茶碗で飲んで、杯洗(はいせん)まであけたんだそうですね。深酒の上に、急に海へ入ったもんですから、血が留(とま)ってしまったんでしょう。
 そして、死体に成ってから、貴方のお胸に縋着(すがりつ)いたんじゃありませんか、海の中で、」
 と膝を寄せる、褄が流れて、婦(おんな)は巽の手を取った。
 指が触ると、掌に、婦(おんな)の姿は頸(うなじ)の白い、翼の青い、怪しく美しい鳥が留ったような気がして、巽の腕は萎えたる如く、往来(ゆきき)に端近(はしぢか)な処に居ながら、振払うことが出来なかった。……四辺(あたり)を見ると、次の間の長火鉢の傍なる腰窓の竹を透いて、其処が空地らしく幻の草が見えた。
「巽さん。」
「…………」
「あの、風呂番の爺さんは、そのまま小雪さんを負(おぶ)い返して、何しろ、水浸しなんですから、すぐにお座敷へは、とそう思ったんでしょう。一度、あの松に舫(もや)った、別荘の船の中へ抱下(だきおろ)しましたわね。雫に浜も美しい……小雪さんの裾を長く曳いた姿が、頭髪(かみ)から濡れてしおしおと舷(ふなべり)に腰を掛けました。あの、白いとも、蒼いとも玉のように澄んだ顔。紅も散らない唇から、すぐに、吻(ほっ)と息が出ようと、誰も皆思ったのが、一呼吸(ひといき)の間もなしにバッタリと胴の間へ、島田を崩して倒れたんです。
 お浴衣じゃありましたけれど、其処にお帯(みおび)と一所(いっしょ)に。」
 と婦(おんな)は情に堪えないらしく、いま、巽の帯に、片頬を熟(じっ)と。……一息して、
「貴方のお召ものが脱いで置いてありました。婦(おんな)の一念……最(も)うそれですもの。……螢はお迎いに行ったんですよ。欄干にかかりました二見ヶ浦の青い波は、沖から、逢いに来たんです。
 不便(ふびん)とお思いなさいまし。小雪さんは一言も何にも口へは出さないで、こがれ死(じに)をしたんです。
 素振(そぶり)、気振(けぶり)が精一杯、心は通わしたでしょうのに、普通(なみ)の人より、色も、恋も、百層倍、御存じの貴方でいて、些(ちっ)とも汲んでお遣んなさらない!――否(いいえ)、小雪さんの心は、よく私が存じております。――
 俺は知らない、迷惑だ、と屹(きっ)と貴方は、然(そ)うおっしゃいましょうけれど、芸妓(つとめ)したって、女(ひと)ですもの、分けて、あんな、おとなしい、内気な小雪さんなんですもの、打ちつけに言出せますか。
 察しておいで遊ばしながら、――いつも御贔屓を受けていましたものですから、池川さんの、内証の御寵妓(おきにいり)ででもあるようにお思いなすって、その義理で、……あれだけに焦れたものを、かなえてお遣んなさらない。……
 堅気はそうじゃあござんすまい、こうした稼業の果敢(はかな)い事は、金子(かね)の力のある人には、屹(きっ)と身を任せている、と思われます。
 御酒の上のまま事には、団扇と枕を寝かしておいて、釣手を一ツ貴方にまかして、二人で蚊帳も釣りましたものを。」……と言う。
 その蚊帳のような、海のような、青いものが、さらさらと肩にかかる、と思うと、いつか我身はまた框に掛けつつ、女の顔が弗(ふっ)と浮いて、空から熟(じっ)と覗いたのである。

「これが俳優(やくしゃ)なの。」
「まあ。」
 しょろしょろ、浪が嬲(なぶ)るような、ひそひそと耳に囁く声。
 松原の茶店の婦(おんな)の、振舞酒に酔い痴れて、別荘裏なる舫船に鼻唄で踏反(ふんぞ)って一寝入りぐッと遣った。が、こんな者に松の露は掛るまい、夜気にこそぐられたように、むずむずと目覚めた六蔵。胴の間に仰向けで、身うちが冷える。唯(と)、野宿には心得あり。道中笠を取って下腹へ当(あて)がって、案山子(かかし)が打倒(ぶったお)れた形でいたのが。――はじめは別荘の客、巽辰吉が、一夜の宿をしようと云った、情ある言(ことば)を忘れず、心に留めて、六が此処に寝たのを知って、(船に苫(とま)を葺(ふ)いてくれるのじゃないか。)と思った。
 舷(ふなばた)へ、かたかたと何やら嵌込(はめこ)む……
 その嵌めるものは、漆塗の艶やかな欄干のようである、……はてな、ひそめく声は女である。――
 うまれながらにして大好物。寝た振でいて目を働かすと、舷に立かかって綺麗な貝の形が見える、大きな蛤。
 それが、その貝の口を細く開いた奥に、白銀(しろがね)の朧なる、たとえば真珠の光があって、その影が、幽(かすか)に暗夜(やみよ)に、ものの形を映出(うつしだ)す。
「芸妓が化けたんだ、そんな姿で踊(おどり)でも踊っていたろう。」
 時に、そんなのが一個(ひとつ)ではない。左舷の処にも立っている。これも同じように、舷へ一方から欄干らしいものを嵌めた、かたり、と響く。
 外にもまだ居る……三四人、皆おなじ蛤の姿である。
「祭礼(まつり)の揃(そろい)かな、蛤提灯――こんなのに河豚も栄螺(さざえ)もある、畑のものじゃ瓜もあら。……茄子(なすび)もあら。」
 但しその提灯を持っているものの形は分らぬ。が、蛤の姿である……と云うのが、衣服(きもの)、その袖、その帯と思う処がいずれも同じ蛤で、顔と見るのが蛤で、目鼻と思い、口と思うのが蛤で、そして灯(ともしび)が蛤である。
 襟か袖かであるらしく、且つ暗(やみ)の綾の、薄紫の影が籠(こ)む。
 時にかたかたと響いて、二三人で捧げ持った気勢(けはい)がして、婦(おんな)の袖の香立蔽(たちおお)い、船に柱の用意があって、空を包んで、トンと据えたは、屋根船の屋根めいて、それも漆の塗の艶(つや)、星の如き唐草の蒔絵が散った。左舷右舷も青貝摺(あおがいずり)。
 六蔵は雛壇で見て覚えのある車のようだ、と偶(ふ)と思う。
 時に、蛤が口を開いた。否(いや)、提灯が、真珠の灯を向けたのである、六の顔へ――そして女の声で言った。
「これが俳優(やくしゃ)なの?」
「まあ。」
「醜(きたな)い俳優(やくしゃ)だわね。」
 ――ままにしろ、此奴等(こいつら)――と心の裡で、六蔵は苦り切る。
「まだ、来ていやしまいと思ったのに、」
「そして、寝ているんだもの、情(じょう)のない。」
「心中の対手(あいて)の方が、さきへ来て寝ているなんて。」
「ねえ、」
 と応じて、呆れたように云った、と思うと、ざっと浪が鳴って、潮が退いたらしく寂寞(ひっそり)する。
 欄干も、屋根も、はっと消えて、蒔絵も星も真の暗闇(やみ)。
 直ぐに、ひたひた、と跫音(あしおと)して、誰か舷へ来たらしい。
 透通るような声が、露に濡れて、もの優しい湿(うるみ)を帯びつつ、
「……巽さん。」
 途端に、はっと衣の香(か)と、冷い黒髪の薫(かおり)がした。
「ああれ、違って……違っているよう。」

 蛤の灯がほんのりと、再(また)来て……
「お退(ど)きよ、退いておくれよ。」
「よう、お前。」
 と言う。……人をつけ、蛤なんぞに、お前呼ばわりをされる兄哥(あにい)でないぞよ。
「此処は、今夜用がある。」
「大事の処なんだから。」
「よう。」
「仕ようがない。ね、酔っぱらって。」
「臭い事。」
「憎らしい、松葉で突(つッ)ついて遣りましょう。」
 敏捷(すばや)い、お転婆なのが、すっと幹をかけて枝に登った。呀(や)、松の中に蛤が、明く真珠を振向ける、と一時(ひとしきり)、一時、雨の如く松葉が灌(そそ)ぐ。
「お、痛(いた)。」
「何うしたの。」と下から云う。
 松の上なが、興(きょう)がった声をして、
「松葉が私を擽(くすぐ)るわよ、おほほ、おほほ。」
「わはは。」と浜の松が、枝を揺って哄(どっ)と笑う。
「きゃッ。」と我ながら猿のような声して笑って、六蔵はむっくと起きて、
「姉等(あねえら)、仕立ものの用はねえか。」と、きょとんとして四辺(あたり)を視(み)た。
 浅葱を飜(かえ)す白浪や。
 燃ゆるが如き緋の裳(もすそ)、浪にすっくと小雪の姿。あの、顔の色、瞳の艶、――恋に死ぬ身は美しや、島田のままの星である。
 蛤が六つ七つ、むらむらと渚を泳いで、左右を照らす、真珠の光。
 凄じいほど気高い顔が、一目、怨めしそうに六蔵の面(おもて)を視て、さしうつむいて、頸(えり)白く、羅の両袖を胸に犇(ひし)と掻合(かきあわ)す、と見ると浪が打ち、打ち重って、裳を包み、帯を消し、胸をかくし、島田髷の浮んだ上に、白い潮がさらり、と立つ。と磯際の高波は、何とてそのまま沖に退くべき。
 颯と寄る浪がしら、雪なす獅子の毛の如く、別荘の二階を包んで、真蒼(まっさお)に光る、と見る、とこの小舟は揺上って、松の梢に、ゆらりと乗るや、尾張を越して富士山が向うに見えて、六蔵素天辺(すてっぺん)に仰天した。
 這奴(しゃつ)横紙を破っても、縦に舟を漕ぐ事能わず、剰(あまつさ)え櫓櫂(ろかい)もない。
「わああ、助けてくれ、助船(たすけぶね)。」
「何うしました、何うした。」
 人目を忍んで、暗夜(やみよ)を宮歳と二人で来た、巽は船のへりに立つと、突然(いきなり)跳起きて大手を拡げて、且つ船から転がり出した六蔵のために驚かされた。
 菩提所の――巽は既に詣ではしたが――其処ではない。別荘の釣舟は、海に溺れた小雪が魂をのせた墓である。
「小雪さんを私と思って。」……
 あの、船で手を取って、あわれ、生命掛けた恋人の、口ずから、切(せ)めて、最愛(いとし)い、と云って欲(ほし)い、可哀相とだけも聞かし給え。
 御神燈は未だ白かったのに、夜の暗さ、別荘の門、街道も寝静まる、夢地を辿る心地して、宮歳のかよわい手に、辰吉は袖を引かれて来たのであった。
「へい、仕立ものの御用はねえかね。」
 きょろん、とした六蔵より、巽が却って茫然とした。
 宮歳の姿は、潮の香の漾(ただよ)う如く消えたのである。
 別荘の主人池川の云うのには、その宮歳は、小雪と姉妹のように仲のよかった芸妓である。
 内証ながら、山田の御師(おし)、何某(なにがし)にひかされて、成程、現に師匠をしている、が、それは、山田の廓、新道の、俗に螢小路と云う処に媚(なまめ)かしく、意気である。
 言語道断、昨夜(ゆうべ)急に二見ヶ浦へ引越して来る筈はない!
 扨(さ)て翌朝の事であった。
 電話で、新道の一(ある)茶屋へ、宮歳の消息を聞合せると、ぶらぶら病で寝ていたが、昨日急に、変(へん)が変(かわ)って世を去った。
 ――写真を抱いていましたよ、死際に薄化粧して……巽さんによろしく……――
 その時、別荘の座敷の色は、二見ヶ浦の、海の蒼いよりも藍であった。
 簾に寄る白浪は、雪の降るより尚(な)お冷い。
 その朝、六蔵も別荘の客の一人であった。が、お先ばしりで、衆(ひと)と一所(いっしょ)に、草の径(こみち)を、幻の跡を尋ねた――確に此処ぞ、と云う処に、常夏がはらはら咲いて、草の根の露に濡れつつ、白檀の蒔絵の、あわれに潮にすさんだ折櫛が――その絵の螢が幽に照(て)った。
 松に舫った釣舟は、主人(あるじ)の情(なさけ)で、別荘の庭に草を植え、薄、刈萱(かるかや)、女郎花(おみなえし)、桔梗(ききょう)の露に燈籠を点して、一つ、二見の名所である。
(『新小説』一九一六[大正五]年四月号)
了

底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」ちくま文庫、筑摩書房
   2009(平成21)年7月10日第1刷発行
初出:「新小説」
   1916(大正5)年4月号
※「一寸」に対するルビの「ちゃと」と「ちょっと」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2018年9月28日作成
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