あらすじ
19世紀のロンドン、画工のエリックは貴族の別荘に滞在中、一人の美しい貴婦人の幽霊を目撃する。それは、百年以上前に起きた、継母による若様殺しの事件に関係しているらしい。奇妙な出来事と、過去の悲劇が複雑に絡み合い、エリックは恐怖に怯える。果たして、幽霊の正体とは?そして、画工は恐怖に立ち向かうことができるのか。
 千八百八十四年、英国倫敦(ロンドン)発刊の某雑誌に「最も奇なる、実に驚くべき怪談」と題して、頗(すこぶ)る小説的の一種の妖怪談を掲載し、この世界の上には人間の想像すべからざる秘密又は不思議が存在しているに相違ない、これが即ち其(そ)の最も信ずべき有力の証拠であると称して、その妖怪を実地に見届けた本人(画工(がこう)エリック)の談話を其(そ)のまま筆記してある。原文は余(よ)ほど長いものであるから、今その要(よう)を摘(つま)んで左(さ)に紹介する。で、その中に私(わたし)とあるのは、即ち其(そ)の目撃者たる画工自身の事だ。

 今年の七月下旬、私は某(ある)友人の紹介で、貴族エル何某(なにがし)の別荘へ避暑かたがた遊びに行った事がある、その別荘は倫敦(ロンドン)の街から九哩(マイル)ばかり距(はな)れた所にあるが、中々手広い立派な邸宅(やしき)で、何さま由緒ある貴族の別荘らしく見えた。で、私が名刺を出して来意を通じると、別荘の番人が取(とり)あえず私を奥へ案内して、「あなたが御出(おいで)の事は已(すで)に主人(しゅじん)の方から沙汰がございました、就(つき)ましては此(こ)の通りの田舎でございますが、悠々(ゆるゆる)御逗留なすって下さいまし」と、大層鄭重(ていちょう)に接(あつか)って呉(く)れたので、私も非常に満足して、主人公はお出(いで)になっているのかと尋ねると、「イエまだお出(いで)にはなりませんが、当月末(すえ)にはお出(いで)なさるに違(ちがい)ありません」との事。それから晩餐の御馳走になって、奥の間(ま)の最上等の座敷へ案内されて、ここを私の居間と定められたが、こんな立派な広いお座敷に寝るのは実に今夜が嚆矢(はじめて)だ、併(しか)し後(あと)で考えるとこのお座敷が一向に有難くない、思い出しても慄然(ぞっ)とするお座敷であったのだ。
 神ならぬ身の私は、ただ何が無しに愉快で満足で、十分に手足を伸(のば)して楽々と眠(ねむり)に就いたのが夜の十一時頃、それから一寝入(ひとねいり)して眼が醒めると、何だか頭が重いような、呼吸(いき)苦しいような、何とも云われぬ切ない心持がするので、若(もし)や瓦斯(ガス)の螺旋(ねじ)でも弛(ゆる)んでいるのではあるまいかと、取(とり)あえず寝台(ねだい)を降りて座敷の瓦斯を検査したが、螺旋には更に別条なく、また他(た)から瓦斯の洩(も)れるような様子もない、けれども、何分(なにぶん)にも呼吸(いき)が詰まるような心持で、終局(しまい)には眼が眩(くら)んで来たから、兎(と)にかく一方の硝子(ガラス)窓をあけて、それから半身(はんしん)を外に出して、先(ま)ずほっと一息ついた。今夜は月のない晩であるが、大空には無数の星のかげ冴えて、その星明(ほしあかり)で庭の景色もおぼろに見える、昼は左(さ)のみとも思わなかったが、今見ると実に驚くばかりの広い庭で、植込(うえこみ)の立木は宛(まる)で小さな森のように黒く繁茂(しげ)っているが、今夜はそよとの風も吹かず、庭にあるほどの草も木も静(しずか)に眠って、葉末(はずえ)を飜(こぼ)るる夜露の音も聞(きこ)えるばかり、いかにも閑静(しずか)な夜であった。併(しか)し私はただ閑静(しずか)だと思ったばかりで、別に寂しいとも怖いとも思わず、斯(こ)ういう夜の景色は確(たしか)に一つの画題になると、只管(ひたすら)にわが職業にのみ心を傾けて、余念もなく庭を眺めていたが、やがて気が注(つ)いて窓を鎖(と)じ、再び寝台(ねだい)の上に横になると、柱時計が恰(あたか)も二時を告げた。室外の空気に頭を晒(さら)していた所為(せい)か、重かった頭も大分に軽(かろ)く清(すず)しくなって、胸も余(よ)ほど寛(くつろ)いで来たから、そのまま枕に就いて一霎時(ひとしきり)うとうとと眠ったかと思う間もなく、座敷の中(うち)が俄(にわか)にぱッと明るくなったので、私も驚いて飛び起(お)きる、その途端に何処(どこ)から来たか知らぬが一個(ひとり)の人かげが、この広い座敷の隅の方からふらふらと現われ出た。
 これには私で無くとも驚くだろう、不思議の光、怪しの人影、これは抑(そ)も何事であろうと、私は再び床(とこ)の上に俯伏(うつぶ)して、窃(ひそ)かに其(そ)の怪しの者の挙動を窺っていると、光はますます明るくなって、人は次第に窓の方へ歩み寄る、其(そ)の人は女、正(まさ)しく三十前後の女、加之(しか)も眼眩(まばゆ)きばかりに美しく着飾った貴婦人で、するすると窓の側(そば)へ立寄(たちよ)って、何か物を投出(なげだ)すような手真似をしたが、窓は先刻(せんこく)私が確(たしか)に鎖(と)じたのだから、迚(とて)も自然に開(あ)く筈はない。で、其(その)婦人は如何(いか)にも忌々(いまいま)しそうな、悶(じれ)ったそうな、癪(しゃく)に障(さわ)ると云うような風情で、身を斜めにして私の方をジロリと睨んだ顔、取立(とりた)てて美人と賞讃(ほめはや)すほどではないが、確(たしか)に十人並以上の容貌(きりょう)で、誠に品の好(い)い高尚(けだか)い顔。けれども、その眼と眉の間(あいだ)に一種形容の出来ぬ凄味を帯(おび)ていて、所謂(いわゆ)る殺気を含んでいると云うのであろう、その凄い怖い眼でジロリと睨まれた一瞬間の怖さ恐しさ、私は思わず気が遠くなって、寝台の上に顔を押付(おしつ)けた。と思う中(うち)に、光は忽(たちま)ち消えて座敷は再び旧(もと)の闇、彼(か)の恐しい婦人の姿も共に消えて了(しま)った、私は転げるように寝台から飛降(とびお)りて、盲探(めくらさぐ)りに燧木(マッチ)を探り把(と)って、慌てて座敷の瓦斯(ガス)に火を点(とぼ)し、室内昼の如くに照(てら)させて四辺(あたり)隈(くま)なく穿索したが固(もと)より何物を見出そう筈もなく、動悸(どうき)の波うつ胸を抱えて、私は霎時(しばらく)夢のように佇立(たたず)んでいたが、この夜中(やちゅう)に未(ま)だ馴染(なじみ)も薄い番人を呼起(よびおこ)すのも如何(いかが)と、その夜は其(そ)のままにして再び寝台へ登(あが)ったが、彼(か)の怖しい顔がまだ眼の前(さき)に彷彿(ちらつ)いて、迚(とて)も寝られる筈がない、ただ怖い怖いと思いながら一刻千秋の思(おもい)で其(その)夜(よ)を明(あか)した。と、斯(こ)ういうと、諸君は定めて臆病な奴だ、弱虫だと御嘲笑(おわらい)なさるだろうが、私も職業であるから此(こ)れまでに種々(いろいろ)の恐しい図を見た、悪魔の図も見た、鬼の図も見た、併(しか)し今夜のような凄い恐しい女の顔には曾(かつ)て出逢った例(ためし)がない、唯(ただ)見れば尋常一様(じんじょういちよう)の貴婦人で、別に何の不思議もないが、扨(さて)その顔に一種の凄味を帯びていて、迚(とて)も正面から仰(あお)ぎ視(み)るべからざる恐しい顔で、大抵の婦人(おんな)小児(こども)は正気を失うこと保証(うけあい)だ。
 扨(さて)その翌朝になると、番人夫婦が甲斐甲斐(かいがい)しく立働(たちはたら)いて、朝飯の卓子(テーブル)にも種々(いろいろ)の御馳走が出る、その際、昨夜(ゆうべ)の一件を噺(はな)し出そうかと、幾たびか口の端(さき)まで出かかったが、フト私の胸に泛(うか)んだのは、若(もし)や夢ではなかったかと云う一種の疑惑(うたがい)で、迂濶(うかつ)に詰(つま)らぬ事を云い出して、飛(とん)だお笑い種(ぐさ)になるのも残念だと、其(そ)の日は何事も云わずに了(しま)ったが、何(ど)う考えても夢ではない、確(たしか)に実際に見届けたに違いない、併(しか)し実際にそんな事のあろう筈がない、恐らくは夢であろう、イヤ事実に相違ないと、半信半疑に長い日を暮して、今日もまた闇(くら)き夜となった、夢か、事実か、その真偽を決するのは今夜にあると、私は宵から寝台(ねだい)に登(あが)ったが、眼は冴えて神経は鋭く、そよとの風にも胸が跳(おど)って迚(とて)も寝入られる筈がない、その中(うち)に段々、夜も更(ふ)けて恰(あたか)も午前二時、即ち昨夜(ゆうべ)とおなじ刻限になったから、汝(おの)れ妖怪変化御(ご)ざんなれ、今夜こそは其(そ)の正体を見とどけて、あわ好(よ)くば引捉(ひっとら)えて化(ばけ)の皮を剥(は)いで呉(く)れようと、手ぐすね引いて待構(まちかま)えていると、神経の所為(せい)か知らぬが今夜も何だか頭の重いような、胸の切ないような、云うに云われぬ嫌な気持になって、思わず半身(はんしん)を起(おこ)そうとする折こそあれ、闇(くら)い、闇(くら)い、真闇(まっくら)な斯(こ)の一室が俄(にわか)にぱっと薄明るくなって恰(あたか)も朧月夜(おぼろづきよ)のよう、扨(さて)はいよいよ来たりと身構えして眼を瞠(みは)る間(ひま)もなく、室(しつ)の隅から忽(たちま)ち彼(か)の貴婦人の姿が迷うが如くに現われた。ハッと思う中(うち)に、貴婦人は昨夜(ゆうべ)の如く、長い裾(すそ)を曳(ひ)いてするすると窓の口へ立寄(たちよ)って、両肱(りょうひじ)を張って少し屈(かが)むかと見えたが、何でも全身の力を両腕に籠めて、或物(あるもの)を窓の外へ推出(おしだ)し突出(つきだ)すような身のこなし、それが済むと忽(たちま)ち身を捻向(ねじむ)けて私の顔をジロリ、睨まれたが最期、私はおぼえず悚然(ぞっ)として最初(はじめ)の勇気も何処(どこ)へやら、ただ俯向(うつむ)いて呼吸(いき)を呑んでいると、貴婦人は冷(ひやや)かに笑って又彼方(あなた)へ向直(むきなお)るかと思う間もなく、室内は再び闇(くら)くなって其(そ)の姿も消え失せた、夢でない、幻影(まぼろし)でない、今夜という今夜は確(たしか)に其(そ)の実地を見届けたのだ、あれが俗(よ)にいう魔とか幽霊とか云うものであろう。
 もうこの上は我慢も遠慮もない、その翌朝例の如く食事を初めた時に、私は番人夫婦に向(むか)って、「お前さん達は長年この別荘に雇われていなさるのかね」と、何気なく尋ねると、夫の方は白髪頭(しらがあたま)を撫でて、「はい、私(わたく)しは当年五十七になりますが、丁度(ちょうど)四十一の年からここに雇われて居ります」と云う。私も怪談を探り出す端緒(いちぐち)に困ったが、更に左(さ)あらぬ体(てい)で、「併(しか)しお前さん達は夫婦差向(さしむか)いで、こんな広い別荘に十何年も住んでいて、寂しいとか怖いとか思うような事はありませんかね」と、それとは無しに探りを入れたが、相手は更に張合(はりあい)のない調子で、「別に何とも思いません、斯(こ)うして数年(すねん)住馴(すみな)れて居りますと、別に寂しい事も怖い事もありません」と、笑っている。けれども、怖い事や怪しい事が無い筈はない、現に私が二晩もつづけて彼(か)の妖怪を見届けたのだ。で、更に問(とい)を替(かえ)て、「私の拝借しているアノお座敷は中々立派ですね、お庭もお広いですね、実は昨夜、夜半(よなか)に眼が醒めたのでアノ窓をあけて庭を眺めて居(い)ましたが、夜の景色は又格別ですね」と、そろそろ本題に入(い)りかかると、番人の女房が首肯(うなず)いて、「お庭は随分お広うござんすから、夜の景色は中々宜(よろ)しゅうございましょう、併(しか)し貴方、アノ窓は普通(なみ)の窓より余(よ)ほど低く出来ていますから、馴れない方がウッカリ凭懸(よりかか)ると、前の方に滑(のめ)る事がありますよ。これまでにも随分ウッカリして転げ墜(お)ちた方が幾人もあります」と聞きもあえず、私は慌てて、「そ、それは不意に墜(お)ちるのですね、シテそれは夜ですか、昼ですか」と尋ねると、女房は打案(うちあん)じて、「サア何時(いつ)と限った事もありませんが、マア闇(くら)い時の方が多いようですね、ツマリ闇(くら)いから其様(そん)な疎匆(そそう)をするのでしょうよ」と澄(すま)している。けれども、それは闇(くら)い為ばかりでない、確(たしか)に他(た)に一種の魔力が手伝うに相違ない。で、私は重ねて、「で、其(そ)の墜(お)ちた人は何(ど)うしました、死んだ人もありましたか」相手は頭(かしら)を振って、「イエ死(しん)だ方はありません、ただ怪我(けが)をする位の事です、併(しか)し今から百年ほど以前(まえ)にこのお邸(やしき)の若様が、アノ窓から真逆様(まっさかさま)に転げ墜(お)ちて、頸(くび)の骨を挫(くじ)いて死んだ事があるさうです[#「さうです」はママ]」と、聞く事々に私はおのずから胸の跳(おど)るを覚えたが、猶(なお)も透(すか)さず、「それで何日(いつ)頃から其様(そん)な事が始(はじま)ったのですね」と問えば、番人は小首をかたげて、「サア何日(いつ)頃からか知りませんが、何でも其(そ)の若様が窓から墜(お)ちて死(しん)だ後(のち)、その阿母(おふくろ)様もブラブラ病(やまい)で、間もなく御死亡(おなくなり)になったのです。で、その後も兎(と)かくに其(そ)の窓から墜(お)ちる人があるので、当時(いま)の殿様も酷(ひど)くそれを気にかけて、近々(ちかぢか)の中(うち)にアノ窓を取毀(とりこわ)して建直(たてなお)すとか云ってお在(いで)なさるそうですよ」と、何か仔細のありさうな[#「ありさうな」はママ]噺(はなし)。そう聞いては猶々(なおなお)聞逃(ききのが)す訳には往(ゆ)かぬ、私は猶(なお)も畳(たたみ)かけて、「それじゃア其(そ)の窓が祟るのだね」相手は笑って、「真逆(まさか)そういう訳でもありますまいよ、併(しか)し其(そ)の若様が変死した事については、いろいろの評判があるのです」
 噺(はなし)はいよいよ本題に入(い)って来たから、私もいよいよ熱心に、「え、それは何(ど)ういう理屈だね、何(ど)んな評判があるのだね」と、思わず身を乗出(のりだ)して相手の顔を覗き込むと、番人は顔を皺(しか)めて少しく低声(こごえ)になり、「これは内證(ないしょう)のお噺(はなし)ですがね、勿論(もちろん)百年も以前(まえ)の事ですから、誰も実地を見たという者もなく、ほんの当推量(あてずいりょう)に過ぎないのですが、昔からの伝説(いいつたえ)に依ると、当時(いま)の殿様の曾祖父様(ひいおじいさま)の時代の噺(はなし)で、その奥様が二歳(ふたつ)になる若様を残して御死亡(おなくなり)になりました、ソコで間もなく他(た)から後妻(にどぞい)をお貰いになって、その二度目の奥様のお腹(はら)にも男のお児様が出来たのです。けれども、其(そ)の奥様は大層お優しい方で、わが産(うみ)の児よりも継子(ままこ)の御総領の方を大層可愛がって、俗(よ)にいう継母(ままはは)根性などと云う事は少しもない、誠に気質(きだて)の美しい方でした。ところが、其(そ)の御総領の若様が五歳(いつつ)になった時、ある日アノ窓の側(そば)で遊んでいる中(うち)、どうした機会(はずみ)か其(そ)の窓の口から真逆(まっさか)さまに転げ墜(お)ちて、敷石で頸(くび)の骨を強く撲(う)ったから堪(たま)りません、其(そ)のまま二言(にごん)といわず即死して了(しま)ったのです。サアそこですね、それに就いて種々(いろいろ)の風説がある。と云うのは、彼(か)の継母の奥様が背後(うしろ)から不意に其(そ)の若様を突落(つきおと)したに相違ないと云う評判で、一時は随分面倒でしたが、何をいうにも証拠のない事、とうとうそれなりに済んで了(しま)ったのです」と息も吐(つ)かずに饒舌(しゃべ)るのを、私も固唾(かたづ)を呑んで聞澄(ききすま)していたが、其(そ)の噺(はなし)の了(おわ)るを待兼(まちか)ねて、「併(しか)しそれが可怪(おかし)いじゃアないか、其(そ)の奥様は大層継子を可愛がったと云うのに、どうして其(そ)んな怖しい事を巧(たく)んだのだろう」相手は私の無経験を嘲(あざ)けるように冷笑(あざわら)って「サアそこが女の浅猿(あさまし)さで、表面(うわべ)は優しく見せかけても内心は如夜叉(にょやしゃ)、総領の継子を殺して我が実子(じっし)を相続人に据えようという怖しい巧(たく)みがあったに相違ないのです。それが一般の評判になったので、表向(おもてむき)の罪人にこそならないけれども、御親類御一門も皆その奥様を忌嫌(いみきら)って、誰(たれ)も快く交際する者もなく、果(はて)は本夫(おっと)の殿様さえも碌々(ろくろく)に詞(ことば)を交(かわ)さぬ位(くらい)。で、奥様も人に顔を見られるのを厭(いと)って、年中アノ座敷に閉籠(とじこも)ったままで滅多に外へ出た事も無かったでしたが、ツマリ自分の良心に責められたのでしょう、気病(きやみ)のようにブラブラと寝つ起きつ、凡(およ)そ一年ばかりも経つ中(うち)に、ある日アノ窓の側(そば)まで行くと、急に顔色が変(かわ)ってパッタリ倒れたまま死んで了(しま)ったそうです。心柄(こころがら)とは云いながら誠にお気の毒な事で、それから後(のち)は愈(いよい)よ其(そ)の奥様が若様を殺したに相違ないと決定して、今まで優しい方だ、美しい奥様だと誉めた者までが、継子殺しの鬼よ、悪魔よと皆口々に罵(ののし)ったという事です」と、苦々(にがにが)しげに物語る。以上の噺(はなし)で彼(か)の怪しい貴婦人の正体も大抵推察された。で、そう事が解って見ると、私は猶々(なおなお)怖く恐しく感じて、迚(とて)もここに長居する気がないから、其日(そのひ)の中(うち)に早々(そうそう)ここを引払(ひきはら)って、再び倫敦(ロンドン)へ逃帰(にげかえ)る。その仔細を知らぬ番人夫婦は、余りお早いではありませんか、せめてモウ五六日、せめて殿様がお出(いで)になるまで、と詞(ことば)を尽して抑留(ひきと)めたが、私はモウ気が気でない、無理に振切(ふりき)って逃げて帰った。
 で、私の臆病には自分ながら愛想(あいそ)の竭(つ)きる位で、倫敦へ帰った後(のち)も、例の貴婦人の怖い顔が明けても暮れても我眼(わがめ)に彷彿(ちらつ)いて、滅多に忘れる暇(ひま)がない。そこで私も考えた、自分の職業は画工である、斯(かか)る怪異(あやしみ)を見て唯(ただ)怖い怖いと顫(ふる)えているばかりが能でもあるまい、其(そ)の怪しい形の有(あり)のままを筆に上(のぼ)せて、いかに其(そ)れが恐しくあったかと云う事を他人(ひと)にも示し、また自分の紀念(きねん)にも存して置こうと、いしくも思い立ったので、其日(そのひ)から直(ただ)ちに画筆(えふで)を把(と)って下図(したず)に取(とり)かかった。で、わが眼の前に絶えず彷彿(ちらつ)く怪しの影を捉えて、一心不乱に筆を染めた結果、何(ど)うやら斯(こ)うやら其(そ)の真(しん)を写し得て、先(ま)ず大略(あらまし)は出来(しゅったい)した頃、丁度(ちょうど)私と引違(ひきちが)えて彼(か)の別荘へ避暑に出かけた貴族エル何某(なにがし)が、其(そ)の本邸に帰ったという噂を聞いたので、先日の礼かたがた其(そ)の邸(やしき)を初めて訪問した。主人(あるじ)のエルは喜んで私を応接間へ延(ひ)いて、「過日は別荘の方へ御立寄(おたちより)下すったそうでしたが、アノ通りの田舎家で碌々(ろくろく)お構い申しも致さんで、豪(えら)い失礼しました」と鄭寧(ていねい)な挨拶、私は酷(ひど)く痛み入(い)って、「イヤどうも飛んだ御厄介になりました、実はモウ四五日もお邪魔をいたす筈でしたが、宅の方に急用が出来ましたので、早々にお暇(いとま)いたしました」と、口から出任せの口上、何にも知らぬ主人(あるじ)は首肯(うなず)いて、「ハアそうでしたか、私もお跡(あと)から直(すぐ)に別荘へ出かけましたが、貴方はモウお帰りになったと聞いて、甚だ失望しました、併(しか)し幸い今日は何(なん)にも用事もありませんから、ゆるゆるお噺(はなし)でも伺いたいものです」と、誠に如才(じょさい)ない接待振(あつかいぶり)で、私も思わずここに尻を据えて、殆(ほとん)ど三時間ほども世間噺に時を移した。それから、先祖代々の肖像画をお目にかけようと云うので、主人(あるじ)が先に立って奥の一室へ案内する、私も何心(なにごころ)なく其(そ)の跡について行くと、貴族の家の習慣(ならい)として、広い一室の壁に先祖代々の人々の肖像画が順序正しく懸(か)け列(つら)ねてある。で、一々これを仰(あお)ぎ視(み)ている中(うち)に、私は思わずアッと叫んだ。と云うのは他(ほか)でもない、彼(か)の恐しい貴婦人の顔が活けるが如くに睨んでいるのだ。其(そ)の恐しい顔、実に先夜の顔と寸分違(たが)わず、彼(か)の幽霊が再びここへ迷い出たかと思われる位(くらい)、私は我にもあらで身を顫(ふる)わせた。その挙動が余(よ)ほど不思議に見えたのであろう、主人(あるじ)は私の顔をジロジロ視(み)て、「あなた、どうか為(し)ましたか」私は半(なかば)は夢中で、「ハイあれです、確(たしか)にあれです、私は確(たしか)に見ました」と辻褄(つじつま)のあわぬ返事、主人は愈(いよい)よ不思議そうに眉を顰(ひそ)めたが、やがて俄(にわか)に笑い出して、「あなた、其(そ)の人に逢った事がありますか。それは百年も以前(まえ)の人です、アハハハハ」と、斯(こ)う云われて私も気が付いた、成(なる)ほど其(そ)の仔細を知らぬ主人(あるじ)が不思議に思うも道理(もっとも)と、ここで彼(か)の別荘の怪談を残らず打明(うちあ)けると、主人(あるじ)もおどろいて面色(いろ)を変えて、霎時(しばし)は詞(ことば)もなかったが、やがて大息ついて、「世には不思議な事もあるものですな、実はこの婦人に就(つい)ては一条の噺(はなし)があるので」と、曩(さき)に彼(か)の別荘の番人が語った通りの昔語(むかしかたり)、それを聞けば最早疑うべくもないが、いまは百年も昔の事、其(そ)の以来曾(かつ)て斯(かか)る怪異(あやしみ)を見た者もなく、現に十五六年来も其(そ)の別荘に住む番人夫婦すらも、曾(かつ)て見もせず聞きもせぬ幽霊の姿を、無関係の私が何(どう)して偶然に見たのであろう、加之(しか)も二晩もつづけて見るというのは実に解(げ)し兼ぬる次第で、思えば思うほど実に不思議な薄気味の悪い噺(はなし)だ。で、主人(あるじ)の驚愕(おどろき)は私よりも又一倍で、そう聞く上は最早一刻も猶予は出来ぬ、早速その窓を取毀(とりこわ)し、時宜(じき)に依(よ)れば其(そ)の室全体を取壊(とりくず)して了(しま)わねばならぬと、直(すぐ)に家令を呼んで其(そ)の趣(おもむき)を命令した。で、今頃は其(そ)の窓も容赦なく取毀(とりこわ)されて、継母(ままはは)の執念も其(そ)の憑(よ)る所を失ったであろうか。

 以上が画工エリックの物語で、同雑誌記者の附記する所によれば、彼(か)の画工の筆に成った恐しき婦人の絵姿は此(こ)のほど全く出来(しゅったい)したが、何さま一種云われぬ物凄い恐しい顔である、婦人の如き、其(そ)の図を一目見るや忽(たちま)ちに魘(おび)えて顫(ふる)えて、其後(そのご)一週間ほどは病床に倒れたという。で、普通の日本人の考慮(かんがえ)から云うと、殺した方の人が化けて出るというのは、些(ち)と理屈に合わぬように聞(きこ)えるが、何分にも其処(そこ)が怪談、万事不可思議の所が事実譚(じじつだん)の価値(ねうち)であろう。
(狂生)
了

底本:「飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選」メディアファクトリー
   2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行
初出:「文藝倶楽部」
   1902(明治35)年8月号
入力:川山隆
校正:山本弘子
2010年4月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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