あらすじ
鬼ヶ島を舞台に、桃太郎の悪行によって生まれた深い恨みと、鬼ヶ島の王の悲痛な願いが渦巻きます。王は、桃太郎を討ち、奪われた宝物を取り戻せる者を、鬼ヶ島の王にすると宣言します。この触れ込みに、多くの若鬼が名乗り出ますが、桃太郎の恐るべき力に誰も敵いません。そんな中、かつて城門の守りを務めていた鬼の夫婦が、復讐の機会を伺います。彼らは、夜叉神に祈りを捧げ、生まれた息子こそが、桃太郎を打ち倒す運命の人となるのです。果たして、夫婦の願いは叶うのでしょうか?そして、鬼ヶ島には、再び平和が訪れるのでしょうか?
「おにが嶋の文字にて」の図
「鬼桃太郎」の図

むかし/\翁(ぢゞ)は山(やま)へ柴刈(しばかり)に、
媼(ばゞ)は洗濯(せんたく)の河(かは)にて、拾(ひろ)
ひし桃實(もゝ)の裏(うち)より
生(うま)れ出(い)でたる桃太郎(もゝたらう)、
猿(さる)雉子(きじ)犬(いぬ)を引率(いんぞつ)して
この鬼个島(おにがしま)に攻來(せめきた)り、
累世(よゝ)の珍寳(たから)を分(ぶん)
捕(どり)なし、勝矜(かちほこ)らせて
還(かへ)せし事(こと)、この島(しま)末(まつ)
代(だい)までの耻辱(ちじよく)なり、
「鬼王」の図
あはれ願(ねが)はくは武勇(ぶゆう)
勝(すぐ)れたる鬼(おに)のあれかし
其力(そのちから)を藉(かり)てなりともこの
遺恨(うらみ)霽(はら)さばやと、時(とき)の王鬼(わうおに)
島中(しまぢゆう)に觸(ふれ)を下(くだ)し、誰(たれ)にても
あれ日本(につぽん)を征伐(せいばつ)し、桃太郎奴(もゝたらうめ)が
若衆首(わかしゆくび)と、分捕(ぶんど)られたる珍寳(たから)
を携(たづさ)へ還(かへ)らむものは、此島(このしま)の
王(わう)となすべしとありければ、血氣(けつき)に逸(はや)る
若鬼輩(わかおにども)、ひこ/\と額(ひたひ)の角(つの)を蠢(うごめ)かし、
我(われ)功名(こうみやう)せむと想(おも)はざるはな
けれども、いづれも桃太郎(もゝたらう)
が技※(てなみ)[#「てへん+兩」、U+639A、2-15]に懲(こ)り、我(われ)はと名乘出(なのりい)
づるものもあらざりけり、
「鬼王の觸」の図
茲(こゝ)に阿修羅河(あしゆらかは)の畔(ほとり)に
世(よ)を忍(しの)びて、侘(わび)しく住(す)
みなせる夫婦(ふうふ)の鬼(おに)あり
けり、
もとは鬼个(おにが)
島(しま)の城門(じやうもん)の
衞司(まもりつかさ)にてあ
りけるが、桃(もゝ)
太郎(たらう)攻入(せめいり)の
砌(みぎり)敢(あへ)なくも
鐵(てつ)の門扉(とびら)を打摧(うちくだ)かれ、敵軍(てきぐん)
乱入(らんにふ)に及(およ)びし條(でう)、其身(そのみ)の懈怠(おこたり)に因(よ)るものなり
とて、斜(なゝめ)ならず王鬼(わうおに)の勘氣(かんき)を蒙(かうふ)り、官(くわん)を剥(は)がれ世(よ)に疎(うとま)れ、
今(いま)は漁人(ぎよじん)となつて餘命(よめい)を送(おく)るといへども、何日(いつか)は身(み)の罪(つみ)を償(あがな)うて再(ふたゝ)び
世(よ)に出(い)でむことを念懸(こゝろが)け、
子鬼(こおに)
の
角(つの)
の束(つか)の間(ま)も
忘(わす)るゝ間(ひま)ぞなかりける、さる
「夫婦の鬼」の図
ほどに此觸(このふれ)を聞(き)く嬉(うれ)しさ、茨木(いばらき)
童子(どうじ)が斷落(きりおと)されし我(わが)片腕(かたうで)をも見(み)た
らむ心地(こゝち)して、此時(このとき)なりと心(こゝろ)ばかりは
逸(はや)れども、嚮(さき)に城門(じやうもん)の
敗戰(やぶれ)に桃太郎(もゝたらう)と亘合(わたりあ)
はせ、五十貫目(ごじつくわんめ)の鐵棒(てつのぼう)もて、
右(みぎ)の角(つの)を根元(ねもと)より摧折(ひしをら)れた
る創(きず)の今(いま)に疼(いた)むこと頻(しき)りにして、
不治(ふぢ)の疾(やまひ)を得(え)たりければ、合戰(かつせん)な
むど思(おも)ひも寄(よ)らず、かゝる時(とき)子(こ)だ
にあらばと頻(しき)りに妻(つま)なる鬼(おに)を罵(のゝし)りぬ、
されば妻(つま)の言(い)ひけるは、傳聞(つたへき)く日本(につぽん)の
桃太郎(もゝたらう)は、河(かは)に流(なが)れし桃(もゝ)より生(うま)れて武(ぶ)
勇(ゆう)拔群(ばつくん)の小兒(こせがれ)なり、尋常(なみ/\)なる鬼胎(おにのはら)より出(い)で
なむ鬼兒(おにのこ)にては、彼奴(かれめ)が敵手(あひて)とならむこと
覺束(おぼつか)なし、妾(わらは)夜叉神(やしやじん)に一命(いちめい)を奉(さゝ)げて、桃太郎(も※(二の字点、1-2-22)たらう)
二倍(ふたつがけ)なる武勇(ぶゆう)の子(こ)を祷(いの)るべしと、阿修羅河(あしゆらがは)
の岸(きし)なる夜叉神社(やしやじんじや)に參籠(さんろう)し、三七日(さんしちにち)の夜(よ)に
して始(はじ)めて靈夢(れいむ)を蒙(かうふ)り、その拂曉(あかつき)水際(みぎは)に立(たち)
出(い)でゝ見(み)れば、いと
大(おほ)きなる苦桃(にがもゝ)一(ひと)
顆(つ)浮波々々(ふは/\)と浮來(うききた)りぬ、扨(さて)はと嬉(うれ)しく
抱還(いだきかへ)れば、待構(まちかま)へたる夫(をつと)の喜悦(よろこび)たと
ふる方(かた)なし、
「夜叉神と阿修羅河」の図
割(さ)きて見(み)れば果(はた)せるかな、核(さね)お
のづから飛(とむ)で坐上(ざじやう)に躍(をど)ると見(み)
えしが、忽焉(たちまち)其長(そのたけ)一丈五
尺の青鬼(あをおに)と變(へん)じ、紅皿(べにさら)の
ごとき口(くち)を開(ひら)き、爛々(らん/\)た
る火※(くわえん)[#「炎+稻のつくり」、5-6]を吐(はき)て矗(すつく)と立(たつ)た
る其風情(そのふぜい)、鬼(おに)の眼(め)にさへ
恐(おそ)ろしくも、また物凄(ものすご)くぞ見(み)えたりける、
苦桃(にがもゝ)の裏(うち)より生(う)まれたればとて苦桃太郎(にかもゝたらう)
と名乘(なの)らせぬ、扨(さて)夫婦(ふうふ)所志(おもふ)よしを語(かた)りけれ
ば苦桃(にかもゝ)大(おほ)いに喜(よろこ)び、易(やす)き事(こと)かな、我(われ)一跨(ひとまたぎ)に日本(につぽん)へ推渡(おしわた)り、三指(みつゆび)にて桃太(もゝた)が
そつ首(くび)引拔(ひきぬ)き、其國(そのくに)の珍寳(たから)の有(あ)らむ限(かぎ)り引攫(ひきさら)うて還(かへ)るべし、
「苦桃太郎の誕生」の図
これより出陣(しゆつぢん)/\と勇(いさ)み立(た)てば、夫婦
のいふやう、此條(このでう)王鬼(わうおに)に
届出(とゞけい)でずして我儘(わがまゝ)に出立(しゆつたつ)せば、或(ある)ひは功(こう)
も功(こう)とならずして、却(かへつ)て咎(とがめ)のあらむも
測(はか)り難(がた)し、夫婦(われら)は罪(つみ)を負(お)ふ身(み)の
拜謁(おめみえ)※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)(かな)はざればとて、苦桃太郎(にがもゝたらう)
單身(ひとり)して王城(わうじやう)に到(いた)らしめ、桃太郎(もゝたらう)
征伐(せいばつ)の義(ぎ)を言上(ごんしやう)しければ、王鬼(わうおに)火※(ほのほ)[#「炎+稻のつくり」、6-6]
を吐(は)きて悦(よろこ)ぶこと限(かぎ)りなく、八角(はつかく)に削成(けづりな)
して二百八十八箇(か)の銀星(ぎんのほし)打(うつ)たる鐵棒(てつのぼう)を
賜(たま)ひ、爾(なんち)之(これ)を以(もつ)て桃奴(もゝめ)が腰骨(こしぼね)微塵(みぢん)に碎(くた)けよとありければ、
苦桃太郎(にがもゝたらう)冷笑(あざわら)ひ、桃太郎(もゝたらう)風情(ふぜい)の小童(こわつぱ)十人二十人、虱(しらみ)を拈(ひね)るよりなほ易(やす)きに、
安(なん)ぞ武器(ぶき)などの入(い)り候(さふらふ)べき、
假初(かりそめ)にもかゝる物(もの)を賜(たま)ふ
事(こと)頗(すこぶ)る某(それがし)が武勇(ふゆう)を氣遣(きづか)
ひたまふに似(に)たり、無礼(ぶれい)
は御免(おんゆる)し候へ、これ御覽(ごらん)ぜ
よ方々(かた/″\)と、側(そば)なる鐵(てつ)の圓柱(まるばしら)
を小指(こゆび)もてゆら/\と盪搖(おしうご)か
せば、滿座(まんざ)齊(ひと)しく色(いろ)を失(うしな)ひ、やれ
苦桃(にがもゝ)技※(てなみ)[#「てへん+兩」、U+639A、6-19]は見(み)えたり、止(や)めよ/\と
震慄(おのゝ)きけり、
「苦桃太郎の技※[#「てへん+兩」、U+639A]」の図
王鬼(わうおに)近(ちか)く苦桃(にがもゝ)を
招(まね)きて、かかる爾(なんぢ)
が武勇(ふゆう)を以(もつ)て
せば、桃太郎(もゝたらう)
を滅(ほろ)ぼさむ
事(こと)疑(うたが)ひなし、別(べつ)
に取(と)らすべきものありと、
自家(みつから)穿(は)ぎ
たりし白(びやく)
虎(こ)の生皮(いきがは)も
て造(つく)れる褌(はかま)を解(と)きて
投出(なげだ)したま
へば取(とつ)て戴(いたゞ)き、
双(そう)の角(つの)に引懸(ひきか)け、
手振(てふり)足拍子(あしべうし)
可笑(をかし)く外道舞(げだうまひ)
といふを舞(ま)ひ、喜(よろこ)び
勇(いさ)むで退出(まかんで)けり、
「外道舞」の図
明日(あした)ともなりぬれ
ば王城(わうじやう)より使者(ししや)向(むか)
ひて、鐵線(はりがね)の嚢(ふくろ)に人(にん)
間(げん)の髑髏(されかうべ)の附燒(つけやき)十(と)
箇(を)を盛(も)りて、かの桃(もゝ)
太郎(たらう)が黍團子(きびだんご)に擬(なぞら)
へ、之(これ)を兵粮(ひやうらう)にとて
賜(たま)はりぬ、
徂々(ゆき/\)て鬼个島(おにがしま)の堺(さかひ)
に來(きた)りたる頃(ころ)、魔風(まふう)遽(にはか)に颯々(さつ/\)と吹荒(ふきすさ)
み、瀑(たき)のごとくに暴雨(ばうう)沃(そ※(二の字点、1-2-22))ぎて天地(てんち)鳴(めい)
動(どう)し、坤軸(こんぢく)も折(を)るゝかと想(おも)ふばかりなり、
あら心地好(こゝちよ)き光景(ありさま)やと、少(しば)
時(し)立留(たちとゞま)つて四方(しはう)を屹(きつ)と見(み)てあ
れば、魔王嶽(まわうがだけ)の絶頂(ぜつてう)に當(あた)りて、電(でん)
光(くわう)の閃(ひらめ)く裏(うち)に金色(こんじき)の毒龍(どくりよう)現(あら)
はれ、此方(こなた)を目懸(めがけ)けて[#「目懸(めがけ)けて」はママ]箭(や)を
射(い)るごとく飛來(とびきた)る、やあ小(こ)
「毒龍」の図
賢(さか)しき長虫(ながむし)の通力立(つうりきだて)、寄(よ)らば目(め)に物(もの)
見(み)せむと刀足(ちからあし)[#「刀足」はママ]蹈鳴(ふみな)ら
して身構(みがま)ふる間(ま)に、かの毒龍(どくりよう)舞(まひ)
下(さが)りて太郎(たらう)が前(まへ)に蜷(とぐら)屈(ま)く
こと十三卷(まき)、舌(した)を吐(は)き首(くび)
を俛(た)れていふやうは、某(それがし)は
魔王嶽(まわうがたけ)の絶頂(いたゞき)なる湖水(みづうみ)に
歳久(としひさ)しく棲(す)める龍王(りやうわう)なるが、
日本(につぽん)の地(ち)に罷在(まかりあ)る眷族(けんぞく)の蛇類(へびども)、かの
桃太郎(もゝたらう)が家臣(かしん)なる雉子(きじ)の一類(いちるゐ)の爲(ため)
に、食(は)まるゝこと年々(ねん/\)その数(かず)を知(し)らず、
いかにもして此(この)遺恨(うらみ)報(か)へさ
ばやと思(おも)ふ事(こと)久(ひさ)しけれど、孤(ひ)
獨(とり)の力(ちから)及(およ)び難(がた)く、無念(むねん)を呑(のむ)で瞋恚(しんい)
の炎※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)(ほむら)を吐(は)く折(をり)から、將軍(しやうぐん)此度(このたび)桃太(もゝた)
郎(らう)征伐(せいばつ)のよしを聞及(きゝおよ)び、願(ねが)はくは
御手(おんて)に隨從(ずゐじゆう)して微力(びりよく)を竭(つく)し、
御威勢(ごゐせい)を以(もつ)て一族(いちぞく)の積(つも)る恨(うら)
みを散(さん)ぜんとて、これまで
御出迎(おんでむか)ひ仕(つかま)つりぬ、あはれ
御從軍(おんとも)御許(おんゆるし)あらば、身(み)の面目(めんぼく)之(これ)に過(すき)じとありければ、
苦桃太郎(にがもゝたらう)喜悦(きえつ)淺(あさ)からず、腰(こし)なる髑髏(どくろ)一個(ひとつ)取(と)ら
せて主從(しゆうじう)の契約(ちきり)を結(むす)びぬ、
「主從の契約」の図
爾時(そのとき)毒龍(どくりよう)のいひけるは、徃時(いんじ)桃太(もゝた)
郎(らう)は雉子(きじ)猿(さる)犬(いぬ)の三郎党(さんらうだう)を從(した)が
へて、大勝利(たいしようり)を得(え)し例(ためし)に傚(なら)ひ、
將軍(しやうぐん)も亦(また)好(よき)郎党(らうだう)を召(めし)たま
はずや、某(それがし)が無二(むに)の交(まじはり)を結(むす)
べる二頭(にひき)の勇者(つはもの)あり、も
し御意(ぎよい)あらば立所(たちどころ)に
召寄(めしよ)すべしとの推(すゐ)
擧(きよ)に、千羊(せんやう)の皮(かは)
は一狐腋(いつこのえき)に
如(し)かずの本(ほん)
文(もん)、なまじひ
なる
輩(やから)は却(かへつ)て足手(あして)
纒(まとひ)なれど、御身(おんみ)が信(しん)じて一(いつ)
方(はう)の大將(たいしやう)ともなすべき器(き)
量(りやう)ありと
せば、早々(さう/\)
その者(もの)を召寄(めしよ)せた
まへといふ、恐(おそれ)多(おほ)き
申分(まうしぶん)には候(さふら)へども、類(るゐ)
は友(とも)を以(もつ)て聚(あつ)まる
の喩(たとへ)、其(それがし)[#「其(それがし)」はママ]不肖(ふせう)とい
へども魔王嶽(まわうがたけ)
の龍王(りようわう)なり、
凡俗(ほんぞく)なる狐狸(こり)の
輩(ともがら)
を友(とも)と
せむや、
まづ召寄(めしよ)
せて見參(げんざん)
に入(い)れむ
「大狒と狼」の図
と、二振(ふたふり)三振(みふり)尾(を)
を掉(ふ)れば響(ひゞき)宛然(さながら)金鈴(きんれい)のごとし、之(これ)を合圖(あひづ)に
北方(ほくはう)より忽然(こつぜん)として白毛朱面(ひやくもうしゆめん)の大狒(おほひし)[#ルビの「おほひし」はママ]飛來(とびきた)
り、西方(さいはう)よりは牛(うし)かと見紛(みまが)ふばかりの狼(おほかみ)
躍出(をどりい)でて、一齊(いつせい)に太郎(たらう)が前(まへ)に額(ぬかづ)け
ば、苦桃(にかもゝ)岩角(いはかど)に腰(こし)打懸(うちか)け、鴆(ちん)の羽(は)
扇(あふぎ)にて麾(さしま)ねき、實(げ)に頼(たの)もしき器(き)
量(りよう)骨格(こつがら)、狒(ひし)[#ルビの「ひし」はママ]は猿(さる)の首領(かしら)にして狼(おほかみ)
は犬(いぬ)の強敵(がうてき)たり、之(これ)に加(くは)ふるに
毒龍(どくりよう)あれば、桃太郎(もゝたらう)を一戰(いつせん)に
撃破(うちやぶ)らむ事(こと)、鐵槌(てつつゐ)を以(もつ)て
土噐(かはらけ)を摧(くだ)くがごとし、いざ
引出物(ひきでもの)取(と)らせむと、また二(ふた)
箇(つ)の髑髏(どくろ)を與(あた)へ、いでや出陣(しゆつぢん)と立上(たちあが)れば、毒龍(どくりよう)再(ふたゝ)び策(さく)
を献(けん)じていはく、某(それかし)に飛行自在(ひぎやうじざい)の術(じゆつ)の候、瞬時(またゝくま)にして
日本國(につぽんこく)に到(いた)るべしと、虚空(こくう)に向(むか)つて呼吸(いき)を吐(は)けば、
不思議(ふしぎ)や黄雲(くわううん)遽然(にはかに)蒸(む)して眼前(がんぜん)に聚(あつま)りぬ、主從(しゆうじう)之(これ)に打(うち)
乘(の)り、宙(ちゆう)を飛(と)ぶこと西遊記(さいいうき)の繪(ゑ)のごとく、一晝夜(いつちゆうや)にして
眼界(がんがい)果(はて)しなき大洋(おほうなばら)の上(うへ)にぞ來(きた)りける、
「飛行自在の術」の図
苦桃太郎(にがもゝたらう)不審(ふしん)を起(おこ)し、我等(われら)神通力(じんつうりき)を以(もつ)てかく飛行(ひぎやう)しなが
ら、未(いま)だ日本(につぽん)の地(ち)に着(つ)かざる理(り)なし、毒龍(どくりよう)爰(こゝ)は鬼个島(おにがしま)
を去(さ)ること若干里(いくばく)ぞ、さん候、大約(おほよそ)十二万三千四百五十六億七千八
百九十里、おつと其(それ)
は行過(ゆきす)ぎたり、
戻(もど)せ/\と逆飛雲(ぎやくひうん)の法(はふ)
を行(おこ)なはせて、無二(むに)
無三(むざん)に退(もど)るほどに還(かへ)るほどに、
また戻過(もどりす)ぐること九十八万七千六百五
十四億三万二千と一百
里、これではならぬと
また出直(でなほ)して、行(ゆ)けば行過(ゆきす)
ぎ、戻(もど)れば戻過(もとりす)ぎ、行(ゆき)つ戻(もど)りつ、戻(もど)りつ行(ゆ)きつ、
左(ひだり)へ翔(かけ)り右(みき)へ走(はし)り、四面八角(しめんはつかく)縱横無盡(じうわうむじん)に飛(とひ)
廻(まは)るほどに、流石(さすが)の毒龍(どくりよう)の魔力(まりき)も限(かぎり)あれ
ば次第(しだい)に疲(つか)れ、雲(くも)は弱(よわ)りて薄(うす)れ行(ゆ)き、今(いま)は
古綿(ふるわた)のごとく此處(こゝ)も寸斷(ちぎ)れ彼所(かしこ)も寸斷(ちぎ)
れて、放下(ほけ)たる空隙(あな)より踐外(ふみはづ)して、狒(ひし)[#ルビの「ひし」はママ]狼(おほかみ)は
敢(あへ)なくも泡立(あはだつ)海(ふみ)[#ルビの「ふみ」はママ]に落入(おちい)りて、鰐魚(わに)の餌食(ゑじき)
となりけらし。
「狒狼が海に落入」の図
苦桃太郎(にがもゝたらう)之(これ)を見(み)るより奮然(ふんぜん)として怒(いかり)を
爲(な)し、おのれ毒龍(どくりよう)、爾(なんぢ)が魯鈍(うつけ)の故(ゆゑ)を以(もつ)て、股肱(ここう)の臣(しん)を喪(うしな)ひ
たるぞ、軍陣(ぐんぢん)の門出(かどで)に前(さい)
徴(さき)惡(わる)し、憎(につ)くき奴(やつ)
と拳(こぶし)を固(かた)めて、
毒龍(どくりよう)の眞額(まつかふ)
碎(くだ)けよと乱(つゞけ)
打(うち)に撃(うち)ければ
もとより暴氣(あらき)
の毒龍(どくりよう)は發憤(いかり)の
眼(まなこ)に朱(しゆ)を濺(そゝ)き、金(きん)
の鱗(うろこ)を逆(さかだ)てたるは木葉(このは)
に風(かぜ)の吹(ふく)ごとし、
「毒龍が苦桃太郎を卷裹める」の図
やあ小憎(こにく)きおのれが大將面(たいしやうづら)、
いで龍王(りやうわう)が本事(てなみ)を見(み)よと、十間(じつけん)
餘(あま)りの尾(を)を風車(かざぐるま)のごとくに舞(ま)
はして、苦桃太郎(にがもゝたらう)を七卷(なゝまき)に卷裹(まきくる)め、骨(ほね)も微(み)
塵(ぢん)と固緊(しめつ)くれば、物々(もの/\)しやと苦桃太郎(にがもゝたらう)、惣身(そうみ)
にうんと力(ちから)を籠(こ)むれば、さしもの毒(どく)
龍(りよう)弗(ふつ)つと斷(き)れ、四段(よだん)となつ
て仆(たふ)るれば、魔力(まりき)忽(たちま)ち
解(と)けて雲(くも)は吹消(ふきけ)すご
とくなくなれば、
何(なに)かは以(もつ)て堪(たま)るべ
き、苦桃太郎(にがもゝたらう)迢(はる)
々(か)の虚空(こくう)より
足場(あしば)を失(うしな)ひ、小石(こいし)の
ごとく眞一文字(まいちもんじ)に
舞下(まひさが)りて、漫々(まん/\)たる大海(だいかい)へぼかん!
「苦桃太郎の落下」の図
了

底本:「名著複刻 日本児童文学館 第一集」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年5月発行
底本の親本:「鬼桃太郎」幼年文學叢書、博文館
   1891(明治24)年10月11日印刷出版
初出:「鬼桃太郎」幼年文學叢書、博文館
   1891(明治24)年10月11日印刷出版
※表題は底本では、「鬼桃太郎(おにもゝたらう)」となっています。
※変体仮名は、通常の仮名にあらためました。
※挿絵は底本に収録されている富岡(藻齋)永洗(1864(元治元)年〜1905(明治38)年)のものを使用しました。
※「苦桃太郎」に対するルビの「にかもゝたらう」と「にがもゝたらう」、「阿修羅河」に対するルビの「あしゆらかは」と「あしゆらがは」、「爾」に対するルビの「なんぢ」と「なんち」、「武勇」に対するルビの「ぶゆう」と「ふゆう」の混在は、それぞれ底本通りです。
※改行及びルビが単語単位ではなく分割されているのは、底本通りです。
入力:田中哲郎
校正:みきた
2018年12月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。