あらすじ
鎌倉の雪の下村にある赤城得三の家を訪れた探偵の倉瀬泰助は、そこで奇妙な事件に巻き込まれます。東京の病院で瀕死の男から、叔母の財産を乗っ取り、妹を監禁している得三の悪事を聞かされた泰助は、男の願いを叶えようと、真実を突き止めるべく鎌倉へ向かうのです。しかし、得三の悪事は想像をはるかに超えたものであり、泰助は危険な陰謀に巻き込まれていきます。果たして泰助は、謎めいた赤城家の秘密を暴き、監禁された妹を救い出すことができるのでしょうか?
急病  系図  一寸手懸  宵にちらり  妖怪沙汰  乱れ髪  籠の囮  幻影  破廂  夫婦喧嘩  みるめ、かぐはな  無理 強迫  走馬燈  血の痕  火に入る虫  ※(「口+阿」、第4水準2-4-5)呀!  同士討  虐殺  二重の壁  赤城様――得三様  旭
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 雲の峰は崩れて遠山の麓(ふもと)に靄(もや)薄く、見ゆる限りの野も山も海も夕陽の茜(あかね)に染(そ)みて、遠近(おちこち)の森の梢(こずえ)に並ぶ夥多(あまた)寺院の甍(いらか)は眩(まばゆ)く輝きぬ。処は相州東鎌倉雪の下村……番地の家は、昔何某(なにがし)とかやいえりし大名邸(やしき)の旧跡(あと)なるを、今は赤城(あかぎ)得三が住家とせり。
 門札(かどふだ)を見て、「フム此家(ここ)だな。と門前に佇(たたず)みたるは、倉瀬泰助という当時屈指の探偵なり。色白く眼(まなこ)清(すず)しく、左の頬に三日月形(なり)の古創(ふるきず)あり。こは去年の春有名なる大捕物をせし折、鋭き小刀(ナイフ)にて傷(きずつ)けられし名残(なごり)なり。探偵の身にしては、賞牌(しょうはい)ともいいつべき名誉の創痕(きずあと)なれど、衆(ひと)に知らるる目標(めじるし)となりて、職務上不便を感ずること尠(すくな)からざる由を喞(かこ)てども、巧(たくみ)なる化粧にて塗抹(ぬりかく)すを常とせり。
 倉瀬は鋭き眼にて、ずらりとこの家を見廻し、「ははあ、これは大分古い建物だ。まるで画(え)に描いた相馬の古御所というやつだ。なるほど不思議がありそうだ。今に見ろ、一番正体を現してやるから。と何やら意味ありげに眩(つぶや)きけり。
 さて泰助が東京よりこの鎌倉に来りたるは、左のごとき仔細(しさい)のありてなり。
 今朝東京なる本郷病院へ、呼吸(いき)も絶々(たえだえ)に駈込(かけこ)みて、玄関に着くとそのまま、打倒れて絶息したる男あり。年は二十二三にして、扮装(みなり)は好(よ)からず、容貌(かおかたち)いたく憔(やつ)れたり。検死の医師の診察せるに、こは全く病気のために死したるにあらで、何にかあるらん劇(はげ)しき毒に中(あた)りたるなりとありけるにぞ、棄置き難しと警官がとりあえず招寄せたる探偵はこの泰助なり。
 泰助はまず卒倒者の身体を検して、袂(たもと)の中より一葉の写真を探り出だしぬ。手に取り見れば、年の頃二十歳(はたち)ばかりなる美麗(うつくし)き婦人(おんな)の半身像にて、その愛々しき口許(くちもと)は、写真ながら言葉を出ださんばかりなり。泰助は莞爾(かんじ)として打頷(うちうなず)き、「犯罪の原因と探偵の秘密は婦人(おんな)だという格言がある、何、訳はありません。近い内にきっと罪人を出しましょう。と事も無げに謂(い)う顔を警部は見遣(みや)りて、「君、鰒(ふぐ)でも食って死(しに)よったのかも知れんが。何も毒殺されたという証拠は無いではないか。泰助は死骸(しがい)の顔を指さして、「御覧なさい。人品(ひとがら)が好(よ)くって、痩(やせ)っこけて、心配のありそうな、身分のある人が落魄(おちぶれ)たらしい、こういう顔色(かおつき)の男には、得て奇妙な履歴があるものです。と謂いつつ、手にせる写真を打返して、頻(しき)りに視(なが)めていたりけり。先刻より死骸の胸に手を載せて、一心に容体を伺いいたる医師は、この時人々を見返かえりて、「どうやら幽(かすか)に脈が通う様です。こっちの者になるかも知れません。静(しずか)にしておかなければ不可(いけま)せんから、貴下方(あなたがた)は他室(あっち)へお引取下さい。警部は巡査を引連れて、静にこの室(ま)を立去りぬ。
 泰助は一人残りて、死人の呼吸(いき)を吹返さんとする間際には、秘密を唸(うな)り出す事もやあらんと待構うれば、医師の見込みは過(あやま)たず、ややありて死骸は少しずつの呼吸を始め、やがて幽に眼(まなこ)を開き、糸よりもなお声細く、「ああ、これが現世(このよ)の見納(みおさめ)かなあ。得たりと医師は膝立直して、水薬を猪口(ちょこ)に移し、「さあこれをお飲みなさい。と病人の口の端(はた)に持行けば、面(おもて)を背けて飲まんとせず。手をもて力無げに振払い、「汝(うぬ)、毒薬だな。と眼(まなこ)を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)りぬ。これを聞きたる泰助は、(来たな)と腹に思うなるべし。
 医師は声を和(やわら)げて、「毒じゃない、私は医師(いしゃ)です。早くお飲みなさい。という顔をまず屹(きっ)と視(み)て、やがて四辺(あたり)を見廻しつ、泰助に眼を注(そそ)ぎて、「あれは誰方(どなた)。泰助は近く寄りて、「探偵吏です。「ええ、と病人は力を得たる風情にて、「そうして御姓名(おなまえ)は。「僕は倉瀬泰助。と名乗るを聞きて病人は嬉しげに倉瀬の手を握り、「貴下が、貴下があの名高い……倉瀬様(さん)。ああ嬉しや、私は本望が協(かな)った。貴下に逢えば死(しん)でも可(い)い。と握りたる手に力を籠めぬ。何やらん仔細あるべしと、泰助は深切に、「それはどういう次第だね。「はい、お聞き下さいまし、と言わんとするを医師は制して、「物を言ったり、配慮(きあつかい)をしては、身体(からだ)のために好くない。と諭せども病人は頭(こうべ)を掉(ふ)りて、「悪僕、――八蔵奴(め)に毒を飲まされましたから、私はどうしても助りません。「何、八蔵が毒を。……と詰寄る泰助の袂を曳(ひ)きて、医師は不興気に、「これさ、物を言わしちゃ悪いというのに。「僕は探偵の職掌だ。問わなければならない。「私は医師の義務だから、止めなければなりませぬ。と争えば病人は、「御深切は難有(ありがと)う存じますが、とても私は助りませんのですから、どうぞ思ってることを言わして下さいまし。明日まで生延びて言わずに死ぬよりは、今お話し申してここで死ぬ方が勝手でございます。と思い詰めてはなかなかに、動くべくも見えざりければ、探偵は医師に向いて、「是非が無い。ああいうのですから、病人の意にお任せなさい。病人はまた、「そうして他(ほか)の人に聞かしとうございませんから、恐入りますが先生はどうぞあちらへ。……とありければ、医師は本意(ほい)無げに室の外(おもて)に立出でけり。

 病人は苦痛を忍びて語り出だしぬ。
 我は小田原の生(うまれ)にて本間次三郎という者。幼少の折父母を失いければ、鎌倉なる赤城家に嫁ぎたる叔母の許(もと)にて養われぬ。仮の叔父なる赤城の主人(あるじ)は大酒のために身を損いて、その後病死したりしかば、一族同姓の得三といえるが、家事万端の後見せり。
 叔母には下枝(しずえ)、藤とて美しき二人の娘あり。我とは従兄妹(いとこ)同士にていずれも年紀(とし)は我より少(わか)し。多くの腰元に斉眉(かしず)かれて、荒き風にも当らぬ花なり。我は食客の身なれども、叔母の光を身に受けて何不自由無く暮せしに、叔母はさる頃病気(やまい)に懸(かか)り、一時に吐血してその夕(ゆうべ)敢(あえ)なく逝(みまか)りぬ。今より想えば得三が毒殺なせしものなるべし。さる悪人とはその頃には少しも思いがけざりき。
 されば巨万の財産を挙げて娘の所有(もの)となし、姉の下枝に我を娶(めあ)わせ後日家を譲るよう、叔母はくれぐれ遺言せしが、我等の年紀(とし)の少(わか)かりければ、得三は旧(もと)のまま一家(いっけ)を支配して、己(おの)が随意(まま)にぞ振舞いける。
 淑母死して七七日の忌(いみ)も果てざるに、得三は忠実の仮面を脱ぎて、ようやく虎狼(ころう)の本性を顕(あらわ)したり。入用(いらざ)る雑用(ぞうよう)を省くと唱え、八蔵といえる悪僕一人を留め置きて、その余の奴僕(ぬぼく)は尽(ことごと)く暇を取らせ、素性も知れざる一人の老婆を、飯炊(めしたき)として雇い入れつ。こは後より追々にし出ださんずる悪計(わるだくみ)の、人に知られんことを恐れしなりけり。昨日(きのう)の栄華に引替えて娘は明暮不幸を喞(かこ)ち、我も手酷(てひど)く追使(おいつか)わるる、労苦を忍びて末々を楽(たのし)み、たまたま下枝と媾曳(あいびき)してわずかに慰め合いつ、果は二人の中をもせきて、顔を見るさえ許さざれば垂籠(たれこ)めたる室(ま)の内に、下枝の泣く声聞く毎(たび)に我は腸(はらわた)を断つばかりなりし。
 数うれば三年前(ぜん)、一日(あるひ)黄昏(たそがれ)の暗紛れ、潜(ひそ)かに下枝に密会(しのびあ)い、様子を聞けば得三は、四十を越したる年にも恥じず、下枝を捉(とら)えて妻にせん。我心に従えと強迫すれど、聞入れざるを憤り、日に日に手暴(てあら)き折檻(せっかん)に、無慙(むざん)や身内の皮は裂け、血に染(そ)みて、紫色に腫れたる痕(あと)も多かりけり。
 下枝は我に取縋(とりすが)りて、得(え)堪えぬ苦痛を訴えつつ、助けてよ、と歎くになむ。さらば財産も何かせむ。家邸も何かせむ、皆得三に投与えて、かかる悪魔の火宅を遁(のが)れ、片田舎にて気散じに住みたまう気は無きか、連れて遁(に)げんと勧めしかど、否(いや)、先祖より伝わりたる財産は、国とも城ともいうべきもの、いかに君と添いたいとて、人手には渡されず。今得三は国の仇(あだ)、城を二十重(はたえ)に囲まれたれば、責殺されんそれまでも、家は出でずに守るという。男勝りの心に恥じて、強いてとも言い難く、さればとてこのままにては得三の手に死ぬばかりぞ、と抱(いだ)き合いつつ泣きいたりしを、得三に認められぬ。言語道断の淫戯者(いたずらもの)片時(へんじ)も家に置難しと追出されんとしたりし時、下枝が記念(かたみ)に見たまえとて、我に与えし写真あり。我はかの悪僕に追立てられて詮方(せんかた)無く、その夜赤城の家を出で、指して行方もあらざればその日その日の風次第、寄る辺(べ)定めぬ捨小舟(すておぶね)、津や浦に彷徨(さまよ)うて、身に知る業(わざ)の無かりしかば、三年越しの流浪にて、乞食(こつじき)の境遇にも、忘れ難きは赤城の娘、姉妹(あねいもと)ともさぞ得三に、憂い愁(つら)い目を見るならむ。助くる術(すべ)は無きことか、と頼母(たのも)しき人々に、一つ談話(ばなし)にするなれど、聞くもの誰も信(まこと)とせず。思い詰めて警察へ訴え出でし事もあれど、狂気の沙汰とて取上げられず。力無く生甲斐無く、漣(さざなみ)や滋賀県に佗年月(わびとしつき)を過すうち、聞く東京に倉瀬とて、弱きを助くる探偵ありと、雲間に高きお姓名(なまえ)の、雁(かり)の便(たより)に聞ゆるにぞ、さらば助(たすけ)を乞い申して、下枝等を救わむと、行李(こうり)そこそこかの地を旅立ち、一昨日(おととい)この地に着きましたが、暑気(あつさ)に中(あた)りて昨日一日、旅店に病みて枕もあがらず。今朝はちと快気(こころよげ)なるに、警察を尋ねて見ばやと、宿を出づれば後より一人跟(つ)け来る男あり。忘れもせぬ其奴(そやつ)こそ、得三に使わるる八蔵という悪僕なれば、害心もあらんかと、用心に用心して、この病院の裏手まで来りしに、思えば運の尽(つき)なりけん。にわかに劇(はげ)しく腹の痛みて、立ってもいられず大地に僵(たお)れ、苦しんでいる処へ誰やらん水を持来りて、呑ましてくるる者のあり。眼も眩(くら)み夢中にてただ一呼吸(ひといき)に呑干しつ、やや人心地になりたれば、介抱せし人を見るに、別人ならぬ悪僕なり。はっと思うに毒や利きけむ、心身たちまち悩乱して、腸(はらわた)絞る苦しさにさては毒をば飲まされたり。かの探偵に逢うまでは、束の間欲しき玉の緒を、繋(つな)ぎ止めたや繋ぎ止めたやと絶入る心を激まして、幸いここが病院なれば、一心に駈け込みし。その後は存ぜずと、呼吸(いき)つきあえず物語りぬ。

 泰助は目をしばたたき、「薄命(ふしあわせ)な御方だ、御心配なさるな。請合ってきっと助けてあげます。と真実面(おもて)に顕(あらわ)るれば、病人は張詰めたる気も弛(ゆる)みて、がっくりと弱り行きしが、頻(しきり)に袂(たもと)を指さすにぞ、泰助は耳に口、「何です、え、何ぞあるのですか。「下枝の写真。「むむ、それはこれでしょう。先刻(さっき)僕が取出しました。とかの写真を病人の眼前(めさき)に翳(かざ)せば、つくづくと打視(うちなが)め、「私(わたくし)と同じ様に、さぞ今では憔(やつ)れて、とほろりと涙を泛(うか)べつつ、「この面影はありますまいよ。死顔でも見たい、もう一度逢いたい。と現心(うつつごころ)にいいければ、察し遣りて泰助が、彼の心を激まさんと、「気を丈夫に持って養生して、ね、翌朝(あした)まで眼を塞がずに僕が下枝を連れて来るのを御覧なさい。今夜中に助け出して、財産も他手(ひとで)には渡さないから、必ず御案じなさるな。と言語(ことば)を尽して慰むれば、頷(うなず)くように眼(まなこ)を閉じぬ。
 折から外(おもて)より戸を叩きて、「もう開けましても差支えございませんか。と医師の尋ぬるに泰助は振返りて、「宜(よろ)しい、おはいんなさい。と答うれば、戸を排(ひら)きて、医師とともに、見も知らぬ男入(い)り来れり。この男は、扮装(みなり)、風俗、田舎漢(いなかもの)と見えたるが、日向(ひなた)眩(まば)ゆき眼色(めつき)にて、上眼づかいにきょろつく様、不良(よから)ぬ輩(やから)と思われたり。
 泰助屹(きっ)と眼を着けて、「お前様(さん)は何しに来たのだ。問われて醜顔(むくつけ)き巌丈男の声ばかり悪優しく。「へいへい、お邪魔様申します。ちとお見舞(みめえ)に罷出(つんで)たんで。「知己(ちかづき)のお方かね。「いえ、ただ通懸(とおりかか)った者でがんすがその方が強(えら)くお塩梅(あんばい)の悪い様子、お案じ申して、へい、故意(わざと)。という声耳に入りたりけん。その男を見て、病人は何か言いたげに唇を震わせしが、あわれ口も利けざりければ、指もて其方(そなた)を指示(さししめ)し、怒り狂う風情にて、重き枕を擡(もた)げしが、どうと倒れて絶入りけり。
 今病人に指さされし時、件(くだん)の男は蒼(あお)くなりて恐しげに戦慄(わなな)きたり。泰助などて見遁(みのが)すべき。肚(はら)の中(うち)に。ト思案して、「早く、お退(の)きなさい。お前方の入って来る処ではありません。と極(き)めつけられて悄気(しょげ)かえり、「ああ呼吸(いき)を引取ましたかい。可愛や可愛や、袖振合うも他生の縁とやら、お念仏申しましょ。と殊勝らしく眼を擦り赤めてやおら病院を退出(まかんで)ぬ。泰助は医師に向い、「下手人がしらばくれて、(死)をたしかめに来たものらしい。わざと化されて、怪まぬように見せて反対(あべこべ)に化かしてやった。油断をするに相違(ちがい)無い。「いかさま怪しからん人体でした。あのまま見遁して置くお所存(つもり)ですか、「なあにこれから彼奴(あいつ)を突止めるのです。この病人は及ばぬまでも手当を厚くして下さい。誠に可哀相な者ですから。「何か面白い談話(はなし)がありましたろう。「ちっとも愉快(おもしろ)くはありませんでした、がこれから面白くなるだろうと思うのです。追々お談話申しましょう。と帽子を取って目深に被(かぶ)り、戸外(おもて)へ出づればかの男は、何方(いずれ)へ行きけん影も無し。脱心(ぬかり)たりと心急立(せきた)ち、本郷の通(とおり)へ駈出でて、東西を見渡せば、一町ばかり前(さき)に立ちて、日蔭を明神坂の方へ、急ぎ足に歩み行く後姿(うしろつき)はその者なれば、遠く離れて見失わじと、裏長屋の近道を潜(くぐ)りて、間近く彼奴(かやつ)の後に出でつ。まずこれで可(よ)しと汗を容(い)れて心静かに後を跟(つ)けて、神田小柳町のとある旅店へ、入りたるを突止めたり。
 泰助も続いて入込(いりこ)み、突然(いきなり)帳場に坐りたる主人に向(むか)いて、「今の御客は。と問えば、訝(いぶ)かしげに泰助の顔を凝視(みつめ)しが、頬の三日月を見て慇懃(いんぎん)に会釈して、二階を教え、低声(こごえ)にて、「三番室。」
 四番室の内に忍びて、泰助は壁に耳、隣室の談話声(はなしごえ)を聞けば、おのが跟けて来し男の外になお一人の声しけり。
「お前、御苦労であった。これで家(うち)へ帰っても枕を高うして寐(ね)られるというものだ。「旦那もう帰国(けえり)ますか。この二人は主従と見えたり。「ああしてしまえば東京に用事は無いのだ。今日の終(しまい)汽車で帰国(かえる)としようよ。「それが宜(よ)うございましょう。そうして御約束の御褒美は。「家へ行ってから与(や)る。「間違ませんか。「大丈夫だ。「きっとでしょうね。「ええ、執拗(しつッこい)な。「難有(ありがて)え、と無法に大きな声をするにぞ、主人は叱りて、「馬鹿め、人が聞かあ。後は何を囁(ささや)くか小声にてちっとも聞えず。少時(しばらく)して一人その室(ま)を立出で、泰助の潜みたる、四番室(よばん)の前を通り行くを、戸の隙間(すきま)より覗(のぞ)き見るに、厳格(いかめし)き紳士にて、年の頃は四十八九、五十にもならんずらん。色浅黒く、武者髯(むしゃひげ)濃く、いかさま悪事は仕かねまじき人物にて、扮装(いでたち)は絹布(おかいこ)ぐるみ、時計の金鎖胸にきらきら、赤城というはこの者ならんと泰助は帳場に行きて、宿帳を検すれば、明(あきら)かに赤城得三とありけり。(度胸の据った悪党だ、)と泰助は心に思いつ。

 三時少し過ぎなれば、終(しまい)汽車にはまだ時間(ひま)あり。一度(ひとたび)病院へ取って返して、病人本間の様子を見舞い、身支度して出直さんと本郷に帰りけるに、早警官等は引取りつ。泰助は医師に逢いて、予後の療治を頼み聞え、病室に行きて見るに、この不幸なる病人は気息奄々(えんえん)として死したるごとく、泰助の来れるをも知らざりけるが、時々、「赤城家の秘密……怨めしき得三……恋しき下枝、懐かしき妻、……ああ見たい、逢いたい、」と同じ言(こと)を幾(いく)たびも譫言(うわごと)に謂(い)うを聞きて、よくよく思い詰めたる物と見ゆ。遥々(はるばる)我を頼みて来し、その心さえ浅からぬに、蝦夷(えぞ)、松前はともかくも、箱根以東にその様なる怪物(ばけもの)を棲(すま)せ置きては、我が職務の恥辱なり。いで夏の日の眠気覚しに、泰助が片膚(かたはだ)脱ぎて、悪人儕(ばら)の毒手の裡(うち)より、下枝姉妹(きょうだい)を救うて取らせむ。証拠を探り得ての上ならでは、渠等(かれら)を捕縛は成り難し。まず鎌倉に立越えてと、やがて時刻になりしかば、終汽車に乗り込みて、日影ようよう傾く頃、相州鎌倉に到着なし、滑川(なめりがわ)の辺(ほとり)なる八橋楼に投宿して、他所(よそ)ながら赤城の様子を聞くに、「妖物(ばけもの)屋敷、」「不思議の家、」あるいは「幽霊の棲家(すみか)、」などと怪しからぬ名を附して、誰ありて知らざる者無し。
 病人が雪の下なる家を出でしは、三年前の事とぞ聞く。あるいは救助(すくい)の遅くして、下枝等は得三のために既に殺されしにあらざるか、遠くもあらぬ東京に住む身にて、かくまでの大事を知らず、今まで棄置きたる不念(ぶねん)さよ。もし下枝等の死したらんには、悔いても及ばぬ一世の不覚、我三日月の名折なり。少しも早く探索せむずと雪の下に赴きて、赤城家の門前に佇(たたず)みつつ云々(しかじか)と呟(つぶや)きたるが、第一回の始まりなり。
 この時赤城得三も泰助と同じ終汽車にて、下男を従えて家に帰りつ。表二階にて下男を対手(あいて)に、晩酌を傾けおりしが、得三何心無く外(おもて)を眺め、門前に佇む泰助を、遠目に見附けて太(いた)く驚き、「あッ、飛んだ奴が舞込んだ。と微酔(ほろよい)も醒(さ)めて蒼(あお)くなれば、下男は何事やらんと外(おもて)を望み、泰助を見ると斉(ひと)しく反(そ)り返りて、「旦那々々、あれは先刻(さっき)病院に居た男だ。と聞いてますます蒼くなり、「ええ! それでは何だな。お前を疑う様な挙動(そぶり)があったというのは彼奴(あいつ)か。「へい、左様でござい。恐怖(おっかね)え眼をして我(おれ)をじろりと見た。「こりゃ飛んだ事になって来た。と一方ならず恐るる様子、「何もそう、顔色(がんしょく)を変えて恐怖(おっかな)がる事もありますめえ。病気で苦しんでる処を介抱してやったといえばそれ迄のことだ。「でもお前が病院へ行った時には、あの本間の青二才が、まだ呼吸(いき)があったというではないか。「ひくひく動いていましたッけ。「だから、二才の口から当家の秘密を、いいつけたに違いない。「だって何程(いつかばち)のこともあるめえ。と落着く八蔵。得三は頭(こうべ)を振り、いや、他(ほか)の奴と違う。ありゃお前、倉瀬泰助というて有名な探偵だ。見ろ、あの頬桁(ほおげた)の創(きず)の痕(あと)を。な、三日月形(なり)だろう、この界隈(かいわい)でちっとでも後暗いことのある者は、あれを知らぬは無いくらいだ。といえば八蔵はしたり顔にて、「我(お)れも、あの創を目標(めじるし)にして這(しゃ)ッ面(つら)を覚えておりますのだ。「むむ、汝(きさま)はな、これから直ぐに彼奴(あいつ)の後を跟(つ)けて何をするか眼を着けろ。「飲込(のみこみ)ました。「実に容易ならぬ襤褸(ぼろ)が出た。少しでも脱心(ぬかる)が最後、諸共(ともども)に笠の台が危ないぞ。と警戒(いましむ)れば、八蔵は高慢なる顔色(かおつき)にて、「たかが生ッ白(ちろ)い痩(や)せた野郎、鬼神(おにがみ)ではあるめえ。一思いに捻(ひね)り潰(つぶ)してくりょう。と力瘤(ちからこぶ)を叩けば、得三は夥度(あまたたび)頭(こうべ)を振り、「うんや、汝には対手が過ぎるわ。敏捷(すばしこ)い事ア狐の様で、どうして喰える代物じゃねえ。しかし隙(すき)があったら殺害(やッつけ)ッちまえ。」
 まことや泰助が一期の失策、平常(いつも)のごとく化粧して頬の三日月は塗抹(ぬりけし)居たれど、極暑の時節なりければ、絵具汗のために流れ落ちて、創の露(あらわ)れしに心着かず、大事の前に運悪くも悪人の眼に止まりたるなり。
 さりとも知らず泰助は、ほぼこの家の要害を認めたれば、日の暮れて後忍び入りて内の様子を探らんものをと、踵(きびす)を返して立去りけり。
 表二階よりこれを見て、八蔵は手早く身支度整え、「どれ後を跟けましょう。「くれぐれも脱心(ぬかる)なよ。「合点(がってん)だ。と鉄の棒の長さ一尺ばかりにて握太きを小脇に隠し、勝手口より立出(たちいで)しが、この家(や)は用心厳重にて、つい近所への出入(ではいり)にも、鎖(じょう)を下す掟(おきて)とかや。心急(せ)きたる折ながら、八蔵は腰なる鍵を取り出(いだ)して、勝手の戸に外より鎖を下し、急ぎ門前に立出でて、滑川の方へ行く泰助の後より、跫音(あしおと)ひそかに跟け行(ゆ)けども、日は傾きて影も射映(ささ)ねば、少しも心着かざりけり。

 泰助は旅店に帰りて、晩餐(ばんさん)の前に湯に行(ゆ)きつ。湯殿に懸けたる姿見に、ふと我顔の映るを見れば、頬の三日月露(あらわ)れいたるにぞ、心潜かに驚かれぬ。ざっと流して座敷に帰り、手早く旅行鞄を開きて、小瓶の中より絵具を取出し、好(よ)く顔に彩りて、懐中鏡に映し見れば、我ながらその巧妙(たくみ)なるに感ずるばかり旨々(まんま)と一皮被(かぶ)りたり。
 今夜を過さず赤城家に入込みて、大秘密を発(あば)きくれん。まずその様子を聞置かんと、手を叩きて亭主を呼べば、気軽そうな天保(てんぽう)男、とつかわ前に出来りぬ。「御主人外でも無いが、あの雪の下の赤城という家。と皆まで言わぬに早合点(はやのみこみ)、「へい、なるほど妖物邸(ばけものやしき)。「その妖物屋敷というのはどういう理窟だい。「さればお聞きなさいまし。まず御免被って、と座を進み、「種々(いろいろ)不思議がありますので、第一ああいう大(おおき)な家に、棲(す)んでいる者がございません。「空屋かね、「いえ、そこんところが不思議でごすて。ちゃんと門札も出ておりますが何者が住んでいるのか、それが解りません。「ふふむ、余り人が出入(ではいり)をしないのか。「時々、あの辺で今まで見た事の無い婆様(ばあさん)に逢うものがございますが、何でも安達(あだち)が原の一ツ家(や)の婆々(ばば)という、それはそれは凄い人体(にんてい)だそうで、これは多分山猫の妖精(ばけもの)だろうという風説(うわさ)でな。「それじゃあ風の吹く晩には、糸を繰る音が聞えるだろうか。「そこまでは存じませんが、折節女の、ひい、ひい、と悲鳴を上げる声が聞えたり、男がげらげらと笑う声がしたり、や、も、散々な妖原(ばけはら)だといいますで。とこれを聞きて泰助は乗出して、「ほんとなら奇怪な話だ。まずお茶でも一ツ……という一眼小僧は出ないかね。とさも聞惚(ききと)れたる風を装おい、愉快(おもしろ)げに問いかくれば、こは怪談の御意に叶いしことと亭主は頻(しきり)に乗地(のりじ)となり、「いえ世がこの通り開けましたで、そういう甘口な妖方(ばけかた)はいたしません。東京の何とやら館の壮士が、大勢でこの前(さき)の寺へ避暑に来てでございますが、その風説(うわさ)を聞いて、一番妖物退治をしてやろうというので、小雨の降る夜二人連で出掛けました。草ぼうぼうと茂った庭へ入り込んで、がさがさ騒いだと思し召せ。ずどんずどんとどこかで短銃(ピストル)の音がしたので、真蒼(まっさお)になって遁(に)げて帰ると、朋輩のお方が。そりゃ大方天狗(てんぐ)が嚔(くさみ)をしたのか、そうでなければ三ツ目入道が屍を放(ひ)った音だろう。誰某(だれそれ)は屁玉(へだま)を喰(くら)って凹んだと大きに笑われたそうで、もう懲々(こりこり)して、誰も手出しは致しません、何と、短銃では、岩見重太郎宮本の武蔵でも叶いますまい。と渋茶を一杯。舌を濡して言(ことば)を継ぎ、「串戯(じょうだん)はさて置き、まだまだ気味の悪いのは。と声を低くし、「幽霊(れこ)が出ますので。こは聞処(ききどころ)と泰助は、「人、まさか幽霊が。とわざといえば亭主は至極真面目になり、「いいえ、人から聞いたのではございません。私(わたくし)がたしかに見ました。「はてな。「思い出すと戦慄(ぞっ)といたします。と薄気味悪げに後(うしろ)を見返り、「部室(へや)の外が直ぐ森なので、風通しは宜(よ)うございますが、こんな時には、ちとどうも、と座敷の四隅に目を配りぬ。
 泰助は思い当る事あれば、なおも聞かんと亭主に向い、「談(はな)してお聞かせなさい、実に怪談が好物だ。「余り陰気な談をしますと是非魔が魅(さ)すといいますから。と逡巡(しりごみ)すれば、「馬鹿なことを、と笑われて、「それでは燈(ひ)を点(とも)して懸(かか)りましょう。暗くなりました。「怪談は暗がりに限るよ。「ええ! 仕方がありません。先月の半ば頃一日(あるひ)晩方の事……」
 この時座敷寂(しん)として由井が浜風陰々たり。障子の桟も見えずなり、天井は墨のごとく四隅は暗く物凄(ものすご)く、人の顔のみようよう仄(ほの)めき、逢魔(あうま)が時とぞなりにける。亭主はいよいよ心臆(おく)し、団扇(うちわ)にてはたはたと、腰の辺(あたり)を煽(あお)ぎ立て、景気を附けて語りけるは、「ちょうどこの時分用事あって、雪の下を通りかかり、かねて評判が高いので、怯気々々(びくびく)もので歩いて行くと、甲走(かんばし)った婦人(おんな)の悲鳴が、青照山の谺(こだま)に響いて……きい――きいっ。「ああ、嫌否(いや)な声だ。「は――我ながら何ともいえぬ異変な声でございます。と泰助と顔を見合せ、亭主は膝下(ひざもと)までひたと摺寄(すりよ)り、「ええそれが私(わたくし)は襟許から、氷を浴びたような気が致して、釘附にされたように立止って見ました。有様(ありよう)は腰ががくついて歩行(ある)けませなんだので。すると貴客(あなた)、赤城の高楼(たかどの)の北の方の小さな窓から、ぬうと出たのは婦人(おんな)の顔、色真蒼(まっさお)で頬面(ほうッぺた)は消えて無いというほど瘠(やせ)っこけて、髪の毛がこれからこれへ(ト仕方をして)こういう風、ぱっちり開(あ)いた眼が、ぴかりしたかと思うと、魂消(たまぎ)った声で、助けて――助けて――と叫びました。」
 語るを聞いて泰助は心の中(うち)に思うよう、いかさま得三に苛責(かしゃく)されて、下枝かあるいは妹か、さることもあらむかし。活命(ながらえ)てだにあるならば、おッつけ救い得させむずと、漫(そぞろ)に憐(あわれ)を催しぬ。談話(はなし)途切れて宿の亭主は、一服吸わんと暗中(くらがり)を、手探りに、煙管(きせる)を捜して、「おや、変だ。ここに置いた煙管が見えぬ。あれ、魔隠、気味の悪い。となおそこここを見廻せしが、何者をか見たりけむ。わっと叫ぶに泰助も驚きて、見遣る座敷の入口に、煙(けぶり)のごとき物体(もの)あって、朦朧(もうろう)として漂えり。あれはと認むる隙(ひま)も無く、電(いなずま)? ふっと暗中(やみ)に消え、やがて泰助の面前に白き女の顔顕(あらわ)れ、拭(ぬぐ)いたらむ様にまた消えて、障子にさばく乱髪のさらさらという音あり。

 亭主の叫びし声を怪しみ、慌(あわただ)しく来る旅店の内儀、「まあ何事でござんすの、と洋燈(ランプ)を点(つ)けて据え置きながら、床の間の方を見るや否や、「ン、と反返(そりかえ)るを抱き止めて、泰助屹(きっ)と振返れば、柱隠しの姿絵という風情にて、床柱に凭(もた)れて立つ、あら怪しき婦人(おんな)ありけり。
 つくづくその婦人を見るに、年は二十二三なるべし。しおしおとある白地の浴衣の、処々裂け破れて肩や腰の辺(あたり)には、見るもいぶせき血の汚点(にじみ)たるを、乱次無(しどけな)く打纏(うちまと)い、衣紋(えもん)開きて帯も占めず、紅(くれない)のくけ紐(ひも)を胸高に結びなし、脛(はぎ)も顕(あら)わに取乱せり。露垂るばかりの黒髪は、ふさふさと肩に溢(こぼ)れて、柳の腰に纏いたり。膚(はだえ)の色真白く、透通るほど清らかにて、顔は太(いた)く蒼みて見ゆ。ただ屹(きっ)としたる品格ありて眼の光凄(すさ)まじく、頬の肉落ち頤(おとがい)細りて薄衣の上より肩の骨の、いたいたしげに顕われたるは世に在る人とは思われず。強き光に打たれなば、消えもやせんと見えけるが、今泰助等を見たりし時、物をも言わで莞爾(にっこり)と白歯を見せて笑める様は、身の毛も弥立(よだ)つばかりなり。
 人々ものを言いかくれど、答は無くて、ただにこにこと笑うを見て、始め泰助は近隣の狂女ならんと見て取りつ、問えばさるものは無しという。今もなお懐中せる今朝の写真に心附けば、憔(やつ)れ果ててその面影は無けれども、気(け)ばかり肖(に)たる処あり。さては下枝のいかにしてか脱け出でて来しものにはあらずや。日夜折檻をせらるると聞けば、責苦にや疲れけん、呼吸(いき)も苦しげに見ゆるぞかし。こはこのままに去(いな)し難しと、泰助は亭主に打向い、「どこか閑静な処へ寝さして、まあまあ気を落着かしてやるが可(い)い。当家へ入って来たのも、何かの縁であろうからと、勧むれば、亭主は気の好(よ)き男にて、一議も無く承引なし、「向側の行当(ゆきあたり)の部屋は、窓の外がすぐ墓原なので、お客がございませんから、幽霊でさえなけりゃ、それへ連れて行って介抱してつかわしましょう。といいつつ女房を見返りて、「おい、御女中をお連れ申して進ぜなさいと、命(いい)つけられて内儀は恐々(こわごわ)手を曳(ひ)いて導けば、怪しき婦人は逆らわず、素直に夫婦に従いて、さもその情を謝するがごとく秋波斜めに泰助を見返り見返り、蹌踉(よろよろ)として出行きぬ。
 面(おもて)にべったり蜘蛛(くも)の巣を撫払(なではら)いて、縁の下より這出(はいい)づるは、九太夫にはちと男が好過ぎる赤城の下男八蔵なり。かれ先刻(さきに)泰助の後を跟け来りて、この座敷の縁の下に潜みており、散々藪蚊(やぶか)に責められながら、疼痛(いたみ)を堪(こら)うる天晴(あっぱれ)豪傑、かくてあるうち黄昏(たそが)れて、森の中暗うなりつる頃、白衣を着けたる一人の婦人、樹の下蔭に顕(あらわ)れ出でつ、やおら歩(あゆみ)を運ばして、雨戸は繰らぬ縁側へ、忍びやかに上りけるを、八蔵朧気(おぼろげ)に見てもしやそれ、はてよく肖た婦人(おんな)もあるものだ、下枝は一室(ひとま)に閉込めあれば、出て来らるべき道理は無きが、となおも様子を聞きいるに、頭の上なる座敷には、人の立騒ぐ気勢(けはい)あり。幽霊などと動揺(どよめ)きしがようやくに静まりて、彼方(あなた)へ連れ行き介抱せんと、誘(いざな)い行きしを聞澄まし、縁の下よりぬっと出で蚊を払いつつ渋面つくり、下枝ならむには一大事、とくと見届けてせむ様あり、と裏手の方の墓原へ潜(ひそか)に忍び行きたりける。
 座敷には泰助が、怪しき婦人を見送りて、下枝の写真を取出し、洋燈(ランプ)に照して彼とこれと見競べている処へ、亭主は再び入来りて、「お客様、寝床を敷いてやりますと、僵(たお)れる様に臥(ふせ)りました。何だか不便(ふびん)な婦人(おんな)でございます。「それは深切に好くしておやんなすった。そうして何とか言いましたかい。「あれは唖(おうし)じゃないかと思われます。何を言っても聞えぬようすでございます。「何(なん)しろ談話(はなし)の種になりそうだね。「いかさまな。「で、私はこれからちよいと行って来る処がある。御当家(おうち)へ迷惑は懸(かけ)ないから、帰るまでああして蔵匿(かくまっ)て置いて下さらないか、衣服(きもの)に血が附(つい)てたり、おどおどしている処を見ると、邪慳(じゃけん)な姑(しゅうとめ)にいびられる嫁か。「なるほど。「あるいは継母に苦しめられる娘か。「勾引(かどわか)された女で、女郎にでもなれと責められるのか。こりゃ、もしよくあるやつでございますぜ。「うむその辺だろう。何でも曰附(いわくつき)に違いないから、御亭主、一番侠客気(おとこぎ)を出しなさい。「はあて、ようごぜえさあ、ほい、直ぐとその気になる。はははははは。かからんには後に懸念無し。亭主もし二の足ふまば我が職掌をいうべきなれど、蔵匿うことを承知したればそれにも及ばず都合可(よ)し。人情なればこの婦人を勦(いたわ)りてやる筈(はず)なれど、大犯罪人前にあり、これ忽(ゆるがせ)にすべからずと、泰助は急ぎ身支度して、雪の下へと出行きぬ。赤城の下男八蔵は、墓原に来て突当(つきあたり)の部屋の前に、呼吸(いき)を殺していたりしが、他の者は皆立去りて、怪しと思う婦人(おんな)のみ居残りたる様子なれば、倒れたる墓石を押し寄せて、その上に乗りて伸び上り、窓の戸を細う開きて差覗(さしのぞ)けば、かの婦人は此方(こなた)を向きて横様に枕したれば、顔も姿もよく見えたり。「やあ! と驚きの余り八蔵は、思わず声を立てけるにぞ、婦人は少し枕を上げて、窓をあおぎ見たる時、八蔵ぬっと顔(つら)差出し、拳(こぶし)に婦人を掴(つか)む真似して、「汝、これだぞ、と睨(ね)めつくれば、連理引きに引かれたらむように、婦人は跳ね起きて打戦(うちおのの)き、諸袖(もろそで)に顔を隠し、俯伏(うつぶし)になりて、「あれえ。」

 倉瀬泰助は旅店を出でて、雪の下への道すがら、一叢(ひとむら)樹立(こだち)の茂りたる林の中へ行懸(ゆきかか)りぬ。月いと清うさしいでて、葉裏を透(すか)して照らすにぞ、偶然(ふと)思い付く頬の三日月、また露(あらわ)れはせざるかと、懐中鏡を取出(とりいだ)せば、きらりと輝く照魔鏡に怪しき人影映りけるにぞ、はっと鏡を取落せり。
 とたんに鉄棒空(くう)に躍って頭(こうべ)を目懸けて曳(えい)! と下す。さしったりと身を交せば、狙(ねら)い外(はず)れて発奮(はずみ)を打ち路傍の岩を真二(まっぷた)つ。石鉄戛然(かつぜん)火花を散らしぬ。こはかの悪僕八蔵が、泰助に尾し来りて、十分油断したるを計り、狙撃(ねらいうち)したりしなり。僥倖(さいわい)に鏡を見る時、後に近接(ちかづく)曲者映りて、さてはと用心したればこそ身を全うし得たるなれ。
「しまった。と叫びて八蔵が、鉄棒を押取(おっとり)直すを、泰助ははったと睨め付け、「御用だ。と大喝一声、怯(ひる)む処を附け入って、拳(こぶし)の雷(いなずま)手錬のあてに、八蔵は急所を撲(う)たれ、蹈反(ふんぞ)りて、大地はどうと響きけり。
「月夜に暗殺、馬鹿々々しい、と打笑いつつ泰助は曲者の顔を視(なが)めて、「おや、此奴(こやつ)は病院へ来た奴だ。赤城の手下に違いないが、ふむ敵はもう我(おれ)が来たことを知ってるな。こりゃ油断がならぬわい。危険々々(けんのんけんのん)、ほんの一機(ひといき)でこの石の通りになる処、馬鹿力の強い奴だ。と舌を巻きしが、「待て、何ぞ手懸りになる様な、掘出し物があろうかも知れぬ。とかかる折にも油断無く八蔵の身体(からだ)を検して腰に附けたる鍵を奪いぬ。時に取りては千金にも勝りたる獲物ぞかし。これあらば赤城家へ入込(いりこ)むに便(たより)あり造化至造妙(しあわせよし)と莞爾(にっこ)と頷(うなず)き、袂(たもと)に納めて後をも見ず比企(ひき)が谷(やつ)の森を過ぎ、大町通って小町を越し、坐禅川を打渡って――急ぎ候ほどに、雪の下にぞ着きにける。
(談話(はなし)前にもどる。)
 ここに赤城得三は探偵の様子を窺(うかが)えとて八蔵を出(いだ)し遣(や)りたる後、穏かならぬ顔色(がんしょく)にて急がわしく座を立ちて、二室(ふたま)三室通り抜けて一室の内へ入(い)り行(ゆ)きぬ。こは六畳ばかりの座敷にて一方に日蔽(ひおおい)の幕を垂れたり。三方に壁を塗りて、六尺の開戸(ひらきど)あり。床の間は一間の板敷なるが懸軸も無く花瓶も無し。ただ床の中央に他に類(たぐい)無き置物ありけり。鎌倉時代の上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じょうろう)にや、小挂(こうちぎ)しゃんと着こなして、練衣(ねりぎぬ)の被(かずき)を深く被(かぶ)りたる、人の大きさの立姿。溢(こぼ)るる黒髪小袖の褄(つま)、色も香もある人形なり。言(ものい)わぬ高峰(たかね)の花なれば、手折るべくもあらざれど、被の雲を押分けて月の面影洩出(もれい)でなば、※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)長(ろうた)けたらんといと床し。
 得三は人形の前に衝(つ)と進みて、どれ、ちょっと。上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)の被を引き上げて、手燭(てしょく)を翳(かざ)して打見遣(や)り、「むむ可々(よしよし)。と独言(ひとりごと)。旧(もと)のごとく被を下して、「後刻(のち)に高田が来る筈(はず)だから、この方はあれにくれてやって、金にするとしてまず可(よ)しと。ところで下枝の方は、我(お)れが女房にして、公債や鉄道株、ありたけの財産を、我(お)れが名に書き替えてト大分旨い仕事だな。しかし、下枝めがまた悪く強情で始末におえねえ。手を替え、品を替え、撫(なで)つ抓(つね)りつして口説いても応(うむ)と言わないが、東京へ行懸けに、梁(うつばり)に釣して死ぬ様な目に逢わせて置いたから、ちっとは応えたろう。それに本間の死んだことも聞かしてやったら、十に九つはこっちの物だ。どうやら探偵(いぬ)が嗅(か)ぎ附けたらしい。何もかも今夜中に仕上げざなるめえ。その代り翌日(あした)ッから御大尽だ。どれ、ちょびと隠妾(かくしづま)の顔を見て慰もうか。とかねてより下枝を幽閉せる、座敷牢へ赴くとて、廻廊に廻り出でて、欄干に凭(よ)りかかれば、ここはこれ赤城家第一の高楼(たかどの)にて、屈曲縦横の往来を由井が浜まで見通しの、鎌倉半面は眼下にあり。
 山の端(は)に月の出汐(いでしお)見るともなく、比企が谷の森の方(かた)を眺むれば、目も遥かなる畦道(あぜみち)に、朦朧(もうろう)として婦人(おんな)あり。黒髪颯(さっ)と夜風に乱して白き衣服(きもの)を着けたるが、月明りにて画(えが)けるごとく、南をさして歩むがごとし。
 得三は※(「口+阿」、第4水準2-4-5)呀(あなや)と驚き、「あれはたしかに下枝の姿だ……いや、いや、三年以来(このかた)、あの堅固な牢の内へぶちこんであるものを、まさか魔術を使いはしめえし、戸外(おもて)へ脱けて出る道理が無い。こりゃ心の迷いだ。脱(に)がしてはならぬ脱がしてはならぬと思ってるからだ。こればかりの事に神経を悩すとは、ええ、意気地の無い事だ。いかさまな、五十の坂へ踏懸けちゃあ、ちと縒(より)が戻ろうかい。だが油断はならない、早く行って見て安心しよう。何、居るに違いないが……ままよ念のためだと、急がわしく、馳(は)せ行きて北の台と名づけたる高楼の、怪しげなる戸口に到り、合鍵にて戸を開けば、雷(らい)のごとき音ありて、鉄張の戸は左右に開(あ)きぬ。室内に籠りたる生暖(なまぬる)き風むんむと面(おもて)を撲(う)ちて不快(こころわる)きこといわん方無し。
 手燭に照して見廻(みま)わせば、地に帰しけん天に朝しけん、よもやよもやと思いたる下枝は消えてあらざりけり。得三は顛倒(てんどう)して血眼(ちまなこ)になりぬ。

 先刻(さき)に赤城得三が、人形室を出行(いでゆ)きたる少時(しばらく)後に、不思議なることこそ起りたれ。風も無きに人形の被(かずき)揺めき落ちて、妖麗(あでやか)なる顔の洩(も)れ出でぬ。瑠璃(るり)のごとき眼も動くようなりしが、怪しいかな影法師のごとき美人静々と室(ま)の中(うち)に歩み出でたり。この幻影(まぼろし)譬(たと)えば月夜に水を這(は)う煙(けぶり)に似て、手にも取られぬ風情なりき。
 折から畳障りの荒らかなる、跫音(あしおと)彼方(かなた)に起りぬれば、黒き髪と白き顔はふっと消え失(う)せ、人形はまた旧(もと)の通り被を被(かぶ)りぬ。
 途端にがたひしと戸を開けて、得三は血眼に、この室に駈(か)け込み、「この方はどうだろう。あの様子では同じく翼(はね)が生えて飛出したかも知れぬ。さあ事だ、事だ、飛んだ事だ。もう一度見ねばならない。と小洋燈(こともし)の心を繰上げて、荒々しく人形の被をめくり、とくと覗きて旧のように被を下ろし、「うむ、この方は何も別条は無い。やれこれで少しは安堵(おちつい)た。それにしても下枝めはどうして失(う)せた知らん。婆々が裏切をしたのではあるまいか。むむ、何(なん)しろ一番糺明(ただし)て見ようと、掌(たなそこ)を高く打鳴らせば、ややありて得三の面前に平伏したるは、当家に飼殺しの飯炊にて、お録といえる老婆なり。
 得三は声鋭く、「お録、下枝をどこへ遁(にが)した。と睨附(ねめつ)くれば、老婆は驚きたる顔を上げ、「へい、下枝様(さん)がどうかなさいましたか、「しらばくれるない。きっと汝(きさま)が遁(にが)したんだ。「いいえ、一向に存じません。「汝(うぬ)、言ッちまえ。「ちっとも存じません。「ようし、白状しなけりゃこうするぞ。と懐中より装弾(たまごめ)したる短銃(ピストル)を取出(いだ)し、「打殺(ぶちころ)すが可いか。とお録の心前(むなさき)に突附くれば、足下に踞(うずくま)りて、「何でそんな事をいたしましょう。旦那様が東京へいらっしゃってお留守の間も私(わたくし)はちゃんと下枝様の番をしておりました。縄は解いてやりましたけれども。「それ見ろ。そういう糞慈悲を垂れやあがる。我(おれ)が帰るまで応(うむ)といわなけりゃ、決(け)して下してやることはならないと、あれほど言置いて行ったじゃないか。「でもひいひい泣きまして耳の遠い私でも寝られませんし、それに主公(あなた)、二日もああして梁(うつばり)に釣上げて置いちゃあ死んでしまうじゃございませんか。「ええ! そんなことはどうでも可い。どこへ遁したか、それを言えッてんだ。「つい今の前(さき)も北の台へ見廻りに参りましたら、下枝様は平常(いつも)の通り、牢の内に僵(たお)れていましたのに、にわかに居なくなったとおっしゃるが、実(まこと)とは思われません。と言解(いいとく)様の我を欺(あざむ)くとも思われねば、得三は疑い惑い、さあらんには今しがた畦道(あぜみち)を走りし婦人(おんな)こそ、籠を脱けたる小鳥ならめ、下枝一たび世に出(いで)なば悪事の露顕は瞬く間と、おのが罪に責められて、得三の気味の悪さ。惨(むご)たらしゅう殺したる、蛇(くちなわ)の鎌首ばかり、飛失せたらむ心地しつ立っても居ても落着かねば、いざうれ後を追懸けて、草を分けて探し出し、引摺(ひきず)って帰らんとお録に後を頼み置き、勝手口より出でんとして、押せども、引けども戸は開かず。「八蔵の馬鹿! 外から鎖(じょう)を下して行(ゆ)く奴があるもんか。とむかばらたちの八ツ当り。
 折から玄関の戸を叩きて、「頼む、頼む。と音訪(おとな)う者あり。聞覚えのある声はそれ、とお録内より戸を開けば、外(おもて)よりずっと入るは下男を連れたる紳士なりけり。こは高田駄平(たかただへい)とて、横浜に住める高利貸にて、得三とは同気相集る別懇の間柄なれば、非義非道をもって有名(なだか)く、人の活血(いきち)を火吸器(すいふくべ)と渾名(あだな)のある男なり。召連れたる下男は銀平という、高田が気に入りの人非人。いずれも法衣(ころも)を絡(まと)いたる狼ぞかし。
 高田は得三を見て声をかけ、「赤城様(さん)、今晩は。得三は出迎(いでむか)えて、「これは高田様(さん)でございますか。まあ、こちらへ。と二階なる密室に導きて主客三人(みたり)の座は定まりぬ。高田は笑ましげに巻莨(まきたばこ)を吹(ふか)して、「早速ながら、何は、令嬢は息災かね。「ええ、お藤の事でございますか、「左様さ、私の情婦(いいひと)、はははははは。と溶解(とろ)けんばかりの顔色(かおつき)を、銀平は覗(のぞ)きて追従(ついしょう)笑い、「ひひひひ。得三は苦笑いして、「藤は変った事はございません。御約束通り、今夜貴下に差進(さしあ)げるが。……実は下枝ね。「ははあ。「あれが飛んだことになりました。「ふむ、死にましたろう。だから言わないことか、あんなに惨(むご)いことをなさるなと。とうとう責殺したね。非道(ひどい)ことをしなすった。「いえ、死んだのならまだしも可いが、どうしてか逃げました。「なに! 遁(に)げたえ?「それで今捜しに出ようというところですて。「むむ、それはとんだ事だ。猶予をしちゃ不可(いけ)ません。あの嬢(こ)が饒舌(しゃべる)と一切の事が発覚(ばれ)っちまう。宜しい銀平にお任せなさい。のう、銀平や、お前はそういうことには馴(な)れているから、取急いで探しておあげ申しな。と命(いいつ)くれば得三も、探偵に窺(うかが)わるることを知りたれば、家を出でむは気懸りなりしに、これ幸(さいわい)と銀平に、「じゃ御苦労だが、願います。私どもは後にちっと用事があるから。といえば、もとより同穴(ひとつあな)の貉(むじな)にて、すべてのことを知るものなれば、銀平は頷(うなず)きて、「へい宜しゅうございます。下枝様がああいう扮装(みなり)のまま飛出したのなら、今頃は鎌倉中の評判になってるに違いありません。何をいおうと狂気(きちがい)にして引張(ひっぱ)って参ります。血だらけのあの姿じゃ誰だって狂気ということを疑いません。旦那、左様なら、これから直ぐに。と立上るを得三は少時(しばし)と押止め、「例のな、承知でもあろうが、三日月探偵がこっちへ来ているから、油断のないように。と念を入るれば、「それは重々容易ならぬことだ。銀平しっかりやってくんな。と高田も言(ことば)を添えにける。銀平とんと胸を叩きて、「御配慮(おきづかい)なされますな。と気軽に飛出し、表門の前を足早に行懸(ゆきかか)れば、前途(むこう)より年少(わか)き好男子の此方(こなた)に来懸るにはたと行逢いけり。擦違うて両人斉(ひと)しく振返り、月明(つきあかり)に顔を見合いしが、見も知らぬ男なれば、銀平はそのまま歩を移しぬ。これぞ倉瀬泰助が、悪僕八蔵を打倒して、今しもここに来れるなりき。

 泰助は昼来て要害を見知りたれば、その足にて直ぐと赤城家の裏手に行(ゆ)き、垣の破目(やれめ)を潜(くぐ)りて庭に入りぬ。
 目も及ばざる広庭の荒たきままに荒果てて、老松(ろうしょう)古杉(こさん)蔭暗く、花無き草ども生茂りて踏むべき路(みち)も分難(わけがた)し、崩れたる築山あり。水の洞(か)れたる泉水あり。倒れかけたる祠(ほこら)には狐や宿を藉(か)りぬらん、耳許(みみもと)近き木の枝にのりすれのりすれ梟(ふくろう)の鳴き連るる声いと凄(すさ)まじ、木の葉を渡る風はあれど、塵(ちり)を清むる箒(ははき)無ければ、蜘蛛の巣ばかり時を得顔に、霞を織る様哀(あわれ)なり。妖物(ばけもの)屋敷と言合えるも、道理(ことわり)なりと泰助が、腕拱(こまぬ)きて彳(たたず)みたる、頭上の松の茂(しげり)を潜りて天より颯(さっ)と射下す物あり、足許にはたと落ちぬ、何やらんと拾い見るに、白き衣切(きぬぎれ)ようのものに、礫(いしこ)を一つ包みてありけり。押開きて月に翳(かざ)せば、鮮々(なまなま)しき血汐にて左(さ)の文字(もんじ)を認(したた)めたり。
 虐殺(なぶりごろし)にされようとする女が書きました。どうぞ、この家(や)の内から助け出して下さいまし。……書様の乱れたる字の形の崩れたる、筆にて運びし物にはあらじ。思うに指など喰い切りてその血をその手ににじり書き、句の終りには夥(おびただ)しく血のぬらぬらと流れたるを見て、泰助はほろりと落涙せり。
 これを投げたるは、下枝か、藤か。目も当てられぬことどもかな。いで我来れり、泰助あり、今夜の中(うち)に地獄より救い取りて、明日はこの世に出し参らせむ。そもいずくより擲(なげう)ちたらんと高楼(たかどの)を打仰げど、それかと見ゆる影も無く、森々と松吹く風も、助けを呼びて悲しげなり。屹(きっ)と心を取直し、丈に伸びたる夏草を露けき袖にて押分け押分けなお奥深く踏入りて忍び込むべき処もやと、彼方(あなた)此方(こなた)を経歴(へめぐ)るに、驚くばかり広大なる建物の内に、住む人少なければ、燈(ともしび)の影も外(おもて)へ洩(も)れず。破廂(やれびさし)より照射入(さしい)る月は、崩れし壁の骨を照して、家内寂寞(せきばく)として墓に似たり。ややありて泰助は、表門の方(かた)に出で、玄関に立向い、戸を推(お)して試むれば、固く内より鎖(とざ)して開(あ)かず。勝手口と覚しき処に行(ゆ)きて、もしやと引けども同じく開かず。いかにせんと思いしが、ふと錠前に眼を着くれば、こは外より鎖せしなり。試みに袂(たもと)を探りて、悪僕より奪い置きたる鍵を嵌(は)むれば、きしと合いたる天の賜物(たまもの)、「占めた。」と捻(ね)じれば開(ひら)くにぞ、得たりと内へ忍び入りぬ。
 暗闇を歩むに馴(な)れたれば、爪先探りに跫音(あしおと)を立てず。やがて壇階子(だんばしご)を探り当て、「これで、まず、仕事に一足踏懸けた。と耳を澄まして窺(うかが)えど、人の気附たる様子も無ければ、心安しと二階に上りて、壁を洩れ来る月影に四辺(あたり)を屹と見渡せば、長き廊下の両側に比々として部屋並べり。大方は雨漏に朽ち腐れて、柱ばかり参差(しんし)と立ち、畳は破れ天井裂け、戸障子も無き部屋どもの、昔はさこそと偲(しの)ばるるが一(ひ)い二(ふ)ウ三(み)いと数うるに勝(た)えず。遥(はる)か彼方に戸を閉じたる一室(ひとま)ありて、燈火(ともしび)の灯影(ほかげ)幽(かす)かに見ゆるにぞ、要こそあれと近附きて、ひたと耳をあてて聞くに、人のあるべき気勢(けはい)もなければ、潜(ひそ)かに戸を推して入込みたる、此室(ここ)ぞかの人形を置ける室なる。
 垂れ下したる日蔽(ひおおい)は、これ究竟(くっきょう)の隠所(かくれどころ)と、泰助は雨戸とその幕の間に、電(いなずま)のごとく身を隠しつ。と見れば正面の板床に、世に希有(めずら)しき人形あり。人形の前に坐りたる、十七八の美人ありけり。
 泰助は呼吸(いき)を殺してその様を窺えば、美人は何やらむ深く思い沈みたる風情にて、頭(こうべ)を低(た)れて傍目(わきめ)もふらず、今泰助の入りたることは少しも心附かざりき。額襟許清らに見え、色いと白く肉置(ししお)き好(よ)く、髪房やかに結いたるが、妖艶(あでやか)なることはいわむ方無し。美人は正坐に堪えざりけん、居坐(いずまい)乱して泣きくずおれ啜(すす)り上げつつ独言(つぶやく)よう、「ああ悪人の手に落ちて、遁(に)げて出ることは出来ず、助けて下さる人は無し。あの高田に汚(けが)されぬ先に、いっそこのまま死にたいなあ、お姉様(あねさん)はどう遊ばしたかしら[#「遊ばしたかしら」は底本では「遊ばしたしら」]、定めし私と同じ様に。と横に倒れて唯泣(ひたなき)に泣きけるが、力無げに起直り赤めたる眼を袖にて押拭(おしぬぐ)いて、件(くだん)の人形に打向い、「人形や、よくお聞き。お前はね、死亡(おなくなり)遊ばした母様(おっかさん)に、よく顔が肖(に)ておいでだから、平常(いつも)姉様(ねえさん)と二人して、可愛がってあげたのに、今こんな身になっているのを、見ていながら、助けてくれないのは情ないねえ、怨めしいよ。御覧な、誰も世話をしないから、この暑いのに綿の入った衣服(きもの)を着ておいでだよ。私を旧(もと)のようにしておくれだったら、甘味(おいし)い御膳(ごぜん)も進(あ)げようし、衣服も着換えさせますよ。お前のに綺麗な衣服を、姉様と二人で縫い上げて、翌日(あす)は着せてあげようと楽みにして寝た晩から、あの邪慳(じゃけん)な得三に、こうされたのはよく御存じでないかい。今夜は高田に恥かしめられるからさあ、どうかして下さいてばよう。ええ、これほどいうのに返事もしないかねえ。とひしと上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)の腰に縋(すが)りて、口説きたるには、泰助も涙ぐみぬ。
 美人はまた、「あれ堪忍して下さいましよ。貴女(あなた)は仮にも母様(おっかさん)、恨みがましいことを申して済みませんでした。でももう神様も、仏様も、妾(わたし)を助けて下さらないから、母様どうぞ助けて下さい。そうでなくば、私を殺して早うお傍(そば)に連れて行って下さいまし、よ、よ。と力一杯抱緊(だきし)めて、身を震わせば人形もともにわななくごとくなり。
 泰助は見るに忍びず。いでまずこの嬢(こ)を救い出(いだ)さん、家の案内は心得たれば背負うて遁げんに雑作は無しと幕を掲げて衝(つ)と出でたり。不意に驚き、「あれ。と叫びて、泰助声をも懸けざるに、身を飜(ひるがえ)して、人形の被(かずき)を潜(くぐ)って入るよと見えし、美人は消えて見えずなりぬ。あまりの不思議に呆気に取られ、茫然として眼をぱちぱち、「不思議だ。不思議と泰助は、潜かに人形の被の端へ片手を懸けたる折こそあれ。部室(へや)の外(おもて)にどやどやと跫音(あしおと)して、二三人が来れる様子に、南無三宝飛び退(すさ)りて再び日蔽の影に潜みぬ。

 高田の下男銀平は、下枝を捜し出(いだ)さんとて、西へ東へ彷徨(さまよい)つ。巷(ちまた)の風説(うわさ)に耳を聳(そばだ)て、道行(ゆ)く人にもそれとはなく問試むれど手懸り無し。南を指して走りしと得三の言いたれば、長谷(はせ)の方(かた)に行きて見んと覚束(おぼつか)のうは思えども、比企が谷より滑川へ道を取って行懸り、森の中を通るとき、木の根を枕に叢(くさむら)に打倒れたる者を見たり。
 時すがら悪き病疾(やまい)に罹(かか)れるやらむ、近寄りては面倒、と慈悲心無き男なれば遠くより素通りしつ。まてしばし人を尋ぬる身にしあれば、人の形をなしたる物は、何まれ心を注(つ)くべきなり。と思い返して傍(そば)に寄り、倒れし男の面体を月影にてよく見れば、かねて知己(ちかづき)なる八蔵の歯を喰切(くいしば)りて呼吸(いき)絶えたるなり。銀平これはと打驚き、脈を押えて候(うかが)えば遥(かす)かに通う虫の呼吸、呼び活けんと声を張上げ、「八蔵、やい八蔵、どうしたどうした、え、八蔵ッ、と力任せに二つ三つ掴拳(にぎりこぶし)を撲(くら)わせたるが、死活の法にや協(かな)いけん。うむと唸(うめ)くに力を得て「やい、しっかりしろ。と励ませば、八蔵はようように、脾腹(ひばら)を抱えて起上り、「あ痛(いつ)、あ痛。……おお痛え、痛え、畜生非道(ひど)いことをしやあがる。と渋面つくりて銀平の顔を視(なが)め、「銀平、遅かったわやい。「おらあすんでの事で俗名八蔵と拝もうとした。「ええ、縁起でもねえ廃止(よし)てくれ。物をいうたびに腹へこたえて、こてえられねえ。「全体どうしたんだ。八蔵は頭を掻(か)き掻きありし事ども物語れば、銀平は、驚きつまた便(たより)を得つ、「ふむ、それでは下枝は滑川の八橋楼に居るんだな。「ああ、どうしてか紛れ込んだ。おらあ、窓から覗(のぞ)いてたしかに見た。何とか工夫をして引摺り出そうと思ってる内に、泰助めが出懸ける様だから、早速跡を跟(つ)けて、まんまと首尾よくぶっちめる処を、さんざんにぶっちめられたのだ。忌々(いめえま)しい。「可(よ)し一所に歩べ。行って下枝を連れて帰(けえ)ろう。「おっと心得た。「さあ行(ゆ)こうぜ。「参りまする参りまする。何かと申すうちに、はやここは滑川にぞ着きにける。
 八橋楼の亭主得右衛門は、黄昏時(たそがれどき)の混雑に紛れ込みたる怪しき婦人を、一室(ひとま)の内に寝(やす)ませおき、心を静めさせんため、傍へは人を近附けず。時経(た)たば素性履歴を聞き糺(ただ)し、身に叶うべきほどならば、力となりて得させむず、と性質(うまれつき)たる好事心。こうしてああしてこうして、と独りほくほく頷(うなず)きて、帳場に坐りて脂下(やにさが)り、婦人を窺(うかが)う曲者などの、万一(もし)入(い)り来(きた)ることもやあらむと、内外に心を配りいる。
 勝手を働く女房が、用事了(しも)うて襷(たすき)を外し、前垂(まえだれ)にて手を拭き拭き、得衛の前へとんと坐り、「お前様(さん)どうなさる気だえ。「どうするって何をどうする。と空とぼければ擦寄って、「何をもないもんだよ。分別盛りの好い年をして、という顔色の尋常(ただ)ならぬに得右衛門は打笑い、「其方(そなた)もいけ年(どし)を仕(つかまつ)ってやくな。といえば赫(かっ)となり、「気楽な事をおっしゃいますな。お前様見たような人を怪我にも妬(や)く奴があるものか。「おや恐ろしい。何をそうがみがみいうのだ。「ああいう婦人(おんな)を宅(うち)へ置いてどんな懸合(かかりあい)になろうも知れませぬ。「その事なら放棄(うっちゃッ)ときな、おれが方寸にある事だ。ちゃんと飲込んでるよ。「だッてお前様、御主筋の落人ではあるまいし、世話を焼く事はござりませぬ。「お前こそ世話を焼きなさんな。「いいえ、ああして置くときっと庄屋様からお前を呼びに来て、手詰の応対、寅刻(ななつ)を合図に首討って渡せとなります。「その時は例の贋首(にせくび)さ。「人を馬鹿にしていらっしゃるよ。「そうして娘は居ず、さしずめ身代(みがわり)にお前さね。「とんでもない。「うんや喜こばっし。「なぜ喜ぶの。「はて、あの綺麗首の代りにたてば、お前死んでも浮ばれるぜ。「ええ悔しい。「悔しい事があるものか。首実検に入れ奉る。死相変じてまッそのとおり、ははははは。「お前はなあ。「これ、古風なことをするな。呼吸(いき)が詰る、これさ。「鶏(とり)が鳴いても放しはしねえ。早く追い出しておしまいなさい。「水を打懸(ぶっか)けるぞ。「啖(くら)い附くぞ。「苦(あ)、痛、ほんとに啖(くい)ついたな。この狂女(きちがい)め、と振払う、むしゃぶりつくを突飛ばす。がたぴしという物音は皿鉢飛んだ騒動(さわぎ)なり。
 外(おもて)に窺(うかが)う、八蔵、銀平、時分はよしとぬっと入り、「あい、御免なさいまし。」

「はい、光来(おいで)なさいまし、何ぞ御用。と得右衛門居住い直して挨拶すれば、女房も鬢(びん)のほつれ毛掻き上げつつ静まりて控えたり。銀平は八蔵に屹(きっ)と目注(めくば)せして己(おのれ)はつかつかと入込(いりこ)めば、「それお客様御案内と、得衛の知らせに女房は、「こちらへ。と先に立ち、奥の空室(あきま)へ銀平を導き行きぬ。道々手筈(てはず)を定めけむ、八蔵は銀平と知らざる人のごとくに見せ、その身は上口(あがりくち)に腰打懸け、四辺(あたり)をきょろきょろ見廻すは、もしや婦人を尋ねにかと得右衛門も油断せず、顔打守りて、「貴方は御泊(おとまり)ではございませんか。と問えばちょっとは答せず、煙草(たばこ)一服思わせぶり、とんとはたきて煙管(きせる)を杖、「親方、逢わしておくんねえ。と異(おつ)にからんで言懸くれば、それと察して轟(とどろ)く胸を、押鎮めてぐっと落着き、「逢わせとはそりゃ誰に。亭主ならば私じゃ、さあお目に懸(かか)りましょ。と此方(こなた)も負けずに煙草をすぱすぱ。八蔵は肩を動(ゆす)ってせせら笑い、「おいらが媽々(かか)が来ている筈、ちょいと逢おうと思って来た。「ふむ、してどんな御婦人だね。「ちと気が狂(ふ)れて血相変り、取乱してはいるけれど、すらっとして中肉中脊、戦慄(ぞっ)とするほど美(い)い女さ。と空嘯(そらうそぶ)いて毛脛(けずね)の蚊をびしゃりと叩く憎体面(にくていづら)。かくてはいよいよかの婦人の身の上思い遣られたり、と得衛は屹(きっ)と思案して、「それは大方門違い、私(わし)の代になってから福の神は這入(はい)っても狂人(きちがい)などいう者は、門端(かどばた)へも寄り附きません。と思いの外の骨の強さ。八蔵は本音を吐き、「おい、可(いい)加減に巫山戯(ふざけ)ておけ。これ知るまいと思うても、先刻(さっき)ちゃんと睨(にら)んでおいた、ここを這入って右側の突当(つきあたり)の部室(へや)の中に匿蔵(かくまっ)てあろうがな。と正面より斬って懸(かか)れば、ぎょっとはしたれど受流して、「居たらまた何とする。「やい、やい、馬鹿落着に落着(おちつく)ない。亭主の許さぬ女房を蔵(かく)しておけば姦通(まおとこ)だ。足許(あしもと)の明るい内に、さらけ出してお謝罪(わび)をしろと、居丈高に詰寄れば、「こりゃ可笑(おかし)い、お政府(かみ)に税を差上げて、天下晴れての宿屋なら、他人(ひと)の妻でも妾(めかけ)でも、泊めてはならぬ道理は無い。それとも其方(そち)の女房ばかりは、泊めるなという掟(おきて)があるか、さあそれを聞(きこ)うかい。と言われて八蔵受身になり、むむ、と詰りて頬脹(ふく)らし、「何さ、そりゃ此方(こなた)の商売じゃ、泊めたが悪いというではない。用があるから亭主の我(おれ)が連れて帰るに故障はあるまい。といわれて否(いや)とは言われぬば、得衛もぐっと行詰りぬ。八蔵得たりと畳みかけて、「さあ、出して渡してくれ、否と言うが最後だ。とどっかと坐して大胡坐(おおあぐら)。得右衛門思い切って「居さえすれば渡して進ぜる、居(お)らぬが実じゃで断念(あきらめ)さっし。と言わせも果てず眼を怒らし、「まだまだ吐(ぬか)すか面倒だ。踏み込んで連れて行(ゆ)く、と突立上れば、大手を拡げ、「どっこい遣らぬわ、誰でも来い、家の亭主ここに控えた。「何をと、八蔵は隠し持ったる鉄棒を振翳(ふりかざ)して飛懸(とびかか)れば、非力の得衛仰天して、蒼(あお)くなって押隔つれど、腰はわなわな気はあぷあぷ、困(こう)じ果てたるその処へ女房を前(さき)に銀平が一室(ひとま)を出でて駈(か)け来りぬ。
 銀平は何思いけん、勢(いきおい)に乗る八蔵を取って突除(つきの)けずいと立ち、「勾引(かどわかし)の罪人、御用だッ。と呼ばわれば、八蔵もまた何とかしけむ、「ええ、と吃驚(びっくり)身を飜(ひる)がえして、外(おもて)へ遁出(にげだ)し雲を霞、遁がすものかと銀平は門口まで追懸け出で、前途(ゆくて)を見渡し独言(ひとりごと)、「素早い、野郎だ。取遁がした、残念々々と引返せば、得右衛門は興覚顔にて、「つい混雑に紛れまして、まだ御挨拶も申しません。貴下(あなた)は今しがた御着(おつき)になった御客様、さてはその筋の。と敬えば、銀平したり顔に打頷(うちうなず)き、「応(うむ)、僕は横須賀の探偵だ。」
 遁げると見せかけ八蔵は遠くも走らず取って返し、裏手へ廻って墓所(はかしょ)に入(い)り、下枝が臥(ふ)したる部室(へや)の前に、忍んで様子を窺(うかが)えり。
 横須賀の探偵に早替りせる銀平は、亭主に向(むか)いて声低く、「実は、横須賀のさる海軍士官の令嬢が、江の島へ参詣(さんけい)に出懸けたまま、今もって、帰って来ない。と口より出任せの嘘を吐(つ)けど、今の本事(てなみ)を見受けたる、得右衛門は少しも疑わず。真に受けて、「なるほどなるほど。と感じ入りたる体なり。銀平いよいよ図に乗り、「ええ、それで必定(てっきり)誘拐(かどわか)されたという見込でな。僕が探偵の御用を帯びて、所々方々と捜している処だ。「御道理(ごもっとも)。「先刻(さっき)からの様子では、お前の処に誰か婦人を蔵匿(かくま)ってある。それをば悪者が嗅(か)ぎ出して、奪返しに来た様子だが。……と言いつつ亭主の顔を屹(きっ)と見れば、鈍(おぞ)や探偵と信じて得右衛門は有体に、「左様、その通り。実はこれこれの始末にて。と宵よりありし事柄を落も無くいうてのくれば、銀平はしてやったりと肚(はら)に笑みて、表面(うわべ)にますます容体を飾り、「ははあ、御奇特の事じゃ、聞く処では年齢と言い、風体と言い、全く僕が尋ねる令嬢に違いない。いや、追ってその許に、恩賞の御沙汰これあるよう、僕から上申を致そう、たしかにそれが見たいものじゃが、というに亭主はほくほく喜び、見事善根をしたる所存、傍聞(かたえぎき)する女房を流眄(しりめ)に懸けて、乃公(だいこう)の功名まッこのとおり、それ見たかといわぬばかり。あわれ銀平が悪智慧に欺(あざ)むかれて、いそいそと先達して、婦人を寝(やす)ませおきたる室へ、手燭(てしょく)を取って案内せり。
 前には八蔵驚破(すわ)といわばと、手ぐすね引きて待懸けたり。後(うしろ)には銀平が手も無く得右衛門に一杯くわして、奪い行かむと謀(はか)りたり。わずかに虎口を遁(のが)れ来て、仁者の懐に潜みながら、毒蛇の尾にて巻かれたる、下枝が不運憐むべし。

 赤城家にては泰助が、日蔽(ひおおい)に隠れし処へ、人形室の戸を開きて、得三、高田、老婆お録、三人の者入来(いりきた)りぬ、程好き処に座を占めて、お録は携(たずさ)え来りたる酒と肴(さかな)を置排(おきなら)べ、大洋燈(おおランプ)に取替えたれば、室内照りて真昼のごとし。得三その時膝押向け、「高田様(さん)、じゃ、お約束通り証文をまいて下さい。高田は懐中より証書を出(いだ)して、金一千円也と、書きたる処を見せびらかし、「いかにも承知は致したが、まだ不可(いけ)ません。なにしてしまったら、綺麗さっぱりとお返し申そうまずそれまでは、とまた懐へ納め、頤(おとがい)を撫(な)でている。「お録、それそれ。と得三が促し立つれば、老婆は心得、莞爾(にこ)やかに高田に向いて、「お芽出度(めでとう)存じます。唯今(ただいま)花嫁御を。……と立上り、件(くだん)の人形の被(かずき)を掲げて潜(くぐ)り入りしが、「じたばたせずにおいでなさい、という声しつ。今しがた見えずなりたる、美人の小腕(こがいな)を邪慳(じゃけん)に掴(つか)みて、身を脱(のが)れんと悶(もだ)えあせるを容赦(ようしゃ)なく引出(ひきいだ)しぬ。美人は両手に顔を押えて身を縮(すく)まして戦(おのの)きいたり。
 得三これを打見遣り、「お藤、かねて言い聞かした通り、今夜は婿を授けてやるぞ。さぞ待遠であったろうの。と空嘯(そらうそぶ)きて打笑えば、美人はわっと泣伏しぬ。高田はお藤をじろりと見て、「だが千円は頗(すこぶ)る高直(こうじき)だ。「考えて御覧なさい。これ程の玉なら、潰(つぶし)に売ったって三年の年期にして四五百円がものはあります。それを貴下(あなた)は、初物をせしめるばかりか、生涯のなぐさみにするのだもの、こちらは見切って大安売だ。千円は安価(やす)いものだね。「それもそうじゃな。どれ、一つ杯を献(さ)そう。この処ちょいとお儀式だ。と独り喜悦(よがり)の助平顔(づら)、老婆は歯朶(はぐき)を露(む)き出して、「直(すぐ)と屏風(びょうぶ)を廻しましょうよ。「それが可(い)い。と得三は頷(うなず)きけり。虎狼や梟に取囲まれたる犠牲(いけにえ)の、生きたる心地は無き娘も、酷薄無道のこの談話(はなし)を聞きたる心はいかならむ。絶えも入るべき風情を見て、得三は叱るように、「おい、藤。高田様(さん)がお盃を下さる、頂戴しろ。これッ、人が物を言うに返事もしないか。と声荒らかに呼(よば)わりて、掴み挫(ひし)がん有様に、お藤は霜枯の虫の音(ね)にて、「あれ、御堪忍なさいまし。「何も謝罪(あやま)る事アねえ。機嫌よくお盃を受けろというのだ。ええ、忌々しい、めそめそ泣いてばかりいやあがる。これお録、媒灼人役(なこうどやく)だ。ちと、言聞かしてやんな。老婆は声を繕いて、「お嬢様、どうしたものでございますね。御婚礼のお目出度(めでたい)に、泣いていらしっちゃあ済(すみ)ません。まあ、涙を拭いて、婿様をお見上げ遊ばせ。どんなに優しいお顔でございましょう。それはそれは可愛がって下さいますよ、ねえ旦那様、と苦笑い、得三は「そうともそうとも。「ほんとに深切な御方っちゃアありません。不足をおっしゃては女冥利(みょうり)が尽きますによ。貴女(あなた)お恥かしいのかえ、と舐(な)めるがごとく撫廻せば、お藤は身体(からだ)を固うして、頭(かぶり)を掉(ふ)るのみ答(いら)えは無し。高田はわざと怒り出し、「へん、好(い)い面(つら)の皮だ。嫌否(いや)なものなら貰いますまい。女旱(ひでり)はしはしまいし。工手間(くでま)が懸(かか)るんなら破談にするぜ。と不興の体に得三は苛立(いらだ)ちて、「汝(うぬ)、渋太(しぶと)い阿魔だな。といいさまお藤の手を捉(とら)うれば、「あれえ。「喧(やかま)しいやい。と白き頸(うなじ)を鷲掴(わしづか)み、「この阿魔、生意気に人好(ごのみ)をしやあがる。汝(うぬ)どうしても肯(き)かれないか。と睨附(ねめつ)くれば、お藤は声を震わして、「そればっかりは、どうぞ堪忍して下さいまし。と諸手を合すいじらしさ。「応(うむ)、肯(き)かれないな。よし、肯かれなきゃあ無理に肯かすまでのことだ。して見せる事があるわい。というは平常(いつも)の折檻(せっかん)ぞとお藤は手足を縮(すく)め紛る。得三は腕まくりして老婆を見返り、「お録、一番責めなきゃ埒(らち)が明くめえ。お客の前で※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)(も)き廻ると見苦しい、ちょいと手を貸してくれ。老婆はチョッと舌打して、「ても強情なお嬢(こ)だねえ。といいさま二人は立上りぬ。高田は高見に見物して、「これこれ台無しにしては悪いぜ。「なあに、売物だ。面(つら)に疵(きず)はつけません。
 泰助は、幕の蔭よりこれを見て、躍り出(いで)んと思えども、敵は多し身は単(ひと)つ、湍(はや)るは血気の不得策、今いうごとき情実なれば、よしや殴打(おうだ)をなすとても、死に致す憂(うれい)はあらじ。捕縛してその後に、渠等(かれら)の罪を数うるには、娘を打たすも方便ならんか、さはさりながらいたましし、と出るにも出られずとつおいつ、拳(こぶし)に思案を握りけり。
 得三はかねてかくあらんと用意したる、弓の折(おれ)を振上ぐれば老婆はお藤の手を扼(とりしば)りぬ。はっしと撲(う)たれて悲鳴を上げ、「ああれ御免なさいまし、御免なさいまし。と後(うしろ)へ反(そ)り前へ俯(ふ)し、悶(もだ)え苦しみのりあがり、紅(くれない)蹴返す白脛(しらはぎ)はたわけき心を乱すになむ、高田駄平は酔えるがごとく、酒打ち飲みていたりけり。

 無慙(むざん)やなお藤は呼吸(いき)も絶々に、紅顔蒼白く変りつつ、苛責(かしゃく)の苦痛に堪えざりけん、「ひい、殺して下さい殺して。と、死を決したる処女(おとめ)の心。よしやこのまま撲殺(うちころ)すとも、随うべくも見えざれば、得三ほとんど責倦(せめあぐ)みて、腕を擦(さす)りて笞(しもと)を休(や)めつ。老婆はお藤を突放せば、身を支うべき気力も失(う)せて、はたと僵(たお)れて正体無し。
 得三は、といきを吐(つ)きて高田に向い、「御覧の通りで仕様がありません。式作法には無いことだが、お藤の手足をふん縛(じば)って、そうして貴下(あなた)に差上げましょう、のう、お録、それが可(い)いじゃないか。「それが好(よ)うございます。その後は活(いか)すとも殺すとも、高田様(さん)の御存分になさいましたら、ねえ旦那。といえば得三引取って、「ねえ高田様(さん)。駄平は舌舐(したなめ)ずりして、「慾(よく)にも得にももうとてもじゃわい。そうして貰いましょうよ。「では証文をな。「うう、承知、承知。ここに恐しき相談一決して、得三は猶予(ゆうよ)なく、お藤の帯に手を懸けぬ。娘は無念さ、恥かしさ。あれ、と前褄(まえづま)引合して、蹌踉(よろめき)ながら遁(に)げんとあせる、裳(もすそ)をお録が押うれば、得三は帯際(おびぎわ)取って屹(きっ)と見え。高田は扇を颯(さっ)と開き、骨の間(あい)から覗(のぞ)いて見る。知らせにつき道具廻る。
 さても得右衛門は銀平を下枝の部屋(いま)に誘引(いざない)つ、「此室(ここ)に寝さしておきました。と部屋の戸を曳開(ひきあ)くれば、銀平の後(うしろ)に続きて、女房も入って見れば、こはいかに下枝の寝床は藻脱(もぬけ)の殻、主(ぬし)の姿は無かりけり。「や。「おや。「これは、と三人が呆れ果てて言葉も出でず。
 銀平は驚きながら思うよう、亭主はあくまで探偵と、我を信じて疑わねば、下枝を別の部屋に蔵(かく)して、我を欺(あざむ)くびょうもなし。こは必ず八蔵が何とかして便(たより)を得て、前に奪い出だせるならん。さすれば我はこの家(や)に用無し。長居は無益(むやく)と何気無く、「これは、怪しからん。ふとすると先刻(さっき)遁失(にげう)せた悪漢(わるもの)が小戻(こもどり)して、奪い取ったかも知れぬ、猶予する処でない。僕は直ぐに捜しに出るといわれて亭主は極(きまり)悪げに、「飛んだことになりました、申訳がございません。「なあに貴下(あなた)の落度じゃない、僕が職務の脱心(ぬかり)であった。いやしからば。と言い棄ててとつかわ外へ立出でて雪の下へと引返せば、とある小路の小暗き処に八蔵は隠れいつ、銀平の来かかるを、小手で招いて、「おい、ここだよ。」
 お藤は得三の手籠(てごめ)にされて、遂には帯も解け広がりぬ。こは悲しやと半狂乱、ひしと人形に抱(いだ)き附きて、「おっかさん! と血を絞る声。世に無き母に救(すくい)を呼びて、取り縋(すが)る手を得三がもぎ離して捻(ね)じ上ぐれば、お録は落散る腰帯を手繰ってお藤を縛り附け、座敷の真中(まんなか)にずるずると、髷(まげ)[#ルビの「まげ」は底本では「わげ」]を掴(つか)んで引出(ひきいだ)し、押しつけぬ。形怪しき火取虫いと大きやかなるが、今ほど此室(ここ)に翔(かけ)り来て、赫々(かくかく)たる洋燈(ランプ)の周囲(めぐり)を、飛び廻(めぐ)り、飛び狂い、火にあくがれていたりしが、ぱっと羽たたき火屋(ほや)の中へ逆さまに飛び入りつ、煽動(あおり)に消える火とともに身を焦してぞ失(う)せにけり。
 颯(さっ)と照射入(さしい)る月影に、お藤の顔は蒼(あお)うなり、人形の形は朦朧(もうろう)と、煙のごとく仄(ほの)見えつ。霊山に撞(つ)く寺の鐘、丑満時(うしみつどき)を報(つ)げ来(こ)して、天地寂然(しん)として、室内陰々たり。
 かかりし時、いずくともなく声ありて、「お待ち! と一言(ひとこと)呼ばわり叫びぬ。
 思いがけねば、得三等(ら)、誰(た)そやと見廻す座敷の中(うち)に、我々と人形の外には人に肖(に)たらむ者も無し。三人奇異の思いをなすうち、誰(た)が手を触れしということ無きに人形の被(かずき)すらりと脱け落ちて、上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)(じょうろう)の顔(かんばせ)顕(あら)われぬ。※(「口+阿」、第4水準2-4-5)呀(あなや)と顔を見合す処に、いと物凄き女の声あり。「無法を働く悪人等(ども)、天の御罰(ごばち)を知らないか。そういう婚姻は決してなりません。」
 幕の内なる泰助さえ、この声を怪しみぬ。前にも既に説(い)うごとく、この人形は亡き母として姉妹(あねいもと)が慕い斉眉(かしずく)物なれば、宇宙の鬼神感動して、仮に上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)の口を藉(か)りかかる怪語を放つらんと覚えず全身粟生(あわだ)てり。まして得三高田等は、驚き恐れつ怪しみて、一人立ち、二人立ち、次第に床の前へ進み、熟(じっ)と人形を凝視(みつめ)つつ三人(みたり)は少時(しばらく)茫然たり。
 機(とき)こそ来たれ。と泰助が、幕を絞って顕(あら)われたり。名にし負う三日月の姿をちらと見せるとおもえば、早くもお藤を小脇に抱(いだ)き、身を飜(ひるが)えして部屋を出でぬ。まことに分秒電火の働き、一散に下階(した)へ駈下(かけお)りて、先刻忍びし勝手口より、衝(つ)と門内に遁(のが)れ出づれば、米利堅産種(メリケンだね)の巨犬(おおいぬ)一頭、泰助の姿を見て、凄(すさ)まじく吠え出(いだ)せり。
 南無三、同時に轟然一発、頭(こうべ)を覗(ねら)って打出す短銃(ピストル)。
 幸い狙いは外(そ)れたれど泰助はやや狼狽(ろうばい)して、内より門を開けんとすれば、跫然(きょうぜん)たる足音門前に起りて、外よりもまた内に入らんとするものありけり。
 泰助蒼くなりて一足退(さが)れば、轟然たり、短銃の第二発。
 いとも危うく身を遁れて、泰助は振返り、屹(きっ)と高楼(たかどの)を見上ぐれば、得三、高田相並んで、窓より半身を乗出(のりいだ)し、逆落(さかおと)しに狙う短銃の弾丸(たま)は続いて飛来らん。その時門の扉を開きて、つッと入るは銀平、八蔵、連立ちて今帰れるなり。
 さすがの泰助も度を失いぬ。
 短銃の第三発轟然。

 贋探偵の銀平が出去(いでさ)りたる後、得右衛門はなお不審晴れ遣らねば、室(いま)の内を見廻(みめぐ)るに、畳に附たる血の痕(あと)あり。一箇処のみか二三箇処。ここかしこにぼたぼたと溢(こぼ)れたるが、敷居を越して縁側より裏庭の飛石に続き、石燈籠の辺(あたり)には断えて垣根の外にまた続けり。こは怪(あやし)やと不気味ながら、その血の痕を拾い行(ゆ)くに、墓原を通りて竹藪(たけやぶ)を潜(くぐ)り、裏手の田圃(たんぼ)の畦道(あぜみち)より、南を指して印されたり。
 一旦助けんと思い込みたる婦人(おんな)なれば、このままにて寐入(ねい)らんは口惜し。この血の跡を慕い行かばその行先を突留め得べきが、単身(ひとり)にては気味悪しと、一まず家に立帰りて、近隣の壮佼(わかもの)の究竟(くっきょう)なるを四人ばかり語らいぬ。
 各々興ある事と勇み立ち、読本(よみほん)でこそ見たれ、婦人といえば土蜘蛛(つちぐも)に縁あり。さしずめ我等は綱、金時、得右衛門の頼光(らいこう)を中央(まんなか)にして、殿(しんがり)に貞光(さだみつ)季武(すえたけ)、それ押出せと五人にて、棍棒(よりぼう)、鎌など得物を携え、鉢巻しめて動揺(どよ)めくは、田舎茶番と見えにけり。
 女房は独り機嫌悪く、由緒(よし)なき婦人(おんな)を引入れて、蒲団(ふとん)は汚れ畳は台無し。鶏卵(たまご)の氷のと喰べさせて、一言(ひとこと)の礼も聞かず。流れ渡った洋犬(かめ)でさえ骨一つでちんちんお預(あずけ)はするものを。おまけに横須賀の探偵とかいう人は、茶菓子を無銭(ただ)でせしめて去(い)んだ。と苦々しげに呟(つぶや)きて、あら寝(ねむ)たや、と夜着引被(ひっかつ)ぎ、亭主を見送りもせざりける。
 得右衛門を始めとして四人(よつたり)の壮佼(わかもの)は、茶碗酒にて元気を養い一杯機嫌で立出でつ。惜しや暗夜(やみ)なら松明(たいまつ)を、点(とも)して威勢は好(よ)からんなど、語り合いつつ畦伝い、血の痕を踏んで行く程に、雪の下に近づきぬ。金時真先(まっさき)に二の足踏み、「得右衛門もう帰ろうぜ。と声の調子も変になり、進みかねて立止まれば、「これさお主(ぬし)はどうしたものだ。と言い励す得右衛門。綱は上意を承り、「親方、大人気無い、廃止(よし)にしましょう。余所(よそ)なら可(い)いが、雪の下はちと、なあ、おい。と見返れば貞光が、「そうだともそうだとも、もうかれこれ十二時だろう。という後(しり)につき季武は、「今しがた霊山の子刻(ここのつ)を打った、これから先が妖物(ばけもの)の夜世界よ。と一同に逡巡(しりごみ)すれば、「ええ、弱虫めら何のこれたかが幽霊だ。腰の無い物なら相撲を取ると人間の方が二本足だけ強身だぜ。と口にはいえど己(おのれ)さえ腰より下は震えけり。金時は頭(こうべ)を掉(ふ)り、「なに鬼や土蜘蛛なら、糸瓜(へちま)とも思わねえ。「己(おれ)もさ、狒々(ひひ)や巨蛇(うわばみ)なら、片腕で退治て見せらあ。「我(おいら)だって天狗の片翼を斬って落すくらいなら、朝飯前だ。「ここにも狼の百疋は立処に裂いて棄てる強者(つわもの)が控えておると、口から出任せ吹き立つるに、得右衛門はあてられて、「豪気々々(えらいえらい)、その口で歩行(ある)いたら足よりは達者なものだ。さあ行(ゆ)こうかい。といえばどんじりの季武が、「ところが、幽霊は大嫌否(きらい)さ。「弁慶も女は嫌否かッ。「宮本無三四(むさし)は雷(らい)に恐れて震えたという。「遠山喜六という先生は、蛙を見ると立竦(たちすく)みになったとしてある。
「金時ここにおいてか幽霊が大禁物。「綱もすなわち幽霊(れこ)には恐れる。といわれて得右衛門大きに弱り、このまま帰らんは余り腑甲斐(ふがい)無し、何卒(なにとぞ)して引張り行かん。はて好い工夫はおっとある。「どうだ。一所に交際(つきあ)ってくれたら、翌日(あす)とは言わず帰り次第藤沢(宿場女郎の居る処)を奢(おご)ってやるが、と言えば四人(よつたり)顔見合わせ、「なるほどたかの知れた幽霊だ。「この中に人を殺したものは無いから、まず命に別条はあるまい。「むむ、背負(おぶっ)てくれがちと怪しいが、「ままよ行(ゆ)こうか、「おう。「うむ。と色で纏(まと)まる壮佼等(わかものども)、よしこの都々逸(どどいつ)唱い連れ、赤城の裏手へ来たりしが、ここにて血の痕(あと)途断(とぎ)れたり。
 得右衛門立停(たちどま)って四辺(あたり)を見廻し、「皆待ったり。この家はどうやら、例の妖物(ばけもの)屋敷らしいが、はてな。して見るとあの婦人(おんな)も化生(けしょう)のものであったか知らん。道理で来てから帰るまで変なことずくめ、しかし幽霊でも己(おれ)が一廉(いっかど)の世話をしてやったから、空(あだ)とは思うまい。何のせいだかあの婦人(おんな)は、心から可愛(かわゆ)うて不便(ふびん)でならぬ。今じゃ知己(ちかづき)だから恐しいとも思わぬわい。おい、おらあ、一番表へ廻って見て来るから、一所に来い。といえども一人として応ずる者無し。「そんなら待っていろ、どれ、幽霊に逢うて来ましょ。と得右衛門ただ一人、板塀を廻って見えずなりぬ。
 四人の壮佼は、後に残りて、口さえもよう利かれず。早夜(よ)は更けて、夏とはいえど、風冷々(ひやひや)と身に染みて、戦慄(ぞっ)と寒気のさすほどに、酔(えい)さえ醒(さ)めて茫然と金時は破垣(やれがき)に依懸(よりかか)り、眠気つきたる身体(からだ)の重量(おもみ)に、竹はめっきと折れたりけり。そりゃこそ出たぞ、と驚き慌て、得右衛門も待ち合えず、命からがら遁帰りぬ。

 短銃(ピストル)の筒口に濃き煙の立つと同時に泰助が魂消(たまざ)る末期の絶叫(さけび)、第三発は命中せり。
 渠(かれ)は立竦(たちすく)みになりてぶるぶると震えたるが、鮮血(なまち)たらたらと頬に流れつ、抱(いだ)きたるお藤をどうと投落して、屏風(びょうぶ)のごとく倒れたり。
 それと見て駈け寄る二人の悪僕、得三、高田、お録もろとも急ぎ内より出で来りぬ。高田はお藤を抱き上げて、「おお、可哀相にさぞ吃驚(びっくり)したろう、すんでのことで悪漢(わるもの)が誘拐(かどわか)そうとした。もう好(よ)いわい、泣くな泣くな。と背(せな)掻撫(かいな)でて助(いたわ)れば、得三もほっと呼吸(いき)、「あ、好かった。何者だ、大胆な、人形が声を出したのに度胆を抜かれた処へ幕の後(うしろ)から飛出しゃあがって、ほんとに驚いたぜ。お録、早く内へ連れて行(ゆ)きな。「へい承(かしこま)りました。と高田の手よりお藤を抱取り肩に掛けて連れて行く。
「まず、安心だ。うん八蔵帰(けえ)ったか、それその死骸(しがい)の面(つら)を見いと、指図に八蔵心得て叢中(くさむらなか)より泰助を引摺(ひきず)り出し、「おや、此奴(こいつ)あ探偵だ。我(おれ)を非道(ひど)い目に逢わしゃあがった。「何、どうしたと、殺(や)り損(そくな)って反対(あべこべ)に当身(あてみ)を喰(くら)った。それだから虚気(うっかり)手を出すなと言わねえことか。や、銀平殿お前もお帰りか。「はい、旦那唯今。「うむ、御苦労、なに下枝様(さん)はどうじゃ。「早速ながら下枝奴(め)は知れましたか。と二人斉(ひと)しく問懸くれば、銀平、八蔵交代(かたみがわり)に、八橋楼にての始末を語り、「それでね、いざという段になって部屋へ這入ると御本人様(さん)どこへ消えたか見えなくなりました。これは八蔵殿(どん)が前(さき)へ廻って連出したのかと思った処が、のう八蔵殿。「おおさ、己(おれ)も墓場の方で、銀平様(さん)の合図を待ってましたが、別に嬢様の出て来る姿を見附けませんで、「もうもう尋飽倦(たずねあぐみ)まして、夜(よ)も更けますし、旦那方の御智慧を借りようと存じましてひとまず帰りました。というに得三頭(こうべ)を傾けやや久しく思慮(かんがえ)いたるが、それにて思い当りたり。「して見ると下枝はまた家内(うち)へ帰って来たかも知れぬ。というのは、今しがた誰も居ないのに声が懸(かか)って、人形が物を言うていこたあ無い筈だと思ったが、下枝の業(わざ)であったかも知れぬわい。待て、一番(ひとつ)家内(うち)を検(しら)べて見よう。その死骸はな、よく死んだことを見極めて、家内(うち)の雑具部屋へ入れておけ。高田様(さん)、貴下(あなた)も御迷惑であろうが手伝って下枝を捜して下さい。探偵は片附けてしまったト、これで下枝さえ見附ければ、落着いてお藤が始末も附けます。と高田を誘(いざな)い内に入(い)りぬ。
 八蔵は泰助に恨(うらみ)あれば、その頭蓋骨は砕かれけん髪の毛に黒血凝(かたま)りつきて、頬より胸に鮮血(なまち)迸(ほとばし)り眼を塞ぎ歯を切(しば)り、二目とは見られぬ様にて、死しおれるにもかかわらず。なお先刻の腹癒(はらいせ)に、滅茶々々に撲(なぐ)り潰(つぶ)さんと、例の鉄棒を捻(ひね)る時、銀平は耳を聳(そばだ)てて、「待て! 誰か門を叩くぜ。八蔵はよくも聞かず、「日が暮ると人ッ子一人通らねえこの辺だ。今時誰が来るもんか。といううち門の戸を丁(とん)、丁、丁、「お頼み申す。という声あり。
 八蔵は急いで鉄棒押隠し、「いかさま、叩くわ。「探偵の合棒でも来はしねえか。己(おら)あ見て来る、死骸を早く、「合点だ。と銀平は泰助の死骸を運び去りつ。八蔵は門の際に到り、「誰だね。「へい私。「へい私では解らないよ。夜夜中けたたましい何の用だ。戸外(おもて)にて、「ええ、滑川の者ですが、お家(うち)へ婦人(おんな)が入って来はしませんかい。八蔵は聞覚えあるたしかに得右衛門の声なれば、はてなと思い、「どんな女だ。「中肉中脊、凄いほど美(い)い婦人(おんな)。と聞いて八蔵心可笑(おか)しく、「その様な者は来ない、何ぞまた此家(ここ)へ来たという次第(わけ)でもあるのか。「私どもの部屋から溢(こぼ)れて続いてる血の痕が、お邸の裏手で止まっております。
 さては下枝は得三が推量通り、再び帰りしに相違なからん。それはそれにて可いとして、少時(しばらく)なりとも下枝を蔵匿(かくまい)たる旅店の亭主、女の口より言い洩(もら)して主人を始め我(おれ)までの悪事を心得おらんも知れず。遁(に)がしはやらじ、とやにわに門の扉を開けて、むずと得右衛門の手を捉え、「婦人(おんな)は居るから逢わしてくれる、さあ入れ。と引入れて、門の戸はたと鎖(さ)しければ、得右衛門はおどおどしながら、八蔵を見て吃驚(びっくり)仰天、「やあ此方(こなた)は先刻(さっき)の、「うむ、用があるこっちへ来いと、力任せに引立(ひった)てられ、鬼に捕(と)らるる心地して、大声上げて救いを呼べど、四天王の面々はこの時既に遁げたれば、誰も助くる者無くて、哀(あわれ)や擒(とりこ)となりにけり。

 今は悪魔ばかりの舞台となりぬ。磨ぎ清(すま)したる三日月は、惜しや雲間に隠れ行(ゆ)き、縁(ゆかり)の藤の紫は、厄難いまだ解けずして再び奈落に陥りつ、外より来(きた)れる得右衛門も鬼の手に捕られたり。さてかの下枝はいかならん。
 さるほどに得三は高田とともに家内(うち)に入(い)り、下枝は居(お)らずや見えざるかと、あらゆる部屋を漁(あさ)り来て、北の台の座敷牢を念のため開き見れば、射込む洋燈(ランプ)の光の下に白く蠢(うごめ)くもののあるにぞ、近寄り見れば果せるかな、下枝はここにぞ発見(みだ)されたる。
 かばかり堅固なる囲(かこい)の内よりそもいかにして脱け出でけん、なお人形の後(うしろ)より声を発(いだ)して無法なる婚姻を禁(とど)めしも、汝(なんじ)なるか。と得三は下枝に責め問い、疑(うたがい)を晴さんと思うめれど、高田はしきりに心急ぎて、早くお藤の方(かた)をつけよ。夏とはいえど夜は更けたり。さまでに時刻後(おく)れては、枕に就くと鶏(とり)うたわむ、一刻の価値(あたい)千金と、ひたすら式を急ぐになん。さはとて下枝を引起して、足あらばこそ歩みも出(いで)め、こうして置くにしくことあらじ。人に物を思わせたる報酬(むくい)はかくぞと詈(ののし)りて、下枝が細き小腕(こがいな)を後手に捻(ね)じ上げて、縛(いまし)めんとなしければ、下枝は糸よりなお細く、眼を見開きて恨(うらめ)しげに、「もう大抵に酷(ひど)うしたが好(よ)うござんしょう。坐っている事も出来ぬように弱り果てた私の身体(からだ)、どこへも参りは致しませぬ。といえば得三冷笑(あざわら)い、「その手はくわぬわ。また出て失(う)しょうと思いやあがって、へん、そう旨くはゆかないてや、ちっとの間(ま)の辛抱だ。後刻(のち)に来て一所に寝てやる。ふむ、痛いか様(ざま)を見ろ。と下枝の手を見て、「おや、右の小指をどうかしたな、こいつは一節切ってあらあ。やい、どこへ行って指切断(きり)をして来たんだ。と問いかかるを高田は押止め、「まあまあ、そんな事ア何時でも可(い)いて。早く我(おれ)の方を、「はて、せわしない今行きます。と出血休(や)まざる小指の血にて、我掌(わがてのひら)の汚(けが)れたるにぞ、かっぷと唾を吐き懸けて、下枝の袖にて押拭い、高田と連立ち急がわしく、人形室に赴きぬ。後より八蔵入来り、こうこういう次第にて、八橋楼の亭主を捕(とら)え、一室(ひとま)に押込め置きたるが、というに得三頷(うなず)きて、その働(はたらき)を誉(ほ)めそやし、後にて計らうべき事あり。そのままにして置きて、銀平と勝手にて酒を飲んで寛(くつろ)げ。と八蔵を去(い)なして手を打鳴し、「録よ、お録。と呼び立つれど、老婆は更に答(いらえ)せねば、「はてな、お録といえば先刻(さっき)から皆目姿を見せないが、ははあ、疲れてどこかで眠ったものと見える。老年(としより)というものはええ! 埒(らち)の明かぬ。と呟(つぶや)きつつ高田に向い、「どうせ横紙破りの祝言だ。媒灼(なこうど)も何も要った物ではない。どれ、藤を進(あ)げますから。と例の被(かずき)を取除(とりの)くれば、この人形は左の手にて小褄(こづま)を掻取(かいど)り、右の手を上へ差伸べて被を支うるものにして、上げたる手にて飜(ひるがえ)る、綾羅(りょうら)の袖の八口(やつくち)と、〆めたる錦(にしき)の帯との間に、人一人肩をすぼむれば這入らるべき透間あり。そこに居て壁を押せば、縦三尺幅四尺向うへ開く仕懸(しかけ)にて、すべての機械は人形に、隠るる仕方巧みにして、戸になる壁の継目など、肉眼にては見分け難し。得三手燭(てしょく)にてこの仕懸を見せ、「平常(ふだん)は鎖(じょう)を下してお藤を入れておくが、今晩は貴下(あなた)に差上げるので、開けたままだ。こちらへお入り。と先に立ちて行く後より、高田も入りて見るに、壁の彼方(うら)にも一室あり。畳を敷くこと三畳ばかり。「いいちょんの間(ま)だ。と高田がいえば、得三呵々(からから)と打笑いて、「東京の待合にもこれ程の仕懸はあるまい。といいつつ四辺(あたり)を見廻すに、今しがた泰助の手より奪い返してお録に此室(ここ)へ入れ置くよう、命(いいつ)けたりしお藤の姿、またもや消えて見えざりければ、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)呀(あなや)とばかり顔色(がんしょく)変じぬ。
 高田は太(いた)く不興して、「令嬢はどうしました。え、お藤様(さん)はどうしたんです。とせきこむにぞ、得三は当惑の額を撫で、「いやはや、お談話(はなし)になりません。藤が居なくなりました。高田は顔色変え、「何だ、お藤が居なくなったと?「この通り、この室より外に入れて置く処はない。実に不思議でなりません。とさすがの得三も呆れ果てて、悄(しお)れ返れば高田は勃然(むっ)として、「そういうことのあろう道理は無い。ふふん、こりゃにわかにあの娘が惜しくなったのだな。「滅相な。「いや、それに違いありません。隠して置いて、我(おれ)を欺(あざむ)くのだ。「と思召(おぼしめ)すのも無理ではない。余り変で自分で自分を疑う位です。先刻(さっき)から見えぬといい、あるいは婆々奴(め)が連れ出しはしないかと思うばかりで、それより他(ほか)に判断の附様(つけよう)がございません。早速探し出しますで、今夜の処は何分にも御猶予を願いたい。と腰を屈(かが)め、揉手(もみで)をして、ひたすら頼めどいっかな肯(き)かず、「なんのかのと、体の可いことを言うが、婆々と馴(な)れ合ってする仕事に極まった。誰だと思う、ええ、つがもねえ、浜で火吸器(すいふくべ)という高田駄平だ。そんな拙策(あまて)を喰う者か。「まあまあそう一概におっしゃらずに、別懇の間に免じて。「別懇も昨今もあるものか。可(よ)し我(おれ)もたってお藤を呉れとは言わぬ。そん代(でえ)に貸した金千円、元利揃えてたった今貰おうかい。と証文眼前(めさき)に附着くれば、強情我慢の得三も何と返さん言葉も無く困(こう)じ果ててぞいたりける。

 高田はなおも詰寄りて、「妖物(ばけもの)屋敷に長居は無益(むやく)だ。直ぐ帰るから早く渡せ。「そりゃ借りた金だ抵当のお藤が居なくなれば、きっとお返済(かえし)申すが、まだ家の財産も我が所有(もの)にはならず、千円という大金、今といっては致方がございません。どうぞ暫時(しばらく)の処を御勘弁。「うんや、ならねえ。この駄平、言い出したからは、血を絞っても取らねば帰らぬ。きりきりここへ出しなさい。と言い募るに得三は赫(かっ)として、「ここな、没分暁漢(わからずや)。無い者ア仕方がねえ。と足を出せば、「踏む気だな、可(い)いわ。踏むならば踏んで見ろ。おおそれながらと罷(まか)り出て、汝(きさま)の悪事を訴えて、首にしてやる覚悟しやあがれ。得三はぎょっとして、「何の、踏むなどという図太い了簡(りょうけん)を出すものか。と慌つる状(さま)に高田は附入(つけい)り、「そんなら金を、さあ返済(かえ)せ。「今といっては何ともどうも。「じゃ訴えて首にしようか。「それはあんまり御無体な。「ええ! 面倒だ。と立懸(たちかか)れば、「まあ、待ってくれ。と袂(たもと)を取るを、「乞食め、動くな。と振離され、得三たちまち血相変り、高田の帯際むずと掴(つか)みて、じりじりと引戻し、人形の後(うしろ)の切抜戸を、内よりはたと鎖(とざ)しける。
 何をかなしけむ。壁厚ければ、内の物音外へは漏れず。
 ややありて戸を開き差出(さしいだ)したる得三の顔は、眼(まなこ)据って唇わななき、四辺(あたり)を屹(きっ)と見廻して、「八蔵、八蔵、と呼懸けたり。八蔵は入来りぬ。得三は声を潜め、「八、ちょっとここへ来い。「へい、何、何事でございます。と人形の袖を潜(くぐ)って密室の戸口に到れば、得三は振返って後(うしろ)を指(ゆびさ)し、「これを。……八蔵は覗(のぞ)き込みて反(そ)り返り「ひゃっ、高田様(さん)が自殺をしたッ。と叫ぶを、「叱(しっ)! 声高しと押止めて、眼を見合わせ少時(しばらく)無言(だんまり)、この時一番鶏の声あり。
 得三は片頬(かたほ)に物凄き笑(えみ)を含みて、「八蔵。という顔を下より見上げて、「へい。「お前にもそう見えるかい。「何(な)、何(な)、何(なに)が。「いやさ。高田の死骸は自殺と見えるか。「へい。自分で短刀の柄(つか)を握ってそして自分の喉(のど)を突いてれば誰が見ても全く自殺。「応(うむ)、たしかにそう見える。が、実は我(おれ)が殺したのだ。「ええ、お殺(やん)なすったか。「突然藤が居なくなったぞ。八、先刻(さっき)からお録は見懸けまいな。「へい、あの婆様(ばあさん)はどこへ行ったか居りません。「そうだろう。彼奴(あいつ)もしたたか者だ。お藤を誘拐(かどわか)して行ったに違いない。あの嬢(こ)はまだ小児(こども)だ。何にも知らないから可(よ)し、老婆(ばばあ)も、我等(おれら)と一所に働いた奴だ。人に悪事は饒舌(しゃべる)まい。惜くも無し、心配も無いが、高田の業突張(ごうつくばり)、大層怒ってな。お藤がなくなったら即金で千円返せ、返さなけりゃ、訴えると言い募って、あの火吸器(すいふくべ)だもの、何というても肯くものか。すんでに駈出そうとしやあがる。ままよ毒喰わば皿迄と、我(おれ)が突殺したのだ。「それは好(よ)うございました。「すると奴(やっこ)さん苦しいものだから、拳(こぶし)でしっかりとこの通り短刀(どす)の柄を握ったのよ。「体の可い自殺でございますね。「そうよ。そこで己(おれ)が旨い事を案じついたて。これからあの下枝を殺してさ。「下枝様(さん)を。「三年以来(このかた)辛抱して、気永に靡(なび)くのを待っていたが、ああ強情では仕様が無(ね)え。今では憎さが百倍だ。虐殺(なぶりごろし)にして腹癒(はらいせ)して、そうして下枝の傍(そば)に高田の死骸を僵(たお)して置く。の、そうすれば誰が目にも、高田が下枝を殺して、自殺をしたと見えるというものだ。何と可い工夫であろうが。」
 さりとは底の知れぬ悪党なり。八蔵は手を拍(う)って「旨い。と叫べり。「そうして己(おれ)が口の前(さき)で旨く世間を欺(あざむ)けば、他(ほか)に親類は無し、赤城家の財産はころりと我(おれ)が手へ転がり込む。何と八蔵そうなる日にはお前に一割は遣るよ。「ええ難有(ありがた)い、夢になるな夢になるな。「もうこれッ切り御苦労は懸けないが、もう一番(ひとつ)頼まれてくれ。「へい、何なりとも。「銀平はどうした。「しきりに飲んでおります。「彼奴(あいつ)も序(ついで)に片附けてしまいたい、家でやっては面倒だから、これから飲直すといって連出してな。「へいへい、なるほど。「どこかへ行って酒を飲まして、ちょいと例の毒薬を飲ましゃあ訳は無い、酔って寝たようになって、翌日(あす)の朝はこの世をおさらばだ。「承(かしこま)りました。しかし今時青楼(おちゃや)で起きていましょうか。「藤沢の女郎屋は遠いから、長谷(はせ)あたりの淫売店(じごくやど)へ行けば、いつでも起きていらあ、一所にお前も寝て来るが可い。「じゃあ直ぐと参ります。「御苦労だな。「なんの貴下(あなた)。と行懸くるを、「待て、待て。「え。「宿屋の亭主とかはどうしたのだ。「手足を縛って猿轡(さるぐつわ)を噛(か)まして、雑具部屋へ入れときました。「よし、よし。仕事が済んだら検(しら)べて見て大抵なら無事に帰してやれ。「へい左様なら。と八蔵は勝手に行きて銀平を見れば、「八、やい、置去りにしてどこへ行っていた。というさえ今は巻舌にて、泥のごとくに酔うたるを、飲直さむとて連出しぬ。

 得三は他に一口(ひとふり)の短刀(かいけん)を取り出(いだ)して、腰に帯び、下枝を殺さんと心を決(さだ)めて、北の台に赴き見れば、小手高う背(そびら)に捻(ね)じて縛(いまし)めて、柱に結え附け置きたるまま、下枝は膝に額を埋(うず)め、身動きもせでいたりけり。
「約束通り寝に来た。と肩に手を懸け引起し、移ろい果てたる花の色、悩める風情を打視(うちなが)め、「どうだ、切ないか。永い年月よく辛抱をした。豪(えら)い者だ。感心な女だ。その性根にすっかり惚れた。柔順(すなお)に抱かれて寝る気は無いか。と嘲弄(ちょうろう)されて切歯(はがみ)をなし、「ええ汚らわしい、聞とうござんせぬ。と頭(かぶり)を掉(ふ)れば嘲笑(あざわら)い、「聞きとうのうても聞かさにゃ置かぬ、もう一度念のためだが、思い切って応(うむ)といわないか。「嫌否(いや)ですよ。「そうか、淡々(あっさり)としたものだ。そんならこっちへ来な。好い者を見せてやる。立て、ええ立たないか。「あれ。と下枝は引立られ、殺気満ちたる得三の面色、こは殺さるるに極(きわま)ったりと、屠所(としょ)の羊のとぼとぼと、廊下伝いに歩は一歩、死地に近寄る哀れさよ。蜉蝣(ふゆう)の命、朝(あした)の露、そも果敢(はかな)しといわば言え、身に比べなば何かあらむ。
 閻王(えんおう)の使者に追立てられ、歩むに長き廻廊も死(しに)に行(ゆ)く身はいと近く、人形室に引入れられて亡き母の存生(いまそか)りし日を思い出し、下枝は涙さしぐみぬ。さはあれ業苦の浮世を遁(のが)れ、天堂に在(おわ)す御傍(おんそば)へ行くと思えば殺さるる生命(いのち)はさらさら惜からじと、下枝は少しも悪怯(わるび)れず。その時得三下枝をば、高田の傍(かたえ)に押据えつ、いと見苦しき死様を指さしていいけるは、「下枝見ろ、この顔色(つらつき)を。殺されるのはなかなか一通りの苦しみじゃないぜ、それもこう一思いに殺ればまだしもだが、いざお前を殺すという時には、これ迄の腹癒(はらいせ)に、かねても言い聞かした通り、虐殺(なぶりごろし)にしてやるのだ。可(い)いか、それでも可いか。これと、肩を押えてゆすぶれば、打戦(うちわなな)くのみ答(いらえ)は無し。「それからまだある。この男と、お前と、情死(しんじゅう)をした様にして死恥を曝(さら)すのだ。どうだ。どうだ。下枝は恨めしげに眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みは)り、「得三様(さん)、あんまりでございます。「下枝様(さん)、貴嬢(あなた)も余り強情でございます。それが嫌否(いや)なら悉皆(しっかい)財産を我(おれ)に渡して、そうして※(始め二重括弧、1-2-54)得三様(さん)、貴下(あなた)は可愛いねえ。※(終わり二重括弧、1-2-55)とこういえば可い。それは出来ないだろう。やっぱり、斬られたり、突かれたりする方が希望(のぞみ)なのか、さあ何と。と言わるるごとにひやひやと身体(からだ)に冷たき汗しっとり、斬刻(きりきぎ)まるるよりつらからめ。猛獣犠牲(いけにえ)を獲(え)て直ぐには殺さず暫時(しばらく)これを弄(もてあそ)びて、早慊(あきた)りけむ得三は、下枝をはたと蹴返せば、苦(あっ)と仰様(のけざま)に僵(たお)れつつ呼吸(いき)も絶ゆげに唸(うめ)きいたり。「やい、婦人(おんな)、冥途(めいど)の土産に聞かしてやる。汝(きさま)の母親はな。顔も気質(きだて)も汝(きさま)に肖(に)て、やっぱり我(おれ)の言うことを聞かなかったから、毒を飲まして得三が殺したのだ。下枝は驚きに気力を復して、打震えて力無き膝立直して起き返り、「怪しき死様(しによう)遊ばしたが、そんなら得三、おのれがかい。「おう、我(おれ)だ。驚いたか。「ええ憎らしいその咽喉(のど)へ喰附いてやりたいねえ。「へ、へ、唇へ喰附いて、接吻(キッス)ならば希望(のぞみ)だが、咽喉へは真平御免蒙(こうむ)る。どれ手を下ろして料理(りょうろ)うか。と立懸(たちかか)られて、「あれえ、人殺し。と一生懸命、裳(もすそ)を乱して遁(に)げ出づれば、縛(いましめ)の縄の端を踏止められて後居(しりい)に倒れ、「誰ぞ助けて、助けて。と泣声嗄(か)らして叫び立つれば、得三は打笑い、「よくある奴だ。殺して欲いの死にたいのと、口癖にいうていて、いざとなるとその通り。ても未練な婦人(おんな)だな。「いえ、死にとうない、死にとうない。親を殺した敵(かたき)と知っては、私ゃ殺されるのは口惜(くちおし)い。と伏しつ転(まろ)びつ身をあせりぬ。
 得三は床柱を見て屈竟と打頷(うちうなず)き、やにわに下枝を抱(いだ)き寄せ、「※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)(もが)くな。じっとしておれ。とかの人形と押並べて、床柱へぐるぐる巻きに下枝の手足を縛り附け、一足退(すさ)って突立(つった)ちたり。下枝は無念さ遣る方なく、身体(からだ)を悶(もだ)えて泣き悲しむを寛々(ゆるゆる)と打見遣り、「今となっては汝(きさま)の方から随(したが)います、財産も渡しますと吐(ぬ)かしても許しはせぬ。と言い放てば、下枝は顔に溢(こぼ)れかかる黒髪を颯(さっ)と振分け、眼(まなこ)血走り、「得三様(さん)、どうしても殺すのか。という声いとど、裏枯れたり。「うむ、虐殺(なぶりごろし)にするのだ。「あれえ。「何だ、まだびくびくするか、往生際の見苦しい奴だ。「そんならどうでも助からぬか、末期(いまわ)の際に次三郎様(さん)にお目に懸(かか)って、おのれの悪事をお知らせ申し敵(かたき)が討って貰いたい。と泣き入る涙も尽き果てて血をも絞らむばかりなり。「次三もな我(おれ)が命(いい)つけて、八蔵が今朝毒殺したわい。「ええあの方まで殺したのか。御方の失(う)せさせたまいし上は、最早この世に望みは無し、と下枝は落胆(がっかり)気落ちして、「もう聞とうない、言とうない。さあお殺し。と口にて衣紋(えもん)を引合わせ、縛られたるまま合掌して、従容(しょうよう)として心中に観音の御名(みな)を念じける。
 その時得三は袖を掲げて、雪より白き下枝の胸を、乳も顕(あら)わに押寛(おしくつろ)ぐれば、動悸(どうき)烈しく胸騒立(さわだ)ちて腹は浪打つごとくなり。全体虫が気に喰わぬ腸(はらわた)断割(わ)って出してやる。と刀引抜き逆手に取りぬ。
 夜は正に三更万籟死して、天地は悪魔の独有たり。
(次三郎とは本間のこと、第一回より三回の間に出でて毒を飲みたる病人なり。鎌倉より東京のことなれば、敏(さと)き看官(みるひと)の眼も届くまじとて書添え置く。)

 得三一度(ひとたび)手を動(うごか)さば、万事ここに休せむかな。下枝の命の終らむには、この物語も休(や)みぬべし。さらばそれに先立て、一旦滑川の旅店まで遁(のが)れ出でたる下枝の、何とて再び家に帰りて屠(ほふ)り殺さるる次第となりけむ、その顛末(てんまつ)を記し置くべし。
 下枝は北の台に幽囚せられてより、春秋幾つか行きては帰れど、月も照さず花も訪(と)い来ず、眼に見る物は恐ろしき鉄(くろがね)の壁ばかりにて、日に新しゅうなるものは、苛責(かしゃく)の品の替るのみ、苦痛いうべくもあらざれど、家に伝わる財産も、我身の操も固く守護(まもり)て、明しつ暮しつ長き年、月日は今日にいたるまで、待てども助くる人無ければ、最早忍び兼ねて宵のほど、壁に頭(かしら)を打砕きて、自殺をせんと思い詰め、西向の壁の中央(ただなか)へ、ひしと額を触れけるに、不思議や壁は縦五尺、横三尺ばかり、裂けたらむがごとく颯(さっ)と開きて、身には微傷(うすで)も負わざりけり。
 大名の住めりし邸(やしき)なれば、壁と見せて忍び戸を拵(こしら)え置き、それより間道への抜穴など、旧(ふる)き建物にはあることなり。人形の後(うしろ)の小座敷もこれと同じきものなるべし。
 こは怪しやと思いながら、開きたる壁の外を見るに、暗くてしかとは見分け難きが、壇階子(だんばしご)めきたるものあり。静(しずか)に蹈(ふ)みて下り行くに足はやがて地に附きつ、暗さはいよいよ増りぬれど、土平らにて歩むに易し。西へ西へと志して爪探りに進み行けば、蝙蝠(かわほり)顔に飛び違い、清水の滴々(したたり)膚(はだえ)を透(とお)して、物凄きこと言わむ方無し。とこうして道のほど、一町ばかり行きける時、遥(はるか)に梟(ふくろう)の目のごとき洞穴の出口見えぬ。
 この洞穴は比企ヶ谷の森の中にあり。さして目立つほどのものにあらねば、誰も這入(はい)って見た者無し。
 下枝は穴を這出でて始めて天日を拝したる、喜び譬(たと)えんものも無く、死なんとしたる気を替えて、誰か慈悲ある人に縋(すが)りて、身の窮苦を歎き訴え、扶助(たすけ)を乞わんと思いつる。そは夕暮のことにして、畦道(あぜみち)より北の方(かた)、里ある方へぞ歩みたれ。
(得三が高楼(たかどの)にて女を見たるはこの時なり。)
 かくて下枝は滑川の八橋楼の裏手より、泰助の座敷に入りたるが、浮世に馴(な)れぬ女気に人の邪正を謀(はか)りかね、うかとは口(くち)を利かれねば、黙して様子を見ているうち、別室に伴われ、一人残され寝床に臥して、越方行末思い佗(わ)び、涙に暮れていたりし折から、かの八蔵に見とがめられぬ。それのみならず妹お藤を、今宵高田に娶(めあわ)すよしかねて得三に聞いたれば、こもまた心懸りなり、一度家に立返りて何卒(なにとぞ)お藤を救いいだし、またこそ忍び出でなんと、忌(いまわ)しき古巣に帰るとき、多くの人に怪(あやし)ませて、赤城家に目を附けさせなば、何かに便(たより)よかるべしと小指一節喰い切って、かの血の痕(あと)を赤城家の裏口まで印し置きて、再び件(くだん)の穴に入り冥途(よみじ)を歩みて壇階子に足踏懸くれば月明し。いずくよりか洩(も)るると見れば、壁を二重に造りなして、外の壁と内の壁の間にかかる踏壇を、仕懸けて穴へ導くにて透間より月の照射(さす)なり。直ぐ眼の下は裏庭にてこの時深き叢(くさむら)に彳(たたず)める人ありければ、(これ泰助なり)浴衣の裳(すそ)を引裂きて、小指の血にて文字したため、かかる用にもたたむかとて道にて拾いし礫(こいし)に包み、丁(ちょう)と投ぐればあたかも可(よ)し。その人の目に触れて、手に開かれしを見て嬉しく、さてお藤をばいかにせむ。
 この壇階子の中央(なかほど)より道は両(ふた)つに岐(わか)れたり。右に行けば北の台なるかの座敷牢に出づべきを、下枝は左の方(かた)に行きぬ。見も知らざる廊下細くしていと長し。肩をすぼめてようように歩み行くに、両側はまた壁なり。理外の理さえありと聞くこは家の外(ほか)の家ならんか。十数年来住める身の、得三もこは知らざるなり。廊下の終る処に開戸あり、開けて入れば自(おのず)から音なく閉じて彼方(かなた)より顧みれば壁と見紛うばかりなり。ここぞかの人形の室の裏なる密室になんありける。
 この時しも得三等(ら)が、お藤を責めて婚姻を迫る折なりしかば、いかにせば救い得られんかと、思い悩みいたるうち、火取虫に洋燈(ランプ)消えて、こよなき機会を得たるにぞ、怪しき声音に驚かせしに、折よく外にも人ありて妹を抱(いだ)きて遁出(にげい)でたれば、嬉しやお藤は助かりぬ。我も早く出去らんとまたもや廊下を伝わりて穴に下りんと蹈迷(ふみまよ)い、運拙(つたの)うしてまた旧(もと)の座敷牢に入り終んぬ。かかりしほどに身は疲れ、小指の疵(きず)の痛苦(いたみ)劇(はげ)しく、心ばかりは急(はや)れども、足蹌踉(よろぼ)いて腰起(た)たず、気さえ漸次(しだい)に遠くなりつ、前後も知らでいたりけるを、得三に見出されて、さてこそかくは悪魔の手に斬殺されんとするものなれ。

 普門品(ふもんぼん)、大悲の誓願(ちかい)を祈念して、下枝は気息奄々(えんえん)と、無何有(むかう)の里に入りつつも、刀尋段々壊(とうじんだんだんね)と唱うる時、得三は白刃を取直し、電光胸前(むなさき)に閃(きらめ)き来りぬ。この景この時、室外に声あり。
「アカギサン、トクゾウサン。」
 不意に驚き得三は今や下枝を突かんとしたる刀を控えて、耳傾くれば、「あかァぎさん、とくぞうさん。」
 得三は我耳を疑うごとく、耳朶(みみたぶ)に手をあてて眉を顰(ひそ)めつ、傾聴すれば、たしかに人声、
「赤城様(さん)――得三様(さん)。」
 得三はぎょっとして、四辺(あたり)を見廻し、人形の被(かずき)を取って、下枝にすっぽりと打被(うちかぶ)せ、己(おの)が所業を蔽(おお)い隠して、白刃に袂(たもと)を打着せながら洋燈(ランプ)の心を暗うする、さそくの気転これで可しと、「誰だ。何誰(どなた)じゃ。と呼懸くれば、答は無くて、「赤城様。得三様。しや忌々し何奴ぞと得三からりと部屋の戸開くれば、かの声少し遠ざかりて、また、「赤城様、得三様。「ええ、誰だ。誰だ。とつかつかと外(おもて)に出(いづ)れば、廊下をばたばたと走る音して姿は見えずに、「赤得、赤得。背後(うしろ)の方(かた)にてまた別人の声、「赤城様、得三様。※(「口+阿」、第4水準2-4-5)呀(あなや)と背後(うしろ)を見返れば以前の声が、「赤得、赤得。と笑うがごとく泣くがごとく恨むがごとく嘲けるごとく、様々声の調子を変じて遠くよりまた近くより、透間もあらせず呼立てられ、得三は赤くなり、蒼(あお)くなり、行きつ戻りつ、うろ、うろ、うろ。拍子に懸けて、「赤、赤、赤、赤。「何者だ。何奴だ。出合え出合え。といいながら、得三は血眼(ちまなこ)にて人形室へ駈け戻り、と見れば下枝は被を被せ置きたるまま寂として声をも立てず。「ちええ、面倒だ。と剣を揮(ふる)い、胸前(むなさき)目懸けて突込みしが、心急(せ)きたる手元狂いて、肩先ぐざと突通せば、きゃッと魂消(たまぎ)る下枝の声。
 途端に烈しく戸を打叩きて、「赤得、赤得。と叫び立つれば、「汝(うぬ)野狐奴(め)、また来(う)せた。と得三室外へ躍出づれば、ぱっと遁出(にげだ)す人影あり。廊下の暗闇(やみ)に姿を隠してまた――得三をぞ呼んだりける。
 憎さも憎しと得三が、地蹈※(「韋+備のつくり」、第3水準1-93-84)(じだんだ)ふんで縦横に刃(やいば)を打掉(うちふ)る滅多打。声はようよう遥(はるか)になり、北の台にて哀(かなし)げに、「あかァぎさん、とくぞうさん。――四辺(あたり)は寂然(しん)。
 これより以前(さき)得三が人形室を走り出でて声する者を追いける時、室の外より得三と入違(いりちが)いに、鳥のごとくに飛び込む者あり。突然下枝の被を外してこれを人形に被らせつ。その身は日蔽(ひおおい)の影に潜みぬ。
 されば得三が引返し来て、被の上より突込みたるは、下枝にあらで人形なりけり。ただ下枝は右にありて床柱に縛し上げられつ、人形は左にありて床の間に据えられたる、肩は擦合うばかりなれば、白刃(はくじん)ものを刺したるとき、下枝は胆消え目も眩(くら)みて、絶叫せしはさもありなん。またもや声に呼び出されて、得三再び室の外へ駈(か)け行きたる時、幕に潜めるかの男は鼬(いたち)のごとく走り出で、手早く下枝の縄を解き、抱(いだ)き下して耳に口、「心配すな。と囁(ささや)きたり。時しも廊下を蹈鳴(ふみなら)して、得三の帰る様子に、かの男少し慌てる色ありしが、人形を傍(わき)へずらして柱に寄せ、被は取れて顔も形もあからさまなる、下枝を人形の跡へ突立せ、「声を立てるな。と小声に教えて、己(おのれ)は大音に、「赤城様、得三様。」いうかと思えば姿は亡(な)し。すでに幕の後(うしろ)へ飛込みたるその早さ消ゆるに似たり。
 かれもこれも一瞬時、得三は眼(まなこ)血走り、髪逆立ちて駈込つ、猶予(ためら)う色無く柱に凭(よ)れる被を被りし人形に、斬(きり)つけ突(つき)つけ、狂気のごとく、愉快、愉快。と叫びける。同時に戸口へ顔を差出し、「赤城様、得三様。「やあ、汝(うぬ)は! と得三が、物狂わしく顧みれば、「光来(おいで)、光来。ここまで光来と、小手にて招くに、得三は腰に付けたる短銃(ピストル)を発射(はなつ)間(ま)も焦躁(もどか)しく、手に取って投附くれば、ひらりとはずして遁出すを、遣らじものを。とこの度は洋燈(ランプ)を片手に追懸(おっか)けて、気も上の空何やらむ足に躓(つまず)き怪し飛びて、火影に見ればこはいかに、お藤を連れて身を隠せしと、思い詰めたる老婆お録、手足を八重十文字に縛(くく)られつ、猿轡(さるぐつわ)さえ噛(か)まされて、芋(いも)のごとくに転がりたり。
 得三後居(しりい)にどうと坐し、「やい、この態(ざま)はどうしたのだ。と口なる手拭退(の)けてやれば、お録はごほんと咳(せ)き入りて、「はい、難有(ありがと)うございます。「ええどうしたのだ。「はい、はい。もしお聞きなされまし。あの時お藤様(さん)を人形の後(うしろ)へ隠して、それから貴下(あなた)、階下(した)へおりてがらくた部屋の前を通ると、内でがさがさいたしますから、鼠か知らん、と覗(のぞ)きますとね、どうでございましょう。あの探偵泰助奴(め)がむくむくと起き上る処でございました。「え!」

 幾度か水火の中に出入して、場数巧者の探偵吏、三日月と名に負う倉瀬泰助なれば、何とて脆(もろ)くも得三の短銃(ピストル)に僵(たお)るべき。されば高楼(たかどの)より狙い撃たれ、外よりは悪僕二人が打揃いて入(い)り来しは、さすがの泰助も今迄に余り経験無き危急の場合、一度は狼狽(ろうばい)したりしが、かねて携うる絵具にて、手早く血汐(ちしお)を装いて、第三発の放たれしを、避けつつわざと撃たれし体にて叢(くさむら)に僵れしに、果せるかな悪人輩(ばら)は誑死(そらじに)に欺(あざむ)かれぬ。
 さりながら八蔵がなお念のため鉄棒にて撲(なぐ)り潰(つぶ)さむと犇(ひしめ)くにぞ、その時敵は二人なれば、蹴散らして一度(ひとたび)退かむか、さしては再び忍び入るにはなはだ便り悪ければ、太(いた)く心を痛めしが、あたかも好し得右衛門がこの折門を叩きしかば、難無く銀平に抱(いだ)かれて、雑具部屋へ押込まれつ、後より得右衛門が擒(とりこ)にされて、同じ室へ入れられたるをも、泰助はよく知れるなり。
 四辺(あたり)静(しずか)になりしかば、潜(ひそ)かに頭を擡(もた)ぐる処を、老婆お録に見咎められぬ。声立てさせじと飛蒐(とびかか)りて、お録の咽喉(のど)を絞め上げ絞め上げ、老婆が呼吸(いき)も絶々に手を合して拝むを見澄まし、さらば生命(いのち)を許さむあいだ、お藤を閉込め置く処へ、案内せよ、と前(さき)に立たせ、例の人形室に赴きて、その仕懸の巧みなるに舌を巻きて驚歎せり。かくてかの密室より、お藤を助け出(いだ)しつつ、かたのごとく老婆を縛りてまた雑具部屋へ引取りしを、知る者絶えて無(なか)りけり。それより泰助は庭の空井戸の中にお藤を忍ばせ、再び雑具部屋へ引返して旧(もと)のごとく死を粧(よそお)い、身動きもせでいたりしかば、二三度八蔵が見廻りしも全く死したる者と信じて、かくとは思い懸けざりき。
 とこうするうち、高田は殺され悪僕二人は酒を飲みに出行(いでゆ)きたれば、時分は好しと泰助は忍びやかに身支度するうち、二階には下枝の悲鳴頻(しきり)なり。驚破(すわ)やと起(た)って行き見れば、この時しも得三が犠牲(いけにえ)を手玉に取りて、活(いき)み殺しみなぶりおれる処なりし。
 ここにおいて泰助も、と胸を吐(つ)きて途方に暮れぬ。他(よ)の事ならず。得三は刀を手にし、短銃(ピストル)を腰にしたり。我泰助は寸鉄も帯びず。相対して戦わば利無きこと必定なり。とあって捕吏(とりて)を招集せんか、下枝は風前の燈(ともしび)の、非道の刃(やいば)にゆらぐ魂(たま)の緒、絶えんは半時を越すべからず。よしや下枝を救い得ずとも殺人犯の罪人を、見事我手に捕縛せば、我探偵たる義務は完(まった)し。されども本間が死期の依頼を天に誓いし一諾(だく)あり、人情としては決して下枝を死なすべからず。さりとて出(いで)て闘わんか、我が身命は立処に滅し、この大悪人の罪状を公になし難し。噫(ああ)公道人情両是非(ふたつながらこれひなり)。人情公道最難為(もっともなしがたし)。若依公道人情欠(もしこうどうによらばにんじょうかけ)。順了人情公道虧(にんじょうにしたがわばこうどうをかく)。如(し)かず人情を棄てて公道に就き、眼前に下枝が虐殺さるる深苦の様を傍観せんか、と一度は思い決(さだ)めつ、我同僚の探偵吏に寸鉄を帯びずしてよく大功を奏するを、栄として誇りしが、今より後は我を折りて、身に護身銃を帯すべしと、男泣に泣きしとなん。
 下枝が死を宣告され、仇敵(あだがたき)の手には死なじとて、歎き悶(もだ)ゆる風情を見て、咄嗟(とっさ)に一(いつ)の奇計を得たり。
 走りて三たび雑具部屋に帰り、得右衛門の耳に囁きて、その計略を告げ、一臂(いっぴ)の力を添えられんことを求めしかば、件(くだん)の滑稽翁兼(かね)たり好事家(こうずか)、手足を舞わして奇絶妙と称し、両膚(りょうはだ)脱ぎて向う鉢巻、用意は好(よ)きぞやらかせと、斉(ひとし)く人形室の前に至れば、美婦人正に刑柱にあり、白刃乳(ち)の下に臨める刹那(せつな)、幸(さいわい)にして天地は悪魔の所有(もの)に非ず。
 得右衛門は得三の名を呼びて室外におびき出し、泰助は難無く室内に入(い)りて潜むを得たり。しかる後二人計略合期(ごうご)して泰助をして奇功を奏せしめたる、この処得右衛門大出来というべし。被(かずき)を被替(かけか)えて虚兵を張り、人形を身代(みがわり)にして下枝を隠し、二度(ふたたび)毒刃(どくじん)を外して三度目に、得三が親仁(おやじ)を追懸け出でて、老婆に出逢い、一条の物語に少しく隙(ひま)の取れたるにぞ、いでこの時と泰助は、下枝を抱(いだ)きて易々と庭口に立出づれば、得右衛門待受けて、彼はお藤を背に荷(にな)い、これは下枝を肩に懸けて、滑川にぞ引揚げける。
 時正に東天紅。
 暗号一発捕吏を整え、倉瀬泰助疾駆(しっく)して雪の下に到り見れば、老婆録は得三が乱心の手に屠(ほふ)られて、血に染みて死しいたり。更に進んで二階に上れば、得三は自殺して、人形の前に伏しいたり。
 旭の光輝(ひかり)に照らされたる、人形の瞳は玲瓏(れいろう)と人を射て、右眼、得三の死体を見て瞑(めい)するがごとく、左眼泰助を迎えて謝するがごとし。五体の玉は乱刃(らんじん)に砕けず左の肩わずかに微傷の痕(こん)あり。
明治二十六(一八九三)年五月
了

底本:「泉鏡花集成1」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年8月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第一卷」岩波書店
   1942(昭和17)年7月30日第1刷発行
初出:「探偵小説第十一集 活人形」春陽堂
   1893(明治26)年5月3日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:清角克由
2014年1月20日作成
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