あらすじ
飛騨の奥深く、山々に囲まれた小さな駅に、東京から帰郷した若き医師・市郎がいました。彼は、この地で古くから語り継がれる「山※[#「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51]」という謎の生物に興味を持ち、その実態を確かめようとします。しかし、山※[#「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51]は、人里に現れると家畜を襲い、さらには人間の命を奪うという恐ろしい存在として、地元の人々に恐れられていました。市郎は、父から祖父が山※[#「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51]に殺されたという凄惨な話を聞かされ、その謎を解き明かす決意を固めます。次第に深まる市郎の探求心は、予想外の出来事を引き起こし、彼を未知の恐怖へと導いていくのです。
 綺堂君、足下(そっか)。
 聡明なる読者諸君の中(うち)にも、この物語に対して「余(あんま)り嘘らしい」という批評を下す人があるかも知れぬ。否(いな)、足下自身も或(あるい)は其一人(そのいちにん)であるかも知れぬ。が、果(はた)して嘘らしいか真実(ほんとう)らしいかは、終末(おしまい)まで読んで見れば自然に判る。
 嘘らしいような不思議の話でも、漸々(だんだん)に理屈を詮じ詰めて行くと、それ相当の根拠(よりどころ)のあることを発見するものだ。
 勿論(もちろん)、僕は足下に対して、単にこの材料の調書(しらべがき)を提供するに過ぎない。之(これ)を小説風に潤色して、更に読者の前に提供するのは、即ち足下の役目である。宜(よろ)しく頼む。
大正元年十一月
XY生
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 こんな手紙と原稿とを突然(だしぬけ)に投げ付けられては、私も少しく面食(めんくら)わざるを得ない。宜しく頼むと云われても、これは余(よ)ほどの難物である。例えば、蟹だか蛸だか鮟鱇(あんこう)だか正体(えたい)の判らぬ魚を眼前(めさき)へ突き付けて、「さあ、之(これ)を旨(うま)く食わして呉(く)れ」と云われては、大抵の料理番も聊(いささ)か逡巡(たじろ)ぐであろう。況(いわ)んや素人の小生に於てをや。この包丁塩梅(あんばい)甚だ心許ない。
 随(したが)って実際は真実(ほんとう)らしい話も、私の廻らぬ筆に因(よ)って、却(かえ)って嘘らしく聞えるかも知れぬが、それは最初(はじめ)から御詫(おわび)を申して置いて、扨(さて)いよいよ本文(ほんもん)に取(とり)かかる。これは今から十七八年以前の昔話と御承知あれ。
 北国(ほっこく)をめぐる旅人が、小百合火(さゆりび)の夜燃ゆる神通川(じんつうがわ)を後に、二人輓(ににんび)きの人車(くるま)に揺られつつ富山の町を出て、竹藪の多い村里に白粉(おしろい)臭い女のさまよう上大久保(かみおおくぼ)を過ぎると、下大久保(しもおおくぼ)、笹津(ささつ)の寂しい村々の柴焚(た)く烟(けむり)が車の上に流れて来る。所謂(いわゆる)越中平(えっちゅうだいら)の平野はここに尽きて、岩を噛む神通川の激流を右に視(み)ながら、爪先上りに嶮(けわ)しい山路(やまじ)を辿って行くと、眉を圧する飛騨(ひだ)の山々は、宛(さな)がら行手を遮(さえぎ)るように峭(そそ)り立って、気の弱い旅人を脅かすように見えるであろう。
 けれども、地図によれば此処(ここ)らは未(ま)だ越中の領分で、足腰の疼痛(いたみ)に泣く旅人も無し、山霧に酔う女もあるまいが、更に進んで雲を凌(しの)ぐ庵峠(いおりとうげ)を越え、川を抱(いだ)いたる片掛村(かたかけむら)を過ぎて、越中飛騨の国境(くにざかい)という加賀澤(かがそ)に着くと、天地の形が愈(いよい)よ変って来て、「これが飛騨へ入る第一の関門だな。」と、何人(なんぴと)にも一種の恐怖と警戒とを与えるであろう。乱山(らんざん)重畳(ちょうじょう)、草鞋(わらじ)の穿(は)けぬ人の通るべき道ではない。
 この加賀澤から更に二十里ほどの奥であると云えば、其(そ)の地勢などは委(くわ)しく説明する必要もあるまい。そこに戸数八十戸ばかりの小さい駅(しゅく)がある。山間の平地に開かれた町で、学校もあれば寺院もあり、且(かつ)は近年其(その)附近に銀山が拓かれるとか云うので、土地は漸次(しだい)に繁昌に向(むか)い、小料理屋のようなものも二三軒出来て、口臙脂(くちべに)の厚い女が斯(こ)んな唄を謡う様になった。

行(ゆ)くにゃ辛いがお山は飛騨よ
   黄金(こがね)白金(しろかね)花が咲く

「小旦那(こだんな)……小旦那……。昨夜(ゆうべ)も亦(また)、彌作(やさく)の内で鶏を盗(や)られたと云いますよ。」
「鶏を……。誰に盗(や)られたろう。又、銀山の鉱夫の悪戯(いたずら)かな。」と、若い主人は少しく眉を顰(ひそ)めて、雇人(やといにん)の七兵衛老爺(じじい)を顧(みかえ)った。
「何、何、鉱夫じゃアねえ。」と、七兵衛は頭(かしら)を掉(ふ)って、「それ、例の……。」
「例の……。」
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)ですよ。」
「むむ、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)か。ははははは。ここらでは未(まだ)そんなことを云ってるのか。」
 若い主人は一笑に附し去ろうとしたが、七兵衛は固く信じて動かぬらしい。
「小旦那は幾ら東京で学問したって、そりゃア駄目でがすよ。現在、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が出て来るんだから仕方がねえ。論より証拠だ。」

 若主人の名は市郎(いちろう)、この駅(しゅく)では第一の旧家と呼ばるる角川(つのかわ)家の一人息子である。斯(こ)ういう山村に生れても、家が富裕であるお庇(かげ)に、十年以前から東京に遊学して、医術を専門に研究し、開業試験にも首尾好く合格して、今年の春から郷里に帰った。年は二十七歳で、色の浅黒い活発の青年(わかもの)である。
 ここは山村で昔から良い医師が無い。市郎の父は之(これ)を憂いて、倅(せがれ)には充分に医術を修業させ、将来は郷里で医師を開業させる心組(こころぐみ)であった。市郎も固(もと)より其(その)覚悟であったので、帰郷の後、半年ばかりは富山の某(ある)病院の助手に雇われ、此頃(このごろ)再び帰郷して愈(いよい)よ開業の準備に取懸(とりかか)っている中(うち)に、飛騨の山里は早くも冬を催して、霜に悩める木葉(このは)は雨のように飛んだ。
 十月の末ではあるが、朝の霜は白い。其(そ)の白きを履(ふ)んで散歩する市郎の許(ところ)へ、彼(か)の七兵衛老爺(おやじ)が駈けて来て、大きな眼と口とを頻(しきり)に働かせながら、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)の一件を注進したのである。
 対手(あいて)が余り熱心であるので、市郎も無下(むげ)に跳ね付ける訳にも行かぬ。
「然(そ)うかねえ。」と、軽く笑って、「僕等も小児(こども)の時には其(そ)んな話を聞いたことがあるが、真実(ほんとう)に※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が出るのか。」
「確(たしか)に出ますよ。幾らも見た者があるんだから争われねえ。」
「そこで、昨夜(ゆうべ)も彌作の許(ところ)で鶏を盗(や)られたんだね。」
「何でも夜半(よなか)のことだと聞きましたが、裏の鶏舎(とや)で羽搏(はばたき)の音が烈しく聞えたので、彌作が窃(そっ)と出て見ると、暗い中に例の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が立っている。彌作も魂消(たまげ)て息を殺していると、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は鶏舎(とや)の中から一羽を握(つか)み出して、ぎゅうと頸(くび)を捻(ねじ)って、引抱(ひっかか)えて何処(どこ)へか行って了(しま)ったと云いますよ。」
「ふむ。」と、市郎は首を拈(ひね)って、「で、其(そ)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)という奴は何(ど)んなものだね。」
 七兵衛は慌てて遮(さえぎ)って、更に前後を見廻して、若い主人を叱るように、
「奴なんぞと云うじゃアねえ。何処に立聞(たちぎき)をしていて、何(ど)んな祟(たたり)をするか知れねえ。幾らお前様(めえさま)が理屈を云ったって、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に逢ったが最後、何(ど)んな人間だって敵(かな)うものじゃねえから……。」
「じゃア、奴というのは先(ま)ず取消にして、兎(と)にかく其(そ)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)とかいう者に一度逢って見たいもんだね。」
「馬鹿云わっしゃい。」
 若い主人は又叱られた。
 ここで鳥渡(ちょっと)其(そ)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なるものを説明して置く必要が有る。此(こ)の土地に限らず、奥州にも九州にも昔から山男又は山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の名が伝えられている。勿論(もちろん)、繁華の地には無いことであるが、山間の僻地では稀に其(その)姿を見ることがある。要するに猿とも人とも区別の付かぬ一種奇怪の動物で、中には人間の詞(ことば)を少しは解する者もあるとかいう。山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)のわろは恐(おそら)く和郎(わろ)という意味であろう。で、大(おおき)いのを山男といい、小さいのを山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と云うらしいが、能(よ)くは判らぬ。まだ其他(そのほか)に山姥(やまうば)といい、山女郎(やまじょろう)と云う者もある。これは恐(おそら)く彼等の女性であろう。
 兎(と)に角(かく)に彼等は一種の魔物として、附近の里人から恐れられている。山深く迷い入った猟夫(かりゅうど)が、暗い岩蔭に嘯(うそぶ)いて立つ奇怪の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を視(み)れば、銃を肩にして早々に逃げ帰る。万一之(これ)に一発の弾(たま)を与えたならば、熱病其他(そのた)の怖るべき祟(たたり)を蒙(こうむ)って、一家は根絶(ねだや)しになると信じられている。彼等は勿論深山の奥に棲んで、滅多に姿を見せることは無いが、時としては里に現われて食物を猟(あさ)る。其(その)場合には矢張(やは)り一般の盗賊(ぬすびと)の如くに、成(なる)べく白昼(ひる)を避けて夜陰に忍び込み、鶏や米や魚や手当り次第に攫(さら)って行く。其(そ)の素捷(すばや)いことは所謂(いわゆる)猿(ましら)の如くで、容易に其(その)影を捕捉することは能(でき)ぬ。
 又たとい其(その)姿を認めた者があっても、臆病な里人は決して之(これ)を追おうとは試みない。若(も)し迂濶(うかつ)に妨害を加えたらば、彼等は何時(なんどき)如何(いか)なる復讐をするかも知れぬので、何事も殆ど※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が為すままに任して置く。
 ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に対する奇怪の伝説や歴史は、まだ此他(このほか)にも沢山あるが、概括して云えば先(ま)ずこんなものである。

 市郎も此(こ)の土地に生れたので、小児(こども)の時から山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)の話を聞いていた。「そんなに悪戯(いたずら)をすると、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に与(や)って了(しま)いますよ。」と、亡母(なきはは)から嚇(おど)されたことも有った。が、多年東京の空気に混(まじ)っている中(うち)に、そんなお伽話のような奇怪な伝説は、彼の頭脳(あたま)から悉皆(すっかり)忘れられていたのを、今や再び七兵衛老爺(おやじ)から叱るが如くに諭(さと)されて、彼は夢のような少年当時の記憶を呼び起(おこ)すと同時に、彼(か)の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なるものに就(つい)て尠(すくな)からぬ好奇心を生じた。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)とは何だろう。矢(や)はり猿か狒々(ひひ)の一種か知ら。」と、市郎は頻(しきり)に考えた。
 七兵衛が去った後の裏庭は閑静(しずか)であった。旭日(あさひ)の紅い樹の枝に折々小禽(ことり)の啼く声が聞えた。差したる風(かぜ)も無いに、落葉は相変らずがさがさと舞って飛んだ。
「市郎、大分寒くなったな。」と、父の安行(やすゆき)が背後(うしろ)から声をかけた。安行は今年六十歳の筈であるが、年齢(とし)よりも遥(はるか)に若く見られた。
 父がここへ来たのは丁度(ちょうど)幸いである。市郎は彼(か)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に就(つい)て父の意見を訊(ただ)すべく待ち構えていた。が、父の話は其(そ)んな問題で無かった。
「時に忠一(ちゅういち)さんから何か消息(たより)があったか。」
「何でも来月初旬には帰郷するということでしたが……。」
「そうか。それは好都合だ。」と、父は満足の笑(えみ)を洩らした。
「ですが、私の為に態々(わざわざ)帰郷させるのも気の毒ですから、此方(こっち)は別に急ぐ訳でもないから、冬季休業まで延期しろと云って与(や)りました。」
「そう云って与(や)ったか。」と、安行は少しく不平らしい口吻(くちぶり)で、「当人が帰ると云うなら、帰って来いと云って与(や)れば可(い)いのに……。成(なる)ほど、今の所でお前の婚礼を急ぐにも及ばないが、決った事は早く行(や)って了(しま)うに限る。吉岡の阿母(おっか)さんも急いで居るんだからな。」
「でも、一月(ひとつき)や二月(ふたつき)を争うこともありますまい。」
「むむ。阿母(おっか)さんはまア何(ど)うでも可(い)いとしても、冬子(ふゆこ)さんが嘸(さ)ぞ待っているだろう。」
 市郎は少しく顔を染めた。
「まあ、可(い)い。」と、父は首肯(うなず)いて、「そんなら其様(そのよう)に吉岡の阿母(おっか)さんの方へも云って置こうよ。倅(せがれ)は何(ど)うも冬子さんを嫌っているようですから、婚礼は当分延(のば)しますと……。はははははは。」
 安行は我子に対(むか)っても、何時(いつ)も平気で冗談を云うのだ。市郎も笑って聞いていたが、やがて例の一件を思い出した。
「阿父(おとっ)さん。あなたに伺ったら判るでしょうが、昨夜(ゆうべ)彌作の家(うち)で鶏を奪(と)られたそうですね。」
「むむ。七兵衛がそんなことを云ったよ。」
「私も七兵衛から聞いたんですが、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が奪(と)ったとか云うことです。一体、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なんて云うものが実際居るんですかね。」
「さあ、居るとも云い、居ないとも云うが、俺にも確然(しっかり)とは判らないね。」
「けれども、彌作は確(たしか)に視(み)たと云いますが……。どうも不思議ですよ。」
「不思議だね。」とばかりで、父は此話(このはなし)を余り好まぬらしい。
「ねえ、阿父(おとっ)さん。外国でも遠い田舎へ行くと、種々(いろいろ)不思議な話があるそうで……。約(つま)り一種の迷信ですね。ここの山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なんて云うものも矢(や)はり其(そ)の一つでしょう。わたくしは之(これ)を十分に研究したいと思うんですが……。忠一君も曾(かつ)てそんな話を為(し)たことが有りましたよ。」
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を研究したい。」と、安行は稍(や)や真面目になって、我子の顔を凝(じっ)と視(み)た。
「そうです。恐(おそら)く猿か何かでしょうな。」
「猿でも猩々(しょうじょう)でも、そんなものには構わずに置くが可(い)い。先年駐在所の巡査が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を追って山の奥へ入ったら、其(その)留守に駐在所から火事が始(はじま)って、到頭(とうとう)全焼(まるやけ)になって了(しま)ったことが有る。加之(しか)も駐在所が一軒焼(やけ)で、近所には何の事も無かった。其(そ)の巡査も後に病気になったそうだよ。」
 物の道理を相当に心得ている筈の父安行すらも、矢(や)はり※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を恐るる一人(いちにん)であるらしい。市郎は肚(はら)の中で可笑(おかし)く思った。

 ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)に対する市郎の好奇心は愈(いよい)よ募って来たので、彼は何とかして父を釣り出そうと試みた。
「あなたも※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が怖いんですか。」
「怖いとも思わないが、好んで其(そ)んなものに関係(かかりあ)う必要も無いじゃアないか。」
 と、安行は情(すげ)なく答えた。
「祖父(おじい)さんは※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を見たそうですね。」
「誰から聞いた。」
「死んだ阿母(おっか)さんから聞いたことがあります。」
「祖父(おじい)さんは※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に殺されたのだ。」と、父は思わず歎息(ためいき)を吐(つ)いた。
 市郎は驚いて飛び上(あが)った。
「え、祖父(おじい)さんは※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に……。何(ど)うして殺されたんです。」
「そんな話は止(よ)そうよ。」
 一旦は斯(こ)う云ったが、到底(とても)黙って承知しそうもない我子の熱心な顔を見て、安行は又思い直したらしい。
「では、話して聞かせるから、まあ此方(こっち)へ来い。」と、父は先に立って、日当りの好(い)い小屋の前に進んだ。
 午前十時、初冬の日は愈(いよい)よ暖かく麗(うらら)かになって、白い霜の消えて行く地面からは、遠近(おちこち)に軽い煙を噴いていた。南向(みなみむき)の小屋の前には、二三枚の莚(むしろ)が拡げて乾してあった。父子(おやこ)はここに腰を卸(おろ)して、見るとも無しに瞰上(みあ)げると、青い大空を遮(さえぎ)る飛騨の山々も、昨日今日は落葉に痩せて尖って、宛(さなが)ら巨大(おおい)なる動物が肋骨(あばらぼね)を露(あら)わした様(よう)にも見えた。其(その)骨の尖角(とがり)の間から洩るる大空が、気味の悪いほどに澄切(すみき)っているのは、軈(やが)て真黒な雪雲を運び出す先触(さきぶれ)と知られた。人馬の交通を遮(さえぎ)るべき厳寒の時節も漸(ようや)く迫り来るのである。
「今から丁度(ちょうど)五十年前の事だから、俺も真実(ほんとう)の話は能(よ)くも知らない。後に他(ひと)から聞いたのだが……。」と、安行は我子を顧(みかえ)って、「矢(や)はり今時分のことだ。お前の祖父(おじい)さんが隣村まで用達(ようたし)に出かけて、日が暮れてから帰って来た。其(その)晩は好(い)い月夜で二三町先まで能(よ)く見える。祖父(おじい)さんは少し酔っていたので、何か小唄を謳(うた)いながらぶらぶら来ると、路傍(みちばた)の樹の蔭から可怪(おかし)な者がちょこちょこ出て来た。猿のような、小児(こども)のような者で、矢(や)はり真直(まっすぐ)に立って歩いて行く。はて、不思議だと思いながら、抜足(ぬきあし)をして窃(そっ)と尾(つ)けて行くと、不意に赤児の泣声が聞えた。熟(よく)視(み)ると、其奴(そいつ)が赤児を抱えていたのだ。」
 市郎は息を詰めて聴いていた。
「そこで、祖父(おじい)さんも考えた。これは例の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が他(ひと)の赤児を攫(さら)って行くに相違ない。対手(あいて)が対手(あいて)だから大抵の事は見逃して置くが、人間を攫って行くのを唯(ただ)打捨(うっちゃ)って置く訳には行かぬ。其(その)当時の事だから、祖父(おじい)さんも腰に刀を佩(さ)していたので、突然(いきなり)にひらりと引抜(ひきぬ)いて、背後(うしろ)から「待てッ」と声をかけた。対手(あいて)は振返(ふりかえ)って屹(きっ)と此方(こっち)を視(み)たが、生憎(あいにく)に月を背後(うしろ)にしているので其(その)顔は能(よ)く判らなかった。」
「顔は判りませんでしたか。」と、市郎は失望の息を吐(つ)いた。
「顔は判らなかったが、暫時(しばらく)は此方(こっち)を睨んで居たらしかった。が、何分にも此方(こっち)は長い刃物を振翳(ふりかざ)していたので、対手(あいて)も流石(さすが)に気怯(きおく)れがしたと見えて、抱えていた赤児を其処(そこ)へ投(ほう)り出(だ)して、直驀地(まっしぐら)に逃げて了(しま)った。」
「何地(どっち)の方へ……。」
「あの山の方へ……。」と、安行は北を指さして、「勿論(もちろん)、飛ぶように足が疾(はや)いのだから、到底(とても)追い付く訳には行かない。そこで、祖父(おじい)さんは其(そ)の赤児を拾って帰って、燈火(あかり)の[#「燈火の」は底本では「橙火の」]下で熟(よく)視(み)ると、生れてから十月(とつき)位にもなろうかと思われる男の児で、色の白い可愛い児であった。いずれ近所の人の児であろうと、明(あく)る朝方々(ほうぼう)へ問い合わして見たが、この駅(しゅく)では小児(こども)を奪(と)られた者は一人(ひとり)も無い。隣村にも無い。約(つま)り何処(どこ)から持って来たのだか判らずに了(しま)った。」
「其(そ)の小児(こども)は何(ど)うしました。」
「まあ、漸々(だんだん)に話す。其(そ)の小児(こども)の事よりも、先(ま)ず祖父(おじい)さんの方を話さなければならない。祖父さんは強い人であったから、別に何とも意にも介(と)めずにいた処が、対手(あいて)の方では執念深く怨んでいて、三日の後に残酷な復讐を為(し)たよ。」
 安行の声は少しく顫(ふる)えて聞えた。

「復讐……。山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)が……。一体どんなことを為(し)ました。」と、市郎も思わず摺寄(すりよ)ると、安行は今更のように嘆息した。
「それから三日目の晩に、祖父(おじい)さんは用があって又隣村まで行ったが、夜が更けても帰って来ないので、家中(うちじゅう)の者も心配して、松明(たいまつ)を点(つ)けて迎いに出た。其(その)晩は真闇(まっくら)で、寒い山風が吹き下(おろ)していた。で、先夜山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)から小児(こども)を奪返(とりかえ)したという場所へ来ると、祖父(おじい)さんは血だらけになって死んでいた。さあ大騒ぎになって、よくよく死骸を検(あらた)めると、人か獣か知らないが何でも鋭い牙のある奴が、背後(うしろ)から飛び付いて喉笛を食い破ったらしい。祖父さんも幾らかは防いだと見えて、手や足にも引っ掻かれた爪の痕が沢山あった。勿論(もちろん)、死人(しにん)に口無しで、誰に何(ど)うされたのか判らないが、祖父さんは他(ひと)から恨(うらみ)を受けるような記憶(おぼえ)も無し、又普通の追剥(おいはぎ)ならば斯(こ)んな残酷な殺し方をする筈がない。突然(いきなり)に人の喉笛に噛み付くなどと云うことは、普通の人間には容易に能(でき)る芸で無い。それ等の事情から考えると、同じ場所といい、残酷な殺し方と云い、どうしても例の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が先夜の復讐に来たとしか思われないのだ。いや、確(たしか)にそれに相違ないということに決着して、死骸は寺に葬った。すると、まだまだ驚くことが有る。」
 斯(こ)う云って父は一息吐(つ)いた。市郎も余りに奇怪なる物語に気を呑まれて、何とも詞(ことば)を挿(はさ)む勇気が無かった。
「それから初七日(しょなぬか)の日に、親類一同が式(かた)の如く寺参りに行くと、祖父(おじい)さんの墓は散々に掘り返されて、まだ生々しい死骸が椿の樹の高い枝に懸けてあった。勿論(もちろん)、誰の仕業か知れないが、これも大抵は判っている。其(その)以来、土地の者は愈(いよい)よ山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を恐れるようになって、今日(こんにち)まで誰も指をさす者が無いのだ。まあ、そんな訳だから何も好んで山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なんぞに関係(かかりあ)うことは無い、打捨(うっちゃ)って置く方が可(い)いよ。」
「成(なる)ほど不思議ですな。」と、市郎も何だか夢のように感じた。天狗や山男や、そんなものは未開時代の昔語(むかしがたり)と一図(いちず)に信じていた彼の耳には、此(この)話が余りに新し過ぎて、殆ど虚実の判断に迷った。が、彼は一概に之(これ)を馬鹿馬鹿しいと蔑(けな)して了(しま)うほどの生物識(なまものじり)でもなかった。市郎は飽(あく)までも科学的に此(こ)の怪物の秘密を訐(あば)こうと決心したのである。
「それで、明治以後にも相変らず其(そ)んな怪談が屡々(しばしば)ありましたか。」
「さあ。」と、父も考えて、「今も云うような訳で、此方(こっち)では誰も手出しを為(し)ないから、対手(あいて)の方でも別に悪い事は為(し)ないらしい。時々に里へ出て来て鶏や野菜などを掻(か)っ攫(さら)って行(ゆ)くけれども、まあ其(その)位のことは打捨(うっちゃ)って置くのさ。」
「警察でも構わないんですか。」
「昔は女や小児(こども)を攫(さら)ったと云うことだが、今は滅多にそんな噂を聞かない。で、人でも殺せば格別だが、小泥坊(こどろぼう)をする位のことでは、警察でもまあ大目に見逃して置くらしい。先刻(さっき)も云った通り、巡査が一度追掛(おっか)けたことも有ったが、到頭(とうとう)捉(つかま)らなかった。何しろ、猿と同じように樹にも登る、山坂を平気で駈(かけ)る、到底(とても)人間の足では追い付かないよ。併(しか)し近所に銀山も拓けて、漸々(だんだん)ここらも賑(にぎや)かになるから、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)も山奥へ隠れて了(しま)って、余り出なくなるかも知れない。」
「そうですねえ。ここらも昔に比べると余(よ)ほど開けて来ましたから……。」
「土地の繁昌は結構だが、銀山の鉱夫などが大勢入込(いりこ)んで来たので、怪しげな料理屋などが追々(おいおい)殖えて来るのは些(ちっ)と困る。」と、安行は苦笑いした。
「今に山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)も料理屋へ上(あが)って、甚九(じんく)でも踊るようになるかも知れません。ははははは。」
 父子(おやこ)は笑いながら内へ入った。
 今日は些(ちっ)とも風のない温かい日であった。午餐(ひるめし)の済んだ後、市郎は縁側に立って、庭の南天の紅い実を眺めていると、父の安行が又入って来た。
「好(い)い天気だな。何(ど)うだ。運動ながら吉岡の家(うち)へ一所(いっしょ)に行かないか。吉岡の阿母(おっか)さんに逢って、お前の婚礼を延(のば)すことを一応断(ことわ)って置こうと思うから……。」
「はあ、お伴(とも)しましょう。」
 市郎は散歩が好(すき)であった。加之(しか)も未来の妻たるべき冬子の家を訪問するのであるから、悪い心地(こころもち)は為(し)なかった。早速に帽子を被って家を出た。
 近来賑(にぎや)かになったと云っても、矢(や)はり山間の古い駅(しゅく)である。町の家々は昼も眠っているように見えた。
 富山の友人から貰ったトムと云う大きな西洋犬(せいよういぬ)が、主人父子(おやこ)の後を遅々(のそのそ)と躡(つ)いて行った。

 長くもない町を行(ゆ)き尽(つく)して、やがて駅尽頭(しゅくはずれ)の角(かど)に来ると、冬を怨む枯柳が殆ど枝ばかりで垂れている傍(かたわら)に、千客万来と記した角行燈(かくあんどう)を懸けて、暖簾(のれん)に柳屋と染め抜いた小料理屋があった。雪国の習(ならい)で、板葺(いたぶき)の軒は低く、奥の方は昼も薄暗い。
 安行父子(おやこ)が今やここの門(かど)を通ると、丁度(ちょうど)出合頭(であいがしら)に内から笑いながら出て来た女があった。年は二十二三でもあろう、髪は銀杏返(いちょうがえ)しの小粋な風(ふう)であった。
 市郎の顔を見るや、彼女(かれ)は俄(にわか)に衣紋(えもん)を繕(つくろ)って、「あら、若旦那……。」と、叮嚀(ていねい)に挨拶した。市郎も黙って目礼した。
「よいお天気になりました。」と、女は笑(えみ)を含んで再び詞(ことば)をかけた。
「好(い)い天気になりましたなあ。」と、市郎も鸚鵡返(おうむがえ)しに挨拶して、早々にここを行き過ぎた。女は枯柳の下に立って、暫時(しばし)は其(そ)の後姿を見送っていた。
「お前はあの女を知っているのか。」
 五六間(けん)行き過ぎてから、安行は低声(こごえ)で訊いた。
「いえ、知ってると云う程でも無いんですが、この夏、吉岡の忠一君が帰省した時に、一所(いっしょ)にあの家(うち)へ飲みに行ったことが有るんです。何、唯(た)った一度ですよ。」
「そうか。併(しか)し狭い土地だから、お前が角川の息子だと云うことは、先方(むこう)でも知ってるだろう。あんな許(ところ)へ余(あんま)り出入(ではいり)するなよ。世間の口が煩(うる)さい。」
「そうですとも……。あんな家(うち)へは決して二度と足踏(あしぶみ)は為(し)ませんよ。」と、市郎は潔(いさぎ)よく答えた。が、何を思い出したか、嫣然(にやにや)笑いながら、「それでも忠一君は彼(あ)の女に思惑でも有ったと見えて、頻(しきり)に戯(からか)って騒いでいましたよ。」
「若い者には困るな。」と、安行も共に笑いながら、「あれは酌婦(しゃくふ)だろう。何という名だ。」
「たしかお葉(よう)と云いました。」
「お葉か。忠一が今度帰ったら冷評(ひやかし)て与(や)ろうよ。」
「詰(つま)らない。お止(よ)しなさいよ。あれでも表面は真面目なんですから……。」
「それだから戯(からか)って与(や)るんだ。」
 斯(こ)ういう暢気(のんき)な親父が、何故山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)なんぞを恐れるのだろうと、市郎は不思議に思いながら、不図(ふと)顧(みかえ)ると、自分達の後を追って来たトムの姿が見えない。
 はて、何処へ行ったかと見廻すと、犬は彼(か)の柳屋の前に止(とま)って、お葉から何か食物(くいもの)を貰っているらしい。
「トム、トム……。」と、二三度呼んだが、犬は食物(くいもの)に気を奪(と)られて、主人の声を聞付(ききつ)けぬらしい。市郎は舌打(したうち)しながら引返(ひっかえ)して来た。
「トム、トム……。」と、少しく声を暴(あら)くして呼ぶと、犬は初めて心付いたらしく、食物(くいもの)を捨てて駈け出そうとしたが、早くも背後(うしろ)からお葉に抱かれて了(しま)った。
「この犬は良(い)い犬ですね。」
「無闇に吠えて困るんです。」
「でも、温良(おとなし)いわ。妾(あたし)、此(この)犬が大好(だいすき)よ。」
「トム、トム……。」と、市郎は又呼んだ。犬は尾を掉(ふ)って行こうとしたが、お葉は相変らず緊乎(しっかり)抱いていた。
「トム、トム……。」
 市郎は重ねて呼びながら、犬の頸(くび)に手をかけると、お葉は傍(そば)へ寄って来て、低声(こごえ)で少しく怨恨(うらみ)を含んだように、
「あなた、あの時限(ときぎ)り被入(いらし)って下さらないのね。」
 市郎は黙っていた。
「後生ですから、あなた最(も)う一度来て下さいな。え、お厭(いや)ですか。え、どうしても厭……。来て下さらないの。」
「厭という事も無いんだが……。」と、市郎は返事に困って、思わず父の方を顧(みかえ)ると、安行は小半町(こはんちょう)ばかり先の木蔭(こかげ)に立って、此方(こっち)を凝(じっ)と見詰めているので、市郎は何とも無しに赤面した。
「兎(と)にかく又来ますよ。」
 詞(ことば)短かに云い捨てて、無理に犬を牽(ひ)き出すと、お葉は漸く手を放したが、今度は市郎の腕に手をかけて、
「あなた、必然(きっと)ですか。可(よ)ござんすか。欺(だま)すと山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を頼んで、意趣返しを為(さ)せますよ。」
 お前ならば山女郎(やまじょろう)の方が可(よ)かろうと云おうとしたが、戯(からか)っていると長くなる。市郎は黙って首肯(うなず)いて、早々に立去(たちさ)った。

「おや、角川のおじさん被入(いらっ)しゃい。市郎さんも……。さあ、どうぞ……。」
 吉岡の母お政(まさ)は、喜んで安行父子(おやこ)を迎えた。吉岡も隣村では由緒ある旧家で、主人は一昨年世を去ったが、お政との間に二人の子供があった。総領は忠一と云って、帝国大学の文科に学んでいる。妹(いもと)の冬子も兄と共に上京して、某(ある)女学校に通っていたが、昨年無事に卒業して今は郷里の実家に帰っている。地方には能(よ)くある習(ならい)、角川の市郎と冬子とは所謂(いわゆる)許嫁(いいなづけ)の間柄で、市郎が医師を開業すると同時に、めでたく祝言(しゅうげん)という内相談(ないそうだん)になっている。勿論(もちろん)、二人の間に異存は無かった。
 斯(こ)ういう関係であるから、昔から両家は殆ど親類同様に親しく交際していた。殊に主人が死んだ後(のち)は、吉岡の家では何かに付けて角川一家を力と頼んでいた。
 安行父子(おやこ)が座敷へ通ると、今年二十歳(はたち)の冬子も笑顔を作って出て来た。
「東京の倅(せがれ)の方から一昨日手紙が参りまして、冬子の婚礼に就(つい)て来月初旬には必然(きっと)帰って来ると云うことでした。」と、お政が先(ま)ず口を切った。
「いや、其事(そのこと)ですが……。」と、安行は市郎を顧(みかえ)って、「倅の云うには、それが為に忠一さんを態々(わざわざ)呼び戻すにも及ぶまい。どうで歳暮(くれ)には帰郷するのだから、其(その)時まで延(のば)しても差支(さしつかえ)はあるまいと……。」
「それも然(そ)うですが……。」と、お政は娘の顔を視(み)た。市郎は何の気も注(つ)かずに、「実は私から忠一君の方へ、然(そ)う云って与(や)ったんですが……。」
「まあ。」と、お政は更に市郎の顔を視(み)た。
「私も今朝初めて聞いたのだが、延期しては何か御都合が悪いかな。」
 安行の問(とい)に対して、母子(おやこ)は即坐に何とも答えなかった。お政は霎時(しばらく)考えて、
「いいえ、別に都合の悪いと云うこともありませんが……。善は急げとか云いますから、一日も早く御婚礼を済まして、妾(わたくし)も安心したいと思うのですが……。是非来月で無ければ成らないと云う訳もありませんから、約(つま)り貴下(あなた)や市郎さんの思召(おぼしめし)次第で……妾の方は何方(どちら)でも宜(よろ)しいのです。唯(ただ)、妾の方では……こんなことを申しては何ですけれども、市郎さんも未(ま)だお若いのですから、何かの間違いのない中(うち)に些(ちっ)とも早く……と斯(こ)う思って居りますので……。ほほほほほ。」
 お政は冗談のように笑って云ったが、其詞(そのことば)の底には何かの意味があるらしくも聞えた。冬子も恨めしそうな眼をして、市郎の顔を視(み)ていた。斯(こ)うなると、何だか聞捨(ききずて)にもならぬような意(き)もするので、安行も稍(や)や真面目になった。
「御承知の通り、倅(せがれ)もまだ書生上(あが)りで小児(こども)も同然だから、私も平生(ふだん)から厳しく監督していますが、冬子さんとの婚礼は昨日今日に初(はじま)った話でも無し、たとい一月(ひとつき)や二月(ふたつき)延びたからと云って、決して間違いの起(おこ)るなどと云うことは……。」
「それは然(そ)うですとも……。」と、お政は遮(さえぎ)って、「ですから、妾(わたくし)の方でも決して心配は為(し)ませんが……。それでもお若い方と云うものはね。」と、又笑った。
 市郎も何だか黙ってはいられぬ羽目になった。
「じゃア、おばさん、私が何か不都合な事でも為(し)ていると被仰(おっしゃ)るんですか。」
「別に不都合ということは無いのですけれど、他(ひと)の噂を聞くと、市郎さんは此頃(このごろ)柳屋とか云う家(うち)にお馴染(なじみ)が出来たそうで……。皆(みん)なが然(そ)う云っていますよ。」
「へえー。」と、市郎は眼を丸くした。柳屋と聞いて、安行の眼も少しく晃(ひか)った。
「嘘です、そりゃア実際嘘ですよ。」と、市郎は口早に、「そんなことは決してありませんよ。今も親父に話したのですけれども、此(こ)の夏、忠一君が帰省した時に、唯(た)った一度行ったことが有るだけで、其後(そのご)は柳屋の閾(しきい)も跨(また)いだ事は無いんです。」
「そうですかねえ。」と、お政はまだ笑っていた。其(そ)の疑惑(うたがい)は融(と)けぬらしい。

「市郎、お前は真実(ほんとう)に柳屋へ出入(ではいり)するのか。」と、今度は安行が問うた。
「いいえ、嘘です、嘘ですよ。何かの間違いでしょう。」と、市郎は慌てて弁解した。
「でも、忠一も其(その)時に云っていましたよ。市郎君は色男だ、柳屋の女が大層チヤホヤしていたと……。ねえ、然(そ)うでしょう。」
 如才(じょさい)ないお政は絶えず笑顔を見せているが、対手(あいて)は甚だ迷惑に感じた。と云って、ここで何時(いつ)まで争っても究竟(つまり)は水掛論(みずかけろん)である。市郎も終末(しまい)には黙って了(しま)った。
 安行も考えた。何方(どちら)の云うことが真実(ほんとう)か知らぬが、先刻(さっき)市郎の話では、忠一が女と巫山戯(ふざけ)たと云う。今又ここの話では、市郎が女と情交(わけ)があるらしいと云う。何方(どっち)にしても、対手(あいて)は客商売の女である。要するに二人の客に対して、等分に世辞(せじ)愛嬌(あいきょう)を振蒔(ふりま)いたと云うに過ぎまい。随(したが)って其(その)時だけの遊興(あそび)ならば兎(と)こうの論は無いが、若(も)し市郎が其後(そのご)も柳屋へ通っている様(よう)ならば、少しく警戒を加えねばならぬ。彼(か)のお葉という女は、どんな素性来歴の者か知らぬが、豪家(ごうか)の息子を丸め込んで、揚句(あげく)の果(はて)に手切れとか足切れとか居直るのは、彼等社会に珍しからぬ例(ためし)である。殊に此方(こっち)は婚礼を眼の前に控えているから、それを附目(つけめ)に何かの面倒を持ち込まれては、吉岡家に対しても気の毒、自分達も世間に対して余計な恥を晒(さら)すようにもなる。何(ど)うか其(そ)んなことの無い様(よう)にしたいものだと、心(こころ)窃(ひそ)かに無事を祈った。
 が、誰の考慮(かんがえ)も同じことで、ここで何時(いつ)まで争った所で水掛論に過ぎない。これだけに釘を刺して置けば既(も)う可(い)いと思ったのであろう、お政は相変らず嫣然(にこにこ)笑いながら、更に話を他(ほか)に反(そら)した。
「好(いい)塩梅(あんばい)にお天気が続きますね。併(しか)し来月になったら、急にお寒くなりましょう。来年のお正月も又雪でしょうかねえ。」
 旧暦に依る此(この)土地では、正月は恰(あたか)も大雪の最中(さなか)である。年々の事とは云いながら、三尺、四尺、五尺、六尺と漸次(しだい)に振積(ふりつ)んで、町や村にあるほどの人々を、暗い家の中に一切封じ込めて了(しま)う雪の威力を想像すると、何と無く一種の恐怖(おそれ)を懐(いだ)かぬ訳には行(ゆ)かぬ。四人は今更のように庭を眺め、空を仰いで、日毎に襲い来る冬の寒気(さむさ)を染々(しみじみ)と感じた。
 この時、表では犬の啼く声が頻(しきり)に聞えた。トムは何物を視(み)たか知らぬが、狂うが如くに吠え哮(たけ)るのであった。
「何をあんなに吠えるのだろう。」と、手持無沙汰(てもちぶさた)の市郎は、之(これ)を機(しお)に起上(たちあが)って門(かど)へ出た。
 この家は小さい陣屋のような構造(かまえ)で、門(もん)の前には細い流(ながれ)を引き繞(めぐ)らし、一間(けん)ばかりの細い板橋が架(わた)してある。家の周囲は竹藪に包まれて、其(そ)の藪垣(やぶがき)の間から栗の大木が七八本聳(そび)えていた。トムは橋の中央に走り出(い)でて、凄じい唸声(うなりごえ)を揚げているのである。
「トム、トム……。」と、市郎は先(ま)ず声をかけながら不図(ふと)視(み)ると、トムの五六歩前には一人の怪しい女が立っていた。
 女は六十前後でもあろう。灰色の髪を芒(すすき)のように乱して、肩の下まで長く垂れていた。彼女(かれ)が若かりし春の面影は、恐(おそら)く花のようにも美しかったであろうと想像されるが、冬の老樹(おいき)の枯れ朽ちたる今の姿は、唯(ただ)凄愴(ものすご)いものに見られた。身には縞目(しまめ)も判らぬような襤褸(ぼろ)の上に、獣の生皮(なまかわ)を纏(まと)っていた。其(そ)の風体(ふうてい)が既に奇怪であるのに、更に人を脅かすのは其(その)窪んだ眼の光で、凡(およ)そ此(この)世界にありと有らゆる物は、総て我敵(わがかたき)であると云わぬばかりに睨み詰めているらしい。
 狂人(きちがい)か、乞食か、但(ただ)しは彼(か)の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)の眷族(けんぞく)か、殆ど正体の判らぬ此(こ)の老女を一目見るや、市郎も流石(さすが)に悸然(ぎょっ)とした。トムが怪(あやし)んで吠えるのも無理は無い。
 併(しか)し彼女(かれ)は別に何をするでもなく、門前の往来に飄然(ひょうぜん)と立っているだけの事であるから、市郎も改まって咎(とが)める訳には行かぬ。唯(ただ)暫時(しばらく)は黙って睨んでいると、老女は何と感じたか、黄(きいろ)い歯を露出(むきだ)して嫣然(にやにや)笑いながら、村境(むらざかい)の丘の方へ……。姿は煙の消ゆるが如くに失(う)せて了(しま)った。
 市郎は夢のように其(そ)の行方を見送っていると、トムの声を聞き付けて、この家(や)の下男(しもおとこ)も内から出て来た。其(その)話によると、彼(か)の怪しの老女は北の山奥に棲むお杉(すぎ)という親子連(づれ)の乞食であると云う。乞食とあれば是非もないが、何だか唯者(ただもの)では無いように市郎は感じた。
「あれは山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の女房だとも云いますよ。」と、下男は更に低声(こごえ)で囁(ささ)やいた。

「トムは何を吠えていたのだ。」
 市郎が旧(もと)の座敷へ戻って来ると、安行は煙草を喫(の)みながら徐(しずか)に訊いた。
「いや、表に変な女が立っていましてね。後で聞けばお杉とか云う乞食だそうで……。」
「ああ、お杉ですか。」と、お政母子(おやこ)は眉を顰(ひそ)めて首肯(うなず)いた。
「何です、彼女(あれ)は……。頗(すこぶ)る変な奴ですね。狂人(きちがい)でしょうか。」
「さあ、幾らか気も変になっているか知れないが、所謂(いわゆる)狂人(きちがい)と云うのでも無いようだ。」と、安行は考えて、「彼女(あれ)も俺の家(うち)に満更(まんざら)縁が無いでも無いのだ。お前も知っているだろう。」
「いえ、些(ちっ)とも知りませんね。一体、彼女(あれ)は何です。」と、市郎は父の顔を覗いた。
「今朝お前に話した通り、祖父(おじい)さんが五十年ほど昔に、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)に攫(さら)われた小児(こども)を助けたことが有る。」
「けれども、それは男の児(こ)でしょう。」
「まあ、黙って聞くが可(い)い。それには又種々(いろいろ)の可怪(おかし)な話が絡んでいるのだ。」
 山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と怪しの老女、この関連は愈(いよい)よ市郎の好奇心を湧かした。お政も冬子も珍しそうに耳を欹(そばた)てた。
 茶を一杯、それから安行はこんなことを語り出した。
 市郎の祖父、即ち安行の父は山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の復讐の為に無残の死を遂げた。併(しか)し其(その)手に救われた赤児は、角川家の情(なさけ)に因(よ)って無事に生長した。固(もと)より何者の子とも判らぬので、仮に重蔵(じゅうぞう)と名を付けて、児飼(こがい)の雇人(やといにん)のようにして養って置いた。角川の家は代々の郷士で、傍(かたわ)らに材木伐出(きりだ)しの業を営んでいたので、家の雇人等も木挽(こびき)の職人と一所に山奥へ入ることが屡々(しばしば)ある。重蔵も十二三歳の時から山へ入った。
 何でも彼が十五六歳の秋であった。小児(こども)の癖に気の暴(あら)い重蔵は、木挽の職人と何か喧嘩をした結果、同じく気の早い職人は「どうでも勝手にしろ。」と、山小屋に重蔵一人を置去(おきざ)りにして帰って了(しま)った。而(しか)も其処(そこ)には伐倒(きりたお)された杉や山毛欅(ぶな)の材木が五六本残っていたので、飽(あく)までも強情な重蔵は、自分一人で之(これ)を麓(ふもと)まで担ぎ出そうとしたが、長く大きい材木は少年の肩に余って、到底(とても)嶮(けわ)しい山坂を降(くだ)る訳には行かぬ。兎(と)こうする中(うち)に日は暮れかかる。彼も流石(さすが)に途方に暮れている処へ、恐(おそら)く例の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)であろう。人か猿か判らぬ一個の怪しい者がふらりと出て来た。
 並大抵の者ならば、驚いて慌てて逃げ出すべきであるが、重蔵は頗(すこぶ)る大胆であった。咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に思案を定(さだ)めて、腰に提げたる割籠(わりご)から食残(くいのこ)りの握飯を把出(とりだ)して、「これを与(や)るから手伝って担いで呉(く)れ。」と手真似で示すと、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)も合点(がてん)したと見えて悠々と材木を担ぎ出した。斯(か)くして彼は先棒(さきぼう)となり、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は後棒(あとぼう)となって、幾本の重い材木を無事に麓まで担ぎ下(おろ)したのである。
 これが一種の縁となったとでも云うのであろう、其後(そのご)も※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は折々に山小屋へ姿を見せた。但(ただ)し他人のいる時は決して近寄らず、重蔵一人の時を窺って忍んで来る。其都度(そのつど)に重蔵は自分の握飯を分(わか)って、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に仕事を手伝わせていた。が、或時これを見付けた者が有って、重蔵は山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を友としているという噂が忽(たちま)ち拡がった。角川家でも大(おおい)に心配して、其(その)以来彼を山小屋へ遣(や)らぬ[#「遣らぬ」は底本では「遺らぬ」]事とした。
 それから又二三年過ぎた。其間(そのあいだ)別に変った事も無かったが、一旦山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と親しんだという風説が、甚だ此(こ)の青年(わかもの)に禍(わざわい)して、彼は附近の人々から爪弾(つまはじ)きされた。若い者の寄合(よりあい)にも重蔵一人は殆ど除外(のけもの)となって了(しま)った。随(したが)って彼の性質も愈(いよい)よ僻(ひが)んで来て、仕事を怠ける、喧嘩をする、酒を飲む、甲(それ)から乙(それ)へと堕落して、果(はて)は第二の親とも云うべき角川一家の人々からも見放される様(よう)になった。
 が、其間(そのあいだ)に於て独り重蔵に同情した女があった。即ち彼(か)のお杉である。お杉は此(こ)の駅尽頭(しゅくはずれ)の蕎麦屋の娘で、飛騨小町と謳われる程の美人であったが、何(ど)ういう訳か不思議に縁遠いので、三十に近いまで独身で過(すご)した。

 お杉が評判の美人であるにも拘(かかわ)らず、盛(さかり)を過ぎるまで縁遠いに就(つい)ても、山里には有勝(ありがち)の種々(しゅじゅ)の想像説が伝えられた。其中(そのなか)でも、彼女(かれ)は蛇の申子(もうしご)で、背中に三つの鱗(うろこ)が有るということが、一般の人々に最も多く信ぜられていた。
 お杉は重蔵に比べると、殆ど十歳(とう)ばかりの姉であったが、何時(いつ)か此(この)二人が狎(なれ)馴染(なじ)んで、一旦は山の奥へ身を隠した。お杉の家でも驚いて、そこの森や彼処(かしこ)の谷合(たにあい)を猟(あさ)り尽した末に、一里ばかりの山奥にある虎ヶ窟(とらがいわや)という岩穴に、二人の隠れ潜んでいるのを発見して、男は主人方に引渡(ひきわた)され、女は実家へ連れて戻られたが、其(そ)の翌(あく)る夜に二人は又もや飛び出した。今度は他国へ遠く奔(はし)ったらしい。遂に其(その)行方を探り得なかった。
 それから十年ほど経つ中(うち)に、お杉の家は死絶(しにた)えて了(しま)った。二人の名も大方忘れられて了(しま)った。然(しか)るに某日(あるひ)のこと、樵夫(きこり)が山稼ぎに出かけると、彼(か)の虎ヶ窟の中から白い煙の細く※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)(あが)るのを見た。不思議に思って近寄って窺うと、岩穴の奥には怪しい女が棲んでいた。十年前(ぜん)に比べると、顔容(かおかたち)は著(いちじ)るしく窶(やつ)れ果てたが、紛う方なき彼(か)のお杉で、加之(しか)も一人の赤児を抱いていた。驚いて其(その)仔細を訊(ただ)したが、彼女(かれ)は何にも答えなかった。赤児は恐らく重蔵の胤(たね)であろうと思われるが、男の生死(しょうし)は一切不明であった。
 それから二十余年の間、彼女(かれ)は此(こ)の窟(いわや)を宿として、余念もなく赤児を育てていた。赤児も今は立派な大人になって、其(その)名を重太郎(じゅうたろう)と呼ぶそうである。で、此(こ)の母子(おやこ)は何に因(よ)って衣食しているか判らぬが、折々に麓(ふもと)の駅(しゅく)に現われて物を乞うのを見れば、先(ま)ず一種の乞食であろう。勿論(もちろん)、これまでにも警官から度々立退(たちのき)を命ぜられたが、今日逐(お)われても明日は又戻って来るという風で、殆ど手の着け様(よう)がない。駐在所でも終末(しまい)には持余(もてあま)して、彼等が悪事を働かない限(かぎり)は、其(その)ままに捨てて置くらしい。
 虎ヶ窟は其(その)昔、若き恋に酔えるお杉と重蔵との隠れ家であった。彼女(かれ)は今や白髪(しらが)の嫗(うば)となっても、思い出多き此(この)窟を離れ得ぬのであろう。
 で、単に是(これ)だけの事ならば仔細も無いが、このお杉婆(すぎばばあ)に就(つい)て又もや一種の怪しい風説が起(おこ)った。と云うのは、この母子(おやこ)が折々に里へ出て物を乞う時、快く之(これ)に与うれば可矣(よし)、若(も)し情(すげ)なく拒んで追い払うと、彼等は黙って笑って温順(おとなし)く立去(たちさ)るが、其(その)家は其(その)夜必ず山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)に襲われて、鶏(とり)か稗(ひえ)かを奪われる。或(あるい)は偶然かも知れぬが、其間(そのあいだ)に何かの関係が有るらしくも思われるので、人々は自ずと此(こ)のお杉を忌み且(かつ)恐るるようになった。で、お杉は山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を手先に遣(つか)うとも伝えられた。お杉は山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の女房であるとも伝えられた。固(もと)より確(たしか)な証拠がある訳でもないが、こんなような意味からして、老(おい)たるお杉は一種の魔女の如くにも見られていた。
 或時には又こんな事もあった。お杉が門(かど)に立って米を乞うた時に、或人が一合(いちごう)ばかりの米を与えて、冗談半分に斯(こ)う云った。「お前も知っている通り、飛騨の国は米が少いのだから、之(これ)を十倍にして返して呉(く)れるか。」お杉は黙って首肯(うなず)いて去った。すると、其(その)晩の中(うち)に一升(しょう)ほどの白米が、其(その)家の前に蒔(ま)き散らされてあった。
 又、或家に夜も昼も泣く赤児があって、お杉が門(かど)に立った時にも、其(その)児は火の付くように泣いていた。彼女(かれ)は黙って其(その)額を撫でると、赤児は其(その)以来些(ちっ)とも泣かなくなった。
 善か、悪か、狂(きょう)か、兎(と)にも角(かく)にも彼女(かれ)は普通の人間でない、一種不思議の魔力を有(も)っている女の様(よう)にも見えた。
 お杉に就(つい)て安行の知っているのは、先(ま)ず此(この)位の程度であったが、迷信の多い人々の説を聞いたら、まだ此(この)上にも種々(しゅじゅ)不可思議の実例があるらしい。
 こんな話に時の移るのを忘れている中(うち)に、庭に囀(さえ)ずる小禽(ことり)の声も止んで、冬の日影は余(よ)ほど薄くなった。
「もうお暇(いとま)為(し)ようか。」
 安行と市郎は暇乞(いとまご)いして、吉岡の家を出た。

 飛騨といふ詞(ことば)は襞(ひだ)を意味して、一国の中(うち)に山多く、さながら衣(きぬ)に襞多きが如くに見ゆる所から、昔の人が此(この)国の名を斯(か)く呼んだのである。随(したが)って飛騨と云えば直(ただち)に山を聯想(れんそう)するまでに、一国到る処に山を見ざるは無い。この物語の中心となっている町も村も、殆ど三方は剣(つるぎ)の如き山々に囲(かこま)れていた。
 お杉が棲んでいる虎ヶ窟というのは、角川家のある町と吉岡家の居村(きょそん)とを境(さかい)する低い丘から、約一里の山奥にあった。一里といえば人里から左(さ)のみ遠からぬ処であるにも拘(かかわ)らず、ここは殆ど通路の無いほどに岩石嶮(けわ)しく峭(そそ)り立っているのと、昔から此辺(このあたり)は魔所(ましょ)と唱えられているのとで、猟夫(かりゅうど)も樵夫(きこり)も滅多に通わなかった。苔(こけ)蒸(む)す窟は無論天然のものであったが、幾分か人工を加えて其(その)入口を切拓(きりひら)いたらしくも見える。奥は真暗で其(その)深さは判らぬ。背後(うしろ)は屏風のような絶壁で、右の方には大(おおい)なる谷が繞(めぐ)っていた。
 窟の入口には薄黒い獣の生皮(なまかわ)を敷いて、X(エッキス)という字のように組まれた枯木と生木(なまき)とが、紅い炎焔(ほのお)や白い烟(けむり)を噴いていた。其(その)火に対(むか)って孑然(つくねん)と胡坐(あぐら)を掻いているのは、二十歳(はたち)ばかりの極めて小作りの男であった。
 何処(どこ)やらで滝の音が聞えて、石燕(いわつばめ)が窟の前を掠めて飛んだ。男は燃未了(もえさし)の薪(たきぎ)を把(と)って、鳥を目がけて礑(はた)と打つと、実に眼にも止(とま)らぬ早業で、一羽の石燕は打つに随(したが)って其手下(そのてもと)に落ちた。男は拾うより早くも其羽(そのはね)を毟(むし)り取って、燃え※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)(あが)る火に肉を炙(あぶ)った。
 やがて落葉を踏む音して、お杉婆(ばばあ)は諷然(ひょうぜん)と帰って来た。男は黙って鳥を咬(かじ)っていた。二人共に暫時(しばし)は何の詞(ことば)をも交さなかったが、お杉の方から徐(しずか)に口を切った。
「重太郎。何か他に喫(た)べる物は無いか。」
 男は彼女(かれ)の倅(せがれ)の重太郎であった。其風采(そのふうさい)は母と同じく異体(いてい)に見えたが、極めて無邪気らしい、小児(こども)のような可愛い顔であった。髪を蓬(おどろ)に被った頭(かしら)を掉(ふ)って、
「何にも無いよ。」
 一日や二日の断食は此母子(このおやこ)に珍しくもないらしい。お杉は唯(ただ)首肯(うなず)いて其処(そこ)に坐ったが、俄(にわか)に思い出したように少しく詞(ことば)を改めた。
「重太郎。お前に少し話して置きたい事があるのだ。」
「阿母(おっか)さん、何だ。」
「妾(わたし)は既(も)う十日の中(うち)に死ぬかも知れない。死んだら必然(きっと)仇(かたき)を取ってお呉(く)れよ。」
「可(い)いとも……。どんな奴でも、俺(おら)ア必然(きっと)仇を取って与(や)る。唯(ただ)は置くものか。」
 重太郎は腕を叩いて潔よく答えたので、お杉も快(こころよ)げに微笑(ほほえ)んだ。
「そこで、お前に見せて置く物が有る。今まではお前にも秘(かく)して置いたが、此(こ)の窟の奥には大切な宝が蔵(しま)ってある。何か大事が出来(しゅったい)して、お前が何(ど)うしても此処(ここ)に居られない様(よう)な場合になったら、其(そ)れを持出(もちだ)して逃(にげ)るが可(い)い。相当な買人(かいて)を探して売払(うりはら)えば、お前は乞食を為(し)ないでも済むのだ。」
 母は起(た)って奥へ入ると、重太郎も黙って其後(そのあと)につづいた。窟の奥は昼も真暗であったが、お杉の点(とも)す一挺(いっちょう)の蝋燭に因(よ)っておぼろおぼろに明るくなった。
 行くこと七八間(けん)にして、第一の石門(せきもん)が有った。これから先は路(みち)が狭く、岩が低くなって、到底(とても)真直(まっすぐ)に立っては歩けなかった。母子(おやこ)ともに頭(かしら)を屈(かが)めて進むと、更に第二の石門が行手を塞(ふさ)いでいた。蝙蝠(かわほり)のような怪しい鳥が飛んで来て、蝋燭の火を危(あやう)く消そうとしたのを、重太郎は矢庭(やにわ)に引握(ひっつか)んで足下(あしもと)の岩に叩き付けた。
 第三の石門には、扉のような大きな扁平(ひらた)い岩が立て掛けてあって、其下(そのした)の裂目から蝦蟆(ひきがえる)のように身を縮(すく)めて潜(もぐ)り込むのである。二人は兎(と)も角(かく)も此(こ)の石門を這い抜けて、更に暗い冷(つめた)い石室(いしむろ)に入った。
「さあ、覗いて御覧。」と、お杉は蝋燭を高く※(「敬/手」、第3水準1-84-92)(ささ)げた。
 石室の隅には広い深い岩穴があって、穴の遠い底には、風か水か知らず、ごうごうと微(かすか)に鳴っていた。若(も)し一歩を誤れば、この暗い地獄の底に葬られねばならぬ。重太郎も足下(あしもと)を覗いて流石(さすが)に悚然(ぞっと)した。

 お杉は無言で蝋燭を翳(かざ)すと、深い岩穴の中腹かとも思われる所に、さながら大蛇(おろち)の眼の如き金色(こんじき)爛々の光を放つものが見えた。
「判ったか。」と、お杉が蝋燭を退(の)けると、穴は旧(もと)の闇に復(かえ)って、金色(こんじき)の光は夢のように消えた。重太郎は呆れて立っていた。
「阿母(おっか)さん、あれは何だい。」
「何でも可(い)い。いざと云う時に持ち出して他(ひと)に売れば、お前は金持になれるのだ。」
 穴の中では猿のような声で、キキと叫ぶ者があった。
「騒々しい。静(しずか)にお為(し)よ。」と、お杉は鋭い声で叱り付けると、怪しい声は忽(たちま)ち止んだ。お杉は再び無言で歩み出すと、重太郎も黙って続いて出た。
 二人が旧(もと)の入口に出た頃には、山峡(やまあい)の日は早く暮れて、暗い山霧が海のように拡がって来た。重太郎は再び枯木を焚(た)くと、霧は音もせずに手下(てもと)まで襲って来て、燃え※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)(あが)る火の光は宛(さなが)ら紗(しゃ)に包まれたる様(よう)に朧(おぼろ)になった。
 窟の奥から人か猿か判らぬ者が、ちょこちょこと駈け出して来た。四辺(あたり)が薄暗いので正体は知れぬが、人ならば先(ま)ず十五六歳の少年かとも思われる。髪を颯(さっ)と振乱(ふりみだ)して、伸上(のびあが)りつつ長い手をお杉の肩にかけた。小児(こども)が親に甘えるように……。
「どこへ行くんだえ。」と、お杉は顧(みかえ)って、「お前、里へ行くなら頼みたい事が有るんだよ。」と、彼の耳に口を寄せた。
 怪しの者は首肯(うなず)いて、忽(たちま)ちひらりと飛び出したかと見る中(うち)に、樹根(きのね)岩角(いわかど)を飛越(とびこ)え、跳越(はねこ)えて、小さい姿は霧の奥に隠れて了(しま)った。お杉は白い息を吐(は)いて呵々(からから)と笑った。
「阿母(おっか)さん、阿母さん。」と、重太郎は思い出したように声をかけた。
「何だえ。」
「お前は十日の中(うち)に死ぬと云ったね。俺(おら)ア先刻(さっき)も約束した通り、必然(きっと)其(その)仇を取る。其(その)代りお前にも頼んで置くことが有るんだ。お前が居なくっても、俺が困らない様(よう)に……。」
「だから、宝の在所(ありか)を教えて置いたじゃアないか。あれさえ有れば些(ちっ)とも困ることは無いよ。」
「そればかりじゃア無い。」と、重太郎は少しく云い淀んで、「あの、俺に嫁を貰って呉(く)れないか。」
「嫁……。」と、お杉は寂しく笑った。
「むむ。実は俺ア嫁に貰いたい女があるんだ。阿母(おっか)さん、知ってるかい。」
 母は黙っていた。重太郎も流石(さすが)に面目(きまり)が悪いか、燃未了(もえさし)の薪(たきぎ)を撥(ほじ)りながら、
「あの、何を……。柳屋にいるお葉という女……。好(い)い女だね。俺ア大好(だいすき)だよ。」
 人か獣か判らぬような生活をしている此(こ)の青年(わかもの)にも恋は有った。彼は何日(いつ)か柳屋のお葉を見染めたものと思われる。お杉は憫(あわ)れむように我子の顔を見た。
 一口に酌婦(しゃくふ)とは云うものの、お葉は柳屋の一枚看板で、東京生れの気前は好(よ)し、容貌(きりょう)も好し、山の中には珍しい粋な姐(ねえ)さんとして、ここらの相場を狂わしている流行児(はやりっこ)である。恋に間隔(へだて)は無いとは云え、此方(こっち)は宿無(やどなし)の乞食も同様で、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)の兄弟分とも云うべき身の上では、余りに間隔(へだて)が有り過ぎて、到底(とても)お話にも相談にもなる訳のもので無い。
 けれども、それは普通の人の考える単純の理屈である。小児(こども)の時から人も通わぬ此(こ)の窟を天地として、人間らしい(?)のは阿母(おふくろ)一人で、昔物語に聞く山姥(やまうば)と金太郎とを其(そ)のままに、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)や猿や鹿や蝙蝠(かわほり)を友としつつ、此(ここ)に二十余年を送り来(きた)った重太郎自身に取っては、人間の身分や階級などは、何の値(あたい)も無いものであった。彼は唯(ただ)自己(おのれ)の情(じょう)の動くがままに働くのである。彼がお葉を嫁に貰いたいと云い出したのも、決して不思議でも無理でもない。
「お前がそんなに彼(あ)の女が欲(ほし)ければ、妾(わたし)がお嫁に貰って上げるよ。」
 お杉は極めて無雑作(むぞうさ)に受合(うけあ)った。

 角川安行の父子(おやこ)が吉岡家を辞して、帰途に就いたのは午後四時を過(すぐ)る頃であった。ここらの冬の日は驚くばかりに早く暮れて、村境(むらざかい)を出る頃には足下(あしもと)が漸(ようや)く暗くなった。
「吉岡のおばさんは、何だか私が柳屋の女に関係でもあるように思っているらしいので、実に困りましたよ。」と、市郎は歩きながら語り出した。
「それだから気を注(つ)けなければ不可(いけな)い。世間では針ほどの事を棒のように吹聴するのだから……。併(しか)し真実(ほんとう)にお前は彼(あ)のお葉とか云う女に関係はあるまいな。」
「大丈夫です。決して無いです。」
 風は無いが、夜の気は漸々(だんだん)に寒くなって来た。あなたの丘で狐の啼く声が聞えた。
「明後日(あさって)は市の立つ日だな。」と、安行は独語(ひとりごと)のように、「何(ど)うか天気に為(し)たいものだ。」
「そうです。月に一度の市ですから……。」
 この時まで主人の後(あと)に温和(おとなし)く尾(つ)いて来た彼(か)のトムは、猝(にわか)に何を認めたか知らず、一声(いっせい)高く唸って飛鳥(ひちょう)の如くに駈け出した。
「トム、トム……。」と、市郎は呼び返したが聞えぬらしい、犬は直驀地(まっしぐら)にあなたの森へ向った。市郎も心許なさに其後(そのあと)を追って行くと、唯(と)ある樅(もみ)の大樹の蔭でトムが凄じく吠えていた。加之(しか)も堆(うずた)かき枯葉を蹴って、何者かと挑み闘うように聞えた。
 何か知らぬが、猶予はならぬ。市郎は洋杖(すてっき)を把直(とりなお)して、物音のする方(かた)へ飛び込んで見ると、もう遅かった。僅(わずか)に一足(ひとあし)違いで、トムは既に樹根(きのね)に倒れていた。敵は髪を長く垂れた十五六の少年で、手には晃(きら)めく洋刃(ないふ)のようなものを振翳(ふりかざ)していた。薄闇で其形(そのかたち)は能(よ)くも見えぬが、人に似て人らしく無い。
「若(もし)や山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)か。」と、市郎は咄嗟(とっさ)に思い付いた。で、先(ま)ず其(その)正体を見定める為に、袂(たもと)から燐寸(まっち)を把出(とりだ)して、慌てて二三本擦(す)った。この時、敵は血に染(そ)みたる洋刃を揮(ふる)って、更に市郎を目がけて飛び蒐(かか)って来たが、其(そ)の眼前(めさき)に恰(あだか)も燐寸の火が溌(ぱっ)と燃ゆるや、彼は電気に打たれたように、猝(にわか)に刃物をからりと落して、両手で顔を掩(おお)ったまま、霎時(しばらく)そこに立縮(たちすく)んで了(しま)った。
 この刹那に、市郎の眼に映った敵の姿は、頗(すこぶ)る異形(いぎょう)のものであった。勿論(もちろん)、顔は判らぬが、膚(はだ)は赭土色(あかつちいろ)で手足は稍(やや)長く、爪も長く尖(とが)っていた。身丈(みのたけ)は低いが、小児(こども)かと見れば大人のようでもあり、猿かと思えば人のようでもある。この寒空に全身殆ど裸で、僅(わずか)に腰の辺(あたり)に獣の皮を纏(まと)うているのみであった。
 が、斯(こ)う見えたのも一瞬時で、燐寸(まっち)の火は忽(たちま)ち消えた。火が消えると同時に、彼は再び強くなった。地に落ちたる洋刃(ないふ)を手早く拾い取って、更に市郎に対(むか)って突いて来た。彼は闇中(くらがり)でも多少は物が見えるらしい。
 市郎は透(すか)さず第二の燐寸を擦(す)ると、彼は再び眼を掩(おお)った。彼は野獣に均(ひと)しく、非常に火を恐るるらしい。市郎は勝つに乗って、続けさまに燐寸を擦ると、敵は既(も)う此方(こっち)を向く勇気が失(う)せたらしく、頭(かしら)を回(めぐ)らして一散に逃げ出した。市郎は何処(いずこ)までもと其後(そのあと)を追ったが、敵は非常に逃足が疾(はや)い。森を出抜ける頃には、既に十五六間(けん)も懸隔(かけへだ)たって了(しま)った。
「畜生……到底(とても)駄目だ。」と、市郎は呟きながら引返(ひっかえ)して来ると、安行も丁度(ちょうど)駈付(かけつ)けた。トムは咽喉(のど)を深く抉られて、既に息が絶えていた。
「可哀想な事を為(し)ましたな。今の奴は何(ど)うも山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)らしかったですよ。」
「そうか。」と、安行は低声(こごえ)で云った。
 兎(と)に角(かく)、愛犬を路傍(みちばた)に捨てては置かれぬので、市郎は血に染(そ)みたるトムの死骸を抱えて起(た)った。
「市郎、衣類(きもの)が汚れるぞ。」
「けれども、ここへ残して置くのは何だか不安心ですから……。」
 自分達が去った後へ、再び山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が現われて、トムの屍骸を盗み去らぬとも限らぬ。愛犬の骨を敵に渡すのは、何だか口惜(くやし)い様(よう)にも思われるので、市郎は到頭(とうとう)トムを抱えて帰った。

 其(その)翌(あく)る日も申分のない天気であった。霜は日増(ひまし)に深くなって来るが、朝の日影は麗(うらら)かであった。
 鉱山のお客だとか云う三人連(づれ)が、昨夜(ゆうべ)から柳屋の奥に飲み明(あか)していて、今朝(けさ)も早天(そうてん)から近所構わずに騒いでいたが、もう大抵騒ぎ草臥(くたび)れたと見えて、午頃(ひるごろ)には生酔(なまよい)も漸々(だんだん)に倒れて了(しま)った。酌婦の笑い声も聞えなくなった。内も外も蕭寂(ひっそり)となった。

心さびしや飛騨行(ゆ)く路(みち)は
     川の鳴瀬(なるせ)と鹿の声

 低声(こごえ)でこんな唄を謳(うた)いながら、お葉は微酔(ほろよい)機嫌で門(かど)に出た。お葉は東京深川生れの、色の稍(やや)蒼白い、細面(ほそおもて)の、眉の長い女であった。彼女(かれ)は自ら謳うが如く「心さびしい」のであろう、少しく眉を顰(ひそ)めつつ晴れたる空を仰いでいた。
「お葉さん、お葉さん。」
 奥から続いて出て来たのは、お清(せい)という酌婦、色白の丸顔で、お葉よりも二三歳(ふたつみつ)若く見えた。これも幾らか酔っているらしい、苦しそうに顔を皺(しか)めて、
「お前さん、何を見ているの。」
「何、昨夜(ゆうべ)から飲み続けて、余(あんま)り頭が重いから、表へ些(ちっ)と出て見たのさ。」と、お葉は懶(ものう)げに答えた。
「ほんとうに鉱山の人は忌(いや)ね。お酒を飲むと、無闇に悪巫山戯(わるふざけ)をして……。それでも鉱山が出来たお庇(かげ)で、ここらも漸々(だんだん)に賑(にぎや)かになったんだと云うから、仕方がないけれど……。」
「芋掘(いもほり)も忌(いや)だが、鉱掘(かねほり)も忌だねえ。どうせ楽は能(で)きないのさ。こんな商売になっちゃア仕様がないよ。好(すき)なお酒でも飲んで紛(まぎ)らしているのさ。」
「お前さん此頃(このごろ)は何だか欝(ふさ)いでばかり居るね。平生(ふだん)から陽気な人でも、矢張(やっぱ)り苦労があると見えるんだね。」
「呼んでお呉(く)れよ。」と、お葉は突然(いきなり)にお清の腕を掴んだ。
「誰を……。」と、対手(あいて)は笑った。
「察してお呉(く)れな。角川の若旦那を……。お前も知ってるじゃアないか。」
「何故、あれ限(ぎ)り来ないんだろう。」
「究竟(つまり)妾達(あたしたち)が意(き)に適(い)らないからさ。けれども、妾(あたし)ア必然(きっと)呼んで見せる。昨日も丁度(ちょうど)ここで逢ったから、腕を掴んで引摺(ひきずり)上げて与(や)ろうと思ったんだけれど、生憎(あいにく)阿父(おとっ)さんが一所(いっしょ)だったから、まあ堪忍して置いて与(や)ったのさ。嫌うなら嫌うが可(い)い、妾ア必然(きっと)祟って与(や)るから……。」
「だッて、そりゃア無理だ。」と、お清は益々笑い出した。
「無理なもんかね。昔から云う安珍(あんちん)清姫(きよひめ)さ。嫌えば嫌うほど執念深く祟って与(や)るのが当然(あたりまえ)だアね。先方(むこう)が何とも思わなくっても、此方(こっち)が惚れていりゃア仕方がないじゃアないか。お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」
 お清は対手(あいて)にならずに、相変らず笑っていた。お葉は口惜(くやし)そうに、
「今に見ておいて。必然(きっと)あの人を呼んで、お前さん達に見せ付けて与(や)るから……。嫌われたからと云って、すごすご指を啣(くわ)えて引込(ひっこ)むようなお葉さんじゃアないんだから……。確乎(しっかり)頼むよ。」
 お清の腕を掴んで又小突(こづ)いた。
「痛いよ。だッて、お前さん。角川の若旦那には判然(ちゃん)とお嫁さんが決(きま)ってると云うじゃアないか。」
「決っていても可(い)いよ。そんな悪魔は妾(あたし)が追ッ攘(ぱら)って了(しま)うから……。」
「お前さんの方が余(よ)ッ程(ぽど)悪魔だ。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の御親類かも知れないよ。」と、お清は笑いながら不図(ふと)思い出したように、「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と云えば、角川の若旦那は昨夜(ゆうべ)※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に逢ったってね。」
「若旦那が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に……。まあ、而(そう)して何(ど)うしたの。」と、お葉は俄(にわか)に真面目になった。
「でも、若旦那の方が強かったので、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は逃げて了(しま)ったとさ。」
「ほんとうかい。担ぐと肯(き)かないよ。」
「何でも犬は殺されたとさ。」
「あ、あの犬が……。可哀想にねえ。お前、ほんとうかい。」
「この人は疑り深いね。ここらじゃア今朝から大(おお)評判だわ。それを知らない様(よう)じゃア、お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」
「他真似(ひとまね)をお為(し)でないよ。馬鹿……。」
「馬鹿……。」
 お清は笑いながら奥へ入って了(しま)った。人通りの尠(すくな)い往来には、小禽(ことり)が餌(え)を猟(あさ)っていた。

 お葉は其(そ)のままふらふらと歩き出した。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の噂が何となく意(き)に関(かか)ったのであろう、彼女(かれ)は他(よそ)ながら恋人の様子を探ろうとして、行くとも無しに角川家の門前まで来て了(しま)った。門(もん)の前には彼(か)の七兵衛老爺(じじい)が、銀杏(いちょう)の黄なる落葉を掃(は)いていた。横手の材木置場には、焚火の煙が白く渦巻いて、鋸(のこぎり)の音に雑(まじ)る職人の笑い声も聞えた。
 お葉は酔っていた。七兵衛の傍(そば)へ進み寄って、馴々(なれなれ)しく声をかけた。
「あの、若旦那は昨夜(ゆうべ)※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)にお逢いなすったッて、真実(ほんとう)ですか。」
「はあ、酷(ひど)い目に逢いましたよ。」
「怪我(けが)でも為(な)すって……。」
「何、若旦那は何(ど)うも為(し)ねえが、大事の洋犬(かめ)を殺(や)られたので、力を落していなさる様(よう)だよ。」
 お葉は首肯(うなず)いて奥を覗いた。七兵衛は無頓着に落葉を掃いていた。
 この時恰(あたか)も市郎の姿が見えた。市郎は庭の空地にトムの亡骸(なきがら)を葬り了(おわ)って、鍬(くわ)を片手に奥の方へ行くらしい。お葉は其(その)姿を見ると共に、有合(ありあ)う小石を拾って投げ付けると、礫(つぶて)は飛んで市郎の袂(たもと)に触れた。振返(ふりかえ)ると門前にはお葉が立っている、加之(しか)も笑(えみ)を含んで小手招(こてまね)ぎをしている。市郎も其(そ)の図迂図迂(ずうずう)しいのに少しく惘(あき)れた。
 前にも云う如く、市郎が冬子の兄忠一と連立(つれだ)って、彼(か)の柳屋に遊んだのは、今から三四ヶ月前のことで、それも唯(ただ)一度、別に深い馴染(なじみ)というでもないのに、其後(そのご)はお葉が兎(と)かく附纏(つきまと)って、往来で逢えば馴々(なれなれ)しく詞(ことば)をかける。あわ好(よ)くば自分の家(うち)へ誘い込もうとする。随(したが)って根も葉もない噂も立ち、吉岡の母にも有らぬ疑惑(うたがい)を受ける様(よう)になった。実に馬鹿馬鹿しい。身の潔白を立てる為には、今後何処(どこ)で行逢(ゆきあ)おうとも決して彼女(かれ)とは口を利くまいと、窃(ひそか)に決心している矢先へ、恰(あたか)も彼(か)のお葉が現われた。加之(しか)も先方(むこう)から真白昼(まっぴるま)押掛(おしか)けて来て、平気でお出(い)でお出(い)でを極(き)めるとは、図迂図迂(ずうずう)しい奴、忌々(いまいま)しい奴と、市郎は惘(あき)れを通り越して、稍(やや)勃然(むっ)とした。
 見ればお葉は嫣然(にこにこ)して、相変らず小手招ぎをしている。市郎は黙って霎時(しばらく)睨んでいた。
「何故そんな怖い顔をして被在(いらっしゃ)るの。妾(あたし)、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)じゃなくってよ。妾の罰(ばち)で、貴下(あなた)は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に酷い目に逢ったと云うじゃアありませんか。」
 お葉は首を掉(ふ)るようにして、はははははと高く笑った。彼女(かれ)は酒の強い方であったが、昨夜以来飲み明かした地酒の酔(よい)は漸次(しだい)に発したと見えて、今は微酔(ほろよい)どころでない。
「老爺(じい)や。其(その)女を追っ攘(ぱら)って了(しま)え。」と、市郎は声を暴(あら)くして云った。
「お前(めえ)は酔っている様(よう)だ。早く帰らッせえよ。」と、七兵衛は箒(ほうき)を輟(や)めて顧(みかえ)った。
「大きにお世話よ。後生だから若旦那をここまで呼んで来て頂戴。」
「そんなこと云わねえで、帰らッせえと云うのに……。」
「どうしても呼んで呉(く)れないの。」
「不可(いけ)ねえと云ったら……。」
 この押問答の中(うち)に、市郎は奥へつかつかと入って了(しま)った。
「若旦那……市郎さん……。」
 お葉も続いて内へ入ろうとするので、七兵衛は驚いた。
「どこへ行くのだ。」
「若旦那に逢わして下さいよ。」
「馬鹿云うものでねえ。」
 一酷老爺(いっこくおやじ)の七兵衛は、箒で手暴(てあら)く突き退(の)けると、酔っているお葉は一堪(ひとたま)りもなく転んだ。だらしなく結んだ帯は解(と)けかかって、掃き寄せた落葉の上に黒く長く引いた。
「随分酷いのね。」と、お葉は落葉を掴んで起上(おきあが)ったが、やがて畜生(ちきしょう)と叫んで、其(その)葉を七兵衛の横面(よこつら)に叩き付けた。眼潰(めつぶ)しを食って老爺(じじい)も慌てた。
「阿魔(あま)、何をするだ。」
 腹立紛(はらたちまぎ)れに箒を取直(とりなお)して、お葉の弱腰を礑(はた)と薙(な)ぐと、女は堪らず又倒れた。
「あら、老爺(じいや)さん。どうしたの。」
 優しい声に驚いて顧(みかえ)った七兵衛、俄(にわか)に色を和(やわら)げて、
「や、吉岡の嬢様……。被入(いらっ)せえまし。」

 市郎が途中で※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)に襲(おそわ)れたという噂は、早くも隣村まで伝えられたので、吉岡の家でも甚だ心配して、冬子が取敢(とりあえ)ず見舞に来たのであった。来て見ると此(こ)の始末で、仔細(わけ)は知らぬが七兵衛老爺(じじい)の箒の下(もと)に、一人の女が殴り倒されているので、制(と)めずには居(い)られぬ。
「老爺(じいや)さん、まあ其(そ)んな乱暴なことを為(し)ないで……。一体、どうしたの。」
「何、この淫売婦(じごくおんな)が家(うち)の若旦那を呼び出しに来たから、追っ攘(ぱら)って了(しま)う所で……。」
「若旦那を呼び出しに……。若(もし)や柳屋の……。」と、冬子は眼を輝かしてお葉を凝(じっ)と視(み)た。お葉は落葉の上に倒れていた。
「そうでがすよ。」と、七兵衛は首肯(うなず)いて、「お前様(めえさま)よく知っていなさるね。這奴(こいつ)、若旦那を釣出(つりだ)そうと思ったって、然(そ)うは行かねえ。」
 七兵衛は憎さげに顧(みかえ)った。冬子も嫉(ねた)げに顧った。この四つの眼に睨まれたお葉は、相変らず落葉を枕にして、死んだ者のように横(よこた)わっていた。
「酔っている様(よう)ね。」と、冬子は少しく眉を顰(ひそ)めた。
「這奴等(こいつら)ア毎日毎晩、酒ばかり食(くら)っているのが商売(しょうべえ)だからね。お前様(めえさま)も用心しなせえ。こんな阿魔(あま)が蛇のように若旦那を狙っているんだから……。」
「何しろ、何(ど)うか為(し)なくっちゃア不可(いけ)まい。兎(と)も角(かく)も起(おこ)して与(や)って……。」
「さあ、さあ、寝た振(ふり)なんぞ為(し)ねえで、起きろ、起きろ、横着な阿魔(あま)だ。」
 口小言(くちこごと)を云いながら、七兵衛は進んでお葉を抱え起(おこ)そうとすると、彼女(かれ)は其(その)手を跳ね退(の)けて衝(つ)と起(た)った。例えば疾風(しっぷう)落葉(らくよう)を巻くが如き勢いで、さッと飛んで来て冬子に獅噛付(しがみつ)いた。あれと云う間に、孱弱(かよわ)い冬子は落葉の上に捻倒(ねじたお)されると、お葉は乗(の)し掛(かか)って其(そ)の庇髪(ひさしがみ)を掴んだ。七兵衛は胆(きも)を潰して、直(すぐ)に背後(うしろ)から抱き縮(すく)めたが、お葉は一旦掴んだ髪を放さなかった。
「阿魔(あま)、放せ。嬢様を何(ど)うするだよ。」
 七兵衛は息を切って制したが、お葉は唯(ただ)冷笑(あざわら)うのみで何とも答えなかった。余りの意外に驚いたのであろう、冬子は声をも立てなかった。
「これ、馬鹿為(す)るでねえ。放さねえか。」と、七兵衛は無理に其(その)手を引放(ひきはな)そうとしたが、お葉の握った拳は些(ちっ)とも弛(ゆる)まなかった。彼女(かれ)は冬子の前髪を掴んだままで、凝(じっ)と対手(あいて)の顔を睨んでいた。
 寂しいと云っても往来である。この騒ぎを見て忽(たちま)ち五六人駈け付けた。材木置場からも職人が駈出(かけだ)して来た。大勢寄って兎(と)も角(かく)も二人を引き起(おこ)したが、何(ど)うもならぬのはお葉の手であった。彼女(かれ)の石の如き拳は、如何(いつ)までも冬子の黒髪を握り詰めて放さなかった。
 大勢は声を揃えて「放せ」と叫んだが、お葉の口は決して答えなかった。大勢が力を協(あわ)せて、無理に引放(ひきはな)そうとしたが、お葉の拳は決して開かなかった。彼女(かれ)は黙って冬子の髪を掴んでいるのである。
 打(ぶ)っても叩いても仕方がない。此上(このうえ)は、お葉の白い手を切るか、冬子の黒い髪を切るか、二つに一つを択(えら)ぶの他(ほか)は無かった。
「強情な阿魔だなあ。」
 何(いず)れも惘(あき)れて顔を見合せている処へ、この騒ぎを聞いて市郎も奥から出て来た。人々から委細の話を聴いて、彼も驚かずには居られなかった。お葉の傍(そば)へ進み寄って、
「お前、何故そんなことをするんだ。」
 お葉は初めて口を開いた。
「此女(これ)はあなたのお嫁さんでしょう。」
 市郎は返事に困った。
「妾(あたし)、死んでも放しませんよ。」
 実際、死んでも放すまいと思われた。掴まれた冬子はと見れば、不意の驚愕(おどろき)と恐怖(おそれ)とに失神したのであろう、真蒼(まっさお)な顔に眼を瞑(と)じて、殆ど息も為(し)ない。酔(よい)も漸次(しだい)に醒めたと見えて、お葉の顔も蒼くなって来た。
 見物人は追々に殖(ふ)えて来た。柳屋のお清も駈けて来たが、唯(ただ)わやわや云うばかりで手の着様(つけよう)がない。其雑踏(そのひとごみ)を掻き分けて、ぬっと顔を出したのは彼(か)のお杉婆(ばばあ)であった。彼女(かれ)は例の如く黄(きいろ)い歯を露出(むきだ)して笑っていた。

 前にも云う如く、お葉が角川家の前に来たのは、別に深い意味があるのでは無かった。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の一件が意(き)にかかるのと、二つには何と無しに此地(こっち)の方へ足が向いたと云うに過ぎないのである。けれども、彼女(かれ)は酔っていた。酔(よい)に乗じて種々(いろいろ)の捫着(もんちゃく)を惹起(ひきおこ)している中(うち)に、折悪(おりあし)くも其処(そこ)へ冬子が来合わせたので、更にこんな面倒な事件を演出(しいだ)す事となって了(しま)った。
 恋の仇(かたき)と睨まれた冬子の災難は云うまでもないが、市郎もこれには頗(すこぶ)る弱った。この場合に理屈を云っても仕方がない、嚇(おど)しても仕方がない、こんな狂気染(きちがいじ)みた女は宥(なだ)めて還すより他はあるまいと思った。
「お葉さん。何しろ、この通り人立(ひとだち)がしては、お前も外聞が悪かろうし、私の家(うち)でも迷惑するから、まあ堪忍して呉(く)れ。此方(こっち)に不都合があるなら、何(ど)んなにも謝るから……。」
 お葉は冷笑(あざわら)って答えなかった。
「ね、後生だから堪忍して与(や)って呉(く)れ。必然(きっと)お前の意(き)の済むようにするから……。」
 迂濶(うっかり)口を滑らせると、黙っていたお葉は屹(きっ)と顧(みかえ)った。
「妾(あたし)の意(き)の済むようにするんですね。」
 否(いや)とも云われぬ、市郎は首肯(うなず)いた。
「じゃア、二度と此(こ)の女をここの家(うち)へ入(い)れないようにして下さい。若(も)し此(こ)の女がここの門(かど)を潜(くぐ)った所を見ると、妾は何日(いつ)でも押掛(おしか)けて来て、頭の毛を一本一本引ッこ抜いて与(や)るから、然(そ)う思ってお在(いで)なさい。」
 無理は最初(はじめ)から知れているが、一時(いっとき)逃れに市郎は承知した。
「可(よし)、可(よし)。それだから最(も)う堪忍して与(や)って呉(く)れ。頼むから……。」
「必然(きっと)ですね。」
「むむ、必然(きっと)だ。間違(まちがい)はない。」
 市郎は心にもない誓(ちかい)を立てた。これで漸(ようや)く意(き)が済んだのであろう、お葉は勝利の笑(えみ)を洩(もら)して、掴んだ手を初めて弛(ゆる)めようとする時、お杉婆(ばばあ)が衝(つ)と寄って来て、例の凄愴(ものすご)い顔をぬッと突き出した。
「いや、不可(いけな)い、不可(いけな)い。それは嘘だ。」
「え。嘘だ……。」
 市郎も驚いて顧(みかえ)ると、怪しの婆(ばばあ)は傍若無人に呵々(からから)と笑った。
「此(この)娘を二度とここの家(うち)へ入れないと云うのは嘘だ。お前の顔に判然(ちゃん)と書いてある。ははははは。」
「喧(やかま)しい、引込(ひっこ)んでいろ。」と、市郎は疳癪(かんしゃく)を起(おこ)して呶鳴(どなり)付けた。
「ははははは。怒っても駄目だ。お前の嘘は妾(わたし)が知っている。お前も此(こ)の娘も相互(おたがい)に惚れ合っている。どうして二度と逢わずに居られるものか。ははははは。」
 忌々(いまいま)しいとは思うけれど、婆(ばばあ)の云うことは確(たしか)に真実(ほんとう)である。市郎も少しく怯(ひる)んだが、ここで弱味を見せては落着(おさまり)が付かない。
「ええ、貴様の知ったことじゃアない。余計な口を出すな。彼方(あっち)へ行け。」
「はは、妾はお前に云っているのじゃアない。このお葉さんに教えて与(や)っているのだ。お前さん、意(き)をお注(つ)けよ。幾ら何(ど)うしたって、この男と娘とは離れるんじゃアないからね。」
 お葉の火の手が折角鎮(しず)まりかかった処へ、又もや斯(こ)んな狂気婆(きちがいばばあ)が飛込(とびこ)んで来て、横合(よこあい)から余計な藁(わら)を炙(く)べる。重ね重ねの面倒に小悶(こじれ)の来た市郎は、再び大きい声で呶鳴(どなり)付けた。
「喧(やかま)しい、煩(うる)さい。もう彼方(あっち)へ行け。」
「ははははは。」
 お杉は嘲(あざけ)るように高く笑った。如何(いか)にも他(ひと)を馬鹿にした態度である。もう斯(こ)うなっては我慢も堪忍も能(でき)ぬ。市郎の疳癪(かんしゃく)は一時に爆発した。
「彼方(あっち)へ行けと云うのに……判らないか。おい、這奴(こいつ)を彼方(あっち)へ引摺(ひきず)って行け。」
 左右を顧(みかえ)って又呶鳴(どな)ったが、直(すぐ)には声に応ずる者もなかった。これが余人ならば知らず、一種の魔力を有(も)っているかの様(よう)に思われているお杉婆(ばばあ)に対(むか)って、迂濶(うかつ)に手を下(くだ)すのは何だか不気味(ぶきび)でもあるので、何(いず)れも眼と眼を見合わして、真先に進んで出る勇者を待っていた。
 この臆病者等が怯(ひる)んで動揺(どよ)めく醜態(ざま)をじろじろ見廻して、
「ははははは。」
 お杉は又もや凱歌(かちどき)の笑声(わらいごえ)を揚げた。

 この時、群集(ぐんじゅ)を押分(おしわ)けて、捫着(もんちゃく)の中へ割って入ったのは、駐在所の塚田(つかだ)巡査。年の壮(わか)い、色の黒い、口鬚(くちひげ)の薄い、小作りの男であった。
 彼は職掌柄、平生(へいぜい)からお杉婆(ばばあ)に就(つい)ては注意の眼(まなこ)を配っている処へ、恰(あたか)もこの騒動(さわぎ)を見付けたのであるから、容赦は無い。
「こら、お前はここへ来て何をして居(お)る。ここの家(うち)の迷惑になるから、早く立去(たちさ)れ。」
 お杉は依然(やはり)笑って答えず、腰にぶら下げた皮袋から山毛欅(ぶな)の実を把出(とりだ)して、生のままで悠々と咬(かじ)り初めた。
「実に困るんです。どうか追攘(おいはら)って頂きたいもので……。」と、市郎も口を出した。
「よろしい。」と、巡査は首肯(うなず)いて、「さあ、早く行け。他(ひと)の迷惑になるのが判らんか。斯(こ)ういう所に何時(いつ)までもぐずぐずしていると、道路妨害で引致(いんち)するぞ。」
 対手(あいて)は相変らず平気で笑っているので、巡査も少し悶(じ)れ出した。
「こら、行けと云うのに……。何故ぐずぐずして居(お)るのか。判らん奴だ。」
 お杉の痩腕(やせうで)を掴んで一つ小突いたが、彼女(かれ)は些(ちっ)とも動かなかった。見掛(みかけ)は枯木のようでも容易に倒れない、さながら大地に根が生えたように突ッ立っていた。巡査はいよいよ悶(じ)れて、力一ぱいに強く曳(ひ)くと、彼女(かれ)も流石(さすが)に二足(ふたあし)ばかり踉蹌(よろめ)いた。
「さあ、行け、行け。」
 突遣(つきや)っても又ふらふらと戻って来る。市郎も見兼ねて突き戻した。巡査も亦(また)突き戻した。血気の男二人に、突き戻され、押遣(おしや)られて、強情なお杉も漸次(しだい)に後(あと)へ退(すさ)ったが、やがて口一杯に啣(ふく)んだ山毛欅(ぶな)の実を咬みながら、市郎の顔に向ってふッと噴き付けた。
 市郎はあッと顔を押えながら、腹立紛(はらたちまぎ)れの殆ど無意識に、お杉の胸の辺(あたり)を強く突くと、彼女(かれ)は屏風倒しに撲地(はた)と倒れた。袋の山毛欅は四方に散乱した。
 この騒ぎを聞き付けて、安行も奥から出て来た。
「こりゃア一体どうしたのだ。」
 人々はわやわや云いながらお杉の周囲(まわり)に群れ集(あつま)ると、婆(ばばあ)は歯を食縛(くいしば)って正体もない。巡査は小膝を突いて抱え上げた。
「偽死(そらじに)でもないらしい。急所でも打ったかな。」
 市郎も立寄(たちよ)って検(あらた)めた。彼は医師である。左右の人々に吩附(いいつ)けて、兎(と)も角(かく)もお杉を我家へ舁(か)き入れさせた。
 けれども、お葉の方はまだ埓(らち)が明かぬ。彼女(かれ)は依然として生贄(いけにえ)の冬子を掴んでいるのであった。市郎は気が気でない。忙しい中にも駈け寄って、
「この通りの始末だから、委(くわ)しいことは後で話す。兎(と)も角(かく)も今日の処は何(ど)うか堪忍して呉(く)れ。」
 拝むようにして只管(ひたすら)頼むと、お葉は誇りがに首肯(うなず)いた。
「可(よ)ござんす。じゃア、先刻(さっき)の約束は忘れませんね。」
「忘れない、必然(きっと)忘れない。」
 お葉は初めて手を弛(ゆる)めた。荒鷲の爪から逃れ出た温(ぬく)め鳥(どり)のように、冬子は初めてほッと息を吐(つ)いたが、髪を振乱(ふりみだ)した彼女(かれ)の顔には殆ど血色(ちのいろ)を見なかった。
 それも関心(きがかり)ではあるが、猶(なお)一方には気を失っているお杉が有る。市郎は倉皇(あたふた)として内へ駈込(かけこ)んだ。塚田巡査も続いて入った。
 お杉は南向(みなみむき)の縁側に横(よこた)えられた。市郎の人工呼吸其他(そのた)の応急手当が効を奏して、彼女(かれ)は間もなく息を吹き返した。
「どうだ、既(も)う気が注(つ)いたか。」と、巡査が問うた。
「何、死ぬものか。」
 独語(ひとりごと)のように云って、お杉は矗然(すっく)と起(た)ち上(あが)ったかと見る中(うち)に、左右の人々を一々睨(ね)め廻しながら、彼女(かれ)はふらふらと歩き出した。加之(しか)も今の騒動(さわぎ)は忘れたように、諷然(ひょうぜん)と表へ出て行った。居合わす四五人は其後(そのあと)を尾(つ)けて行くと、お杉は顧(みかえ)りもせずに、町の真中を悠々と歩いていた。
 町の尽頭(はずれ)まで来た時に、お杉は初めて立止(たちどま)った。尾行して来た人々も既(も)う散って了(しま)った。お杉は柳屋の門(かど)に寄って、皴枯(しわが)れた声で、
「お葉さん、居(い)るかい。」

 思うがままに恋の仇(かたき)の冬子を呵責(さいな)んだお葉は、お清に扶(たす)けられて柳屋へ帰った。
「お前さん、随分酷いことを為(し)たねえ。」
「ああ、これて清々(せいせい)した。」と、お葉は酔醒(よいざめ)の水を飲んだ。お清は惘(あき)れて其(その)顔を眺めている処へ、彼(か)のお杉婆(ばばあ)の声が聞えたのである。
「お葉さん……お葉さん。」
 わが名を呼ばれて、お葉はふらふらと起(た)った。お清は慌てて其袂(そのたもと)を曳(ひ)いた。
「お止(よ)しよ、お前さん、もう外へ出るのは……。あんな奴にお構いでないよ。」
「お葉さん。」と、外では又呼んだ。
「あいよ。」
 お葉はお清を突き退(の)けて、門(かど)へ出た。門にはお杉が笑いながら立っていた。
「お前さん、少し話があるから一所(いっしょ)に来てお呉(く)れでないか。」
「あい、行きますよ。」
 お葉は弛(ゆる)んだ帯を結び直して、店口(みせぐち)に有合(ありあ)う下駄を突ッ掛けると、お清はいよいよ危(あやぶ)んで又抑留(ひきと)めた。
「お前さん、どこへ行くんだよ。」
「可(い)いよ、うるさい人だねえ。」
「早くお出(い)でよ。」と、外では又呼んだ。
「あい、あい。」
 お杉は痩せた手をあげて差招(さしまね)くと、お葉は宛(さなが)ら死神の迎(むかい)を受けた人のように、唯(ただ)ふらふらと門口(かどぐち)へ迷い出た。お清もつづいて追って出ると、婆(ばばあ)は徐(しずか)に顧(みかえ)って、
「お前に用は無いよ。」
 鋭い眼でじろりと睨まれて、気の弱いお清は思わず立縮(たちすく)んだ。其間(そのま)にお杉は出て行く。お葉も後から躡(つ)いて行った。正午に近い冬の日は明るく晴れて、蒼い空には黒い鳥の一群(ひとむれ)が飛んで渡った。
 お葉は酒の酔(よい)が未(ま)だ醒めぬのかも知れぬ、或(あるい)は何かの夢か幻を視(み)ているのかも知れぬ。兎(と)にかくお杉婆(ばばあ)の魔力に引かれたように、殆ど無意識でふらふらと歩いていた。彼女(かれ)は一種の催眠術に罹(かか)った人の様(よう)であった。
 町を行き尽(つく)して村境(むらざかい)に出た。昨夜トムと※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)とが闘った樅(もみ)の林を過ぎると、路(みち)は爪先上りに嶮(けわ)しくなって来た。落葉松(からまつ)や山毛欅(ぶな)や扁柏(ひのき)の大樹が日を遮(さえぎ)って、山路(やまみち)は漸次(しだい)に薄暗くなって来た。何処(どこ)やらで猿の声が聞えた。
 天正十三年、所謂(いわゆる)「飛騨の三方崩(さんぽうくず)れ」という怖るべき大地震が、ここら一帯の地形を一変して、麓(ふもと)近い路(みち)にまで剣(つるぎ)なす岩石が突出(とっしゅつ)した。其中(そのなか)には怒れる人の顔のような真蒼な岩もあった。百千人の生血を灑(そそ)ぎ掛けたような真赤な岩もあった。岩と岩との間は飛んで渡るより他はない、二人は蛇のような山蔦(やまづた)の太い蔓(つる)に縋(すが)って、宛(さなが)ら架空線を修繕(しゅぜん)する工夫(こうふ)のように、宙にぶら下(さが)りながら通り越した。
 お杉は通い馴れた路(みち)であるから不思議はないが、お葉が何(ど)うして此(こ)の難所(なんじょ)を跳越(はねこ)え、渡り越えたかは疑問である。恐(おそら)く夢のようで自分にも判るまい。
 虎ヶ窟の入口には彼(か)の重太郎が佇立(たたず)んでいた。其(そ)の傍(かたえ)には猿のような、小児(こども)のような、一種の怪しい者が蹲踞(しゃが)んでいた。
「帰って来たよ。」
 お杉が声をかけると、重太郎は無言で顧(みかえ)った。母の後(うしろ)には、帯も裳(すそ)もしどけなく、脛(はぎ)も露出(あらわ)に立ったるお葉の艶(えん)なる姿が見えたので、重太郎は山猿のような笑い声を出して、猶予なく其(その)前にひらりと飛んで行った。怪しい者も同じく叫んで、後から続いて行こうとすると、忽(たちま)ちお杉に叱られた。
「お前は彼方(あっち)へ行ってお出(いで)よ。」
 怪しい者は小さくなって、窟(いわや)の奥へ逃げ込んで了(しま)った。お葉は茫然(ぼんやり)と立っていた。重太郎も黙って其(その)顔や容(かたち)に見惚(みと)れていた。
 山風がどっと吹き下(おろ)して、岩と岩との間を掻き廻すと、そこらに積(つも)っていた真赤な落葉は、さながら火粉(ひのこ)を散らすが如くに、はらはらと乱れて飛んだ。

 お杉が去り、お葉が去った後(のち)の角川家は、所謂(いわゆる)大風(おおかぜ)の吹いた後(あと)であった。塚田巡査も近所の人々も漸次(しだい)に帰って了(しま)った。
 冬子も一時は失神の態(さま)であったが、これも市郎の手当に因(よっ)て回復して、南向(みなみむき)の座敷に俯向(うつむ)いて坐っていた。傍(そば)には安行と市郎の二人が同(おなじ)く黙って坐っていた。
「冬子さん、何(ど)うだね。気分は既(も)う悉皆(すっかり)快(い)いのかね。」と、安行は霎時(しばらく)して口を切った。
「はあ、有難うございます。お庇(かげ)さまで、もう悉皆(すっかり)快(よ)くなりました。」
 とは云ったが、冬子の顔は未(ま)だ蒼ざめていた。市郎は心許(こころもと)なげに、
「ほんとうに既(も)う快(い)いんですか。まだ血色が不良(よくな)いようだが……。何しろ、飛んだ災難でお気の毒でしたねえ。」
 冬子は黙って俯向(うつむ)いていた。
「災難……実に飛んだ災難だったよ。」と、安行も首肯(うなず)いて、「あんな狂気染(きちがいじ)みた奴が飛び込んで来るというのは、何(ど)う云う訳だろう。私が早く知ったら、何とか無事に納めたのだが、あの七兵衛めが一酷(いっこく)なことを云うもんだから、到頭(とうとう)あんな騒ぎを演出来(しでか)して了(しま)って……。そこへ出ッ食(くわ)した冬子さんは、実に運が悪かったのだ。それでも怪我(けが)を為(し)ないのが勿怪(もっけ)の幸(さいわい)で、大事の顔へ疵(きず)でも付けられようものなら、取返(とりかえ)しが付きゃアしない。何しろ、お葉とか云う奴は呆れた女だ。」
「実際、呆れた奴ですなあ。あれも少し気が触(ふ)れているんじゃアありませんか知ら。尠(すくな)くもヒステリー患者ですな。」と、市郎も眉を顰(ひそ)めた。
「何(ど)うして又、ヒステリーに罹(な)ったんでしょう。」と、冬子は不意に顔を擡(あ)げた。お葉に掴み毀(こわ)された前髪の庇(ひさし)は頽(くず)れたままで、掻上(かきあ)げもせぬ乱れ髪は黒幕のように彼女(かれ)の蒼い顔を鎖(とざ)していた。其中(そのなか)から輝くのは葉末(はずえ)の露の如き眼の光であった。
「さあ、何(ど)うしてと云って……。」と、市郎も考えて、「ああ云う女には能(よ)くあるんですよ。其(その)上に酒にも酔っている様(よう)でしたから……。」
「酔っているばかりでも有りますまい。妾(わたくし)が二度と御当家(こちら)へ来ればあの人が又暴れて来るそうですね。あの人は何故そんなに妾を恨んでいるんでしょう。妾には些(ちっ)とも訳が判りません。」
 口では「判りません」と云うけれども、冬子は大抵推量している。自分達母子(おやこ)が予(かね)て疑っている如く、お葉という女は市郎と情交(わけ)があるに相違ない。左(さ)もなければ自分に対して、あんな乱暴を働く筈がない。市郎が婚礼延期などを主張するのも、畢竟(ひっきょう)は彼(あ)の女を恐れている為であろう。自分の夫たるべき男を他(ひと)に奪(と)られて、加之(おまけ)に自分が斯(こ)んな酷(ひど)い目に逢うとは、債権者が債務者から執達吏(しったつり)を差向(さしむ)けられたようなもので、余りに馬鹿馬鹿しい理屈である。自分には何の科(とが)が有ってこんな理非(りひ)顛倒(てんどう)の侮辱を受けるのであろう。考えれば考えるほど、冬子は口惜(くや)しくって堪(たま)らなかった。
 けれども、彼女(かれ)も若い娘である。流石(さすが)に胸一杯の嫉妬と怨恨(うらみ)とを明白地(あからさま)には打出(うちだ)し兼ねて、先(ま)ず遠廻しに市郎を責めているのである。自分が折角見舞に来た※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の問題などは、もう何(ど)うでも可(い)いことになって了(しま)った。
「いや、誰にも判りませんよ。彼(あ)の女は云う通りのヒステリー……究竟(つまり)狂人(きちがい)も同様なんですから……。」と、市郎は嘆息するように答えた。
「でも、狂人(きちがい)になるには何か仔細(わけ)があるでしょう。」と、冬子は目眦(まなじり)を昴(あ)げて追窮(ついきゅう)した。
「余(あんま)り酒でも飲み過ぎたんでしょう。」
「そうでしょうか。」と、冬子は少しく冷笑(あざわら)って、「あなたは其(その)原因を御存知ないんですか。」
「知りません、一向知りません。」
「知らない筈は無いでしょう。」
 冬子の声が稍(やや)鋭く聞えたので、市郎も聊(いささ)か面食(めんくら)って思わず其(その)顔を屹(きっ)と視(み)ると、露の如き彼女(かれ)の眼は今や火のように燃えていた。
「ああ、判った。あなたは僕を疑っているんですね。それは冤罪(えんざい)です、全く冤罪です。昨日も云う通り、僕は唯(た)った一度彼家(あすこ)へ行った限(ぎ)りで、あの女と何等の関係も無いんです。先方(むこう)では何(ど)う思っているか知らんが、此方(こっち)は清浄(しょうじょう)潔白です。」
「それならば何故あんな乱暴を為(し)たのだろう。可怪(おかし)いな。」
 父も我子の味方ではなかった。

 お葉の問題に就(つい)て市郎を責めるのは、実際気の毒であった。本人が自白する通り、過ぎし夏に冬子の兄忠一が帰郷した砌(みぎり)、若い同士が連れ立って唯(ただ)一度彼(か)の柳屋へ遊びに行ったことが有る。忠一は元気の好(い)い男で、酔って随分騒いだ。市郎も温順(おとなし)くしては居なかった。けれども、二人ながら唯(ただ)酔って騒いで帰った丈(だけ)のことで、別に後日(ごにち)の面倒を惹起(ひきおこ)すような種は播(ま)かなかったのである。
 右の通りで、此方(こっち)では何の種も播(ま)かなかったが、結局は此方(こっち)が自ら刈らねば成らぬような羽目に陥ったのは、市郎の不幸であった。此方(こっち)には何の考慮(かんがえ)もなかったが、恋の種はお葉の胸に播かれた。東京の深川に生れて、十六の年から神奈川、豊橋、岐阜と東海道を股にかけたウエンチ生活の女が、二十三という此(この)年の夏に初めて真(まこと)の恋を知った。
 市郎は其後(そのご)再び柳屋の門(かど)を潜(くぐ)らなかったが、元来が狭い町で、恋しい人の家屋敷は眼と鼻の間(あいだ)にあるのだから、女は男を呼び出す術が無いでもなかった。況(まし)てお葉は男を恐れるような弱い女では無かったが、恋に柔(やわら)げられた此(この)女は日頃の気性に似も遣(や)らず、自分の男を捉えて来ることは躊躇して、唯(ただ)往来で折々逢う毎に、馴々(なれなれ)しく詞(ことば)をかける位(ぐらい)を切(せめ)てもの心遣(こころや)りに、二月(ふたつき)三月(みつき)を過(すご)す中(うち)に、飛騨の涼しい秋は早くも別れを告げて、寒い冬の山風が吹いて来た。柳屋の門(かど)の柳が霜に痩せると共に、恋に悩める女にも漸次(しだい)に痩(やせ)が見えた。持病のヒステリーも嵩じて来た。果(はて)は酔うて狂うて、前の如き椿事を演出(しいだ)したのである。
 けれども、其対手(そのあいて)の市郎は云うに及ばず、父の安行も周囲(まわり)の人々も、お葉の恋を斯(か)ばかりに熱烈なるものとは想像し得なかった。昔から世間に能(よ)くある習(ならい)で、田舎のお大尽(だいじん)を罠に掛ける酌婦の紋切形であろう位に、極めて単純に解釈していた。況(まし)て市郎は、最初(はじめ)から彼(か)のお葉という女を意中は愚(おろか)、眼中にも置いて居なかったのであるが、今日の一件に出逢って聊(いささ)か意外の感を作(な)した。固(もと)より半狂気(はんきちがい)の酒乱のような女が、何を云うか判ったものでは無いが、彼女(かれ)は自分の未来の妻たるべき冬子に対して、一種の根強い嫉妬心を懐いているのは事実らしく、加之(しか)も自分に対しても、二度と此(こ)の女をここの家(うち)へ入れるなと誓わしめたのを見ると、其底意(そのそこい)は善か悪か知らず、兎(と)にかく自分に対して何等かの執着心を有(も)っているらしく思われる。随(したが)って、冬子にも疑われ父にも怪(あやし)まれるのも無理はない。
「この疑惑(うたがい)を何(ど)うして解くか。」
 市郎も考えた。が、彼(か)の柳屋に就(つい)て事実の有無を証拠立てるより他に仕様もない。
「じゃア、阿父(おとっ)さんと冬子さんと三人で柳屋へ行って、私が其後(そのご)遊びに行ったことが有るか無いか訊いて見ましょう。」
「馬鹿な。」と、安行は叱るが如くに苦笑いした。「親と一所(いっしょ)に訊きに行ったって、先方(むこう)で真実(ほんとう)のことを云うと思うか。」
 これは至極道理(もっとも)である。市郎も叱られて閉口して了(しま)った。冬子も声を顫(ふる)わして、「妾(わたし)は死んでもあんな家(うち)へは行きません。」と云った。これも道理(もっとも)である。
「だが、お前は真実(ほんとう)にお葉という女と関係は無いんだな。」と、霎時(しばらく)して父は問うた。
「実際です、実際関係は無いんです。」
 市郎は之(これ)より他に、自分の潔白を表明すべき詞(ことば)を知らなかった。わが子を信ずる安行は僅(わずか)に首肯(うなず)いたが、疑惑(うたがい)と嫉妬(ねたみ)とが蟠(わだか)まれる冬子の胸は、まだ容易に解けそうにも見えなかった。
「冬子さん。」と、安行は声を和(やわら)げて、「倅(せがれ)も此(こ)の通り云うんだから、よもや嘘じゃアありますまい。で、今日のことは阿母(おっか)さんが心配しないように、能(よ)く云って置いて下さい。何(いず)れ私からも委(くわ)しいお話を為(し)ますから……。」
 差当(さしあた)り斯(こ)んなことを云って、冬子を宥(なだ)めるより他は無かった。冬子も何時(いつ)まで憤(おこ)っても居られないので、解けぬ疑惑(うたがい)を懐いたままで、やがて我家へ帰る事となった。が、途中が何となく不安である。
「可(よし)、私と七兵衛とで送って上げよう。」
 安行と七兵衛は冬子を送って出た。

 虎ヶ窟の前に立ったお葉は、霎時(しばらく)夢のようであった。襟(えり)に沁(し)む山風に吹き醒まされて、少しく正気に復(かえ)って見ると、自分の白い手は人か山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)か判らぬような重太郎に掴まれていた。お葉は驚いて慌てて振放(ふりはな)した。
「重太郎、お前のお嫁さんを連れて来たよ。」と、お杉は笑いながら云った。重太郎も笑(えみ)を含んで首肯(うなず)いた。
 飛(とん)でもない話である。誰がこんな奴の嫁になるものかと、お葉は寧(むし)ろ可笑(おかし)くなった。が、之(これ)に伴う不安が無いでもなかった。さりとて逃げる訳にも行かぬ。彼女は相変らず黙って立っていた。
「お葉さん。お前は倅(せがれ)の嫁になって呉(く)れるだろうね。」と、お杉は徐(しずか)に問うた。
 お葉は矢(や)はり黙っていた。重太郎は堪(たま)り兼ねて又飛び付こうとするのを、母は制して、
「まあ、お待ちよ。ねえ、お葉さん。妾達(わたしたち)も時々に町へ出るから、お前さんとも予(かね)てお馴染だが、妾達は二十年以来(このかた)この窟(いわや)に棲んで、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と一所(いっしょ)に暮している。けれども、妾の倅の重太郎は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)じゃアない。是(これ)でも立派な人間だ。其(そ)の人間の重太郎がお前さんに惚れたのも無理ではあるまい。そこで、是非お前さんを嫁に貰って呉(く)れと云うから、今日お前さんを呼んで来たのだ。何(ど)うぞまあ仲好くしてお呉(く)れよ。」
 云う人は極めて真面目であるが、云われる方は余り馬鹿馬鹿しくて御挨拶が能(でき)ぬ。お葉は唯(と)ある岩角に腰を卸(おろ)して、紅い木葉(このは)を弄(いじ)っていた。
 重太郎は漸々(だんだん)に熱して来たらしい、又飛蒐(とびかか)ってお葉の手を捉(と)ろうとするのを、母は再び遮(さえぎ)った。
「そんなことをすると、お葉さんに嫌われるよ。ねえ、お前さん。ここまで一所に来る位だから、肯(き)いて呉(く)れるのだろうね。」
「妾(あたし)はそんな意(つもり)で来たんじゃありません。」
「それじゃア何しに来た。」
「お前さんが呼んだから……。」
「呼ばれて来るからには、承知だろう。」
「いいえ。」と、お葉は頭(かぶり)を掉(ふ)った。
 併(しか)し斯(こ)うなると、お葉も我ながら判らなくなって来た。自分は何の為にここまでお杉に附いて来たのであろう。呼ばれたから来た……とばかりでは、余りに他愛が無さ過ぎる。何か他に相当な理屈が無ければならぬ。が、何(ど)う考えても夢の様(よう)で、何の為に悪所絶所を越えて斯(こ)んな処へ入込(いりこ)んだのか、其(その)理屈は一切判らぬ。まだ酒に酔っていた故(せい)か知らと、無理に理屈を附けても見たが、それも何だか覚束ない様(よう)にも思われた。
 酒の酔(よい)も醒め、ヒステリー的の発作も漸(ようや)く鎮(しずま)った今の彼女(かれ)は、所謂(いわゆる)「狐の落ちた人」のように、従来(これまで)の自分と現在の自分とは、何だか別人の様(よう)にも感じられた。
 お杉は又もや徐(しずか)に問うた。
「お前さん、重太郎が忌(いや)なのかえ。」
 問わずとも判った話だ。お葉は矢(や)はり黙っていた。
「何故、忌なのだえ。」
 お葉は相変らず俯向(うつむ)いていた。
「はは、判った。お前は彼(あ)の市郎に惚れているのだろう。無効(だめ)だからお止(よ)しよ。先方(むこう)じゃアお前を嫌い抜いているのだから……。」
「嫌われていても可(よ)ござんすよ。」と、お葉は屹(きっ)と顔を上げた。
「嫌われても思いを通すというのかえ。それは道理(もっとも)だ。が、お前が市郎に嫌われても、自分の思いを通そうと云うのと同じ訳で、重太郎も幾らお前に嫌われていても、必然(きっと)自分の思いを通すよ。然(そ)う思ってお在(いで)。」
 お杉は嫣然(にやにや)笑っていた。
 逃げようと思っても逃げられる筈は無い。傍(そば)には重太郎が獣のような眼を晃(ひか)らして見張っている。窟の奥には山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)らしい怪物(ばけもの)も居る。路(みち)は人間も通わぬ難所(なんじょ)である。こんな処へ導かれて来て、こんな怪物共(ばけものども)に取囲(とりかこま)れたからは、自分の智恵や力で自分の運命を左右する訳には行かぬ。運を天に任すと云うのは、洵(まこと)に今のお葉の身の上であった。

 窟の中から怪しい者の影が又現れた。加之(しか)も二つ、うす暗い奥から此方(こっち)を覗いていたが、やがて入口の方へちょこちょこ駈出(かけだ)して来た。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)が又来たよ、煩(うる)さいねえ。」と、お杉は重太郎を顧(みかえ)って「少し焚火をお為(し)よ。」
 重太郎は燐寸(まっち)を有(も)っていた。有合(ありあ)う枯枝や落葉を積んで、手早く燐寸の火を摺付(すりつ)けると、溌々(ぱちぱち)云う音と共に、薄暗(うすぐろ)い煙が渦巻いて※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)(あが)った。つづいて紅い火焔(ほのお)がひらひら動いた。
 火の光を見ると、怪しい者共は俄(にわか)に恐れたらしい。キキと叫んで、早々に窟の奥へ逃げ込んで了(しま)った。
「お葉さん、寒いだろう。此方(こっち)へ来てお当りな。」と、お杉は徐(しずか)に焚火の傍(そば)へ寄った。お葉は岩に腰をかけたままで、返事も為(し)なかった。
「幾らお前が強情を張った所で、一旦ここへ連れて来た以上は、もう帰す気配(きづか)いはないから、其意(そのつもり)で悠々(ゆっくり)してお在(いで)。夜も寒くない様(よう)に、毛皮も沢山用意してあるから……。大事の花嫁さんに風邪でも引かせると大変だからね。ははははは。」
 焚火はいよいよ燃え上(あが)って、其(そ)の紅い光は、お杉の尖(とが)った顔と、重太郎の丸い顔と、お葉の蒼い顔とを鮮明(あざやか)に照(てら)した。
 昼も暗い山峡(やまあい)では、今が何時頃だか判らぬ。あなたの峰を吹き過ぐる山風が、さながら遠雷のように響いた。
 三人は霎時(しばらく)黙っていた。やがてお杉は矗然(すっく)と起(た)った。
「お葉さん、何を考えているんだえ。もッと此方(こっち)へお出(い)でよ。」
 対手(あいて)は矢(や)はり黙っているので、お杉は笑いながら其傍(そのそば)へ歩み寄った。
「判らない人だねえ。何でも可(い)いから妾(わたし)の云うことを肯(き)いて、素直にここの人にお成りよ。お前が惚れている市郎も、今にここへ連れて来て上げるから……。可(い)いだろう。」
「若旦那がここへ……。」
「ああ、妾が必然(きっと)連れて来て見せるから、温順(おとなし)くして待ってお在(いで)。え、それでも忌(いや)かえ。ねえ、お葉さん、確乎(しっかり)返事をお為(し)よ。」
 お杉は窪んだ眼を異様に輝かして、対手(あいて)の顔を穴の明くほど凝(じっ)と見詰めると、お葉は少しく茫(ぼう)となって来た。
「え、判ったかえ。」
 低声(こごえ)に力を籠めて云うと、お葉は小児(こども)のように首肯(うなず)いた。彼女(かれ)は漸次(しだい)に酔って来たように感じた。
「可(い)いかえ。はいと返事をお為(し)。」
「はい。」
「重太郎のお嫁になるかい。」
「はい。」
 お葉は夢心地で答えた。
「可(よし)、可(よし)。さあ、妾と一所(いっしょ)にお出(い)で。」
 進んで其(その)手を把(と)ると、お葉は拒みもせずにふらふらと起(た)ち上(あが)った。お杉は此(こ)の捕虜(とりこ)を窟の暗い奥へ連れ込んで了(しま)った。焚火に映る重太郎の顔は、火よりも熱して赤く見えた。
 やがて窟の奥からお杉の声で、
「重太郎、火を消してお了(しま)いよ。」
 重太郎は云わるるままに焚火を踏み消すと、四辺(あたり)は俄(にわか)に暗くなった。奥から母が再び出て来た。後につづいて例の怪しい者が二つ飛んで来た。
 お杉は宙を歩むように、傍(かたえ)の小高い岩角へするすると登った。天を凌(しの)ぐ山毛欅(ぶな)の梢の間(ひま)から、僅(わずか)に洩るる空の色を仰いで、
「もう日が暮れるのに間もあるまい。今夜はお前達に大事(だいじ)の仕事があるんだよ。」
「阿母(おっか)さん、何だ。」
「角川の市郎はお前の仇(かたき)だ。彼奴(あいつ)が無事に生きて居ては、お葉は何日(いつ)までも未練が残って、長くお前に附いて居まいよ。」
 重太郎は眼を瞋(いか)らして首肯(うなず)いた。
「それから彼奴(あいつ)は妾にも仇だ。先刻(さっき)妾を突き倒して、半殺しの目に逢わした奴だ。お前達は其(そ)の復讐(しかえし)をしてお呉(く)れ。頼んだよ。」
「可(よし)、大丈夫だ。」
 勢い込んで駈け出そうとするのを、母は呼び止めて何事をか囁き示す中(うち)に、日も漸(ようや)く暮れかかったらしい。例に依(よっ)て濛々(もうもう)たる山霧が潮(うしお)の如くに湧いて来た。
「早く行ってお出(い)でよ。」
 お杉の声を後(あと)に聞きながら、重太郎も※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)も霧の中を衝(つ)いて出た。お杉は笑いながら再び焚火を撥(ほじ)り初めた。

 冬子を送って隣村まで出向いた安行と七兵衛とは、日が暮れるまで戻らなかった。が、それは左(さ)のみ珍しいことでも無い。安行が吉岡家を訪問して、半日ぐらい話し込んでいることは、従来(これまで)にも屡々(しばしば)あった。
 此頃(このごろ)は日※(「日/咎」、第3水準1-85-32)(ひあし)が滅切(めっきり)詰(つま)って、午後四時には燈火(あかり)が要る。麗(うらら)かな日も、今日は午後から俄(にわか)に陰(くも)って、夕から雨を催した。五時を過ぎても、六時を過ぎても、二人は帰らないので、市郎も少しく不安を感じ初めた。殊に昨夜の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の一件もあるので、途中が何だか剣呑(けんのん)にも思われた。家(うち)にいて心配するよりも、迎いながら町尽頭(はずれ)まで出て見ようと決心して、市郎は洋杖(すてっき)を振りながら門を出ると、恰(あたか)も七兵衛の駈けて戻るのに逢った。
「小旦那(こだんな)……。」
 彼は呼吸(いき)を喘(はず)ませていた。暗くて能(よ)くは判らぬが、恐(おそら)く顔の色も蒼くなっているだろうと思われた。
「どうしたんだ。」と、市郎も慌しく駈寄(かけよ)って訊ねた。
「大旦那様は戻ったかね。」
「まだ帰らない。お前は親父と一所(いっしょ)じゃアないのか。」
「一所(いっしょ)だったが……途中で失(はぐ)れて……一体どうしただろう。」
 七兵衛が口早に語るのを聞くと、二人は冬子を吉岡家へ送り届けて、母のお政に昨夜の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の一件や、今日のお葉の一条などを話している中(うち)に、思いの外(ほか)に時が移って、冬の日は早くも傾きかかった。二人は暇(いとま)を告げて立出(たちで)ると、お政は途中の用心に松明(たいまつ)を貸して呉(く)れた。
 七兵衛が先に立って松明を振照(ふりてら)しながら、村と町との境まで来蒐(きかか)ると、路(みち)は全く暗くなった。昨夜(ゆうべ)山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に襲われたのは此辺(このへん)だなどと話していると、行手の木蔭から一人の小作りの男がひらりと飛んで出た。何者かと松明を突き付ける間(ひま)もなく、彼は蝗(いなご)の如くに飛んで来て、七兵衛の持ったる松明を叩き落した。加之(しか)も落ちたる松明を取って、傍(かたえ)の小川に投げ込んで了(しま)った。
 火の消えるのを相図のように、同じ木蔭から又もや怪しい者がばらばらと飛び出して、安行を手取り足取り引担(ひっかつ)いで行こうとする。安行も無論抵抗した。七兵衛も進んで主人の急を救おうとすると、最初(はじめ)の小さい男が這って来て七兵衛の足を掬(すく)った。彼は倒れながらに敵の腕を取って、一旦は膝下(しっか)に捻伏(ねじふ)せたが、体(なり)に似合わぬ強い奴で忽(たちま)ち又跳返(はねかえ)した。二人は起きつ転びつ毟(むし)り合っている中(うち)に、安行は自分の敵を突き退(の)けて十間(けん)ばかりは逃げたらしい。敵もつづいて追って行った。
 主人の身の上が関心(きがかり)ではあるが、自分も一人の敵を控えているので何(ど)うすることも能(でき)ない。七兵衛は声をあげて救いを呼んだ。この声を遠く聞き付けて、後(あと)の村から二三の人が駈けて来た。其跫音(そのあしおと)を聞くと、敵も流石(さすが)に狼狽(うろた)えたらしく、力の限りに七兵衛を突退(つきの)け刎退(はねの)けて、あなたの森へ逃げ込んで了(しま)った。
 が、主人の行方も安否も判らぬ。救いに来(きた)った人々に仔細(わけ)を話して、七兵衛も共々に其処(そこ)らを尋ね廻ったが、何分にも暗黒(くらがり)と云い、四辺(あたり)には森が多いので、更に何の手懸(てがか)りも無かった。或(あるい)は首尾好く町の方へ逃げ延びたかも知れぬと、彼は念の為に兎(と)に角(かく)も駈戻(かけもど)ったのである。
 以上の報告を聞いて、市郎も色を変えた。対手(あいて)は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)か、或(あるい)は其(そ)れに似寄(により)の曲者(くせもの)か知らぬが、何(いず)れにしても彼等に襲われた父の運命は、甚だ心許ないものと云わねばならぬ。
「七兵衛、早く駐在所へ行って来い。」
 七兵衛が駐在所へ駈付(かけつ)ける間に、市郎は家中(うちじゅう)の者を呼集(よびあつ)めて、右の始末を慌しく云い聞かせると、一同は眼を瞠(みは)って駭(おどろ)いた。何しろ一刻も早く捜査(さがし)に出ろと身支度する処へ、塚田巡査も出張(しゅっちょう)した。提灯や松明(たいまつ)が点(とぼ)された。
「角川の大旦那が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に攫(さら)われた!」
 誰云うとなく此声(このこえ)が駅中(しゅくちゅう)に拡がると、まだ宵ながら眠れるような町の人々は、不意に山海嘯(やまつなみ)が出たよりも驚かされた。日頃出入の者は云うに及ばず、屈竟(くっきょう)の若者共は思い思いの武器を把(と)って駈集(かけあつ)まった。
 塚田巡査は町の者共を従え、市郎は我家の職人や下男(げなん)を率いて、七兵衛老翁(じじい)に案内させ、前後二手に分れて現場(げんじょう)へ駈向(かけむか)った。夜の平和は破られて、幾十の人と火とが、町尽頭(まちはずれ)の方へ乱れて走った。

 午後から陰(くも)った冬の空は遂に雨を齎(もたら)して、闇を走る人々の上に冷(つめた)い糸の雫(しずく)を落した。が、そんなことに頓着している場合でない。松明(たいまつ)の火を消すほどの強雨(つよぶり)でも無いのを幸いに、何(いず)れも町を駈け抜けて、隣村の境まで来て見ると、暗い森、暗い川、暗い野路(のみち)、見渡す限り唯(ただ)真黒な闇に鎖(とざ)されて、天地寂寞(せきばく)、半時間前に怖るべき椿事(ちんじ)がここに起(おこ)ったとは、殆ど想像の付かぬ位であった。
「老翁(じいや)、この辺(へん)かい。」と、市郎は立止(たちど)まって顧(みかえ)ると、七兵衛は水涕(みずばな)を啜(すす)りながら進み出た。
「はあ、丁度(ちょうど)ここらでがすよ。あれ、あの樅(もみ)の木の蔭から※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)が出て来たので……。それから何でも大旦那は彼地(あっち)の方へ逃げたように思うのでがすが……。」
 人々は松明を振照(ふりてら)して、七兵衛の指さす方(かた)を仔細に検査したが、別に手懸りとなるべき足跡もなく、遺留品も見出し得なかった。
「どうも判らんな。」と、塚田巡査も失望の嘆息(といき)を洩(もら)した。
 が、兎(と)に角(かく)に其儘(そのまま)では済まされぬ。巡査の率いる一隊は、森に沿うて山路(やまみち)を北に登る事となった。市郎の一隊は現場(げんじょう)を中心として、附近の森や野原や村落を猟(あさ)る事となった。斯(か)くて夜半(やはん)まで草を分けて詮議したが、安行の行方は依然不明であった。加之(しか)も夜の更けると共に、寒い雨が意地悪く降頻(ふりしき)るので、人々も寒気(かんき)と飢(うえ)とに疲れて来た。
「到底(とても)今夜のことには行くまい。」と、弱い音(ね)を吹く者も出て来た。が、市郎は容易に諦めることは能(でき)なかった。疲れた一隊を慰め励まして、其(その)附近約三里の間を東西に南北に駈け廻ったが、遂に何の手懸りも無かった。懐中時計を見ると、既(も)う午前一時である。松明の火も漸(ようや)く尽きて来た。
 此(この)上は矢(や)はり山へ向うより他は無い。で、曩(さき)に巡査等が登った路(みち)とは方角を変えて、西の方から山路(やまみち)へ分入(わけい)ろうとする途中に、小さい丘が見えた。ここらに多い山毛欅(ぶな)が茂って、丘の麓(ふもと)には名も無い小川が繞(めぐ)っていた。
「や。人が死んでいる!」
 先に立ったる一人が松明を翳(かざ)して驚き叫ぶと、余(よ)の人々も慌てて駈け寄った。見ると、山毛欅(ぶな)の大樹の根を枕にして、一人の男が赤裸で雨の中に倒れていた。
 市郎は殆ど夢中で駈寄(かけよ)った。消えかかる幾多の松明の火が一時にここへ集められた。其(そ)の光に照し出されたる屍体の有様(ありさま)は、身の毛も悚立(よだ)つばかりに残酷なるものであった。男は前にも云う如く、身には一糸(いっし)を附けざる赤裸で、致命傷は咽喉(のど)であろう、其疵口(そのきずぐち)から滾々(こんこん)たる鮮血(なまち)を噴いていた。更に驚くべきは、鋭利なる刃物を以て其(そ)の顔の皮を剥ぎ取ったことである。随(したが)って其(そ)の顔は判然(はんぜん)せぬが、僅(わずか)に灰色の髪の毛に因(よ)って、其(そ)の六十近い老人であることを確(たしか)め得た。
「阿父(おとっ)さんだ。」と、市郎は屍体を抱(いだ)いて叫んだ。七兵衛も声を揚げて泣いた。
 この意外なる光景(ありさま)に胆(きも)を挫(ひし)がれて、余の人々は唯(ただ)動揺(どよ)めくばかり、差当り何(ど)うするという分別も出なかった。が、流石(さすが)は職業であるから、市郎は先(ま)ず其疵口(そのきずぐち)を検査すると、疵(きず)は刃物でなく、鋭い牙と爪とて咬破(かみやぶ)り掻裂(かきさ)いたものらしい。彼は再び驚くと共に、敵は正(まさ)しく※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)であることを悟った。
 この時、あなたの山の方から幾箇(いくつ)の松明(たいまつ)が狐火のように乱れて見えた。巡査の一隊は尋ね飽(あぐ)んで、今や山を降って来たのであろう。斯(か)くと見るより此方(こなた)の人々は口々に叫んだ。
「大旦那はここに居たぞ。おうい、おうい。早く来いよ。」
 先方(むこう)でも声に応じて駈けて来た。が、惨憺たる此場(このば)の光景(ありさま)を見て、何(いず)れも霎時(しばらく)は呆気(あっけ)に取られた。巡査は剣鞘(けんざや)を握って進み出た。
「残酷なことを行(や)りましたなあ。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)でしょうか。」
「無論、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)です。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の仕業です。」と、市郎は歯噛(はがみ)をした。
「顔の皮を剥(は)いだのは、犯跡(はんせき)を晦(くら)ます為でしょうか。」
「そんなことかも知れませんな。」
 巡査は首肯(うなず)いて、これも一応屍体を検(あらた)めたが、やがて少しく眉を顰(ひそ)めた。

「角川さん。」と、塚田巡査は市郎を顧(みかえ)って、「もう一度この老人の口を……歯を能(よ)く見て下さい。」
 市郎は死人(しにん)の口を開けて見た。
「どうです。違(ちが)や為(し)ませんか」と、巡査は首を拈(ひね)った。
 成程(なるほど)、違っていた。今まで気が顛倒(てんどう)していたので、流石(さすが)にそこまでは意(き)が注(つ)かなかったが、安行の前歯は左が少しく缺(か)けていた。この男の前歯は左右とも美事に揃っている。髪の色こそ似ているが、確(たしか)に人違いだ、我父では無い。市郎は吻(ほっ)とした。
「違います。違います。成程、これは親父じゃアありません。」
「そうでしょう。」
「違った、違った。」と、人々は喜悦(よろこび)の声を揚げた。七兵衛は嬉しさに又泣き出した。人々は消えかかった松明(たいまつ)が再び明るくなった様(よう)に感じた。
 が、これが安行でないとすると、何処(いずこ)の何者であろう。たとい角川家の主人其人(そのひと)にあらずとも、一個(ひとり)の人間が惨殺されて此処(ここ)に横(よこた)わっているのは事実である。塚田巡査は職務上これを捨置(すてお)く訳には行かぬ。取敢(とりあえ)ず其(その)屍体を町へ運ばせて、己(おのれ)は其(その)報告書を作る準備に取(とり)かかった。
 夜はいよいよ更けて、雨は益々烈しくなって来た。此(こ)のまま雨中に立ち尽しては、或(あるい)は凍えて死ぬかも知れぬので、遺憾ながら安行の捜索は一旦中止して、一同も空しく町へ引揚(ひきあ)げて来た。市郎は其夜(そのよ)一睡も為(し)なかった。
「阿父(おとっ)さんは何(ど)うしたろう。」
 彼の冴えたる眼には、彼(か)の惨殺されたる老人の屍体がありありと映った。自分の父も矢(や)はり彼(あ)のような浅ましい姿になって、人の知らぬ山奥か谷間(たにあい)に倒れているのではあるまいか。それにしても、あの老人は何者であろうか。父の行方不明と彼(か)の惨殺事件との間に、何等かの関聯(かんれん)があるのではあるまいか。こんな事を際涯(はてし)もなく思い続けている中(うち)に、夜は白んだ。幸いに暁方(あけがた)から雨は晴れた。
 遠近(おちこち)では鶏(とり)が勇ましく啼いた。市郎は衾(よぎ)を蹴って跳ね起きた。家内の者共は作夜の激しい疲労に打たれて、一人もまだ起きていない。が、何だか沈着(おちつ)いても居られないので、市郎は洋服身軽に扮装(いでた)って、兎(と)も角(かく)も庭前(にわさき)へ降立(おりた)った。
「今日は先(ま)ず何地(どっち)の方面から捜して見ようか。」
 頬を吹く雨後(あまあがり)の寒い朝風は、無数の針を含んでいる様(よう)にも感じられたので、市郎は思わず襟(えり)を縮(すく)めながら、充血した眼に大空を仰ぐと、東は漸(ようや)く明るくなったが、北の山々は夜の衣(ころも)をまだ脱がぬと見えて、頽(くず)れかかった砲塁(ほうるい)のような黒雲(くろくも)が堆(うずたか)く拡がっていた。
 一昨夜はトムを殺された、昨夜は父を奪われた。彼(か)の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)なるものは、何が故に執念深く自分等に祟るのか、市郎は殆ど判断に苦(くるし)んだ。が、彼は不図(ふと)こんな事を思い泛(うか)べた。
 トムは一昨日吉岡家の門前で、彼(か)のお杉婆(ばばあ)に吠え付いた。而(そう)して其(その)晩に殺された。自分は昨日我家の門前で、同じくお杉婆を突倒(つきたお)して気絶させた。而(そう)して其(その)晩に父が行方不明になった。果(はた)して世間で伝うる如く、お杉婆と山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)との間に、何か不思議の因縁が結び付(つけ)られてあるとすれば、昨夜の禍(わざわい)も或(あるい)はお杉婆(ばばあ)に関係が有るのではあるまいか。
「そうだ、必然(きっと)そうだろう。」
 斯(こ)う考えると、彼は矢も盾も堪(たま)らなくなった。家内の者共を呼び起(おこ)すまでもなく、自分一人で彼(か)の虎ヶ窟を探ろうと決心した。で、一旦内へ引返(ひっかえ)して、応急の薬剤と繃帯(ほうたい)とを用意して、足早に表へ出ようとする時、七兵衛父爺(じじい)が寝惚眼(ねぼけまなこ)を擦(こす)りながら裏口を遅々(のそのそ)出て来た。出逢頭(であいがしら)に喫驚(びっくり)して、
「や、小旦那……。朝飯も食わねえで何処(どこ)へ……。駐在所かね。」
「いや、虎ヶ窟へ……。私は一足先へ行くから、皆(みん)なが起きたら直(すぐ)に後(あと)から来るように然(そ)う云って呉(く)れ。」
「虎ヶ窟へ……。」
 七兵衛が危(あやぶ)む顔を後(あと)にして、市郎は早々に飛び出して了(しま)った。

 市郎が駅(しゅく)を抜けて村境(むらざかい)に着いた頃には、旭日(あさひ)が已(すで)に紅々(あかあか)と昇った。遠近(おちこち)の森では鳥が啼いて、眼も醒めるような明るい朝の景色は、彼に前途の光明を示すようにも見えたので、市郎は自ずと心が勇まれた。
 例の樅林(もみばやし)の落葉を踏んで行くと、漸次(しだい)に山路(やまみち)へ差蒐(さしかか)る。岩は俄(にわか)に嶮(けわ)しくなって来た。
「多寡(たか)が一里だ。知れたものだ。」
 市郎は勇を鼓(こ)して登った。が、彼は所謂(いわゆる)虎ヶ窟なるものの在所(ありか)を委(くわ)しくは知らなかった。小児(こども)の時に友達と一所(いっしょ)に、一度ばかり登ったことが有るように記憶するが、今となっては其(その)方角も頗(すこぶ)る覚束(おぼつか)ないものであった。何でも本道から西へ入ると聞き伝えているので、心の急(せ)く彼は遮二無二(しゃにむに)西へと進んだ。昨日彼(か)のお葉が踏んだ路(みち)である。彼も大小の岩を飛び越えねばならなかった、山蔦(やまづた)に縋(すが)って危(あぶな)い綱渡りをせねばならなかった。洋服扮装(でたち)の彼は、草鞋(わらじ)を穿(は)いて来なかったのを悔いた。
 彼は又、曾(かつ)て読んだ八犬伝の中(うち)で、犬飼現八(いぬかいげんぱち)が庚申山(こうしんざん)に分け入るの一段を思い出した。現八は柔術(やわら)に達していたので、岩の多い難所(なんじょ)を安々と飛び渡ったと書いてある。市郎には生憎(あいにく)そんな素養が無かった。
「多寡(たか)が一里だ。」と、彼は難所に逢う毎に自ら励ました。が、或(あるい)は路(みち)を踏み違えたのかも知れぬ。已(すで)に二時間余(あまり)を費したかと思うのに、目指す窟(いわや)を未(いま)だ探り得なかった。この寒いのに彼は全身に汗を覚えた。岩の蔭から瞰上(みあぐ)れば、日は已(すで)に高く昇ったらしい。
 幾ら気が張っていても、疲労(つかれ)には勝たれぬ。市郎は昨夜雨中を駈廻(かけまわ)った上に、終夜殆ど安眠しなかった。加之(しか)も今朝は朝飯も食わなかった。疲労(ひろう)と不眠と空腹とが重(かさな)った上に、又もや此(こ)の難所を二時間余も彷徨(さまよ)ったのであるから、身体(からだ)の疲れと気疲れとて、彼は少しく眼が眩(くら)んで来た。脳に貧血を来(きた)したらしい。ここで倒れては大変だ。
「これでは到底(とても)歩かれない。」
 市郎は唯(と)ある岩角に腰をかけて、用意の気注薬(きつけぐすり)を啣(ふく)んだ。足の下には清水が長く流れているが、屏風のような峭立(きったて)の岩であるから、下へは容易に手が達(とど)かぬ。少しく体を前へ屈(かが)めると、飜筋斗(もんどり)打って転げ墜(お)ちるであろう。斯(こ)う思うと、飲料(のみもの)を用意していない彼は愈(いよい)よ渇(かわき)を覚えた。
「自分は医師(いしゃ)でありながら、何故斯(こ)う不注意だろう。」と、彼は自己(おのれ)を叱っても追付(おっつ)かない。市郎は余りに慌てて我家を出たのであった。
「それにしても、七兵衛や他(ほか)の者は何(ど)うしたろう。」と、彼は心細さに斯(こ)んな事も考えた。が、今更引返(ひっかえ)すべきではない。進め、進め、倒れるまでも進めと、市郎は勇気を振い起(おこ)して又歩き出した。あなたの梢では大きな山猿が、他(ひと)を嘲(あざけ)るように笑っていた。
 市郎は何処(どこ)を何(ど)う歩いたか、半(なかば)は夢中で無闇に進んで行った。それから約一時間ばかりも経ったと思う頃、彼はあなたの大きい岩の狭間から、一縷(いちる)の細い煙(けぶり)の迷い出(い)づるを見た。
「占めた!」
 彼は喜んで躍った。で、思わず声を揚げて呼ぼうとしたが、遠方から敵を驚(おどろ)かしては妙でない。窃(ひそか)に近寄って其(その)不意を襲うに如(しか)ずと、市郎は故意(ことさら)に跫音(あしおと)を偸(ぬす)んで、煙のなびく方(かた)へ岩伝いに辿った。
 この辺(あたり)には大樹が多かった。大樹の聳(そび)ゆる下(もと)に落葉焚く煙が白く※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)(あが)って、彼(か)のお杉婆(ばばあ)は窟を背後(うしろ)に、余念もなく稗(ひえ)の粥(かゆ)を煮ていたが、彼女(かれ)の耳は非常に敏(さと)かった。忽(たちま)ち人の跫音に心附(こころづ)いたと見えて、灰色のおどろ髪を振乱(ふりみだ)しつつ此方(こなた)を屹(きっ)と顧(みかえ)った。市郎はつかつかと其(そ)の眼前(めさき)に現れた。
 お杉は騒ぐ気色(けしき)もなく、徐(しずか)に起(た)ち上(あが)って軽く会釈した。
「昨日(きのう)は何(ど)うも飛んだ御邪魔を致しました。」
「いや、僕の方でも大変失礼した。」と、市郎も尋常の挨拶をして、「時に今日来たのは他でもないが、家(うち)の親父が昨夕(ゆうべ)から行方知れずになったので……。」
「まあ。」と、お杉は驚いた顔をした。

 市郎は少しく躊躇したが、更に詞(ことば)を次いだ。
「そこで、心当りを方々(ほうぼう)探しているんだが、何(ど)うも判らないので困っている。」
「それは困りましたねえ。」と、お杉も心配そうに眉を寄せた。
「村の者の話に拠(よ)ると、親父は山の方へ登ったとも云うんだ。若(も)し然(そ)うならば、万一此地(こっち)の方へでも迷い込んで来やアしないかと思って……。」
「いいえ、お見掛(みかけ)申しませんね。」
 お杉は昨日に引替(ひきか)えて、極めて叮嚀(ていねい)な口吻(くちぶり)であった。が、市郎は中々油断しなかった。
「親父は来なかったかね」と、考えて、「そこで、些(ちっ)と云い難(にく)いことだが、折角ここまで来たもんだから、念の為に窟の中を一応調べさして貰いたいんだが、何(ど)うだろうね。」
「判りました。あなたは妾(わたし)を疑っているんでしょう。妾はこんな姿をして、乞食同様の生活(くらし)をしていますが、人を攫(さら)ったり、殺したりした記憶(おぼえ)はありません。山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)とは違いますからね。」
「それは僕も知っているが、まあ念晴(ねんばら)しだ。検(あらた)めても可(い)いだろう。」
 お杉は黙って市郎の顔を視(み)ていた。
「可(い)いだろう、鳥渡(ちょいと)検めても……。」
「何(ど)うとも勝手にお為(し)なさい。だが、倅(せがれ)の帰らない中(うち)に早く願いますよ。」
「倅は何処(どこ)へ行った。」
「そこらへ木実(きのみ)を拾いに行きました。」
「そうか。」
 市郎は窟へ五六歩踏込(ふみこ)んだが、奥は暗いので何にも見えなかった。お杉は黙って窟の入口に立っていた。
「中は真暗(まっくら)だね。」と、市郎は外を顧(みかえ)って呼ぶと、お杉もつづいて入って来た。
「何か松明(たいまつ)か蝋燭のようなものは無いかね。暗くって仕様がない。」
「松明もあります、蝋燭もあります。」
「何方(どっち)でも可(い)いから貸して呉(く)れないか。」
 お杉は黙って蝋燭に火を点(つ)けた。
「あなた、どうぞお早く願いますよ。ここへ倅が帰って来ると不可(いけ)ませんから……。彼児(あれ)は正直者ですから、他(ひと)から嫌疑(うたがい)を受けて家捜(やさが)しをされたなどと聞くと、必然(きっと)憤(おこ)るに相違ありませんから……。」
「可(よし)、可(よし)。判った。」
 お杉が照す蝋燭の淡い光を便宜(たより)に、市郎は暗い窟の奥へ七八間(けん)ほど進み入ると、第一の石門(せきもん)が眼の前に立っていた。市郎はお杉の手から燈火(あかり)を受取(うけと)って、左右の隅々(くまぐま)を照(てら)し視(み)たが、上も下も右も左も唯(ただ)一面の嶮(けわ)しい岩石で、片隅の低い岩の上には母子(おやこ)の寝道具(ねどうぐ)かと思われる獣の生皮二三枚と、茶碗と箸と薬鑵(やかん)のたぐいが少しばかり転がっているのみで、他には別に眼に入(い)る物もなかった。市郎は念の為に獣の皮を一枚づつ引き剥(めく)って見た。
「何か見付(みつか)りましたか。」と、お杉は冷笑(あざわら)うような口吻(くちぶり)で問うたが、市郎は何とも答えなかった。これより更に奥深く進むと、第二の黒い石門(せきもん)が扉のように行手を塞(ふさ)いでいて、四辺(あたり)の空気は凍るばかりに寒かった。
「この先にも路(みち)があるかね。」
「ありますから、まあ入って御覧なさい。石の下から潜(もぐ)って行くんですよ。」
 市郎は一旦立止(たちどま)ったが、此(こ)のまま半途で引返(ひっかえ)しては何にもならぬ。彼は障碍物(しょうがいぶつ)競走をするような形で、兎(と)も角(かく)も冷(つめた)い石門の下を這って通ると、其後(そのあと)からお杉の痩せた身体が蛇のようにするすると抜け出して来た。
「ここが行止(ゆきどま)りだね。」
 お杉は首肯(うなず)いた。市郎は一度消えた蝋燭に再び燐寸(まっち)の火を点(つ)けて、暗い石室(いしむろ)の中を仔細に照(てら)して視(み)たが、所々の岩の窪みに氷のような水を宿している他には、矢(や)はり何物も眼に入(はい)らなかった。
「何か見付(みつか)りましたか。」と、お杉は重ねて問うた。其(その)声が四方の低い石壁に響いて、何となく凄愴(ものすご)いように聞えた。市郎は黙って立っていた。

 市郎が唯一の希望(のぞみ)の光も消えた。あれほどの難所(なんじょ)を越えてようよう此処(ここ)を尋ね当てた効(かい)も無く、暗い窟の奥には何の秘密も無かった。彼はお杉に有らぬ疑惑(うたがい)を掛けたのを、今更大(おおい)に後悔した。
「どうも僕が悪かったよ。」
「じゃア、もう可(い)いんですか。」
「むむ。ここまで詮議すれば心残りは無い。もう帰ろうよ。」
 とは云ったが、まだ幾分の未練が有るらしい、市郎は壁に沿うて室内を一巡(ひとめぐ)りした。
「や、あの隅に大きな穴がある……。」
 お杉の眼は晃然(ぎろり)と光った。市郎は進んで蝋燭の火を翳(かざ)すと、岩穴は深さ幾丈、遠い地の底でごうごうという音が微(かすか)に聞えるばかりで、蝋燭の細い光ぐらいでは到底(とても)達(とど)きそうも無い。穴の奥は深い闇に埋(うず)まれていた。
 市郎は更に跪(ひざま)ずいて底を覗いたが、底は唯(ただ)暗いのみで何にも見えなかった。お杉は黙って其背後(そのうしろ)に突っ立っていた。
 低い狭い石室(いしむろ)の中は、墓場のように鎮(しずま)り返っていた。が、其(そ)の寂寞(せきばく)は忽地(たちまち)に破られた。市郎は我が背後(うしろ)で微(かすか)に物の動く気息(けはい)を聞いたので、何心(なにごころ)なく顧(みかえ)ると、驚くべし彼(か)のお杉婆(ばばあ)は手に磨(と)ぎ澄(すま)したる小刀(こがたな)を振翳(ふりかざ)して、あわや彼を突かんとしているのであった。
「何をするッ。」
 市郎が驚いて叫ぶ間もありや無しや、お杉の兇器は其(そ)の頸筋(くびすじ)へ閃いて来た。が、咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に少しく体(たい)を躱(かわ)したので、鋭い切尖(きっさき)は僅(わずか)に其(そ)の肩先を掠(かす)ったのみであった。空(くう)を撃ったお杉は力余って、思わず一足前へ蹌踉(よろめ)く機会(はずみ)に、恐(おそら)く岩角に蹉(つまず)いたのであろう、身を翻(ひるが)えして穴の底へ真逆さまに転げ墜(お)ちた。蝋燭は消えて真の闇となった。
 意外の出来事に市郎も一時は呆気(あっけ)に取られたが、お杉が自分を殺そうとしたのは、恐(おそら)く昨日(きのう)の復讐ばかりではあるまい。彼女(かれ)は此(こ)の岩穴の中(うち)に何等かの暗い秘密を蔵(ぞう)しているので、其(そ)の発覚を恐れて斯(かか)る兇行を企てたに相違ない。矢(や)はり自分が最初(はじめ)に疑っていた通り、生死(しょうし)不明の父は此(この)穴の底深き処に葬られているのかも知れぬ。それにしても、お杉は何(ど)うしたろう。岩石に骨を砕かれて即座に命を隕(おと)したか、或(あるい)は案外の軽傷で無事に生きているか、先(ま)ず其(その)安否を確(たしか)めねばならぬ。いかに悪人にもせよ、此(こ)のまま見殺しにするという法はあるまい。
「兎(と)も角(かく)も穴へ入って見よう。」
 父の行方とお杉の安否とを探る為に、市郎は直ちに此(こ)の冒険を試みようと決心した。彼は燐寸(まっち)を擦(す)って再び蝋燭に火を点(つ)けた。其(その)光に因(よっ)て又もや穴の中を窺うと、底の底は依然として真暗(まっくら)であったが、彼は幸いに或物を見出した。それは一条の細い綱である。
 今までは些(ちっ)とも眼に注(つ)かなかったが、綱は人間の髪毛(かみのけ)に因(よっ)て固く編まれたもので、所謂(いわゆる)「毛綱(けづな)」の類(たぐい)であった。其(そ)の一端は穴の降口(おりぐち)とも思しき処の岩角に結び付けられて、他(た)の端は暗い底の方に長く垂れていた。試みに之(これ)を手繰(たぐ)って見ると、綱は古代の大蛇(だいじゃ)のように際限(はてし)もなく長いもので、繰(く)れども繰(く)れども容易に其端(そのはし)には達(とど)かなかったが、根(こん)よく手繰(たぐ)っている中(うち)に、漸(ようや)く残りなく引揚(ひきあ)げた。長さは幾丈あるか鳥渡(ちょっと)は想像が付かぬ位で、黒い固い綱は狭い室内に蟠蜒(とぐろ)を巻いて、其端(そのはし)は蛇の鎌首のように突っ立った。これが総て人間の髪毛(かみのけ)であるかと思うと、市郎は何となく薄気味悪く感じた。
 が、今は猶予している場合でない。市郎は其(その)綱の片端を自分の胴に緊(しか)と結び付けて、海燕(うみつばめ)の巣を猟(あさ)る支那人のように、岩を伝って真直(まっすぐ)に降り初めた。岩は殆ど峭立(きった)ったように嶮(けわ)しいが、所々には足がかりとなるべき突出(とっしゅつ)の瘤(こぶ)があるので、それを力に探りながら徐々(そろそろ)と進んだ。
 降(くだ)るに従って、深い穴の底はいよいよ暗かった。彼が僅(わずか)に頼みとするのは、鬼火のように燃ゆる一挺(いっちょう)の蝋燭の他は無かった。

 市郎は半(なかば)夢中であるから、約(およそ)何(ど)のくらい降りて進んだか判らぬ。兎(と)にかく手がかり足がかりの岩を辿って、下へ下へと危(あやう)くも降りてゆくと、暗い中から蝙蝠(かわほり)のようなものがひらりと飛んで来て、市郎の横面(よこつら)を礑(はた)と打った。あッと顔を背(そむ)ける機(はずみ)に、冷(つめた)い空気の煽りを受けて、頼みの蝋燭はふッと消えた。
「あ、失敗(しま)った!」と、市郎は思わず舌打(したうち)した。が、現在の位置にあって再び蝋燭を点(つ)けると云うことは、殆ど不可能であった。彼は左の手に蝋燭を持ち、右の手に岩を抱いて、辛くも其身(そのみ)を支えているのであるから、到底(とても)燐寸(まっち)を擦(す)るべき余裕は無い。迂濶(うかつ)に手を放せば、彼は底知れぬ暗黒(くらやみ)に転げ墜(お)ちて、お杉と同じ運命を追わねばならぬ。さりとて此(こ)のままの暗黒(くらやみ)では仕方が無い。
 彼は霎時(しばらく)途方に暮れたが、此(こ)の場合兎(と)も角(かく)も進んで行くより他は無いので、市郎は探りながらに徐(しずか)に降りた。それから二三間(げん)ほど進んだかとも思う時に、彼の左の足は硬い物に触れた。靴で幾度(いくたび)か探って見ると、これは突出(とっしゅつ)した岩の角で、岩は可成(かなり)に広いらしい。ここならば両手を放しても立って居られそうに思われたので、「可(よし)、ここで燐寸(まっち)を点(つ)けようか。」と、市郎は更に右の足を踏み締めると、足の下は意外に柔(やわら)かであった。左は硬く、右は柔かい。少しく可怪(おかし)いとは思ったが、柔かいのは恐(おそら)く粘土(ねばつち)であろうと想像して、彼は先(ま)ずここに両足を踏み固めた。
 で、何よりも早く蝋燭を点けねばならぬ。市郎は手早く燐寸を擦ると、余りに慌てた結果、火は点いたが又忽(たちま)ち消えた。が、この瞬時の光に因(よっ)て、彼は我が足下(あしもと)に人の横(よこた)わっているのを見た。男か女か確(しか)とは判らぬ、唯(ただ)蒼白い顔が朦朧(ぼんやり)と浮き出したかと思う間もなく、四辺(あたり)は再び旧(もと)の闇に隠れて了(しま)った。
「阿父(おとっ)さんか、お杉か、但(ただ)しは別人か。」
 市郎は急(せ)いて又燐寸を擦ったが、胸の動悸に手は顫(ふる)えて、幾たびか擦損(すりそん)じた。彼は愈(いよい)よ悶(じ)れて、一度に五六本の燐寸を掴んで力任せに引擦(ひっこす)ると、火は漸(ようや)く点いた。
 わが足下(あしもと)に横(よこた)わっているのは、尋ぬる父の安行であった。わが右の足で踏んでいた柔かい物は粘土(ねばつち)で無い、老(おい)たる父の左の股(もも)であった。市郎は驚いて声も出なかった。慌てて飛退(とびの)いて更に熟(よく)視(み)ると、人違いでない、確(たしか)に父の安行である。が、其(その)顔は生ける日と些(ちっ)とも変らず、極めて平和な温順な人相を現わして、斯(かか)る変死者に往々(おうおう)見る所の苦痛や煩悶の死相は少しも見えなかった。父は恐(おそら)く不意に殺されたのであろう。父は怖るべき危害の迫り来るを予知せずに突然死んだのであろう。
 市郎は蝋燭を岩の罅間(さけめ)に立てて、一先(ひとま)ず父の亡骸(なきがら)を抱き起(おこ)したが、脈は疾(と)うに切れて、身体は全く冷えていた。併(しか)し一通り見た所では、何処(どこ)にも致命傷らしい疵(きず)の痕は無かった。多分この岩の上へ突き落されて、脳震盪(のうしんとう)を起(おこ)して死んだのではあるまいか。勿論(もちろん)、これとても想像に過ぎない。
「阿父(おとっ)さん……。」
 切(せめ)てもの心床(こころゆか)しに、市郎は父の名を呼んだが、魂魄(たましい)の空しい人は何とも答えなかった。
「阿父さん……。」
 彼は再び呼んだ。呼んで返らぬとは知りながら、再び呼んだのである。
 市郎は一人児(ひとりこ)であった。小児(こども)の時に生(うみ)の母には死別(しにわか)れて、今日(こんにち)まで父(おや)一人子一人の生涯を送って来たのである。父は年齢(とし)よりも若い、元気の好(い)い人であった。わが子に対(むか)っても平気で冗談を云うような人であった。加之(しか)も我子を又無く愛する親であった。遠からず我子に嫁を迎えて、自分は隠居する意(つもり)の親であった。
 この父(おや)と子と突然に別離(わかれ)を告げたのである。それも尋常一様の別離(わかれ)でない。父は夢のように姿を隠して、夢のように死んだのである。加之(しか)も人間の通わぬ窟の奥、暗い蝋燭の下で其(その)悲しき死顔を見たのである。
 市郎は父の亡骸を抱(いだ)いて泣いた。

 この時、背後(うしろ)の方から不意に物の気息(けはい)が聞えて、何者か忍び寄るようにも思われたので、市郎は手早く蝋燭を把(と)って起上(たちあが)ると、余りに慌てたので、彼は父の死骸に蹉(つまず)いた。広いと云っても一坪にも足らぬ岩の上である。彼はあッと云う間に足を踏み外して、深さも知れぬ暗い底へ転げ墜(お)ちた。
 が、幸いに彼の身体には例の毛綱(けづな)が結び付けてあるので、市郎は岩から墜(お)ちる途端に、早くも綱に取付(とりつ)いてずるずると滑り墜(お)ちると、二三間(げん)にして又もや扁平(ひらた)い岩の上に止(とま)った。横さまに跪(ひざま)ずいて倒れたので、左の膝を少しく痛めたが、差したることでも無いらしい。彼は疼痛(いたみ)を忍んで直(すぐ)に起き上(あが)った。其(その)片手には消えた蝋燭を後生大事に握っていた。
 斯(か)くして彼は父の死骸から遠ざかって了(しま)ったのである。引返(ひっかえ)そうにも足がかりが見出されぬ。降りる方は比較的容易であったが、登るのは余(よ)ほど困難であるらしい。斯(こ)うなるからは寧(いっ)そのこと、どん底まで真直(まっすぐ)に降りて行って、彼(か)のお杉の安否を確(たしか)めた方が優(まし)かも知れぬ。ええ、何(ど)うなるものか、行ける所まで行って見ろと、一種の自棄(やけ)と好奇心とが混(まじ)って、市郎は更に底深く降りることに決心した。それに付けても唯一の味方は蝋燭である。彼は又もや燐寸(まっち)を擦付(すりつ)けようとする時、人か獣か何か知らぬが、嶮(けわ)しい岩を跳越(はねこ)えてひらりと飛んで来た者がある。
 身を躱(かわ)す間もあらばこそ、彼(か)の怪物は早くも市郎の前に飛込(とびこ)んで来て、左の外股(そともも)の辺(あたり)を礑(はた)と打った。敵は兇器を持っているらしい、打たれた所は唯(ただ)ならぬ疼痛(いたみ)を感じて、市郎は思わず小膝を突いた。「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)か。」と、此(こ)の刹那に市郎は忽(たちまち)に悟ったが、敵が余りに近く薄(せま)っているので、火を点(つ)ける余裕が無い。彼は右の足を働かして強く蹴ると、敵は足下(あしもと)に倒れたらしい。暗黒(くらやみ)で固(もと)より見当は付かぬが、市郎は勝つに乗って滅多矢鱈(めったやたら)に蹴飛ばす中(うち)に、靴の尖(さき)には応(こた)えがあった。敵は猿のような声を揚げてきゃッと叫んだぎりで霎時(しばらく)は動かなかった。
 この隙を見て、市郎は忙(いそが)わしく燐寸(まっち)を擦(す)った。蝋燭の火の揺(ゆら)めく影を便宜(たより)にして、先(ま)ず此(こ)の怪物の正体を見定めようとする時に、一人の男がぬッと其(そ)の眼前(めさき)へ現われた。市郎は悸然(ぎょっ)として熟(よく)視(み)ると、これは※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)では無いらしい。而(しか)も※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)とは大差ない程に見ゆる下級労働者らしい扮装(いでたち)で、年の頃は五十前後でもあろう、髪を長く伸(のば)して、尖(とが)った顔に鋭い眼を晃(ひか)らせ、身には詰襟(つめえり)の古洋服の破れたのを着て、足には脚袢(きゃはん)草鞋(わらじ)を穿(は)いていた。其扮装(そのいでたち)を見て察するに、近来この土地へ続々流れ込んで来る坑夫か土方(どかた)の仲間らしい。
「私(わたし)は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)じゃアありませんよ。御安心なせえまし。ははははは。」
 男は笑いながら馴々(なれなれ)しく近寄って来たが、市郎は容易に油断しない、蝋燭を突き付けたままで其(その)顔を屹(きっ)と睨んでいた。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)はここに居まさあ。御覧なせえまし、此(こ)の醜態(ざま)だ。」
 男が笑いながら指さす我が足下(あしもと)には、何さま異形(いぎょう)の者が倒れていた。先夜トムを殺した奴と確(たしか)に同種類に相違ない。赭土色(あかつちいろ)の膚(はだ)で、髪の長い、手足の長い、爪の長い、人か猿か判らぬような怪物である。彼は市郎の靴で額の真向(まっこう)を蹴破られたと見えて、濃黒(どすぐろ)いような鮮血(なまち)が其(その)凄愴(ものすご)い半面を浸していた。
 併(しか)し彼は死んだのでは無かった。其(そ)の眼前(めさき)に蝋燭の火を差付(さしつ)けられると共に、又もやきゃッと叫んで跳ね起きて、血だらけの顔を抱えながら岩から岩へ、何処(どこ)へか飛んで行って了(しま)った。
 斯(か)くして真実(ほんとう)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は逃げ去ったが、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)類似の怪しい男は未(ま)だ眼の前に残っている。此(この)男は果(はた)して善か悪か、敵か味方か、市郎も其(その)判断に苦(くるし)んで佇立(たたず)んでいると、男は愈(いよい)よ馴々(なれなれ)しい。
「旦那、御心配なせえますな。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なんて云うものは、意気地のねえ奴ですから、もう蒐(かか)って来る気配(きづか)いありませんよ。はははは。」
 彼は勇士である。人の恐るる山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を物の屑(かず)とも思っていないらしい。

 何しろ、得体の判らぬ男であるが、何時(いつ)まで睨み合っていても際限(はてし)がないと、市郎の口も解(ほぐ)れ初めた。
「お前さんは此(この)穴に棲んでいるのか。」
「そうじゃアありませんが、大抵勝手は心得ていますよ。」
「底までは未(ま)だ余(よ)ほど遠いかね。」
「何、もう直(すぐ)です。御覧なせえまし、唯(たっ)た三四間(けん)の所でさあ。」
 蝋燭を照(てら)して視(み)ると、底は近い。獣の牙のような大小の岩が聳(そび)えていた。
「今、人が墜(お)ちたんだが……。」と、市郎は伸上(のびあが)って底を覗くと、男は首肯(うなず)いた。
「もう少し前に、上から墜(お)ちて来た者がありましたよ。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)かと思っていたが、然(そ)うじゃア無かったか知ら。」
 男は先に立って岩を降りた。市郎も続いて降りた。やがてどん底まで辿り着くと、果して其処(そこ)にお杉の死骸が倒れている。彼女(かれ)は牙のような岩と岩との間に挟まれて、さながら巨大(おおい)なる野獣に咬まれたような形で死んでいた。
 男は少しく眉を顰(ひそ)めて、お杉の死顔を凝(じっ)と眺めていた。市郎は念の為に脈を取って見たが、これも手当を施すべき依頼(たのみ)は切れていた。
「一体、この女は何(ど)うして墜(お)ちたんだろう。旦那は此女(これ)を御存知ですか。」
 善悪判らぬ此(この)男に対して、市郎は真(まこと)を語らなかった。
「さあ、僕も知らない。僕は唯(ただ)この窟を探険に来たのだ。」
「じゃア、書生さんだね。」
「まあ、然(そ)うさ。」
 こんなことを云っている中(うち)に、市郎は漸次(しだい)に足の疼痛(いたみ)を感じた。今までは気が張っていたので、何も彼(か)も殆ど夢中であったが、曩(さき)に岩の上へ転げ墜(お)ちた時に彼は左の膝を痛めた。続いて※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の為に左の股(もも)を傷(きずつ)けられた。加之(しか)も二度目の傷は刃物で突かれたと見えて、洋袴(ずぼん)に滲(にじ)み出る鮮血(なまち)の温味(あたたかみ)を覚えた。究竟(つまり)彼は左の片足に二ヶ所の傷を負っているのであった。
 父の行方も探し当て、お杉の生死(しょうし)も確(たしか)め得たので、彼も今は気が弛(ゆる)むと共に、市郎は正しく立つに堪(た)えられなくなって来た。跛足(びっこ)を曳(ひ)きながら傍(かたえ)の岩角に跟蹌(よろ)けかかって、倒れるように腰を卸(おろ)した。男も其側(そのそば)へ腰をかけた。
「旦那は何(ど)うか為(な)すったんですか。」
「些(ちっ)と怪我(けが)をした。」と、市郎は顔を皺(しか)めて、「そこでお前さんに頼みたいことが有るんだが……。僕は此(こ)の通り、足を痛めているんで到底(とても)歩けそうもない。お前さんは此処(ここ)の勝手を知っていると云うなら、後生(ごしょう)だから僕の家(うち)まで行って来て呉(く)れないか。而(そう)して、僕がここに居るから迎いに来て呉(く)れと……。」
「旦那の家(うち)は遠いんですか。」
 男は余り気の進まぬような返事であった。市郎は衣兜(かくし)の紙入(かみいれ)から紙幣を探り出して、黙って男の手に渡すと、彼は鳥渡(ちょっと)頂いて直(すぐ)に我が洋袴(ずぼん)の衣兜(かくし)へ捻込(ねじこ)んで了(しま)った。
「じゃア、行って来ましょう。旦那のお宅は何方(どちら)です。」
「この山を降りて樅(もみ)の林を抜けると、町は直(すぐ)に見える。僕の家(うち)は角川と云うんだから、町で訊けば直(すぐ)に判る。」
 角川と聞いて、男の顔色は少しく動いた。市郎の顔を再び覗いて、
「あなたは角川の若旦那ですかい。」
「むむ。僕は角川の倅(せがれ)だ。」
「へえ、そうですか。」と、考えて、「大旦那はまだ御健康(おたっしゃ)ですかい。」
「え、お前さんは僕の親父を知っているのか。」と、市郎は不審の眼を晃(ひか)らせると、男は忽(たちま)ち頭(かしら)を掉(ふ)った。
「いいえ、お目にかかったことは有りませんが……。何しろ、それじゃア直(すぐ)に行って来ましょうよ。」
「何分頼むよ。」
「よろしい。待ってお在(いで)なせえまし。」
 男は口早に、身軽に起上(たちあが)って、衣兜(かくし)から新しい手拭を把(と)って頬包(ほおかむ)りした。
「旦那、この綱は大丈夫ですかい。」
「むむ、上の岩に緊乎(しっかり)結び付けてある。」
 市郎は自分の胴に巻いた毛綱(けづな)を解(と)いて、傍(かたえ)の岩角に結び付けると、男は之(これ)に縋(すが)って登り初めた。かれは鉱山生活に慣れているらしい、手は綱に縋り、足は岩に踏みかけて、案外無造作にするすると登って行った。穴の入口に達した時に、彼は下に向って声をかけた。
「旦那、行って来ますよ。」

 虎ヶ窟に於て是(これ)ほどの事件が出来(しゅったい)している間に、彼(か)のお葉と重太郎とは、何処(どこ)に何をしていたであろう。二人に関する昨夜以来の成行(なりゆき)を、ここで簡短(かんたん)に説明せねばならぬ。
 前にも記す如く、お葉は自分にも判らぬ心理状態の中(うち)に此(こ)の山中(やまなか)へ誘(いざな)われ、此(こ)の窟の奥に囚われて了(しま)った。重太郎と山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)とは夜の更けるまで帰って来なかった。
「妾(あたし)は何(ど)うして斯(こ)んな処へ来たんだろう。」と、時の経つに従って、お葉は夢から醒めたように考えた。今日一日のお葉は、自分ながら何が何(ど)うしたのか殆ど判断が付かなかった。或(あるい)は酔い、或(あるい)は醒め、或(あるい)は夢み、自分の頭脳(あたま)は種々(いろいろ)の混乱を来(きた)した末に、お杉婆(ばばあ)の威嚇的命令の下(もと)に重太郎の嫁たるべく約束した。が、考えて見ると斯(こ)んな馬鹿馬鹿しいことは無い。妾は気でも狂(ちが)ったのか知らと、お葉はつくづく自分の馬鹿馬鹿しさに愛想(あいそ)を竭(つか)した。
 で、何は扨(さて)措いても、斯(こ)んな処に長居すべきでない。自分は東京深川生れのお葉さんである。自分の身状(みじょう)が悪い為に、旅から旅を流れに渡って、「行(ゆ)くにゃ辛い」と唄にまで謳(うた)わるる飛騨の山家(やまが)に落ちて来たが、それでも自分には自分の生命(せいめい)が有る、自分には自分の恋が有る。こんな山奥へ引摺込(ひきずりこ)まれて、人だか※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)だか判らぬような怪物共(ばけものども)の玩弄(おもちゃ)にされて堪(たま)るものか。他(ひと)面白くもない、好加減(いいかげん)に馬鹿にしろと、彼女(かれ)は持前の侠肌(きゃん)を発揮して、奮然袂(たもと)を払って起(た)った。
 が、お葉も流石(さすが)に彼(か)のお杉婆(ばばあ)に対しては、何となく不気味の感が無いでもなかった。窟の奥から窃(そっ)と抜け出して、先(ま)ず表の有様(ありさま)を偸(ぬす)み[#「偸み」は底本では「倫み」]視(み)ると、夜は既(も)う更けたらしい、山霧は雨となって細かに降っている。お杉は消えかかる焚火を前にして、傍(かたえ)の岩に痩せた身体を凭(よ)せかけたまま、さながら無言の行(ぎょう)とでも云いそうな形で晏然(じっ)と坐っていた。生きているのか、死んでいるのか、眠っているのか、起きているのか、一向に見当が付かない。
 捉(つか)まったら其(そ)れまでと度胸を据えて、お葉は抜足をして外へ出た。お杉婆は身動きも為(し)なかった。お葉は折柄(おりから)の雨を凌(しの)ぐ為に、有合(ありあ)う獣の皮を頭から引被(ひっかぶ)って、口には日頃信ずる御祖師様(おそしさま)の題目を唱えながら、跫音(あしおと)を偸(ぬす)んで忍び出た。
 それから一時間も過ぎた後(のち)に、重太郎が帰って来た、山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)も帰って来た。彼等は山蔦(やまづた)で引縛(ひっくく)った角川安行を抱えていた。
「阿母(おっか)さん、阿母さん。」
 重太郎が呼んでもお杉は答えなかった。重太郎は先(ま)ず窟の奥へ駈け込んだが、霎時(しばらく)して狂気の如く飛んで来た。
「阿母さん、お葉は……。お葉は何処(どこ)へ行った。」と、彼はお杉の腕を掴んで、力任せに引摺(ひきずり)廻した。
「何、お葉が居ない。」と、お杉も初めて眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)いた。
「阿母さん、寝ていたのか。」
「例(いつも)の通り、眼を瞑(つぶ)って神様に祈っていたのさ。」
「そんなら判りそうなものだ。お葉は居ない、お葉は逃げた。」
 重太郎は足摺(あしずり)して泣き出した。
「お葉が逃げた……。」と、母も眼を晃(ひか)らしたが、「心配お為(し)でない。何処(どこ)へ行くものか。家(うち)へ帰ったら又連れて来るから……。」と、さびしく笑っていた。
「何日(いつ)連れて来て呉(く)れる。」
「明日(あした)でも、明後日(あさって)でも……。」
 十日の中(うち)には死ぬと予言したお杉婆(ばばあ)にも、流石(さすが)に明日(あした)の自分の運命は判らなかったと見える。彼女は沈着払(おちつきはら)って我子を慰めた。が、若い血の燃ゆる重太郎には、明後日(あさって)は愚(おろか)、明日(あした)をも待たれなかった。彼は宛(さな)がら狂える馬のように跳(おど)り上(あが)った。
「否(いや)だ、否だ。今夜中に連れて来て呉(く)れ。」
「でも、今夜は不可(いけな)い。妾(あたし)は他に用が有る。明日までお待ちよ。」
 重太郎は既(も)う耳にも入れなかった。これから直(すぐ)にお葉の行方を追う意(つもり)であろう、彼は旧(もと)来し方(かた)へ直驀地(まっしぐら)に駈けて行った。

 お葉は虎ヶ窟から虎口(ここう)を逃れた。
 逃れたのは嬉しいが、扨(さて)其先(そのさき)に種々(いろいろ)の困難が横(よこた)わっていた。路(みち)は屡々(しばしば)記す通りの難所(なんじょ)である、加之(しか)も細雨(こさめ)ふる暗夜(あんや)である。不知案内(ふちあんない)の女が暗夜に此(こ)の難所を越えて、恙(つつが)なく里へ出られるであろうか。
 けれども、今はそんなことに頓着する場合で無かった。お葉は唯(ただ)無闇に行手を急いだ。昼ならば一度越えた路に就(つい)て、多少の心覚えや目標(めじるし)も有ったか知らぬが、真暗黒(まっくらがり)では何が何やら些(ちっ)とも判ろう筈が無い。同じような岩や、同じような谷や、同じような坂が、そこにも此処(ここ)にも路を遮(さえぎ)って、彼女(かれ)を遣(や)らじと抑留(ひきと)めるようにも思われた。
「死んでも構うものか」
 お葉は覚悟を極(き)めた。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)見たような奴等の玩弄(おもちゃ)になる位ならば、寧(いっ)そ死んだ方が優(まし)である。彼女(かれ)は足の向く方へと遮二無二(しゃにむに)と進んだ。其(その)勇気は健気(けなげ)とも云うべきであったが、此(この)種の冒険は気の強いばかりでは押通(おしとお)せるものでない。猟夫(かりゅうど)や樵夫(きこり)の荒くれ男ですら之(これ)を魔所と唱えて、昼も行悩(ゆきなや)む三方崩(さんぽうくず)れの悪所絶所を、女の弱い足で夜中に越そうと云うのは、余りに無謀で大胆であった。
 彼女(かれ)は裳(すそ)を高く※(「塞」の「土」に代えて「衣」、第3水準1-91-84)(かか)げて、足袋跣足(たびはだし)で歩いた。何を云うにも暗黒(くらがり)で足下(あしもと)も判らぬ。剣(つるぎ)なす岩に踏み懸けては滑り墜(お)ち、攀上(よじのぼ)っては転(まろ)び落ちて、手を傷(きずつ)け、脛(はぎ)を痛めた。況(まし)て飛騨山中の冬の夜は、凍えるばかりに寒かった。霧に似たる細雨(こさめ)は隙間もなく瀟々(しとしと)と降頻(ふりしき)って、濡れたる手足は麻痺(しび)れるように感じた。
 併(しか)し彼女(かれ)は飽(あく)までも強情であった。倒るるまでは進むという覚悟で、方角も知らずに起きつ転(ころ)んづ、盲探(めくらさぐ)りに辿って行くと、兎(と)も角(かく)も普通の山路(やまみち)らしい処まで漕ぎ着けた。東に迷い、南に迷い、彼女(かれ)は実に幾時間を費したか知らぬが、人の一心(いっしん)は怖しいもので、何(ど)うやら斯(こ)うやら彼(か)の難所(なんじょ)を乗切(のりき)ったらしい。
 ここまで来ると、流石(さすが)のお葉も寒気(かんき)と疲労とに堪(た)え兼ねて、唯(と)ある大きな岩の蔭に這い寄ったが、再び起(た)ち上(あが)る元気は無かった。彼女(かれ)は殆ど夢のように倒れて了(しま)った。
 雨は何時(いつ)か降歇(ふりや)んで、其夜(そのよ)も明け放れた。暁(あかつき)の霧は晴れて、朝日は昇った。父を尋ぬる市郎も、同じ時刻に此(こ)の山路(やまみち)へ迷い入って、或(あるい)は此(こ)のあたりを過ぎたかも知れぬが、お葉は遂に見出されずに了(しま)った。
 ここで市郎に見出されたら、お葉は何(ど)んなに幸福であったろう。ここで重太郎に見出されたら、お葉は何(ど)んなに不幸であったろう。飽(あく)までも運の悪いお葉は、第二の籤(くじ)を取らねばならぬ不幸に陥った。彼女(かれ)はここで重太郎に見出されたのである。
 重太郎はお葉の跡を追って、これも東西の嫌(きら)い無しに山中(やまじゅう)を駈け廻ったが、容易に女を捉え得なかった。嶮岨(けんそ)に馴れたる彼は、飛ぶが如くに駈歩(かけある)いて、一旦は麓(ふもと)まで降ったが又思い直して引返(ひっかえ)した。お葉は矢(や)はり山中(さんちゅう)に迷っていると信じたからであろう。
 斯(か)くて此処(ここ)よ其処(そこ)よと捜し廻る中(うち)に、夜が明けた。彼は目眩(まばゆ)き朝日の光を避けて、岩の蔭を縫って歩いていると、不図(ふと)我眼の前に白い物の横(よこた)わっているのを見付けた。
「お葉だ、お葉だ。」と、重太郎は跳(おど)って近(ちかづ)いた。
 彼は半死半生のお葉を抱え起(おこ)して、霎時(しばし)は飽かずに其(その)顔を眺めていたが、やがて傍(かたえ)の谷間の清水を掏(すく)い取って、女の口に注(そそ)ぎ入れた。死んだ方が寧(いっ)そ優(まし)のお葉は、不幸にも又蘇生(いきかえ)ったのである。
 気が注(つ)いて見ると、自分の手は獣のような重太郎に握られていた。驚いて振放(ふりはな)して起上(おきあが)ると、重太郎は再び其(その)手を掴んだ。
「お葉さん。何故逃げるんだ。お前は俺(おら)の女房になるという約束じゃアないか。」
「馬鹿にしてるよ。」と、お葉は蒼い顔を瞋(いか)らして、眼を吊上(つりあ)げた。
「だって、昨夕(ゆうべ)約束したじゃアないか。」
「知らないよ。昨夕は昨夕、今日は今日さ。昨夕は雨が降っても、今日はお天気になるじゃアないか。」
「じゃア、俺(おら)の女房にはならないのか。」
「知れたことさ。」
 お葉は罵(ののし)るように答えた。

 獣のような重太郎と相対(あいたい)しているお葉は、頗(すこぶ)る危険の位置にあると云わねばならぬ。彼(かれ)の情(じょう)が激して一旦其(そ)の野性を発揮したら、孱弱(かよわ)い女に対して何(ど)んな乱暴を敢(あえて)せぬとも限らぬ。
 お葉もそれを知らぬでは無かったろうが、彼女(かれ)も或時には其(そ)の野性を遠慮なく発揮する女であった。或時には坑夫や土方を客にして、負けず劣らずに乱暴比べをする程の勇気を有(も)っていた。彼女(かれ)は大抵の男を恐るるような女では無かった。昨日彼(か)のお杉に対して殆ど絶対的の服従を敢(あえて)したのは、自分にも判断の付かぬ一種不可思議の心理作用に因(よ)った為で、醒めたる後(のち)の彼女(かれ)は依然として強い女であった。
 況(まし)てお杉はここに居ない。わが目前の敵は重太郎一人(いちにん)である。たとい這奴(こいつ)が山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)の同類にした所で、一人(ひとり)と一人との勝負ならば多寡(たか)の知れたものである。罷(まか)り間違ったらば、其(そ)の喉笛にでも啖(くら)い付いて与(や)るまでのこと。勝負は時の運次第と、彼女(かれ)は咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に度胸を据えて了(しま)った。
 対手(あいて)が斯(こ)ういう覚悟で居ようとは、重太郎は夢にも知らぬ。彼は母に甘える小児(しょうに)のような態度で、飽(あく)までもお葉に附纏(つきまと)った。
「お葉さん。お前、何(ど)うしても俺(おら)の嫁になるのは忌(いや)か。え、お葉さん。後生だから承知して呉(く)れないか。俺(おら)ア斯(こ)んな山の中に棲んでるけれども、善(い)い宝物(たからもの)を沢山有(も)っているんだ。」
 お葉は唯(ただ)冷笑(あざわら)うのみで、見向きも為(し)なかった。
「お葉さん、真実(ほんとう)だよ、決して嘘じゃアない。俺(おら)ア昨日(きのう)……いや、一昨日(おととい)……阿母(おっか)さんから大事の宝物の在所(ありか)を教わったんだ。それを持出(もちだ)して他(ひと)に売れば、一足(いっそく)飛びに大変な金持になれるんだ。俺(おら)も能(よ)く知らないが、其(そ)の宝物というのは実に立派なものだ。真闇(まっくら)な処でもぴかぴか光って……。何だか斯(こ)う……。」
 山育ちの彼は、之(これ)を形容すべき適当の詞(ことば)を知らなかった。重太郎は徒爾(いたずら)に眼を瞠(みは)り、手を拡げて、其(そ)の尊(とうと)き宝であるべきことを頻(しきり)に説明為(し)ようと試みた。
「そんな立派な宝物がありゃア其(そ)れで可(い)いじゃアないか。お前さんが金持になりゃア、何(ど)んな良(い)いお嫁さんでも貰えるんだから、妾(あたし)なんぞに構ってお呉(く)れでないよ。」
 お葉は相変らず鼻で扱(あしら)っているので、重太郎は愈(いよい)よ急(せ)いた。
「だから、お前に頼むんだ。俺(おら)が金持になるから、お前を嫁に貰いたいんだ。何日(いつ)だったか忘れたが、雨のふる日の夕方に、俺が町へ食物(くいもの)を猟(あさ)りに出て、柳屋の門口(かどぐち)に立って彷徨(うろうろ)していると、酒に酔った奴等が四五人出て来て、此(こ)の乞食め、彼地(あっち)へ行けと俺を突き飛ばした。口惜(くやし)いから撲(なぐ)って与(や)ろうと思ったけれども、対手(あいて)が大勢だから我慢していると、そこへお葉さん、お前が出て来たんだ。」
 彼は其(そ)の当時の光景(ありさま)を思い泛(うか)べたらしい、今更のようにお葉の顔をしげしげと眺めた。
「而(そう)してお前が大きい声で、お止(よ)しよ、そんな可哀想なことをするもんじゃアない。其(その)人は妾(あたし)の可愛い人なんだから……。ねえ、お葉さん。お前は然(そ)う云ったろう。俺(おら)は其(その)時に確(たしか)に聞いた。其(その)晩、俺は窟へ帰ると、お前と夫婦になった夢を見たんだ。それから……それから俺は、何(ど)うしてもお前と夫婦になる気になったんだ。ねえ、お葉さん。判ったろう。俺は毎晩お前を夢に見ていたんだ。」
 然(そ)う云われると、此方(こっち)に記憶(おぼえ)が無いでもない。成(なる)ほど過日(いつか)そんなことも有った様(よう)である。が、それは固(もと)より酒の上の冗談に過ぎないのを、世間知らずの山育ちの青年(わかもの)は唯(ただ)一図(いちず)に真実(ほんとう)と信じて、此(ここ)に飛(とん)でもない恋の種を播(ま)いたのであろう。対手(あいて)に因(よっ)ては迂濶(うっかり)冗談も云えぬものだと、お葉は今更のように思い当った。
 山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)同様の分際で、深川生れのお葉さんに惚れるとは、途方もない贅沢な奴だと、今の今までは馬鹿馬鹿しくもあり、腹立(はらだた)しくもあったが、斯(こ)うなって見ると自分にも罪が無いでもない。嘘にもしろ、冗談にもしろ、自分は重太郎を可愛い人だと云った。で、対手(あいて)の方でも自分を可愛い人だと思い染めた。究竟(つまり)は無心の小児(こども)に対(むか)って菓子を与(や)ると戯(からか)った為に、小児(こども)は本気になって是非呉(く)れろと強請(ねだ)って来たような理屈である。対手(あいて)が世間を知らぬ小児(こども)同様の人間だけに、斯(こ)うなると誠に始末が悪い。

 お葉が黙って考えているので、重太郎は又もや迫り寄った。
「ねえ、お葉さん。お前は俺(おら)が髪をこんなに生(はや)しているので、忌(いや)なのか。それから……こんな獣類(けだもの)の皮を被(き)ているので、忌(いや)なのか。髪は今でも直(すぐ)に切るよ。衣服(きもの)は……金持になれば直(すぐ)に良(い)い衣類(きもの)を買って被(き)るよ。お前にも最(も)ッと良い衣類(きもの)を被(き)せて与(や)る。それから……山に棲んでいるのが忌(いや)なら、お前と一所(いっしょ)に町へ行く。何処(どこ)へでも行く。ね、可(い)いだろう。ね、それから……。」
 云わんとすることは未(ま)だ種々(いろいろ)畳(たたま)っているらしいが、山育ちの悲しさには彼の口が自由に廻らぬ。重太郎は唖(おし)か吶(どもり)のように、半(なかば)は身振や手真似で説明しながら、其(そ)の切なき胸を訴えているのである。普通の人から見れば、彼は野蛮である、兇暴である、殆ど※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の眷属(けんぞく)である。が、彼は決して所謂(いわゆる)悪人では無かった。彼が獰猛野獣の如きは其人(そのひと)境遇の罪で、其人(そのひと)自身の罪では無かった。
 そんな理屈までは思い及ばぬにしても、お葉は気の強いと共に涙脆(もろ)い女であった。種々(いろいろ)考えると、最初(はじめ)は唯(ただ)憎いと思っていた重太郎其人(そのひと)も、今は漸々(だんだん)に可哀そうにもなって来た。先刻(さっき)からの様子を見ると、彼は飽(あく)までも無邪気である。彼は極めて明白に、正直に、自己(おのれ)の詐(いつわ)りなき恋を語っているのである。
 形は人か猿か判らぬような青年(わかもの)ではあるが、彼の恋は深山(みやま)の清水(しみず)の如く、一点(いってん)人間の塵(ちり)を交えぬ清いものであった。お葉も其(そ)の誠には動かされた。が、此(こ)の返事は何となろう。
「お前さん、堪忍してお呉(く)れよ。」
 お葉は重太郎の手を把(と)って泣いた。
「じゃア、嫁になって呉(く)れるかい。」
「それが不可(いけな)いから謝るんだよ。妾(あたし)は何(ど)うしてもお前さんのお嫁にゃアなれないんだから……。」
 重太郎は黙って眼を晃(ひか)らせた。
「だから、堪忍してお呉(く)れと云うんだよ。」と、お葉は賺(すか)すように重ねて云った。
「何(な)、何故(なぜ)だ。」と、重太郎は息を喘(はず)ませて詰寄(つめよ)った。
 何故と聞かれると返事に困るが、お葉も重太郎と同じように片思いの恋が有る。重太郎の片思いが哀れであると共に、お葉の片思いも哀れであった。彼女は何(ど)うしても彼(か)の市郎を思い切れぬのである。
「お前さんは可哀想な人だねえ。」と、お葉は我身につまされて嘆息した。
「可哀想なら、嫁になって呉(く)れないか。」
 重太郎は飽(あく)までも無邪気であった。可愛いと可哀想とは其間(そのあいだ)に少しく距離のあることを、彼は未(ま)だ理解し得なかった。お葉は重太郎を可哀想だとは思ったが、其(その)同情が変じて恋とはならなかった。
「どうしても忌(いや)か。俺(おら)が斯(こ)んなに云っても肯(き)いて呉(く)れないのか。」と、重太郎は泣かぬばかりに口説いた。
「堪忍してお呉(く)んなさいよ。」と、お葉は泣いて答えた。
「だから、何故だと云うのに……。」
 以前のお葉ならば、「お前が忌(いや)だからさ」と、木て鼻を括(くく)ったように情(すげ)なく断ったかも知れぬ。が、今は然(そ)うでない。彼女(かれ)は優しく重太郎の手を把(と)った。
「ねえ、お前さん。妾(あたし)は決してお前を嫌う訳じゃアない。それほどに妾を思って呉(く)れるのは、真実(ほんとう)に嬉しいと思っている。だが、困ることには、妾にも思っている人があるんだから……。どうしてもお前のお嫁になることは能(でき)ないんだから、何(ど)うぞ諦めてお呉(く)んなさい。ね、判ったかい。決してお前さんを嫌うんじゃないよ。世間に女は妾一人(ひとり)じゃアない。お前が真実(ほんとう)に金持になれば、どんな良(い)いお嫁さんだって貰えるんだから……。妾よりも若い、最(も)っと綺麗な人がお内儀(かみ)さんに能(でき)るんだから……。」
 重太郎は頭(かしら)を掉(ふ)った。其(その)眼には熱い涙を湛(たた)えていた。
「判らないの。」と、少しく持余(もてあま)したようなお葉の声も湿(うる)んで聞えた。
 可哀想ではあるが、何時(いつ)までも際限(はてし)が無い。お葉は捉(と)られたる袂(たもと)を払って、
「じゃア、左様(さよ)なら。」
 重太郎は追掛(おいか)けて、又其(そ)の袂を捉えた。

 お葉を追い捉えた重太郎は、定めて破れかぶれの乱暴を始めるかと思いの外(ほか)、彼は矢(や)はり温順(おとなし)い態度であった。が、其(そ)の湿(うる)んだ眼は一種異様に輝いていた。
「お葉さん。どうしても帰るのか。」
「今も云ったような訳だから……。」
「どうしても帰るのか。」と、重ねて念を押した重太郎の声には、低いながらも力が籠っていた。
 彼も恐(おそら)く最後の決心を固めたかも知れぬ。涙の眼は漸次(しだい)に乾いて、険(けわ)しい眉の間(あいだ)に殺気を含んで来た。物を奪い、人を殺す位(ぐらい)のことは、彼等の仲間では別に不思議の事でもない。
 お葉も其(そ)の眼色(めいろ)を早くも悟った。
「お前さん、妾(あたし)を殺す気かい。」
 重太郎は黙っていた。
「殺すなら殺しても可(い)いよ。だが、力づくで乱暴を為(し)ようと云うなら、妾にも料見があるから……。」
 重太郎は黙っていた。
「だから、素直にお帰りよ。」
 重太郎は矢(や)はり黙っていた。が、やがて傍(かたえ)の岩蔭に聳(そび)えたる山椿の大樹に眼を注(つ)けると、彼は忽(たちま)ち猿のように其(そ)の梢にするすると攀登(よじのぼ)った。南向(みなみむき)の高い枝は既に紅い蕾(つぼみ)を着けているので、彼は其(そ)の二叉(ふたまた)の枝を択(えら)んで折った。
 何(ど)うするのかと見ていると、重太郎は其(そ)の枝を口に喞(くわ)えてひらりと飛び降りたが、物をも云わずお葉の前に歩み寄って、二叉の枝を股から二つに引裂(ひきさ)くと、何方(どっち)の枝にも四五輪の蕾を宿していた。彼は其(そ)の一枝(ひとえだ)をお葉に渡した。お葉も黙って受取(うけと)った。
 二人は黙って各自(めいめい)の枝を眺めていた。
「取替(とりか)えて貰おう。」と、霎時(しばらく)して重太郎は自分の枝を出した。お葉も自分の枝を出した。春待顔(はるまちがお)に紅い蕾を着けた椿の二枝(ふたえだ)は、二人の手に因(よっ)て交換されたのである。
 重太郎はお葉の枝を我が胸に犇(ひし)と押当(おしあ)てた。お葉は重太郎の枝を我が袖に抱(いだ)いた。重太郎の眼には涙が見えた。お葉も何とは無しに悲しくなった。
「じゃア、もう帰りますよ。」
 重太郎は無言で首肯(うなず)いた。市郎が窟にあると知ったら、お葉は無論引返(ひっかえ)したであろうが、そんなことは夢にも知らなかった。重太郎も知らなかった。飛騨山中の寒い朝(あした)、哀れは同じ片思いの男と女は、温かい涙を形見の花に灑(そそ)いで別れた。
 重太郎は潔(いさぎ)よくお葉を思い切ったのであろうか。彼はお葉から受取(うけと)った椿の枝を大事に抱えて、虎ヶ窟の方(かた)へ悄々(しおしお)と引返(ひっかえ)した。
 昨夜(さくや)彼が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)と共に山を降って、七兵衛と闘い、安行を奪(うば)ったのは、市郎に対する恋の恨(うらみ)と母の恨とであった。が、そんなことは既(も)う忘れて了(しま)ったらしい。重太郎は唯(ただ)この形見の枝を保護することにのみ屈託して、夢のように岩石の間を辿った。
 窟の前に来ると、母の姿が見えぬ。少しく怪(あやし)んで内を覗いたが、奥にもお杉の姿は見えなかった。
「阿母(おっか)さん、阿母さん。」
 彼は続けて呼んだ。この途端に窟の奥から一人の見馴れぬ男が飛んで出た。これは前に記した通り、市郎の使(つかい)を頼まれて、穴の底から登って来た坑夫体(てい)の男である。
 二人は恰(あたか)も入口で礑(はた)と出逢った。
「誰だい、お前は……。」
 重太郎は眼に角立(かどだ)てて詰(なじ)ったが、男は急(せ)いているのであろう、返事もせずに駈け出した。窟には母の姿が見えず、加之(しか)も怪しい男が出て来たのであるから、重太郎の不審は愈(いよい)よ晴れぬ。先(ま)ず飛び蒐(かか)って男の腰に組付(くみつ)いた。
「お前は誰だ。」
「誰でも可(い)いよ。煩(うる)せえ。」
 男は突放(つきはな)して又駈出(かけだ)そうとした。
「お前は俺(おら)の阿母(おっか)さんを殺したのか。」と、重太郎は呶鳴(どな)った。
「そんなことは知らねえ。」
 男は手暴(てあら)く重太郎を突き退(の)けると、彼は椿の枝を持ったままで地に倒れた。これで黙っている重太郎ではない、椿の枝を口に喞(くわ)えて又跳ね起きた。此(ここ)に忽(たちま)ち掴み合(あい)が始まった、上になり下になり、互(たがい)に転げて挑み争う中(うち)に、何方(どっち)が先に足を滑らしたか知らず、二人は固く引組(ひっく)んだままで、傍(かたえ)の深い谷へ転げ墜(お)ちた。

 山椿の下では、お葉と重太郎との詩的な別離(わかれ)があった。窟の外では、重太郎と素性の知れぬ男との蛮的な格闘があった。こんな事件が続いてある間(あいだ)、市郎は暗い岩穴の底に取残(とりのこ)されて、救いの人々の来るのを待っていた。
 一本の蝋燭は漸次(しだい)に燃え尽(つく)して、風なきに揺めく火の光は軈(やが)て其(そ)の消えんとするを示している。左(さ)したる重傷ではないと知りながらも、股(もも)と膝との疼痛(いたみ)は漸々(だんだん)に激しくなって来た。疲労と空腹とは愈(いよい)よ我を悩(なやま)して来た。
「七兵衛は何(ど)うしたろう。彼奴等(あいつら)も途(みち)に迷っているのか知ら。それにしても使(つかい)の男が早く行着(いきつ)いて呉(くれ)れば可(い)いが……。一体、あの男は何者だろう。土地不案内の為に、これも途中で迷っていられた日には、何時(いつ)まで経っても際限(はてし)があるまい。何(ど)うか一刻も早く町へ出て貰いたいものだ。若(も)し彼奴(あいつ)が不親切な奴で、金を貰いながら其儘(そのまま)どこへか行って了(しま)ったら何(ど)うだろう。いや、真逆(まさか)にそんな事もあるまい。」
 甲(それ)から乙(それ)へと考えながら、市郎は硬い岩を枕に暫(しばら)く寝転んでいた。
「もう何時(なんじ)だろう。」
 懐中時計を取出(とりだ)して視(み)ると、先刻(さっき)からの騒ぎで何時(いつ)何(ど)うしたか知らぬが、硝子(がらす)の蓋は毀(こわ)れて針は折れていた。日光(ひのめ)の視(み)えぬ穴の底では、今が昼か夜か、それすらも殆ど見当が付かぬ。
 待つ身の辛さは今に始めぬことであるが、取分(とりわ)けて今(いま)此(こ)の場合、市郎は待つ身の辛さと侘しさとを染々(しみじみ)感じた。彼は何(なに)とは無しに起き上(あが)って、蝋燭を照(てら)しつつ四辺(あたり)を見廻すと、四方(しほう)の壁は峭立(きったて)の岩石であるが、所々に瘤(こぶ)のような突出(とっしゅつ)の大岩があって、其(その)岩の奥には更に暗い穴があるらしい。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)は此(この)穴に棲んでいるんだろう。」と、市郎は首肯(うなず)いた。先刻(さっき)自分を傷(きずつ)けた※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)も、恐(おそら)くあの穴へ逃げ込んだのであろう。一体、彼(か)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なるものが何匹居るのか知らぬが、若(も)し大勢が其処(そこ)や彼処(かしこ)の穴から現われて出て、自分一人を一度に襲って来たら到底(とても)敵(かな)わぬ。
 彼は何等の武器を有(も)って居なかった。而(しか)も先夜の経験に因(よっ)て、彼等に対する唯一の武器は燐寸(まっち)の火であることを知っているので、市郎は慌てて燐寸の箱を検(あらた)めると、剰(あま)す所は僅(わずか)に五六本に過ぎぬ。彼は先刻(さっき)から燐寸を濫用したのを悔いた。
 で、更に念の為に蝋燭を揚げて、高い岩の上を其処(そこ)ここと照(てら)して視(み)ると、遠い岩蔭に何か知らず、星のように閃く金色(こんじき)の光を視(み)た。蝋燭の淡い光で熟(よ)くは判らぬが、兎(と)にかく其処(そこ)に一種の光る物があるらしい。こんな処だから何が棲んでいるか判らぬ。或(あるい)は怪獣の眼かと市郎は屹(きっ)と瞰上(みあ)げる途端に、頭の上から小さな石が一つ飛んで来たが、幸いに身には中(あた)らなかった。市郎は俄(にわか)に蝋燭を吹き消した。敵の的(まと)にならぬ用心である。
「これも※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の仕業だろう。」
 斯(こ)う思うと中々油断はならぬ。市郎は小さくなって岩の蔭に身を寄せた。つづいて第二の石が落ちて来た。今度のは余(よ)ほど大きいと見えて、投げると云うよりも、寧(むし)ろ転がし落したらしい。これに頭を打たれたら人間の最期である。
 市郎も流石(さすが)に肝(きも)を冷して、愈(いよい)よ小さくなっていると、又もや石をがらがらと投げ落す奴がある。敵は一人ではないらしい、大小の岩石が一時(いちじ)に上から落ちて来た。何人(なんぴと)も此(こ)の石攻めに逢っては堪(たま)らぬ、市郎も実に途方に暮れた。頭の上では何とも形容の能(でき)ぬ一種奇怪な笑い声が聞えた。石はつづいて落ちて来た。
「どうしたら可(よ)かろう。」
 此(こ)のまま小さくなっているのも愚(ぐ)である。何とかして彼等を撃退する工夫はあるまいかと、市郎も苦し紛れに種々(いろいろ)考えていると、わが傍(かたわ)らにひらりと飛んで来た者があるらしい。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)め、近寄って来たなと、市郎は直(ただ)ちに用意の燐寸(まっち)を摺(す)った。果(はた)して一人(いちにん)の敵は刃物を振翳(ふりかざ)して我が眼前(めさき)に立っていた。
 不意に燐寸の火に出逢って、敵は例の如く立縮(たちすく)んで了(しま)った。其隙(そのすき)を見て、市郎は我が足下(あしもと)に落ちたる大石を両手に抱えるより早く、敵の真向(まっこう)を目がけて力任せに叩き付けると、頭が割れたか顔が砕けたか、敵は悲鳴をあげて倒れた。

 目前の敵を一人(ひとり)殪(たお)したので、市郎は少しく勇気を回復した。敵もこれに幾分の恐怖(おそれ)を作(な)したか、其後(そのご)は石を降らさなくなった。が、彼等は何処(どこ)に隠れているか判らぬ、又何時(なんどき)不意に近寄って来るか判らぬ。斯(こ)う思うと些(ちっ)とも油断が能(でき)ぬので、市郎は絶えず八方に気を配っていた。
 併(しか)しこんな不安の状態(ありさま)で何時(いつ)までも続いていたら、結局自分は根負(こんまけ)がして了(しま)うに決(きま)っている。先刻(さっき)から余(よ)ほど時間も経っているだろうのに、救いの人々はまだ見えぬ。一旦は勝誇(かちほこ)った市郎も漸次(だんだん)に心細くなって来た。この上は依頼(たのみ)にもならぬ救援(すくい)の手を待ってはいられぬ、自分一人の力で此(こ)の危険の地を脱出するより他はない。
「早く然(そ)う決心すれば可(よ)かった。」
 市郎は痛む足を踏み締めて、例の毛綱(けづな)を再び我が胴に緊(しか)と結び付け、綱を力に精一杯伸び上(あが)って、傍(かたえ)の高い岩に飛び付こうとしたが、何(ど)うも足が自由に働かぬ。彼は飛び損じて又墜(お)ちた。さらでも痛い足を更に痛めた。
「到底(とても)不可(いけな)い。」と、市郎は失望の声を揚げて倒れた。
 この時、遠い頭の上で例の金色(こんじき)の光が淡く閃いた。市郎は眼を定(さだ)めて熟(よく)視(み)ると、穴の入口と覚しき所で何者か火を照(てら)しているらしく、其(その)光に映じて例の金色が見えつ隠れつ漂うのであった。
「扨(さて)は救いの人が来たか。」
 市郎は我を忘れて蹶(は)ね起きた。精一ぱいの声を振絞(ふりしぼ)って、「助けて呉(く)れ。角川市郎はここにいるぞ。」
 声はあなたまで響いたらしい、上でも之(これ)に応じて、「おうい。」と、答えた。
 市郎は重ねて呼んだ、上でも再び答えた。やれ可矣(よし)と安心する途端に、何処(どこ)から飛んで来たか知らず、例の大石が磊々(がらがら)と落ちて来て、市郎の左の肱(ひじ)を強く撃ったので、彼は堪(たま)らず横さまに倒れた。生きているのか死んで了(しま)ったのか判らぬ、彼は既(も)う再び起き上(あが)らなかった。
 上では其(そ)んなこととも知らないのであろう。大勢が声を揃えて市郎の名を呼んでいた。其中(そのなか)には塚田巡査の錆(さ)びた声も、七兵衛老翁(じじい)の破鐘声(われがねごえ)も混(まじ)って聞えた。
 この人々は今や漸(ようや)くここへ辿り着いたのであった。市郎が単身登山の途(と)に就いた後(のち)、七兵衛は慌てて家内(かない)の人々を呼び起(おこ)したが、疲れ切っている連中は容易に床(とこ)を離れ得なかったので、彼等が朝飯を済まして、家を出たのは午前七時を過ぎていた。塚田巡査も町の若者も之(これ)に加わって、一隊十四五名の人数(にんず)が草鞋穿(わらじば)きの扮装(いでたち)甲斐甲斐(かいがい)しく、まだ乾きもあえぬ朝霜を履(ふ)んで虎ヶ窟を探りに出た。人々は用心の為に、思い思いの武器を携えていた。
 巡査は窟の案内を心得ている筈であったが、何(ど)うしたものか路(みち)を踏み違えて、あらぬ方(かた)へと迷い入った。それが為に意外の時間を費して、今や初めて窟の入口へ辿り着いた時には、一隊の多くは既に疲れ果てて、そこらに有合(ありあ)う岩角に腰を卸(おろ)して先(ま)ずほッと息を吐(つ)く者もあった。寒気(かんき)を凌(しの)ぐ為に落葉を焚く者もあった。
 けれども、巡査は流石(さすが)に屈しなかった。七兵衛も頑丈であった。二人が先(ま)ず窟の奥へ潜(くぐ)り入って、第二の石門(せきもん)まで仔細に検査したが、内には暗い冷(つめた)い空気が漲(みなぎ)っているのみで、安行の姿も見えなかった。市郎の影も見えなかった。
「どうしたのだろう。」
 二人は愈(いよい)よ不安を感じて、そこらを頻(しきり)に見廻す中(うち)に、彼等も例の岩穴を見付けた。念の為に用意の松明(たいまつ)をあげて、真暗(まっくら)な底を窺(うかが)っていると、下から救いを呼ぶ声が遠く聞えた。安行は知らず、兎(と)にかく市郎だけは穴の底にいることが確(たしか)められた。
 七兵衛は引返(ひっかえ)して斯(か)くと報告すると、他(た)の人々もどやどや入込(いりこ)んで来た。
「兎(と)も角(かく)も降りて見よう。」
 巡査は斯(こ)う決心して、再び四辺(あたり)に鋭い眼を配ると、岩角に結び付けられたる彼(か)の長い毛綱(けづな)を見出した。これを手繰(たぐ)ったら、市郎の身体は無事に引揚(ひきあ)げられたかも知れぬが、其(その)綱の端が彼の胴に縛(くく)られてあると云うことを誰も知らなかった。が、何人(なんぴと)の考えも同じことで、巡査も先(ま)ず此(こ)の毛綱(けづな)に縋(すが)って、行かれる所まで行って試(み)ようと思い付いた。
 片手は綱に縋(すが)り、片手は松明(たいまつ)を把(と)って、塚田巡査は左右の足を働かせながら、足がかりとなるべき大小の岩を探りつつ、漸次(だんだん)に暗い底へ降りて行った。他(た)の人々は息を嚥(の)んで其(その)行動に注目していた。

 塚田巡査が穴を降(くだ)るに就(つい)ては、市郎ほどの危険と困難とを感じなかった。上に立つ大勢の人々は綱を操(あやつ)って彼の行動を助け、且(か)つ幾多の松明(たいまつ)を振翳(ふりかざ)して、能(あた)う限りの光明(あかり)を彼の行手に与えて居た。
 巡査も亦(また)大胆であった。一条の綱を力として猶予なくするすると降りて行くと、彼は中腹の稍(やや)扁平(ひらた)い岩石の上に立って、先(ま)ず彼(か)の安行の死骸を発見した。驚いて其(そ)の手足を検(あらた)めると、既に数時間の前に縡切(ことき)れたらしい、老人の肉も血も全く冷えていた。
 父が此(かく)の如き有様であるとすれば、其(その)子の安否も甚だ心許ないものである。巡査は念の為に市郎の名を呼んだ。が、声は四方の岩に反響するばかりで、底には何の返答(こたえ)もなかった。十分前までは頻(しきり)に救助(すくい)を呼んでいた市郎が、俄(にわか)に黙って了(しま)ったのは不可思議である。これも若(もし)や何等かの禍害(わざわい)を蒙(こうむ)ったのではあるまいかと、巡査は胸を騒がした。
 此(この)上は一刻も早く底の底まで探らねばならぬ。巡査は安行の死骸を見捨てて、更に底深く降りて行くと、途中には所々に突出(とっしゅつ)した大小の岩が聳(そび)えて、天然か人工か知らず、其(そ)の岩の上には横に低い穴が開かれている。けれども、先を急ぐ巡査は其(その)穴の奥を一々検査する暇は無かった。彼は唯(ただ)真直(まっすぐ)に降りて行った。
 やがて底近く来たと思う頃に、滔々(とうとう)たる水の音が凄まじく聞えた。松明を振照(ふりてら)して視(み)たが水らしいものは見えぬ、恐(おそら)く地の底を流れるのであろう、岩に激するような音が宛(さな)がら雷(らい)のように響いた。更に二間(けん)ばかり降りると、自分の縋(すが)っている綱の端(はし)には何物か縛(くく)られているのを発見した。巡査は息も吐(つ)かずに急いで降りると、それは人であった、彼(か)の市郎であった。
 巡査は今や幾十尺の底に達したのである。先(まず)其(そ)の綱を解(と)いて市郎を抱え起(おこ)すと、彼も所々(しょしょ)に負傷して、脈は既に止(とま)っていた。が、これは確(たしか)に血温(けつおん)が有る。巡査は少しく安堵の眉を開いて、取敢(とりあえ)ず彼(か)の綱を強く曳(ひ)くと、上では直(すぐ)におうと答えた。
 この時、巡査の足下(あしもと)を距(さ)る一間(けん)ばかりの所で、怪しい唸声(うなりごえ)が聞えた。傷(きずつ)いた野獣が喘(あえ)ぐようである。松明をそなたへ向けて窺うと、岩を枕に唸っているのは、半面血塗(ちまぶ)れの怪しい者であった。人か猿か判らぬ。「これが所謂(いわゆる)山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)だな。」と、巡査も悟った。で、猶(なお)能(よ)く其(その)正体を見届ける為に、其(その)傍(かたわ)らへ一歩進み寄ろうとする時、頭の上から大きな石が突然転げ墜(お)ちて来た。巡査は慌てて飛退(とびの)くと、石は傍(かたえ)の岩角に中(あた)って、更に跳ね返って彼(か)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の上に落ちた。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の傷(きずつ)ける顔は更に微塵(みじん)に砕けて、怪しい唸声(うなりごえ)は止んだ。
 併(しか)し彼(か)の大石は自然に落ちて来たのか、或(あるい)は故意に投げ落したのか、巡査には早速(さそく)の判断が附かなかった。若(も)し故意であるとすれば、四辺(あたり)には※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の同類が猶(なお)潜(ひそ)んでいるに相違ない。巡査は再度の襲撃を避ける為に、慌てて我が松明を踏み消した。
 穴の底は再び旧(もと)の闇に復(かえ)った。遠い地の下を行く水の音が聞えるばかりで、霎時(しばし)は太古の如くに静(しずか)であった。
 下の松明が俄(にわか)に消えたので、上の人々は又もや不安に襲われた。七兵衛を始め、一同が声を揃えて、おういと呼んだ。が、巡査は容易に答えなかった。迂濶(うかつ)に叫ぶと、其(その)声を便宜(しるべ)に何処(どこ)からか岩石を投落(なげおと)される危険を懼(おそ)れたからである。
 そうとは知らぬ人々は愈(いよい)よ不安の念に駆られて、手に手に松明を振翳(ふりかざ)しつつ穴の底を窺ったが、底の底までは到底(とても)達(とど)かぬ。この上は更に第二の探検隊を降(くだ)すより他は無かった。
「可(よし)、俺(おら)が降りて見る。」
 六十に近い七兵衛老爺(じじい)が手に唾(つばき)して奮然と起(た)つを見ては、若い者共も黙っては居(い)られぬ。皆口々に、「老爺(じい)さんは危ねえ、私等(わしら)が行く。」と、遮(さえぎ)り止(とど)めた。が、此(こ)の毛綱(けづな)を伝って降りると云うことは余り安全の方法でない。
「何か可(い)い物はあるまいか。」
 飛騨の山人(やまびと)は打寄(うちよ)って、この国特有の畚(ふご)を作ることを案じ出した。

 飛騨の畚渡(ふごわた)しは、昔から絵にも描(か)かれ、舞台にも上(のぼ)されて甚だ有名である。河中(かわなか)に岩石突兀(とっこつ)として橋を架ける便宜(よすが)が無いのと、水勢が極めて急激で橋台(きょうだい)を突き崩して了(しま)うのとで、少しく広い山河(やまがわ)には一種の籠(かご)を懸けて、旅人は其(そ)の両岸に通ずる大綱(おおづな)を手繰(たぐ)りながら、畚に吊られて宙を渡って行く。勿論(もちろん)、今日(こんにち)では其(その)仕掛に多少の改良は加えられたが、天然の地形は未(いま)だ畚渡しの全廃を許さぬ。飛騨の奥ふかく迷い入る人は、大切な生命(せいめい)を一個の畚に託して、眼も眩(くら)むばかりの急流の上を覚束なくも越えねばならぬのである。
 されば今この人々は早くも畚を思い付いた。七兵衛が指揮の下(もと)に、大勢は窟の外へ一旦引返(ひっかえ)して、四辺(あたり)に立ったる杉や樅(もみ)の大枝を折った。或者は山蔦(やまづた)の蔓(つる)を折った。斯(か)くて約二十分の後(のち)には、大きい枝を組み合わせ、長い蔓を巻き付けて、人を容(い)るるに足るほどの畚を作り上げた。
「これがあれば大丈夫だ。」
 彼等は再び窟に入(い)って、畚を卸(おろ)す準備に取懸(とりかか)った。畚を吊るには彼(か)の毛綱(けづな)が必要である。大勢が手を揃えて其(その)綱を繰上(くりあ)げると、綱の端(はし)には尠(すくな)からず重量(めかた)を感じたので、不審ながら兎(と)も角(かく)も中途まで引揚(ひきあ)げると、松明(たいまつ)の火は漸(ようや)く達(とど)いた。洋服姿の市郎は胴を縛(くく)られたままで、さながら縁日で売る亀の子のように、宙に吊られつつ揚(あが)って来たのである。人々も驚いて声を揚げた。
「や、小旦那(こだんな)だ……。角川の小旦那だ……。早く引揚(ひきあ)げろ。」
 市郎は恙(つつが)なく引揚げられた。が、彼は正体も無く其処(そこ)に倒れて横(よこた)わったので、騒ぎは愈(いよい)よ大きくなった。一隊の中(うち)でも足の達者な一人(いちにん)は、麓(ふもと)まで医師を迎えに走った。斯(こ)うなると、巡査の身の上も益々不安である。権次(ごんじ)という若者を乗せた畚(ふご)は直(ただ)ちに卸(おろ)された。
 畚が中途まで下(さが)って来た時、暗い岩穴の奥から一個(ひとり)の怪しい者が現われた。彼は刃物を振翳(ふりかざ)して、綱を切って落そうと試みたが、綱は案外に強いので、容易に刃が立(たた)なかった。而(しか)も権次が無闇に振廻(ふりまわ)す松明の火に恐れて、彼は忽(たちま)ち逃げ去った。畚は滞りなく底に着いた。
 塚田巡査は先刻(せんこく)から待侘(まちわ)びていたらしい、暗い中から慌しく進み寄って、先(ま)ず其(そ)の無事を祝した。権次は畚から降り立って、合図の綱を強く曳(ひ)くと、上ではおうと答えて、畚をするすると繰上(くりあ)げた。
「用心しないと不可(いけな)い。何処(どこ)からか石を投げる奴があるぞ。」と、巡査は注意した。権次は首を縮(すく)めて岩のかげに隠れた。
 つづいて第二第三の畚が卸(おろ)されて、穴の底にも大勢の味方が殖(ふ)えた。もう斯(こ)うなっては、隠れたる敵も恐怖(おそれ)を作(な)したのであろう、何等危害を加えようとも為(し)なかった。人々は持ったる松明を揚げて四辺(あたり)を窺うと、そこには鬼の如きお杉婆(ばばあ)の死顔と、猿の如き山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)の亡骸(なきがら)とを発見した。
 此(この)上の手続(てつづき)は委(くわ)しく記すまでもあるまい。権次が一旦上まで引返(ひっかえ)して、一同に其(その)始末を報告した上で、三個(みつ)の亡骸は畚に乗せて順々に引揚(ひきあ)げられた。第一は安行、第二は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)であった。最後に乗せられたお杉の亡骸は、既に頂上まで達(とど)いたと思う頃、何(ど)うした機会(はずみ)か其(その)畚は斜めに傾いて、亡骸は再び遠い底へ真逆様(まっさかさま)に転げ落ちた。更に畚に乗せて再び吊上(つりあ)げると、今度も亦(また)中途から転げ落ちた。お杉の霊魂(たましい)は此(この)窟を去るのを嫌うのであろう。が、何(ど)うしても其儘(そのまま)には捨置(すてお)かれぬので、最後には畚に緊(しか)と縛(くく)り付けて、遂に彼女(かれ)を上まで運び出した。
 これで先(ま)ず屍体の収容は済んだ。三個(みつ)の亡骸を窟の外へ舁(か)き出して明るい所で検視を行うと、安行の屍体には何等負傷の痕も無く、其(その)顔は依然として安らかに眠っていた。が、お杉の瞋(いか)れる顔は宛然(さながら)の鬼女であった。加之(しか)も高い所から再三転げ落ちて、剣(つるぎ)の如き岩石に撃(うた)れ劈(つんざ)かれたので、古い鳥籠を毀(こわ)したように、身体中の骨は滅裂(ばらばら)になっていた。
 更に人を駭(おどろ)かしたのは、彼(か)の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の最期であった。幾百年の昔から、口でこそ山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と云うけれども、誰も明白(あきらか)に其形(そのかたち)を認め得た者は無かった。然(しか)るに今や白昼に其(そ)の怪しき形骸を晒(さら)したのである。白昼に幽霊が出たように、人々は驚異の眼を瞠(みは)って、何(いず)れも其(そ)の周囲(まわり)に集(あつま)り来(きた)った。

 此(ここ)に怜悧(りこう)な観世物師(みせものし)があったら、直(ただち)に前代未聞と吹聴すべき山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)なるものの正体は抑(そも)何(ど)んなであったか。勿論(もちろん)、彼等にも牝(めす)牡(おす)はあろうが、今ここに屍体となって現われたのは、確(たしか)に女性であった。脊丈(せい)は先(ま)ず四尺ぐらいで、腰に兎の皮を纏(まと)っている他は、全身赤裸々(あかはだか)である。鮫(さめ)のように硬い皮膚の色は一体に赭土色(あかつちいろ)で、薄い毛に覆われていた。頭は小さく、眼も小さく、額の著(いちじ)るしく窪んでいるのが人の注意を惹いた。彼等の或(ある)者は非常に長い髪を垂れていると伝えられるが、これは殆ど禿頭(はげあたま)と云っても可(い)い位で、脳天に僅少(わずか)ばかりの灰色の毛がちょぼちょぼと生えているのみであった。
 鼻は猿のように低かった。耳は狐のように立っていた。口も比較的に小さい方で、黄(きいろ)い口唇(くちびる)から不規則に露出(むきだ)している幾本の長い牙は、山犬よりも鋭く見えた。足の割には手が長く、指は矢(や)はり五本であるが、爪は鉄よりも硬く且(かつ)尖(とが)っていた。手掌(てのひら)の皮が非常に厚く硬いのを見ると、或(ある)場合には足の働きもして、四つ這いに歩くらしい。
 これが満足で居(い)ても既に此(かく)の如き異体(いてい)の怪物である。況(まし)て市郎の為に、最初(はじめ)は靴で額を蹴破られ、次に石を以て真向(まっこう)を打割(うちわ)られ、最後には味方の石に因(よっ)て顔一面を砕かれたのであるから、肉は砕け、骨は露(あら)われて、其(そ)の醜(しゅう)、其(そ)の怪(かい)、実に形容も能(でき)ぬ光景(ありさま)であった。人々も之(これ)に対しては何とも云うべき詞(ことば)を知らなかった。
「一体、これは何だろう。猿か知ら、人間か知ら……。」
 猿か人間か到底(とても)判らぬ、究竟(つまり)は一種の山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と云うものであると答えるより他は無かった。塚田巡査も此(こ)の解釈には苦(くるし)んだ。
「若(も)し之(これ)が生きていたらなあ。」と、呟く者もあった。実際、之(これ)が生きていたら、人か猿かの区別が付くかも知れぬ。万一、彼が人間の詞(ことば)を幾許(いくら)か解するとすれば、訊問の結果、どんな有益な発見が無いとも限らぬ。
「そうだ。此(こ)の機会に乗じて奴等を生捕(いけど)って与(や)ろう。」
 塚田巡査は野心に富んでいた。又、仮(たと)い野心が無いにしても、人間に対して屡々(しばしば)危害を加える山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の如きものを、唯(ただ)見逃して置くという法は無い。殊に昨夜(さくや)の身元知れざる惨殺屍体と云い、今日(きょう)の安行殺害事件と云い、何(いず)れも※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に関係があるらしく思われるのであるから、警官の職分として、唯(ただ)見逃しては置かれぬ。巡査は再び窟に入って、穴居(けっきょ)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を捕獲すべく決心したのも無理ではなかった。
 巡査の決心と勇気とに励まされ、これに又幾分の好奇心も交(まじ)って、数名の若者は其後(そのあと)に続いた。七兵衛等は後(あと)に残って、生死(しょうし)不分明(ふぶんみょう)の市郎と三個(みつ)の屍体とを厳重に守っていた。
 松明(たいまつ)を把(と)ったる巡査と他(ほか)数名の勇者は、頼光(らいこう)の四天王(してんのう)が大江山(おおえやま)へ入(い)ったような態度で、再び窟へ引返(ひっかえ)した。巡査が先(ま)ず畚(ふご)に乗って降りた。他(た)の者も順々に降りた。
 穴の中は依然として暗かった。松明の光を便宜(たより)にして、ここぞと思うあたりの岩穴を一々検査すると、岩壁を穿(うが)ったる横穴は数(す)ヶ所に拓(ひら)かれていた。が、穴の天井は極めて低いので、到底(とても)真直(まっすぐ)に立っては歩かれぬ。人々は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)のように四つ這いになって進んだ。
 第一の穴は行止(ゆきどま)りになっていて、別に何者をも発見しなかった。第二の穴も空虚(から)であった。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)め、もう逃げたかな。」
 更に降って第三の穴を窺った。ここは比較的に大きい岩が突出(とっしゅつ)していて、苔(こけ)に包まれたる岩の面(おもて)は卓子(テーブル)のように扁平(たいら)であった。巡査は松明を片手に這い寄ると、穴の奥から不意に一個(ひとつ)の石が飛んで来た。石は松明に中(あた)って、火の粉は乱れ飛んだ。素破(すわ)やと一同色めいて、何(いず)れも持ったる武器を把直(とりなお)した。
 若者の一人(いちにん)は猟銃を携えていた。或(ある)者は棒を持っていた。或(ある)者は竹槍を掻込(かいこ)んでいた。巡査は剣(けん)の柄(つか)を握って立った。
 敵より投げたる一個(ひとつ)の石は宣戦の布告である。人間と※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)とは此(ここ)に戦闘(たたかい)を開かねばならぬ。

 ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)はこの奥に棲んでいると見当は付いた。が、敵の方にも何(ど)んな準備があるか測り知られぬので、巡査等も容易には進み兼ねた。敵の方でも最初の石を投げた後(のち)は、鎮(しずま)り返って音も為(し)ない。
 併(しか)し此(こ)のままに何時(いつ)までも睨み合っていては、際限(はてし)が付かぬ。塚田巡査は此(ここ)に一策を案じ出した。
「松明(たいまつ)を消せ。燈火(あかり)を消せ。」
 敵は最も火を嫌うのである。此方(こっち)が火を消したならば、恐(おそら)く勢いを得て突出(とっしゅつ)して来るであろう。そこを待受(まちう)けて囲み撃つという計略であった。守ること固きものは誘(いざの)うて之(これ)を撃つ、我が塚田巡査は孫子(そんし)の兵法(へいほう)を心得ていた。
 ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は果(はた)して人間よりも愚(おろか)であった。松明の火が消されると共に、俄(にわか)に石を投げ初めた。巡査等は身を屈(かが)めて其的(そのまと)に立つのを避けた。敵は愈(いよい)よ増長して、穴の奥から二匹三匹這い出して来た。彼等は我が術中に陥ったのである。
「占めたッ。」
 巡査は心に喜んで、闇を探りながら衝(つ)と寄って、其(そ)の一匹の襟首(えりくび)を掴んだ。が、敵も中々素捷(すばや)かった。忽(たちま)ち其(その)手を払い退(の)けて、口に啣(くわ)えたる刃物を把直(とりなお)した。其切先(そのきっさき)は危(あやう)くも巡査の喉を掠(かす)めて、背後(うしろ)の岩に戞然(がちり)と中(あた)ると、溌(ぱっ)と立つ火花に敵は眼が眩(くら)んだらしい。其隙(そのすき)を見て巡査は再び組んだ。背(せい)の低い敵は巡査の足を取った。而(しか)も此方(こっち)は柔道を心得ているので、倒れながらに、敵の腕を引担(ひっかつ)いで投げた。が、生憎(あいにく)に穴の入口へ向って投げたので、彼は奇怪な叫声(さけびごえ)を揚げながら、再び奥へ逃げ込んで了(しま)った。
 ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は一匹でなかったが、他(た)は入口に立って格闘の模様を窺っていたらしい。で、今や真先(まっさき)の一匹が斯(かか)る始末となったので、少しく怯(おく)れが出たのかも知れぬ。何(いず)れも奥へ引退(ひきさが)って、再び石を投げ初めた。何分にも暗いので始末が悪い。巡査は危険を冒(おか)して、穴の奥へ潜(もぐ)り込んだ。他(た)の者共も勇を鼓(こ)して後(あと)に続いた。
 敵は屈せずに石を投げたが、幸いに石が小さいのと、距離が余りに接近しているのとで、我(われ)には差したる損害を与えなかった。それでも二三人は顔や手に微傷(かすりきず)を負った。もう斯(こ)うなれば騎虎(きこ)の勢いで、今更後(あと)へは引返(ひっかえ)されぬ。巡査も頬に打撲傷を受けながら、猶(なお)も二三間(げん)進んで行くと、天井は少しく高くなって、初めて真直(まっすぐ)に立つことが能(で)きた。
 敵は幾人居(い)るか判らぬが、兎(と)にかく石を投げ尽したらしい。今度は木のような物や、骨のような物を投げ初めた。骨は尖(とが)っているので、巡査は又もや左手(さしゅ)を傷(きずつ)けた。
 もう仕方がないので、巡査は剣を抜き閃かした。或(ある)者は猟銃を撃った。散弾が轟然として四辺(あたり)に迸(ほとばし)ると、頑強の敵も流石(さすが)に胆(きも)を挫(ひし)がれたらしい、踵(くびす)を旋(かえ)してばらばらと逃げ出した。巡査等は勝(かつ)に乗って追い詰めると、穴は漸(ようや)く広くなった。ここが恐(おそら)く行止(ゆきどま)りで、彼等は今や袋の鼠になったろうと思いの外(ほか)、何処(どこ)を何(ど)う潜(くぐ)ったか知らず、漸次(しだい)に跫音(あしおと)も消えて了(しま)って、後は寂寞(せきばく)たる闇となった。
「奴等は何処(どこ)へ隠れたろう。」
 松明(たいまつ)は再び点(とぼ)されたが、広い穴の中に何者の影も見えなかった。幾ら※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)でも隠形(おんぎょう)の術(じゅつ)を心得ている筈はない。恐(おそら)く何処(どこ)にか隠れ家があろうと、四辺(あたり)を隈(くま)なく照(てら)し視(み)ると、穴の奥には更に小さい間道(ぬけみち)が有った。彼等は此処(ここ)から這い込んだに相違あるまい。巡査等は続いて其(その)穴を潜(くぐ)った。
 穴は極めて低く狭いので、普通の人間には通行甚だ困難であったが、人々は宛(さなが)ら蝦蟇(ひき)のようになって僅(わずか)に這い抜けた。行くに随(したが)って水の音が漸々(だんだん)に近く聞えた。水の音ばかりで無い、日の光も薄く洩(も)れて来た。
 路(みち)は漸次(しだい)に明るくなった。暗い湿っぽい岩穴は全く尽きて、人々は大いなる谷川の畔(ほとり)に出た。岩を噛む乱流は大小の滝布(たき)を作(な)して、滔々(とうとう)と漲(みなぎ)り落ちている。川に沿うて熊笹の藪(やぶ)が生い茂っていた。左右は嶮(けわ)しい岩山である。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は此(こ)の間道(ぬけみち)から山深く逃げ入(い)ったのであろう。

「到頭(とうとう)逃(にが)して了(しま)った。」
 塚田巡査は歯噛(はがみ)をした。微傷(かすりきず)ではあるが、其(そ)の手首からは血が流れていた。他(た)の二三人も顔や手の傷を眺めながら、失望と疲労との為に霎時(しばらく)は茫然(ぼんやり)と立っていた。
 この時、頭の上で人声がわやわや聞えた。仰げば高き絶壁の上に、大勢の人の行き違う姿が見えた。初めて知る、ここは恰(あたか)も虎ヶ窟の前に横(よこた)われる谷底で、頭の上に立騒(たちさわ)いでいる人々は、彼(か)の七兵衛や権次の群であった。
 斯(か)くと知るや、下からはおういおういと呼んだ。上からも答えた。中にも権次は岩の出鼻(ではな)に縋(すが)りつつ、谷に向って大きな声で叫んだ。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)は何(ど)うした、捕(つかま)ったか。」
「駄目だ、駄目だ。間道(ぬけみち)から逃げて了(しま)った。」と、下でも叫んだ。
「惜(おし)いことを為(し)たな。今お医師(いしゃ)が来て、角川の小旦那は蘇生(いきかえ)ったぞ。」
「蘇生(いきかえ)ったか。」
「大丈夫だとお医師(いしゃ)が受合(うけあ)った。何しろ、早く上(あが)って来い。」
「おお。」
 上と下とて遥かに呼び合っていたが、何を云うにも屏風(びょうぶ)のような峭立(きったて)の懸崖(けんがい)幾丈(いくじょう)、下では徒爾(いたずら)に瞰上(みあ)げるばかりで、攀登(よじのぼ)るべき足代(あししろ)も無いには困った。其中(そのうち)に、上では気が注(つ)いたらしい。
「待て、待て。畚(ふご)を持って来るぞ。」
 斯(こ)う云って権次は立去(たちさ)った。下の人々は唯(と)ある大岩に腰を卸(おろ)して、先(ま)ずほッと一息吐(つ)いた。其間(そのあいだ)も巡査は油断が無い、川に沿うて往(ゆ)きつ戻りつ、ここらの地形を案じていた。
 この川は人跡絶えたる山奥から湧いて来るのであろう、凄じい勢いで滔々(とうとう)と流れ落ちている。其(そ)の支流は虎ヶ窟の下を潜(くぐ)っているらしい。窟の底で絶えず轟々たる響(ひびき)を聞くのは之(これ)が為(ため)であろう。近く聞けば水の響(ひびき)は、実に耳を聾(ろう)するばかりであった。
 其(そ)の水音に消されて、今までは誰も聞付(ききつ)けなかったが、何処(どこ)やらで微(かすか)な唸声(うなりごえ)が聞えるようである。巡査は忽(たちま)ちに耳を欹(そばだ)てた。そこか此処(ここ)かと声する方(かた)を辿って行くと、彌(いや)が上にも生い茂れる熊笹や歯朶(しだ)の奥に於て、確(たしか)に人の呻(うめ)くを聞いた。そこらの枝や葉は散々(さんざん)に踏躪(ふみにじ)られて、紅い山椿の蕾(つぼみ)が二三輪落ちていた。
 巡査は進んで熊笹を掻分(かきわ)けると、年の頃は五十ばかりの坑夫体(てい)の男が、喉を突かれて倒れていた。巡査も驚いた。他(た)の人々も駈集(かけあつま)った。昨日(きのう)から今日(きょう)にかけて、種々(いろいろ)の出来事が何(ど)うして斯(こ)う続発するのであろう。一同も聊(いささ)か呆れた形であった。
「一体、これは何者だろう。」
「これも※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に殺されたのか知ら。」
 兎(と)に角(かく)も引起(ひきおこ)して介抱すると、男には未(ま)だ息が通(かよ)っていた。巡査は谷川の水を掬(すく)って飲ませると、彼は僅(わずか)に眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)(みひら)いたが、警官の姿を視(み)るや俄(にわか)に恐怖と狼狽の色を現わして、頻(しきり)に手足を悶(もが)いていたが、何分身動きも自由ならぬ重傷である、彼は呻(うな)りながら又倒れた。
 崖の上ではおういおういと呼んだ。畚は今や卸(おろ)されたのである。人々は順々に乗って、瀕死の男も同じく乗せられた。塚田巡査は最後に上(のぼ)った。
 市郎は医師の手当(てあて)に因(よっ)て、幸いに蘇生したので、既(すぐ)に麓(ふもと)へ舁(か)き去られていたが、安行とお杉と※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)との三個(みつ)の屍体は、まだ其儘(そのまま)に枕を駢(なら)べていた。そこへ又、此(こ)の怪しい男が朱(あけ)に染(そ)みたる身を横(よこた)えたのである。昔から魔所と伝えられた虎ヶ窟の前に、斯(かか)る浅ましい姿の者が四個(よつ)までも列(なら)んだのを見た人々は、抑(そも)如何(いか)に感じたであろう。白昼(まひる)ではあるが山風は寒かった。人々は顔を見合わして物を云わなかった。
 この驚くべき報告が麓へ拡まると、町からも村からも大勢の加勢が駈着(かけつ)けた。安行の屍体は自宅へ、お杉と※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の亡骸(なきがら)は役場へ、其(そ)れ其(ぞ)れに引渡(ひきわた)しの手続(てつづき)を了(お)えた。まだ息の通(かよ)っている怪しの男は一先(ひとま)ず駐在所へ運び入れて、医師の手当を受けさせた。
 塚田巡査は疲労をも厭わず、直(ただ)ちに事件の取調べに着手した。お杉と山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)との死は市郎の申立(もうした)てに因(よ)って事情判明したが、安行は如何(いか)にして殺されたか能(よ)く判らぬ。次に此(こ)の瀕死の男は何者の手に掛(かか)ったのか、それも判らぬ。彼はお杉や※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に関係があるか、或(あるい)は別種の出来事か、それも判らぬ。猶(なお)其他(このほか)にも[#「其他(このほか)にも」はママ]昨夜(さくや)の惨殺屍体と云うものが有る。それと之(これ)と因縁の糸が連絡しているか何(ど)うか、それも亦(また)疑問である。巡査も此(こ)の解釈に就(つい)ては大いに頭を悩(なやま)した。

「どうも判らぬ。」と、塚田巡査も頻(しきり)に考えた。市郎に就(つい)ては此(この)上に取調べようも無い。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)は逃げて了(しま)った、重太郎は行方不明であった。唯(ただ)ここに残っているのは、重傷に苦(くるし)める彼(か)の坑夫体(てい)の男一人(いちにん)である。これに就(つい)て厳重に詮議するより他はないが、何分にも生命(せいめい)危篤(きとく)という重体であるから、手の着様(つけよう)が無い。
 昨夜(さくや)村境(むらざかい)で発見した惨殺死体は、面(つら)の皮を剥(は)がれているので何者か判らぬ。この男も言語不通であるから何者か未(ま)だ判らぬ。仮(たと)い被害者は誰にもあれ、其(そ)の加害者は何(いず)れも※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)であると断定して了(しま)えば、無造作に解釈は着くのであるが、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)以外にも何等かの因縁があるらしく感じられた。而(しか)して又、彼(か)の惨殺死体と此(こ)の負傷者との間には、何か眼に見えぬ糸が繋がっている様(よう)にも感じられた。が、それは単に「感じられる」と云うに過ぎないので、巡査にも其(その)理屈は到底説明し得られなかった。
 負傷者は容易に死なず、医師の説に依れば幾分か持直(もちなお)した気味だと云う。巡査は拠(よんどこ)ろなく手を束(つか)ねて、其(そ)の快癒に向うのを待つ中(うち)に、四五日は徒爾(いたずら)に過ぎた。
 虎ヶ窟を中心として起(おこ)れる此(こ)の奇怪なる殺傷事件は、忽(たちま)ち飛騨一国に噂が拡まって、更に隣国(となりぐに)をも驚かした。明治の世の中に※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が出現したと云うすらも既に新聞種(だね)であるに、況(まし)て其(そ)れが人を殺したと云い、巡査と格闘したと云う。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の牝が大石で頭を砕かれたと云う。これと同時に幾多の殺人事件が降(ふ)って湧いたと云う。鬼婆(おにばばあ)が殺されたと云う。聞く事毎に人を騒がす事ばかりなので、或(ある)者は嘘だろうと云い消した。けれども、事実は争われぬ。地方の各新聞は筆を揃えて、其(そ)の顛末を記載した。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の屍体の写真まで掲げられた。市郎の遭難実話が載せられた。塚田巡査の探偵談が記された。噂は更に尾鰭(おひれ)を生じて、殆ど前代未聞の大椿事(だいちんじ)とまで伝えられた。
 無論、斯(こ)うなっては塚田巡査一人の手に負える問題ではない。高山(たかやま)からも警官が大勢出張した、岐阜の警察からも昼夜兼行(ちゅうやけんこう)で応援に来た。狭い駅中(しゅくじゅう)は沸返(わきかえ)るような混雑である。
「どうも大変な事が起(おこ)ったね。」
 大学の制帽を被(かぶ)って、旅行用の大革包(おおかばん)を提(ひっさ)げた若い男が、四辺(あたり)の光景(ありさま)を幾度(いくたび)か見返りながら、急ぎ足で角川家の門を潜(くぐ)った。門口(かどぐち)には七兵衛老爺(じじい)が突ッ立っていた。
「やあ、吉岡の小旦那(こだんな)……。どうも苛(えれ)え騒動(さわぎ)が出来ましてね。」
「そうだッてね。驚いたよ。」と、若い大学生は首肯(うなず)いて、「併(しか)し市朗君は大した事もないのか。」
「はあ、お庇様(かげさま)で大分(だいぶ)快(い)い方(ほう)で……。何、大丈夫だとお医者も云って居ますが……。何しろ、一時は胆(きも)を潰しましたよ。」
「そうだろう。まあ、早く行って逢おうよ。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に殺され損なうなんて、馬鹿な話だ。言語同断だよ。」
 大学生は七兵衛に誘われつつ、威勢よく奥へ駈込(かけこ)んだ。彼は吉岡家の長男忠一である。妹(いもと)の冬子が市郎と結婚するに就(つい)て、十一月初旬には帰郷する心構えをしていた所が、更に市郎から年末休暇まで延期しろと云って来た。と思うと、やがて又冬子から電報が来て、大変が出来たから直(すぐ)に帰れと云う。何が何だか少しく煙(けむ)に巻かれたが、兎(と)も角(かく)も大変とあっては聞捨(ききず)てにならぬ。忠一は早々に旅装を整えて帰郷の途に就いた。
 富山へ来ると、例の噂が既(も)う一面に拡(ひろが)っていて、各新聞にも精細の記事が掲げられていた。読んで見ると成(なる)ほど大変である。が、彼は其(そ)の大変に驚くと同時に、此(この)事件に就(つい)て一種の興味を湧(わか)した。彼は此(こ)の機会に乗じて、所謂(いわゆる)山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なるものを十分に研究したいと思った。冬の夜の明けぬ中(うち)に富山を発(た)って、午後四時過(すぐ)る頃にここへ着いたのである。
 安行の葬儀は市郎全快の上で営む事に決したので、一旦は火葬に附し、其(その)遺骨は広い座敷の正面に祭られてあった。親戚や近所の人々も大勢控えていた。忠一の母お政も来ていた。それ等に対する挨拶は後にして、忠一は先(ま)ず市郎の病室に入った。
 市郎は書斎の八畳に寝ていた。其傍(そのそば)には冬子が看護していた。
「あら、兄さん。」
「どうしたい。飛(とん)だ騒動が持上(もちあ)がったもんだね。」と、忠一は其(その)枕元に坐り込んだ。室内には既(も)う洋燈(らんぷ)が点(とぼ)っていた。

「冬子さんから電報を打ったと云う談(はなし)は聞いたが、よく早く帰って来られたね。」
 市郎は痛む手を抱えながら起きようとするのを、忠一は慌しく制した。
「まあ、無理をしずに寝て居たまえ。阿父(おとっ)さんは何(ど)うも飛んだ事だったね。そこで、君の痛所(いたみしょ)は何(ど)うだ。もう快(い)いのか。」
「いや、まだ悉皆(すっかり)快(い)いという訳には行かないよ。何でも三週間ぐらいは懸(かか)るだろうと思うが……。併(しか)しまあ、生命(いのち)に別条の無いのが幸福(しあわせ)さ。」
 市郎は苦笑いした。顔の色はまだ蒼ざめていたが、元気は左(さ)のみ衰えたようにも見えないので、忠一も先(ま)ず安心した。
「生命に別条があって堪(たま)るものか。対手(あいて)は多寡(たか)が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)じゃアないか。はははは。」
「でも、一時は真実(ほんとう)に喫驚(びっくり)しましたわ。」と、冬子は眼を丸(まろ)くして云った。
「そりゃア誰でも喫驚(びっくり)するさ。僕だって、一旦は驚いたよ。吉岡忠一の友人が、そんな馬鹿馬鹿しい目に逢ったかと思うと、実に唖然とせざるを得なかったよ。全体、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なんて云う者に苦(くるし)められると云うのが、文明人の恥辱だからね。と云うと、君ばかりでなく、死んだ阿父(おとっ)さんまで侮辱するようだが、実際詰(つま)らない災難に逢ったものだよ。」
「恥辱でも仕方が無いわ。先方(むこう)から不意に襲って来るんですもの。」と、冬子は少しく不平そうに兄を顧(みかえ)った。
「いや、不意に襲われると云うことが已(すで)に不覚だよ。」と、忠一は笑って、「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の如き者は一挙して全滅して了(しま)うか、左(さ)もなくば之(これ)を教化(きょうか)して真人間(まにんげん)にするか、二つに一つの方法を択(えら)ぶより他(ほか)はないよ。唯(ただ)漫然と打捨(うっちゃ)って置くから、往々にして種々(いろいろ)の禍害(わざわい)を醸(かも)すのだ。勿論(もちろん)、打捨(うっちゃ)って置いても、自然に亡(ほろ)びつつあるには相違ないが、それには未(ま)だ尠(すくな)からぬ年月を要するだろう。」
「真人間にするッて……。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は矢張(やっぱり)人間でしょうか。」と、冬子は眉を顰(ひそ)めた。
「人間だよ、確(たしか)に人間だよ。ねえ、市郎君、この夏も君と※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に就(つい)て種々(いろいろ)と研究した事があったじゃないか。」
「むむ。僕も委(くわ)しく研究したいと思って、参考の為に親父にも種々(いろいろ)訊いている中(うち)に、今度の騒動(さわぎ)さ。親父はあんな気象にも似合わず、因襲的に※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を恐れていたらしかったが、到頭(とうとう)こんな事になって了(しま)った。そこで、君はいよいよ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を人間と見極めたのか。」
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)や山男のたぐいは皆人間だよ。僕も従来は之(これ)に就(つい)て多くの注意を払っていなかったが、此(この)夏君と話し合ってから、俄(にわか)に※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)研究を思い立って、東京へ帰ると直(すぐ)に人類学の書物を種々(いろいろ)猟(あさ)って見た。諸先輩の説も聴いた。何分研究の日が猶(なお)浅いのだから、僕も余り詳細の説明は能(でき)ないが、兎(と)にかく我々と同一の人類であると云うことだけは明白に云えるよ。尠(すくな)くも僕は然(そ)う信じているよ。」
「我々と同じ人間が何(ど)うして※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なんぞになったのでしょう。」と、冬子の疑惑(うたがい)は解けそうも無かった。
「委(くわ)しく云えば長いことだが、まあ簡短(かんたん)に説明すると、こんな理屈になるんだ。」
 冬子が注(つ)いで出す茶を一杯飲んで、忠一は鉄縁(てつぶち)の眼鏡を掛け直しながら、今や本論に入(い)ろうとする時、彼(か)の七兵衛が襖(ふすま)から顔を出した。
「あの、駐在所から塚田さんが見えましたが……。」
「むむ、此方(こっち)へ通して呉(く)れ。」と、市郎が首肯(うなず)いて見せると、七兵衛は心得て去った。
「塚田巡査、相変らず勤勉だね。」と、忠一は微笑した。
「実際、勤勉だよ。殊に今度の事件に関しては、殆ど寝食を忘れて奔走しているんだ。今日来たのも、何か犯人捜索上に就(つい)て僕に聞合(ききあわ)せにでも来たんだろう。」
「あの巡査は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と格闘したと云うじゃアないか。職務とは云え、流石(さすが)に偉いよ。」
 こんなことを云っている中(うち)に、噂の主(ぬし)は帯剣(たいけん)を戞(から)めかしながら入って来た。近所の人であるから、忠一とも予(かね)て相識(あいし)っているのである。双方の挨拶は式(かた)の如くに終った。
「何かお急ぎの御用ですか。」と、市郎が問うた。
「いや、急ぎと云うでも無いですが、今日は虎ヶ窟を検査に行くと、不思議なものを発見したのです。」
「ははあ、何(ど)んなものを……。」
「岩穴の壁に沢山の字が書いてあるのです。恐(おそら)く字だろうと思うのですが、我々には到底(とても)読めないので……。」
「字が書いてありましたか。」と、忠一は思わず乗出(のりだ)した。

 虎ヶ窟の壁に文字(もんじ)の跡が有るというのは、頗(すこぶ)る興味を惹く問題であった。一座悉(ことごと)く耳を傾けると、塚田巡査は首を拈(ひね)りながら、
「今も申す通り、我々には字だか絵だか符号だか実際判然しないのですけれども、何(ど)うも文字(もじ)らしく思われるのです。勿論(もちろん)、刃物の尖(さき)で彫付(ほりつ)けたもので、何十行という長いものです。あれが悉皆(すっかり)判れば余(よ)ほど面白かろうと思うのですが、何(ど)うでしょう、あなたには……。読んで下さることは能(でき)ますまいか。」
「さあ、読めるか何(ど)うか判らんですが、兎(と)にかく何(ど)んなものだか、是非一度見たいもんですな。」と、忠一も非常の乗気(のりき)であった。
「今日は既(も)う遅いですから。明日(みょうにち)御案内を為(し)ましょう。」
「どうか願います。若(も)し果(はた)して其(そ)れが文字(もんじ)であるとすれば、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)に対する僕の意見が愈(いよい)よ確実になる訳ですから……。」
「何か※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に就(つい)て御意見があるですか。」
「忠一君には大いに意見があるんだそうで、今これから大演説を始めようと云う処へ、あなたが見えたんです。」と、市郎は笑いながら喙(くち)を挟んだ。
「それは好(い)い所へ来ました。わたくしも参考の為に是非伺いたいものです。」と、巡査も熱心に膝を進めた。
「兄さん、お話しなさいよ。」と、冬子も強請(せが)むように迫り問うた。
 聴者(ききて)が熱心であるだけに、弁者(べんしゃ)にも大いに挑発(はずみ)が付いて、忠一も更に形を改めた。
「いや、大いに意見があると云う程でも無いんですが、近頃僕が取調べた所では、概略先(ま)ずこんな訳なんです。日本ばかりでなく、支那にも昔から山鬼(さんき)又は野婆(やば)などと云う怪物の名が伝えられています。山鬼は日本で云う山男或は山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)のたぐいで、野婆は即ち山姥(やまうば)でしょう。尤(もっと)も地方に因(よっ)て其(その)名を異(こと)にするようで、日本でも奥羽地方では山人(やまびと)と云い、関東地方では山男と云い、九州地方では山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)と云い、ここらでも主に※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と呼ぶ様(よう)です。そこで其(その)※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なるものは元来何であるかと云うと、大和民族の我々よりも早く既に此(こ)の本土に棲んでいた人種で、其中(そのうち)にはアイヌもありましょう、所謂(いわゆる)土蜘蛛という穴居(けっきょ)人種もありましょう、又は九州の熊襲(くまそ)の徒(やから)もありましょう。斯(こ)ういう野蛮人種が我々大和民族と闘って、或(ある)者は亡(ほろぼ)された、或(ある)者は山奥へ逃げ込んだ。其(そ)の逃げ込んだ奴等が深山幽谷(しんざんゆうこく)の間(あいだ)に隠れて、世間普通の人間とは一切の交通を断(た)って、何千年か何百年かの長い間、親から子、子から孫と其(その)血統を伝えて来たもので、兎(と)に角(かく)人間には相違ないんです。現に誰も知っている一例を挙げれば、肥後(ひご)の山奥にある五個(ごか)の庄(しょう)です。壇の浦で亡(ほろ)びた平家の残党は彼(か)の山奥に身を隠して、其後(そのご)何百年の間、世間には知られずに別天地を作っていました。」
「成程(なるほど)……。」と、巡査は酷く感心して聴いていたが、市郎は少しく頭(かしら)を傾けた。
「君の説も一応は道理(もっとも)の様(よう)に聞えるが、五個の庄の住民は矢(や)はり普通の人間で、決して※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)や山男の類(たぐい)では無いと云うじゃアないか。」
「無論さ。」と、忠一は首肯(うなず)いて、「五個の庄の住民は何(いず)れも平家に由縁(ゆかり)の者で、彼等は久しく都の空気を呼吸していた。平家の公達(きんだち)や殿原(とのばら)は其(その)当時に於(おけ)る最高等の文明人種であったのだ。随(したが)って彼等が如何(いか)なる山村僻地に流落(りゅうらく)しても、或(ある)程度までは自己の有する文明を維持して行く力を有(も)っていたから、子孫相伝えて兎(と)も角(かく)も今日(こんにち)に至ったのだ。之(これ)に反して、彼(か)のアイヌや土蜘蛛の種族は元来の野蛮人種で、最初(はじめ)から自己の文明というものを所有していないから、彼等が山に隠れ、谷に潜(ひそ)んで何十代を送る間(あいだ)には、野蛮の程度が愈(いよい)よ加わるのみで、寧(むし)ろ漸々(だんだん)に退化して、人間か獣か区別が付かぬ様(よう)になって了(しま)ったのだ。昔から山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)や山男と云うのは即ち是(これ)だ。彼(か)の頼光(らいこう)が足柄山(あしがらやま)から山姥の児(こ)を連れて来たと云うのが実説ならば、其(そ)の金太郎と云うのは即ち山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の一人(いちにん)で、文明の教育を受けた結果、後に坂田金時(さかたのきんとき)という立派な勇士になったのだろう。」
「成程(なるほど)……。」と、巡査は又首肯(うなず)いたが、市郎と冬子は未(ま)だ腑に落ちぬらしく、霎時(しばし)は黙って考えていた。広間の方には坊さんでも来たのか、鉦(かね)を叩く音が低く聞えた。

「先(ま)ず然(そ)う云う理屈であるから、我々の先祖は勝利者で、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の先祖は敗北者で、我々が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を恐るる筈は無いのだ。けれども、先祖の歴史を委(くわ)しく知らぬ我々が、何百年の後(のち)、不意に山奥で異形(いぎょう)の者に出逢うと、何か一種の魔者(まもの)であるかの様(よう)に考えられて、跡をも見ずして逃帰(にげかえ)るという事になる。又、彼等は先祖代々深山幽谷(しんざんゆうこく)に棲んでいるから、山坂を駆歩(かけある)くことは普通の人間よりも素捷(すばや)いであろうし、腕力も亦(また)強いかも知れない。随(したが)って種々(いろいろ)の臆説が甲(それ)から乙(それ)へと附会(ふかい)されて、何だか神秘的の色彩を帯びた怪談が伝えられる様(よう)になって了(しま)ったのだ、要するに※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は、人間が漸次(しだい)に退化して所謂(いわゆる)猿人(えんじん)に近くなったものだと思えば可(い)い。」
 忠一が息も吐(つ)かずに弁じるのを、市郎は徐(しずか)に遮(さえぎ)った。
「まあ、待ち給え。君の議論も一通りは解(わか)ったよ。けれども、長い年月の中(うち)には、何(ど)うか云う機会で※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を生捕(いけど)る事もありそうなものだ。若(も)し生捕って調べたらば、総ての疑問は疾(と)うに解決されている筈だ。日本にも昔から種々(いろいろ)の冒険者もあれば、勇士もある。誰か其(そ)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を生捕るとか退治するとか云う人もありそうなものだったが……。」
「そんなことも無いでは無かったが、惜(おし)むらくは之(これ)を研究するほどの熱心家(ねっしんか)も無し、学者も無かったらしい。現に今から百余年前(ぜん)、天明年間に日向国(ひゅうがのくに)の山中(やまなか)で、猟人(かりゅうど)が獣を捕る為に張って置いた菟道弓(うじゆみ)というものに、人か獣か判らぬような怪物が懸(かか)った。全身が女の形で色が白く、赤裸(まっぱだか)で黒い髪を長く垂れていた。猟人等は驚いて、之(これ)は恐(おそら)く山の神であろうと、後(のち)の祟(たたり)を恐れて捨てて置いたら、自然に腐って骨に化(な)って了(しま)ったと、橘南谿(たちばななんけい)の西遊記(せいゆうき)に書いてある。これなども山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の女性であったに相違ないが、徒爾(いたずら)に腐らして了(しま)ったのは惜(おし)い事であった。同じく西遊記に山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の事も記してあったと記憶している。昔から諸国に其(そ)んな例も沢山あったのだろうが、唯(ただ)其(そ)の一地方の夜話(よばなし)に残るだけで、識者(しきしゃ)が研究の材料には上(のぼ)らなかったのだ。いや、然(そ)ういう例に就(つい)て、もっと面白い話が有る。これは日本の出来事じゃアないが、現に英国で其(そ)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を取押(とりおさ)えた人の実話だ。まあ、聞き給え。」
 忠一の研究談は尽(つく)る所を知らなかった。人々も耳を澄(すま)していた。
「何でも西暦千七百二十年頃の事だ。プットバリーの講師にレヴェレンド・シメオン・ピジョンと云う人があった。この人の邸(やしき)で屡々(しばしば)家禽(かきん)を何者にか盗まれる。土地の者は之(これ)をピキシーと云う怪物の仕業だと昔から唱えていたが、講師は之(これ)を信じなかった。で、暗い晩に鶏小舎(とりごや)の蔭に隠れて待っていると、例の如く午前一時頃に何者か忍んで来た。何でも小児(こども)のような奴であった。講師は不意に飛び出して取押(とりおさ)えようとすると、賊は刃物を振廻(ふりまわ)して激しく抵抗した。何しろ、其奴(そいつ)の正体を見届けようと思って、講師は先(ま)ず燐寸(まっち)を擦付(すりつ)けると、対手(あいて)は俄(にわか)に刃物を投(ほう)り出して、両手で顔を隠して了(しま)った。」
「むむ。」と、市郎も思わず蒲団から乗出(のりだ)した。彼も※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に対して、ピジョン氏と同じような経験を有(も)っているからであった。
「そこで難なく取押(とりおさ)えて、貴様は何者だと問うたが、賊は何とも返事を為(し)ない。兎(と)も角(かく)も家(うち)の中まで引擦(ひきず)って行こうとしたが、燐寸の火が消えると共に、対手(あいて)は再び強くなって、講師を突き退(の)けて何処(どこ)へか逃げて行って了(しま)った。が、其(そ)の一刹那(せつな)に講師が認めた彼の姿は、極めて背(せい)の低い、殆ど赤裸(あかはだか)で、皮膚の色は赭土色(あかつちいろ)で……。」
 云う事毎(ことごと)に符合しているので、市郎も巡査も同時に叫んだ。
「むむ、それから……。」
「それから講師が現場(げんじょう)を調べて見ると、そこには賊の刃物が落ちていた。能(よ)く能(よ)く研究すると、これは古代の羅馬人(ローマじん)が持っていた短い剣(けん)の類(たぐい)であった。而巳(のみ)ならず、其(その)附近にはローマンケーヴと昔から呼ばれている岩穴が有る。それや是(これ)やを綜合して考えると、賊はピキシーと云う怪物(ばけもの)でも何でも無い、恐(おそら)く古代の羅馬人であろうと鑑定した。が、土地の者は容易に之(これ)を信じないで、矢(や)はりピキシーの仕業だと云っていたので、講師は更に斯(こ)う云う説明を加えた。」

 ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の正体も漸々(だんだん)に判りかかって来た。忠一は咳(しわぶき)して又語り続けた。
「ピジョン講師の説明に拠(よ)ると、其(その)昔羅馬人(ローマじん)が英国へ侵入して来た時に、其(その)一部が戦闘(たたかい)に敗(ま)けて此(こ)の地方へ逃げ込んで来た。が、固(もと)より敵地であるから、到る処で追詰(おいつ)め追巻(おいまく)られた結果、山の奥深く逃げ籠(こも)って了(しま)った。其(その)子孫が相伝えて今日(こんにち)に至ったのである。と云ったら、男ばかり集(あつま)っていて、何(ど)うして子孫が絶えぬかと云う疑問が起(おこ)るに相違ないが、彼等は夜に乗じて麓(ふもと)の里へ降(くだ)って、見当り次第に小児(こども)を攫(さら)って行く。で、女の児(こ)は生長するのを待って結婚する、男の児(こ)は自分達の眷族(けんぞく)にして了(しま)う。勿論(もちろん)、同族結婚などを頓着(とんちゃく)しているのでは無い。然(そ)ういう風であるから、肉体も精神も漸次(しだい)に退化して、殆ど猿のような野蛮人になって了(しま)ったが、兎(と)にかくに今日まで其(その)血統を維(つな)いでいられたのである。併(しか)し彼等が漸々(だんだん)に亡(ほろ)びて行くことは争われぬ道理で、昔に比べると其人数(そのにんず)も非常に減って来たに相違ない。軈(やが)ては自然と亡(ほろ)び尽(つく)すであろう。で、彼等は平生(へいぜい)日光(ひのめ)を見ない穴の中に隠れ棲んでいて、暗い夜になると窃(ひそ)かに出て歩く。その習慣が幾代も続いて来たので、眼の働きが甚だ弱いものになって了(しま)って、火のような強い光線に出逢うと、眼を明(あ)いては居られない様(よう)になったのである。又、彼等の皮膚が赭土色(あかつちいろ)に化(な)って了(しま)ったのは、生れてから死ぬまで岩石や赭土の中に棲んでいる為である。其(そ)の体躯(からだ)が小児(こども)のように小さいのは、同族結婚や野蛮生活に因(よっ)て身体の発育が衰えた為である。と、先(ま)ず斯(こ)う云うのだ。」
「いや、解りました。よく解りました。」と、塚田巡査が先(まず)第一に降伏した。
「成程(なるほど)、然(そ)うかも知れませんねえ。」と、冬子も再び兄に反抗する勇気は無かった。
「実際、そうだろう。君も些(ちっ)との間(ま)に大分研究したね。」と、市郎も笑った。
 三人を目前に説破(せっぱ)した忠一は、自(おのず)から得意の肩を聳(そびや)かす様(よう)になった。
「であるから、この虎ヶ窟に棲む山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なる者の正体は、大抵想像するに難(かた)からずで、矢(や)はり前に云ったような種類に相違ないんです。それにしても、文字(もんじ)が彫ってあると云うのは頗(すこぶ)る面白い問題で、若(も)し其(そ)の文字(もんじ)の解釈が能(でき)たら、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の正体は愈(いよい)よ確実に判りましょう。」
「然(そ)うです、然うです。明日(みょうにち)は是非御案内を為(し)ましょう。今日は丁度(ちょうど)好(い)い処へ来合(きあわ)せまして、種々(いろいろ)有益なお話を伺いました。岐阜や高山から出張している同僚の者にも、参考の為に能(よ)く云い聞かせましょう。」
 塚田巡査が喜んで帰った後(あと)は又寂寞(しずか)になった。
「馬鹿馬鹿しいの、詰(つま)らないのと云うものの、君の阿父(おとっ)さんが斯(こ)んなことになろうとは、実に夢にも思わなかったよ。」と、忠一は今更のように嘆息して、「一体其(そ)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なる奴が、何故然(そ)う執念深く君の一家に祟るのだろう。新聞に拠(よ)ると、お杉婆(ばばあ)が種々(いろいろ)の原因を作(な)している様(よう)だが実際然(そ)うなのか。」
「さあ、それは僕にも判然(はっきり)とは解らないが、何(ど)うも然(そ)う解釈するより他は無いのさ、僕の祖父(じじい)も※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に殺されたそうだが、親父も亦(また)今度のような事になった。究竟(つまり)一種の因縁とでも云うのだろうよ。」と、市郎も嘆息した。
「むむ、それから……。」と、忠一は思い出したように、「あの柳屋の女ね、確かお葉と云った女だ。新聞の記事に拠(よ)ると、彼奴(あいつ)も何か今度の一件に就(つい)て、関係があるらしいじゃないか。妙な事があるもんだね。」
「いや、関係があると云う訳でも無いらしいが……。」と、市郎は冬子を顧(みかえ)って、「兎(と)にかく親父が攫(さら)われた日に、お杉婆(ばばあ)に誘(さそ)われて山へ行ったことは真実(ほんとう)さ。何故行ったか判らないが、少し狂気染(きちがいじ)みた女だから、何だか夢のようにふらふら出掛けたらしいよ。で、明(あく)る日茫然(ぼんやり)帰って来たんだ。警察の方でも無論之(これ)に目を注(つ)けて、再三取調べたけれども更に要領を得ない。実際、親父の死に就(つい)ては何にも知らないらしいんだ。」
「それで何(ど)うした。」
「何(ど)うも仕方が無いさ。相変らず柳屋へ帰って、唄なんぞ謳(うた)っているそうだ。」
「暢気(のんき)な奴だな。併(しか)し彼(あ)の女の事だから、然(そ)うだろうよ。」と、忠一も笑い出した。

 忠一は其(その)夜、安行の霊前に通夜した。明(あく)る日は陰(くも)って寒かった。が、そんなことに余り頓着(とんちゃく)する男では無いので、草鞋穿(わらじば)きの扮装(いでたち)甲斐甲斐(かいがい)しく、早朝から登山の準備に取(とり)かかっていると、約束を違(たが)えずに塚田巡査が来た。活発なる若い学生と勤勉なる若い巡査とは、相携(あいたずさ)えて角川家を出発した。
「兄さん、気を注(つ)けてお出(い)でなさいよ。」と、冬子は門(かど)まで送って出た。
「心配するなよ。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)を五六匹お土産(みやげ)に持って来るから、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)汁(わろじる)でも拵(こしら)える支度をして置くが可(い)いさ。」と、冗談を云いながら兄は去った。
 巡査は彼(か)の事件以来、日々(にちにち)通い馴れているので、険阻(けんそ)の山路(やまみち)も踏み迷わずに、森を過ぎ、岩を越えて、難なく虎ヶ窟の前に辿り着いた。足の達者な忠一は巡査に些(ちっ)とも後(おく)れなかった。
 窟の入口には落葉を焚いて、一人の警部と二人の巡査が張番(はりばん)していた。重太郎や※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が何時(なんどき)旧巣(ふるす)へ帰って来るかも知れぬので、過日来(かじつらい)昼夜交代で網を張っているのである。塚田巡査は挨拶した。
「どうです、奴等は姿を見せませんか。」
「影も形も見せないよ。多分山奥へ逃籠(にげこも)って了(しま)ったのかも知れないが、これだけの所を山狩(やまがり)するのも大変だからなあ。」と、警部も少しく倦(う)んだ形であった。
 塚田巡査の紹介に因(よっ)て、忠一は直(ただ)ちに穴へ入ることを許された。巡査の案内に従って、松明(たいまつ)を片手に奥深く進み入ると、此(この)頃は昇降の便利を計る為に、横木(よこぎ)を架(わた)した縄梯子(なわばしご)が卸(おろ)してあるので、幾十尺の穴を降(くだ)るに格別の困難を感じなかった。二人は中途に突出(とっしゅつ)したる岩に立って、霎時(しばらく)四辺(あたり)を照(てら)し視(み)た。
「この岩の上です。角川の阿父(おとっ)さんの屍体が横(よこた)わっていたのは……。」と、巡査が指さして教えた。忠一は粛然として首肯(うなず)いた。
「まあ、順々に御案内しますが、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の棲んでいたのは此(この)下の穴です。」
 巡査が松明を振翳(ふりかざ)す途端に、遠い足下(あしもと)の岩蔭に何かは知らず、金色(こんじき)の光を放つ物が晃乎(きらり)と見えた。が、松明の火の揺(うご)くに随(したが)って、又忽(たちま)ちに消えた。
「おやッ。」と、忠一も共に火を翳(かざ)したが、岩に遮(さえぎ)られて何にも見えなかった。
「何でしょう、今光ったのは……。」
「さあ。」と、巡査は考えて、「何だか知らんが時々に光るのです。けれども、光線の工合で見える時もあり、見えない時もあるのです。私も過日(このあいだ)から不思議に思っているのですが……。」
 斯(こ)う云いながら、巡査は無闇に松明を振廻(ふりまわ)すと、火の光は偶中(まぐれあた)りに岩蔭へ落ちて、燦(さん)たる金色(こんじき)の星の如きものが暗(やみ)に浮(うか)んだ。が、あれと云う間に又朦朧(もうろう)と消えて了(しま)った。
「何だろう。」
「兎(と)も角(かく)も行って見ましょうか。」
 好奇心に駆られた二人は、松明を振廻(ふりまわ)しながら更に降った。
「ここらでしたね。」と、巡査は的(あて)も無しに又もや松明を振廻(ふりまわ)すと、忠一も四方を照(てら)して視(み)た。が、ここぞと思う辺(あたり)には何物をも見出さなかったので、二人は失望の顔を見合せて立った。
「不思議ですね。」
「何(ど)うも不思議ですね。」
 鸚鵡(おうむ)返しの声が終らぬ中(うち)に、忠一の持った松明の火先(ひさき)が左へ揺れると、一間(けん)許(ばか)り下の大岩の間(あいだ)に又もや金色(こんじき)が閃いた。
「あ、彼処(あすこ)だ。」と、二人は跳(おど)って飛び降りた。岩は宛(さなが)ら獅子が口を明いたような形で、其(そ)の喉(のど)とも云うべき奥の処から、怪しき金色(こんじき)の光を発するのであった。二人は松明を差付(さしつ)けて窺うと、これは意外、幾百年を経たりとも見ゆる金の兜(かぶと)であった。
 山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の棲家に金の兜を発見するとは、豚小屋から真珠を掘出(ほりだ)したようなもので、何人(なんぴと)も想像の及ばぬ所であろう。歴史の智識に富んでいる大学生は、早くも之(これ)を鎌倉時代の物と見た。五枚錣(じころ)の大兜(おおかぶと)、これが火の光に映じて輝いたのであった。それにしても、こんな貴重な物が何(ど)うして此処(ここ)に隠してあったのか。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が何処(どこ)からか盗み出して来たのか、但(ただ)しは※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)以前にも此処(ここ)に棲んだ者があるのか。忠一も即座に判断は付かなかった。
 兜は岩の上に据えられた。げにも由緒ありげな宝物(ほうもつ)である。忠一も霎時(しばし)は飽かず眺めていたが、やがて手に取って打返(うちかえ)して見ると、兜の吹返(ふきがえ)しの裏には、「飛騨判官藤原朝高(ひだのほうがんふじわらのともたか)」と彫ってあった。

「飛騨判官というのは何者でしょうな。」と塚田巡査は首を傾(かし)げた。
「飛騨判官朝高という人は、曾(かつ)て此(こ)の飛騨国(ひだのくに)の地頭職(じとうしょく)を勤めたことが有る様(よう)に記憶しています。左様(さよう)、何でも鎌倉時代の中葉、北條時宗(ほうじょうときむね)頃の人でしたろう。蒙古(もうこ)退治の注進状(ちゅうしんじょう)の中に、確か此人(このひと)の連名(れんみょう)もあったかと思いますが……。いや、それは調べれば直(すぐ)に判ります。何しろ、面白いものを掘出(ほりだ)しましたよ。」
 忠一は此(こ)の歴史的遺物発見に就(つい)て、尠(すくな)からぬ興味を覚えたらしく、大事そうに金の兜(かぶと)を捧げて起(た)った。
「それから例の不思議な文字(もじ)というのは、何処(どこ)にあるんですか。」
「あの岩穴の中です。」
 巡査は先に立って少しく登った。ここは曩(さき)の日に、巡査等が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)と戦闘(せんとう)を開いた古蹟(こせき)である。低い穴を横に潜(くぐ)って奥深く進んで行くと、天井は漸(ようや)くに高くなった。ここを行き過ぎると、更に広い場所へ出た。行止(ゆきどま)りのように見えて、実は狭い間道(ぬけみち)のある所であった。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は彼(あ)の穴から逃げたのです。」と、巡査は残念そうに云った。
「ああ、そうですか。」と云いながら、忠一は何心(なにごころ)なく四辺(あたり)を見廻したが、忽(たちま)ちあッと叫んだ。
 ここにも彼を驚かすものが有った。それは累々(るいるい)たる人間の骸骨で、規則正しく順々に積み上げてあった。年を経て全く枯れたる骨は、松明(たいまつ)の火に映じて白く光っていた。更に仔細に検査すると、下の方に敷かれた骨は普通の人よりも稍(やや)大きい位であるが、上の方へ行くに随(したが)って骨格が漸々(だんだん)に縮まって、終局(しまい)には殆ど小児(こども)のように小さくなった。之(これ)を見ても彼等が漸次(しだい)に退化したことが證明(しょうめい)される。忠一は自己の想像の謬(あやま)らざりしことを心窃(ひそ)かに誇った。
「これです。御覧下さい。」
 巡査の翳(かざ)す松明は傍(かたえ)の石壁(せきへき)を鮮明(あざやか)に照(てら)した。壁は元来が比較的に平(ひらた)い所を、更に人間の手に因(よ)って滑(なめら)かに磨かれたらしい。其(そ)の面(おもて)には何さま数十行の文字(もんじ)らしいものが彫付(ほりつ)けてあった。忠一は眼鏡を拭って熱心に見詰めていた。
「どうも文字(もじ)のようですな。」と、巡査が顧(みかえ)ると、忠一は黙って首肯(うなず)いたが、軈(やが)て衣兜(かくし)から手帳を把出(とりだ)して、一々これを写し始めた。石の面(おもて)には所々(ところどころ)缺(か)けた所があるので、全く写し了(おわ)るまでには尠(すくな)からぬ困難と時間とを要した。巡査も根(こん)好(よ)く待っていた。
「これは確(たしか)に蒙古(もうこ)の字です。僕には全部は判りませんが、所々は朧(おぼろ)げに其(その)意味が推察されます。」と、忠一は手帳を収(しま)いながら、「これに因(よっ)て考えると、彼(か)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なるものは元(げん)の蒙古の子孫らしい。彼等が隠していた飛騨判官の兜と対照して研究したら、頗(すこぶ)る面白い歴史上の事実を発見するかも知れません。唯(ただ)、蒙古の人間が何(ど)うして斯(こ)んな山中に隠れ棲んでいたかと云うことが甚だ疑問ですが、東京へ帰って蒙古語専攻の学者に此(こ)の文章を読んで貰い、又一方に飛騨判官の伝記を調べて見たら、秘密は自然に解決されるでしょう。何しろ、お庇様(かげさま)で種々(いろいろ)の興味ある発見を為(し)ました。」
 二人は再び縄梯子を伝って、穴の入口へ登った。窟の前に屯(たむろ)していた警部等も、金の兜には驚いた。
「何処(どこ)に有ったのです、そんなものが……。」と、皆口々に問い寄るので、忠一は先(ま)ず其(その)概略を説明した上で、これは何人(なんぴと)も私(わたくし)すべきもので無い、事件が落着するまでは何分宜(よろ)しく保管を頼むと云えば、警部等も快く承諾した。で、兜は警官の手に渡して、二人は早々(そうそう)下山の途に就いた。
 やがて麓(ふもと)に近(ちかづ)いた頃、忠一は唯(と)ある樹根(きのね)に腰をかけて草鞋(わらじ)の緒(お)を結び直した。巡査は之(これ)を待つ間(あいだ)に不図(ふと)何を見出したか、忽(たちま)ち疾風(しっぷう)の如くに駈け出して、あなたの岩蔭へ飛び込んだ。忠一は呆気(あっけ)に取られて見送っていると、霎時(しばらく)して巡査は悄々(すごすご)引返(ひっかえ)して来た。
「何(ど)うしたんですか。」
「今あの岩の蔭に重太郎の隠れているのを見付けましたから、直(すぐ)に追掛(おっか)けて行ったのですが、彼奴(あいつ)中々足が捷(はや)いので、忽(たちま)ち見えなくなって了(しま)いました。残念なことを為(し)たです。」
 巡査は酷く口惜(くやし)そうであった。

 それから又二三日過ぎた。忠一は実家と角川家との間(あいだ)を往来しながら、熱心に飛騨の古い歴史を研究して、飛騨判官の伝記及び彼と蒙古との関係を明白(あきらか)にすべく努めていた。
 一時は口も利(き)かれぬ程の重態であった坑夫体(てい)の負傷者も、医師の手当(てあて)に因(よっ)て昨今少しく快方に向ったので、警官は直(ただ)ちに取調(とりしらべ)を始めた。彼は中々の横着者(おうちゃくもの)で、最初(はじめ)は兎角(とかく)に自分の素性来歴を包もうと企てたが、要するに其(そ)れは彼の不利益に終(おわ)った。彼が不得要領(ふとくようりょう)の申立(もうしたて)をすれば為(す)るほど、疑惑(うたがい)の眼はいよいよ彼の上に注(そそ)がれて、係官は厳重に取調(とりしらべ)を続行した。
 で、或(ある)時係官がお杉と重太郎との身上(みのうえ)に就(つい)て彼に語り聞かせて、お前を傷(きずつ)けた当の相手は恐(おそら)く行方不明の重太郎であろうと告げるや、彼は俄(にわか)に色を変えて、「然(そ)う云えば過日(このあいだ)、虎ヶ窟で見付けた婆(ばばあ)の死骸は何(ど)うもお杉に肖(に)ていると思いましたよ。悪いことは能(でき)ねえもんだ。私は実の倅(せがれ)に斬られたんです。」と、此(ここ)に初めて自分の暗い秘密を打明(うちあ)けた。
 彼は重太郎の父の重蔵であった。今から殆ど三十年以前に、彼は角川家を出奔して、お杉と共に諸国を流浪(るろう)して歩いた。が、頼むべき親戚(みより)もなく、手に覚えた職もないので、彼は到る処で種々(しゅしゅ)の労働に従事した。其間(そのあいだ)にも酒や博奕(ばくち)や女狂いや、悪い道楽は何でも為尽(しつく)した。斯(こ)うなると、二人が仲にも温かい春の続こう筈はない。年上で嫉妬深いお杉は、明暮(あけくれ)に夫の不実を責めて、或(ある)時はお前を殺して自分も死ぬとまで狂い哮(たけ)った。重蔵は愈(いよい)よお杉に飽いた。が、蛇の申子(もうしご)と噂された程のお杉の執念は、飽(あく)までも夫に附纏(つきまと)うて離れなかった。彼は幾度(いくたび)かお杉を置去(おきざ)りにして逃げようと企てたが、何日(いつ)も不思議に其(そ)の隠れ家を見付(みつけ)出された。
「妾(あたし)を捨てて逃げるような料見だから、お前さんは一生涯碌(ろく)なことは無い。終局(しまい)には必然(きっと)酷(むご)い死様(しによう)をするよ。」と、お杉は鬼のような顔をして、常に夫を呪った。重蔵は愈(いよい)よお杉に飽いた。飽いたと云うよりも寧(むし)ろ恐れたのであった。そんな状態(ありさま)で幾年かを無意味に送る間(あいだ)に、お杉は懐胎して重太郎を生んだが、産後の肥立(ひだち)が不良(よくな)いので久しく床に就いた。其隙(そのすき)を窺って重蔵は逃げて了(しま)った。
 今度は既(も)う諦めたのか、但(ただ)しは病中の為か、流石(さすが)のお杉も執念深く追っては来なかったので、これを幸いに重蔵は又もや漂泊(さすらい)の旅路に上(のぼ)った。或時(あるとき)は土方(どかた)となり、或時(あるとき)は坑夫となって、甲(それ)から乙(それ)へと際限(はてし)もなく迷い歩く中(うち)に、二十年の月日は夢と過ぎた。彼の頭には白髪(しらが)が殖(ふ)えた。先頃までは加賀のあたりに徘徊していたが、近来飛騨に銀山が拓(ひら)かれて、坑夫を募集しているという噂を聞込(ききこ)んだので、彼は同じ仲間の熊吉(くまきち)と云う老坑夫を誘(さそ)って、殆ど三十年振(ぶり)で故郷(ふるさと)の土を踏んだのである。
 変遷の著(いちじ)るしからざる山間(さんかん)の古い駅(しゅく)ではあるが、昔に比ぶれば家も変った、人も変った、自分も老いた。誰に逢っても昔の身上(みのうえ)を知られる気配(きづかい)もあるまいと多寡(たか)を括(くく)って、彼は平気で町中(まちなか)を歩いた。旧主人(きゅうしゅじん)の角川家の前も通った。駅(しゅく)を抜けて村境(むらざかい)まで出ると、日が暮れかかって来て、加之(おまけ)に寒い雨が降って来た。目ざす銀山まではまだ三里もあるので、二人は其処(そこ)らで野宿をすることに決めた。
 ここらの案内は重蔵が善(よ)く心得ているので、彼は熊吉を導いて樅林(もみばやし)の奥へ入った。木立の深い処には、人を容(い)るるに足るほどの天然の土穴(つちあな)が所々(ところどころ)に明いているので、二人はここへ潜(もぐ)り込んで、雨を避けながら落葉を焚いた。此(こ)のままに眠って了(しま)えば、彼等は平和に夢を結ばれたのであろうが、斯(かか)る徒(やから)の癖として重蔵は懐中(ふところ)から小さな賽(さい)を取出(とりだ)した。二人は焚火の傍(そば)で賽の目の勝負を争った。
 斯(かか)る賭博に喧嘩の伴うのは珍しくない。二人は勝負の争いから忽(たちま)ちに喧嘩を始めて、熊吉は燃未了(もえさし)の枝を把(と)るより早く、重蔵の横面(よこつら)を一つ撲(なぐ)った。熱いのと痛いのとで眼が眩(くら)んだ重蔵は、衣兜(かくし)から把出(とりだ)した洋刃(ないふ)を閃かして、矢庭(やにわ)に敵の咽喉(のど)を一抉(ひとえぐ)りにした。が、腹立紛(はらたちまぎ)れに人を殺したものの、わが眼前(めのまえ)に横(よこた)われる熊吉の屍体を見ては、彼も俄(にわか)に怖しくなった。
「どうしたら可(よ)かろう。」と、彼は犯跡(はんせき)湮滅(いんめつ)に就(つい)て考えた。

 重蔵は不図(ふと)彼(か)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)を思い出した。この殺人事件をして※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の所為(しょい)であるかのように粧(よそお)って、他(ひと)の目を晦(くら)まそうと考えた。彼は熊吉の屍体を抱き上げて、咬殺(かみころ)した如くに其(そ)の疵口(きずぐち)を咬んだ。が、猶(なお)不安に思われるので、更に洋刃(ないふ)を以て其(そ)の顔の皮を剥(は)ぎ取った。衣服(きもの)も剥いで赤裸(あかはだか)にして了(しま)った。斯(こ)うして置けば手懸(てがかり)も付くまいと、今度は其(その)死骸を引抱(ひっかか)えて行って、一町(ちょう)ばかり先の小川の畔(ほとり)へ捨てて来た。
 この時、村の方から松明(たいまつ)の火が近(ちかづ)いて、大勢の人声や跫音(あしおと)が乱れて聞えたので、脛(すね)に疵(きず)持つ彼は狼狽(うろた)えて逃げた。而(しか)も人里の方へ逃げるのは危険だと悟ったので、彼は案内知ったる山の方へ逃げ込んだ。雨はますます降って来たので、彼は唯(と)ある大きな岩蔭に隠れて、眠るとも無しに一夜を明かした。夜が明けると、雨は止んだ。けれども、麓(ふもと)では昨夜(さくや)の殺人事件の詮議が厳しかろうと推察されるので、彼は直(ただ)ちに山を降(くだ)るほどの勇気は無かった。今日(きょう)一日は山中に潜伏して、日の暮るるを待って里へ出る方が安全であろうと、飢(ひもじ)い腹を抱えて当途(あてど)も無しに彷徨(さまよ)う中(うち)に、彼は大(おおい)なる谷川の畔(ほとり)に出た。
 瞰上(みあぐ)れば我が頭の上には、高さ幾丈の絶壁が峭立(きった)っていて、そこは彼(か)の虎ヶ窟なることを思い当(あた)った。若い男と女とが社会の煩(うる)さい圧迫を脱(のが)れて、自由なる恋を楽(たのし)んだ故蹟(こせき)である。
「俺もあの時は若かったな。」
 重蔵も漫(そぞ)ろに三十年前(ぜん)の夢を辿って、谷川の流(ながれ)に映る自己(おのれ)の白髪頭を撫でた。それに付けてもお杉は何(ど)うしたろう。生きては俺を恨んでいるだろう、死んでは俺を呪っているだろう。
「俺も悪いことを為(し)た。」と、彼は今更の様(よう)に悔恨の情に打たれた。が、其(そ)のお杉は二十年前(ぜん)から此(こ)の旧巣(ふるす)へ戻って、加之(しか)も今や其(そ)の老(おい)たる屍(かばね)を窟の底に横(よこた)えていようとは夢にも思い及ばなかった。何はあれ、ここは屈竟(くっきょう)の隠れ家である。万一、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)が昔のままに棲んでいるならば、之(これ)に乞うて何等(なんら)かの食物を得て、一時の空腹を凌(しの)ごうとも思った。其(その)昔、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を友としていた重蔵は、他(ほか)の人のように※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を恐しい者とも思わなかった。寧(むし)ろ旧(ふる)い友達を尋ねて、当分の隠れ場所を借りようか位(ぐらい)に思っていたのである。
 彼は窟に暫く棲んでいたので、岩穴から此(こ)の川辺へ抜け出る間通(かんどう)を心得ていた。彼は直(ただ)ちに其(その)穴を見出して、蛇のように潜(もぐ)り込むと、暗い中で恰(あたか)も彼(か)の市郎に出逢ったのであった。市郎は彼が家出の後(のち)に生れた児(こ)であるから、相互(たがい)に顔を見識(みし)ろう筈はなかったが、其詞(そのことば)の端(はし)に因(よっ)て、重蔵は早くも彼が角川家の倅(せがれ)であることを悟った。で、一旦は其奇遇(そのきぐう)に驚いたが、今は其(そ)んなことを詮議する場合でない。彼は頼まるるままに角川家へ使(つかい)する意(つもり)で、兎(と)も角(かく)も窟の外へ走り出た。
 外へ出ると、又もや重太郎に逢った。が、これも相互(たがい)に顔を見識(みし)らなかったので、二十年振(ぶり)で初めて邂逅(めぐりあ)った現在の父と子が、此(ここ)に忽(たちま)ち敵となった。二人は引組(ひっく)んだままで崖から転げ落ちると、下には幸いに熊笹が茂っていたので、身体には別に怪我(けが)もなかった。けれども、格闘(たたかい)は此(こ)のままに止(や)まなかった。二人は此(ここ)で又もや組討(くみうち)を始めたが、若い重太郎は遂に老(おい)たる父を捻伏(ねじふ)せた。彼は母の仇(かたき)と叫びつつ、持ったる洋刃(ないふ)を重蔵の喉(のど)へ差付(さしつ)けたのである。
 急所を刺された父は殆ど気を失って倒れた。重太郎は恐(おそら)く何処(いずこ)へか立去(たちさ)ったのであろう。それから塚田巡査に発見されるまでは、重蔵も夢心地で何にも知らなかった。
 老(おい)たる浮浪者の懺悔(ざんげ)は之(これ)で了(おわ)った。
「私も女房や子を捨てて逃げました。友達を殺して逃げました。それだけの罪でも碌(ろく)なことの無いのは当然(あたりまえ)です。二十年振(ぶり)で現在の子に邂逅(めぐりあ)いながら、其(その)手に掛(かか)って殺されると云うのも自然の因縁でしょう。斯(こ)う何も彼(か)も白状して了(しま)えば、私は人殺しの犯人ですから何(ど)うせ無事には済みますまい。寧(いっ)そ此(こ)のまま死んで了(しま)って、地獄にいるお杉に謝った方が可(よ)うございます。」
 彼の眼には悔恨の涙が見えた。警官も医師も其(そ)の自殺を懼(おそ)れて昼夜警戒していたが、彼は一旦快方に赴(おもむ)いたにも拘(かかわ)らず、爾来(じらい)再び模様が悪くなって、囈言(うわこと)のように斯(こ)んなことを叫び続けた。
「お杉……堪忍して呉(く)れ。俺が悪かった。お杉……お杉……重太郎……。熊吉、赦(ゆる)して呉(く)れ。熱い、熱い、地獄の火が……。」
 斯(か)くして、三日の後(のち)に重蔵は死んだ。人間の運命は不思議なもので、彼は故郷(こきょう)の土と化(な)るべく、偶然にここへ帰って来たのであった。

 十一月も中旬(なかば)になった。
 飛騨の冬は愈(いよい)よ迫って来て、霜は軈(やが)て雪となるらしい、鯨の群のような黒い雲が山から里へ掩(おお)って来た。この三日ばかりは日も見えなかった、風も吹かなかった。唯(ただ)天地暗澹(あんたん)の中(うち)に、寒い日が静(しずか)に暮れて、寒い夜が静(しずか)に明けた。この沈黙は恐るべき大雪を齎(もたら)す前兆である。里の人家では何(いず)れも冬籠(ふゆごもり)の準備に掛(かか)った。
 午後三時、一人の青年(わかもの)が村境(むらざかい)の小高い丘に立って、薄暗い町の方(かた)を遠く瞰下(みおろ)していた。彼は重太郎である。大方の冬木立は赤裸(あかはだか)になった今日此頃(このごろ)でも、樅(もみ)の林のみは常磐(ときわ)の緑を誇って、一丈に余る高い梢は灰色の空を凌(しの)いで矗々(すくすく)と聳(そび)えていた。この深林(しんりん)を背景に、重太郎は無言の俳優(やくしゃ)として舞台に立っていた。
 彼は恋しいお葉と泣いて別れた。更に父と知らずして父を傷(きずつ)けた。お葉が形見の山椿の枝を抱えて、一旦は其(その)場から姿を隠したが、流石(さすが)に遠くは立去(たちさ)らなかった。彼は木間(このま)や岩蔭に潜んで、絶えず其後(そのご)の模様を窺っていると、安行も死んだ、お杉も死んだ、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の一人(いちにん)も死んだ。其(その)屍体は何(いず)れも里へ運び去られたのである。
 安行や※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の死に就(つい)ては、彼は何にも考えなかったが、お杉の死は彼の胸を深く抉(えぐ)った。二十年来この窟に隠れ棲んで、殆ど人間との交際を断(た)っていた此(こ)の母子(おやこ)二人は、さながら車の両輪の如き関係であった。今や其(その)母を亡(うしな)って、彼は殆ど片輪(かたわ)になって了(しま)った。曩(さき)の夜(よ)、母から十日の内には死ぬと云い聞かされた時には、彼は心窃(ひそ)かにお葉というものを頼みにしていた。が、それも希望(のぞみ)の綱が切れた。彼は枝を離れた木葉(このは)のように、風のまにまに飛んで行くより他は無かった。
 ここばかりが自分の天地でないことは、重太郎も流石(さすが)に知らぬでは無かった。母に別れ、お葉に離れて、必ずしも此(こ)の山奥に棲んでいる必要は無いと思った。けれども、窟の底には母に教えられた大切の宝が有る。之(これ)を持出(もちだ)して他(ひと)に売れば、自分は大金満家(おおがねもち)になれるのである。乞食を為(し)ないでも済むのである。ここを立去(たちさ)る前に、先(ま)ず彼(か)の宝を持出(もちだ)さねばならぬと、彼は昼夜この辺(あたり)を徘徊して、窃(ひそ)かに好(い)い機会を窺っていたが、彼(か)の事件以来、窟には多数の警官が絶えず見張っているので、彼も迂濶(うかつ)に踏込(ふみこ)む隙を見出し得なかった。
 と云って、此(こ)のままに立去(たちさ)るほどの断念(あきらめ)は付かぬ。断念の付かぬのも無理はない。重太郎は宝に心を惹(ひか)されて、徒爾(いたずら)に幾日かを煩悶の中(うち)に送った。勿論(もちろん)、普通の人とは違って、山に馴れたる彼は寝床や食物には困らなかった。岩を枕にして眠った、木実(このみ)を拾って食った。斯(か)くして日を暮(くら)す間(あいだ)に、塚田巡査に一度見付けられたが、幸いに逃れた。
「あの宝は俺(おれ)の物だ。俺が持って行くのに不思議があるものか。」
 重太郎は斯(こ)うも考えた。けれども、自分の姿を見れば直(ただ)ちに追跡する警官等が、其(その)理屈を肯(き)いて呉(く)れるや否やを危(あやぶ)んだ。警官等は自分の敵であると彼は一図(いちず)に信じていた。寧(いっ)そ腕力付(うでづく)で奪い取ろうかとも考えたが、剣を佩(お)びたる多数の警官と闘うことは、彼も流石(さすが)に憚(はばか)った。この場合、味方と頼むのは多年同棲したる※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)であるが、彼等も其(その)以来何処(どこ)へ隠れたか姿を見せぬ。母と友とに離れたる孤独の重太郎は、ここらあたりを出没して空しく夜と昼とを送っているのであった。
 其間(そのあいだ)も彼は山椿の枝を放さなかった。紅い蕾(つぼみ)は疾(と)くに砕けて了(しま)ったが、恋しき女の魂魄(たましい)が宿れるもののように、彼は其(そ)の枯枝を大事に抱えていた。
 今日も漸(ようや)く暮れかかって来た。灰色の低い雲は町の空一杯に拡がっていた。
「雪が来るな。」と、重太郎も思った。
 更に山の方を振返(ふりかえ)って見ると、三方崩(さんぽうくず)れの彼方(あなた)から不思議な形の黒雲(くろくも)が勃々(むくむく)と湧き出して来た。例えば大入道のような怪物が黒い衣服(きもの)の裳(すそ)を長く※(「てへん+施のつくり」、第3水準1-84-74)(ひ)いて、太い片腕を長く突き出したような形で、徐(しずか)に北の空から歩んで来た。重太郎は眼も放さずに怪物の近(ちかづ)くのを仰ぎ視(み)た。
 普通の人は之(これ)を不思議の雲と見るであろうが、重太郎は更に之(これ)を不思議の物と見た。彼は之(これ)を一種の悪魔であると思った。あの雲が出る時には必ず人間に禍(わざわい)があると、小児(こども)の時から母に教えられたのであった。
 現在の重太郎に取っては、里の人間は総て我が敵であると云っても可(よ)い。其(そ)の里に向って、悪魔は天を翔(かけ)り行くのである。彼は云い知れぬ一種の愉快を感じて、猶(なお)も雲の行方を睨んでいると、黒い悪魔の手は漸次(しだい)に拡がって、今や重太郎の頭の上を過ぎた。
 彼は思わず跪(ひざま)ずいて、天を拝した。

 日は全く暮れた。悪魔のような黒雲(くろくも)は町から村へと大きな手を拡げて了(しま)った。ここに有るほどの家も人も、総て悪魔の黒い袖の下に包まれたのであった。
 今までは凍り着いたように静寂(しずか)であった町も村も、俄(にわか)に何となく閙(さわが)しくなった。鴉や雀は何物にか驚いたように啼き出した。犬も頻(しきり)に吠え出した。山の方では猿が悲しそうに叫び出した。重太郎も一種の不安を感じて、何の意(き)も無しに丘を駈け降りた。
 鳥の声は又止んだ、犬や猿も啼き止んだ。天地は再び旧(もと)の寂寞(せきばく)に復(かえ)ったかと思うと、灰のような細(こまか)い雪が音もせずに降って来た。斯(こ)ういう前触(まえぶれ)の気配を以て降って来た雪は、一丈に達せざれば止まぬのである。重太郎も骨に沁むような寒気(さむさ)を覚えた。
「山へ帰って焚火でも為(し)ようか。」
 懐中(ふところ)を探ると、燐寸(まっち)の箱は既(も)う空虚(から)であった。彼は舌打(したうち)して明箱(あきばこ)を投(ほう)り出した。此上(このうえ)は何とかして燐寸を求め得ねばならぬ。重太郎は思案して町の方(かた)へ歩み去った。燐寸の尽きたる時、これを人家より盗み去るのは彼が年来の習(ならい)であった。
 今も此(この)目的で彼は町の方(かた)へ忍び出た。細(こまか)い雪は益々烈しく降って来た。
 駅(しゅく)へ入ると、大方の家は既に戸を閉じていた。雨風を恐れぬ重太郎も、此(この)雪には流石(さすが)に面(おもて)を向けられぬので、成(なる)べく人家の軒下を伝って歩くと、暗い町の中で唯(ただ)一軒、燈火(あかり)の外へ洩(も)れる家を見た。門(かど)には枯柳が骸骨のように立っていた。
「ああ、柳屋か。」
 重太郎の血は俄(にわか)に沸いた。眼に見えぬ糸に曳(ひ)かるる様(よう)に、彼はふらふらと其(そ)の門口(かどぐち)に窺い寄ると、奥には春めいた空気が漲(みなぎ)って、男や女の笑い声が聞えた。やがて三味線の音が冴えて聞えた。

美濃(みの)の柳と、近江(おうみ)の柳。
風のまにまに縺(もつ)れて解(と)けて、
国は違えど、恋はする。

 唄の声は正(まさ)しくお葉であった。重太郎は枯柳に犇(ひし)と取付(とりつ)いて、酔えるように耳を澄(すま)していた。雪はいよいよ降頻(ふりしき)って、重太郎も柳も真白(まっしろ)になった。
 糸の音(ね)が止むと、又もや話声(はなしごえ)や笑い声が聞えた。其中(そのなか)にお葉の声も聞えるかと、重太郎は猶(なお)も耳を傾けていた。
 客は矢(や)はり鉱山に関係の人らしい、酔(よい)を帯びた調子は高かった。
「何(ど)うだい、到頭(とうとう)降って来たらしいぜ。過日(このあいだ)から催していたんだから、滅多(めった)に止むまいよ。困ったもんだ。」
「可(い)いじゃありませんか。何(ど)うせ寒い中(うち)は休みでしょうから、当分はここの家(うち)に冬籠(ふゆごも)りを為(な)さいよ。」と、若い女の声。これはお葉ではなかった。
「だが、雪が降って食物(くいもの)が無くなると、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)が山から里へ出て来ると云うじゃアないか。迂濶(うっかり)酔倒(よいたお)れている処を、攫(さら)って行かれちゃア大変だからね。ははははは。」
「大丈夫、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は既(も)う何処(どっか)へ行って了(しま)ってよ。」と、今度はお葉の声であった。
「ほんとうに過日(このあいだ)の騒動(さわぎ)は大変だったわねえ。」と、若い女が相槌(あいづち)を打った。
「妾(あたし)あの騒動(さわぎ)じゃア酷(ひど)い目に逢って了(しま)った。」と、お葉が口惜(くやし)そうに云った。
「お前も※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に攫(さら)われたんだと云うじゃアないか。」と、客は笑った。
「嘘よ。妾(あたし)はお杉婆(ばばあ)の魔法遣(まほうつか)いに電気を掛けられて、夢中でふらふら行ったんですわ。だから、何にも知りゃア為(し)ないのに、警察では種々(いろいろ)な詮議をして……。ほんとうに忌(いや)になって了(しま)った。角川の大旦那が殺されたと云うことも、家(うち)へ帰ってから初めて聞いた位ですもの……。」
「でも、若旦那は運が好(よ)かったのね。」と、若い女の声が聞えた。
「そうさ。危(あやう)くお杉婆(ばばあ)に殺される所を、若旦那が早く気が注(つ)いたんで、お杉の方が反対(あべこべ)に穴の底へ墜落(おっこ)ちて死んだんですとさ。何でも人の話で聞くと、お杉婆の身体は粉微塵(こなみじん)になって居ましたとさ。」
 この説明はお葉の口から出た。これと聞くや重太郎は俄(にわか)に顔色を変えた。彼は懐中(ふところ)から秘蔵の洋刃(ないふ)を把出(とりだ)して、例の「千客万来」の行燈(あんどう)の火で屹(きっ)と視(み)た。
 雪には少しく風が交(まじ)って来た。

 燐寸(まっち)を盗む為に里に出た重太郎は、今や柳屋の門(かど)に立って、思いも寄らぬ秘密を聴き出したのであった。彼は理由を能(よ)くも糺(ただ)さずに、彼(か)の怪しき坑夫体(てい)の男を母の仇(かたき)と一図(いちず)に思い定めて、其(その)場を去らずに彼を刺止(さしと)めた。これで復讐の役目は果(はた)したものと信じていた処が、今この人々の話を聞くと、それは自分の思い違いで、当の仇は角川市郎であった。自分に取っては恋の仇とも云うべき角川市郎であった。重太郎は驚き且(かつ)怒(いか)って、思わず拳を握った。
 母の仇は必ず討つと、彼は曩(さき)の日お杉に誓ったのである。其(その)仇の名は今やお葉の口から洩(も)れた。気の短い重太郎は既(も)う一刻も猶予はならぬ、仇の血を衂(ぬ)るべき洋刃(ないふ)を把出(とりだ)して、彼は俄(にわか)に身繕(みづくろ)いした。奥では又もやお葉の笑い声が聞えた。が、恋しい人の媚(なまめ)かしい声も、熱したる彼の耳には既(も)う入らなかった。復讐の一念に前後を顧(かえり)みぬ重太郎は雪を蹴立てて手負猪(ておいじし)のように駈け出した。
 角川の家では未(ま)だ眠らなかった。市郎の傷も漸(ようや)く癒(い)えて、此頃(このごろ)は床の上に起き直られる様(よう)になったので、看病の冬子は一旦わが家へ帰った。今日は忠一が昼から遊びに来ていたが、此(この)雪の為に今夜は泊る事となって、市郎の枕辺(まくらもと)で相変らず※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の研究談に耽っていた。
「雪が降ると世間が静(しずか)だね。」
「殊にここらは山奥だもの。」と、市郎は笑って、「まあ、これから来年の春までは、蛇や熊のように穴籠(あなごも)りをして居るんだよ。」
「穴籠りと云えば、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の奴等は此(この)雪に何(ど)うしているだろう。」と、忠一は自ら問い、自ら答えて、「あんな奴等だから、雪の融(と)けるまで何処(どこ)かの穴にでも潜(もぐ)っているだろうね。」
「そうだろう。併(しか)しあの以来、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の噂も消えた様(よう)だよ。まあ、好(いい)塩梅(あんばい)だ。何しろ、金の兜(かぶと)は掘出物だったよ。」
「あれが真実(ほんとう)の掘出物と云うのだろう。僕も県史や飛騨誌などを調査した結果、飛騨判官朝高という人物の伝記も大抵判った。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は愈(いよい)よ元(げん)の蒙古に疑い無しだ。」
「そうかねえ。」
 この時、庭の竹藪でがさりと云う音が聞えた。忠一は話を止(や)めて耳を立てた。
「何、竹が折れたんだろう。」
「いや。」と、忠一は考えて、「竹の折れる程は未(ま)だ積(つも)るまい。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)じゃアないか。」と、笑いながら猶(なお)も耳を澄(すま)していた。
 音もせぬ雪は一時間の中(うち)に余(よ)ほど積(つも)ったらしい。庭には雪を踏む跫音(あしおと)ががさがさと聞えて、雨戸の外へ何者か窺い寄るような気息(けはい)を感じた。二人は顔を見合わした。
「いよいよ※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)かな。」
「真逆(まさか)……。」と、市郎は笑った。
 何者か雨戸に触れた。南天(なんてん)に積(つも)っている雪がばらばらと落ちた。忠一は衝(つ)と起(た)って縁側の障子を明けると、外の物音は止んだ。忠一は続いて雨戸を明けた。一面に降頻(ふりしき)る粉雪(こゆき)は、戸を明けるのを待って居た様(よう)に、庭の方から忽(たちま)ち颯(さっ)と吹き込んで来た。
「や、酷(ひど)く降るな。」と、忠一は袖で顔を払った。それから更に庭を見渡したが、白い木立、白い竹藪、その他(ほか)には何にも見えなかった。
「じゃア、風か知ら。」
 云う中(うち)に、彼は雪に印(いん)せる人の足跡を見付けた。確(たしか)に人の足である。加之(しか)も入口の方(ほう)から庭伝いに縁先へ来て消えている。何者か忍び込んだに相違ない。忠一は愈(いよい)よ眼を輝かして四辺(あたり)を見渡したが、雪明(ゆきあかり)では何(ど)うも判然(はっきり)と解らぬ。
「鳥渡(ちょいと)、燈火(あかり)を貸し給え。」
 彼は洋燈(らんぷ)を持出(もちだ)して庭を照(てら)すと、足跡は確(たしか)に残っているが、人の形は見えぬ。猶(なお)も燈火(あかり)を彼地此地(あちこち)へ向けている中(うち)に、雪は渦巻いて降込(ふりこ)んで来た。袖で掩(おお)う間(ひま)も無しに、洋燈(らんぷ)の火は雪風(ゆきかぜ)に吹き消されて、室(へや)の内は俄(にわか)に闇となった。
 忠一は引返(ひっかえ)して燐寸(まっち)を擦ろうとする時、一個(ひとり)の小さい人間が闇に紛れてひらりと飛び込んで来た。重太郎は縁の下に潜んで内の様子を窺っていたのである。暗い中でも眼の鋭い彼は、洋刃(ないふ)を逆手(さかて)に振翳(ふりかざ)して直驀地(まっしぐら)に市郎の寝床へ跳(おど)り蒐(かか)った。

 何者か知らぬが、不意に庭から飛び込んで来たので、忠一は早くも其(そ)の背後(うしろ)から組付(くみつ)いた。重太郎は焦(いら)って振放(ふりはな)そうと試みたが、此方(こなた)も多少は柔道の心得があった。
「こん畜生、温順(おとなし)く降参しろ。一体、貴様は何だ、何者だ。」
 重太郎は物をも云わなかった。羽翅締(はがいじ)めの身を悶(もが)きながら、洋刃(ないふ)を逆にして背後(うしろ)を払うと、切先(きっさき)は忠一が右の臂(ひじ)を擦(かす)った。これで思わず手を弛(ゆる)める隙を見て、彼は一足踏込(ふみこ)んで当の仇(かたき)の市郎に突いて蒐(かか)ると、対手(あいて)は早くも跳(は)ね起きて、有合(ありあ)う衾(よぎ)を投げ掛けたので、小さい重太郎は頭から大きい衾を被(かぶ)って倒れた。
「占めたッ。」
 忠一は衾の上から乗(のり)かかって押えた。が、何しろ暗いので始末が悪い。
「早く燈火(あかり)を持って来い。燈火を……燈火を……。」と、市郎が呼んだ。
 雪は降っても未(ま)だ宵である。入口の爐(ろ)を囲んでいた人々は、この声を聞いてばらばらと起(た)って来た。或(ある)者は手に洋燈(らんぷ)を持った。
「何です、何(ど)うしたんです。」と、皆口々に問うた。
「賊だ、賊だ。賊を取押(とりおさ)えたんだ。」と、忠一は叫んだ。
「何、賊だ。」と、人々は眼を皿にして衾の周囲(まわり)にどやどやと集(あつま)った。重太郎は土龍(もぐらもち)のように衾の下で蠢(うごめ)くのであった。が、彼も流石(さすが)に考えた。斯(かか)る始末となって多勢(たぜい)に取巻(とりまか)れては、到底(とても)本意(ほんい)を遂げることは覚束(おぼつか)ない。一旦はここを逃げ去って、二度の復讐を計る方が無事である。と、斯(こ)う考えたので、彼は故意(ことさら)に小さくなって、宛(さな)がら死せるように鎮(しずま)っていた。対手(あいて)が温順(おとなし)いので、忠一も少しく油断した。
「燈火(あかり)を此方(こっち)へ出し給え。兎(と)にかく何(ど)んな奴だか面(つら)を見て与(や)るから……。」
 云いつつ徐(しずか)に衾を剥(めく)ると、待構(まちかま)えたる重太郎は全身の力を籠(こ)めて曳(えい)やと跳(は)ね返したので、不意を食(くら)った忠一は衾を掴んだまま仰向けに倒れた。重太郎は洋刃(ないふ)を閃かして矗然(すっく)と起(た)った。と思うと、忽(たちま)ちに人の袖を潜(くぐ)って、縁先から庭へひらりと飛び降りた。
「あ、逃げた。」
 人々は続いて追った。忠一も歯噛(はがみ)をして追った。重太郎は狐のように雪を飛んで、早くも門外まで逃げ去った。
 けれども、飽(あく)まで不運なる彼は此(ここ)で又もや強敵に逢った。巡回中の塚田巡査が恰(あたか)もここへ来合(きあわ)せて、角燈(かくとう)の火を其(そ)の鼻の先へ突付(つきつ)けたのである。重太郎も之(これ)には少しく怯(ひる)んだ。
 背後(うしろ)からは忠一を先に、角川家の人々が追って来た。前には巡査が立っている。敵に前後を挟まれた重太郎は、先(ま)ず当面の邪魔を攘(はら)うに如(しか)ずと思ったのであろう、刃物を揮(ふる)って巡査に突いて蒐(かか)った。巡査は体(たい)を替(かわ)して其利腕(そのききうで)を掴んだが、降積(ふりつ)む雪に靴を滑らせて、二人は折重(おりかさな)って倒れた。
 忠一は駈け寄って其襟髪(そのえりがみ)を取ろうとしたが、此(こ)の場合、身体の小さいと云うことが重太郎に取っては非常の利益であった。彼は早くも忠一の足の下を潜(くぐ)って這い抜けた。加之(しか)も二間(けん)ばかりは四つ這いになって走って、又ひらりと起(た)ち上(あが)った。犬だか人だか判らぬ。
「賊だ、賊だ。」と、人々は口々に叫びながら追った。
 この騒ぎを聞付(ききつ)けて、町の家々でも雨戸を明けた。「賊だ、賊だ。」と叫ぶ声が甲(それ)から乙(それ)へと伝えられた。重太郎は哀れや逃場(にげば)を失った。それでも彼は猶(なお)一方の血路(けつろ)を求めて、唯(と)ある人家の屋根へ攀登(よじのぼ)った。茅葺(かやぶき)、板葺(こけら)、瓦葺(かわらぶき)の嫌いなく、隣から隣へと屋根を伝って、彼は駅尽頭(しゅくはずれ)の方へ逃げて行った。
 追手(おって)は漸次(しだい)に人数(にんず)を増して、前から後(うしろ)から雪を丸めて投げた。此(こ)の雪礫(ゆきつぶて)を防ぐ手段として、重太郎も屋根から石を投げた。雪国の習(ならい)として、板屋根には沢山の石が載せてあるので、彼は手当(てあたり)次第に取って投げた。石の礫(つぶて)と雪の礫とが上下(うえした)から乱れて飛んだ。
 而(しか)も敵は益々殖(ふ)えるばかりである。何処(いずこ)も同じ彌次馬(やじうま)が四方から集(あつま)って来て、警官や忠一等に声援を与えた。其中(そのうち)に長い梯子(はしご)を持出(もちだ)して来る者もあった。塚田巡査は靴を脱いで屋根に登った。二三人の消防夫も続いて登った。斯(こ)う肉薄して来られては堪(たま)らぬ。重太郎も流石(さすが)に根負(こんまけ)がして、遂に屋根から飛び降りた。但(ただ)し往来の方へ出るのを避けて、彼は裏手の方(かた)へ飛んだ。

 重太郎の飛び降りたのは、美濃屋(みのや)という雑穀屋(ざっこくや)の裏口であった。追手(おって)の一組(ひとくみ)は早くも駅尽頭(しゅくはずれ)の出口を扼(やく)して、他(た)の一組は直(ただ)ちに美濃屋に向った。ここらの町家(まちや)は裏手に庭や空地(あきち)を有(も)っているのが習(ならい)であるから、巡査等は同家(どうけ)に踏込(ふみこ)んで先(ま)ず裏庭を穿索(せんさく)した。が、縁の下にも庭の隅にも重太郎の姿は見えなかった。
 見えないのも道理で、重太郎はここへ飛び降りると、直(すぐ)に垣根を乗越(のりこ)えて、隣から隣へと四五軒も逃げた。折から烈しく降る雪は、彼の小さい足跡を直(ただ)ちに埋(うず)め消して、人には鳥渡(ちょっと)判らぬのであった。
「この雪の降るのに何を騒いでいるんだろうねえ。」
 お葉は独語(ひとりごと)を云いながら裏庭の雨戸を明けた。柳屋の客も女も、この騒ぎを聞附(ききつ)けて、何(いず)れも表へ見物に出たが、お葉は「何の、詰(つま)らない。」と云う風で、先刻(さっき)から一人残っていたのである。彼女(かれ)は大分酔っていた。
 雪風(ゆきかぜ)に熱い頬を吹かせながら、お葉は快(いい)心地(こころもち)に庭前(にわさき)を眺めていると、松の樹の下に何だか白い物の蹲踞(しゃが)んでいるのを不図(ふと)見付けた。どうやら人のようである。
「誰だい。そこにいるのは……。」と、お葉は試みに声をかけた。
 声の主(ぬし)を早くも其(そ)れと知ったのであろう、白い物は勃々(むくむく)と起き上(あが)って、縁の前(さき)へ忍んで来た。障子を洩(も)るる燈火(ともしび)の光に透(すか)して視(み)ると、それは雪だらけの重太郎であった。先刻(さっき)からの格闘(たたかい)で疲れたと見えて、流石(さすが)の彼も切なそうに肩で息をしていた。
「まあ、重(じゅう)さん。」
 お葉も少しく意外に驚いて、霎時(しばらく)其(その)顔を眺めていた。雪は小歇(おやみ)なく降っていた。
「燐寸(まっち)を呉(く)れないか。」と、重太郎は低い声で云った。
「燐寸が欲(ほし)いの。そんなものは幾許(いくら)でも上げるけれども、一体どうして今頃こんな所へ来たのさ。」
「仇(かたき)を討ちに行ったんだ。」
「何処(どこ)へ……。」
「角川の家(うち)へ……。」
 お葉は愈(いよい)よ驚いて、縁から半身(はんしん)乗出(のりだ)した。
「それで何(ど)うしたの。仇を討ったの。」
 重太郎は口惜(くやし)そうに頭(かしら)を掉(ふ)った。
「角川の息子を殺して与(や)ろうと思って行ったんだけれども、見付かったんで無効(だめ)だった。それから大勢に追掛(おっか)けられて、やッと此処(ここ)まで逃げて来たんだ。」
「じゃア、今の騒(さわぎ)はお前さんだね。だが、角川の若旦那を何故殺そうとしたの。」
「阿母(おっか)さんの仇だ。」
「どうして……。」
「先刻(さっき)、お前が然(そ)う云ったのを聞いていた。俺(おら)が表に立っていると、お前が人に話していたんだ。」
 お葉は又驚いた。自分の口から斯(こ)んな騒ぎが出来(しゅったい)したとは、今の今まで些(ちっ)とも知らなかったのである。
「そりゃア間違いだよ。お前さんの鑑違(かんちが)いだよ。成(なる)ほど、妾(あたし)は然(そ)う云ったけれども、若旦那が手を下(おろ)してお前の阿母(おっか)さんを殺したんじゃアない。お前の阿母さんが背後(うしろ)から不意に突こうとするのを、若旦那が気が注(つ)いて急に避(よ)けたもんだから、阿母さんは自分で踉蹌(よろ)けて墜落(おっこ)ちたんだよ。究竟(つまり)、お前の阿母さんの方が悪いんだよ。ね、考えて御覧(ごらん)。」
 考えて見ろと云われて、重太郎は素直に考えていた。
「一体を云えば、お前さん達の方が仇なんだよ。角川の大旦那を殺したのは誰だえ。お前の阿母(おっか)さんや※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)だろう。それだから、若旦那の方こそお前さん達を怨(うら)んでも可(い)いのに、お前さんの方で反対(あべこべ)に若旦那を怨むなんて、早く云えば外道(げどう)の逆恨(さかうらみ)で、理屈が全然(まるで)間違っているんだよ。ね、然(そ)うだろう。能(よ)く考えて御覧。」
 再び考えろと云われて、重太郎は又考えた。いかに野育(のそだ)ちの彼でも多少の理屈は呑込(のみこ)めるのである。加之(しか)も是(これ)はお葉の説教である。復讐に凝固(こりかたま)った彼の頭脳(あたま)の氷も、愛の温味(あたたかみ)で少しく融(と)け初(そ)めて来たらしい。
「そうかなあ。」と、彼は嘆息(ためいき)を吐(つ)いた。
「そうさ。解ったろう。」
 重太郎は黙って又考えていた。表でも裏でも大勢のわやわや云う声が聞えた。

 曩(さき)の日、椿の枝を折って別れてから、お葉は重太郎を憎んで居なかった。怨(うら)むまじき人を怨んだのは、彼の料見違(りょうけんちが)いには相違ないが、人並ならぬ彼に対(むか)って深く之(これ)を責むるのは無理である。兎(と)にかく市郎の身に恙(つつが)なかったのは何よりの幸福(さいわい)であったと、お葉は安堵の胸を撫下(なでおろ)すと同時に、我が眼前(めのまえ)に雪を浴びて、狗児(いぬころ)のように跼(うずく)まっている重太郎を哀れに思った。
「何しろ、此方(こっち)へお出(い)でよ。」
 お葉は重太郎の手を取って、縁(えん)に腰を掛けさせた。
「可(い)いよ。追手(おって)の人が来たら隠して上げるから、安心してお在(いで)。お前さん、寒かアないかい。」
 お葉は座敷へ復(かえ)って、徳利(とくり)と洋盃(こっぷ)とを持って来た。
「お燗(かん)が熱過(つきす)ぎているかも知れないが、一杯お飲みよ。温暖(あったか)になるから……。」
「こりゃア何だ。」
「お酒だよ。飲んで御覧(ごらん)。妾(あたし)のお酌(しゃく)ですよ。」
 重太郎はお葉の酌で、満々(なみなみ)と注(つ)がれたる洋盃を取った。が、生れてから今日(こんにち)まで酒と云うものの味を知らぬ彼は、熱い酒を飲むに堪(た)えなかった。彼は一口飲んで忽(たちま)ち噎(む)せ返った。
「熱いの。」と、お葉は微笑(ほほえ)んだ。重太郎は顔を皺(しか)めて首肯(うなず)いた。
 お葉は更に起(た)って縁先(えんさき)に出た。左の手には懐紙(ふところがみ)を拡げて、右の腕(かいな)も露出(あらわ)に松の下枝(したえだ)を払うと、枝も撓(たわわ)に積(つも)った雪の塊は、綿を丸めたようにほろほろと落ちて砕けた。其(そ)の白い一片(ひとかけ)を紙に受けて、「さあ、これで温(う)めて上げるよ。」
 冷(つめた)い雪はお葉の白い手から洋盃に移された。重太郎は無言で雪と酒とを一所(いっしょ)に飲んだ。が、口に馴れぬ酒は矢(や)はり苦(にが)いと見えて、彼は二口(ふたくち)ばかり飲んで洋盃を置いた。
「旨(うま)くないの。これを飲むと温暖(あったか)になるんだけれども……。」と、お葉は笑った、「じゃア、妾(あたし)が助(す)けて上げますよ。」
 お葉は其(そ)の洋盃を取って、一息に※(「口+禺」、第3水準1-15-9)(ぐっ)と飲み干した。重太郎は眼を丸くして眺めていたが、やがて懐中(ふところ)から椿の折枝(おりえだ)を把出(とりだ)して見せた。いかに大切にしていても、過日(このあいだ)から水も与(や)らずに我肌(わがはだ)に着けていたのであるから、蕾(つぼみ)は已(すで)に落ち尽(つく)した、葉も已に枯れ尽して、枝も已に折れていた。恋しい人の形見と思えばこそ、花も葉もない斯(こ)んな枯枝を、彼は幾多の不便を忍んで今まで身に添えていたのであろう。
「お前さんも可愛い人ねえ。」
 お葉の眼には涙が見えたが、衝(つ)と起(た)って再び座敷へ復(かえ)った。床(とこ)の花瓶(はないけ)には彼(か)の椿が生けてあって、手入(ていれ)の好(い)い所為(せい)でもあろう、紅い花は已に二輪ほど大きく綻(ほころ)びていた。彼女(かれ)は其(その)枝を持って出た。
「これ、御覧(ごらん)。お前さんに貰った花は、妾(あたし)の方でも大事にして、此(こ)の通りに花を咲かしてあるよ。」
 重太郎は手に取って、紅い花をつくづく眺めた。彼は自分の魂魄(たましい)が此(この)花に宿って、お葉の温かき情(なさけ)を受けているようにも思った。
「どうだい、よく咲いたろう。」
「むむ。」と、重太郎も笑(え)ましげに答えて、猶(なお)も飽かずに其(その)花を眺めていたが、「ねえ、此(この)花を一つ呉(く)れないか。」
「ああ、欲(ほし)ければ上げますよ。丁度(ちょうど)二輪咲いてるから、お前さんと妾(あたし)とで一個(ひとつ)ずつ分けようじゃアないか。」
 二輪の花を折って縁側に列(なら)べると、重太郎は其(そ)の一個(ひとつ)を取った。
「紙に包んで上げよう。」
 お葉は白い紙に紅い花を軽く包んで渡すと、重太郎は菓子を貰った小児(こども)のように、莞爾(にこにこ)しながら懐中(ふところ)に収めた。
「お前さん、これから何(ど)うするの。」
「宝物を持出(もちだ)して何処(どこ)かへ行くんだ。」
「宝物ッて、金の兜(かぶと)じゃア無いの。」
「むむ、何でも其(そ)んなものだ。」
「そりゃア既(も)う駄目。警察の方で引揚(ひきあ)げて了(しま)ったと云うことよ。」
「そうかい。」
 重太郎も驚いて声を揚げた。其(その)声が度外(どはず)れに高いので、お葉は慌てて四辺(あたり)を顧(みかえ)った。

 母に別れ、棲家(すみか)を失った今の重太郎に取って、唯一の依頼(たのみ)というのは彼(か)の尊(とうと)き宝であった。それを手に入れたいばかりで、彼は厳重なる警官の眼を潜(くぐ)りつつ、今日(きょう)まで此(こ)の辺(あたり)を漂泊(さまよ)っていたのである。而(しか)も其(そ)の希望(のぞみ)の光は今や消えた。
「俺(おら)ア矢(や)ッ張(ぱ)り乞食をするより他(ほか)は無いんだなあ。」と、彼は泣かぬばかりに嘆息した。実際、彼は泣くにも泣かれぬ絶望の淵に沈んだのである。
「ほんとうに可哀そうだねえ。」と、お葉も共に嘆息した。親戚(みより)も無し、職業(しょうばい)も無し、金も無い此(こ)の人が、これから他国を彷徨(うろつ)いて、末は何(ど)うなることであろう。何時(いつ)までも乞食をしているより他(ほか)はあるまい。いや、其(そ)の乞食すらも満足に能(でき)るか何(ど)うだか解ったものでは無い。斯(こ)うなると、人間よりも犬の方が寧(いっ)そ優(まし)である。お葉は犬にも劣った重太郎の不幸に泣いた。
 が、二人は何時(いつ)までも泣いている場合でなかった。追手(おって)は美濃屋の庭を探し尽(つく)して、更に両隣を猟(あさ)り始めた。人の声が漸次(しだい)に近(ちかづ)いた。警官の角燈(かくとう)が雪に映じて閃いた。
「あ、此方(こっち)へ来たよ。」
 お葉が眼を拭(ふ)いて起(た)ち上(あが)ると、重太郎も無言で起(た)った。雪を踏む大勢の跫音(あしおと)が隣に近(ちかづ)いて来た。
 危険が漸(ようや)く迫ると知って、重太郎の眼は俄(にわか)に嶮(けわ)しくなった。彼は例の野性を再び発揮したのであろう、洋刃(ないふ)を逆手(さかて)に持って庭の真中(まんなか)に進み出た。
「其方(そっち)へ行っちゃア危ない。此方(こっち)から窃(そっ)と出る方が可(い)い。」
 お葉は素足で雪を踏んで、庭口の裏木戸を音(おと)せぬように明けると、重太郎は何にも云わずに走って出た。何を思い出したか、お葉は急に「あ、鳥渡(ちょいと)……。」と呼び止めたが、重太郎は見返りもせずに駈けて行った。
 たとい乞食をするにしても、土方(どかた)をするにしても、之(これ)から他(ほか)土地へ行こうと云うには、多少の路銀(ろぎん)が無くてはならぬ。咄嗟(とっさ)の間(あいだ)にお葉は之(これ)を思い出したのであった。
 彼女(かれ)は慌てて又もや座敷へ引返(ひっかえ)して、先(ま)ず有合(ありあ)う燐寸(まっち)を我袂(わがたもと)に入れた。更に見廻すと、床(とこ)の間(ま)の傍(わき)には客の紙入(かみいれ)が遺してあって、人はまだ誰も帰って来なかった。お葉は其(その)紙入から札と銀貨を好加減(いいかげん)に掴み出して、数えもせずに紙に包(くる)んだ。之(これ)を懐中(ふところ)に押込(おしこ)んで、彼女(かれ)も裏木戸から駈け出した。
 この時、塚田巡査を先に四五人の追手(おって)が裏口へ廻って来た。素足で雪の中を駈けて行くお葉の姿を不思議と見たのであろう、巡査は角燈(かくとう)を翳(かざ)して呼び止めたが、お葉は聞かぬ振(ふり)をして駈抜(かけぬ)けて了(しま)った。
「変な奴ですな。」と、忠一が云った。
「あれは此(こ)の家(うち)のお葉という女ですが……。」と、云いながら巡査も考えた。不徳要領(ふとくようりょう)の為に一旦は釈放したものの、お葉は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)一件に就(つい)て何等かの関係ありげにも見ゆる女である。それが今この場合に雪中を跣足(はだし)で駈歩(かけある)くのは、何か仔細があるらしくも思われるので、巡査も職掌柄、直(すぐ)に其(その)跡を追って行った。
 夜の雪はますます烈しくなって来た。風も亦(また)吹き募(つの)って来た。天から降る雪と地に敷く雪とが一つになって、真白(まっしろ)な大浪(おおなみ)小波(こなみ)が到る処に渦を巻いて狂った。其(そ)の凄じい吹雪(ふぶき)の中を、お葉は傘も挿(さ)さずに夢中で駈けた。
「重(じゅう)さん……。重太郎さん……。」
 声は吹雪に隔(へだ)てられて聞えないので、重太郎の小さい姿は十間(けん)ばかりの先に見えつ隠れつしながらも、お葉は容易に追い止めることが能(でき)なかった。加之(しか)も風の吹き廻しで、声は却って後(あと)の方へ響くので、巡査は彼女(かれ)が重太郎を呼ぶ声を聞いた。忠一の耳にもお葉の声が聞えた。重太郎の名を聞いては愈(いよい)よ捨置(すてお)かれぬ、巡査も人々も続いて其(その)跡を追った。が、何分にも眼口(めくち)を撲(う)つ雪が烈しいので、人々は火事場の烟(けむり)に噎(む)せたように、殆ど東西の方角が付かなくなって来た。
 この中でも、お葉は例の本性を発揮して、飽(あく)までも強情に吹雪を衝(つ)いて進んだ。駅(しゅく)を出ると風も雪も愈(いよい)よ強くなって来た。山国の冬に馴れたる彼女(かれ)は、泳ぐように雪を掻いて歩んだ。が、心は矢竹(やたけ)に※(「二点しんにょう+端のつくり」、第4水準2-89-92)(はや)っても彼女(かれ)は矢(や)はり女である。村境(むらざかい)まで来る中(うち)に、遂に重太郎の姿を見失ったのみか、我も大浪(おおなみ)のような雪風(ゆきかぜ)に吹き遣(や)られて、唯(と)ある茅葺(かやぶき)屋根の軒下に蹉(つまず)き倒れた。雪は彼女(かれ)の上に容赦なく降積(ふりつ)んで、さながら越路(こしじ)の昔話に聞く雪女郎(ゆきじょろう)のような体(てい)になった。
 この茅葺(かやぶき)は隣に遠い一軒家であった。加之(しか)も空屋(あきや)と見えて、内は真の闇、鎮(しずま)り返って物の音(おと)も聞えなかった。

 お葉は雪を払いつつ又起き上(あが)った。酒の酔(よい)も全く醒めて了(しま)った。
 彼女(かれ)も流石(さすが)に狂人(きちがい)ではない。此(こ)の吹雪(ふぶき)の中を的途(あてど)も無しに駈け歩いたとて、重太郎の行方は知れそうも無いのに、何時(いつ)まで彷徨(うろつ)いているのも馬鹿馬鹿しいと思った。
「もう諦めて帰ろうか。」
 それにしても生憎(あやにく)に雪が酷い。兎(と)も角(かく)も一時を凌(しの)ぐ為に、彼女(かれ)は此(こ)の空屋(あきや)の戸を明けようとすると、半(なかば)朽(く)ちたる雨戸は折柄(おりから)の風に煽られて礑(はた)と倒れた。お葉は転げるように内へ入った。
「おお、寒い。」と、彼女(かれ)は肩を縮(すく)めつつ四辺(あたり)を見廻すと、暗い家(いえ)の中には何物も無かった。更に雪明(ゆきあか)りで透(すか)して視(み)ると、土間の隅には二三枚の荒莚(あらむしろ)が積み重ねてあったので、お葉は之(これ)を持出(もちだ)して先(ま)ず框(かまち)の上に敷いた。腰を卸(おろ)して扨(さて)ほッと息を吐(つ)くと、彼女(かれ)は今更のように骨に沁(し)む寒気(さむさ)を感じた。
 何か焚火でもする材料は無いかと、お葉は急に我が袂(たもと)を探ると、重太郎に与(や)ろうと思って折角(せっかく)持って来た燐寸(まっち)は、何時(いつ)の間にか振落(ふりおと)して了(しま)った。仕方がないと舌打(したうち)しながら、倒れた戸の間(あいだ)から表を覗いて見ると、風も雪もますます暴(あ)れて来た。こんな所に何時(いつ)までも躊躇(ぐずぐず)していたら、凍(こご)えて死んで了(しま)うかも知れぬ。夜の更けぬ間(ま)に些(ちっ)とも早く帰った方が怜悧(りこう)だと、お葉は鬢(びん)の雪を払いつつ、弛(ゆる)んだ帯を締直(しめなお)して起(た)った。
 この時、がさがさと雪を踏む跫音(あしおと)が聞えて、何者か此(こ)の門口(かどぐち)へ走り寄ったらしい。若(もし)や重太郎か、但(ただ)しは追手(おって)の者かと、お葉は眼を据えて透(すか)し視(み)る間(ひま)に、人か猿か判らぬような者が雪を蹴ってちょこちょこと飛び込んで来た。加之(しか)も其(そ)れは二人(ふたり)であった。と思うと、後(あと)から又一人入って来た。後の一人は色の白い女を抱えているらしい。
「おや、何だろう。」
 お葉も不思議に思った。暗い隅の方へ身を退(ひ)いて、霎時(しばらく)其(そ)の様子を窺っていると、新しく入って来た三人は一種奇怪な声を出してキキと笑った。其(その)声は確(たしか)に記憶(おぼえ)がある。曩(さき)の日彼(か)の虎ヶ窟で聞いた山※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(やまわろ)の叫び声であった。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は此(こ)の雪の夜に、何処(どこ)からか若い女を攫(さら)って来たのであろう。お葉は愈(いよい)よ驚き怪(あやし)んで、猶(なお)も窃(ひそ)かに其(そ)の成行(なりゆき)を窺っていた。
 家の中は何分(なにぶん)にも暗いので、お葉は女の顔を能(よ)く見ることが能(でき)なかったが、若(も)し其(その)顔を知ったらば彼女(かれ)は更に驚いたに相違ない。今や※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に攫(さら)われて来た若い女は、彼(か)の吉岡の冬子であった。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は何故(なにゆえ)に冬子を奪い出して来たのであろう。彼等の料見は到底普通の人間の想像し得(う)べき限(かぎり)でないが、兎(と)にかく或(ある)罪悪を犯すべき犠牲(いけにえ)として、若い処女(しょじょ)を担ぎ出して来たものと察せられた。冬子は口に桃色の手巾(はんかちーふ)を捻込(ねじこ)まれているので、泣くにも叫ぶにも声を立てられなかった。
 我が恋の仇(かたき)とも云うべき冬子が斯(かか)る危難に陥っていると知ったら、お葉は此際(このさい)何(ど)んな処置を取ったであろう。が、表より洩(も)るる朧(おぼろ)の雪明(ゆきあかり)では、お葉に其(そ)れと判然(はっきり)解らなかった。彼女(かれ)は単に※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の餌食(えじき)となるべき若い女の不幸を憫(あわ)れんで、何とかして之(これ)を拯(すく)って与(や)りたいと思ったのである。而(しか)も対手(あいて)は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)三人で、此方(こっち)は女一人、迂濶(うっかり)加勢に飛び出したら自分も何(ど)んな酷い目に遭うかも知れぬ。お葉は息を殺して猶(なお)も窺っていると、彼等は頻(しきり)にキキと笑いながら冬子を彼(か)の荒莚(あらむしろ)の上に投げ出した。
 冬子も一生懸命である。裳(もすそ)を乱して一旦は倒れたが又忽(たちま)ち跳(は)ね起きて、脱兎(だっと)の如くに表へ逃げ出そうとするのを、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は飛び蒐(かか)って又引据(ひきす)えた。お葉も既(も)う見ては居(い)られぬ。さりとて何等の武器をも持たぬ彼女(かれ)は、咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に思案を定めて、頭に挿(さ)している銀の簪(かんざし)を抜き取った。
 目前の獲物に気を奪われていた※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)共は、暗い中から突然跳(おど)り出たお葉の姿に驚く間(ひま)もなく、彼女(かれ)が逆手(さかて)に持ったる簪の尖端(とがり)は、冬子に最も近き一人(いちにん)の左の眼に突き立った。不意と云い、急所と云い、彼は猿のような悲鳴を揚げて倒れた。
「※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の畜生(ちきしょう)め。何を為(し)やアがるんだ。早く何処(どっか)へ行って了(しま)え。」と、お葉は勝誇(かちほこ)って叫んだ。思いも寄らぬ救援(すくい)の手を得た冬子は、鞠(まり)のように転がってお葉の背後(うしろ)に隠れた。
 けれども、敵はまだ二人(ににん)を剰(あま)している。加之(しか)も一人(いちにん)の味方を傷(きずつ)けられた彼等は、瞋(いか)って哮(たけ)ってお葉に突進して来た。洋刃(ないふ)と小刀(こがたな)は彼女(かれ)の眼前(めさき)に閃いた。冬子も恩人の危険を見ては居(い)られぬ、這いながら一人(いちにん)の足に絡み付くと、※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は鉄のような爪先で強く蹴放(けはな)したので、彼女(かれ)は脾腹(ひはら)を傷(いた)めたのであろう、一旦は気を失って倒れた。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)は左右からお葉に迫った。
「畜生(ちきしょう)……畜生……。」と、お葉は罵(ののし)りながら逃げ廻った。

 追手(おって)の人々も同(おなじ)く村境(むらざかい)まで走って来たが、折柄(おりから)の烈しい吹雪(ふぶき)に隔(へだ)てられて、互(たがい)に離れ離れになって了(しま)った。其中(そのなか)でも忠一は勇気を鼓(こ)して直驀地(まっしぐら)に駈けた。が、咫尺(しせき)も弁ぜざる冥濛(めいもう)の雪には彼も少しく辟易(へきえき)して、逃(にぐ)るとも無しに彼(か)の空屋(あきや)の軒前(のきさき)へ転げ込んだ。
 雪明(ゆきあかり)と一口に云うものの、白い雪も斯(こ)う一面に烈しく降って来ては雨と変らぬまでに天地は暗いのである。況(まし)て鎖(とざ)されたる家(いえ)の内は殆ど真の闇であったが、彼は危(あやう)くも吹き倒されんとする雪風(ゆきかぜ)を凌(しの)ぐ為に、兎(と)も角(かく)も一歩踏み込もうとする途端に、内には怪しい唸声(うなりごえ)が断続(きれぎれ)に聞えた。
 彼は俄(にわか)に立止(たちどま)って声する方(かた)を透(すか)し視(み)たが、生憎(あやにく)に暗いので正体は判らぬ。更に耳を澄(すま)して窺うと、声は一人(ひとり)でない、尠(すくな)くも二人(ふたり)以上の人が倒れて苦(くるし)んでいるらしい。扨(さて)はここにも何か椿事(ちんじ)が起(おこ)っているに相違ないと、忠一も驚いて身構えしたが、燐寸(まっち)を持たぬ彼は暗(やみ)を照(てら)すべき便宜(よすが)もないので、抜足(ぬきあし)しながら徐々(そろそろ)と探り寄ると、彼は忽(たちま)ち或物(あるもの)に蹉(つまず)いた。跪(ひざまず)いて探って見ると、之(これ)は女らしい、長い髪を乱して土に曳(ひ)いて、其(その)頬から喉(のど)の辺(あたり)には生温(なまあたた)かい血が流れていた。
 忠一も一旦は悸然(ぎょっ)としたが、猶(なお)其(そ)の様子を見届ける為に、倒れたる女を抱え起(おこ)して、比較的薄明るい門口(かどぐち)へ連れ出して見ると、正(まさ)しく女には相違ないが、もう息は絶えていた。
「これは一体何者だろう。」
 彼は猶(なお)能(よ)く其(その)顔を見届けようと、朧(おぼろ)の雪明(ゆきあかり)を便宜(たより)に凝(じっ)と見詰めている時、忽(たちま)ち我が背後(うしろ)に方(あた)って物の気息(けはい)を聴いたので、忠一は驚いて屹(きっ)と顧(みかえ)ると、物の音(おと)は又止(や)んだ。雪風(ゆきかぜ)はいよいよ吹き募(つの)って、此(こ)の一軒家は大地震(おおじしん)のようにめりめりと揺(ゆら)いだ。
 内には此(この)女の他(ほか)にも未(ま)だ何者か倒れて居る筈であるから、忠一は再び探りながら入った。が、不意に何(ど)んな敵が襲って来ぬとも限らぬので、彼は大いに用心して、土間に身を伏して這いながら進んだ。微(かすか)な唸声(うなりごえ)が左の隅に聞えたので、彼は其方(そのほう)へ探って行くと、一枚の荒莚(あらむしろ)が手に触れた。莚を跳退(はねの)けて進もうとすると、何者か其(その)莚の端(はし)を固く掴んでいるらしい。更に探って見ると、果(はた)して此処(ここ)にも人らしい者が拳を握って倒れていた。
 と思う途端に、又もや背後(うしろ)に物音が聞えた。暗い中から猿のような者が刃物を閃かして来て、忠一の頸(くび)を刺そうとするのであった。はッと驚くと同時に、彼は幸いに這っていたので、矢庭(やにわ)に敵の片足を取って引いて、倒れる所を乗掛(のりかか)って先(ま)ず其(そ)の胸の上に片膝突いた。
「貴様は何者だッ。」
 敵は何とも答えずに、力の限り跳返(はねかえ)そうと悶(もが)いたが、柔道を心得たる忠一は急所を押えて放さぬので、敵は倒れながらに刃物を打振(うちふ)って、下から忠一の喉(のど)を突こうと企てた。が、右の腕も緊(しか)と掴まれたので自由が利(き)かぬ。敵は獣のような奇怪な声を絞って、頻(しきり)に唸(うな)った。
「さあ、どうだ、降参しろ。」
 忠一は左に敵の腕を押えて、右の手で敵の喉輪(のどわ)を責めた。敵は苦しそうに唸って悶(もが)いていたが、もう叶(かな)わぬと覚悟したのであろう、一生懸命に跳返(はねかえ)すと同時に、右の手に握ったる刃物を左に持換(もちか)えて、我と我が胸を力任せに抉(えぐ)ると、鮮血(なまち)は颯(さっ)と迸(ほとばし)って、上なる忠一の半面(はんめん)を朱(あけ)に染めた。腥(なまぐ)さい血汐に眼鼻(めはな)を撲(う)たれて、思わず押えた手を弛(ゆる)めると、敵の亡骸(むくろ)はがっくりと倒れた。
 目前の敵を殪(たお)し得た忠一は、先(ま)ずほッと一息吐(つ)くと共に、俄(にわか)に渇(かわき)を覚えたので、顔に浴びたる血の飛沫(しぶき)を拭(ぬぐ)いもあえず、軒の外へひらりと駈け出して、吹溜(ふきだま)りの雪を手一杯に掬(すく)って飲んだ。風は相変らず轟々(ごうごう)と吼(ほ)えて、灰とも烟(けむり)とも譬(たと)えようの無い粉雪(こゆき)が、あなたの山の方から縦横上下(じゅうおうじょうげ)に乱れて吹き寄せた。
 その雪烟(ゆきけむり)の中に迷うが如き火の光が一点(ひとつ)、見えつ隠れつ近寄って来たので、忠一は思わず声をあげて呼んだ。
「おうい、おうい。」
 火の光は漸次(しだい)に近(ちかづ)いた。それは全身に雪を浴びたる塚田巡査の角燈(かくとう)であった。
「やあ。」
「やあ。」
 双方が顔を見合(みあわ)せて叫んだ。
「あなたはお早い。既(も)うここへ来ていたのですか。」と、巡査は雪を払いながら軒下に立った。
「まあ、早く燈火(あかり)を見せて下さい。ここに大勢の人間が倒れているらしいんです。」
 巡査は角燈を翳(かざ)して内へ入った。

 今や角燈(かくとう)の火に照(てら)し出(いだ)されたる、此(こ)の暗い空屋(あきや)の内の光景は惨憺(さんたん)、実に眼も当てられぬものであった。先(ま)ず入口に黒髪を振乱(ふりみだ)して横(よこた)わっているのは彼(か)のお葉で、彼女(かれ)は胸や肩や喉(のど)に数(す)ヶ所の重傷を負っていた。続いて眼に触れたのは醜怪なる※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)三人の屍体で、一人(いちにん)は眼を貫(つらぬ)かれた上に更に胸を貫かれ、一人は脳天を深く刺(ささ)れて、荒莚(あらむしろ)の片端を握(つか)んだまま仰反(のけぞ)っていた。最後の一人は左の手に小刀(こがたな)を持って、我と我が胸に突き立てていた。
 以上四人の浅ましさ屍体の他(ほか)に、朱(あけ)に染(そ)みたる重太郎も亦(また)倒れていたのは意外であった。其(その)傍(かたわ)らには、彼の運命を象徴するような紅い椿の花が、地に落ちて砕けていた。
「もう是(これ)だけかな。」
 巡査は更に四辺(あたり)を見廻すと、鮮血(なまち)の臭(におい)の漲(みなぎ)る家の隅に、猶(なお)一人(いちにん)の若い女が倒れていた。これが最も忠一を驚かしたのであったが、冬子は単に気を失った丈(だけ)のことで、身には別に負傷の痕も無かったので、手当(てあて)の後(のち)に息を吹返(ふきかえ)した。
 飛騨の山国の風雪(ふうせつ)の夕(ゆうべ)、この一軒家に於て稀有(けう)の悲劇を演じたる俳優(やくしゃ)の中(うち)で、僅(わずか)に生残(いきのこ)っているのは幸運の冬子一人(いちにん)に過ぎぬ。随(したが)って委(くわ)しい事情は何人(なんぴと)も知るに由(よし)ない。単に冬子の口供(こうきょう)を基礎(どだい)として、其余(そのよ)は好加減(いいかげん)の想像を附加(つけくわ)えるだけの事である。
 で、諸人(しょにん)の説は先(ま)ず斯(こ)ういうことに一致した。虎ヶ窟に棲める※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の眷族(けんぞく)は、其数(そのかず)果(はた)して幾人であるか判らぬが、曩(さき)の日彼(か)の市郎の為に其(そ)の女性の一人(いちにん)を亡(うしな)ったのは事実である。其後(そのご)彼等は警官に逐(お)われて山深く逃げ籠(こも)ったが、食物は兎(と)もあれ、女性の缺乏(けつぼう)ということが彼等の間(あいだ)に一種の不足を感じたらしい。そこで彼等三人は此(こ)の大雪に乗じて里に降(くだ)り、何処(どこ)からか女を攫(さら)って行こうと試みた。之(これ)に魅(みこ)まれたのが彼(か)の冬子で、彼等は吉岡家へ忍び寄って窺う中(うち)に、便所へ通(かよ)った冬子は手を洗うべく雨戸を明けたので、彼等は矢庭(やにわ)に飛び蒐(かか)って彼女(かれ)を捉えた。猶(なお)其袂(そのたもと)から手巾(はんかちーふ)を取出(とりだ)して、声立てさせじと口に喰(は)ませた。斯(か)くして冬子は、彼(か)の空屋(あきや)まで手取(てど)り足取(あしど)りに担ぎ去られたのであった。
 空屋には偶然にも彼(か)のお葉が居合(いあわ)せて、彼女(かれ)は冬子を拯(すく)わんとして※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)と闘った。そこまでの事は冬子も知っているが、気を失って倒れた後(のち)の出来事は些(ちっ)とも判らぬ。又何(ど)うして此処(ここ)へ重太郎が引返(ひっかえ)して来たか判らぬ。恐(おそら)くは烈しい吹雪に途(みち)を失って、再びここまで迷って来ると、恰(あたか)もお葉が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に殺されんとする所に会ったので、彼は又お葉を拯(すく)わんとして闘った。其(その)結果、お葉も討たれ、重太郎も討たれた。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)二人(ににん)も枕を駢(なら)べて死んだ。究竟(つまり)双方が相撃(あいうち)となった処へ、忠一が後(あと)から又来合(きあわ)せて、残る一人(いちにん)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)も自殺を遂げるような事になったのであろう。
 但(ただ)し是(これ)は一種の想像に過ぎぬ。この以外にも彼等の間(あいだ)に何(ど)んな秘密の糸が繋(つな)がれているかも知れぬ。普通の世間の出来事にも、人間の浅い智慧(ちえ)では想像や判断の付かぬことは幾許(いくら)も有る。況(まし)て※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)やお杉や重太郎等の関係に至っては、尋常一様(じんじょういちよう)の理屈を以て推断することは能(でき)まい。
 これで何百年来この山国を閙(さわが)した※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の眷族(けんぞく)も、果(はた)して全滅したであろうか。或(あるい)は猶(なお)其余類(そのよるい)が山奥に潜(ひそ)んでいるであろうか。それは何人(なんぴと)も返答(こたえ)に苦(くるし)む所であるが、兎(と)にかく此(こ)の物語はお葉と重太郎の最期を一段落として、読者と別離(わかれ)を告げねばならぬ。
 大雪は其後(そのご)幾日も降続(ふりつづ)いて、町も村も皆埋(うず)められた。悲劇の舞台たりし彼(か)の一軒家は、三日目の夕暮に遂に潰されて了(しま)った。

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 市郎と冬子の結婚は、安行死去の為に来年まで延期されたので、忠一は一先(ひとま)ず東京へ帰った。それから半月ほど経って後(のち)、彼は市郎の許(もと)へ長い手紙を遣(よこ)した。※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)に対する調査の報告書である。地方の各新聞は市郎に懇願して、何(いず)れも其(その)記事を紙上に連載した。
 原文は頗(すこぶ)る長いものであるが、大略先(ま)ず斯(こ)ういう事であった。

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 今から六百余年前(ぜん)の弘安年中(こうあんねんじゅう)に、元(げん)の蒙古(もうこ)の大軍(だいぐん)が我が九州に襲って来た。北條時宗邀(むか)え撃って大いに之(これ)を敗(やぶ)ったことは、凡(およ)そ歴史を知るほどの人は所謂(いわゆる)「元寇(げんこう)の役(えき)」として、誰(たれ)も諳(そらん)じている所である。
 この大戦(たいせん)に参加したのは九州の諸大名ばかりでない。鎌倉からも出征した、東海東山(とうさん)中国からも出征した。其(その)当時、飛騨国(ひだのくに)の地頭職(じとうしょく)は藤原姓を冒(おか)す飛騨判官朝高(ひだのほうがんともたか)という武将で、彼も蒙古退治の注進状(ちゅうしんじょう)に署名したる一人(いちにん)であった。

 朝高は異国の敵を撃破(うちやぶ)って帰った。彼は凱陣(がいじん)の家土産(いえづと)として百人の捕虜を牽(ひ)いて来た。飛騨の国人(くにびと)は驚異の眼を以て、風俗言語の全く異(ことな)れる蒙古の兵者(つわもの)を迎えた。
 彼が捕虜を牽(ひ)いて来たのは、単に其功名(そのこうみょう)を誇るが為では無かった。九州の戦闘(たたかい)に於て、最後の大勝利は幸いに我に帰(き)したけれども、初度(しょど)の戦闘(たたかい)は屡々(しばしば)我に不利益であった。敵の※(「石+駮」、第3水準1-89-16)(いしびや)と我の弓矢とは、其(その)威力に於て著(いちじ)るしい相違があった。朝高は早くも之(これ)を看取(かんしゅ)して、我も彼と等しき巨砲を作ろうと思い立ったのである。が、其(その)製法を知る者は日本に無いので、彼は居城高山(たかやま)を距(さ)る一里(いちり)の処へ新(あらた)に捕虜収容所を設けて、ここに百人の蒙古兵を養い、彼等に命じて異国の※(「石+駮」、第3水準1-89-16)を作らせようと企てた。
 斯(この)時代に於て斯(この)着眼は頗(すこぶ)る聡明であると云わねばならぬ。が、彼の企画(くわだて)は不幸にも失敗に終った。主将の意思は必ずしも然(そ)うでは無かったのであろうが、敵を愛することを知らぬ部下の者共は、此(こ)の異国の捕虜に対して甚(はなは)だしき侮辱と虐待を加えたので、彼等は甘(あまん)じて仕事に着かなかった。監督の武士と捕虜との間に日々(にちにち)衝突が絶えなかった。朝高も終局(しまい)には疳癪(かんしゃく)を起(おこ)して、彼等を悉(ことごと)く斬れと命じた。
 これが捕虜の間(あいだ)にも洩(も)れたと見えて、百人の蒙古兵は風雨の夜に乗じて逃走を企てた。番兵が追掛(おっか)けて其(その)幾人を捕え、其(その)幾人を殺したが、余(よ)の七八十人は山を越えて何処(いずこ)へか姿を隠して了(しま)った。飛騨は名に負う山国であるから、山又山の奥深く逃げ籠(こも)った以上は、容易に狩出(かりだ)すことも能(でき)ないので、余儀(よぎ)なく其儘(そのまま)に捨置(すてお)いた。
 斯(か)くて一年ばかりも過ぎると、或夜(あるよ)何者か城内へ忍び入って、朝高が家重代(いえじゅうだい)の宝物(ほうもつ)たる金の兜(かぶと)を盗み去ったのである。無論、其(その)詮議は極めて厳重なものであったが、其(その)犯人は遂に見当らなかった。或(あるい)は曩(さき)に逃走したる蒙古兵が、一種の復讐手段として斯(かか)る悪事を働いたのではあるまいかと云う噂もあったが、確(たしか)な証拠も無くて終った。兜の行方は遂に不明であった。
 朝高の家は三代で亡(ほろ)びた。其後(そのご)幾多の変遷を経て、豊臣氏時代から徳川氏初年までは金森(かなもり)氏ここを領していたが、金森氏が罪を獲(え)てから更に徳川幕府の直轄(ちょっかつ)となって、所謂(いわゆる)代官支配地として明治まで引続(ひきつづ)いて来たのである。で、此(この)土地の人が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)の名を唱え初めたのは、何時(いつ)の頃からか判然せぬが、古い昔には其(そ)んな噂も聞かず、そんな記録も残っていないのを見ると、恐(おそら)く前に記した蒙古一件以後の事ではあるまいか。他(た)に新しい発見がない限りは、先(ま)ず彼(か)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を以て蒙古人の子孫と見るのが正当の解釈であろう。
 彼等は収容所を逃れ出(い)でて深山の奥に隠れた。で、彼(か)のピジョン講師の説明した如く、人の目を避けて穴の中に世を送っていたのであろう。最初(はじめ)は遠い山奥に棲んでいたので、他(た)の人間社会と接触する機会も尠(すくな)かったが、生活上の都合で漸次(しだい)に山奥から降(くだ)って来て、比較的に里へ近い虎ヶ窟に移り棲むようになったのではあるまいか。里人が此(こ)の窟に対して、日本に無い虎という獣の名を冠(かぶ)せたのも、何やら蒙古に関係があるらしくも思われる。里へ近(ちかづ)くに随(したが)って、彼等は折々に人間に出逢うことが有る。又必要に迫られて、人家の食物を奪い、婦女小児(しょうに)を奪うことが有る。人が※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)の名を口にするに至ったのは多分此(この)以後の事であろう。元来野蛮の蒙古人が山奥に棲むこと多年(たねん)、其(そ)のますます蛮化したのは怪(あやし)むに足らぬ。
 彼等の種族が漸次(しだい)に減って行くのも亦(また)当然の結果である。而(しか)も猶(なお)連綿として六百余年の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)生活を継続し来(きた)ったのは、彼等が折々に里を荒して、婦女を奪い小児(しょうに)を攫(さら)って行くが為に、辛くも子孫断絶を免(まぬか)れ得たものと察せられる。唯(ただ)、いかに彼等が蛮化したとは云え、僅(わずか)に五六百年の深山生活に因(よっ)て、猿か人か判らぬまでに甚(はなはだ)しく退化するや否やと云うことは、少しく疑問に属するのであるが、先(ま)ず右の如くに解釈するより他(ほか)はあるまい。
 窟の内に彫ってあった文字(もんじ)は正(まさ)しく蒙古の字で、自分等は元(げん)の民(たみ)であるが捕われて此(この)国に来(きた)った。日本の大将が残酷に取扱(とりあつか)うので、同盟して此(こ)の山中に隠れたと云う意味を記し、最後に数十人の姓名が連署してあった。金の兜も果(はた)して彼等が盗み出したのであった。
 之(これ)に因(よ)れば、蒙古人が此(こ)の窟に棲んでいたと云うことは已(すで)に疑いもなき事実である。が、蒙古人即ち※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)(わろ)であるか。蒙古人は疾(と)くに死絶(しにた)えて、更に他(た)の※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)なる者が代(かわ)って棲むようになったのか。そこには未(ま)だ幾分の疑いが無いでもない。併(しか)し岩穴の中で発見された多数の骨が、最初(はじめ)は普通人以上の骨格を有し、其(そ)れが漸次(しだい)に退化して小児(こども)のようになっているのを見ると、蒙古人が五六百年の間(あいだ)に著(いちじ)るしく退化して、遂に※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)となったとも云い得(う)べき相当の根拠が有る。
 是等(これら)の理由に因(よっ)て、吉岡忠一は※(「けものへん+操のつくり」、第4水準2-80-51)を以て蒙古人の子孫と認めた。此(この)以上の考證は、他(た)の識者を待つのである。
了

底本:「飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選」メディアファクトリー
   2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
   2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
初出:「やまと新聞」
   1912(大正元)年11月13日〜1913(大正2)年1月21日
※「市郎君」と「市朗君」の混在は、底本通りです。
入力:川山隆
校正:江村秀之
2013年8月11日作成
2013年9月18日修正
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