あらすじ
深夜、高熱にうなされる男。腹も背も臀も痛み、苦しみと怒りが入り混じった言葉が次々と口から溢れ出す。周囲の人々や世の中全てを馬鹿にしたような言葉で罵倒し、意識は朦朧としていく。時折、昔の遊びや歌が思い出され、その断片を口ずさむ姿は、まるで子供のように無邪気だ。しかし、その無邪気さは、深い苦しみと絶望を隠しているかのようである。
  時は午後八時頃、体温は卅八度五分位、腹も背も臀(しり)も皆痛む、
 アッ苦しいナ、痛いナ、アーアー人を馬鹿にして居るじゃないか、馬鹿、畜生、アッ痛、アッ痛、痛イ痛イ、寝返りしても痛いどころか、じっとして居ても痛いや。
 アーアーいやになってしまう。もうだめかな。もういかんや。ほんとうに人を馬鹿にしとる。いやになっちまうな。いやになりんすだ。いやだいやだも………だっていやがらア。衣(ころも)、骭(かん)に――到(いた)り――か、天下の英雄は眼中にあり――か。人を馬鹿にしてるな。そりゃ、聞えません伝兵エサンと来るじゃないか。三吉一つ歌って見や。アイアイ。そんな事じゃなかったよ。坂、坂は照る照る鈴、鈴鹿は曇る、あいのあいの土山雨がふる、ヨーヨーと来るだろう。向うの山へ千松がと来るだろう。そんなのはないよ。五十四郡の思案の臍(へそ)と来るよ。思案の臍とはどんな臍だろう。コイツは可笑(おか)しい、ハハハハハ痛い痛い痛い横腹の痛みをしゃくッて馬鹿に痛いよ。しかし思案の臍という臍が五十四郡に一ぱい並んで居ると思うと馬鹿に可笑しい。しかもその臍の上に一つずつ土瓶が掛けてあってそれが皆茶をわかして居ると思うといよいよ可笑しい。臍があってその上に蜘(くも)がぶら下って居るというのは分るかい。へそくも今夜は来るであろサ。おそくも今夜はのしゃれだよ。そんな奴ならいくらもあるよ。笊(ざる)の中に子供を入れたので、ざる餓鬼やざる柿サ。閻魔様(えんまさま)が舌を出してその上に石を載せてる処はどうだ。閻魔舌の力持サ。古いネ。お話が古くなっていけないというので墨水(ぼくすい)師匠などはなるたけ新しい処を伺うような訳ですが手前の処はやはりお古い処で御勘弁を願いますような訳で、たのしみはうしろに柱前に酒左右に女ふところに金とか申しましてどうしてもねえさんのお酌(しゃく)でめしあがらないとうまくないという事で、私などの汁粉党には一向分りませんが、ゲーッアー愉快愉快。一歩は高く一歩は低くと来らア。何でも家がぐらぐらして地面が波打って居やがらア。ゲー酒は百薬の長、憂(うれい)の玉箒(たまぼうき)、ナンテ来らア。これでも妻君が内に待ってるだろうッちゅうので折詰を持って帰るなどは大ていな事じゃないよ。嚊(かかあ)大明神尤(もっとも)少々焼いて見るなぞは有難いな。女房の焼くほど亭主持てもせず、ハハハハハ。これでも今夜帰ると、ゲー、嚊大明神きっと焼くよ。あなた今夜どこで飲みましたよ、位いうだろう。どこで飲んだ、どこで飲んだもねえものだ、おれが飲む処は新橋か柳橋、二重橋から和田倉橋、オットそいつはからくりだよ、何、今夜はね柳橋でね小紫をあいかたで飲みましたよ。オヤ小紫ですってそれなら柳橋じゃない吉原でしょう。ナーニ柳橋にも小紫というおいらんがありますよ。スルト、嚊(かかあ)め柳橋においらんがありますか、そりゃ始(はじめ)て聞きました。それでは柳橋の何屋に、などと来るだろう。柳橋の三浦屋サ先日高尾が無理心中をしたその跡釜(あとがま)へ今日小紫を抱えたのサもっとも小紫は吉原の大文字に居たのだが昨日自由廃業したと、チャント今朝の『二六』に出て居るじゃないか、とまじめにいうと、アラいやだよ人を馬鹿にしてる、あなたはきっといい処があってそこで……くやしいッていうので枕か何かにくいつくよ、きっと。そうすると物になるね。鬢(びん)のほつれは枕のとが――よ――とおいでなさる、それをお前にとが――め――………。クヤクヤ貴様は何じゃ、往来で大声放歌はならんちゅう位の事は心得て居るじゃろう。どうも恐れ入りましてございます。恐れ入ったではいかんじゃないか。恐れ入りましてございます。貴様姓名は何というか。へ私は神田八丁堀二丁目五十五番地ふくべ屋呑助と申します、どうかお見知りおかれて御別懇に願います。まだ無礼な事申しちょるか。恐れ入りました。見受ける処がよほど酩酊(めいてい)のようじゃが内には女房も待っちょるだろうから早う帰ってはどじゃろうかい。有り難うございます。………世の中に何が有難いッてお廻りさん位有難い者はないよ。こんな寒い晩でも何でもチャント立って往来を睨(にら)んで、何でも怪しいものと見とめると、クヤクヤ貴様は何じゃ、とおいでなさる、私は神田八丁堀二丁目五十五番地ふくべ屋呑助でございます、と来ると、見受ける処よほど酩酊のようじゃが内には女房も待っちょるじゃろうから早う帰ってはどじゃろかい、とおいでなさる。どじゃろかい、とおいでなさる処が有難い、お廻りさんがあんなにおっしゃるから早く帰ってこの折詰を女房にくわせてはどじゃろかい。(未完)
〔明治35?〕
了

底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
   2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社
   1975(昭和50)年10月刊
※底本では、表題の下に「〔署名不詳〕」と記載されています。
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2010年5月19日作成
2011年5月12日修正
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