下へ/\と流されゆく。見る/\一町となり、二町となり、三町となる。余は驚きぬ。この友の水泳の技倆ならば、これくらゐの急流は、何事もなき筈也。されど、水泳中に、こむらがへりといふことあり。友はそのこむらがへりに罹りたるにあらざるか。オーイ/\と二た聲三聲悲鳴をさへあぐるに、余は唯
夢中になりて、堤を下に走りゆく。うれしや、友は立ちたり。兩手を上にあぐ。さては、こむらがへりにてはあらざりきと安心す。友は再び泳ぎ始めしが、こたびは、さまで流さるゝことなくして到着せり。友の初め泳ぎし處は、流れの最も急なる處にて、前進し難きを以て、一先づ引返さむとせしを以て、斯く流されける也。冒險といふ程の事にもあらねど、運動としては、ちと念の入りたる運動也。二十五六年前の事なるが、友の擧げし悲鳴は、今もなほ耳底に存するを覺ゆる也。登戸の渡を泳ぎわたしりしは、二十一二歳の頃なりき。後ち二十年、頭に早や霜を戴けども、青年の氣はなほ失せず。一人の友と百草園に遊び、多摩川を見下ろし、關八州を見渡し、枯魚を肴に對酌して、陶然たる氣持となり、日野驛より汽車に乘らむとして、日野の町はづれに至りしに、上り汽車過ぎ行く。友に謂つて曰く、一と汽車おくれたり。日野驛にゆくも、立川驛にゆくも、距離はほゞ相同じ、鐵橋を渡りて、立川驛まで行かずやと云へば、過日の新聞に、工夫長が箱根の鐵橋を渡り居りしに、不意に汽車の來たるに逢ひ、周章てて、レールにぶら下り、指を斷たれて、溪流に落ちて死したりとの記事ありき。工夫長なほ斯くの如し。我等に在りては、猶更ら危險ならずやといふ。工夫長の場合は、汽車が前より來らずして、後ろより來りしならむ。若しくはまた汽車の來たるを豫想せざりしならむ。それ故、枕木にぶら下るつもりが、間違ひてレールにぶら下りしなり。今汽車は上れり。次に來たるものは、必ずや後ろよりに非ずして、前よりならむ。長き鐵橋也。而して、前より來たることなれば、枕木にぶら下るの餘裕は十分にあるべしと云へば、友諾す。線路に出でて、日野驛の方を見れば、青燈點ぜられたり。晝間ならば、シグナル下るべき處、夜なれば、斯く青燈點ぜられたるなり。即ち數分間に下り列車あるを示す也。同時に、上り列車のなきことを示す也。渡り居るうちには、必ず汽車前より來たるべし。汽車が見えたら、枕木にぶら下り給へ。誤つて、レールにぶら下らば、命は無かるべし。ちと危險なれども、枕木にぶら下るまでの事也。承知なるかと云へば、友は頷く。
日暮れて、まだ程もなし。川霧たちこめて、水聲高く聞ゆ。鐵橋の長さは、五六町もあるべし。而して單線也。線路の中央に、幅一尺ばかりの板をならべて敷けるが、それが唯
一枚のみなる處もあり。その二枚になれる處は歩きよけれど、一枚の處は歩き難し。一町ばかり行きて始めて避難所あるを知りぬ。三尺四方ばかり横に張り出して、手すりもあり。三四人之に入るを得べし。前方になは[#「なは」はママ]三つ四つあり。之ある哉、/\。これだにあらば、何も枕木にぶら下るを要せず。安心せよと云ひつゝ進み行きしに、轟然たる音を先立てて汽車あらはる。二人とも避難所と避難所との中央に在り。退いて避けむか、進んで避けむかと一寸考へしが、進むことに決して、避難所に入る。ほんの五六秒にして、汽車行きちがへり。やれ/\と胸なで下してゆくに、また汽車の來る音す。友は周章てて退いて避けむとす。こんどの汽車は、立川驛より青梅驛に向ふものなるに相違なし。避くるを要せずとて、余は進む。果して余の言の如くなりき。友は聲をふるはして、われ生れてより今夜の如く吃驚したることなし。うか/\君と遠足し居りては、如何なる死地に陷るかも知れず。今後斷じて君と共に遠足せざるべしといふ。よく/\驚き、且つ怒りたる也。君は天下の志士を以て任ずる豪傑なれば、さまで事に驚くことはなからむと思ひきと答へたるも、考へ直せば、暴虎馮河の譏は免れざるべし。記して血氣の士を戒む。(大正五年)